水辺に宿る想いとは〜The Riverside story

作品集: 最新 投稿日時: 2008/10/05 04:40:14 更新日時: 2008/11/06 13:39:53 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00
水辺に宿る想いとは〜The Riverside story

第壱章≪体の記憶、0の記憶≫

八か所に吊り下げられた間接照明が、狭いマホガニーの机を山吹色に浮かび上がらせて、煙がかった少女の意識を、より深い眠りの水底へと誘う。
 彼女の手元では、飲みかけの紅茶がティーカップの中で、血よりも紅いワインレッドの海を作って揺れていた。

――――静かに、静かに時間が沈降する夜


…少女はゆっくりと動きだした。

 彼女の細い指先が机の淵を伝うと、まだ温かみの残っているそれにそっと伸びて、口元に引き寄せた。

ごくり…

白い喉が、一口また一口と嚥下するたびに、艶めかしく上下した。

――――きっと、ここからは見えないが、夜空は一面、星の銀世界なんでしょうね…

ぽってりと白い輝くランプが二つ、少女の瞳に揺らいで映る。
 薄紫色のナイトキャップが彼女の長い髪からつるりと滑って、床に落ちた。

 『そう…また眠ってしまったの…一日の長さは限られているのに―――もったいない。』

…一息ついた。徐々に体が、心が、落ち着いてくるのが分かる。
…紅茶の香りが、彼女の体の隅々まで染み込んでいく。

彼女は伸びをした。いい加減、自分に嫌気が挿してきた。最近よくあるのだ。

『おや、まだお目覚めでしたか?パチュリー様。』

咲夜だ。いつから居たのだろう。気がつけば、後ろにいた。

さすがは瀟洒と言うだけのことはある。起こさないように、彼女なりに配慮していたのだろうか。だが、やや伏せ目がちな瞼に浮かぶ暗い色は、心配の現れだろうか…曇硝子のような危うさを秘めて、パチュリーの心に、ぐさりと突き刺さった。

…コポポポポ…

空になったティーカップに、再び熱い紅茶が満たされる。

それそのものが、小宇宙であるヴワル魔法図書館の天井に、温かな紅茶の湯気が、良い香りを携えて拡がってゆく。その中に包まれてうたた寝するのも、あながち悪いことではあるまい。…少しだけ、パチュリーの顔は緩んだ。

…カチャリ…

『今日はもうお休みになった方が良いと思いますよ?夜が明けてしまいます。』
『そうね。有難う、咲夜。』

平坦な抑揚のない声が、咲夜の耳朶を打つ。咲夜はそれを聞き届けると、表情一つ変えずに踵を返えすと、扉の向こうに消えていった。

――――ありがとう…咲夜…

それからというと、残された少女はぼんやりと壁を見つめて、無意識の海を泳いでいた。


再び空になったティーカップは、まだ温かかった…


―――それから…半刻が経過した

パチュリーと呼ばれた少女は身じろぎもせずに、先ほど見た夢に想いを巡らしていた。

半月ほど前から、同じ夢を見るようになっていた。
そして最近は、その頻度は増すばかりであった。

パチュリーの見る夢は、不思議な夢だった。

私はまるで衣服を纏うことなく、生身の体で人肌の温もりの中、丸く―――そう、母胎の中のような―――不思議な恍惚の中で、揺られていたような気がする。

打ち寄せる波に揺られ、椰子の実のように漂っていた私。

姿も、形も、寧ろ存在そのものが朧で希薄だった私。

しかし、本当に不思議だったのは、恐怖とか、当惑とか、そういった類のものではなく、あるのは幸福感という、限りなく正方向のベクトルが、自分の魂を温めていたということだった。誰かの優しい歌声が、まるで小鳥のさえずりのように響いていた。


『なんだったのだろう…あの感覚…』


見慣れない、しかし懐かしい感覚。透き通った自分の掌を通して、走馬灯のように見えてきた、幻想郷の光景。そしてそれらと溶け合う、あの連帯感。

『もしかして―――あれは私の体が覚えていた、身体の記憶だったのかもね。』

今ここに生きている私は当然、初めから” 私”として存在していたのではない。

私の体を作る元素は、雲の一部だった時代もあるかもしれない。

あるいは河の魚や、神社の鳥居と背中合わせだったことも、あったかもしれない。

無数の生物が生まれては死に、合成されては再び消滅する。

生き物たちの永遠の混じりあいが、今の私を作っている。


『私はパチュリー・ノーレッジという一人の女である前に―――』



パチュリーは目を瞑った。



『この星そのものなのでしょうね―――。』



パチュリーは再び眠りに落ちた。



第弐章≪そして三人が集まった≫

魔理沙とアリスは、ヴワル魔法図書館の中に降り立って、逡巡していた。
煙水晶の中を歩いているかのように、もやのかかった館内は、朝だというのに歩くのもおぼつかない場所だったが、問題はそこではなかった。

『おーい?パチュリー?仕方がないぜ。おい、アリス?ちょっと見て。』

魔理沙は床に落ちたナイトキャップを拾い上げると、埃を叩いて、パチュリーの頭にそっと乗せてやった。
魔理沙は始終、猫のような笑顔を絶やさなかった。

――――起こしてあげた方が、良いのだろうか…?


魔理沙は、今日の未明に起こったことを思い出していた…
■□■□
――――本日未明、魔理沙の部屋。

魔理沙は白いシーツにくるまって、眠ろうとしていた。だが、中々寝付けないで、天の川を見上げては、ぼんやりと星の数を数えていた。その隣では、アリスが気持ちの良い寝息を立てて、すでに眠りに落ちていた。まるで、童のような寝顔だった。

星降る夜、とはよく言ったものだった。

白銀の大河の中に、青い星や赤い星が混じって、複雑な文様を描いている。

――――ふふっ、ヨダカっていいよな。夜行性で、この星空の中を自由気ままに飛び回るんだろう?誰もいない天空を、たったひとりで独り占めか。おつなものだぜ…


…そんな時だった

魔理沙の枕元に、蛍のような光が明滅しながら現れた。

直ちに視線を走らせる魔理沙。正直、ぎょっとした。
その蛍の様な発光体は、淡青色の光の尾を引いて飛び回った。そして、それは彼女の目の前で、淡く輝く魔法陣に変化して、空中に制止した。

――――ッッッ!?

魔理沙は、がばっとアリスを抱きかかえると、そのまま飛びのいて、目を見開いた。
夜の闇に目が慣れてくると、例の魔法陣の真ん中に、一通の手紙が浮遊しているのが見えてきた…




『なにしているの…魔理沙あ…?』

魔理沙の胸に顔をうずめて、アリスは丸く伸び切った声で呟くと、ぷるぷると身震いをして、暢気にあくびをした。
■□■□

魔理沙は、意識を目の前の少女に戻した。回想は、もう終わりだ。

実はもう朝だったが、相変わらずのモノトーンの世界が、館内を支配していた。たった一つ開け放たれた扉からの光が、パチュリーの腰から尻に至る細くゆるやかな稜線を、艶やかに透かして魅せた。

繊細な硝子細工とでも言ったならば、きっと褒め過ぎとパチュリーはそっぽを向くだろう。…頬を染めて、な…ふふ

だが、それほど大袈裟な表現ではあるまい。
魔理沙は、パチュリーの手元に置かれた魔導書の埃を、そっと指先で弾くと、すこやかに上下する彼女のうすい肩に、思わず笑みをこぼした。

そこへアリスが近づいてきた。そして、彼女はパチュリーのよく手入れされた前髪を、そっとかきあげた。きっと、アリスも魔理沙と似たような感慨にふけっていたのだろうか。

柔らかいフローラの香りが、アリスの鼻腔をくすぐる。
アリスも魔理沙と同じような、淡い笑みを浮かべてそこに立っていた。

『満ち足りた顔、って言うのかしらね。私の瞳が写真機ならばね、このワンシーンだけ切り取って宝物にしたいくらい。』
紅いカチューシャを片手で直しながらうっとりするアリス。魔理沙は横目でそれを見て、くすっと笑った。

――――アリスもずいぶんと粋なことを言うぜ…

『おや、存外詩人なんだなあ…アリスは?』
『?』
それを聞き届けると、アリスはしばらく「ほえっ?」という顔をしていたが、ワンテンポ遅れて何かに思い当ったようだ。

…突然はっとした顔をして、魔理沙に拳を振り上げて、そのままの勢いで襲いかかる。

『キャアアア―!』
『アレレレレ―!』
上海人形と蓬莱人形が、アリスの肩から転げ落ちて悲鳴をあげた。

『もう、魔理沙はそうやって、いつも人のこと、からかうんだからっ!』
アリスは爆裂した。

『ほお?アリスは、私にからかわれる様な可笑しなことをやった自覚があるんだな?』
魔理沙の猫の様な笑みは、より一層、深まるばかりだった。

『ほら、またあ―――っ!』

誰だって、良い言葉が思いついたら、ついつい口に出して話してみたくなるものだ。しかし、不覚にもその子供心を指摘されてしまうと、もう、やり場のない恥ずかしさに似た感情に支配されて、脳汁が沸騰してしまうのだ。

――――はあぁ…っ

…と、そんな折、大きな溜息が背後で聞こえた。燭台の上に載った蝋燭の炎が、危うげに揺れた。

残り二人は硬直した。…パチュリーは目を覚ましたようだ。
あれ、あるいは…ずっと起きていたのか?あれ?

『ほんとうにしょうがない子達ね。朝の気だるさを味わう時間すら、貴女たちは与えてくれないの?』

パチュリーはスローのコマ送りのように、ゆったりと背中を真っ直ぐにすると、両手を掲げて伸びをした。壁に映った彼女の影が、蝋燭の炎と合わせてゆらゆら揺れる。

『…本当に、忙しいこと。』
そして、その少女…パチュリーは床に落ちたナイトキャップを拾おうとして、それが自分の頭の上に乗っていることに気がついた。

――――あれ…おかしい

魔理沙が大股で一歩、パチュリーに詰め寄る。そして、パチュリーと正面から目を合わせると、彼女は、自分の頭をこんこん人差し指で突きついてみせた。

――――あ…
軽く舌を出して、パチュリーに向かってウインクする魔理沙。「やったぜ」とでも言いたげな顔をしていた……パチュリーは軽く狼狽する。

『あ、あっ―――あう、有難う…』

遠い空から二胡の音が聴こえる。美鈴だろう。そうか、朝だ。もう朝になったんだ。

――――あれからずいぶん、眠っていたようね…

パチュリーは思わず、伏せ目になった。手慰みに引き寄せた空のティーカップは、もう既に冷え切っていた。彼女の長い睫毛が、ほの暗い影を落とし、そして彼女の頬は薄く桜色に染まる。

…場の主導権を握られてしまった、困惑のためであった。照れもあったかもしれない。

一方…安楽椅子に半ば埋まっているパチュリーを、ゆったりと見下ろす魔理沙。

『どおいたしまして―――で本題だが、私たち二人を揃いも揃って両方呼ぶなんて、どういうことだパチュリー?珍しいなあ…ん?』

彼女は肘掛に手をつくと、パチュリーの身体に覆いかぶさるように前体を折って、顔を近づけた。真夜中に手紙を送ってくるくらいだ…何かあるに、違いない。

『ワア、ヒサアシィブリー!』
『オシサシブリ?』

上海人形と蓬莱人形は、魔理沙の背中によじ登って、彼女の肩越しにパチュリーをじっと見つめた。その無垢な視線の先の少女は、腕を突っ張り、肩を強張らせ、しかも息が荒く、頬もますます赤い。……パチュリーは、おそるおそる口を開いた。

『ちょっと―――魔理沙…やめて、じつは二人に話したいことができたの―――』
そう言うと、彼女はふっ、と横を向いて、気まずそうに目を背けてしまった…

『へ?』
パチュリーが?それは珍しい。パチュリーのモノトーンでかすれる様な低い声に、二人の少女は頭上に大きな疑問符を浮かべた。アリスも呼ばれたということは、魔理沙の盗んでいった本に関することでは、あるまい。では、何だろうか?

そうしているうちに、パチュリーは魔理沙を押しのけると、一人図書館の奥へ歩いて行く。たまに立ち止まっては、後ろを振り返り、彼女の唇が「ついてきなさい」と震えた。

アリスと魔理沙は、先をゆくパチュリーの背中を見ながら、やっと歩きだした。外から聴こえる美鈴の二胡が、少女たちの背中をさらに後押しする。

黙ってパチュリーは、重い黒壇の扉を押しあけた。…その先は、彼女の私室である。





そうして三人は、扉の向こう側へと消えていった…
■□■□

――――ここはパチュリーの私室。

無数の銀時計が時を刻み、歯車の噛み合う音が一種の音楽になっている。視線の端では、数え切れないほどの水銀計が、各地の温度や湿度、気圧を示して明滅していた。

また、ジャムの瓶に押し込まれたシャボン玉が、複雑な七色のコントラストの微光を放って、円卓の真ん中で輝いている。

…雰囲気は、不思議なアクアリウムの中に居る感じに、似ているだろうか。

アンティーク風の戸棚には簡素に、書物やメモ書きを綴じた物が納められており、装飾品の類は、あまり見かけなかった。
置いてあったフラスコの中では、星座が時々刻々と、何かを告げているように回転する。魔理沙が目を輝かせてそれに気を取られていると、パチュリーは「ああ、それは夜の間に閉じ込めておいた、宇宙の断片よ」と説明してくれた。まさに、魔法使いの居室である。

しばらくパチュリーは、魔理沙とアリスが落ち着くのを待った。そして、部屋の中を歩き回っていた二人が席に着くのを待って、自らも椅子に腰を落ち着けた。

そこでパチュリーはようやく、円卓に向かい合った残りの二人に、最近よく見るようになった、例の不思議な夢について、なるべく詳しく、誤解の無いように語り出した。

 魔理沙とアリスは黙って耳を傾けた…

――――銀時計の長針が一周し、重々しい鐘の音が、新しい刻の到来を告げた。

…パチュリーは一通り説明を終え、一息ついた。

魔理沙が口を開いた。
『へえええ…でもさ、要するに、パチュリーは大したロマンティストってことか?』
一部始終、押し黙って耳を傾けていた二人だったが、結局、第一声はそれだった。

パチュリーは能面のまま、相変わらずの無表情。一方のアリスも黙って、紅茶に映った自分の顔を見つめて動かなかった。結局、魔理沙だけがただ一人、そわそわしている感じだった。魔理沙以外は二人とも、無為に時間だけが過ぎて行くことに身を任せている。

――――じれったい…
 
 魔理沙は手の中にかいた汗を、円卓の下でスカートになすり付けながら、イライラした。
 結論が見えない。パチュリーは、何を考えて、こんなことを告白しているのだろうか…?

『魔法使いはね―――』
ようやく沈黙を破ったのは、パチュリー・ノーレッジ、その人だった。

『――いかなる人間や妖怪よりも、魂の”揺らぎ”や、無言の”叫び”に敏感なの。魔法使いは、万物の気質を操る種族だから。』
パチュリーは一旦言葉を切ると、魔理沙とアリスを交互に見た。

『――で、パチュリーは何が言いたいんだ?』
魔理沙は、ますますじれったそうに脚と脚を擦り合わせながら、パチュリーを促した。

パチュリーは難しいことを、難しいままに説明する癖がある。
おかげで謎が謎を呼び、伏線が伏線を暗示する。



―――はやく、結論に至りたい…いや、待て。パチュリーは何か企んでいるな…?

…再び時間だけが過ぎていく。

アリスはパチュリーの寝台にあった黒猫のぬいぐるみが、魔理沙の膝の上に移動していることに、気がついた。
黒猫のいたずらっぽい顔が眼に入る。さらに、それがそのまま人間になったような少女の顔も。……魔理沙の目には、妖しく光る二つの炎。

魔理沙は退屈な振りをして、何かを感じ取ったのだろうか…?

『パチュリー?貴女、何かに気が付いたのでしょう。それは何?』
アリスもやっと、口を開いた。自分なりに、魔理沙を援護したつもりである。

『キャア?』
見ると手元で、上海人形がアリスの飲みかけの紅茶に角砂糖を放りこもうとしていた。指先でほっぺを突いて止めると、上海人形は円卓の上で尻もちをつく。

アリスはふと考えながら、パチュリーに目を合わせた。
そこで、パチュリーは口を開いた。やや強い口調は、彼女の強い感情の表れだった。
『…何かに呼ばれている気がする。この夢は…きっと、何かの予兆…』

沈んだ半眼の瞳が、アリスの顔に向けられる。しかし、その視線は限りなく強かった。
 
『何に…?いや、何の……??』
アリスは即、聞き返した。意味が分からない。こんどは、魔理沙の方を見た。

―――――っ!!!

『そうかっっ!!つまり、異変ってことだなっ!だろ?な、そうだろ、パチュリー?』
『イタアイッ!』

一方の魔理沙は即座に、自分の推論を叩き出した。いたってシンプルな彼女のロジックは、最短距離で解を弾き出す。魔理沙の、勢い良く立ち上がった振動で、机の上にいた蓬莱人形が横に転げた。三つのティーカップから、紅い雫が跳ね散った。

パチュリーは開いていた分厚い書物をバタン、と閉じると、独特の上目遣いの半眼で、魔理沙を穴があく程、見つめた。

奥の方で、水銀計の歯車がカチリとなると同時に、パチュリーの声が、毎度お馴染みのモノトーンで響いた。…幽かな残響。
『…そうとは、確定できない。でも、行かなければならない気がするわ…魔理沙』

パチュリーの返答は、魔理沙の期待に十分沿うものであったようだ。
魔理沙はニヤリとやり返す。…パチュリーはさらに続けた。

『――人里の方にね、行ってみましょう…。あそこは、人間も妖怪も沢山集う場所。ああいう処には、物の「気」が集まりやすいの。あてずっぽうに探るよりは、先ず人里を当たってみるのが、良いと思う。』
パチュリーの言葉の語尾には、強いアクセントがあった。彼女の顔には珍しく、覇気が現れ、彼女の意気込みが並みのものではないことは、確認するまでもなかった。

『…それじゃ、決まりだな。じゃ、早く行ってみようぜ。さくっとな。』
 魔理沙は机の上に猫のぬいぐるみを置くと、そのまま黒壇の扉に駆け足で近づいた。

 『そうしましょう。』
『ええ。』

残りの二人も魔理沙に倣った。






だがこれは、壮大な冒険のほんの始まりの一つに、過ぎなかった…

参章≪出撃、そして邂逅≫

―――魔理沙と愉快な仲間たち。

白く糸を引く雲が、幾重にも連なる秋の空…実に心地が良かった。
紅魔館の時計楼の頂上に姿を現した三人の少女は、天蓋にぽっかりうかんだ黄色い太陽に、目を細めた。
…魔理沙は、風を掴んだ

――――いくぜ…?

