スイセンカ

作品集: 最新 投稿日時: 2008/10/04 23:56:55 更新日時: 2008/10/07 14:56:55 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00



「幻想郷の歴史が誕生した」
 そう冒頭に綴ったこの本だが、今日は客観的な事象の記述ではなく、特別に僕自身の事を書こうと思う。
 この本の一頁目を記した日が幻想郷にとって歴史的な始まりであったのと同様、今日、この日こそが僕―――森近霖之助にとって新たな歴史を刻み始めた、記念すべき一日であるからだ。
 その為僕は、次なる白紙の一頁にまずこう記入した。



「森近霖之助は、真実の愛に目覚めた」と。












 スイセンカ ―酔染香―








 最近、魔理沙の様子がおかしい。
 同じ魔法の森に居を構える僕と魔理沙は近所同士と言えないことも無い距離に住んでいる。彼女が子どもの頃から面識があり、何かと面倒を見ることも多い。とはいえ一方的に世話をしてやるだけではなく、向こうからも置き場の無くなった蒐集品を格安で買い取ったりと、持ちつ持たれつの間柄だ。そんな訳で、用事の有無に関わらず、ちょくちょく僕の店まで足を運んでは慌ただしく飛び出していくのである。
 とはいえそれも、多くて一日一遍。落ち着きのない魔理沙の事だから、日がな幻想郷中を飛び回っているに違いないのだ。
 ―――それが何故か。全く不思議な事だが、三度の食事の度にやってきては手製の料理を僕に振る舞うのである。
 普段の魔理沙を知るものなら、これが大変な異常事態であると直ぐさま悟ってくれるに違いない。実際、昼食時に訪れた霊夢などは魔理沙の様子を見るなり一番、「食あたり?」と発した程だ。僕もその線が濃厚ではないかと思っているが、どうあれ彼女の作るスープが美味しいのは確かで、邪険にする理由はこれといって見当たらない。料理の一品一品につき出来不出来を尋ねてくるのが少々煩わしいが、美味いと感想を述べる都度、嬉しそうに顔を綻ばすのである。
 美味しい料理に少女の笑顔。世の男性が羨みそうな状況ではあるが、どうにもその笑みの裏側に良からぬ思惑が隠れていそうで(事実魔理沙がこういう時はろくな事が無い)、なんとも不気味な心持ちだ。
 さて今日も今日とて夕食の後片付けをしている魔理沙。台所に立ち食器を洗う彼女の後ろ姿を眺めていると、機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてくる。
 なにがそんなに楽しいのか皆目見当付かないが、こういう魔理沙もそう悪いものではない。年頃の少女相応の振る舞いを見ているのは微笑ましくある。だがしかし、このような彼女の豹変ぶりの原因に、どうしても心当たりが見つからないのである。
 見境のない悪意程ではないが、謂われのない好意というのも恐ろしいものだ。ただより高いものは無いというが、無償の善意を受けた者は、やはり無償でその恩に報いる義理が発生する。しかも大抵、恩を受けた側はその負い目も手伝って、自らが受けた分より大きな礼で応える羽目になるのである。身近な所を挙げてみても、拾って名付けて貰った代わりに生涯メイドとしてただ働きする例然り、知識を保ったままの転生を許可される代わりにあの世にいる間は閻魔の手伝いをさせられる例然りだ。とはいえ、もしも逆に恩を仇で返そうものなら、その人物との関係どころか周囲の信用すら崩れ去ってしまうという社会的な制裁を受ける結果になるだろう。目には目を、歯には歯を、恩には恩をという、これはまさに善意の強制である。
 絶望した! 善意を強制する社会に絶望した!
 果たして魔理沙は僕にどのような見返りを要求してくるのか……そう考えると気が気でない。
「……霖。おーい、香霖ってば」
「?」
 ふと名を呼ばれている事に気付いて意識を現実に戻すと、台所の魔理沙がこちらに振り向いていた。
「どうしたんだよ、こっちをじっと見たままぼーっとして。何か楽しい事でもあったのか?」
 そう尋ねてくる魔理沙の方がよほど楽しそうな顔付きで有ったが、僕はかぶりを振って答える。
「……ああごめん、考え事をしていてね」
(……なんだ。私に見惚れてたわけじゃなかったのか……)
 途端魔理沙が某かぼそりと呟いたような気がしたが、それはよく聞き取れなかった。
「それで、なんだい?」
「あ、ああ。片付け終わったから、お茶でも入れようかなって思ったんだが」
「そうか。じゃあ僕が」
 言って立ち上がろうとすると、
「あー、私がやるからいいって。香霖はそのまま座っててくれよ」
 すかさず魔理沙がそう制して、お茶の準備をし始める。
 妙に甲斐甲斐しいその様子が、ますます僕の不信感を煽る。第一、つい先日まで僕が魔理沙にお茶を出す側だったのである。家の主が客人をお茶でもてなすのは当然の事だが、それどころか魔理沙は勝手知ったるとばかりに要求してくる始末なのだ。
 それが一体、どういう風の吹き回しか。……いや、もうこの手の疑問は何度となく繰り返したし、切りがないから止めておこう。
 そうこうするうち、食卓に着いている僕の目前に湯飲みが置かれた。
 立ち上る湯気と香り。台所で注いできたのだろうか、魔理沙も自身の湯飲みを手に、僕の対面へと着いた。
「お、お待たせだぜ」
「ああ、ありがとう」
 しかし目の前の魔理沙はどうもそわそわと落ち着かない様子だ。これもここしばらくずっとこんな有様で、僕の正面に座る癖に、たまたま視線が合うなりついと逸らしてしまうのである。一層、何がしたいのか僕には理解出来ない態度だ。
「ところで急須を忘れてるみたいだけど」
「え? ……あー、ああ、そんなの気にしないでいいから。飲みたくなったらその都度注げばいい話じゃないか」
 まあ、それもそうか。わざわざ熱いお茶を淹れ直してくれるという、魔理沙にしては殊勝な心掛けである。
 早速湯飲みへ手を伸ばすが、
「ちょっと待った! お茶へ手を付ける前に、その……聞いて貰いたい話があるんだが」
 その、いつになく真剣な声音に僕は驚き、湯飲みから一旦手を引いた。
 魔理沙は僕の動作を確認すると、一つ大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
 ……いよいよ、何かとんでもない事を要求されるんじゃあないか。そう悪い予感が僕の胸中に首をもたげる。
「すー、はー……よし」
 再度魔理沙は深呼吸すると、何かを決意したかの如く一つ頷いた。そして話を切り出してくる。
「あのな……これから尋ねる事に、正直に答えて欲しい」
「あ、ああ」
 僕もその深刻な雰囲気に飲まれて、多少声が上擦っただろうか。
 しかし魔理沙はそんな心中の戸惑いも意に介さず、まっすぐ僕の目を見て、訊いてきた。
「……最近の私の行動についてなんだが……どう、思った?」
「どう、って?」
 思わずオウム返しに聞き返す。具体的に答えるには、漠然とし過ぎている問いだからだ。
