華燭の春 燐火にて

作品集: 最新 投稿日時: 2008/10/05 06:16:49 更新日時: 2008/10/07 21:16:49 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00



 アルカディアの住人よ、貴方達はこのことを山々に歌うだろう。
 アルカディアの住人よ、貴方達は歌に慣れている。
 貴方達の芦笛が、いつの日か私の恋を歌うなら、そのときに私の骨は、なんと穏やかにやすらぐだろう。
 貴方達の羊の番人であれ、熟した葡萄の摘み手であれ、私が貴方たちの一人だったなら。
 そうであればどんなによかったことだろう。


「牧歌」より








 ― T 無名の墓前 ―




 はじめまして、僕は高橋といいます。彼の、三橋の友人です。大切な用事でやってきました。
 貴方は僕を知らないでしょう。ですが失礼を承知で、暫しの間お付き合い願います。
 月に群雲花に風と申しますか、晩春の日は永くとも、僕が貴方と対話できる時間は短いのです。
 対話という言葉は不相応かもしれません。彼に唆された男が心中で世迷言を語っていると、聞き流してください。
 貴方が地の深くに潜むのか、無骨な石木に宿っているのか、湿った風に溶けているのかは、僕にはわからないけれど。
 言霊の通ずることを切に願います。

 用事というのは、彼がその日来られないから、代わりに諸般の事を済ませてくれと頼まれたことです。
 場所は水音をたてる川のそば、ささやかな路の行き止まりにある柳の木下の、名前のない墓で、と。
 ひどく古びた墓地のすぐ隣だから、他の墓石が混ざっているかもしれないともいわれましたが、杞憂でした。
 柳の木の下の石はこれだけで、他の特徴も、彼の言葉に同じです。これが探していた貴方のお墓なのでしょう。
 彼自筆の地図が贔屓目に見てもいささか乱雑だったので、みつかるか心配でした。

 ……貴方が、水橋さん、ですね。

 彼が逝ったのは、ついこの間です。三十にも満たず、持病で余命幾許もなかったとはいえ、自ら命を絶ちました。
 彼が正気だったか、狂気だったかは、死の前日まで面会していた僕にさえも慮ることは不可能でした。
 周囲は彼を狂気にしたがります。時には小さな賞をとるような小説家でした。劇的な最期の方が色々と都合がいいのです。
 芥川龍之介然り、川端康成然り、太宰治然り。彼がそれ程偉大だったかといえば違いますが、話の種にはよろしい。
 ですが僕はどちらかと言うと正気に思われたのです。彼の目線は揺るがず、よく砥がれた剣のような眼光がありました。
 死の直前でさえもです。ただそれと同時に、僕たちと見る世界が違っているような気も薄々感じていました。
 やはり狂気だったのでしょうか。彼は何を幻視していたのでしょうか。貴方の姿でしょうか。それとも……。

 彼の小説の題は『華燭の春 燐火にて』といいます
 処女作が遺稿になるというと、矛盾を感じますが、彼に渡されたこの不思議な小説はそれなのかもしれません。
 初めて書いた小説に、幾度も書きなおすことを繰り返し、とうとう発表しないまま、彼の書斎に眠っていました。
 そもそも発表する気などなかったのだと思います。出来も他の作品のほうがずっとよいと彼自身言っていました。

 彼の遺稿ですが、結構な枚数です。この時勢、原稿用紙に手書きとは珍しい。
 しかもこの原稿しか、もうこの世にありません。コピーもありません。強いて言えば僕の心のみにです。
 これを貴方の墓前にて燃やしてほしいというのが彼に命じられたことでした。尤も貴方は幾分知っているでしょう。
 彼は貴方と出逢った日から、毎年同じこの日に此処へ訪れ、そしてこの小説を燃やしていたはずです。
 そして燃え尽きた灰を、傍の川に散らして、また来年やってくるということを何度か繰り返していたと。
 線香も蝋燭も花も経も無く。毎年、新たに書き直したこの小説を持って。貴方に見てもらう為だったのでしょうか。
 彼はこの儀式を僕に頼みました。彼の体は病み、今日という日に此処には来られなかった。だから。

 先にも申しましたが、時間がありません。この僕が、今年は彼の代わりを請け負って、貴方に手向けます。
 彼はこれを、炎の花束と称していました。僕はとても素敵な表現だと思います……。






 僕は殆どタバコを吸わない人間だった。だからライターではなく、家の台所にひっそり在ったマッチを持参した。
 くるりと原稿を丸め、筒状にし、その先端に火をつける。これがあの人の毎年行ってきたことなのだ。
 毎年のことならば何か彼の形跡が無いかと、僕は墓石から川の方まで、ざっと目をやった。燃え残った紙の一片でも。
 何も無いのがわかると、彼との出会いから先日の別れまでのことが頭を巡った。

『やあ、貴方の名前にも橋がつくのですね。私の名は三橋といって、これは何かの因縁があるのかもしれません……』

 回想の彼は人の好い笑みを浮かべていた。今思えば、最初の言葉から彼は此処を暗示していたのかもしれない。
 季節はずれの蝉の声が近い。原稿に少しの折癖をつけて、花束の用意は進む。
 此処は春に仲間はずれにされたような場所だと僕は思った。季節の花は見当たらず、鬱蒼として時が淀んでいた。
 川べりには上流の山桜という他所ものの春が、水流にくるりくるりとせせら笑うように舞っていた。

 丸めた原稿の中間あたりを紐で締め上げて、スーツのポケットにいれたマッチを探った。湿気が心配だ。
 一本目は案の定、頭薬の具合が悪かったのか、つかなかった。二本目は棒の中間あたりでぽっきりと折れてしまった。
 彼が死んだ日、僕は人生で二本目のタバコを吸ったのを思い出した。そのときもマッチで火をつけたのだ。
 回想の中の三度目はこぼれるような音を立てて、赤々と火がついた。

 そっと、原稿の筒の先を、絡むように火が覆った。
 優しく空気と織り交ぜると、炎は上部を完全に支配し、幽かな音を立てて熱を発した。
 オリンピックの聖火を重ねてみたが、その炎はそんなに神聖なものに思われず、僕は寧ろ魔性を感じていた。
 蝕みの紅色が、白い生の物語を黒死に追いやっていく。そんなネガティブな妄想に駆られてしまう。
 炭になった紙の欠片は、剥がれては零れ落ち、散華を思わせた。揺らめく短命な炎は、確かに花を思わせた。
 炎の花束、と彼の詩的な言葉を口ずさんだ。僅かに神々しさを感じ取れた気がした。

 ガスコンロの火のように無機質ではなく、花火のように鮮やかではなく、まるで未練を具現化したような火だった。
 一思いに焼却もせず、かといって身を潜めるほど慎み深くない炎に、いつの間にか、不思議な色が混ざっていた。
 彼の使った紙の中に含まれた何らかの微量な成分のせいだろうか、あるいはインクの中の薬品のせいだろうか。
 赤色の中に、フッと緑色の炎が生まれ、ほろほろと涙のように零れては消えていった

 瞬間どきりとした。彼の言葉が蘇ってきたのだ。



 高橋さん、嫉妬というのは何色だと思いますか……? 赤色? オレンジ? 青? いいえ。答えは緑色なのです。
 シェークスピアは、嫉妬心というものを四大悲劇の一つ、オセロで緑色の目をした怪物と書いています。
 Green-eyedで嫉妬深いという意味を、やや文学的表現ですが、英語圏では用いられるほど、一般化されました。
 ヴェニスの商人でもGreen-eyed jealousy、緑眼のジェラシーといった言葉を用いています。

 これの下敷きになったのでしょうか、更に昔、同性愛者の女流詩人サッフォーもまた似たことを書いています。
 私の中を汗が伝い落ちる。震えが全身を捕らえる。私は草よりも青ざめる。最早自分が死なんばかりに思われてくる。
 草より青くというのは勿論濃い緑の意味です。彼女の愛する女性が、他の男と仲良くしているのに嫉妬した詩です。
 尤もこれは、前者よりも単純に、顔面蒼白で静脈の色が浮き出ているということからきたレトリックでありそうです。
 しかし嫉妬と色を関連付けたものは恐らくこれが最初であります。その他の言語でも緑で嫉妬を表すものは多いです。
 緑の目とまで純化したのは、シェークスピアだけですが。

 シェークスピア、サッフォー、そんな昔の人間の恣意な言葉を真理の様に語るなんて、といいたいかもしれません。
 言語の一致についても、彼らより生じたものだから、嫉妬の色の定義には甘いというのも、ひとつの見解でしょう。
 ですが面白いものでしてね。科学的にも、緑という選択は中々鋭い観察の結果であると言えなくも無いのです。
 人間の目は、暗所と明所では使う網膜の細胞が違います。暗視野、明視野といって色の見え方が変わります。
 明るい所、つまり昼とかは黄色が見えやすく……これは黄色いヘルメットや踏み切りなど考えればわかりますね。
 では暗いところではどうでしょう。闇の中で人間が最も見えやすい色は実は緑なのです。
 非常口の看板は緑色でしょう、地震や何らかの事故で停電が起きたとき真っ暗の中でもわかりやすいよう緑なのです。

 ……いいたいことはわかるでしょうか。何故嫉妬心が緑色かということです。
 今言ったように緑色というのは暗黒の中で最も煌々と光る色。これを人間の心理に置き換えてみましょう。
 落ち込むことを暗くなる、といますが、人間は絶望や失望で心の中が真っ暗になってしまうことがあるものです。
 そんなとき、いきなり憎悪や憤怒というものは強烈に燃え立ってきません。
 どうしてこんな目にあったのだろうと考えやすい。本能的な自己分析と学習です。
 でも溜飲の下がる結論を得られないとこう思いがちです。どうして自分だけがこんな目に。
 傷つけた相手の平穏は当然、周囲の平和や幸福すら、目前から排除したくなります。憤怒へと延焼していきます。
 人の心の暗部に、絶え難く、しかも目を背けられぬほど明るく宿るものは、緑色をした嫉妬の炎と思いませんか……。

 はは、途中からは憶測とこじ付けだろうと言わたら言い返せません。だが間違っていると思えないのも事実で。
 理由ならば……貴方に見せたでしょう『華燭の春 燐火にて』という小説、前編のみですが。
 いやはやいろいろ理由はありますが、稚拙で申し訳ない。在り処を教えるので、後編を見るといいです。
 私がこんなに緑と嫉妬の雑学を仕入れている事から推量されたかもしれませんが。
 あの少女の双眼はですね、今は、燃え立つように明るい、緑色の瞳をしているのですよ。



 喉がごくりと鳴った。強い酒を一気にやったようなぬるりとした揺らぎが体を包み、握り締めた紙は湿っていた。
 緑の炎は消えたかと思えば再燃し、手は戦慄いた。地に引き込まれてしまいそうなほど、両足はおぼつかない。
 僕は何とか、稚児のように危なっかしく、しゃがみ込んでそれを地に置いた。ほうと重い息を吐いて立ち上がる。
 その刹那、結んでいた紐が焼ききれたのか、ばらりと原稿を丸めた筒はほどけ、緋を散らした。息を呑んだ。

 なにもおかしなことはおこっていないのだ。偶然の符合に勝手に意味合いを持たせようとしているだけなのだ。
 僕は首をふって自らに言い聞かせた。日の傾きからか、暗がりが増した気がした。潰れた草花の匂い。
 三橋さん、と僕は彼の名を呼んだ。返答は無い。

 ばらけて元のように開いた原稿は熱に反り返って黒変した。火の手はゆるりと第一面の題名を侵して行く。
 ふと、その焼失していく題名に、寒気を覚えた。華燭の春、燐火にて、という言葉。
 華燭とは祝宴に飾る灯火のこと。華燭を上げるといえば、結婚のことである。
 対して燐火とは、いわゆる墓地の鬼火のこと。燐が空気に反応し、ぼんやりと光るものだ。
 言葉の表面上の意味はわかる。だけどこの題名には、何か更に続くべき言葉があるのではないか。
 華燭の春、燐火にて、何が、誰が、どうなってしまったのだろうか。それとも深読みのしすぎであろうか。

 ……もしかして僕もまた、彼の物語に織り交ぜられてしまったのではないか。
 この火焔は、一見神聖で、しかしひどく呪わしい匂いがする。僕は一体全体どうなってしまうのだろう。
 炎が消えたとき、彼女のように、彼のように、僕もまた、別の何者かになってしまっていたとしたら。

 焼けていく。焼けていく。ひとつの物語は僕たちの世界から失われ、手の届かぬ何処かへ消えていく。
 涙雨の川に流されて、くずおれた橋に戸惑って、いつか彼女に抱かれ、息絶えるのだ。
 これは、むかしむかし、ある異国の少女の物語……。















 ― U 華燭の春 燐火にて 前編 ―








 〜1〜




 私にとって世界とは何であろうか。何が私の世界を形作っているのか。
 夢から覚めて、濡れた瞼をひと擦り。再び眠りに落ちるまでの時を持て余し、使い古した布団に唇まで埋まって考えた。
 舶来品の地図の写本を見て、覚え実感したばかりの『世界』という言葉。それはとても興味深い響きを有していた。
 手をぐっと宙に伸ばして、闇を探るように握っては開く。
 一握とて掴めぬ、この世界を作るのは何物なのか。

 考える次第で眠りに落ちるのを心持ち期待しつつ、掌を開いて、私は指折り数え始めた。
 ひとつめは私自身。ふたつめはこころ。みっつめは家族。よっつめはこの部屋という場所。
 いつつめが思い浮かばない。闇に浮かぶ白い小指は何か私のものではない感じがして、私は手をほどいた。
 四方の壁の向こう、夜は深く、月の光は柔らかく野花を照らしていよう。私の思い浮かべる風景は常に夜だ。
 日の光は明るすぎて、きっと私の目を焼いてしまう。其処まで考えて、いつつめは夜ではないかと思った。
 布団からはみ出した手をしまい、熱を帯びたままの胸に当てて目を瞑った。むっつめは此処に在る気がした。
 だけど、もう折る指が無い。私にとって七度目の春の夜だった。

 頻度は減ってきたが、それでも十日に一度は、私は怖い夢を見る。
 足元から水が湧いてきて、少しずつ私を浸し、どれだけ逃れても最後は水没して溺れてしまう。
 そうして苦しくて、目覚めるのだ。原因は私自身のなかにあるものだった。

 私にとって最も鮮明なおぞましい記憶は、水に対する恐怖だった。それは今でも他より色濃く心に染み付く。
 幾年経ても、水は苦手で、碗や杯に入っていれば大丈夫だけれど、零れた水を見るとぐっと喉が苦しくなる。
 特にそれが多量で、しかも冷たい水だともう駄目だ。肌は粟立ち、体中が寒くて震える。酷いときは泣いてしまう。
 そろそろとにじり寄って私を捕え、口と鼻を塞いでしまいそうで。こぽこぽと染み出て、部屋を満杯にしてしまいそうで。


 私は異国人だった。パルスィというのが、私の本当の名。そのような響きはこの国ではつゆも聞かない。
 私のような金髪の人間も見たことがない。瞳は私が青っぽいのに対し、皆黒かった。肌の色はずっと白い。
 言葉だって、今こそ普通の人と同じように話せるものの、最初の頃は全く通じなかった。
 不条理を幼子は泣き喚く。泣き虫のくせに垂れた水に怯える私は、涙が出る傍から布団にしみこませていたものだ。

 ……あと少しで眠れそう。そう思ったとき、遠雷を聞いた。心沈ませ、片耳をふさいだ。もう片方は枕に押し付けた。
 雨が降ったら眠れなくて嫌だなと思った。豪雨の夜は、氷柱でも抱いて眠った方がましと思うほど心が冷え込むのだ。
 水の音も好きじゃない。私の住む離れは近くに本来ちいさな池があったけれど、わざわざ他に移してもらったほど。
 雨は来れば避けられるものではない。中も、外も、否応なしの水浸し。

 どれほど経ったろうか、ついに屋根がポツリと鳴った。今夜はきっと永かろう。
 喉が詰まる感じがして一つ咳をした。誰か来てくれないだろうか。私から何処かへ行くことはできない。
 この離れのみが私の生きていける場所。さながら鳥篭のようなものだった。
 ここでの家族と、信頼の置ける僅かな使用人しか、私の存在を知るものはない。幽閉といわれればそうかもしれない。
 だけど私自身、別に此処から出て行こうと微塵も思ってもいない。寧ろ心から感謝していた。
 だって、私はこの国の住人達とは、こんなにも異質だから。白子の獣は匿われないと生きていけないのだ。

 本当の両親は、恐らく貿易か何かを生業にしていたのだと思う。幼かったし、ろくに記憶は無い
 父と母と私の三人家族。親戚や祖父母はいたのかもしれないけれど、覚えてない。
 父の仕事だったのか、はたまた観光だったのかもしれないけれど、父は母と幼い私を船に乗せて故郷を出発した。
 行き先はどこだったのかさえも定かではない。確実なのは、その船が途中で事故を起こし、沈没したこと。
 私は溺れてしまったが、目を覚ますと此処にいたこと。どうしようもない水への恐怖を植えつけられたこと。
 そして独りになってしまったことだった。

 独り……では、ないのだ。もう。

 今、私には家族がいる。お年を召した父上と母上、それと七つ私より年上の兄上が。
 その夜に、丁度居合わせた海辺で流れ着いた私を見つけ、家に連れてきて介抱してくれた。
 私が異国人であるが故、公の場に置くことを案じ、空いていた離れに密かに住まわせてもらうことになった。

 幼かったとはいえ、こともあろうに、私は恩知らずに振舞った。家族がいない、どこにいったのかと泣き叫んだ。
 離れに連れてこられたときは、私を閉じ込めて酷い目に合わす気なのだと、兄に噛み付いたり引っかいたりした。
 水の音に狂ったように怯え、言葉がわからない皆が、隣の池が原因であると気づくまで、部屋も人も傷つけた。
 ある程度落ち着き状況が理解できてきても、言葉の差異は大きく、私は無視と怒りと暴力を繰り返した。
 普通に考えれば私の方こそ進んで此方の言語を理解していくべきだったのだ。だが私は不便を訴えるだけ。
 私のいる離れの部屋に鍵をかける理由も、その当時はわかっておらず、一日三度用意してもらった食卓に当たった。

 完全に整理がついて、私から現状を受け入れる用意ができるまでには一年余りを要した。
 その間の皆の忍耐には頭が下がる。幼かったからですまないほど迷惑をかけたのだ。思い出すのも恥ずかしい。
 一番世話してくださった兄上には、今でもその時の傷が残っているのを知っている。それでも皆私を可愛がってくれる。
 部屋に引き篭もるせいで病気がちな私のために、看病だってしてくれる。無作法をすれば叱ってもくれる。
 私は何も与えていないというのに、殆ど家族の一員のように接して貰えるのだ。ありがたい。

 何故だろうと疑問に思うことは度々あるけれど、それを問うたことはついに無い。恥ずべき行為とさえ思う。
 打算めいた理由を期待しているようではないか、それをきいたからといってどうなるわけでもないというのに。
 私は、皆が何故か与えてくれる愛情に対して、感謝と微笑で返せばいいだけなのだ。
 神仏の計らいか、偶然にも毛や肌や瞳の色の違う娘、或いは妹として。

 通り雨だったのか、雨音はいつの間にか消えうせていた。森閑な夜が降りている。
 潤んだ瞳をひとたび擦ると、今度は穏やかに眠れる気がした。




 〜2〜



 明くる日は何事も無い平凡な一日かと思いきや、違った。昼餉、私に膳を持ってきてくださったのは兄上だった。
 いつもは丸顔の使用人が持ってきてくれる。三食必ずあるのは、時の感覚を失わないためらしい。
 障子や半分だけ空いた高窓からの鈍い光のみが外を知る頼り、日が出ているか出ていないかしかわからないのだ。
 そのとき私は昨夜の寝不足で疲れていて、寝そべった、はしたない格好で本を読んでいたものだから赤面した。

「申し訳ありません。このような……」
「具合が悪いのか。お前のように勉強家な女は少ないし、読書は結構と思うが、目を悪くするな」

 父上と違い兄はさほど格式ばった方ではなく、軽い笑いで言われ、私は唇を緩め、小さく正座した。
 暇を持て余すだろうということで本はよく与えられていた。人としての在り方を記したものが家の気風もあってか多い。
 だけど私はむしろ、子供に語るような御伽話が好きだった。

「今日も、かたじけなく思います」
「よい、いつまでも他所のように振舞う必要は無い。借りてきた猫ではあるまいし」
「ところで、今日は何故兄上が持ってきてくださったのでしょう」
「使いのものたちに暇を取らせたからにきまっておる」
「はあ……?」
「覚えてないのか。お前がこの家にきたのは丁度今夜だろう」

 あっ、と声を洩らした。暦を見ると大きく丸で囲んである日がある。
 私が丁度一年前、わざわざ今年の暦を用意して、心逸らせ今日という日に丸をつけていたのだ。

「なんだ、忘れておったのか」
「いえ、その、日を失念しておりました。今日は、今より一月ほど前の日付と……」
「ああ、それは仕方ない。始終移ろい無しの部屋に篭っていては、日にちの感覚は狂ってしまうだろう」

 私は無言で頭を下げた。弁解を避けるのが良いと思われた。
 それは兄上を気負わせるものだ。口にしたい気分は多々あるけれど、それは私の我侭である。

「今年で何年だったかな」
「六年経って、これより七年目です」
「そうか、もうそれほど長い付き合いとなるのだな」
「はい」
「来たばかりはあれほど小さかったというのに、それは大きくなるわけだ。まあ、食え」
「いただきます」

 刻んだ漬物と粥を交互に見やって、一度兄上に会釈してから手をつけた。
 使用人がいないということは、さて誰が作ったのだろう。いや、そんなことよりも懸念することがあった。
 ちらちらと兄上の様子を伺っていると、箸が止まっているぞと催促され、慌てて食べてちょっと咳き込んでしまった。

「急かずとも飯は逃げん」
「はい……」
「なに、すまない、此方も焦らしすぎた。今宵は例年のように外に出してやろう。天気はよさそうだ」
「ほんとうですか」
「昨夜の雨が心配だったが、花も落ちずに済んだようだ」

 以前、まだ私が十になるかならないかの頃まで、兄はしばしば皆の目を盗んで私を離れの外に出してくれていた。
 部屋に閉じこもりきりの私を案じてのことだったらしい。私は時折そうやって外に呼ばれることを心より喜んだ。
 外と言っても、敷地の中、人目にもつかず半ば放置され茂った庭の一部を散歩する程度だったけれど。
 しかしそれが誰かしらの目に留まり、そのときはうまく言い逃れはできたとのことだけど、私の外出は禁じられた。

 とはいえ両親も私と兄への配慮からか、祭りや休暇でうまく人を払えるときだけ、私は外に出されるようになった。
 大体月に一度で、不定期だった。ただしこの今日という日だけは、積極的に人が払われ、必ず外に出られる。
 いつ来るかわからない喜ばしい日も楽しみではあるが、一年で唯一確実にというのは別格である。

「ただ、使用人はともかく、父上も母上も今夜はいないのだ。お前と私の二人しか家に居ないことになる」
「えっ」
「本当はお前も会いたがるだろうしと迷っていたが、どうしても行かねばならない用件が出来た」
「……はい」
「まあ、別に今日しか会えないわけではない。二人に後日揃って顔を見せる機会が無いか尋ねておく」
「……はい」
「尤もその用件にはお前も関わることだ。後に、そうだな、今夜にでも話そうと思う。大切な話だ」

 お前も関わる。大切な話。転寝の夢から覚まされたような気分になった。 

「大切な話とは」
「夜にと」
「……そうですね」
「また気を持たせる言い方をした私も悪かった。今は食を済ませて夜に備えて寝るなりせよ。年頃の娘が隈など作るな」
「申し訳ありません。ところで、私達以外の者がいないということは」
「なんだ」
「このお粥は兄上が作られたのでしょうか」
「……特に父上には内密にしておけ。いまどき昔気質な方だ、男児が包丁を取るだけで渋い顔をされる」
「そうですか。そのようなことをしていただけるとは、私には勿体ない御幸です」

 私はまた箸をとってはにかんでみせた。ばつが悪いようにそらされる視線を見送り、粥を含んだ。
 黒い碗には、薄く、福笑いのように歪んだ私がうつっていた。昨年より少しは美しく、女らしくなれただろうか。
 ゆっくりと米の粒をかみ締めるように食べた。心地よい時間が香の煙のように漂っているのを感じた。

「ご馳走様でした」
「おう、終ったか」
「大変美味しゅうございました。兄上は何でもお上手なのですね」
「はは……別に私が作ったわけではないぞ。ぼうっとしていたら、目の前でいつの間にか米が煮立っておっただけだ」
「ええ、はい」
「夕には、また勝手に干し魚でも焼けよう。なければ浸し物が出来上がっているかもわからん」
「はい、はい、不思議な術を使われるのですね」
「そうとも、恐るべき化生の秘術よ」

 二人で声を立てて笑ったのは、無闇に久しい気がした。




 〜3〜



 夜までの眠りに夢を見た。

 私の恐れる水浸しの夢と酷似していて、だが恐怖と苦しみは一切無かった。かといって快くも無かった。
 初めからゆるりとした水流の底に私は寝転がっていた。不思議と息の苦しさは感じられない。
 水底から水面を見やると、光の明滅が夜空の星のように見えた。触れたいと思った。

「……………」

 水中の私は、何か呪文のような言の葉を唱えた。
 すると体が浮上し、揺らぐ水面の光に手を差し伸べて、眼が覚めた。
 その呪文は杳として、目を覚ました心の中で滲んで溶け、掴もうとするほど崩れて消えてしまった。
 それは最後、私の触れた光に似て。
 はじめから、触れてはいけないものだったのだ、きっと。




 〜4〜




 昨夜とは打って変わって、花の芳香が染みとおるような美しい月夜だった。
 もう二ヶ月余り外にでることができなかった私にとっては、花鳥風月全てに祝福されている気がするほど麗しい風景で。
 ただし気温はじんわりと暖かく、金髪を隠すためのほっかむりは薄く湿って、私はしきりに頬の布をずらした。

「暑いか」
「少しばかり。それと、疲れてしまって」
「今日この頃は三寒四温。そこに丁度岩がある。腰掛けよう」
「はい」

 部屋の中では余り動くわけではないものだから、私の足はちょっと歩けばすぐに千鳥になってしまう。
 だから外に出るときには、兄上に腕をすがり、寄り添うように移動した。私を隠すというのにも都合がよい。
 暑いのはきっと、そのせいもあった。お互い、もう嫁にも婿にもなれるいい歳だ。幼い頃と同じにはいかない。
 いくつの頃からだったかは忘れたけれど、私は意識して兄の真横よりほんの少し後ろについていくようになった。
 誰も気づかない、些細なことだけれども。

 岩はざらりとしていたが起伏が少なく、座るのに具合がよい。竹の水筒を手渡され、そろそろと水を喉に流し込んだ。
 一人分しか座る場所がないので兄上は立っていた。その顔を見上げると、同時に夜桜が妖艶にして在った。
 先端の月光に透けた桜色以外は、枝も幹も、花さえもまるで死んでいるように見えて、ぞっとした。

「昼ならばもっと美しく見えように。幾らかの提灯でもあればいいが。宵闇の桜はおどろおどろしくてよくない」

 心の中が見透かされたようで、私は曖昧に返事を返した。

「お春よ」
「はい」
「話があるといっていたな。ここならば誰も来ないだろうし、話そう」

 お春、というのは私の名前であった。ここにきてからつけられた名前で、私はいつもそう呼ばれる。
 本来はパルスィという名前ではあったが、発音が難しく、うまく言える者があまりいなかった。
 それに加え、隠して住まわされている上では、家族が迂闊にパルスィなどと言おうものなら、怪しまれる。
 そこで特に発音しにくい『スィ』を抜き、残りの『パル』に発音の似た『春』を新しい名前とされたのだ。
 女性にありがちな名前にすることは、あらゆる点で理に適っていた。恐らく戻れぬ故郷との決別の気持ちも固められた。
 同時に家族の一員として思いやられたことがたまらなく嬉しかった。その頃は春とは何か、知らなかったけれど。

 私の相槌を待っているのか、兄上は遠くを見て、何も話し始めなかった。
 怖い気持ちが半分と少し、楽しみな気持ちが残りで、私は話しかけた。私にも関わる、大切な話、らしいのだから。

「いったい何でございましょうか」
「うむ、お前は知らんだろうが、秋ごろ隣町に大きなお屋敷が出来、都の方から幾名かがいらした」
「それはそれは、さぞ偉い方々なのでしょう」
「そうだ」

 言葉が止まり、風の流れが際立った。一体その話のどこが私に関わるのだろうと思った。

「都から来た方に、お夏様という方がいらっしゃる」
「お夏様、ですか」
「歳は十八で、お前より上だ。父上は都でも高名で、教養もあるし、髪は美しく見目麗しい方だ」
「私では……」

 比べ物になりませんね、と続く自嘲は噛み殺した。
 一応は武家の娘なのだから、悪戯に身を卑しめるものではないと言われている。そもそも比べる必要も無い。
 兄上は私の顔を見ていらしたが、こちらがなんでもないと首を横に振ると、話を再開した。

「最近会ってやれなかった」
「どなたにでしょう」
「お前にだ」
「え、あ、はい……」

 藪から棒に、私に話が振られた。確かに最近、離れにはいらっしゃらなかった。
 以前は外に出るとき以外も、折に触れて顔見せがあったのだが、それも無く。もう二ヶ月あまりそうだった。

「前の月は外に出してやれなくてすまなかった」
「いえ、何かお仕事が忙しかったのでしょう。大丈夫です、わざわざ面倒をおかけするのも心苦しいですから……」
「確かに何かと忙しくはあったが、それに加えて、先に言った屋敷によく行ったのだ。それで会う暇が無くなった」
「……それは」