三人は一斉に離陸した。

だがその直後、何を間違えたのか、三人はそのまま霧の湖に突っ込んでしまった。
 重力加速度を置き去りにした視界が、殺人的な速さで回転すると、上下も左右も、全ての感覚が霧散して、三半規官は存在意義を失った。

『わわわっ!ちょっと魔理沙、高度を上げなさいよ!!いやあああああっ!』
…魔理沙の箒に残りの二人が争うようにして跨ったため、箒の機嫌が斜めだったのだ。

アリスは、頭のてっぺんから抜けるような金切り声を、始終上げていた。

すると、どうだろう。今度はガクン、という衝撃と共に三人は激しくバウンドして、湖面すれすれの低空飛行に移行した。湖が十戒の如く真二つに割れ、魔理沙の箒から溢れ出る恋星(れんせい)の波動が、音速を置き去りにした。
 

『酷い、うう、う…っ』
アリスは胸に抱いたグリモワールにぐっと十の爪を食いこませた。
…すこし涙目である。
『ああ、確かに酷いもんだぜ。』
魔理沙は、さっきから前を向いたっきり、ザラザラした返事しか返さない。
『全くね、この乗り心地の悪さ。』
パチュリーは言葉と裏腹に、うっとり何かに酔ったような眼をしている。またたびを投げられた、まるで猫のようであった。

…しばしば魔理沙の箒が道産子の如く、猛烈な身震いや横揺れを発生させた。

だが、魔理沙の腰に両腕を回して、彼女の背に横顔を押しつけているパチュリーは、完全に平気だった。…最後尾で涙目になっているアリスを余所に、間に挟まれた彼女はむしろ、幸せそうだったのだ。


――――ったくどいつも、こいつも…

魔理沙は心の中で小さく舌打ちをした。…すると、それに呼応して、箒が爆発した。

箒の後ろからバーストする星屑の銀河が、幻想郷の空に白昼の天の川を創り出す。
急激に高度を上昇させる箒が、やがて雲の層を突き破った…。Gと慣性の暴力が、箒の上の三人に、容赦なく襲いかかる。アリスは箒から落ちそうになって、顔面を鞭打つ風圧の暴力に、歯を食いしばっていた。

…そして、あっという間に三人は湖を越え、山脈も越えて、人里の方角にひたすら驀進した。…足元では雲海が、猛烈な速度で前から後ろに流れていく。

アリスは脚を伸ばして、すぐ下の雲を蹴ってみた。それはしっとりとした感触を残して、溶けたバターのようにスーと切れていった。




―――散々だ。

アリスは出来た雲の切れ目から、何となく下の風景を覗いてみた。すると…


『え……ッッッ?なによ、これ…』


アリスは、言葉を失った。それに反応したパチュリーは、がばっと足元を覗き込むと、途端に真っ青になる。見える筈のものが、そこには見えなかった。

そこに広がっていたものは…

『どうした?顔がブルーハワイだぜ?』

魔理沙がチラっと後ろを見て言った。しかし、箒の操縦に集中するあまり魔理沙が気が付けなかったものを、パチュリーは気がついてしまった。アリスも黙って、眼下に広がる光景をひたすらに凝視していた。






遙か眼下に広がる光景。………それは広大な砂の大海原であった。

嘗て人里を囲んでいた豊かな田園地帯は、完全に砂の海の中に消えていた。

莫大な量の砂がまるで津波のように波打つと、小さな砂丘が、より大きな砂丘にのみ込まれて消滅する。真っ白な世界の、まさにそれは食物連鎖だった。

だが、異変はそこに留まらなかった。

…なんと、その砂の海の中から、人の声がしたのだ。

―――タスケテ、ココカラダシテ

―――イケナイ、ココカラニゲテ

『なんだ、パチュリー、いやアリス?今何か喋ったか?』
魔理沙の鋭い目が、後ろの二人に突き刺さる。

―――タスケテ、タスケテ、タスケニキテ

―――イケナイ、モドッテ

『ちがうわ、この声、私が夢の中で聞いた声よ!』
パチュリーの背中を、一筋の冷たい汗が伝った。

―――タスケニキテ

―――モドレ、ハヤクモドッテ


『いったい、どっちなのよ。わけわからないじゃない!』
アリスはこめかみを、がばっと抑えた。…この声は、耳で聞いている声ではなかった。誰かに頭蓋を開けられて、直接脳の中で話をされているような、なんとも薄気味悪い感じだったのだ。

『ホオラーイモ、キコエルネ?』
『ウン、キコエルー!』

上海人形と蓬莱人形が、手と手を取り合って見つめ合った。

『おい、降りる準備しろ!』
魔理沙が怒鳴った。



いよいよ地平の果てに見えてきた人里に向けて、箒の先が下がり始めた。

四章≪役者、集う≫

―――これは、三人が出発する前日の話である。

 夜半を過ぎる頃だった。

―――ざわざわ、ざわざわ

とてもとても強い風が吹いて、木々が苦悶に身をよじる。方々で犬達が遠吠えを一斉に始め、丹塗りの鳥居にいた一匹の蜻蛉が、錐揉みしながら、暗黒の空に吸い込まれていた。

幻想郷で最も古い歴史を誇る最大の人里、その中で軒を連ねる黒瓦の家々、その裏庭に生えた椿の木々、風に吹かれて転がって行くだけの下駄…。

―――その全てをねっとりと包み込んで、それは奇妙に生温い、異形の風であった。

これまでも確かに、人里の天候は優れなかった。だが、それほど格別に問題視しなければいけない事も、無かったのである。

人里の外れにある上白沢邸では、慧音が遠来の客人を迎えて、ささやかな宴が催されていた。その果てた後も、あちらこちらの家々では、相変わらず賑やかな声が響いていた。

そして今は、それらがようやく静まりかえって、人里も漸くひっそりと眠りに就いたばかりだった。だが、異変はこれからが序章であったのだ、

―――ざわざわ、ざわざわ

深更を回ってより後、次第に何とも表現しがたい、薄く紗幕のかかった様な禍々しい気配が、人里の一角から少しずつ、少しずつ、滲み出るように拡大し、遂に人里全体を覆い尽くしていった。

木々は根こそぎ倒れて、納屋に繋がれた馬達が、断末魔にも似た声を上げて暴れ出す。人々の浅い眠りは、完全に破られた。

乳飲み子が突然、火の着いたように泣き出して、脅えて母親の胸にすがりつく。

―――しかし、

不安に駆られた屈強な男たちが、鞘から刀を次々に抜いて、外に飛び出してみても、風が強い他に、何の異変はない。

異形の怪物が闇より現れるわけでもなく、時折雲間から見える月は、普段と同じ月であった。男たちは、手にした刀を鞘に収めると、とぼとぼと我が家の扉へ歩いて行く。

そして男たちは、寝所に戻ると、子供を抱きしめて不安げに待つ妻たちを安心させようとした。だが、妻たちは首を横に振り、子供たちも泣きやまなかった。

暴れる馬たちも、遠吠えする犬たちも、益々その度合いを強めるばかりで、一行に止める素振りすらしない。


―――――ッ!!

その時、上白沢慧音は異様な感覚に目を覚ました。耳に綿を詰められて、目は手で覆われ、肌に感じる温もりも、ボッテリとした厚手の布に包まれたような…そんな感覚に襲われて、無意識に体を震わせた。

『ううッ…!!』

周囲全ての質感さえ失われて、虚無の空間に放り出されたような気がしたのだ。
慧音は布団を蹴り上げて、飛び起きた。心臓の音が、耳の奥から聞こえてくる。

だが直ぐに、自分の手首を掴む温かな感触に、我に返った。

『けーね?どおしたの?もう夜も遅いから、寝よ…?』
『ごめん…ね…』

慧音は、障子を押しあけると窓の外を見上げた。

―――ざわざわ、ざわざわ

雲の流れが疾い。

慧音は障子を閉めると、布団に潜り込んだ。握りしめた友の手の温もりは、この上ない安心感となって、彼女の胸に流れ込むのであった。

■□■□

―――朝がやってきた












『うっ…これは如何すれば良いのだ…』


その素養と学識の高さ(加えてその美貌)によって、多くの人間の信頼を一身に受ける上白沢慧音は唖然として、寺子屋を兼ねた自身の家の二階から、様変わりした近郊の風景を眺めていた。

彼女の寺子屋には普段の生徒以外に沢山の人里の者たちが集まって、彼女に教えを乞うていた。いや、中には全く関係のない妖怪の姿すらある。

―――慧音は、自分の正気を疑った。


慧音の握りしめた遠眼鏡の中で、砂丘の群れが、海の波のように躍動していたのだ。



『慧音先生っ…我ら一同、どうしたら良いのでございましょうか…!』

慧音は、完全に混乱していた。村人たちに嘗てこのようなことがあったか、一応聞いてみようと思ったが、当然知っているはずはない。そもそも、自分はこんな歴史を知らないのだ。

―――奇妙だ。
こんな歴史、私がデリートしてくれる…と何度、心の中で叫んだことか。

『申し訳ない…時間をくれ…この私にも解らぬことがあるとは…』
慧音の握った掌に爪が食い込んで、鮮血が滲んだ。自分はどうしようもなく無力だった。

『けーね?なあ、独りで全てを抱え込まないで。…悪い癖だ』
隣にいる銀髪の少女は、不良然と両手をポケットに突っ込んで、心配そうに話しかけた。その目には、荒れ狂う砂の海と、その輻射熱による蜃気楼が映っていた。


…蜃気楼の中では一本の川が、陽炎に合わせてのた打ち回っているように見えた。


『では、妹紅。妹紅には何か策はあるのか?』


慧音は、妹紅を振り向いて尋ねる。窓辺に吊るした風鈴が、仮初めの涼しさを演じた。
曇りのない硝子の音が、その場限りの癒しを与えてくれる。


慧音は絶えず動かしていた団扇を止めると、むんっ、と暑さがぶり返して、団扇を持ちかえて再び扇ぎ始めた。今度は妹紅にも風を送ってやる。

『…ごめんなさい。』
妹紅は慧音を見なかった。
彼女の霞むような声が、彼女の背中から聞こえただけだった。

『…妹紅、気にするな』
慧音は口元をゆるめると、団扇を仰ぐ手を休めずに、出来る限りの優しい声で答えてやった…つもりだった。

だが、慧音の声に含まれた落胆の響きを、妹紅が気がつかないはずはなかった。


『…いや、気にする。何もできないのは、嫌だよ。』
妹紅は、慧音に歩み寄ると、海よりも深いため息をついて、その背中に自らの背中を預けて目を瞑った。

無力。無力とは、これ程に不甲斐無いものだったのか…!




―――その時だった。



『おーい!なんなんだぜ〜〜その不景気な面〜〜っ??』



猛烈なドップラー効果をかけて、天空から懐かしい泥棒猫の声がした。何かの魔法で、声を拡大しているのだろう。奇妙な波形のビブラートが耳に優しくない響きを、容赦なく叩きつけてくる。

この声…魔理沙か…!

慧音は遠眼鏡を巡らすと、雲の間に焦点を合わせた。その隣で腕を組む妹紅は、憎たらしいほどに青く澄み渡った空を睨み上げて、一言怒鳴った。

『けーね!もっと上だっ!』
『…ッッッ!?』

上白沢邸に居合わせた者はみな、あんぐりと口を開けて、言葉を失った。


そいつは、例えるなら、特大の彗星だったのだ。


雲の間から、別の雲を巻きつけた明滅する高速移動物体が、銀河の尻尾をたなびかせて、殺人的な速度で接近してくる。

聞こえてくるこの轟音は、これが俗にいう”ソニックブーム”という奴だろうか?

魔法の箒はみるみる大きくなると、(徐々に減速はしているようだが)かなりの速度で、こちらに突入してくる。このままでは、こちらも危ない。

『恨むな…』
妹紅の手に、紅蓮の火球が召喚される。包む陽炎が渦巻いて、正確に攻撃目標に狙いを定める。

『うあああっ…っっっ!!!』
寺子屋の二階に一堂に会した皆の衆は、人妖問わず入り乱れて、一目散に階下へ逃げようとした。

『許せえええええええっ!』
―――間に合わない!

ドンガラガラドッシャーンッ…ムキュー!!

特大彗星は、妹紅の頭上を掠めると、寺子屋の屋根をぶち抜いて停止した。

目の前にひっくり返る四人。

そこへたった一人、歩み寄る少女がいた。木端微塵になった家具類が、実に痛々しい。

『…魔理沙。』
慧音だった。妹紅の方は、新しく加わった三人に混じって、床にめり込んでいる。

『人の家を壊してしまったわけだが…』
慧音は腰に手を当てて、柳のような眉を吊り上げる。

『…どうしてくれるんだ?』

魔理沙が、エプロンドレスを叩きながら、むっくりと体を起こした。

『大丈夫だぜ。この分じゃ、滅多に雨なんぞ降らないだろう?心配無用だぜ。』

「…っち、この説教、山田のようだぜ」という魔理沙のぼやきが聞こえてか、聞こえないでか、慧音は次の言葉を選んでいた。慧音はめまいのしそうな惨状に目をそらすと、溜息をついて口を開いた。

『ここまでして人里に現れたのだから、なにか策があるのだろう?』
慧音は少しだけ期待を込めた声と視線で、魔理沙を見下ろした。

『策…?』
魔理沙は床に尻もちをついて、聞き返した。きょとんと、溶けたような無邪気な目が、慧音のつり上がった目に注がれる。だが、その後ろで声が聞こえた。
『策かどうかは分からない…けど、関連のありそうなことなら…思い当たる…』
『ワア!』
『キャアア!』

魔理沙に続いて、パチュリーが起き上がった。だが、すぐよろけて手を床につけると、四つ這いになって咳きこむ。だが、パチュリーは顔だけは起こして、慧音をしっかり見据えて語った。

……慧音は、パチュリーに歩み寄る。

『是非とも、そのお話、聞かせて下さい。』
慧音は促した。パチュリーも、ゆっくりと口を開く。

パチュリーは、此処に至るまでの経緯を、慧音に説明することにした。

この頃見るようになった夢のこと、道中で聞いた悲壮な叫び…そして、両者は決して無縁ではないと思われること。

―――慧音は、興味深げに頷いていた。

一方、その後ろでは、アリス・マーガトロイドが、しゃくりあげながら「こわかった…こわかったの…」と、復活した妹紅に抱きしめられて、さめざめと泣いていた。

妹紅が、手拭いでそっと、アリスの頬を拭ってやる。

(…妹紅は、いつもこんなことを慧音にしているのかな…存外、イイ奴じゃないか。)
魔理沙はその様子を見ながら、靴を脱いで端に寄せる。ここは日本家屋なので、土足は厳禁だ。パチュリーや泣いているアリスも、さりげなくそれに倣う。


『妹紅さん、あのね…っ…有難う…えっ、えっく…えぐっ…』

アリスは妹紅の胸から顔を離すと、焦点の合わない、開ききった瞳孔で下を向いて、尻もちをついたまま動かなくなった。肩だけが小刻みに揺れていた。

『流す涙も枯れてしまったのね。いいんだよ。泣きたければ、泣けばいいよ。』

妹紅はアリスのスカーフを結びなおしてやると、軽く頭をぽんっ、と叩いた。彼女の緩くウェーブのかかった金髪が、上下にふさふさと揺れた。

『アリース?ダアジョオブ?シャンハーイ、イッショニイタゲルー!』
『ホラーイモ、イッショダアヨ?』

上海人形と蓬莱人形がトテトテ走り寄る様子を、魔理沙はそこに仁王立ちになって眺めていた。
妹紅の意外な側面を見られたので、魔理沙としてはやや満足だった。
だが、アリスは自分と出会ってから、益々脆弱になった気もしてならない。

魔理沙は、片足の裏で床を擦りながら、当惑を隠すことはできなかった。

『おい、魔理沙?』
妹紅の方は、魔理沙を一瞥すると、眼光を尖らせた。顎をしゃくって「さっさとアリスを慰めてやれ」と無言で訴えてくる。

魔理沙の心の中に、冷たいものが広がる。彼女は、軽く肩を竦(すく)めて、ふっと息を吐いた。……仕方ないか…お互い様かな…

『…ったくいつまで泣いてるんだぜ。なあ、パチュリー…あれ?』




魔理沙が振り向いてみると、パチュリーと上白沢慧音は既に、そこにはいなかった。

五章≪幻惑は過去を携えて≫
 『…ノーレッジさん』
上白沢慧音は、パチュリーを書斎へ通すと椅子をもう一つ用意しながら呼んだ。

『…パチュリー、でいいわ。それと、敬語無しで、お願い。嫌いなの。』
パチュリーも恭しく椅子を受け取ると、慧音に向かい合って、低い声で言い返した。

慧音の書斎は、見回す必要は、皆無である程に小体(こてい)な作りで、厚い暗幕の引かれた部屋の中では、白い等身大の行灯(あんどん)がぽってりと白い光を放っていた。

外の雑踏など無縁のこの書斎の中は、頼りない光と光の間に、闇が渦巻く。静寂を好むパチュリーにとって、懐かしさすら感じさせる佇まいであった。


 『申し訳ない。書物が痛むので、昼でも暗くしてあるのだよ。パチュリーさん。』

『いいえ、私はこの方が好きだわ。』


豪奢な作りの肘掛がある以外、実に質素だった。そこに肘を置き、何かを探る目つきでパチュリーを見る慧音は、彼女を試すような空気をわざと漂わせて、指先で顎の線をなぞっていた。

『もっと、私は…パチュリーさんの意見を聞いてみたい。』
第一声は、慧音が発した。薄く糸を引くような笑い。しかし、不思議と悪い印象を受けない。

『ええ、いいわ。何?』
パチュリーも、同じような笑みを浮かべて、返答した。

『パチュリーさんの聞いた声について…。ここに至る道中、二種類の言葉を聞いたそうだけど、両者は明らかに矛盾していないか?』

『「タスケテ、ココカラダシテ」と「イケナイ、ココカラニゲテ」ね。分かってる。』

パチュリーと慧音の探り合い。幻想郷きっての知識人二人が醸し出す重苦しい空気は、同時に倦怠感をも呼び起こした。だが、パチュリーは閉じかかる瞼を無理に開くと、慧音の目を正面から見つめ返した。

