と、詩人は言った。

作品集: 最新 投稿日時: 2008/10/05 07:07:23 更新日時: 2008/11/07 22:37:50 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00







 それは、長い時間をかけて、

――初めまして。

 雨が降って、

――また会いましたね犬走。

 地に水が溜まって。

――椛、あなたは少し真面目すぎますよ。

 やがて大きな水脈となり、それは小さなきっかけで湧き立つのだ。

――大丈夫。ちゃんとあなたの分の仕返しはしてやりました。

 山の上に大きな社ができた頃、私の中に小さな井戸ができた。
 湧き立つのは想い。溢れるのは心。

 私は、恋をした。








 No.02/



 恋は清流のように穏やかに、湧き立つものである。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。

「……私だ」

 こぼした言葉は重く、低いもので、短く切り揃えた白髪を右手にかきあげつつ、犬走 椛は呻くように言葉を漏らす。
 目覚めたばかりの意識は押し寄せる頭痛の波にさらわれながら、まだ温かい布団とは対照的に、首筋に冷たいものを感じていた。
 恐らくは、絶望とかそういった類のものなのだろう。
 後悔深く、二日酔いのそれよりもこの頭を痛ませるもの。
 それが、先の詩人のような言葉なのだ。



 それは、一番星もとうに星たちの中に身を伏して、主役を月に譲り渡した頃。
 乾杯の一言を大小様々不揃いに、幻想郷の妖怪は挙って杯に月を閉じ込め、舐めた。
 博麗神社の大宴会。
 幻想郷の妖怪であれば、一度は耳にするその宴に椛は居たのだ。
 夜の境内には誰が持ち寄ったのか、提灯や灯篭が広い宴会場を賑やかに見せている。
 よく見れば、中には境内を照らしきれなかったのか、室内用の行灯なども引っ張り出されていて、
 それが、人と妖怪が交わるこの宴のように珍妙な雰囲気を感じさせている。
 楽しい、と椛は素直にそう思った。
 乾杯の音頭は灯かりの数だけ囁かれて、小さなグラスのぶつかる音に、賑やかしの歌の声。
 宴は盛大に、語る者は和気藹々と、舌を打つ酒の数々は胃の中で多色に混ざり合う。
 とても素敵な宴会だと、椛は思った。
 ここには清酒があり、焼酎があり、ワインもあればウィスキーもある。
 そして、その分だけの笑顔が咲いている。
 上司である射命丸 文に手を引かれながら、そんな宴会に椛は足を踏み入れたのだ。
 周りには酒と笑顔がある。
 目の前には、大好きな笑顔が手を引いてくれている。
 気づけば暫し見惚れていたようで、宴会場の丁度真ん中で椛は文の背中に額をぶつけた。
 その様子に、新顔を横目に見る者が一人二人と出てくる。
 そして、

「よく来たな。今日は宴だ、駆けつけ三杯じゃ物足りない!」

 いつかの山への侵入者が、一升瓶を掲げてやってきた。
 まず、椛の手を引いていた文が唇を吊り上げて、その一升瓶を半分ほど飲み干した。
 椛はそれを倍の時間をかけて飲み干して、回ってきた焼酎をその倍の倍の速さで飲み干した。
 文は吸血鬼からワインを受け取り、これはつまみがあれば尚美味しいのではと問うている。
 が、どうやらそういうものではないらしいので、二人そろってグラスを掲げて味わった。
 そして、琥珀色の酒がグラスを満たした頃。

「おう天狗の! ここは一つ飲み比べといこうじゃないか!」
「いえいえ、天下の鬼を捕まえて、勝てぬ勝負はいたしません」
「ですが共に飲み、介抱くらいはしてあげましょうか……だろう?」

 鬼に連れられ、文が宴に飲み込まれていく。

「良い飲みっぷりだ、もっと飲め!」
「……あ」
「魔理沙、あんたちょっとはペースを考えなさい」

 いつかの侵入者達に連れられ、椛が宴に飲み込まれていく。

「文様……」

 こぼしたその呟きも、宴に飲み込まれてしまった。
 酒が進む。横目に見れば、文が鬼と笑っていた。
 グラスが乾く。いつしか手を取り合って、楽しそうに飲み交わしている。
 酒瓶を傾ける。ひそひそと、内緒の話を囁き合っている。
 誰かが口を開けて私を見ている。できるなら、あの隣には自分が居たかった。
 思いながら、椛は無言のまま、目の前のグラスを乾かし続ける。

「流石天狗……ザルだな」
「それにしても飲みすぎじゃないかしら、今にも倒れそうな顔よ?」
「それはいい、酔った乙女がするのは恋の話だ。さあ天狗正直に吐くといい」
「吐いたら駄目よ、いろいろと」

 囁く声がする。
 文が笑ってる。
 そのとき、椛は何を思っていたのだろうか。
 興が乗ったのか、自棄になったのか、どちらにせよ酒に飲まれての失態だった。

「どうした天狗、顔色が――」
「わたしは……文様が好きです」

 ポツリ、とこぼした言葉に、恋に多感な少女達が目を丸くする。
 騒ぎは遠く、文には届かないだろう。
 だからだろうか、意気揚々と椛は語っていたのだ。
 文のことを、自分の気持ちを。

「恋は――」

 薄暗い境内での言葉。
 やれ詩人と囃す声。
 そしてそして、気づけば夜も更けて、



「――最悪だ」

 薄く開いた木戸からは朝の日が覗いている。
 吹き込む風は新鮮で、きっと心地の良いものだった。
 しかし、それでも椛は新緑の薫りも朝露の涼も感じ取ることはできなかった。

「何が恋は穏やかな清流だ……阿呆か私は」

 自らに向けた苦言はそのとおり、間抜けで阿呆な詩人を表している。
 千里眼はいつから未来を見通せるようになったのか、今後の己の姿が椛にはよく見える。
 ああきっと、道行く人妖と出会えば、やあ詩人と声を掛けられるのだろう。
 もちろん、それは明らかな嘲りを伴って。
 もう本当に、消えてしまいたいと椛は思った。

「はいはい、消えてしまうのはご飯を食べた後にしなさいね」

 思わず肩が跳ねた。
 椛の首は、いつか河童が見せてくれたカラクリ人形のように上がっていく。
 見なくても、声だけでその人だと分った。
 それでも、ありえないと信じたかったから、椛は自ら顔を上げて、喉を鳴らした。

「聞いて、いましたか? ……文様」

 鴉の羽のような黒髪を揺らして、現在もっとも顔を合わせにくかった人がそこに居た。
 唯一の救いといえば、何故か割烹着を身に着けた文が首を傾げたことだろう。
 もしも聞かれていたのなら、椛はは本当に消えてしまっただろうから。

「……? よく分かりませんが、ご飯ですよ」
「待ってください文様」

 身を正し、正座をして待ったをかける。
 差し出した手は、先ず何を問おうかと迷い箸のように揺れていた。

「先ず、何故文様が此処に?」
「あら、憶えていないのね椛。昨日あなたを背負って帰ってきたのが誰なのか」

 ぎくり、とそんな音がした。
 痛む頭の中、そういえば誰かに背負われた記憶があったのだ。
 
「随分と楽しんだみたいね、酔いつぶれて眠ってしまうなんて」
「……申し訳ないです」

 椛はひたすらに頭を下げながら、微笑む文を盗み見る。
 普段と変わらない文様の様子に、椛は少しだけ安堵していた。
 一番怖かったのは、気づかれてしまうことだったから。
 離れていってしまうのは、怖い。
 できるならこうして、ずっとこんなふうに居たいから、

「さ、早く顔でも洗ってきなさい」
「はい、そうします」

 だから、このまま気づいてもらえなくていいと、椛は思う。


「――ところで椛、私が好きというのは本当ですか?」


 あれ?

「酒の席のことですから、勢いもあったのでしょうけど」

 あれ、あれ?

「大分酔ってましたからね……椛? どうしました?」

 そりゃあ、勝手に口走ったのは自分なのだけど。
 まさか、文本人の耳まで届くとは思わなかった。
 だって、恋する少女達はいつだって口は堅いはずなのだ。

「ありゃ、固まってますね」

 それともまさか、背負われた時に何かをやらかしたのか。
 思いながら、椛は額の辺りから血が引いていくのを感じていた。

「ねえ、椛――」

 どちらにせよ、幸せな夢はもう覚めてしまったのだ。



「私と、交際してみますか?」



――――あれ?







