そして陽の下を歩けるように

作品集: 最新 投稿日時: 2006/03/24 09:28:08 更新日時: 2006/03/27 00:28:08 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00
 彼方より、末に幸あれ。

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 星が瞬く。月は静かに地平へと傾きつつあった。
 深まる闇の向こうに、何者かの息遣いが増していく。実際に誰かがいるわけではない――夜の帳は、妖の気配をひたすらに濃く凝らすものだ。
 幻想郷の夜は、あらゆる不条理を内に秘めているのだろう。幻想であることを許された夜。
 緩やかな呼気と共に、意識して自然体を保った。昼間は何かとサボりがちで、だらだらと昼寝癖までついてしまったが、夜は身も心も妖気に震える。
 紅魔館の門の外。月影がささやかな濃淡を映し出す草原に、館の門番・紅美鈴は一人佇んでいた。
 べつだん戦闘に備えているわけではない。昼のうちは平和そのものの心地でごろりと寝転がるように、夜間のどこか張り詰めた空気の固さも、彼女にとって日常の一部であり平和の証であった。
 心地よく身体全体に力を張り巡らせたまま、美鈴は遠い月を見上げる。今日も侵入者は来ないだろう。彼女の持つ優れた感覚が、このまま明日を迎えられることを教えてくれた。
 いつまでも平和なままがいい。誰もが幸せな毎日というのは、本当に素晴らしいことだ。心からそう思う。

 ふと、美鈴は誰かが近づいてくる気配を感じた。背後、館の中から……
 肩越しに振り返ると、意外な人物が歩いてくるところだった。手にはなにやら、ランチボックスまで提げている。
「咲夜さん」
 紅魔館のメイド長だ。常に冷静で何事もそつなくこなす、尊敬すべき人間。
 いつもなら、この時間の彼女は館内でこまごまとした事務の仕事などを片付けているはずである。いつもはそれが終わったら寝てしまうらしいが。
「中国、門番ご苦労様ね」
「いえ、咲夜さんに比べたら苦労なんて……珍しいですね、もう夜も遅いのに」
 咲夜は肩をすくめると、手にしたランチボックスを掲げて、いたずらっぽく微笑した。
「今日は調子がよくて、もう仕事も終わったから。たまには一杯付き合わない?」
 滑らかな動きで彼女が左腕を上げると、いつの間にか指の間にロックグラスが二つ出現していた。
 美鈴は思わず困った表情と共に、両手のひらで控えめな断りを表す。
「い、いやでも私、勤務中なんですけれど……」
「固いこと言わないの。アルコールが入ったくらいで動けなくなったりしないでしょ、あなたは」
「そりゃ、まぁ……」
 美鈴は特に肉体的に秀でた妖怪だ。それに、気を使って酒精を抑える技も身に着けている。
 それにしても珍しい……わざわざ彼女が門の外まで酒を勧めに来ることなど、今までなかったのだが。
 ――まぁ、いいか。美鈴はあっさりと受け入れた。
 二人で飲む機会なんてほとんどないし、星の下で飲み明かすのも、乙なものだろう。
「……ん。では、ここは咲夜さんのお言葉に甘えてご一緒させてもらいます」
「そうこなくっちゃ」
 咲夜はにっこり微笑んだ。

 美鈴と二人で門柱の根元辺りに移動し、小ぶりの布を二枚敷く。
 咲夜がワラ編みのランチボックスを開けると、中には琥珀色の酒とロックアイスが入っていた。
 二人共にオンザロックでグラスに満たし、夜空の星星を映すように掲げてお互いの縁をつきあわせる。カツンと軽い音が夜気に響いて心地よい。
 星屑が全天にちりばめられた、安らかな闇のさざめきの下。美鈴はグラスに口をつけると、舌の上で痺れを転がしながら一口味わった。焼けるような喉越しが爽快な心地を誘い、夜の美しい幻想郷が心もまた潤す。

 咲夜も同じくグラスを傾けていたが――その顔はどこか憂いを秘めているようでもあり、いつもなら見ることのない深い影が伏した目を覆っていた。
「……何かあったんですか、お嬢様と?」
「ふふ、いきなり失礼なこと言ってくれちゃって」
 咲夜はなんともいえない目つきでグラスの氷をしばらく見つめていたが、やがて一口含むと小さく苦笑した。
「ほら、宴会って波があるじゃない。ある時期はみんな毎日のように騒いでいても、熱が冷めると誰も人を集める気がしなくなって、静かに独りで酒を飲むようになる。きっと他の連中も、今頃は寂しい酒を楽しんでいるんでしょうね」
「……そうですね」
 それは美鈴を誘った理由の一面ではあるのだろうが、咲夜の物憂げな口調はそれ以外の意味をこそ示しているように聞こえた。
 しばらく二人、微妙な沈黙と距離感をはさんだまま押し黙る。数歩先の地面を眺める咲夜を意識しつつ、美鈴は星を数えながら彼女ほどの人物に悩みを与えるような原因を考えていた。

 メイド長が寂しげな顔で酒を飲む理由、か。門番があれこれ考えても分からないかもしれない。
 美鈴が咲夜の立場ならどうだろう。
 ……少し考えただけでものすごい数の心労が襲い掛かってくるのを感じた。彼女はいつも落ち着き払っているが、この多くの苦難から逃れることは出来ないはずだ。そのうちのどれか、あるいは全てが、湖底の泥のように少しずつ溜まっていくのだろう。
 咲夜に影を落としている要因は、そういった日常に根ざした深い何かなのだと思う。
 星座を見上げながら、美鈴は胸中で星星に囁いた。彼女が背負っているもののいくつかを自分が肩代わりできはしないか――

 やがて、咲夜はグラスに語りかけるようにポツリと呟いた。
「……紅魔館は、メイド達も癖が強いのが多いから。職場を預かる人間としては、色々と思うところ――というか、難しいところもあるのよね」
 一拍置き、彼女は残った酒を半分ほど空ける。
「なんだかんだいって、基本的に気ままな子達だし。ちゃんとそれぞれに的確な仕事を与えないと、うまく動いてくれないのよ……きちんとかみ合えばいいんだけど、いつも万全の指示を出せるってわけじゃないのよね」
 美鈴はグラスを膝に載せ、ぽつぽつと語る咲夜の横顔を見ていた。
 苦悩というよりは、もう少し踏み込んだ感情が窺える。辛いことは仕方ないことだと受け入れているのだろう。彼女の瞳に浮かぶのは、重圧に耐える疲れた心だった。
 ちびちびとグラスを傾けながら、続ける。
「メイド達の力を正しく見抜いて的確に用いなければならない――まぁ、もちろん自分の力についても、同じことだけど。うまくいかないものよ……」
 すでに氷だけになってしまった空のグラスをくるくる回し、咲夜は悲しそうに微笑んだ。
 美鈴は一度咲夜から視線を外すと、うつむいた姿勢で手元だけを見つめた。
 彼女の知る限り、館で問題が起こったという話は聞かない。おそらく咲夜が気にしているのは、咲夜本人の問題なのだろう。有能であるがために、自分に対する評価の基準が他人とは違う……
「参ったわね、完全に愚痴になっちゃったわ。そんなつもりじゃなかったんだけど……あなたが相手だと、なぜか口が軽くなっちゃうわね」
「あはは……私でよければ、いつでも聞きますよ」
 何かがあったのではないだろう。それは分かる。
 なんとなく酒に誘って、なんとなく愚痴をこぼした。おそらくそうだろうし、そのほうがいい。

 伝えたい言葉が、いくつか取り留めのない感情の奔流となって胸のうちを流れていく。
 彼女の気持ちが分かるなどとは言えない。だが彼女とは違う、美鈴だからこそ、咲夜に分かってほしい言葉がいくつもあった。
 その中から、伝えるべき言葉を取り出す。
 美鈴はぐいっと一気にグラスの残りをあおると、目を細めて咲夜に向き直った。
「咲夜さんにはかなわないなぁと思いますよ」
 咲夜が口にしたような、物事を正しく捉え正しく用いる――力の制御というものは、元来人間も妖怪も別なく誰もが立ち向かわなければいけない試練の一つである。
 だが失敗の上にしか成り立ちえないその命題を前に、心のあり方は常に安易なものだ。
「きっとそれは百発百中確実にうまくいくっていうことじゃないんですよ……私なら、ダメになったときにあきらめちゃいそうなものですけれど、咲夜さんはあきらめてないじゃないですか」
 他の者達があきらめた代わりに、彼女は戦うのだろう。
 私も頑張らなくちゃなぁ――美鈴はひとりごちた。
「部下さんたちがうまくいかないことがあったら、『自分でやってみせろ!』とか何とか怒鳴ってナイフの二、三発でも叩き込んでやればいいんですよ」
「……過激な意見ねぇ。でも、悪くないかもね」
 咲夜はクスリと笑ってボトルの栓を抜いた。トクトクトクと、再び琥珀色が二人のグラスを満たす。美鈴は礼を言って咲夜の笑顔を眺めた。
 さっきまでの愁眉に比べたら、笑っているほうがずっと満天の星空に似合っている。
 美鈴は一口、二口と喉に流すと、傍らの咲夜がグラスに口をつける様を見つめた。
 ……相談事に、うまく答えられたかは分からない。少しでも彼女の救いになれたらと切に願う。
 また彼女がここに酒を持ってくる日に備え、日々精進を怠らない生活を心がけよう。