『私にも解らない。でもね、この言葉を解決しなければ、異変は解決できない気がする。声の発信者は、私に例の夢を見せた者と…おそらくは同一…。あの夢は、異変を起こしている者の、私たちへのメッセージかもしれない。』
 
パチュリーは、その後も何か続けようと思ったが、とりあえず慧音の反応を見ようと、一旦言葉を切った。慧音もパチュリーの話に、徐々に、そそられるものを感じていた。

『ふうん…実に興味深い。しかし、同一と思われる根拠は?』
慧音は期待するような声で、先を促す。後ろの方では、柱時計がノスタルジックな音色を響かせて、その文字盤に映った彼女の後ろ頭が期待に揺れていた。

しかし…
『声が同じだった。特に声から受ける、なんといえばいいの…感触。』

パチュリーの目に映る慧音の姿が、今度はいきなり、斜めに傾いた。彼女の白い手が、机の上にある筆に伸びると、それを指先で弄びはじめ、改めて、誰の目にも解る失望の色を顔に浮かべた。
そして、慧音は「結局、勘か…」と、歯と歯の間から漏れる様な声で、やるせない感情を表すと、一息ついてから、再びゆっくりと口を開いた。

『感触?それは解せないな…全く。パチュリーさんのご覧になった夢は、たいそう心地の良いものであったそうじゃ…ありませんか?しかしながら、道中で耳に…失礼…耳ではなかった…心で聴いた声は…どちらかというと悲壮な叫び。薄気味悪い印象を受けた、と…。受ける感触が、全く異質ように…思えるのだけど?』

ぼんやりと時計の文字盤を見つめていたパチュリーは、慧音の反応を受けて、こめかみを「ぴくっ」と痙攣させた。そして、焦点を慧音の顔に戻すと、こぼれかかってきた前髪を払う様に、勢い良く首を横に振った。

一瞬、行灯の光が「ジュッ」という音を立てて揺らいだ。

『ええ、確かに。でもね、慧音。貴女は誤解している。私が伝えたい「感触」とは、そういうものじゃない。例えば、貴女が目隠しをされて、私の…例えば嗚咽を聴いたとしても、また私の哄笑を聴いたとしても、どちらも私…パチュリー・ノーレッジより発せられたものだ、と分かるでしょう?それは何故?…慧音。そこよ?』

『…何故、か…?』
慧音は訝(いぶか)しむ。一方のパチュリーは、先ほどから殆ど表情の変化が無い。感情の起伏が全く見られないのは、別の意味で、感心させられる想いだった。


『それは、私…パチュリー・ノーレッジという魂から発せられた「感触」つまり、…分かりやすく言えば「質感」が共通するから、よ。』


―――ガチャ…

 一旦、言葉を切る慧音とパチュリー。

 魔理沙が無言で書斎に入ってきた。彼女の手に乗ったお盆には、二つの小鉢と二つの湯飲みが、温かな湯気を立てていた。

『慧音、悪いな。台所、勝手に使わせて頂いたぜ。』

二人の目の前に、小鉢と湯飲みが一つずつ置かれる。そこに箸を添えながら、魔理沙は口を開いた。一方のパチュリーと慧音は、黙念として一言も発しない。

『合鴨をスライスをして軽く炙ったものに、岩塩と山椒をまぶして白葱を添えたものだ。…じゃ、私は邪魔っぽいので、退散させてもらうぜ?後で話、聞かせろよ?パチュリー?』

言葉を失った二人が「はっ」と慌てて謝辞を述べようとした時には、もう既に魔理沙は「じゃ。」と扉の向こうに吸い込まれて、いなくなっていた。

しばらく、慧音は「ほぉ…」と小鉢を見つめ、同じようにしてパチュリーは赤い顔で俯いていたが、おもむろに慧音は顔を上げると、先ほどの話の続きをパチュリーに促した。

『…それで…?』

パチュリーも、自分の頬を平手で「ピシャッ」と打つと、急いで話を再開する。

『―――つまり、同じ魂から発せられた”気”は、喜怒哀楽は関係無く、同等の「感触」を持つ…だから、相手が如何なる様相にあったとしても、それが誰だか分かるの。だから、私と貴女が別人だと何時でも区別できるのも…同じ理由よ。』


『では、パチュリーさん?つまり貴女は、相手は魂を持った存在であり、それが、私たちに何かを伝えようと、行動を起こした結果が…例の夢であり、また、この異変でもある。―――そう、仰るわけですか。』

慧音は弄んでいた筆を置くと、身を乗り出してパチュリーを問い質した。

『…敬語禁止…。”さん”呼びも止めて…ええと、そう、そうね。概ね…その通りね。』

パチュリーはその輝く視線を避けると、顔を横に向けたまま答えた。

『や、でも、やっぱり分からない…な。何故、ううん、暫定的に、例の相手は”それ”と呼ぶことにしよう…何故、”それ”はパチュリーさん…ごめん、パチュリーの夢に現れることを選択したのか、思いつくかしら?』

慧音は、パチュリーが言葉を言い終わるか、言い終わらないかのタイミングで、直ちに畳みかけた。核心に至る前に、自らの疑念を払拭したかったのだ。

その気持ちに応えるかのように、パチュリーは直ぐに返答する。少しだけ、表情を和らげて、彼女は慧音の目を直視した。

『魔法使い、という種族は、元来、物の気質を操る種族。魂の「感触」とか、そういったものには、極めて敏感。何か、最初のメッセージを届ける相手としては、とても優れている。特に、私の専門は”属性魔法”という分野。妖精や精霊から力を借りる魔法。妖精も精霊も、言わば、自然の化身、自然その物。―――つまり、私は、自然界から力を借りていることになる。』

パチュリーは再び、慧音の反応を試すが如く、言葉を途中で切った。

『…それ、で?パチュリー。つづけて。』

慧音は堪らず、パチュリーをせかした。満足気に頷くパチュリーは、再び言葉を続ける。

『つまり、”それ”の正体は、自然の化身。そして彼、あるいは彼女が、メッセージを発したとき、魔法使いで且つ、その分野を専門とする私、パチュリーが、最も早くそのメッセージを受信できた…そう解釈すれば、辻褄(つじつま)が合うのではないかしら?』

パチュリーは「ほおっ」と息を吐くと、表情を崩して俯いた。極度の疲労が、胃の腑から込み上げて、やがて脳天にまで昇ってくるのを、彼女は自覚していた。

言いたかったことは、全て言い切った。後は、慧音と一緒に対策を考えよう…。


慧音に目で促すと、目の前の箸に手を置き、湯気を立てる小鉢を引き寄せた。


―――まさにその時だった。…天井から声がした。


『そう、その通り。でもね、貴女は何時も詰めが甘いの。』
虚ろに響く声は、嘲る様な余韻を残して、二人の心に冷たいものを注ぎこんだ。


二人は椅子から跳ね上がるように立つと、天井を見上げる。
周囲の景色がドロリと融解して、何もかもが質感を失う虚無感が、二人を包んだ。


『あんたは…!』
『何故、貴女がここに…!?』


声のした方向には、大きな空間の裂け目が、漆黒の唇をだらしなく開けて、内部では、世にも邪悪な歓喜の波動を打ち震わせる大小様々な眼球が、焦点の定まらない瞳孔で、二人を凝視していた。

そして、そこから白い腕が二本だけ伸びると、消え入りそうな笑みを口元に浮かべた、妙齢の美女が姿を現した。

『こんにちは…あらあら、珍しい取り合わせ、ね。』
その女性は、目をぱちぱちさせて、パチュリーを見た。




一方、パチュリーは、新たに現れた妖女に対して、声を荒らげて告げた。




『紫。貴女の戯れに付き合っている時間は、無いの。用があるなら、さっさと済ませて頂戴。』

紫と呼ばれた妖女はそれを聞くと、扇を薄く開いて、ゆったりと口元を隠す。

―――笑っている。

パチュリーは、苛立ってきた。無意識の底に沈んでいた焦りが、意識の表層に浮上してくる。それが喉元を突き上げて、血の気が引いた。

一時も無駄にせず、謎を解明しなければならないのに、なのに―――

だが彼女はそういう焦りとは裏腹に、目の前に佇む一人の妖女に、何かを期待している自分を、皮肉にも自覚してしまった。

そんな自分に、益々腹が立ってきた。

パチュリーの口元がきゅっと結ばれて、紫の手元を睨みつけると、紫は楽しそうに笑みを深めて、パチュリーと慧音を交互に見ながら、口を開いた。

『パチュリー。貴女の推測は正しい。でも、そこが行き止まり。』

紫はもったいぶる。悪い趣味だ。慧音は、すっと立ち上がると、毅然とした雰囲気を纏って、紫に相対して質問した。

『どうやら、貴女は、何かご存じのようですね。―――そうでしょう?』

緩慢な動きで空間をなぞっていた紫の手が、ふと止まった。彼女の目が慧音を見ると、慧音の瞳の奥に焦点を合わせて、三日月型になった。

その瞬間、慧音は、脳の裏側まで見透かされる錯覚に、脚が震えた。


『ええ、確かに。』
紫は、はっきりと答えた。

『ならば―――』
だが、慧音が次の言葉を言いかけた刹那、紫は扇を振ってそれを制し、口を開いた。

『―――蕭条として 石に日の入る 枯れ野かな』
紫が和歌を詠う。慧音は混乱した。
彼女は”スキマ”から身を乗り出すと、腕を伸ばして、慧音の顎を、指先で持ち上げる。

『慧音。この和歌の意味が解らない?』
悪戯に、紫は慧音に顔を近づけた。

『えっ…』

―――ゴクッ

慧音は唾を飲み下し、白い喉が上下に動く。

『見なさい。外の光景を。砂が湖のように波打ち、一つも緑の無くなった虚無の大地を。日が照らし出す陰影は、決して黄金の稲穂靡く平原ではない。延々と連なる石たちが、青く乾いた空を虚しく睨み上げる、無限砂漠だということを。』

―――トスッ

紫は、軽いステップで床に足をついた。

『わっ私は…』
慧音は息を飲んだ。

『まだ…解らないの…?』
紫はゆったりとした声で、さらに言った。

慧音も口を開いた。
『―――私は…パチュリーの考えを聞いているうちに、ある結論に至った。そして、今、貴女の言葉を聞いて、それは確信に至ったような気がする。』

慧音はもう一度、唾を大きく嚥下した。紫の指が、慧音の顎をより高く持ち上げ、一層二人の顔が近づいていく。

『それは、何?』
パチュリーは、椅子から腰を浮かせると、慧音を凝視した。




『今回の異変、異変を起こしている主は、おそらくあの砂の海の中に居る…っ!』




紫が軽やかなステップを踏んで、慧音から離れた。その身体が、無重力の最中(さなか)に在るかの様に柔らかく舞うと、その二本の腕が描く螺旋律が、一つの旋律となって宙に新しい裂け目を作った。



白く輝く、眩しい裂け目だった。

『―――御覧なさい…』



二人の少女は、徐々に目が慣れるにつれて、その光の奔流の中から、朧げな何かが、像を結んでゆくのを、はっきりと網膜に刻むことが出来た。



爽やかな快い風が、幾分かの温もりを持って、身体を、頬を撫でて過ぎた。

―――さわさわ…

柳の梢が歌を歌い、胡桃の葉の青い匂いがした。
そこには、小さな小さな小川が一本、流れていた。

水辺に佇む老夫婦。走り回る子供。
和傘をさして、それを眺める女性はおそらく、母親だろうか。

笑い声の満ちるその空間を、慧音とパチュリーは、食い入るように見つめていた。

―――何故だろう、どうしようもない…懐かしさ。

『時間は経ちて―――』

花菖蒲が咲き乱れ、その根元をメダカの群れが通り過ぎる。

桶を持ったモンペ姿の女性と、でんでん太鼓をもった幼子。
そして、外套に身を包んだ一人の書生が、学帽を目深にかぶって、自転車を止めていた。

小川に映る夕焼けの上を、その日最初のホタルたちが、通り過ぎる。
朱に染まった空に高く、山へ帰る赤トンボたちが、黒い群れをなして去っていった。

『―――母さん、明日もここへ参りましょう。』
『ええ、そうしましょうね…』
『お母ちゃん、あれ見て…』

ホタルの群れがわあっ、と立ち上る。いつの間にか空は、満天の星の海に覆われていた。

『―――母さん―――』
『…』

走馬灯のように駆け巡る光景。

……そして、それが再び希薄になって、白い光の中に溶けて、消えようとした。

熱い紅茶に放られた、一欠けの角砂糖のように……儚く、色褪せていく。

慌ててパチュリーは、手を伸ばした。…知らない風景。なのに、何故か溢れる懐かしさ。
 慧音もパチュリーも、それを感じる自分が確かにここにあることに、嘘はつけなかった。


『待って―――』
『時は待たない―――』

轟音。物が砕け散る音。根こそぎ剥ぎ取られ、金属の打ちつける音。



―――ヤメテ、モウヤメテ
―――タスケテ、ココカラダシテ
―――ニゲテ、ココカラ…











風景が爆ぜた。紫の周囲に広がっていた空間の裂け目が、銀色の煙となって霧散した。

『―――っ』

慧音とパチュリーは、静かに、静かに俯いた。
彼女たちの頬を伝う水は、不思議と、温かなものだった。



『さあ、間もなく、神社から巫女が到着するわ。それまでに、旅立ちの準備を整えなさい。』

二人は押し黙って、頷くばかりだった。

六章≪役者、揃う≫

紫はくるくると手持ちの日傘を回すと、”スキマ”に滑り込むように消えた。
 消える瞬間、二人の少女を一瞥すると、「早く」と呟いたようにも見えた。

■□■□
―――ガチャリ…

二人は、中身の空になった小鉢と湯飲みを乗せたお盆を、抱きかかえるようにして書斎を後にした。


 慧音が、書斎の扉を後ろ手に閉めた。

視線の先には、窓の外を見て動かなくなった魔理沙がいた。
妹紅がその脇で、腕を組んだまま、やはり微動だにしない。

一方のアリス・マーガトロイドは、グリモワールを開いて、人形たちに何か作業をさせていた。破壊された屋根は元通りに、散乱していた破片類も、驚くほどに綺麗に片づけられていたが、三人ともこちらに背中を向けたまま、一言も喋らなかった。

『――魔理沙、アリス…妹紅…?』

慧音は、話しかける。

あるのは沈黙だけだった。


『―――おい…』
慧音の手が、妹紅の肩に触れる。

…無言…

『―――見せられたのだな?先程の…』
慧音は一瞬、言葉を放つのを躊躇した。妹紅の背中が、僅かに揺れた。

気がつけば、もう既に太陽は西へ傾き、視界の外れでは竹林が、吹き抜ける風に波を作って揺れていた。しかし、目の前では砂の海の揺蕩(たゆた)う波が、砕けては消え、合さっては、打ち寄せていた。

『―――なんだかさ。』

妹紅が突然口をきいた。……慧音は虚を突かれて、はっと妹紅の顔を覗き込んだ。いつもの絹のように白い顔が、少しだけ紅潮していた。

『どうした?妹紅…?ん?』
慧音は問いかける。何時もより赤くなった、紅い瞳を、ただただ見つめながら。

『ひどく、懐かしい様な、でも嬉しい感じじゃなかった。一人ぼっちになってしまった…、そんな感じかな。なんだかさ―――痛かったんだ…あれを見ていたら、馬鹿だね、私。』
ぼそぼそと、唇を震わせる妹紅。…パチュリーも歩み寄ってきた。

『―――まあ、あたしは、慣れているよ。あの感じには、な。』
 慧音は、妹紅が何を言っているのか、痛いほど分かった。隣のパチュリーは、小首を傾げ、アリスがこちらを少し振り向いた…羨ましそうだった。

 風鈴の音(ね)が鳴り響き、開いた窓から吹き込む風は、夕焼けの匂いがした。何処かで鈴虫の合奏が始まり、梟(フクロウ)の鳴き声が、そこに重なる。集う少女たちの落とす影を浮き彫りとして、その日最後の太陽の光が、彼女たちの横顔に照りつけた。


―――そこに、魔理沙が歩いてくる。


『妹紅は、幸せ者だぜ。だって、お前、孤独感とか、そんなのとはもう、無縁だろう?』
魔理沙は、慧音の背中を「どんっ」と叩いて、妹紅の胸に飛び込ませた。

慧音と妹紅は、頬を朱に染めて一瞬黙る。


―――…


やがて二人の間で、針に突かれた風船のように、笑いがはじけた。パチュリーがほんのりと僅かに笑顔を浮かべ、アリスは無表情でその様子を眺めていた。


『…紫の奴、幻想郷中に、あの幻覚を見せていたようね。』
パチュリーが呟く。

『でも、まあ、いいさ―――パチュリー。』
魔理沙も、呟き返す。パチュリーは謎めいた顔を浮かべ、「何故?」と聞いた。

『だってさ―――』
魔理沙は大きく息を吸った。













『―――この星の歴史を見れたような気が、するからさ―――』

魔理沙は「くすっ」と、悲しげに笑った。

■□■□

―――これは少しだけ前の話である。

石造りの鳥居に、しばらく黒い揚羽蝶が止まっていたのだが、やがて、それは生温い風に吹かれると、何処ともなく消えていった。霊夢の様子を窺うようにして、一瞬風の中に留まると、光の粒になって霧消したことに、霊夢自身は気がつかなかった。


 まだまだ、蝉の声が境内に染み入る、暑い昼下がり。
霊夢は社務所の縁側で、退屈そうに茶を啜って、飲み干したところだった。


―――ああ、刺激がほしい


毎朝いつもと同じように起きては、毎日同じ様に、空の賽銭箱を覗き込む。期待などしていないのに、その筈なのに、開けてみるとその度にこみ上げる悔しさは、紛れもなく本物だった。

そして、やり場のない怒りをぶつけようと、腹立たしさ紛れに相手を探してみるが、しかし結局は、熱い茶を啜って、自分の気持ちを誤魔化し、溜息をつく毎日。

たびたび遊びに来る魔理沙と、悪戯に戯れては、そればかりを繰り返していた気がする。
しかし、未だ、魔理沙の姿は見えない。

相変わらずのルーチン。むしゃくしゃするわ。


――――ふん


『異変が起これば、面白いことになるのに―――』

そう言って、社務所に戻ろうとした霊夢は、だが何かを感じて、空を仰いだ。
今日は、何時もよりも心なしか、太陽が黄色く、靄(もや)が掛った様に見えた。
 
 

――――おや…?