「…………」
 しかし魔理沙は、僕の声に応えない。ただこちらを見据えたまま、僕の返答を待っていた。
 このまま僕が口を開かなければ、沈黙は延々と続くだろう……そう思わせる空気の重さが、この空間を支配していた。……選ぶべき言葉に迷ったが、結局僕は要求通り、正直に答える事にする。
「そうだな……。一言でいうなら、変だ、と思った」
「それだけか?」
「ああ。普段からは考えられない程甲斐甲斐しい世話焼き振りに、なにか企んでるんじゃないかと心配になるくらいだが」
「……その、なんだ。私が料理を作ってやって、嬉しいとか、逆に迷惑だとか、そういうのは」
 ふむ、と僕は一呼吸置いて、彼女の行為に対する純粋な感想を述べる。
「いや、迷惑どころか正直有り難く思うよ。食事の支度をしてくれるのは大助かりだ」
「……それだけか?」
 再度、それ以上の何かを求める声が魔理沙から上がるが、
「……そうだね。それだけだ」
 行為自体は有り難い。しかしそれに何か特別な感慨を抱いた訳でもなく、正直にそう答えた。
「…………そっか」
 そう呟く魔理沙の声音には明らかに落胆の色が浮かんでいた。
 彼女は項垂れ、手元の湯飲みへと視線を落として、溜息混じりに言葉を吐き出す。
「ちょっと、頑張ってみたんだけどなぁ」
「?」
「ほら、少し前の事なんだが……。エプロン、似合うって言ってくれただろ」
「……ああ」
 そういえば、そんな事が有ったか……言われて初めて、朧気に記憶が蘇ってくる。
 今から一月くらい遡るだろうか。魔理沙と霊夢が僕の店に押し掛けて、鍋物を作った時の事だ。少々肌寒くなってきたから、風邪でも引かないように栄養付けときましょうなんて、霊夢が兎の耳根っこ引っ掴んで持参し、魔理沙は魔理沙で相も変わらず旬のキノコだぜ、と山盛り抱えてやってきた。嬉々として兎を捌く霊夢に対し、魔理沙はキノコの灰汁を抜くかたわら鍋の出汁を取っていて、その後ろ姿に妙に家庭的なものを感じた僕は、思わずこんな言葉を口走ったのだ。
「『料理をする姿もだいぶ様になってきたな。これなら、いいお嫁さんになれるんじゃないか』……ってさ」
 そうだ、確かにそう言った。僕は魔理沙が小さい頃から知っているから、その子がいつの間にかエプロン姿の似合う年頃の少女になっている事に感慨深いものを感じて、それがそういう言葉として出てきたのだ。
 しかし判らない。それがどうして、今この場の、なんとも重苦しい空気へと繋がるのか。僕はただ、何の気無しに彼女を褒めただけに過ぎない。なのに何故、魔理沙はそれがさも重要な事の様に……?
 無言で疑問符を表情に貼り付けたままの僕に対し、魔理沙は力無い笑みを浮かべて呟く。
「……やっぱりか。私の事なんてなんとも思ってないんだな、香霖は」
「ちょっと待ってくれ魔理沙、僕にはなにがなんだか」
「霊夢じゃなくて、私だけを褒めてくれた事……私は凄く嬉しかったんだぜ? でも、香霖はずっとそうだったよな。そうずっと……いつだって、誰の事も見てなんかいやしないんだ」
 ……魔理沙が何を言っているのか、僕には判らない。しかしそれが何より、彼女を傷つけているのだと―――漠然とそう感じ取ることだけは出来た。
「馬鹿みたいだよな。私一人だけ、香霖の言葉気にして、もしかしてなんて淡い期待抱いてさ。だからちょっと勇気を出して、押し掛け女房気取ってみたんだが」
「魔理沙、僕は―――」
 何かしら言わなければと発した言葉は、しかしより衝撃的な発言に遮られた。
「好きなのは、結局私だけだったんだな。最初から」
「な!?」
「そうだよ。この際はっきり言っておくが、私は香霖の事が好きなんだ。勿論、恋愛対象として……だぜ」
 それは否定しようのない、紛れもない愛の告白だった。
 ……衝撃の余り、軽く目眩を覚える。それもその筈、僕としては魔理沙をそういう目で見た事が無いのだから。それを一足飛びで越えて来られたものだから、僕にはどう返事をしていいものやら皆目見当が付かない。
「…………」
 沈黙を守るしかない僕の態度に、魔理沙は寂しげな声で一言、
「いいんだ、判ってるから」
 それだけ呟き、口を噤んだ。
 ―――一体、どうしたら良いのか。しかし他人から明確な好意を寄せられた事の無い僕の内には、答えるべき言葉が見当たらない。安易な気休めも、正直に関心が無いと切り捨てるのも、このまま無言の時間を連ねる事も、総てが魔理沙を傷付けるだろう。
 ……何とかしなければと思うのだが、彼女の視線に耐え切れず俯いてしまう。そこで、既に冷め切ったお茶が目に入った。
 何でもいい、まずは心を落ち着けたい。そう湯飲みへ手を伸ばし、その内容物を一口飲み下した。
 すると途端、
「ぐっ!?」
 喉が焼けつく様な感覚がしたかと思うと、次の瞬間には激しい動悸と目眩に襲われる。
 手にした湯飲みを卓上に叩き付け、握る手には砕けんばかりの力が籠もる。感覚の渦に飲まれて息を荒げ、必死に抗う僕の耳へと、魔理沙の声が届く。
「だから……ごめんな香霖。こうするしかなかったんだよ」
 それは寂しげで、しかし冷酷な弾劾の様に響いた。
 ドクン、ドクンと尚も鼓動は高ぶり、やがて魔理沙の声も聞こえなくなり―――一際大きく高鳴って、そして、弾けた。
「…………」
 目を開く。
 真白く握りしめた器の中に揺らぐ水面。
 そこに映る僕は、千々に乱れた髪の内に憔悴の貌を覗かせている。
「気がついたか、香霖?」
 正面から僕を呼ぶ声。魔理沙だ。
「さ、ゆっくりとこっちを向くんだ。そして私を見てくれ」
 先程までとは打って変わって、喜色に満ちた声音。言われるままに僕は顔を上げ、彼女を見遣った。
「……」
 そのまま放心したかの如く、彼女を見つめ続ける。
「香霖、今の気分はどうだ?」
 身を乗り出して聴く魔理沙。その瞳に僕が映し出される。
「ああ」
 椅子から立ち上がり、魔理沙へと歩み寄る。応じて彼女も席を立ち、期待に満ちた視線で僕の顔を覗き込んでくる。
 その双肩を両手で掴んで、僕は告げた。
「綺麗だ」
「香霖……」
 その猫のようにクルクルと動く瞳は、今は僕だけを捕らえていて、歓喜の涙に潤んでいる。
 もう一度、僕は心から賛美の言葉を口にする。
「ああ、なんと綺麗なんだろう。今すぐ、この腕に掻き抱きたい!」
「ついに……ついに判ってくれたんだな香霖! 苦労して惚れ薬を調合した甲斐があったぜ!!」
 いささか不穏当な単語が魔理沙の口から飛び出た様な気がしたが、しかし今の僕は気にも留めない。
 そのまま僕の胸へと飛び込もうとした魔理沙を、しかし両手で押さえて止める。
「え?」
 呆気に取られ見開かれた彼女の瞳。そこに映る自分の顔を覗き込んで、僕は胸の高鳴りを覚える。―――やはり、間違いない。
「美しい。魔理沙の瞳に映る僕……。そう、僕が愛しているのは僕なんだ!」
「は……」
 僕に見つめられたままの魔理沙は間の抜けた息を漏らす。と次の瞬間、
「うえぇぇえぇぇぇーーーっ!!!?!!!?」
 あらん限りの大絶叫が魔法の森に木霊した。





