花のかたちをしていた

作品集: 最新 投稿日時: 2006/10/28 06:22:11 更新日時: 2006/10/30 21:22:11 評価: 29/34 POINT: 220 Rate: 1.63












  山たかみ 人もすさめぬ 桜花 いたくなわびそ 我見はやさむ



                                                     ――詠み人しらず







 
 『花のかたちをしていた』






 我が家の薄っぺらい扉を開くと、胡散臭い笑顔があった。

「蓮子蓮子、お花見に行きましょう」

 ふらりと我が家を訪れたメリーは、相変わらずの微笑みを張り付かせてそう言った。
 吹き込んでくる風に乗って、メリーが愛用する香水がかすかに薫る。彼女の存在は、この冥い街に相応しい抹香臭い緑の匂いを幾分薄めてくれていた。クマリン――桜の芳香物質を擬似合成した薫りを聞き、私は季節をさかのぼりそうになる。
 きっと、それは眠気が見せた短い幻だろう。
 やはりというか、ほんの幽かな幻視に捕われたのは一瞬だった。一斤の香の見せた幻想は、おそらく隣家からのものであろう合成洗剤の匂いと洗濯機の咆哮にすぐさまかき消された。
 ここはあくまで我が家のドア前。未だに電子ロックやセキュリティシステムが実装されていない、十九世紀の拙い防犯力・スライド式錠前が守る我が家のドア前。具体的には私・宇佐見蓮子の下宿する安アパート前。
 幾ら頭の連続稼働時間が30時間を越えようが――流石にそれぐらいは間違えない。
 おはようからおやすみまで現実を見つめる我が視界には、どこかふわふわしたシルエットが立ちはだかっていた。

「お花見に行きましょう――今度こそ」

 メリーは倒置で強調し、繰り返す。その口調は丸いようで恐ろしいまでに強い。
 少しばかり気が早く薄手のサマードレスを着込んだメリーは、自治体共通規格の味気ない一色白塗りコンパートメントにはあまりに不似合いだった。その完全武装乙女を迎撃する私は、休日と言うこともあり、また異様に日差しの強い五月晴れの陽気と言うこともありでTシャツ一枚。さらに言ってしまえば、丸々一日レポートにかかりっきりで我ながらうすら汚れている。
 押しの一手で攻め寄ってくるメリーに対抗して背筋を伸ばそうと、現状では攻撃力防御力共に差がありすぎた。
 士気を回復し戦線を立て直さないと、このままではメリーの言うがまま。東奔西走望むがままにどこか遠くへ連れて行かれてしまうだろう。第一種異人さん警報発令。連れられていっちゃってからでは遅いのである――ちなみに、今履いているツッカケは赤い。
「……とりあえず、入って。私は着替える。あと顔も洗う。ポリシーには反するけどちょっと化粧もする」
「ふふふ、仕切りなおそうったってそうはいかないわよ。ここで白黒つけましょう蓮子」
「いや、私Tシャツ一枚だし、ここだとあんまり外聞が宜しくないので是非中へメリーさん」
 いつまでもシャツ一枚で玄関先に立っている訳にもいかない。外聞と言うものもある。
 なのでさっさとメリーにヘッドロックをかけて部屋へと連行。かなりの抵抗があったが腕力で無理矢理押し切った。
 体勢の上下左右をあまり気にせずメリーをソファに放り投げた。受身を取り損ねたらしいメリーが発したどうにも爬虫類系な悲鳴は、奥ゆかしくも聞かなかったことにして寝室へ。
 そして電光石火に着替えを済ませた。室内だと言うのにトレードマークと化している帽子までかぶってしまったのはご愛嬌。ともかく装具を調え、冷蔵庫からペットボトル二本を引っ掴んでリビングへと舞い戻る――

「さあ、続きをどうぞメリー。いやさ、マエリベリー・ハーン」
「蓮子蓮子、いやさ宇佐見蓮子。お花見に行きましょう」

 時代がかった見得切りの形をとりつつも、非常にストレートに当初の提言に戻ってきた。ついでに言えばメリーの表情も当初の胡散臭いものに戻っている。

 ――さて、ここで状況を分析しよう。 

 まず、今は風薫る五月、それも下旬である。
 これが何より、最大のギャップだ。五月の薫は、決して桜由来のものではない。
 そして花見と言えばイコールで桜見。少なくとも現代日本ではそういう不文律になっている。別段法律で詳細に決まっているわけじゃないけど、旅行会社の誇大広告がらみで違法の判例も出ている。私の思い込みでなく一応国家権力が後押ししてくれていることになる。
 要するに五月も半ば過ぎに花見に行こうという発言は――言うまでもなく場違いで、無茶なものだろう。
 桜の新芽を鑑賞するのもまた一興、と言ってしまえばそこまでだが、それはもはや花見ではない。だいたいあらゆる意味において手遅れなのだ。風情風流を感じるどころか、桜の木の下で毛虫どもとの生死を賭けた一大決戦になりかねない。ほとんど駆逐されつくした害虫の類と言えど、国ぐるみで天然ものを保護しているような草花を根城にする邪悪なフォルムの地球外来生命体はまだまだ生き残っているのだ――
 そんな私の心中を知ってか知らずか、メリーは笑顔を崩さない。

「ほら、今年の四月はお花見行けなかったでしょう? だからこの恨みはらさでおくべきかー、と」
「ああ、そういえばそうね。なんだか桜の木の傷みがひどいとかで一般開放してなかったのよね」
「ひどい話があったものだと思わない? せっかく私たちが古式にのっとってお花見しようって待ち構えたのに」
「まるで世阿弥の『西行桜』ね。今の勝持寺に庵の桜を独り占めするほどの歌人がいるわけでもないのに」

 世阿弥の夢幻能『西行桜』は、桜を愛して愛しすぎた西行法師が『わしはひとりでゆったり桜を見たいんだおまえらどっかいけー』と駄々をこねて桜の精に怒らせる話である。桜を箱に入れたり。いや、微妙に違うかもしれないけど細かいことは良く覚えてないのでそういうことにしておこうと思う。
 その舞台となる勝持寺は、弘川寺と並んで知られる西行ゆかりの寺で、桜の名所だ。
 どちからというと、私やメリーのホームタウンから近場で花見にも向いているし、花見客も比較的礼儀正しいことで知られている。なにせ、あの品のないトリコロールカラーのビニルシートを敷いての宴会騒ぎが出来ないというのは強烈な抑止力になる。周囲の騒音が10ホーンほど下がるだけで、桜の風情は格段に増す。
 そんな場所で優雅に、花と酒を愛でようかと考えていたのだが、
「だいたい、桜の傷みってなにかしらね。人目に触れるとダメージ受けるような花があるっていうの? 
 逆効果よ。古の歌人も一山幾らで誰にも省みられぬ花の悲哀を歌ってるじゃない。それをわざわざブロックして花を淋しがらせてどうするの。御見舞いも無しじゃ治る病気も治らないわよ――ああもう、燕雀いずくんぞ鴻鵠の志をしらんや!」
「いや違う。それ違う」
 まあ、そんな間違ったことわざの使い方は差し置いておくとしても――実際、メリーが頬を膨らませて言うように、主催側の御達しにより今年の鑑桜会は中止だったのだ。
 それどころか事前情報を全く調べずに勝持寺へと向かった私たちは、防護ネットを被せられたヤマザクラの悲しいシルエットが鎮座ましましているだけ、などという絶望的な光景を見せられる羽目になった。落ち込んだのはメリーだけと言うわけでもなく、私もかなりへこんだ覚えがある。
「そのあとは生憎の雨続き。結局今年はまともに桜すら見ていない」
「仕方ないわ。今年はカレイドスクリーンで満足しときましょう。あれなら季節問わずにいつでも見られるわ」
 なよなよと床に崩れるメリーに合成緑茶のペットボトルを投げる。
 角形ボトルを受け止め損ねたメリーが、強打した額を抑えて悶絶しているうちに続けた。
「洛西プラネタリウムの夜桜DAYは入場料も安いし悪くないわよ。周りがカップルだらけなことに眼を瞑れば、だけどね」
 実際、周囲に陣取る邪悪なつがいどものささやき声さえ無視できれば西日本一を誇る球状スクリーンの景観は大したものなのだ。私はスクリーンの星を眺めていると、多少酔ってしまうのが欠点なんだけども。

「いやいや蓮子。そんな後ろ向きな桜見じゃなくって、ちゃんとした花見に行きましょうって」
「……どこによ」

 おでこを撫で撫で、まだまだ食い下がるメリー。
 対する私はペットボトルを一口飲むためだけの場繋ぎ的な返答をしたのだけど――

「ふふふ、よくぞ聞いてくれたわ」

 ものの見事に地雷を踏んだらしい。
 じゃーん、などと効果音を口ずさみ、メリーはハンドバッグからなにやら取り出した。
 どうも本であるらしいのだが――座り込んだメリーが突き出してくるその本と、いまだ突っ立ったまま見下ろす私の目線角度はジャスト45度。表紙も裏表紙も見えやしない。
 仕方ないので、ひったくって読む。

 どこか軽薄な見出し文字が芸術性はあまりないもののわかりやすいアングルの風景写真上に踊るCMYK四色刷り。写真はどこかくすんでいて、もとよりあまりいい紙ではないのか全体的に巻き癖がついている。発行からかなりの年月が経ってるのは明白だった。
 何かと思えば――レジャー情報誌である。
 メリーが自慢げに差し出してきたのは、もはやン十年前にことごとくがデジタル化され廃刊となったはずの旧世代文明、ひらがな三文字のレジャー情報誌。昔ながらの娯楽や風習が根強く残る東京出身の私といえど、ついぞこんなものは見たことがなかった。言うまでもなく現代日本において、こうしたハードコピーは少数派である。紙は重要なデータの保存に使うもので、普通こんな読み捨ての嗜好品には使わないのだ。
「……それで、これがどう花見に繋がるの?」
 GW特集号、とでかでかと書かれた表紙にもちろん桜の影はない。この過去の遺産でさえ、示す季節は五月だった。
 もはや、何がなんだかわからない状況である。
 メリーに視線を寄越すも、彼女は一つ頷いただけ。読め、ということらしい。

「うっわ、まだ浦安に資本主義の魔法の国がある時代じゃない。こんなのどこで手に入れたのよ」
「企業秘密。株式会社秘封倶楽部の」
「大株主に口をつぐむとはいい度胸ね」
「んもう、蓮子は気が短いんだから。じゃあ巻末から10ページ目ぐらいの白黒広告の所を見て」

 言われるままに巻末からページをめくる。
 胡散臭さ全開の開運グッズに始まり、割引チケット、次号目次と編集後記を経て、いかにも広告料の安そうなモノクロページへと移行する。
 巻末より10ページの白黒広告――そこには、簡素な一枚広告があった。