 No.01/



 人と一緒に居るのは苦手だった。
 ここで言う人とは天狗のことなのだけれど、兎も角苦手だったのだ。
 天狗という社会に従順であり、いつも念頭には任務を置いて、付き合いや会話は最低限に。
 気づけば部下との距離も開いていて、色めく話の中に入っていくこともできずに孤立していた。
 椛はどうにも、乙女の会話というやつが苦手だったのだ。
 姿見を前にした体は、あまり女らしくは無い。
 目元は鋭く、可愛いなんて評されたことは無論、無い。
 だから、自然とそういう話題からは逃げてきたのだ。
 自分でもなさけなくなるくらいに、可愛くない女なのだと気づいていたから。
 そして、

「――犬走様、もうずっと天狗としての格を上げていないそうですよ」

 少なからず、そんな劣等感もあった。
 丁度、そんな会話の中に椛が現れたものだから、語り手であった部下の一人がぎょっとする。
 椛は怒りも、笑いもしなかった。
 ただ一言、休憩の為の交代と次の交代時間を告げてその場を離れる。
 全て本当のことだったから、椛は全てを受け入れて、また人との距離が開いていく。
 そんな中に、彼女は現れた。

「初めまして」

 滝壺からの轟音が遠く聞こえる、長い滝の天辺に近い岩辺。
 お気に入りの休憩場所に、先客としてその姿はあった。
 畳んだ翼は美しい鴉の黒で、同色の髪は美しく風に揺れている。
 気づけば、手帳を手にしていた彼女は、顔だけを椛に向けて微笑みかけていた。

「射命丸様……初めまして」

 下っ端天狗の椛でも、彼女の名前は耳にしていた。
 人里に近い文は、麓の人間をもゴシップ記事に取り上げることで有名だったのだ。
 そして挨拶のあと、やはり会話は無かった。
 元より人との会話も少ないのに、初対面の上司と話すことなど何もない。
 ただ、席を外すのもわざとらしい気がしたので、椛は少し離れて休息を取り、文との間に無言の壁を作っていた。
 はず、なのだ。

「まだ、名前を聞いていないのですが?」
「――っ!?」

 滝の音に紛れて聞こえた声に閉じていた瞼を上げると、鼻の先に文の顔があった。
 それだけで、椛は大層驚いて、転げまわった挙句に滝壺へと転落したのだ。
 思い出すのも恥かしい、最悪の第一印象である。

「犬走、椛と申します」
「ずぶ濡れで畏まらなくていいですから、早く体を拭きなさい」

 それでも、滝壺から上がったとき、そこには笑顔があったから。
 その分椛は、文に親しみを感じられたのだと思う。
 そう思えば、あの出会いも悪くはなかったのかもしれない。

「犬走は、もうずっと白狼天狗なのですね」
「――はい、お恥かしながら」

 文はよく滝壺へと訪れた。
 気にかけて頂いていると気づくのはもう少し後になるのだが、椛は不思議とそれを受け入れていたのだ。

「……疑問に、思ったことはありませんか?」
「いいえ、私の能力は哨戒の任に特化しています」

 だから、

「だから、これは適材適所。私は、上を目指そうとは考えておりません」

 鴉天狗である文と直接の関わりなどそうは無かったから、というのも少なからずあったのだろう。
 強がりや建前はなく、椛は日頃思うことをそのまま話していた。

「私は、上のお役に立てればよいのです」

 それは、話せば呆然とされる本音。
 天狗らしくないと評されることも、少なくなかった。
 
「ちょっと着いて来てください」

 文は、それを笑った。
 そのまま椛の手を引いて、哨戒天狗の詰め所まで赴いて、

「ちょっと親分を借りますね」

 まさか、一人が居なくなったくらいで任務が務まらないほど無能ではないでしょう。
 そんな言葉に、異を唱えられる者は一人も居なかった。
 連れられたのは空の果て、日が傾き始めた寅の四つ刻。
 昼と夕暮れを丁度半分にしたような、少しだけ日の終わりが見え隠れする時刻。
 首を傾げる椛の前で、文は大きく腕を広げて楽しそうに空を舞っていた。

「あなたは少し真面目すぎますよ」

 遠くから、そんな囁きが耳に届く。
 その言葉に、椛は呆然としたまま空の上に佇んでいた。

「あなたはもっと素直に話をして良いのです。可愛い話も、不満も愚痴も、自由に話して良いのです」

 見抜かれていた、と思った。

「――私にね、椛」

 ただ初めて名前を呼ばれた。
 そんな単純なことに、心が惹かれはじめていたのだ。



 そして、山の上に大きな社ができた頃。

「私の可愛い椛を苛めたのですから、少しくらい痛い目を見せてやりましょうか」

 笑いかけてくれた文に、椛は恋をした。








     /No.00



 それは、長い時間をかけて、

――初めまして。

 雨が降って、

――はい、また会いましたね射命丸様。

 地に水が溜まって。

――ありがとうございます、文様。

 やがて大きな水脈となり、それは小さなきっかけで湧き立つそうだ。

――わたしは……文様が好きです。

 山の上に大きな社ができた頃よりずっと前、私の中に小さな水場ができていた。
 湧き立つのは想い。溢れるのは心。

 私は、恋をしていた。








     /No.01



 聞いた話では、退屈で天狗らしくない娘だそうだ。
 盛大な博麗のものとは違う、気を使うのが仕事の内輪の宴。
 その席で、笑い話の一つに犬走という名が出てきた。
 実直勤勉、頑固一徹、誰かに取り入ろうという姿勢を見せぬ愚直さ。
 哨戒任務の長である大天狗の話を聞けば、なるほど天狗らしくない。
 楽しみの無い酒は進み、耳に残ったのは犬走という名だけであった。

「犬走、椛と申します」

 しかし、実際の彼女はそんな話とは違って、楽しいと文は思った。
 偶然に出会って、興味から名を尋ねて、驚き滝壺へ落ちていったときは笑いを堪えるのが大変だったのだ。
 そんな出会いがあったからだろうか、文は壁を作りたがる彼女の元へよく足を運ぶようになっていた。



 それは木の葉が芽吹く頃。
 息を吐く椛の背後ににじり寄って滝壺へと落としてやった。
 千里先は見通せるくせに、灯台下暗しとおどけて見せると、

「なるほど、それは盲点でした」
「で、ですよね……はは」

 ずぶ濡れのまま大真面目に頷くものだから、文ははまた笑いを堪えるのに苦労してしまった。



 それは桜色の褪せた頃。
 乙女万有の共通話題。フリルや夏服の話題を持ちかけてみた。
 しかし、椛は露骨に身を引いて、すっかりと拗ねたように離れてしまった。

「私は、そういったものは苦手です」

 理由を聞けば、出てくる自己嫌悪の数々。
 口を開けば、凛とした顔立ちを。
 顔をしかめれば、意志を湛えた綺麗な瞳を。
 髪をかきあげれば、小柄で女性らしい体躯を。
 それぞれ、後ろ向きに否定して見せたのだ。
 全部が全部、椛の魅力的なところばかりで、少しばかり文の笑顔は引き攣った。
 そして、文は笑顔のままもう一度、椛を滝壺へと押し出したのだ。



 それは夕立も過ぎた頃。
 甘いものでもどうかと、こっそりと人里で購入してきた菓子を振舞ってやった。
 下界とは無縁な山の妖怪に、人間の甘味は魅力的過ぎたのだろう。

「あーん、としたら分けてあげますよ?」

 そんなことはできませんと、大真面目に椛は言う。
 けれどその背中では、真っ白な尻尾が揺れているのだ。
 それを指摘すればほら、秋も近いのか椛は真っ赤に染まってしまう。
 椛は頻りに私のようなものは甘味など似合わない、と言っていたけれど、

「可愛いですね、犬走は」
「――ふへっ?」

 夢中になって菓子を味わう様子は、言葉のとおりとても可愛かったのだ。



 それは、段々と夏の名残が消えていく頃。

「犬走は、もうずっと白狼天狗なのですね」

 ふと、そんなことを尋ねていた。
 どこかで耳にした噂。重ねてきた年月と勤勉な姿には似合わない下っ端天狗のその地位。
 考えてみれば、千里先を見通す能力を手放したくない者が居るのだろう。
 下っ端の哨戒天狗の為にあるような能力だったから、きっと椛は格を上げてもらえることなんて無い。
 だから、思わず尋ねてしまった。
 それを疑問に思ったことは、不満は無いのか、と。

「私は、上のお役に立てればよいのです」

 彼女はきっと、そのことを理解しながら言い切った。
 照れるように、可愛い笑顔で。
 自分には、そんな顔はできない。
 思いながら、文は椛の瞳を覗き込んでいた。
 何処までも純粋に凛々しくある天狗を、文は見たことが無かったから、思わずその笑顔の前で呆然としてしまいそうになる。
 それでも、そうならなかったのは、椛自身がそんな姿を恥かしそうにしていたから。
 いつか、自分の魅力を全て裏返して語った時のように、文が好きになったものを自虐的に捉えている。
 そして、気づけばそんなことが煩わしく思えて、

「ちょっと親分を借りますね」

 その手を取って、飛び出していた。
 連れ出したのは空の果て、日が傾き始めた寅の四つ刻。
 驚き戸惑い、それでもしっかり手を握って着いて来る椛が無性に可愛く思えて、速度を更に上げていく。
 いつの間にか文の唇は笑みに歪み、繋いだ手は更に強く、空を切る翼は楽しげに空を舞っていた。

「あなたは少し真面目すぎますよ」

 そして、少しだけ考えた後、文はそんなことを囁いた。

「あなたはもっと素直に話をして良いのです」

 いつしか向かい合って、踊るように風を切りながら、

「可愛い話も」

 可愛くないと言った、綺麗な瞳と見詰め合って、

「不満も愚痴も」

 壁を作りたがる彼女とこんなにも近く、

「自由に話して良いのです」

 思い出したのは、本当は可愛い彼女の色々な表情。

「――私にね、椛」

 そんな椛の可愛いところを、もっと見たいと思った。


「ありがとうございます、文様」


 ただ初めて名前を呼ばれた。
 そんな単純なことで、長く彼女の傍に居た理由に気が付いたのだ。
 決して一目惚れなどと運命的なものではなかったけれど、想いの強さは同じ分だけそこにあった。