霊夢は、自らが心より望んだ”異変”の気配に気が付いた。
太陽が、幾つかの輪の連なりに見えて、酷く朧げな輪郭を揺らしていたのだ。

指先で、賽銭箱の淵を撫でる。指先が白く粉をふいて、霊夢の端正に整った眉間には、深い深い溝が二本、彫り込まれたのだった。


――――さっき掃除したばかりなのに…


あれほど、異変を望んだはずなのに、実際にそれを目撃すると、やや億劫になる。

すると、間もなく、まるで電源のブレカーが落ちるように、辺りが真っ暗になった。霊夢は本当に上も下も右も左もないかのような、無重力の空間とでも言うべき場所に、投げ出されていた。しかし、周囲を固める有形無形の威圧感は、この虚無の空間が、実は見せかけの物であることを、物語っている。ここは…スキマの中か…??

『――ねえ、何やってるのよ、紫?また手の込んだことして…ちょっと?』

すこし、霊夢は黙る。しわぶき一つない、無機質な虚数空間。
『…いい加減にしてよ、紫。分かってるのよ。これ、あんたのスキマの中でしょ?』

空気はある。真空ではない。しかし、徐々に息が苦しくなってくる。

(ばかばかしい…紫ごときに…)

しかし、手を伸ばしても、実感が無い。踏みしめる大地もない。
ただ、そこに存在するのは―――

絶対的な『孤独』であった。

返す答えは何も無く、ただ、無言のざわめきが、ひたひたと心を満たしてゆくのだ。
霊夢の鼓動が、ゆるやかに加速してくる。


――――やがて、この漆黒の空間を漂って、幾時間経ただろうか。

たった一分が、一年にも、十年にも感じられる、宇宙的なまでの孤独――百戦錬磨の霊夢に対してですら、凄まじい、殆ど物理的な圧迫感として感じられるような、静寂だった。

『いい加減に―――』

霊夢の怒号は、しかし、この怪異の中に残響すら無く消失する。まるで、砂漠の砂に水を一滴垂らした時のように、跡形もなく吸い込まれてしまうのだ。


(何故、ここは何処?どうして?なんなの?)


光も音も、全ての五感を失い、永劫の暗闇に幽閉された者の感じる苦悩とは、このようなものであったかもしれない。

(やめて、やめて、もう、いやだ)

沈黙と孤独が、これほどまでに自らを気弱くさせるのかと、霊夢は狼狽(うろた)えた。

(ここは、どこ?どこなの?だして、はやくだしてよ!)

しかし、振り払っても、振り払っても、にわかに開け放れた水門から迸(ほとばし)る汚水の如き雑念が、霊夢の脳の回廊に押し寄せて、彼女の精神を揺さぶった。

(いや、いや、いやだ!紫――ゆかりっ!どういうつもりなの!?)

霊夢は、何も身を隠す場所のない虚空の平原に、身を投げて頭を両手で抱え、いつの間にか、歯を食いしばって、恐ろしい唸り声を上げて転げていた。

(あ、ああああ、ああああ…)

ごぉん――ごぉん――ごぉん――ごぉん――

不気味な地鳴りのような音が、上空から聞こえて、無性に恐怖をかき立てる。霊夢でなかったなら、その音に反応して、やみくもに走り出していたかもしれない。
だが、彼女ですら、臨界点ぎりぎりの自制心を振り絞らなければ、自壊してしまったかもしれなかった。


(う…ううう―――っ!)

ごぉん――ごぉん――ごぉん――ごぉん――

――――霊夢?霊夢―――?

不気味な、神経を逆撫でる音は、ゆっくりと、しかし確実に大きくなろうとしていた。まるで、天が崩れかかってくるような、不吉極まりない、恐怖を誘う轟音だった。
 しかし、その後ろ側から、聞きなれた、懐かしい者の声が聴こえる。


(う…うう、ここからだして、もどして、たすけて、魔理沙――――ッ!!)


――――霊夢―――?

『ウアアアアアアアア!』
霊夢の裂けるほどに開かれた口からは、恐ろしい、耐え切れぬ絶叫が洩れた!

 早送りの活動写真のように、ある小川のほとりの光景が、脳内に氾濫してせめぎ合う。霊夢の知る由もなかったが、実は、慧音たちが見た光景と同じものだった。


――――霊夢――…


 霊夢の目がぐわっと、見開かれた。

しかし、続けざまに霊夢の目に飛び込んできた光景は、あまりに無残だった。

小川のせせらぎも、メダカも小鮒も、笑っていた童たちも消え失せて、代わりに現れたものは、灰色の大地と高過ぎる摩天楼の突き刺さった、鉛色の空だった。そして、その狭間にある、もう一つの世界。

霊夢は、直感的に、これが『外の世界』だと理解した。

 行き交う人々は、彩色豊かな衣服に身を包んで、雑踏の中を互いの関心もなく流れて去って行く。ただ、それだけの世界だった。…一見豊かに見えて、しかしながら、決して満たされているようには見えないという、それはそれは、不思議と乾いた流れだった。


――――霊夢、彼らからは、貴女は見えないわ…


 霊夢は振り返った。歯が、ガチガチと音をたて、両脚は力無く崩折れて、顔だけが僅かに後ろを向いた。声の主を探そうと、眼球がぐるりと動く。


――――ゆかり…っ!!
――――ふふふふ…?



奇妙な喉声の含み笑いが響き、爪を鮮やかな朱色に塗ったしなやかな手が、こぼれかかった金色の髪を払いのけると、霊夢の顔に伸びて、その両頬を柔らかく包んだ。ぞっとするほどの妖艶な美女の顔が、霊夢の正面を捕えて、唇が三日月の形に歪む。


『紫…ゆかり…っ、、、あなた!!!』


霊夢は、恐怖と憎悪をたぎらせた蒼白な顔を覗かして、溢れる涙を堪えるのも忘れ、正面から紫の目を睨みつけた。


(いったい、どういうつもり――――ッ!!!)
 


 『――霊夢。よくお聞きなさい。』
 霊夢の顔を見ながら、紫は囁いた。霊夢の細い肩が、びっくと僅かに揺れた。


 『この雑踏の下に、”彼女”の”本体”が居る。今から、先に人里入りしたパチュリーたちと合流して、”彼女”の”御魂”を救い出してあげなさい。』


 紫は、静かに、優しく、赤子をあやす様に、霊夢に語った。しかし、その口調はとても重々しく、抗うことを許さない威厳と威圧に満ちた響きもあった。


『何ですって…?』
霊夢は、弱々しく返した。

『先程見せた、昔懐かしい様なあの光景…そして、その崩壊。貴女の彷徨った暗黒の無間地獄。鳴り響く死の鐘と、しかし、生きたい、戻りたい、怖い、――――たすけて…これは皆、”彼女”が嘗て、生きて、聞いて、見て、感じていた、確かな”現実”であり、”過去”なの。』

霊夢はただただ押し黙って、紫の言うことを反芻した。
(ゆかり…手の込んだことをしてくれたわね…)


『――――確かな”現実”であり、”過去”…ね』
 霊夢はうわ言のように繰り返すと、次第に活気が顔に満ちて行き、紫の両手を振り払って立ち上がった。


『そうと分かったなら、紫?貴女の無駄話に付き合っている暇はないわ。』


取り落としていた玉串を、紫に拾ってもらうと、照れたように笑って、ありったけの憎まれ口を紫にお見舞いした。


『有難う。紫。珍しく、貴女に感謝したわ。じゃ、人里に、私を転送してちょうだい。これは急ぎ用だもの、ね?』


いつの間にか例の雑踏は、冷たい雑音と共に消えて、春の小川の風景になっていた。


『ええ、喜んで――――ふふふ、その方が、霊夢らしい…可愛いわ、ねえ霊夢?』


紫が手に持った日傘で卍を切ると、ぽっかりと開いた空間の亀裂が、白く輝く喉を見せて霊夢を飲み込もうと、その口を大きく広げた。

『さあ、お行き、霊夢。』
紫が手を振る。
霊夢も、いつもならば紫に弾幕の一つでも放つところだが、今日は違った。

『紫…帰ってきたならば、お礼に二つに畳んで賽銭箱に頭から突っ込んであげる。スペルカードでも構えて、待っていなさい。』


『うふふふふふ…待っているわ。…いつまでも。』




それを聴くと、霊夢は「にっ」と笑って、白い光の洪水の中に、飲み込まれていった。

 
■□■□

――――上白沢邸

『霊夢、そんなことがあったの。――――紫が思いっきり黒幕じゃない、それ』
外は、すっかり日が落ちて、茜色の空は既に、濃い藍色に移ろいでいた。

『クロマクーッテナアニ?』
『ナアニー?』

アリス・マーガトロイドは、「黒幕っていうのはね…」と上海人形と蓬莱人形に説明しようと試みて、常識を説明する難しさに直面して、彼女は思わず慧音を見てしまった。

 視線を感じた慧音は、アリスに向き直ると「黒幕とは、表面には現れることなく、裏側で糸を引いたり、謀(はかりごと)を巡らしたりする者のことだ」と、彼女に「辞書ひけ」と軽蔑じみた気持ちを込めた目を向けて、茶を啜った。

 『ジャア、アリースモ、クロマクー…ダアネ?』
『ええええっ!?何でよ!?』
上海人形が、くっきと顔を傾けて、無垢な瞳でアリスを見上げた。アリスは、泡食ったように両手をひらつかせて、信じられないっ!という顔をする。

すると、蓬莱人形が、絹のように滑らかな髪の毛を後ろにたなびかせて、アリスの後ろ頭にとりついた。彼女の頭に口づけし、人形なのに血の通った顔が、温かそうだった。
『ウラーデ、イト、ヒイテルモーン!ネ、アリース?』

何故か、妹紅が腹を抱えて悶えている。途端にアリスは、顔を真っ赤にした。

『…人形の糸、な…。はっはっは、こりゃ一本取られた。あはははははっ!』

妹紅は、遂に弾けた。
釣られて、霊夢も爆笑している。

それを受けたアリスは、慧音に抱きついて、さらに押し倒すと「けーねさんが、変なこと教えるからぁぁぁ!!」と絶叫していた。だが、慧音は慧音で、「私は辞書の通りに教えただけだ。恨むなら、己の頭を恨むか、辞書を恨め」と低い声で、しかし、楽しそうに笑った。


『けーねえええええええ!!!!いまたすけるぞおおおおおおおッッッ!』
そこへ、怒号を上げる妹紅が、下で絡み合う二人には構わずジャーマン・スープレックス。「ごえっ」という豪快な音声と共に、下の二人は完璧に果てた。

そして、しばしの沈黙の後に、今度は「爆発」が起きた。

『ぬおおおおおおお!?きもけーね!!?』
『きゃあああああっ!?』『キャアア!』『ワアア!』
『まてまてええっ!!ゆるさああああああん!!』

霊夢は慧音達を見ていて、とても楽しかった。

だが、散々笑い転げた後、ふと、突き刺さるような寂しさが、胸を過るのを自覚した。

…今の私は、我儘言ったところで、それを笑って聞いてくれる人たちがいる。妖怪からも慕われて、毎日が平凡に見えても、見えない何かが、充ち溢れていたような、何故かそんな気がする。
――――だが、紫の言っていた、”彼女”はどうだろう。


”彼女”には私と同じように、色々な、自分を慕ってくれる者たちに囲まれて生きた、そんな過去があった。だからこそ、そのような過去を知ってしまえば、それを無くした後は、余計に辛く耐えられなかったに、違いない。だから、想い出を想い出とは認められないで、普通なら、きっと気が狂うほどに苦しんでしまった…

――――少なくとも、私が”彼女”だったならば、そうなる。

入り乱れる三人を余所に、窓辺に佇む二人の魔法使いに歩み寄る。半分眠ったように、部屋側を見て俯いていたパチュリーが、むっくりと緩慢な動きで顔を起こした。


『霊夢…?どうしたの…?』

――――泣き出したくなるほどに、痛かった。


――――滅多に表情を変えないパチュリーが、腰を折って膝を着き、私の顔を恐る恐る見上げている。この自分が、心配してもらっている…


『なあ…霊夢?』
パチュリーとは逆に、窓の外を見上げていた魔理沙は、目だけ一瞬霊夢に向けると、直ぐに窓の外に向き直ってしまった。


『めずらしいな…霊夢もそんな顔をすることが出来るのか…驚きだぜ。』


――――「けけ」と悪戯っぽい含み笑いをすると、魔理沙は私の腕を乱暴に掴んで引き寄せた。

…自分自身の変化も内心、訳が分からない程だったが、魔理沙の方もいつもとは、何かが違って見えた。


『ちょ!?何よ、魔理沙。私にだって、こんな感情の一つや二つくらい、普通にあるのよ…気遣いなんて、無用もいいところ…え――――…』


気がつけば、顔が近過ぎた。もう少しで唇が重なる。魔理沙の乱暴に掴みかかった手が、熱を帯びて、霊夢の手首に食い込んでいた。だが…

『――――いや、すまない。悪い冗談だった。』
魔理沙は、つっ、とそっぽを向いて「ふっ」と吹いた。

『何がおかしいのよ?』
霊夢は少し、怪訝そうに眉尻をあげた。


『いや、まあ焼き餅焼く奴が出るだろう?平等だぜ。』

脇ではパチュリーが、口元を魔導書で覆って、呆れた視線でこちらを見ている。一方のアリスは、有り得ない姿勢になって、慧音と妹紅と共にアヴァンギャルドな肉体芸術の一品に、なり果てていた。したがって、こちらには気が付いていないようだ。幸運。


『なあ、霊夢。私はね、寝る前に必ずこうやって、星空を見上げるんだぜ。なんか、乙女チックだろ?』

魔理沙は少し舌を出すと、照れたように笑った。霊夢は、こんどこそ、さっきのパチュリーと同じような呆れ顔を作って、「意味分かんないわ」と顔で語ってやった。

『こうして天の川を見上げて、深呼吸する。』

――――魔理沙は握ったままの霊夢の手を、自分の胸に、そっとあてがう。

魔理沙のやわらかな弾力の胸と、その奥から響く温かみのある鼓動。

霊夢は、自分の掌を通して、はっきりと、これが生きているってことなんだな、と直感した。これほど直接的に、さらには、これほどセンチメンタルな気持ちになるなんて、今までの異変では、有り得ないことだった。



『すると…』
魔理沙は言葉を切った。霊夢と、視線と視線が交錯する。













『私は、この銀河の中で生かされている…宇宙人なんだな、って思うんだ。』
魔理沙は、今度は楽しそうに笑った。

『――――何それ…?』
 霊夢は、口でこそ疑問形の返し方をしたが、悔しいが…魔理沙の言ったことが、胸にじんと来て、深く納得していた。


 隣でパチュリーは「クスっ」と笑うと、何度も頷く。

その奥では、まだ、アリスと妹紅が、慧音に叩いて伸ばされていた。


――――この馬鹿馬鹿しい世界。愚かしい奴等の織りなす世界。でも、やっぱり愛すべき世界。やはり、私は、この幻想郷に生まれてよかったんだ…









霊夢は無意識のうちに、天の川に感謝していた。

■□■□
――――ふふふふ…

闇に紛れて、一匹の黒い揚羽蝶が舞う。それはやがて、徐々に輪郭が希薄になって銀色の霧となると、そこから新しい人の形が現れた。
白露のように薄く透き通った肌が、闇の中で微光を放つように浮き上がって見える。

『ゆかり――――?』

間延びした、丸みを帯びた声が、紫の名前を呼ぶ。鈴が鳴るように、澄んだ響きだった。

『あら、幽ヶ子?』


色素の抜けた長い髪を後ろに靡(なび)かせて、裾(すそ)をはためかし、紫の横に並ぶ幽ヶ子。

『ゆかりったら、全然手加減しないのね。可哀想にね、霊夢。』

二人は、完全な静寂の空間に浮かび上がるように、立っていた。霊夢が放り込まれた空間と、同じ場所であった。
二人の視線の先には、霧雨にそのまま映写機を使って投影したような、古い映像が揺らでいた。酷く古ぼけた、大正時代か昭和初期のころの活動写真のようでもあった。

『――――何故、”彼女”を連れてきたの?ゆかり?』

口元に扇子を当てて、意味ありげな流し目をし、幽ヶ子は謡うようにして、紫に囁きかけた。困ったような、微笑んでいるような、どちらともつかない表情を浮かべて、紫の目元に視線を向ける。


……… Ice-cold discord ………

…空間が凝固して、時間が止まってしまったような、重苦しい沈黙。

しばらく紫は黙っていたが、幽ヶ子の視線に観念したように、ようやく口を開いた。

『癒信の徴調曲の一節を、幽ヶ子はご存知?』

一方の幽ヶ子も、のんびりとした、柔らかな口調で返す。

『その実を落とす者はその樹を思い、その流れに飲む者はその源を思う…だったかしら?』

幽ヶ子は、蒼い月がゆらめき、川面にゆらゆらと蜻蛉がのぼる様子を眺めながら、紫に答えた。遠い北周の詩人に想いを馳せるように、川の水底を覗き込む。

『そう、幽ヶ子の言う通りよ。…川の水を飲んで”おいしいかったわ”と、その水源に思いを馳せるが如く、いつも物事の根本を忘れてはならない、と。…私達の今があるのは、父祖たちの流した汗と涙が、あればこそ。未来永劫、子々孫々に何を遺せるか、決して、片時も忘るるな…そういう意味。』

それを聞き届けると、幽ヶ子は薄く笑って、腰をおろした。今にも消え入りそうな、幽かな微笑みは、薄い陰りがさして川に映ったもう一つの顔をひたすらに見つめていた。

映像が切り替わった。
彼女の伸ばした指先が触れる前に、蒼い月は崩れ落ちた。

『――――今の人間たちは、もう忘れてしまっているかもね。今の自分さえ豊かならば、後は何も要らないと…過去に胡坐(あぐら)し、先を見ないで目を瞑る。そして、自らの豊かさの源を忘れ、感謝すらしない。そして、この仕打ち…』

(―――ヤメテ、モウヤメテ)
(―――タスケテ、ココカラダシテ)
(―――ダシテ、ココカラ…)