「現代に蘇る長者ヶ丸白桜亭、開催期間五月中旬より――どう? 凄いでしょう」

 いつの間にやら私の後ろに回り込んだメリーが、肩越しに内容を読み上げた。
 メリーはそのまま私の肩にあごを乗っける形で圧し掛かってくる。相も変わらずメリーはふにゃふにゃしてて見た目以上に重い。口に出すとグーで殴られそうなので言わないが。
 とりあえず、重いのでおんぶお化けを引き摺ってソファに腰を落ち着けてから改めて見る。ていうかまだ引っ付いてくるのかメリー。
 紙面には中途半端に擬人化された桜のイラスト。縦に潰してニコニコマークをくっつけただけのあまり可愛げがあるようには見えない桜が、フキダシで『みんなおいでよ』と精一杯に呼びかけていた。
 とりあえず、桜だ。
 花見と関係あるのは間違いあるまい。
「それはいいんだけど……凄いのこれ? だいたい白桜亭ってなんだったっけ?」
「もう、しっかりしてよ蓮子。お江戸は地元でしょう? 長者ヶ丸白桜亭は幕臣・久保帯刀の屋敷のこと。蒐集した百種類を超える桜が植えられた史上最強の桜の園よ」
「初耳。それって有名なの?」
「実は私もこれ見てから調べたんだけどね」

 ――それは全然有名じゃないと言う気がする。

「その白桜亭が蘇るのはいいんだけど――なんで五月? 桜の季節とは微妙にずれてるわよ」
「高山植物に近い山桜は五月六月が本番なのよ。まさか蓮子、桜といえばソメイヨシノしか思いつかないような淋しいメンタリティしてるんじゃないでしょうね」
「天然の山桜がまだ残ってる場所があるならそりゃ行ってみたいけど、相当の山奥じゃない? それも立ち入り禁止になってるような秘境」
「普通ならね。ところが!」

 地雷二個目。
 私にのしかかったまま会話を続けていたメリーが得意満面に叫び、ソファの背を飛び越え――損ねて私もろとももみくちゃになって落下。それでもめげずに紙面を指差し絶唱する。

「なんと、この会場ならここから電車で一時間かからないのよ!」
「それはいいんだけど。これ、一昔以上前のイベントじゃない」
「桜の木はそのぐらいで枯れたりしないわ。寿命の短い里桜だって七十年かそこらは生きる」
「ちゃんとした場所で生育されれていればの話よ。ここってもう廃園になってるんじゃない?」

 そう――花見における最大の問題は、桜をはじめとした従来植物がほぼ失われてしまった現状なのだ。
 極端な自然淘汰と棲み分けが並行して進行した日本の土壌には、霊格の高い一部の観光地・保護区域を除いて多用な生態系が保たれることはない。松竹梅、榎に檜、そして桜。そうした木々は多くの場所でもはや幻想のものとなってしまっていた。またそれは樹木だけではなく草花も同様である。
 そんな中でも、日本国を象徴する花である桜は必死の保護政策の甲斐もあり自然木が現在に至るも生き残ってはいる。ただし、本物の桜が花をつけられる場所はひどく少ない。桜に限らず、木は育っても何故か花は咲かない、そんなケースがひどく多い。
 前述した西行ゆかりの勝持寺、弘川寺はそうした環境変化を乗り越えたからこそ、今も数少ない花見の名所であり続けているのだ。
「この白桜亭が今でも残ってれば、私たちの耳に入ってないはずがない。この広告に名前の出てるミクルマガエシ、タイザンフクン、ヤエミヤマザクラ――今じゃカレイドスクリーンの中でしか見られない絶滅種よ。これだけの規模の庭園を気軽に整えられたのは遠い昔。現代園芸は各地の土をブレンドして寝かせるとこから始めないと、アサガオでさえまともに花をつけない冬の時代なんだから」
 何故、花々がまともに花をつけなくなったのかは、研究者の間でもよくわかっていない。
 花自身が己に相応しい場所を選ぶようになったのだと、国学者は言った。
 稚拙なクローン技術が生態系の在り方すらを歪めたのだと、科学者は言った。
 そして、結局その両方なのだろうと多くの人は認識している。そうした異変は花に限ったことではなく、私たちの住むこの世界が一度壊れかけたのは厳然とした事実だった。私たちが生まれたころから始まった古き良き日本を取り戻す動きは、決して愛国心や美意識からだけではなく、必然性から励起した大きな流れでもあるのだ。

「本当に悲観論者よね、蓮子って」
「最悪のケースを想定するのは癖なの」

 とそれなりに真面目なことを考えつつも、私はメリーと仲良くソファの上で一緒くたに絡み合っている。横四方の体勢だ――あんまり横になってるとこの状態でも寝るぞ、私。
 無駄足になるから諦めてください、眠いから勘弁してください、というメッセージを乗せた眼差しを送るもののメリーはまだめげない。なにかの嫌がらせなのか、私に比べてそれなりに立派な乳を顔に押し付けつつ起き上がり、ソファの上に正座。思わせぶりに人差し指を立てて、言った。

「ところが、そんなへそ曲がりの蓮子に朗報」

 今日の彼女の匂い――幽かに漂う桜の香りを、久方ぶりに嗅いだ気がした。
 やはりと言うか、メリーの顔には例の胡散臭い笑顔が張り付いていた。

「実はね、ここでつい先日桜を見た人がいるのよ――」

 突きつけられた細い指先が揺れる。
 催眠術にかかったみたいに、少しまぶたが重くなった。



◆ ◆ ◆



「○○県との県境に、応用生物科の隔離圃場があるのは知っているわよね?
 そこでつい先日、学科の短期合宿があったの。私が話を聞いた子はそれに参加していた。
 毎年恒例らしいわ。春先に植えた半合成作物を収穫して、成長データを取ったあとで料理して食べるの。
 一度土に植えて育てた合成野菜はほとんど天然物の味がするんですって、ちょっとうらやましいわね。
 まあそれはそれとして――
 合宿は滞りなく、マンネリながらそれなりの盛り上がりを見せて進行して、残すところ一日になった。
 最後の夜はカレーを食べてキャンプファイヤーがお決まりらしいわ。
 天然の材料を使ったカレーってどんな味なかしら? なんだか凄く辛そうだけど。
 ああ、また話が逸れたわね。
 その夜はぬるまったい風が吹いていて、空気が少しだけ濁っている気がしたんですって。
 だけど、一旦篝火が焚かれてしまえばそんな雰囲気もすぐになくなった。
 思い思いにゼミ生たちは時間を過ごして、そろそろ御開きに――というその時、それは起こったの。

 東の山の稜線に、霞が掛かったようになっている。雲みたいななにかが、山の稜線に見えた。
 気付いていたのは彼女だけ。最初は綺麗だな、と思ったらしいわ。
 だけど、その白い何かは見るうちに段々濁った色になっていって――
 最後には、黒ずんだ紫になった。ほとんど山の闇色に近い色合いだったそうよ。
 そのときね、ゼミ生の一人が天体観望用のオペラグラスを持っていることに気付いた。
 そして、貸してもらったオペラグラスを覗いて――驚いた。

 山の稜線にかかったそれは、満開の桜の木に見えたの。
 今は五月も終りにさしかかった時期。そんなことあるはずがない。
 大体紫色の桜なんて存在するはずがない。
 信じられない光景だった、桜は次々に散り、そして、辺りを紫に染めていく。
 地面に雪のように降り積もる花びらが数が増すにしたがって、桜はますます怪しく輝いてゆく。
 周囲の草木は桜に圧倒され、まるで消えるように見えなくなる。
 下生えはどんどん枯れて消えていく、木々は葉を落としていく――

 ――あの桜は命を吸って咲いている!

 そうして彼女はその結論にたどり着いたの。
 背筋が粟立ち、彼女はあっと叫んだ。
 何事だと皆が集ってくる。
 だけど桜が咲いてる、なんて言ってもみんなは全然本気にしない。あたりまえよね?
 彼女が業を煮やしてオペラグラスを渡そうとしたときに、それは起こった。

 キャンプファイヤーが突然、物凄い勢いで燃え出したの!
 消えかけていた篝火は爆発したみたいに燃えて――すぐに消えた。
 皆驚いて、場は一瞬パニックになった。
 懐中電灯を探してつけるまでは一分か二分ほど。
 木組みの中を探しても何もなく、あとには肉の焼けたような嫌な臭いが漂っていた。

 そして、もう一度見てみると、紫の桜は影も形もなかったというわ――」



 ◆ ◆ ◆



 「こら、起きなさい蓮子」
 「え、ああ――うん。オチはついたの?」

 いつの間にやら寝入っていたらしい。
 まあ、集中力だけで意識を繋いでいたところで、存在そのものが私の気を緩ませてくれるメリーの来客があって、しかも怪談話を聞かされたとあっては当たり前というところなんだけど。
 メリーは寝転がった私の鼻先を指でつついている。現在、先ほどメリーに押しつぶされたまま起き上がる気力がなく、我が家の家具で唯一自慢できるふかふかのソファにうつぶせになっている状態だった。
「オチはないけど価値はあるわ。おいでませ白桜亭」
「キャッチコピーとしては今ひとつ弱いわね」
 気のない返事をしつつ、私はメリーの持ち込んだレジャー情報誌に目をやる。
「それ、誰から聞いたのよ。その学生の見間違いじゃない? そうでなくったってその手の怪談話は各サークルに一つ二つはかならず伝わってるものだし……」
「酷いわ。せっかく面白い話を仕入れたから真っ先に蓮子のところにやってきたのに」
 現状においては、最上級のありがた迷惑である。
「すぐ近くに、見たこともない色の桜が咲いてるのよ? 何を差し置いても飛んでいくって言うのが筋じゃない。黒や紫色の、墨染め桜――」
「あのねメリー。墨染めの桜ってのはほとんど真っ白な花をつける桜に、空の色が映り込んで灰色がかって見えるものを言うの。黒やら紫やらの桜なんて本来自然界には存在しないの」
「青いカーネーションやら薔薇だってあることはあるじゃない」
「桜って言うのは同じバラ科でもそんなに素直な花じゃないのよ。園芸植物の花弁色遺伝子操作――コサプレッション法での品種改良はここ最近成功例がないはずよ。今まで成功していたのはただの偶然だってのが学会の共通見解。それに過去に成功したものが長持ちした話も聞かない。だいたい、仮にも江戸の数寄をテーマにしたフラワーパークにそんな珍種植えるはずないでしょう」
 胡乱な意識で読み拾った広告には、江戸最大の桜の園を可能な限り再現とあった。

