瓢箪座譚 〜a Prelude of Missing Power〜

作品集: 最新 投稿日時: 2006/03/24 00:36:37 更新日時: 2006/03/26 15:36:37 評価: 25/26 POINT: 162 Rate: 1.44

窓から窺える空は青く、雲を透かしながら差し込む光はどこまでも穏やかな表情を見せる。
しかし、それも物事の一面だけに過ぎない。
少し視線をずらせば狂わんばかりに頭を振り乱した木々が何よりも雄弁に語りかけてくる。
僅かに開けて置いた扉は風でがたがたと揺れ、春を含んだほんのりと冷たい風が足元を撫でるように通り抜けていく。
日向でぼんやりと店番している僕にとっては、その丸みを帯びた冷風が心地よく感じられた。
それは春の陽気の持つ曖昧で明確な二面性。
分け隔てることに白黒はっきりつける能力や境界を操る能力なんてものは必要ない。
窓一つあれば事足りる内と外との境界線。
本を捲る手を休めて、僕は穏やかな内なる世界からぼんやりと外界を観察していた。

「香霖! 居ないのか? 居ないなら勝手に上がらせてもらうぜ?」

……その穏やかな世界の均衡も、けたたましい勢いの来訪者によっていとも簡単に崩されてしまう。
来訪者と決め付けたのはその人物がお客ではないとわかっているからである。
「どうしたんだい、魔理沙? 今日はやけに上機嫌じゃないか。」
既に店の奥まで上がりこんでいる魔理沙に声を掛けながら、入れ替わるように軒先へと歩いていく。
開けっ放しの扉からは来訪者に負けず劣らずの勢いで風が流れ込み、ひと時の世界の崩壊を助勢していた。
「おっ、わかるか。流石は香霖。香霖堂店主は伊達や酔狂じゃないな。」
僕がきちんと扉を閉め切ったところで魔理沙は応える。
「それで、今度はどういった品物を手に入れたんだい?」
魔理沙が香霖堂の名を口に出したということは、僕自身ではなく古道具屋の店主として用向きがあるということだ。

「ほらっ、見ろよ。半年以上の長い歳月を費やして漸く手に入れたんだ。」
ごそごそとエプロンドレスから誇らしげに取り出したものは、古めかしい一つの瓢箪であった。
丹や漆とは違う紫色で塗られた瓢箪は長い時を感じさせながらも、未だに活き活きと光沢を保っている。
「……確かに良い仕事が施されている瓢箪だとは思うけど、それがどうしたというんだい?」
いくら魔理沙とはいえ、日の高いうちから人の店で独り酒ということもあるまい。
僕のそんな想像など知る由もなく、魔理沙は人差し指を左右に振りながら大げさに頭振る。
「甘いな香霖。これはそんじょそこらの瓢箪と一緒にされちゃ困る。なんたってこれは鬼が持っている瓢箪なんだぜ!」
後光でも差せと云わんばかりに魔理沙は再び瓢箪を天高く掲げ挙げた。
「鬼? 鬼なんてもう幻想郷には存在しない種族じゃないか。」
『持っている』と過去形にしなかったところから出自の怪しさは十分知れたが、僕はあえてもう一つの疑問を口にする。
その質問がトドメだったのか魔理沙は驚愕の表情を浮かべた後、諦めたように首を左右に振った。
「一人だけだけどな、鬼は居るぜ? よく神社で霊夢とお茶を飲んでまったりしていたり、宴会の日には呼ばれなくても現れたりするんだ。」
やけに具体的な例を挙げる魔理沙に僕も記憶の引き出しを漁ってみる。

「……ああ、そういえば先月の新聞に満月の爆発が鬼の仕業だったとか書いてあった気がしたな。」
幻想郷の住人であの新聞の記事をまともに受け止める人物など居はしないだろう。
半分読み流していた情報だったが、それでも役には立つものだ。
「そうそう、その鬼だ。こいつはその鬼が後生大事に抱えているという瓢箪なんだぜ?」
新聞よりも記憶に止めていた自分のことを内心称賛していると、勢いを取り戻した魔理沙が僕に迫ってくる。
「それで、結局のところ目的はなんだい? 勿論、転売はお断りだよ。僕にだって良識はあるし、それ以上に鬼の恨みを買いたくないからね。」
詰め寄ってくる魔理沙をひらりとかわしながら、言葉内では釘を刺しておく。
「そんなことはしないさ。ただ、ちょっとこの瓢箪を見てもらおうと思ってね。」
「この瓢箪を…かい?」
「ああ。」
足を止めて大きく頷く魔理沙。
僕はもう一度魔理沙に抱かれたままの瓢箪に目を移すが、外見は最初の印象と全く変わらない。
ただし、鬼の瓢箪となると僕も興味を惹かれないわけではなかった。

「……どうして、この瓢箪を僕が見る必要があるんだい?」
手を伸ばしたくなる衝動を抑えながら、僕は努めて平静を装い魔理沙に問いかける。
鬼の瓢箪が曰く付きでない筈がない。
幸い、魔理沙は僕のことを『香霖』と呼ぶから返事をしたところで瓢箪に吸い込まれるということはないだろうが……。
「これはな、この瓢箪から無限に酒が湧き出てくるという逸品なんだぜ! だから、この仕組みを香霖に解明してもらおうと思ってな。」
「なるほど……」
漸く魔理沙の興奮のワケも意図も掴めてきた。

――無から有を生み出す。
たとえ生成物が酒であろうとも、それが第一種永久機関であることは変わらない。
それは全ての文明が夢みる究極点にして、神のみぞ許される禁忌。
……もっとも、魔理沙はそこまで深く考えてはいないだろう。
酒が無料で済むとか、丹の生成がスムーズになるとか、そのくらいの理由で鬼の手から宝を強奪するという苦難をやってのけたに違いない。

「それじゃあ、ちょっと貸してくれるかい?」
僕は緊張で手が汗ばんでいることを悟られないように、スマートな動きで魔理沙の手から瓢箪を受け取った。
瓢箪の中身は今は空なのか、見かけの重厚さに比べて拍子抜けするほど軽い。
魔理沙がずっと持っていた為か、ほのかに温みを帯びていた。
ある程度外観や質感を確かめた後、僕は手元にある瓢箪に語りかけるように意識を集中する。

「………………………………」

「………………………………」

「………………………………」

「…………うん、そういうことか。」

目蓋を開けると魔理沙が興味津々といった表情で僕の顔を覗き込んでいた。
僕はその表情とは対照的に、至極残念そうに肩を竦めて首をゆっくりと左右に振る。
「魔理沙、残念だけどこれはただの瓢箪だよ。業物ではあるけれど『無銘』で『お酒を貯蔵する』程度の用途しかない。」
「そんなことはない筈だぜ? なんたってあいつ自身が『自然と酒が湧き出る瓢箪だ!』っていってたんだからな……。」
不思議そうに首を傾げながら、僕と僕の手の中にある瓢箪を見つめる魔理沙。
「そういわれても、僕の能力からはこういう結果しかでなかったよ。」
再び大きく肩を竦めて見せる。……ちょっとワザとらしかったかも知れない。

「おかしいなぁー。」
だけど、魔理沙はそれには気付かず、僕の手から瓢箪を受け取って弄び始める。
中を覗き込んだり、左右に振ってみたり、挙句の果てに店内で栓を開けて引っ繰り返してみるが、酒はおろか砂粒一つ出てはこなかった。
「……どうなってるんだ?」
ついに観念したのか、狐につままれたような顔で魔理沙は僕を注視する。
もっとも、今回は狐よりも恐ろしい鬼なのだが……。

僕は咳払いをして表情を整え、魔理沙に告げた。
「考えられるのは二つ。一つ目はこれが贋物だということ。いくら半年がかりとはいえ簡単に手に入れることができるお宝じゃないしね。もう一つはその鬼に担がれたということ。新聞の記事じゃあその鬼は萃める能力があるそうだからね、瓢箪から無尽蔵に酒が湧き出るタネとしては申し分ない。」
僕の推理に魔理沙は合点がいったのか、ポンっと手を叩いて頷いた。
「萃香のヤツめ。乙女の純情を踏みにじるとは……」
無限に酒が湧き出てくる瓢箪を強奪することの何処に『乙女の純情』の住まうべき余地があるのか僕にはわからなかったが、当然その疑問を口には出すことはしない。
いそいそと帽子を被りなおした魔理沙は、僕に向かって瓢箪を放り投げた。
「ただの瓢箪なら興味はないぜ。香霖、私の代わりに預かっておいてくれ。」
「そんな無責任な……。君が持ってきたものだろう? それに行き違いになるかもしれないじゃないか。」
僕は箒を手にして玄関へすたすたと歩いていく魔理沙の背中に呼びかける。
「その心配はないな。あいつはどこぞのスキマ妖怪同様に視野が広いんだ。真っ直ぐに瓢箪の場所を探し当てるさ。」
魔理沙は振り返ることなく扉を開け放ってから答えた。
再び入り込む強風に帽子を取られそうになったのか、改めて帽子の位置を調整すると今度は僕の方を振り向いた。
「それじゃあ、邪魔したな。」