 急に顔の血が泡立ち、目が眩んだ気がした。目をしばたかせ、地面を見た。
 真っ黒の沃土の上、桜の花びらが薄く濡れた苔に十余りほど散り敷いていた。白く、骨片のようにも見えた。

「ご挨拶、ですよね。兄上」
「そうだ」
「そうですか。きっと気に入られているのですね。左様な方々と親交も深ければ、兄上も立身出世なさると」
「お夏様が」

 割り込んできた言葉に、私は唇を止めた。

「私のことを、気に入っているらしい」
「……それは」
「お夏様もいい歳ごろだ。御親族は、お夏様と契りを結ばれる人を求めていて、多くの男が挨拶にいかされた」

 親族と言っても、肉親ではないらしいが、と兄上は付け加えた。

「私はその中で気に入られたのか、足繁く通わされた。周りからは妬まれたものだ、水橋の長男がお夏様と懇ろにと」
「そう……そうですか」
「今父上たちがいないのも、お夏様の家にご挨拶に伺っておるからなのだ」
「それはつまり」

 溺れたように、息が苦しくなって口をぱくぱくとさせた。息を吸っても声が出ず、しゃっくりの様な音が出た。
 手の水筒を握り締めて、ちらつく言葉を、一つ一つ噛むように言った。

「お夏様と、兄上の、祝言の、ですか」
「いずれは、そうなるかもわからん。先方は歓迎しておるようだから」
「それは……それは……」

 目を瞑って、心を収めようとして、自らの顔の力の入り方に驚いた。きっとくしゃくしゃの顔をしていた。
 顔を二三度こすって顔の皺をのばし、できるだけ微笑んで、林の静けさを思いながら、私は兄上を見上げた。

「とても、御目出度いことです」

 兄上は無言で懐から煙管をだし、草をつめて火をつけ、三度煙をぱっと吐いた。
 顔が霞んで見えなくなった。紫煙は鼻につき、目に沁みた。

「……煙草を」
「ああ、このような贅沢をするなと父上には習ったものだったが。格好がつかなくなった」
「私は、兄上が吸われているのは、見たことがありませぬ」
「そうだろう、な」
「様になっていらっしゃいます」

 また幾らか喫煙した後、灰をトンと地面に落とし、兄上は言った。

「立派な煙管をお夏様に頂いて、吸わぬのも厚意を蔑ろにするようで、始めは向こうの屋敷の中でだけ吸っていた」
「お夏様……ですか」
「ああ。そして、吸い始めたら止められなくなった軟派な男が此処にいるわけだよ」
「そんなこと」
「高級な煙管はひけらかしたくもなるし、吸っていれば自分も富貴に思われて来る。情けない」
「兄上は変わりませぬ」
「どうだろう。贅沢は怖い。人の心に優しく入り込むくせに、入り込めば自分の陣地を切り取って、てこでも動かぬ」
「……お夏様となら、止めずとも、終らぬ贅沢ができますよ、きっと」
「すまない」
「何を謝ってらっしゃるのですか。喜ばしいことです、私は嬉しいです、とても……」

 最高の笑顔を私は用意した。兄上の視線は空ろに澄んでで月光がせわしなく揺れていた。その先に私はない。
 私は、涙ぐむほど嬉しがっていると、おもう。

「お前にも関わるといったな、お春」
「はい」
「お夏様がこのまま私達の家に嫁げば、お前のことも何とかしてくれるらしい。今よりよい暮らしが約束できる」
「えっ?」
「此処に居たいなら、潜まず大手を振って生きることもできる。望むならお前の生まれた国に帰してやってもいい」
「いえ、いえ……左様なことはともかく、なぜお夏様が私のことを知っていらっしゃるのですか」

 兄上は少し動じて「忘れておった」と私に、やっと聞こえる程度の声で言った。

「私には女の噂があってなぁ」
「女……ですか」
「なに、女と言ってもお前のことだ。大分昔だがよく連れ出してやっただろう」
「ああ、はい、それのことですね」
「あれで、何処かの誰かにお前といるのを見られて、それでこういう風にたまにしか外に出られなくなった」
「はい」
「今と違ってほっかむりをしてなかったから、私は茶色い犬猫を拾っただけで、その見間違いだろうと言い訳したっけな」
「でも噂は消えたのでは」
「うむ、水橋の家はここらでは一番大きかったから、なにぶん噂を封じるには問題なかったのだが……」

 口ごもる兄上を見ていたら、桜の花びらが一片散って、二人の丁度真ん中くらいに舞い落ちた。
 月明かりは蒼白で、灰のように白い私の肌は、驚くほど青ざめていた。

「余り快くない話だが、先にも言っただろう、私とお夏様の仲を妬む者がいると」
「はい」
「告げ口があったらしい、あいつは女を囲っておるとな。どうやらそれに更に誇張を加えていたようだが」
「どのような?」
「何でもはじめに聞いた話では、さも私が家の中に遊郭をこしらえているようにさえ思えるものだったらしい」
「それはそれは」
「それで、だ。昔と違い今は、水橋家は二番手。今一番力があるのはお夏様の屋敷である」
「はい」
「真偽を確かめにお夏様が人を遣わそうとしなさった。それは拒めぬ。だがそれで露呈すればお前が異国人と広まりかねん」
「なるほど……」
「結局父上母上も呼ばれてしまったが、お夏様も納得して内密にしてくださることとなった」
「助かりました」
「お夏様も良い妹がいるらしくてな、そこでよく話が合ったものだよ」
「私は自慢できるほどの妹ではありませぬ」
「そんなことはない。それで、お前のこともよろしく頼むことができた」

 煙管の草を始末し、再び懐にしまってから兄上は言った。

「今日は久しぶりに顔を見せられたというのに、こんなことを言うのは心苦しいのだが……」
「何でしょう」
「これから半月ほどで、都に向かわねばならぬ。お夏様のご両親とお話がしたい。他用もあって少なくとも三月は戻らぬ」
「……そう、ですか」
「また外に出してやるのはずっと後になりそうだ。どうしてもというならお前のことを知っている者にでも言えばよいが」
「いいえ……大丈夫です。我慢できます」
「悪いな」
「いえ……」
「兄がいないと寂しいか」
「……わかりません」
「私は妹の顔が見られないと、寂しくなるぞ」
「そうなのですか」
「寂しいか」
「…………はい」
「愛いやつよ」

 頭をくしゃりと撫でられて、私は喉を低く唸らせ、半端に諸手を挙げて、ささやかに抵抗した。
 だけど驚くほど手が重くて、昔のように怒ったり笑ったりしながら振り払うことはできなかった。声も出なくなった。
 闇深くして月の桜は鮮やかで、この風景は決して忘れまいと想った。私の名と同じ季節を掻き抱いて、狂おしく、儚く。

 ……桜より儚いのは我が身だった。月より狂おしいのは心だった。
 目を逸らした私は、春が二度と訪れないことなど想いもしなかった。
 引き止めようもなく時は流れ、どうしようもなく私は幼さを奪われて、空のお星様を見つめ、願って、祈って、呪って。
 そして、ただひとしずく、悟られぬように、涙しただけなのだ。






 〜5〜



「どうか都への道中お気をつけて。ご無事でありますよう」

 そう言ってその夜は別れ、暗い住処の戸を閉めた。
 胸に手を当てて、次に唇をかみ締めて、最後にもういいのだと言い聞かせて、やっと私はボロボロと泣いた。
 頬を押さえた手で障子に触れると月の光が濡れて透き通った。脱いだほっかむりは涙拭きになった。
 立って、座って声を殺して泣いた。もしまだ兄上が外にいたら、聞こえてしまうかもしれないから。

 兄上はずるい人だ。私のことをよく泣き虫呼ばわりしていたのに。そんなに私をわかっているくせに、あんな話を外で。
 部屋の中だったら、私は絶対に駄目だった。耐えられなかった。何を言ったかわからない。
 わかっていて、私を外に出したというのなら、それはひどいことだ。そもそも私の言葉を聞く気もないのだ。
 がんばった。今夜の私はよくがんばった。これで、よかったのだ。誰にも優しくできたはずなのだ。
 眠れそうにない。このまま悩んでいると暗闇に飲み込まれてしまいそうな予感がして、私は行灯に火を点した。
 ぼんやり明るくなった部屋をぐるりと見渡して兄上と二度、喘ぐように言った。

 二ヶ月いなかった程度では薄まらない、この部屋は兄上の匂いが深く染み付いている。
 ここで言葉の勉強をしたときは、いつも兄上が傍にいて、そのとき使った本は今でも本棚に入れてある。
 その本棚が今になっても子供向けの御伽噺が多いのは、昔兄上が眠れない夜に語って聞かせてくれたからだ。
 それは今でも愛おしい思い出で、私は全ての物語を一字一句違えず、暗誦できるようにさえなってしまった。
 本が足りなくなると追加を持ってきてくれるのは、兄上だった。頂いた本はどれもお気に入り。
 愉快な話も、陰惨な話も、滑稽な話も、切ない話も、全て輝いて見えた。

 そのほかの何もかも、兄上との思い出がない物など一つたりとも存在しなかった。
 物だけじゃない、ほかならぬ私自身が、思い出の塊のようなものだ。私の命に名前をつけてくれたのは貴方なのだ。

 お春という名を頂いたのはこちらに来て一年余り経ち、やっと私の気性が落ち着いてきたときだった。
 私は名前をつけられたというだけで喜び舞い上がり、果たしてその意味は理解できないままであった。
 私の故郷が、此処ほど四季に明瞭でなかったのかもしれない。春は季節の一つといわれても、よくわからない。
 丁度晩夏の頃であったから、外には春の欠片もなかった。春の植物や動物を学んでも、それの手触りは所詮紙だった。

 今も色褪せていない。やっと春がやってきた頃のこと。
 春が知識だけでわかった気になり、名前への興味を失いかけていたとき。
 始めは氷の欠片を纏ったフキノトウだった。兄上の霜焼けで紅くなった手の中に可愛らしい新緑があった。
 言葉はまだまだ通じず、身振り手振りだった。私にくれる、ということらしい。やっと覚えた感謝の言葉を私は言った。
 次は片栗の花だった。美しい紫色ですっくと立ち、その瑞々しさに心奪われた。やはりくれるということで私は喜んだ。
 それからは木蓮、椿、スミレ、ツツジに藤の花、それとひとつひとつ種類の違う桜の花。
 花ではなく筍や何かの萌芽のときもあった。植物だけでなく、虫のときもあった。

 兄上は春夏秋冬の色も匂いもないこの世界に、私の名である春を持ち込んできてくれたのだと、晩春に気づいた。
 私は嬉しくて決して捨てようとはしなかった。それらは変色し、崩れ落ち、失われていった。
 その残滓を毎夜ひとつひとつ、私の周りに円のようにぐるりと飾って、順に名前を覚えた。

 だからその夜、私は泣いた。
 私の大切な、兄上から貰った春が、他ならぬ兄上自身の手によって片付けられてしまったのだ。
 わけがわからず、私は小さな手を思い切り握り締め、布団に潜り込んで半刻は泣いた。
 疲れと眠気から泣き止むと、兄上は私を布団から出し、負ぶった。
 そして私を外へ連れ出した。眠気は夜の風にすっと持ち去られた。

 まさに先ほど行ったばかりのあの桜の下、あの岩に、私を座らせて、同じように頭を撫でて。
 満月の、それはそれは明るい夜で。桜は重たそうなほど花をつけ、払ってもひざの上に、ほの紅い花びらはたえず。
 夜の密やかさがそうさせたのか、咲き乱れては散っていく花々に、幼心にも狂おしい生の流れのようなものを感じた。
 私は届かぬ足をぶらぶらさせながら、必死に今の気持ちをどう表せばいいか言葉を探していた。
 平易な文字文章はそれなりに読めるようになったものの、会話となればそれは喉の奥に隠れてしまう。

「よいか。春は、本の中には、ない」

 少し腰を曲げて、目線を合わせて、私にもわかるくらいゆっくりと兄上は言った。
 その瞳は玉のように神妙で、私は少し戸惑いながらも、こくりと頷いた。

「しかし、春の草花の、枯れたり腐ったりしたもののなかにも、春はない。あれは、骸なのだ」
「ムクロ……?」
「命のない、抜け殻のことだ」
「蝉」
「そうだ、あれと同じように、空っぽなのだ」

 地に生えた名も知らぬ花を、草を、木を、一つずつ指差して兄上は「春」と示した。
 そして最後に私の手をとって、まず兄上自身の胸にあて、そのから私の胸にあてがった。

「春とは、命だ」

 胸の鼓動は、先に触れた兄上の胸のそれと同じだった。私が知らないだけで、他の命も同じ拍動を有しているのだと思った。
 生きている、という暖かさが掌いっぱいに広がり、千の言葉よりも鮮やかに明瞭に、伝わってきた。
 それは確かに、私が宝物にしていた、もう永久に変わらぬ干からびた植物達にはない、潤いと柔らかさがあった。

「動物が歌い、植物が花を咲かせ、命あるものが恋をする季節だ。それが、お前の名前なのだ」

 私の肩を両腕で強く掴み、揺さぶるように語り掛けられた。私は哀しくもないのに、また涙が出てきた。
 次から次へと溢れ、止まらなくなりそうで、兄上の襟をぎゅっと引っ張った。それは慣習からできた合図。
 泣き虫は、抱きしめてもらうと落ち着くのだ。すっぽりと胸に収まって、背をさすってもらわねばならないのだ。

「それを、見落としてはならんぞ。勘違いせぬようにとはいえ、捨てて悪かった」

 自らの吐息の暑さに、顔は炙られて赤くなった。兄上の脈に耳を当てて、そこに確かな春の息吹を悟った。
 かび臭い永遠は片鱗もなかった。柔らかく脆い、命と心なのだ、それは。私の胸にも在るのだ。
 瞬間、私は初めて私という生き物が丸ごと肯定され、認められたような気がして、目頭が熱くなった。



 涙を止めるのにさほど時間は要しなかった。「帰るか」といわれ、勢いよく首を振る元気も出た。
 行きと同じように負ぶわれながら、私は肩に顎を当てて、残したままの疑問に触れた。

「こいをする……何?」

 こいをする、という兄上の言葉の意味が私にはまだ理解できていなかった。
 兄上は、はたと足を止めて、唸りのように何か呟き、言葉を濁し、いったん私を背負いなおしてから答えた。

「それはむずかしい。自分にも、よくわかってない」
「むずかしい?」
「そうだ。誰かが、誰かを、好きになるということなのだけど」
「母上、好き」
「普通は、女と女では、あまり使わない」
「父上、好き」
「親子でも使わないものなんだ」
「兄上、好き」
「多分それも違うと思う。よくわからないといっただろう」
「こいをする、どうなる?」
「幸せになるだろう。結婚もする」
「けっこん、何?」
「男と女が、ずっと一緒に生きていくこと、かな」
「わたし、こいをする」
「だから、わかるにはまだ早い。大体、相手はどこの誰だい」
「兄上、こいをする」
「……はは。それは困るが嬉しいぞ、はは……」



 部屋に戻ってから溢れていた涙は、いつしか止まっていて、残酷な気持ちでクスリと笑んだ。
 思い出が束の間の鎮痛をしていたことに対する自嘲であり、同時に不穏な得体の知れない想いが混ざっていた。
 わかっていないのは、貴方だけだったのですよ、と。つまりはそういうことだったのだ。

 世の中は不公平だ。私は幸せになれないという。他の人間と違って、私にそういう対象は一人しか居なかったのだ。
 貴方には、他にも相手はいるだろうけれど、私なんかより立派な人は数多居るだろうけれど、私には貴方だけなのだ。
 吐きそうなほどの胸の苦しさは、きっとこの想いが無理やり心の臓をこじ開けてきたからなのだと思った。
 いつまでも仕舞っておきたかった。だがその想いには明確な名前がつけられてしまっていて、引っ込みがつかない。

 あれだけ褒めるほどだ。お夏様は、魅力的な方なのだろう。身分も申し分ない。兄上は幸せになるだろう。
 だけど、もし、お夏様ばかりを見るようになってしまったら。私を見てくれなくなってしまったら。
 私に目を向けるよう、よからぬことを思うようになってしまったら。純に兄上の幸せを望めなくなってしまったら。
 それどころか、どうしようもなく兄上にかまってほしい私の性格を見抜かれ、疎まれるようになってしまったら。
 きっと私は、私は。

 苦悶の嗚咽は他人事のように遠く聞こえ、涙は近く水音をなした。だけど溜まっても、いつものように襲ってこない。
 あんなことがあった上で、これから三月はあえないなんて、私はもうくじけそうだ。暦を見るのが恐ろしくてたまらない。
 私が今日という特別な日を、失念していた理由。それは期待を掛けすぎなのだろうが、やはり、気付いてはくれなかった。
 私が日付を誤ったのは、貴方が余りに長い間会いに来てくれなかったから、だったのに。
 一月ほど経った頃から、会えない日を数えてしまうのが嫌で、暦を見えないところに押し隠したのだ。
 私の中の時間はそうして、ずっと、一月前で止まっていた。きっとこれからもまた……。

 もう、疲れてしまった。
 人形のように投げ出した体は、微塵も動こうともしない。
 頬の下には涙が水溜りを作って、浸した指先は哀しくなるくらい冷たかった。

「……私など」

 涙の海に溺れてしまえばいいと、思った。




 〜6〜



 予期はしていた。だがしかしあの厳格な父上の怒声の前では、いくら覚悟しようと縮こまるほか無かった。

 木偶のように何日もろくに食べず、ぐったりと横たわるだけの生活をしていれば、心ばかりでなく身も病むもの。
 私のことを了解しているお抱えの医師がやってきたのは、恐らくあれから二十日あまり経った頃だった。
 他人に話せるようなことではない、私はただ疲れただけといったから、向こうも匙を投げるしかなかった。
 そうすると両親が、特に母上が私のもとを訪ねて病状を聞くようになった。
 母上は聡明であって、私の心の問題であるのを迅速に察知された。何も言うまいと決めていたが、うまくいかなかった。
 私も心の中が真っ赤に膨れ上がってしまって、本当は悩みのもとを話したくて仕方なかったのだ。決心は解れた。

 恋煩い。しかもあろうことか、相手は義理とはいえ兄である。母上も呆然の色を隠せないようであった。
 そうして全て話し、ひとまずの落ち着きと休息をとった後、これからどうするかが論点となった。
 家において母上は余り発言権があるわけではなく、父上への相談となるのは時間の問題であった。
 とはいえ結果はわかりきっていた。烈火のごとく叱咤され、私は涙ながらに謝るしかなかった。

 私のために、富貴なお夏様との契りを蹴ることは、どれだけ双方の家の名誉と評判と利益を損ずるかということ。
 そもそもが武家の娘でもなんでもない私が、そんなことを望む資格は無いということ。それらは重く承知していた。
 だがこのときほど、この身を激しく呪ったことはなかった。私は異国人で、どうしようもない容貌の差があった。
 もし私にも黒い髪黒い眼があれば、養子としてどうにかなる道もあったかもしれない。しかし現実は金髪の碧眼。

 わかっている。私は決して結ばれない運命であったのだ。斯様な奇異な花嫁、どこの家が欲するか。
 幼い頃、どうしたら黒髪黒目が手に入るか悩んで、墨を頭から眼まで塗りたくって、大騒ぎになったのを思い出した。
 最早そんな稚拙な幻想は抱けない。動かぬ定めからできる限り、目を逸らすのが私にできる唯一の抵抗だった。

 この私の求められることは、婚姻の延期がせいぜいである。初めからそれをどう伝えたものかと言葉を選んでいた。
 私は謝罪に織り交ぜながら、無礼を承知でその旨を伝えた。父上は雷鳴のように激怒して、出て行ってしまった。
 余りの衝撃にいったん涙が止まっていたが、再びわっと泣き出した。耳にはまだ言葉が共鳴していた。

『聞くに堪えん戯言を抜かすな。お前の気が済むまで互いの家の重大事を引き延ばせというのか。
 しかも、その気が済む日とやらはいつ来るのだ。十日後か、半年後か、十年後か。それを待ち続けろというのか。
 その無礼極まりない我侭をどうしても押し通すというのならば、もう何も言うまい、この家から出て行くがよい』

 そう父上はおっしゃって、何も返せなかった。確かに、私の心には、その日を延ばし続けようという汚さがあったのだ。
 見抜かれた自らの恥部に虫唾が走った。そして最後、父上は戸口で、背を向けたまま押し殺すような声で言われた。

『平静を失したのは謝る。だが、くれぐれも勘違いするでない、お前の望みは、たった今断たれたのではないぞ。
 客星を掴まんと欲する猿が如く、水鏡の月を求むる酔人が如し。初めから手の届かぬものだったのだ。よいな』

 怒鳴られた先の言葉よりも、静かな怒りを孕んだ後の言葉のほうが、よほど私には堪えていた。
 とうとう直視させられた私の業は、狂った獣のように、瞬時にして胸を八つ裂きにし、食い荒らした。
 母上は何か、慰めの言葉をかけてくださっているのだろうが、それはもう私の耳に届かなかった。

 哀しさで家を出ることも一時は本気で思ったりもした。しかし、色違いの籠の鳥は最早一匹では生きられない。
 しかも出たからと言って何か解決するわけでもないのだ。駆け落ちという言葉も本好きな少女の私には魅力的に響いた。
 しかしそれは願望の域を出ず、第一兄上がそんなことまで望むとは思われなかった。私が勝手に慕っているだけなのだ。
 加えて兄は一人息子。万一私に振り向くときは、周囲全てを犠牲にすることになる。家は、母上父上は、どうなる。
 責任感の強い方だ、まさに順風満帆の今、わざわざ破滅の泥舟に色目を使う必要など、皆無だ。

 苦しかった。ひとつひとつ、どうすればよいかと考えるたび、ひとつひとつ、どうにもならないと分かるだけだった。
 いっそ何もかも忘れられたら、あの日船が沈まなかったのなら。空想に囚われ、日々心身は擦り減っていく。
 いつか、もっと素敵な人が。その、最後に残った心を慰める術は、自ら深く暗い場所に葬った。
 それはとても上手にできた。だからもう行くことも戻ることもできない。私は独り。独りだった……。



 〜7〜



 抹香がしそうなほどに静まり返った部屋に本が持ち込まれたのは、それから恐らく二ヶ月ほどたったころだった。
 暦を何処かへやってしまったせいもあったが、弱り果ててもう時間の感覚は曖昧模糊と化していた。
 すべてから見放された気分になって寝込むばかりで、体は痩せてしまったし、力も出ず立ち上がるのも億劫だ。
 もう悲しいとか苦しいとかそういった感覚さえも幕を隔てたようになって、地中の蝉のように粛々と生きていた。
 このまま生気を失って、枯れ死んでしまうのならば、それでもいい気がしていた。

 朝餉の時間だ。私は食べたくないと首を振ったが、膳は容赦なく置かれた。そしてその次に本を抱えてきた。
 戸口に十五冊……いや、二十冊はある本の山を作り、たしかお蝶とかいう使用人は頭を丁寧に下げて退出した。
 私は布団から片目だけを使ってその始終を睨んでいた。本というのは私の心を掻き立てるものだ。
 それは単に本が好きなこともあるが、その多くは兄上が選んで手に入れてきてくれるものだったからだ。
 暫したってから、蜘蛛が羽虫を捕食するように一番上にあった本を這い寄って掴んだ。
 その本の中身を検める前に、目を閉じて、本の香りをすうと吸った。兄上の残り香のようなものがないかと。
 しかしそれは判じることができず、黴や日向くさい匂いがしただけであった。殆どが古本であるせいもあった。

 採光のための高窓から来る仄明るさは、具合よく私と本を照らし、私は寝たまま読み始めた。
 長い間座り続けるのが辛いせいもあるが、これが一番文字の見えやすい光の角度だった。
 二冊三冊と、物語を読み進めていく間は、ほんの少しだけ現実の憂いを軽くすることができた。


 四冊目にとったその本は、題を『橋姫』と言った。

 昔々、契りを結んだ男と女がいた。夫婦仲はよいものと思われていたが、ある日女は男の不貞を知る。
 女は男にその下女と別れろと言った。男は、しかし、言い逃れするばかりで関係を持ち続けた。
 そんな二人に耐え難い嫉妬と怨恨を覚えた女は、ついには業を煮やして神社に向かい、丑の刻に心願した。
 願わくば、生きながらにして、この身を鬼に変えたまえ、と。

 七日、女は復讐を求めて、丑の刻参りを続けた。すると巫が霊夢にて、鬼と化す術を知り、それを女に伝えた。
 赤い衣を身に纏い、頭を丹色に塗り、手には鉄杖。髪を五つに分け鬼の角をつくり、鉄輪を戴いて三つの足に火を点す。
 そして大路に出で、川に二十一日浸かるべし。女は喜んでそれを実行し、二十一日の満願の日、鬼と化した。

 しかし、そこまでして鬼と化した女の報復は、ついに成らなかった。男は陰陽をよくする者に救われた。
 恨めしい、捨てられて涙に沈んだこの身は、女を恨み、夫を嘆いても、恋しさ呪わしさを忘れられぬ……。
 枕元に立って鬼になった女は言った。だが、神仏が男の命を護り、奪わせなかった。

 そうして払われた鬼女は、最早消えようの無い嫉妬の炎へのせめてもの慰みに、夜な夜な人を殺めた。
 女には男に化けて、男には女に化けて近づき、呪い祟った。洛中は恐怖に包まれた。
 帝は勅命を出され、彼女の退治を命じた。女は調伏され、悪事を為さないかわりに弔ってほしいと言った。
 そうすればこの地を守る神となろう、と。そして女は川に消えた。橋と川に宿って、安寧を願う神となった。
 ゆえにその哀しい鬼は、橋姫と名づけられた……。



 読み終わった瞬間、私の手は戦慄いた。話の内容に痛く共感する部分はあったが、それだけではない。
 ひどく古びているとみえる紙が折り込まれていたのだ。鮮血の如く赤い印が描かれ、その下には文章がある。

『ひとを妬ましと思うものよ。鬼の言祝ぎを望むものよ。その心を示せ、さすれば如何なる祈願をも叶えん』

 震えながら見やった下には、その心を示すための方法が書かれていた。
 いったん読み終わってから、声を出して、もう一度読んだ。

『ひとつ、これより二十一日、この物語のみを読み尽くすこと。ひとつ、妬み嫉みの念を、努めて心に宿すこと。
 ひとつ、これらを守り、祈願成就のための鬼の助けを望むのならば、血印をして外の丑寅の方角に放ること。 
 他言、破棄は一切無用。ひとたび始めれば止むことも赦さず。違えば汝を死に至らしむべし。

 我が禍によりて、汝の福を成さん。我は願い報われぬ橋姫なり』


 背筋が粟立って、思わず本を手放した。まるで今の私への当て付けではないか。本の前の持ち主の悪戯か。
 はじめはそう思って、こんなものもう二度と見るまいと、遠くに本を滑らせ、布団に篭った。
 如何なる祈願も。その言葉は魅力的であり、だからこそ恐ろしく、橋姫の話を反芻しては、私は震えていた。
 禍々しい、汚らわしい、万に一つ本物としても、物語に出てくる悪役のように、軽く魂を売るものか。

 認めたくなかったのだ。見終わったとき、私の頬は色を失いながらも、持ち上がっていたなんて。
 凶暴に、酷薄に、微笑んでいたなんて。



 〜8〜


 お蝶さんが来たのは黄昏時であった。私は先ほどのおぞましい体験を紛らわすためにも別の本に集中していた。
 滋養をつけさせようと言うのか、夕餉の膳の上は煌びやかであったが、全くそそられるものはない。
 死なぬ程度に食べておこうか、と言う程度しか私の心は動かなかった。

「お春様、お兄様のことで……」

 矢守が人に感づいたときのように、私はピクリと頭を立てた。

「何ですか。兄上がどうかされましたか。まさかお怪我やご病気でもなされたのですか」
「いえ、お兄様は都でつつがなくいらっしゃるようです」
「そうですか……よかったです」
「ただ、残念ながら立て込んでおられるようで、帰るのは遅れるとのことでございます」

 少なくとも三月は戻らぬ。あの日の言葉が耳によみがえった。えもいわれぬ不安がよぎった。
 兄上はいつも念のために、多めに日数を言う癖があった。これまでただの一度も、その予告より遅れることは無い。
 三日といえば二日、十日と言えば八日に戻ってきて、私を喜ばせてくださるのだ。
 私は震える声で言った。

「それは、如何ほどですか」
「短くともまる二ヶ月は延びたとのことで……今後どうなるかも皆目見当がつかないと」
「……はい…………はい、わかりました」
「お春様は、お手紙はしたためられますか」
「……いりません」
「お兄様はお春様の体を心配していらっしゃいました」
「私は見ての通りです……もう、持ち場に戻りなさい」

 打ちひしがれた気分になった。
 兄上が会っておられるのは、お夏様のご家族なのだ。婿入りや、京への在住を望まれているのかもしれない。
 そうしたら、私はどうなる。もしや、もう私のことなど、全く目に入ってないのではないか。
 こんなに大幅に期間を延ばすなんて、きっと何かしかるべきことがあったに違いない。
 向こうでゆるりと時間を過ごし、着々とお夏様との婚姻の儀を進めているのだと思うと、たまらない気持ちになった。
 兄上が私以外の女性との仲のために奔走する姿など、想像したくも無いのだ。それなのにひどい、ひどい。

 ああ、妬ましい。私と違い、何もかもに恵まれ、愛されているお夏様が妬ましいと、そう思ったとき。
 私の心の中でぽっと、何か熱を帯びたものが灯った気がした。
 遠くにやった、本の表紙の橋姫の絵が、微笑んだように見えた。

