作品集: 最新 投稿日時: 2008/09/27 09:45:34 更新日時: 2010/11/07 16:48:08 評価: 26/27 POINT: 182 Rate: 1.53
 





 私たちは、魚だ。






 竜宮の使いは、滅多にその姿を見せない。
 稀に、その死体や痕跡が発見され、人々の口にのぼるくらいである。

 近頃、仲間のひとりが息絶えたという噂を聞いた。

 亡くなった彼女とは、そう親しかったわけでもない。
 が、やはり、仲間がひとりいなくなるのは寂しいものがあった。
 私は、彼女が纏っていた羽衣を回収するため、彼女の死体を探していた。
 幻想郷の隅々を探し回り、人里に程近い森の中で、小さく破れた羽衣の一部を発見した。それは、彼女が愛用していた羽衣だった。
 探し物は、この近くにあると思った。

 

 小さな村の、そのまた片隅にある小さな納屋に、不釣合いなほど多くの人間がたむろしていた。
 そのひとりに、何事かと尋ねてみる。幸い、男はひどく興奮している様子だったから、私の素性を問われることもなかった。
「竜宮の使いが降りてきた」と、男は語った。
 嬉しそうに。楽しそうに。

 人の壁を掻き分けて、ささくれ立った畳の上に横たわっている、竜宮の使いを見る。
 年老いた男が、跪き、彼女に手を合わせていた。
 彼が村の長であることは、騒がしい人の声を聞いていれば、おのずと解った。
 私は尋ねる。
「彼女を、どうしようと言うのです」
 彼女が既に死んでいるのであれば、掌を合わせているのも、理解できる行為ではあった。
 けれども、長が単に死者を弔う意味合いから、合掌をしているようには思えなかった。
 長を含め、ここにいる人間たちは、彼女が竜宮の使いであることを知っているのだ。
 長は、皺の深く刻まれた顔をかすかに歪めて、厳かに呟く。
「ここに、祀りたいと考えております」
 その言葉を期に、人の声が鳴りやんだ。
 竜宮の使いは、龍神と地上とを繋ぐ架け橋としての役割を担う。天から生み落とされた龍神の声を、地に足を根付かせて生きている人の子に伝える。龍を知り、人を知り、地を知り、そのどれにも深く干渉しない。
 竜宮の使いもまた、人間から見れば、神に近い位置にある。それは知っている。
 けれど。
「愚かな」
 小さく、自分にさえ聞こえるか否かという呟きを、村長だけは聞いたろうか。彼は少し顔をしかめて、またすぐに私から目を逸らした。
「竜宮の使いの方が、役目を終え、ここに降りてこられた。そのことに、何か意味があるのだと思いたいのです」
 私の返事など期待していないというふうに、村長は私に背を向けたまま、彼女に手を合わせ続けていた。
 所々ほつれた羽衣が、担い手を失い、空に還ろうと彼女の背中から飛び立とうとしている。けれど、消え去ることも許されない彼女の肉体が、静かに眠ることを許さない人間たちの意志が、羽衣の帰還を遮っている。
 いまや、雨粒さえ凌げないほどに脆い納屋が、彼女を閉じこめる頑丈な檻であった。
 私は、彼女の枕元に膝を突き、きょとんとする村長の隣で、人の願いを伝え、彼女の思いを聞く。
 人は、彼女を祀りたいのだという。
 彼女は、それでも構わない、と答えた。
 私は、確かにその遺志を聞いた。
「お引き取りを」
 村長が、年嵩に相応しい厳格な調子でもって、宣告する。
 もはや、私がここに留まる理由も失われた。
 返すべき言葉も持たず、私は再び人の壁を掻き分けて、無慈悲な籠の中から抜け出した。
 振り返れば、人々の声がやけに騒がしい。
 その奥に、物言わぬ竜宮の使いがいた。
 瞳を閉じて、まぶたの裏に映る在りし日の彼女を思い返す。
 英雄願望も、喝采欲求も持ち合わせていなかった。寂しさも、苛立ちも、淡い微笑みさえ浮かべなかった。浮かべたことはあったのかもしれないが、それを私の前で見せたことは一度もなかった。
 彼女の名前さえ、覚えているものは少なかった。
 事実、彼女が彼女であるために必要なものなど、竜宮の使いであるための、緋色に輝く羽衣だけだったのかもしれない。