その言葉が店内に響き、消えるか否かというタイミングで魔理沙の姿は疾うに青空の中へと溶けていた。
僕はまた軒先へ歩いていき、開けっ放しの扉を閉める。
唐突に現れてはすぐまた去っていく、本当に春風のようだと思わなくもない。
無論、インドア派の僕としては迷惑以外の何者でもないわけだが……。
僕はガタガタと揺れる扉の音に掻き消える程度に溜息を吐いて、手元の瓢箪を見つめた。

「……まあ、そういうことらしいけど、それで良いかな?」
言葉を向けた先は僕自身ではないし、魔理沙でもない。
店内に居る人物は云うまでもなく僕一人。
それにも拘らず、暫くの間を置いてゆっくりと声が返ってきた。
「……ええ、助かりました。」
その声は紛れもなく僕の手の中から発せられたもので、

とどのつまり、声の主はこの瓢箪なのであった……。





僕は瓢箪を魔理沙や霊夢が利用している来客用のテーブルの上に丁寧に置くと、手近な椅子に腰掛けた。
「……僕も長年古道具屋を営んできたけれど、こんな宝具には今まで御目にかかったことがないよ。」
「あっ、そうですか? 恐縮です……。」
瓢箪の声は高く、魔理沙や霊夢よりももう少し幼い少女のものを連想させる。
瓢箪――否、彼女――の外見に変化は見られないが、声から察するに赤面して恥らっているようだった。

「あ、あのっ、本当にありがとうございました。いきなり無理なお願いをしてしまいまして……。」
「気にすることはないさ。道具の声に耳を傾けるのが僕の仕事だからね。」
おずおずと切り出してくる彼女に僕はゆったりとした動作で頷く。
そう、魔理沙を担いだのは萃香という鬼ではなく、瓢箪自身だったのである。
あくまでも僕はその手伝いをしたに過ぎない。
改めて宣言しておくが、決して適当なことを言って魔理沙からこの宝具を得ようとしたわけではないのだ。
ここまでの経緯を簡潔に述べるなら、僕が瓢箪を手に取ったときに僕の能力を介して彼女が口裏を合わせるように願い出てきたのである。
時間だけを見ても付喪神が宿っていておかしくない逸品、それが無から酒を生み出す宝具、神具の類だとしたら精霊が宿っていない方がどうかしている。
酒の発生の止めたのも彼女の意思なのだろう。
演技力まで充実した、まさにこの世に二つと無い業物である。

……言い訳じみて聞こえるかもしれないが、だからといって僕も魔理沙に嘘だけをついていたわけではない。
唯一、彼女が『無銘』であるということだけは紛れも無い真実だった。
道具は名前を持つ。種類や分類の便宜上の名前だけではなく、愛着があるもの、真に業物ならば固有の名を授けられる。
それは良くも悪くも道具の業を示すものであり、道具自身のアイデンティティでもある。
だからこそ、ほとんどの道具は名を持つことを渇望し、時に――無縁塚では日常茶飯事だが――付喪神と化して騒ぎを起こす。
故にこれほどの宝具が『瓢箪』という名前しか持っていないことは最早、僕にとっては不審を通り越して驚愕であった。

「……君のマスターはいつごろやってくるんだろうね? 閉店までには間に合うかな?」
彼女が名無しである理由など、簡単に口に出来る話題ではない。
僕は湧き上がってくる興味を断ち切るようにふと浮かんだ疑問をぶつけた。
「魔理沙さんが仕込んだ薬の効果次第ですが、日没までにはきてくれると思いますよ。」
僕の咄嗟の質問を彼女はあっさりと物騒な台詞をもって返す。
魔理沙が仕込んだということに僕は一抹の不安を隠せないのだが、まあ、鬼ならば僕が百遍永眠するほどの眠り薬でも半時程度の効き目なのだろう。

「鬼か……」
「ええ、萃香ちゃんは本物の鬼ですよ。私が保証します。」
僕の呟きがきこえたのだろう、彼女は歌うように断言する。
その口調から彼女が鬼の娘に向けている信頼が窺い知れた。

……彼女と鬼の娘はどうやって出逢ったのだろうか?
今までの話をきく限り、彼女と鬼の娘の関係は一朝一夕で築けるものではないだろう。
しかし、代々鬼の一族に受け継がれるものならばそれに相応しい名を持っている筈である。

「そうだ、まだ時間がありそうだから、先程のお礼も兼ねて何か話を聞かせてくれないかな?」
再び鎌首を持ち上げる好奇心を何とか抑え付けて、僕は不躾じゃない程度の提案を彼女にする。
「ええ、構いませんよ。どんなお話がお望みですか?」
「君に任せるよ。」
僕は快諾してくれたことに謝意を込めて、穏やかな声と表情で頷き返した。
……勿論、この言葉には多分の嘘がある。

「うーん、そうですね……、では、私と萃香ちゃんが……」
彼女は少しの間思案気に声を洩らし、紡ぎ出すようにゆっくりと言葉を重ねていく。
僕は彼女の一言ごとに、穏やかな表情のまま頷き返す。
内実、僕は静かに唾を飲み込み、膝の上で強く握り締めた拳はじっとりと汗ばんでいた。

『私と萃香ちゃんが……』
ここまでは、僕の知りたいことと一致している。
彼女と鬼の娘が出逢った経緯。
……彼女が無銘である理由。
否応がなく高まっていく緊張は、富籤の抽選番号を一字一字確認していくようでもあり、自分の仕掛けた罠に獲物が掛からないか待ち侘びる子供のソレのようでもあった。

「………………………………」

同じペースで彼女は言葉を紡いでいる筈なのに、この間だけが妙に長く感じてしまう錯覚。
しかし、そんな感覚は夢の終わり同様に――

「……幻想郷に訪れたときのお話をしましょうか。」

――あっさりと破られてしまうのだった。
反射的に頭が脱落したようにガクッと項垂れる。
僕はすぐさま首筋に手を当てて、できるだけ自然な感じで再び彼女に向き合った。
「そうだね。幻想郷に居なかった筈の鬼がどうして魔理沙や霊夢のところに現れたのか……僕にも興味がある。」
相貌を崩すことなく僕は頷く。
今の言葉の半分以上は、僕自身に向けられたものであった……。

「そうですか、それは良かったです。」
胸中の葛藤と合理化の煩懊など当然知る由もなく、彼女は安堵したような声を洩らす。
その無邪気で無垢な反応に毒気が抜けたのか、僕は膝の上の腕を組みなおしてリラックスした姿勢をとった。

「……時期はあの長い冬が訪れる少し前、秋彼岸の頃でしょうか? どうやって幻想郷にきたのか、移動手段はわかりません。」
準備が整ったと判断したのか、彼女はおもむろに語り始める。
声は相変わらず幼い少女のものでその落ち着いた語り口は酷くアンバランスなようであり、同時に相応しいようにも感じられた。

「ただ、気が付くとそこは見知らぬ土地で、鬼の国に居る筈のない人の声がしたのです……。」
気が付くと日の光はゆっくりと傾き、青かった空もうっすらと紅を帯びていた。
彼女の独白に似た語りは、時折ガタガタと揺れる窓や扉の雑音の中でも褪せることなく、僕の耳まで届く。
僕の目にはそれがどこか託宣を告げている姿にも、祈りを捧げている姿にも重なって映っていた…………





◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆





「――――――――の鳴る方へ!」

最初に耳にしたのはこんな言葉でした。
子供たちの笑声に紛れてほとんど聞き取れませんでしたが……。
ただ、それが何かの拍子であったことはすぐにわかりました。

「―――――ちら―の鳴る方へ!」

少し先程よりも聞き取れましたが、どんな意味なのか未だにわかりません。
でも、それはひどく懐かしいリズムでした。

「――――こちら手の鳴る方へ!」

はしゃぎ声と拍手の音が入り混じった騒々しい空間。
注意して見てみると、その囃子はひとりの女の子に向けられたものでした。
手を打ち鳴らし少女を誘っては、波が引くように走り回る子供たち。

「――さんこちら手の鳴る方へ!」

少女がなんと呼ばれているのか、どうしてもそれだけは聞き取ることができません。
しかし、この子守唄のような喧騒に萃香ちゃんは招かれるようにふらふらと歩いて行きます。
自然と萃香ちゃんが私を握り締める手にも力が入っていました。

熱にでも浮かされたように力を使うことなく、ただただ真っ直ぐに歩いていく萃香ちゃん。
既に子供たちも気付くくらいの距離まで接近していました。
それと同時に明瞭になっていく掛け声、その声は――

「オニさんこちら手の鳴る方へ!」

――そう、言っているように聞こえました。
萃香ちゃんにも聞こえたのでしょう。
踏みしめた小石は粉々に砕け散り、私を握る手にも山を削れそうなほど強い力が籠もっていました。

