夜よ少女を抱いてくれ

作品集: 最新 投稿日時: 2006/03/25 06:45:05 更新日時: 2006/03/27 21:45:05 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00



「何時頃かしらん?」
「さあ。ただ、どれだけ永く置いても、不味くなることはありませんよ」







 という会話が、ふっと思いうかんだ。
 はて。
 定位置に座り込んでぼんやり意識を飛ばしていると、時折、思い出の厚い地層の下からぷかりと浮かび上がるように記憶が蘇ることがある。がらくた漁りに出かける以外の大半を過ごす椅子の上で、寝ぼけた脳みそが寝返りを打つ拍子にふいっと現れるように、自然と。いまもまたつり積もった腐葉土の下から土に圧された泡が、層をすり抜けるように雑音のない頭の中に浮上し、広がり、そこで新鮮さを保ったまま蘇ってきた。
 真空保存というところかしらん。
 その記憶、不可解なほどぶつ切りなそれを思い出したからといってどうなることではない。等と言えるのはよっぽどそのことに興味がもてない限り無理だろう。あるいは、いろいろな事に興味を持ちすぎて、相対的に興味がなくなっているように見えるか、だ。
記憶というのは不確かだが、しかしその周辺にある雰囲気を一番鮮明に表現している。その場、その時の、匂い。浮かび上がった記憶はそれが一番強く残っている。短い応答はたぶん詳細は違っているだろう。それでいい。会話というのはそういうものだ。
 輪郭だけはわかるが、その内容、いつ、どこで、だれと、どういう経緯で、がわからないと手繰りようもない。思い出そうとすると霞をつかむようにすり抜けていく。暖簾に腕押し、というわけか。
 いやいや。
 思い出した。
 具合、運がいい。断片的な会話を包んでいた雰囲気が解けるように記憶の地層に触手を伸ばし、深く埋もれた断片をつなぎ合わせていく。シナプスが結合されていく、と言うと想像しやすい。実際の内容との相違はさておいて。
 匂いは古く陰湿で、しかしどこかほっとするようなところがあった。その雰囲気がどんどん広がって、そのときの情景が、薄ぼんやりと思い浮かんできた。
 酒の話をしていたのだ。甕に水で、酒、と漢字で書くたぐいの。同じようにこの場所に座って、隣に彼女が居た。八雲紫。
 彼女の甘い香りがふと漂ってくるような気がする。大輪に咲き誇った花の、噎せ返るような香気。腐り落ちる寸前のそれは蟲惑的に僕を誘ってくるようだが、それを扇子で押さえている。口元を隠す動作にいちいち匂い立つような色気がある、のだが、今はそういうことが主題ではない。惜しいかな。
 夏の、風鈴が涼やかな音を立てる夜に二人並んでぽつぽつと会話する。目の前に置いた酒瓶の封は切られておらず、一組の杯が空の器につやつやと蝋燭の明かりを反射して、店先の向こうに伸びる引き戸の格子が深緑の夜のなかにくっきりと沈んでいるのを、僕は見ていて、紫さんはにこにこと酒瓶を飽きることなく眺めていた。
 それだけだ。
 それだけ?
「いやいやいや……」
 なにかまだあった筈。喉に小骨が引っかかったような感じだが、思い出せない。
といつしか真剣に考えて背を正していると、入り口から差し込む夕日を遮って誰かがやってきた。
「と、あなたは心の中で思っている」
 不思議な形の傘を肩に置いて、くるくると回しながら入ってくる。そのまま流れるように対面の椅子に腰掛けた。
「なんですって?」
「うん?」
「あら」
 小首をかしげて、頬に手を置く。
「遅すぎた? 早すぎた?」
「会話をしましょう、紫さん」
「ううん、独り言」
「ならあっちを向いてしてください」
「うそうそ。うふふ」
 笑って誤魔化す。
 誤魔化される程度の笑いだ。その笑みで得たものは多いし、失くしたものも多い。八雲紫のことではなく、自分自身のことである。彼女のことなど知りようもない。知りたくあるかと聞かれたら、
「フムン」
 どう答えるだろうか。ひとの心のうちを知るのが楽しいと思えるような人間でもないし、しかし、永いこと生きている彼女がどう言う心持なのかというのは、たしかにちょっとは興味もある。
 森近霖之助も、ずいぶんと長い間、こうやって生きてきた。しかしその生き方はむごく薄っぺらなものだ。風体はふつうの人間と変わらないし、人格も人間や妖怪の枠をはみ出さない程度でしかない。ただ、ずっと長く生きている。だらだらと。本人はそれなりにしっかりと生活しているつもりだが、客観的に見れば、だらだら、という形容詞が相応しい過ごし方をしてきた。その有様はまさに過ごす、過去にしてしまうという行為そのもので、それはつまり、生きると呼んでいいのか判断がつきかねるような、そういう時間の過ごし方だった。
 八雲紫はどうなのだろうか。自分よりもずっと深いところに住んでいる、妖怪中の妖怪、大妖怪ともあろうものは、いったいどういう時間を歩んできたのだろう。
 下から覗き込むようにして、八雲紫が顔を近づけてきた。
「どう?」
「どう、とは」
「胴」
「貧弱ですけど」
「堂」
「腐りかけてますけど」
「如何」
「困りますよ。僕はいま、貴女のことを考えていたんですが」
「うふふっ」
 今度はうれしそうに微笑んでいる。齢を重ねた趣のうえに、百合のような童女の笑みが混ざり合って、それは八雲紫にしかできない笑みになった。独特な貌だった。西洋人形のような、オリエンタルなような、などという表現は彼女に似つかわしくない。姿という枠組みの中で形成されたものが、付け足したり欠損したり混ざったり諸々のことをしながら、気の遠くなる時間を熟成した末にようやくあらわれるかどうかのものが、八雲紫の外側を形作っているのだろう。それを単純な言葉で表現すると、美しい、ということになる。もうすこし言葉を足すと、胡散臭い、ということになる。美しさとか醜さとか言うものは些細な問題なのだ。相対的なものでも絶対的なものでもない。そういう、あいまいなものを操るのが彼女だから、もしかしたら美意識というものを弄って美人に見せているだけなのかもしれない。本当の姿は豚そっくりだとか。
 本当は豚だった紫さん。
 わはは。
 豚が傘を差して、流し目を向けたり。
 あっはっは。
 はぁ。
 恐ろしい。
 境界を弄るというのは恐ろしい。境界がなければ何も存在しない。すべてのものは須らく境界によって区切られているのだ。それを操る、まして、弄る、などという力を持つというのは、霖之助には想像もつかない。
 八雲紫は、八雲紫という種類の妖怪なのだろう。妖怪というからには正体もありそうだが、そんなものがなさそうなのが八雲紫という妖怪なのだった。
 だからその心のうちでどういう思考がなされているのかを知るものは居ないだろう。微視的な意味、他人のことは決してわからないというレベルの話ではなく、もっと巨視的な、夜空の星が何を考えているのかと同じくらいの意味で。