 途端に生への渇望が溢れ、私は用意されていた夕餉を残さず食べた。目は開き、体も支えられるようになった。
 まるで何かに憑かれたようだと思った。いっそもう、憑かれてしまえとすら思う。
 私は余りにも病まされ、そして狂わされてしまったのだ。だからもう、何をしても仕方ないのだ。
 大丈夫、別に私は、誰かを殺そうなどと思っているわけではない。ちょっとだけ振り向いて欲しいだけだ……。

 ……私は弱いな、と思った。
 結局は最後の一押しが欲しかっただけなのだ。魔に魂を売るという大事への、甘美な誘いが。
 お春よ、お前は悪くないのだ、周りが悪いのだ、だから無理の無いことだと、言って欲しかったのだ。
 お前はまだ子供だと、許して欲しかったのだ。

 指先を切るとつうと血が流れ、痛みで涙が出そうになった。だが決して落涙せずに、強い顔をして血印をした。
 同じ小刀で、丑寅の方角の壁、板と板の隙間を紙が出る程度にこじ開けた。丁度向こうは木々が茂っている。
 そしてそっと、紙を放った。深い宵闇の向こう、私と同じ、願い報われぬ橋姫様へと。真っ赤な恋文を。




 〜9〜



 一心不乱の二十一日は、存外に早く過ぎた。眠りに落ちるとき以外は常に文字を追っていた。
 その眠りと言うのも、読んでいるうちに疲れで気絶するようなものだった。そして覚醒しては遅れを取り戻すように読んだ。
 二十一日水に浸かった宇治の橋姫は、きっと一睡もしていないのだ。眠るのは真に集中できない私の欠点だと悔いた。
 信心が足りないのだと、唇や指を噛みながら眠気を覚ました。

 目の色を変えて同じ本ばかり、それこそ紙がくたくたになるほど読み込む姿は、皆の目にも異様に映ったであろう。
 私は特別なのだ、周りが理解できないだけなのだと、次第に軽い陶酔に浸るようになったのはいつからか。
 とても崇高な儀式を執行している気分になった。物言いは、自分がそれを行えないための、やっかみなのだと。
 一つを妬みと解釈すれば千を知ったつもりになった。誰も彼もが他者への羨望で動いているのだとさえ、真理のように。

 着実に、心は毒された。それは自らの感覚でもわかっていて、寧ろそれに快楽を感じていたほどだった。
 少しずつ私は変わるのだ。変われるのだ。毒に耐え切れないのならば、いっそ心など死んでしまえ。
 情けで私をがんじがらめにして、これほどまでに執念深く苦しめるなら、その心こそが消し去るべき猛毒だ。
 私は強くなるのだ。手を伸ばすことを躊躇って、諦めるのを美徳と自惚れて、奥ゆかしい大人のふりをして何になる。
 そうして何もかも失って、お前は何に微笑むと言うのだ。空虚ではないか。

 一日費やせば、自らの異常に酔うようになった。二日費やせば、心身の中と外の境が曖昧になった。
 三日費やせば、これまでの努力を無駄にできないと思われ、四日費やせば、止められなくなっていた。
 あの誘いの紙には、止めればすなわち死とあったが、五日費やせば、その言葉が不必要に感じられた。
 六日七日八日九日十日と深みにはまり、二十日もたてば、自分を物語の橋姫に当てはめて、涙するようになっていた。
 気がつけば、二十一日の満願。幽鬼のような出で立ちで、鬼門を向いて、滔々と物語をそらんじていた。

 橋姫様は、今宵にいらっしゃるのだろうか。私の願いを叶えてくださるのだろうか。
 それとも、初めから誰かの悪戯で、私はまやかしを見ていただけなのだろうか。
 夕闇が暗んでいくにつれて、頼りなく吐息は漏れた。手垢の染み付いた本を、迷うたびに胸にかたく抱きしめた。


 耐え難い、私が紙を放った丑寅の壁の隙間が埋められたのは、私が物語を結末まで詠唱し終えたときだった。
 薄明かりと虫の囁きが遮られ、こつ、こつ、こつと三度壁が敲かれた。
 瞼が裂けそうなほど目を見開き、盛った獣のように呼吸を乱し、総毛立たせて喉を鳴らした。

「橋姫様、ですか」
「呼ぶものはそなたか」

 やや遅れて紡がれたその声は、厳めしさの欠片もなく、耳に甘く残るような乙女の声だった。
 若干面食らったが、橋姫とはもともとそのような人間が身を変じた者であることを考えれば不思議ではない。
 怖れと感動に全身が打ち震えた。そしてせっつくように言った。

「ああ、ああ、お会いできてこれほどの幸せはありませぬ。私は、私の名は」
「わかっておる。水橋のお春というのだろう」
「……はい、はい……!」
「兄に恋慕して、想い叶わず苦しんでいるのだな」
「はい……私のことを、何もかも知っていらっしゃるのですね……うっ……」
「泣くでない。私はそなたの味方だ、気持ちもよくわかるつもりだ」
「ありがたいことでございます、とても……」

 私はこれまで溜めてきたありとあらゆる鬱憤を、とめどなく口にした。
 一通り話し終えると、次に恐る恐る橋姫様の身の上を尋ねてみた。すると快く教えてくださった。
 橋姫とは、私の読んだ物語の宇治の橋姫に限らない。橋とは人の憩う場所であり、想いの交わるところだ。
 そして同時に、橋を渡ることは生と死の見立てである。此の世は此岸、彼の世は彼岸という。境界は三途の川。
 そのような場において魂を失ったり、或いは封じられたりした女は、想い強ければ橋姫となり得る。

 報われぬ恋に身を投げても、治水の人柱とされても、橋を渡りながら頓死しても、物の怪に変じて封じられてもだ。
 橋上に遺された想い。或いは、橋という交情の場自体がそのような女を引き寄せているのかもしれない。
 私のお話しする橋姫様は、身分の差ゆえの道ならぬ恋に落ち、思い余って水に漬かったのであった。

「して、そなたの願いは何だ。妬ましい者を取り殺すか」

 浮き足立っていた感情が一気に冷え込んだのは、殺すという冷たい響きを聞いたときだった。

「は、はあ……その……」
「そなたの兄を誑かすのはお夏という女であるな」
「……殺めとうございませぬ」
「殺めぬと」
「お夏様は、悪くありません。兄上が執心なさるなら間違いの無い人とさえ思います」
「……」
「私は、私は、ただ、兄上が何処か遠くに行ってしまわれるような、どうにもならぬ恐れを耐えられないのです」

 お夏様を殺めるという手段は、本を読んでいれば軽く受け流せたものの、言葉にすると重たすぎるものだった。
 私利私欲で人を殺してよいものかと、狂わしていたはずの心が切なく鳴いたのだ。暫し双方無言であった。

「兄と、どうなりたいと思っているのだ」

 暗闇を青く澄ますような冷ややかな声だった。

「……できることならば、その、結ばれたい、です。あの、不相応ならば、傍にいてくださるだけでもいいのです」
「恋敵は妬ましいか」
「はい」
「だが殺さぬのか」
「私が恋叶う道が閉ざされぬなら、殺めるまでしなくともいいのです」
「そなたのその優しさは仇となろう」
「……どうしても、どうしても、殺せません」

 こんな状況で私は何を言っているのだろう。橋姫様を失望させているのが声色で痛いほどわかった。
 涙ぐんで額を床に擦りつけ、鬼門の壁に謝罪の言葉を並べ立てた。殺すなんて、私には無理だ。
 あの紙には願いをかなえるとだけとあって、人を殺さなくてもいいと甘えがあったのだ……。

「よい、お春よ、そなたの願いは極めて難解であるが、その信心に報いてできるだけのことをしよう」

 意外な返答に言葉も出なかった。呆気ないほど、私の中の後悔は消え、救われた気持ちになった。

「は……はい……ありがとうございます……!」
「しかし手荒なことはできぬとなれば、そなたに関わる者たちを見る時間が欲しい」
「問題ありません、私は待ちます」
「半月ほどでよいか」
「はい」
「ならば読書と信心を怠るな。そして万一の場合は覚悟せよ」

 覚悟、と私は小さく口を開けて呟いた。

「抜き差しならぬ沙汰ならば、殺めることも致し方ない。そなたの願い叶わねば、私もまた無駄足となる、が」
「……はい」
「決して手ぶらでは帰れぬのだ。よいな、お前は情念に狂って私を呼んでしまった。心して待たれよ」


 壁の隙間から薄明かりが漏れ、もう彼女は其処にいないのだと認識した途端、どっと汗がわいた。
 もう、私は戻れなくなってしまった。そして、自らの死を予期して、こめかみが冷え込んだ。
 万一願い叶わぬときは、私は、そういうことになるのだ。誰も死ななければいいのに。
 そしてふと気づいた。私は誰かを傷つけることにはもう何も感じていなかったから、此処までやったのだ。
 傷つけることが死になったとたん恐れをなした。五十歩百歩ではないか、私の心はもうおかしくなってしまっていた。
 きっと、私はこのままでは流されて誰かを殺してしまうのだと思った。それが自分か他人かはわからない。

 お前は心優しい子だと、兄上がよく言って下さった言葉が、今では菱のように硬く鋭く心を傷つけて転がり回る。
 後悔が、不安が、恐怖が、憤怒が、そして嫉妬が、小さな胸に一挙に流れ込んだ。溜まらず咳き込んで咽た。
 救いはあった。それは今の悪心の原因であり、しかしすがらざるを得なくなっていた。

 橋姫の物語を手にとって、よれよれの表紙を開いた。「もう戻れない」と繰り返し口に出しながら読み始めた。
 五度言ったとき、泣き虫はついに声を上げて泣きだした。しかし、本は手放せず、目も離せず、口は同じ言葉ばかり。
 指を浸す雫に、兄上の下さった本は、どれももっと優しくて暖かい手触りだったと思い出した。
 そしてもう読めはしないのだと、花咲爺や舌切雀の嫉妬にはもう触れないのだと、心の深いところで悟ったのだ。




 〜10〜



 私はまた驕った。日々読み続ければ心は肥えて不感になり、橋姫様との夜の苦悩など取るに足らなく思えていた。
 やはり強くなった気がした。残酷ぶれるのは勲章のように思われた。
 これはやめられなくなる薬のようなものだと思い、それを全てわかって犠牲を払いつつ快楽を得ていると自負した。
 実際は何も差し出していない。覚悟も朧で、死を振りかざされば折れてしまう部分があるだろう。
 その考えは絶え間なく這い上がってくるが「もう戻れない」と呪文を唱えれば、再び奈落に落ちていく。
 半月経ち、私は壁の前にて待った。前と同じくらいの頃合に、橋姫様はいらした。

「日々励んでいるか」
「はい、この日を待ち望んでおりました」
「悪い知らせがある」
「……あ、兄上の身に何か、何かあったのですか」
「違う。お夏とのこととも関係はない」
「は、はあ……?」
「そなたの親のことだ」

 父上母上のことといわれても、私は何のことかわからず首をひねった。

「それはどういう」
「そなたが異国人なのはしっておる。暗い夜に船は道を失い、浅いところにあった岩にぶつかり、沈んだのだ」
「……はい、そうだとおもいます」
「実の両親もいたな、その船に。親子ともども海に投げ出されてしまった。暗い水に溺れて恐ろしかったろう」
「っ!」

 とっさに耳を塞いで目を瞑った。それでも思い起こしたその夜の光景はちらついて、つきまとってきた。
 夜の海は牙をむかない。とっぷりと何もかもを飲み込んで、凪を取り戻す。沈んだものの存在そのものを消してしまう。

「……そしてなぜ、そなたはこの家に住まわされているのだろうと思う?」
「え?」
「異国人を匿うとは、罪では無きにしても面倒ごとよ。ただ居合わせたものが何故そこまでするか」
「私の家族は心の優しい人たちと思っています。ひとりの私を哀れんでくださったのでしょう」
「実の親はどうしたとおもう」
「……どういうことでしょう」
「小娘が一人で船に乗るわけはない。まず親がいないか浜辺で探すのではないか」
「それは……そうですが」
「にも拘らず、衆人が集まる前にそなただけを家に運んだのは……何故だ?」
「わかりません」
「親のその後を知らされずに生かされたのだな」
「……何をおっしゃっているのか、よくわからないのです。橋姫様はご存知なのですか?」
「その通りだ」

 小さく声を上げて、息ができなくなった。狼狽の色が浮かび、舌がもつれて、空気に溺れるような感じがした。

「そんな、私は、何も、皆から」
「嘘をつかれていたと、考えぬのか」
「父上が、母上が、兄上までもがそろって嘘をつくなんて……ありえない」
「嘘をつくだけの理由があった」
「ありえません、ありえません、私は今の家族を何よりも信じています」
「そなたが信じれば、相手は真実で返してくれると決まっておるのか」
「それは」
「千言万語よりも実物を見ればよい。其処の高窓を見ていろ、投げ込んでやろう」

 じりじりと待って、背を伸ばせば手の届く程度の高さにある高窓からぽとりと何かが落ちてきた。
 慌てて駆け寄り見てみると、それは紙に何かを包んで、巾着のように紐で縛り上げたものであった。
 開けと言われて恐る恐る紐を解いてみると、中には黒い砂のようなものがあった。いや、それだけではない。
 金具がついた、青く光る宝石がひとつだけあった。それは舶来品の指輪に似ていると気づき、胸が騒いだ。

「どういうことなのですか……これは」
「そなたの実の親の持ち物だ」
「私の本当の両親は、海で沈んだのではなかったのですか」
「浜の村ではひと時騒ぎになったのも知らんのだな。さぞ箱入り娘だったのだろう」
「騒ぎとは」
「身包みはがれた異国人の遺体が二人分、浜辺に流れ着いたのだ。そなたの拾われた夜」

 耳鳴りがした。冷ややかな闇が忍び寄って、背筋から広まっていくように思われた。

「男と女、恐らく夫婦だったのだろう。共に金髪に碧眼であった」
「違う……違います」
「その宝石はどこに在ったと思う」
「さ、さあ、何処かの市にあったのではないでしょうか」
「この家の、蔵の中だ。舶来品であるな、そのように美しく石を切り揃える事などできぬ」
「橋姫様、それは、なにかの間違いでしょう。これでは、まるで、今の父上たちが」
「実の両親の遺体を、身包み剥いで辱め、そして盗んだ貴重な品々で財を成したとは思わぬか」
「は、は……」
「大きく、立派な屋敷よのう。斯様な片田舎には似つかわしくない……」

 心が口から抜けてしまったように私は惚けた。何もかもが無音となった。
 サラ、と手にもった紙から黒い砂が滑り落ち、半分ほど失したところで漸く言葉を話せるようになった。

「橋姫様、橋姫様」
「如何した」
「これはお言葉でございますが、恐縮ながら、橋姫様は物事を悪く言われすぎな感を覚えます」
「ほう」
「それが、真実ならば、何故私は今この家に居るのでしょうか? 話が正しいならば、私の身も剥げばいいのです」
「なるほど」
「きっと、何か思い違いをされているのです。私は、これだけ育ててくれた家族を、そう思えませぬ」
「ぬるい」

 ぴしゃりと言い放たれ、顔から困ったような薄っぺらい笑みが消えた。

「なにが……ですか」
「幸せに生きてきたようだの、お春よ。私は初めに悪い知らせと申したであろう」
「わかりません、もう何がなんだか、わかりません」
「異国の若い娘は、繁華の町にでも置けばどうなるかわかるか」
「いえ、わかりません、私には何も」
「珍しいものは、金になる。とりわけ若い女は格別よ」
「はい……はい……? 何を言いたいのですか?」
「浅ましい、おぞましい、人の営みというものは。救いはそなたが余りに幼かったことと、今私に出会ったことだ」

 耳を塞いでしまえと、誰かが叫んだような気がした。しかしそれはできなかった。感づいていたのもあった。
 体中がしびれ、もう口も危うく、瞳はせっかちに揺れた。

「そろそろ、頃合の良い年頃だろう、お春。胸と尻は膨らんだか」
「……う、うそ……」
「日に三度飯を与え、男どもが好む体に熟れあがったら、高く買う者は多いぞ」
「いや、です……ちがいます、ちがいます、嘘です、ちがいます!」
「女が男に肉を売る店を知っておるか。都ではのう、容貌の物珍しさで、ある捨てられた異国の少女は高く高く」
「い、あぁ、あ、ああ……! い、いや、いや! いやあっ!!」

 部屋をじんと震わせるほどの大声が出た。間髪いれず喉から酸っぱさがこみ上げ、口を押さえたが止められなかった。
 自分の身が父上でも兄上でもない男という獣に、体の端から嬲られるのを想像してしまった。
 吐き気と絶望感に、今までにないほど大粒の涙が零れた。

 その夜は、もう橋姫様は何も話しかけて来なかった。壁の隙間は仄明るく、細く月の光を受け入れていた。



 〜11〜



 茫漠と幾日も過ぎた。常に読んでいた橋姫も手がつかなくなるほど数日は気を散らしていた。
 既に内容は全て覚えているせいもあって、本は読むというより、目の前に置いているだけの格好になった。

 ……疑い始めれば、全てが悪いことにこじつけられる。隠して育てられたのも、そのせいだったのではないか。
 家畜のように成長させて、屠殺するように売り払って、もう私のことなど、どうでもいいのだ。
 父や母の装飾品を奪うように、私の体は、そこに在った一番高く売れるものだから持ち帰ったのだ。
 私が今まで受けていたと思い込んでいた愛情は全て幻だったのか……?

 信じられない、信じないという気持ちは多分にあった。そもそも橋姫という存在自体が嫉妬狂いなのだ。
 場合によっては嘘や過大なことも言いかねない。それに私は家族を信じる心が根強かった。
 橋姫は読んでしまうものの、だからと言って憶測で家族を貶める気は起こらなかった。


 その日、父上が部屋にやって来られたのは、近頃また食をとらなくなったことを案じたためらしい。
 顔を見たときから私のやることは決まっていた。これまで遠慮してきた問いを今こそ問うべきだ。
 そして早く知りたい。私は恵まれて、望まれているのだと。利用されたのではないのだと。
 私は何もかもに恵まれていないのだと決め付けて、嫉妬に駆られていた日々は遠く感じられた。
 しかし天気は雨だった。水音が外から届き、怯えはしないものの、不安な気分を増長した。安心したい。

「父上、どうしても尋ねたいことがあります」

 話の脈絡もなく声をあげると、父上は眉間に皺を寄せ、低い声で話された。

「待て、約束するのだ」
「何をですか」
「飯を食え。顔色も悪いし、それ以上痩せれば華奢という言葉では済まなくなる」
「はい」
「それと体を拭き清めるのだぞ、暑い季節だ。そこにはなにやら砂のようなものが散らばっておるし、部屋も片付けよ」
「はい」

 心配してくださるのだという考えの前に、私の体に価値がなくなるのだと考えてしまったことを呪った。
 悪い考えというものは、些細でありえなさそうでも、強引に心を押しのけてくるものだ。

「父上は私の本当の両親について、何か知っていることはございませんか」
「何を今更」
「私を見つられけたとき、その場に両親はいませんでしたか」
「……誰かにそう言われたか」

 鋭く睥睨され、私は慌てて弁解にはしった。それと同じくして血が沸くような感覚を首筋に覚えた。

「い、いえ、不思議と思っただけなのです。果たして浜まで溺れていた私が一人でたどり着けるのかと……」
「それはまことか」
「そもそも……誰かに言われたかなんて……そんな、否定なさらないのですか? 違うのでしょう?」

 たまらず思いが口から零れた。父上は遺憾といった渋い表情をし、目を瞑った。

「だんだんと伝えるべき時分とは思うておったが、そうか」
「間違いでは……なかったのですか」
「察せよ、深い理由があった。そこらのことは、時満つれば洗いざらい話すつもりだ」
「時とは、いつですか」
「今ではない、だがそこまで至っておるなら、近いうちになりそうだな……」

 ……橋姫様は、正しかった?

「父上、父上」
「なんだ」

 悼むような哀れっぽい表情になって言った。今日本当に問うつもりだった問いは勿論それだった。

「何故、縁者でもない私を家族として、此処までよくしてくださるのですか」

 父上は唇を硬くし、無言であった。沈黙の時間がつのるほど、私は泣き出したい気分になった。
 ぶるぶると震えている私の肩を見たのか、狼狽の混ざった口調で父上は言われた。

「しれたことよ。始めの縁故に関しては言えぬ、しかしお前を家族として受け入れたのだ」
「家族……なにが、なぜ……家族……」
「どうした。お前はそんな哀しい目をする者ではなかったろう」
「私は、もう家族だからでは収まりがつきませぬ」
「わかっている、倅のことだろう。あれ以来お前はおかしくなった。わしの言葉もきつかった、すまぬ」

 父上が頭を垂れて謝罪するのは初めて見た気がした。しかし感慨をもたらすものではなく、心には空っ風が吹いた。

「だがお春、覚えておけ」
「……何をです」
「お前はもう、わしの娘だ」
「そうですか。つまり私は所詮、兄上の妹だとおっしゃりたいのですね?」

 怖れ知らずの皮肉だと、言い終わってから気づいた。いっそ私のことを殴ればいいのにと思った。
 父上の目を見やると、其処に浮かんでいたのは怒りではなく哀れみの皺だった。
 これ見よがしなため息をひとつ、腰を上げ、丁度あの決定的な言葉を言われたときの格好になった。

「どうなろうが、決して悪くはせぬよう取り計らうつもりだ」

 行ってしまわれた。私はその言葉を以前と同じように、喜んで受け入れられなくなっていた。
 どうなろうが、ということは、つまり兄上の婚姻は止むを得ないことだと言っているも同然なのである。
 それで、兄上を失って誰かその代わりを用意し悪くしないというのなら、それは甚だしい慢心だ。
 失望した。しかし、よく考えれば今日どのような話をしても、私は悪くこじつけ失望したのではないか。

 ……お前はどうして、そんな風になってしまったのだ。
 瞳の色は違えども、最後に見せた父上の悲しそうな目と、きっと同じ目をしていると思われた。




 〜12〜



 また橋姫様がいらしたのは、それから十数日後、まだ夕日が辛うじて赤みを残している刻であった。
 胸を突く淋しさが、私の口をこじ開けて、橋姫様に昨今の嘆きを撒き散らした。理由はあれど、欺かれていたと。
 誰よりも信じていた家族は、私のことをどう思っているのか、わからなくなってきた。
 信じる気持ちは今でも強い。仕方のない理由があったのだとも思う。だけど、疑いの芽は既に枝葉をつけていた。

「前会ったときに教えようと思っていたのだ」

 あの日はそなたが大声を出すから人目につかぬよう退いたのだが、と橋姫様は言われた。

「投げ込んだ袋は宝石のほかに黒い砂が入っていたはずだ」

 覚えている。半分ほど床に落としてしまったが、父上に咎められたのもあり、できるだけかき集めて紙に戻したのだ。
 今は本棚のわきに、また封をしておいてある。

「理由は別として、そなたは可愛がられて育ったのは事実だ。そこでどう親を言おうと意味がない」
「橋姫様……」
「だがこのままでは不憫。そこで秘薬を錬ってきたのだ、その黒い砂がそれだ」

 少し場所を離れて、紙に包まれたそれをとってきた。紐を解くと、粒の大小があるざらりとした感じであった。

「これはどのような薬なのですか」
「くく、怨念化生の最も恐れる薬よ」
「怨念化生と申しますと」
「まず舐めてみるがよい。そなたには無毒である」

 指の先に大き目の一粒を手にとったが、躊躇した。ままよ、と口の中に放り込み噛むと、それは砕けて潰れた。
 ひどく苦い。もし何か起こってしまったらどうしようと怯えたが、口の不快以外は特に何もなかった。

「それは、心清いものならば、ただの苦い粉である」
「そ、それでは私は……!」
「案ずるな、そなた程度ではまだどうにもならぬ。だが例えば人を殺めたり、物を盗んだりするものが飲めば……」
「どうなるのですか」
「心にやましさがあれば、この秘薬はその悪い心を吸って、臓腑を蝕む。死にも至ろう。私は飲めぬ」

 私の慌てっぷりが可笑しいのか、自嘲しているのか、橋姫様はケラケラと笑った。

「のう、お春よ。これこそ何よりも真相を知るによいではないか」
「……よくわかりません」
「お夏といったな、恋敵め。七日後に此処にやってくる」
「お夏様が」
「箪笥やらの立派な家具を下さる……それは表向きだ。そうやって家のものを少しずつ水橋家に移す、わかるな」

 物を渡すことで少しずつこの家に自分のものを置く。つまるところ婚姻を退けぬものにしようというのだ。
 一方的ではあるが、事実上の婚約ととらえてよいだろう。

「体は問題ないな」
「私は大丈夫です」
「よろしい、そなたのすべきことは、そのお夏のくる夜に、水がめへ、その薬を注ぐことだ」
「……そんな!」

 私は素っ頓狂な声を上げた。慌てて口を押さえる、声が高いと良くないのだ。
 しかしそれだけ吃驚するのも尤もなほどその行為は大胆極まりないものであった。

「難しくはない。折り良くその夜は新月で、しかもお夏が来るというので召使どもは皆挨拶に回って、邪魔はない」
「いえ、いえ……そういうことではなくて」
「勝手場は知っておろう。その外にある水がめも。此処からならば、殆ど庭木に隠れてもいける」
「誰に飲ませるのですか、秘薬を」
「ふふ、どうやらお夏は豪奢な茶器も用意したらしい。ならば茶事も催そう、その秘薬入りの水を使い」
「お夏様に飲ませても意味はありませぬ」
「痴れたことを。一人で茶をたてて飲むものか、飲むのはそなたの両親よ」

 父上母上が。

「なぜ」
「わからぬか」
「万一、万一ですよ。父上母上は私の本当の両親を辱め、私を身売りにするつもりで飼っていたとしたら、どうなります」
「死ぬ、だろうな。どちらか一方だけでも十分なほどだ」
「そんなこと」

 私はこれでも心は作り上げてきたつもりだ。人も殺せぬのかと言われた日から、ずっと。
 もしここで、お夏様を殺すか否かとなったら、どうしようもない場合は仕方ないとまで、勢いで言えそうなほどに。
 だが殺める対象として出てきたのがお夏様ではなく両親となったとき、氷の翼が生えたように背は縮こまった。
 できない、と悲鳴を上げるのは、此処まで育てられた私の身心すべてだった。

「できません」
「そうか、ならばそなたは両親の罪を認めるのだな」
「なんですって」
「そういうことだろう。そなたは両親の無実を見限った、或いは心より信じられぬのだ。だから死ぬと思っている」
「ちがう……」
「違わない。もし私の読みが外れていたら、両親は助かる。その未来をお前は期待していないのだ」
「……」
「左様な信用ならぬ人間を親として、これより一生疑いながら生きていくか。無様な」

 ずるい、と思った。私は家族を信じれば信じるほど、毒を盛らねばならないのだ。
 信じたい存在を、信じられないとして生きていくことの辛さはこの数月で痛いほど知っている。

「それでも否というならば、願いは叶わぬ。私はそなたの命を奪っていかねばならぬ」
「……」
「必ず自らが死に至る道と、もしそなたを欺いていなければ何もなく、寧ろ安心を得られる道と」
「でも、欺かれていたならば二人は……」
「そのような親、生きていてどうになる。兄とは別離し、遊郭に奉公したいか、男どもの玩具になりたいか」
「違います、ですが」
「気づけ。親どものせいでこの婚姻は進んでおるのだ。二人がいなくなれば隙もできよう」
「父上母上は大好きなのです、それでも」
「ならば信じぬこそ不孝者よ。そなたの体は秘薬に冒されたか……それがこたえだ」

 両親が潔白、そのときは水に塵を混ぜたに過ぎない。自らの手で入れたなら間違いもない。
 いっそお夏がどのような人間か見るのにも具合が良い。何一つ私は悪くない。死んだならそれは親の罪への天罰だ。
 あの甘い声で橋姫様は言われた。それは何一つ言い返せず、頭をぐしゃぐしゃやって苦悶した。

 信じる、それならば秘薬を撒け。信じない、ならばそのような親はいらない。信じたい、なおさら安心のためやるべし。
 そのような試すことはしたくない、ならばそなたを殺める。逆を選べば誰も傷つかなかったかもしれないのに。
 命奪われるを是とするなら、両親のことを心から信じきれなかったという証明だ。魂は悪道に堕ち、未来永劫救われぬ。
 私にはもう何もせずに済む言い訳が思い浮かばなかった。秘薬はまた少し舐めたが苦いだけだった。
 水がめに放れば、私が舐めたのより口にする量は少ない……飲みすぎて死ぬという恐れもない。

 問答は無益と橋姫様は帰られた。七日後、日が完全に落ちるのを待って動けと言い残し。
 その日、信じ切れぬなら私が死ぬ。信じて、裏切られれば父上母上が死ぬ。
 誰もが救われる道を求めれば、それは、もう。





 〜13〜



 粛然とした夜に、稚児が親を慕うように、話しかけた。

「橋姫様、橋姫様」
「どうした、お春」
「もう私には、貴方しかいないのですね?」
「そうとも、私だけがそなたの味方だ……」

 母上は亡くなった。父上は臥せった。永くはない。
 ひとは、いともたやすく逝くのだ。





 〜14〜



 兄上が帰ってきたのは、予定を覆し、父上母上が倒れた日から一ヶ月の後。危篤の報があったのだ。
 そのとき既に母上は此の世を去られていて、父上も息子の顔を見て心緩んだのか、五日の後に鬼籍に入った。
 家の騒動はかなりのもので、私の住む離れまでも危うくなったらしいが、皮肉にも父上がそれを止めてくださった。
 しかし、私はいくら両親の苦しみを思いやっても、死を知っても泣けなかった。西に合掌して、それで終った。