 そして、山の上に大きな社ができるずっと前から、

「やっぱり、文様はお強いのですね!」

 笑いかけてくれた椛に、文は恋をしていた。








     /No.02



 恋は湧き水のようにささやかに、いつの間にかそこにあるものである。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。

「――っ!」
 
 思い出して、黒髪を一房掬い上げる。
 軽く絞って水気を散らし、そこから覗く肌は薄紅色に染まっていた。
 今し方酒気を散らす為に小川の水を被ったばかりだというのに、その頬は薄く熱を持っている。
 恐らくは、期待とか喜びとかそういった類のものなのだろう。
 思い出すのも気恥ずかしく、早朝の浴び水の冷たささえ忘れせるもの。
 それが、先の詩人のような言葉なのだ。



 それは、黄昏時の橙色もとうに夜の紺色に塗りつぶされて、太陽が主役を月に譲り渡した頃。
 乾杯の一言を大小様々不揃いに、幻想郷の妖怪は挙って月を杯に囲い入れ、愛でた。
 博麗神社の大宴会。
 幻想郷の妖怪であれば一度は耳にするその宴に、誘ったのは文だった。
 夜の境内には誰が持ち寄ったのか、晩秋の夜の寒さにはありがたい焚き火の姿が見える。
 よく見れば、いつかの自称焼き鳥屋が炎を片手に組んだ木枠の中に光を落として歩いていた。
 そして、いつしか始まる睨み合いは月から来たというお姫様と。
 それでも、あっさりと炎を落としたのは、やはり酒の成せる業なのだろう。
 これは面白いと、文はぼんやりと思った。
 乾杯の音頭は焚き火の数だけ囁かれて、小さなグラスのぶつかる音に、賑やかしの歌の声。
 宴は盛大に、語る者は和気藹々と、舌を打つ酒の数々は胃の中で多色に混ざり合う。
 とても素敵な宴会だと、文は思っていた。
 ここには清酒があり、焼酎があり、ワインもあればウィスキーもある。
 そして、その分だけの笑顔が咲いている。
 数度の練習の末に誘い出した椛の手を引きながら、そんな宴会に文は足を踏み入れたのだ。
 周りには酒と笑顔がある。
 その後ろには、大好きな笑顔が着いてきてくれている。
 ふと立ち止まると、宴会場の丁度真ん中で文は背中に小さな衝撃を得て、肩を跳ねさせた。
 その様子に、新顔を横目に見る者が一人二人と出てくる。
 そして、

「よく来たな。今日は宴だ、駆けつけ三杯じゃ物足りない!」

 いつでも元気な魔法使いの少女が、一升瓶を掲げてやってきた。
 まず、椛の手を引いていた文が唇を吊り上げて、その一升瓶を半分ほど飲み干した。
 椛はそれを倍の時間をかけて飲み干して、回ってきた焼酎をその倍の倍の速さで飲み干した。
 文は吸血鬼からワインを受け取り、これはつまみがあれば尚美味しいのではと問うている。
 が、どうやらそういうものではないらしいので、二人そろってグラスを掲げて味わった。
 そして、琥珀色の酒がグラスを満たした頃。

「おう天狗の! ここは一つ飲み比べといこうじゃないか!」
「いえいえ、天下の鬼を捕まえて、勝てぬ勝負はいたしません」
「ですが共に飲み、介抱くらいはしてあげましょうか……だろう?」

 鬼に連れられ、文が宴に飲み込まれていく。

「良い飲みっぷりだ、もっと飲め!」
「……あ」
「魔理沙、あんたちょっとはペースを考えなさい」

 いつかの侵入者達に連れられ、椛が宴に飲み込まれていく。

「……椛」

 こぼしたその呟きも、宴に飲み込まれてしまった。
 酒が進む。横目に見れば、椛がむすりと酒を飲み下していた。
 グラスが乾く。その様子に、少しだけ心が躍る。
 酒瓶を傾ける。嫉妬でもしているのかと気付いた頃には、小さな悪戯心が芽生えていた。
 誰かが訝しげに文を見つめている。戯れに鬼と仲良く見せればほら、出来上がる可愛い不満顔。
 そして、いつしか頬を真っ赤に染めた椛のところに歩み寄って、

「わたしは……文様が好きです」

 ポツリ、とこぼされた言葉に、文の胸の中で大きく何かが揺れた。
 騒ぎは遠く、椛は気づいていないのだろう。
 だからだろうか、文は同じ様に真っ赤になった頬を隠す必要がなかった。
 椛のことも、自分の気持ちも。

「恋は――」

 薄暗い境内での言葉。
 やれ詩人と囃す声。
 そしてそして、気づけば夜も更けて、



「……えへへ」

 衣をまとう中、浴びた朝日は心地よかった。
 吹き込む風は新鮮で、その中に濡れた漆黒の翼を一つ羽ばたくと、切った風の冷たさに身が引き締まる。
 しかし、それでも文は新緑の薫りも朝露の涼も感じ取ることはできなかった。

「好き、か」

 呟いた言葉は小さく、幸せそうに、頭の中は未だに酒宴の際の小さな姿で埋め尽くされている。
 まだ夢を見ているような気分というものは、冷水を浴びたくらいでは冷めてくれないようだ。
 ああきっと、道行く人妖と出会えば、何があったのかと問われることだろう。
 自覚できるほどに、文の頬は緩んでいる。
 そして、意を決して勝手知ったるる小さな家に足を踏み入れれば、聞こえてくる後悔の言葉。

「もう本当に、消えてしまいたい……」
「はいはい、消えてしまうのはご飯を食べた後にしなさいね」

 聞こえてきた声に、文は笑みを隠しながら答えてやった。
 椛の首が、いつか一緒に見たカラクリ人形のように上がっていく。
 具合が悪いのか、昨日の宴での出来事が原因なのか、椛の顔は昨日とは打って変わって蒼白なものとなっていた。

「聞いて、いましたか? ……文様」

 今にも泣きそうな顔で、椛が尋ねる。
 その姿に、文はどうにか笑みを殺して、素知らぬふりを通し首を傾げてみせた。
 心の中、踊る感情に待ったをかけて、言葉を口にするタイミングを待っている。

「よく分かりませんが、ご飯ですよ」
「待ってください文様」

 身を正し、正座をして椛が待ったをかける。
 差し出した手は、先ず何を問おうかと言うように揺れていた。

「先ず、何故文様が此処に?」
「あら、憶えていないのね椛。昨日あなたを背負って帰ってきたのが誰なのか」

 芝居がかった声色で返してみると、椛の体が小さく跳ねた。
 にやにや笑いを堪えた連中を前に知らぬふりを通しつつ、背負った小さな身体が思い返される。
 今度こそ、文は笑みを堪えきれずに表へと出してしまった。
 
「随分と楽しんだみたいね、酔いつぶれて眠ってしまうなんて」
「……申し訳ないです」

 椛はひたすらに頭を下げながら、微笑む文を盗み見ている。
 いつしか安堵したように頬を緩ませた椛に、文は声も無く謝った。
 自分がずるいことをしようとしていることを、なんとなしに感じていたから。
 離れていってしまうのは、文とて怖い。
 それでも、傲慢な天狗は望んでしまうから、

「さ、早く顔でも洗ってきなさい」
「はい、そうします」

 だから、このチャンスを逃せないと、文は思う。


「――ところで椛、私が好きというのは本当ですか?」


 立ち上がり、背を向けた椛の歩が止まる。

「酒の席のことですから、勢いもあったのでしょうけど」

 言葉は練習のとおり、するすると出てきた。

「大分酔ってましたからね……椛? どうしました?」

 両想いを核心して、それでも文は自分の気持ちを語るのは恥かしかった。
 そして何より、彼女が好きになってくれた自分を崩すのが、怖かった。

「ありゃ、固まってますね」

 だからこうして、止まったままの椛の背を借りるように、

「ねえ、椛――」

 文は、何でもないように振舞って、そんな言葉を口にした。



「私と、交際してみますか?」



 その中に、小さな本当を隠しながら。








 No.03/



 恋は時に霧のように、人を盲目にする。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。

――私と交際してみますか?