「いや、なんかここまで吹っ切れるとは思ってなかったわ。あなたには感謝しないとね」
「私はいつも咲夜さんはスゴイ人だなぁって思っていることを、そのまま伝えただけですよ。私に出来ることは、元気を分けてあげるくらいです」
「それが一番必要になるときって、結構多いのよ」
 美鈴はグラスを干しながら、穏やかに遠くを見やる咲夜の目線を追いかけた。いずれその向こうから、朝日が昇ってくるだろう。
 咲夜はくいっと残りの酒を空けると、にっこり微笑んで美鈴に顔を向ける。
「楽しかったわ。また来るかも、ね」
「業務に差しさわりのない範囲で、いつでもお付き合いします」
 二人そろって立ち上がる。咲夜がランチボックスを閉じると、敷いていた布から美鈴が握っていたはずのグラスまで、魔術じみた鮮やかさで回収されていた。
 それを手に、ウィンクと片手の挨拶だけ残して咲夜は館へ戻っていった。美鈴も笑顔で手を振り返す。
 そして咲夜の姿が見えなくなると、門番は再び紅魔館の外へ向き直った。
 酒の残り香は、やがて来る夜明けと共に払拭されるだろう。いつかまた、彼女が来るときまで。

   ■ ● ■

 日差しうららかな昼さがり。
 美鈴は草原に腰掛け、うつらうつらと舟をこいでいた。
 ゆるい表情のまま、身体が右、左と揺れてはカクッと止まって立て直す。
 その辺一帯をのんきなオーラで支配している彼女のそばには、自然と鳥たちが集まっていた。さえずりを響かせ、彼女の頭や肩に遠慮なく乗っかっている。
 コックリ……コックリ……
「眠い……」
 あまりにも心地よすぎる陽光やそよ風がいけないのだ。眠い、眠すぎる……

 ピクッ。
 と、不意に美鈴の動きが止まった。若干かしいだ姿勢で一拍固まる。
 やがて美鈴はおもむろに立ち上がった。彼女の上に止まっていた鳥たちがピヨピヨと鳴きながらどこかへ去っていく。
 どことなくうんざりした倦怠感を漂わせつつ、彼女は門の正面に移動して遠方を見やった。視線の先から、空を裂くように一筋の軌跡が紅魔館に突っ込んでくる。
 美鈴は飛び上がると、星を撒き散らしながら突進してくるホウキの前に回った。
 怒鳴る。
「なんかもー、いつもいつも芸もひねりもなくひたすらパワーでぶち抜いてくる他にスマートなやり方はないんですか、魔理沙さん!」
「聞こえないぜー」
 魔理沙は素早く軌道を変え、そのまま二人は弾幕戦に突入した。
 早速美鈴は牽制の七色弾を展開する。が、まだ戦いも序盤のうちからすでに魔理沙はミニ八卦炉を構えると、
「悪いな、今日の私は割れ物注意なんだ」
 容赦なく最大威力でマスタースパークを撃ち放った。
 無色の魔力が激流のごとき威力でなだれ込んでくる。避ける暇もなく、あっという間にもみくちゃにされた美鈴は、余波を食らって半壊した門の残骸と共に煙を上げて墜落していった。
 悲鳴さえなかった。



「あーもぅ……」
 ズタボロになった状態で意識を取り戻す。見上げると、もう慣れたことなのか門番隊が手際よく損壊部分の修復をしているところだった。
 ところどころ焦げた服の裾をはたきながら、彼女は顔をしかめて立ち上がる。手ひどくやられたが頑丈さがとりえなので身体は問題ない。服も放っておけば数時間で元に戻るだろう。そういう作りだ。
 軽く伸びをして体をほぐすと、美鈴はしばらく草のなびく原っぱで風を浴びていた。いつものことだが、あの魔女が相手だと分が悪い。実力差で開きがあるし、何より館の有力者達が彼女を客分として容認する傾向があるので、お咎めもないが支援もない。
 とりあえず美鈴が責任をかぶっておけば丸く収まる……のであった。
 苦い顔で修繕班の働きを見やる。彼女らの本来の仕事は警備であるというのに、いつの間にか大工道具を扱う熟練した手つきが板についてきた。複数のチームに分かれ、それぞれが連携を取りつつ効率的に作業を進めている。動きには経験に裏打ちされた合理的迅速さが見て取れた。
「このごろは壊れても誰も文句言わないし……それどころか持ち回りで当番制にまでしちゃってるもんなぁ」
 敗北の積み重ねが、明日の大工職人をはぐくんでいるようだ。いずれ門番隊から施設要員が生まれるかもしれない。
 足元の草を蹴って紅魔館に背中を向ける。とりあえず無目的に付近をぶらつくことにした。門の近くに留まっているのはいたたまれない。

 金槌の音もどこかぼやけて聞こえてくるような、そんな距離まで離れ、美鈴は手ごろな大きさの岩に腰掛けた。
 一眠りしてサボってしまおうかなぁ……
 そんなことを考えていると、頭上から声が聞こえた。
「おー、こんなところにいたぜ。いいのか、門番が?」
 意外といえば意外な人物。
 美鈴は振り返らずに手で追い払う仕草を返した。
「もう帰るんですか? ……用がないのなら突撃してこないでくださいよね」
「用はあったんだが、あっけなく潰れちまったからな。代わりに中国に付き合ってもらおうっていうことさ」
「ん……?」
 振り仰ぐと、魔理沙がホウキからジャンプして飛び降りるところだった。華麗に着地を決める彼女の右腕には、風呂敷包みが抱えられている。
 不審げな美鈴の前でフンフンと上機嫌に風呂敷を解く魔理沙。中から出てきたのは、一升瓶とぐい飲みだった。
「……なんで、酒です?」
「珍しい逸品が手に入ったから、パチュリーに飲ませてやろうと思ってな。だけど一杯空けただけで動けなくなっちまったから」
「それで私のところに? 一応仕事中なんですけど……」
「咲夜を誘ったんだが、忙しいから中国と飲んでこいって突っ返されたぜ」
 ――実際はその後『中国もあなたに撃墜されっぱなしで、結構気にしてるみたいよ。そのつもりがあるなら、いい機会だし詫びでも入れてみれば?』などと続いたのだが、魔理沙は言わない。
 彼女は美鈴にぐい飲みを押し付けると、そこへ持ってきた酒を酌んでいく。
「いやー、しかし門番がこんなところでサボタージュとは。結構適当だな?」
「自分から誘っといて、それはないんじゃないでしょうか……でも昼間はいつもこんなものですし。いや、お酒は飲みませんけど」
「お前はいつもしかつめらしく門の前に突っ立ってるもんだと思ってたぜ。私が来るといつもそうじゃないか」
「この島と湖の上の大体の範囲は、およそ気配で誰がいるのか分かるんですよ。文字通り寝てても察知できたりします」
「へぇ。まぁ、寝てるところで咲夜にナイフを投げられるのが容易に想像できるぜ」
 魔理沙は二人分の酒を注ぎおわると、ニヤッと笑ってぐい飲みに口をつけた。
 美鈴もそれに倣う。
 焼けるように強烈な感覚が口の中に広がっていった。本来なら何か別のもので割って楽しむような酒なのだろう。まぁ、美鈴にとってはストレートでもおいしく頂ける。魔理沙も同様に生だが、やはり厳しいのか多くは含めないようだった。

「……しかし異なこともありますねぇ。魔理沙さんと二人で酒だなんて。それも昼間から」
「あー、まぁ……いつも迷惑かけてるからな」
 魔理沙はどこか口ごもったまま視線を外した。
 迷惑?
 本当に珍しいこともあるものだ。美鈴は何気なさを装って、風呂敷の上にあぐらをかく魔理沙を見つめる。今まではそんなことをいちいち気にした気配はなかったが。
 魔理沙は巨大な三角帽子の上から頭の後ろをぽりぽりかくと、
「いや、悪いかなとは薄々思っちゃいたんだぜ。だけど何度も来るうちに、吹っ飛ばすほうが普通みたいな感覚になっちゃたからなぁ。帰りに門を通るときもふくれっ面でにらんでくるだけだったし」
 ……やはり今まで悪びれてなかったということか。まぁ、分かってはいたが。
 美鈴は微妙な表情で、水でも飲むように酒を喉に流していく。
「で、今日咲夜に言われてここに来たわけだが、さっき見たお前の背中が……なんというか、私のいつも知ってる中国とは別人に見えた気がしてな」
「……そう、ですか。でも、魔理沙さんが気にするほど落ち込んでるわけじゃないですよ。とりあえず返り討ちにするのが当面の目標ですし」
 実のところ、魔理沙くらいの強敵がいたほうが鍛錬の一助になる。
「おぉ、それじゃあこれからも遠慮なく正面から突撃することにするぜ。気分次第では、こっそり忍び込むこともあるかもしれないけどな」
 魔理沙はいつもの不敵な笑顔のまま一升瓶を持ち上げると、空になった美鈴のぐい飲みに再び酒を満たした。
 美鈴も苦笑して「ありがとう」と返す。