……えっ、私? 私はその程度ではなんともありませんよ。丈夫だけが取得ですからね。


「私をお呼びなのはあんたらかい?」
腕を後手に組み、何気ない表情で萃香ちゃんは問いかけます。
あまりにも自然な所作に子供たちは怯えることも逃げることもなく、呆然と萃香ちゃんを見つめていました。
「あん? 誰だよお前。妖怪ならあっちに行けよ。慧音様に関わるなって言われてるからな。」
そんな空気を断ち切るようにひとりの男の子が乱雑な口調ながらも、はっきりと拒絶を表します。
おそらくリーダー格の子供なのでしょう。
周りの子供より頭一つ体格が抜きん出ており、私たちを見つめる表情にははっきりと警戒の色が浮かんでいました。

「妖怪風情と一緒にしてもらっては困るなぁ。あんたらが先に私のことを呼んだんだろう?」
萃香ちゃんはその子の態度に応えるように、いかにも悪そうな笑みを口元に張り付けて歩を進めます。
「ち、近寄るな! 妖怪め!」
リーダー格の男の子は反射的に後ずさりそうになる身体を押し止めて、必死に萃香ちゃんを威圧します。
いくら萃香ちゃんが可愛らしい外見をしているとはいえ、人外の存在と対峙するには相当な勇気が必要に違いありません。
萃香ちゃんもそう思ったのでしょう、先程のワザとらしい作り笑いがとても楽しそうな悪戯っぽい笑みへと変わっていました。
心なしか軽やかになった歩調で更に子供たちの輪に近づいていきます。
それに連れて徐々に子供たちの輪からさざ波の様に動揺が広がっていきました。

子供たちの表情から窺えるものは未知のモノに対する警戒と戸惑い、……そして好奇。
慧音さん……といったでしょうか? 彼女の指摘は正論です。
妖怪と人間は相容れない、なぜなら妖怪は人を襲う存在ですから。
……鬼の場合はもう少し複雑ですけれど。
だから、本来ならもう蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていなければなりません。
でも、萃香ちゃんと子供たちの距離はもう手を伸ばせば届きそうなくらいでした。

「そ、それ以上近づくなよ!」
行く手を遮るように男の子が立ち塞がり、曖昧な雰囲気を払拭するように怒鳴りつけます。
それが無意識からなのか、それとも使命感や正義感からなのかわかりませんが、私はちょっと感動してしまいました。
きっとこの男の子は将来、里を背負う立派な若者へと成長するでしょう。
萃香ちゃんも漸く歩みを止め、見上げる形で男の子の顔を覗き込みます。
そして軽く微笑みかけると、まるで肩に付いた糸屑を払うような何気ない仕草で男の子に手を伸ばしました。
男の子の方も最終的に危機感よりも好奇心が勝ったのか、萃香ちゃんの手を目で追うだけで振り払う様子はありません。

……勿論、その判断は大きな間違いでした。
萃香ちゃん曰く「こういうことは知識だけじゃ如何にもならないのよ。きちんと骨身に染みてもらわないと。」だそうで、微笑みを浮かべたまま糸屑を摘み取るような気安さでひょいっと男の子を吊るし上げます。
その野花でも摘み取ったかの如くあっさりとした出来事に、その場に居た誰もがしばらく時が止まったかのように言葉なく立ち尽くしていました。
ただひとり、子供たちの輪から最も離れていた鬼役の少女を除いては……。

「!!………………」

少女は里へ向かって一目散に駆けて行きます。
しかし誰もそのことには気付かず、風にのってきた綿帽子を目で追うくらいの表情で宙吊りにされた男の子を見つめていました。

「ッっ痛い! 痛いよ!!」

無限にも続きそうな沈黙を崩壊させたのは、宙吊りにされた男の子自身でした。
肩を鷲掴みにされている痛みが戻ってきたのでしょう。
苦痛に歪んだ声は未だ状況が飲み込めていなかった他の子供たちに冷水を浴びせかけるには十分でした。
呆然としていた子供たちの顔が一瞬にして恐怖に染まります。
……でも、萃香ちゃんの接近を許しすぎた子供たちの足は凍りついたように動きません。
それも当然です。鬼に睨まれているのですから。

「あはははは、良い気味だねぇ!」
萃香ちゃんは牙を見せ付けるように大口を開けて笑ってみせます。
恐怖で竦んでしまった身体は思うようにいかず、次第に子供たちの表情に焦りと絶望が浮き上がってきました。
「このっ! 放せ! 放せよ!」
男の子は必死に自分の肩に取り付いている小さい手を引き剥がそうとしますが、ピクリとも動きはしません。
そうしているうちに、暗雲のように心から湧き上がった感情は涙となって少しずつ雨音を大きくしていきます。

「さあ、さっきまでの威勢はどうした! 手を叩いて囃してごらんよ、野次を飛ばしてごらんよ! あーっはははは!」
男の子を頭上高く掲げて、実に愉快そうに笑う萃香ちゃん。まさにワルモノって感じです。
既に子供たちの中で泣き顔を見せていない者は誰ひとりいませんでした。

「放せ! この妖怪め!」
……いいえ、この子だけは例外でした。
握力で勝負することは諦めたのか、萃香ちゃんの手に爪を立てたり、足をバタつかせて顔に何度も蹴りを加えます。
女の子の顔を狙うのはちょっといただけませんが、男の子も無我夢中でどこを蹴っているかなどわかってはいないのでしょう。
どちらせよ萃香ちゃんにしてみれば、そんなもの微風にも値しません。

「何度も言ったけど、私は妖怪じゃないの。わかってる?」
溜息混じりに男の子に話し掛ける萃香ちゃん。
「うるさいうるさい! 放せよ! 放せったら!」
言うまでもなく余裕のない男の子は微塵も耳を傾ける気などありはしません。
「……うーん、参ったな。名乗りそびれたか……。」
困ったように私を持っている方の手で頬を掻く萃香ちゃん。

その軽く独り言ちた一瞬――


―――――――――― 斬!


――右手共々男の子が萃香ちゃんの手から離れました。
そして、自由落下していく男の子を抱きとめる青い影。

「ぐあぁああああああぁああああぁ…………」
右手首を押さえて、苦悶の声を発する萃香ちゃん。
それとは対照的に子供たちの表情が一斉に明るく輝きます。

「慧音様!!」
「……もう大丈夫だ。あとは私がなんとかするから下がっていなさい。」
慧音様と呼ばれた女性は腕の中にいる男の子に優しく微笑みかけて地面に降ろすと、銅剣の切っ先をこちらに向けて私たちを冷たく見据えます。

「さあっ! まだ続けるというのなら次は右手だけでは済まなくなるぞ?」
それが脅しではなく本気だということは彼女の纏っている空気で十分理解できました。
こんな事態になったのは一度や二度ではないのでしょう。
「あぁぁああぁあぁ…………なんてね。」
忙しそうに転げまわっていた萃香ちゃんが彼女の呼びかけでピタリと動きを止め、不敵な笑みを浮べて立ち上がりました。
「名乗るタイミングを逃がしていたから、仕切り直しが必要だと思ってね。……よっと。」
スカートの砂埃を払おうとして右手がないことに気が付いたのか、萃香ちゃんは何事もなかったように霧状にしていた右手を萃めて具現化させます。
「それで、あんたが件の慧音さま? ……なるほど、ワーハクタクか。」
改めてスカートの埃を払いながら呟く萃香ちゃんの言葉に顔が強張る慧音さん。
「……お前、ただの妖怪じゃないな? 何が目的でこの里を狙う!」
「目的も何もないよ。人間を見たら襲う、それこそが鬼の本懐。知識を司るハクタクならご存知だろう?」
今度は砂の絡まった髪の毛を撫で付けながら、少し不機嫌そうに答える萃香ちゃん。
そんなに気になるのならわざわざ転げまわらなければ良かったのに……。

しかし、萃香ちゃんや私にとって当たり前のことも、慧音さんにとっては驚くべきことだったのでしょう。
慧音さんの表情は驚愕で見開かれ、突きつけている切っ先が微かに震えていました。
「…………鬼、だと?」
彼女の喉が漸く搾り出したのは、ただこの一言だけでした。
驚きに染まった言葉に萃香ちゃんも機嫌を良くしたのか、鷹揚に頷いて見せます。
「いかにも我は鬼。太古より『隠』の字を授けられし者。闇の具現にして人間の怨敵。恐怖の象徴。」
「莫迦な! 鬼はもう……幻想郷には居ない。」
間断なく発せられる否定の言葉。
そして、この場所が幻想郷であるということを私たちは初めて知りました。
同時に彼女の驚きが大きいのもこれで納得がいったのです。
確かに幻想郷には鬼がいません。
このことは私も萃香ちゃんも他の鬼から知らされていた事実でした……。