「それじゃ、紫色の桜って言うのは――」
「向こう側の眺め、なんじゃない?」

 もしこの怪談話が真だとすると、可能性はそれ以外に考えられない。
 向こう側の、つまりは世界を遮る結界の隙間から覗いて見える稀有の眺め。それを発見するのは、私とメリーが運営する不良霊能サークル『秘封倶楽部』が最重要項目に掲げることでもある。
 実際、私もメリーの提言に興味をそそられないわけではない。
 昨年の秋、私とメリーは蓮台野の結界穴で季節外れの桜を見ている。あれは言葉に出来ないくらいの素敵なものだった。もしこのメリーの持ち込んだ話が本当で、あの眺めに匹敵するような絶景が目にできるというなら私は眠気を化学薬品で吹き飛ばし、締め切り間近のレポートをも投げ出して飛び出していっているだろう。
 ただ――どうにも、今回は望み薄に思えて仕方なかった。
 やはり怪談話と古いレジャー情報誌が発端というのがどうにも嘘臭い。特に、怪談話のほうだ。古くから霊的研究を行ってきたここ京都、その最高学府には七不思議どころか、八十八は軽く超える不思議があり、それぞれが巷間に上ることで数限りなく分派している。そんな怪談話や都市伝説に痛い目に合わされたのは一度や二度ではない。
「もう少し詳しく調べてみることにして、現地調査は後にしない? 私丸一日寝てないし」
「桜の見ごろは短いのよ? それに天気予報に寄ると明日から三日は雨。桜が散っちゃうわ」
 あくまでメリーは食い下がってくる。
 積極的に逆らう気力もないが、もちろんついていく体力もない。
「お願い、今日は勘弁して。さっきやっとレポートが形になったとこなの、一眠りしてからチェックしないと提出に間に合わない……」
 そう懇願する間にも、もう睡魔が体を弛緩させ始めていた――大あくびをしてなんとか意識を繋ぐ。どうやら本格的に駄目っぽい。
 なんだかぼやけ始めた視界で、やっぱりというかメリーが拗ねていた。

「いいわよ。蓮子がそう言うなら私だけで見に行くわ」
「うん、頑張って」
「蓮子はプラネタリウムでカップルに囲まれて桜のごとく散ればいいのよ。私は風流を求めて二本の足で歩いていくわ」
「ごめん、ほんとに限界っぽい。いつもの場所に鍵あるから、締めてポストに入れといて……」

 誘いを断ると同時、致命的な眠気の波がやってきた。やっぱり横になったのがいけなかった。
 なんだかメリーが騒いでいるような気がする。
 それに適当な答えを返したような気もする。

 そうこうしているうちに――あっさりと、落ちた。



 ◆ ◆ ◆



 桜が咲いていた。
 メリーが、誰かと話をしていた。
 私に気付いて、手招きしてた。

 そんな夢を見た。



 ◆ ◆ ◆



 目を覚まして――いつもの癖で、定位置の目覚まし時計を探そうとした。
 空振りを繰り返したのは当たり前。
 私はベッドではなくソファで寝ていたのだ。そのことをかなり長い時間をかけてようやく思い出し、何故か跳ね起きるみたいにして勢いよく身を起こした。二度寝の誘惑が全身をゆったりと包み込むが、あやういところでなんとか跳ね返した。
 まぶたの裏側で凝り固まってる眠気を搾り出そうとしてるみたいに、何度も目をこすった。目の疲れは癒されなかったものの、我ながらかなり可愛いだろうと思われる意味不明な言葉が眠気と一緒に口から出る。
 そのあとで肩と首を回して、一通り体の調子を確かめた。
「三時半……五時間近く寝ちゃったか」
 まだ眠い。でも体に異常はなし。

 一応部屋を見回してみるものの、メリーはいなかった。
 ほったらかしておくと他人のベッドでぐっすり寝入っていたりすることもあるのだが、今回は拗ねて帰ってしまったようだ。眠気が覚めてしまうと、ちょっとだけ可哀想なことをしたかとも思う――が甘やかすと癖になるからこれでよしとしよう。

 さて、シャワーを浴びてレポートの校正作業に――

『無』

「……む?」

 何気なく覗いたディスプレイに、そんな一文字。
 寝起きの頭がゆっくりと歯車を回すように動き始めて――噛み合うと同時に血の気が引く。
 コンソールを操作。レポートのデータが格納されているはずのファイルを検索、ヒット0。バックアップ、キャッシュを呼び出し検索、ヒット0。メモリスティックが一本見当たらない……メリーさんの仕業である。
 ご丁寧にグラフィックソフトまで使って『無』の極大フォントを壁紙の画像に設定、さらに提出間近のレポートのデータを持ち逃げして――代わりに予告状のようなREADMEファイルを作って逃げやがったのである。
 READMEに書かれた内容はもはや言うまでもないだろう。
 この怒髪天を衝く怒りを再確認しようと一応開いてみたところ、『長者ヶ丸白桜亭』へのアクセスマップとたった一行の捨て台詞だか殺人予告だかが残されていた。曰く『まってるヮ☆』。

 危うく買い換えたばかりのキーボードを叩き割るところだった。

 予定変更。悠長にシャワーに入っている暇などない。
 まずは電話。続いて電子メール。どちらも返答なし。テレパシーも試みるがそんな便利な能力はそもそも持ち合わせがない。せめてもの慰めに胸いっぱいの呪詛を送る。多分効かない、畜生め。

 その時点でもう直にとっ捕まえるしか選択肢がなくなった。
 このまま自爆覚悟で放置してやろうかとも思ったものの、単位と一夜の待ちぼうけを秤にかければどう考えても私のダメージがはるかにでかい。比べ物になどなるはずがない。

「眠気に負けてぞんざいな扱いをしたのは悪かったけどねこれはないんじゃないのっていうかやりかたがえげつないにもほどがあるわよこんなことされたらどう思う田舎の母親は泣いているわよ自首しなさいああでもあのメリーのことだから親子揃って高笑いしそうなイメージもあるわね私と母さんだったら多分そんな感じだしそんなことはどうでもいいけどああ腹が立つこの恨みはらさでおくべきか!」

 作業工程を相当に簡略化して身支度を整える。頭から湯をかぶって、非常食として備蓄されているカロリーブロックを水で流し込み、血が出る勢いで歯を磨いて化粧水を顔に塗りたくる。

「覚えてなさいよメリー……」

 ドア前でファイティングポーズを取ってから、白いマットのジャングル京都盆地へと飛び出した。
 ああ、くそう。目薬差すの忘れた――



 ◆ ◆ ◆



 がたんごとんと、産業革命の象徴であったはずの列車が何故か牧歌的な音を立てつつ線路を行く。
 ひどく眠気を誘うリズムに身を任せ。私は復刻モデルのプラスティックボトルに入った熱いお茶を一口すすった。なつかしの国鉄販売品を再現したホット・グリーンティはそこそこ値段が張るだけあって、なかなかに再現度が高い。ただ、微妙にロウソク臭いところまでを再現したというのはいささかどうかと思う。
 とにもかくにも、私は鈍行列車に揺られ、時速40キロほどで順調に県境へと向かっていた。

 結局、メリーは自宅にもいなかった。
 セキュリティの厳しいメリー宅の開錠こそならなかったものの、徹底的にブザーも電話も鳴らしまくりそれでも出てこなかったからほぼ間違いはないと見ていい。
 どうやらメリーは本当に地図の場所に向かったようだった。考えられない行動力と、破滅的な茶目っ気の発露である。ターゲットにされた私にとっては大迷惑としか言いようがない。
 仕方なく、私は悪の魔術師メリーに攫われたレポート姫を助け出すために、紫の桜が咲くという『長者ヶ丸白桜亭』へと旅立った――しかしその旅路は長く、過酷なものになるだろう。頑張れ宇佐見、負けるな蓮子。

「……うう、なんでこんなことに」

 息巻いて飛び出したとはいえ――時間が経つにつれ意気は徐々に薄れゆくもの。
 傾きかけ赤みがかった太陽が車窓から飛び込み、気分を文字通りに黄昏させる。
 この侘しさはやはり、車内に誰もいないことが原因なのだろう。
 世間一般にとっての平日の昼下がり。人口減少と従来型農業システム崩壊の当然の帰結としてますます都市集中へと傾く世情も手伝ってか、特になにがあるわけでもない県境へと向かう列車には悲しいほど乗客がいなかった。
 少なくとも、この最後尾車両には私たちを除けば人っ子一人いない。というか三両編成なので多分本当に私たちしかいない。さらに基本的に運行はコンピュータ任せなので多分車掌もいない。事実上の密室である。
 毎日こうだというなら、何故この路線が早々に廃線にならないのか心底謎だ。

 抑揚のない平坦な景色がひたすらに続いていく。
 そのなんとも退屈な道中は、ヒロシゲ36号に乗って53分の短い旅情を駆け抜けた卯酉東海道とは全く違うものだった。郊外の、それもあまり省みられることのない片田舎の四季はひどくいい加減なもの。ヒロシゲが地下に作られ、カレイドスクリーンで旅情を演出するのは何も騒音問題や53分の移動時間に拘ったためだけではない。道が荒れ、草原となったなどとニュースで取り上げられるのはいまだ人口密集地である東京ぐらいなものだが、実際は人が住まなくなった衛星都市や地方にもその傾向は強く見られる。車窓からの景色は、作り出さなければ手に入れられないものなのだ。そういえば、あの時もメリーと車窓からの景色についての話をした覚えがある。
 窓の外に流れるのは、ひどく平坦な緑。
 傾いた日差しにも表情を変えることのない鉄面皮の茫々たる草の海だ。
 一面に広がるたった一種の外来種による群落と、同じく単一種である人の目の高さほどの顔のない木々。時折見える朽ちかけた看板は、かつてこの沿線には田んぼや畑が広がっていたことを示している。小麦色の稲穂など、いまやはるか遠い唐天竺の眺めということ――まあ、実際の天竺のあたりはここより数倍世紀末風味な状況になってるだろうけど。

「大昔の桜の木なんて、残ってるわけがないじゃない」

 思わず、そう呟いてしまう。
 目的地まではあと一駅と迫っている。この、絵筆でカンバス上に無理矢理引き伸ばされたみたいな緑色が桜に染まる光景など空想することすら難しい。
 なんでまた、メリーがこの与太話にこうまで惹きつけられたのかよくわからない。
 もしかしたらなにか見えたのかもしれないし、メリーお得意の直感かもしれない。
 どちらにせよ、せいぜい時間と方角を読むことぐらいしか出来ない私には理解できないことなんだろう。考えるだけ無駄というものだ。

 それでも、夕焼けは無理矢理気味に思考を加速させる。日本語を母国語に選択した私には、それは逃れようのない必然だ。
 意味の無い思想や、詩想が柄にも無く頭を掠めた。
 だけどそれを言葉にまとめるだけの器用さは持っていない。

「こんなところにまで引っ張り出して、何を見せようって言うんだか」

 ――景色の流れからはいよいよスピード感が失われていた。
 アナウンスと雑音の境界にある車内スピーカーからの録音音声が到着間近であることを告げる。
 とにもかくにも、目的地は近かった――距離的には、という注釈はつくのだけど。