 夜空に広がる流れ星を今 見つけるために・・・

「ううん?」
 はて。
 何の話だったかな?
「そろそろいいんじゃないかしら」
「え?」
「んもう」
 と、怒ったような口調で、しかし顔は蕩ける様な笑みのままで、
「いまさらだから、ちょっとぐらい後になってもいい。永い永い刻の先での、そこですこし立ち往生してもかまわない。
 なんて……思っているとでも?」
 つつ……と白魚のような指を机に這わせて、すぅっと霖之助の鼻先に持ってくる。
 ちょんとつついて、もう一度、こんどは触れるか触れないかのところで、指先を止める。
 淫猥なぬくもりが鼻先に当たってくすぐったい。
 わかっているのか、微妙な動きでくすぐってきた。
 まるで絡めとるような動きなのに、綿毛が戯れるような。
「だぁめ」
 口元におろしてきた。
「そういうのも、ありよ? でも、なし、ってときも、あるの。私は今、猶予分まで使い果たした気分。だから」
「はやく」
「しよ?」
 紫の人差し指が、霖之助にはいっていく。







 ――好きになるって何なのかしら?
「はぁ……好きになる」
「うん」
「好きになる」
「そう」
「鍬になる」
「うん?」
「数寄になる。つまり、風流をですね」
「違う、違うわよう。漢字が違う感じよ」
「フムン。そんなことを聞かれても困りますよ」
「そうかしら?」
「わかりませんか?」
「実を言うと、よく分らないの」
「貴女でも分らないものがあるんですね」
「そんなにたいそうな私じゃないもの」
「そうなんですか?」
「そうなのよ? 意外とものを知らない女なの」
「あんな、なんでも知ってそうな振りして」
「何でも知ってるわよ?」
「じゃ、聞くことないじゃないですか。うそですか」
「そうなのよ。でもね?」
「はい」
「私が知っていることは、全部私に関係があるからなの。山の形とか、川の流れとか、物事の道理とか、月とか太陽とか、いろいろ。
 知らないことも知っているなんて、それは知っていることにならないわけ」
「あー」
「わかった?」
「恋に恋しているわけですね」
「そうそうそれそれ」
「そんなものはないんじゃないですか?」
「ん?」
「貴女が隙間妖怪で、境界を操るというからには、物事はすべて貴女のものなのでしょう。だったら知るも知らぬもなく、そんなものは意味のない判断の仕方じゃありませんか」
「だから、好き、というものは、ない?」
「そうかもしれませんしそうじゃないかも」
「んもう、そんなのばっかり」
「なにが、んもう、ですか。いい年して」
「ふんだ」
「だから……ああ、僕が悪かったですよ。八雲さんは可愛い」
「そう? もういっかい言って」
「僕が悪かった」
「そこじゃなくって!」
「可愛い」
「だれが?」
「八雲さん」
「はい、つづけて」
「八雲さんは可愛い」
「そうじゃないって?」
「もう知ってるってことです」
「あー。そっかー」
「あれ? 納得したんですか?」
「うん」
「そうなんですか」
「ふふふ」
「フムン」
「フムン。だって。うふふ、どう? やきもち?」
「なんでですか」
「あら。だって、私が恋を知ってしまっているのよ?」
「フムン」
「フムン」
「真似しないでくださいよ」
「ふっふっふ。ねぇ、森近さん」
「なんですか」
「今日から、霖之助、って呼ぶわね」
「はぁ」
「だから、わたしも紫でいいわよ」
「はぁ」
「うん、霖之助さん」
「はぁ」
「うんうん」
「はぁ」
「うんうんうん」
「あー。紫さん」
「うふふふ!」