 夢と思った言葉も、昼を過ぎた頃には現実味を帯びてくる。
 思い出せば恥かしいもので、返答に言葉は無く、それは首を縦に振ることで行われた。
 泣かなかったのは、少しだけ自分を褒めてやりたい椛である。

「本当……なんだな」

 呟いてみると、実感と共に涙が薄く滲んだ。
 膝を抱えた岩辺の上で、小さく目を擦る。
 別れ際、よろしくねと撫でられた頬が未だに熱を孕み続けていた。
 そこに手のひらを重ねてみれば、恋する乙女が一人できあがる。
 そして、暫くの間意識をどこかへ放り出したあと、夢想の果てに、椛は溜息を一つこぼした。
 ふと、思ったのだ。

「――何故、私なんだろう」

 期待しても良いのか、少しだけ思い悩む。
 水面に映った顔は眉根を寄せた情けない表情で、擦りすぎた鼻の頭が赤くなっている。
 いつものように険のある目つきではないものの、決して可愛いとは言えない表情。
 それでも、

「好きに、なってくれるだろうか」

 恋する少女は、立ち上がった。
 そして、姿見代わりの水面が流れ着く先、丁度空と水とが交わって見えるそこへ勢い良く飛び出す。
 先ずは、こんな情けない顔を直してやらなくては。
 思いながら、宙空を水飛沫と共に落ちていく。
 そんな中、

「ああ、そういえば――」

 何度も文に落とされたなと、椛は水面にぶつかる直前で思い出す。
 最後の瞬間。水面には初めて見る満面の笑みが映っていた。
 悪くない、と思う。
 水の中、淡い日の光に無数の気泡が宝石のように輝いている。
 耳の傍をそれらが通り抜けるとき、木製の鈴を鳴らしたような、不思議な音色が響き渡った。
 その音に、後ろ向きな思いが掻き消されていく。

「……やってやろう」

 そして、いつしか陽光の広がる水面を突き破ったとき、情けない顔はどこかに行っていた。
 自分にはできることが沢山あると、椛は思う。
 好きな人に自分を好きになってもらおうと、魅力的な女になろうと、

「文様の為なら、なんだってできるんだ」

 一人でその気持ちを抱え込んでいたときとは違う。
 椛は今、ようやく水面からその心を引き上げた。
 そして、

「……っくち」

 先ずは身体を拭こうと椛は心に決める。
 秋も終わるこの季節、流石に水から上がれば肌寒いなんてものではない。
 すごすごと職場へと戻る道の中、鼻水を垂らしてたら文に嫌われるだろうなと、椛はぼんやりと考えていた。

「フリルはもっと少ない方がいいよ――椛様っ!?」

 そして、滝を割って詰め所に戻れば、そんな声が出迎えてくれた。
 洞窟の中には焚き火を囲んで、五人ほどの白狼天狗が座を成している。
 声をあげたのは輪の中心に居た天狗で、残りは訝しげに椛の姿を盗み見ていた。
 その視線に、滑ったと一言だけ言葉をこぼして、椛は服をはたき始める。
 そうして、小さな壁が出来上がった頃。

「――あ」

 何を思ったのか、焚き火の傍へ座り込んだ椛に、今度は部下の全員が声をあげた。
 驚いたのは、当の椛とて同じである。
 元来人との付き合いは苦手で、その時そこにあった話題は椛にとって最も苦手な部類だったのだから。
 それでも、焚き火を中心にして、彼女達は一緒に居る。
 部下達の反応は唖然に呆然、自失に混乱眩暈と、皆新鮮なものだった。
 それほどまでに、椛の行動はありえないものだと思われていたのだ。
 ただ、輪の中心に広げられた人里の書を見下ろして、

「これ……可愛いね」

 浮かべた笑顔には、きっと誰も違和感を憶えなかった。








     /No.03



 恋は時に産湯のように、人を安らかにさせる。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。

「――ふぅ」

 カクカクと、まるで添水の鹿嚇しのように首を上下する椛を残して、後ろ手に戸を閉める。
 そして、三つ数えれば、吐いた息と共に力の抜けた声が上がった。
 気づけば頬は笑みに歪んで、押さえていた熱に朱色へ染まっていく。  
 まだ高鳴る鼓動の音を自覚しながら、文は薄く微笑を滲ませていた。

「交際か……あはは」

 夢と思った言葉も、呟きと同時に現実味を帯びてくる。
 別れ際、どうにか囁いたよろしくねの一言。
 今更になって、キスの一つもするべきだったのかと思い悩む。

「い、いえ……まだ早いですよね、うん」

 いつの間にか逃げるように歩は進み、頬を撫でた左手をじっと見下ろす。
 そして、その手をぎゅ、と胸の前に組んだなら、恋する乙女が一人できあがった。
 微笑みは自然と湧き出して、何ともいえない気恥かしさを胸に翼を広げる。
 群青色の中に身を投げ出して、出鱈目な風に翼を上手に乗せながら、

「――何故、私なんだろう」

 呟いて、大地を見上げるようにして落下を始める。
 閉じた瞳の代わりに、耳は風の声を、頬が気流の波を掴む。
 思うのは、彼女にとっての理想。

「私は……」

 椛の理想のままで居られるだろうか。
 呟きはそのように、風の中に消えていく。
 開いた瞳と共に漆黒の翼を大きく広げて、文は再び飛翔を始める。
 結局その日、文は一日を空の中で過ごした。
 文々。新聞、本日記者が急病の為休刊と相成る。



「……ただいま」

 悩んだ末に、帰り着いたのは椛の住処であった。
 木戸の前、言葉と共に笑顔を浮かべてみせる。
 予行演習と共に緩んだ頬は引き締めて、いざ、その戸に手をかけた。

「椛、ただいま」

 そして、戸を開くと同時に、白い影は動きを止めた。
 それは文も同じで、丁度釜戸の前に居たのか、椛と息のかかるほど近くありながらその身を硬くする。

「ど、どうしました?」
「へ、あ、いえ! おかえりなさい文様!」

 それでも、どうにか取り繕って、文は頬をかいてみせる。
 その様子に、椛は気づくどころか大慌てで、わたわたと腕を上下させていた。

「迷惑でしたか?」
「そんなことはありません!」

 思わず口に出た問いに、大きな返答が返ってくる。
 椛の背後を覗き見れば、そこには確かに二人分の食事が用意されていた。
 見下ろした姿は小さく、恥じらいながら、

「来て頂けたらと、その……お待ちしておりました」

 組んだ指を弄びながら、どうにも可愛らしくそんなことを呟くものだから。
 文はぎゅ、と抱きしめたくなる気持ちを堪えなければならなかった。
 それでも、差し出した手は引きようもなく、自然と椛の髪を梳くように撫でている。

「ありがとう、椛」
「あ――はい!」

 どうぞおあがりくださいの言葉に続いて、文は土間から居間へと上がる。
 そして、気づいたのだ、椛の姿に隠れていた晩餐の様子に。
 それは、一言で言えばお祝い事。
 小さな卓には所狭しと料理の数々。
 中央の土鍋には粥と上等な魚の炊き込みが鎮座している。
 そして、それを彩るように季節野菜と山菜の天ぷら、漬物、秋茄子の鴫焼き、銀杏の茶碗蒸し。

「あの、気づいたら作りすぎてしまって……すみません」

 それらを挟んで対面に腰を下ろすと、申し訳なさそうに椛がこぼす。
 文はただそれが嬉しくなってしまって、滲んだ微笑に言葉を重ねる。
 とても美味しそうだ、と。
 気づけば椛にも笑顔が咲いて、頬を秋らしく薄紅色に染め上げている。

「いただきます」
「はい、どうぞ召し上がってください」

 お口に合いますかどうか、そんな謙遜の言葉は一口のうちに否定してしまう。
 一品一品、残すことなく手をかけられた、実に美味しい料理の数々。
 箸を進めれば、思わず笑顔が咲いてしまう。
 その旨を残さず伝えると、僅かに照れを残しながら椛が微笑んだ。
 背後では、白い毛並みが一房揺れている。
 尽くされるというのは、こういうことなのだと文は思う。
 そして、

「とても美味しかったです。ありがとう、椛」

 礼を口にしながら、気づくのだ。
 椛の理想のままで居られるだろうか。
 その疑問は、まだ消えずに燻っていることに。







 No.04/



 恋は時に雨となり、曇った人の心を洗い流す。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。

 決意と和解から一月も過ぎた頃。
 部下の一人が持ち出した姿見を前に、椛は一つ息を吐く。
 銀板の中には知らぬ天狗が一人居た。
 白のミニドレスにはこれでもかと、デコレーションケーキのようにフリルが踊る。

「椛様可愛い!」
「こっちも! ファーで小さくてもふもふってのを押し出していこうよ!」

 ファーの長い毛が耳をくすぐって、困って見せれば部下たちの悲鳴が上がる。
 職場はいつの間にか無数の衣服に埋め尽くされて、五つの人影がキャアキャアと高い声を反響させていた。
 その中心には茫然自失の椛が一匹、次から次へと着せ替えられて目を回している。

「隊長は綺麗な白髪だから、白が似合いますね」
「小柄だからフリルが素敵!」
「凛とした整った顔立ちだもの、大人で清楚なタイプもよろしいわ」

 脱いでは着せられ飾り立て、フリルをまいてはまた足され。
 妖怪の器用さと素早さを無駄にフル活用した高速仕立てで、いくつものオーダーメイドが出来上がっていく。
 暴走する乙女達は留まるところを知らない。

「椛様、可愛くなりたいってやっぱりあの方が理由ですか?」
「うむ、文様の……為だろうか……」
「文様!」
「文様!!」
「名前呼び!!」

 ぐねんぐねんと揺れ蠢く白い影達。
 ああいつの世も、恋は乙女を別の生き物に変化させる。
 まあ、個人差はあるようだけれど。

「綺麗な髪なのですから、これからはもっと櫛を通すようにしてくださいね……妬ましい」
「尻尾もですよ、ふわふわしてますねー……取り替えたい」
「そ、そうか? うむ、分った」