 ◆ ◆ ◆



 駅を降りて、まず愕然とせざるをえなかった。
「……何もない」
 小学校学級会レベルのお手製目安箱を髣髴とさせる、やる気の見えない乗車券回収ボックスがなによりもまず衝撃的だ。私はほとんど呆然としながら歩を進める。石油缶を縦に並べたような改札口を通り、プラ板と鉄パイプの乱雑な組み合わせで作られた待合所を抜けると、そこはど田舎だった。
 傾きかけた太陽が平坦な眺めを撫で切っていた。
 カラスが鳴いていたら完璧だった。即死だった。危ない。
 はるか以前に廃線になったであろうバス停の、朽ちかけたプレハブ小屋が眼に入った。その横で自動販売機が大破している。恐るべきことに、いまだに電信柱が偽装もされずむき出しで突っ立っていた。振り返ると踏切からやや外れた場所に仮設トイレが設置されてはいたが、中の様子は想像するだに恐ろしい。
 都市と都市の中間点にはこういった光景が日本各地で広がっている、なんとかするべきではないか――と小学校の自由研究で主張したことがあったような気がしないでもない。おお、正しいぞあのころの私。

「じっとしてても……しょうがないか」

 辺りを見回すと、案内板が地べたに落ちてた。
 薄っぺらいトタン板に縦横に走った歪みがなんとなく涙を誘う。

「バス停五つ分。なんとか行けないことも無いか」

 メリーはこの道を一人歩いていったのだろうか? いつものようなひらひらの服とおしゃれなヒールでこの山道を歩こうと考える自体、ある意味おそろしくタフだ。
「道一本しかないし、こっちよね」
 脳内のメリーの幻影がひょうすべのようなゆらゆらした足取りで歩いていった先は、それこそ何も無い田舎道。なお、駅から僅か50メートルで舗装道路が途切れ、そこから先は見事なまでの砂利道だった。


 ――とにもかくにも、歩く。
 歩かないことには何も始まらない。


 何も無い、ひたすら緩いカーブの続く道だ。
 歩数と時間を確かめること以外にやることは何も無い。
 だんだんと影が伸びていく。日が刻々と落ちていくのがわかる。

 『交通事故多発・注意』という恐ろしく前時代的な立て看板があった。
 これは一体何年前のものなんだろうか? 今や、自動車自体が極端に減って姿を消しつつあるこの時代にこんなものが残っていること自体に皮肉を感じる。

 ひたすら緩いカーブを描いて何も無い道は続く。
 歩数と時間を確かめること以外にやることは何も無い。

 また看板が見える。
 少しだけ傾斜とカーブが急になった場所に、ぽつねんとガードレールが設置されていた。歪んでいる。片方の端側は半ばから巻き上げられている。転落事故でもあったのだろうか。物騒な話だ。

 道は続く。
 また看板だ。
 衝突事故がここであったらしい。

 砂利道に不意に突き立っている道路標識があった。
 外れた林に車のバンパーが野ざらしになっていた。ここも事故現場なのか。

 また――看板だ。
 当て逃げ事故発生現場――?

 違和感に気付いた。
 多い。あんまりにも多すぎる。
 なんで、こんな大して車通りも無いだろう道で狙ったように交通事故が起きてるんだ。

 振り返る。
 距離感を麻痺させるような平坦な道が続いている。
 同じような――いや、本当に同じ道か?

「――早いところ、メリーと合流しよう」

 頭を振って平静を取り戻す。ろくでもない場所での既視感は、やっぱりろくでもない。
 さっさと先に向かって、悪くても完全に日が落ちる前にメリーと合流するべきだろう。最悪の事態を見越して一応持ってきた簡易キャンプ用具は使わないに越したことは無い。霊能サークルとして夜歩きはお手の物だけど、山中に一人はあんまりにも寂しすぎる。今の日本に大型の獣はいないといっても、山に入れば虫刺されぐらいのリスクはあるのだ。
 
 駅を出てからもう三十分は経つ、そろそろ目的地に差し掛かる――間違いなくそのはずだ。

 少し歩調を速めて、緩い上り坂を登りきる――



 ◆ ◆ ◆


 上り坂からの向こうには予想外の景色があった。

「――迷った? そうでなきゃマヨヒガにでもたどり着いた?」

 思わずどうでもいい独り言を漏らす。
 唐突に現れたのは、おそらくサービスエリアと呼ぶべきものだった。
 自動車が過去の遺物になり高速道路が全廃された昨今ではほとんど見かけない、前世紀の名残を強く残した建築物である。緩い勾配の続く山道の中にぽつんと開けた場所があって、やや大きめの駐車スペースとひどく中途半端な大きさの建物がある。
 コンクリートの扁平な自動販売機コーナーと、その奥手に見える木造二階建て。
 紋切り型の自動販売機コーナーには明かりが無い。ガラス戸には×の字にガムテープで封印がされ、今は使われていないのが一目でわかる。それに何枚かのガラスは割れていた。
 ただ、『みやげ』の看板がかかった木造二階建ては――どう見ても営業していた。
 店先は開けっ放しで、遠めにも棚に商品らしき小間物が並んでいるのがわかる。真新しい幟旗が山間の風にはためいてもいた。何より、電灯がついていた。
「――メリーの悪戯……ってわけじゃないわよね」
 それはないにしても、なんというか不自然だった。砂漠に迷った旅人がオアシスの蜃気楼を見ているような、そんな手前勝手な都合のよさが溢れ返った眺めだった。背筋が寒くなる類のものではないにしろ、警戒心を抱かせるのは確かだ。

「ともかく、行ってみないと始まらないか」
 ゆっくりと接近し、そのうちに店先の陳列物一つ一つがおおよそ判別できるようになる。
 店先に並ぶ地域色の薄い土産物は埃をかぶっていた。とはいえ、それほど長い間放置され続けていたわけでもなさそうだった。
 ぶーん、と旧式家電用品特有のモーター音も聞こえる。誰かが生活しているのは間違いなかった。

「ごめんくださーい……」

 呼びかけてみるも返事はなし。
 困る。この状況は想定していなかった、かなり戸惑う。
 店先をもう一度観察してみると、埃っぽいのは店頭部分だけで、奥の住居部分と思しき場所はかなり清掃が行き届いているように見えた。住居部分は相当昔の建築スタイル、年号が二つほど前に建てられていたとしても不思議ではない。サイズの小さなサンダルが上がりの前に揃えておいてあり、かなり新しいデザインのペットボトルを用いた猫よけまで並んでいたりする。
 昔の生活臭――かなり高齢の住人が住んでいる気配がする。

「売ってる飲み物は、新しいのよね」

 箱詰めされたままのペットボトルは今春の新商品だ。
 これがなかったら私はタイムスリップすら疑ったかもしれない。
 何故、このとんでもなく辺鄙な場所で未だに店を開けてなどいるのだろうか?
 そうしなければならない理由でもあるというのだろうか?
 それは、季節外れの――異形の桜と何かかかわりがあるのだろうか?

 答えの出ない自問だとわかってはいた。
 だが、調べるうちに私はあるものを発見したのだ。
 それは人目を避けるかのようにして、陳列棚の隅に置かれていた。表面がだいぶ変色した、文庫本ほどの大きさの小冊子が数冊。その冊子には『長者ヶ丸白桜亭案内書』と書かれていた
 
 ――パンフレットだろう。広告のデザインとレイアウトが一緒だ。

 パンフレットを置いた店が営業している。
 まさか本当にまだ山中他界の桜の園は現存する?
 だとすれば、一体どんな形で、反魂の術を用いて蘇らせたかのような桜木はそこにあるのか――

 古びたパンフレットを読み進めた。
 中身は、ごく当たり前の観光地案内と言っていいもの。
 対象年齢はかなり高めに設定されているようで、マニアックな知識もそこかしこに頻出する。その割りに丸文字やイラストが多かったりと、多少アンバランスなデザインではある。
 読み進めるうち、いくつかわかってきたことがあった。
 この『長者ヶ丸白桜亭』というのは、移転が予定されていた植物研究センターのイベントから生まれたものだったということだ。研究所では桜を始め、多くの種が生育されていた。その時代でもっとも一般的な研究――ゲノム操作が行われていたのだろう。一昔前までは季節を外して花をつける植物や、開花を延長させる品種改良は一般の研究所でも気軽にやれることだった。冊子にあるとおりなら、季節を外した桜があったとしてもなんら不思議ではない。このイベントが行われていたのは、桜に限らず、遺伝子操作が園芸の延長程度の設備と知識で成功していた時代だったのだから。
「紫の桜が咲いていたって不思議はない、か」
 だけど、それは昔の話だ。
 今、紫色の桜があるとしたらそれはこちら側の世界のものではない。

 研究所の由来に続く見開きページには『桜の歴史』と題された解説文らしきものが書き連ねられている――古来よりこの国の人々は桜を愛してきました、命を振り絞って咲き誇るような桜の花は日本人の美意識の一つの極限であったのです、あまりにも華やかに咲いて散る桜は多くの和歌・文学作品に登場しました、数々の桜を文学者や歌人がそれぞれの言葉や感性で表現しています、桜の唯美者として有名な西行法師の歌に登場するシダレザクラ、梶井基次郎の有名な言葉で知られるようになったソメイヨシノ――


「その桜なら、腐ったよ」


 しわがれた声がした。
 声の店の奥から聞こえてきたものだ。いつのまにか締め切られていたふすま戸が開いて、笑みの形のまま顔に皺が刻まれてしまったような老婆が姿を見せていた。
 桜が、腐った?
 言葉の意味を理解するまでにしばらくかかった。むしろ好意的な声音が、拍車をかけて理解を難しいものにしていた。
 理解して、それから背筋が寒くなる。
「どこで聞いたのかは知らないけど、お山へ行くのはお止めなさいな。桜はもうないよ」
 老婆は土間に降り、私に微笑みかけてすらきた。だけど私には、本来なら無条件に近い信頼を抱けるはずの老いた笑顔が、まるで膠で貼り付けた翁面のように思えた。平坦で、だからこそ僅かな陰影がとてつもなく深く感じられる。
「もう随分前になるかねえ。お山の桜は急に皆枯れてしまってねぇ……村おこしだと騒いでいたもんだけど、人が集る前に駄目になってしまったねぇ。土が悪いのかといろいろ肥になりそうなもの埋めたみたいだけどやっぱり駄目だったねぇ」
 続いた言葉は独り言のようだった。
「なのに、時々あなたみたいな人が来るんだよねぇ。なんでだろうねぇ。去年の今頃にも来たような気がするねぇ。同じ人らならいざ知らず、なんでまた毎年違う人が来るんだろうねぇ、なんでだろうねぇ」
 やや足が不自由らしい老婆は、左足を少し引き摺って歩き、土間へと降りてきた。