 ――ねぇ、このお酒を開けるときに。





「うわぁ」
 びっくりしてひっくり返った。
 その勢いで、したたかに後頭部を打ち付ける。
「いてぇっ」
 ごろごろと転げまわって痛みを和らげようとするが、動き回ったせいで体中を椅子や机にぶち当ててしまい、運の悪いことに戸棚の角が小指に直撃した。
 ぎゃー
「わー痛そう。見ただけで痛いわ。あいたた」
 指を突き出した姿勢のまま、面白がるように
「いたたた」
 と茶化す。
「はぁ」
 少し落ち着いたところで、痛む節々を庇いながら椅子を立て直し、元通りに座った。
 八雲紫が何がしかやったのだろう。霖之助も紫も風景もそんなに変わっていなかったが、あれははるか昔の記憶だと思えた。
 今のが、引っかかっていた小骨だろうか。
 しかし、酒の話をしていたのではなかったのだろうか。記憶違いか、どこかで別の記憶と混じったのかしらん。
「ね?」
 と嬉しそうに問いかけられても、
「はぁ」
 としか返せない。
 夜叉のような顔をされた。
 ちびりそう。
「……もおー」
 ぱんぱんと机を駄々っ子のように叩く。浄瑠璃のように移り変わるその表情に、霖之助はついていけない。
 恋、か。
 恋と酒。
 関係なさそう。
 だが、関係があるからこうして思い出したのだろう。酒の話から引き出された、恋の話。二つは関係しているのだろうか。
 している、という妙な確信があった。だいたいこういう記憶は間違っていようがそうであるまいが関連付けて考えてしまうのが霖之助だ。それに、八雲紫が目の前にいて、そのうえで二つは関係無い別の話題だ、などと言うのは、それこそ不自然だろう。それくらいは彼女を信じてもいい。
 彼女のやりたいことをその中から思い出さなくてはなるまい。昔、記憶がもはや化石になるようなときを、もう一度思い出すのは努力してできるものではない。すでに八雲紫の手は借りたのだから、あとは自力で、思い出すのを待つだけだ。待たせてくれないが。
 思い出せなかったら、彼女はどうするだろうか? 怒って帰ってしまうかも。それはなんだか情けないし申し訳ない。わざわざ来てくれたのだ。きてくれたというのはつまり、なにか約束をしたのかしらん。
 約束。
 約束……。
 酒の約束。
 永いときを経ても不味くならない、もの。
 森近霖之助と八雲紫の交わした会話。
 森近霖之助と八雲紫の交わした約束。
「恋の、酒」
「そうよ……」
 二人で空けようと決めたのだ。
「ふたりで」
「ふたりで」
「貴女が思い立ったその日に」
 八雲紫の恋を、
 森近霖之助の酒を、
 ふたりで交わそうと……