 四方八方の褒め言葉に、少しの妬みに恨み言。
 それでもあるのは笑顔で、恋は長きに渡って作り上げられた壁をいとも簡単に崩壊させた。

「やはりその髪を生かすために髪飾りはシンプルに行きましょう」
「それでー、やっぱりフリルは欲しいよね」
「アクセサリーはごてごてしない清純派、チョーカーを一つで決まりね」
「ファーは譲れない! 手首に巻いちゃえ!」
「白ロリよ! 白ロリが良いのよ!」

 そんな様子で放り出された姿見の前には、前述のとおり知らぬ姿が一つあった。
 いつか夢見た、自分とは正反対の可愛い女の子。
 磨き上げられた銀板の中で、理想のそれは椛と同じ様に、恥ずかしながら右手をあげて見せた。

「あ、の……皆、どうかな?」

 すぐには言葉が返ってこなくて、椛は一人息を飲む。
 目の前には五つセットの、計十個の瞳がじっとりと椛を見下ろしている。

「恋は……」
「人を……」
「変えるものですねー……」
「羨ましい……」
「妬ましい……」

 なんとも悔しそうな顔が計五つ。
 そして、怯えたように眉根を寄せて唇を開こうとする椛に、五人はふと表情を崩した。

「かわいい!」

 その言葉は、
 その笑顔は、
 ずっと、椛には縁の無いものだと思っていた、綺麗なものだった。

「頑張ってください椛様」
「隊長の魅力でいちころですよー」
「目指せ射命丸様陥落!」
「でも、もう交際しているのでしょう?」
「惚れ直させるのですよ」

 五つの声に後押しされて、九天の滝から身を乗り出す。
 振り向いた先に、五つの笑顔がまだ消えずに残っている。

「あ、ありがとう!」
「「「「「はやくいけー!」」」」」








     /No.04



 滝へと続く清流の岩辺で、溜息が一つこぼれて滝と共に落ちていく。
 透き通った水面に手をかざし、できた影の中に文の顔が映りこむ。
 そこにあるのは、人にはとても見せられないような緩んだ笑顔。
 いつしか待ち合わせの場となっていた休憩場所に、また一つ甘い溜息が流れていく。
 示し合わせた時間に、椛の姿は無い。

「こんな顔、見せられませんねー……」

 そのことに感謝しつつ、文は緩んだ頬に手を添える。
 取り繕ろおうとすればするほどに、表情は固くなっていった。
 三度目の溜息は、重く水底へと沈んでいく。

「今日は遅かったですね、椛」

 慌てて表情を取り繕いつつ、背を向けたまま文は呟いた。
 答えはまだない。
 ただ、普段よりも遅々とした足取りで、躊躇いがちに文の背へと歩み寄ってくる。
 そして、水面に小さな影が掛かった頃、白い傘に隠れた姿が水面に映りこんだ。
 傘は戸惑いを表すように、くるくると弄ばれている。

「あの、すみません、遅れました」

 そして、少しの間を置いての言葉に訝しみ、
 振り向く中、文はどうにか笑顔を取り繕おうと思った。
 しかし、

「……どうでしょうか」

 白い傘がフリルを揺らして閉じられて、文も同じく唇を閉ざした。
 笑みに細めようとした瞳は見開かれて、目の前にあるそれを呆然と見つめている。
 フリルを目一杯に飾り立てた白のミニドレスに綿毛のような髪飾りを一つ。
 小さく開いた胸元には控えめにクロスのチョーカーが光り、露出した肩から白く伸びる腕には白いファーを袖口に巻いたシルクの手袋。
 そんな、小さな身体いっぱいに広がる純白のコンストラストが、夢と現実の境界を曖昧にする。
 実際、文は夢でも見ているのかと、一度考え込んだ。
 ただ、

「似合い……ますでしょうか」

 白の衣装に包まれながら、頬だけを朱に染めて、椛は顔を伏せて微かに瞼を震わせている。
 そんな様子を目にしただけで、夢も現も関係無く、ただ抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
 喉元のすぐ奥で、胸が今にも飛び出しそうなほどに高鳴っている。
 今すぐにでも恥じらい伏せた顔を、微かに揺れる指先を、沈黙に震える唇を全て奪いたくなってしまう。

「――       。」

 それでも、どうにか微笑んで。
 取り繕って。
 恐らくは、似合っていますよ、と囁くことができた。



 恋は時にうねりをあげて、濁流のように渦を巻く。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。







 No.05/



 背中を押されて滝を飛び出して、
 勢いのまま滝を登りきって、
 いつもの待ち合わせ場所に、椛は辿り着いた。

「今日は遅かったですね、椛」

 背中を向けた文の声に、椛の肩が跳ねた。
 同時に、大きく露出した肩に清流の涼風が当たって、対照的に熱が篭っていく。
 気づけば真っ赤な頬を携えて、傘で身体を隠してしまっていた。

――先ずはドン、と背中に抱きつきましょう!

 思い出した部下の言葉は、怖くてできそうもない。
 詰まった言葉の代わりは浅い吐息ばかりで、肝心の言葉が出てこなかった。
 知らぬうちに弄んでいた傘が、くるくると回る。

「あの、すみません、遅れました」

 長い沈黙のあと、どうにか口にした言葉はたどたどしい。
 精一杯のそれは、部下達のアドバイスをことごとく裏切るものになった。
 まあそれも、抱きつけだの服の裾を掴めだの、いっぱいいっぱいの椛に最初からできるるわけがなかったのだけれど。
 それでも、

――がんばれ!

 貰った勇気は確かに胸の中にあって、椛は躊躇いつつも傘を閉じる。
 一つ風が吹き抜けて、傘を飾り付けていたリボンが揺れた。

「……どうでしょうか」

 振り向いた文の表情は、どちらとも分からない。
 ただ椛の姿に注目して、目を見開いている。
 
「似合い……ますでしょうか」

 耐え切れなくなって出た言葉に、一人後悔を残す。
 伏せた顔に熱が広がって、固く閉じた瞼が震えているのを感じる。
 これでは魅力的とは程遠いと、椛は思う。
 文は、何も言わない。
 既に勇気は振り絞ってしまって、心の中には消えてしまいたい気持ちが燻っている。
 どきどきしていた。
 もちろん、少しの期待も確かに胸の内にあったのだ。
 その二つが喉の下でノックをしているような感覚。
 音と共に、頬に熱が昇ってくるようだった。
 そのせいで、息が詰まってしまう。

「――       。」

 その言葉は、椛にはよく聞こえなかった。
 文は微笑んでいたのに、対する椛は堪らなくなってまた顔を伏せてしまう。
 似合っていますよ。
 恐らく、そんな言葉をくれたのだと思う。
 それなのに、椛はスカートの端を握り締めるばかりで何も言えやしない。

「やっぱり、迷惑でしたか?」

 気づけば、そんな言葉を唇は紡ぎだしていた。
 褒めてくれているのに、言いたかったのはありがとうのはずだったのに、

「私のような者がこんな格好をして……迫られても、困りますよね」

 どうしようもないくらいに、

「それでも私、可愛いって、好きって文様に言ってほしくて――」

 本当に言いたかったことを、口にしてしまった。
 世界が涙で滲んで、色あせていく。
 恋で変わった世界が、崩れていく。
 焦り顔の文が、何かを呟こうとする。

「――ううん。だって文様……嘘吐いてます」

 笑顔で言った言葉は、涙で滲んでぐしゃぐしゃだった。
 駆け出す途中にこぼしたごめんなさいは、震えて言葉にならなかった。
 引き止める手は無い。
 崩れていく崩れていく綺麗な世界から逃げながら、椛は何かを呟いていた。
 小さな願いは、もはや自分の耳にすら届かない。



 恋は井戸の水のように、愚かに使えばいつかは枯れ果ててしまう。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。








     /No.05




――ごめんなさい。

 言葉が耳の中で跳ね返って、酷く気分を陰鬱とさせる。
 結局、立ち塞がることも、手を掴むことさえできなかった。
 思い出せば、何度目かの溜息が空になった杯を満たす。

「こらこら、そっちから誘った酒の席を自ら重くするなよ」
「はあ……すみません」

 目の前には徳利を向けた困り顔。
 幻想郷に生きる鬼が、酷く退屈そうに酌をする。

「いま一人酒をしたら、かなりの悪い酒を飲みそうでしたので」
「私にとっては十分悪い酒だよ、まったく」

 鬼は正直者で、ぐさりときつい言葉をくれる。
 力無い微笑を浮かべながら、文はどんよりと杯に口をつける。
 なるほど、十分に悪い酒だと、文は一人心の内でこぼす。
 酒は苦味だけを残して、心を焼くように体内を流動していく。
 正直に言えば、これほど不味い酒は上司相手にも飲んだことはなかった。

「……泣かせて、しまいました」
「その様子を見れば分るよ、悪いのがお前ってのも」

 やはり、突き刺さる言葉は正直者から。
 浮かべた苦い笑いは、きっとその言葉が苦いものだったためだろう。

「お前ら天狗はいつでも、強い者に嘘を吐くからね」
「それが――」
「お前さんの可愛がってる椛とやらは、お前なんぞよりずっと強いさ」

 ぐ、と息を飲む。
 萃香はからから、と笑いながら杯を一気に乾かした。

「あの子は恋をして強くなった。お前はどうだ?」
「私は……」
「どうにも、お前らの関係は進んでないよ、むしろ下がったと言っていい。最初の頃はもっと正直であったはずだろうに」