「おやおや、目の前に鬼が居るのに否定するのかい? これほどまでに完璧で、その上可愛らしい反例が実在するというのに。」
大げさに肩を竦めて萃香ちゃんは嘆いてみせます。
その挑発するような動作で逆に冷静になれたのか、慧音さんは表情を引き締めて再び私たちを強く見下ろします。
「……そうだな、そんなことは関係ない。里の者に手を出すというのなら私は全力を持って退けるまでだ。」
「半分人間の分際で私に剣を向けるその勇気に免じて、半分くらいならやられてやっても良いかな?」
いつ弦が切れてもおかしくない雰囲気でありながら、どこまでもへらへらと緊張感のない笑みを浮べている萃香ちゃん。

「――――哈ぁッ!!」
……でも、気を取り直した慧音さんは流石に二度もペースを崩すことなく、裂帛の気合と共に銅剣を薙ぎます。
「うわっと!」
予想よりも鋭い剣捌きだったのか、慌てて後ろに跳び退く萃香ちゃん。
しかし流れるような慧音さんの剣は全く止まることを知りません。
「ちょっ! まだ、……って、わわっ! 私の方が前口上、あっと! ……言い終わって、うわっ! ないでしょうが!」
剣の舞を一太刀躱す毎に文句を洩らす萃香ちゃん。
これだけで実力の差は慧音さんから見ても明らかだったでしょう。
……それにも拘らず慧音さんの目にはどこか力強い光が宿っていました。

「まったく、もう!」
最後に溜息をついて、萃香ちゃんは空になった肺に空気を取り込みます。
――そこに生じるちょっとした隙。
そのタイミングを見計らって渾身の一撃を振り下ろす慧音さん。
萃香ちゃんは身を縮めて弾けるように後方に移動します。

「とっと、残念でした――」
不敵な笑みを浮べる萃香ちゃん、しかし、その表情はすぐさま凍りつきます。
目の前には横薙ぎに迫る剣先。
先程の一撃はフェイントで、いつの間にか左手にもう一本顕在させた銅剣が本命なのでした。

「――――哈ぁあぁああぁッ!!!!」

回し蹴りの要領で全身を回転させる捨て身の一撃。
それは見事に萃香ちゃんの胴を右から左へと通過して慧音さんは華麗に着地しました。
スカートがその華麗な動作をリプレイするかのように、一寸遅れてふわりと綺麗な円を描きます。
同時に遠巻きに見ていた子供たちから歓声が上がりました。

しかし、慧音さんの表情は硬いまま、じっと左手の剣を見つめています。
……流石に二度目ともなると簡単に騙せはしないようでした。
驚きの表情を不敵な笑みに塗り替えて、萃香ちゃんは口を開きます。
「人間と違ってね、鬼は嘘をつかないよ。だから約束は守る。ほらっ、約束通り半分やられて見せただろう?」
萃香ちゃんは上半身と下半身が分かたれたことを示すように、慧音さんの剣が通った部分を指差します。
そこは本当に何もなく、ただ後ろの景色が覗けていました。
「なっ……、それがお前の能力なのか?」
「そういうこと。私の能力は『密と疎を操る』……だから身体を霧散させている限り、私に剣は通じない。」
空洞となった胴を元に戻しながら萃香ちゃんは答えます。
「全身を霧にしたほうが楽なんだけどね。それだと半分になってあげられないでしょ?」
からからと笑いながら言う萃香ちゃんに対して、慧音さんは苦々しく歯噛みしていました。
彼女の勝算は実力差から生じる萃香ちゃんの油断だったのでしょう。
それすら踏まえた上で、萃香ちゃんの実力は彼女を圧倒していました。

「それじゃあ、……そろそろ私も反撃しようかな?」
右腕をグルグル回しながらニヤリと悪戯っぽい笑みを浮べる萃香ちゃん。
慧音さんは弾かれたように後ろ手に跳んで距離を取ります。
距離にして約三歩。……これは萃香ちゃんの歩幅であって、慧音さんの歩幅では二歩半もない筈です。
慧音さんは一歩踏み込めば剣の間合いに入り、萃香ちゃんは二歩以上詰めなければ拳が届くことのない絶妙な間合い。
「あらららららら……」
控えめで可愛らしい手足が届かないことを悟ったのか、困惑の声をあげる萃香ちゃん。
それに伴って砂塵を巻き上げていた右腕も失速していきます。
隙だらけといえば隙だらけな動きですが、慧音さんは萃香ちゃんを注視したまま攻めあぐねている様子でした。
「反撃」と云う言葉に対する警戒と、二度も剣が通じなかったという逡巡。
攻めるべきか守るべきか、心の葛藤が慧音さんの集中力を見る見るうちに磨り減らしていきます。

……そうこうしているうちに、萃香ちゃんの右腕の回転が完全に止まります。
ハッと我に返り、慧音さんが剣を握り直した瞬間――

「うぐっぅっ!!」

――弾丸のように撃ち出された私が慧音さんの鳩尾にめり込んでいました。
一応、女の子のお腹なので私は中身が空の軽量化ボディです。満タン時と比べて十分の一以下なんですよ?
……でも、そうはいっても鬼の剛力から撃ち出されたもの。
剣を取り落とさなかっただけでも称賛に値しますが、反射的に身を屈めてしまう慧音さん。

「……なっ、に!?」
そして発せられる驚愕の声。
俯いた先には萃香ちゃんの可憐な顔がありました。
萃香ちゃんは好戦的な笑みを浮べ、グルンと右腕を一回転させます。
慧音さんの目には弧を描く何かにしか見えなかったかもしれません……。

「そぉれっ!」
比喩でもなんでもなく爆炎を纏った拳を受けて、大空に投げ出される慧音さん。
……受け身も満足に取れぬまま地面に激突します。

「 「 「 慧音様ぁ!!!! 」 」 」
激突音と子供たち悲鳴が綺麗に重なってきこえていました。

「くっ!……つぅ…………」
その声で気が付いたのか、剣を杖にしてよろよろと立ち上がる慧音さん。
誰の目から見ても立っていることがやっとといった様子でした。

「おやおや、まだやるのかい?」
再びワルモノモードになった萃香ちゃんは嘲笑いを口元に湛えて悠々と慧音さんのところへと歩いていきます。
「安心しなよ。あんたの代わりにこの里を外敵から守ってあげるから。守り神じゃなくて祟り神として……だけどね。」
掌に拳を打ちつけながら、一歩一歩近づいていく萃香ちゃん。
それをただ睨みつけることしかできない慧音さん。
既に二人の距離は手を伸ばせば届く範囲でした。

「それじゃあ、安心して眠りなさい。……慧音様!!」
大地を抉りとらんと叩きつけるように打ち出される右手。
慧音さんの頭を打ち砕いてもまだ余りある一撃を、――遮るように何か小さい影が割り込みました。

「えっ!?」
「なっ!?」

萃香ちゃんと慧音さん、どちらがどの声を発したのかわかりません。
……ただ、拳は小さい影を打ち砕く前に、萃香ちゃん自身の左手で受け止められていました。
小さい影の正体――それは先程里へ駆けて行った鬼役の少女でした。
身体を小動物のように丸めながらも、精一杯萃香ちゃんに向かって手を伸ばしています。
その小さな小さな手には柊が一枝、……握られていました。

「………………………………」

しばらく呆然とそれを眺めていた萃香ちゃんは少女の前で静止していた拳を開き、ポンポンと軽く少女の頭を撫でます。
ビクッ! と震える少女を優しく微笑みながら見つめると、勢いよく両目を掌で覆い、身体を仰け反らせました。

「うーわぁぁぁ、目がぁ! 目がぁ! 私の目がぁ!! こっ、これは堪らない! に、逃げなくてわぁ〜〜!!」

苦しそうな悲鳴をあげて一目散に走り去っていく萃香ちゃん。
急激な状況の変化にその場にいた誰もがポカンと口を開けていました。
しかし、それがルールなのです。
柊の別名は『鬼の目突き』その名の通り、古来より鬼を退ける植物なのです。
萃香ちゃんが鬼である限り、この約束を破るわけにはいきません。
顔を手で覆い隠しながら、萃香ちゃんは脇目も振らず走り続けます。
いつものように霧に転じて移動すればよいのに、萃香ちゃんはただただ我武者羅に大地を蹴っていました。
残された人々の姿は豆粒のように小さくなり、……そして、全く見えなくなります。

時間にすると大した時間ではありませんが、距離にすれば一里ほどでしょうか?
木々を薙ぎ倒し、岩を粉砕し、漸く足を止めた萃香ちゃんは顔を覆っていた手を下ろします。
そこから現れたのは柳眉を顰めて苦しいとも口惜しいともつかない表情をした萃香ちゃん。
咄嗟に拳を止めた時の反動なのでしょう、左手の掌からは赤い雫がぽたぽたと滴り落ちていました。

……でも、今は手の痛みなど関係はありません。
きつく結ばれていた口元がゆっくりと空気を追い求めるように開かれます。
「……へたくそ」
その溜息に混じって吐き出された言葉は、うっすらと――泣いているような色を――帯びていました。





◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆





「そうやって、君たちは幻想郷についた早々暴れたわけだね?」
「それがお仕事ですからね。」
僕の忌憚ない感想をさらりと流しながら彼女は応える。
一見素っ気無いような態度が彼女なりの処世術なのだと思っていたが、話をきいているとこれが彼女の地なのだと何となくわかってきた。
幼いとも老獪ともとれる性格。
それは実に道具らしい性格ともいえた。
道具は使われることはあっても使うことはない。どこまで行っても傍観者なのである。

「それじゃあ、君たちは幻想郷に居たくて居るわけじゃなく、帰れないからこの場に留まっているのかい?」
僕はふと浮かんだ疑問を口にする。
確かにこの話は幻想郷を『訪れた』ときの話ではあった。
でも、それだけでは彼女たちが今も幻想郷に留まっている理由には結びつかないのである。
「いいえ、帰る当ても連れてきたのが誰かなのかもわかっていますよ。こんなことを企む人も実行できる人も数えるほどしかいませんから。」
僕の予想をあっさりと否定する彼女。
……でも、その人物には僕も心当たりがあった。
「なるほど……。じゃあ、どうして幻想郷に君たちが留まっているんだい?」
しかし、噂をすれば影がさす、僕は極力その人物を思い浮かべないようにしながら質問を重ねる。

「そう、……です、ね…………まだ時間もありますし、お話しましょうか。」
初めて彼女は言い淀むような間の置き方をした。
彼女の言う通り、窓から差す光は茜色を強くしてはいるが、夜の帳を示す群青色の空の気配はまだ遠い。

「……私たちは折角幻想郷に来たのだからと、物見遊山気分で見晴らしの良い岩山に腰をかけていました。」
再び語り調子を取り戻す彼女の口調。
それは先程と同じくどこか告白めいたものを秘めていて、話が進めば進むほど僕の心の中で漠然とした『何か』が形を帯びていく。

『傍観者』と云った、自らの言葉に感じる矛盾。
話の中で所々現れる、鬼の娘の撞着した行動。
それを当たり前のように言葉を紡いでいく彼女。

「見下ろす先にはちょうど見頃の彼岸花が咲き乱れ、とても風光明媚な場所でした。」
日が傾くにつれて風は威勢を弱め、軒を静かに震わせている。
その振動は空洞である店内で反響し、徐々に音を増幅させていた。
まるでこの話の中に在る大きな空洞を浮き彫りにするように波紋を広げていく。

そしてそれは僕の中で『違和感』という言葉に転じて、僕の心の空洞にすっぽりと納まったのだった……。





◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆





「まったく、節分なんて当の昔に過ぎ去ったというのに物持ちがいいねぇ。それに『鬼が居ない』なんて言ってた筈なのにしっかりと予防法は覚えているなんてね……、流石は人間、根性が汚いったらありゃあしない!」
私を直接呷りながら花見酒と洒落込んでいる萃香ちゃん。
憤然とした口振りとは対照的に、表情はどこか楽しげです。

……そうそう、萃香ちゃんと私は滅多に言葉を交わすことはありません。
理由は様々ですが、簡潔に述べるならそれが一番面倒が少ないからです。
でも、優しい萃香ちゃんはこうして酔っ払いの独り言を装って、私に話し掛けてくれるのでした。

「それにしても、ここはどこなんだろうねぇ〜。まっ、絶景かな 絶景かな。」
私にも見やすいように掲げ上げると、萃香ちゃんは岩山から燃えるような鮮紅色に敷き詰められた花々を見下ろします。
やはり上機嫌なのか、時折鼻歌が風にのってきこえてきました。

……のどかで心が洗われるような時間がゆったりと流れていきます。


「こらこら! 死ぬにはまだ早い!」
それを見事に台無しにしてくれるような、良く言えば溌剌とした声が、悪く言えば場違いなテンションの声が、突然割り込んできました。
「死ぬってどういうことさ?」
折角の気分に水を差されたためか、明らかに険のある萃香ちゃんの声。
「ここは生者の来るところじゃない。さあ帰った帰った!!」
しかし、相手の方は自分の腕に覚えがあるのか、よっぽどの鈍感なのか、萃香ちゃんの怒気を無視したように話を続けます。

「いきなり現れて『帰れ』とはずいぶんな言い草じゃないか。天邪鬼って言葉にも鬼があることを知らないのか……い?」
声のする方を睨みつけようと顔を巡らせた萃香ちゃんの動きが、相手の前でピタリと止まりました。
「死神がいちいち鬼に驚いていられる……か?」
相手の方も漸く自分が声を掛けたのが誰なのかわかったのでしょう、先程までの威勢の良い声がピタリと止まります。

「「!?…………………〜〜!!!!」」

お互いに指差しあって口をパクパクと動かしますが、声の全くでない二人。

「「ああぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」」

そして、堰が決壊したように異口同音の叫びが大音量で溢れ出て――

「イブキン!!」
「こまっちゃん!?」

――それぞれの懐かしい呼び名が口から飛び出していました……。



「いやぁ〜、懐かしいねぇ。此処で遭ったが百年目かな?」
「うーん、だいたいそれくらいかもね。士官学校以来でしょ?」
小町ちゃんに隣に座るよう促しながら、萃香ちゃんは満面の笑みで答えます。
士官学校というのは獄卒と死神の養成所につけられた別称のことです。

――全ての鬼には一定期間『獄役』という獄卒の任務につく義務を負わされています。
いつ役に従事するか、厳密には決められてはいませんが、鬼の一族では一般に役が終わった者から一人前の鬼と認識される風潮があります。
不良娘……もとい、放蕩娘であった萃香ちゃんは鬼のなかではかなり早い段階で獄役に志願した方でした。

「それにしても、……あの永世見習いとまで呼ばれたこまっちゃんが、立派な死神たぁねぇ〜。」
「そうでしょ、そうでしょ? あたいも今じゃあ指名一、二を争う敏腕船渡しってわけよ。」
そんな誰も信じない軽口を叩きながら懐からちゃっかりマイ盃を取り出す小町ちゃん。
……勤務中ということも考慮して、私は甘酒を小町ちゃんの盃に注ぎ入れました。
「ありゃ? 甘酒かい。……まあ、疲れた体には甘い方が染み渡るかもね。」
少々物足りなさそうな声をあげながらも、顔は綻んだまま盃を一気に呷ります。

――小町ちゃんのような死神は完全な志願制度です。
地獄では同じ肩を並べる役割ということで、鬼と死神は同じ宿舎、同じ教室で講義を受けます。
……ですが、そこは義務の獄卒と職業の死神。
志の問題なのか、鬼と死神で派閥争いが起こることは悠久の昔からの伝統だったりします。
その中で、この二人は講義を抜け出しては今のようなサボタージュを繰り返してきた悪友同士なのでした。

「イブキンはいつこっちにやってきたんだい?」
空になった盃を萃香ちゃんに差し出しながら小町ちゃんは尋ねます。
「ついさっきだよ。本当に今し方ってところ。……まあ、ちょっと人間どもをからかってきた帰りだけどさ。」
私の注ぎ口を小町ちゃんに向けて、なんとなしに萃香ちゃんは答えました。
「ふぅん、それで体よく追い払われてきた帰りと?」
「違う違う、追い払われてやった帰りだよ。」
私を持っていない方の手をパタパタと振りながら、心外とばかりに反論する萃香ちゃん。
盃をニヤニヤと笑っていた小町ちゃんでしたが、不意に瞳が細められます。

「……その左手、痣になってるけどどうしたのさ?」
「ああ、これ?」
左手の掌を小町ちゃんに見えるように掲げる萃香ちゃん。
屈強な鬼だけあって出血は止まっていましたが、流石に一時も経たない間に完治とまではいきません。
「ひとりじゃんけんした名残だよ。右手のヤツが容赦なくてね、グーのくせにパーを打ち負かそうと奮闘したのさ。」
気にした風もなさそうに萃香ちゃんは答えました。
色々と語弊のある言い方ですが、嘘というほどでもありません。
「……よくわからないけど、要するに自爆したということか。まあ、そこらの妖怪、ましてや人間でイブキンに傷を負わせられるわけがないものな。相変わらずのドジっ娘で安心したよ。」
再び笑顔を浮かべて盃に口をつける小町ちゃん。
「どの辺がドジっ娘なのさ……」
不満一杯の顔で萃香ちゃんは私を口にしました。


「………………………………」

「………………………………」


しばらく無言で岩下を見つめる二人。
中空高くあったお天道様は少し視線を上げれば目視できるほど傾き、背中に纏う影は徐々に長さを増していきます。
日の光を思う存分吸収した岩山が、足元でじんわりと温かさを大気に還元していました。
吹き上げてくるような風は川辺ということもあり、少しひんやりとしています。
ゆらゆらと揺れる彼岸花は本当に燃えているかのようでした。