……… Ice-cold discord ………


幽ヶ子は人差し指で、そっと唇に触れて、紫を見た。紫も、幽ヶ子を見ていた。

再び、映像が切り替わる。

……… Ice-cold discord ………

抉れた土と、踏みつけられた草花。周囲の緑から浮かび上がったそれらが、とても痛々しい。濁り、崩れた一本の小川が、黒い闇に閉ざされてゆく。


紫は静かに、その様子を黙って見届けた。そして、最後に胸の前で小さく手を合わせると、幽ヶ子を振り返った。




『幻想郷はね…喪われたモノたちの、集う場所だから……。』
紫は、最後にそう呟くと、埋め立てられた小川の上に、黙って立っていた。


七章≪邂逅〜蜃気楼の果てに≫
霊夢は移動している最中、パチュリーに、彼女の見た夢の話を聞かされた。あれが、どういう意味を持つのか知らないが、今回の異変と何かしらの関連がある、とのことだった。

意味はよくわからないが、心の奥底にしまって置こう。しばらく黙っていると、気がつけば、民家もまばらになって、目の前が大きく開(ひら)けた場所に出たのに、気が付いた。

『正直言って、私は気が重い。どうしようもなく、重い。』

妹紅は、慧音を振り返って言った。今、少女たちは人里の淵に立っていた。
見渡す限り、目の前は砂の海である。
しん、と静まって、昼間の暑さなど嘘のように、肌寒かった。

――――冷え切った空気

『大丈夫だ。私と妹紅で、万が一に備えて、人里を護る。二人いるなら平気さ。』
慧音の白い髪が月光に染め上げられて、白銀に輝く。妹紅は、黙って頷いた。

『あんたらなら、まあ心配はないな。人里は、まかせたぜ。』
閉ざされた家々が、月夜の中で青紫色に浮かび上がる。

――――風ひとつ、吹かない。凪。

魔理沙は箒を反転させると、軽い身の熟(こな)しで飛び乗った。月の光が白い砂に落ちた彼女の影に、白い縁取りを与える。パチュリーが音もなく、雲のように空を昇りはじめ、遅れてアリスも離陸し始める。昼に波打っていた砂は、眠りについたかのように、今は穏やかだった。

――――大地が、呼吸している……

『どうした、霊夢?』
魔理沙は、離陸するべく地面を蹴り上げようとして、ふとそれを止めた。
驚いて、霊夢を顧みる。

『―――感じる。感じるわ…。ねえ、パチュリー?この霊気、貴女が夢の中で感じたものと本当に同じ?』

霊夢は、遙か上空を浮遊するパチュリーに目を細めて、怒鳴った。月がいつもよりも遙かに大きく、そして眩しかった。

『…疑っているのね。ええ、そうよ。そして、紫に見せられたあの”彼女”と、同一。霊夢、貴女は今…何を感じたの?』

パチュリーも、白い砂の平原に浮かぶ霊夢の黒い影を見下ろして、静かに語り返した。糸を引くような残響を残して、それは砂の中に消えていく。

『そうね…―――痛さ…かな?』
霊夢は一言だけ、返した。そして、勢いよく宙に翻(ひるがえ)ると、天高く空へ昇り、地上を振り返った。後から、箒にまたがった魔理沙が遅れを取って、ついてくる。


『…ったく酷いぜ。無視するわ、置いて行くわ。』
魔理沙が不平を垂れる中、霊夢は地上の妹紅と慧音に視線を向けた。

『分かっていると思うけど、なまけるんじゃないわよ―――!』

霊夢は地上に向かて、叫んだ。すると、下で黒い芥子粒のように見える二人が、霊夢に向かって手を上げたのが、確認できた。

『じゃ、さっくと行くとするか。行くぜ、霊夢、パチュリー、アリス!』
『こら、あたしに指図するんじゃないわよ!』
魔理沙がニカっと笑い、霊夢が拳を振り上げる。

『さあ、参りましょう…”彼女”の元へ…』
パチュリーのひんやりとした、しかし何処か温もりのある手が、しっかりとアリスの手を引く。アリスは黙って、それに身を委ねた。


――――こうして…

三人の魔法使いと、一人の巫女は、大きな月の中に吸い込まれるように、消えていったのであった。


■□■□
 一行は、まるで銀色の魚のようであった。月光に照らされ、天の川の奔流をひたすらに遡(さかのぼ)る、魚の群れ…暗い水の中を、いっそのこと流れに身を任せてしまえば楽なのに、何故、敢えて苦難の中に飛び込もうというのか。
流れに身を任せて、海になってしまえば楽なのに。異変など無視してしまって、人里がどうなろうと、異変の源が何であろうと、彼女たちは困らない筈なのに。

しかし、そこまで自分本位になれる程、彼女たちは馬鹿にはなれなかった。

眼下を砂の海が流れてゆく。砂のさざ波が、さらさらと音を立てていた。その中に時折混じる雲母の欠片が、星の光を受けてきらきらと輝いて見える…何処までも何処までも、そのままに遊覧していたい気持ちになってしまう、不思議な砂漠であった。
■□■□

『今日は、本当に綺麗な夜だ。こんな時に雨なんか降られては、目も当てられないぜ。よかった、よかった…って遅いぜ、アリス?』

――――満天の星空

振り返る彼女の背後には、アスクレピオスの星の列が瞬いていた。青に、赤に、色彩豊かな星の輝きは、冷えて澄み渡った高き銀河の空に、清らかな旋律を奏でるようであった。

それを見て、アリスは頭の中で何かが、弾けた気がした。魔理沙の台詞に直ちに、行動を以て返答する。

『悪かったわね、これが私の普通なのよ。少しは、気遣いってものを覚えなさいよ。』

――――むきゅっ

『うおおおいっ!?』
アリスは急に加速すると、魔理沙の背中に両腕を回して抱きついた。柔らかい感触を背中に受けて、魔理沙が思いっきりのけぞる。

『ちょっアリスっ!?』
『いいでしょっ!』
普段とは異なる、アリスの剣幕に押されて、魔理沙は思わず言葉が詰まった。
その隙に、アリスの横顔が、魔理沙の肩に乗せられる。


魔理沙は何か物凄く釈然としないものを感じながらも、再び前に向きなおった。


『ねえ…魔理沙…?』
『なんだ?』
『一人ぼっちって、どんなかんじだろう?』

アリスが、魔理沙の肩でぼそぼそと囁く。耳元で呟いているはずなのに、とても離れたところにいるような、か細い声だった。魔理沙は無意識に、眉間にしわを寄せてしまう。

『知らん。私に聞くな…”彼女”が教えてくれるだろう。』
『…そうね…』

アリスは、彼女なりに何かを感じていたのだろう。安心したように一言そう呟くと、魔理沙の肩の上で、静かに目を閉じた。
魔理沙は肩に熱いものを感じた。それは直ぐに冷えて、また続けて熱くなる。服の上から濡れた感触が、生々しかった。

『泣くなよ、アリス?お前、慧音と私が出てきた時から、何か変だったぜ?』
『……』
アリスは目を瞑って動かなかった。上海人形と蓬莱人形が頷き合うと、小さな手で、アリスの頬を拭う。

『アリス…』
魔理沙は、片手でアリスの手を取ると、しっかりと握りしめた。冷気で冷え切ったアリスの手に、魔理沙のぬくもりがじんわりと染み込んでゆく。

『お前は、幸せだろうよ…皆に囲まれて、それ以上何を望む?なあパチュ…おい、こら、聞いてるか、パチュリー?』
パチュリーはこちらを見てはいなかった。
魔理沙がもう一度、声をかけようと口を開きかけた刹那――――

――――…!


魔理沙は何か、自分の心の中に小さなざわめきめいたものが宿るのを感じた。それが、先へ進めば進むほど、より大きく、確実に広がってゆくのが分かった。

魔理沙は無意識にアリスの手を、より強く握りしめた。このざわめきの、正体は分からない。アリスが背中でもぞもぞやっている。そうか、アリスの不思議な行動も理解できた。

これが「不安」という感情だ、と気が着くまでに、大した時間はかからない。

『…。』

魔理沙は目を伏せた。足元を、相変わらず月光に照らしだされた砂が、キラキラとしながらサラサラ流れていく。高度は十分。但し、風が殆ど無く、しかも空気が冬のように凍てつくのだ。吐く息が白い。

『なんだか、可愛いよ、魔理沙。黒白の機関車みたいよ?ついでにアリスもね。』

少し前を飛行する霊夢が、ケケケと笑った。霊夢は何時も、一人だけ冷静だった。
…うらやましい

―――――まさにその時だった。


どおっと爆発的な風が、彼女たちを薙ぎ払うかのように吹くと、月光と、砂の白さに縁取りされた遙か先の地平線から、何かが沸き上がり始めたのが朧げに見えたのだ。


『『来たわ。』』


パチュリーと霊夢は、ほぼ同時に、同じ言葉を発した。
魔理沙はその声の鋭さに、はっと我にかえる。アリスも目をゆっくりと開けた。

『アレナアニ?アリース?』
『なによ…あれ……ッ?』
アリスは、息を飲んだ。

『なんだ、あれ?霊夢?パチュリー?何だかわかるか?』
魔理沙も早口で喋りながら、地平線を指さした。アリスは目を細める。

遙かな、南の地平―――彼女たちの目指している方角であった。西の方には黒い鋸歯状の山脈のシルエットが朧に見え、後にしてきた北の方には、今は見えなくなった人里が存在する。そして東の方は見渡す限り、サラサラ鳴く砂の海でしかなかった。

そして、南の地平―――白い砂の大海原のようにみえる南の地平に―――

もわもわと、奇妙な、見たこともない様な影が一塊、立ち上っていた。

『あれ、は…』

黒曜石のように澄んだ霊夢の目が、細められ、それから大きく見極めようとするかのように見開かれた。パチュリーが大きく頷いて身をひるがえすと、魔理沙の横に音もなく舞い降りる。


『あれが、”彼女”よ』
『なんだと』

魔理沙は完全に面喰って、身震いがした。

『魔理沙…震えているの?』
アリスが心配そうに、魔理沙を後ろから抱き締める。アリスの柔らかな胸の奥から、早鐘のような鼓動が感じられ、魔理沙の胸の中に流れ込む。

…今度は自分が、心配される番なのか。

『安心しろ、武者震いだぜ。――――アリス。』
魔理沙は、アリスの手をぐいっと前に引っ張って、彼女を背中に押し付けた。

『ねえ、何が起こるの?何が起きようとしているの?』
『そんなこと、私に聞くな…私だって初めてだぜ!』
アリスの泣きそうな声に対し、魔理沙は咳きこむように、答えた。

そして困惑の色を隠せない魔理沙は、ヘイゼル色の瞳を地平に注いだ。

怪しげなもやもやは、かなり近づいて来て、相当な大きさに見える。先程、霊夢とパチュリーが叫んだ時には、たった一つの小さな黒い竜巻のようにも見えたのだが、次第に近づくにつれて、どうやら、それも違うことが分かった。

黒というよりも、紫や紺や灰色などいろいろな色合いの入り混じった、奇妙なマーブル模様の塊だったのだ。

『あれが”彼女”だっていうのか……?!』
魔理沙がまた唸る。パチュリーは相変わらず、魔理沙とアリスの横を浮遊するように飛行していたが、半眼で一瞬、魔理沙を睨むと、口を利いた。

『ええ、そうよ』

パチュリーの表情は変わらない。だが、魔理沙は語気を荒らげる。
『だが、パチュリーの見た夢と…なんというか、イメージが一致しないぜ?あれ、相当に危ない気配が満ちているのに、私たち、このまま突っ込むのか?』

…時計の秒針が、一回りする。沈黙。

『何言っているの?そうするしかないでしょう?』

今度は霊夢が玉串を振りかぶって振り向くと、魔理沙の方に踊るように反転して、低い声で告げた。霊夢は何故か、少し笑っていた。
『魔理沙が弱気だなんて、珍しいわね?突っ込むのは、魔理沙の十八番でしょうに。』


『…しかたないぜ…』
既に、”彼女”は魔理沙の視界一杯にまで広がって、互いに三里も無さそうなあたりまで来ていた。もう、回避するには遅過ぎる。それに、ここで引くのは性に合わないどころか、何の解決にもならない。

――――ちっ

魔理沙は舌打ちした。

…逃げて桜が咲くものか…!


黒…いや、様々な色を全てぶちまけたような、もやもやの塊は、このくらいまで近づいてくると、いろいろと奇怪なことが、確認出来た。
魔理沙は思考を停止した。

…絶句。

その雲の様なものは、なにやら、恐ろしく多くの人影が重なり合って出来た、歪(いびつ)な塊だった。内側から、無数の腕や、黒く長い髪の毛を靡かせた横顔、上半身などが絡み合いながらそれらが伸び出してきて、蠢(うごめ)きながら、こちらに接近してくる。


また…


『なんだ、この音は?』
魔理沙が唸る。こだまが周囲を包み、思わず彼女は耳を押さえた。

『…音というよりも、むしろ声ね。』
霊夢は、ゆったりとした落ち着きのある声で語る。だが、彼女はしっかりと玉串を握り、油断なく視線を走らせた。

おーおーおーおーおーおー
無数の声の入り混じった大コーラスがその雲のような奇妙な塊から、こちらに発せられる。呼応するように、星の瞬きが強くなり、月が蒼く輝いた。

『とりあえず、本当に危ない奴だったら、紫が何か言うでしょう?…普通に注意していれば大丈夫よ。』
霊夢はそう言って、懐を探る。そして札のひんやりとした、確かな硬い感触を手に感じると、安心して元に戻した。仲間に万が一のことがあったら、事である。

――――…

霊夢は、スキマの中で紫に見せられた”彼女”の幻影を思い出していた。すると、目の前にある”彼女”は、その在りし日の、歪んでしまった亡霊なのだろうか。苦しみの果てに、狂気の余りに自壊してしまった、彷徨える魂なのか。

ならば、鎮めてやらなければならない。そうしなければ、私の心も鎮まらない…霊夢は、紫の「”彼女”の”御魂”を救い出してあげなさい。」という言葉を脳の中で繰り返し再生していた。

霊夢は空を飛びながら、どれほど思案に暮れていただろう。夢中になるがあまり、時間の進みが、早すぎる感じさえした。

霊夢は思った。
…”彼女”から発せられる霊気は、禍々しさというよりも、もっと寂寥感に近い。

そこまで思っていた時、霊夢の意識が途切れた。
目の端で、パチュリーが動き出すのを、捕えたのだ。
『あれ…パチュリー…?』

パチュリーはこっくり、霊夢に頷くと、魔理沙に寄り添っていった。

『…ごめん魔理沙…肩貸してね…』
パチュリーは一言呟いて、魔理沙の肩に片手を置く。すると目を瞑って、思念を送り、”彼女”とのコンタクトを図りはじめた。

霊夢は納得して、進行方向に向きなおった。

“彼女”は今や、視界からフレームアウトするほどに大きくなり、莫大な量の霊気が冷気となって漏れ出してくる。

おおおおおお……
あああああああああああ……
ううううううううううううううううう……
“彼女”から響く、無数の人間とおぼしき声の不協和音。耳が割れそうになるほどの咆哮。

『魔理沙。』
か細い声が、聴こえた。魔理沙の頬に、金色の髪が絡みつく。
『なんだ、アリス?』
『あれが、本当に彼女”なのね?』
『ああ、どうも、とてつもない輩だぜ。』

――――ココカラ ダシテ ダシテ ダシテ
――――ニゲテ ハヤクニゲテ
――――コワイヨ コワイヨ ダシテ タスケテ


“彼女”が遂に反応した。もやもやの五彩の塊の中から、雲の手足や顔、髪の毛や上半身が挿し伸ばされる。

…取り込まれる!!

『全員、構えなさいっ!』
霊夢の鋭い檄(げき)が飛び、魔理沙が咆哮した!
『突入するぜ―――――っ!!!』
パチュリーは、魔理沙の肩にしっかり掴まったまま、目を開けなかった。その表情が何故か一瞬、微笑みに見えたのが、魔理沙の背中を粟立たせた。


―――――――ッッッ!


霊夢と魔理沙の声が交錯する。魔理沙の肩の上で、アリスは目をぎゅっと瞑ると、歯を食いしばった。上海人形と蓬莱人形はアリスの服の中に潜り込んで、衝撃に備える。


そして遂に、辺り一面は極彩色のもやに、すっぽりと包まれた。風圧と音圧の暴力が、飛行する彼女たちを鷲掴みにして、翻弄する。


『うああああああ!』
誰かの絶叫が響いた!

ふいに、世界が一回転し、少女たちの意識は暗転した…。

■□■□
霊夢と魔理沙たちが意識を失っていたのは、ほんの一瞬だった。気がつくと、濃厚な毒液の中に放り込まれたかのように、意識が暗転し、息さえも詰まった様に感じられたのだが、それも嘘のように、周囲は元の姿を取り戻していた。

否――――
元通りではなかった。

彼女たちは、半ば砂の中に体を埋められており、這い出すだけでも一苦労だった。あの雲に翻弄されて、空中から叩き落とされたのだが、地面が砂だったおかげで、衝撃を和らげることが出来たようだ。もし、硬い岩盤だったら…考えたくもない。

霊夢は砂の中から体を起こすと、きょろきょろと、辺りを見渡してみた。

やや離れたところでは魔理沙が砂の上に寝そべって、星座を眺めている。箒が斜めに砂に突き刺さって、面相筆で描いたような細い黒い影が、どこまでも伸びていた。
アリスが魔理沙の横に座り込んで、俯いている。怪我はなさそうだ。だが…

…パチュリーが見当たらない…
『パチュリー――――っ!?何処行ったの?!』
霊夢は吠えた。その声で、魔理沙は、がばっと起き上がると、霊夢の方を見た。アリスもゆっくりと頭(こうべ)を巡らせると、焦点の合わない両目を向けてきた。

その刹那――――

魔理沙とアリスは、ばっと立ち上がって、何やら慌ただしく構えた。
そして、彼女たちは、霊夢の背後を凝視して、動かなくなった。

『え――――?何よ……』

空腹も疲れも眠気すらも感じることのない、夢幻の砂漠。何もかもが白い砂の中に吸い込まれてしまうような、恐ろしい錯覚を覚える。

だがその中、霊夢はうなじの毛が逆立ち、背筋が粟立つ悪寒を、確かに覚えたのだった。

…!!

