夢 水 逃げる

作品集: 最新 投稿日時: 2008/10/01 11:03:24 更新日時: 2008/11/08 21:54:00 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00
ごくり、と喉を鳴らして飲む。
ごくりごくりとひたすらに、ただひたすらに飲む。
ただ貪る様に飲み続ける。
ああ、この水は甘露だ。
暑さも
煩わしさも
苦しさも
楽しさも
世界も
自分も
一切合財全てを流してくれる甘露だ。
ああ、この水は……







鬱陶しく憂鬱な梅雨は明け、そうして太陽と暑さの季節がやってきていた。
夏だ。
梅雨の間に姿を隠していた太陽は、その分の遅れを取り戻すがごとく煌々と照りつけている。
地面が、空気が、ひたすらに照らされていた。
暑い。
焼きつく様な日の下、立っているだけでも汗が噴き出してくる。
少し歩いただけでも、どろどろと汗が流れていく。
鬱陶しいと思い、その汗を拭っても拭った瞬間また噴き出してくる。
喉が爛れたかのように熱い。吐く息が蒸気のように暑苦しい。
それは木陰に入っても変わることはなく、汗は止まることなく吹き出し、頬を伝っていく。
陰に入れば多少はマシになるかと思えば、温い空気が体に纏わりつき、今度はジメジメと暑い。
時折吹いてくる風も、熱さと鬱陶しさしか運んできてくれない。
そして遠くやら近くやらで蝉が喧しく鳴き喚いている。
その鳴き声がまた暑さを感じさせ、イライラを募らせる。
それでも日光に当たるよりかはマシと考え、男はゆっくりと木陰に腰を下ろした。
筒に入れた水を飲んでも、ただただ温いだけだ。それでも、体は水分を欲しているらしくごくごくと水を飲んでいく。
生温い水が、どうにも緩い粘性を持っているように感じられる。どうにもヌルリとした感触が口と喉に残るような気がする。
暑さがどうしようもなく抜けない。
背筋を生温い汗が伝わっていくのが分かった。
ああ、暑い。
日の照った道を眺めると、陽炎がゆらゆらと景色を揺らしていた。
逃げ水は……出ていない。
それだけを確認して、男はゆったりと木に体を預けた。
しばらくはここで休もう。もう、自分も若くない、そう考えながら。
そのまま、ぼうっと辺りの景色を見つめる。
ふと、男の背後、木の反対側から声が掛かった。

「そこに誰かいるの?」

声から察するに女だ。しかも若い。
よさりかかっている木の反対側に行くと、女がそこに腰掛けていた。
まず眼を奪われたのが、その長く美しい黒髪。
上質の墨を溶かしてもここまでの黒は作れまい。
黒曜石を砕いてもここまで美しくはあるまい。
それほどまでに美しい髪。
黒の絹糸。
黒金剛石の髪。
赤いリボンがその黒髪の上で揺れている。
服装は赤と白の奇妙な出で立ち。
見れば見るほどおかしな格好ではあるが、妖怪や化け狐の類ではなさそうではある。

「悪いんだけど、水を分けてもらえないかしら?」

どこか超然とした雰囲気を纏いながら、その女は言った。
全てのものから掛け離れ、距離を置いて生きてきた。そんな印象を抱かせる美しい女。
いや、女と言うにはまだ早い、少女と言う位の年齢だろう。

「ちょっと水を切らしちゃってね。この暑さで水もないから、へばってたのよ」
「先客が居るとは思わなかったな。この辺りは人通りも少ないんでね」

そう言いながら、男は水筒を手渡す。
竹筒に濾過代わりの手拭を詰めたものだ。
余程水が濁ってない限り、これで大抵の水は飲めるようになる。
水が温いということを注意したが、少女はそれに関らずゴクゴクと喉を鳴らした。
最後に、咀嚼するように口の中に含み、そうして筒から口を離す。

「ありがとう。どうにか人心地ついたわ」

確かにここ最近は日照りが酷い。
梅雨で貯め込まれた水も今では見る影もない程だ。

「そいつは何より。ところでお前さん、ここら辺の人間か?」
「いいえ違うわ。根無し草よ。失せ物探しを生業にしているの」
「失せ物探しってのは町とかでやるもんだろ? そんな人間が旅をすんのかい?」
「するんじゃない? たぶん」

好い加減な返答。
実際の所、その生業とやらがどうも怪しく思える。
しかし、少なくとも野盗の類ではないようだ。
辺りに人の気配はなく、こんな少女が一人で襲うというのも考えにくい。
とりあえず警戒するべき人間ではないだろう。

「お前さん、どのくらい旅をしているんだ?」
「……えーと、まあ二〜三年くらいかな? それでもそこそこ色々な所回ってるよ」
「何であんたみたいな若いのが旅を?」
「ちょっと、探し物をね……」

ふと、男は目の前の少女に興味が沸いた。
そして、互いに最近の出来事を話し合う。
どこぞの峠では野盗が出るだとか、どこぞの村が無くなっただとか、そんな話だ。
旅をする上で、そういった情報は色々と有益なものだ。
少女の話ぶりから、相当の場所を見てきていることが分かった。
まるで、一生を旅に費やした者のような、そんな印象を与える口ぶり。
そして、若干の間を空けて男が尋ねる。

「なあ、尋ねたいことがあるんだが、いいか?」
「いいよ、何でも訊いて」
「実は俺も、とある物を探していてな……」
「へえ、どんな物?」
「ああ、あのな、逃げない逃げ水を見たことあるか?」
「はぁ?」

訝しげに少女が声を上げる。
理解が出来ないという表情。
男が何千回と見た表情。

「逃げ水って、道端に現れるあの逃げ水?」
「正確には逃げ水の水だ。まあ、その様子じゃ見たこと無さそうだな」

最初から期待をしていなかったのか、男はそれほど落胆せず、事も無げに言った。
そうして、軽く空を仰いで息を吐く。
この後の反応が目に浮かぶ。
ふざけていると思うか?
頭がオカシイと思うか?
それとも馬鹿な奴だとでも思うか?
正直、そういう扱いにはもう慣れた。
そんな諦めにも似た感情を抱きながら、男は改めて少女の顔を見る。
しかし、その顔に浮かんでいたのは真剣な表情。
男の想像とは異なる、本気の目。
どこまでも深い黒の瞳が、男を見つめていた。
そうして少女が笑った。
軽く汗ばんだその顔は確かに少女のものであるはずなのに、どこか老婆のごとく笑っていた。

「逃げ水の水ね、面白そうじゃない」
「人が必死に探している物を面白そう、ね」
「興味が湧いた。あんたの探し物、手伝ってあげるわ」
「何だと?」
「その水を探してあげるって言ってるの」
「頼んでないぞ」
「いいじゃない、さっきの水のお礼よ。それと、暇つぶしにもなるし」