 まぶたを開ける。人の渦は絶えることなく、同胞の亡骸を取り巻いている。
 祈るように、嘆くように、天を仰ぐ。
 真っ青な空には、雲の影すら見えない。





 五年が経った。
 雲の中から、地上の様子を窺い知ることは難しい。有頂天ならば、下界の様子を見て取れる。私は、有頂天の片隅に佇み、人の住む世界を見下ろしていた。
 特に、何か変わった様子はない。
「あれ、衣玖じゃない」
「総領娘様」
「天子でいいっての」
 面白くもなさそうに、比那名居天子は桃をかじる。彼女はいつも退屈している。私に話しかけたのも、他にすることがなかったからだろう。
「何してるの。面白くもなさそうな顔して」
「特に何も。地上の世界に異常がないか、確かめていたくらいで」
「真面目ねえ」
 桃の汁を手の甲にまで滴らせながら、気だるげに呟く。
 袖口まで染み込みそうになってようやく、彼女は慌ててその雫を舐め取る。
「で? 本当のところは、何をしていたの」
「ですから」
「知ってるわよ。竜宮の使いの羽衣、回収できなかったのよね」
「それは」
「それが、何か関係しているんじゃないかしら」
 私は口を噤んだ。
 言うべきか言うまいかを悩み、自慢げに微笑む彼女の表情が、少し恨めしくも感じた。
「地上の、ある村の様子を」
 嘘ではない。
 嘘ではないが、真実でもない。おそらくは、彼女もそれを察しているだろう。しかし彼女は、つまらなそうに「ふうん」と呟くだけだった。
「でも、初めて見たわ」
「何を、でしょう」
 決まってるじゃない、と彼女は私の顔を指差して。
「貴方が、そんなに苛々してるところ」
 そう言って、思いきり桃の種にかじりついた。





 更に、五年が経った。
 私は、地上に豪雨が降り注ぐという龍神様からのお告げを賜り、その報せを地上に届けるため、久々に下界へと赴いた。
 早くも、地上では雨が降り始めていた。龍神様の警告がなされた以上、それは何らかの対策が必要な状態である。何もせずに手をこまねいていれば、必ず甚大な被害を及ぼす。
 私は幻想郷を回り、人々に、時には妖怪にも、間もなく豪雨が訪れることを告げた。
 人々の反応は様々で、疎ましげにされたり、謝辞を述べられたりもした。
 その行脚の中で、竜宮の使いを祀っている村にも足を運んだ。
 あの納屋は、見違えるほど立派な社に変わっていた。厳重に施錠が施され、使いの姿を拝むことは出来なかった。賽銭箱は底が見えないほどに入っていて、お供え物も、しばらく食うには困らないくらいに並べられていた。
 村長は、既に亡くなったと聞いた。

 そうして、雨は降り注ぐ。

 収穫を前に、人々は田畑を守ろうとした。
 十分な対策を行ったものたちは、被害を最小限に留められ、対策を怠ったものたちは、相応の水害を被ることになった。
 私たちは、警告を伝えるだけの生き物である。警告を聞き、人がどう動いたとしても、それを見守る以上のことはしない。現象に立ち向かうのも背を向けるのも、全ては人の業であり、道であり、力である。
 私たちは、ただの魚だ。
 私たちに何かが出来るなどと、考えてはいけない。
 考えてはいけなかったのに。

 あの村は、無事に水害を乗り越えたようだった。
 村人は、水神様のご加護があったからだと口々に呟いた。
 無論、堤防に土嚢を積み上げ、家屋の補強も施した。それは純粋な人の力だ。竜宮の使いに過ぎなかった、彼女が何かをしたわけではない。
 それとも、彼女に何か出来たのだろうか。私が知らないだけで、龍神様が危惧した現象さえ捻じ曲げるような、それこそ神にも等しい力を発揮したのだろうか。
 水神と呼ばれて。
 人の祈りだけで、神様になれたというのか。