「いらっしゃい。こんなところへよぅ来たね」

 ほとんど動かない半開きの口から滑舌の悪い歓迎の言葉が発せられる。
 それは私には、まるで腹話術かなにかのように思えた。



 ◆ ◆ ◆



「もともと山桜が綺麗な場所でねぇ、地元のものは知っていたんだよ」

 ファーストインパクトが強烈過ぎて警戒していたけど、思いのほか老婆は話し上手だった。
 場所が場所とはいえ客商売をしているだけはあるか、と少し感心する。
 とりあえず鍋の材料にされたりはしない模様なので気もほぐれた――とかいうと流石に失礼か。えんえんと一人陰気な一本道を歩いた気分を払拭してくれるぐらいには、語り口は人懐っこかった。こうなると老婆、というのもなんとなく憚れるのでもう少しマイルドにお婆さんと呼ぼうと思う。

 とにかく、話しているうちに幾つか情報が得られた。
 もっとも、その大半が老婆の身の上話だったのだけど。
 聞いたところによれば、土産物屋は捨扶持のようなものであるらしかった。この一帯を観光地として再開発する予定があり、その中心部に先立って作られたのがここ。もともとは人の持っていた土地を提供して作られた村営のサービスエリアだった。
 その計画の中心にあったのが、件の『長者ヶ丸白桜亭』である。施設誘致に応じた民間の研究所を中心に、一大フラワーパークを建設する予定だったのだと言う。
 しかし結局、その計画は立ち行かない状況になった。
 考えてもみれば、当然の成り行きとも言えた。ちょうどそのころは、自動車の排煙制限や交通網再整備が一足飛びに推進されはじめていたころだったのだから。地方の、しかも新開発されたレジャー施設など完全に時流に逆らった存在と言える。
 とにもかくにも、計画は頓挫した。
 しかし、村のためにと土地を提供した人物が丸損では寝覚めが悪い――いちど自治体の財産になった土地を再び個人のものにするわけにもいかなかった。そこで、この客の来ない村営のサービスエリアを存続させ、このおばあさんを管理人として雇うという形を取ったのだと言う。店頭に並べられた地域色の薄い土産物はことごとく埃をかぶっていた理由もこれ。売り物と言うより、もう置物に近いんだろう。
 一人暮らしで、もともと物に頓着もなかったので住居は土産物屋の二階でよかった。管理費として年金程度の給金もあれば、販売物補充の名目で食料や生活用品も届く――気楽な生活だ、とお婆さんは笑っていた。

「だけど、桜がなくなったのは寂しいねぇ。お山の桜はここからでも見えるぐらいだったのに。あんな、よそから持ってきたようなものを植えたりするから、山が腐ってしまったんだ。地元の人間だったら、そのぐらいはわかってほしいね、悪餓鬼が大学出た偉い先生さまになって帰ってきたって皆言ってたけど、当てにならないもんだねぇ。お山の桜は絶対に枯らさない、なんていっていたけど口だけだよ」
 発案者は――地元の人間だったのか。
「あの、その『腐る』っていうのは――もしかして方言だったりしますか?」
「いいや、食べ物やらが痛む『腐る』さ。余所から持ってきた木やら、ほら、あれだよ、あの遺伝子? で作ったものを植えたりしたころから、おかしくなり始めたんだ。やっぱりお山が怒ったのかもしれないね」
 その点に関しては、明確といっていい敵意が口調や僅かな表情の変化から受け取れた。山の桜は、ずっと大切にされてきたものなのだろう。
 その原因となった研究所は、やはりというか村に糾弾され対立し、結局のところ移転したらしい。その責任者がどうなったかは知らないという。
「新しく植えた木は一年、持たなかったかねぇ。だんだん植えた桜が枯れていって、お山の桜は最後まで頑張っていたようだったけど、やっぱり朽ちてしまった。きっと土が腐ってしまったんだよ、変な、捩れた木しか生えなくなって。悪い噂が立ったのもその辺りからだったね。この近くで車の事故が増えて――山から変な、腐ったような臭いがして苦情も出たんだ。だから腐ったなんていわれてるんだよ」
「腐ったような変な臭いって、肥料じゃないんですか?」
「違うね。あれは肉の腐ったみたいな臭いだった。あれは凄かったよぉ、山に死体でも埋まってるんじゃないかって。カラスが集るようになったのもそのときぐらいからかね、匂いをかぎつけて来るんだよ」

 ぞくりとした。
 何故か、このお婆さんの口から出る『死体』という響きは生々しい。

「それで、あの事件だよ。桜がほとんど枯れてしまった三年目にね。一人、近くに住んでる女の子が家出したまま行方不明になったんだ――それで、みんな大騒ぎしてね。殺して肥料にしたなんて話まで出た。大変な騒ぎだったよ」
「行方不明、ですか」
「そうさ。当然知らぬ存ぜぬだったけどね、本当はどうだか――そのあと、すぐに引き払って行ったからね」

 急激に不安になる。
 この場所には、良くないものが渦巻いている気がする。
 真相がどうであれ、こうした悪い噂を一まとめにして封をしたものは悪いものを呼び込みやすい。

「あの、今日、金髪の――なんだかふわふわした女の子が来ませんでしたか?」

 メリーのことが気になった。
 こんな場所に、一人でさせてはいけない。メリーはただでさえそういうものに当てられやすい。

「来てないねえ」
「このあたりに、人家やお店は他にありますか?」
「私のほかにはほとんど出払ったから、少ないよ。このあたりだと……そうだねえ、お山に変電所と、休憩所みたいな場所があるけど人は住んでないね。お山に作った建物はもう解体されてるから残ってないし。しかしあんたその格好でキャンプでもしてたのかい? 山は危ないよ」
「慣れてますから大丈夫です。地図とか、ありますか?」

 メリーはここに立ち寄ってはいない――普通ならここで待っていそうなものなんだけど、興味か、それとも誘われてなのか、メリーはもう山へ向かっているようだった。
 結界の穴へ一人で向かったなら、一刻も早く後を追わないといけない。

「それに載っていると思うよ。見てみたらどうだい」

 お婆さんはパンフレットを指差した。
 急いでページをめくる。
 紙が古くなっているせいか、しわが寄っていた。何気なくページをめくろうとすると、ぺり、と緩い糊付け剥がすみたいな音がした。

 紙を送る手と思考が凍りついた。

 反射的に短く悲鳴まで上げていた気がする。
 火傷したみたいに手を引っ込めた。冊子が土間に投げ出される。
 背中から始まって指の先までを弛緩させていく怖気を実感した。心臓が鳴った。

 園内地図、丁度その擬人化された桜のイラストが印刷されている場所に。

「なによ、これ――」

 潰れた蛾の死骸が、張り付いていた。



 ◆ ◆ ◆


 あの頃から増えた――と聞かされた蛾は、一匹たりとも飛んではいなかった。
 完全に姿を稜線に隠した夕日は、いよいよ頼りないものになっている。

 ペットボトル一本を買って、逃げ出すように店を出た。
 『長者ヶ丸白桜亭』へと入っていく山道は、パーキングエリアからほんの百メートルも離れていない。
 それだけに、先ほどの印象を引き摺っている。潰れてカサカサになった蛾と、山が腐ったという発言が漠然とした不安感を強固に演出していた。足取りは言うまでもなく重くなる。
 山道は、階段状に土を均して、ガイドラインに杭が打ってあるだけの簡素なもの。それでさえ目的地まで続いているかはわからず、老朽化し途中で道がなくなってるかもしれない。

 ――本当に、メリーはここにいるんだろうか。

 少なくとも、紫の桜はこの飾り気もなく、年月を経て荒れ放題になった道の向こうにあるはずだった。
 紫色、黒に近い紫色という色の意味を改めて考える。
 それは、おそらく罪の色だ。
 どんな原因や理由があるにせよ、数々の出来事が村の人間の口に上るうちに形作られた狂気の桜。山を腐らせ、人を肥料にし、命を吸うと思われている得体の知れないものの象徴がそれだ。
 失望と怒りがそんなものを呼んでしまったとでもいうのか。
 本当に、そんな容易く幻想は呼び起こされてしまうとでもいうのだろうか――

 今、山は閉じられている。
 閉じた箱の中身が数々の想いによってどう変化しているのかは観測するまでわからない。
 メリーでさえ、今はその一部になってしまっている。

「ああまったく。平坦で退屈だった眺めが、ここまでエキサイティングでホラーなものになるなんてね」

 自嘲気味の独り言。
 頬を叩いて気合を入れる。

 鞄の中身を確認。
 お守り、お札、双眼鏡、化粧道具にナイフとランプと、母さんがくれたいかにも日本人っぽい目――オーケー、ひとギャグ入れる余裕はまだある。

 最後に深呼吸一つして、山道へと入った。
 なんとなく、地面がぬかるんでいる気がした。



 ◆ ◆ ◆



 道中はひとまず順調に進んでいる――何回か転びそうになったけど。
 そのうちの一回は、朽ちて落っこちていた『ようこそ長者ヶ丸白桜亭』の木看板、もう何回かは予想通り倒れていたガイドラインの杭に躓いてだ。

 もはや日は完全に落ちていて、燃料電池カンテラを片手に持っていないと足元が危なっかしくてしょうがない。20m間隔ぐらいで腰の高さに設置された電灯があるようだったが、当たり前のようにバルブが切れてて何の役にも立たなかった。
 ほとんど音がない。風が吹いていないのだ。
 だけど雨の匂いがする。
 ここで通り雨にでもあったら最悪だ。あいにく雨具の準備はない。
 それに、雨にでも降られたら誰かが近づいてきたってわからない――後ろが急に気になって振り返る。一瞬想像してしまった八つ墓村スタイルの研究者や、包丁を持ったさっきのお婆さんはとりあえずいなかった。

 正直、怖い。
 オカルトサークルの端くれとして、心霊スポットや墓場を大立ち回りしてきた経験もここではあまり役に立っていない。
 気付いてしまえば簡単だった。この違和感と焦燥、不安は一連のことが全て生きた人間の手で出来てしまうということに起因していた。

 だから明確な犯人を想定――というより捏造して、ありもしない足音を聞いてしまう。
 背後や、頭上に死角に何かがあるように思えてしまう。
 そこに浮かび上がって見えるのは、この紫の桜の話を吹きこんだ顔も知らない誰かであり、先ほどの老婆だった。
 桜に執り憑かれた人間が、枯れた桜を蘇らせようと人を殺して根元に埋める。
 それを行うのはこの山を開いた研究者でもいいし、山を奪われた村人でもいいのだ。
 人知れず開いた向こう側への扉を覗くのは、私たちの専売特許だ。
 だけど、人に知られてしまった向こう側の扉の近辺には、薄暗闇の住人が住み着くことがある。姿を持たない彼らは、やがて事象だけの存在として私たちに干渉するようになる。

