酒よ、人の望みの喜びよ

作品集: 最新 投稿日時: 2006/03/22 10:20:02 更新日時: 2006/03/25 01:20:02 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00




とく、とく。


とく、とく。


「ふむ」
豊かな白い髭の際立ったその老人は、眼前の鬼の少女の酒をなみなみと受け、ひと息に飲み乾した。舌の上にぴりりと刺激が生まれ、よくできた酒のみが持つうまみが口の中全体に小波のように広がって行った。
満足げにひとつ息をつくと、老人は傍らの瓢箪をとって返杯した。少女は豪快に喉を鳴らしながら酒を飲み、目を心地よさげにきゅうっと瞑った。
「んー…っかぁーっ!いやはや、こんなすてきな曇りの日だもの、実に酒が美味いね」
はじけるように息を吐き出しながら少女が見上げた空は、まるで絹のように滑らかに空を覆った雲を透して幽かな光が射し、それはそれは見事な純銀の色に染め上がっていた。
風も心地よく肌を撫で、かと言って草の声すらほとんど聞こえないほど緩やかだった。
そんな穏やかで暖かな静寂の中、ぱちりと耳に心地よい音が響いた。
「では、この歩をいただこうかの」
「…む?そう来るか…」
鬼の少女はつと視線を下に戻すと、手元の将棋盤を見やって小さく唸った。
「ほれ、もう一杯どうじゃ」
「う?むむ…」
彼女が次の一手を考え込もうとした瞬間、見事な呼吸で老人が瓢箪を差し出した。
「それってあり?でもまあ、勧められた酒から鬼は逃げられないんだよね」
「なに、攪乱は立派な戦術ぞ?」
「ちぇっ。ま、いいや…お誘いに乗っちゃえ。桂もらうよ」
駒をさっさと進め、少女は注がれた酒をぐいと乾した。
「惑うより直進か。それもまた好ましい」
すかさず注ぎ返された酒を、老人は今度はじっくりと乾した。口中が冷えるきりりとした感覚が、思考を引き締めて行く。
双眸が刃のように研ぎ澄まされて行くのが彼自身で判った。
そんな彼を見やり、鬼は言った。
「あんたって、本当に真剣に酒を飲むよね。一口一口、まるで命がけ」
「ふむ」
ぱちんと駒を打ち、老人はひと息おいて答えた。その目は、何かを懐かしむように細められていた。
「酒と剣の奥義は相通じるものよ。いや、剣のみならず、戦さの奥義と言うべきか。お主とて、酒の飲み方はまさにお主の戦いと同じじゃろう。全力で、そして開けっ広げそのものよ」
「なるほど、それは面白い考え方ね。…あれもそうかな」
岩棚の酒席から、鬼の少女は眼下を見下ろした。
そこでは桜の中大宴会が開かれており、その中心で今ちょうど、両刀を腰にした銀髪の少女が黒髪の姫に酔い潰され、目を回して倒れたところだった。
姫のほうは自分はペースを崩さぬまま巧みに他人に酒を飲ませるタイプで、なかなかの手練れであった。
「相変わらず修行が足りぬの」
弟子の惨状を目にして、老人は苦笑した。
「あの子の素直な剣筋そのままね。…それが嬉しいんでしょ、本当は?」
鬼の娘が指摘すると、また杯を満たして鬼と掲げ合いながら、老人は首の後ろを掻いた。
「嘘をつかぬ者にほど、嘘は通じづらいものよの。…あやつも妙に鋭いところがあったわ」
彼の脳裏には、幽居に入ったその前日のことが色鮮やかに蘇って来ていた。