 遠い空から見下ろした彼女の社は、雨風に傾き、賽銭箱が裏返っていた。
 それを懸命に起き上がらせようとしている、人々の姿が見て取れる。





 五十年、百年が経った。
 私は空の海を泳ぎながら、人々の様子を見るともなく眺めていた。
 地震や豪雨などの災害は度々起こり、その度に私は危機を知らせに回った。
 あの村は、水神の加護がある村として栄え始め、社も徐々に大きくなっていった。
 お告げを知らせる名目で村に立ち寄ると、何回か代替わりをした村長が、丁重に出迎えてくれる。水神として祀られた竜宮の使いの仲間であるから、畏敬の念がひときわ強いのかもしれない。
 何度か、彼女の姿を見たいと願い出たこともあったが、村長はやはり首を振るだけだった。
 私も特に期待はしていなかったから、すぐさま村を後にする。
 その後に起こった歴史的な暴風雨も、一丸となって結束した村人たちにより、大きな被害を出すことなく乗り切った。
 水神様のおかげだと、村人は社に手を合わせた。

「また、下を見てるんだ」
 背中に掛けられた総領娘様の声は、どこか呆れているような調子だった。
「気になるなら、見に行けばいいのに」
 桃をかじる瑞々しい響きが、耳に心地良い。
「私は、竜宮の使いですから」
「だから、用が無ければ人の前に姿を見せない、と」
 彼女は聞こえよがしに溜息を吐き、有頂天の崖っぷちに立っている私の隣にしゃがみこんだ。
 口に含んだ種を舌で転がし、やがてそれにも飽き、地上に向けて種を飛ばす。
「総領娘様」
 叱咤する意で声を荒げたつもりが、必要以上に粗暴な響きになってしまったことを悔いる。
 だが彼女は別段気にしたふうもなく、私にしか聞こえない声で、静かに呟いていた。
「地震、起こしてあげましょうか」
 天人らしからぬ意地の悪い笑みが、彼女の横顔に浮かび上がっている。
 私は、静かに首を振るだけだった。
「やめてください。仕事が増えます」
「増えた方がいいんでしょうに」
 一瞬、どう答えるべきか躊躇う。
「……そんなことは」
「わかってるわよ。わかってる」
 悪戯をたしなめられた子どものように、開き直り、肩を竦めて、踵を返す。
 遠ざかる彼女の背中に、何か言葉を掛けようとして、結局、何も言えなかった。
 桃の種が落ちた地面は、ほのかに霞が掛かっている。





 更に、百年が過ぎた。
 巨大な台風が来ると、龍神様は告げられた。
 私は地上に折り、未曾有の危機が訪れると知らせて回った。
 水神が祀られた村は、村と呼ぶことが躊躇われるほど、豊かに栄えていた。
 すれちがう人々に、これから起こる危機を触れて回る。しかし、昔と比べて反応が鈍い。みな、私の話は真剣に聞いてくれるのだが、危機感を抱いている様子は見られない。
 地域差、個人差はあるにせよ、他の場所ならある程度の反応はあるのだけれど。
 最後に、村長の家を訪ねた。
 社の横に建てられた家は実に豪奢で、多少の災害ならば立派に防ぎ得るくらいの頑丈さを備えていた。
 長は穏やかな笑みをたたえた老女で、突然訪れた私に動じる様子もなく、快く客間に招き入れてくれた。
「これから、他に類を見ない大きな台風が訪れます。十分に、お気を付けてください」
「そうですか。ご忠告、痛み入ります」
 長は、そう言ったきり何も喋らない。ただ、静かにお茶を啜っている。
「ご安心を」
 唇を引き結んだ私に対して、年老いた長は柔和な笑みを返した。
「私たちには、水神様がついておられますから」
 一片の不安も疑念も見せずに、長は窓の外にそびえ立つ立派な社を見た。
 それにつられて、私も社を一瞥する。
 長は、「水神様」と口にした。
 私は、社の中を見たいと言ったが、長は、やはり残念そうに首を振るだけだった。
 村長の家を出た後、村人たちに水神のことを尋ねてみたが、ただの一度も「竜宮の使い」の名が出ることはなかった。
 目の前に、竜宮の使いである私がいるにもかかわらず。