「あー」

「あぁ?」
 変な声が口をついて出た。
「酒の話でしょう?」
「ええぇ?」
 こちらはすっとんきょうな声で。
「ラブの話だったでしょ? ミスった?」
「何ですって?」
「あ」
 ごく自然に目をそらされた。
「何ですかそれ」
「ううん?」
「ミスったて貴女」
「ううん? 違うわよ? いい間違えよ?」
「ちょっと……なにしてんですか貴女……」
「ち、違うわよう。本当に押し間違えただけなのよう」
「もういいですけど結局間違えてるんですか」
「あら、そこは本当よ」
 開き直ったように微笑み、そこは本当、ともう一度言った。
「じゃあ、思い出すまで、私の気持ちの移り変わりを教えてあげる」
 そんなことを教えられても困る。もう少しで手が届きそうな、しかし思い出せない約束事の、その心持を聞くなど、それは順序の前倒しで、思い出したときにもう一度聞きなおさなくてはその気持ちの意図がつかみ取れまい。つかみ取らせまいとしているのか、それにしてもすわり心地のわるい印象を受ける。
 霖之助が答える、その後のことを話そうとしているのは、そもそも真意を隠すためだろうか。いや単に手順の省略かも。
 されるとこまる。
「……止めてください」
「それを貴方が言うの? 思い出せない、貴方に」
「思い出せるかとかではなく、それをきいてしまえば僕の気持ちが変わります」
「何を言っているのか、わからないのに?」
「いま、こうして聞いていない間にも、気持ちというのは変わります。けれどもあなたの言おうとしていることは気持ちの遣る先を急にしてしまう。自然ではない。そんな気構えで貴女との約束を思い出しても、僕は、納得できません」
「あなたは今、自分が満足できるかどうかで私を測ったわよ」
「はい。とても申し訳なく思います。しかし貴女は僕の記憶に手を出しました。それをしたのは僕のふがいないせいですが、一度手を出してしまった以上、僕はもう貴女の手を借りるわけには行かない。それでは対等ではないでしょう」
「一度はいいの」
「紫さんの顔は、一度までです……」
 対等ではなかった。これはただ見栄を張っているだけだった。だが、ふつう男は女に見栄を張るものだ。その、見栄、自分の皮を張る場面を選ぶのが重要なのだが、たいがいの人間は間違える。霖之助も言ってからしまったと思ったが、一度口に出した以上引っ込めるのはあまりにも無様すぎた。
 やべぇ。
 マジ思い出せない。
 猶予はもう無い。すでにいまは答え合わせの時間なのだ。いや、八雲紫からしてみればそもそも謎掛けでもなんでもなく、ただ約束を果たしに来ただけで、そう思うとほんとうに自分は本当に馬鹿なんじゃないかといままで生きてきた中で初めて霖之助は思う。その馬鹿に根気強く付き合ってくれている彼女に、いまさら見栄など張ってもしょうがない。自分はむしろ土下座してでも教えてくれと請う立場にあったのだと拒否してから痛烈に思い知った。ここはあせるべき場所ではないのか。急に胸の辺りがおもぐるしくなってきた。
 しかし自分が忘れていることを八雲紫が覚えているとは、なんとも珍しいことだ。細かいことも大雑把なことも気にしないし大切なことも大体忘れている彼女が、どうして自分との約束を覚えているのだろう。気まぐれというのが一番それらしく思えた。そういう関係の単語が似合うひとであった。
 いや。
 そうでは……ない。
 猶予が無い、気分。
 待っていたのか。
 それはつまり、忘れることもできないほどの、それは大切なもの、ということだ。太古といってもいいほどの過去に、それほどの大切な約束を自分は交す。
 そうか……
「紫さん」
「はい」
「僕はその約束を覚えていません。そして、思い出すこともできないでしょう」
「……」