 酒気に染まった頬が近い。
 萃香はぐい、と文の鼻先に近づいて、酒臭い息をこぼして告げた。
 文は、それを前にして、耳を塞ぎたくなる。

「お前は嘘を吐いている」
「そうです。あの子の理想でありたいから……私は強く在らなければなりません」
「そう! それがそもそも間違いなんだ」

 次いで出たのは大笑い。
 そして、暫しの騒ぎが収まると、打って変わって萃香は呆れ顔を披露した。
 酔っ払い特有の据わった瞳で、文の揺れる瞳を覗き込んでいる。

「素直になれ天狗。それでようやく二歩下がって三歩進めるってもんだ」
「ですが、それでは私は……椛を裏切ることになる」
「とっくに裏切ってるくせに」
「そんなことはありません」
「気づかないのは性質が悪い。あの子はとっくにお前の本当に気づいているのに、それを好きになったというのに、お前がそれでは確かに泣くさ」

 文の言葉に、萃香は揺るがない。
 それは山のように譲らず、山のように重く、文の前に立ち塞がっている。
 そして、

「お前、まだ泣かせた理由に気づいていないな?」

 文は一番の急所を突かれたような気がした。
 言葉に思わず肩が跳ねる。
 伏せた顔は歪んで、
 
「ふん、自覚があるなら考えてみろ。まだお前、あの子に好きって言っていないだろう?」
「……萃香さん、まるで見ていたように言いますね」
「――あ」

 もう一度上げた顔には、笑顔があった。
 視線を逸らそうとする萃香の瞳を、今度は文が覗き込んでいた。

「その小さくなった角の残りは、何処を見ていたのでしょうか」
「……まあ待て、その残りが耳寄りな情報を見つけたぞ」
「なんです?」
「ああ、お前さんの“大切”が大ピンチだ」

 一つ風が吹き抜ける。
 萃香は一人笑みを浮かべて、真昼の太陽を見上げて呟いた。

「最初からそうすればいいんだ。恋も人も、素直で正直が一番さ」

 思えばそれは現実から逃れようとした虚言で、

「あら萃香、何処へ行くのかしら?」
「……いえ、別に」

 きっと見ていた神様が、天罰を下したのだろう。

「別に……そう別に。昼から酒臭くなって、ようやく直った神社の屋根を随分素敵にしてくれて、別に」
「分った霊夢。ちゃんと直すから――」

 まったくもって、痴話喧嘩に巻き込まれるのは損ばかりだと、萃香は小さく呟いていた。
 遥か遠く空の上、頭の中が椛色の文には素知らぬお話。

「――だから、その物騒な霊符をしまってくれないかい?」
「灸を据えるわ」



 恋は時に枯れ果てて、それでもまた湧き出すものだ。
 そんなことを語ったのは誰だっただろうか。

「まったく、いいこと言うもんだ」

 現実逃避は儚く、博麗神社に光の柱が突き刺さるのは刹那の内の出来事であった。








 No.06/



 心のままに喚き散らしてしまった。
 そんな後悔の念が今、椛を苛んでいる。

「……ぐす」

 袖を通したのは普段の装いで、脱ぎ捨てた白いドレスは椛の胸の中で涙を吸っている。
 何を、勘違いしていたのだろうと、椛は思う。
 何でもできると思った。
 可愛くだってなれると思った。
 それなら、文はどうなのか。
 そんな気持ちを押し付けて、迷惑でない筈がないというのに。
 いつの間に舞い上がっていたのか。
 思えば最初から、文は付き合ってくれていただけなのに。
 椛の想いを、寛大にも許してくれていただけなのに。

「私は……自分のことしか見ていなかった」

 最初から、願っていたはずなのだ。
 好きであるのは、自分だけでいいと。
 一緒に入れるだけで、十分なのだと。
 まったくもって愚かしい。思いながら、ぎゅっとドレスを抱き潰す。

「……最低だ、私」

 自らに向けた苦言はそのとおり、思い上がった愚か者を表している。
 ぼろぼろの心に白いドレスは眩しくて、椛はそれを手放した。
 それでも、皆の想いを捨てることはできなくて、部屋の隅に小さく畳まれる。
 それはまるで、心の中に残った想いのように、

「駄目だな……私は」

 振り払おうと首を振っても、消えてはくれない。
 いつからこんなに弱くなったのか、再び滲み出した涙を擦って椛は思う。
 好きという気持ちが、その分だけ大きかったのだと椛は気づいていない。
 そして、

「戸を開けてみれば、あまり見たくない顔が居たものだ」
「よぉ、詩人! 悪いが通してもらうぜ!」
「侵入者め、悪いが今日の私は機嫌がよくない! あと詩人って言うな!」

 気づかぬまま、椛はそれを振り払おうと剣を構える。
 それを振り払うことなんて、決してできないというのに。

「なんだ、怒るなよ。正直私は感動したんだ――」
「うるさいっ!」
「――ぜ。仕方ないな、悪いが先を急ぐんでね」

 飛び出した空は青くて、少しだけ目に沁みたのだと思う。
 空の青の中に涙が散って、椛は魔理沙の魔法を目前に呟いた。

 しかし、恋は時に薄氷のように儚くもある。
 そんなことを語ったのは誰だったろう。

 共に出た誰かの名前は、きっと誰にも届かない。







     /No.―



 おっす、私魔理沙。
 地霊殿もようやく一段落して、今日は風神録のおさらいにやってきたわけだ。
 鬼神級をクリアした今の私に、ブランクがあるとはいえどたかがNormal。
 ノーミスで残機は五つ、これはもう楽勝と高を括っていたのだ。
 中ボス天狗も良い具合に霊撃二つである。

「侵入者の報告で来てみれば、まさか貴方とは……」

 そして、言葉と共に衝撃はあった。
 油断したという反省と共に、私は微かな違和感を感じていたんだ。
 そして、気づいた。

「残念、私は侵入者を追い返しに来たのよ」

 カード宣言をする前に言っておくッ!
 私は今やつの弾幕をほんのちょっぴりだが体験した。
 い、いや……体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが。
 あ、ありのまま今、起こった事を話すぜ!

『私は奴の弾幕にピチュったと思ったら、残機が五つから一つになっていた』

 な、何を言ってるのかわからねーと思うが、私も何をされたのかわからなかった。
 頭がどうにかなりそうだった。
 バグだとかLv3レーザーだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
 もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。

「とりあえず、その棒読みのセリフは止めたらどうだ?」
「ほう、そんな話、誰から聞いたのかしら?」
「……無視かよ」

 見上げた姿に、いつもの嘘くさい微笑みは無い。
 見下した態度も、下手に出る様子も感じられない。
 黒のミニスカートを翻し、ブラウスを強風に揺らしながら、射命丸 文はそこに居た。
 その手には、先ほど撃墜した椛の姿がある。

「私は、貴方を通す訳に行かないの」

 滝を登りきった大空には、大きな壁がひとつあるだけだった。
 大気は文を中心に渦を巻き、それに伴って空気を裂く轟音が響き始めている。
 いつしかできあがった竜巻の中、額にこぼれた冷や汗が一瞬にして強風の中に散っていく。
 決死結界を持ってしても、生きていられるかどうかと悩む私を前に、文は単調に言葉を続けた。

「私があっさり通しちゃったら“見回り天狗”も納得がいかないからね」

 その様子に、思い出したのは薄暗い境内での言葉。
 やれ詩人めと囃す声。
 しかし、恋を知るものは、誰一人としてそれを笑わなかった。
 霊夢も、アリスも、咲夜も、小さな妖精に始まり、永遠亭の詐欺兎でさえも。
 そして私も、笑うわけがなかった。
 あの言葉に深く頷き、この詩人めと酒を勧めたのは、他でもない私なのだから。
 だから、分る。

「なんだ、結局両想いだったんじゃないか」

 今の文に、どんなことをしたって勝てるわけがないということが、はっきりと。

「少なくとも、私の一番大切なのはこの子です」
「それなら、私の負けだ」

 薄くつり上がった唇を目にして、私は呟く。
 そこには、目の前の惚気女郎に少しの皮肉を込めて、

「それよりどうするんだ。毎回これじゃ身が持たないぜ」
「これからはこれが仕様です。そもそも、妖怪の山に麓の者が立ち入るものではありませんよ」

 吐き捨てるように言った言葉も、微笑と共に返される。
 そして、

「さあ、手加減なんてしませんから。本気で掛かってきなさい!」

 恐らくは、ルールを無視した弾幕で、恋する少女の全力が私を貫いた。
 ああ、でもちょっと待て。
 せめて、カード宣言くらいはしよう――ぜ。



 恋は時に刃のように、岩をも断つ力強さを見せる。
 そんなことを語ったのは誰だったろうか。

「まったく……厄介だぜ」

 呟いた言葉はあまり、冗談っぽくはならなかった。








 Ending/Epilogue




 白濁と推した意識の中、温かい手が私の頬を撫でた。/
/穏やかな風に包まれて、私はそっと冷たい頬を撫でた。

 心地よいその感触に、薄く目を開く。/
/すると、瞼が微かに震えて、薄く開いた瞳と目が合った。

「……文様」
「おはようございます、椛」

 優しい笑顔が、こんなにも近い。/
/失くした微笑みが、こんなにも近い。

 だから、これは夢なのだと気がついた。/
/だから、先ほどまで陰鬱とした気分が夢のように思えた。

「ごめんなさい」

 呟いたのは、私のはずだった。/
/呟いたのは、確かに私のはずだったのに。

 文様は顔をくしゃくしゃにして、私を覗き込んでいる。/
/椛はぼんやりと、不思議そうに私を見上げている。

「文様、私……舞い上がってしまったようです」
「……椛」
「文様はきっと、気を使ってくださっただけなのに……」
「違うんです、椛」

 強く、文様は私の肩に手を置いた。/
/強く、椛を捕まえるようにして肩に手を置いた。

「私は、あなたが好きだったのです」

 突然の言葉に、私は言葉を忘れたように押し黙ってしまった。/
/返答は無い。それも覚悟はしていた。

 鼓膜を揺らした音を、白濁とした頭が理解してくれない。/
/一度はこぼれ落ちてしまったものを、簡単に掬い上げられるとは思っていない。

 それでも、/それでも、

「ずっと、理想と同じ姿で居たくて……言えなくて。私はずるくて、あなたの気持ちを一方的に知って、利用しました」
「あの……」
「嘘を、吐いていました。大好きな……あなたに」