 見上げた空には、暗澹たる雲が立ち込めている。







 龍神様の声は神託に等しい。
 そして予告は実現し、幻想郷に、台風が訪れる。







 川が氾濫し、山が崩壊する。
 土石流が家屋を押し流し、実りかけた作物を蹂躙する。
 悲鳴と怒号と慟哭と、祈りと、嘆きと、それ以外に、何も残されはしなかった。

 村は死に瀕している。
 社は影も形もない。
 人は埋もれ、流され、立ち尽くし、掘り返し、泣き叫び、途方に暮れていた。

 彼らは、みずからの手で村を護ることを怠った。
 水神に祈りを捧げるだけで、みずからの力を振り絞ることもなかった。
 加えて、ここ百年の間に大きな災害が起こっていなかったことも災いした。
 私は今まで、龍神様のお告げを聞き入れず、不幸に陥った多くの人々を目の当たりにしてきた。
 何がいけなかったのか。どこで道を違えたのか。
 そんなことが、一体誰にわかるという。
 わかっていれば避けられる道なら、はじめから、私のような生き物などいなくてもいい。
 わかっていても避けられない道だから、私のような生き物がいるのだ。


 私たちは、ただの竜宮の使いである。
 私たちでは、神様にはなれない。
 そんなこと、はじめからわかっていたはずでしょう。





 台風が過ぎ去り、地上は晴天に恵まれている。
 青空の下に、荒れ果てた土地が無慈悲に広がっている。
 ちらほらと、人の姿も見えた。
 崩れた家の前で泣き崩れる者、土に埋もれた家を掘り返している者、家に這い寄る土や水を掻き出している者、子を捜す親、親を捜す子、社に祈りを捧げる人。
 村長の家で、見たことのある顔だった。
 私は、ただ地面に突き刺さっているだけの社の柱と、それに向かって手を合わせる少女の、ちょうど真後ろに立っていた。乾いた風が髪を揺らす。少しだけ、前髪が鬱陶しい。
「何をしているのですか」
 少女は、後ろを振り返ることもなく、寂しげに囁く。
「お祈りを」
 私は問う。
「何故ですか」
 少女は答えた。
「もう、私には何も出来ないから」
 それ以上、何も言うことはなかった。
 私は少女に背を向けて、物静かな村の痕跡を後にする。
 あの柔らかい笑みをたたえていた村長の姿は、捜せども、捜せども、ついに見つかることはなかった。










 何年かが過ぎた。何十年か、何百年かもしれないが。
 とにかく、長い時間が過ぎていた。

 有頂天の片隅から、地上の様子を窺うことも少なくなった。
 下の世界は、何かが変わったようにも見え、何も変わっていないようにも見える。
 総領娘様に尋ねても、「昔のことは覚えていない」と素っ気なく返される。
 私も、そういうものかと納得するしかなかった。

 特にすることもない日々だった。
 そのせいかはわからないが、今は亡き昔日に置き忘れたやり残しを、潰してみることにした。
 私は、遥か昔に息絶えた竜宮の使いが、身に纏っていた羽衣を探し始めた。
 今なら、見付け出せるような気がしていた。
 本当に、何の根拠もなかったのだけど。