 ずっと、疑問に思っていた事が有る。
 それなりに長い間―――そう、魔理沙や霊夢の何倍かそれ以上だ―――を生きてはきたが、僕は他者に対して強い興味や執着を抱いた事が無かった。とりわけ恋愛感情については、それが一体如何なるものなのか……未だに書物から得た知識以上を持ち合わせてはいなかった。
 何故か?
 何故僕は人に愛される喜びも、人を愛する情熱の炎も知り得ないのか。
 それは思うに、僕は、ただ独りだからだ。
 この身は人間であって人間ではない。妖怪であって妖怪ではない。両者の長所を併せ持ち、しかしそのどちらにも属さない半人半妖なのである。
 人間達は人間の里に集い、それぞれが家庭を築き生を営んでいる。妖怪達は人間ほど互いに馴合うことはないが、やはりその行動原理に共通項を持つ同類だ。
 しかし僕には同種が居ない。人間より長い寿命を持ち外見的に老いる事はなく、かといって妖怪の様に人間を襲って腹の足しにするでもない。どちらの仲間になる事も叶わず、こうして一人森の入り口に居を構えている。
 孤独を苦と感じない性格が幸いして、そんな一人きりの生活にも耐えられるのだと、今の今まで思っていた。だがそれは誤りだったのだ。
 僕は他者の介在を必要としない。何故ならそれは、僕は僕という存在の内で完結しているからだ。己を満たす事が出来るのは、己自身のみなのだと、今宵ようやく気付いたのである。
 かくして森近霖之助は、真実の愛に目覚めたのだ。