人の手伝いをするのに暇つぶしと言うのも可笑しな話である。
しかし、少女の顔を見るにどうやら本気のようだった。

「手伝ってくれるのは結構だが、お前さん何が出来る? 旅のお荷物はいらないぞ」
「あんたの護衛。あんた庇いながら、盗賊の二〜三人は相手に出来るし、魍魎の類のあしらい方も知ってる」
「お前さんみたいな小娘がか?」
「信じないのならそれで結構。でも、一人よりは二人の方が楽じゃない?」
「そもそもが俺の言った事を信じるのか? 逃げ水の水が飲みたいなんて、普通に考えたら有り得ないだろうに」
「適当な事だったら、あそこまで真剣な顔にならないでしょ?」
「……そんなに顔に出ていたか?」
「まあ、暇つぶしに飽きたら、適当にお別れするわ。大丈夫、貰った水の分くらいは働いてあげるから」

からかっているかのような笑顔で言う。
呆れたような、毒気を抜かれたような、そんな奇妙な表情が男に浮かんだ。
蝉が、慌しげに生を謳歌している。
遠くで陽炎が揺れ、そして一つ、逃げ水が出来ていた。







それから、奇妙とも言える二人旅が続く事となった。
お互いがお互いの名前を知らずとも、旅というものは出来る様で、おい、だとかお前、などといった呼び名でも事足りている。
そして素性と言うものも互いに語る事は無く、特に少女の方はのらりくらりと話を逸らして、頑なに自分を語る事はしなかった。
ひょっとしたら次の瞬間には別れているかもしれない縁。
このままの距離で、互いを知らずにいたほうが分かれやすい。
それが二人の不文律のようなものであり、その距離感が逆に心地よいのだった。
それでも、お互い何だかんだでこの状況を楽しんでいた。

「今日も暑いわ……」
「夏だしなぁ」
「蝉が五月蝿いわ」
「夏だしなぁ」
「川が干上がってるわ」
「夏だしなぁ」
「……チンピラが一言」
「金だしなぁ」
「のってくれてありがと」

全てを焦がすように太陽がぎらつき、立ち上る熱気が体を包む。
二人とも言葉少なめに、どろりと汗を拭った。
水の流れが消え、干上がった川を横手に二人は歩いていた。
頭に巻いた手拭と、着物がべたべたと汗を吸って不快だ。

「これで日照りは何日目かしらね?」
「お前さんと会った時点から五日は経ってるからな。一月以上は雨が降ってないだろ」
「水がそろそろ切れそうよ」
「前の宿場であまり水を補充できなかったのは、痛かったな」

今年は本格的に雨の量が少なく、小さな川は干上がりかけ、村や宿場の井戸も水量が減り続けている所が多かった。
その内、井戸が涸れるところも出てくるだろう。
二人が今持っている水も、残り少ない井戸から汲んできたものだ。
正直、飲み水だけでも確保するのが手一杯だった。

「あ、逃げ水見っけ」

少女指差しながら言う。
道から逸れた岩場に、揺れる水があった。
まるで鏡のように、きらきらと輝いている。
しかし、男は軽く一瞥し、息を吐いただけでそのまま歩き続けた。

「匂いがしない。あれはただの逃げ水だ」
「思うんだけどさ、その匂いって本当に当てになるの?」
「言ったろう? 水には匂いがある。雨には雨水の、川には川の水の、逃げ水には逃げ水の」
「それがどうも胡散臭い。本当に匂いで分かるわけ?」
「分かるさ。その匂いで雨が降るかどうかも分かる」
「じゃあ、今日の予報は?」
「ここら辺一帯は本日も晴天になりし候」

少女がうんざりとした表情を浮かべて、空を仰ぐ。
黒の髪が重そうに揺れた。
雨でも降れば多少は暑さもマシになるのだが、それもない。
好い加減、太陽と夏の蒸し暑さに辟易としていた

「お、でも、夕立はあるな。薄っすらと匂う」

男がスンスンと鼻をひくつかせて言った。

「期待せずに待ってるわ。その夕立」
「そうしてくれ。ほら、村が見えたぞ」

少し先のところに田畑が見え、その奥に家屋が何軒か見える。
水の補充と休憩ぐらいは出来るだろう。そう思い、二人は村に足を向けた。
踏み入って分かったが、その村は砂の広がりの如く渇きかけていた。
村の前の田畑は水が足りない所為か、その殆どが力なく茶色近い葉をしおらせており、村の中も活気が殆ど無く、かさついていた。
日照りの影響だろう。
このように渇いた村は珍しくはない。
人間の干物が道端に転がっていないだけマシだろう。
ふと、何人かの男が円匙等を担ぎながら歩いていった。
全員、疲労の影が色濃く憔悴し切っているのが良く分かる。
一体何をしているのか。明らかに農作業をする雰囲気ではない。
その内の一人を捕まえて、軽く話を聞いてみる。
最初は露骨に嫌な顔をされ、真面目に話してもらえなかったが、交換条件として水をただでやると、幾らかは気前良く口を動かしてくれた。
その男の話によると、今は村総出で新しい井戸を掘っていると言う。
元来、この村は隣の川のお陰でそれほど水に困る事のなかったのだが、それが最近の日照りの所為で干上がり、それに伴って井戸の方も危うくなってきているらしい。
そこで新しい井戸を掘ろうという話になったのだが、鑿井(井戸掘り)が出来る者が居らず、中々に難儀しているという。
井戸など掘らなくても隣に川があり、それほど鑿井の技術がいらずに生活できたのが災いした。
近隣の村々を回って鑿井屋を探しても、その全てが別の場所で井戸を掘っており、手が回らないのだという。
それで、不慣れながらも村の男衆で井戸を掘っているのだが、掘っても掘っても水が出てこないため、難儀しているということだ。

「それでまた、長が口煩くてな、やってられんのさ。こっちだって必死に掘っているのによぉ」
「なるほどねぇ。口煩い爺ほど面倒なもんはない」
「おっと、噂をすればなんとやら。それじゃあな、旅人さん。水ありがとうよ」

視界の隅にその長を見つけたらしく、男はそそくさと行ってしまった。
振り返って見てみれば、多少、年は取っているものの、背筋は伸び、矍鑠とした力強い印象の男がこちらにやってきた。
おそらく、この男が長なのだろう。

「旅のお方ですかな? 申し訳ないが、今この村には水がなく、余裕も無い。酷だとは思いますが、お引取りください」

有無を言わせず、取り付く島も無い様子で長は言い放つ。
余裕のない集落の対応など、こんなものだろう。
余所者は厄介事しか持ち込まないのだから。
踵を返して、どこかに行こうとするその背中に、男は声を掛けた

「少々、お話の方良いですかな? 井戸についてなんですが……」

その背中がぴたりと、止った。
井戸掘りで悩んでいる所に、その話がきたら誰でも食いつくものだ。

「私、これでも鑿井を生業にしていた者でしてね。ひょっとしたらお力添え出来るかもしれませんよ」
「その話、本当ですかな?」
「こちらも水がなくて難儀してましてね。困った時はお互い様ですよ」