 小さな村の片隅に、朽ちかけた柱が突き刺さっただけの、ちっぽけな社があった。
 おざなりに置かれたような平たい石の上に、お神酒と、季節の野菜がいくつか供えられている。獣にかじられたらしく、胡瓜も茄子も無残な姿を晒していた。
 私はそこで立ち止まり、柱の下に掌を差し向けた。
「あ」
 ふと、小さな足音を聞く。
 隠れようかどうか迷っているうちに、小さな足音はすぐ側まで近付いていた。
「あ!」
 女の子は、私の存在に驚き、その腕に抱えた笊いっぱいの野菜を取り落としそうになった。
 すんでのところで、私は少女の手を支え、どうにか事無きを得た。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ、お気になさらず」
 私の腰までしかない背丈を懸命に折り曲げ、頭を下げる。
 私は社の前から退き、その空いた場所に少女がゆっくりとしゃがみこむ。
 笊ごと供えられた野菜は、また近いうちに獣に食べられるだろう。けれど少女は何の疑いもなく拍手を叩き、祈るように瞳を閉じた。
 どこかで見たことがある女の子だと思った。
 思い出そうにも、何百年も昔に会った村長の顔など、覚えているはずもなかったけれど。
「何をしているのですか」
 代わりに、ずっと前から知りかった答えを、もう一度尋ねてみる。
 少女は、慌しげに後ろを振り返り、きょとんと目を丸くしてから、屈託のない笑みを浮かべた。
「お祈り!」
 元気なのは、その幼さゆえか、それとも生来の性格ゆえか。
「それは、何故」
 続けざまに問うと、少女は答えた。
 嬉しそうに。楽しそうに。
「今日が、いい日でありますように、って。神さまに、ちゃんと見ててください、って」
 だから、祈りを捧げるのだと。
 年端もいかない女の子が、竜宮の使いである私に向かって、神様に祀り上げられた彼女の前で。
 いとも容易く、そんな言葉を口にする。
 しばし、間が空く。
「そう、なのですか」
「そうなのです」
 私の口調を真似て、女の子が自慢げに笑う。
 それにつられて、私も力のない笑みをこぼす。

 長い時が経っていた。
 はじまりは彼女の死、そして朽ち果てた地で水神として祀られ、幾星霜が過ぎた。
 彼女は神になれただろうか。
 か弱き人の祈りは、地に落ちた竜の使いを、再び天の頂に還すことが出来たのだろうか。
 そんなことなど、頭を抱えて悩まなくてもよかったのに。

「私も、お祈りをさせてもらってもよいでしょうか」
 頷く代わりに、女の子は私に場所を譲った。
 片膝を突き、柱に触れる。麗らかな春の陽射しを浴び続けた柱は、腐れ落ちそうな外見にそぐわぬ温かさを帯びていた。
 瞳を閉じ、私から彼女へ、ただ一度きりの祈りを捧げる。
 まぶたの裏には、優雅に空を漂っていた在りし日の彼女がいた。
「あ」
 後ろから、呆けたような声が聞こえる。
 瞳を開ければ、今にも崩れ去りそうなほど脆く佇んでいた柱が、日の光にも揺るがない淡い輝きを放ち始めていた。
 そうだ。
「貴方は、ここにいた」

 ずっと、眠り続けていたのね。

 私は、音もなく立ち上がる。
 振り返れば、どこか陶然と瞳を潤ませている女の子がいた。
 折角だから、この子にも見ていてほしい。何もかもが変わり果て、それと信じた神様も、元々が何者だったのかさえわからなくなってしまった。けれど、それでも、今日のこの日を健やかに生きられるよう、ただ見守っていてくださいと、純粋に祈りを捧げられるのならば。
 きっと、彼女がここに降りてきたことに、意味はあったのだと。
 今は、そう思えた。
「おかえりなさい」
 大地の下にまで木霊するような、ささやかな声で囁く。
 掌は空に、瞳は大地に。地に落ちた者を憂うが如く、天に昇る者を羨むが如く。
 乾いた土から木の芽が芽吹くように、光り輝く柱を抱くように、天の羽衣が姿を現す。
 彼女の肉体は、今もまだ大地に眠っているのだろう。
 彼女が選んだ、安らかな眠りを遮るのも忍びない。
 羽衣の端は紅く輝き、天に還ろうとみずからを忙しなく振るわせている。
 彼女の遺志を大地に残し、彼女の証を空に還そう。
 私は、自分の羽衣の上から、彼女の羽衣を二重に纏う。
 竜宮の使いがふたり、これでようやく、長きにわたる役目を終える。
 羽衣の捜索と、そして、竜宮の使いであるという証。
 羽衣を失えば、唯一彼女を縛っていた竜宮の使いという証も失せる。そうすればもう、ただの神さまでしかなくなるのだ。彼女は。
「ありがとう」
 振り返り、気を抜けば空の彼方に誘われそうな体を地面に縫いつけ、呆然と立ち尽くしている女の子に話しかける。
 はっと我に返った女の子は、あたふたと脈絡のない身振り手振りをした後、柱を背に浮き足立っている私をぼんやりと見つめて。
「……神さま?」
 ふと、そんなことを言った。
 胸に、何か熱いものが込み上げてくる。それがどういう感傷なのか、言葉にすることは叶わないけれど。
「いいえ」
 私は目を細め、掌を自分の胸に添える。
「貴方が信じる神さまは、ずっと、ここにいるわ」
 その仕草を真似るように女の子は、小さなふたつの掌を、小さな胸に重ねていた。
 私の体は音もなく浮き上がり、ゆっくりと、乾いた地面から遠ざかっていく。
 女の子は、天を仰ぎ見るように、私の行方を目で追っている。
 視界が広がると、物寂しい土地のあちこちから、何人かの人影が見え隠れする。みな、一様に空を仰ぎ、空に帰ろうとする私をぼんやりと眺めていた。
 まるで、神さまでも見るかのように。
 貴方たちが信じた神さまは、今でも、貴方たちが生きているその場所に在るというのに。
 眼下に映る大地の風景は、眩いまでの光を放つ柱の雄々しさと、土の色と、草木の色に彩られる。