 一度考えてしまったらもう後戻りは効かない。
 望むのは、一刻も早く同じく迷い込んでいるメリーを見つけてしまうことだけだ。
 メリーに関しての怖い想像はしない。絶対にしない。なんのかんので友達だから。


 自制しながら、暗い山道をしばらく歩くと明かりが見えた。
 緑色。非常口のアレだ。妙に安心する。

 焦ったのか、また躓いた。
 朽木と、それに絡むようにして横たわる何かの骨――

 叫びたくなるのを踏みとどまった。
 大丈夫だ。
 まだ――理解できる。山に動物の屍骸があるのは、まだ理解できる。

 ぱらぱらと、森がはじける音が立ち始めた。
 雨が降ってきていた。
 歩調を速めて非常灯に、休憩所に向かう。少し息苦しい。
 コンクリートの人工的な白がうすぼんやりと浮かび上がっている。
 遠目には引っかき傷のように見えたものは、スプレーでの落書きだ。出て行け、桜の木を返せ、殺した――あんまりにもわかりやすい年代物の悪意が刻まれていた。
 中に人のいる気配は感じられない。建物はかなり強固に外から守られていた。変電設備の一部が中にあるのかもしれない。

 ただ、鍵は開いていた。
 雨宿りをするべきだろうと、甘えたような考えが浮かんで、結局私はそれに流された。
 雨よりも、どんどん重くなってくる夜闇から身を守りたかった。あんまり長く晒されていると、理性が押しつぶされてしまいそうになる。
 役になど立たない警戒を見せながら、無人の施設に足を踏み入れた。



 ◆ ◆ ◆



 電灯が生きていたのは、心の底からありがたかった。
 水銀ガスの紫外線は、閉じられた空間においては強烈に夜を照らしてくれる。

 休憩所はさほど古く感じられなかった。
 内装の傷みや壁のひびはともかくとして、まだ使用されている形跡が見て取れる。それは十分以上の安心材料だ。
 部屋は二区分されていて、片方は配電盤で半分埋まっていた。工具なんかも転がっている。流石に触らないほうがいいだろう。
 本来の意味での休憩所部分には薄汚いパイプ椅子が二つだけがある。休憩室側も半分ほどがガラクタ――壊れたブロックや鉄骨で埋まっていた。椅子に降り積もった埃の層はかなり厚く、あんまり座りたくはないが、疲労に負けた。山道を歩いたことと、気を張り続けていたことの両面からがたが来ている。
 帽子を取って、髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 きーんとなっている耳に、外でぱらついている雨音が飛び込んでくる。

「メリー、ここに来てるんだったら戻ってくると思うんだけど――」

 ――扉から入ってくるのは、本当にメリーだろうか。
 最悪の方向に思考が流れる。扉に内鍵は付いていない。ここは自分の部屋でも要塞でもないただの箱だ、そういう意味での安心などできるはずがない。かえって追い詰められたようなものだ。
 扉を気にすれば、次は窓が気にかかる。窓の次は――そんな風にして隙間をふさごうとしても無駄だ。箱に内側から鍵をかけることなど出来ない。箱は何かをしまっておく場所なのだ、内側に向かって閉じた箱など存在しない。

 前向きに行動するべきだ。
 雨が収まったら、あるいは待っても止まないようだったら、外に出てもう恥も外聞も捨ててメリーのフルネームを連呼しよう……マエリベリー・ハーンを蓮子するのかーとか思いつくだけまだ元気だな、うん。

 どうしようもない駄洒落で少しだけ士気を回復させた私は、配電盤を調べにいった。
 理系とはいえ物理学専攻、ただただ配電盤であることしかわからない。コントロールボックスには流石に鍵がかかっていて、こじ開けるのは難しそうだった。工具もあんまり持ったことがないので特殊な使い方で道を切り開けるとも思えず、放置した。スパナで叩き壊すのは幾らなんでも無法すぎる。
 詳しいことはわからないなりに、観察。
 園内のライトアップ用なのか、クリアファイルに入れられた地図が壁にかかっていた。何基かある配電盤のナンバーが地図上にマジックで記されている。かなり大規模に電気を使う予定だったんだろう。わざわざこんな場所に変電所兼ブレーカーを作ってしまったことからもそれがわかる。

 おそらくはパンフレットをそのまま見開いて入れてあるんだろう。
 あんまり思い出したくないアクシデントで見られなかった部分もこれである程度わかる。
 園内は件の『お山の桜』を中心にして円周上に数々の桜が植えられていたらしい。
 取り出して読んでみると、やはり土産物屋で読んだものと一緒。
 読めなかった場所には、『お山の桜』についての詳しい説明もあった。開園理念には、この桜を多くの人に見てもらいたい、そのためにこの桜の周囲はそのままの姿で残した、などと書かれていた。
 だけどその結果、山は枯れて――腐ったのだと聞いた。本当にその理念の下に作られていたとしたら、そう思われてしまっていることは少し悲しくもある。

 桜が枯れた原因は、本当のところどこにあるのだろう。
 遺伝子組み換えで再現したという江戸の桜が、根を腐らせたのだろうか。それとも他の多くの名勝と同じように、新世代の生態系に飲み込まれたのか。
 どちらにせよ桜は枯れ、この桜の園は恨みを一身に受けることになった。

 ――そして、歪んでしまったのだろう。

「うん。もう少し、調べてみよう。何かあるかもしれないし」

 休憩室に戻り、瓦礫の山を引っ掻き回す。
 幾つか案内板のようなものが転がっていた。木枠にプラスティックを釘止めした簡素なものだ。
 フゲンゾウ、ヨウキヒ、トラノオ――植林された桜の根元に植えられていたものだろう。
 『お山の桜』を説明する板もある。
 瓦礫に隠れて半分見えない看板を引っ張り出そうと、掴んで――何かが手に触れた。
 板を裏返し、それがなんだったのかを確かめると同時、私は大声で叫んでいた。

 看板裏の木枠には――びっしりと。
 蛾のさなぎがひしめいていた。
 からからに乾いて、死んでいる。

 猛烈な悪寒に膝の力までが抜けた。パニックを起こしかけているのを自覚する。
 吐こうとした息と吸い込んだ息がぶつかって咳き込む。よろめいて、そのまま無様に尻餅をついた。

 部屋を見回す。
 埃のように四隅にうずたかく積まれているものの正体がいまさらながらにわかった。

 全部、そうだ。

 ここは屍骸だらけだ! どれもこれも、腐って枯れている――!

 ドアがきしんだ気がした。
 気のせいだ、そうはわかっていても呼吸が乱れる。

 頭の中でメリーの姿が歪む。
 全部がごちゃごちゃになって訳がわからなくなる。
 扉や窓にどうしても目が行く。

 ――ヒステリーを起こしかける寸前、窓の外を何かが横切った。



 ◆ ◆ ◆



「紫の――花?」

 呆然と呟いて、放心する。
 今、確かに窓の外をそう見える何かが横切った。

「違う」

 言い切る。
 それはそう見えるだけだ。あれは、紫の桜じゃない。
 あの飛び方は、ひらひらとしていて――ああ、そうか。
 その理解と同時に、飽和していた頭からすとんと余分なもの――嫌悪感や、恐怖が落ちてなくなる。
 何を怯えていたんだと、自嘲すら湧き上がってきた。

 紫の桜は、この世界に存在しない。
 それが本当にあるとすれば、あちら側のものだ。
 今見えたのは、間違いなくこっち側のものだった。直感は裏切らない。
 だから、紫の桜だと思われているものは――そう見えるなにかなのだ。

 断片的な情報が組みあがっていく。
 余計なものは必要ない。選び出し、補填し、論理と科学常識で組み上げていけば正体は明らかになる。
 こっち側のものが相手なら、私にはそれこそ腐るほどの裏づけがある。

 ――情報がまだ足りない。

 地図を見直すのが第一。
 やはり『お山の桜』の円周上に新しく桜は植えられていた。加えて『お山の桜もとうとう三年目には』という発言が真なら、ここで一つの重要な仮説を導き出せる。

 『お山の桜』の看板――そこの写真を確認するのが第二。
 自然の姿をそのままに、という発言通りに、桜だけでなく周りには数種類の木々が植えられている。これがいつの写真かはわからないが、桜が枯れる前であればなんでもいい。並んで立つ木がなんであるかさえわかればそれでいい。

 そして最後に、あのさなぎがなんの幼生体だかを調べる必要があった。
 あの数は尋常ではない。そして、あれだけの数にもかかわらず、『お山の桜』の看板にしかさなぎが集っていなかったことが重要になる。

 歪んだ枠組みを四角四面に直せばパズルが組みあがっていく。
 予断と推測を完璧な形で繋げて答えを出す。

 おそらく桜が枯れたのは、必然だった。それが『腐った』と形容されたのも。
 カラスの屍骸は重要なヒントだ。いまや都市部以外に生息するカラスは少ない。餌がないからだ。だからカラスの存在は下方向に連鎖する、蛾が――いや、チョウ目の昆虫が増えたことによる必然だった。
 余分なのは、あの土産物屋で聞いた噂話と、出処の不確かな事件の真相だ。
 行方不明? 交通事故? 無理矢理つなげようとすればそれはどこにだっていびつな形で接続できる。
 それらをそぎ落とせば、ひしゃげて汚された箱の中身は明らかになる。
 紫色の桜を――再現できる。

「繋がった」

 わかってしまえば、あとはそれを確認するだけ。
 外へ出る。雨はとっくに止んでいた。
 紫色が、手招きをするかのようにそこかしこで揺れていた。確信した、正解だ。
 怖がる必要なんて、最初からどこにもなかった。
 くっそう、メリーめ、最初からわかってやってたんじゃないのかこれ。

「ああもう――出遅れたわね。早く行かないと、お花見に」

 あんまり遅れると、一足も二足も先に進んでいったメリーに馬鹿にされてしまう。



 ◆ ◆ ◆



 そこには花が咲いていた。
 花が咲いているように見えた。
 それは、紫色の桜の花だ。

「一足先にお邪魔してるわ」

 いつものように胡散臭い笑顔と声音が、特等席に陣取って私を迎えた。
 月光を冴えかに紫色が揺れていた。
 どこを切り取っても現実のものとは思えない背景を背負った横顔は、少しだけ大人びて、少しだけ神々しく見えた。付き合いの深い私でもどことなく捕らえきれない彼女の笑顔が、こういう場所ではことさらに強調されてしまう。そう見てしまってはいけないのだとわかっているのだけど、やっぱり直感だけは裏切れない。
 それを誤魔化すように、私は普段着の口調で話しかけた。