「美しい……」
 香霖堂店内に据えた身の丈程もある姿見の前に立ち、何度目かも判らない賛辞の言葉を呟く。
 鏡の中に映る君。
 眉目秀麗にして怜悧な輪郭の顔立ち。
 錦糸の如き艶やかな銀の髪は絶妙に散らばり、憂いを帯びた宝玉の瞳をその内に垣間見せる。
 日光に焼かれぬ白磁の肌は病的なまでに退廃の色香を放ち、すらりと通る鼻梁の下に仄か赤らむ唇と、実に見事なコントラストを描いている。
 その薄桃色の花弁から漏れ出るのは、ただ恍惚の溜息ばかり。
 これまで自分の容姿などさして気に留める事も無かったが、よくよく見ればこれ程までに端正な面立ちなど他に有っただろうか? ―――少なくとも、これ以上の美麗を誇る人物を、僕は知らない。
 よって天上天下に比類無き美男子であると自賛しても、これはけして行き過ぎではあるまい。
「……」
 僕は次に、上着を脱ぎ捨てる。
 途端露わになる細身の裸体。
 必要十分なだけ筋肉のついた薄い胸板。
 華奢な首筋、その元に浮き出た鎖骨はたまらなく扇情的に映る。
 肩胛骨の付け根から白魚の如き繊細な指先へと伸びる流麗なラインは、無機物には到底表現し得ぬ一つの生ける芸術だ。
 薄い表皮に覆われた腹筋、その直中に位置する臍の窪みなどは淫靡ささえ匂わせる曲線を形作っている。
「美しい……」
 率直な感想が口の端から零れ落ちる。
 神を象った彫刻さえ霞む造形美を前にして、しかし僕は、どうしようもない切なさに駆られるのだ。
 無言で姿見へ手を伸ばす。
 僕の手と、鏡の中の君の手が重なった。―――しかし、そこから伝わる感触は温もりでなく。
 どうして君は、鏡の中にしか居ないのか?
 こんなにも愛しいのに、何故抱きしめる事すら叶わぬのか。
 僕はそっと、「力」を発動させる。僕の特殊能力、『物の名前と用途が判る程度の能力』だ。しかしそれが僕に伝えてくるのは、単なる「鏡」であるという事実。鏡は鏡であって、僕の探し求める「森近霖之助」ではないのだ。
 それを理解した途端、止め処ない悲しみと深い落胆が僕の心を苛む。
 僕は、僕を愛している。
 それは自己の中で完結している筈だ。
 僕に愛の言葉を囁けば、それはそのまま僕へと返る。他の誰かに奪われる心配も無い。
 なのに。
 なのに何故、こんなにも寂しいのか?
 この恋心は満たされないのか。
 これでは……偶像に自己を投影し、愛されたいと願うだけの滑稽な愚か者ではないか。
 鏡の中の君は、悲しげな視線で僕を見つめている。
 やめてくれ。
 それすら美しいと感じる僕は、ただ目を奪われ魅入る事しか出来ないのだから。
 もう鏡越しでも構わない。
 せめて、せめて君が悲しみに暮れぬよう、僕は笑顔で愛の言葉を囁こう。
 そう、「愛している」と。
 言って鏡を掻き抱こうとした瞬間、
「だあぁぁぁっ、やめろ香霖ーッ!!」
 怒号と共に飛び込んできた何かが、僕の腕を弾いて姿見を突き飛ばした。
 がしゃん、と硝子の砕ける音が耳に届く。
「な、何を……!」
 慌てて姿見へ駆け寄ろうとする僕の前に、しかし黒い影が立ちはだかる。それは良く見知った人物……霧雨魔理沙のものであった。
「そろそろ書いてる側も精神的にキツくなってきたことだし、いい加減に目を覚ましてくれ香霖! ていうかなんで半裸!?」
 そう叫んで、呆然と佇む僕に掴み掛かる魔理沙。
「魔理沙……? いきなり何をするんだ。僕は僕と愛を語らっている最中だったのに」
「だーかーら、何度も言ったがそれは惚れ薬のせいなんだって!」
 またおかしな事を言う。
「魔理沙、馬鹿も休み休みにしてくれないか。第一、自分自身を好きになる惚れ薬なんてどこの世界に有るというんだ」
「うぐ……いや、それはだなー、そのなんというか手違いがだな……。まさかお茶に映った自分の顔を最初に見ちまうなんて予想外だったからさあ……」
 ばつが悪そうに後ろ頭を掻きつつ、ぶつぶつと呟く魔理沙。
「まあいい。例えその話が本当だったとしても、それは切っ掛けにしか過ぎないよ。僕はそもそも、恋愛感情というものを知らなかったんだからね。知らない感情を促すことなんて出来る訳もない。だから僕は、目覚めたのさ。真実の愛に。今まで誰のことも好きにならなかった、その確たる理由にね」
「だから違うんだって。気合い入れて相当強力なヤツ作っちゃったからさ……。って、そんな事はともかく! お前が今感じているその感情は紛れもなく薬の作用だ治し方は私が知っている私に任せろ」
 ほら、と僕の鼻先に薬瓶を突き出してくる。
「解毒剤だ。これをぐいっといけば一発でそんな気の迷い吹っ飛ぶぜ!」
 しかし僕は、それを魔理沙の手ごと払いのけた。
「あっ!?」
 再び室内に乾いた音が響き、解毒剤とやらが床に染みを広げていく。
「な、何するんだ! 私が折角……!」
「魔理沙」
 言って僕は彼女の肩を掴み、瞳を強く見据える。その身体がびくりと小さく撥ねたが、そんなものはお構いなしだ。
「いいかい。僕のこの気持ちは……愛しさも切なさも渇望も哀しみも、全て僕自身のものだ。それを薬の所為だなどと貶めるのは、例え誰だろうと許しはしない」
 相当、強い口調だと我ながら思う。しかし僕の聖域に土足で踏み入るような真似を見過ごす事は出来ないのだ。
「うぐっ…………くそぉっ!」
 形の良い眉を見る間に歪ませて、僕の腕を振り払う。
「こうなったら……実力行使で!」
 叫んで魔理沙は台所の方へと駆けていく。
 ……まさか、刃物でも持ち出すつもりじゃないだろうな!? 愛憎の果てに刃傷沙汰なんて洒落にならないが……しかし例えそうなろうとも、僕は僕への思いを変える事は無い。 愛に殉じる僕……ああ、なんて健気なんだ!
「はぁ、はぁっ、こ、これでどうだっ!?」
 再度自己陶酔へと興じる寸前、魔理沙が再び現れる。思わず身構える僕だが、
「……?」
 しかし魔理沙は、懸念していた包丁の類を手にしているでもなく。威勢のいい声とは裏腹に、顔を真っ赤に染めてただ、もじもじと僕の目の前に立っているだけだ。
「どうだっ、て、なにがだい魔理沙」
「―――っ!?」
 その一言に目を見開く彼女。
「お、お前この格好見てなんとも思わないのか!?」
 ―――ああ、言われてみれば確かに。
 今の魔理沙は全裸にエプロン一枚だけという、新婚夫婦の夜の生活でしかお目にかかれなさそうな姿をしていた。
「俗に言う裸エプロンか。で、どうしたんだいきなりそんな破廉恥な姿で出てきて」
「破廉恥、って半裸のお前に言われたくないが……。こうなったらもう、色仕掛けで勝負だってことだよ!」
 僕があまりに平然としている為か、既に泣きそうな声を張り上げる魔理沙。……しかし、これで大体の意図は掴めた。
「そうか……大した覚悟だ魔理沙。どちらがよりセクシーか、その勝負受けて立とう!」
 言って僕は、両手を頭の後ろに組んで柳腰を突き出し、艶めかしさをこれでもかと強調するポーズを取った。
「…………」
 その途端、口を開いたまま制止する魔理沙。ふふ、余りの美しさに声も出ないと見える。
「…………う」
「ん? どうした魔理沙、もう降参かい? ほら、ほら!」
 思いつくまま肉体を誇示する僕だが、
「うわああああぁぁぁぁぁーーーーーっ!!」
大粒の涙を零しつつ、魔理沙は店の外へと走り去っていってしまった。
「……ふ。僕の勝ちのようだね」
 そう、僕がいちばんセクシー。あの程度で張り合おうなど身の程知らずも良い所だ。……とはいえ、少々大人げなかったか。彼女はまだまだ子供だ、女性らしい曲線も未熟な扁平ボディとこの僕の魅惑の躰を比べるなど、余りに酷な事をした。
「しかしあの格好で飛び出していって、どうするつもりなんだ魔理沙の奴」
 僕は足下に落ちていた自分の上着を拾い上げ、羽織直す。
 静けさを取り戻した店内。
 しかし、鏡は既に砕け散ってしまった。
 倒れたままの姿見へと近寄り、その破片を拾い上げる。
 粉々と言ってもいい砕けっぷりだ。境が増えて沢山の僕を映し出す分には構わないが、抱き締めるには少々鋭利かつ小さ過ぎる。
 いや、待てよ。
 境が増えると数が増える。そうだ、鏡という境を隔てて僕は僕の姿を見ることが出来る。それは現実の僕と、鏡の世界の僕が向かい合わせた状態。そのまま手を伸ばせば当然、境界である鏡面に阻まれ、僕はもう一人の僕へと触れる事は叶わない。
 しかしその境界をいじり、隔壁を無くしてしまえばどうなるか。もしかしたら、僕同士が同じ世界に存在し得るのではないだろうか……?
 そう思い至った瞬間、僕は駆け出していた。一縷の希望へと辿りついたからには、もう居ても立ってもいられなかった。
 香霖堂を飛び出し、一路博麗神社を目指す。あそこなら、彼女を見つけられるかもしれない。
 境界をいじる事の出来る大妖怪、八雲 紫その人を―――!