 やがて、その全てが空気の白に掻き消されて。
 私は、何百年ぶりかの溜息を吐いた。







「聞いたわよ」
「何を、でしょう」
 有頂天は常に変わらない。
 同じように、総領主の娘である天子様も、全く変わる様子がない。
「羽衣、見付かったんですってね」
「はい。おかげさまで、ようやく」
「肩の荷が下りた?」
「そう、ですね」
 素直に、頷いておいた。
 今はもう、有頂天の片隅にしゃがみこんで、地上の様子を窺うこともない。恐れることもなく堂々と、だだっ広い空の大地の真ん中に座り、慈しむように、愛でるようにお酒を嗜む。
「でも、見たかったな。ちょっと」
「何を、ですか」
「衣玖が、贅沢にも羽衣を二つ羽織ってるところよ。いやなに、さぞかし綺麗だったんだろうなと思ってさ」
 一瞬、声が詰まり、やや不自然な間が空く。
 不覚だった。
「そんなことは……」
「あらやだ、照れちゃって」
 頬を緩ませながら、彼女は私のお猪口にお酒を注ぐ。
 零れ落ちそうになる水面をどうにか支え、慌しく唇に浸す。
 ぬるい雫が舌にまとわりつき、焼けるような熱が喉を行き過ぎて、ようやく言葉を紡げるようになった。
「どうも、ありがとうございます」
「いいのよ。いつも相手してくれるからね、貴方は」
「こちらこそ」
「どういたしまして」
 意味もなく、ふたりして微笑みを交わす。
 私はごく自然に笑んだつもりだったのだけど、彼女はどこか驚いたように目を丸くしていた。
 不思議に思って、問いかける。
「何か、おかしかったでしょうか」
「いや、おかしくはないけれど。初めて見たから、ちょっと驚いたわ」
 くすくすと、意地の悪い笑みをこぼす。
 いつかの日にも、似たようなやり取りを交わした記憶があった。
 今の私は、その頃と何か変わっているだろうか。
 変わっていても、変わっていなくても、私が私であることには違いないのだけど。
「何を、でしょう」
「決まってるじゃない」
 彼女もまた、ずっと前にも似たようなことを言ったわね、と昔を懐かしんで。
 掌に乗せた真っ白な杯を、高々と天の頂に掲げて。
 比那名居天子は、永江衣玖に言う。