「私を怖がらせて楽しんでるなんて、趣味が悪いわよ――どこまでわかっててやってたのよ一体」
「実はね、つい先日ここの創立者から話を聞いた友達がいてね、その子から教えてもらったの。きっと悪く言われているだろうけど、本当は違うから誰か一人ぐらいにはわかってほしいと思っているって」
「全部出来レースだったってことね、最初に言ってくれれば素直についていったのに」
「からくりが読めちゃったら夢も希望も序破急も無いじゃない。それに、本当はただ枯れた木があって何もないだけだと思っていたから。それじゃついてきてくれないでしょう? だからちょっと脚色して話したのよ。でも、まさかこの山固有の桜を守るために植えた木が、こんな風になっているなんてね」

 それはなかば呆れたような、負けを認めた声音だった。
 私も、正直なところ話が上手く行き過ぎているようにも感じる。これはやっぱり、ほんの小さな針の穴を通すほどの可能性を綱渡りして生まれた、奇跡に近い眺めだ。よく、組みあがったと思う。

「新来植物の侵食に対する延命策は、地下茎を張り巡らせて盾にすることなのよね。だから京都や東京には防柵として強固な地下茎ネットワークを作る竹が多く植えられた――そのおかげで天然の竹は激減して今じゃタケノコは合成でしか味わえないけど。批判もあって今じゃほとんど行われていないみたい方法なのよね、これ。ともかくその延命策でなんとか生き残ったのが、防御円のど真ん中にあったこの木だった。本来守るべき桜が枯れてしまったのは誤算だったろうけど」
「限られた場所でしか桜は咲かない。科学世紀の今、そういう風に世界は変わってしまったし、多くの人間がそれを受け入れて新しい四季と花のあり方を作り出した。だけど、こういうある種虚しくさえある方法で記憶を繋ぎとめようとする人たちもいた」
「昔の話を懐かしそうに語るほど年食ってないでしょう」
「あら、私は貴女よりちょっとは年上よ」
「そうだったっけ?」
「そうよ。年長者を敬いなさい」

 妙に説得力のあるその物言いに思わず笑みがこぼれる、私は改めて大樹を見上げる。

 紫色の花を付けつつある――エノキの木を。
 一斉に羽化しようとする、数千匹の蝶――オオムラサキを。

 あんまりに見事で目が離せなかった。
 少しだけ離れた場所に二人並んで、ずっと見上げていた。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、ってところかしら」
「ところが幽霊じゃないのよね。それに枯れ尾花は失礼よ、綺麗じゃない」

 桜の木に守られるようにしてたった一本残された榎の大樹は、滅びつつある国蝶の宿り木になっていたのだ。
 それが紫の桜の真実だった。
 桜木に守られ続けたこの木は、その桜に憧れるようにして自らも花を付けた。それが異形のものとはいえ、確かに花を付けた。きっと、望まれた姿のままに。
「向こう側の景色でもなければ、幽霊や亡霊でもないのよね」
 それが確かなことで、一番重要なことだ。
「だから見ておかないと。本物の紫色の桜なんて、きっともう二度と見られないわよ――きっと、来年にはもう根をやられてこの榎も枯れてしまう。そうしたらきっと」
「つまらない噂が、本当のことになってしまう」
「そうよ。さしづめ『桜に魅せられ狂気に取り付かれた科学者が、人を贄にして咲かせた紫色の罪の桜』――なんてところかしら。そんなものを箱詰めして幻想扱いされたらたまったものじゃないわ」

 それはさっきまでの私の愚にもつかない空想と、まるっきり同じ筋立てだった。
 風が吹いて、木は怒っているみたいに揺れた。なんとなく謝りたくなって、私は木に向かって頭を下げた。横で、そんな私を笑ってそれから私に倣って一礼して非礼を謝罪する、そんな仕草が僅かな空気の揺れで伝わってくる。やっぱり目は狂い咲きから離せない。

「桜が枯れてしまったのは、もう逃れようのない環境変化があったからよ」
「他も、一応説明が付く。このエノキの木を拠り所に蝶が大発生するってことは、それを目当てに鳥がやってくるってことだもの。でもここは植物園だったんだし、ある程度の害鳥対策はしてあるから――鳥はかなり多くが罠にかかって屍を晒すことになる。それが天敵を防いで、この蝶たちが大発生する理由にもなった。それでもめげないのは、圧倒的に頭が良くて学習力のあるカラスだけね」
「腐った臭いがしたっていうのはゴミの不法投棄だと思うわ。幾らなんでも十何年前のことだから今は大丈夫みたいだけど。車まで捨ててあるのを見た? あの近くは、かなり悲惨なことになってたわよ。あのころは車を捨てるのにもずいぶんな大金が必要だったからね。ガードレールがないのをいいことに乗り捨てていったのよ。それが交通事故扱いで、しかもそれが起こるのは呪いのせいだはひどいわ」
「こじつけられるからね、そういうものは――蓋を開けてみれば、中身は結構以上にしょぼい話。立派なのは、この木だけ」
「あのお婆さんや村に住んでいた人たちは誤解したままだろうけど、それでいいのかもね。きっと、そう思うことで、華やかに咲いていた頃の『お山の桜』をいつでも思い出せるんだし」
「そうね。こっちの割り当ては――この紫の桜よ。十分じゃない」
「謎も全て解けたところで、ゆっくりとお花見ね――って、行方不明事件だけはカタがついてないわね。やっぱりただの家出かしら」
「んー、じゃああれは私の仕業ということにしておきましょう。継母にひどくいじめられていた子を、私はどこか遠い国へ逃がしてあげたのでした、まる」
「適当なことを言わない」

 目の前に広がる景色はあんまりにも綺麗で、こんなふうに軽口を叩いてでもいなければ幻想にとらわれてしまいそうになる。

「やっぱり綺麗よね、罪の花だなんて欠片も思えない。それに、そんな血生臭い桜は願い下げ。紫色の桜なんて、閻魔様にでも任せておけばいいのよ――知らない? 三途の川の桜は罪を吸って紫色に咲いているって話があるの」
「それはちょっと願い下げね。私はやっぱり、屈託なく咲いてる花のほうが好きかな」
「私も、桜はそういう花であってほしいのよ。散華の花だとか、死体が埋まってるだとか好き勝手言われてるけど、花に罪はないって『西行桜』で言わせた世阿弥の説には賛成ね。墨染め桜は白いのよ。本居宣長ゴーホーム」
「もうちょっと神妙に眺めましょうって――気持ちはわからないでもないけど」

 ――蝶が飛んでいく。
 もはや帰る場所のない最後の世代が、どこへともなく散っていく。
 どこにも目指すべき場所の無い桜は、どこにもない光でほんのわずか、世界を彩り照らす。
 桜は天に向かって散っていくと詠んだ詩人がいたと思う。きっとその感性は正しかった。

「本当に桜の下に埋められている人がいるとしたらね。その人はきっと、それでも桜が好きなのよ。
 だから、その桜は春になればきっと誰の目にも綺麗な花を咲かせるはずよ」

 そんな風に嘯いて、仕掛け人は幻想に限りなく近くも決定的に違う現実の光景を見送った。

「ちゃんと見てあげましょう。ちょっとおかしな形だけど頑張って咲いてるんだから。誰にも知られずに咲いてる花はやっぱり悲しい。
 ――そうね、貴女の嫌いなシュレディンガーの猫じゃないけど。外から見えない箱の中じゃ霧状態なのよ。咲いてても、枯れてても誰も気付いてくれないようじゃ、どちらでも変わらない。だけど、その中身を観測する人間がいなければ箱は勝手なラベリングをされてしまう。今回だったら、さっき言った怪談話としてのレッテル張りになるわね。物理学的には間違ったたとえ話だとしても、主観を別のものに投影することができる私たちにはいい方便だと思うわ」
「これは現実の花だって、私が観測したからね。もう波動関数は収束した。これは確かな現実のもの――あの思考実験の本来の意向とはかけ離れてるけど、例え話としてはわかりやすいかも」
「そう。だいたいそんなところ」

 ――あとは言葉もなく、私は事の始末に見とれていたと思う。

 だから、全然気付かなかった。置手紙を残して、隣のいたはずの人影がいつのまにか消えていたことに。
 置石代わりに使われていたのは――持ち逃げされたメモリスティック。

 手紙にはこうあった。

『無粋かと思ったけどこっそり写真を撮っておきました。
 あとで二人で見るといいんじゃないかと思って。

 追伸・もしかしたらちょっとデータ上書きしちゃったかも』

 そんなことぐらいで逃げることはないじゃない、とちょっと笑う。
 どっちが大事かって言われたら、そんなの決まってるじゃないか――



 ◆ ◆ ◆



 我が家の薄っぺらい扉を開くと、胡散臭い笑顔があった。

「蓮子蓮子、お花見に行きましょう」

 一日が開けて――午後の空は思いがけず澄んでいた。
 天気予報は外れた、今日も晴れ間が広がっている。
 そんな中、ふらりと我が家を訪れたメリーは、相変わらずの笑みを張り付かせてそう言った。
 桜の香りを思わせる匂いは相変わらず。ただ、その一瞬の幻視が思い起こさせる花の色が昨日とは違っていた。脳裏をよぎったのは透き通り、だけど暖かく柔らかい、こぼれるような紫色だった。

「あのねえ、メリー。昨日あれだけ綺麗に片がついたんだからしばらくは大人しく余韻に浸りなさい」
「……えぇ?」
「メリーも一緒に見たじゃない。先に帰っちゃったみたいだけど」
「そりゃ私は昨日夢でまでお花見をしたけど。蓮子もなの?」

 話が全然噛みあっていない。
 いや、それ以前になんだかとんでもない勘違い、思い違いをしているような――

「私、昨日はずっと家で蓮子の連絡待ってたんだけど。っていうかもしかして蓮子、昨日のこと寝ぼけててなんにも覚えてなかったりする?」
「それはこっちの台詞よ。私はメリーの家に行ったんだけど、入れ違いでもう家を出ちゃってたから直接目的地に向かったんだから――」

 色々が、すれ違う。境界があいまいになる。
 その重ね合わせを解くために、私は唐突な質問をした。

「ねえ、メリー。紫色の桜の話だけど……何処で、誰に聞いたの?」
「ええと、あれは人づてに聞いたのよね。最近のことだったと思うけど――誰だったかしら、耳寄りな話があるから聞いてって言われたような、お茶の席で聞かされたような。やっぱり、よく覚えて無いわ」
「……いつもみたいに、夢の中で聞いてきたんじゃない?」
「そういわれるとそんな気もするのよねぇ。でもいいじゃない、夢と現実は同じものなんだし」