「今までの不調法な押しかけのことは、この酒に免じて水に流してほしいぜ。これからもよろしく」
「……魔理沙さんにはいつも参りますね。これからもよろしく」
 言葉と共に、二人同時に器を掲げる。そしてそのまま、美鈴はぐい飲みに満たされた酒を一気に飲み干してしまった。ニヤリと笑ってひっくり返すと、そこはもう空だ。
 さすがの魔理沙も驚いたように目を丸くする。
「これはすごいな。お前、ひょっとして子鬼に匹敵するウワバミなんじゃないか?」
「ふっふっふ。お酒ならいくらでも入るんですよ。酔おうと思えば、酔えますけれどね」
「ふぅん……今日はいつも知らないお前を見てばっかりだな。知らないことを知るのはいいことと悪いことがあるが、今日のはいいことだぜ」
 魔理沙もまたぐいっと力を込めて杯を飲み干す。

 彼女は清清しく白い歯を見せて笑うと、美鈴からぐい飲みを受け取って風呂敷包みにしまい始めた。
「じゃあな、来た甲斐があったぜ。門番サボるなよ」
「魔理沙さんこそ、酔払い運転には注意してください」
「おぉ、誰に言ってる?」
 魔理沙は慣れた動きでホウキにまたがり上昇すると、人差し指と中指をビッと振って別れの挨拶を送ってきた。
 美鈴は額に手をかざし、それを見送る。
「またねー」
 彼女の言葉は、すでに遠く飛び去った魔理沙に届いたろうか。
 一筋の空の軌跡となり、蒼穹の向こうへ吸い込まれていく後姿がおぼろげになった頃。美鈴は踵を返すと、いつの間にか元通りになってしまっている門へ帰っていった。
 白昼堂々酒を酌み交わすとは、あの魔女もなかなか大それたことをするが――まぁ、おいしい酒ではあった。機会があれば、また飲みたいものだ。

   ■ ● ■

「ところで中国、暇?」
「え……暇といえば、暇ですけど」
 夕暮の紅魔館。斜陽から差す紅い陰影は、草原と湖を燃えるように染め上げる。赤一色に塗り替えられるせいか、かえって無色じみた印象を受けてしまう時間帯だった。
 前フリなく背後から声をかけられた美鈴は当惑しながら振り向く。声の主は軽く腕を組んだポーズで斜めから美鈴を見つめていた。
「用事を頼みたいのだけれど、いいかしら」
「えーっと……用事ですか、私に?」
 唐突だが、ほかならぬ紅魔館のメイド長、咲夜の言うことだ。引き受けるにやぶさかではない。
 門番以外の仕事――ということだろう。買い物か何かだろうか、それとも館の中で面倒事が起こったか。
 が、渋い顔で髪をかきあげつつ咲夜が続けた言葉は予想のどれとも違った。
「実は博麗神社に行ってきてほしいの」
「神社、ですか」
「ええ。神社にはもしもの時のために、日傘を置きっぱなしにしているのだけど……この前手違いで、お嬢様お気に入りの一本と入れ替わってしまったのよ。ついさっきそれに気づいて――」

 あの巫女のことだからぞんざいな扱いをするかも分からないし、などと続ける咲夜。彼女としてはすぐにでも回収したいのだそうだ。
 間の悪いことに、レミリアが本格フランス料理を食べたいというようなことを言いはじめたため、咲夜は数日間紅魔館から離れられないらしい。
「外回りの用事を頼めるのは、あなたくらいしかいないのよ。いきなりで悪いけど、よろしくお願いね」
 咲夜が腕を一振りすると、取り替え用と思しき一本の日傘が現れる。美鈴はそれを受け取ると、
「はいっ、任せてください! 咲夜さんのご期待を裏切らないように頑張ります」
 彼女はすぐに門番隊に外出の旨を伝え、哨戒の配置を少し変更するよう指示した。まぁ、彼女が何を言わなくても能動的に問題点をカバーするだけの技量が門番隊にはあったが。
 手短に連絡を終えると、美鈴はすいっと空へ飛翔する。
「それじゃあ早速、行ってきますねー」
「うん。いってらっしゃい、中国」
 背後に咲夜の気配を感じつつ、美鈴は一路博麗神社へと飛んでいった。



 子供の笑う声がする。カラスが鳴くよ、帰らんせ――
 着地と同時にどこか遠くへ視線を向ける美鈴。今のは人里の子供達が歌っていたのだろう。風にまぎれて、もう聞こえなくなってしまったが。
 鳥居の真正面に立ち、半身で境内を見渡す。警戒に意味などなかろうが、彼女が気になったのはどこからともなく漂ってくる酒の匂いだ。
 霊夢は神社の脇、庭の一角にある丸太椅子に一人で腰掛け、升に口をつけているところだった。その正面には頑丈な造りの丸テーブルがあり、傍らには用途不明のごろんとした物体が転がっている。
 いや――美鈴は即座に理解した。あのダルマのような物体は菰巻きの酒樽だ。

 とりあえず接近して挨拶する。
「こんばんわ」
 半分まぶたを閉じながら飲んでいた霊夢が、横目で美鈴のほうを見やった。
「……珍しいお客ね。クビになったの?」
「縁起でもないこと言わないでください……今日は咲夜さんの遣いで来ました、ここにおいてある日傘を交換しに。手違いで入れ替わっちゃったとかで」
「日傘? あぁ……この前のバカ騒ぎで宴会芸に使われた、あれ」
 巫女の言葉で、咲夜ほどの人物が初歩的なミスを犯した理由が少し分かった。こっそり同情する。
 そのときを思い出したのか、霊夢はこめかみの辺りを押さえながら社に目をやった。
「まだあったかしらね……ちょっと見てくるけど、無かったら多分紫か幽香が持ち逃げしてるはずだから、そっちを当たってね」
「無事なことを祈ります。傷一つでもあったらお嬢様に八つ裂きにされてしまいますから……」
 霊夢は美鈴に丸太椅子の一つを勧めると、ふらふらと揺れるような足取りで障子の向こうへ消えていった。
 あれはひょっとして酔ってないか……? 頬杖をつきつつ、複雑な表情で彼女が帰ってくるのを待つ美鈴。ぼんやり見上げると、夕日が地中に没しつつある頃だった。直接は見えないが、空の色で大体察しがつく。
 ちょうど視界の端を横切る鳥の影が、一抹の寂しさを感じさせた。夕暮が漠然と人を不安にさせるのは、その前後を挟んで静寂が地上を支配していくからだろう――

 独りで待つことに退屈を覚え始めた頃、社から日傘を手にした霊夢が戻ってきた。もう一つ、なぜか升も持っている。
 とりあえず礼を言って傘を交換すると、霊夢は無言で升も突きつけてきた。
「……飲めって?」
「どうせ戻っても暇なんでしょ。あんた滅多にここまで来ないし、たまには付き合いなさい」
「というか……それ、お神酒ですよね?」
「もう神前に奉納は済ませたから飲んでもいいのよ。放っておいても木の匂いを吸って、まずくなるだけだし……あぁ、別に妖怪に害はないから安心して」
 なんとなく升を受け取った美鈴は所在無げに目を泳がせたが、霊夢が断りも入れずに柄杓で酒を注いでしまったため、仕方なく席に着いた。
 館は心配だし留守番の隊員たちには申し訳ないが、出された酒は頂いてしまう性質の美鈴だった。霊夢と二人で交わす酒に興味があったのも事実である。

 どことなく物静かな霊夢と共に升を傾ける。木の風味が程よく乗った、舌触りのいい酒だ。澄んだ中に混じる爽やかな後味が気分を晴れやかにしていく。
 そんな美鈴を観察していた霊夢が一言。
「実は飲める口?」
「結構強いですよ。むしろ飲んでも酔わないっていいますか」
「それはうらやましいわね……一人で全部飲むのは大変なのよ」
 全部。それは足元に鎮座する酒樽のことを指しているのだろうか。
 ……どう見積もっても大きすぎる。飲めるわけないと思う……
「余ったらビンに詰めるけどね。あと何割かはその辺に撒くわ」
「撒く?」
「一応、魔除けになるから……いや、使い手が『魔除け〜』って念じながら撒かないと効果ないわよ。そこでイヤそーな顔しない。升も下げるな」
 確かに、およそ全ての酒は等しく妖の者を退ける力がある。それでも幻想郷の住人がもれなく酒好きなのは、酒の力は使い手の意思に左右されるからだ。
 知ってはいたが、もともとこの酒は神酒だし……などと微妙な心境の美鈴だった。

「そういえば、あなた……門番だったわね。妖怪を退治したこと、ある?」
 霊夢が唐突に話題を変えた。何を分かりきったことを、と怪訝な顔で正面を見返す。
 もちろん彼女もそれは予測していたのだろう。が、その眠たげな瞳は美鈴の口から直接聞きたがっていることを感じさせた。
 そのままを告げる。
「それは、まぁ、もちろんありますよ。考えたらずな三流妖怪なんかが、お屋敷にちょっかい出してきたりしますもの」
「ふーん……ま、それがあんたの仕事だしね……」
 意味不明なやり取りは、そこでいったん切れた。霊夢は升をテーブルに置いて、腕組みしながらあさっての方向に目を向ける。
 ある種の感傷に浸っているような横顔は夕焼けを浴びて、どこかつかみ所のない表情になっていた。彼女は多分、他にも聞きたい言葉があるのだろう。答えられるかは分からないが、それまで静かに待ってやることにする。