「貴方が、そんなに楽しそうに笑ってるところ」





 
永江衣玖は美しい。
藤ゅ村
http://www.geocities.jp/rongarta/index.html
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最新
投稿日時:
2008/09/27 09:45:34
更新日時:
2010/11/07 16:48:08
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POINT:
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Rate:
1.53
1. 8 no name ■2008/10/05 08:44:17
作者コメに同意せざるを得ない
2. 5 慶賀 ■2008/10/05 13:09:26
テーマはキャーイクサーン?このssを以てまた衣玖さんの
キャラ造形が深まればと願います。
キャラなんて個人の勝手で充分ではありますが。
3. 6 小山田 ■2008/10/06 22:48:01
永江衣玖というキャラクターにとって、まさに相応しいストーリー。
実に満足しました。
4. 8 佐藤 厚志 ■2008/10/07 02:35:56
おそらくこの方は情景描写では当コンペにおいてトップクラスの技量を持っているでしょう。テーマもキャラクタにあったものであると思います。
衣玖の心象を最小限に抑え淡々と時が経つのを書くことで、彼女の優しさ、悲しみ、喜びを表現しているように思います。何気ない衣玖と天子のやりとりも良いですね。天子がタネを吐き捨てるところとか。
5. 9 神鋼 ■2008/10/08 00:05:17
信じる事であらゆるものを信仰の対象と出来る日本の面白さを再確認させていただきました。
しかし羽衣が二倍の衣玖さんとは……マズイ、崇めてしまいそうだ。
6. 8 おやつ ■2008/10/08 12:34:21
>彼女の遺志を大地に残し、彼女の証を空に還そう

この一文に物凄い羨望を感じました。
自分も、心からそうなりたいなぁと。
作者からのメッセージにはガチで同意しますw
7. 7 歩人 ■2008/10/10 22:42:40
何だか良く分からないが心に来た。堪能させていただきました。
8. 7 twin ■2008/10/12 01:45:58
 感傷に浸されてしまうような、切ない文体の生きた作品だと思いました。
 年単位で次々と過ぎて行く時間の中で、衣玖の想いが伝わってくるようです。
 また合間に出てくる天子の立ち回りも、天子らしさが出ていて、印象に残り易く、冒頭に出てきた羽衣に関する事象がこの先どうなるのだろうという想像を掻き立てられて、すっかり読むのに集中してしまいます。

 個人的に特にいいと思ったのは羽衣を見付けた時の病者でした。
 羽衣の美しさが目に浮かんでくるようで、更にそれを身にまとった衣玖の美しさ、長年の目的を達成した充実感、またそれによる寂寥感が伝わってくるような繊細な描写だったと思います。

 後書きになんとも言えぬ余韻を感じさせて貰いながら、心穏やかになれる良作でした。ああ、永江衣玖は美しい。
9. 7 #15 ■2008/10/12 18:33:03
後書に同意いたします。
10. 7 大崎屋平蔵 ■2008/10/15 21:37:27
切ないようで温かかったです。
衣玖様がとてもかわいい作品でした。
11. 8 三文字 ■2008/10/16 23:37:26
羽衣が表れるシーンの情景が、まるで宗教画のように想像できました。
ただ、それだけに誤字が痛い。
良くいわれている、誤字で現実に引き戻されるというのが起きてしまいました……
でも、竜宮の使いが神になっていく様子、人間の営みを見つめ続ける衣玖さんの姿、人々の発展と崩壊の様が優しく綴られていて、楽しめました。
日本の八百万の神様達はこうやって生まれていくのでしょうね。
12. 8 deso ■2008/10/23 23:40:12
うん、衣玖さんは美しい。
良かったです。このタイムスケールがたまらない。
13. 6 詩所 ■2008/10/26 20:12:57
おっかしいなあ、あの天子がやたらカリスマを纏っている気がする。
そして衣玖さんの静観を頑なに貫く姿も。

人にとっての神なんか都合の良いものですよね。
思わぬ良いことがあれば祭られ、理不尽な悪いことがあれば呪う。
まあ、神が全知全能ならそんな人間の考えもちっぽけに感じるのでしょうけど
14. 5 ミスターブシドー ■2008/10/27 00:04:32
幻想種のなれの果て。
流されるだけの生き方をしている衣玖さんからすれば、死後根付いた彼女は、羨ましい……とは思わないか。
役目を逸脱するほどの気性を持たないけど、長く観察すれば気にもなる。
時間を長く取ったのは妖怪らしさが出ていると思う。淡々と時間が流れていく様子や、災害にも感慨のない所はなんというか「らしい」と思った。
文章も読みやすい。
大きな波の無い話だが、終わってみると不思議な爽快感がある。
お題が少し弱い、かな。
アホの子ではない天子もいい
15. 7 尾張典待 ■2008/10/29 06:16:19
既存の設定とお題をかなり上手くミックスし、綺麗な物語をお作りになったものだと感心しました。
オリジナル要素も主張しすぎず、かつ衣玖の新たな?一面が見れた気がして大変満足致しました。
16. 9 つくし ■2008/10/29 17:17:12
 美しい幻想でした。淡々とした口調がとてもかなしく、やさしい。ふわりとおりてくるかんじ。
17. 7 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:58:24
水というよりは神様という感じのお話。
リュウグウノツカイのお話?
読み終えた気分はしっとりと、水の微かな冷たさに似ていました。
永江衣玖は美しい。
18. 7 PNS ■2008/10/30 09:29:19
まさに。これは美しい衣玖さんです。
タイトルの「鱗」も良いですね。
19. 8 じらふ ■2008/10/31 21:29:39
永江衣玖は美しい。姿は勿論自らの分と役割を心得ている在り方が、それでありながら優しさを忘れない心根が本当に美しいな、と思います。

