『酒(さか)道』

作品集: 最新 投稿日時: 2006/03/25 07:01:35 更新日時: 2006/04/19 03:04:18 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00



「ふむ……今年の米は良い」

 手に掬った白米を床に敷いた藁半紙へとさらさらと零す。三昼夜掛けて精米した白米は雪のように白く輝き、掬った掌から心地よい音をたててすり抜けていく。
 以前は違いなど判らなかったが、やっと手触りできちんと精米出来ているかどうかを、感じ取れるようになってきた。米櫃に右手を差込み、何度も掬っては手触りを確かめていく。

「む」

 僅かな違和感。今掬った分から僅かに引っ掛かりを覚えた。その分を選り分けておいて、改めて米櫃に右手を突っ込む。何度も何度も繰り返し選り分けを終えると、違和感を覚えた方の山を改めて精米する。
 米一粒たりと無駄にしてはならぬ。それが礼というもの。この米を作り上げた農家の親父に対して。土に水に風に太陽に……そしてこの米そのものに対しての礼。それをおざなりにするくらいなら、腹でも掻っ捌き大地の養分となった方がマシだ。
 精米機の前に立ち抱えた米を流し込んで、ゆっくりと丁寧に精米を繰り返す。丁寧に、丁寧に精米機を回し、時折右手を差し込んで手触りを確認しながら、丸一昼夜。

「ふむ」

 見事に白く輝く白米の山。再び右手を差込み、米の山を手に掬う。
 さらさらと、指の隙間を抜ける感触と心地よさに満足する。
 童子のように何度も掬っては零し、掬っては零して遊びながら、満悦の笑みを浮かべた。

 うむ、今年も良い酒が出来そうだ。














                  『酒(さか)道』








 白く輝く白米を、清水にて糠やゴミを洗い落とし樽に漬ける。後で使う水もそうだが、この水を選び出すのに難儀した。清ければ清い程良いだろうと思い深山の岩清水を使った事もあったが、仕上がった酒はどうにも味が硬い。
 何度も何度も試み、結局一番美味かったのが、この米の取れた田に引いている川の水。
 拍子抜けするとともに、成る程と得心もした。
 どうやらそういうものらしい。
 生み出す水に育てる水。ならば磨く水もまた同じ。これもまた縁というもの。人も酒も同じという事だ。
 しっかりと米に水を吸わせて、きちんと水切りする。さて、今度は蒸しだ。蒸米の作業には体力と繊細さが要求される。五つ並べた竈の前に薪を山と積み上げ、下準備をきちんとしておく。火加減にムラがあっては満足のいく蒸米は出来ない。
 覚えたての頃はこれで何度も失敗したものだ。途中で薪が尽き慌てて取りに行ったものの、結局もうその米は使い物にならなくなっていた。その時は悔しさのあまり涙を零したものだ。
 よもやこの年齢で悔し涙を流す羽目になるなど思いもしなかったが、湧き上がる怒りをどうしても抑え切れなかった。己の未熟さに涙を流すなど、一体どれ程昔の事だったろう。
 遠い過去を思い、そして今の己を振り返る。
 『成った』などとおこがましい。
 どれ程の年月を重ねようと、未だ道の途中という事だ。

「薪は良し。どれ、空は……」

 外に出て空を仰ぐ。風と湿度を肌で感じ、雲と太陽を目で見る。途中で雨が降りそうなら日を改めようと思ったが、この分なら当分の間は大丈夫そうだ。雨によって湿度が変われば、蒸す時間も火加減も変えねばならぬ。未熟なる我が身であれば、途中で火加減を変えるような事態はなるべく避けたい。
 竈に薪を並べ蒸し器を載せ、米と水を注ぐ。特に水の分量に注意し、慎重に注いでいく。
 さて、これで準備は出来た。
 これから蒸し上がるまで、眠る事も席を離れる事も許されない。