 森近霖之助は妖怪だが、人間に近い。そのあたりは曖昧だった。曖昧というより、区別が無いのかもしれない。妖怪のように指向性が無いわけでもなく、人間のように寿命があるわけでもない。ふたつの種族にもっとも足りないものはそれらであった。霖之助はその両方を持っているかもしれないしいないかもしれない。ただひとつだけ、自覚していることがあった。基盤のあやふやな自分は大きな出来事を受け止めることはできず、その事象をただ横から見ていることしかできない。自らが支えればあっというまに押しつぶされてしまう。それはつまり、そういう、他人事を伝聞する役目、まるで書割のように過ごすことしかできない、ということだ。
 八雲紫との約束は、重い。
 森近霖之助では、支えきれない。
 永い……永いときですら、二人は生きていけるが、それは歌姫がゴンドラに揺られるように……ただ、それだけだ。
「紫さん」
「貴女の力は、強力だ。とても、強力だ。だのに、なぜそれを僕に使おうとしなかったのですか。 僕に境界が無いからですか。しかしあなたの力はそれすら弄れる。境界がない、ということは、その時点ですでに区切られています。それを行わせないものも確かにあるでしょう。しかし、僕にはできるはずだ。僕、というものは、たしかにここにいるのだから。さっきも一度やったはずです。
 貴女は分ってやってきた。その上で、約束を果たそうと言った。その気持ちを知りたくありません。僕はそんなに強い男ではないんです。
 僕は貴女との約束を果たせません。どうか勘弁してほしい」
 恋することは誰にでもある。八雲紫だってあるだろう。恋とはそういう類のものだ。彼女との約束、というのは、おそらく、そういうことなのだろうと当たりはついた。それはしかし、霖之助には無理だった。恋は、ふり幅が大きすぎる。
「そう」
 と八雲紫はつぶやく。
「あなたは駄目なのね」
「はい」
「そう……」
 ゆるゆると背凭れに体を預けて、扇で顔を隠した。瞑目する。漂っていた馨しい雰囲気がなくなり、妙に淋しげで、色彩が色あせてゆく。長く差し込む夕日の最後の光が木々の間に消えて、蒼い宵闇が二人の間に沈んだ。
 それで終わりだった。二人の間の約束は、果たされること無く日とともに沈んでいった。
「けっこう効くわね」
 ぼそりとつぶやく。扇で顔をかくした彼女の表情を霖之助はうかがうことができない。蒼い世界はすぐに夜へ移り変わる。その間だけ彼の前に座る八雲紫は一人の女だった。
 霖之助は立ち上がり、手元のランプに火を入れる。深く広い闇がそこだけ灯に押し広げられて、夜の時間が来た。
「お酒を飲みましょう」
「はい……」
 机の下で埃を被っていた一升瓶を取り上げて、封を切り、忽然と机の上に現れた猪口に注いだ。
「乾杯」
「乾杯」
 一口含んで、舌の上で転がす。じっくりと堪能してから、のどの奥に迎え入れた。
 そういう動作が必要な酒であり、刻だった。
 この酒はいったいどこで手に入れたのだろう。という疑問が思い浮かんで、即座に晴れた。誰の手にも渡らずにずっと霖之助の手元にあった酒は、時折器を入れ替えながら、時が来るのを待つようにいままでこの机の下で埃を被っていた。それをいまごく自然に手に取り開けたのは、霖之助の意思だけではないだろう。酒が、飲め、という意思で、八雲紫との間に置かれた。これはあの時の酒、はるか昔に霖之助が約束したもの、なのだ。
 酒は軽い。約束に比べたらずいぶんと。それは霖之助が抱えられる程度の、ちょうどいい重さだった。
「分っていたから、ここに来たの」
「え?」
「あなたは約束を破るだろう。そして、私は恋に破れる。怖かったけど……でも、本当のことを言ってあげる。あなたは約束を果たした」
 深い森の奥に広がる湖畔でひっそりと咲く水仙が悲しむような笑顔で、
「私はこのお酒が飲みたかったの……今の心持ちで、飲むお酒が。
 とても染みる……」