そんなに長い文章ではなく、描写も簡素なのにも関わらず、信仰の在り方と人の営みについてしっかり描かれているのが素晴らしいな、と。
また衣玖さんの傍観者であるが故の悩み・思いについても文中・行間に溢れていて、酷く共感してしまいました。
20. 6 つくね ■2008/11/01 01:20:23
人には長い時であっても妖怪にとっては言葉で済ませられる時。そういった悠久の流れ、妖怪の時間感覚のようなものが感じられました。
長さもちょうど読みやすいですし、大作とはいかなくとも十分な良作でした。
今回は全体的に評価厳しめにしてるのでこの点数でどうかご容赦ください。
21. 9 八重結界 ■2008/11/01 18:29:42
読み終えた瞬間に感嘆のため息を漏らしました。
単純なようで複雑な衣玖さんの気持ちが手に取るように伝わり、すぐに感情移入してしまいました。
おかげで、最後は自分も嬉しくなってしまう有様。やっぱり衣玖さんは美しいですね。
22. 7 blankii ■2008/11/01 21:24:15
本当に美しい、としか。圧倒意的な諦念と微かな祈り、そうしてそれがほんの一瞬だけ何かに接続した感覚、というか。どうにも皮肉の効いた作風と思いますが、そこがまた良い。
23. 6 木村圭 ■2008/11/01 21:44:32
適当に茶化しに来てるようで物事をしっかり見てる天子が程良いアクセント。
無慈悲で、冷たくて、どこか暖かい。衣玖そのもののような雰囲気が素敵でした。
衣玖さんは美しいって言葉がよく似合うなぁ。可愛いはないし、妖艶ともどこか違う。美しい。
24. 6 リコーダー ■2008/11/01 22:05:17
いくさんの二枚のびらびらですね分かります。
展開がオリキャラというかオリ村メインになった所あたり、少し退屈してしまったのがなにですか。
25. 5 時計屋 ■2008/11/01 23:22:28
緋想天では「何しに来たんだお前」的な扱いでしたが、たしかに改めてみると神々しさが……。
短いながらも良く纏まったSSだと思います。
個人的にはお題をもう少し絡めてあると猶良しでしたが。
26. 6 Id ■2008/11/01 23:45:01
良くも悪くも、落ち着いた、いかにもありそうな話。淀み迷いがなさ過ぎて、話の展開が予想を超えず、若干の飽きを覚えてしまいました。淡々とした話を書くのならば、もう少し言い回しなどに工夫をしてみると良いかもしれません。
27. フリーレス 藤ゅ村 ■2008/11/09 23:02:18

 こんぺの主催者様、そして運営や感想を含め、このこんぺに携わった全ての方々へ。
 おつかれさまでした。

 この度は、「鱗」をお読み頂き、本当にありがとうございました。感謝の言葉もありません。
 タイトルは、秦基博さんの「鱗」という曲から。
 衣玖さん綺麗だよ天子かっこいいよという思いを抱いたまま書き綴ったシロモノではありましたが、どこかしら、感じるものがあれば幸いです。

 次の開催がいつになるかはまだわかりませんが、そのときにまたお目にかかれたらと思います。
 では、その日までしばしのお別れを。
 藤村流でした。
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