「ふむ、今のうちに一服しておくか」

 外に出てどかりと腰を下ろし、縁側に置いておいた煙管と刻み煙草を詰めた朱塗りの箱を手に取る。雁首にとんとんと煙草を詰め、そっと火を点した。すーっと吸い込むと紫煙が肺を焼く。まだ新しい葉のせいか、少しばかり青い味がした。
 ふと思い立って煙を口に溜めると、ぱかりと口を開けてとんとんと頬を突付いた。ぽわぽわと空に浮かぶ円環の煙。ぽわぽわと輪を広げながら、青い空に散っていく。
 懐かしい。これをして見せると、あの方が拍手をして笑ってくれたものだ。
 煙草を味わうというよりも、その芸のために吸う事の方が多かったような気もする。
 思い出を乗せて空に浮かぶ煙の輪。大気に溶け込み見えなくなろうとも、それは決して消えた訳ではない。この空に散って空の一部になるだけ。

「身体は土に、想い出は空に還る……それだけの事……

 さて、始めるか」

 煙管の灰を土間に落とし草鞋で踏み消すと、薪を並べた竈へと向かう。
 これからは戦場だ。火と水と己との闘い。一瞬たりと気の抜けぬ戦の始まり。
 袖をまくり竈に火を点す。開戦の狼煙が上がり、炎は燃え上がり、もはや撤退も敗走も許されぬ苦しき戦いが幕を開ける。火が弱まれば薪を足し、強すぎれば空気窓を調整。今の炎に惑わされてはならぬ。一瞬先の炎の形を予測し、その大きさを揃えなければならない。蒸し器から水蒸気が上がり、竈の周りは猛烈な熱気に覆われる。蒸すといっても炊飯とは勝手が異なる。水と米を一緒に蒸すのではない、米を入れた籠を水蒸気で蒸すのだ。
 土間にもうもうと湯気が立ち込め、初冬だというのに早くも額から汗が吹き出る。刻一刻と変化する炎に追われ、汗を拭う暇もない。酒造りにおいては、この蒸し作業こそが要。さばけの良い外硬内軟な蒸し米に出来るかどうか。全てはそこに掛かっている。
 強すぎてはならぬ。弱すぎてもならぬ。こうと定めた火加減を維持せねばならぬ。
 流れた汗が目に入り視界を遮る。手の甲で拭いながら視界を確保。左の竈の火力が足りない。右手で薪を引っ掴み、竈に投げ込んで風を送る。轟と吹き上げる炎が睫を焦がすが、その程度で視線を逸らしはしない。踊り狂う炎を眼光にて制す。もうもうと立ち込める蒸気。噴き出した汗が吹き付ける炎で乾き白く塩を噴く。首元をなぞるとばらばらと音を立てて地に落ちるが、そんなものに気を留める余裕はない。
 喉が渇く。眼球がひり付く。身体が悲鳴を上げている。
 まだだ。まだ戦いは続く。この程度で泣き言を言う程、やわに鍛えたつもりはない。気を抜くな、炎を感じろ、匂いを嗅ぎわけ成すべき事を見極めろ。ほら、まだ火力が足りないとの仰せだ。もっと、もっと、もっと!
 
 日が落ち、宵闇が広がり、深い夜が訪れる。
 白い真円を描く月が東の空に浮かぶ。輝ける星々は月の美しさに恥じ入り波長を弱め、白い月は自らを誇るように輝きを増す。
 ひょうひょうと音を立て風が流れる。もうじき冬。吹き抜ける風は身を切るような冷たさで、木々にしがみついていた枯葉を容赦なく吹き飛ばす。
 遠くに聞こえる川のせせらぎ。穏やかで、絶える事ない流れの音。普段は意識の外に追いやっていようとも、こんな夜にはふとその静かなる音を思い出す。
 白い月が、天頂を過ぎて西の空に掛かり、
 吹き抜ける風が、木の葉を渦で押し流し、
 穏やかな川の流れの中、一匹の魚が飛び跳ね、水音を僅かに変化させた時、


 炎との闘いは―――終わりを告げた。

  
「ふむ……」

 蒸しあがった米に満足の笑みが零れた。
 柔らかく甘い米の匂いに、ぐぅと腹の虫が反応する。そういえば昼から何も食べていなかった。汲み置きしておいた水を柄杓で掬って飲んだきりで、いい加減胃袋が何か喰わせろと吼え、汗を流し尽くした身体が塩分を求めている。荒塩を塗した結びでも喰いたいところだ。
 だが、まだだ。まだ休む訳にはいかない。