自分に正直にいきましょう、という、お話です
ルドルフとトラ猫
http://plaza.rakuten.co.jp/phantom38/
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作品集:
最新
投稿日時:
2006/03/25 06:45:05
更新日時:
2006/03/27 21:45:05
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1. 10 月影蓮哉 ■2006/03/25 16:57:05
これはまさに俺のために書いて下さったような作品でございますですなぁ。
もう文章ひとつひとつで参ってしまいました。
やっぱこの2人、最高。途中にあったちょっとエロティックな描写で悦に入ってしまいました。
いやいや、素晴らしい作品をありがとうございます。
これだけでお腹一杯です。
2. 6 S某 ■2006/03/25 17:08:16
正直すぎると受け入れられないこともあると思います。
しかし上手いな、無理なく過程を飛ばしている。
惜しむらくは、全体的に想像もつかないところでしょうか。
3. 9 名無し妖怪 ■2006/03/27 05:52:50
アダルティ〜〜〜!
大人の世界を垣間見た気分です。いやん。
4. 3 爪影 ■2006/03/28 16:42:12
積み木。
5. 4 名前はありません。 ■2006/03/31 20:18:17
霖之助らしさが出ていると思います
終わりの一文がちょっと尻切れトンボ的な感触はありました
6. 7 つくし ■2006/04/02 14:49:24
静謐な音楽のような文章が非常に心地よかったです。ごちそうさまでした。
ゆかりんかわいいよゆかりん。
7. 7 Fimeria ■2006/04/04 01:37:57
八雲 紫の恋、胡散臭い彼女の恋心と言うのは想像できなかったのですがこの作品で漸く感じ取れたように思えます。
胡散臭い紫も女性なんですね、いやはやなんか可愛い……いや、綺麗?