 定番の台詞を口にするメリーをとりあえずほっておいて、私は部屋に戻ってパソコンを立ち上げた。
 もどかしい手つきで白桜亭の元となった研究所の名前を検索し、続いて所長の人名を検索ウィンドウに打ち込みエンターキーを押す。
 0・00012秒でピックアップされた関連記事の一番上を呼び出した。
 大学の著名研究者を並べたデータベース上には、ある意味で想像通りの情報が羅列されていた。
 今年、三回忌が行われることになっていた。
 つい先日なんて無茶な時間にわざわざ伝えてくれてありがとう、とでも言うべきだろうか。苦笑する。
 急に奥へと引っ込んだ私を追っかけて、メリーがぱたぱたと軽い足音を立ててやってくる。ブラウザを閉じて、肩越しにディスプレイを覗き込もうとするメリーに向き直った。
 メリーが愛用する香水がかすかに薫った。
 桜の芳香物質を擬似合成した――本物にしか思えない薫りを聞き、私は季節をさかのぼりそうになる。

「でも、現実と幻想は違うものなのよね」

 ひとくくりにされて箱の中に追いやられたものは、外側からは見ることが出来ない。だからときどき、隙間を開けてそれを覗き込んでやることも必要になる。それが、こちら側とあちら側の関係でもあるのだろう。私はあの景色の中で、そう教えられた。
 あの桜は――現実のものだから綺麗だったのだ。
 独りごち、卓上に置きっ放しになっていたメモリスティックを拾い上げた。

「あ、やっぱり私忘れていったんだ。せっかく悪戯したのに、肝心の質草を置き忘れていっちゃったのよ」
「――夢の中にね」

 ソケットにメモリスティックを差し込み、それで不在証明は成立した。
 0と1、デジタルに、ヴァーチャルに変換された今はもう虚構の、だけど現実の風景がディスプレイ一杯に映し出される。いかにも素人らしいアングルで丁寧に撮られた数枚の大判写真だった。
 幻想に憧れもしなかったつぎはぎの桜があいまいなピントで私の手元に残っている。

 箱の中の虚構は、花のかたちをしていた。







 了




夢は覚めにけり、嵐も雪も散り敷くや。
きっと極楽浄土は、暖かくて幸せなことでしょう。南無。


開けて悔しき玉手箱。
世の中そんなものばっかりではないのだと思いたいものです。

長い話を読了してくれたことに何よりの感謝を。
二俣
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2006/10/28 06:22:11
更新日時:
2006/10/30 21:22:11
評価:
29/34
POINT:
220
Rate:
1.63
1. 8 反魂 ■2006/10/28 18:50:28
見事です。
秘封倶楽部の世界観を生かし切ったストーリ、トリッキーな展開、圧倒的な筆力。全てに感服です。久々に骨身に沁みる読了感を味わわせて頂きました。
箱というテーマがある以上、ちょっと薄すぎるテーマ性には減点ですが、仮に創想話にあれば100点確実です。本当に素晴らしい作品でした。
2. 10 読むだけの人 ■2006/10/29 03:40:52
秘封にはこういった話が良く合うと個人的には思ったりしてます
3. 4 箱根細工 ■2006/10/29 17:13:59
長い話がいけないとは言いませんが……。
4. 7 らくがん屋 ■2006/11/01 16:38:21
SSとしての出来は、秘封物ではトップ、全体でも五本の指に入るんだけど、あまりにも箱から離れすぎている感がある。
テーマを無視してSSとしてのクオリティを上げる、という戦略ならば、成功していると言えるかなあ。
5. 9 椒良徳 ■2006/11/03 12:40:24
力作ですなあ。
こんなストーリを考え付くとは。いや、お見事。
6. 9 爪影 ■2006/11/05 00:51:17
 いやいや、大作、ご馳走様でした。
 私が考える「秘封倶楽部」の世界観とはかなり違っていたので、勝手な事とは思いますが、この点数で失礼致します。
7. 7 nn ■2006/11/05 23:45:31
力作というの理解できました。特に、ホラー調の辺りは長文の苦痛を忘れ大分文章にのめり込めました。ただ、色々なものを詰め込み過ぎて作品としてまとまりのないものになっているような感じは否めません。
8. 10 つくし ■2006/11/07 21:44:32
あますところなく秘封。あますところなく東方。それでいて原作では描かれ得ないおはなし。私が理想とする二次創作のすべてをやられて、もう悔しさを通り越して感嘆するしかありません。
9. 3 おやつ ■2006/11/07 23:50:59
この二人はいつか幻想に招かれるだろうなと思いました。
メリーが夢と現の境界を越える日が、果たして二人の幸福となることを祈ってますわw
10. 7 Fimeria ■2006/11/09 05:59:16
よく練られた良い文章でした。
ただ、話の山場が早い段階読めてしまったのが少し残念です。
箱も、無くてもいいような……ううむ。
11. 10 ルドルフとトラ猫 ■2006/11/10 15:26:36
いびつなものが見方を変えれば素直になる
そういう話は好きです
12. 6 2:23am ■2006/11/10 23:37:24
夢と幻をあわせて夢幻といったところでしょうか。途中の辺りは無間って感じもしますね。しかし分かりづらいところがあったように思えます。読み手に分かりやすいように話を繋ぐことも重要だと思いますよ。
13. 8 復路鵜 ■2006/11/11 20:20:54
これは…っ!(ノ>ヮ<)ノ
面白く読ませていただきました。この世界観の考察はなかなか興味深かったです。
14. フリーレス サカタ ■2006/11/11 22:31:18
最後まで読んだら面白かったです。ただ、最初の一回目はおばあちゃんとの会話で読むのをあきらめてしまいました。つまりそこまでは正直退屈でした。
序盤をもう少しすっきりさせると、もっといい作品になったと思います。
15. 5 たくじ ■2006/11/12 22:12:38
蓮子がお店にたどりつくまでは正直読んでて退屈で、序盤で読むのをやめたくなりました。
でも中盤以降はだんだん膨れ上がるホラーな展開に引き込まれていきました。
こんなところよくメリーは一人で来たなぁと思ったけど、そこにメリーの能力が出てきて納得という感じでした。
後半は面白かっただけに、序盤で読者を逃がしたらもったいなぁ。
16. 6 藤村うー ■2006/11/13 02:15:37
 箱は関係ないような……。
 どうも前振りが長いです。早く本題に入らないかなあ、と思ってしまいました。前振りが長いと文章が上手くても飽きてしまうので……。
 秘封の世界観を説明するのも、その中に伏線が入っているにしても少しくどいかなという印象を受けました。わりと暗い未来を突きつけられてるから、読んでてしんどかったということもあるのですが。
 また、説明台詞が多いのと、どっちが何の台詞を喋っているのか分からないシーンが多かったのは厳しいです。特に終盤。
 紫がメリーに成り代わっていたことを示すキーワード「あれは私の仕業ということに〜」の部分が誰の台詞なのか瞬時に理解しにくく、蓮子の台詞だと誤読されるとそもそもそのトリックが成立しません。
 あとは、秘封倶楽部の世界観は人によって大きく違うのだなあ、と今更ながら。退廃的な世界を描くか、希望のある未来を描くか、そのあたりは書き手次第ということなのかもしれません。
17. 2 VENI ■2006/11/13 13:56:56
読みにくかったです。
18. 7 翔菜 ■2006/11/14 09:59:52
何と言っていいか。
上手く言えないのですけど、面白かったです。
19. 8 13 ■2006/11/15 11:54:29
テーマの使い方が少し弱いかな・・・
筆力・内容は充分なだけにその点が残念でした
20. 10 ■2006/11/15 17:07:52
丁寧で真に迫る、背筋の冷たくなるような場面からのひと息での方向転換は、非常に効果的でした。おかげで、恐怖の黒に紫の桜はひときわ鮮やかに輝いています。
21. 10 いむぜん ■2006/11/15 20:59:29
秘封、メリー抜きという変化球だったけど、面白かったです。
田舎とか旅で通ったことのある人間ならまず感じる寂寥感。
そのへんの描写がうるさくなく、かつガッシリしてる。幻想になった自然、なろうとしている自然。
東方世界の外の世界を書きぬいた筆力に脱帽。
きっとすごく下地はあるはず、でもそれを見せ付けず、必要なところだけ見せるその技。すごく瀟洒だ。
これなんてX-ファイル? そんな感じ。
22. 7 ABYSS ■2006/11/16 15:14:35
面白かったです。
が、ちょっと語りすぎの感があるかもですね。作品で言いたいことを全部語りきっているのはいいのですが、こっちの介入する余地が無いというか。全く無いわけではないんですけどね。
23. 10 blankii ■2006/11/16 21:05:27
なんて素敵な秘封倶楽部。その幻視力と構成力に脱帽です。
24. 7 雨虎 ■2006/11/17 14:09:27
流れが良く、長めの作品でも楽しめました。
ただ箱というテーマがあやふやに感じてしまったので
その分の点数を引いての評価とさせていただきます。
25. 9 目問 ■2006/11/17 22:16:54
 上手い、面白い。テンポのよい語りといい、描写の妙といい、そしてストーリーといい。一個の話としては完璧に近いと思います。
 テーマの箱に関してはちょっと観念的過ぎる感もありましたが、これは私の理解力に起因しているだけっぽいですすみません。
26. 9 as capable as a NAMELESS ■2006/11/17 22:41:09
良い意味でのグロテスクさというか、ゾッとするほど美しい。
説明などで無駄に長くなっている感が否めない点だけが残念です。
27. 8 木村圭 ■2006/11/17 22:55:51
いやー、本っ気で寒気がしました。死骸怖い。
とても面白かったです。もしかしたら遠くない未来かもしれない世界が実にしっかりと形作られていて、想像すらできない世界の出来事のはずなのにするすると読むことができました。
28. 6 しかばね ■2006/11/17 22:57:52
オオムラサキは1匹でも凄いのに、花に見えるほど集まっていたら
この世のものとは思えない光景になるんでしょうね。
どこか荒涼とした風景描写に微妙にホラーな風味が合わさって、
独特の味わいでした。
29. 8 灰次郎 ■2006/11/17 23:03:17
冷静に考えてみると結構キツイ光景だろうに、それが綺麗に思える不思議
良い話でした
30. 10 K.M ■2006/11/17 23:07:59
確かに長かったですが、その甲斐ある素晴らしいお話でした。
現実だけど、生半可な向こう側よりよっぽど幻想的。
31. フリーレス 時計屋 ■2006/11/17 23:18:11
犀利な文章。精緻な設定。
そして幻想と怪奇と、現実と事象とで彩られた美しい桜の物語。堪能させていただきました。
ただお題をもうちょっとうまくつかってほしかった。そこだけが残念でした。
32. フリーレス 時計屋 ■2006/11/20 00:30:28
すいません。
↓の本当は9点いれる予定でしたが、結果発表後見たら入っていませんでした……。
33. フリーレス 匿名評価
34. フリーレス リペヤー ■2012/04/28 20:21:48
2012年の今になってこの作品を読ませていただきました。……素晴らしいです。
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