 滑らかな口当たりのよさのせいで、一杯すぐに飲み干してしまった。霊夢は見てもいないのに酒樽のふたを開け、中身を美鈴の升に注ぐ。
「あんたは吸血鬼あたりから命令されてるわけだし、見返りもあるのよね……」
 ちびちびと酒を飲みながら、霊夢はどこか遠くを見ていた。風のたどり着く先に向けられた彼女の目元には、漠然とした疲労感のようなものがわだかまっている。
「私はどうしたって博麗の巫女だし、何があったって妖怪退治を止めるつもりはないけどさ。それでもたまに、自分が無意味なことしてるんじゃないかなぁ、なんて思うこともあるわけよ」
 霊夢はきっと、誰かのために妖怪退治をしているのではない。それはどうしようもない宿命なのだろう――彼女は妖怪を退治するというプロセスによって、自分自身の存在意義を確立している。博麗の巫女とは、そういうものだ。
 だからこそ、わけもなく妖怪と相対できる。
 それは季節が移ろうように、人心が常ならぬように――どうしようもないことなのだ。
 彼女の生き様の根拠は、彼女自身の中にしかないのだろう。
 再び杯を干しながら、美鈴は吐息をもらした。霊夢が間を置かず升に酒を満たす。
「これまで何度も妖怪を退治してきたけどね、恨まれるばっかりだし。いや、厳密には気にしない連中のほうが多いか……なんにせよ、あんたみたいなのを見ると違いを感じちゃったりするのよ」

「感謝してる人と妖怪、多いと思いますけどね」
 微苦笑を浮かべながら、美鈴は重心を後ろに傾けて広い幻想郷の空を見上げた。まぁ、少なくとも彼女の思うことくらいは伝えてやらねば。
「そう?」
「ええ。私個人の意見でしかありませんけど……あなたに倒されるのは光栄なことなのかもしれません」
「光栄……?」
「博麗の巫女ですから」
 この郷を守護する者。秩序の表れ。
 彼女はつまりそれを重責と厭ったのだろうが、実際にはとても大切なことだ。
 地獄の裁判長などとは別の意味で、彼女は他者を裁く。
 この幻想郷のたがが外れてしまわないよう、彼女はあらゆるバランスを適切に保ってくれるのだ。
 彼女に倒された者たちは、その結末をもって自らが幻想郷の協和に一役買ったことを知る。自らが幻想郷を害する前に、止めてくれたということだから。
 なので、博麗の巫女に感謝する手合いは多いだろう。
 もちろん、幻想郷に息づく全ての者が同じ考えということはないはずだ……これは、霊夢に幾度となくしばき倒されてきた美鈴としての意見だった。
 考えを整理するうちに升が空になっていたを。直接樽に入れたい衝動に駆られたが、霊夢が機先を制するように律儀に柄杓ですくって注いでくれる。
「霊夢さんが来てくれると、どういうわけか安心するんですよね。やられてもホッとするっていうか。まぁ、悔しいし恨めしい気持ちもあるわけですけれど。……言う人間がいないなら気づかないものかもしれませんが、霊夢さんのやってることは結構みんなありがたがってますよ。あぁこれでよかったんだな、て」
 それは打算とは無関係な、心の深い部分に根ざした感情だ。美鈴は満足げな心地でそれを認めた。

 気楽に微笑みながら霊夢を見ると、彼女は口を尖らせて考え込んでいる様子ではあった。確かに、すぐに実感の湧く話でもないか。
 きっと彼女は、これからも考え続けながら、いずれ答えを出す日まで歩き続けるのだろう。酔いの回った顔つきで腕組みをするその姿からは、問いかけを投げ出す様など想像もつかない。
 美鈴はくすっと笑った。だとしたらせいぜい、霊夢の道行が軽やかなものであるよう見守ってやるとせねば。

「まぁいいわ。とりあえず、これからも今まで通りやってみる。変な話につき合わせちゃって悪かったわね、ありがとう」
「なぜか分かりませんけど、私は他人に相談とかされるの多いですから……お酒さえあれば、いつでも聞かせていただきます」
「水みたいにカパカパ開けられちゃたまったもんじゃないわ。次から招待するときはお茶ね」
 美鈴は肩をすくめながら立ち上がる。霊夢もまた席を立ち、彼女を見送りについてきた。
「次の宴会のときはいらっしゃい」
「魅力的なお誘いですね。咲夜さんにぜひとも頼んでみます……それじゃ、また」
 大地を蹴って宙へと舞い上がる。肩越しに後ろを見やると、霊夢がひらひら手を振って別れを告げているのが見えた。
 美鈴も応えて手を振り返す。宵闇が空を染め上げる中、彼女は遅くなってしまった紅魔館への帰路を急いだ。
 霊夢は正しく巫女を務めてくれるだろう。彼女にささやかな助言を送る幸運に恵まれた美鈴は、誇らしげな気分で夜空を翔けていた。

   ■ ● ■

 じき、夜が明ける。
 遠くに見えるのは陽希星か。明け方までのわずかな時間にしか現れないという特殊な星。夕闇のみに姿をみせる陽惜星と対になって語られる、幻想の妖星。
 日が昇れば、美鈴の一日の仕事はようやく終わりだ。
 彼女の身体は基本的に睡眠を必要としない。肉体の生理的活動は、常に活性と休止が一組になった状態で働いている。
 しかし起きっぱなしでは精神に対するリカバリーがないので、彼女も日が昇ったあとの一時間ほどは睡眠をとるのだった。起きてからも若干の自由時間が与えられている。
 東の空は、もう少しで白み始めるだろう。
 夜明けの足音を感じとり、美鈴はふっと力を緩めた。今日も何事もなく仕事は終わりだ。
 平和で何より。

「ちょっとそこの門番さん」
 と、いきなり斜め向こうから声をかけられた。気配もなく突然出現するとは尋常ではない――
 身構えながら向き直ると、そこにいたのは意外な人影だった。なにやら妖しげな裂け目から上半身だけひょっこり覗かせて日傘を回している。
「うちの橙が来てないかしら?」
 幻想郷で最もつかみ所がないとされている大妖怪、八雲紫だった。
「橙、ですか……? いえ、心当たりはありませんけど」
「あぁ、そう……うーん」
 紫はそれきり黙りこみ、一人で考え込んでいるようだった。美鈴も緊張は解き、胡散臭げな眼差しで紫の挙動を見つめる。
 やがて結論したのか、紫はひょいとスキマを乗り越えて夜明け前の草原に降り立った。苦笑いなど浮かべつつ、傘で周囲全体を指す。
「うちでゴタゴタがあってね、『藍さまのバカー!』って橙が飛び出しちゃって。藍もそれを追いかけてどこに行ったか分からないし。放っておくわけにもいかなかったから、心当たりのある場所を一つずつ調べて回ってたのよ。ここでその最後」
 さしもの紫といえどばつが悪いのだろう、肩をすくめて湖水を眺めるしかないようだった。
「大変ですねぇ」
「あの子達のことだから、時間が何とかしてくれるとは思うけどね……さて」

 声の終わりと共に、紫は横手に目を向けた。前触れもなく空間が裂け、彼女の傍らに白テーブルと椅子が出現する。
 当たり前のように腰掛け、紫は優雅に日傘を傾けながら辺りの景色を眺め始めた。
「あら、なかなかいいロケーションじゃない。あなたもどう?」
「いや、あの……」
 あいまいに否定したが、いつの間にか二脚目の椅子が出現していた。しかもテーブルには、得体の知れない容器やカクテルグラスまで現れている。
「なぜいきなりお酒を……」
「んー。今家に帰って寝ちゃうと、見つかったときに面倒が起きそうだから……いや、私のせいじゃないのよ? でもとにかく時間を潰さないと」
「そうなんですか……まぁ、私もちょうど仕事が終わる時間ですし。せっかくですからご一緒します」
 特に断る理由もない。

 美鈴は席につくと、紫が丁寧に酒を注いでくれた。それを持ち上げる。ようやく光を帯び始めた空の下、紫はいつものにっこり笑顔で、美鈴は少し照れたような微笑でお互いカツンとグラスを鳴らした。
 一口グラスに口をつけてから、美鈴はふと思いついて訊ねる。
「……あの、ここでいいんですか? 館の中には咲夜さんとかお嬢様とか、パチュリー様とか……一緒に飲むなら、私なんかより皆さんのほうがいいと思います。この場所も見晴らしはいいですけど、吹きさらしですし」
「ふぅん? それは、あなたはちょっと自分のことを――いやいや」
 紫は言い直すようにひらひらと手を振った。
「あの面子とは宴会で顔を会わすからね。別に嫌いじゃないんだけど、何度も会ったことのある彼女たちよりは、あなたと飲んでみた方が面白いかもって思ったのよ」
 そういうものだろうか……やっぱり館内の住人のほうがいいような気はする。と思いはしたが、美鈴は黙って頭を垂れ、謝意と共に酒を頂いた。