とく、とく。


とく、とくと。




その日、うすく日の差し込む床の間で、師弟は向かい合わせに座していた。静かな風の中に、鳥の遠いさえずりだけが軽やかに響いていた。
幽々子はそこにはいなかった。彼女は、今日は紫の所に泊まりだ。妖忌がそう取り計らったのだ。今日だけは、主であろうと余人を交えたくはなかったから。
「妖夢よ…お主に最後に教えておくことがある」
「は、はい!」
肩にがちがちに力を入れてしまっている弟子の姿に、妖忌は内心苦笑を禁じ得なかった。そんな弟子を可愛いとも思った。
だが、それを表に出すには、彼は剣士であり、従者であり過ぎた。
「今まで剣ばかりであったが、いい加減酒も教えておかねばならん。主人の酒席で酒を全く飲めぬでは従者は勤まらぬからの。そして、剣のためにも酒は類なきものじゃ」
すると、妖夢の瞳がぱっと輝くのが判った。
はて、このようにまで喜ぶとは…?妖忌の疑念をよそに、妖夢はすくと立ち上がった。
「はい!それでは師匠、支度を致しますね」
「材料は台所のものを使って構わん。幽々子様にはお願い済みじゃ」
「はい!」
それより半刻ほどして酒肴は整い、師弟は再び向かい合わせになっていた。
「それ」
妖忌が黒く侘びた土ものの徳利を傾けると、妖夢は赤釉の祝い杯で精一杯にそれを受けた。力が入り過ぎて、液面が小刻みに揺れていた。
酒は揺られて風に溶け出し、清流の花のごとき清く鮮やかな香りが二人の鼻腔を満たした。
「そ、それでは…いただきますっ」
ぐいーっ、と妖夢は杯をひと息に飲み乾した。しかし、彼女にはこれは初めての酒。酒の刺激と強い香りに彼女はむせ、咳き込んだ。
ほんのわずか、見えるか見えないかに眉を下げながらも、なお平静に妖忌は彼女をたしなめた。
「そのように無我夢中で呑むではない。…よいか、酒の道は剣に通じる。何かと心より酒を交わす時、誰もが己をさらけ出す。されば酒を酌んだ者の心は酒の中に流れ出でる。お主はそれを読まねばならぬ。精魂を込めて、されど心をいつも緩やかに持つ…それは剣の心と同じなのじゃ」
「けほ、けほ…は、はいっ!」
涙目に師を見上げ、妖夢は勢い良く頭を下げた。
「それ、もう一杯行け。よいか、己の調子を見失うでないぞ。踏み足は急ぎ過ぎれば滑るもの。振り回されるでない。それは名刀のごとく丹精込めて造られた酒にも非礼となる」
無言で頷き、妖夢は二杯目に口をつけた。その頬は早くもほんのりと桜色に染まり始めていた。
呑む瞬間にきゅっと目が瞑られた。その表情からするに、まだ酒の味はわからないのだろう。こればかりは慣れるしかないのだ。
喜びをくれる豊かな味を味わうのには、誰もが様々な食物を摂って好みを築き上げねばならない。酒を呑み慣れるのだって、その系統のほんの一つに過ぎない。また、どうしても呑めぬのならば、それもまた食べ物と同じように避ければよいのだ。
生き物には分別があり、また分別をもってしても避けられぬ時のためには、いつだって知恵がある。
「ん…こくっ…けほ、けほ」
咳を手で出来る限り隠しながらも、妖夢は涙を拭き、赤くうるんだ瞳を真っ直ぐに妖忌に向けて杯を置き、徳利を取り上げた。
「師匠…次は、私の酒を受けて下さい」
「よかろう」
その徳利は、まさに師に打ちかからんとする木刀だった。二人の視線は互いの瞳の奥を見据え、全身は場の空気を凛と感じ取っていた。
震える手で、妖夢は徳利を傾けた。注がれた酒は緊張の故か縁を越えて、杯から酒がわずかに零れる。妖忌は眉ひとつ動かさず、杯を掲げて飲み乾した。
甘い液体は、まさしく水のごとく快々に喉を滑り降り、胃の腑に落ちると一拍遅れてぽっと爆ぜ、冷の中から暖気を上らせた。
杯を下ろして、妖忌は驚いた。妖夢の瞳から、先ほどのものとは明らかに違う、ふた筋の涙が溢れ出していたのだ。
ふと、彼の胸中に、遥かな昔に極上の酒を呑んだ渓流でのことが思い出された。岩肌を流れていたきらきらとした水の輝きは、まるで今の涙と同じだったではないか。
「…何じゃ、どうした妖夢よ?」
「は、はい…申し訳ありません…あんまり、嬉しくて」
「む、何がじゃな?」
「はい…月を見ながらお酒を召し上がる師匠のお背中は、いつだってとても大きかった。私はずっと、そのお背中を追っておりました」
そう、親の背中に憧れた子供は、いつか自分もその横に立つことを望むもの。
「いつか、その横に並んでお酒をお注ぎしたいと…ずっと、思っておりました」
酒の味が酒の心を映すならば、酒が溶かし出した心もまた酒の味を映す。それが胸を熱くするような味であったならば、いつか自分もそんな酒を呑んでみたいと思わないものだろうか?
「今、それを改めて思い出しました。夢が叶ったばかりか、私までそのお杯を頂けるなんて…こんな幸せはありません、お爺様」
最後のほうは、声が震えていた。さしもの妖忌も、これには瞠目せざるを得なかった。
彼女の涙が酒に零した味は、まるで春風のようだった。妖忌の想像したよりも、この酒の味は遥かに上を行っていた。
まだ未熟の弟子であっても、彼女は今師から確かに一本を取ったのだ。
「…ならば」
驚くべきことに―どんなに珍しいことなのか、彼という男を少し見れば誰にも想像はつくだろう―眉を優しく緩め、妖忌は孫の杯を自ら取り上げて酒を注いだ。
とくとく、と快い音を立てて。
「今しばらく相手をしてもらおう。差し向かいの酒も、また極上のものよ」
「はいっ!」
妖夢の桜色の笑顔は、春盛りの晴天よりも明るく、どこまでも透明に澄んで、涙の中からひときわ輝いていた。
「よいか、今の心けして忘れるでないぞ。旨い酒をお主が望む限り、いつもお主の酒は旨いじゃろう。まだ荒削りなれど、な」
呟きのような言葉に、笑顔のまま妖夢は頷いて、杯をもう一度乾したのだった。