 次の言葉は、はっきりと私の心が聞き取った。/
/精一杯の言葉は、順序もばらばらな拙いものになってしまった。

 喉の奥で、きゅ、と音がした気がした。/
/それが情けなくて、薄く涙が滲んでしまう。

「文様、それは……本当でしょうか」
「はい、本当です」
「私のこと……好いてくれて……あの」

 気づけばぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。/
/気づけば椛は泣いていて、罪悪感に胸が痛む。

 それはまるで、幸せな気持ちがあふれ出しているようで、/
/何をしたって、償えないと思う。

 自然と、手は伸びていた。/
/突然、椛の腕が私を引き寄せた。

「私、嬉しくて……ごめんなさい、私大好きで、文様が好きって言ってくれて……どうしよう、私」
「…………へ?」

 言葉にならない感情がもどかしかった。/
/予想外の反応に、思わず声が漏れた。

 ただ、/ただ、

「大好きです、文様」

 その言葉だけは、はっきりと言えた。/
/その言葉に、ようやく気持ちは通じ合ったのだと理解した。

 私は薄く、瞳を閉じる。/
/瞳を閉じた彼女に、自然と身体は動いた。

――こつ。

 ぶつかった歯の小さな痛みに、ようやく私はこれが夢でないことを理解する。/
/ぶつかった歯の小さな痛みに、取り繕っていた理想が音を立てて崩れていく。

「格好がつきませんね……」
「そんな文様が、私は好きですよ」

 朱色に染まった頬が、何よりも愛おしい。/
/椛の凛々しい横顔に、微笑が滲んでいる。

 もっと、文様の可愛いところを見せてほしいと思った。/
/気づけばぎゅ、と抱きしめられて、思わず顔を伏せてしまう。

「なんだか、いきなり攻めっけたっぷりですね」
「そうでしょうか」

 頬を膨らませて、腕の中から文様が声をあげる。/
/澄ました顔で、椛が忍び笑いをこぼしている。

「……文様」
「うん」

 ねえ、文様/ねえ、椛

 可愛らしいあなたも、格好良いあなたも、/
/凛々しいあなたも、可愛らしいあなたも、


「大好きですよ」
「はい、私も大好きです」


 ずっと愛していますからね。/ずっと愛していますよ。









 了

 恋は水に似ていると、詩人は言った。

 /

 「好き」その言葉だけは駆け引きも嘘もなく言いたいですね。
 些細なことですれ違うのですから、まめに「好き」でピントを合わせましょう。
 恋という湧き水は、ちゃんと繋がっていなければ伝わらないのだから。

 そんな、おはなし。

 此処までお読み頂きありがとうございました。
眼帯つけた兎さん
http://arukadesu.hp.infoseek.co.jp/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2008/10/05 07:07:23
更新日時:
2008/11/07 22:37:50
評価:
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5.00
1. 8 慶賀 ■2008/10/05 13:18:43
テーマは恋ですよねー。なんと色気のある文章を書くのかと。
あぁもう畜生めぃ!みんな大好きだ!
2. 3 小山田 ■2008/10/07 10:21:08
甘い酸っぱいはあまり関心がないので、SSとしての評価点はこうなります。
恋愛小説としてみればあまりにありがち。読者を最後まで飽きさせないひねりがほしかったですね。
3. 6 佐藤 厚志 ■2008/10/09 07:28:41
甘くて虫歯になりそうです。参ったなぁ。
最初の『私の中に小さな井戸ができた』という表現がとても好きですね。
4. 7 yuz ■2008/10/12 15:37:05
甘い。死ぬ。
5. 10 三文字 ■2008/10/12 21:49:18
うがああ!甘いいいいい!!可愛いいいいい!
初心で自信がない椛が可愛過ぎて可愛過ぎて、ニヤニヤが止まりませんでした。ええ、モニター前でずっとニヤけてましたよ。
あと、部下の哨戒天狗達も良い味出してました。こういう、姦しい部下に玩具にされる上司っていいよね!!
詩的な文章も合わさって、本当に良い百合が見れました。
6. 8 カプチーノ ■2008/10/12 23:55:27
甘酸っぺー!!でもそんな二人が好きだー!!
7. 7 神鋼 ■2008/10/21 19:30:50
いやもう椛可愛いなあ!!文はヘタレだなあ!!
二人のすれ違いにやきもきさせられる分だけ終盤への期待が高まっていく作品でした。
8. 8 deso ■2008/10/23 22:47:57
甘い! これは甘い!
転がりまくりました。おのれ、バカップルめ!
お幸せに!
9. 4 詩所 ■2008/10/26 20:45:45
文中では”水のよう”と書いてあってもイマイチイメージが湧きにくかったです。
水が無くても話として成り立ちそうですし。
10. 2 ミスターブシドー ■2008/10/27 00:56:45
キャラは可愛く書けているような気もするが、百合前提というのは如何なものか。
あと視点が違うのに同じシーンが二回出てくるのもか。どうか
同じシーンを違う側面から見ている、という演出なのは分かるが、話が逆行したように感じられて効果的に使えているようには思えなかった。
定番スイーツかもしれんが好みの味ではない、とかそんな感じを受ける。
11. 8 PNS ■2008/10/29 00:24:09
ぬああああ!! 甘くていい話なのに! 
空気を読め、魔理沙! メタ発言で一気に現実に引き戻されて吹いただろうが!w

Noごとに、一つのエピソードがそれぞれの心情で描かれているのがうまい。
読んでいて頬が緩みました。ご馳走様です。
12. フリーレス 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:39:11
いくら期限が無かったとはいえ校正も構想も半端。
中身が薄く、テーマを愛という言葉で誤魔化している。
所々の展開が抜け落ちている雰囲気。
他の作品として採点するなら1〜2点。精進。
13. 1 つくし ■2008/10/30 21:55:23
 特に前半、時系列がごっちゃごっちゃでしかも繰り返しが多いため何がどうなってるのやらさっぱりわからなくなってしまいました。二つの視点から語るのですから視点と語るべきことを整理しないとものすごくわかりにくくなります。あと、これだけ詩的なお話でゲームとかのメタな要素を入れてしまうとちょっと冷めてしまいます。「おっす、私魔理沙」はないわぁ……。
14. 7 じらふ ■2008/10/31 21:46:13
マスター、あそこの二人に特大袋入り砂糖を私からの奢りで。
テーマの使い方も綺麗で素敵な作品であった分、No.―の文体とネタ具合が浮いてしまっていたのが残念だった気がします。

ああ、しかし椛も文も可愛すぎてたまらないなあ…二人とも好き、大好き! と駆け引きも嘘もないけど邪な欲望を多量に込めて主張しとこう(笑
15. 7 リコーダー ■2008/11/01 09:19:01
これは巧みな技。
カップリング要素を別にして(するな?)、文章を色々つき合わせるだけでもニヤニヤ出来るっす。
16. 1 今回は感想のみ ■2008/11/01 14:43:22
直球なのに、あんまり悶えられなかった。
というか、周囲の反応も含めて気持ち悪くてちょっと辛くなったかも。
また、スラッシュで小細工する前に、もっと基本的な文章の技量と構成、演出方法で勝負してみてはいかがでしょうか。
17. 6 八重結界 ■2008/11/01 18:47:59
最後の試みは面白かったけれど、読みにくさが先立ちました。
天狗も人間も、恋に不器用なのは変わらない。どこか安心するような、不思議な話です。
18. 5 藤ゅ村 ■2008/11/01 20:17:47
 恋は人を変えるっちゅうけれども。乙女な椛可愛いよ。
 文目線、椛目線の文章が交互にずっと続いていて、どちらも説明したいのはわかる気もするけど、ひとつの事柄を二回描写しているのは単純にくどい。分量も増えますし。明らかに説明しなくていい部分(心情的な部分じゃなく、情景的な部分)まで繰り返しているので、余計に。
 もふもふしたいなあ……
19. 7 木村圭 ■2008/11/01 22:01:40
二つの視点から描かれる一つの物語、は大好物でござい。
前半で読めてても二人がすれ違う様は胸が痛みました。始まる前からハッピーエンドが確定していてもやっぱり嬉しくなりました。
順路通りに進んで以下略。存分に楽しませていただきました。
ただ、魔理沙がメタだったりポルナレフだったりするのは少しばかり空気読めてない気が。好みの範疇かなぁ。
20. 7 blankii ■2008/11/01 23:12:06
『恋』だ。間違いなくコレの書かれているのは『恋』なんだ。