 不意に、紫が何かをこらえるようにクックッと笑い始める。視線を感じ、一瞬本気で自分の顔に何かついているのだとかそういったことを想像したが、そうではないようだ……思い出し笑いでもあるまい。
 リアクションに困っていると、紫は面白そうな笑みのままで言ってきた。
「珍しいわね、あなたは。いつもこんななのかしら?」
「こんな……とは、どんな?」
「少なくとも、私が普段飲み交わしてる連中は、あなたみたいにさっぱりした素直な反応はしてくれないのよ。挙げるとすれば妖夢や慧音くらいかしらね、あとはお子様が少々」
 美鈴は反射的に、宴会の常連でありそうないくつかの顔を思い浮かべた。
 ……確かに素直とかそういった性格とはかけ離れたイメージしか出てこない。
「あなたは裏表がない……いや、極端に近いのね。一見しただけでは分からないほどに。あぁ、だから妖怪も人間もなく、慕われたりするのね」
「慕われ……てますかぁ?」
 怪しいものだ。どちらかというと馬鹿にされているきらいがある。
 困惑顔の美鈴をくすくすと笑いながら、紫は空になった二人のグラスに酒を注いでいた。
「それはまぁ、普段の行いを見れば慕われてるって感じはしないでしょうねぇ。そうね、実例でいきましょうか……うちの橙だけど、あなたのことを隣のお姉さんみたいな感覚で見ている様子がある」
「橙はいい子ですから」
「ありがとう、藍が聞いたら泣いて喜ぶわ」
 たまに氷精のところまで遊びに来る黒猫を思い出し、美鈴はなんとなく笑みを漏らした。天気のいい日は二人、もしくは三人で並んで昼寝などしたものだ。
「子供の面倒見がいいっていう意味じゃないのよ。あなたは、相手の言葉に真摯に返事を返す心を持っているから……それは人を惹き付ける魅力だわ。さすがは『気を使う程度の能力を持つ』妖怪ね?」
「……よく分かりませんけど、私はわりと何も考えずにお話してることが多いですよ」
「それこそ裏表が近しいってこと。もっと分かりやすく言えば、つまり……誰かに相談をされることとか、多くない? もしくはこういう酒席で相手がやたら楽しそうだったりとか――皮肉とかそういう意味じゃなくてよ」

 言われて、思い当たる節は――ある。
 ある、というか、多い。
 相談事に関しては、美鈴はよく声をかけられる方だった。そういった場合相手は大抵門番隊であるが、美鈴は館内のメイドたちとの交流も深いものがあり、彼女らがやってくることもあった。
 まぁ、なんというか……そういった多くの相談に、美鈴はただ励ますような言葉しか贈れず、最終的には『咲夜さんならもっと的確にアドバイスしてくれるはず』のような助言がせいぜいで、いつもすまない思いをしていた。
 酒の話もいくつか心当たりはある。結局のところ相談云々と同じで、大した言葉は出てこないにもかかわらず場が険悪になったことはない。お酒など滅多に誘われることはないのでなんともいえないが、すぐに思いつく例外は美鈴が嬉しさのあまり大泣きして周辺が気まずくなった時のことくらいか。
「……でもそれって、慕われてるんですか?」
「言葉の問題よ。好かれてるでも、人気があるでも、惚れられてるでも、何でもいいの。あなたはあなただものね。そういう心を持ってるっていうのは、幻想郷じゃ珍しいのよ。私もあなたのこと、結構好きだし」
「は、はぁ……ありがとうございます」
 なんだかはぐらかされているような気がした。紫が言いたいことは、本質的には美鈴が理解しがたい何かなのだろう。中途半端なお礼しか言えない美鈴の姿を見ても、紫はやはり満足げににっこり笑っているだけだった。

 会話の途中で何度も注ぎ足された杯を持ち上げ、視線を空に逃がす。いつの間にか東の空からうっすらと白光が差し込んできていた。もう、あと数分で日の出のようだ。
 今日も平和だったなぁ……
 毎朝、昇る朝日を見ながらその日の平和を振り返ることが彼女の日課だった。もちろんこうして紫と遅すぎる晩酌を楽しんでいる今も、平和の一部だ。幸せな毎日に感謝しつつ、美鈴はグラスの中身を飲み干した。

 美鈴が水平線を眺めている間に、紫は静かに席を立ったようだった。向き直ると、今までより少し残念そうな笑顔で声をあげてくる。
「そろそろ行くわ」
「いいんですか? 帰るとどやされる、とか言ってませんでしたっけ」
「違うわよー。何もかも藍のせいなのよ、私はとばっちりなのよー」
「正直、別にどうでもいいですけど……」
「私みたいな、性格の悪いひねくれ者のお酒につき合わせるには、あなたはちょっともったいない――っていうのは、さすがに言いすぎかしらね。ま、神社にでも行って巫女をからかってくることにするわ」
 解釈に困るその言葉が、別れの挨拶だったらしい。朝日を横手に浴びながら立ち上がる美鈴の前で、テーブルなど紫が取り寄せた道具が地面に吸い込まれるように消えていった。
 紫は優雅にスキマへ腰掛け、最後に一言つぶやいた。
「じゃあ、またね」
「またお会いしましょう」
 上品に日傘を傾ける動きを残して、彼女はスキマの向こうへと帰っていった。
 紫らしく、まるで始めから何もなかったかのような鮮やかさだ。
 美鈴は苦笑すると、爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。すっかり全身を現した太陽が目にまぶしい。そろそろ寝ることにしなければ。
 宿舎へ戻る道すがら、ふと舌に残る心地よい後味を意識した。もういちど苦笑する。いくらあのスキマ妖怪が鮮やかに消えたところで、彼女と語らった夜が――
 始めからなかったことになど、なりはしないのだ。嬉しいことに、絶対に。

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 ――思い返せば、色々あったものだ。
「いいお酒ばかりだったわぁ……」
 もちろん味覚的な意味ではない。そのとき美鈴と向き合って酒を飲んでいる人間や妖怪が、彼女と心に残る言葉を交し合ったというのが、とても大切なことなのだ。
 たまに招待される宴会で泣いたり笑ったりと騒がしく飲むのもいいものだが、それでは味わえない酒の魅力というのも、同じくらい素敵なものだと美鈴は思っていた。
 空に星が瞬き始めて数刻経った紅魔館の前。彼女が何とはなしに振り返ったかつての酒席の姿は、今も色あせることなく彼女の胸のうちに息づいていた。

 群青色の夜の空。満月を見上げたか美鈴の頬を一陣の夜風が駆け抜けていく。涼気は思考を澄み渡らせ、安らかな暗黒は身体を包み込んでいるような心地よさがあった。
 美鈴は笑って目を閉じた。それは顔から余計な力を抜いて最低限成立するような、とても穏やかな笑みだ。もし誰か、今の彼女を見るものがいるならどきりとするような顔だろう。それは慈しみというべき深さだった。
 瞳を閉じたまま両手を空に向ける。群雲を抱くように指を広げ、彼女は風の巻く夜の草原に溶け込んでいった。一枚の風景画のように、どこまでも自然に。
 歌でも歌いだしそうな気分ではあった。
 脳裏に浮かぶ言葉の一つ一つが――彼女の幸せな毎日の象徴なのだ。平和に生きるということ。今、感じることがとても実りあることだということ。
 美鈴はただ一人の草原に佇み、夜空にしか聞こえない声で語りかけた。昨日までの感謝、今日の喜び、明日からの希望……そういったことである。

 語りつくせないほど続くかと思われたつぶやきは、遠くから近づいてきた気配によって中断された。美鈴は何者かの接近を察知すると、数秒かけて緩やかに全身に力を込める。
 最後に眼差しを鋭く光らせ、美鈴は気合を込めて地を蹴った。開けた草原の向こうから、
飛来する一つの影が姿を見せる。
「……あれ」
 見れば、それはスキマ妖怪よりさらに珍しい客だった。
 いつもは何とかという川の向こうで熱心に仕事に励んでいるらしい。基本的に美鈴とは縁のない人物だが。
「閻魔様……どうしましたか?」
「こんばんは、美鈴さん」
 四季映姫・ヤマザナドゥは丁寧に挨拶してきた。
 例によって如才ない立ち居振る舞いで、美鈴にとってはなんとなく咲夜と通じるところが多いため反射的に身を固めてしまう。
「どうしました? わざわざこんな遠くまで」
「うーん、実はですね……なんと言っていいものか、どうも小町が最近よく働いているんですよ」
「……いいことじゃないですか」
「いえ、あの小町に限ってそんな不審なことはありえません。問い詰めてみたところあいまいにお茶を濁すばかりで、はっきりした答えはありませんでしたし。そこで、こちらの人たちが私の言いつけを守っているかの確認も兼ね、何か知っている人がいないかと聞き込みをしているところです」
「そ、そうですか」
 たまには真面目に働く気になったのではなかろうか……昼間は同じくサボりっぱなしの美鈴は、なんとなく気まずいものを感じつつ笑ってごまかした。