そこで長がしばらく考え込む。
責任ある立場としては、早々簡単に余所者を信用できないのだろう。
ひょっとしたら山賊の手先かもしれない。
ひょっとしたら詐欺師の類かもしれない。
先ずは疑わなければならないのだ。

「こちらも手助けは欲しいところです。ですが……」
「信用はして頂かなくても結構です。何も出来なかったら直ぐに出て行きますよ」
「しかし、念のため見張りを付けさせて頂きたい」
「ええ、勿論」
「それと……」
「報酬は水と食料で」
「結果を見なければ、報酬の方はどうとも言えません」
「勿論、後払いで結構です」
「……手伝っていただく方に申し訳ない」

静かに、長が頭を下げた。
水不足で藁にも縋りたい気持ちなのだろう。しかし、早々簡単に縋ることも出来ない。
用心深くなければ、村は守れないのだ。

「なあに、あなたの判断は正しい。だから頭を下げなくてもいいんです」


見張りの者に連れられ鑿井現場に行ってみると、何とも酷い有様だった。
疲れ果てて座り込んでいる者。暑さにやられて寝込んでいる者。汗を流して土を運ぶもの。
全てが渇き果て、ぼろぼろだった。
肌や唇は割れ、泥と汗が混ざった顔に、濁った虚ろな目。
まともに受け答えが出来るのか疑問に被うほど、その場は疲れ果てていた。

「掘っている井戸を覗かせてくれ」

男はそう言うと、穴に近づき覗き込む。
少女はその後に付いて行くだけだった。

「どうなの?」
「水の匂いはする。するんだが、この場所じゃないな」
「へえ、そう」
「それに、ここまで川が近いのだったらここまで深く掘らなくても湧いてくるはず」
「掘る場所が違うってこと?」
「そんなところだ」

そのまま、すんすんと空気の匂いを嗅いでいく。
掘られている穴から離れ、人を避け、どんどんと進んでいった。
うろうろと、掘られた穴の周りを行ったり来たりしては、鼻を鳴らす。
そうしておもむろに立ち止まり、腰を落とす。
掘られた穴からさして離れていない場所だ。
地面の近くで、改めてそこの匂いを嗅いだ。

「ここだ」

そう言って、男は地面を指差した。
しかし、見張りの若い男がなんとも言いにくそうに切り出す。

「この村にある水脈図ではその場所に水はありませんよ」
「その水脈図頼りに掘っても、水は出なかったんだろ?」
「ええ、まあ……」

そうして言い淀み、俯いて黙り込んでしまった。

「大丈夫。この様子ならそれほど深く掘らなくても水は出る。断言してやるよ」
「どのくらいですか?」
「そうだな、二間も掘れば湧いてくるかもな」

疑い半分、妄信半分という感じで井戸が掘られ始めた。
鑿井に携わっていたという人間であっても、流れ者の言葉だ。
掘り始めた者達が男を信用している様子はまったくない。
士気の低さと、男への不信は明らかで、その態度を隠すことはなかった。
しかし、掘り進めていく内に段々とその反応が変わっていく。
土が湿っているのだ。
掘りだして数刻しか経っていないのにである。
色めき立つ男達を眺めながら、二人は地面に座っていた。

「二間とか言って、本当に大丈夫なの?」
「何がだ?」
「水が本当に出てくるわけ? ていうか、あんたが鑿井屋だとは知らなかったわ」
「話してなかったからな。鑿井屋やってたのは本当さ」
「水は? これで水が出なかったらなんて言われるか……」
「まあ、心配せずに眺めてろ」


それからまた数刻が経ち、段々と夕方に近い日時となってきた。
まだ、水が湧いた様子はない。
ひたすらに掘っていく男達。
それを見守る二人。
少しだけ赤くなり始めた斜陽。
赤く色付く大地。
赤く照らされる男達。
蝉の声。ひぐらしの声。
遠くで鳴いてる声。
空しく鳴いてる声。
時折、井戸を掘っている男達の声が聞こえる。
黙々と土を掘っては汗を拭い、そしてまた土を掘る。
水が出るまでひたすらに、掘り続ける。
ただただ、静かな光景、動きのある風景。
ほんの少しだけ、全ての音が止んだような気がした。

「水だっ! 水だぁ!!」
「水が湧いたぞお!!」

次の瞬間に響いたのは歓声と雄叫び。
男達の声。
井戸の底でどんどんと水が溢れてきたという。
穴から出てきた男達が、馬鹿みたいに大声で叫ぶ。
皆が叫び、笑い、泣いていた。

「本当に水が出た……」
「言ったろう? 心配するなって。あと、良い頃合いで来たな」
「?」

何が。と少女がを言おうとしたところに、ぽつりと何かが落ちてきた。
それは地面に一つだけ染みを作ったかと思うと、一つ、また一つとどんどん落ちてくる。
その一つ一つがどんどんと数を増し、軍団となり、流れとなり、あっという間に雨となる。
渇いていた地面に水が溢れ、渇き切っていた村人達はその上で跳ね回った。

「水神様だ! 水神様が降らせた雨だ!」
「俺達の井戸を水神様が祝福してくれたんだ!!」

水に喜び、雨に喜び、まるで子供のように皆が笑う。
ああ、雨が降りしきる。
体を広げ、手を伸ばし全身に雨を浴び、水に咽ぶ。
大口を開けて雨を飲む者、雨の流れを浴び続ける者、ひたすら天に手を合わせる者。
濡れた土の咽返るほど濃密な匂い。
黒々とした空。
今までの疲れが、鬱陶しくべとつく汗が、渇きがどんどんと流されていく。
全ての嫌なことが雨に溶けていく。
天からの恵み、潤いの水。
全てが雨に濡れていった。
全ての人が、笑っていた。


その後、雨は数刻持たずに止んでしまった。
それでも久々の雨に村の人々は喜び、そして少女達も雨に微笑み、夕立の後の紅い落日に溜息を吐く。
雨に濡れた家々、小さな水たまりのできた大地。
その全てが紅く照らされきらきらと輝く光景。
遠くの空を見れば、黒と赤がまじりあった雲。
夕立によって少しだけ湿った空気が、ひんやりと肌を撫でていく。
ひぐらしが、かなかなと鳴いていく夕立の後。
そうして夜が降りていった。
その後、村ではささやかながらも祝宴が開かれることとなった。
新しい井戸ができたことを祝い、それに助力してくれた旅人を労わるもの。
宴の主役は井戸を掘った男達、そして井戸の場所を教えた旅人。
夕立に濡れた地面も、今は半分ほど渇いており簡単な茣蓙を引いているだけで十分事足りた。
村の人々は思い思いに呑んでは歌い、笑ってはまた呑んで、新しい井戸が出来たことを喜んでいる。
そして、男の周りは常に人がおり、それぞれ感謝の言葉を述べては酌をしていく。
男の方も断るに断れず、どんどんと酒を呑むことになってしまった。
宴も半刻を過ぎた頃には、男はすっかり参っていたのだった。