 森を抜け里を越え、博麗神社へと続く参道に差し掛かってから、はや一刻は経っただろうか。いくら山道だからとはいえ、石の敷かれた舗装路の上を真っ直ぐ歩くだけだというのに、ここまで時間が掛かるのはどう考えてもおかしい。境内目指してひたすら石段を踏みしめてゆくが、千段二千段と昇ってもまだ辿り着かない気がする。
 店を後にしたのは日も高い昼下がりの時分だったが、そろそろ西日が赤く染まってきた。
 この間休む間もなく歩き続けてきた僕だが、流石に体力の限界を感じて石段に腰掛ける。
「はぁ、はぁ、は……ぁ……」
 間もなく初雪も降ろうかという頃合いだが、馴れない運動を長時間続けた僕は息も絶え絶え、額に浮かんだ汗の珠も頬を伝って形の良い顎から滴り落ちてゆく有様だ。
 火照った身体に空気を求めて喘ぐ僕は、端から見れば目眩のする程艶っぽいに違いない。余りに急いで出てきたものだから、手鏡すら持参してこなかった事が悔やまれる。
 呼吸を整えいつの間にか乱れていた襟元を正して立ち上がる。
 ふと、その時。
 視界の端に、在る筈の無いモノの姿を認めた。
 白銀の髪に華奢な出で立ち。その眼鏡の奥に知性を湛える両の瞳、それが僕の視線と交わったかと思った次の瞬間。
 がさりと茂みを掻き分けて、それは参道脇の山林へと消えていった。
「!? ま、待ってくれ!」
 呆気に取られたのも束の間、僕は全速力でそれの後を追う事にした。
 生い茂る木々の合間を縫って、道無き道をなりふり構わずひた走る。
 視界を遮る濃緑の最中、ちらちらと光る銀色を見失わぬ様必死になって追い縋る。
 幸いつかず離れずの距離を保ちながらも、もうどれほど奥へと分け入っただろうか。
 前方を走る彼が突然その足を止め、こちらへ振り返った。
 茜の陽光さえほとんど届かぬ薄闇の中、僕へと微笑を向けるのは。―――ああ、間違いない。
 僕だ。
 あれほど恋い焦がれて、しかし決して真に対面する事の叶わないもう一人の僕。それが今、確かに僕の目の前に立っている。
 これは夢か。
 それとも幻か?
 まさか、神か悪魔か何者かが、僕の願いを聞き入れてくれたとでもいうのか。
 いや。そんな些細な事はどうでもいい。
 手を伸ばせば触れられる、その場所に僕が居るという事実の前には―――!
 一歩、また一歩と僕は僕に歩み寄り、その顔に触れようとした。
 刹那、
 その僕は急に踵を返すと、再び先へと駆け出したのだ。
「そんな……! 待ってくれ、僕を置いていかないでくれっ!!」
 無我夢中に、がむしゃらに僕は走る。
 途中幾度か転び、その度に身体中に傷を作ったが、痛みなど微塵も感じなかった。
 ……やがて、僕の行く手を散々遮ってきた木々が、ふいに開けた。
「ここは……」
 暗闇の中、夜空の月を映し出す漆黒の水面。そこは博麗神社の裏手にある湖だった。
 そう周囲を見渡すうち、
「!」
 探し求めた後ろ姿を見つけて駆け寄ろうとするが、
「なっ……?」
 湖面の縁に佇んでいた『僕』は、そのままふっと消え去った。
 そんな、そんな馬鹿な。
 やはりあの僕は、ただの幻だったのか?
 落胆の余り呆然自失に陥りかける。
 僕は力無い足取りで、彼の消えた場所まで歩いていく。
 ……駄目だ。もう、あの僕は影も形も見当たらない。
 ようやく、ようやく僕自身をこの手に抱けると思ったのに。
 限界を超えて走り続けた両の足は僕の心と共に折れ、その場にがくりと膝を着く。
 涙は知らず滂沱と流れ、俯いた鼻先から滴り落ちてゆく……。
 ―――ポチャン。
「……?」
 耳に届いた不思議な音に、瞳の焦点を呼び戻す。
 ポチャン、ポチャ。
 それは、僕の涙が湖面を打って奏でる音色だった。
 涙滴で乱れた波紋が収まる。
 そこには。
 その先には、悲しげな貌をした僕が居た。
 月明かりに照らされ、黒い鏡面に映し出された僕の顔。
 ああ、なんだ。
 何処へ行ったのかと思ったけれど、そんな所に居たんじゃないか。
 迷わず僕は、湖面へ手を伸ばす。
 今度こそ、きちんと触れて離れぬよう。
 この腕へと、君を掻き抱こう。
 抱擁を求めた僕は、自然水面の内へと飲み込まれてゆき。
 これでやっと、僕らは同じ世界の住人になれた。
 他には何もいらない。
 僕には僕さえ居れば、それで―――。