彼女は、何があっても反撃できるように全身の筋肉を張り詰めると、身構えて振り返った。


そこには、パチュリーがいた。微笑んでいた。
だが、彼女は一人ではなかった。もう一人、見知らぬ少女が一人、立っていた。


来てしまったのね―――――

軽やかな、鈴の音の様な声が響いた。
そして、何処か懐かしいようなノスタルジックなオルガンが、荒野を満たし始めた。

…突然の出来事。

それは、月の中から一陣の風となって、聴こえてくるようだった。

差し込む月の光が、より明るくなると、少女の影が伸びて、五線譜を形成した。

そして

見知らぬ少女は歌い始めた…

春の小川は さらさら流る
岸の菫(すみれ)や蓮華の花に
匂ひめでたく 色うつくしく
咲けよ 咲けよと ささやく如く

春の小川は さらさら流る
蝦(えび)やめだかや小鮒の群に
今日も一日日向(ひなた)に出でて
遊べ遊べと ささやく如く

春の小川は さらさら流る
歌の上手よ 愛しき子供
聲(こえ)を揃へて小川の歌を
うたへうたへと ささやく如く


―――――…

少女の艶やかな伸びのある声が、緩やかなビブラートを残して、幽かな余韻と共に、星空に消えていった。

銀色の髪の、白く繊細な肌の、どこか子供の様な面影を残す少女は、小鳥のように、つぶらな瞳を、真横に立っているパチュリーに送り、次に霊夢たちに送った。

『来てくれて、有難う。』

霊夢たちは、黙っていた。
彼女たちの目の前に立っている少女は、丁寧にお辞儀をした…。

■□■□
八雲紫は今、自邸の居間で、幽ヶ子と向かい合っていた。
『風に乗って、清しい歌が聴こえてくるわね…』

消え入りそうな声で語ったのは、西行寺幽ヶ子。困ったような微笑みを曖昧に浮かべて、口元を扇子で隠す。

風が奏者で、月と星と少女たちの魂が楽器。それは打ち寄せる波のように、大きくなっては切なく消え、また延々とそれを繰り返す。何かを告げようと、さざ波のように押し寄せて、再び遠ざかる…その繰り返し。

幽ヶ子は、紫から少し視線を遠ざけて、その奥の床の間を見た。そこには、萩が一枝、その花房を揺らしていた。まるで、共に歌っているかのようだった。

『ねえ、ゆかり、知っているかしらねえ?…風の奏でるオルガンの音色はね、そこにある者たちの、魂の色を反映するということを…』

音色が遠く感じられた。月に照らしだされた枯山水が白く浮かび上がり、薄く紗幕のかかった様な意識を弄ぶ。庭に面した長廊下に、丸く透ける様な月が映っていた。

『…接触した様ね…あの子たち…』

紫の方は、遠い視線で月を見遣ると、「ほおっ」と溜息をついた。
幽ヶ子は「くすっ」と笑う。


それを見た紫の表情は、優しい微笑みになり、次は糸を引くように、苦笑に上書きされた。幽ヶ子と紫の間で、互いの視線と視線が、探り合うように交差する。


すると、長い廊下の果てから足音が聞こえ、やがてそこに大きな人影が現れた。
月夜に浮かぶ、九尾の狐はそこはかとなく、神々しいと、紫は思う。

…沈黙の時間は、終わった。

『失礼します。お茶を、お持ちいたしました。』

八雲藍だった。主人の何故か、ほっとした様な柔和な笑顔にどっきりとして、赤い顔をする。それに伴って、白い頭巾の中で彼女の耳は、ゆっくりと力なく垂れていった。

橙も後に続き、和菓子の箱を抱きかかえて、入ってくる。こちらは、藍の変化に気が付かない。まるで、祖父母が家にやってきたときの子供のように、楽しそうだった。

『あ、あのお歌、何でしょう?藍さま?すっごく綺麗で、素敵なお歌ですよね?』
『うっ…しかし、何処かで聴いたことがあるような…』

藍は紫と橙に板挟みになって、ふさふさの尻尾を力なく垂らしてうなだれ始めた。

それを見て、幽ヶ子が再び『くすっ』と笑う。そして、口元に置いていた扇子を離すと、橙から和菓子の包みを受け取りながら、満面の笑顔で、答えた。

『春の小川、よ…藍、橙?』
■□■□
『春の小川?』
人里の辺境、遠く砂の大海原を見ていた妹紅は、慧音を振り返って喋った。
慧音は何故か、物憂げな顔をしていた。それを妹紅に見せまいと、視線を外す。

だが、初雪のように白いその顔に挿した陰を、長く共に連れ立った中の妹紅が、見逃すわけはなかった。何か、慧音に喋りたい。そう思った妹紅は、無理に元気の良い声をだして、次の質問をした。

『なあ、けーね?その春の小川って、今はどうなってるんだ?』
しかし、慧音の目に映った陰を見て、直ぐに妹紅は後悔した。

…二人の間で、時間が静止したようだった。

そして慧音の、下に向けられた瞳が、ゆっくりと妹紅に向けて上げられた時…

『今の春の小川は、暗渠…暗い地面の下に、埋められている。』

慧音は、悲しい笑顔を浮かべると、一言だけ答えた。
■□■□

再び頭を上げた”彼女”は、パチュリーと並んで、笑っていた。長い銀色の髪の毛が、足元にまでしなやかに伸びて、風に揺れる。
ほっそりとした、どこか和人形を思わせる端正な顔は、どこかで見知っていたような気がするが、それでありながら、全く見たこともないような顔にも思えた。

―――――来てくれて、ありがとう。もう、わたしは独りじゃないね?

大きな瞳は、しかし、みずみずしく潤んでいて、夜明けの空の色に見えた。が、そう思った刹那、再び色は変化して新月の夜のような、底無しの漆黒となった。

時々刻々と、見るたびに色は変わるようであった。

『貴女は、誰?』

霊夢は、鋭い声で問いた。いつでも、弾幕を張れるように、右の手の中では、既に扇型に展開された無数の札が、淡い光を放つ。魔理沙も、アリスも決して弱くはない。だが、目の前に居る相手に、それが通用する保証はどこにもないのだ。

霊夢の周辺の空気が、ちりちりと、赤く紅く燃え上がる。

―――――わたし…?わたしはね…

『河骨川。私の嘗ての名は、こうほねがわ…、貴女は…そう、博麗霊夢というのね?』

こうほね…?霊夢は首をかしげた。いや、何故、私を知っている?

『全ては川の流れの中に…。この星はね、知っているかしら?川より出でて、海を作り、そして雲となって雨に転じ、延々と巡る水によって今まで、生かされてきたのよ。』

“彼女”は、霊夢を正面から見ると、甘くとける砂糖菓子の様な、優しい微笑みを浮かべた。

『貴女の体の中にも、私を形作るものと同じ、水が入っているのよ…だから、貴女のことは、全て分かる。貴女は…とても綺麗な人ね…貴女は…貴女は、とても強い人。優しい人。もしも、”外”の世界の人たちに、貴女のような心があったなら…わたしはこんな風にはならなかったのにね…』

自らを「河骨川」と名乗った少女は、一旦言葉を切った。

首から下が、”彼女”の感情を表す様に、もやもやと銀色に揺らめいていた。”彼女”の身体を通して透けて見える、南天のアスクレピオスの星列が、より強い輝きを放った。

『パチュリー。』
霊夢は怒気をはらんだ眼(まなこ)で、パチュリーを睨み据えた。パチュリーは無表情で、それに応える。
 

『…何かしら?』
 
 霊夢は、パチュリーに大きく一歩、歩み寄った。踏みつけられた砂が、白く舞いあがっり、霊夢は大きく深呼吸した。
そして、それを全て吐き出すように、パチュリーを怒鳴りつけた。
 
『いったいあんたは…いったい、どういうつもりなの!?』

(どういうつもりなの…?) (どういうつもりなの…?) (どういうつもりなの…?)
(どういうつもりなの…?) (どういうつもりなの…?) (どういうつもりなの…?)

 白い砂の大海原に、霊夢の怒号が響き渡る。

『ふうん…霊夢、まだ貴女は解らない?それが、私には解らない…。』

パチュリーは魔導書で顔を覆うと、そっけなく答える。それが、霊夢の神経を逆撫でした。だが、霊夢が二の句を告げる前に、パチュリーは顔を起こすと、霊夢に言い放った。


『私の見た”夢”…貴女に説明しなかったかしら?』

―――――…?

そうだ、慧音の屋敷を出て、人里の辺境に出る途中で、パチュリーが話していたのを、思い出した。アリスと魔理沙は、紅魔館を出る前に聞かされたらしい。


…だが、それと今の展開、何の関係があるというのか?
 

 『今の話を、聞いていなかった?霊夢?誰も、水の循環の中から逃げることはできない。貴女も、私も、”彼女”も、同じ”水”というエレメントで繋がった、一繋がりの姉妹ということを…。水は、私たちをこの星の生きとし生けるものたらしめる、重要なエレメント。水の転生と輪廻という、大循環の母胎の中に抱かれた、私たちは、この星の子供なのよ?私たちの身体は、その”水”の記憶を忘れていない筈……』
 
―――――…!

『だから、あの夢を見させられた時、ひどく懐かしい感じがして、優しい気持ちになれたの。私、ようやくここまで来て、気が付いたわ。』

パチュリーは、穏やかに笑った。

そこで“彼女”が再び口を開いた。

『――――透明な幽霊の連続体』

霊夢の踏みしめた足の下で、砂の感触がサラサラと流れはじめ、それが次第に加速するのが分かって無意識に、突きだした手が宙を掻いた。足もとをすくわれる恐怖が、霊夢を鷲掴みにしたのだ。 “彼女”の口が、黒い三日月型になると、風鈴のように澄んだ声が荒野に響き渡った…

『さあ、こちらへ…霊夢、そして後ろのお友達の方々…魔理沙、アリス……』





“彼女”の目が虹色に燃え立ったように、霊夢には思われた。

■□■□
『さあ、御覧なさい。』

“彼女”の声が響く。霊夢は驚愕した。魔理沙もアリスも、同じ感情に支配されたようだ。
ただ一人、“彼女”の横にいるパチュリー・ノーレッジだけが、こちらを無感動な半眼で見つめていた。

“彼女”はゆっくり舞うように螺旋を描くと、銀色の髪を輝かせて面白そうに笑っていた。
星々が群がり集まって出来た幻影のように、漆黒の空間を漂い始める。

すると、初めは漆黒と思われていた空間に、大きな変化が現れ始めた。

―――――なんだろう、これ…?

白い光が渦を巻きはじめ、それが、個々の光の粒の集合体であると気付くためには、少しばかり時間が必要だった。光の粒が集まっては、散り、再び集まっては、また散った。
それを繰り返して、光の渦はその雄大な腕を、漆黒だった闇の隅々にまで大きく広げ、その様は、蝶が長い眠りから覚めて羽化する姿に、限りなく重なって見えた。

…そうして…
霊夢たちの足元には、鮮やかな色彩を放つ壮大なパノラマが、姿を現したのだった。


『これが、私たちの銀河。見えますか…霊夢、魔理沙、アリス…?無数の星々が生まれて、また死んでゆく、その姿が…。そして死した星の残骸から、また新たな星々が生まれる様子を。…だから、一つの星の誕生は、他の多くの星の死によって支えられていると…思えませんか?…死は、次の生への入り口。生は、次の死の始まり。延々と、終わりを知らない、夢幻のロンド…では、少し場所を移しましょう…』


(透明な幽霊の連続体…?)


―――――轟ッ…
 
 霊夢たちの足元で、銀河が大きく広がり、みるみる近づいてくる夥(おびただ)しい数の恒星群が、七色の光条となって少女たちの脇をすり抜けていく。

後ろでは、魔理沙が絶叫していた。

『こいつは、すごいぜ!』

魔理沙は、先ほどの会話の真意など、まるで意に介さぬが如く、目の前で展開される大スペクタクルに魅了されていた。

―――――轟轟ッ…

再び、燃え上がる灼熱の火球の脇を、恐るべき速度で通過する。魔理沙は、背中にしがみついているアリスに構わず、腕を振り回して、溢れる歓喜の渦に取り込まれていた。

想像を絶する銀河の営みへの、純粋な憧憬。

プロミネンスの橋を渡り、爆裂するフレアーを潜り抜け、少女たちは一路、ある恒星系に突入していた。長く尾を引く彗星や、氷に閉ざされた兄弟星、巨大な環を幾重にも持った惑星群を脇目に真っ直ぐ、目の覚めるように青い、一つの惑星に近付いてゆく。


『ここが、次の舞台よ…』

かすれる様な声で、”彼女”が告げた。

緑色の縞模様に、ヴェールのような白い雲を纏った青く蒼い惑星は、ただの点のようにしか見えない星々の間で、透明な硝子玉のような輝きを、宇宙空間に放っていた。

銀河の大いなる胎動の中で、その小さすぎる存在は、限りなく脆く儚く感じられた。

…これは……地球…?

霊夢、魔理沙、アリスは皆、同じ直感に行き着いた。
だが、息をつく暇もなく、少女たちは”彼女”を先頭に、蒼い惑星の懐深く飲み込まれていく。七色に揺らぐ極光のカーテン、蒼白く輝く夜光雲、沸き立つ白い積乱雲をぶち抜いて、


―――――轟ッ…


そして、皆は風を切り裂き、山脈を掠め…

そして気がつくと巨大な都市が、眼下に広がっていた。無数の白い煙が長々と風に靡き、黒い屋根瓦が太陽の光を受けてキラキラと輝く。蜘蛛の巣のように張り巡らされ、よく整備された水路を、沢山の舟が往来して、それは、大都市の人と人の営みの活発さを、雄弁に物語っていた。

『時間の反転…ここは江戸の街…』

すると、ふいに…“彼女”の声が再び耳朶を打ち、


激しい落下の感覚が、少女たちを捕えた。霊夢は叫び声をこらえた。

そして次に気が付いたとき…
目の前の光景は、また驚くべき変化を遂げていた。

■□■□

少女たちは今、大都市の大路の真ん中に立っていた。

木と水と緑の都。それが大江戸の街であった。

整えられた街道が何処までも続き、そこを物資を山のように積んだ荷車がガラゴロと賑やかな音を立てて走って行った。向かい側からは、籠を担いだ人足たちが威勢の良い掛け声を張り上げて、何人も走ってくる。

柳の葉が春風に涼しげにそよぎ、その下を流れる水路を、米俵を積んだ船頭が、先を急いでいた。水路沿いには、野菜を洗ったり、水を汲んだりする女の姿があり、風車と飴をもった童子たちが、歓声を上げながら石段を駆け上ってくる。
ひっきりなしに、町人や荷車の行き交う大路は商人で溢れ、軒を連ねる店はどこも客がせわしなく出入りしていた。呉服屋、飴屋、蕎麦屋に魚屋…提灯や暖簾、幟(のぼり)が所狭しとひしめき、どの店も客が群がって取引に余念がなかった。

昼間から、どこの店か、琴や三味線の音が聴こえ、食べ物の良い香りが風に乗って道行く人々の鼻をくすぐる。
この街の喧噪の中に身を置いていると、不思議と苛立つどころか、逆に活気がにわかに湧いてくる感じすらした。

――――少女たちは歩き始めた。道行く人に、彼女たちは見えてないようだった。

 『さあ、ついたわ』

“彼女”は立ち止まった。街の雑踏を抜けると、目の前には直ぐに、大きな原野が広がっていた。風が吹けば、ざあっと大きなうねりが生まれ、まるで一つの生き物のように見えた。

人間の住まう郷に隣接して、これ程広大な平原が残されていたとは。
人工物の象徴たる街を抜ければ、そこは手付かずの自然。

『踏みつけたりしちゃ、ダメだぜ。』
 
――――さらに進む

蒲公英(たんぽぽ)の彩りが街道を飾り、その金色が太陽の光に鮮やかに浮き彫りにされる。また時折、踊子草の花が混じっては、霞むような桃色を添えて微笑んでいるようだった。

『当たり前じゃないの』

ヤマブキの橙色に、スミレの青色が混じる花園の中、綿帽子が弾けて遠く雲を撫で、奥に流れる小川に映る青空が、キラリと光った。蝶が、蜻蛉が、風に吹かれて飛んで行く。

 風が奏者で、生きとし生けるもの全てが楽器。

――――息吹。

何もかもが生の歓喜に包まれ、幸福を謳歌していた。

『ここは何処?』
霊夢は聞いた。ほとんど無意識に、口を衝いて出た言葉だった。

――――…

『春の小川。』
先を歩いていたパチュリーが、ゆったりと答えた。
パチュリーの隣で、“彼女”がゆっくりと天に昇りはじめる。

――――笑っていた。

銀色の滝のように見える髪の毛がふあっと広がると、片手を上げて、口を開いた。
“彼女”の足元には、一本の小川が流れている。

―――――ここまで、きてくれてありがとう

 『この小川…私は見てほしかったんだ…永い眠りに就く前の、本当の私の姿…。そして、みんな知って欲しがっている…花も草も木も虫も…この私も…私たちが本当にこの世に生きて、確かにここにあったという、その事実を…』

パチュリーが前に進み出た。


『――――透明な幽霊の連続体。』
“彼女”の声が響く。

それを受けてパチュリーが口を開いた。
『名も無き存在が、知らず知らずの内にかかわり合い、溶けあっていく。生まれては死に、死んでは、また生まれる。この銀河の星の営みと同じように。…延々と繰り返される生の再合成。私たちの惑星があるのは、その材料となっていった、私たちの知らない星々の死があればこそ…。そして、この惑星に水が宿り、水に育まれて生命が宿った…私たちは、皆、水を巡って廻り続けている連続体。そして、私たちの体を作っている構成物質は、嘗て生きていたものを構成していた物質。そのものたちの死が、私たちを作っている。…この惑星と同じようにね。水は母で、生きとし生けるものは全て兄弟姉妹…』

“彼女”が廻る。寂しそうに、笑いながら。

霊夢が、一歩”彼女”に歩み寄った。

『それで、何が言いたいの?』

“彼女”がくすくす、と鈴のように笑った。

―――――忘れてほしくない

『みんな、一緒に廻っていた時代のことを…』


……… Ice-cold discord ………

全てが鉛色になった。
乱立する摩天楼。入り乱れる若者。
電磁波が飛び交い、騒音が鼓膜を引き裂く。

『これが、現在。』

“彼女”は語った。

『昔はよかった。皆、私に感謝してくれた。水神として蛇を祭り、生きとし生けるものの母として、私を信じてくれた。私を真ん中にして、みんなが潤ってくれた。…私は嬉しかった。でもね今、私は、暗いアスファルトの下。もう…私が太陽を見ることは…二度とないの。…誰も、私が足元に居ることなんて、知らない。そして、私が本当に生き、愛されていた時代を、皆は忘れてしまった。何もかも、我が手さえあれば不足を補えると、自然を畏怖することはなくなった。だから、平気で私を地下に埋めてしまった。』

――――ココカラ ダシテ ダシテ ダシテ
――――ニゲテ ハヤクニゲテ
――――コワイヨ コワイヨ ダシテ タスケテ

ごぉん――ごぉん――ごぉん――ごぉん――


『街の雑踏――――』

“彼女”は続けた。哀しそうに、白い顔で微笑んだ。

『――――みんな、ひとりじゃ生きていけないのにね?いや、本当はひとりじゃなかったんだけどね?わすれちゃったのかな…。だから、”外の人”は皆、どこか乾いている…。』

……… Ice-cold discord ………

再び少女たちの意識が、闇にのまれていった…

■□■□
―――――…っ

『いてててて…おい、パチュリー?しっかりしろっ!』
魔理沙は意識が戻ると、砂に半ば埋もれるように倒れているパチュリーを、直ぐに抱き起した。…一方のパチュリーは、焦点の合わない目で、魔理沙を見上げて唇を震わせた。

『あれ…わたし…何してたのかしら…?』

霊夢が歩み寄る。アリスも心配そうに覗き込んだ。
パチュリーは首を横に倒した。立つ力すらも、失ってしまったようだった。

『なんだかね、また、夢を見ていたみたい…なんか…ダメね、わたし。』
パチュリーは、再び目を瞑ると、顔をぎゅっと魔理沙の胸の中に押し付けて、黙ってしまった。

霊夢がはやれやれ」と溜息をつく。白い息が、また空に昇って行った。
…と、その時

『いいえ、馬鹿なんかじゃないわ。』

聞き覚えのある声がした。


――――紫…!