「あ゛〜」
「結構飲んでるわね」
「……ああ、お前さんか」

人集りが消え、ようやく男が一息吐いた所に少女がやってきた。
酒臭い息を吐き、顔を赤く染めて、男は少女を見上げる。
そうして重そうに体を横たえた。

「大丈夫?」
「久しぶりに呑み過ぎた。感謝されるのはいいんだが、連中そのたびに酌をしていきやがる」
「役得じゃない」

少女は笑いながら男の横に座る。
その手にはやっぱり酒。

「呑む?」
「勘弁してくれ……」

顔を手で覆いながら、男は気だるげに呻いた。
余程、酒が回っているのだろう。
その顔を見ると、半分まどろんでいるようにも見えた。

「それにしても、本当に水を掘り当てるとね」
「言ったろ? 匂いで分かるって」
「夕立に井戸の水まで当てたら、もうそれを信じるしかないか」
「信じろ信じろ、崇め奉れぇ」

へらへらと笑いながら、調子外れに声を上げる。
しかしそれも、小さく息を吐いて、直ぐに脱力した。

「鑿井屋やってると、水の匂いって分かるようになるんだ?」
「あー。経験とかで分かる奴もいるが、俺のはそういうのじゃないな」
「ふ〜ん、あんた特別なのね」
「旅に出る前は評判の鑿井屋でね。曾々爺さんのそのまた前の代からやってた信用もあった」
「先祖代々ってやつか。あんた後継ぎじゃないの?」
「弟に全部押し付けたよ」

そう言う男の顔は笑っていたが、どこか後悔しているようにも見えた。
自分の嫌なことをわざと茶化して言うような、そんな痛々しげで不自然な表情。

「水の匂いが分かる鼻も、旅に出た理由も、全ては逃げ水が原因さ」
「あんたの探してる、逃げ水の水?」
「そうさぁ。あれを飲んだばっかりにさぁ」

男が何かを思い出すかのように、目を細める。
嫌な思い出を思い出すかのように、苦々しく、悲痛な声。
諦観を含んだ空しい瞳。
そうして、男は一人語り始めた。




代々鑿井屋をやってきた俺の一家は、昔からいたっていう信頼と、爺さんからの技術で腕の良い職人と持て囃されていた。
職業柄、水と土に関しては色々と詳しくて、水の味についてもそれなりに五月蠅くってな、餓鬼の頃から色々な水を飲まされたよ。
親父は、特に水に五月蠅くて、自分の掘った秘蔵の井戸の水しか飲もうとしなかった。
家には家族の水甕の他に、親父専用のものがあったくらいだ。
とにかく水に五月蠅い男でね。
本当に疎ましく思っていたよ。
そんな夏のある日、親父が水を持って帰ってきた。
普段はそんなことしないはずなんだが、その日に限っては大事そうに水筒を抱えてたよ。
水筒のことを尋ねても、何も言いやがりゃしねえ。
しつこく聞いていくと、道端の水溜りから持ってきた水だって言うんだ。
アホみたいに水に五月蠅い男がさ、道端の水を持ってくる道理がねぇ。
しかも、その時期はあまり雨が降らなかったんだよ。
本当に時々、夕立があるくらいでな。
丁度、今年みたいな感じだな。
尋常じゃない暑さで、雨も降らずに日照り続き。
水溜りなんかあるはずが無い。
そんなんだから、家族全員で心配して、色々と問い詰めたんだ。
すると、ようやく観念したのか親父は、ぽつりと言った。

「この水は逃げ水だ。俺だけの水だ」

そう言って自分の部屋に籠っちまった。
入ろうとすると凄まじい剣幕で怒るもんだから、皆、その日は放っておくことにしたよ。
その次の日さ、親父が居なくなったのは。
随分と久しぶりに雨が降った日だった。
朝起きたら、既に親父は居なかった。
何時頃消えたのかは分からない。
ただ、家の近くにあの水筒が落ちていたんだ。
町総出で探したが、結局親父は見つからなかった。
天狗の仕業だの、水を求めてどこかへ旅立っただの色々と噂は出たが、結局親父が帰ってくることはなかったよ。
それでだ、親父が居なくなって何日か経った後、水筒を調べてみたんだ。
そうしたら、ほんの数滴だけ入っていた。
その水の匂いがさ、ほんの少しだけ漂ってきて、俺はその匂いを嗅いだんだよ。
そうしたら、もう何も考えられなくなった。
くらくらと酒を飲んだみたいに頭が真っ白になって、気が付いたらその水を飲んでいた
……いや数滴しかなかったから嘗めていたの方が正しいか。
とにかく俺はその水を飲んだ。
凄かったんだよ。
とにかく、言葉じゃ言い表せない程の美味さだった。
たった数滴の水が、今までのどんな飲み物、食い物より美味かったんだ。
甘露だよ。まさしくあれは甘露だ。
美味い水ってことじゃない。まさに御伽噺の飲み水さ。
その水を飲んで以来、水の匂いを嗅げるようになった。
水がどこにあるか、雨がいつ降るか、とにかく、水の動きが鼻で分かるようになった。
それと同時に、渇くんだよ。どうしようもなく渇くんだ。
体がひたすらに水を欲するようになったのさ。
どれだけ水を飲んでも。
どれだけ水を浴びても。
どれだけ飯を食っても。
どれだけ酒を呑んでも。
体が、心が、魂が、俺の全てが水を求め続けるんだ。
あの時に飲んだ水をひたすら求め続けるんだよ。
その渇きは逃げ水を見ると、一層酷くなった。
全身が、逃げ水を欲していた。
いつも夢中で逃げ水を追いかけたさ。
だけど、どれだけ追い掛けても、どれだけ走っても水には届かない。
そりゃそうだ。逃げ水だからな。
だけど、それが分かっていても、いっつも俺は逃げ水を追いかけて、そしていっつも途中で力尽きた。
その度に色々な人に迷惑を掛けて、おかしな眼で見られて、嘲笑されたのさ。
そんな状態だから、手に仕事がつかねぇ。
幸い、弟がいたから仕事が来なくなるということはなかったが、親父、そして俺っていう働き盛りが一度に抜けたんだ。
生活は苦しくなった。
家族からの厄介者っていう視線。
他の者からの嘲りの声。
匂ってくる、あの水の匂い。
それらに耐えられなくなって、俺は家を出た。
奇異の目から逃げるために、あの水を飲むために。
弟に、年老いた母親と家業を一切合財押しつけて、逃げだしたんだ。
それから十数年さ。
十数年、ただただ見つからない水を探してきたんだ。




「そんな男の末路が、これさ」

呂律が、半分回らない状態で男は語ったのだった。
時々、何を言っているのか分からないところはあったが、それでもその話がどういう類いのものかは容易に理解できる。

「……その逃げ水の水を見つけたら、その後、あんたどうするの?」
「さあな、故郷にでも帰ってまた井戸でも掘るかね」
「いいね。帰るところがあるのは……」
「お前さんにも故郷ぐらいあるだろ」
「とっくになくなってる」