 眩しい。
 強い光が閉ざした瞼越しに瞳を刺激し、僕は身動ぎする。
「……う。こ、ここは……?」
 薄目を開いた途端、白日が眼を焼く。たまらず片手でそれを遮って、半身を起こした。
 真白く霞む視界が落ち着くと、そこは見慣れた自分の部屋。普段寝起きしている布団の中に僕は横たわっていたらしい。
 ふと足下に重みを感じ、そちらへ視線を向ける。
「おや……」
 そこで蹲っている黒白の「何か」は……。
「魔理沙?」
 僕が彼女に呼びかけると、
「んあ? ……おー、香霖か。おはよーさん……って、ああ!? 目、覚ましたのか!?」
 寝ぼけ眼を擦っていたのも束の間、突然血相変えて僕の顔を覗き込んでくる。
「ああ、今起きたところだが……。変だな、いつ僕は眠ったんだったか?」
 寝起きでぼうっとする頭に鞭打ち、なんとか記憶を手繰ろうと試みる。……しかし、いくら考えてみても、自分が何をしていたものかさっぱり思い出せない。
「あー、まあまあ。きっとまだ寝惚けてるんだろうし、そう深く考えなくてもいいんじゃないか?」
「……そうだな」
 それより妙に頭が重く感じる。布団から抜け出そうとするものの、立ち上がった瞬間目眩に襲われる。
「く」
「おっと! おい香霖大丈夫か? まだ無理するなよな!」
「?」
 おかしいな。人間の病気にも妖怪の病気にも罹りづらい僕が体調を崩すなんて、そう有ることじゃないのに。
 ふらつく僕を咄嗟に支えた魔理沙は、再び床に着くよう促した。仕方がない、素直にそれに従うことにする。
「……なあ魔理沙、僕は一体どうしたんだ? まさか風邪をひいたとも思えないが」
 僕がそう魔理沙に尋ねると、何故か彼女は視線を逸らして言い淀んだ。
「えーとそうだな、どう説明したもんやら……」
 珍しく歯切れの悪い彼女に疑問を覚えるが、
「おっ、目ぇ覚ましたのかい? いやー良かった良かった!」
 台所の方向からそう声を上げて、見慣れない女の子が一人歩いてきた。
「……君は?」
「おっと自己紹介がまだだったねぇ。私は河城にとり、山の河童さ」
「河童が何故うちに?」
 魔理沙に視線で解説を求めると、
「ああ、こいつは私の知り合いでな」
「そうそう。あんたを助けてやったんだし、命の恩人ってとこでもあるね」
「助けた? 僕を?」
 身に覚えの無い僕は話の流れが掴めず、自然怪訝な顔つきになる。
「……なあ魔理沙。ひょっとしてまだ説明してないのか?」
「まあな。ついさっき起きたばっかだし」
 それにやれやれと肩を竦めて、にとりという河童が説明を始めた。
 おおまかに言うとこうだ。僕はある種の夢遊病のようなものに罹って辺りを彷徨い歩くうち、博麗神社の裏手にある湖へと足を滑らせ転落した。そこを通りがかった河童、つまりにとりが人間と勘違いして捕まえたものの、実は半妖である僕の扱いに困って友人の魔理沙に連絡した。意識を失い溺死寸前だった僕を、二人は手厚く看護してくれた……のだそうだ。
「……そうか。それは本当に世話になったな……有り難う」
 感謝の意を込め、深く頭を下げる。
「ま、まあ助かって何よりだったじゃないか。礼なら別にレアなマジックアイテムとかでいいからさ」
「私はそうだねー、気に入ったやつ幾つか貰えるくらいでいいよ。この店、結構珍しいもん置いてあるみたいだし」
 魔理沙とにとり、両者の要求は概ね同じようだ。
「……仕方無い。出来る限りは応じよう」
 助けて貰った恩を仇で返すわけにはいかない。少々後が怖いが、僕は首を縦に振る。
「おっ、あんた話がわかるねぇ。尻子玉抜かないでおいて正解だった」
 腕組みうんうんと頷くにとり。
その脇で魔理沙がこちらを覗き込みつつ、
「あー、そうだ香霖。腹減ってないか? お前何日かずっと寝込みっぱなしだったからさ、食えるようならなんか用意してやるが」
 ……言われてようやく、自分が空腹で有る事に気付く。
「そうだな。じゃあお願いしようか」
「おう、お願いされたぜ」
「そーいや、ちょうど昼時かね。私も手伝うよ魔理沙」
 横からにとりも口を挟んでくる。
「いいけど、きゅうりばっかり増やさないでくれよ?」
「何を言う。きゅうりは河童にとっちゃ命の源みたいなもんだ。私の技術力を駆使して有形無形を問わず料理に仕込んで見せるから覚悟しとくんだね!」
 そのまま口々に騒ぎながら、台所の方へと消えていく二人。
(まあそのなんだ、助かったぜ。なんて説明しようか迷ってたんだ)
(そうかい? 言われた通り気味の悪い日記も処分したし、事後処理はバッチリだよ)
(こっちもいたずら妖精三人組をとっ捕まえて懲らしめといたし、一件落着だな)
(そーだね。じゃあ魔理沙、貸し一つってことで)
 何やらぼそぼそと会話している様だが、その内容は僕の頭に入ってこない。
 二人が出て行き静かになった室内。そこで僕は、大きな違和感に捕らわれる。
 これは……これは一体何なのだろう?
 胸にぽっかりと開いた、何か大事なものをを失ったような感覚は。