 炎との闘いは終わった。

 次は――時間との闘いが始まる。

「よっと」

 座敷に先日作ったばかりの真新しいむしろを広げ、蒸しあがった米をそれに並べていく。
 手際が悪ければ、折角蒸した米の熱が冷める。いや冷まさなくてはいけないのだが、冷ます温度にムラがあってはいけないのだ。一秒たりと無駄には出来ない。手順の最適化を図り、手早く、均一に、満遍なく。
 立ち込める湯気とむしろに晒された米で、たちまち座敷は白く染まる。蒸しあがった米を冷ます放冷作業。冷ましすぎてもいけない、熱すぎてもいけない。わざわざ扇いで風を送る必要はない。このまま晒すだけで自然と熱は抜けていく。
 ただひたすらにじっと待ち、立ち上がる湯気が薄れ、人肌くらいまで熱が引いたのを見計らって、もやし(注:麹菌の事)を撒いた。広げたむしろを順に廻りながら、少しずつ少しずつ撒いていく。
 ムラが出来ないよう、慎重に、慎重に。
 白い米の絨毯に深緑のもやしを塗す。偏りがないか慎重に確かめる。何度も何度も確かめるが、時間を掛ければ熱が逃げる。手早く、かつ慎重に。
 先程の炎との闘いで失われた体力は回復していない。目が霞む。身体が休息を求める。
 内臓が、筋肉が、不満の抗議を上げている。休ませろ、休ませろ、と。
 五月蝿い、黙れ、甘えるな。もう少しだから辛抱しろ。
 満遍なくもやしが撒かれた事を確認して、むしろに晒した米を麹室(むろ)に移し変える。量が量だけに抱えた両手と両膝が哂う。だが休む暇などない。麹室に移し変えるのに手間取っては、今までの苦労が水の泡だ。
 杉板を組んで建てた麹室。去年までは、新しく建てた麹室という事もあって、どうしても酒に杉の匂いが残っていた。今年は違う。時の流れに晒され、組み上げた板一枚一枚が麹室として覚醒しつつある。酒造りの根幹、麹(こうじ)はこれからも此処で何十年と産み出されるだろう。そのための産屋として、この建物は「成って」きたのだ。
 麹室に詰まれた木枠と桶に、蒸し上がった白米を並べていく。米を詰め、木枠で囲んで段重ねし、熱気と水気が逃げないようにする。麹室一杯に木枠を積み上げ、室温と湿度を一定に保つべく屋外に設置した竈に火を入れる。火加減を見ながら調整し、炎が安定したのを確認して、ほっと一息吐いた。
 外に出て、月と星の位置で時間を割り出すと、次の手順を頭の中で復唱する。これから発酵により米から麹と成るまでに約二日。
 その間、常に温度、湿度に注意し、時折手で切り返してやらねばならない。
 勿論、その間は眠る事など許されない。許されないのだが……

「だが、まぁとりあえずは……」

 麹室の壁に寄りかかったまま、ずるずると腰を下ろす。
 疲労が溜まり、腹は減り、喉はカラカラ。
 それでも――

「一服させて貰おうか」

 煙管に火を点し、夜空に煙を薄く長く棚引かせる。
 すきっ腹に煙が染みる。だけど決して悪い気分じゃない。
 何かを生み出す労苦。何かを育て上げる労苦。
 それはむしろ――

 白い月はとうに眠りにつき、東の空が僅かに白んでいる。
 星たちはその姿を隠し、東の空に浮かぶ明けの明星だけが、夜の終わりを彩っている。木々の隙間から差し込む朝日。その眩しさに目を細めながら、