どこか、悟っているかのようにぽつりと言う。
その目は遠くを見つめていた。

「なくなった原因は?」
「さあね。分からない」
「故郷が無くなるのも、珍しい話じゃないがねぇ……」

そう男が言うと、少女は遠い過去を思い出すように目を細めた。
見えないものを見ようとするかのように。

「確かに、珍しくも無い話ね。帰る場所が無くなっているっていうのは」
「苦労してんだな、お前さんも」

まあね、と軽く笑い、少女は酒を呷った。
そうして一息吐き、無表情に呟く。
濁ったその眼は、酒の入った器を見ていた。

「探して探して、必死こいて探し続けて。その挙句、帰るところが無くなるなんて良くあることよね」
「いきなりどうした?」
「私もちょっと語りたい気分なの」
「そうかい」
「正直なこと言うとね、もう探すことに疲れてるのよ、私」
「ああ、そうかい」
「それで、そろそろ探すのを諦めようかって思った時にさ、あんたに会った。私と同じ、有りもしなさそうなものを探す奴。
 ふと思ったんだ。こいつの探し物が見つかったら、私はこれからも探しものをしていこう。見つからなかったらもう、諦めようってね」
「責任重大だな、俺は」
「心のどこかではもう、諦めてるのかもね、私」
「月並みな言葉だが、諦めなければ夢ってのは叶うもんじゃないか?」
「夢ね……」
「お互い。探し物を見つけるのが夢だろ」
「そういうことにしとくわ」
「ああ、そうしとけ。俺は、もう疲れたから寝るよ」

そう言って、男は宿代わりである長の家に向かっていった。
ふらふらと、その足取りはどうにも危なっかしい。
酒がそうさせたのか。はたまた別の要因か。とにかく、男は饒舌に自分の過去を話していた。まるで懺悔するが如く。
そして少女は、言葉少なめに自分の心内を語った。何かに言い訳をするかの如く。
男の背中を見つめ、少女はぐびりと酒を呑んだ。
宴は、まだまだ続いていきそうだ。







井戸の件から数週間。
夏の暑さはひたすらに人々を焦がし、太陽はひたすらに大地を焼いていく。
あの時の夕立以来、再び息苦しい日照りが続くこととなった。
いよいよ水の不足が深刻となってきており、水売りによる水の値段も随分と高くなってきているという。
空気が熱せられるだけ熱せられており、陽炎やら逃げ水やらがあちこちに昇っては消えていた。
垂れ落ちた汗が地面に落ちても、瞬きをしている間にたちまち蒸発して消えてしまう。
暑い、いや熱い。
竹の水筒から水を飲んでも、もはや水とは言えずぬるま湯だ。
その中途半端な温度に、水がどろどろと流れていく感じがする。
喉は潤うかもしれないが、体の火照りは取れやしない。いや、その潤いもほとんど感じることはできない。
少し身動ぎするだけで、全身から汗が噴き出してくる。
じっとしていても、汗がどろりと流れていく。
二人はそんな状態で木の下に腰掛け休んでいた。
蝉がひどく喧しい。
蝉の鳴き声というのはどうも暑さを運んでくるようで、鬱陶しい暑さがひたすら辺りを包んでいる。
空気がいやに湿気ており、それが体に絡んでくるように熱を運ぶ。
座っているだけで汗が出る、水が失われていく。
先ほど潤した喉は、もう渇き始め、痛くなってきている。
吐く息すら熱く、不快に感じられた。
冷たい水を浴びれればどれだけ気持ちが良いだろうか。
べとつく汗を流し、渇いた喉を潤し、火照る体を冷水に浸らせることができれば、どれだけ気持ちが良いだろうか。
水と共に流れていければどれだけ気持ちが良いだろうか。
しかし、このあたりに水は無い。川は無い。
ああ、暑い。

「そういえば……」

男がうわ言のように呟く。

「お前さん、いつまで一緒にいるつもりだ?」
「あぁ。そういえば、もう一月近く一緒にいるっけ」
「宴会の時、俺の探し物の結果がどうこう、って言ってたが、いつまで一緒にいる気だよ」
「あんたが死ぬか、探し物を見つけるまででも別にいいんだよね」
「気が長いな」
「いいのよ。人生なんて所詮巨大な暇潰しなんだし」
「若い者が言うことじゃねえな」
「良いじゃない。それにあんたと一緒の方が色々誤魔化せて楽だし」
「まあ、女の一人旅は難儀しそうだからな」
「あんたは親で、私は娘。案外怪しまれないものね」

豊かな黒髪を揺らして、薄く少女が笑った。
その笑みはどこか自嘲的で酷く薄汚れて見える。まるでいやらしく年を取った老婆のように。

「時々、お前さんのことが分からなくなるよ」
「なんで?」
「ふと見れば、そりゃあ綺麗な娘だ。器量は勿論、その黒髪には本当に目を奪われる」
「あら、そういう風に見てたんだ。ありがとう」
「だけどな、時々酷く疲れたように見えるんだよ。死ぬ間際の爺婆の様にな」
「大人びているって言って欲しいわね」
「大人びているなんてもんじゃあねえな。お前さんの中身は俺より歳喰ってる感じがするんだよ」
「よく、年寄りくさいって言われるわ」
「そんなんで、済むならいいんだがね」
「別にどうだっていいじゃない。何も知らなくてもどうにかなってきたんだし」
「お互い名前も知らないしな。よく今まで一緒に旅ができたよ」

そう言って、お互いに小さく笑い合う。
行きずりで出会い、そのまま少女が付いて来て、お互い名前も知らず、どういった素性かも分からない。
共に旅をするにしては、あまりにも互いを知らな過ぎる。
しかし、このままで良いのだろう。
今までそうやってきたのだ。
それがこの二人の絆なのであろう。

「にしても、今日も沢山出てるわね。逃げ水」
「ああ。そうだな」

そう言って、男は水筒の水を口に含む。
やはり、温い。
そうして一息ついても、やはり思い出すのはあの時飲んだ逃げ水だ。
渇き自体には馴れたものの、やはりあの水が心を乱し続ける。
発作的に、体が渇く。
ああ、あの水が飲みたい。
こんな温い水ではなく、あの時飲んだあの逃げ水が……
溜息を吐いて、ゆっくりと息を吸う。
夏の暑さと草の咽返る香り、渇いた土の匂いがした。
水の匂いはしない。
ああ、あの水が飲みたい。あの水が飲みたい。
否応なしに喉が渇く。体が渇く。魂が渇く。
ああ、あの水が飲みたい。
甘美なあの匂いはどこだ。
体を震え立たせるあの水はどこだ。
全てを洗い流してくれる逃げ水はどこだ。
ああ、あの水が飲みたい。
あの水が飲みたい。
あの水が飲みたい。
あの水が飲みたい。
あの逃げ水が飲みたい。
匂いはどこから。
水はどこから。
ふと匂うは溶けるほどに濃い香り。
甘く漂うこの匂い。
あの時飲んだ水の匂い。