 映姫はつまり館に入りたいということだが――軽く打算する――問題はないだろう。礼儀正しい人だし、魔理沙あたりと違って素通ししても叱られることはあるまい。幸い今はレミリアも起きて館が一番ゆったりしている時間帯だ。
「それじゃあ早速中へ――」
 直後。
 猛烈な勢いで館の正面扉が内側から吹き飛ばされた。ばらばらになった木製の扉が、本来の重厚さを全く感じさせない放物線でくるくると回転しながらどこかへ飛んでいく。
 巨大なハンマーで打ち壊されたような有様だったが、吹き抜けになった玄関には人影は見えない。何らかの衝撃の余波を食らったというところだろう、そうなると考えられる使い手は一人しかいないが。

 美鈴は手で映姫を下がらせ、神経を集中しつつ館の様子を観察する。起きていることは大体予測できた。
 まず外に出てきたのは図書館の主だ。パチュリーはぜいぜいと顔を青くしながら後方に撤退していく。美鈴の見たところ、ただ単に喘息が悪化したため間合いを広げているにすぎないようだった。目立ったダメージはない。
 美鈴は加勢すべきかどうか一瞬迷った。しかし、もし玄関が突破されたときに最後の壁となるのが美鈴に与えられた役割だろう。構えを解かないまま戦況を見守る。
 そこでひときわ大きい激突音が響いた。一瞬の隙を突き、宝石の翼を持った少女が空中へ躍り出る。
「……外で遊ぶー!」
「ええい、聞きわけなさい、フラン!」
 一瞬の後、影のように素早くレミリアも追随してきた。咲夜も遅れずに飛び出し、先回りしようとする。
 前庭を突っ切ろうとしたフランドールは素早く反転し、追いすがる二者へ険しい顔で向き直った。
「魔理沙が会いにきてくれないのが悪いのよ!」
「二週間やそこら、我慢しなさい!」
 お互い怒鳴りながら、しゃれにならない弾幕の応酬が繰り広げられる。咲夜はフランドールの進路をふさぐ位置に移動すると、目配せだけで美鈴に援護するよう伝えてきた。
 守りを固めるべく踏み出しかけたが、それより早く彼女の肩を背後からちょんちょんとつついてくる手があった。
「手伝います?」
「いえ、それには及びません」
 即答する。映姫は一瞬つまらなそうな顔をしたかと思うと、
「分かりました。怪我しない程度に撃墜すればいいのですね」
「いやあの、そうじゃなくて……」
「大丈夫です。私は弾幕の細かい調整には自信がありますから」
「……ひょっとしてストレス溜まってます?」
「まさかそんな。最近弾幕戦を仕掛ける相手がいなかったり、説教相手が小町しかいなかったり、その小町もこのところ妙に張り切りすぎでお話しする時間が少なくなってかなり寂しいとか、そういったことはおおむね無関係です」
「……そうですか。なんかもう止める気もしません……やっちゃってください」
 その言葉を待っていたのだろう、すでに映姫は笏に仕込んだスペルカードを発動する直前の状態でフランドールを見つめている。
 映姫が重々しく笏で指したと同時、まばゆい極太レーザーが空を走ってフランドールの姿を飲み込んだ。荒れ狂うその奔流には手加減も何もないように見えるが……
 焦げて庭に墜落していくフランドールを眺めながら、美鈴はため息をつきつつ魔理沙のマスタースパークを思い出していた。
 理不尽だよなぁ。



「――と、そういうわけです。魔理沙さんは体調がよろしくないようでしたね。彼女は大丈夫だと笑って厚着のまま風邪薬の研究に没頭していましたが、それが回復を遅らせているとなぜ気づかないのか」
「……それ、いつの話?」
「魔法の森にはここに来る一つ前によってきましたから、昨日のことですね。風邪にかかったのは、多分五日ほど前のことでしょう」
「そうだったんだ……」

 フランドールが撃ち落されてから、その事後処理で少し奇妙な流れになった。
 まず不意打ちでラストジャッジメントを放った映姫だが、レミリアの不興を買ったものの、咲夜と美鈴のとりなしでお咎めはなしということになった。喘息でダウンしていたパチュリーは、小悪魔に運ばれて館内で静養している。
 そしてフランドールをどうするかについては、映姫から意見があった。少し前、霧雨邸に立ち寄ったのだという。レミリアは映姫を追い払いたいようだったが、咲夜のはからいで映姫とフランドールを同席させることになった。
 変なことは、そこに美鈴をつけたということだ。すでにレミリアと咲夜は館内に戻っている。
 そして今、美鈴は落ち着いたフランドールと映姫に茶など振舞っていた。咲夜がわざわざ美鈴の部屋に行くよう指示したのだ。彼女の部屋がある宿舎は、本館とは違う建物なのだが。

「手作りの羽飾りを早く見てほしいという気持ちは分かりますが、力任せに解決を図ろうという手段は感心できませんね」
「うー……」
「あなたはただでさえ強力な力を持っているのですから、自分が暴走しないよう、気をつけなくてはいけませんよ」
「うぅぅー……」
「いいですか、あなたの力は破壊、すなわち理由のいらない能力です。他を寄せ付けない非常に強力なものですが、それゆえに心がけるべき点がいくつも――」
「うるさーい! 説教なんて聞きたくないわよ! がぁぁー」
 正座して映姫の話を聞いていたフランドールが、とうとう我慢の限界に達したのか立ち上がって威嚇を始める。
 まさかそれに怯えるような地獄の閻魔様でもあるまい、映姫は困った表情でフランドールを見つめたあと、横で黙ったままの美鈴に助けを求めるような顔を向けた。つられてフランドールも美鈴を見やる。
 いきなり板ばさみにされた美鈴は、慌てて否定の仕草をしつつ座卓から後ずさった。
「い、いやあの、フランドール様もひとつ映姫さんのご高説に耳を傾けてですね、ここは穏便に」
「こいつ嫌い」
「そ、そうおっしゃらずに……あぁ、映姫さん怒らないで……」
 二方向からの視線がどちらも痛すぎる。美鈴は一瞬本気で死を覚悟した。ダメかもしれない、咲夜さんのバカ……

「――そうだ、こうしましょう」
 と、美鈴は一つ閃いて立ち上がった。やけくそ気味に戸棚へ向かい、ごそごそと一本のビンを取り出す。
「お酒でも飲んで、まずは和やかにっ」
「…………」
 やはり視線が痛かったが、意思の力で黙殺した。
 酒瓶と共に、繊細な絵柄が施された磁器のゴブレットも三つ座卓に用意する。つまみには魚の燻製をスライスしたものを並べた。
「ささ、どうぞどうぞ」
 何とか笑顔を浮かべながら、客人二人にとくとくと酒を注ぐ。甘い桃の香りが部屋に広がった。
 香りに誘われたのか、まずフランドールが目元を緩めつつ器に口をつけた。それを見た映姫も、美鈴に目礼してから杯を取る。最後に美鈴も、酒を一口喉に流した。
 果実の癖のない甘さと、鼻をくすぐる香りが心身を落ち着かせる。口の中に残る微かな酸味が奥深く、飲む者を飽きさせない独特な味だった。
「……うーん、これはおいしい。珍しいですね、桃の酒とは」
「あまーい。ジュースみたい」
「えへへ、とっておきなんですよ。お好みで本味醂と混ぜるとさらに口当たりがよくなるんです」
「……ほん、みりん」
 実のところ、美鈴の真の秘蔵と呼べる酒は戸棚のもっと奥のほうに仕舞われているのだが、そちらはあまりにも強すぎる上、生で飲むことを前提とした酒のため、フランドールの口には合わないと思い見送った。
 本味醂を取り出してテーブルに載せたが、二人は渋い動きでお互いに顔を見合わせただけで、手を伸ばそうという気配はない。もっとも、なぜか紅魔館の面面も似たような反応を示すので気にはならなかったが。

 酒で多少は和らいだ場に、映姫は再びフランドールに向き直ると、
「それでですね、フランドールさん。破壊の力というのは正当な制御を経て初めて――」
「いーじゃないのよ、私のやりたい様にやっても。いちいちうるさい!」
「……うぅ」
 聞かせても無駄だと悟ったのだろう、映姫は再び視線で美鈴にフォローを求める。あとは黙ってゴブレットを傾けることに専念するつもりらしかった。
 笑ってしまってはいけないが――苦笑をこらえつつ、美鈴はくいっと酒を飲みこんだ。客人たちの杯の中身にも気を配る。足りなくなって注ぐのは、今日は美鈴の役目なのだ。
「フランドール様。映姫さんのおっしゃることは、とても大切なことなんですよ」
 酒に馴染みがないのか、フランドールのゴブレットはすでに空になっていた。潰れなければよいがと危惧しながら二杯目を満たす。

 自然と思い出す情景があった。夜の草原で、誰かと二人。

 ――メイド達の力を正しく見抜いて的確に用いなければならない――まぁ、もちろん自分の力についても、同じことだけど。うまくいかないものよ……
「フランドール様のお力は、誰かが制御しなければいけないもの。それをあきらめるということは、別の誰かにあきらめずに正しく扱うことを強いる、ということです」
 美鈴の話を説教の類と取ったのだろう、フランドールは爪楊枝で肴をひょいぱくと口の中に放り込んで横目だけで美鈴を睨んでいた。
 映姫は足を崩して、少しずつ舐めるように酒を飲んでいる。口を挟む気はないらしい。