 人を殺めてしまった。私は果てしない苦しみと、後悔と、罪悪感に苛まれるかと思っていた。
 だが存外に呆気なかった。死に目など、隠されている私には見ることもできなかったが、どうということもない。
 私が心配したのは兄上だけだった。突然両親が、恐らく殺されたとなれば、それは当然だった。
 見限ったのは両親だけで、兄上に関しては、私は全く嫌悪も憎悪もない。
 私を浜にて拾ったとき、今の私よりもずっと幼かったのだ。親の言うなりになっただけに違いない。
 私を育てた残酷な理由も知らないだろうし、秘薬を口にしても、兄上は体を害すと思えなかった。

 水がめに黒い砂のようなものがあり、それが原因ではないかといわれたが、私のところまで足はつかなかった。
 お夏様含む他の者は、誰一人毒に冒されず、調べるにしても混乱が起こり、外部犯と半ば決め付けられたのだ。
 お夏様との祝言のこともあったから、誰かがそれを妬んでと、動機には欠けなかった。
 兄上の手腕もあって、父上がなくなった後何の騒ぎもなかった。私を知る使用人が、二三増えただけだった。
 この家の者はもう私と兄上しかいないから、手が行き届かなくなり使いが増えるのも当然だ。

 あの日から、今まであった心の中の硬いものが、水を掛けられてふやけ、ほぐれてしまったようだ。
 私は変わるのだと念じずとも、勝手に変わっていく。止めようのない流動に呑まれた自分を夢想した。
 もうなんでもできるのだという歓喜は、もうなんでもできてしまうのだという悲哀の色を帯びていた。
 遊女は初めて体でお金を作ると、次からはその行為に自責が薄くなるらしい。それに似ているのだ。
 心の中の大切な琴線をひとつぷつんとやると、他の糸まで耐え切れず後を追って切れていく。
 ぼうっとする時間が増えた。泣き虫は殺された。私は死んでしまったのかもしれない。


 虫の音が少しずつ息絶えていく季節となった。
 青天の霹靂というべきか、離れに兄上がやって来られ、私に思いがけない言葉を放った。

「いよいよ、正月あたりを目処に華燭をあげようとおもう」

 このままの日々が続くとぬるま湯に漬かっていた私には、余りに衝撃的だった。
 お夏様との婚姻など、騒動によって一時流れたと高をくくっていたのだ。それなのに、余りに近い。

「そんな、いけません。まだ父上母上が亡くなられたばかりですし、喪に服すべきです。世間の目も悪かろうと存じます」
「しかしお夏とのことは今まで長々と延ばし延ばしにしてきたのだ。四十九日も過ぎるし、理由は他にもある」

 お夏様ではなくお夏、と言われたことに胸が疼いた。

「駄目です、やめてください。父上母上への念仏が疎かなれば、きっと悲しまれます」
「聞き分けてくれ。この家はもともと四人でも広かったのに今では二人だ、結婚すれば寂しさも紛らわせる」
「私は寂しくありません。兄上、兄上が寂しいなら、私はなんだってお慰みいたします」
「都に行って、思いは決めたのだ。私はあいつと一緒になってやらねばならん」

 否定をこじつけようとして開いた口からは空気だけが漏れた。それは、初めて聞いた明確な契りの意思だった。
 ありえない、何があったのだ。兄上はそんなこといわない。

「御冗談です……よね」
「そんなたちの悪い冗談は言わぬ。私は、これ以上お夏を放っておけぬのだ」
「それは何かの間違いです。僭越ながら、ご両親を亡くし兄上はまだ心が定まっておらぬと思われます」
「お春よ、わかってくれ。これが一番よいのだ」
「あ、ああ……わかりました、お夏様から脅されでもしているのですね。でなければ放っておけぬなど言うはずが」

 言葉半ば、ぐいと胸倉をつかまれ襟元が締め上がった。思っていたこと考えていたことが泡沫のようにはじけとんだ。
 兄上の顔は近く、目は血走っていた。熱に浮かされたようにその両目を見つめた。何が起こったかわからなかった。
 ああ、もう少し近づいたら……と、震える赤い唇にぼんやりと目を落とした。

「口が過ぎるぞ」

 殺意すら混じるような低い声だった。だが私に畏怖も狼狽もなかった。唇をじっと見た。じっと見て。
 二の句を告げようとした兄上の口に、目を閉じ、闇夜の凪のような絶望に浸りながら、自らのそれを重ねた。
 久しく乾いていた火照る頬に、一脈の澪が流れた。すべてがこれで終るのだ。




 〜15〜




 そしてひとりになった。





 〜16〜





 橋姫様、橋姫様。私はもう消えてしまいそうです。
 この暗い世界で、私にとって何よりも大切な光が、手の届かないお星様になってしまいました。
 もう傍に来てはくれないのです。私の居場所は低く穢れていて、疎まれてしまったのでしょう。
 そして物言わぬ石になれというのです。既に体の半分は氷のつぶてとなってしまいました。
 届かぬものを見上げ、それに敬して触れぬ孤狼のように生きることは、私にはできません。
 求めて、樹より落つる猿であり、水月の底に沈む酔人なのです。恋慕するほど、体の奥底から、私を滅ぼすのです。
 恋しゅうございます。怨念怨恨数限りなく身に焼きつけど、なお愛しゅうございます。
 それなのに何故、ずっと見失わぬよう目を凝らしていたのに何故、私の眼は盲いてしまったのでしょう。
 もうその人も、星屑ほどの明かりも見えませぬ。ここは、私の沈むべきだった、春の夜の海の底だったのでしょうか。

 橋姫様、橋姫様。私は一体何が足りなかったのでしょう。
 絹のようにしなやかな長い黒髪ですか。夜を映した鏡のような瞳ですか。豊満な体ですか。目奪われる美貌ですか。
 やわらかい金髪では駄目なのですか。瑪瑙のような碧眼では駄目なのですか。この私の容姿容貌は未成熟すぎましたか。
 それとも心ですか。想いが足りませんでしたか。身も心も焦がす今の私を何故見てくださらないのですか。
 愛嬌が足りませんでしたか。上品さが足りませんでしたか。清楚さが足りませんでしたか。艶が足りませんでしたか。
 優しさが足りませんでしたか。寛容さが足りませんでしたか。一途さが足りませんでしたか。
 願い叶わぬ恨めしさが足りませんでしたか。自身の体への呪わしさが足りませんでしたか。
 それとも妬ましさが、愛しい人を奪う女への妬ましさが足りなかったのですか。

 その足りないものをどうすれば手に入れられますでしょう。手に入れても、兄上はまた私を見てくださるのですか。
 もう、私だけではもう、どうにもならないのです。ひとつも手に入らずひとつも叶いませぬ。ここが限りなのです
 橋姫様、御慈悲をくださいまし。私は戻れません。ですが此処は炎熱の地獄です。進むしかないのです。
 命のほかならば、この身も心も全て削り果ててしまっても本望です。何もかも贄にしてしまいましょう。
 どうか、私の心願をお聞き届けください。叶わぬのなら、いっそ、想いの欠片も残さず消えさせてください……。





 〜17〜




 げに人に恵まれぬ哀れな娘よ。そなたの願い、叶えよう。だがその術はひとつだけである。
 あの宇治の橋姫の如く、そなたが生きながら鬼と化すのだ。

 鬼の体は素晴らしきものぞ。すべてのものが欲しい侭となる。叶わぬものなどなくなる。
 鬼とはすなわち魂魄なり。死して想い強きものの魂より、純なこころがうまれ、形をとりて鬼となる。
 陰の気をよくし、心のまま自身を変ずることも容易い。望めばお前の欲しかった黒髪黒目の容貌も手に入る。
 宇治の橋姫はそうして男女に化けて復讐を為していったのだ。畜生にも変化できるようになる。
 妬ましいお夏をこの手でくびり殺すこともできる。兄の心を操り自らに向けることもできる。

 私には最早、穏便にそなたの思うが侭、人の命を奪うことはできぬ。我が嫉みが暴れおるのだ。
 今すぐにでも兄の首を掻っ捌きたくて仕方がない。長々と一人殺して、談じてからまた一人とやってもおられぬ。
 此処からは、そなたの思いの向くまま行いを為せ。そのための方法は無論教えてやろう。
 よいか、私を信じるのだ。そして自ら橋姫となれ。嫉妬狂いの哀れな幽鬼と化せ。


 ……宇治の橋姫は、丑の刻参りの後に鬼と化す術を知った。それは宇治の流れに二十一日身を浸すこと。
 此処には近くに川もある、だがそなたにはできまい。今でも水につかることは耐え難いはずだ。
 強いて心狂わせ水漬いても、志半ばにて溺することであろう。生きながら鬼にはなれぬ。
 鬼になる方法は他にいくらでもあるのだ。わざわざ身を危うくしてまで宇治の橋姫になぞらえることも無い。

 よいか。必ず丑の刻参りを七日続けよ。それは鬼神への願掛けだ。誰にも見られてはならぬ。
 満願すればそなたに合った、生きながら鬼になる方法が啓せられることであろう。水漬かずとも良いやも知れぬ。
 繰り返すが、必ず丑の刻参りをせよ。例え鬼となる術を知ろうと、願も無しに漫然と為せば、すなわち狂人なり。
 それだけ死せずして鬼となるは難しい。鬼神の導きが必須なのだ。
 初めの橋姫より幾星霜、幸いにして今は丑の刻参りの形式も定まりつつある。今からそれを教えよう。

 まず、白より無垢な白衣を纏え。そして夜、人の静まるを見て外に出でよ。裏道より少し行けば寂れた社がある。
 生垣の崩れかかったところがあるゆえ、其処を通れば人目にはつかぬ。迷わぬよう、赤い蝋を道々垂らしていこう。
 それを辿りて神社の神木の根を探れ。五徳と蝋燭、火種がある。木の裏側には藁人形と五寸釘、鎚がある。
 金輪を戴き松明を掲げた橋姫の如く、火を点した三本の蝋燭を設けた五徳を頭に載せよ。鬼の形相を作れ。
 丑の刻、己の憎しみを人形に込め、呪い言を吐きながら、五寸釘で七日かけて打ち込め。鬼神に通ずるまで深く、強く。
 そなたの心願届いたならば、七日目の夜に、社にて黒牛を見る。それを乗り越えれば鬼と化す秘術は伝授されるべし。

 ゆめゆめ想い疎かにするな。それは呪詛神の怒りとなりて己が身を焼く。妬ましさ恨めしさ心に灯せ。
 七日目の満願を果たし、生きながら鬼となれたのならば、そのときは心の限り復讐を果たせ。
 そなたは私の同朋だ。鬼の言祝ぎがあらんことを、切に願わん。





 〜18〜





 一日目の夜。初めて家の外に出た。たらされた蜘蛛の糸のような、夜でも異に目立つ紅の蝋を辿っていく。
 幾千の針に包まれたように、外の空気は私の体をぴりりと刺した。囲われているという安心が無いせいもあろう。
 私の足がこんなに歩けるなどとは思っていなかった。気づかぬうちに過小に評価していたようだ。
 今ならその理由もわかる。私は縋り付いて歩きたかったのだ。今は空白の場所に、居た人に。

 獣道を抜けて山に踏み入り、ひっそりと佇む神社を見つけた。屋根は半分崩れ、木々には苔が纏わりついていた。
 神々しさの面が外れ、その下の醜悪な顔がむき出しになっているような、なるほど素晴らしい場所と思えた。
 橋姫様の言葉通り、道具は既にそこに在った。身につけると私はそれだけで鬼になった気がした。
 藁人形を五寸釘で打つと、こおんと高い音が鳴った。誰かに気づかれたらと、遠慮がちに打ち、朝になる前に戻った。


 二日目の夜。恐る恐る辿っていた道にも慣れが出て、ずっと早くに社に着いた。準備も要領がいい。
 丑の刻ごろまでには暫し時があると、神社の中をのぞいた。空っぽの空間に、毒々しい色の茸が群れていた。
 昨日は誰も音を知らぬようだった。茂れる葉が包み隠してしまうのだと思った。


 三日目の夜。昼に寝て夜に起きるようになったせいで、此処に来る前あの夢を見た。
 部屋にどっと水が溢れて、今までと何も変わらず溺れて苦しんだのだ。このような苦しみからも、じきに解放される。
 家族に私は恵まれていなかった。だが、橋姫様は本当に私を救ってくれるらしい。ありがたい。


 四日目の夜。延々と人形を打ち付けた。今までその音が気になったが、良い方法を見つけたのだ。
 声を上げれば、自然と気が大きくなる。念仏のようにぼつぼつ言っていた呪い言を大きな声で言い始めた。
 すると、何かが吹っ切れるのを感じた。一心不乱に深く、何本も打ち込み、しかし疲れなかった。


 五日目の夜。とても愉快なことがおこった。私はその日、心から憎しみを込め、丑の刻参りを済ませた。
 帰り道も恨み辛みを呪わしく呟いていると、大きな影が目の前に現れた。冬眠前と思われる熊だった。
 襲われてしまうのかと、ふっと思ったが、低い唸りを上げた熊を前にして平然と某が憎い、妬ましいと語り続けた。
 するとどうだ、熊のほうが尻をむけのそのそと去っていった。熊は私に怯んだのであった。
 豪腕の男も裸足で逃げるような熊に、この娘の私が。私は強く畏怖すべき存在になりつつあるに違いない。
 宇治の橋姫はその姿の恐ろしさで、見たものは卒倒したという。私もそうなりたい。


 六日目の夜。喜悦が溢れ止まらなくなってきた。昼に兄上が会いに来てくださったが、言うべきことは無かった。
 ただ目を爛々と輝かせ、話も聞かず笑うばかりで、もしかしたら狂っていると気味悪がられたかもしれない。
 構わない、私はもうすぐで貴方を虜にすることのできる、傾城の鬼女となるのだ。もう邪魔は無い。
 狂おしいほど私に夢中にしてみせる。そして一生寄り添うのだ。だから今は少し、待っていてくださればそれでいい。
 もう私しか見えぬように、貴方の望みのまま私を、貴方を変えてしまおう。そして二人で、誰よりも幸せになろう。
 あと一日と、その日最後の人形を打ち終えたとき、ゲタゲタと声を上げて盛大に歓喜した。


 七日目の夜。長くのばしていた髪を切り捨てて、部屋に置いてきた。人間としての未練を断ち切ったつもりだった。
 今宵私は鬼になるのだ。清めなかった体は汚れ、髪は溶けた蝋と汗でごわつき、あたかも鬼の角のように立った。
 肩までとなった髪をざんばらに振り乱し、嬌声を上げながらひたすら打ち続けた。あいつが恨めしい、妬ましいと。
 もう少しで悲願が叶う。神木はぐるりと一周虫が群がったように、折り重ね人形が打ち付けられていた。

 今宵を越せば黒牛が現る。そしてそれを乗り越えれば私は生きながら鬼となる秘術を授かることができる。
 これほどまでに日々念じてきたのだ。一切の手抜きはしてこなかった。必ず私は変わることができる。
 素晴らしい。何と幸せなことだろう。私は此の世で唯一にして最も愛する人と、愛し合えるようになるのだ。

 体を反らせ、美しい満月を見上げた。その傾きからして丑の刻参りは完成した。
 ガランと音を立てて、短い蝋燭と五徳が転がり落ちた。深く呼吸し、掠れ声でひゅるひゅると一笑した。
 鎚を投げ出し、いつものように最後にくずおれた神社に手を合わせ、鳥居を振り返った。
 黒い牛が鼻息荒く立っていて、鬼火の如く、その向こうに幾多の炎が揺らめいていた。

 わけのわからぬ絶叫を撒き散らし、諸手を挙げて、服のはだけるのも気にせずに走り寄った。
 牛を乱暴に駆け上がったところで、乗り越えるまでも無く地面に引き摺り下ろされた。逞しい腕だ。きっと鬼の一族だ。
 きっとこれから素敵なことになるのだと思った。鬼になれる場所に連れて行ってくれるのかもしれない。
 腕と体を縛られ、牛にくくりつけられて、私は幸せだった。しきりにこれからどうしようか願望を語った。


 そしてたどり着いた場所は、たった一人だけの場所であった。
 硬く閉じられたまま、いつまで待っても鬼の言祝ぎとやらは無かった。
 なんのことはない、私は狂人として捕えられ、そして牢に放り込まれただけなのだ。
 そこは神秘や怪奇の潜む魅力ある場ではなく、ひどく人間的で終末的なところ。橋姫様ももうやってこない。
 私は失敗したのだと理解し、慟哭をあげたのは、閉じ込められて三日後であった。




 〜19〜




「私は、私を匿ってくれていた義理の父母を、殺しました」

 虚空を見つめながら言った。取調べの男達が色めき立つ様子が聞こえてくる。頬が持ち上がる。

「橋姫様に戴いた毒です。水がめに入れました。丹念に部屋の床を探せば同じ物が見つかるでしょう」

 もうどうでもよい気分になった。親や主人を殺せば、殆ど問答無用で死罪というのも、全てわかっている。
 私の望みは完全に絶たれてしまった、早く消えてしまいたい。私を嘲笑う世界など嫌いだ。大嫌いだ。
 私は丑の刻参りを完成させた。きっと鬼になれたのだ。ならば鬼としての誇りを持ったまま、死にたい。

 問われることには全て真実で返した。そうすれば少女の姿をして、如何に私が醜いかわかってくれるだろう。
 そうやって私の業を知り、皆に畏怖され疎まれることこそが、私に最もふさわしい最期な気がしていた。
 哀れみなど御免だ。なんて貴方はかわいそうな人でしょうと諭されたなら、食い殺してやろうかとさえ、思う。
 救いようの無い悪で終っていい。それが私の、世への復讐だった。

 心は穏やかに沈んでいた。私がいなくても何も変わらず動いていく、全ての物が妬ましかった。
 振り向いて欲しいのだ、そして私がいないと駄目だといってくれるものが何処かに在ってほしかった。
 実際はどうだ。私は必要とされていないどころか、いない方が上手に世の中は回っていく、残酷なまでに。
 私は恩知らずで不孝者の狂人として裁かれることとなった。火刑、らしい。


 刑の執行の日は決まった。そうすると縁者と言い張る人が大勢現れ、私に面会しては好き放題あげつらった。
 面会ではない。彼奴らは興味から、私を観察に来ただけだ。そして私を責め立て正義ぶりたいのだ。反吐が出る。
 終いには私の目や髪の色違いを殊更に挙げて、こいつは人ではない、必ず祓ってくれとか看守にねだって帰る。
 知っているのだ、お前達は一体どんな言葉が怖いのかということを。怖いから、私に会って確認したくなるのだ。
 お前も私も同じ人間だ。人は誰だって同様に嫉妬に駆られ、等しく罪を犯し得るのだと言えば、連中は揃って青ざめる。
 異常者は自分とこんなに違う、だから自分は悪い奴じゃない、正しい人間だと安心したがる、下賎な奴らだ。
 初めは私も普通の娘だったというのに。自分だけは安全な場所にいると、同じように思い込んでいたというのに。

 嫉妬なんて低劣な感情がどうとか、聞き飽きた。それは必ず心に潜み、一糸の隙あらば心を支配する魔物だ。
 なるほど、嫉妬狂いは卑俗な者かもしれない。だが嫉妬自体は人にとって何よりも身近で、恐ろしいものである。
 それをあなどる人間達ばかりとの面会は、寧ろ愉快であった。狂っていると言われるほど、愉悦がこみ上げた。
 私は最低だった。もっと落ちればいいのにと思った。


 この年は殆ど雪は降らなかったが寒く、暦の上では春になったとはいえ、火刑の一日前もまた然様な日であった。
 兄上がやってこられ、これが今生の別れだろうと悟った。しかし時間はどうやら短いらしい。

「御機嫌よう、兄上」
「ああ……久しいな、お春」

 うつむき加減で、胃でも痛そうな表情だった。微笑すら浮かべられる私のほうがおかしいのだとは思うけれど。

「明日、だな」
「はい。兄上のご両親を殺した悪女は、明日焼き焦げて死ぬこととなっております」

 兄上は目を瞑り、苦悩の皺を顔に刻んだ。

「……どうして、なのだろう」
「何がでしょう」
「お前は、そんな恨みがましいことを言うようなやつじゃなかった」
「兄上が私のことを見損なっていただけです。私はもともとこのような女だったのですよ」
「馬鹿な」
「あの日、覚えていますか。私が貴方に接吻するまで、私の思いを微塵も気づいてくださらなかったくせに」

 無言の間があいた。頬がぴくぴく震えた。少しだけ息が苦しい。

「何故父上たちを殺した」
「邪魔だったからです。私は、兄上と結ばれたかったのに妨げようとするから」
「お前は知らぬのだ、父上がお前を叱った後のことを」
「何を」
「父上達はお前のことも思って、お夏のとこに出向き、わざわざ頭を下げて暫しの暇を乞うたのだぞ」
「信じません」
「それだけじゃない。父上はお前が毒をもったことも知っていた。部屋で同じ物を見たそうだな」
「……ああ」
「死の間際だ、教えていただいた。だが父上はお前をお縄に掛けろとは言わなかった」
「酔狂です」
「そのときにお前の気持ちも聞いたのだ、だから咎めるなと。俄には信じがたかったが、その後すぐにわかった」
「……それは、つまり」

 畳をがりりと爪で引っかいた。

「わかった上で、この私にお夏様と結婚せねばならないと申したのですね」
「……そうだ」
「ひどい」
「遅かれ早かれ言うのは避けられぬこととはいえ、済まないことをした」
「ひどいです」
「……深く語る時間も無い。だが、身の振り方は考えたつもりだ」
「あは、は……私は明日死ぬのです。ならば私に人生を返してください。明日を返してください。できますか」
「……」
「貴方という人に心奪われた自分が憎らしい。そして貴方が今でも心を返してくれないのが恨めしい」
「お前は、やはり変えられてしまったのだな」
「そんなことよりお夏様が妬ましいのです。今すぐにでも祟り殺してしまいたいくらい」
「私が至らなかった。取り返しのつかないことをした」

 兄上は深々と土下座した。それをみていると、私は逆に悲しくなってきた。
 帯刀した武士が部屋に入ってきて「そろそろ時限ゆえ」と言い、視線で退出を催促した。

「お夏様とは……契られるのですね」
「ああ」
「絶対に、幸せが訪れませぬよう、明日は火炎の中にて呪いましょう」
「最後に何か、あるか」
「……」
「泣くな」
「え」

 慌てて頬に手を当てた。生意気な言葉を平然と吐いていたつもりなのに、しっとりと湿っていた。
 私は一体いつから泣いていたのだろう。途端に今までの言葉を反芻して、恥ずかしくなってきた。
 両手でごしごしとやると、逆に涙は溢れてきた。私は強がっていたのだと認めさせられるようで余計に止まらない。
 終いにはしゃくりあげ始めた。鬼は泣かぬのだと心にあったのに、私は、私にはできなかった。

 少し考えればわかる話だ。私は、貴方のために鬼になろうとしたのだから。
 貴方に愛されたくて、そばにいたくて、はじめはただそれだけだったのだ。優しくされたら、敵わない。

「怖いだろうな。お前はまだ少女なのだから」

 胸を固く抱いて、しばらく唸ってから二度強く頷いた。
 今にも隣の男が声をかけて話を止めてしまいそうだ。私は、思わず兄上の襟をぐいと掴んだ。
 兄上もすぐに了解してくれた。いつもやっていた、泣き虫の収め方だ。

「待て」

 だがすぐに鋭く声が上がった。腕が二人の間に滑り込まれ、遮られた。
 そしてこれでお仕舞いなのだとわかった。もう、何も見えない。目は曇ってしまった。

「さらばだ」
「……はい」

 最後、襟を掴んだ私の手を解いた兄上の手の冷たさがとても哀しかった。
 いくら人を妬もうと憎もうと、愛しい人の温もりを求めてしまう私は、やはり鬼には成りきれなかったらしい。
 橋姫を思い出せ。宇治の橋姫は女を殺した。そして夫もまた殺めんとしたのだ。





 〜20〜





 刑場は、私の牢から歩いてかなりの距離があるところであった。その間、多くの人に見物された。
 だが怖れていたように石を投げられたりすることはなく、せいぜい時々やじが飛ぶ程度で静かなものだった。
 私は最早人と見なされていなかったのだ。触れば祟るということにでもなっていたのだろう。

 大路のわきにはまばらに人が居た。これほど多くの人間を一度に見るのは初めてだった。 
 皆が私に対してそうするように、私もまた周囲を観察した。店というものはこんなに多くあるのかと驚いた。
 さらに進むと家が若干少なくなり、道は狭くなって枯れた草が蔓延り始めた。
 我が家が見えた。正面から見たのは初めてで、町の中心からはやや離れているが、その分大きい屋敷だった。
 少し立ち止まり、深く礼をした。その程度は時間が与えられた。なにやら中は騒がしいが、扉は閉まっていた。

 私の目付け役は六名で、口々に今日は冷えるとか雲行きが悪いとか独り言のように話していた。
 それからまた店が多くなり、山の麓にある隣の町に近づいていると思われたそのとき、私の耳に嫌な音が届いた。

「水のおとが……」
「近くに川が流れています。橋を渡って越えます」

 私の腰縄を持って右を歩いていた細身の男は平然と言ったが、私は思わず立ち止まってつんのめった。
 じっと眺めると、向こうはぷっつりと道が切れていて、紅い橋が架かっているのが見えた。
 その橋が悪いことにそれなりに立派そうである。ということは大きい川なのかもしれない。
 どんな水が私は一番嫌かというと、高いところから見下ろす、流れのある幅広い水なのである。
 海に投げ出され、潮に巻かれて溺れたという苦しい記憶は、まさにその状況だった。

「おい、確かこの娘さんは水が怖いらしいぞ」
「ええ、そんな。しかし刑場に行くにはどうやっても橋を越えねばいけないでしょう」
「迂回するほどの時間は無い。我慢してもらうしかない」
「怖ければゆっくりでもよいのだ、できるな」

 皆の視線が私に注がれた。唇を固くして、無言で一歩足を投じると、再び私達は進みだした。
 川音は壁のように立ちはだかってくる。最後の最後まで私を苦しめるるもりらしい。
 不思議と橋上には誰もいなかった。橋は交通の要所であり人の集まる場だというのに。
 ぞっとするほど渡る者がいない橋は、その円弧の形のせいで、まるで何かの舞台のように見えた。
 そう、最後の舞台に花道より入るのは私なのだ。あの丘の上で真っ赤に焼け爛れ、浮世を俯瞰するのだ。

 橋に差し掛かって、私は強いて水を見ぬように視界を狭めた。それでも足は中々動かない。耳を塞ぎたくなる。
 橋は幸い広く、中心だけを歩いていけば川の細波を見ずにすむ。引きずられるようにそろそろ歩いた。
 そして半分まで、何度も屈し陸上に溺れ、そのたびに歯を食いしばって震えながら、たどり着いた。
 過去を越えねばならぬのだ。最早鬼がどうとか考えなかった。私はただ死ぬのだと、そればかり心にあった。

 紅い橋の頂点に至り、少しだけ気分が楽になった。此処からはもう降りるだけでよい。
 心の緩みのせいか、呆然と動けなくなった。催促の声。天を仰ぐと体が浮きそうな気がした。
 そのときだ、橋の対岸に人の集まりを見た。そして私のほうに向かって橋を渡り始めた。
 私たちと同じだけ、六人の恐らく何か物を入れたと思われる箱を持った人間。その中心に女性が一人居た。
 遠目に女性とわかったのは、その者が華やかにして無垢な、花嫁の衣装をしていたからだった。

 ……私もあんなふうになれたのだろうか。
 心持ち橋の真ん中から退き、一目見てみたいと、そのまま彼女らが通り過ぎるのを待つことにした。
 花嫁はまだ若く、心奪われるほど美しかった。花嫁の帽、角隠しという、あれに鼻から上は隠れていたがそれでも。
 妬ましい妬ましいと薄く閉じた唇の中でヒソヒソ囁いた。私はこれから死ぬのに、幸せに生きていこうとするのだ。
 人があれだけ居たのは、私以外に、この方の姿を見たかったのかもしれない。

 花嫁は私の前にたどり着く。しかしそこで異なことがおこった。罪人の前などそそくさと通過するのが常なもの。
 しかし彼女は連れの者達に手で静止を命令し、あろうことか私の正面に向き合った。

「こうして対面するのは初めてか」

 甘い甘い、余りに聞き覚えのある美声で、彼女は言った。驚きの余り息をすることすら忘れてしまった。
 その私に一笑を投げかけながら、するりと頭の角隠しを脱ぎ降ろした。明るみの元にて、麗しい容貌の女だった。
 其処に私が求めたのは、文字通り角であった。人にあらざる醜き骨格。密な黒髪のどこを探してもそれはなかった。

「私の名は、お夏という」

 誰よりも信じていた女と同じ声で、誰よりも妬んでいた女と同じ名を、その人間は告ぐ。




 〜21〜



「橋姫様、いったいなにを……」
「退け。お春と話がしたい」

 私の目付け達に厳しい口調で言うと、難色を示しながらも皆が私から少し離れた。ふと考えが頭をよぎる。

「橋姫様! 橋姫様! 助けに来てくださったのですね!」

 彼女はにやりと笑んだ。そのとき、彼女の背後に居た中年の男が半ば罵声で叫んできた。

「控えよ咎人! このお方は本日お嫁ぎになられる水橋のお夏様だぞ!」

 お嫁ぎ……水橋の……。

「そういうことだ、お春よ」
「わ……わけがわかりませぬ」
「今日、私はそなたの家に嫁ぐ。そなたの心より慕っていた兄の嫁になるのだ」
「嘘でございましょう、だって貴方は、私のためにあんなに」
「まだ気づかぬか。私はそなたを謀ったのだ」