 後日。
 僕は博麗神社裏手の湖へと訪れていた。
 身体の方はすっかり復調したものの、どうにも心持ちが落ち着かずにこんな所まで来てしまったのだ。
 幻想郷の外れに位置する博麗神社、その麓の森に囲まれひっそりとした佇まいを見せる湖。
 当時の僕は、何を思ってこんな寂しい場所へやってきたのだろう。
 一望する湖面はさざ波一つ無く、ただ静謐に空の蒼穹を映し出していた。
 ―――静かだ。
 獣たちも越冬の支度を終えようという晩秋の昼下がり、夜虫の鳴くには未だ早く。一切の音が消えてしまったかのような静寂の中、ここだけが時の流れから忘れ去られているのでは―――そんな錯覚にさえ囚われる。
 どうやら幾分、感傷的になっているようだ。
 湖岸へと歩みを進める。
 縁から見下ろした水面には、鏡写しの僕の顔。
 それを認めた瞬間、何故だか一層胸の喪失感が強まった。
 ……だが、しかし、それだけだ。ここへ来れば、僕を悩ます悲しみの正体について、なにかしら手掛かりが掴めるのではないかという期待を抱いていたのに。胸の奥が締め付けられるばかりで、その原因であるような事柄に関しては、やはり欠片も思い出せない。
 ただ溜息ばかりが口を吐いて出る。
 こんな気持ち、初めてだった。だからなんと呼び表していいのか、確たる答えが僕の中に見つからない。
 もしかしたら、まだ件の夢遊病とやらを引きずっているのではないか―――そう不安に感じた僕は、先日思い切って魔理沙に尋ねてみた。この感覚がなんなのか、心当たりはないものかと。
 その時の彼女は一瞬表情に翳りを見せたが、すぐに常の声音で肩を竦めて、
「さあなあ。おおかた、失恋でもしたんじゃないのか? 夢の中の美女にでもさ」
 などと笑い飛ばしてしまった。
 僕には失恋の経験が無い、いやそもそも恋愛をした事が無いからそれが適当かどうかは判らなかったが……古今東西の恋愛話を読む限り、なるほど確かに近いのかもしれない。
 ……水鏡に映る自分の顔を眺めつつ、ついつい考えに耽ってしまった。あまり趣味が良いとは言えない行為だろう。
 踵を返した僕の視界の端、枯れ草色の地面の最中に明るい白色の部分を見つけて、そちらへと歩み寄る。
「花?」
 湖岸の一角に群集するそれは、水仙の花だった。いくら寒くなってきているとはいえ、早咲きに過ぎるような気もするが……。
 純白の可憐な花弁に黄色の副冠。湖面へ向けてこうべを垂れているようで、その姿は先程までの僕を連想させて滑稽だった。
 ふとその花に纏わる神話を思い起こした僕は、その内一片を摘んで再び湖面の僕へと向く。
 心にぽっかり開いた穴。
 失ってしまった大事な何か。
 それは魔理沙の言うように、架空の恋人だったのか?
 僕は手にした水仙の花を、そっと水面に放った。
 波紋が生じ、僕の似姿が掻き消える。
 もう、これ以上気にするのはよそう。
 僕は、決して手の届かない何かを見つめるだけの彼とは違うのだから。
 ナルキッソスへの手向けの花は、次第に岸から離れてゆく。
 僕はそれに背を向けて、この場から静かに歩き出す。
 今日も彼女が押し掛けて来るであろう、我が家への帰途へ着く為に。





(了)
 
 テーマは「水も滴る」。
 そう、僕には僕さえいれば……な!


きつつきけい
http://3.5aeons.nth.jpn.ch/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2008/10/04 23:56:55
更新日時:
2008/10/07 14:56:55
評価:
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1. 7 慶賀 ■2008/10/05 13:33:48
テーマはナルキッソスですよね。いや先に読んだssと被ってて。
個人的にはこちらの方が突拍子のなさとあいまって作り込んでる感じが
好きだったりします。あぁでも別のssがあったから水仙の意味が
分かりやすかったり……
2. 2 小山田 ■2008/10/07 01:07:50
キャラクターを全面に打ち出し、文章も読みやすい。
作品に唯一欠けていたのは面白でした。
飛び道具に頼らず、練りこんだ違うネタでの貴方の作品を読んでみたいです。
3. 4 名無し ■2008/10/08 21:37:44
面白かったけど、もうちょっとこーりんを暴走させて欲しかったかな?
4. 7 twin ■2008/10/13 19:57:30
 冒頭の語りから、勝手に物語の筋書きを想像させてしまうのが、この作品の魅力なのだと思いました。まさか自分に惚れてしまうとは、見事に私の想像の斜め上を行きました。真面目に捉えてしまうところもあれば、笑わされてしまうようなところもあり、読んでいて飽きさせられませんでした。
 特に、霖之助が自分の姿を見ている時の描写は。繊細かつ綺麗なのが面白かったです。そんなに真面目に自分を説明するなよと言いたくなります。

 それにしても、最後の場面で引き摺り続けているのが、いずれ惚れ薬など使わずに目覚めてしまったらと思うと身の毛がよだつww
5. 6 神鋼 ■2008/10/13 22:46:31
悲しい話に胸が切なくなりましたなんて言うもんか。
6. 9 カテジナ ■2008/10/16 00:32:16
紫様逃げて〜!!
7. 8 deso ■2008/10/23 23:07:26
ちょっとまとめ方が強引かなと思いましたが、面白かったです。
日記があまり話に絡まなかったのがちょっと残念。
8. 8 大崎屋平蔵 ■2008/10/24 07:34:10
まさかの展開w
すっごい甘い魔理沙と霖之助のらぶらぶものかと想像したが、一直線に裏切られましたw