「あぁ……いい朝だなぁ……」

 そう呟いて、もう一度だけ紫煙を深く吸い込んだ――








 蒸米に仕上がった麹と水を混ぜ合わせ酒母を造る。麹によって蒸米が発酵し、酒のもとになる「酒母」が仕上がるまで約二十日。その前にムラなく発酵するようしっかりと掻き混ぜておかねばならない。
 半切桶に入れた蒸米に麹と水を注ぎ、櫂(かい)で磨り潰すようにかき混ぜ続ける。もと摺りと呼ばれるこの作業は、根気と体力の勝負だ。単調な作業の為、気を抜くと表面を撫でているだけという事にもなりかねない。
 しっかりと腰を入れて桶の底から掻き混ぜる。単調な作業では、特定の筋肉しか使わず疲れが溜まりやすい。憶えたての頃は、酷い筋肉痛に悩まされたものだ。少しはコツが飲み込め、今でこそ少しは楽になったのだが、それでも辛い作業には変わりはない。
 日が昇ると同時に摺りはじめ、数時間おきに何度も何度も掻き混ぜる。
 日が落ちても作業が続く。ムラなくしっかりと櫂に手の跡が残るほどに握り締め、手先ではなく身体全体を使って摺る。一つの桶だけではない、ズラリと並んだ全ての桶を順番に混ぜていく。
 全てを一人で行っているので休む間もない。冬だというのに汗が滲んで視界を塞ぐ。袖で拭いながらも手は休めずに何度も何度も摺っていく。
 何度も何度も……精魂込めて。
 丸一日使って摺り続けた後は、再び蔵に戻す。後は二十日間じっくりと寝かせて発酵を待つのだ。温度調節に注意しながら、後は時が来るのを待つのみ。
 今までの手順では特に問題無かった筈。さてさてどうなるか……

 日が昇り、日が沈み、段々と夜が長くなっていく。

 暖かい日もあれば雪がちらつく日もある。心を占めるは酒の事。毎日、温度や湿度を確かめているが、基本的にはお天道さん任せだ。気温が高くても低くても、発酵にムラが出る。ある程度は仕方のない事とはいえ、祈らずにはいられない。
 そう、どれだけ人が精魂込めようとも、どうやっても神さま任せの部分は出てくる。

 だから祈るのだ。願うでもなく、請うのでもなく……お願いします、と。

 若い頃は神仏など信じていなかった。いや、今でも信じてはいない。
 だけど、それでも祈るのだ。
 それは名前を持った神様等ではなく、
 天上で見下ろしている神様でもなく、
 すぐ隣で欠伸を噛殺している神様に、
 森や、空や、土や、水に宿る神様に、
 家や竈や便所にすら宿っている神様に、

 自分自身の身体も含めたこの世界の我以外の全てに……

 一つ、よろしく、と。



 
 二十日間過ぎて良質の酒母が出来あがった時、私は自分の年齢も忘れ小躍りして喜びを表した。
 大声で笑いながら、両手を広げ、庭中を犬のように駆け回る……誰も見ていなかった事が幸いであった――





 出来上がった酒母を添桶(そえおけ)に移し、醪(もろみ)の工程に入る。
 初めに「初添え(はつぞえ)」。酒母に水と蒸米と麹を加えて櫂で掻き混ぜる。この時注意すべきはその比率。慎重に少しづつ確かめながら加えていく。
 実を言うと、未だに最善の比率は判っていないので毎回探りながら作っている。私が師事した杜氏は、目分量でどんどん水や麹を加えていた。それでいて毎回同じ味の美味い酒を生み出していたのだ。経験と勘でその時々に合わせた分量が判るのだという。未熟な私は探りながら加えていくしかない。学ぶ事、知るべき事はまだまだ山積みである。
 次に「踊り」。といっても何もする事はない。「添え」の後の経過を見るだけ。だがこの時に味や加えた水の量などを正確に記録し、次の仕込みの時への資料として残しておく。
 酒造りを初めて十年。書き留めた雑記帖はすでに三冊目。失敗の記録でもあるが、同時に私が生きた証でもある。細かい文字でびっしりと書き留められた雑記帖。読み返せば、当時の思い出が克明に甦る。こいつを読み返しながら出来上がった酒を飲むのは、私にだけ許された最上のつまみだ。

 ほろ苦い思い出が、噛み締めた唇が、流した涙が、酒の味を甘くする。
 これだけは、誰とも共有できない私だけの特権である。

 そして「仲(なか)」。一日置いた後、再び水と蒸米と麹を加える。この時に注意すべきも分量。雑記帖をみながら慎重に加えていく。
 最後に「留(とめ)」。「添え」から4日目。醪と同量の水、蒸米、麹を加える。そして低温を維持する為の地下に設けた蔵へと運び、ゆっくりと発酵させるのだ。