「……この匂いだ」
「え?」

少女が話し掛けるより早く、男は日の中を駆け出した。

「ちょっと、何処行くのよ!」

少女の慌てた声が聞こえるが、そんなことに構っていられない。

「この匂いだ、逃げ水の匂いだ、間違いない逃げ水だの匂いだ!!」

日の下を走る。
周りの逃げ水がどんどん逃げる。
体が熱い。
喉が熱い。
背景が後ろへ流れていく。
全てが白く染まる。
匂う、匂う。
匂いが濃くなる。
雨は降っていない。
水溜りが出来るはずがない。
こんな匂いの水はあの水以外にない。
どこだ。どこだ。どこだ。
どこだ!
邪魔な草を掻き分ける。
茶色い土を蹴って駆ける。
見つけたのは一つの輝き。
小さな水の溜まり。
探し続けた夢。
それはきらきらと輝く光の水。
乾いた土に広がる水溜り。
雨はここしばらく降っていない、太陽は今も地を焼いている。
水溜りなど出来るはずがない。しかしそこにあるのは水溜りだ、逃げ水だ。
それ自体が光っているのか、それとも日の光を受けているのか。水溜りはただ、静かに揺らめいている。
この世のものとは思えない香り、この世のものとは思えない輝き。
ひたすらに美しく、ひたすらに清らかで、ひたすらに魅惑的で。
理性も何も、全てを溶かし尽くすような芳しくも甘い匂い。
魂すらも溶かしそうな香り。
手に掬って掲げると、滴がぽたり、ぽたりと零れていく。
冷たい。こんなに暑い陽ざしの中でもその水は湧水が如く冷たい。
さらさらと、水が手の中で揺れる。
その感触すらも、体が震えるほどに甘美だ。
どのような名水でもこれには及ばないだろう、いや及ぶはずがない。
掬った手から、体に水が染み込んでいく感覚。
ああ、探し続けてきた。
求め続けてきた。
渇き続けてきた。
その水が今ここにあるのだ。
夢が、自分の夢が、今叶う。
そうして掬った水を、飲んだ。
水が体に染み渡っていく。
全ての渇きが満たされていく。
体も心も魂さえも、潤っていく。
水が体を巡る。
火照りが消えた。
暑さが無い。
蝉の声すらも、聞こえない。
水溜りに顔を入れて飲んだ。
冷たさを体が包む。
構わずに飲んだ。
息苦しさはない。ひたすらにただ飲めそうだ。
ごくり、と喉を鳴らして飲む。
ごくりごくりとひたすらに、ただひたすらに飲む。
ただ貪る様に飲み続ける。
ああ、この水は甘露だ。
暑さも
煩わしさも
苦しさも
楽しさも
世界も
自分も
一切合財全てを流してくれる甘露だ。
ああ、この水は……
ふと、あの少女の声が、聞こえたような気がした。




駆け付けると、男が獣のように水を貪っていた。
少女が近づいても気付く様子はない。
そして、水の匂いが少女にも感ぜられた。
理性が白く溶けゆく感覚。
何かが警鐘を鳴らしているが、それさえも、白に押し流されていく。

「ねえ、あんた!!」

思わず叫んだ。
この水は人を、人の大切なものを流してしまう。
そんな恐怖を感じる匂い。
不意に、男の体が揺らめいた。
水溜りに顔を入れた姿勢のまま、その体が水の如く揺らめいた。
その肩が光に透ける。
その背が向こうの景色を写し出す。
その手が水のように輝く。
ああ、男の体が溶けていく。
その体が透明になる。
その体が水になる。

ぱしゃり、と音がした。

男が水となった。
男が水溜りとなった。
日を浴びて水と溶けた。
水と溶けてしまった。
その光景を少女は呆然と見つめる。
今の出来事に思考が追い付かない。
人が溶ける。そんなことがあるのか。
水が男を水に変えるなんてことがあるのか。
あの水はなんだ。
あの水はなんだ。
何も考えられずに、体が勝手に動く。
思考と理性の隙間に白が入り込んで支配していく。
その水が体を手繰り寄せる。
否応なく、その水が飲みたくなる。
さっきの男の末路を見たというのに、頭の中が真っ白で考えることが出来ない。
手に掬うこともせず、そのまま口で水を飲む。
理性が、心が、魂が溶け落ちそうになった。
今まで生きてきた全てが流れ、溶けて、一緒になっていく。
不愉快なほどの暑さはもう無い。
あれだけ五月蠅かった蝉の声も遠のいている。
ただ、水の濃い匂いだけが、鼻と喉に残る。
体の感覚がなくなっていく。
頭が白く溶けだしていく。
このまま、消えるのだろうか?
ようやく、消え去ることが出来るのだろうか?
ようやく、死ぬことができるのか?
ようやく、ようやくこの世から……

「お父様……」







気が付くと、空が黒かった。
少女は体を起こし、辺りを見回す。
場所はあの水を飲んだ道端。
空は雨雲に覆われ、今にも降り出してきそうだ。
どのくらい気を失っていたのだろうか?
男の姿を探してみるが、やはり見当たらない。
もちろん、あの逃げ水も。
どこに消えたのか。
地面に染み込んだか、空に溶けたか、あるいは……
ふと、揺れる自分の髪に少女は違和感を覚えた。
父にも、あの男にも綺麗だと言われた黒髪。
長く伸びているそれを、手に取って見た。

「白くなってる……」

黒の金剛石を溶かしたようなあの黒髪が、白く染まっていた。
ただの白髪というには、生気を保ったままの美しい髪。
光の加減によっては銀髪にも見えるかもしれない。
少女が慌てて手鏡を取り出す。
そして、そこに映っていたのは赤い瞳に白い髪を生やした自分。
今まで黒かった瞳は薄暗い中、煌々と赤に光り、白の髪は硝子のように輝いていた。
健康的だった肌も、今は人形のように白い。

「あの水が……」

呆然とただ呟いた。
水が、色を溶かしてしまったのだろうか。
全てを失ったかのように、その顔に悲しみが湧き上がる。
綺麗だと言われた髪はもう無い。

「御父様。妹紅は、かくもみすぼらしい姿と成り果てました」

賽の河原の童子の様に、絶望が降りてくる。
その赤くなった瞳から涙が溢れる。
悲哀しみを含んで、喪失感を織り交ぜて、絶望を包んだ涙が零れた。
不思議な色合いだと言われた黒の瞳も、もう無い。

「御母様。妹紅はまだ、御一緒出来ないようです」

涙と共に、言葉が紡がれる。
どこまでも沈痛で、どこまでも弱々しい声。
妹紅という少女としての姿はもう無い。
もう、あの頃の自分は無い。

「ねえ、名前も知らないあんた……あんたの夢ってこんなものだったの?」

その水を飲むことが夢だと言った男。
名前も知らず、一緒に旅をして、そうして水となった男。
逃げ水の夢を追い求め続け、その夢を叶えて、夢に殺されてしまった男。
雨が、降り始めた。
少女の涙と共に、雨が降っていく。
地に雨が染み込んでいく。
ああ、色だけじゃなくてこの体の全てを溶かしてくれたら。
この体に宿る罪も洗い流してくれたら。
全てを洗い流して、何もかも分からなくなってしまえば……
蝉が、鳴くのを止めた。
遠くで陽炎が消える。
そして一つ、あの逃げ水が揺れていた。