 片眉をぴくりと上げて、彼女は言った。

「橋姫様、貴方は、橋姫では……」
「見ろ、私には角も牙も無い。鬼にはあらず、ただの人間だ」
「それでは、それでは、私のしたことは一体何なのですか」
「我が掌の上で、滑稽に舞ってくれたのは愉快であったぞ。貧すれば鈍す、今でも信じたがるとは笑止」
「嘘です、ならばあんな不思議な薬など作ることはできないでしょう!」
「不思議な薬?」
「父上母上の……」
「ああ、くっ……ははは……!」
「何故、お笑いになられるのですか。何故!」
「そなたが撒いたのはただの炭だ。はじめから毒にも薬にもならぬ、あははは……!」

 こらえきれぬように彼女は笑った。ならば何故父上母上は亡くなったのかと叫ぼうとして、気がついた。
 頬が痙攣して血は沸騰した。あの日、橋姫様はこういわれたのだった。

 ……そなたのすべきことは、そのお夏のくる夜に、水がめへ、その薬を注ぐことだ。
 ……どうやらお夏は豪奢な茶器も用意したらしい。ならば茶事も催そう、その秘薬入りの水を使い。
 ……一人で茶をたてて飲むものか、飲むのはそなたの両親よ。

「まさか貴方が、貴方が父上母上を……」
「知らぬ。だがよいことを教えてやろう。そなたは誰一人殺していないのだ、くく……無実の火あぶりよ」
「……」
「哀れな奴め。そなたの父母は確かに実の父母から身包みをはいだ。だがそれは娘を守ってくれと頼まれたからだ」
「……」
「実の父母は既に瀕死で、そなただけが助かった。娘を預ける対価に身につけていたものすべてを差し出した」
「……」
「泣かせる家族愛よのう。そなたに情が移ったあの父母は、宝をひとつも売り払わずとっておいた」
「……」
「あの蒼い宝石も、そなたが大きくなったとき、何かのために使ってやろうと大事に大事に……ふふ」
「……」
「ああ、良かったではないか。そんな親の鑑のような両親を殺してないのだと知られて。幸せか、我が妹よ」
「貴方は」

 ぶるぶると震える手は、握りすぎたせいか、爪が食い込み流血していた。 

「貴方は私を……鬼として生かし……人として死なそうというのですね……!」

 破裂しそうなほど目を怒らせ、彼女をにらみつけた。なりふり構わず地を蹴り飛ばし、恨みに任せて掴みかかった。
 だがそれは成らなかった。とっさに私の腰縄が引かれ、無様にも犬のように橋にへばりつき、見下ろされた。
 丑の刻参り七日目、黒牛から引き摺り下ろされたように、強く組み伏せられた。動けない。

「素晴らしい、何と美しい目だ。私もそなたのような目をしている時期があった。妬ましさに病んだ狂おしい心」
「ちくしょう……ちくしょう……!!」
「下品な言葉遣いよ。然様な言葉、今まで使ったことも無かろうに。ああ、気をやってしまいそうだ……」

 陶酔した目、感動に震える体、上気した表情、これが私の信じた女の本性だったのだ。
 私はこんな女を信じて、心まで狂わせ、鬼を信仰して、荼毘にふされるのだとおもうと、体中から血が吹き出そうだ。
 私が一体何をしたというのだ。兄という幸せを奪ったばかりか、私自身まで駄目にして何が楽しいのか。
 一寸忘れていた鬼と化そうとした思いが、突然に、しかも今までで最も強烈に溢れて心を食い荒らした。

「姉が妬ましいか、妹よ。私は、我が夫に愛されていたそなたが妬ましかったぞ」
「黙れ、妹と呼ぶな! お前など呪ってやる! 鬼となって血肉を引き裂いてくれる! 丑の刻参りは完成した!!」
「はは、しかしそなたは鬼にはなれぬ。橋姫の如く水を潜ることもできぬ意気地なしが。じきに骨と化すのだ」
「この嫉妬狂いめ! お前は人ではない、鬼だ、女の皮を被った下劣な嫉妬の魔物だ!!」

 すぅ、と彼女の顔に浮かんでいた侮蔑の笑みが消え、蛍のような光の軌跡を見た気がした。

「刀をよこせ」

 突然命令された武士は目に見えて狼狽した。

「しかしお夏様」
「よこせといった」

 強引に脇差に手をかけ、しゃらんと白刃を剥き出しにした。彼女の眼は細く、冷たい眼光が宿っていた。
 殺されるのだろうか、と思った。いっそそれでもいい、その白無垢、忘れられぬほど真っ赤に染めてやろう。
 彼女は剣舞のようにぐるりと刀を回転させ、地に垂直に向けてから、渾身の力でずぶりと橋に向かって突き刺した。
 思わず目を瞑ってしまったが、私の鼻先すれすれに刀は突き立ち、無傷だった。

「水鏡を臨めぬ者よ、自らの姿を知れぬ哀れな狂人よ。その刀身に、真の鬼の姿の宿るを刮目せよ」

 ……そこには。 

「私を見ろ、私は斯様に人間だ。刀の鏡を見よ、それはお前の姿だ」

 ……身の毛もよだつほどの、おぞましい鬼が。

「あ、あ……」
「ふふ、頭がさめたなら、自らの姿は、さぞ格別だろう」
「こんなの私じゃない……」
「醜い形相よ」
「私は、私は、だれもがするように幸せを望んだだけ……」
「私を鬼と罵るなら、お前の方がよほど鬼だ。喜べ、然様な姿、最早誰も愛しなどせぬ」
「貴方が妬ましい……死にそうなほど妬ましい……」
「死地は近くに在り。存分に喫せよ」

 刀を突き立てたまま、彼女は踵を返した。周りの人間は何が起こったかわからない風で見つめている。
 床に伏せられながら、私はそれを見送るしかないのだ。

「橋姫諸々の本を贈りつけたのは私だ。あの面妖な誘いの紙を書いたのも私だ」
「やはり、あなたが……」
「覚えておるか、妹よ。あの紙の最後の言葉、言ってみろ」

 忘れるわけが無い。今でも紙の隅々まで覚えている。確か……。

「我が禍によりて、汝の福を成さん……」

 続きを思い浮かべた途端、唇は強張り、胸は震えた。血涙が零れ落ちた。


「我は……願い報われぬ……橋姫なり……」

「さらばだ、橋姫よ」






 〜22〜




 刑場には先に人がいて、打ち合わせをしているようだった。見物人は思ったよりは多い。
 火刑など所詮は見せしめなのだ。それに、私の場合はまた特別な理由があった。

「何か最後に尋ねたいこと、伝えたいことはあるか」
「……これから私に、どのようなご沙汰を」
「まず、この棒に泥を塗った縄で縛り付ける。そして棒を立て、火を放ち、刑を執行する」
「泥を塗るのは何故ですか」
「火刑だ、縄が焼き切れては困る」
「……それで」
「火煙によって絶命したならば、とどめ焼きを両乳房と両目に行う。本来ならば此処で終わりだが……」
「まだ何か」
「お前は鬼に魅入られたと言う噂がある。よって人々の恐れを払拭するためにも棒を切り倒し、骨になるまで延々と焼く」
「火葬」
「そうだ。そしてすっかり骨になったら、寺にて四十九日の清めの経を受ける。その後無縁仏の墓に葬られる。以上」
「そのお墓はどこに在りますか」
「この山の、別の麓だ」
「そこに水はやってきますか」
「水?」

 水が足りないのだ。私の知る限りの鬼と化す術は、繰り返し読んだ宇治の橋姫のみ。
 彼女は宇治川に二十一日漬かり、生きながら鬼と化したのだ。
 だが、これはもしかして、死した場合でも通じるのではないかと幽かな希望を抱いた。
 生きた私は川に漬かるのもままならない。だが、死して骨になってしまえば、もうそんなことはない。
 強いて光明いうべきものを挙げるのならば、それが唯一であった。幸い丑の刻参りは済ませたのだ。

 こんなこと、本来ならば至極どうでもよいのだ。私は想像しただけでそれが叶うのを、切望はしなかった。
 あの女が、お夏が、私を人間へと還してしまったから、嫉妬の埋め火は再び息吹いたのだ。

「そこらが水に流されたことはない。川もないし森林に囲まれている、案ずるな」

 墓の心配をしていると思ったか、軽く笑った男の顔を睨みつけ、嘲笑うように言った。

「今までいっぱい泣きました。私は泣き虫でした」

 私は一歩、近づく。

「此の世のすべてが、涙に没すればいいのに」



 滞りなく準備は進められた。ずっと遠くを眺めると七年すんでいた家が見えた。私の居た離れも。
 あそこには兄上がいる。そしてあの女が、綺麗な服を着て、供物を捧げ、儀式を行い、華燭を挙げるのだ。
 皮肉にもその蝋が灯るとき、私もまた焼け落ちる。禍福は同刻の火に宿る。

「点火の前に、名を」

 低いところから年取った男が声をかけた。「水橋」とまで言って、口を噤んだ。
 私は鬼になれなかった。見た目だけ鬼になって、人間のままだった。それはまだ愛しい人が居たから。
 幸せの香りを捨てられぬのが、私を阻んでいるのだ。

「名を」
「パルスィ」

 再び問うた男に、私は優しさを知る前の名を名乗った。

「水橋パルスィ」

 二度言うと、心が切なくなった。自ら愛の名と恋しい過去を捨てたのだと。
 それでいい。修羅の道は捨てて逝くべきなのだ。私は今までそうやってきたではないか。
 良心を捨て、帰路を捨て、家族を捨て、想いを捨て、過去を捨て、未来を捨て、女を捨て、名前まで捨てて。
 そしていま、体まで捨てんとしているのだ。

「水橋パルスィよ、汝を親殺しの大罪で、火刑に処す」

 老人は離れ、若い衆が四人集まり火打石を鳴らした。藁から白煙が昇る。
 パルスィと発音をするりといわれたことに、妙な感心を抱いていた。
 火はちろちろと燃え始め、藁と薪を食って大きく成長し始めた。



「救われぬ……報われぬ……叶わぬ……届かぬ……ひとつも……」

 ぽつぽつと一人ごちた。何か白い者が散る。灰かと思ったが、よくみると薄い雲から雪が舞い降りてきたのだ。
 新春の雪は、晩春の桜に似ていると思った。その美しさはあくまで刹那。火に飛び込んでは跡形もなく消えていく。
 叶わぬ定めに身を焼く、儚き者よ。

 すぐに煙が酷くなってきた。体中が燻され、目口鼻に忍び込んで沁みさせる。
 本で読んだ、火刑は火によって焼死するのではない。煙によって息がつまり、溺れるように死ぬのだ。
 火の痛みが覚醒を促し、風が無邪気に煙を排するせいで、一息に死する事もできないまま。
 そして熱と体が無くなっていく感覚に、獣のように咆哮してそのときを待つ。残酷な。
 鬼に憧れる私にはぴったりだ。

「呪わしい……恨めしい……忌まわしい……妬ましい……なにもかも……」

 炎の両手が私の足首を掴んだ。皮をそぐような痛みが走った。
 本で読んだように喚き散らしながら私は火の侵略を受け入れていった。喉は針を千本飲んだようだ。
 漏れる声は最早人のそれではなかった。咳をして血を吐きながら焦がれてゆく。
 この声が家で幸せを望む二人に届けばよい。それが私の祝福だ。決して赦すまい。
 あの女も、その女に骨抜きにされた兄上も、すべてすべて、燃えてしまえ。我が執念の炎に。

 ……幸せなものなど、美しいものなど、大切なものなど、消え去ってしまえばいいのだ。
 どうせ全て手に入らないのだ。全てまやかしなのだ。そして追いすがる私を嘲って、妬みばかりを積み上げる。
 それが世界というものならば、私は残酷な世界に復讐しよう。今度は私が妬みを作り出すのだ。
 妬んで、妬んで、妬まれて、妬まれて、私の目の前に眩いものが二度と現れぬように。



『魂に鬼を宿せ。魄に鬼を生め。心を澄まし、体を捨てよ』

 気を失い、そして二度とさめることの無い眠りの寸前に思った。
 思ったというのは正しくないかもしれない。私の中に、私の声が囁きこんできた。喉は枯れたのに。

 わかったのは、ずっと後だった。私はただの人間の少女のように、苦しみぬいて死した。その後。
 それは丑の刻参りを済ませた私が、心から待ち望んでいた、鬼の言祝ぎだったということに。
 たったひとつだけ、私の願いは叶ったのだ。闇夜の海に投げ込まれてから沈んで沈んで、沈み続けたこの私にも。


 そうして暗い暗い水底に、永久に孤独な生き物が生まれた。

 名前を、水橋パルスィという。














 ― V ハッピーエンドの条件 ―






「やあ、よくきてくれました」
「元気そうじゃないですか」

 家の近くの病院。彼の体が思わしくないと聞き、僕は会合を断ってやってきた。

「はは、余命半年の患者というのは大体こんな者です、それより高橋さん」
「なんですか」
「あそこ、病室の前に名前のプレートがありますね。あとで誰かにでも言ってなおしてもらえますか」
「名前が違うんですか? そんなことはなかったような」
「いえいえ、小さい字で読み仮名が書いてあるでしょう。それが違っているのです」

 僕は菓子折りを置き、入り口まで戻ってプレートを確認した。
 其処には漢字で三橋とあり、その上には小さくミハシと書いてあって、なるほどこれかと納得した。
 彼の名前の読みはミハシではない。ミツハシ、なのだ。


 彼と出会ってもう5年になる。初めに会ったのは小説家同志の集まりだった。
 僕の書いた小説がはじめて審査をぬけ、仲間とささやかなパーティーを催したのだ。そこに別のつてから来た彼が居た。
 彼は僕より年上だったが、話があって意気投合した。静かに見えて得体の知れない情熱に燃える感じを受ける人だった。
 とはいえ、決して彼はそのとき上手な書き手だったわけではない。何でも書きはじめて一年経っていないらしかった。

 別に創作論を語るでもなく、普通の友人のように付き合っていて、ある日教えられた。
 彼はもともと体が弱く、大学を出て仕事につこうとしたが、思うようにならなかった。
 そして小説家を目指したらしい。だが、体の他に大きな理由があったらしい。それは教えてもらえなかった。
 そんな彼は非常に勤勉な人間で、見る見るうちに上達し、ちらほらと小さな賞をとるようにもなった。
 一方僕は鳴かず飛ばずである。嫉妬もした。彼が死に物狂いでやっているのを知るまでは、だけど。

 
「読んでいただけましたか?」
「あ、はい。後編まで全て目を通させていただきました」
「どうでしたか」
「不思議なお話でしたが……そもそも本当に三橋さんが書かれたのですか?」
「どういうことです」
「文体も、展開も、まるで別人が書いたように見えるのです」

 彼の恋愛小説など見たことも無い。色々なジャンルに触れるものの、其処だけはぽっかり穴のように無かった。
 しかもどちらかというと救いようの無い陰鬱なものが多く、明るい作品は少なかった。
 それに、彼がこの話を読ませるに当たって、まるで物語自体が他人事ではないような話をしていたことが気になる。
 しかし物語の時代は現在とは断絶するし、おまけに彼の色恋沙汰など一つもきいたことがない。
 彼は眼鏡をなおして言った。

「この話を書くにあたってのことを、一寸お話してよいですか」


 彼の話はいきなり六年前に飛んだ。病気を悪くして、ろくに働けなくなった頃のことらしい。
 彼は自らに失望した。周囲に恩も返せずのうのうと生きて死ぬのは辛いと思った。
 地図を見て、適当な山を見つけ、旅行を決めた。無論、それは帰ってくるつもりなど無かった。

 電車に揺られていると、彼は車窓の山が気になった。それは予定の場所ではない。だが心惹かれ、途中下車した。
 その日のうちにできるだけ近くまで歩いてみて、麓の小さな民宿に宿泊した。
 老夫婦が経営している店で、彼を暖かくもてなした。そして夕食のあとに、この土地について彼と話した。
 そこに、橋姫の伝説なるものがあった。

 むかしむかし、あるところに少女が居た。年は頃合、少女は恋をした。その相手というのが許婚のいる兄である。
 無論その恋が叶うわけもなく、少女は悲嘆にくれた。少女は妖怪に魂を売り、周囲の人間を祟り殺し始めた。
 終いには自らが化け物となった。兄に諭されいったんは咎を認め、火刑を受けた。だが少女は死に切れなかった。
 墓を飛び出して、とある橋に宿った。今は治水で細くなってしまったが昔はかなりの広さのある川の橋だったらしい。
 そして夜な夜な其処を通る人間を川に放り込んだり、或いは呪ったりと悪さをし始めた。
 ついに兄の妻までも祟り殺し、兄は妹の宿った橋を焼き落とした。そうして少女は消え去った。
 だが兄もまた消えてしまった。最後に少女に取り殺されてしまったのだった。


 色恋の嫉妬を戒める話として、この地域に根付いてきた物語なのだろうと思われた。
 だけど彼はそのとき、言い知れぬ疑念がわいたらしい。伝説の舞台となった場所を聞くと夫婦は快く教えてくれた。
 いてもたってもいられなくなり、翌日、天気が悪いと止められたのにも拘らず其処に向かった。
 山村のわきに入ったところ、その小道をずっと抜けていけばつくらしい。墓地の傍だ。

 大昔は栄えていた場所らしいが、川が役に立たなくなったせいで要の水運がなくなり、寂れてしまったそうだ。
 道を行くと植物の繁茂が著しくなり、おまけに雨まで降り出してしまった。弱い体は縮こまる。
 たどり着いた場所は、名残のような墓地であった。そしてそのそばに柳の木があって、小川が流れていた。
 初めは面白みのない場所だと思えたが、柳の木下の石を見たとき心は変わった。何故か此処が懐かしい場所に思われた。
 老夫婦が言うには、この柳の木は不思議なことに二人の小さい頃から全く変わらないままあるらしい。
 その根元に在る石の下が、きっと何か此の世のものではない所に通じているのではないかと言われていたそうだ。
 決して動かしてはならないとされていた

 彼は逸る心押さえきれずその石をどかした。その下に何か埋まっているわけでも、穴があるわけでもなかった。
 何かここに強い渇望があるのは感じたが、どこまで見てもそれはただの土だった。
 彼は既に疲れと雨のせいでふらふらだった。自殺に来たとはいえ、道具もないし、いったん帰ることにした。
 だが存外に暗くなるのが早く、しかも雨で視界は悪い。迷ってしまった、そして途中で力尽きて倒れたのだ。

「思うに、私はあの時一回死んだのだと思います」

 一応は夢の出来事らしい。暗い洞穴のような場所で、呆然と彼は立ち尽くしていた。
 そのとき、まるで蛍が飛行するような光の軌跡が二つ現れた。ふらふらと近づき、よく見ると少女だった。
 彼女の二つの瞳から、緑の光が零れ出ていたのだった。この世のものとはおもわれなかった。

 ぎこちない挨拶の後に、諸々の質問をしたが明確な答えは彼女の口からは無かった。
 ただ、彼女も彼に同情してくれたのか、暗闇の中で話し相手をしてくれた。延々と、何日も話し続けた気がするらしい。
 彼は自分のことを語り、彼女もまた自分のことを語った。それは彼が老夫婦から聞いた物語に酷似していた。
 しかし所々が違うのだ。それもとても重要な部分が。彼は興味深く聞いた。

 やがてどちらからともなく別れのときを悟った。彼は礼をしたいといった。少女は少しはにかんで応えた。
 少しずつ、貴方を奪わせて欲しいわ、と。その意味はわからぬままだった。

 気がつけば彼は、あの柳の下の石の前に居た。空は明るく照っていた。戻ると老夫婦は慌てて警察に連絡した。
 彼が戻らないと言うので捜索が入り、すでにまる一月が過ぎていたのだ。


 きっと彼女に呼ばれたのだと思いながら、彼はその地を後にした。実家では何をすることも無い。
 そのとき彼が無性に手を出してみたくなったのが小説だった。何かに憑かれたかのように書きはじめた。
 内容は勿論、話した内容であった。兄の渡してくれる物語が大好きだったというあの少女と。

 しかし、当然ではあったが話は拙く、洗練の欠片もなかった。彼は一年悩んでみてできた原稿を彼女に捧げにいった。
 だが石の前になると、どうも恥ずかしさばかりがでてきて、その原稿を焼き払った。
 するとそのとき火の中から緑色が溢れた。それはまるで、彼女の揺らめく眼光であり、涙のようであった。
 彼はそれに魅入られた。何故か祝福されたような気がした。同時にこの程度の話でいいのかと自らに苛立った。
 そして戻ってからまた猛然と書きはじめた。練習のため他にも話を書きはじめた。

「初めはね、あの物語ばかりでは余りに彼女が救われないと、私が慰めに創作したつもりだったのです」
「あの話の、後編のことですか」
「はい、しかし書くうちに異様に筆が進むのです」

 不思議なほど話は簡単に構築できた。
 推敲も『こうしたらよいか』というより『これは違う、こうだった』とおかしな進め方だった。
 こうしてできあがった話は後編と位置づけた。そして二年目に前編後編あわせて持っていって、燃やそうとした。
 しかし、後編を燃やすことはできなかった。気恥ずかしさがあったのだ。彼女の過去を捏造したからではない。
 まるで、自分が女々しく言い訳と弁解をしているような気がしたからだった。

「そのとき気づいたんです。私は何故あの時、途中下車してまであそこに呼ばれたのだろうかと……」
「一体どういうことでしょう」
「私は私の記憶を書き連ねたのです、胸の奥深くにある……きっと前世、彼女の兄だったのだと思います」

 眉をひそめる僕に、名前も似ているでしょうと彼は軽く笑って言った。

「それに気づいてからは……何でしょう、異常がやっとわかってきました。私の考えで書いている気がしないのです」
「どういうことでしょう」
「毎年、話は詳しくなっているのです。今年など、私は一体誰に話を書かされているのだろうと思いながら書きました」
「記憶が薄れるどころか、寧ろ濃くなっている、と」
「そうです。小説の勉強も無意味でした。私と関係ないところで書かされるのですから」
「ふむ……」
「あの時呪われてしまったのかもしれません。蘇生の代償かもしれない。彼女の記憶までもが私に入り込んできた気さえ」
「そんな馬鹿な」
「よく考えれば前世の自分の恋なんて、面映くてかけたものじゃありません。だけど書いているときは勝手に手が動く」

 素面ではあんなことはむりですよ、と照れたようにいって、彼は菓子を一つ口にした。甘党だった。
 文章から彼の小説の気配がしないのはそのせいだということらしい。女性が主人公なのも彼の作品ではあれだけだ。

「前世の自分ですか……」
「体も心も全く他人なのに、深い所で同一なのですから厄介な存在です。魂の香りみたいなものが同じといいましょうか」
「俄には信じがたいです。あまり輪廻転生や呪いを信じないたちです」
「作り話と思ってもらっても。しかし無意識のうちに私は突き動かされ、今年も書き上げました。近いのかもしれません」
「彼女が、ですか」
「そうかもしれません。もしこれ以上近寄られてしまったならその時は」
「その時は?」
「……骨を折ってやらねばいけないかもしれませんね」
「まさか縁起でもないこと考えているんじゃないでしょうね、三橋さん」

 彼は返答をせず、窓を見た。

「今年はもうこの状態で、行けそうに無いのです。行かないと、向こうから来てしまうかもしれません……」
「三橋さん」
「どうか、今年は貴方が彼女に炎の花束を手向けてやってください。地図はあとでなんとかします」
「炎の花束?」
「この物語の原稿を、彼女の墓前で燃やすことです。それはそれは綺麗です。できれば灰は小川に流して欲しい」
「構いませんが、くれぐれも早まらないでくださいよ」
「ああ、はい。詳しいことは地図も含めて何かにまとめておきましょう。それを見てください」
「遺言みたいなこと言わないでください」

 彼の目線の先のカーテンを閉めて、目の前に立った。

「高橋さん、ハッピーエンドの条件はなんだと思います」
「何を唐突に」
「いいから、教えてください。貴方はよく優しい話を書かれる方でしょう」
「……文字通り、幸せな終わりでしょう」
「もし、悪と正義二つのグループがあって、戦争で正義が勝ち平和が戻ったとしたら、ハッピーエンドですか」
「普通はそうでしょう」
「悪にとってはハッピーエンドですか」
「それは……勧善懲悪ものでは、悪にそこまで思い至らせることは」
「もし主人公が殺人狂で、存分に人を殺して楽しんだら、ハッピーエンドですか」
「極論すぎます」
「もし、自らの死と引き換えに大勢を救ったら、ハッピーエンドですか」
「そもそもハッピーエンドなんて曖昧ですよ、定義が」

 彼は少しだけ微笑んで、手触りを確認するように『華燭の春 燐火にて』とかいてある原稿を撫でた。
 僕が持ってきたのだった。

「前編はわかりません。しかし後編にいたっては、ハッピーエンドだと信じます」
「ええ? 余りそんな風には……」
「私が思うに、幸せとはなんだろうと考えるからわからなくなるのです、条件が」
「それはなんとなくわかりますが」
「どうすれば幸せだろうと考えると幅は狭まります。主要人物全員にそれを当てはめればハッピーエンドではないですか」
「……」
「あの話、すべての者が願いをかなえます。自らの願いが叶うことを不幸とするものはいないでしょう」
「そんな、だって人が」
「私の記憶は、幸せだったと語ります」

 有無を言わせず彼は釘を刺した。

「人生は、そんなに瀟洒なものではありません」

 そうだとしたら、あの話はもっと良い結末を得られましたと彼は寂しそうに言った。

「しかし人情としては、私もまた、ハッピーエンドが欲しいところですね……」
「やめてくださいよ、そんな言い方」
「傍から見れば不幸な幸せと言うのもあるのです。貴方は良心的な人だ、きっとよくわかってもらえないでしょう」
「……」
「だとすると貴方はあの物語、きっと勘違いをしました。幸せな勘違いを」
「勘違いですって?」

 僕は思わず声を裏返らせて言い、ばつが悪く咳き込んだ。

「恥ずべきことではありません。理解してはいけないことなのかもしれません」
「気になりますよ、そんなことを言われたら」
「……そのうちわかるでしょう。見せ付けられることになる気がします」
「僕だけではわからないことなのですか?」
「人ではない者を、人の物差しで計れば齟齬が出ます……彼女はもう人ではないのです」

 人ではない、といった彼の顔には沈痛な皺が浮かんでいた。
 彼らしくもなく饒舌に其処まで話したものの、其処からはいつものように言葉少なくなった。
 菓子を食べて簡単な感想をいい、僕が一寸どんな店のものなのか語ったのみだった。
 つけっ放しのラジオから幽かに流れるクラシックの音を必死に辿ってみたりしながら、僕は彼と無為に過ごした。
 どうしようもなく乾いた死の匂いが立ち込めていた。源もわかっていた。


 ふと時計を見やった。そのとき彼がぽそりと呟いた。

「永遠とは、望むだけでも罪なのでしょうか」

 恐らく残酷なものであると僕は思った。だが口には出さず、バスの時刻を思い浮かべてゆっくりと腰を上げた。

「そろそろお暇します。どうか気を確かに持ってください。まだ三橋さんはやるべきことがいっぱいです」
「……そうですね」
「それではお暇させていただきますよ。また近いうちにおたずねします」
「貴方には感謝しています、高橋さん」

 カーテンの隙間からちりばめられた夕日が、彼をうっすらと斑に染めた。

「高橋と言う名前の語源ですが、高とは天上界であり、橋はそれにつなぐものです。神の使いと言う意味なのです」
「へえ……それは面白い雑学ですね。ヤコブの梯子を思い出しました」
「最初にあなたと言う人間に注目したのは、そのせいかもしれません」
「いやいや、僕はただの人間です、期待しないでください。大体ありふれた苗字じゃありませんか。貴方の方がよほど」
「名前と言うのは大事なものです。私も貴方も彼女もね」
「ともかく、名前プレートのミスのことは誰かに言っておきましょう」
「助かります。これで迷うことも無いでしょう」

 彼女のことだろうかと思い、なんだか惚気を聞かされた気分になって、僕は少し意地悪に質問した。

「もしかして、貴方はその少女に惚れでもしたのですか?」
「さあ、わかりません。わかっているのは、最後の兄の気持ちが今の私と似ているということです」



 彼の元にはそれからも何度か訪れた。
 だけども彼の話はこれ以降めっきり事務的になり、自分がいない後どうするかという指示のような会話だった。
 僕はそのたびに嫌な顔をするのだけど、彼の態度は変わらない。苛立ちも覚えたが諦観に変わった。
 病気自体は特に悪化したわけでもないのに、人間味が抜け落ちていく。彼の死はこんな風なのかと思った。
 小説の話題ならと思ったけれど、それすらも明朗な応対はなく。彼が僕に言った勘違いという言葉がもどかしい。

 一ヵ月後だった。家にいるときに、彼から電話がかかってきた。いつも電話するのは僕からだから驚いた。
 しかも時刻はとうに日付をかえ、所謂丑三つ時を少しまわった頃であることに冷や汗をかいた。
 僕は慌てて彼の機嫌を伺い、あれこれと脈絡もなく話を展開した。彼の言葉が怖い。

「西を」

 彼は僕の言葉を断つように言った。

「西の空に答えが……少なくともヒントがあります」

 僕は慌ててベランダに出て西を向いた。西の空は真っ暗であり、しかしその闇を赤く染める明かりがあった。
 その光源は彼のいる病院で、明滅から急患を載せた救急車か何かなのだと思った。彼の病室も此処から見える。
 既に消灯時間は過ぎていて真っ暗であった。

「……答えとは?」
「貴方があの話で何を勘違いしたかです。よく尋ねてきたでしょう」
「はい、ですがこれとどう関係を」
「彼女は純粋でした。そして生きるためにはそれが必要なのです」
「意味がわかりません、いったいどうしたんですか」
「貴方のそば、だけど決して触れ合わない場所で。彼女はそういってくれました」
「え……?」
「よく覚えておいてください。あの物語の私は、勘違いをしていたのです……貴方は従順にそれを受け止めてしまった」