 そして半月程置いて、醪の完成となる。
 
 発酵して白く泡立つ醪。酒の匂いがぷんと鼻につく。それだけで酔いそうな濃厚な酒の匂い。雪のように白い泡。見ている最中にも少しずつ泡立ち、酒が生きている事を主張している。昨年以上に元気が良い。見ていて思わず頬が緩む。うむ、これなら今年は良い酒になりそうだ。

 名もなき神様に、自然と手を合わせる。

 心からの感謝を込めて――






 さぁ、最後の仕事だ。
 出来上がった醪を濾し、新酒と酒粕に分ける。布張りの桶を通して少しずつ濾していく作業は重労働ではあったが、事ここに至っては疲れなど感じない。濃密な酒の匂いが蔵中に広がる。
 もしかしたらすでに酔っているのかもしれない。我慢しきれず濾したばかりの新酒をちびりと舐めてみた。ぴりりとした刺激が舌を刺す。ごくり、と喉が鳴るのを堪えながら何度も何度も濾していく。
 濃厚な匂いが、白く濁った酒が、おいでおいでと手招きしてる。

 ほら、美味しいよ。お一ついかが? 

 濃密な酒気に誘われ、思わずふらふらと陥落しそうになり、慌てて頭を振って誘惑を断ち切る。ひょっとしたら、この欲求を抑えながら作業を続けなければいけない事が、酒造りで一番辛い事かもしれない。

「うむ、間違いない」

 自分の思いつきに一人頷き、笑みを零す。
 酒造りの『真理』を得た気がした。




 しっかりと濾した新酒に火入れして、用意した樽に注ぐ。
 この樽が酒の寝床。後は春までじっくりと寝かせるだけ。
 桜の季節を思い浮かべる。

 当たり前のように……そこにはあの方の笑顔がある。

「さて……喜んで貰えるかな?」

 今年の酒には自信がある。後はお天道さん次第。
 勿論、寝かせている間も常に気を抜く訳にはいかないが、とりあえず私に出来る事は全てやった。だから後はもう……
 
 私は再び手を合わせ

 諸々のものに祈った――
 











 暖かい日差しと柔らかな風。
 咲き乱れる桜は風に舞い、世界を薄紅色に煙らせる。
 果てが見えぬ程に敷き詰められた桜並木。そしてその中心には、決して花を咲かせる事のない老桜の妖樹がある。黒く巌のようなその樹皮は、薄紅の世界の中で墨染めに染まりただ一人の孤高を誇っている。
 死者の魂が集う場所『白玉楼』
 幾千、幾万、幾億の年月を経ようとも、きっと変わらずそこにある。
 そう思わせる程、穏やかで優しい空気の流れる場所。それが白玉楼だった。

 大きく開かれた障子、そこは桜舞い散る庭が一望できる、白玉楼で一番良い部屋。そしてその部屋は、当主である西行寺 幽々子がいつもお茶を飲んでいるお気に入りの部屋でもあった。食事をする為の居間であり、大切な友人を迎える為の部屋であった。

 そして今……私はその部屋で、幽々子様と向かい合っている。

「幽々子様。今年出来た一番酒で御座います」
「えぇ、頂くわ」

 差し出された杯にとくとくと透明な酒を注ぐ。
 杯を持つ両手は白魚のようで、一瞬だけその白さに目を奪われた。内心の動揺を押し殺してそのまま酒を注ぐ。
 ちらりと顔を上げると、いつものようににこにこと笑う顔があった。どうやら全てお見通しらしい。

 敵わないな、と今更のように実感した。だが、それが何よりも喜ばしい。

「では……お願い致します」
「えぇ……それでは」

 幽々子様が笑みを消す。真剣な眼差しで私の酒と向かい合う。
 瞳を閉じて注がれた酒を口元へと近づける。
 まずは香り。そしてそっと杯に口を近づけ、最初の一口を口に含む。
 そしてそのまま杯を傾け、一息に私の全てを飲み干した。

「ふぅ……」
「如何でしたか?」

 私は酒造りに自分の全てを掛けた。丁寧に、慎重に、自分の持てる全てを注ぎ込んで。
 だからこの酒は私自身。私自身の生き様を、幽々子様に見て頂いたのだ。
 今年の酒には絶対の自信がある。今年こそ幽々子様を満足させてみせる。