「相変わらずといったらさ、イブキン全く変わらないねぇ。普通、もっとさ『綺麗になったね』とか『大人びたね』といった会話が交わされるものだろうけど。」
「なんでさー。ほらっ、言ってごらんよ。『萃香ちゃん、スラリとした美人になったよね。見違えちゃったなぁ〜』って。」
唐突に破られる沈黙。
しかし、それも極々自然で心地良ささえ覚えるほどです。
「うーん……」
言葉を探しているのか顎に手を当てて思案げな小町ちゃん。
萃香ちゃんは期待に満ちた目で小町ちゃんを見つめています。

「萃香ちゃん、大きくなったよね。『半角』から『五分の二角』くらいになったなぁ〜。」

――その言葉に萃香ちゃんの表情が完璧に凍りつきます。パーフェクトフリーズです。

『半角』というのは仕官学校時代の萃香ちゃんにつけられたニックネームのことです。
『身長の半分は角でできている』を略して『半角』
言うまでもなく、萃香ちゃんにとって歓迎できない名前なのでした。

口元を引きつらせながら笑顔を浮かべた萃香ちゃんは、お返しとばかりに口を開きます。
「あら、ありがとう小町ちゃん。あなたこそスタイルが良くなったんじゃない? 胸もそれなりに成長したみたいだし。……でも、『赤胴』は相変わらずで安心しましたわ。着物がよくお似合いの体型ですものねぇ。」

――今度は小町ちゃんの気配ががらりと変わります。その余波に当てられた浮遊霊が急に活動を停止して爆ぜました。

『赤胴』というのも仕官学校時代の小町ちゃんにつけられたニックネームでした。
『赤髪の寸胴娘』を略して『赤胴』
勿論こちらも良い意味の名前ではありません。

……もっとも、このニックネームを今でも口に出来るのはこの二人だけでしょう。
誰が最初に考えたのか知りませんけれど、これら二つの名前はこの世に生れ落ちた瞬間、激昂した二人によって忌み名へと姿を転じさせられました。
あのときの出来事はとてもこの場で語り尽くせることではありません。
ただ一つ言えることは、あの出来事以降二人は『不良』とか『問題児』ではなくて、『不発弾』という目で見られることになったということだけです。


「………………………………」

「………………………………」


売り言葉に買い言葉、二人は無言で見つめ合います。
再び訪れる沈黙。
ただし、空気は張り詰め、風さえも二人をすり抜けるように吹いていました。

自然な動作で小町ちゃんは死神の鎌を構えます。
それに遅れることなく萃香ちゃんもファイティングポーズをとりました。
空気すらもこの緊張感に堪えられないのか、酸素が薄くなっていくような錯覚を感じるほどです。
――それを打ち破るように口を開いたのは今度も小町ちゃんでした。

「卍解しちゃうよ? 卍解。」
「いっとくけど、私はヴァストローデ級なんかよりも遥かに強いよ?」

そんな小町ちゃんの宣戦布告を大胆不敵で返す萃香ちゃん。
二人の言葉の内容は、仕官学校時代に二人が愛読していた三途の川の漂流物からものでした。


「………………………………」

「…………っく、あーっはははは!」


流石にもう、こそばゆい緊張感が我慢できなかったのか大笑いして臨戦態勢を解く二人。
「ねえねえ、ちょっと死神の鎌を見せてよ。」
「うんっ? そういえばまだ見せてなかったっけ?」
そういって気安く鎌を差し出す小町ちゃん。
本来、死神の鎌とは一人前になった時に授けられるもので、死神の誇りでもあり分身でもあります。
萃香ちゃんは鎌を受け取ると代わりに私を小町ちゃんの手に委ねて、まじまじと見つめました。

「刃がぐにゃぐにゃで稲穂だって切れそうにないね。でも、まあ、こまっちゃんらしいといえばこまっちゃんらしいかな?」
刃に指を当てて萃香ちゃんはそのように批評します。
死神の鎌の最大の特徴は主の心に従って形を変えることにあります。
そこが死神の分身とされる所以でもあり、半端な志の持ち主には扱えない一人前の証でもあるのでした。

「そうそう、この鎌は全くのなまくらだよ。」
鎌を受け取りながら小町ちゃんは胸を張って答えます。
切れない刃物というのは道具の私からいわせて貰うと致命的な気もするのですが、小町ちゃんの表情には臆面の影すらありません。
「士官学校のときにも話したけど、あたいがやりたかったのは三途の川渡しであって死神じゃないんだよ。あくまでも三途の川渡しになるには死神になる必要があったから死神をやっているだけなんだから。」
切れない刃を肩に当てて、小町ちゃんは飄々とした様子で断言します。

「この鎌は切れない。だけど、お客さんの首根っこに引っ掛けて寄せ集めるのには役に立つのさ。」
引き寄せて刈るモノではなく、単に引き寄せるだけのモノ。
それは既に『鎌』という呼び名には相応しくありませんでしたが、用途を持った立派な道具でした。

「イブキンはどうなのさ? ここにきたってことはそういうことなんだろう?」
「うん……」
歯切れ悪く、萃香ちゃんは頷きます。
無意識に小町ちゃんから逸らされた視線は左手の痣に集中されていました。

小町ちゃんが三途の川の水先案内人を志していたように、萃香ちゃんにもなりたいものがあります。
それは祟り神――なんて大層なものではありませんでしたが……。

いつの頃か、屋上でサボタージュしていた二人がお約束のシチュエーションとばかりに戯れで語った、夢の話――
ただただ山奥でひっそりと暮らし、たまに麓の里に下りては悪さをし、お返しに節分には追い払われ、小正月には子供を泣かし、気が向いたら農耕に邪魔な大岩や木の根を取り除く。
恐ろしいけれど憎めない……そんな関係を人間と築く。
――それが萃香ちゃんが小町ちゃんに対して口にした言葉でした。

けれども、そのことを咎めるように青く腫れた左手が萃香ちゃんを目の前に鎮座しているのでした……。


「……さてと、あたいもそろそろ仕事に戻ろうかな。いい加減にしないと四季様が探しにやってくるかもしれないし。」
手の痣を凝視したまま動かない萃香ちゃんを気遣わしげに見つめたあと、何事もなかったかのように小町ちゃんは呟きます。
「四季様って……あの鬼教官の!?」
その強烈なインパクトのある名前に、物思いに耽っていた萃香ちゃんは弾かれるように顔を上げました。
「そうそう、あの四季様。何の因果かここの閻魔様にしてあたい直属の上司だよ。」
「さっさと仕事に戻りなよ! このサボタージュの泰斗! 本当に探しに来られたら洒落にならないじゃないか!?」
萃香ちゃんは血の気の引いた顔をしながら、何かを払うように頭をブンブンと振ります。

四季様は前述の通り仕官学校時代の教官でした。
獄卒と死神の養成ですから、指導教官には当然閻魔様も含まれています。
教官の職は各閻魔様の持ち回りが決まっているらしいのですが、萃香ちゃんと小町ちゃんの頃の教官は四季様だったのです。
萃香ちゃんが過去に「誇り高い鬼が接頭語に『鬼』を付けて呼ぶ相手は、鬼よりも遥かに鬼なんだよ……。」と蒼い顔をして洩らしていたことが鮮明に思い出されます。

「はいはい、友達甲斐のない鬼っ娘だこと。それじゃあ、まだここに居るんだった今度は仕事終わりにでも一杯やろうか? 甘酒だけじゃあ物足りないからね。」
最後にそれだけを言い残すと、小町ちゃんはフヨフヨといかにも気怠そうに飛び去っていきました。





「……世間が狭いにも程があるよ。」
萃香ちゃんは小町ちゃんの背中を見送りながら呆れたように呟くと、私を口に含みます。
そして、遊山もお開きとばかりに立ち上がりました。

「紫、いるんでしょ? さっさと出てきなさいよ。」
特定の場所に向かって声を掛けたわけじゃありません。
彼女はどこにでも居るし、どこにも居なかったことにもできるのですから……。
「は〜い、呼ばれて飛び出てぇ〜」
突然目の前の空間が割れると、そこから上半身だけ乗り出した紫さんが出現しました。
「それで、何の用かしら萃香?」
両手を重ねて顎の下において、紫さんはワザとらしく首を傾げてみせます。
「紫が私たちをここに無理矢理連れてきたことは……過ぎたことだし、まあ、いいよ。だから、そろそろ帰してくれないかな?」
紫さんが私たちをここに連れ出した犯人なのか、それは未だにわかりません。
でも、否定しなかったことも事実なのでした。
「あら、貴方は鬼の国に帰りたいの? ここが気に入ってくれると思ったのに〜。」
額に手を当てて天を仰ぎ見るような動作をする紫さん。
しかし、口元は猫のように緩んでいました。

「気に入るわけがないじゃないか! 嘘吐きな人間が住むようなところに鬼が住める筈が……ない。」
苦々しい口調で吐き捨てるように萃香ちゃんはいいます。
嘘吐きが嫌いだといった萃香ちゃん自らが吐いてしまった嘘。
自己嫌悪のためにギリギリと歯噛みする音がやけに響いてきこえました。