 必死に頭の中を整理している最中、彼は一度咳払いをしてから言った。

「最後にみっつ、お願いをしていいですか」
「最後なんていわないでください!」

 僕は声を荒げた。必死に彼の病室の窓に目を凝らした。彼が其処から飛び降りんとしているのは自明だった。
 何もかもが死に流されているのだ。彼はそれに魅力を感じているのかもしれないけれど、僕は理解できない。

「私のお墓は、できれば彼女のお墓の近くにたててください。質素なものでいいです。近くに墓地も在りました」

 僕は何か彼を思い切り罵ろうとして、携帯電話を耳から離して顔の前に持って行き、硬直した。

「あの小説、これはできればでいいですが、貴方が代わりにこれから書いて彼女に届けて欲しい……無理なら結構です」

 彼の声は平然と流れ続ける。

「最後に、彼女に会ったときはよろしく言っておいてください。それでは、さようなら。貴方はよい友人でした」


 その日、僕は昼のうちに彼と長々電話していて、携帯電話の電池が切れていたのだ。
 切断音もしない携帯電話を充電器に設置すると、小気味よい確認音が鳴った。
 十分後電話がかかってきた。病院からだった。彼が死んだらしい。その時刻はあの電話よりも前……。
 あの赤い光は救急車じゃない。病院の敷地内のけが人で救急車を走らせるものか。パトカーだったのだ。
 それはきっと、地面を掻き抱くように死んだ彼の形跡を、より赤く照らし出していた。

 事実の重大さと、不思議な体験という浮遊感みたいなものは、そのままふらふらと僕を外に連れ出した。
 そして気がつけば再び家に戻っていた。じきに東雲の時分。手には雑貨、一箱のタバコもある。
 以前吸ったことはあるけれど、余り気持ちよいものじゃなかった。僕はそれを期待してガスコンロで一本火をつけた。
 煙がつうと天に伸び、僕は彼を見送ったベランダに出た。赤い光はまだついていた。
 吸った煙は不味くも、かといって美味くも無かった。人生とはそんなものだと気障な台詞が思い浮かんで霧散する。
 人生は瀟洒なものではない。それは彼の言葉だ、少なくとも今僕が触れたいとは思わなかった。

 僕は幻想に片足を突っ込みながら、もう一本に火をつけた。
 戻ったベランダで、燐光のような淡い光を、彼の病室に見た。蛍のようだった。
 僕はそれに手を伸ばしてみた。手を掠めるわけも無く、指に隠れて次にあらわになったときには、幻と化していた。









 ― W 華燭の春 燐火にて 後編 ―










 さむしろに 衣かたしき 今宵もや

        我を待つらん 宇治の橋姫





 〜23〜




 人は、私を、狂人と言う。

 爛漫に咲いた春は移ろいの色を催し、鳥虫の声もいつしか質を変え、その季節の訪れを示していた。
 私達が、赦されぬ罪を犯してから、今宵で丁度一年となる。お夏という妻を亡くし、一年にもなる。
 彼女が生まれて、一年でもある。水の底に禍々しい意思の塊を孕み、今でも橋にて待っている。

 会いに行かなくてはならないと思い続けてきた。しかし、臆病にも逃げたいという気持ちも多かった。
 亡き妻を悼む、それと橋姫に祟られぬようにという周りの配慮に甘え、ずっと屋敷から出ず過ごしてきた。
 幸か不幸か、遺された財産は相当で、質素に生きていけば一生問題ない。
 私は何も贅沢はしてこなかった。日がな一日部屋にこもり、粛々とその日を待ち、手慰みに人の骨を弄ぶ。
 それは、人ではなくなってしまった妹の骨だ。心から一番近い、胸の骨だ。

 気がつけば一年後と決めていた。それは、人々が私の悪い噂を語っていることを聞いたからだ。
 水橋の旦那様は、引き篭もりが甚だしい。奥様が亡くなられて、おかしくなってしまったのだろう。
 噂によると人の骨、それも女のものを一日中弄っているらしい。きっと悪い化け物に憑かれたに違いない。
 橋姫の噂を知っているか。あの橋姫、どうやら旦那様と奥様の仲を妬んだ、あろうことか旦那様の妹らしいぞ……。
 噂は大体そのようなものだった。私は人並みにその日が来ることは怖かった。人間としての未練だ。
 だが気づけば私にも、もう普通の人間としての道は無かったらしいと、悟ったのかもしれない。


 その橋は名前を『汝橋』という。
 語源は定かではなく、建設が大変で難事とも言われるし、待ち合わせが多いので何時というのもある。
 汝を水の女とみると、私が思い浮かべるのは妹の姿であった。そう考えると、女の人柱があったのかもしれない。
 生前の彼女は水を厭った。だが最後、水に没したことは皮肉である。あまつさえ、其処から生まれ変わるとは。
 お夏が教えてくれたのだ。二十一日、例え骨でも橋から沈めれば、妹は願を叶えられるかもしれぬと。
 そして私達二人は無縁仏の墓から彼女の骨壷を探し、汝橋の上よりばら撒いた。
 二十一日後、確かにお夏の言葉は正しかった。お夏は汝橋に向かい、戻ってくることは無かった。

「旦那様」

 少し掠れた声で呼んだのはお蝶さんだった。妹のことを知る者は、橋姫の話を恐れやめる者が多かった。
 もともと一人の家に其処まで何人も必要だったわけでもなく、人数は片手で数えられるほどになってしまった。
 彼女だけがそのなかでも、唯一私達の事情を解していた。

「今宵、行かれるのですか」
「そうです」
「お戻りは、遅くなられるでしょうか」

 ある日、いきなり旦那様に呼び方が変わるとしっくり来ないもので、私はまだ彼女に対しては敬して話していた。
 何しろ幼い頃から世話をされたのだ。使用人にへりくだる主人なんてと言われたこともあるが。
 親が死に、長男がいたとなれば、それは確かに主人になるのだろうけれど、変化に今でもついていけない。
 ついこの前まで、元服前の坊ちゃんという呼び方をされていた気さえする。半分親のような存在だった。

 彼女は外行きの服と、簡単な食事を用意してくれた。手を合わせてから少しずつ、かみ締めるように食べ始めた。
 余り腹が食べ物を受け付けなくなっている。めっきり老け、筋骨は痩せ、この空ろで怠慢な一年を物語った。
 夜、人通りの静まるまでは、まだまだ時がある。行くのは丑の刻であるべきだと勝手に思っている。

「汝橋の橋姫様は、やはり妹様なのでしょうか」
「そうだとおもいます。今でも元気なようだ」

 汝橋では人が消える……そんな怪談のようなものが流行っていた。幸せな男女は一緒にわたってはならない。
 手をつないでなどはもってのほか。渡りきったとき、どちらかが消えているのに気づくだろう。
 噂に敏感な乙女達は、わざわざ先に自分が渡ってから連れの男を渡らせるらしい。
 消えたといっても、永遠に行方不明ではない。大方、気がつけば川に投げ込まれているだけなのだ。
 一月に被害は何件か出るが、死んだものは居ないはずである。川は幅があるが、立てば足はつくし、流れはゆるい。
 唯一の犠牲といえば、それはお夏しかなかった。

「その骨はやはり」
「お春のものです。悪い人はこれで私が毎日、いかがわしい行為にふけっているとか言うのですね」

 骨を軽く撫でた。私はこれで慰めなど考えたことも無い。口づけどころか頬に擦り付けたことすらない。
 いつもただ手にあるだけだ。焼けたせいで表面がざらついていた骨は、今は白磁のように滑らかで艶さえある。
 その幽かな重みを感じるたび、彼女との優しい思い出が痛みを伴って浮かんでくるのが好きだった。

「……最後に、全て、お話しても良いでしょうか。お蝶さん」

 彼女は年の割に皺の無い顔を少し歪め、うやうやしく礼をした。ありがとうと小さく言った。
 私だって人だ、自らの作った寂しさに潰れそうだった。今日と言う日が近づくと憂鬱になった。
 丑の刻にはまだ遠い。その間の慰みに、別れの挨拶に、この話が一番適していると思われた。

「何もかも話すのは貴方だけです。どうか、墓の中まで持っていってください」





 彼女の火刑が執行される日、家は騒然とした。仮にも家族が死ぬという日に、お夏は婚姻をぶつけてきたのだ。
 なんでも理由は、此方の家のしきたりでは最も儀式に良い日であり、次はずっと後だからという。
 そんなのは無理だと言ったが、既に向こうの準備は整っており、お夏様も出発されたかもしれないとのことだった。
 此方の準備は急なことで言い訳がきくとしても、私が怖れたのは二人が出会ってしまうことである。
 お春とお夏、あの二人だけは会わせてはならない。しかしながらどうしようもないことであった。
 罪人を連れる者達を止めるわけには行かないし、お夏はどう言おうが間違いなく妹と出くわすように出発するのだ。

 そして怖れていたとおり、それは起こった。婚姻の儀を終え、なんと、夜にさも武勇伝の如く自らはなしてきた。
 最後に会ったとき、妹は震えて涙しながら、悪女ぶって、強い言葉を放っていた。余りに憐れだった。
 自分は残酷な奴だと言い聞かせ、だから死んでもよいと心を作っていたのかもしれない。
 お夏がしたのは、妹が必死に作った痛み止めの薬を台無しにするようなものだった。その上で塩を擦りこんだ。
 火は夜通し焚かれることとなった。家の方角を、死力を込めて睨み、恨み妬みを叩きつけていたらしい。
 彼女の両眼は、絶命後の止め焼きのとき、音を立てて破裂したという。あの美しい碧眼が。

 私は、思い切りお夏を張り倒した。女に手をあげたのは初めてだった。彼女は倒れ伏してなお、哄笑をあげた。
 うすうす感づいていた、両親を殺したのもお夏ではないかということに。彼女はあっさりとそうだと答えた。
 願いを叶える橋姫を騙って妹を心酔させ、さも自らが親を殺したように追い込み、優しかった彼女を変えてしまった。
 赦し難かった。狂ったように今までのことをあげつらい、大切な妹につけた傷を自慢する彼女が。
 しかもこの女、おぞましいことに、それをさらけだすことをえもいわれぬ快楽としているのだ。

 私は最も残酷な手段で、彼女を痛めつけようと思った。部屋にあった刀を抜いて、切っ先を突きつけた。
 殺すという生半可なものではない。私は彼女が一体何を怖れるか知っていた。「殺せばいい」と彼女は言う。
 衣を乱し、薄ら笑いを浮かべながら刀を愛撫するお夏の白い胸に、ずぶりとつきたて、血の飛沫が舞った。



「都に行ったことが、ありましたね」

 お夏と初めに会ったのは、彼女が引っ越したときの挨拶だった。恭しく振舞う皆の前で、高級な遊女の如く彼女はいた。
 身なり自体はしっかりしたものだし、話せば教養もあるとわかった。しかし彼女の色香は、危険に薫った。
 容貌の麗しさから、会った若い男は彼女の虜になるものが多かった。私も少しは誘われた部分もある。

 男の選定のようなものが始まったのはすぐにだった。十八となれば、女はもう十分結婚していてよい歳。
 彼女は十人程度の男を頻繁に呼び出し、自分の相手をさせるようになった。何しろお夏は立派な武家の長女だ。
 男達は誰もが夢中だったし、私も何か胡散臭いものを感じながら浮き足立つような気分はあった。
 水橋は名前の如く、先祖が先の汝橋などを建設するにあたって先鞭をとり、治水に尽力した家系であった。
 名前と誉れはこの地において大きい、しかし余り子宝に恵まれず家は縮小し、その末裔が私だった。
 家を大きくしたいというのは、やはり性であって、お夏には心が揺らいだ。

「そなた、女の噂があると聞く」

 彼女が煙管をふかしながら言ったとき、私は驚いた。まず心当たりがなく、妹のことかと思い浮かぶと言葉を濁した。
 それをお夏は見落とさなかった。しつこくその話題をし、しかも上手に私の嘘をみやぶっていった。
 そうやって困窮する私が滑稽だったのかもしれない。彼女は極めて頭の回る女性だった。
 その紫煙は伽羅のような甘い匂いがした。最後は人を入れるという手段に出そうになり、私は折れ、妹のことを語った。

 そうして私達の秘密ができると、今度は逆に親密になっていった。お夏にも妹がいて、共通の話題となった。
 小さい頃妹はどんな失敗をしたか、どれくらい自分のことを慕ってくれるのか、それらはいくらでも話せた。
 私はお春のことをとても良い妹と思っていたし、妹を褒めることは自尊心をくすぐる行為だった。
 そうこうする間、お夏が他に親しくしていた男はどんどん切れていき、とうとう、彼女に呼ばれるのは私ひとりになった。

 傍目に見ればもはや懇ろな関係かと思われるほど、私達はよく会っては話した。他の仕事に関しては免じられた。
 どうやらお夏が勝手に手を回したらしい。それだけ彼女の家の威光は強かったのだ。
 相変わらず妹のことを語れば話の種は尽きない。純粋に話は楽しく、だがお夏自身のことを話題にはしなかった。

「そのお春という妹は、きっと兄のことが好きなのだろう」
「それは、不甲斐ない兄ですが、慕われてはいるようで嬉しく思います」
「違う、妹は恋をしているという意味だ。私のこういう勘は外れぬ」

 ある日、狐のように目を細めて彼女は言った。私は赤面して、しどろもどろに否定した。あれはまだ子供だと。
 そうすると「だがその妹が愛しいのだろう?」と返された。自分の脈うちが感じられるほど熱くなった。
 そのような目でお春のことを見たことは、なかったとは言い切れなかった。異国人であるせいもあったかもしれない。
 全く自分と似ていない少女を、義理とはいえ妹と思い切るには、やはり難があった。しかも私を熱心に慕ってくれた。
 そんな少女の成長を、小さいときからずっと見守ってきたのだ。外に出るときは、心細げにしがみついて来る細い手。
 彼女のやわらかい金髪も、澄んだ碧眼も、血筋を透かすような白い肌も、最初こそ驚いたが今は美しいと思う。
 他の者のようにお夏に首っ丈にならないでいたのは、他ならぬ彼女の存在ゆえかもしれない。

 とはいえ、やはり彼女の居場所は妹であり、決してそのような関係になることは無いと悟っていた。
 水橋の長男が、そんな道知れずの恋に落ちるわけには行かないのである。だからそもそも本気で考えたことはない。
 なるほど、私は妹が好きなのかもしれない。しかしそれは家族愛の範疇に押し止めるべきである。
 実際に、今までそうやって生きてこられたと思っている。これからも問題ないと見える。

「妹の話をするときは、とても嬉しそうだな」
「自慢の妹だから、当然です」
「他のやつらは、いかに私が美しいかとか、どれほど自分が執心しているか語るばかりでつまらない」
「それは無理もないことでしょう。お夏様はお美しい方です」

 お夏はまさしく傾国の美女だった。白い胸をはだけさせたときなど目のやり場に困る。

「吸え」

 何を思ったか、彼女は自分の吸っていた煙管を私に差し出した。遠慮は三度したが彼女は手を引かず、仕方なく吸った。
 先ほどまで漂わせていた甘い香りの煙は、実際に吸ってみると苦味が強く、むせた。

「その煙管はやろう。丁重に使うがいい」
「かたじけのうございます」
「決めた。私はそなたの嫁になろう」
「は……」
「何としても」

 平生ならば喜色もあったろうが、左様な話の後では、胸が煙った。煙草のせいかもしれない。
 何としても、という言葉は寧ろ空恐ろしささえあった。浮かんだ笑みは三日月のように鋭利である。

「何故そのようなことを突然に……わからないことです」
「わからない?」
「思い至りませぬ」
「わからないなんて、それこそわからない」
「もし、その言葉本当ならば、どうかお教えください」

 彼女の思考の不明瞭さを無性に怖れて、くいさがった。
 彼女の笑みは艶美でいて、首切り刀のような冷たさがあった。

「私の目の前で、私以外の女に惚気るそなたが、そしてその妹が……」

 蛍。

「妬ましいではないか」

 蛍のような、緑の光の軌跡を、私は彼女の黒眼に見たのだった。



 急遽理由をつけて、私は都へ向かうことにした。そこはお夏の家族達がいるはずの場所である。
 婚姻を暫し延期できるし、何より彼女の異様さの理由をその前に知っておかねばならないと思った。
 しかし、予想外に時間がかかった。というのは、彼女の両親には会えなかったからだ。殆ど勘当状態だった。
 両親は十分に財産を渡し、そして目の届かぬところにお夏をやったのだ。その理由はわからない。
 私は彼女と関係のありそうな者に片端からあたっていった。だが結果は芳しくない。

 しかし何ヶ月も探していると、突然道が開けた。ある男がやってきて、ついてこいといったのだ。
 すると立派なお屋敷にたどりつき、奥様といわれる人物にお目通しをさせられた。
 驚きを隠せなかった。彼女はお夏よりややふっくらとしていたが、よく似た顔立ちだった。
 奥様はおゆうと名乗った。それはお夏に何度も聞かされた、彼女の妹の名だった。

 お夏の話を聞いて周る男がいると噂があり、それを聞きつけたらしい。昨今のことを話すと直に了解された。
 彼女は十六で、この屋敷の主人の妻だった。だから人目をしのぶ形となり、三日かけて全て話された。
 その矢先、両親が倒れたと知らせが入った。私は激しく後悔していた。何としても、と彼女は言ったではないか。


 彼女の家は、娘二人だけが生まれ、男の世継ぎがいなかった。姉妹仲はよかったが、親との仲は宜しくなかった。
 というのも、親は家柄や地位に躍起になる人たちであり、何としても彼女らを身分高い男と結ばせようとしたのだ。
 お夏はその犠牲になるかたちとなった。十二の頃から、親に言われるがまま、知らぬ男達と夜を共にさせられた。
 お夏の美しさは罪だったのかもしれない。彼女は親の売り込みとして、無理やり体を差し出された。
 妹のおゆうも、十三の頃からそうだったが、十五のとき今の主人と結ばれ、親はたいそう喜んだらしい。

 だがお夏はそういかなかった。十六を過ぎても全く相手は出てこなかった。
 幼いうちからのことで、彼女は歪んで育った。性格は高慢で、体を求めてくる男を心の底から蔑んだ。
 求められて差し出す、それは彼女の復讐であった。汚れきった体を玉杯の如く取り扱う男が愉快で仕方なかったらしい。
 ついにはそのようなことを際限なく口に出すようになってしまった。それは確かに誰も嫁にはしたがらないだろう。
 思えば、彼女が数ある男から私に注目したのも、私は余り彼女に執心したことを言わなかったからかもしれない。
 彼女は無理に男と関わらされたその反動からか、縋り付く男を自ら集め、わがまま一杯に振舞っていたではないか。

「姉は、ただ一人だけ、恋する人がいました」

 その男は、しかし身分がつりあう者ではなかった。彼女の屋敷に細工物を頼まれる若い職人だった。
 心労で疲れ果てている時分に、親から身を飾るものとして煙管を渡された。丹念な細工の美しさに彼女は魅入られた。
 そしてその職人に礼をいい、そこから密やかな関係が始まった。彼もまたお夏が好きだった。

 だが、親の目は厳しくすぐに知られることとなる。親はその職人を罰しなかったが、代わりにお夏に脅しをかけた。
 親が連れて行く男のところで宜しくしなければ、その男に制裁を加えると。彼女は抵抗を奪われた。
 元が美しい上に、大人しくしていれば、男は満足するもので、お夏はいい家の息子との縁談がでた。
 恋人のためと心を殺せば、逆に恋人と離れる定めとなる。そして一生好きでもない男と家に縛り付けられるのだ。
 耐えられなくなった彼女は、駆け落ちを考えた。男も賛同した。子の刻に、家の傍の橋でとなった。

 男は来なかった。彼女はそれでもじりじりと待ち続けた。しかし家の者に姿を見つけられ、どうにもならなくなった。
 所詮男なんてそんなものだ。私を可愛がるのは好きでも、身を賭して私を受け入れるつもりなどないのだ。
 これで捕まればもう戻れない。二度と人と会うのも許されまい。身分の違いの恋など、最初から叶わぬもの。
 そして私の体だけが好きな男と一緒になるのだ。誰も彼も何もかも憎い。彼女は酷く心を塞ぎ、橋から身を投げた。


 ……彼女は入水したが、死ななかった。下流に流れ着いたのか、助かってしまったのだ。
 おゆうは姉が狂っていやしないかとはらはらして待っていたが、お夏は驚くほど冷静な様子で戻ってきた。
 その姿は、寧ろ美しさに磨きがかかったようにすら思えたらしい。ただ、目だけがぎらぎらと玉のように光っていた。
 お夏の予想通り、その職人との逢瀬は禁じられ、家から出られなくなった。縁談は進められた。
 婚姻の日程が決まり、その一日前までずっとお夏は人形のように無言ですごした。

 契った夜のことが、彼女が家から追い払われた理由であった。彼女はずっと大人しく婚姻を済ませた。
 夜には夫が彼女の体を求めてきた。お夏は受け入れたが、なんと突然その男の一物を噛み切ったらしい。
 直ちにお夏は離縁され、家の面子を保つために、都から追放された。両親はあっけなくお夏を切り捨てたのだ。
 本来ならば勘当ものであったが、親戚達が親の所業に流石に憐憫の情をわかせて諫言をし、免れた。
 その上十分な財産と、別の目的で作らせていた親戚の屋敷を与えられたのである。療養の意味もあったのかもしれない。
 お夏は、無かったことにされた人間だった。それは私が聞きまわっても誰も答えないはずである。
 彼女は今まで一切自分の話をしてこなかったが、その謎が氷解した。
 だが、真に恐るべきことは、その後に話された内容だった。

「姉は、時々目が……」
「目が?」
「身を投げてからです。まるで蛍のような光が、炎のように姉の目に揺らめくのを何度か見たんです」
「……」
「それだけではありません。姉の姿を別々の部屋に二人分見かけたとか、影が獣の形をしていたとか」
「……」
「手に入らぬもの全て妬むようになりました。周りの者も何だか変になってしまって、家に諍いが絶えなくなりました」
「……お夏はまさか」
「何よりおかしいのは最初です。身を投げて、姉は一人で帰ってきたのです。しかも水に浸ったところから覚えがないと」

 彼女は小刻みに震え、搾り出すように言った。

「姉は、恐らく、もう……もう……」




 ……お夏の胸に突き立てた刃を抜いた。どっと血が溢れ出た。刀を振って嘯かせると、畳にぴしゃりと赤い線が走る。
 しかし仰向けに倒れたお夏の瞼はふるふると動いていた。目には彼女の妹が話していた通りの緑の光が濃く宿っていた。

「お前は、最早人ではない。人は胸を貫かれれば、死ぬのだ」

 息を切らしながら言う私に、彼女は端整な顔をゆがめて、血で濁った醜い笑い声を上げた。 

「お前は嫉妬心を喰らって弄ぶ、下賎な化け物だ。橋姫のお夏よ」

 金切り声の絶笑に、次第に嗚咽が混じりだして、終いには子供のように泣きじゃくる声に変わり、私は悟った。
 やはり彼女は、自身がいつの間にか、人と袂をわかっていたことを知らなかったか、或いは認めようとしなかったのだ。
 橋の上、お春に向かって「私は人だ」と啖呵をきったという、お夏は。




「旦那様、何故お夏様は人ではないと知って、それでも結婚なされたのですか」

 お蝶さんは眉間に皺を寄せて尋ねた。

「都から帰るときに思ったのです。お夏は最早生きること自体が災いを招く嫉妬狂いでした」

 戻れば案の定、母上は亡くなり、父上は余命幾許もなかった。妹は、すっかり変わってしまっていた。
 何としても嫁になると言った、お夏の言葉を軽視すべきではなかった。言い知れぬ悲しみと怒りがわいた。
 だが、お夏が全ての犯人であるという証拠は何一つない。お夏が化け物という確証もない。
 私にできることはただ、彼女の求むるがまま夫となり、責任を持って監視することだと考えた。
 家族は血の繋がらぬ妹ただ一人になってしまったのだ。彼女だけは決して失ってはいけないと思った。

 橋姫様、橋姫様と妹が狂ったように信仰していたのも知っていた。それはなお、お夏への疑いを濃くさせる。
 離れのそばで帯刀して待ち構えていたこともあった。しかしそんな時は現れない。
 ならばと今度はお夏の屋敷に押しかけた。しかし彼女自身はまったく家から出る気配もなかった。
 それはそうだ、お夏自ら家に行って何かを吹き込むなど目立つことするわけがない。

 疑問が疑惑に変わるには少し時間が要った。橋姫様とやらが現れたと思しき日、お夏はいずれも寝ていたのだ。
 私はお夏に尋ねてみた。もし此処から人目を逃れ、しかも暗い夜に私の家に忍び込もうとしたらどうするかと。
 牽制の意味合いもあったが、彼女は平然と言った。そんなもの犬に化けて走り、猫に化けて塀を越えればよいと。
 その時は誤魔化したが、彼女の妹が言っていた言葉を思い出した。お夏を別々の部屋で見かけたことがあるらしい。
 お夏は、変化と分身の術のようなものを持っているのかもしれないとすると、筋は通る。宇治の橋姫にもある力だ。
 彼女が寝ているとき、橋姫のお夏なる分身が現れ、姿を変えて妹を唆しているのだとしたら……。

 それと同時に、別の疑問が生じた。果たして彼女自身は、自分のやっていることを理解しているのかということだ。
 寝ている間の夢遊の如く、人を誑かすのならば、彼女はあくまで自分を人と思い込んだままではないのか。
 実際におゆうも言っていた。姉は私がおびえるたび、血相を変え自分が人であると主張していたのだと。
 その言葉は嘘でもなんでもなく、本気だったと仮定すると、一体何を恨めばいいのやら、わからなくなった。
 一種、哀れみのような感情もわいた。この娘だけは自分が何とかしてやらねばという庇護欲のようなものだ。
 寧ろ、私は都に行く前よりもお夏への感情が強くなっていた。最早家柄などどうでもよくなっていた。
 そして、夫婦となることが最善であると断じた。

 ……それが、最悪の間違いだった。皺のよった障子を延ばそうとすれば、また別のところに歪みが生じるように。
 私は、お夏にばかり目を向けていた。そして、その皺寄せをされた、もう一人の私を想う人間を見過ごしていた。
 それに気づいたのは、結婚の話を告げた折、いまにも壊れそうな表情でお春が私に口づけたとき。余りに遅すぎた。
 他人が自分を好きかと考えるのは怖い、しかも傲慢ではないかという気後れが伴って、中々真剣に向き合えない。
 だが私はまさに勇気を振り絞ってそうするべきだったのだ。私は彼女の想いの強さと一途さを見誤った。

 唇を離されて、妹の顔が少女ではなく女の顔をしていたことに私は怯んだ。
 嬉しさもあったが、これではいけないと無闇に思った。そこで一度抱きしめてやればよかったのに、臆病にも逃げた。
 しかも口に染み付いた快楽を恐れ、彼女の目前で唇をぬぐってしまった。
 言葉足らずに去る私を見ていた彼女は、衝けば粉と崩れてしまいそうなほど空ろに微笑み、大切そうに唇を押さえていた。
 ぽつぽつ涙のしたたる音が、いつまでも耳に残って離れなかった。


 彼女は、心を枯らし、見るも無残な姿となって、捕えられた。火刑に決まり、それは全く無事に執り行われたらしい。
 お春を捕えたものも、或いはお夏の息がかかっていたのかもしれない。最後の面会は始終苦しかった。
 妹は喘いで咽て、ありとあらゆる無念さを絶叫でぶちまけて死んだ。お夏が仕組み、私が助長してしまった禍だった。
 彼女を焼け爛れさせる忌々しい火は、祝いの灯火に乗り移っている気がした。呪わしい祝言だった。
 私は決して自分もお夏も許す気にはなれなかった。夫婦の関係を持つどころか、口すらきかずにいた。

 途端に彼女はしおらしくなった。見掛けは変わらないはずなのに、日に日に痩せていくように思われた。
 何か、凶暴な生き物を飼っている気がした、そして次第にのみこまれていき、最後は混ざり曖昧になった。
 経のように抑揚をつけず彼女はひとりごちた。
 私はもう心から橋姫になってしまったのだ。だから寂しくて仕方ない。私の願いは叶って、嫉妬する相手がなくなった。
 橋姫は哀れな生き物だ、嫉妬に自他を苦しめ、しかし嫉妬なくせば、生を忘れそうなまでに心が欠けてしまう。
 私にはそんなお夏の嘆き混じりの言い訳を聞き続けると、勝手極まりないとはいえ哀れみが浮かばないでもなかった。
 無視はしなくなった。だが、決して赦すに値することではなかった。そうして日々が過ぎていく。

 季節は桜が満開の春だった。お夏は以前の面影もなく臆病な様子で、私に相談を持ちかけた。
 お春の骨を、川に放ってはどうかと彼女は言った。
 丑の刻参りを済ませたなら、二十一日水に漬かれば橋姫となれるかもしれないと。
 意外にも私は最初にお夏を案じた。間違いなく妹はまずお夏を祟り殺しにかかるだろう。お夏は薄く笑うばかりだった。
 妹をお前のような化け物にするわけにはと、次に言った。お夏は久しぶりに傲慢な顔をした。

「いっそ、化けて出て罰を下してくれたら、どんなに楽かと思っているくせに」

 私を覗き込む彼女の、大きな瞳に映った男の姿は「お前のような女など死んでしまえ」と告げているように見えた。
 私は、ただ、報われぬ妹の願いを、たった一つだけでも叶えてやりたいと、そのとき思っただけなのだ。