「……硬いわね。辛口で味わいは豊か……でも、少しだけ鼻につく硬さが残っている」
「う……そうですか……」
「硬いのは悪い事ではないけれど、もう少し遊びが必要かしらね?」
「はい……精進致します」
「あーほらほら。まーた顔が曇ってるわよー スマイル、スマイル♪」
「そ、そう言われましても、性分ですので……」
「全く……そういう生真面目さが、良くもあり悪くもありね。
 そんなだからお酒も硬くなっちゃうのよー ほぅら、笑って笑って」
「え、えと、その……勘弁して下さい。幽々子さま」
「駄−目。許してあげない。ほーら笑いなさい。こちょこちょこちょ〜」
「わ! だ、駄目です! 腋は弱 ひ、ひゃはははははははははははは!!!」
「ぬふふ〜まーだまだこれからよ〜」







 散々、幽々子さまに弄ばれて、精も魂も尽き果て床に寝転がる。
 幽々子さまは扇で口元を隠し、にこにこと笑っている。
 あぁ、本当にお変わりない。
 初めてお会いした時からずっと変わらない、優しげで包み込むような笑顔。
 西行寺家だからではない。魂魄家だからでもない。

 私はあの笑顔に仕える事を誓ったのだ。己の生涯をこの方に捧げる、と。

「ねぇ……妖夢……まだ帰ってくる気はない?」
「……この家の事はアイツに任せております。それに何よりも……未だに幽々子さまを唸らせる酒を生み出せていない。未熟なる我が身なれば、せめて……」

 私が幽々子さまにお仕えして四百年。
 魂魄家の代紋は次代の者に譲り、私は白玉楼を出た。
 ずっと剣だけにその身を捧げてきた。その私が世に出て何が出来るのかを確かめてみたかった。剣士である事、庭師である事、従者である事……それらの役柄を脱ぎ捨てて、私に何が残るのかを知りたかったのだ。

 その結果は……推して知るべし。未だに美味い酒の一つも生み出せずにいる。

「それでも……私が選んだ道なんです……
 剣士でもなく、庭師でもなく、従者でもなく……貴女と対等になりたいと。
 貴女の友になりたいと。ですから今はまだ……道の途中なんです」

 私は胸を張り、背筋を伸ばして、幽々子さまにそう伝える事が出来た。
 だから幽々子さまも、穏やかな笑みを浮かべて応えてくれた。

「えぇ、待ってるわ。妖夢」
「はい、いつの日か必ず!」

 私達は互いの杯に酒を酌み交わし、笑いながらそれを飲み干す。
 まだまだ硬く青臭い味。でもそれが今の私の味。

 でもいつか……いつの日か……



 今はまだ酒(さか)道の途中。

 その先にある何かを目指して



 私は、歩いていく――









                          〜終〜
ふぃー何とか間に合った……

難産でした。酒の造り方については調べる事ができても、その酒を生み出す過程での苦労や喜び、それを伝える事が出来たかどうか。
仕事の絡みで醸造元を訪ねる機会に恵まれ、そこで伺った様々な話をもとにこの話を書き上げました。今では機械化が進み、昔ほどの苦労はないそうですが、それでも杜氏と呼ばれる方々の責任と苦労は、とても書きつくせぬ程であります。