『あの子は、ずっと一人ぼっちだったわ。でも、初めて、川であるあの子の言葉を聞いてくれる人たちがいた…それが貴女たち。だからあの子は最期に満たされて…たった今、昇天していったわ…。パチュリー…有難う。貴女があの子のメッセージを受け、理解してあげられたから、あの子を孤独から解放できた。霊夢、魔理沙、アリス…本当に有難う。』

八雲紫は、いつもと雰囲気が違っていた。
空気は先ほどのように冷たくはなく、温かな風が、彼女の金色の髪を撫でて過ぎていった。白い砂がもやとなって舞い上がる中、魔理沙は、パチュリーを下ろすと紫の真正面にまっすぐに歩いていく。

『やっぱり、あんたが黒幕だったんだな…あははは…』
魔理沙が少し笑った。
だが、目の端に滲んだ雫は、彼女の感情を如実に表していたかもしれない。

『…でも、でもさ、あたしたち…アイツの話を聞いて見届けることしか、できなかったじゃないか…本当にそれで良かったのか?…ははは…参ったぜ…なんにもしてやれなかったのに「あの子は最期に満たされて…」って、冗談言うなよ…ゆかり…』
魔理沙はつづけて言った。幽かに彼女の肩が震えている。言葉がとぎれとぎれになり、溢れる感情で息が出来ない。魔理沙は自分が泣き出していることに、全く気が付いてないようだった。

霊夢が歩いてきた。黙って魔理沙を抱きしめる。
『…どうして…魔理沙が、泣くのよ…』

パチュリーは何も言わずに、こちらに背中を向けて立っていた。

『紫…貴女は私に「”彼女”の”御魂”を救い出してあげなさい。」と言ったわ…。でも、私は、いや私たちは、本当に彼女の救いになれたの?…私は解らない…。』
霊夢は魔理沙の背中を優しくさすりながら、紫に聞いた。



――――すると、紫と反対側…霊夢の背中から声がした。



『その実を落とす者はその樹を思い、その流れに飲む者はその源を思う…だったかしら?』

幽ヶ子だった。

『あの子…ひとりぼっちだった。でも、ひとりぼっちじゃなかった時代も本当にあったからこそ、きっと、貴女たちの想像しがたい程に…寂しかったのでしょう…。でもね、貴女たちは、あの子の言葉に導かれ、あの子の見せたかった過去と現在をみて、そして、あの子からのメッセージを聞き届けることができた。だから…それが、あの子にとっての”救い”なのよ。…そうよね、紫?』

…しんと静まり返った朧月夜。

幽かな微光を放つ白い指が、夜空をなぞった。

次は、紫が口を開く。
『そう、幽ヶ子の言う通り。…貴女たちが、あの子のことを分かってあげて、それを忘れず、未来永劫子々孫々に伝えていったなら、それが”救い”であり、あの子への供養なの。…同じことが未来に繰り返さないためにも、ね。』

霊夢はしゃがみこむと、両手で砂を掬った。月光に照らし出されたそれは、霊夢の掬いあげた指と指の間からこぼれ落ちて、白く糸を引きながら、闇に散って消えてゆく。


『透明な幽霊の連続体…なるほどね。』


霊夢は独りごちた。
『誰かの死が、次の誰かの生に受け継がれて、新しい生を育む糧となる…。永遠と引き継がれる夢幻のロンド…わかったわ…』


霊夢はパチュリーを振り返った。パチュリーが頷く。

彼女は言った。
『まさにその営みこそが、私たちの惑星そのものなのね…』





嘗て見た夢に想いを馳せながら、パチュリーは空を見上げた。
アスクレピオスの星々が一層、その煌めきを増したように見えた。





――――アスクレピオスの星々…またの名を蛇遣い座。

蛇は、水をつかさどる神の仮の姿。
蛇が龍となり天に昇るとき、雷が鳴り響き、恵みの雨がもたらされる。

……雨無くして、緑成り立たず。水無くして、命宿らず……

その理を身に沁みて実感する瞬間だった。

最終章≪輪廻〜絶えることのない連鎖≫
慧音は天に昇ってゆく光が、蛇遣い座と交わって消えていく様を見て、静かに涙を流していた。その光は、見ているだけで優しくなれる、春の色をしていた。

だが、何故、ここまで心が痛いのだろう。

『でも、最期に”彼女”、いいこと言っていたな。けーね?』
妹紅が言った。そしてつづけた。
『本当は、独りじゃない…と。いつも支えてもらっている私が言えた事じゃないけれど、私は…その…』

『その……??』
慧音は顔を上げた。
彼女の絹のように白かった顔は、目元だけ熱く赤くなっていた。

小さな静寂。そしてその終焉。

『絶対に私は、けーねを…独りにしない。』

妹紅は胸を張って言い放った。
だが、次の瞬間、柔らかな感触に気付くと目の前が真っ暗になった。妹紅は顔から、慧音の胸の中に抱きしめられていた。首筋を優しく撫でる手が、とても温かかった。

『はは、憎たらしいことを……有難う。妹紅…私もだ。』

朧月夜に見つめられ、いつまでも抱き合う二人の姿が、そこにはあった。

■□■□
『あのね、魔理沙。』
アリスだった。もう、紫も幽ヶ子も忽然と姿を消した後で、残された少女たちは人里に向かって一路飛行していた…そんな時のことだった。

『…なんだ、アリス。』
魔理沙は言った。無理に笑おうとした顔が、まだ泣き顔に歪んでいた。それを見せたくなくて、魔理沙は振り返ろうとした顔を無理にぐいっと前に向けなおすと、また背中を向けてしまった。

『…ごめん』
アリスは、溢れる想いの全てを込めて、ただそれだけ呟いた。

――――…
魔理沙は、その意図が解りかねた。

『何故、アリスが魔理沙に謝るの?』
パチュリーが後ろから質問を投げかけた。霊夢も横目で、アリスを見る。

『私…今まで、あまりにも独りよがりだったから…だから―――』
アリスは沈んでいた。

『いいじゃない、それでも。だって――――』
霊夢は言った。

『――――みんな繋がっているんだから…ワガママなんて、お互い様だぜ?』
魔理沙は笑って霊夢に続けた。今度は本当に――――笑っていた。

勢いで家出をし、だが寂しくて怖くて放浪していた時、道角で自分を探す母に会った時のような温かな優しさと、喜びのさざ波が、アリスの胸をやんわりと満たした。

―――――ごめんね、でもありがとう…

だが、感慨にふけっている暇はなかった。

『…じゃ、私も何かワガママしてしまおうかしら?』
パチュリーがぼそっと言う。
そして猛スピードでアリスを追い越し、魔理沙に接近した。

『あああっ、こらパチュリーっっ!』
アリスが慌てて吠える。
そして、加速すると、パチュリーを押しのけて、そのまま魔理沙に突っ込んだ。


『おわ、ばか!アリス、こんな高空でそんなこと…あ―――っ!』
『おやめなさいな、アリス。はしたないわよ?』
 パチュリーは半眼で、アリスをわざとらしく睨む。アリスは頬を桜色に染めた。


――――あははっははっはは…

(あははっははっはは)( あははっははっはは)( あははっははっはは)
(あははっははっはは)( あははっははっはは)( あははっははっはは)

 魔理沙と霊夢と、そしてパチュリーの笑い声が、朧月夜に高く響いた。


霊夢は思った。やはり、幻想郷はこうでなくっちゃ、と。

…幻想郷には涙は似合わない。


 そうしているうちに、朧げに人里が見えてきた。

■□■□
――――夜が明ける

漆黒だった闇が藍色に染まって行き、やがて茜色となる。
時間と共に移ろいゆく光のグラデーション。

この日一番の太陽が、地平線からその雄大な姿を現し、ひっそりと月が、光の洪水の中に溶けて、そして消えてゆく。

『…』
 少女たちはまだ気が付いていない。だが、人里は大騒ぎになっていた。

真っ白な砂の大海原だった場所が、翡翠色に輝く大平原となり、その上、星の数ほどはあるだろうか、信じられない数の花々が一斉に咲き誇っていたのだ。

一夜にして真っ白な砂漠となった大地が、生に溢れる緑の大地に生まれ変わっていた。

大きな幻想郷というキャンバスに描かれた、まさにそれは水彩画だった。

そしてその中央には、見紛うことがあろうか、新しい小川が一つ、流れていたのだ。

その小川の水は、乾いていた大地を潤し、人々の危機を押し流して、全てを洗い清めて流れていた。川面に映る空は徐々に青みを帯びて行き、その中で昇りゆく太陽が山吹色に煌めいていた。

――――生き物と大地とを繋ぐ水。過去と現在を渡る橋。

『…これはどういうことかしらね?幽ヶ子?』

空から見下ろしていた紫は、スキマから一緒に体を半分覗かしていた幽ヶ子に問いかけた。ただ、紫の声は感動に打ち震えていた。
普段は決して感情の起伏を見せない紫の、珍しい姿。幽ヶ子は、口元に置いていた扇子を心地よさそうにひらめかせると、笑みを作って、囁くように答えた。

『輪廻転生に関することは、言えませんわ。ただし…これだけは言えるかしら…。』

喜んでいるのか、困惑しているのか判らないような、曖昧な流し目が、紫の横顔に注がれる。紫は訝しみながらも、自分の反応を待っている幽ヶ子を促した…。

『なにかしら…?』

すると、幽ヶ子の顔が少しだけほころんだ。幽ヶ子は語った。

『全てに忘却され、地下に幽閉され、誰からも振り返られなくなった…自らの渇きを癒すため、迷える魂は暴走してしまった。その結果が、一夜にして起きた砂漠化。でも、今は、彼女たちが、あの子の望みを叶え、満たされた今は、もう、その必要がない。満たされた現在は、自らの…川として、水を司るものとしての本当の使命を思い出したのでしょうね…。今、大地は喜びに満ちている。あの子も喜んでいるわ…。』

(―――――忘れてほしくない…みんな、一緒に廻っていた時代のことを…)

紫は、幽ヶ子が話すのを聴きながら、眼下に広がる光景を眩しそうに見下ろす。紫は、河骨川と名乗った例の少女の言葉を、ひたすらに思い出していた。
 
眼下の光景…それは嘗ては珍しくも何ともなかった、”当たり前”だった筈の風景。
 今、”彼女”は幸せだろうか…?…きっと、その筈……

 紫は、幽ヶ子と視線が合った。紫も幽ヶ子に応える。

『ええ…幽ヶ子がそう言ってくれて…私も安心したわ…あの子が、あるべき姿に戻り、生まれてきた意味を取り戻すことが出来たならば…私は、わざわざ外と内の境界を反転させて、あの子の魂を幻想郷に導いた甲斐があったというものだわ……。』

太陽が地平線から昇り、空に青さが満ちてゆく。地平線から朱鷺の群れが現れて、淡紅色の翼を翻すと、次々に小川に降りて行った。

すると幽ヶ子が少し疲れたような顔をして、呟いた。
『ふうん…紫もとぼけるのがお上手ねえ?…今私が喋ったことは全て、紫は事前に分かっていた上で、あの子の…河骨川の魂を、幻想郷へ導きいれたのでしょう?…紫。その本当の目的を言いなさい。』

小川の周りに湿原が出来て、そこに咲くキスゲの橙色がヒガンバナの紅色と競うように輝く。親子連れの白鷺が、その下をくぐる様にして歩いて行った。

紫は、やつれた顔になって、幽ヶ子の方を向いた。幽ヶ子は「くすっ」と笑った。
紫は言った。
『人々の目を覚まさせること。それが私の目的よ。』

幽ヶ子が顔色を変えず、頷く。そこで、紫は続けた。

『その実を落とす者はその樹を思い、その流れに飲む者はその源を思う…幽ヶ子も知っていたでしょう?覚えているわね?私たちが最初にこの件について会話した時のことを…』
 
春のように暖かな風が吹いて、しっとりと幽ヶ子の髪を洗ってゆく。
幽ヶ子は黙ってまた頷いた。

『…』

紫はさらに続けた。
『外の世界の人々が忘れてしまったことを、幻想郷の人間たちが忘れてしまわないようにすること。水があるのが当たり前?当たり前が当たり前過ぎると、それが当たり前であることの有難さを、ついつい忘れてしまうの。その源を思うことを忘れ、感謝も忘れ、次の代に継がせることも忘れ、最後には刹那的な発展にばかり、心血を注ぐことになるでしょう。そうなる前に――――』

『――――助けたかったのね。…そうね…全ての存在は、別の存在とつながっている。互いに無関係ではいられない。望もうと、望まずとも、ね。この星に生きるものは、みんな水の恩恵に与っているのだから、水の繋がりからは、逃れられない。それで…それを解らせたかった…?なるほどね紫。実に奥深いわね…うふふ…』
幽ヶ子が、紫の言葉を継いだ。


太陽が昇る。いよいよ下界は騒がしくなってきた。人間が、妖怪が、入り乱れながら小川に集まって行く。幻想郷の空の如く澄み渡った小川の水を得るため、それぞれが手桶やバケツをもって殺到した。五月蠅そうに鴨の親子がよちよち、菖蒲の根元から逃げだす。

幽ヶ子は笑っていた。心の底からの満足が、そこにはあった。
『…ねえ、紫?紫のいたずらに協力してあげていたら、お腹すいちゃった。紫の家で何か御馳走してくれる?』

幽ヶ子は紫の肩に身体を預けると、彼女の腕に自らの腕を絡めた。
『はあ……わかったわ。藍に何か作らせるわ…。』

紫はわざと大きめの溜息をつくと、幽ヶ子を腕に絡めたまま、スキマの奥に下がる。

『…有難う』
『ん…何か言った?紫?』

澄み渡った静寂。背中側は、人々の声が溢れている。目の前は新たな光の渦が現れて、八雲邸の居間が朧に浮かび上がりはじめた。

『ううん…なんでもないわ。幽ヶ子。』

彼女たちは、光の中に消えていった。幽ヶ子は、今一度振り返ると、小川の方向にウインクした。さて、これから藍は、現れた幽ヶ子に途方もなく七転八倒するのだが、それは別の話。
■□■□
――――太陽が昇ってゆく。
――――再生した大地が翠色に輝いている
そして…
――――新しく、そこには小川が流れている。

アリスは思い出していた。あの子…”彼女”が発していた叫びを。

(――――ココカラ ダシテ ダシテ ダシテ)
(――――ニゲテ ハヤクニゲテ)
(――――コワイヨ コワイヨ ダシテ タスケテ)

生が崩壊するとき、その魂の中を流れる旋律。

だが、今は違っていた。誰もが生に活気づき、喜びの中に居るようだった。

沸き上がる旋律は、成長する生き物が脈動する旋律。

アリスは知らず知らずのうちに、鼻歌を歌っていた。
――――春の小川…
『アリース、ウレシイノ?』
『ウレエシイノ?』
上海人形と蓬莱人形が両手を上げた。

巻き上がる彼女たちの金色の髪が、アリスの頬を撫でる。

『ええ、とっても。』
アリスは見上げる人形たちの頭をなでた。


…雲が湧く。
…風が吹く。

――――少女たちの眼下には、人里が大きく広がっていた…
■□■□
人里では、道に、屋根に、人が、妖怪が溢れ出して、雲間から現れた巫女と魔法使いの一団を一斉に歓迎した。人々の、そして妖怪たちの歓声が爆音となって轟き、大地を大気を、猛烈に揺さぶる。


『なんだ、なんだ、照れるじゃないか。』
『あらあら…これはなんということでしょう…』
『ああああ…』

音もなく、霧か雲のようにふんわりと地面に降り立った三人の魔法使いは、完全に油断していた。おびただしい数の群衆にあっという間に囲まれて、もみくちゃにされる。

『あ、あ、ちょっとだめ…ああ…』『うおおっ!パチュリー―――っっっ!』
喘息の気のあるパチュリーは、みるみるうちに紫色になるが、人と妖怪の渦の中にのみ込まれて、見えなくなっていった。痛んだ果物みたいな色になったパチュリーの、虚ろな目が魔理沙に突き刺さる。
だが魔理沙が慌てて追いかけたが甲斐はなく、魔理沙もまた別の一団にのみ込まれて、何処かに消えていった。

一方、アリスの周りは子供たちが集まっていた。以前、お祭りで人形劇を見せてあげた子供たちだ。一番背の高い子供も、アリスの腰骨あたりまでしか、身長がない。

『…有難う御座いました。』
その子供はアリスを見上げて、こう告げた。お行儀よく頭を下げる。
アリスはその子の頭をなでた。コウホネの花の髪飾りをした女の子で、お人形のようなきめの細かな白い顔に、黒曜石のように澄んで美しい瞳が印象的だった。