 墓から骨をくすねるのは容易だった。決して私を見るなとお夏はいい、骨壷を抱えて服の裾に泥をつけ戻ってきた。
 何か人知れぬ術を使ったとみえる。時刻は丑の刻を過ぎ、明かりも無し。ごしょごしょと壷が音を為す。
 川の流れは余りに緩やかで、まるで黒い絹を張ったようであった。ぽちゃりと落とす骨は白く映えて溶けていく。
 まるごと放り込む気にはなれなくて、骨片一つ一つを沈ませた。橋の上はおろか通りまで人は無い。
 まるで何か禁呪の儀式のようだと思い、実際これはそのような儀式なのだろうと思い直した。

 ある程度まとまって入っていた胸の骨が、持ち上げようとしたときに重さに耐え切れずぽきりと折れた。
 手には小さな欠片が残っていた。丁度心の臓の上、心から一番近い場所の骨……。
 私は突如それを手放すのが惜しくなり、懐に入れた。お夏はそれを見ていたが、何も言わなかった。
 妹がお夏のような橋姫になるのを怖れたのかもしれない。何か、ましな要素ができないかと思ったのかもしれない。
 しかし相反するように、妹が失った骨を求めて会いに来てくれるかも知れないという考えもあった。
 会いに来たらどうなるかは、悲観的な先見を抱いた。そうこうしながら最後に半分砕けた頭蓋を沈めた。
 水面は波紋を作り、収まると再び黒絹となった。この川は水の濁りがあるので昼にも悟られることはあるまい。
 そのまま二十一日沈んでおれと、お夏がいった。一瞥した目は揺らぐ緑に燃え、不思議と少し、泣いているように見えた。


 二十一日の満願は、風の強い日だった。緋色の豪奢な衣を着て、櫛、紅、香と飾り立てたお夏は、やはり人ではなかった。
 完全に喰われてしまったのだと思った。この二十一日、段々彼女の眼に緑が満ち、終には完全な緑眼を為していた。
 汝橋に行くという。それは私達が骨を沈めた場所である。もし彼女の話通りならば、お春は橋姫となっているだろう。

 橋にも宿らず生半可な情念で化けた橋姫崩れの自分より、正当な手段を踏んだお春の方がよほど力は強かろうと自嘲した。
 やはり死に赴くのだ、自分もいくべきなのだと思い、立ちあがろうとした。しかし、できなかった。
 出逢ったばかりの頃のような、心無い笑みを浮かべているお夏が、私を金縛りにしたのだった。言葉も出なかった。

「橋の上で心地よい嫉妬の匂いがする、誰にも奪わせぬ」

 やめろと私は心中に絶叫した。首を振ろうとしたが微塵も動かず、顔が熱くなるばかりだった。
 拳一つほど開いた戸から、黒を帯びた春の嵐が吹きぬけた。明かりは消えて彩を失し、緑眼ばかりが煌々としていた。
 余りにも唐突だった。彼女は固まった私の顔を撫で、頬に唇を寄せたのだ。
 冷たくなく、あくまで人の温度だった。初めての夫婦らしい行為だった。
 妹があの日したように、まるで感触を確かめるように、唇をむにゅむにゅと指で撫ぜ、言った。

「よいか、ゆめゆめ忘れるな。それはそなたの罪の名だ。これから私が彼奴めに教えねばならぬことだ」

 お夏は去り行きながら、歌うように語り上げた。それが最後の言葉で、後には種のような火が、たった一滴落ちていた。

「橋姫は、決して、恋など、できぬ」



 縛りが解けたのは朝だった。汝橋に走って向かうと人だかりができていた。それをかき分けて橋の中央までたどり着く。
 そこで見たのは、橋についた、焼き焦げたような痕跡だった。手足の太さ背の高さ、まさしくお夏の体型であった。
 どうしようもないほどの絶望感に苛まれた。人前だというのに男泣きに泣いた。慟哭は、私の偽り無い気持ちを映していた。
 私は本心では、憐れなお夏に死なれたくなかったのだ。変わり果てた妹の業を見たくなかったのだ。
 不倶戴天とまで思った女の死と、最も愛しい少女の復活は、余りに空虚で、一握の灰も残さぬ惨たらしいものだった。

 ……お夏は、まさか。
 頬についた紅を撫でた。最後の言葉が何度も何度も心に浮かび、胸が突き上げられるようで、どうにも考えられなくなった。
 私はまた誤ってしまったのだろうか。せめて生きている者同士で何か道を見つけるべきだったのだろうか。
 いくら妹の心願とはいえ、それは先見を持てば、必ずしも彼女のためにならなかったのではないか。
 しかし、覆水は盆に返らず。事実は執念深い黒の焦げ跡が、何よりも雄弁に語っていた。決して癒えぬ傷痕。

 橋姫の噂が流れるようになったのはそれからだった。私は周囲に流されるまま家に閉じ篭り、外界と疎遠になった。
 心の中は空洞になった。一体どのように、誰に対して詫びればいいのかもわからなくなった。人としての面子は捨てた。
 ただ手の中で小さな骨を転がして、禍福の思い出に浸りながら、ずるずると一年生き長らえ、漸く決心がついたのだった。
 私はどうしたいと思っているのか。そしてどうすべきなのか。どうしなければならないのか。
 寄寓にもそれらはたった一つの行為に収束したのである。私は、天命というものを初めて実感した。

「今宵、橋を渡ろうと思います。私は何度も逃げてしまった。今こそ、その咎を受けるべきなのでしょう」

 時刻は頃合、襟をかきあつめ、髪を整え、懐にはお夏の煙管とお春の骨、帯刀して星屑の空を仰いだ。麗しい夜だと思った。
 門前まで見送り、お蝶さんは、袖を口元目元に当てて、お辞儀した。それに同調し、幽かな笑みを匂わせて、小さく言った。
 こういうのを逢瀬というのかと思うと、顔のこわばりが取れて、少しだけ照れくさいような気分になったのだ。

「それでは、これにておさらばです。人恋しの妹を待たせておりますゆえ」





 〜24〜






 春はいい季節だと思う。それが例え、夜であったとしても。 

 妹を拾ったのは、こんな夜だった。縁者の家に家族三人で出かけ、海が近いので帰りに立ち寄ったのである。
 潮騒の中に稚い娘を初めに見つけたのは私だった。驚いて近寄れば、縺れるように二人の大人が近くにいた。
 髪の色が同じ、夜目にも明るい金をしていて、話に聞く異国人というものかと思い至った。それも家族らしい。
 母と思しき者は既に息絶えていて、父も瀕死であった。娘は丁重に服に包まれ、一定の呼吸をしていた。

 こんなところに置いていてはならないと、私は砂上の娘を抱き上げた。そうすると、その父がなにか話した。
 娘を返せとでも言っているのかと思った。だができる限りの装飾を外し、私に捧げるようにしたとき違うのだと悟った。
 彼は自分の体中に手を当てて、砂の上にその手を置いた。私の抱いた娘を指差し、切なそうに呻いて、事切れた。
 言葉は無かったが、わかった気がした。何もかも差し上げます、だから私の娘を助けてくださいと、言いたかったのだ。

 連れて帰った娘は妹となった。幾つか宝石を売ればいいものを、両親は意地を張って、決して手をつけず彼女を育てた。
 それで金策に走れば、よそ様の預かり子。だがこの娘は私達の家族。家族を家の金で育てるのは当然だと、両親は言う。
 将来、異国人という身の上のために、何かお金を使うことができてこよう。そのときにこそ使ってやるべきだと。
 昔、娘が生まれたのだが、三日で亡くなってしまったことがあった。その子と重ねていたのかもしれない。
 折しもその金髪碧眼の家族を拾った日は、その子が命を落とした日と同じであった。

 妹は、拾われてからかなりの間、すべてを拒絶していた。理不尽に怒っては泣いた。それに怒りを覚えたこともある。
 だが私は不思議な責任感を覚えていた。友達が皆兄弟を持っていたせいか、兄として妹を守らねばと我武者羅に思った。
 率先して世話をし、夜はできる限りそばにいた。外での稽古事諸々を済ますと、必ず離れに向かった。
 殆ど其処に寝泊りし、彼女も私には気を許していったのか、次第に棘をおさめ、何かと構うようになってきた。
 それでもよく泣くのは変わらなかったが。そのたびに抱きしめ、頭から背にかけて撫でてやったものだった。
 いつからか、こうすると彼女は泣き止むとわかったのだ。そのうち、何も無くても向こうからねだってくるようになった。
 襟を掴んで、くい、くいと引けばそれが合図だった。

 文字も言葉もままならない彼女には、気を引くためにできるだけ絵の多い本を見せるようにした。
 あぐらをかいて座って、膝の上に彼女をのせて本を見せてやるのが習慣となった。これが一番落ち着くらしい。
 次第に大きくなって、できなくなった。外へ行くときも負ぶうことはなくなった。
 妹は以前と同じことを求めてくるが、私が断った。手をつないで並んで歩くようになった。
 恋仲の者はこのようなことをするのだろうかと思って顔が赤くなった時期もある。
 それからは、少し遠慮が入った。部屋を尋ねる回数も減ったし、口数も減った。妹が自立してきたのだろうと思った。
 色気づくという言葉が嫌だった。まるで自分たちに向かって言われているような錯覚に陥って、反抗が心に起こった。
 気がつけば、私は大人で、妹は子供と壁を置いていた。実際は果たしてそうだったのだろうか、わからない。
 見えなかっただけで妹が大人になっていたかもしれないし、私は大人を気取る子供だったのかもしれない。
 しかし、どうしてそんな私達がこんなことになってしまったのだろう。何か逃れられる術はなかったのだろうか。
 このときこうしていれば、あのときああしていればと、架空の話が心うちで堂々巡りした。

 ……詮無いことだ、と私は思った。後悔先に立たず。そもそも私が会いにいく彼女は、思い出の少女と同一ではない。
 初めの夜と、天は等しくあっても、地は動き、人は成長するのだ。そして今の彼女はもはや、人ですらない。
 どんな顔をすればいいのか、どんなことを言えばいいのか、思案は結果を出せぬまま、目に赤い橋が入ってきた。



 薄い川霧に捲かれて、幽玄と汝橋はあった。骨を沈めた日が、あたかも昨夜のように想起される。
 橋上は無人であった。一羽の鴉がいたが、こちらを見ると闇に溶けるように消え去った。薄ら寒い風巻がのこされた。
 気を疎かに歩めば魂を抜かれてしまいそうだ。斯様な荒涼として茫漠の場所に、一年も待たせてしまったのか。
 すまぬ、と言の葉を洩らし、私は一歩、人禁じられし境の橋に踏み出でた。

 心持ち摺り足に歩く。砂っぽい音は私がここにいる証に思われた。双眸を閉じてはならぬ、例え星と橋しか見えずとも。
 浅い弧を持つこの橋の、天辺にたどり着くには半刻を要した気がした。足元には未だに消えぬ女の痕。
 此処ではなかったかと、暫し物思いにふけってから彼岸を一瞥。呪わしいほど、愛しい光が佇んでいた。

 対岸には、年若い柳の木が一本生えていた。それにもたれるようにし、小さな人の姿がある。
 唾を飲み込んで、一歩一歩寄りて見れば、その肌と髪は宵闇に嫌われたか、遠目にもわかる淡い色をしていた。
 そしてその目元には、あのお夏もかなわぬほど純で、且つ零れ出でんばかりの翠光が湛えられていた。

 対面すれば、緑眼はじいと此方を睨み、しかし表情を変えず、寄りかかった柳から、少し尻を浮かせただけだった。
 言葉はそぞろ神に攫われたか、あれこれと思い浮かべた挨拶はどれもこれも相応しからぬ気配がして、口を噤む。
 碧眼を緑眼に変じた以外は、何一つ変わらない。拗ねたような、切ないような表情も、彼女がよく浮かべたそれと同じ。

「もし」

 私は何かに急かされる思いで、儚い鬼火を思わせる少女に話しかけた。

「待ち人かね」
「……ええ、お侍様」

 自ずから行儀が生まれた。歯がゆく思ったが、よくよく考えればこれは初めての出逢いでもあるのだと思えば楽になった。
 次の行動を迷いながら、橋を渡らねばと私は手を差し出した。彼女はつながずにいて、少し面食らった。

「夜分遅くまで待たせるなんて、酷い奴だ」
「本当に。昼夜を越えて待つ気にさせるのだから、酷い人よ」
「見かねて、左様な待ち人を攫ってよろしいか」
「奇遇ね。私も、そうさせてもらおうと思っていたわ」
「攫って、どうする」
「懐のものを漁る」
「違いない」

 手を差し込んだ懐には固いものが二つ。一つは黒くて大きな煙管入れ、一つは白くて小さい骨片。

「軽くて、質素で、小さいものを選べばいい」

 舌切雀かと、少し含み笑いをした。

「これは昔我が家にいた、大切な者の骨なのだ。その木の下に埋めてみようと思うのだが、どうなるだろう」
「その柳で臼を作れば、大判小判が溢れるでしょう」
「だけどその臼は妬んだ者に燃やされてしまうのだ」
「その灰を撒けば、枯れ木に桜が花開くのよ」
「そうして桜が咲けば、どうなるだろう」
「昔話はおしまいで、子供は眠りにつくの」

 互いに隠すように微笑した。目先の軒下に細い板切れを見つけ、川べりに子供が遊びに使ったと見える小岩があった。
 此処まで言ったら、それはやはり、そうするべきなのかと思われた。

「勝手に墓をここにつくると、主はどう言うだろうか」
「天下の往来に主は無し。柳の下に神や霊でも居るならばわからないけど」
「骨の主は」
「あら手ごろな岩がそこにあるわ、とでも言うと思うわ」


 ごりごり削りだした土に骨を混ぜて戻す。まさかこんなことになるとは思わなかったな、と額に浮いた汗を拭いた。
 その上にそっと、重たそうな石を置いた。不思議とそれなりの見た目を持っていて、簡易ながらも墓らしさがあった。
 何故自分達は場違いにも、笑顔とは言わずとも、少しも悲しそうな顔をしていないのだろうと思った。

「素敵なお墓」
「主が喜べばいいのだが」
「その主が人だったら、嫌がるでしょうね」
「……」
「きっとこの骨は、切っ先となって、地の底まで通ずるわ」
「そんなに深い穴ではないが、しかも埋めてしまった」
「思う念力岩を通ず。楔は三寸にして大樹を断つ。それにこうすれば、私は……」
「どうなるのだろう」
「……やっぱり教えない。穴があったら入りたくなったとでも思えばいいわ」

 彼女は、此方を見上げいじらしいような哀しい表情をした。

「私は独りでは動けない。この場所が私を逃がしてくれないの。でも待つのは疲れた」

 少し俯いて言い、躊躇うように二度手をこまねいて、それから私に向かって震える手を差し出した。

「攫って」

 握った手は柔らかく、暖かく、あの日の匂いがふっと髪から漂った。




 果たしてこうして橋姫に男達は攫われるのだろうかと、橋を渡りながら思った。
 もし橋姫がお前でもお夏でもなくて、全く知らない橋姫に化かされているのだとしたら、それはそれで滑稽だ。
 彼女は縋り付くように密着せず、指を絡め、肩が時々擦れ合う程度の距離で、付かず離れず並んで歩いた。
 恋人同士の距離なのだろうと思った。お夏のことがなかったなら、私達はこのような未来があったのだろうか。
 夢想は優しく、私は幸せだった。彼女もそうであればいいと願った。

「先ほどの骨の主は、水を怖がったものだ」
「そうなの」
「だが、今は問題ないように思える」
「馬鹿だって、死ねば直るのよ」
「水から生まれたならば、それは確かに水を怖がる道理はないか」
「ねえ」

 水で思い出したわ、と彼女は言った。眼光は筋となって尾を引き、鞭の様にしなっては消える。

「この汝橋には橋姫が居るの」
「橋姫」
「こんな風に手をつないで歩いているとね、橋姫は妬ましくなって、どちらかを水に引きずり込むのよ」
「ほう」
「それから引きずり込んだ方に化けて、橋を渡るまで、もう片方と手をつないであげるの。橋を渡り終えると消える」
「ならば既にどちらかが幻なのかもしれない」
「いいえ、私は知ってるわ。橋姫は、今はお留守だって」

 弧の頂点に差し掛かり。

「だから、手を離さないで」

 橋が、両岸から挟撃するように、燃え上がった。

「もう、いなくならないで」




 煙は朦々と立ち上り、橋の脇には人の声が混じり始めた。だが闇と白煙で私達の姿は見えぬようだ。
 人は来ない。端から焼け落ちてしまい、跳んで渡れる距離ではない。渡ったところで、火を消すことなどできない。
 火があれば、延焼を防ぐため傍の家屋を壊すのが流儀だ。橋上に誰も居なければ、焼け落ちるのを見送るばかりである。

「助けを呼べば、誰か来るかもしれない。この川に飛び込めば、濡れるだけで助かるかもしれない」
「だろうな」
「此処に留まれば、火は迫ってきて、いつか私達を焼く」

 ちらと足元を見やった。そこには女の形の焦げがある。足は震えたが、少しだけそれに勇気を貰った。
 ……そうだよな。今度こそ、もう逃げないと決めたのだ。お夏よ。

「その女は、私が生まれたとき、橋の上に居た。豪華絢爛な装いで、私に色恋を語った。だから、焼き殺したのよ」
「……」
「でも人ではなかった。私の嫉妬の炎に、一刻は耐えた。その間、私にありとあらゆる妬ましさを植え付けた。忌々しい」
「お夏は」
「その女は言ったわ、橋姫は恋などできないですって?」

 片眉をぴくりとあげて彼女は言った。

「違うわ。橋姫はすべてのものに恋するのよ。だから、全て手に入らなくて、妬ましいのよ」

 握りっぱなしの手は軽く汗ばんだ。背には火炎の温かみを幽かに感じる。山から川に吹き降ろす風が火を煽るのだ。
 この細くて白い手は、振りほどこうと思えば、きっと容易くできるのだろう。逃げ場など目の前にある。

「恋をしてはならないの。叶わねば餓え、仮初めに叶えば渇き、貪っては壊し、終には叶わず。それは人の比ではない」
「……なるほど」
「貴方が、あいつの紅を頬につけて橋に来て、焦げ痕に泣いたときは、唇を噛み千切りそうなほど妬ましかったわ」

 あんな何もかもを滅茶苦茶にした化け物に、想いを捨てられぬ貴方をみていると妬ましい。
 好き放題言って、私を嫉妬の権化にした挙句、そんな私を嘲笑いながら満足して逝ったあいつが妬ましい。
 昼は私の入る余地もないほど、活発明朗に、何も苦などないように生きている皆が妬ましい。
 夜は恋に、金に、情けに酔った人間達が、夢のある未来を語るのが妬ましい。
 不変の空も、すべてを受け入れる大地も、命を養う水も、季節をにおわす風も、強く生きる草花も、何もかも妬ましい。
 彼女は、ありとあらゆるものを陰鬱な表情で呪った。そして数え切れぬ例を挙げた後、ぽつりと言った。

「わかったでしょ、橋姫はそういう奴なのよ。決して叶わぬ恋に身を焦がすから、水辺に佇むの」

 妬ましい、妬ましい。どいつもこいつもそんな私を見てくれない。自分たちだけで幸せになって、私に見せ付けるんだ。
 橋姫は恋多き乙女、だけど残酷にもそれをひとつも叶えられない生き物。皆の中でひとりぼっち、世界の嫌われもの。
 いっそ何もかも憎めればいいのに、それすらもできなくなった。段々声量を上げながら、彼女は訴えかける。


「……私が……一番妬ましいのは何か、わかる?」

 突然の、動物の仔のように頼りない小声の後、時が止まるような沈黙が漂った。火花の散る音だけが響いていく。
 私は何も言えなかった。情けないことに、これまで言われた言葉全て反復しても、どれか全くわからぬのだ。
 彼女の、つんととがった唇は、次第にひくひく蠢いて白い歯をみせた。手が握られすぎて痛いと思った。
 しかしその力はいきなり弱まり、幽かな抵抗を振り切って、繋いでいた手は切れた。

 幼子が我慢するように肩を怒らせて、俯きながら固く直立した。見るに、橋は半分ほど落ちてしまったようだった。
 近づく明るみは漸く彼女を明るく照らし出す。そこにいたのは噂には似つかわしくないほど、可憐でいたいけな乙女。
 重いものを精一杯耐えているように見えた。私の言葉がないのが、何よりも哀しいようであった。
 何故なら、私が少しでも口を動かすたびに、辛うじて板切れを掴んだ溺者のように、はっと私を見つめるのだ。
 しかし、唇は鉛に、言葉は石になった。わからないの、と無表情に聞かれ、躊躇ってから首肯するしかなかった。
 馬鹿兄め、と激しく自らをなじった。

「見て」

 差し出された掌の上、初めは夜に発光する蛍石の欠片かと思った。しかし風に震えるのを見て、液体とわかった。
 よくよくみれば、小さな炎が一筋立ち上っている、淡い緑の雫だった。油か何かと思い、何か告げようとして息を呑んだ。
 その雫は、絶え間なく流れて、橋に散り敷き、ゆらゆらと燃えているのだ。彼女の潤む緑の瞳から溢れて……。

 泣き虫は泣きすぎて、涙を枯らしてしまったのだ。血涙のための人の血も失ってしまった。余りに純な瞳は、しかし濡れる。
 この雫が何なのか、おぼろげにわかった気がした。彼女の涙は、嫉妬という液体であり、やり切れぬ思いが火を生ずるのだ。
 緑を帯びた涙は顎から伝い落ちて足元を濡らし、小粒だが執念深く燃え続け、じんわりと木の板を黒変させていった。
 その雫が呼び起こした、木の炭から生まれた炎は、前後を囲む火と同じ、憤怒の赤色を呈していた。


 人がいるぞ、と遠くに聞いた。迫る炎が、ついに私達を判別できるほど、赤く照っていた。
 妖艶なる涙は、粒が脈となり、脈が筋となって、顔に皺と痙攣を浮かべながら、彼女は声を洩らした。
 そして、一度は私を振り切った手を、もう一度此方に向けた。だが、その方向はずっと上。

「助けて……助けて……」

 くい、くい、と彼女は私の襟を引いた。合図。合図だ。

「兄上……」

 瞬間、体の中に熱い奔流が流れた。弾かれたように肩を取り、深く、深く抱きこんだ。
 伝い落ちる涙が我が体を焦がすと知りながらも、ひしと。もう決して離すまいと。
 感謝と、謝罪と、漸く気づいた感情を込めて。

 大火は風に煽られて、時には背を焼き、時には眉を焦がした。懐は人には熱すぎる雫が溜まって、苦悶が漏れる。
 絶対に離すものかと、声を搾り出した。妹をこんな嫉妬狂いにしたのは、気を配らなかった自分の責任だ。
 これはそれに対する罰だ。妹は、全身を焼け爛れされて死んだのだぞ。



 
「兄上、何故、貴方は人なのですか?」

 懐の灼熱が消え、彼女は赤く腫らした緑眼を、こちらに向けて、嘆じた。
 ため息が漏れた。何でこんな簡単なことに気がつかなかったのだろうかと、頭が痛くなった。

「何故、何故、私は妖怪なのですか……?」

 もう決して手に入らぬものを彼女は望み、ゆえに持つ者を妬み、言うのだ。

「わかったのです。私の願はたった一つしか、橋姫になるという願いしか、叶いません……他は全て、手をすり抜ける」

 火炎の中身をよじる私と、平然と炎を垂れ流す彼女は、今度こそ、どうしようもない差ができていたのだ。
 体がどうとか、言葉がどうとか、身分縁故がどうとか、そんな生易しいものではない、深淵の如き亀裂。

「今は……今は、自らその代償とした人の身が妬ましい、妬ましい、妬ましくて仕方がない……!」

 人妖の境界。




「今なら川に飛び込めば助かります」

 焔は円を描くように二人を囲み、今にも食らわんと牙をむいた。
 小さな体は突然腕の中でもがいた。そして突き落とさんと、じりじりと橋の際まで追いやってくる。私はそれに抗った。
 なるほど、彼女は最初から私を殺す気などなかったのだ。ただ傍にいてくれる幻想さえあれば、よかったのかもしれない。
 橋姫の恋は叶わぬと、そういう意味でも言っていたのだろう。そして、慰めなど決してできないと思っている。
 わかっているのだ。物の怪の体は、どうあれ彼女自身が望んだものである。
 だから何故こんな体にしたと、決して他者を責められないのだ。呪い言を吐き出せば、即ち空虚となる。

 どんな美辞麗句も叱咤激励も、今となっては炎を消すことはできないのは私も承知していた。
 だが、これで帰れぬのだ。退路はとうに切り捨てた、ふりかえれば男が廃る。兄は妹を見放してはならぬ。逃げるものか。
 うっすらと思い浮かべていた決意が、彼女の拒絶によって、ようやく言葉になりそうだった。

「橋姫よ、橋を焼き尽くしてどこへゆくというのだ」

 暴れを押さえ込んで、強く問いかけた。何故橋を燃やすのかという疑問が点から線とつながってきた。

「そういえば墓で地がどうとか言っておったな」
「……はい」
「さてはお前、我が身を厭って、住処の橋を焼き、自らを地に封ずるつもりではなかったか」
「……」
「答えよ」
「……誰もいないところに行けば、苦しい恋など知らずにすむのです。我が言祝ぎの鬼が、良い場所を教えてくれました」
「はっ……寂しがり屋の泣き虫が強がるな!」
「ならば誰が私と共に生きてくれましょうか! 兄上が何を言われようが、人は我が恋に儚すぎるのです!」

 首を振りながら喚くと、緑火の涙が飛沫をつくり、胸を焼いた。

「私に、ひとかけらの人らしさなど残さねば良かったのに!」

 強い顔をして叫んだ後、急に静かになった。

「私など、はなから孤独な場所で悶々としているのが良かった……この橋はもうお仕舞いです」
「地上に居れとはいってない」
「ならば引き留めないでくださいまし。もう十分なのです、片恨はほぐれました」
「それでは気が済まぬ」
「……ならば、どうするというのです。兄上は人でしょう。私を可愛がってくれてもいつか先に」
「私が人でなくなれば、よい」

 左手で妹を抱えたまま、右手で脇差を抜いた。

「お前のそばにいてやれる術が、一つだけある」
「……」
「天道に、見放されればよい」

 切っ先を首の脈に突きつけた。火に炙られたか、鋼は人肌程度の温度である。

「永世に、地を彷徨おう。お前を一人にはさせぬ」

 初めから、死ぬ覚悟で来たのだ。決して逸らさぬように、力を込めた。
 だが、刃は、動かない。剣の中ほどが、万力の如く、白く細い手に締め上げられていた。微動だにしない。
 それすらも赦してくれないのかと嘆こうとして、口を噤んだ。刀はゆるりと切っ先をずらされ、彼女の背に止められたのだ。

「一緒に」

 脇差の長さは一尺五寸ほど、その細い体を突きぬけ、まだ余りがある。
 彼女は浮かされたような眼で、熱く願望を語りかけた。来世の契りを望んでそうする者たちのように。
 時は焼けていく。お侍様が橋姫を退治なさるぞ、と両岸から沸く声。帰れば称えられ、武勇でも手に入ると見える。
 かっと怒りがわいてきた。人間と妖怪は相容れぬと、妖怪は常に悪で退治されるべきと、何の疑問も無いのだ、彼らは。
 真に心無き者は誰だ。物の怪の次には退治という言葉しか来ないのか。ならば、せいぜい劇的で残酷な物語を作るが良い。
 お前達には教えてやらぬ。ここに在るは人でも妖でもなし。ただ、叶わぬ恋をしただけの、男女なのだ。

「春は、麗しきかな」

 白ばかり映えていた肌に、初心な紅潮が浮かんだ。胸は心地よい痛みを奏でる。
 さあ、舞台は幕切れだ。無知蒙昧の人間ども、勇敢な侍は命を賭して、橋姫を封じたと語り継げ。それがお前達の罪だ。
 真の嫉妬狂いの在り処を、見せてくれよう。

「お前を好いておる」
「はい」
「一緒になろう」
「……はい」

 目を瞑った彼女の背に、強く突きたてた。そして抱き合ったまま、二人分の体重をかけ、倒れこんだ。
 刃は妹の背から腹を抜け、兄の腹から背へ抜けた。串刺しとなって、睦みごとのように絡みながら、熱い吐息を交えた。
 私達は、とうとう結ばれたのだと思った。今このときの幸せ、たとえ刹那であろうと、永遠にできる気がした。

 腹の灼熱。焦がす風。無知の音。泣く橋。水鏡の空。震える胸。緑眼の燐光。烽火の春。華燭の揺る。
 後は攫われるのみ。大罪を為して、いつか逢わん。お前を好いている。地獄の業火も温かろう。

 ここは、良い香りのする場所だと、最期に思った。
 彼女が、幼子をあやすように、ずっと抱きしめていてくれたからだった。
 橋姫は優しい女しかなれないのかもしれない。その狂いは、優しさの、歪んだ水鏡なのだ。
 橋は業火に焼け落ちた。川には墓標の如く、橋桁だけが残り、消えていく想いたちを弔っているようであった。


 そうして、物語が地の上に生まれ、物語が地の下に生まれた。
 ひとつは、悪を斬り、橋の上にて命を散らす、勇敢な青年の物語。
 ひとつは、叶わぬ恋と、狂おしい心を抱いた、異国の少女の物語。

 地の深く、境界の狭間に、彼女は在った。
 通り過ぎるすべてのものに恋をして、叶わぬと嘆き、妬ましいと口ずさんで、生きていた。
 それは、彼女の謳う、ちいさな永遠の詩。
 悲運を秘めた瞳の燐火に、哀しいほど似合っていた。