途中名前の出てきた八雲紫がなんかしたのか気になりました。それとも名前だけだったんでしょうか。
9. 6 詩所 ■2008/10/26 20:29:12
良い話に纏めようとするなw
また魔理沙とこーりんのアレか、と油断していたから尚更威力が高い。
10. 3 ミスターブシドー ■2008/10/27 00:33:26
前提として霖乃助に惚れ薬を盛った魔理沙が可愛い。
朴念仁は恋する乙女をそこまで追い詰めているのかw
色恋に疎い、のか? 「実感できていなかった」というのはありそうだが、紫がちょっかい出してそうだしなぁ。
頑張れ魔理沙。いろいろと。
霖乃助が半妖なら、ある程度は「人間離れ」した容貌であってもおかしくない。
結構美形なんじゃなかろうか、彼ってば。
11. 8 PNS ■2008/10/28 14:33:27
>>そう、僕が一番セクシー
めっさ吹きましたwww あわれ魔理沙とこーりん
12. 9 三文字 ■2008/10/30 03:21:15
ああ、これは酷い……いえ、褒め言葉ですよ?
しかしこの言葉しか頭に浮かばねえ、これは酷いw
甲斐性をやいたり、裸エプロンだったりする魔理沙は良いものです。
ですが、こーりんのナルシズムぶりで血を吐きました。ええ、心の中で血を吐きました。ああ、色々と台無し。
結局は変態こーりんということに絶望した!
いや、でもこの破壊力は大好きです。ああ、癖になりそう……
13. 4 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:48:38
なんだろう、気持ち悪い情景のはずなのに気持ち悪いと感じなかった……。
シリアスな雰囲気がそうさせたのか、ただ自分が毒されているだけなのか。
ギャグの方が活きるネタかなあ?
14. 5 つくし ■2008/10/30 17:43:33
 いい話風に締めようとするなwwwwwwww
 前半に凄いインパクトがあったのですが後半ちょっと失速したかもです。しかし乙女魔理沙はかわいい。これはガチ。
15. 6 じらふ ■2008/10/31 21:38:34
自己に対する愛が全くないのも問題ですけど、過ぎれば毒となりえますね…。
とは言え今回の件で霖之助も少しは心情に変化があったようで。魔理沙も今回の件で懲りた部分もあるだろうし、二人の仲が正攻法的に進展する事を願ってやみません。
16. 5 今回は感想のみ ■2008/10/31 22:24:32
魔理沙がいじらしくて可愛いなあというか、取り消し線やネットスラングを入れたりして、物語にわざわざ違和感を生じさせる意図がわかんねーです。
まさか、あんなものを入れて面白くなるとか、そういう浅はかな考えはもってないとは思いますが。
17. 7 藤ゅ村 ■2008/11/01 18:05:45
 ふいたわ
 一時はどうなることかと思いましたが、思いのほか収まるところに収まってしまった感があります。いい意味で。
 霖之助の朴念仁ぷりを背景に、ナルシストと化したことの理由付けも明確でしたし、まあ惚れ薬の効能も大きいんでしょうけど実はほんとにナルシストの素質あるんじゃないかと思えるくらいでした。
 読み返してみるとかなり長い分量なのに、そう感じさせないところも上手い。
 あと魔理沙が超乙女でした。しょうがないからそのスープは私が頂こう。
18. 6 八重結界 ■2008/11/01 18:39:29
霖之助が良い意味で気持ち悪かったです。
ただ、裸エプロンに目もくれない霖之助には殺意が沸きました。変われ。
19. 4 つくね ■2008/11/01 20:36:51
うん、綺麗に終わって何より。しかし裸エプロン見た香霖への嫉妬と怨嗟の声よ届け。
20. 5 木村圭 ■2008/11/01 21:53:17
きめぇ(誉め言葉です
ギャグに走らず淡々と気持ち悪い描写を続ける根性と技量に惜しみない拍手をば(誉め言葉ですよ
21. 7 blankii ■2008/11/01 22:19:14
キ・モ・イ(超絶褒め言葉)。
ナルシスも最期は湖に沈んだんでしたっけ? 描写が非常にうまくて光景が想像されて――さらにキモイ。
ああもう、前半を読んで魔理沙とのキャッキャウフフを期待してしまった俺の煩悩は何処に行けば良いのか――。謝罪と賠償とそんな新作をす(ry
22. 8 リコーダー ■2008/11/01 22:49:57
いやはや。なんか薬のせいに見えないぞ。
肉体美を誇示しながら猶も常識人ぶる香霖にいい意味で殺意が湧いた。
23. 7 時計屋 ■2008/11/01 23:45:21
乙女な魔理沙に悶えてたら、途中から別の意味の悶えのた打ち回る羽目に……。
特に香霖の裸体の精緻な描写は思わず目を背けたくなるほどの出来でした。
やっぱり香霖はこうでなくっちゃ、……とは思っていなかったはずなのにそう思わせてしまうほどに。
24. 2 Id ■2008/11/01 23:49:55
いろんな意味で自己完結が過ぎるといいますか、読者全体を見通した面白みに欠けます。ウィットに富んだ会話もギャグを安っぽくしないために必須でしょう。
25. 9 774 ■2008/11/01 23:58:08
凄く美しい作品だったと思います。いや登場人物じゃなくて展開や演出や表現が。
非常に面白かったです。これだけやっておいてラストが異様にキレイなのも良いですね。

> そろそろ書いてる側も精神的にキツくなってきたことだし
いやなんていうか、お疲れ様ですw
26. フリーレス 名無し ■2008/11/04 00:35:39
立派なホームページをお持ちの様なので、そちらでだけ書いてください。
27. フリーレス きつつきけい ■2008/11/04 02:46:18
ご拝読戴き、真に有難う御座いました。

正直こんなネタなので書こうかどうしようか九月末日まで迷っていましたが……楽しんでくださる方がいて、思い切って投稿してみてよかったなあ、と思います。
水仙の毒に中ってしまわれた方には、どうかご容赦を。

話の流れや時間的都合から「裸エプロンのまま飛び出した魔理沙がにとりに出くわすまでの顛末」や「サニー・ルナのサポートを得て化けたものの、必死に追い縋る霖之助からマジ泣きしながら逃げ惑うスターサファイア」のくだりが闇に抹消されてしまいましたが、それはまた別なお話。

さてこのSSは「僕が一番セクシー」にその全てが集約されている(と思う)のですが、これは『やらないか』で極一部に大人気なヤマジュンこと山川純一氏作『俺がいちばんセクシー』のオマージュでした。
という訳で、もう自分で言ってしまう事にします。
この作品のテーマは「水も滴る ウホッ! いい男……」!
……「水」で真っ先にこれが思い浮かんだ不届き者は、また叱られないうちに帰ろうと思いますノシ

それでは。
こんぺは第一回目以来三年ぶりの、きつつきけいこと輝月 螢でした。
28. フリーレス きつつきけい ■2008/11/25 19:00:49
・`) …コソーリ
|つ ttp://3.5aeons.nth.jpn.ch/ss/Suisenka_illust.html
|彡サッ
29. フリーレス わたのはら ■2009/03/19 06:20:43
魔理沙は私の嫁!
今も隣で(ry
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