「ほらほら、わかりやすい嘘なんか吐かないの。」
スキマから全身を現して着地すると、萃香ちゃんと視線を合わせるように屈み込みます。
「人間は鬼を忘れてしまったのだもの。その逆があって然るべきよねぇ〜。」
口調は自体は胡散臭いものでしたが、声色からは萃香ちゃんに対する気遣いが感じられました。
「!!………なんで……そのことを!?」
しかし、萃香ちゃんにとってはそんなこと紫さんの発言の内容に比べたら些細なことなのでしょう。
驚愕の表情を浮かべて面をあげる萃香ちゃん。無意識に身構えていました。
「いやねぇ〜、ちょっと観察していればすぐに察しがつくわよ。」
井戸端会議をするおば……お姉さんのような仕草でパタパタと手を振る紫さん。
「貴方には柊が効いていなかった。それならば他の事象だってそうじゃないかと仮定するのは科学の基本よ。」
科学の基本はよくわかりませんでしたが、紫さんほど聡明な妖怪なら気がついていても不思議はありません。

……萃香ちゃんは鬼です。
でも、人間を忘れてしまった――鬼。
古より交わされていた鬼と人間の約束事、鬼の弱点が通じない鬼なのです。
目を突き刺されたような痛みを覚える筈の柊も、ただの葉っぱであり、
咽かえるほどひどい悪臭を放つ筈の鰯も、他の魚と変わりなく、
ぶつけられたら焼け付くような痛みが走る筈の豆も、酒の肴に過ぎません。

弱点のない完全無欠の鬼。
でも、それでは人間にとってもう鬼ではないのです。
――そう、それは単なる化物。

演技をすれば大抵のことは誤魔化せるでしょう。
しかし、あの少女のような事態が再び起きたとき、果たして萃香ちゃんは拳を止めることができるのでしょうか?
柊が目の前にあれば、激痛で反射的に目を覆う……それが普通の鬼の行動です。
でも、萃香ちゃんの場合、青く腫れた左掌が雄弁にその事実を示していました……。


「……やっぱり、帰るよ。私はここに居られない。」
吹っ切れたような笑顔を浮かべて萃香ちゃんは紫さんに答えます。
それはそれは精一杯の笑顔で、私には「……へたくそ」と呟いたあのときの表情と重なって見えました。

「ねぇ萃香。貴方は勘違いしているわ。」
その萃香ちゃんの行動をせせら笑うように紫さんは断言します。
「何を?」
流石にむっとしたのか、ぶっきらぼうに問い返す萃香ちゃん。
紫さんにはその反応すら可笑しいのか、口元に手を当ててニマニマと相変わらずの笑みを浮べていました。
「貴方があの子供たちに鬼の恐ろしさを思い出させたように、貴方も人間の恐ろしさを思い出せばいいの。……簡単なことでしょう?」
「理論は間違ってないと思うけれど……、ハンデなしの鬼と対等にやり合える人間が居るとは思えないね。紫も焼きが回ったの?」
不機嫌なのは変わらず、後付の一言にも険があります。
ですが、紫さんは心当たりでもあるのか、余裕の笑みを湛えたまま萃香ちゃんの言葉を受け流していました。
「それがねぇ〜、世の中には妖怪よりも化物じみた人間というのが居るのよ〜 私だってやられちゃうかもしれないほどの……ね?」
紫さんの言葉は『春の訪れない異変』が起こる以前のものでした。
……思い返してみると、そのころから紫さんは既に色々と予期していたのかもしれません。

「紫よりも強い人間? そんなのが居るとしたら是非ともお目に掛かってみたいものだねぇ。きっと私よりも稀有な存在だよ。」
今度は萃香ちゃんが笑いながら、揶揄するように言い切ります。
「……でもまあ、嘘吐きな紫の道楽にもう少し付き合ってあげることにしましょうか。剛健なる鬼は嘘に踊らされてあげるくらいの気概がなくちゃいけないからね。」
言葉こそは意地の悪いものですが、その表情は実に楽しげでした。

ゆっくりと傾き始めた日は、足元に広がる赤絨毯の色彩を徐々にですが奪っていきます。
岩山は遜色なく煌々と照り続けていました。
明暗のコントラストが確かになっていく中、今日の見頃が終わったとばかりに萃香ちゃんは紫さんの顔だけを見つめます。

次第に下半身から霧と化して溶けていく萃香ちゃん。
上半身だけとなった萃香ちゃんは、表情を改めて口を開きました。
「我は群隊。密にして疎。ならば今しばらく観覧者となって貴方の舞台を見届けるとしましょうか。」
そう、厳かに宣言すると私たちは風を纏って幻想郷へと姿を消しました。

――こうして、幻想郷に連れてこられた鬼は自らの意志で逗留することを決めたのでした。





◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆     ◆





話が終わる頃には日は殆ど山の陰に沈み、燃えるような残滓が天と地の境目を縁取っていた。
「なるほど……それで、君の主は思い出すことができたのかな?」
一足先に夜の帳が下りた店内で、僕は彼女に問い掛ける。
「さあ? どうなんでしょう。……でも――」
彼女の答えが返ってくる前に、店の扉が開かれ小さい影がひとつ姿を現した。

「ごめんごめん、遅れちゃったよ。道中で白黒魔法使いが物凄い勢いで突っ掛かってきてさ『これは薬の開発に協力してくれた永琳の分! これは原料を提供してくれたメディスンの分! これは被検体となって三日昏睡したウドンゲの分! これは当日効き目を試すために犠牲となったアリスの分! これはクリリンの分! ……そして、これは乙女の純情を踏みにじられた私の分だ!!』なんて一言毎にマスタースパーク撃ってくるのよ。勿論、ぶっ飛ばしてきたけれど、……結局クリリンって誰だったのかね?」

「――楽しそうだから、いいじゃないですか。」
それはとても簡潔な言葉。
しかし、彼女の気持ちが何よりも滲み出ているあたたかい一言だった。



「あんたが店主さんかい? この度は私の瓢箪を保護してくれたみたいで助かったよ。」
屈託なく笑う鬼の娘はぺこりと軽く一礼すると、テーブルの上に置かれていた瓢箪に手を伸ばす。
僕はそれよりも少しだけ早く瓢箪を掴み挙げた。

「「……えっ?」」

その声は彼女と鬼の娘の両方から洩れたものだった。
「ちょっと、どういうことさ? ……まさか、あんたまでこの瓢箪が欲しくなったというわけじゃないだろうねぇ?」
少しドスを効かせながら、僕の顔をまじまじと見つめてくる。
その表情には余裕がはっきりと見て取れて、その気になれば僕の手から奪い返すのは容易いといわんばかりだった。
「いいや、僕は知り合いの女の子とは違ってそこまで厚かましい真似はしないよ。……でも、商人だからね、無償で返すわけにも行かないんだ。」
「信用問題ということだね?」
僕は彼女の言葉に無言で首肯した。
依頼には当然報酬が必要だ。
ここは慈善事業のお店じゃないし、これを機に霊夢に追われた妖怪の駆け込み寺となっても困る。
……それに僕としても魔理沙を騙す理由があった方が後々言い訳しやすいのだった。

「それで、店主さんは私に何を望むんだい?」
言葉から険は消え、どことなく楽しそうな色を浮かべながら彼女は尋ねる。
僕は最初から決めていたので、迷うことなく口を開いた。
「今夜もう一度、月を砕いて欲しいかな。僕は先月のやつを見逃したんだよ。」
その注文は少し意外だったのか、鬼の娘は目を大きく開いてしばしの間ポカンとしていた。

「…………なるほど、それは結構な対価だね。」
何処に根拠があるのか、彼女は深々と頷きながらそんなことを呟く。
やはり、月を砕くのは鬼であっても相当の重労働なのだろうか?
「あのあと霊夢にもの凄く怒られたんだよ。たんこぶもなかなか消えなかったし……。」
そこを叩かれたのか、角と角の間を擦りながら彼女はブツブツと零していた。
鬼にとっては月をも砕く一撃よりも、巫女のゲンコツの方が大問題らしい。

「まあ、いいや。それくらいの対価で白黒の魔手からこの子を守れたんだからお安いご用だよ。」
そういって再び手を伸ばす鬼の娘。
「毎度あり。」
僕も今度は素直に手渡した。
「それで、今夜で構わないんだね?」
瓢箪の感触を楽しむように弄んだ後、彼女は問いかけてくる。
「君たちが出たら、お店を閉めて早速月見酒と洒落こむよ。」
返事の代わりに僕はそう答えた。

山際の陽は今にも白煙を上げてしまいそうなほど弱々しく瞬いていた。
月ならば日の入りと同時に地平から頭だけを既に覗かせている頃だろう。
まだ早いが、月がないというわけではない。