などと寂しいひとりものでさえ恋について語りたくなるくらいに、ダダ甘っぷりが心地良い今作でした。ふたりの心情をしっかりこってり描写してくれているお陰で、こちらも置いてけぼりを食らわずに済んだのが大きいのかなぁ、と。
21. 2 つくね ■2008/11/01 23:44:02
甘――――い!! しかしちとお題は弱い。採点は辛め。
22. 6 時計屋 ■2008/11/01 23:51:48

なんという甘酸っぱいSS。
駄目だ、こういう恋する少女のモノローグ的なものはとても素面では直視できない。
しかし裏を返せばこっちが赤面してしまうほど出来が良かったということ。
甘過ぎて食べられないよとかこぼしておきながら結局は完食です。いろんな意味でごちそうさまでした。
23. 2 Id ■2008/11/01 23:54:51
色々と構成に工夫をめぐらせたようですが、他の方はともかく私に関しては裏目に出たようでして。時間軸がむやみに前後するため展開が悪戯に複雑、また誰の話かなどもわかりにくい、最後は読みにくい。内容も読み終わったら惚気られた感しかない。構成より、もう少し内容の工夫に重点を置くともっとよい作品になると思います。
24. フリーレス 眼帯つけた兎さん ■2008/11/04 22:36:55
皆様お疲れ様でした。
また、感想ご指摘を頂き、ありがとうございます。
今回は本当に反省する点が多く、有意義な時間となりました。
微々たるものですが、コメントレスにてお気持ちに応えられたらと思います。

>Idさん
返す言葉もありません。
自分でも思うのですが、視点の重複化は失敗でしたね、あはは。
内容については馬鹿馬鹿しいほどに惚気ている話にしていましたので、そうなるのは想定内でした。本当に性質が悪いですね。
書きたいことを書いてしまった本作品は本当に反省すべきものとなってしまいました。
そんな中、貴重なご指摘ありがとうございました。

>時計屋さん
おそまつさまでした。
自分の妄想と相性が良かったようで何よりです。
改善する点も多いのですが、完食ありがとうございました。

>つくねさん
うう、耳が痛いです。
水? 全ては愛で語れるんだよ! とか言ってたあの日の自分を殴りたい。
ご指摘ありがとうございました。

>blankiiさん
自分の中の「恋」をそのまま垂れ流したようなものになってしまいました。
今回、多視点による読者とキャラクターの溝を想定して内面を濃くしようと思ったのですが……うーん。
もうちょっと肉をつけたほうが良かったか、くどすぎるのも微妙か、判断が難しいです。
ともあれ、嬉しいご感想ありがとうございました。

>木村圭さん
自分もとある本から多視点に魅力を感じ、本作品をテストとして書かせていただきました。
本当に、難しいものです。はっきりと言うと読者を飽きさせてしまった点が大きい。
それと、メタについてはものすごく後悔、反省しております。
申し訳ないorz

>藤村さん
ご指摘の通り、くどいものとなってしまいました。
多視点を描くにあたって、自分の技量の拙さが主な原因であります。
情景部分は確かにくどい。文脈を微かに変化させるのではなく、削るべきでしたね反省。
お読み頂き、苦痛に思わせてしまった多数の方に申し訳ない気持ちです。
しかし、やはりこうしてお読みいただけたのは嬉しい限りです。
ありがとうございました。……もふもふしたいなあ。

>八重結界さん
うう、失敗でしたねー……申し訳ないです。
恋の切なさと上手くいかないリアリズム。それでもハッピーエンドな喜劇を感じていただけたら幸いです。
ご感想、ありがとうございました。

>今回は感想のみさん
うはあ、やはり気持ち悪い部分がありましたか。
確かに部下の反応など、幻想郷のキャラクターとしてどうなのかと少し悩みました。
読むのが苦痛なSSとは本当に最低ですよね。申し訳ないです。
後半部分については反省中です。耳が痛いですね、あはは;
拙い作品をお読みいただいた上に貴重なご指摘、本当にありがとうございました。

>リコーダーさん
ありがとうございます。
キャラSSとしての評価を全面的に狙ったものであり、姑息かもしれません。
ただ、二次創作において力を発揮するのがキャラSSだと思っているのでそのように感じていただけたなら嬉しいことこの上なく思います。
ご感想、ありがとうございました。

>じらふさん
メタネタについては猛省中であります。申し訳ないorz
邪な欲望だって? 僕も便乗させてください!
ともあれ、ご感想頂きありがとうございました。

>つくしさん
ほんと、ないですよね……あはは。
多視点について貴重なご指摘ありがとうございます。
語るべきことの整理……今後の課題として受け止めさせていただきます。いやはや仰るとおりで。
メタネタについては読者を飽きさせないためにと挿入しましたが完全に失敗しました。
もっと作品全体の雰囲気を見る目が必要ですね。鳥目過ぎる、きっとみすちーの仕業。
こちらの不手際でご不満を抱かせてしまい申し訳ないです。
また、このような作品を最後までお読みくださってありがとうございました。
そしてなにより、貴重なご指摘をありがとうございました。

>PNSさん
空気読んでよ魔理沙! いや、僕か! 本当に台無しだよ!
と、すみません。少し取り乱しました。本当にありえない。
多視点に挑戦してみた今作において読みづらい場所が多々あったと自省しております。
そんな中、温かいというコメントは何より励みになります。
ご感想、ありがとうございました。

>ミスターブシドーさん
百合前提については正直に申しますと情けないのですが。
「オリキャラを出して皆に納得して頂く技量が足りなかった」
この点が大きいです。オリキャラに感情移入するにあたって必要な説明文。こちらを短く詩的な雰囲気の中で飽きさせずに出来るか……今後の課題です。現時点の自分ではきっと酷い有様になっていたでしょうね。
また、ご指摘の通り多視点を上手く扱えていませんでしたね。申し訳ないです。
貴重なご指摘、ありがとうございました。

>詩所さん
確かに「水」は無くても話は成り立つように思います。
しかし、そこを水にするからこそ今回のお話だと思っております。ダメですよね、あはは;
恋を水に例える。その情景や心地よさを伝えられなかったのは私の拙さ故でしょう。
もしくはただ単にテーマ処理が駄目だったのか。どちらにしても技量不足です。反省。
テーマ処理は毎回難しいですね……精進していきたいです。
ご指摘ありがとうございました。

>desoさん
もう時間無いから馬鹿みたいに甘いのを書いてやる!
という意気込みでした。妄想の中には劣るのですが、そう感じていただけたのなら幸いです。
もうほんとうにバカップルというか、読者にとっては惚気話を聞かされただけに過ぎないという性質の悪さ。
本当に酷い。自分の趣味です、すみません。
ご感想ありがとうございました。

>神鋼さん
狙った部分にご感想を頂くと嬉しいものですね……あはは恥かしいなぁ。
ただ、拙い部分も見えてきて唯今反省中であります。
そんな中、嬉しいご感想をありがとうございました。
これを励みに、以後精進していく所存です。
いつかまた機会があれば、もう少し質の高いお話をお送りできれば幸いです。
ご感想ありがとうございました。

>三文字さん
貴重な満点をありがとうございます。うわあまいった恥かしいな。
部下達に関しては不安の残る所でした。上ではやはり不満の声もあり反省中です。
ただ、やっぱりこういう可愛いらしいものが自分の好みのようです。趣味が合ってよかった……。
ご感想ありがとうございました。

>yuzさん
ひたすらに甘い物語を書きたかったので、ご感想頂き嬉しく思います。
今後の改善点など多くありますが、ひとまずはありがとうございました。
精進を続け、次はもっと良い作品を仕上げたく思います。
ご感想ありがとうございました。

>佐藤 厚志さん
詩的な表現、というのを目指しているのですが、お褒めの言葉をありがとうございます。
以後精進して、もっと質の高い作品を書き上げたいです。
ご縁があれば、次はもっと精錬された作品にてお会いしたく思います。
ご感想ありがとうございました。

>小山田さん
ご指摘、耳に痛いです。
ありがちなSSを書くにあたって、読者を飽きさせてしまうのは本当に愚かしいことだと思います。
ひとひねり、難しいですね。以後の改善点として、精進して行きたく思います。
貴重なご指摘をありがとうございました。

>慶賀さん
テーマは恋。水が薄すぎたかもしれないうぼああ。
文章から色気や惚気を感じて頂けたら幸いです。以後精進。
ああ、嬉しい感想だなあ……これを励みに改善点を模索し次はもっと質の高い作品にてお会いしたく思います。
ご感想、ありがとうございました。

さて、以上を持ってコメントレスとし、皆さんへの感謝とさせて頂きます。
今回は本当に勉強になるコンペとなりました。
皆様に頂いたご感想、ご指摘は何よりの宝物です。
またご縁があれば、次はもっと質の高い作品にてお会いできればと思います。
本当に、ありがとうございました!
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