そう考えると、いつも飲んでいる日本酒も一味違って感じますね。

今回、成長した妖夢を書くに当たり、最初はもっと大人びた感じを考えていました。それこそ地の文だけなら妖忌と見紛う程の。

でもやっぱり妖夢は妖夢なんだろうなぁ。

いつだって真っ直ぐに、愚直な程に己の道を進む。次の世代に役目を譲っても、それでもやっぱり……何かを求め続ける求道者なんだろうなぁ、と。

 舞い散る桜の下で、肩を並べて酒を酌み交わす妖夢と幽々子の姿を、思い浮かべて頂けたら幸いです。

 それではまた、いずれw
床間たろひ
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2006/03/25 07:01:35
更新日時:
2006/04/19 03:04:18
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1. 7 近藤 ■2006/03/25 04:52:49
何故か途中まで藍だと思っていました。
惜しむらくは、酒造りの工程に入りこみすぎて、
少しばかり目的が見失われていたように感じてしまった点でしょうか。
話の構成上隠す必要もあったかと思いますが、
その中であってもどれだけ「何のために作るのか」を魅せれたのならば、
最後のエピソードにもまた更に花を添えれたと思います。
ともあれ、細部に渡るまで書かれた酒造りの経過の描写はお見事でした。
やっぱり下調べは大事ですね。その分大変ですが。
2. 8 月影蓮哉 ■2006/03/25 17:40:00
おおお……お酒の製造過程を文章で表すとは。
細かい部分を逸脱することなく丁寧に表現される所が素晴らしかったです。
三代目はどんな庭師になるんでしょうかねぇ。
3. 5 落雁 ■2006/03/25 20:21:41
妖夢はようやく登り始めたばかりだからな。
この果てしなく遠い酒道をよ……。
4. 9 爪影 ■2006/03/28 17:32:10
巧い。それでいて、美味い。
5. 9 名前はありません。 ■2006/03/31 21:37:26
ばっちり妖忌と間違いました
酒造りのリアルな描写が圧巻でした
素晴らしいです
6. 6 つくし ■2006/04/02 15:22:17
「酒」にど真ん中から対峙。あまりに迫力のある文章に、ガタイのいいオヤジあたりを幻視したのですが、妖夢かー! そのギャップが違和感でもあり、面白いところでもありました。ごちそうさまです。
7. 6 水酉 ■2006/04/05 08:14:28
剣も酒も、一つの道を究めるのは大変な事です。
でも妖夢ならいつの日かきっと美味しい日本酒をつくれると思うな・・・。
8. 7 おやつ ■2006/04/05 21:12:13
酒というテーマを此処まで見事に表現なさっていることに感服です。
丁寧な表現とリアルな感情がとても好きです。
妖夢の決断と幽々子の不変が非常にツボでした。
9. 4 藤村琉 ■2006/04/07 02:04:54
 惜しい。非常に勿体ないです。
 教科書、解説書、体験記なら文句なし。
 物語としては片手どころか両手も落ちかけています。
 酒造りの苦労や達成感を見せる手段が、知識から引っ張り出した単語の羅列に成り下がっています。これでは途中で飽きがきてしまいます。
 格好いい妖夢は好きなのですが、なんだかんだであまり成長していないような。一応跡取りもいるのですから、頑迷固陋なだけでない一面があってしかるべきだったのではないかと。それが酒造り、というのならば話は繋がるのですが、そうでもないようですし。
 妖忌の皮だけかぶっている、というのは言いすぎにしても、文章が妖忌ぽかったので何だか妖夢だか妖忌だか訳が分からなくなってしまいました。そのあたりの差別化でできていなかった印象も。
10. 3 偽書 ■2006/04/07 22:05:44
うーん、何と云うのか。失礼を承知で言うと、あんまり読んでて楽しいって感じがしませんでした。まあ、私があんまり酒に興味がないということも有るのでしょうが、酒造りの描写に終始していたという印象でした。
11. 6 papa ■2006/04/11 02:05:38
誰かと思ったら、ああ、納得。
12. 8 かけなん ■2006/04/11 12:50:36
ああああ最後にかけてどんどん捧げたい得点が上がったぁ。