…そのすぐ後に妖夢はばったり倒れ、幸せそうに眠りについたのだった。その頭を膝に乗せたあの酒の、何と旨かったことだろうか。
思い返しながら再び視線を下に向ければ、丁度そこでは倒れた妖夢を指差して、彼の主、桜の姫君が楽しそうに笑っていた。
「…そう、あれこそが、な」
彼が幽居した本当の理由…それは。
「儂の剣では、あまり鋭過ぎた。活かすための剣を、儂は知らなんだ」
ほろ苦く呟き、彼は徳利に手を伸ばした。と、小さな手がそれを先に取り上げ、彼の杯になみなみと酒を注いだ。
「馬鹿だねえ」
見ると、鬼の娘は笑っていた。
「弟子にあんな酒教えておいて」
楽しくてたまらない、と言う笑顔で彼女は自分の杯にも酒を注いだ。
「…ふふ、言うてくれるのう」
鬼の一撃とは、まこと恐るべし。飾りも衒いもないその一言は、彼の鎧を貫き、酒に浮かびかけていた後悔の味をまさしく打ち砕いていた。
「それにさ」
彼女の突き出した杯が、こつんと妖忌の杯に触れた。
「緊張した一人酒も、あたしは好きだよ」
研ぎ澄まされた曇りのない味であれ、華やかに膨らんだ味であれ、真に極上の味ならばどちらが上などと言うことがあるものか。鬼である彼女は、全てのよい酒を深く愛していた。
「ならば、こちらはまた静かに呑み続けるとしよう。今日は、あちらで儂らのぶんまで賑やかにしてくれているからの」
そう、その時によって味を選べばいいのだ。今この時は、どこまでも研ぎ澄まされた酒が欲しかった。鬼を相手にするのは、いつでも刀であるべきだからだ。
それは、鬼のくれた言葉への返礼でもあった。彼女は、この酒を選んだ意味を誰よりもよく分かってくれるだろう。
二人の視線が束の間絡み合い、幽かな笑みが同時に浮かんだ。杯がもう一度、かつりと手に心地よく触れ合った。
「じゃ、未熟者に乾杯」
「む?…ふふ、それならば…忘れられぬ宴に乾杯じゃ」
二人は声を上げて笑い合い、どこまでも鮮やかに杯を傾けた。
そこにひとつつむじ風が通り過ぎ、桜の森が笑いさざめいた。雲がほんの少し裂け、銀の中から金の光が宴に降り注いだ。


とく、とくと。


とく、とくと。

最近外回りで書く気力が減っていましたが、お題が酒と聞いては黙っていられませんし、萃香も出さずにはいられません。一度書き始めたら、後は一気に行けました。あと何本かたまったままのネタ、まだ続いて投稿出来るといいけど…。



酒は呑めなくたって、心で呑み合えればいいと思います。私も酒はコップ一杯で寝る口ですが、それでも酒を呑むことそのものが大好きですから。また、呑まなくとも酒を注いであげることは出来ますし、言葉を注ぎあうことだって出来ます。
元々父に憧れて呑み始めたようなものでしたので、作中にはその気持ちが思い切り出ていたりします。
と、ここまでストレートに書くとちょっと恥ずかしいですが…。
やはり剣と同じように、個々人で酒の呑み方に秘奥があると思いますので、これはあくまで一つの見方ってことにしといて下さい。酒は楽しく呑んでこそ、ですから。
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投稿日時:
2006/03/22 10:20:02
更新日時:
2006/03/25 01:20:02
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1. 8 真紅の巫女 ■2006/03/25 00:56:35
酒好きなんですね・・・。ちょっとこういう酒が飲んでみたくなりました。
2. 6 月影蓮哉 ■2006/03/25 01:59:27
なるほど…萃香を効果的に使ってきましたねぇ…。
御師匠殿も生き生きとされてまして、どんな顔だかわかりませんが(汗
3. 3 ラナ ■2006/03/25 03:36:53
酒を無条件で神聖な物とは感じない上、年上と飲み合い語り合うのが嫌いな私には共感を呼べなかった、ということで。
とはいえ固めな言葉遣いが浮いていないのは大した物と感じました。
4. 7 S某 ■2006/03/25 17:54:01
お爺様。
この、ごく自然について出たような台詞にやられました。
5. 6 爪影 ■2006/03/25 22:07:27
二人の会話の内容、良いですね〜。
6. 5 おやつ ■2006/03/25 22:27:17
とく、とくと