 ――だが失敗の上にしか成り立ちえないその命題を前に、心のあり方は常に安易なものだ。
「いつもうまくいくような、都合のいいものじゃありませんからね……だから辛いのですけれど、その辛さがないと困ることもたくさんあります」
 それはフランドールに知っておいてほしいことだった。
 何かが彼女の意識に触れたのか、フランドールは不思議そうな顔つきで美鈴へ向き直った。
 笑顔でそれを迎える。

 いつだったか、白黒の魔女が言った言葉。

 ――さっき見たお前の背中が……なんというか、私のいつも知ってる中国とは別人に見えた気がしてな
「生きている限り、私達はいつだって辛いことを背負わなくてはいけません。でも、苦しみを知らないで生きている人は、他の人のことをきちんと分かってあげられないんだと思います。同じものを分かち合うことが出来ないのですから」
「…………」
 何か言いたげに視線を伏せ、無言のままゴブレットを手に取るフランドール。
 講釈を嫌う彼女が、すんなり美鈴の声に聞き入るのは何か理由があるのだろうか。ひょっとしたら……彼女自身が、何をどうすればいいか、誰かに教えてほしかったのかもしれない。

 ――知らないことを知るのはいいことと悪いことがあるが、今日のはいいことだぜ。
「誰かの心を理解できるというのは、嫌な思いをすることもあります……でも、そういう経験も全部ひとまとめにした上で、いつか、よかったと言える日が来るものなんですよ」
 フランドールの表情はコップに隠れて見えなかった。
 一拍置いて彼女は空の杯を美鈴に突き出したが、その直前に何かしらの決断を下したのかもしれない。かげった顔には悲しみが宿っているように感じられた。
「……よく分かんない。ただ苦しめばいいの? 今までたくさん苦しんできたよ、私」
「フランドール様が辛い思いをされたとき、それはフランドール様以外の誰かのためになるものでしたか?」
 聞き返し、美鈴はまたゴブレットに酒を満たしていく。
 思い出したくないことなのは分かっていたが、美鈴はフランドールの返事を待った。彼女に知ってほしいこと――教えたいことが、あるのだから。
「……私一人だけ嫌な思いをした気がする」
「では、その苦しみは本来必要のないものです。それさえ分かってしまえば、もう大丈夫。フランドール様が助けを求めれば、手を差し伸べてくださる方はたくさんいるんです」
 杯をフランドールに返し、美鈴はにっこり微笑む。

 ある夕べ、紅白の巫女が眠たげに酒を飲んでいた。

 ――それでもたまに、自分が無意味なことしてるんじゃないかなぁ、なんて思うこともあるわけよ
「フランドール様は今まで誰かと話す機会が少なかったから、他人の心を知る必要なんてなかったんだと思います。でも、それは今までのフランドール様にとっては無意味でも、これから先、フランドール様が新しいものを求めるときには、なくてはならないもの」
 ちらりとさりげなく映姫を確認すると、彼女はしばらく前から変わらない姿勢で腿に手を添え、目を閉じて口の端だけで笑みを作っていた。酒も飲んでいないようだ。
 見ている美鈴まで心が静まっていく、穏やかな表情だった。

 ――感謝してる人と妖怪、多いと思いますけどね。
「お嬢様や、パチュリー様や、咲夜さん。他にも魔理沙さんや、霊夢さんたち。皆さんがフランドール様にとって大切であるなら、そんな皆さんもフランドール様のことを大切に思えるように、ご自身を正しく律しなければならないんです。大勢の心の中で生きるために――フランドール様が感謝している人たちに、フランドール様が感謝されるために」
「……ぅー」
 フランドールはふた切れほど肴をつまみ、眉間にしわを寄せてテーブルの一点を睨んでいた。怒っているわけではないだろう。聞き流しているのでもあるまい。
 それは目を見れば分かった。
 彼女は、きっと……美鈴の言葉の意味を考えようとしている。手を伸ばしても届かなかった場所へ、今こそたどり着こうとしている。

 スキマへ消え行く誰かを見送った。朝日の照らすどこかの草原で。

 ――あなたは、相手の言葉に真摯に返事を返す心を持っているから……それは人を惹き付ける魅力だわ。
「フランドール様なら、出来ますよ。自分がいて他人がいて、その間に言葉で橋をかけるっていうことが……ちゃんと根拠もありますよ。なぜなら、私もフランドール様のことが好きですから」
「……中国、私のこと好き? 暴れてばっかりで、迷惑かけてるのに……なんで?」
「はい、好きですよ。迷惑をかけられるということが重要なんです。そうして始めて、相手がどんな辛さを背負っているか、見えるようになるのですから」
 人と人の間にあるわだかまり、それは決して晴れるものではない。
 しかし濃く凝らされた夜の中でも、手探りで歩いていくことは出来る。やがては何かに触れる日も来るだろう。
 他者がいかなるものか知り、自らは他者に必要とされることを受け入れ、自らを制御することによってそれに応え、自らもまた他者に真摯に接する。
 美鈴が酒を酌み交わした友人たちは、顧みなければ気づかないような、些細なきっかけの数々を語ってくれた。
 そんな彼女らに感謝すると共に、また会いたいと思う。そしてそうした積み重ねが、地に根ざした大樹のように揺るぎないものへと育っていく。
 美鈴がフランドールに知ってほしかったこと、教えたかったことは、ただその一点だった。

 ――今日も平和だったなぁ……
「そうやって生きていくことが、きっと、平和だなぁっていうことなんです」
 そう、きっと……
 それが平和ということなのだろう。
 美鈴が何よりも望むもの。すばらしく輝きに満ちた日々。そんな素敵な未来――
 そしてそれこそ、
「幸せっていうことだと思うんです」

 言い終え、彼女は穏やかに微笑んだ。とても穏やかな笑みだ、それは慈しみというべき深のもの。
 フランドールは、そんな美鈴をしばらく見つめていた。ゴブレットをテーブルの上で握った状態で、その顔は無表情に近い。だが、目と口がきょとんと開いているところを見ると、多分混乱しているのだろう。いつになく長話をしてしまった。
 今はまだ分かるまい……意味不明な言葉でしかあるまい。だが美鈴の伝えた内容が意味を持って必要とされる日が来ることを、彼女は祈った。
 生きていれば、いつかは光に手が届くかもしれない。
「そうなれるのはずっと先のことかもしれませんけれど、信じて前に進むことは大切なことですよ。私達はゆっくりとしか進めないんですもの。内に秘めたものを少しずつ育てて、成長の足跡を眺めながら日々を過ごす。人も妖怪も関係なく、そう心がけなければいけません」

 美鈴は映姫の杯を取ると、楽しげに目を細める彼女を数秒見つめた。酒を注ぐ間、美鈴の言をどのように受け取っただろうと映姫の胸中を推し量る。確信はないが、とりあえず……気に障ったということは、なさそうだ。
 フランドールは酒が回ってきたのだろう、朱が差しはじめた頬を美鈴に向け、先ほどのように肴を刺してじっと黙考していた。
「結局よく分かんなかった」
「あはは……すみません」
「何で中国が謝るのさ……でも、なんか大切っぽいっていうのは分かった……ねぇ、またここにくるからさ、もう一度お話してよ。私聞きたい」
 思わず言葉に詰まった。
 今だかつて、フランドールがここまで素直な返事をしてくれたことはない。今までは暗い闇の中で息を潜めているしかなかったが――彼女だって、未来を夢見ていたいのだろう。
「はい、喜んで」
「うん、約束ねっ。あぁ、そうそう、そっちのしかめっ面の説教垂れも許してあげる」
「……それはどうも」
 瞬間的にピクッと震えた映姫だったが、何も言わずに礼を返すだけで抑えてくれたようだ。
 フランドールは最後の杯を飲み干すと、にぱっと笑って元気よく立ち上がった。
「私、そろそろ帰るね」
「では、お送りします」
「いいよー、自分で帰れる。外に行こうなんて気はないし、ゆっくりしててよ」
 そう言われると、さすがについていくわけには行かない。美鈴は苦笑いすると、
「では玄関までお見送りを」
 と言って、三人で宿舎の出口まで向かうことにした。

 外では、満月が南天で皓皓と輝いている。大地は優しく地上の子らを迎え、風は美しく吹き抜けていった。
 そんな中、フランドールはウィンクひとつ残し、手を振って宿舎をを後にする。
 離れていくその後姿に、美鈴はポツリとつぶやいた。
 いつか力を我が物とできる日が来るだろう。彼女が眩しいくらいの輝きを放つ、幸せな毎日が。

「……そして陽の下を歩けるように」

 天空の星星にそれを祈った。聞き届けてくれるだろう、これだけたくさんの星があるならば……
「さて、それでは私もこの辺で失礼しますね」
 背後で声。
 振り返ると、笏を立てたいつのも姿勢で美鈴へ向いている映姫と目があった。彼女は満足げに微笑んで、正門へと踵を返しこう告げた。
「私もまた、こちらまで足を運んでもいいでしょうか? 個人的な用件で……つまりまぁ、遊びにお邪魔したいのですが」
「え? あ、はい。もちろん、いつでもいらしてください」
「それは嬉しい、また来ますよ。久々に本腰を入れて裁いてみたい人に会いましたからね」
「えー……そ、それはちょっと遠慮したいなー、なんて……」
「はっはっは。何を言います、お気になさることなどこれっぽっちもありませんよ。あなたの裁判はとても楽しくなりそうだ」
「ひぃぃ」
 美鈴の悲鳴も、映姫は面白そうに笑い飛ばした。
 二人で門をくぐる。映姫は空を見ていた。
「祈っていますよ。私は遠い場所にいますが、その彼方より――」
 彼女は立ち止まると、最後に美鈴に向き直って口を開いた。
「彼方より、末に幸あれ……いつまでも変わらぬ平和と共に」
 笑顔で別れを終えると、映姫は滑るように夜空へと飛び上がった。
 美鈴は大きく手を振ってそんな映姫の帰路を見送る。彼女は笏で口元を押さえつつ、肩越しに美鈴の方を見てくれているようだった。やがて豆粒ほどになった頃、映姫は本格的に加速して闇の帳のどこかへと霞んで消える。