この少女が、自分の探し者を見つけるのはこれから十数年後の話。
どこかの山の奥にて、自らの夢を果たす。
かぐやの姫と出会う夢を果たす。



*    *    *    *    *


慶賀様
お題は直球で行きましたから。人と水との関係はそれはそれは深いのです。
あと、逃げ水は自分の中では夢を表しています。追いかければ追いかけるほど、逃げるものですから。

no name様
多くの方が霊夢やら姫様やらと勘違いしてくださり、書いた方としては嬉しいところ。

みちくさ様
夏の暑さを感じさせる描写はがんばったところです。五感に訴えかける文章を書けるようになりたい!
数百年も恨みだけで人を探すのは、難しいと思うんですよ。だから輝夜に会う直前までは、もこたんも諦めモードだったんじゃね?的な、そんな感じ。

小山田様
あのシーンを書いている時は、自分も訳が分からなくなった感じで書きました。確かに、それが逆に表現の低下になっているかも。物語に入り込み過ぎるのも考えものですね。
登場人物は狂騒に、書き手は冷静に。

佐藤 厚志様
もこたんは実は黒髪だったんだよ!!→じゃあ、なんで今は白いの?→その話書いてみると面白いんじゃね?→お話完成。そんな制作秘話。
これ伏線と言えるのか?なんて不安になってはいましたけど、そう言っていただけるとありがたいです。

神鋼様
不思議なことは不思議なままの方が面白いかな? と思いましたが、失敗でしたね。うん、反省。

大崎屋平蔵様
東方って意外に黒髪が少ないんですよねぇ。
最期の瞬間、男が幸せだったのかどうか……それは皆様の御心次第。

yuz様
色々と考えながら読んで、その悉くを裏切るようなお話を書いてみたいものです。

#15様
過去の黒髪もこたんはちょっとズルイかな?と思いましたが、まあやった者勝ち?

deso様
やっぱり薄いですよね、東方分……せめて会話を少しでも東方らしくしたいな、と思ったけど駄目でした。
複線の張り方は今後の課題にしておきます。

詩所様
でも、この男は夢を目指さなければ、それなりに幸せで平凡な生活を送れたのです。そう考えると、また違ってくるかと。

ミスターブシドー様
怪奇譚というか、世にも奇妙な物語というか、そんな話と東方は相性がいいですしね。流石幻想郷。
あと、白髪化と蓬莱の薬の関係はまだきちんと説明されてないはずです。げっしょーは読んでないので、自信はないのですが……

PNS様
訳の分からない自然現象は不思議なままの方が面白いかな?と思いましたが、ある程度説明も必要でしたね。
想像の余地も残しながら、そういった説明も描けるようになりたいなぁ。

つくし様
今回、話の筋が先に出来上がったので、そこにキャラを当てはめたら妹紅になったのです。
小説に幻想を持たせる……なんだかとても嬉しいお言葉だ。

眼帯つけた兎さん様
蟲師の虹のお話ですよね。自分も大好きなんです、あれ。
正直、蟲師と被り過ぎているかな?と不安でしたけど、楽しんでいただけたなら幸いです。
どういったお話しか決めるのは、皆様次第でございます。

藤ゅ村様
先代博霊でお話を書いても、面白いかも知れませんね。今度書いてみようかな。
逃げ水がもこーに与えた影響は、色が抜けただけなのか、それとも……
あっさり死ぬのはデフォです。まあ人生そんなもの?

今回は感想のみ様
素面の方を引き込み、酔わせられなかった時点で自分の実力が足りなかったのです。要精進。
心に響かせる要素と技量。これらを手に入れられるよう、頑張りたいと思います。

じらふ様
そこまで男の生き様を読み取っていただき、ありがとうございます。夢の先には空虚しかないのでは?というのが、このお話のテーマでもあります。
妹紅は幸せでいてほしいですね。そのための幻想郷であるのだし……

つくね様
男も妹紅も幻想となり果てましたが、はたしてそれは幸せなのかどうか、自分には分かりません。
最後までこのお話を読んで頂き、ありがとうございます。

リコーダー様
逃げ水の美味しさ、異常さをきちんと伝えきれなかったのが悔しいです。男が人生の全てを投げ打ってでも欲しがる水の描写。難しいものですね。
ちなみに戦前、戦中までは水溜りの水というのは良く飲まれてました。水筒に濾過のための布を詰めれば普通に飲めたそうです。緑と水が豊かな日本ならではのお話らしいですよ。

八重結界様
あくまで、男が主人公なのですが、これは東方SS。やはり妹紅の描写もきちんと書くべきでしたね。
ラストはあえてあっさり終わらせて、不思議な余韻を残そうとしたのですが、自分の実力がまだまだのようでイマイチ。残念。

blankii様
雰囲気のある作品を目指しているのでその御言葉は嬉しいところ。
黒髪もこーも可愛いと思うんだ。という、そんな歪んだリビドーでこの作品は構成されております。

木村圭様
不思議なものは不思議のままというのは、雰囲気が出るかと思ったのですが、どうやら失敗みたい。いやあ、難しいなぁ。
妹紅が溶けなかったのは蓬莱の薬のおかげですが、それでも身体は白くなったという、そんな感じです。う〜ん、ニホンゴムズカシイネ。

時計屋様
話全体のイメージですか。分かりやすく、しかし巧みな描写と話の流れを作れるようにしたいです。
置き去りの方も、乗り気でない方もまとめて引っ張れるような文章を書きたいなぁ。

Id様
表現がくどいかぁ。そこら辺の匙加減も今後の課題だなぁ。読み応えのある作品と、読んでいて疲れる作品というのは違いますものね。できれば、前者のような作品を書いてみたい。