文章の面ですが霖之助と紫の会話がとても魅力的でした。ラブラブですね
ただセリフだけで進むことが多いような気もしました、途中に人物がどのような挙動で、また心情でそれを言ったのかの補足が付くのも良いかと思います。
もちろん意図的にこのような会話方法を選んだとも思えますが。どっちがいいんだろう……あまり分からないけど一応と言うことで。

太古の酒の約束、破れた恋、果たされた約束、自分に正直に
堪能させていただきました、7点です。
8. 4 おやつ ■2006/04/05 04:28:37
この二人はどっちも胡散臭いと思いますw
自分に正直に……というのは大事ですよね。
9. 6 水酉 ■2006/04/05 07:08:45
嬉しい酒は嬉しい味。悲しい酒は悲しい味。
酒はその時の気分でその味を変えます。

このテーマだと、ネタなしシリアス一本勝負だったら
もっと良かったな,とかちょっとだけ思ったりも。
10. 3 藤村琉 ■2006/04/07 02:01:17
 このカップリング流行ってるのかなあ。
 というかこうなると半分以上オリジナルかも。
 紫も何かキャラ違うし。まあそこは恋する乙女モードになってるからかもしれませんが、そもそも恋する乙女モードの紫が想像できませんし、それを読み手に想像させて補完させるだけの描写もエピソードも足りていません。
11. 8 ■2006/04/09 03:38:58
よしこーりん、ちょっと体育館の裏で語り合おうじゃないか。正直に肉体言語で。

それはさておき、とても綺麗な作品でした。ごちそうさまです、いろんな意味で。
12. 4 かけなん ■2006/04/10 02:59:45
ちょっとまてなにをするんだウボァ
13. 6 反魂 ■2006/04/11 01:36:08
約束は交わされることなく 揺れている恋は泡のよう
振り返る貴方を抱き寄せて もう一度キスしたかったぁ〜…♪

なんっつうめくるめく不思議ワールド。堪能した。
14. 5 papa ■2006/04/11 02:04:07
なにこの一風変わったカップリング。なかなか珍しいですね。
途中、どう見てもエロです、と思ってしまった自分はもうだめだ。
15. 7 MIM.E ■2006/04/11 21:42:44
八雲紫という妖怪がはたしてこういう存在かどうか。それを是として読むならば、この紫さんは
とても可愛く、心情がよく描かれていると思いました。あるいは私の思い込みかもしれませんが。
好きになった人と話す楽しさ、自分を見せて反応に一喜一憂する、二人の心情で出来ている世界。
だから、正直に話した霖之助の潔さが理解できて、「けっこう効くわね」と言う彼女の心情も強く
私の心に残りました。それでも彼と一緒に酒を飲んで時間をすごせる嬉しさを悔しく思う、そこ
までの一途さを紫に求めたくなったのは是か非か……。
16. 8 木村圭 ■2006/04/12 02:59:27
よし、霖之助殺す。自分に正直に生きるんだ止めてくれるないやむしろ誰にも止められな(スキマ
重いことこの上ない空気はとても心地よいと呼べるものではなく、むしろ重苦しいくらいだというのに。どうしてだろう、全神経が吸い寄せられて離れないのは。
重い重い空気が、言葉を奪う。重い重い想いが、心に染みる……。
17. 7 とら ■2006/04/12 05:09:13
はたしてその酒が美味いのやら不味いのやら。
18. 4 二見 ■2006/04/12 20:30:02
うまい感想を言う事ができません。
でも雰囲気に流されてしまいそうなお話でした。
ああもどかしい。
19. 6 床間たろひ ■2006/04/12 22:42:38
苦い酒もまた思い出に刻まれるべき、希少なる味。
それでもまだ紫の言葉に胡散臭いものを感じてしまうのは、俺の心が穢れている所為なのか……だろうなぁw
テンポの良い会話が素敵でしたw
20. 6 K.M ■2006/04/12 22:43:07
いや、その想像はさすがに酷いと思うぞ?(w

はたして、最後に飲んだ酒の味や如何に・・・
21. 1 椒良徳 ■2006/04/12 23:39:20
御免なさい。時間がないようなので、コメントはまた後日書かせていただきます。
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