 美鈴はしばらくそこに立っていた。
 草原が生き物のように波打っている。荒々しさはない。湖水のような――凪の水面を思わせる静かな風景だった。
 満月の光が全てをあまねく照らし出す。彼女は目を閉じ、体から余計な力を抜いて胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。

 あぁ、今日も、
「平和だったなぁ」
 そしてこれからも、
「平和でありますように」

 美鈴は凛と表情を引き締めると、夜の幻想郷に背を向けて紅魔館へと向かった。映姫とフランドールの件をメイド長に報告しなければならない。
 それが終わったら再び門番だ。
 美鈴は羽が生えたような軽い足取りで、館へと歩いていく。
 夜風を感じながら、彼女は胸の中だけでささやいた。
 幻想郷に住む全ての人たちが――陽の下を歩けますように。

   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 太陽がさんさんと降り注ぐ爽やかな午後。
 美鈴は草原に横たわり、こっそり昼寝などしていた。
 メイド長が見たら笑いながら激怒しそうな姿ではあるが、すでにサボりは日常の一部なので後ろめたい気持ちとかそういうことは一切ない。
 美鈴はごろごろと猫のように喉を鳴らしながら、風に髪を遊ばせて寝入っている。
 やわらかい陽光が照らす彼女の顔は、幸せそのものであった。
 そして彼女は、夕暮にナイフが飛んでくるまで、ずっとそのまま眠り続けていた。
 幸せな顔のまま。平和の日々のひとコマとして。
1 CVをオンにしましょう。
2 パーティにオリビエを入れましょう。
3 「こーりんこーりん助けてこーりん!」と十回唱え、脳内フィルターでオリビエをこーりんに変換しましょう。
4 ヘッドホンを装着して余すところなく音声に聞き入りましょう。
5 酔いしれるぅぅぅ!

 対執行者戦の音楽を垂れ流しにしながらクロックアップ!
 本文はアレの発売直前に脱稿して、つい先ほどクリアした余韻に浸りながら、今あとがきを書いています。
 プレイタイム70時間オーバー(やりすぎた)という、シナリオにやたらボリュームのあるゲームを一つやり通してから文章を見直してみると、色々考え直すべき場所も見つかるものです。
 ……いやいや、この話題はこの辺にして。

   ■ ● ■

 改めまして、ご精読ありがとうございました。
 とにかく長くなってしまった拙作をお読みいただき、恐悦至極であります。
 しかしなんというか、これだけの量を費やしたにもかかわらずただひたすら登場人物が酒を飲んでくっちゃべっているのみ。……なんなんでしょう、これ。

 テーマの「酒」ですが、作者はお酒を飲まないほうでして……文中の酒の表現はおおむねイメージです。
 資料を調べているとき、意外にも“サントリー”や“月桂冠”などの酒販売会社のHPが一番お世話になりました。詳しいことが細かく書いてあったりしまして、皆さんも調べもののときには、その分野の大手会社のHPに当たってみるのが近道かもしれません。

 そろそろ四月ですね。皆さんに清々しい春が訪れますよう。
腐りジャム
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2006/03/24 09:28:08
更新日時:
2006/03/27 00:28:08
評価:
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POINT:
0
Rate:
5.00
1. 3 反魂 ■2006/03/25 01:52:54
話自体は良かったのですが、魔理沙が美鈴のことを「中国」と呼んだり、
小町はサボらないはずはない!的なことを映姫が言ったりと、
節々に話に不釣り合いな点が見られたのが違和感を感じました。
ギャグ物なら構わないと思いますが、シリアス物ではあまり「中国」などと
気安く呼ばせない方が良いかと思います。
2. 9 月影蓮哉 ■2006/03/25 14:57:46
美鈴愛されてるなぁと思いました。
こういう物語は好きです。純粋に楽しめました。
3. 4 落雁 ■2006/03/26 11:20:42
あーこりゃ点入れなきゃなー、と思わせる文章でした。変な評価の仕方でスミマセン。
4. 8 爪影 ■2006/03/26 19:47:02
美鈴を中国と呼んでいる事に、少し違和感を感じました。
5. 4 おやつ ■2006/03/26 22:35:57
愛されてるなぁ門番。
既に自然に中国を受け入れてるみたいだし。
明日も平和に、幸せに。
穏やかな時間が過ぎますように。
6. 6 水酉 ■2006/03/28 19:01:46
流石は「気を使う程度の能力」の持ち主か。
こういう方と飲む酒は美味しいのだよなあ。
7. 9 名前はありません。 ■2006/03/29 12:31:48
中国には他のキャラにはない魅力がありますね
中国×フランはやはり良いものです
8. 7 papa ■2006/03/30 19:07:23
この美鈴、いいなー。っていうか、素で呼ばれ方が中国だし!
9. 9 つくし ■2006/04/01 14:45:41
こんな美鈴と一緒にお酒が飲みたい。そう思わせてくれる、暖かいお話でした。ごちそうさまです。
10. 10 Fimeria ■2006/04/04 03:34:49
素晴らしい。
先ずはこの一言から、話は後だ

美鈴の本質と言うか、心情とか、雰囲気が素晴らしいほどに巧く表現されていると思います。
酒を交わしながらの会話に気軽でありながらも深い雰囲気が漂っていていつまでも読んでいたいと感じさせるSSでした。
フランに自分の考えを教える部分の会話は心のいろいろなところにストンストンと入っていき、優しく、暖かく、そして強く問いかけるように心に響いていくようです。
心情の表現も会話を引き立たせ物語に完全に引き込まれていくように感じました。
ここまで素晴らしいSSは久しく読みました。
ありがとうございます。

素敵な平和の日々のひとコマに12点ほどあげたい気持ちの10点を。
11. 10 かけなん ■2006/04/04 18:36:10
飲まないほうというのは、飲める年齢にはなってるが、ということ?
ならば飲まないのは勿体無い! 飲ま飲ま!

……そんな勧めていいもんでもない気がしますがね。

ほのぼのとした雰囲気がとっても好きでした。
長くはありましたが、すんなりと読めた。
いいもの、ありがとうございました。
12. 7 ■2006/04/05 17:45:04
はーとふる門番ストーリー…ステキ。
13. 5 藤村琉 ■2006/04/07 01:42:00
 うん。こう、真面目っぽい話で、中国はちょっと。
 本名で呼んであげましょうよ、という気分にもなります。
 全体的に、美鈴が妖怪という感じがしないのが何とも。いい人すぎます。人じゃないけど。
 まとめると、美鈴のお悩み相談室。
 最後の真面目モード、フランの流れはどうしても唐突な印象が。そこにもっていくための話だったのでしょうが、今までフランのフの字もなかったので唐突としか思えなかったのは残念。
14. 8 ■2006/04/09 03:08:33
何て幸せな日々。そして、何て幸せな人妖達。
15. 7 MIM.E ■2006/04/11 22:12:26
美鈴の人柄と酒の席が丁寧に描かれていて楽しく読めました。それぞれの場での言葉に意味を持たせて
フランに語りかける、こういった演出はとても気持ちが高揚して好きです。
少し言葉が多かったせいか、私には明瞭な一言ではフランへの美鈴の言葉を理解することはできません
でした。けれどもとよりそう言う内容なのかもしれませんし、多分一番上手いのはそういう事を聞く人
に心地よく語れる美鈴の話し方と雰囲気なのだと想いました。そんな自然で在れる彼女が羨ましい。
16. 4 床間たろひ ■2006/04/12 00:34:11
美鈴は良いキャラだなぁw
この娘とのんびり酒を飲むのは楽しそうですね。
17. 10 木村圭 ■2006/04/12 02:19:22
最初から最後までが流れるように繋がっていることに感銘を受けました。全ての世界に平和を。全ての人に幸せを。私には美鈴との酒の席を(ぉ
18. 9 とら ■2006/04/12 06:26:22
お酒で学ぶこともある。お酒でしか学べないこともある。
ほんわかと胸の温かくなる大変良いお話でした。
19. 10 K.M ■2006/04/12 20:11:43
美鈴と一緒に酒を飲むそれぞれの特徴とか話の構成力とか

最早「お見事」としか言い様がありません
20. 7 椒良徳 ■2006/04/12 23:29:49
御免なさい。時間がないようなので、コメントはまた後日書かせていただきます。
21. 8 名無し ■2006/04/12 23:49:08
まったりしていて凄い好みの路線です。
美鈴を中国って呼ばせる必要性があるのかはちと疑問。
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