うむ、いい妖夢と幽々子でした。
13. 6 MIM.E ■2006/04/11 21:40:52
日本酒の造り方は詳しく知りませんでしたが、読んでいて臨場感豊かに味わう事が出来ました。
日本酒が個性豊かでとても美味しい理由を実感した気分です。彼女の作る酒、味わいたいですね。
14. 10 ■2006/04/11 23:05:41
正直10点でも足りません。職人の姿を、息遣いを確かに見せていただきました。また、醸造桶の内と外ではしゃぎ回っている神様たちも。
15. 8 NONOKOSU ■2006/04/12 02:34:18
読み終わった後、「ああそうだったのか! 妖夢か!」と納得したのですが、なにかが引っかかったので再読。
三度、四度と読み返し、つまり……『妖夢がどうして酒造りを選んだのか』が明示されていないからではと思いました。
>剣士でもなく、庭師でもなく、従者でもなく……貴女と対等になりたいと。
という理由は分かりますし、
>だからこの酒は私自身。私自身の生き様を、幽々子様に見て頂いたのだ。
という気概も分かるのですが、それがなぜ『酒』なのか。
他の、たとえば煙草造りなどではなく、わざわざ酒を選んだ『動機』が明示されていないので、深い部分で納得ができなかったのだと思います。(酒造りが終わった後で、幽々子様の笑顔を思い浮かべるシーンはありますが、それは酒造りをする理由というよりも、『懐かしく思い返している』シーンに見えました)
多分に私の気にしすぎだとは思うのですが、地に足の付いた、丁寧な文章が続いていただけに、その点が気になりました。
16. 5 木村圭 ■2006/04/12 03:01:52
妖夢なのかー。酒造りを延々と語られてどこがSSなんだと疑いに疑いつつ最後にすとんと。妖夢はやっぱりこうあって欲しいと思います。幽々子と並ぶ日が来ても、親しき仲に礼儀ありって言うくらい真面目すぎて丁度良い。
17. 6 とら ■2006/04/12 04:47:38
説明パートが少し長いかなと感じました。
もう少しストーリー性を盛り込んでもよかったのでは。
18. 9 K.M ■2006/04/12 20:19:49
終盤まで主人公が誰か判らなかった・・・俺ってアホだなァ
慧音か藍かと思っていたもので
19. 7 ■2006/04/12 22:54:25
最初、素で妖忌かと思いました。
うぅーん……作業している姿は浮かんで格好は良いんですけれども
なんというか、知識に振り回されてる感も少し。ナマ言ってすいません。
自分の読み込みが足りないだけな気もかなりします。
20. 8 椒良徳 ■2006/04/12 23:40:41
御免なさい。時間がないようなので、コメントはまた後日書かせていただきます。
21. 2 ラナ ■2006/04/12 23:58:18
取材の苦労は凄いな、と思いますが、うーむ。
NHK辺りの杜氏特集を見ているようで。
22. フリーレス 床間たろひ ■2006/04/16 00:44:29
読んでいただいた皆様ありがとうございましたw
全員にお返事したいのですが、下手すりゃ本編より長くなりかねないので自重w
申し訳ありませんが、簡単ながら纏めてお返事をー

指摘頂いたように、酒造りの過程に入れ込み過ぎました。酒造りのメーカーを仕事でいくつか回った際に聞いた話と、ネットや本で調べた分を自分なりに咀嚼して書いていったのですが、折角調べたんだからという勿体無い根性で、片っぱしから詰め込んでしまいました。

それで物語として面白さを無くすとは、正に本末転倒   orz

でもやっぱり酒造りの苦労を聞いたからには、それをおざなりには出来ないし、少しでも杜氏たちの苦労を伝える事が出来て、読んだ人が美味しくお酒を呑めたなら良しとしようw

あと意図的に最後のくだりまで、誰か解らないように(もしくは妖忌とミスディレクションさせるように)と考えていたのですが、その為にいくつかエピソードを削ったのが良かったのか悪かったのか?
でも騙された人がいたので、してやったりとほくそえむ腹黒な俺w

妖夢に関しては、妖忌ばりに渋く落ち着いた人間に成長しているのですが、やっぱりゆゆ様の前だと昔ながらの自分に戻るんだろうなぁと。
普通の人間なら仕えるべき主人も成長もしくは老いるのですが、ゆゆ様は不変ですので。でもそういう根っこの部分の素の自分を、晒けだす事が出来る相手がいるっていうのは幸せな事だと思います。

読んで下さった皆様、感想を下さった皆様、本当にありがとうございました!

PS.落雁様

その男坂コメントを、誰かが入れてくれないかなーと密かに期待しておりました。ありがとうございますw


23. フリーレス 床間たろひ ■2006/04/16 03:25:51
しつこく補足。

妖夢が何故「酒道」を選んだのか……ゆゆ様がお酒を好きだからですw
ですから妖夢はゆゆ様に自分を認めてもらえるように、「酒道」だけでなく、いずれは「桜餅道」も目指しますw
陶芸や建築、そして勿論、剣の道も……色々な道を歩めるようになった、それが妖夢の成長だと思いますので。

改めて読んで下さった方々、本当にありがとうございました!
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