この表現が凄く好きです。
お猪口から溢れそうな感じがして、安酒がとても美味しそうに感じる表現だと思います。
お話もしっかりと楽しめて、GJでした。
7. 5 名前はありません。 ■2006/03/26 08:26:29
お上手です
これは時期としては永夜抄後で妖夢は妖忌に気づいてないのでしょうか
8. 9 水酉 ■2006/03/27 04:01:01
読み終わって、こんな時間だというに酒が飲みたい気分になりました。

酒の肴にしたくなるような、良い作品をありがとうございます。
9. 5 床間たろひ ■2006/03/27 04:21:00
酒の呑み方には、その人の生き様が表れる。一気に呑むか、ゆっくり呑むか。
でもどれも間違いじゃない。酒も様々、呑み方も様々。一括りに出来るもんじゃない。
美味しく呑む事……それ以外は不要ですね。
鬼も師弟もみんな、美味そうな呑みっぷりでしたw
10. 10 凪羅 ■2006/03/27 06:18:12
何やら読んでる最中、込み上げてきたものが。
師弟関係とか鬼との酒宴とか。
あまりにも妖忌がかっこ良く見えていました。
老人の剣士と鬼の幼女って奇妙な組み合わせの筈なのになぁ。
何故かあまりにもしっくりときてました。
11. 5 かけなん ■2006/03/29 05:03:08
妖忌がイメージとズレがあったのですけど、しかしこの組み合わせはなんだかしっくり来るものがありました。
12. 6 papa ■2006/03/30 18:48:20
起承転結がはっきりとしていて、非常に読みやすい話でした。

ただ、せっかく将棋と言う小道具を使ったのに、最後にどっかいってしまうのはもったいないです。
13. 9 つくし ■2006/03/31 16:29:35
「甘い液体は〜」の一文にゾクリときました。酒と剣というテーマも味わい深く、このSS自体が旨い酒のようでした。ごちそうさまです。
14. 5 ■2006/04/05 00:52:47
空気が良いなぁ…
15. 4 藤村琉 ■2006/04/07 01:29:55
 飾り立てた文章から、どことなく背伸びしているような印象を受けます。妖忌の台詞からも同様に。
 あとは、個人的に妖忌は楽隠居で気楽にやっているイメージなので、幽々子のために、妖夢のために身を引いたというのは考え辛いかなあ。真面目な印象はあるのですけど、何というか妖夢のような頑なさを覚えてしまう。
16. 5 反魂 ■2006/04/10 23:04:39
師は弟を教え、弟より学ぶ。
押したり引いたりは難しい、剣も人間も。
17. 8 MIM.E ■2006/04/11 22:17:45
こういう形で妖忌が妖夢を見守っているという事実の優しさに、そこまで読んだ瞬間本気で嬉しくなりました。
妖夢の想い、子鬼と妖忌のやりとり、どれも丁寧で羨ましくなるものばかりです。
妖夢ならばこの酒の飲み方も剣と同じく自分のものにし、大酒豪に成長するかも知れませんね。
18. 4 木村圭 ■2006/04/12 02:08:08
お爺様、にやられました。光景がはっきりと浮かんできて、師の偉大さが、爺の大きさがありありと伝わってきて。
19. 8 NONOKOSU ■2006/04/12 03:30:58
剣も酒も人を映す鏡、差し向かうが相手がいるのなら、それはなおさら良いのでしょうね。
20. 6 Hodumi ■2006/04/12 15:21:12
萃香と妖忌……先に綴られちゃったなぁ。
残念、されど、良い話でした。
21. 7 とら ■2006/04/12 16:19:13
自分も今はあまり強い酒は飲めません。
飲める頃には何かが変わっているのでしょうかね。
22. 5 K.M ■2006/04/12 23:13:27
老剣士と鬼の醸し出す雰囲気が素敵でした
23. 6 銀の夢 ■2006/04/12 23:22:48
酒の飲み方か……
私の生き方はノリとテンションですが、その全てが勢いづいているときに飲む酒はいいなと思う。酒もまたノリとテンション。

馬鹿正直な飲み方もあるでしょう。どこまでも無骨な妖忌が素敵でした。お見事。
24. 10 椒良徳 ■2006/04/12 23:23:34
御免なさい。時間がないようなので、コメントはまた後日書かせていただきます。
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