 からすの濡れ羽色の流れる様な長い髪が、さあっと広がる。
花菖蒲の模様が染め抜かれた蒼い着物には、メダカや小鮒が絡み合って踊っていた。
見つめていると、吸いこまれそうになるような、そんな感じがした。

他の子供たちは、アリスよりも、空に浮いて自分たちを見下ろしている上海人形と蓬莱人形を気にしている。
子供たちの煌めく眼差しを前に、蓬莱人形が浮かれて宙返りする。それを見かねた上海人形が、蓬莱人形に体当たりをかましていた。

『ううん…その言葉は霊夢に…紅白の巫女に言ってあげて。それと…魔理沙とパチュリーに…。……え?』

肩を誰かに叩かれた。アリスは振り返る。

その瞬間、さっきの着物の女の子はにっこり笑うと、もう一回お辞儀をして、人ごみの中に消えていった。「もう独りじゃないよ?」と言い残して。

はたして、アリスの後ろにいた人は慧音であった。

『お疲れさん。人里上げて、宴の準備をしている…何度礼を述べても尽くせぬほどの恩義があるのでね。今日一日は翼を休め、大いに楽しんで言ってくれ…アリス。』

後ろからは妹紅が出てきた。

『よっ、アリス?どうした浮かない顔だな。あのまま砂漠が広がったら、幻想郷が楼蘭の悲劇だった…ってのに、んで、それを阻んだんだろうが?もっと堂々していろよ?』

アリスは話半ばで、辺りを見渡した。泉の脇でパチュリーが頭を抱えて座り込んでいる。
その背中を魔理沙がさすっていた。…さっきの着物の女の子は、もういなくなっていた。

『そうね――――』

アリスは妹紅の手を捕えた。

『…?』
『――――これだけお友達がいるんだもの。もっと堂々としてもいいわよね?』


『え?』

妹紅の手を持って、慧音の背中を押すアリスは、人ごみの方へ歩き出した。
人々は、宴の準備をしている。

私たちも加わろう。自然と足並みは速くなっていた。

■□■□
 ――――宴は始まった。

宴は新しく誕生した小川のほとりで行われた。小川は人里を流れ、遠く地平線までつづく、一本の道のように見えた。

さらさら…

秋色に色づいた柳の葉がこすれて音を立てる。遠くから鈴の音が聴こえて、振り返るとそこにいたのは西行寺幽ヶ子。
二手に持ちたる扇の舞は、如月の花の吹雪くように、時に激しく可憐に、また時に繊細にして優美な旋律と交わって、見る者見る者すべてを釘づけにした。

その脇で笛を吹く、着物の女の子がいた。こうほねの髪飾りに、花菖蒲の着物。
人や妖怪が彼女たちを囲んで、杯を酌み交わす。はにかむ女の子が、眩しかった。

アリスは近づいて話しかけようと動いたが、白い手がにゅっと伸びてきて、止められた。

『まあ、いいじゃないの』
霊夢だった。

『あれ、霊夢?どこ行っていたの?さっき見当たらなかったじゃない?』
『さっさと手伝いに行っていたのよ。慧音だけに任せるのは、悪いでしょうが。』
『……ああ、なるほどね…』

アリスはグリモワールを開くと、初雪のように白いその指で、宙を切った。
彼女の指の動いた軌跡が、紅い魔光となって輝きだすと、複雑な文様を描いて人形の形をとりはじめる。

『じゃ……私はこれから手伝ってみますか…。』
アリスの手元から無数の人形たちが空に放たれると、幽ヶ子と、その女の子のところへ飛んでいった。
そして、彼女たちの舞に混じって、人形たちも踊り出す。

女の子はアリスを見て目を大きくしたが、すぐに会釈をして、また笛を吹き続けた。
そして、メロディが変わった。

――――春の小川…

彼女たちの周りでは、皆が廻っていた。

良く見ると、諏訪子や神奈子、早苗も混じっている。天狗の文や河童のにとり、幽ヶ子を心配そうに見守る妖夢、永琳に羽交い絞めにされる輝夜と慧音に抑えつけられる妹紅。その向こうには酔った勢いで「ファイナルスパーk…」と叫んでパチュリーに弾き飛ばされる魔理沙。それを抱きとめて、今度は自分が空に飛ばされてしまう霖之助。またそれを捕まえて笑い転げる紫の姿もあった。その下では、藍は沈みがちな顔で、橙と共に料理と酒を運んで行く。

空高く響く笑い声。

歌に踊りに、おいしい食事。うまい酒。
命芽吹き、躍動する地球の旋律。

――――春の小川は さらさら流る
歌の上手よ 愛しき子供
聲(こえ)を揃へて小川の歌を
うたへうたへと ささやく如く…


(忘れてほしくない…みんな、一緒に廻っていた時代のことを…)

忘れるものか。だって、今こうして、みんな一緒に廻っているじゃないか。
アリスは手元にあった杯を空高く掲げた。

清水のように澄んだ酒に映る青空は、なによりも彼女の心を映していた。
杯の中の小さな空を泳ぎ、そして消える雲は、秋の雲。

…明鏡止水。

ありがとう…みんな。そして、これからも…

一陣の風が吹き、群青の竜胆の花が、一つの波を作った。


終わり
ご愛読ありがとうございました。
沢山の伏線がございましたが、幾つに気がつけたでしょうか?
一度読んで、再び読むと、また違った世界が見えるかもしれません。

本当に有難う御座いました。

■□■□

ところで、最終章に登場する着物の女の子は、彼女の転生体です。
外の世界では、彼女=河骨川(こうほねがわ)は今は暗渠にされている、現実の川です。
小学校で習う童謡『春の小川』のモデルになった川でもあります。


河骨川は、河骨(こうほね)という白い花が沢山咲いていたことで、そこから命名されたそうです。
だから、着物の女の子が髪飾りに『こうほね』をつけていたわけです。

また、着物に染め抜かれていた花菖蒲は、同じく暗渠となった曳舟川の象徴です。
葛飾北斎の版画にも描かれた曳舟川もまた、河骨川と同じく時代の流れには逆らえませんでした。

このお話の大きな主題は『水』ですが、本作の中にはいくつものテーマが隠されています。
パチュリーの見た夢の内容、紫と幽ヶ子の問答、彼女のセリフの節々…

Keywordは、『透明な幽霊の連続体』
転生、輪廻、絆、繋がり、皆は円環となって関わり合う。

…明鏡止水。

少女たちが水を通して、かけがいのない皆の『繋がり』というものを、再認識していくお話でした。

また、刹那的な革新論、科学技術論へのアンチテーゼを込めたお話でもあったかもしれません。

■□■□

ところで、朧月夜、故郷、春の小川…それぞれは同じ作詞作曲家が世に送り出した、有名な童謡です。
日本の古き原風景が、美しく織り込まれたそれは、私の小説家活動に大きく影響を及ぼしています。

今回の小説の中でも、それぞれの歌詞に含まれる言葉や関連する描写が、沢山込められています。
これはもちろん、意図的に行ったものです。

幻想郷大好きです。実際のキャラより、幼かったり、逆に大人びていたり…それは仕様です。ごめんなさい。

でも、最後まで読んでくれまして、本当に有難う御座いました。
まりも
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2008/10/05 04:40:14
更新日時:
2008/11/06 13:39:53
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5.00
1. 10 破魔矢 ■2008/10/05 12:56:56
お馴染みの童謡が、こう生かされましたか。
個人的には、もう少しコンパクトにまとめても良いと思います。

でも良い話だったので・・・
2. 3 慶賀 ■2008/10/05 13:30:46
テーマはなんだろう。自分の如きおつむには、この話は難しかった
ようです。理解が足らず申し訳なく思います。
3. 10 nanashi ■2008/10/05 21:58:14
全印刷して読ませていただきました。NAGEE。でも、最後で納得しました有難う。では、ささやかに…
4. 10 うふふまりさ ■2008/10/06 15:17:38
色彩描写や風景描写がいいですね。目に浮かぶようだ。
アリスがいい味出しているが、もっと活躍してほしかったかなあ。
5. 1 小山田 ■2008/10/07 02:02:54
一方的で浅い内容のまま終わってしまったというのが読後感。
まず、物語の構成や表現力といった部分を凝ってみてはいかかでしょうか。
文の連なりを意識したり、語彙を増やしたり、物語の引き込み方を工夫したり、中だるみの修正して無駄な長さを感じさせなくする等、できることは沢山ありますよ。
6. 10 人形屋 ■2008/10/10 19:57:45
忘れてほしくない…みんな、一緒に廻っていた時代のことを…
という箇所が繰り返されるのが、ジンと来たですね。
パチュリーが主人公かと思ったら、最後がアリスで閉める。
このお話の中の人物はみんなが主人公でしたね。

きちんと最後に皆が救われるお話で安心した。
河骨川の真意が分かって、ちょっと泣けたけど、でも良かった。

色の描写が秀逸でした。
7. -3 暇を作るのが下手な人 ■2008/10/11 23:02:37
はっきり言ってつまらない
無理に自分の力量に合わない文章を書かなぃほうがいいと思いますよ
何かしら伝えたいことがあるなら格好つけずに文章を書いた方がいいです

ちなみに想創話で超自己満足小説を書いて0点になった人ですか?
後書きの雰囲気がまったくもって同じなんですが
違っていたらあの人の様にならないように頑張ってください
あの人ならいい加減にしてください

8. 8 yuz ■2008/10/14 17:37:13
いい雰囲気で楽しめた。伏線には多分、ほとんど気づけませんでした。
9. 4 神鋼 ■2008/10/15 20:19:43
少々テンポが悪かったですが綺麗な話しでした。
ただ、精神的なものを優先して発達した幻想郷に現実社会を貶めさせるのはどうにも……
10. 5 deso ■2008/10/23 23:01:30
展開やキャラの動かし方に多少違和感がありますが、壮大なテーマで楽しめました。
ギャグパートが浮いてる気がします。
せっかくの雰囲気が壊れてしまうので、ちょっと考えて欲しいかなあ、と。
11. フリーレス 詩所 ■2008/10/26 20:36:37
描写不足というべきなのか、文を飾る文が足りないためにいまいちストーリーが伝わりにくくなっている気がします。
読者を置いて、物語だけが先走っている感覚がありました。

誤字報告。
ヴワル魔法図書館……少なくとも紅魔館のパチュリーのいる図書館の名はヴワル魔法図書館ではないそうですよ〜。
12. 2 ミスターブシドー ■2008/10/27 00:44:58
キャラ描写が丁寧なのは認めるが承前が長すぎる。
会話に全体的にくどさがあり、行間が鬱陶しい。そのせいで非常に間の悪い話になってしまっている。
構成が散漫で内容が入ってこない為、伏線云々といわれてもピンとこない。
話の規模の大きさも相俟って、全体的にぼやけた印象の話になってしまっている。
皿に少しだけ料理が載せられ、それが延々と繰り出される感じ。
せめて同じセクション、同じ人物の視点ならまとめてもらいたい。
もう少しシェイプアップをオススメする
13. 2 PNS ■2008/10/29 00:01:46
河骨川の話だとは、最後まで気がつけませんでした。
題材としてこの川を選んだのは、すごい着眼点だと思います。

しかし、文章としては……読んでいて顔がブルーハワイになりました。
最初から最後まで冗長な表現に酔いすぎていて、何が起こっているかがよくわかりません。
改行も統一性が感じられなく、物凄く読みにくい。
もがいている登場人物とは違う意味で、読んでいる私が苦しんでいました。
さらに、キャラが実際の東方のイメージと違うのは仕様とありますが、これは『悪い意味』で違っています。
名前だけが同じで、後はストーリーに都合よく作られた人形のような感じで、一人も応援したくなる存在がいませんでした。
総合的に、私の知るSSとは次元が違い、完全に置いてけぼりにされました。
あとがきにあった通り、もう一度読み直してみましたが、途中で力尽きました。
14. フリーレス 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:45:10
好き人は好きかもしれない。
苦手な人には凄い苦手。
後者を断言できたのは自分が後者であるから。
一文を取り上げてもその情景を理解することが難しい。
僕のような愚かしい読み手には、理解させる文脈でないと駄目みたいですねーあっはっは。
理解もできていない自分に、この作品を採点する資格はありません。
申し訳ない。
15. 1 つくし ■2008/10/30 18:41:34
 なんつーか作者さんの頭蓋骨の中での自家中毒で生成されたものがそのまま出てきた感じで読むのがしんどいです。これだけの長さを読ませるだけのリーダビリティがありません。読者を説得して下さい。ところどころ詩的で光るところはあるのですが。
16. 3 じらふ ■2008/10/31 21:42:10
取り合えず、ゆゆさまの名前は「幽々子」なので、妖夢に「幽ヶ子」の「ヶ」の右上部分を切り飛ばして下にくっ付けて貰いましょう(笑

生々流転…私たち人間含め、全ては水が流れて行く様に移り変わってゆくのですよね。でも全てが変わって行くのだとしても、誰かがありし日の存在を覚えていてくれるなら、「繋がる生の一欠け」を忘れないでいてくれるなら。
それはとても幸せな事じゃないかな、と。
…うん、私もちゃんと覚えておこう、河骨川と言う小川があった事を。

そういえば河骨川の化身が言っていた「透明な幽霊の連続体」というのは、本文読んでる時は水の幽霊の事だと勝手に解釈してましたが…「万物が流転する裏には必ず何かの幽霊だった時期があり、私たちは転生後には忘れているけれど、そういう流転が形を変えながら未来永劫続いていくのだ」と言う意味合いでもあったのかなあ、とも妄想してみたり…。

文章に関しては…一文ごとに分けた文体は個性的ではありましたが、内容量の多さと相まって若干読みにくい印象だったかな、と(「〜は〜(っ・い)た」と言う描写が多かった事や、句点を使いすぎていたのも読みにくい雰囲気を助長していたとも思います)
また所々に違和感を覚える文法や言葉の使い方があるのも気になりました
(ex.>誰だって、良い言葉が思いついたら、ついつい口に出して話してみたくなるものだ。しかし、不覚にもその子供心を指摘されてしまうと〜→良い言葉「を」、「子供心」ではなく「稚気」では?)

あとちょっとした事ですが、会話文で!や?マークの後に文が続く場合は一文字空けた方が読みやすかったかなー、とも思います。

扱っているテーマ自体は非常に好みだったのですが、文章で損をしているように感じられたのが、少し残念でしたね。
17. 1 今回は感想のみ ■2008/10/31 23:02:27
長いのに、読んでいて目を惹くものがなくただ冗長。
大げさな表現も思いいれの強さばかりが目立って、美しさより技巧の拙さを感じて冷めてしまう。
春の小川など挙げられてものがなぜ沢山の人の心に響くのか、謙虚にお考え下さい。
とはいえ、長いものを書ききった努力に対して1点を入れたいと思います。
18. 8 あずまや ■2008/11/01 11:48:51
綺麗な感じでいいですね。人形二人がかわいかったです。

19. 2 八重結界 ■2008/11/01 18:43:10
壮大なお話でした。
ただ文章に違和感が多々あり、ストーリーも理解しにくかったです。心情も伝わりにくく、いまいち感情移入できませんでした。
20. 3 藤ゅ村 ■2008/11/01 19:05:12
 幽ヶ子って君。々よりこれ変換する方がめんどくさいじゃないか。
 懐古主義もいいけど、今も忘れないようにということで。昔はよかったってよく言われるけども。
 作者が言いたいことを、加工せずにそのままキャラに言わせてる感じ。いろいろ警鐘を鳴らすのもいいけど、それももうちょっと上手くやらないと押し付けがましくなる。
21. 5 つくね ■2008/11/01 22:21:32
壮大なスケールを感じた一方で、文体が多少独特でまた読みにくさが少しあったこと、そして表現したい事柄に作品が飲み込まれてしまったかのような印象があります。
22. 4 blankii ■2008/11/01 22:42:31
コンクリートの下の川、と言われて初めに浮かんだのは、日本橋の光景でしょうか。高速道路の架橋下を川が流れる姿がとってもシュール。
河骨川の彼女が最期天へと昇るラストでしたが、そこには希望が残ったのいだと信じたい。勿論と『外』にも。

……文章の百合百合しい部分(略してゆりしーとかどうか)に思わず身悶えしてしまった。
23. 5 リコーダー ■2008/11/01 23:21:30
某琥珀川を思い出した。
途中何度か読むのを諦めそうになってしまいました。最後まで読んで仲々だったので、もう少し手技が利けばと思うと惜しいかも。
24. 3 時計屋 ■2008/11/01 23:48:45
他に類を見ない独創的なSSであり、並々ならぬ力を注いだ労作であると見受けられます。
作中で語られる思想にも感心させられるところが無かったわけではありません。
しかしSSとして読んだ場合、どうしても評価出来ない部分が散見されました。
以下にそれを書いていきます。

まず書き方から。
同一の場面でも視座が一致していない上に一人称と三人称の書き方が混在しているために読みづらく感じます。
また改行、字下げも適切であるようには思えません。
これだけ長いSSであれば、読みやすさが肝要になるので、(時間が無かったのだとは思いますが)もう少し推敲をがんばってみてください。

次にお話の方ですが、唐突で説明不足な印象を受けます。
登場人物の心象描写や場面転換の繋ぎが不足しているため、話がどういう流れになっているのか分からず、ぶつぶつと古いレコードのように飛んでしまっている感じです。

私にとっては、何処か遠い知らないところで語られている話のようで、あまり共感できるものではありませんでした。
25. フリーレス 三文字 ■2008/11/03 00:22:50
感想を付けられなかったのでせめてもの罪滅ぼし。
きらきらと、まるで宝石のような描写でした。お伽噺のような雰囲気ともいえるかも。
ただ、描写がきれいですが、心理描写がいまいち大ざっぱな気がしました。
泣くような瞬間というのはそれはそれは、大きな感情が動くものです。
それなのに、泣く場面が多く、それに共感できるような描写も少なめかな?と感じました。
ただ、お話自体はすごく良かったですし、人形’sやアリスも可愛かったです。
26. フリーレス まりも(作者) ■2008/11/03 13:48:01
 厳しい評価がとても多い結果となりましたが、読んでいただけただけでも私は幸せです。有難うございます。本作品は、私の初小説作品であり、至らぬところが多いとは思いますが、もっと勉強をしていこうと思います。
名前 メール
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