「それじゃあ、私も今夜は月見酒にしようかな? お互いに盃を交わせないのは残念だけどね。」
邪気なく笑うと、彼女は戸口の方へと歩いていく。
霧になれば良いのだろうが、そうしないのは彼女のせめてもの礼儀なのだろう。
「……そうだ、最後に訊いても良いかな?」
「うん? なんだい?」
僕の声に振り向く鬼の娘。
だけど僕の視線の先は彼女ではなく、腰に下げられた娘の方だった。
「君の名前は『瓢箪』なんだね?」
僕の質問の相手がわかったのだろう、鬼の娘も視線を下に移していた。

「……ええ、そうです。私は『瓢箪』です。」
静かに、だがはっきりと彼女はそう答える。

僕は口元に笑みを湛えて改めて二人を見つめた。
「今日は話ができて楽しいひと時だったよ。ありがとう『ひょうタン』、それから『鬼』の娘さん。今後とも御贔屓に。」
「……なんだろう? いま、もの凄い悪寒が走りましたよ?」
「あっはっは、また気が向いたら寄らせてもらうよ。」
そう、それぞれが言葉を残して二人は店をあとにした。



「……さて」
扉が閉められる音が耳から消えたのを合図に、僕は立ち上がり暖簾を畳んで戸口に鍵をかける。
これで店仕舞いの支度は完了。
……我ながら実に簡単だと思う。
しかしながら、物足りないからといって暗がりの中店内清掃を始めるのも効率的ではないし、それに熱中するあまり今夜の一大イベントを見逃すわけにもいかない。
彼女は約束を必ず守ってくれるだろうが、時間までは指定しなかったのだから……。

僕はそんなことを並べ立てながら戸棚から瓢箪を取り出す。
これは酒が入っただけの本当になんの変哲もない瓢箪。
彼女のように喋れるわけでも神掛かっているわけでもない。
だが、これも彼女も瓢箪なのだ。
誰もがその特殊性にばかり目を奪われがちになる。

酒を生み出すが故に
             宝具に崇められ
酒を生み出すが故に
             用途を忘れられた

『瓢箪』でありながら『瓢箪』であることを欲する少女と――

人を知らないが故に
             人に興味を持ち
人を知らないが故に
             人に近づけない

『鬼』でありながら『鬼』であることを望まずにはいられなかった少女――

彼女たちはお互いに惹き合ったのかもしれない。
特殊であるが故に、平凡を求めたのだろう。
それこそが、彼女が名を持たない本当の理由。
否、『瓢箪』という名を持った理由。



僕は窓を開けて窓枠にもたれるように座る。
宵風はひんやりと冷たいが、我慢できないほどではない。

……さて、今日はどれくらい盛大な花火が見れるのだろうか?

僕は瓢箪から盃にお酒を注ぐと、空にある月を探した。
今夜の満月は自分の運命を悟っているのだろうか?
やけにゆっくりと、おっかなびっくり昇っているように感じられた。

長々とお付き合いありがとうございました。
この話は萃夢想で萃香が結局人を攫わなかったということから、なんとなく思い描いていたテーマでした。
かなり曲解が含まれているとは思いますが、その可能性もあるなぁと思っていただければ書いた甲斐があるというものです。

お題目の「酒」=「瓢箪」として、今回は趣向を変えてお酒に語らせてみました。
オリキャラ? 否、アイコンが瓢箪であるということはこの瓢箪も立派なキャラクターということで……
まあ、これも可能性のひとつとして見逃してもらえれば幸いです。
葉爪
http://www2.accsnet.ne.jp/~kohaze/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2006/03/24 00:36:37
更新日時:
2006/03/26 15:36:37
評価:
25/26
POINT:
162
Rate:
1.44
1. 9 ■2006/03/25 01:32:35
忘れてしまってもなお律儀な鬼に乾杯。
2. 7 月影蓮哉 ■2006/03/25 14:38:23
途中の戦闘一連は蛇足かなぁ…と思いましたが、まあ全体的に楽しめてもらいました。
3. 6 爪影 ■2006/03/26 18:54:03
静かで良い作品なので、所々のパロ文に少し違和感を覚えました。
4. 7 名前はありません。 ■2006/03/26 20:43:54
柊の演技のくだりが萃香らしいと思いました
面白かったです
5. 7 おやつ ■2006/03/26 21:25:58
瓢箪が喋った!?
某南国少年で石が喋った時に近いインパクトが在りましたw
正直萃香は苦手なんですが、この作品で語られた彼女の夢はなんというか、非常に好きな鬼の姿でした……
いつかきっと叶えられる日が来ますよう。
それと、イブキン&こまっちゃんが妙にツボでしたw
6. 6 水酉 ■2006/03/27 20:22:39
やはり似たもの同士は惹かれ合うもので。

あと「瓢箪ハァハァ」
7. 8 papa ■2006/03/30 19:00:43
人称変化がうまいなぁ。キャラも生き生きしているし、語りも上手い。
あと『ひょうタン』テラモエス。
8. 9 つくし ■2006/04/01 13:40:54
ちょっとだけ不誠実な鬼と、瓢箪。これらからこれだけのドラマが生まれるとは。感服いたしました。ごちそうさまです。
9. 5 落雁 ■2006/04/01 14:21:32
目の付け所が違うと、それだけで面白くなりますよね。しかも奇をてらったわけではなく、きっちりと物語を構築している。なかなか面白かったです。
10. 8 かけなん ■2006/04/02 18:56:53
いいお話でした。

素直に入り込めて、楽しめた。
ひょうタンと「イブキン!!」「こまっちゃん!?」を除けば僕も同じような考えを持ってたからでしょうかw
11. 5 ■2006/04/05 15:31:35
でもやっぱりオリキャラ。でもナイス瓢箪。
12. 7 凪羅 ■2006/04/05 19:30:46
萃香は鬼のプライドというか、そういうものに固執してそうですしねぇ。
13. 7 Fimeria ■2006/04/05 23:18:56
ひょうタンって……香霖……

伝聞調っていうんでしたっけ?…違う?良く知らないですorz
語り口調で進むひょうタンの思い出話に違和感を感じることなく読み進めることが出来て、とても巧いと思いました。

オリジナル設定の人間を忘れてしまった鬼というのも、頷かせる程に巧く出来ていると思います
それに苦しむ萃香という表現もよく表れています。
14. 6 藤村琉 ■2006/04/07 01:38:29
 萃夢想のプレリュード、という位置付けに足るお話でした。
 でも、なんで瓢箪喋らせたんだろうか。
 喋らせたかった、と言われるとそれまでなのですけど、それがあまり効果的に働いていなかったから気になりました。瓢箪の心理を突いたのは上手いのですが、かといって喋らせるのも安易なキャラ付けだなあと思ってしまいました。瓢箪であることを望まずにいられなかった――というのも、こじ付けではないにしろ唐突すぎるように感じましたし。
15. 8 床間たろひ ■2006/04/11 20:43:10
いっやー面白かったw
鬼と人の関係、約束事を憶えていた人間と忘れてしまった事を恥じる鬼。
瓢箪も香霖も小町も、みなそれぞれに理を持って生きているのが素敵。
獄卒云々の件はちょっとどうかなーって気はしたけど、面白かったから無問題w
うん、ご馳走さまでしたっ!
16. 6 MIM.E ■2006/04/11 22:13:45
ひょうタンによって語られる萃香という描かれ方が面白いと思いました。
悪役をしている萃香、自分のこぶしを受け止める萃香、対価を求める香霖など
人物の描き方が上手いと思いました。
とても良い雰囲気でしたが、所々にあるパロネタがその分浮いて違和感を感じました。
17. 1 木村圭 ■2006/04/12 02:16:15
ブリーチが酷く浮いているので減点。瓢箪に語らせるというアイディアは良かったと思います。
18. 9 NONOKOSU ■2006/04/12 03:22:26
瓢箪の話から萃香への繋げ方が凄い!
一粒で二度美味しい、良いSSでした。
あとひょうタンが可愛いと、素で思える私は末期に至ってます、きっと。
19. 8 とら ■2006/04/12 06:39:52
鬼ってのは本当に難儀な生き物だな。
それともただ不器用なだけなのか。
20. 4 反魂 ■2006/04/12 07:33:13
私もかつて同じテーマで書いたことがあるのですが、私のSSとは全く違う展開で、大変楽しんで読ませて頂きました。
と言いつつ、「鬼らしくない鬼」という点では、私の考えとも似ているのかなあ、と思ったり。
同じテーマに色んなお話が出来上がるから、二次創作ってのは楽しいです。
21. 7 K.M ■2006/04/12 21:56:19
そういえば、鬼も死神も閻魔とは関係深い存在なんだなと再認識

魔理沙よ、その逆切れは流石にどうかと…w
22. 6 74 ■2006/04/12 21:59:08
いい感じでした。
他にも気に入ったのがあったので6点。ごめん。
23. 9 椒良徳 ■2006/04/12 23:27:59
御免なさい。時間がないようなので、コメントはまた後日書かせていただきます。
24. フリーレス 匿名評価
25. 5 HsvsRsvsesv ■2010/12/24 00:52:54
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26. 2 cqtstb ■2011/10/07 14:59:07
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