 ――





 おしまいに。



 この物語が貴方の心の中で、記憶され、忘れられ、ふと再び歌われたとき、幸せの香を一握りもっていたなら。

 そのときに私の魂は、なんと安らぐことでしょう。

 それは、私の望んだ、永遠でした。

 ありがとう。さようなら。

 貴方を愛しています。

 さようなら。












 ― X 或いは後書きに代えて ―





「おーい、そこで何をやってるんだ高橋」

 はっと現に目覚めて振り返ると、友人がいた。時間かと了解し、生返事を返して愛想笑いをした。
 今日は三橋さんの納骨の日で、同日早くの火葬に立ち会うのを遠慮し、僕は先に此処に向かったのだった。
 理由は勿論この花束を手向けるため。灰をそばの川に流して、それからぼんやりと水を見つめていた。
 この川は、昔はもっと広くて、そして橋が架かっていたのだ。そして其処であったことに思いを馳せて。

「何名ほどいらしたのですか」
「十二だ。三橋さんを含めれば十三かな、もう壷に入ってしまったけれど」

 小説家仲間達は皆忙しく、十二も集まれば上々と思えた。
 その柳の木下から五十メートルほど離れたところに、新しい墓石がある。彼の遺言はこれで一つ守った。

「誰かから電話で聞いたかな。火葬場でおかしなことがあったぞ」
「火葬場で? 誰かが諍いを起こしたとか、装置が故障したとかですか?」
「いや、全くつつがなく火葬自体は終わったよ。だが、骨ひろいがね……」
「骨」
「うーん、何か変な治療をしたわけでも、何処かに飛んだのでもないのに、骨が一欠けら無くなってるんだ」

 川の音が、少しだけ強まった気がした。

「あの、それは、もしかして、肋骨ですか」
「やっぱり知ってたか」
「左の、丁度心臓の上の」
「そうそう、もともとあちこち折れてたが、そこの欠片だけがどうしても見つからなくてね。五センチも無いのだが」
「……」
「先に向かってるからさっさと来いよ、縁起のいい場所じゃない。川を眺めるのはいいが、死体が増えちゃ困る」
「は、はい」
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る……か」

 やや太めの体をのそのそとゆらし、彼は題の思い出せない古典を口ずさんで行った。
 柳の木下に取り残された僕は、如何ともしがたい胸騒ぎにかられて、名前の無い墓石をほんの少しだけ持ち上げた。
 そこにはやや草根の混じる土と団子虫しかいなかった。だがこの深くは、何かに繋がっている気がしてならなかった。
 それはきっと三橋さんの骨ではないのだろうけど、いや、もしかすると……。

 そう思考しながら瞬いて、目を開けた瞬間、突然その土は失われ、底なしの穴が開いたように見えた。
 ぽっかりとまん丸で漆黒の闇が口をあけていて、無性に心細くなり、引き込まれてしまいそうになった。
 しかし仰け反ってもう一度瞬けば、そこは前と同じ平たい地面だった。おそるおそる土をたたいても、何も無い。
 一瞬の光景が目に焼きついて離れなかった。恐ろしい、見てはいけないものを、僕は。

 ……此処にいてはいけない。
 第六感とでも言うべきものが警鐘を鳴らした。見間違いといえばそれまでなのに、踵を返して走り出した。
 そういえば三橋さんもあの墓石を動かしてしまっていたではないか。もっと深く考えるべきだった。
 仲間達には急用ができたと、呂律の回らない舌で走りながら告げた。聞き取ってもらえたかは、もうどうでも良かった。

 骨を折ってやらねばいけないかもしれませんね。

 彼の言葉が空恐ろしい意味を持ってよみがえり始めた。言葉の一つ一つが襲い掛かって足にまとわりつく。
 息を切らして墓地の入り口まで駆け抜けて、そこの電灯の明るさに安心して、へなへなと近くの岩に座り込んだ。
 俯けば、呼吸のたびに鼻先と顎に汗が垂れてきた。





「お墓は此処かしら」

 はいそうですよ、と突然の尋ねごとに、投げやりに答えた。頭に血が行かないのだ。
 そういえば女の声だったな、来そうな知り合いに居たかなと思い、横目で彼女を追った。
 ふわふわと金髪が揺れていて、入り口の中に消えていく。まだ年端も行かない少女……。
 ばねのように飛び上がって、門に駆け込んだ、覗き込んだ、彼女は僕の目の前に立って、無邪気に笑っていた。

「はじめまして」

 緑眼が、上目遣いに、在った。彼が死んだ夜、見かけた蛍のような光と同じ。
 手は何かを弄んでいて、ちらりと見えたそれは、真っ白で硬そうで、目が眩んだ。息の仕方を忘れ、喉が詰まった。

「いいでしょう、私のものよ」

 骨をかざし、酸欠の僕がなよなよとへたり込むのを見送ってから、彼女は踵を返して、墓の方へ消えていった。
 軽く手を振ってくれた。僕は怯えを通り越して、最早顔には苦い笑みが浮かべていた。

「また逢いましょう」

 柳の木下の方向、少女の姿が木の葉影に霞んでも、緑の光が遊ぶように木々の間を舞いながら、向かっていく。
 そして、一瞬止まってから嘘のように消えた。何もかも嘘になってしまえばいいと思った。
 だけどあの瞳は美しかった、二度と忘れられないだろうとも、思わざるを得なかった。
 つまりこれが、魔性に魅了されたということなのだろう。




 ゴトゴトと電車が揺れる。あの後は腰が抜けっぱなしで、納骨を済ませて戻ってきた友人達に盛大に笑われた。
 彼の遺言は守れたのだろうか、自信はない。橋姫によろしくといえなんて、言葉なんか最初しか出ていなかった。
 遺言は最後のひとつが残っている。彼は、できれば来年からは、僕がこの話を書いてほしいといっていた。
 僕はそんなもの、話が信じきれないのもあって、やる気などさっぱり無かった、今まで。


 やはり、勘違いをしていたのだ。僕は幸せな結末を望んだ。兄と妹は再会して、共に生きたとかそういうものを願った。
 だけどそれは違うのだ。彼は、決して妹と出会うことは無かった。何百年後かに輪廻転生をし、やっと出逢った。
 橋姫は、確かに待っていた。だが待つ場所が悪い、というより、敢えて絶対に会えない場所で待ったのだ。

 貴方のそば、だけど決して触れ合わない場所で。彼女はそういってくれました。

 彼の言葉の意味がようやくわかった。あの物語の後編は、所詮人の心でかかれたものだったのである。
 人の物差しは人ならぬものにあわせられない。無理にあわせれば、我侭とか、残酷とか、狂気とか、そうなるだろう。
 そしてそのようなものを除外して読んでしまったから、いけなかったのだ。皆善意に満ちすぎていた。
 人らしさが溢れすぎて、一度も妖怪側の視線に立とうとしなかった。

 橋姫の恋が叶わないのは、橋姫自身が決して恋を叶えようとしないからなのだ。

 橋姫崩れのお夏は、寧ろ人間らしかった。願いを叶わせ、嫉妬の対象がなくなることに愕然としていた。
 だがあの橋姫、パルスィは違ったのだ。決して願いを叶えない。叶わない、ではない。叶わせない。
 嫉妬できなくなった橋姫は、きっと死んでしまう。だから、彼女は敢えて彼を傍に置いて、しかし会わず……。

 あの話は、もっと、人ならぬ者のエゴに満ちた、恐ろしい話だったのではないかと、僕は今更に震えた。
 彼だって、転生してしまったから、再び地へと呼び戻されただけなのかもしれないのだ。


 骨をひとかけら持って無邪気に笑う彼女には、狂気の緑が宿っていた。それで気づかされてしまったのかもしれない。
 橋姫は、人間の目から見れば、ただ貪欲に嫉妬を貪る生き物だとしたらどうなる?
 僕のきれいごとの物語は、一気に表情を変えてしまうではないか。化け物め、と今ならば口にすることもできる。
 人の形をして、人を食う化け物など沢山在るではないか。愛らしい悪魔だって、きっと居る。

 たった一欠けらのこした人らしさ。それに人らしい思考は伴っても、行動が伴ったとは思えない。
 あの後、最後の骨も手に入れ完全な橋姫になったのだと確信していた。骨をわざわざ穴に入れたのはそのためだ。
 だから彼女が嘘をついて、人らしさを演出したとは思っていない。彼女は無邪気だった。
 ただ、精神の奥底の、本能的な、抗えない部分が、どうしても人のそれとは違う回路であった。
 叶わぬ思いに、恐らく人のように悩み、妬む。だがそこで解決という人間らしい道をとらない。
 それが、人と妖怪を断絶する。どうしようもない境界。人はやはり、物の怪に食われるのだ。
 人は動物を全く別の精神と認識するのに、妖怪は人情を絡めたがるのは、これもまたエゴじゃないか。

 お化けが怖いのは、必ずしも人と体が違うからじゃない。人と心が別物だからで、彼女もまたそうなのである。
 三橋さんは、それをわかってあのように行動した。兄はわからず行動した。二人はなんて報われないのだろうと思った。
 だが彼女にとっては、そのように嫉妬ばかりで生きていくことが、普通なのだ。憐憫は、人だ。
 真の嫉妬狂いは、自ら嫉妬を生み出す。それが苦悩を産もうとも、橋姫の生きる糧である。葛藤など茶飯事。

 全て妄想なのかもしれない。彼女は地の底でこんなに悪く言われて腹を立てているかもしれない。
 だけど、こうすると話が繋がってくるのだ。支持する伏線は、物語に沢山在った。
 彼女が、わざわざ彼の骨をもぎ取ったのは、そこから彼の残り香のようなものが得られるからに過ぎないのだ。
 それは彼女の記憶を蘇らせ、しばしば激しい嫉妬を呼ぶだろう。一欠けらであれば、より密に。
 彼女は全てを奪うことができた、できたがしなかった。彼女が本当に欲しかったのは、平穏でも安寧でもない。
 強いて人間の概念で語ろうとすれば、それは『永遠』とでも言うべきものだったのではないかと、思う。



『……お前の恋は誰が引き起こした。何故それに狂うのだ。いつ泣き止むのだ。
 恋の神はそんなことを気にかけない。残酷な恋の神は涙に飽きることがない。
 草が川に、蜜蜂がウマゴヤシに、山羊が葉っぱに飽きぬように』

 有名な西洋の歌である。そして『我々は恋の神に屈するしかない』と締められている。
 その言葉は真実だった。現に今、屈しようとしていた。真実と悟った上で、三橋さんと同じ道を歩まんとしていた。
 あの瞳は美しすぎた。僕は主の居ない墓の前であんなに神妙に儀式をおこなったのかと馬鹿らしくなったせいもある。
 つまるところ、来年こそ僕が彼女に炎の花束を手向けようという結論に至った。

 物語のスペアは無い。僕が読んで頭に叩き込んだ記憶を探って新しく書き直すしかないのだ。
 正しく写そうとなど毛頭思っていなかった。彼もそれを望んでないと思う。幸せな物語にしてやろうと決めた。
 家に帰るまえ、原稿用紙を買おう。手書きをするのは何年ぶりだろう。思い切って万年筆も買おうか。
 ……どうやら人は決して妖怪には敵わないようで、僕はこのざまだ。哀しいことに、一つも不幸じゃない。

 どんな破滅が待っているのやらと考えても、あの娘に物語を読ませてやろうという結論は揺るがない。
 僕はきっと何かが壊れてしまったのだ。恋をしたのかもしれない。困ったことに、一生付き合える気がする。
 火の中でありとあらゆるものが変わっていき、僕もまた、傍観者のつもりで変わってしまったのだろう。
 しかしいっそ爽やかな気分だ。少し、人から離れてしまったのかもしれない。三橋さんと同じだ。
 恋が盲目なのは、人間のための救いなのである。


 電車が橋に差し掛かる。外は暗いせいで窓が良い鏡になっている。
 果たしてできるのだろうかと、急に不安になった。僕は結局、ハッピーエンドにはできないんじゃないか。
 彼のように気がつけば手をとられ、同じようになってしまうのではないか。
 妬ましいと、口ずさんでみた。彼女が物語でよく話した言葉だった。
 男が言うと格好がつかないものだなと思った、字としても。だが、やめようとは思わなかった。

 なぜなら、あの少女とそこまで深く繋がった三橋さんが……。

 とっさに窓を見つめた。怖れていた緑の光はどこにもなく、ゆるく息を吐いて、後頭部をゆれる窓に押し付けた。
 胸はどくどくと高鳴っている。僕の胸に、心の一番近くに、骨はあるだろうかと、震える掌でゆっくりと覆った。
 其処には硬い骨があった。二度目の安堵の息を吐く。

 す、と胸に指が沈み込んだ気がした。吐きかけの息が止まった。そして指先には熱を感じた。
 見えるわけでもないのに、確かに、確かに其処には緑色の炎がゆらゆらと燃えていた。

「緑眼の怪物……」

 妖怪とは恐ろしい奴だ。僕はもう駄目なのかもしれない。周りの人間の胸にも燐火が見える。
 彼女に呪われて、嫉妬をうつされた気がしてならない。鬼の言祝ぎとか言うやつかもしれない。
 はた迷惑だが、もう抵抗はよそう。だって、彼女はさようならではなく、またと言ってくれたじゃないか。
 あの時僕は、怖かったけれども、嬉しかったじゃないか……。


 電車は橋を渡りきって、家が増えてきた。だけど僕の思いはいつまでも橋上に残された。
 それは此岸でも、彼岸でもない、曖昧なところ。橋姫はきっと待っている。

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水に……」

 友人の言葉を口すさびに、僕は眠ろうと思った。家は終点にある。今日は本当に疲れた。
 景色は流動性を持って、とどめようも無く流れていく。流れていくうちに、変わっていく。僕たちも変わってしまう。
 あらゆる者は通り過ぎていき、いつか振り返ったとき微笑むことができたなら、それがハッピーエンドなのだと思う。

 まず、題名から考えようと思った。だけど、その答えは既に僕の心の中にあった。では、やはり寝ようと決めた。
 起きたら、死んでも顔をあわせてくれない彼女に、素敵な恋文と花束を用意してやろうと誓って。



 (了)
 華燭の春  燐火にて  鬼を生ず
Id
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2008/10/05 06:16:49
更新日時:
2008/10/07 21:16:49
評価:
0/0
POINT:
0
Rate:
5.00
1. 8 vol ■2008/10/05 11:17:25
 被ったのが妬ましい。
 妬ましい。

 深く練られたストーリーに見事な構成。嫉妬に対する数段深い考察。まさしく格の違いといいましょうか、似たテーマで書いていただけに、読んでる間は「あーあー」言いっぱなしでした。原作小説付きのテレビドラマで読んでた所を追い抜かれたような感覚です。
 まさしく脱帽物。眼福ご馳走様でした。
2. 7 慶賀 ■2008/10/05 13:29:00
テーマは、まぁいいや。凄いですね。変態的な作者様のナニをまんべん
なくぶっかけたような文章、興奮を覚えました。ただそんなモノに
付き合うのは個人の自由ですので、今回は袖を振らせて頂きます。
いえ、良い意味でちゃんと好きですよ。
自分なりの賞賛です。
3. 6 小山田 ■2008/10/07 08:33:27
高い文章水準や造形の深さ、構成の練り込み、一つのことを書くために下調べをきっちりこなす作者様の意識の高さは存分に伝わってきます。
その点では申し分なく、読み応えもありました。
ですが、肝心のSSとしての面白さに昇華できたというと、ちょっと疑問に感じたのでこの点数にさせていただきます。
あとほんのわずか、読み手の心をわしづかみにする何があれば、物語に没頭できました。その時は10点を入れていたと思います。
4. 10 twin ■2008/10/07 23:13:40
 この作品を読み終えて、単純に感動しました。
 それ以外の感想が出て来ないほどです。

 最初に断っておくと、私はこの作品の内容について多くを触れません。私が感じた印象をそのまま綴る事になるでしょう。そして人をそうさせる作品は真に素晴らしいのだと解釈しています。私にとって、この作品こそがそうでした。

 文章力、描写力、奇抜な設定、それを上手くまとめたストーリー、個人的な見解で物を言わせてもらうのなら、間違いなく私の読んで来たSSの中で、一番面白かったです。決して誇張表現ではなく、本当にそう思える事が出来ました。なので、私にはこの作品に対する批評が出来ません。文字通り、非のつけどころが見付からないのです。それほどまでに、私はこの作品に飲み込まれました。

 良かった所を挙げてみたくても、到底枚挙に暇がなく、どれを挙げたら良いのか判りません。つまるところ、私には幼稚な感想を述べる事しか出来ないのです。面白かった、それが私が伝えたい事を真直ぐに伝えられる言葉なのだと思います。

 私の中ではこの作品が有無を言わさず優勝となってしまいました。こんな事を書くと他のコンペ参加者さんに失礼かも知れませんが、それほどまでに私はこの作品に感銘を受けたのです。採点をするなら、十点では到底足りません。また百でも千でも足りません。文字通り言葉に出来ないほどの感動を、この作品から貰いました。

 コンペのいち参加者として、私は素直に負けたと思いました。そうして悔しくて、唐突にこの作品の中によく出てきた緑色の光を思い出しました。私は正にこの作品を読み終えて、緑の炎を見出したのでしょう。一晩経っても冷めない興奮は、私の中の嫉妬心とに混ざって、続いていたのだと思います。

 最後に、このような素晴らしき作品に出合わせてくれた事に、心から感謝します。本当にありがとうございました。
 色々と冗長で、しかも鼻に付くような感想を書いてしまったかも知れませんが、全て私の本心です。どうかお許し下さい。
5. 10 佐藤 厚志 ■2008/10/10 12:49:50
まず、今コンペにて唯一の10点をつけさせてもらいましたことを、ここに記しておきます。
このネットワークの海で、これだけ多くの要素を詰め込めながら、読者をぐいぐいと引き込む作品に出会うとは正直期待しておらず、読み終えた今わたくしは震撼しつつ感想を書いております。パルスィというキャラクタの掘り下げ方は、最早完成された傑作の域にまで達しており、その他の人物たちの情緒や衝動も、それに悲哀を見事に書ききっていたと思います。
それにしても、風神録以降の2ボスは、生々しい宿業を背負ったような設定のキャラが多いなと改めて実感しました。長々と申し訳ないです。
6. 9 暇を作るのが下手な人 ■2008/10/12 11:56:48
時間がないので点数だけ
7. 8 yuz ■2008/10/12 20:52:22
うん。凄まじいボリュームと内容でした。
8. 7 神鋼 ■2008/10/16 19:59:07
ああ妬ましい。
9. 10 deso ■2008/10/23 22:55:48
また凄いのを読んでしまった。
いやあ、もう何も言えません。満腹です。
ご馳走様でした。
10. 10 詩所 ■2008/10/26 20:39:56
精巧かつ緻密に練られた話を一ヶ月ばかりで脳に浮かび上げ、文字にできるのだから驚きを通り越し何故か溜息が出ました。
長さを感じなかったとは言えないですが、長さを読み応えのあるものに変えていたのは事実。
目を瞑れば情景が伺えるほどの文章に心象が加わり、読者の脳に画像を伝える。
こんな文書けるあんたに嫉妬するわw

作者さんはコンペ中からパルスィに憑かれているでしょ、これ。
ほら、貴方の後ろに……。
11. 6 あずまや ■2008/10/26 23:08:03
 毒薬は後からすり替えたのかと思っていたのですが割と単純な話でした。
 それはさておき、3人が違う幸せを考えていて、それがそれぞれ相反する場合には、それぞれが妥協しないといけないのですが、恋の話の場合そうにもいきませんよね。3-1=2で、3÷2の余りは1です。それは事実だと思います。
 ところで、本の読み方といっても人それぞれで、主人公と同一化する人、主人公から一歩引いて外から整理する人、主人公に歩み寄っていく人とかいろいろいると思いますが、主人公と同一化するには自分が入り込むための舞台が必要だし、物語で決断する人物は“私”になると思います。それ以外にも、物語に人間の関係を求めるし、余った一人がどう逞しく生きていくかを期待する人もいるかと思います。(続く)
12. フリーレス あずまや ■2008/10/26 23:09:25
(続き)
 とても話が緻密に組み立てられていますが、話の中で描かれていたのはひたすら事実だけだったような気がします。
 最後の一章では、設定を突き通して、会話をしない選択をしていますが、個人的にはこれは好きじゃないです。設定ばかりが先走って、結局主人公になりきったロールプレイでしか読むことができないものになってしまった気がします。
 こんなこと書いてますが、こういった文章に出会えると実は嬉しかったりします、なかなかないですし。
 趣味は人それぞれですし、別にやりたいならやったらいいと思います。
 そんな訳で、次作に期待しています。長文失礼いたしました。
(ところで、一度投稿に失敗しているのですが、もし残っていたらごめんなさい)
13. 9 ミスターブシドー ■2008/10/27 00:49:37
なんというか、もう異質だ。
普通に伝奇物を読んだ気にしかならない。
東方も包括した伝奇物。ここまでくると二次創作じゃないような気がする
和風ホラーラブロマンス、とか。
文章のレベル、とかいう言い方をするのが面倒なくらい「普通の小説」に見える。
これも「作中の小説家が書いた話」を再現するための手段なのかもしれないが、もうそんな事を気にするのが億劫になる。
面白すぎて逆に醒めてしまった。
個性が強すぎて入り込めないというか、お春の視点が強烈すぎてキャラに共感できなかったというか。
表面的な東方分は薄いが、妖怪と人間の差といった本質は……いや、これは妖怪と人間の関係を書いてあるわけで、やはり弾幕とか平和ボケ気味な妖怪とか、いわゆる「東方分」に乏しいと思う。
パルスィの話といえば東方のSSにもなるのだろうが、ここまでお春が濃いとそこら辺も霞んでしまう。
橋姫という出自を考えれば、水橋パルスィにはこのくらいの悲運悲恋があってもおかしくなくて、嫉妬に焦がれた経験があるからこその橋姫なわけで。
つまりは橋姫を書ききった本作はつまり水橋パルスィの話となり、結果的に東方SSとなる。
んーむ……
14. 10 三文字 ■2008/10/28 01:43:26
パルスィがもっと好きになりました。本当に素晴らしいお話です。
丑の刻参りのまさに鬼気迫る感じ。最後の兄弟の再会と再びの別れ……いや永遠の逢瀬ともいうべきですかね。
興奮と、涙があふれ出ました。
自分ごときが長々と感想を書いても仕様がないですし、もう少し、この読後の余韻に浸っていたい。
そしてなにより、SS書きとして貴方が酷く妬ましいので、長い感想は書きません。
これが自分なりのささやかな意地悪。ああ、それにしても、本当妬ましいぐらいの作品だ。
素晴らしい作品を、ありがとうございました。
15. 10 PNS ■2008/10/29 21:16:14
脱帽です。今回読んだ話の中で、もっとも衝撃を受けました。
まず文章が上手すぎる。これだけ長さの割にとても読みやすく、お手本にしたいとまで思いました。
そしてストーリーも美しい。途中のお春と兄のすれ違いのシーンが胸に染みました。

ただ全体的に重い。ひっじょーに重いです。これ東方でいいのか、ってくらい切ないです。
読み終わってからも心がざわめき、「そういえば、本当によくできた悲しい話って、いつも読み終わったあとこんな感じだなー」と呆けた頭で考えてました。
そんなわけで、その日はそれ以上他のSSを読む気力が無くなっちゃったんですが(苦笑)

それだけ素晴らしい話だったと思います。よい作品をありがとうございました。
16. 9 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:43:13
妖怪は恐ろしい。
17. 9 つくし ■2008/10/30 19:38:33
 こういう作品こそ「力作」と呼ぶに相応しい。ひとつの小説にパルスィというキャラの過去現在未来のすべてを詰め合わせたその力量に感服であります。このぱるちーは妹にしたい
18. 10 じらふ ■2008/10/31 21:43:27
正直評価に悩みました。

長すぎるとも思うけれど冗長だとは思えず、難解な展開と構造を持つけれどそれが作品としての完成度を高めている。
タイトルの付け方も描写も台詞回しも秀逸、お題の使い方も多岐に渡っていて隙がない。

…でも私には重過ぎる物語だったのかなあ、と。正直この作品を(自己満足でも)十分消化出来ている自信がないと言いますか。

多分三橋氏が書いた「華燭の春 燐火にて」を読んでいたなら迷わず10点を付けていたはずです…その物語は読み終わった後の私に幸せの香を一握り残してゆきましたから。
ああ、幻想の郷の妬み深き橋姫にもわずかに幸せな時はあったのだなあと。救いはあったのだなあ、と。

でもその外側にある物語まで見た時、私の感傷は吹っ飛んでしまう。妖怪と人とのあるべき姿を描いているという意味では非常に東方的で見事だと思うけれど…。
全てを俯瞰した時にそれぞれの人物を、出来事を、そして三橋氏の「華燭の春 燐火にて」を東方SSとしても一つの小説としても、どう解釈し、どう評価して良いか良く分からなくなってしまう。

うーん…ぐだぐだ書いてきましたが、それでもこの作品に今現在点数をつけるなら10点以外はないと感じます。まともに理解出来てるとは思えないけれど、お話に引き込まれたのは確かですし。

とりあえず、また機を見て読み直させてもらいますね。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…今度読む時にはもう少し理解を深められたら良いなと願いつつ…。
19. -3 今回は感想のみ ■2008/10/31 23:17:34
文章を書く手腕、話を作り出す構成力は不足ないのに、なぜそれがあさっての方向に行くのか。
テーマの水なんかよりも、とにかく書きたいことがある。
それはわかるし、その意思は見事に貫かれて素晴らしい完成度の作品となっている。
ただ、何で今、ここで?
なんというか、卓越した手腕に期待しただけにひどく失望した。
20. 9 リコーダー ■2008/11/01 09:20:21
唯一にして最大の問題点は、一連の悲劇の元凶ともいえるお夏のキャラ付けでしょうか。
ある体験をきっかけに心の歯車が狂い、表面的には異常なほど正気なのに行動の端々が矛盾に満ち、奸計を巡らせながら願い満ちたらすっかり萎れて自分から主人公の元を去るヤンデレさん。コンセプトは分かりやすいです。しかし読んだ感じ、正気なところは普通に普通の人で、水橋夫妻の殺害やパルスィをわざわざ復活させるなどの奇行は、単に意味の分からない行動という風にしか映らなかった。
というかこのカテゴリのキャラ自分的には超ど真ん中ストライクだったりするのですけど。
それ故に、もう少し見せ方があったんじゃないかなあと思ってしまいます。
21. 10 八重結界 ■2008/11/01 18:44:41
人の目から見ればこの点数ですが、あるいは妖怪の立場から見ればもっと違った点数を付けたくなるのかもしれません。
人生は視点を変えることができないけれど、小説だけは唯一それが出来るわけで。
そういった意味では、男どもが小説家なのはある意味で運命ではないかと思いました。
22. 5 藤ゅ村 ■2008/11/01 19:37:57
 最後の方、ちょっともたついてました。墓場のシーンでズバッと切った方があるいは締まったかも。これどこで終わらせたらいいかわかんねーっていうので長くなってたような気もするので。
 パルスィの話というより、橋姫の話といった感じ。あなた橋姫をテーマに一筆書いてみなさいよ、と言われて書いたような。過去話だからしょうがないといえばそうなんですけども。面白さは随一だと思います。
 わりと登場人物の灰汁が濃くて、それだけパルスィ分が薄まったような気がしないでも。途中、舌切り雀とか花咲爺とか挟まってて、上手いなあとは思いました。
23. 9 木村圭 ■2008/11/01 21:58:10
正直、理解し切れていない部分があることは否めません。情けないことに再読の時間もありません。
汲めて八割。申し訳ない気持ちでいっぱいです……。
作風と構成から何となく作者様の輪郭が見えていますが言及は避けようかと。最近こんぺ以外でSS読んでないので人に暗いのです。
24. 9 つくね ■2008/11/01 23:15:58
良いものを読ませてもらいました。
25. 7 時計屋 ■2008/11/01 23:59:50
確かな文章力と構成力に裏打ちされたストーリーは、大樹のように力強く、
重厚でありながら有無を言わせず読む人を引き付けていくようです。
完成度は非常に高く、少なくとも私ごときでは瑕瑾を指摘することはできません。

と書いたところで時間切れががが。
詳しい感想はまた後日。
26. フリーレス 時計屋 ■2008/11/03 19:55:06
(↓の続きです)
ですので以下に述べることは完全に好みの問題になるのですが、私はこの嫉妬の物語に共感することができなかった。
その原因として、まずパルスィの境遇が挙げられます。
部屋に閉じ込もった異国の少女。世界との接点は彼女の身を引き受けた一家だけ。
それは一家の善意であり止むを得ない措置ではあったとしても、結果としては少女の人としての在り様を著しく制限されてしまった。
作中でも触れられている通り、パルスィは男に恋をするしか人として生きる道はなかった。
その上で男も父親もそれを忌避してしまう。つまりパルスィを対等な人間であるかのように見ようとする。
それは男の立場からみるならば、実際の近親に対するよりもアンフェアでインモラルな恋愛の形に見えたのです。
ですから私にとってはその後の悲劇は嫉妬と狂気というよりは、条理に則った帰結のように思えてしまった。

舞台づくりから人物設定まで非常に周到であるだけに、このSSは理性的で計算的であるように感じました。
(それは三橋氏の筆録という形を借りている故の演出かもしれませんが)
しかしそれ故に読んでいる私が入り込む余地が無いようにも思えました。
要は私はこのSSを自分のものとして噛み砕くことができなかった。
ちょうどこのSSに登場する群衆のように、嫉妬に狂い嫉妬を貪る妖怪にまで昇華した人の想いを、私は汲み取ることが出来なかった。

と、長々と書評家ぶったことを書いてしまい汗顔の至りですが、やはりこんぺは祭りの場。
面白かった、凄かった、で済ますよりは酔いに任せて思ったことをぶつけてみようと思いました。
的を外したことを言ってしまったならすいません。

では最後になりましたが、これだけの力作を読ませていただいた作者様にお礼を。
ありがとうございました。
名前 メール
評価 パスワード
<< 作品集に戻る
作品の編集 コメントの削除
番号 パスワード