三文字
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2008/10/01 11:03:24
更新日時:
2008/11/08 21:54:00
評価:
0/0
POINT:
0
Rate:
5.00
1. 8 慶賀 ■2008/10/05 13:13:00
テーマはなんだろう。自分は今回お題との関連性について評価の基準に
入れていないんですが、お題にこだわった作品としてはピカいちだと
思います。自分如きの理解では逃げ水が何を現わしているのか
分からないのが悔やまれます。
2. 7 no name ■2008/10/05 18:33:33
赤と白っていうから霊夢かと思った 髪黒いしw
簡単に場面を想像出来るような生き生きとした文章でした。良かったです。
3. 8 みちくさ ■2008/10/05 22:01:48
なんとも不思議な幻想の物語、堪能しました。
逃げ水を追う男というテーマは独創的で、妹紅の疲労と諦観もヒシヒシと伝わってきました。すばらしい。
4. 5 小山田 ■2008/10/06 23:20:25
最後まで、心をこめて書ききったのが読み取れ、非常に好印象です。
ただ、逃げ水の匂いを男がかいでからの心情過剰の文章に少し困惑。
男の心の狂騒を表現したいのかなと思いましたが、文章自体が狂騒にかられても表現力が低下するだけかと。
そのせいでしょうか、男の一人語りになってから文章の魅力が少し褪せた観があります。
そのため、少々読後感を損ねたので本来の評価よりちょっと下げさせてもらいました。
5. 5 佐藤 厚志 ■2008/10/07 03:20:32
もこたんの過去だったとは。
相当長い文章でしたが、語りの旨さからか、謎に満ちた逃げ水の複線の貼り方がお上手なのか、すらすら読めました。
6. 5 神鋼 ■2008/10/07 19:51:08
謎が謎のままでもどかしいですが結構好きなお話でした。
7. 6 大崎屋平蔵 ■2008/10/15 21:49:32
面白い話でした。あと、ずっと輝夜だと思ってました。騙されたw
切ないなぁ、男。
8. 4 yuz ■2008/10/15 21:50:48
序盤、想像の余地がたくさん用意されていて面白かった。
9. 3 #15 ■2008/10/18 18:58:47
もこたんだったのか…
10. 6 deso ■2008/10/23 23:38:00
面白かったです。
東方分がかなり薄いので、少女についてはもっと伏線が欲しかったかな、と思います。
11. 4 詩所 ■2008/10/26 20:17:05
私からすれば夢にたどり着く前にのたれ死ぬより、夢に殺されたほうが悔いが残らないと思いますがね。
まあ、そんな夢すら私には無いです。
12. 6 ミスターブシドー ■2008/10/27 00:10:01
逃げ水という現象を不思議話に転じたお話。
途中まで少女は霊夢かと思ってた。幻想郷から出てしまった先代の博麗とか。
逃げ水の不可思議さ、男の能力などファンタジーというか、怪奇現象というか、なんとも「らしい」話。こういうの好きだ。
手が届かないはずのものに届いてしまった時、そこにあるのは禁忌でしかない、とか。
昔話的な、こう、アレだ
妹紅が白髪化したのは蓬莱の薬の影響という公式設定がある以上、この話には違和感が生じるのだが、なんというか、逃げ水と蓬莱の薬が同質の異界で、逃げ水も蓬莱の薬を征する事が出来なかったとか、なんというか、こう、たまらんね。
13. 8 PNS ■2008/10/28 14:09:36
うぉっ! 途中まで霊夢かと思って見事に騙されました。
髪が白くなる前の妹紅だったのですね。
それにしても、逃げない逃げ水の正体は何だったのでしょう……。
14. 8 つくし ■2008/10/29 17:37:55
 小説に幻想を持たせる手法を過たず発揮されており非常に面白く読めました。「世にも奇妙な物語」あたりに今すぐにでも使えそうだ。その発想を分けて欲しいくらい。男の共に妹紅を選んだのも抜群でした。
15. 6 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:56:06
雰囲気は蟲師に似た感じ、好みです。
逃げ水に溶かされて、物語として幻想になっていなかった妹紅が輝夜のいる幻想郷へ来た。という話なのだろうか。
それともただ、白く色を流されて、消えない罪に嘆く話だったのだろうか。
16. 6 藤ゅ村 ■2008/10/31 17:45:43
 もこたん可愛いよ!
 初めは霊夢だと思ってました。あるいは前代博麗とか……まさか妹紅とは。
 結局、これがホラーイの薬だったのか……どうかは判然としてないのですけど、でもだとしたら何だったのかと気にはなりますが。
 男がわりかしあっさり死んでしまってちょっと寂しくも。
 そのへん、妹紅の最後の台詞はよく合ってたなあと思います。
17. 1 今回は感想のみ ■2008/10/31 20:43:53
酔っ払ったポエミーな文章ですが、読む側は素面なのです。
それに苦労して同調するよりも、素面でも楽しめる物語を読みたいのです。
情感によりかかって組み立てた文章なのに、心に響かせる要素もそのための技量もありませんでした。
18. 7 じらふ ■2008/10/31 21:31:33
初めは少女が誰だかわかりませんでしたが、最後まで読んで膝をぽん、と。

男の最期が悲しく哀れに思え、でも逃げ水の夢を追って生き、ついにそこに至れたのは幸せそうにも見え…。
でもやっぱり、夢を叶えた先にあるものを見すえられなかった男は不幸だったように思えます。
夢を果たしたからと言って何も考えず水(夢)を貪り、無為に死した事が不幸なのだと。

妹紅が「己の夢」に出会った先にあったものが、空虚ではありませんように、本当に幸せでありますように…
19. 7 つくね ■2008/11/01 02:40:38
まず発想が上手い。逃げ水に姿を与え、それを追い求める男。仇敵を追う彼女。
互いに幻のような、しかし実体のあるものを追い求めた結果、一方はそれになってしまった。ある意味では十数年後、彼女が「幻想」に入ったのとは意味は違わないかもしれない。
この話を読んでいたおよそ十数分があっという間でした。いや、良作をありがとうございます。
20. 5 リコーダー ■2008/11/01 09:25:12
水の味に人生を懸けるという行為自体に、今一つ実感が伴わなかった。
「世の中には奇特な人がいるね」と言ってしまえばそれまでなのですが、出来れば人が一人魅せられるほどの水、という物を実感させてほしかったです。
水溜りの水で匂いのあるのって、常識で考えると余り綺麗な水は連想できませんし、理性を溶かされるのを見たら、今度はシンナーか何かを連想してしまった。
人々の生活や季節の感じが綺麗に描写されていただけに、水に関する描写だけが妙に引っ掛かったのが残念です。
21. 5 八重結界 ■2008/11/01 18:31:39
男の辛さは伝わってきましたが、妹紅の心情はいまいち伝わってきませんでした。
それとラストが少しあっさりしすぎていたかと。
ただ、二人の掛け合いは軽快で面白かったです。
22. 7 blankii ■2008/11/01 21:32:48
なんというか、とても『雰囲気のある』作品でした。最初は少女が霊夢かと思って(黒髪の描写から、何らかの原因で不死化、とか)たので、オチも意表を突かれた感じ。
23. 3 木村圭 ■2008/11/01 21:46:33
この博麗っぽいのは誰でどう終わらせるのかと楽しみに読んでいったら……はて、どうなったんだ?
水の正体が何なのかがさっぱりでどうも釈然としません。
妹紅が溶けなかったのは既に蓬莱の薬を飲んでるからということにするとしても……うーん。さっぱり分かりません。
24. 3 時計屋 ■2008/11/01 23:26:59
逃げ水という着眼は面白く、文章も巧みだったのですが、話全体のイメージが掴みづらく、正直読んでいて置き去りにされた感じました。
25. 5 Id ■2008/11/01 23:45:34
文章は端整です。暑さと渇きゆえの思考の堂々巡りなのかもしれませんが、全体的に表現がくどく、少々疲れてしまいました。狙ってやったのかもしれませんがプラスとは言いがたいです。意外性はあるのですが引き伸ばしすぎた感も。
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