青い鳥の物語

作品集: 最新 投稿日時: 2008/10/05 08:19:21 更新日時: 2009/02/08 00:46:18 評価: 0/0 POINT: 0 Rate: 5.00
 私は不運を抱えながら生まれ落ちた人間だと、自分の事を解釈していた。と云うのも、これまで生きて来た中で幸運だと確かに自覚する事の出来る事象に遭遇しなかったからである。他人には只の悲観的で鬱陶しい人間だと思われるのは必至だろう。しかし、私は自分の事をそう解釈せずには生きられなかった。

 私はある農家の長男としてこの世に誕生した。決して裕福ではない。寧ろ貧困層に属する家庭であった。私がその家の長男として生まれた時から、人間に存在する運命と云う物は、一直線に私の未来を走っていたのだろう。農家を継ぐ身として、拒否権を許されない人間として、私は生まれたのだ。両親は元よりそのつもりで私を育てたし、勉学を学ぶ金も無く、私は文字よりも先に農家の仕事をこの身に覚えた。それがどれだけ理不尽な運命だったかは、当時の私は知らなかった。束縛される事が当り前のような見解を持ち、私は生かされるべくして生かされて、死せるべくして死ぬのだと思っていた。つまりそれは、私と云う列車が運命と云う線路の上を何の滞りも無く走って行くと同義であった。

 だが、それは当り前のように間違った見解であった。当時の私の友人にKと云う男が居た。無論本名では無い。便宜上を弁えた偽名である。そのKと云う男は、私に自由と云う物が何たるかを講義した。曰く、何物にも縛られず、世の中の常識に外れない程度に好きな事をする権利。曰く、毎日に享楽を見出して生きると云う生活上の習慣。私がKと出会った十六歳の時に、私はその言葉に対して形容し難い憧憬と嫉妬の情を感じた。Kはその自由を謳歌していた人間であったから、殊更に私はその自由と云う物が羨ましくなった。Kは私と比べて裕福な家に生まれ落ちた人間で、運命と云う概念を知らぬ者だったからである。彼は毎日笑っていた。そうしてその笑みを崩す事なく私と接していた。

 しかしそのKも、決して逃れ得ぬ死の運命にだけは屈したと見えて、二十歳を跨ぐ事なくその短い生涯を終えた。当時村に流行っていた性質の悪い肺病がその元凶であった。不治の病として人々に恐れられていたその病は唐突に彼の肺を蝕み、一か月と過ぎる事なく尊い命を奪って行った。
 Kの死に際を私は知らない。元来が、畑で農作業をしている私を見付けたKが気紛れに私に話し掛けて始まり、それだけで続いていた希薄な関係であったから、私は彼の在住している場所や、詳しい家族構成などの悉くを知り得なかった。それだから、私がKの葬儀に出向く事も無い。突如として私の元を訪れなくなったKが死んだ事を、風が乗せて来た噂のみで知ったのである。無論彼の死を悼みはしたが、だからと云ってとてつもない悲しみに襲われるでもなく、私は平生の通りに農作業をするだけであった。

 Kと友好関係があった短い期間の間で、私は今でも只一つだけ覚えている事がある。彼がどのような顔付きをしていたか、彼がどのような口調で物を云うのであったか、はたまた彼がどのような服装をしていたか、どのような表情を見せる男であったか、最早朧げにも思い出せない私は、それでも彼の云った句の一節を未だに覚えている。
 私が農作業を黙然と続けていたある日、Kは何時ものように私の元に遣って来て、畑と道路とを隔てる柵に体重を掛けながら、作業を続ける私にこう云った事がある。

 ――お前はまるで、籠の中の青い鳥だ。

 当時、私は彼の諧謔とも罵言とも解釈出来るその言葉に対して、渇いた笑いを零しながら違いないと云った。心の内では、飼われている鳥どころか他者に操られている繰り人形のようだとも思った。私が自分の意思を他者に伝えず、云われた事を黙々と熟す性格であったのも手伝って、我ながら自分に対する批評にこの上なく適切な形容だと思った。
 Kはともすれば侮辱とも取れるその発言を受けた私が、只渇いた笑みを零すだけであるのを不服に思ったのか、もしくは情けないと思ったのか、その日はお前はやはり飼われる鳥だよ、と云って立ち去った。私は振り上げた鍬を柔らかい土に突き刺すのみで、彼に別れの挨拶を送る事もなく与えられていた仕事を続けていた。何処か、冷たい風が頬を撫でていた気がする。恐らくそれは、人形の関節が隙間だらけなのと同じように、空虚な心に吹いた彼の冷笑であったのだろう。

 Kが死んだ今となっては、私に彼の発言の真意を知る事は到底叶わぬ夢となったが、妙に私の記憶の中に色濃く残るその発言を、私は時折頭の中に思い浮かべては、思い出す事も出来ない男の顔を勝手な想像で創り上げて、どのような心持であのような事を云ったのか、暫く考えてみる事がある。そう云う時には必ず、外界から齎される私への干渉を一切絶ってしまうから、一人で何かについて思案する様子を見せる私を細君はよく注意する。細君に肩を叩かれて漸くこの世に舞い戻る私は、決まって告げられる細君の「そんなに呆けていると幸福が逃げますよ」と云う言葉を聞いて苦笑する。そうして何事も無かったかのように、仕事が残っている時にはそれを熟し、何も無い時には酒を飲んでいた。
 かく云う今も、私は細君が注ぐ酌をこの手に受け取っている。決して高い酒ではないが、一日の終わりに程よい倦怠感を紛らわせてくれる安物の日本酒は私にとって最大の贅沢であった。

「今日はまた、一段と呆けているようですね」

 猪口に注がれた酒を飲み下す私を見て、細君は困ったような微笑を浮かべながらそう云った。そうして、居間の隅で何やら遊んでいる、まだ五歳になるばかりの息子に早く寝なさいなと云い付けた。幼い息子は既に掛けられていた寝なさいと云う命令を今まで断っていたが、とうとう細君の剣幕に恐れを成したのか、それとも眠気が遣って来ていたのか、大人しく寝室に下がって行った。細君はその間に無くなってしまっていた私の猪口に新たな酒を注いだ。

「大分耄碌したみたいだ」
「何を仰いますか。まだまだあなたは若いじゃありませんか」
「そうだろうか」
「そうですよ。馬鹿な事仰らずに、今日はもう寝たら如何ですか」
「そうしよう」

 私はそれきり、猪口を細君に手渡して、微醺に覚束なくなった足取りで息子が既に寝入っているであろう寝室に向かった。寝室には、息子が静かな寝息を立てて私の予見した通りに眠っている。私は息子の隣に敷かれた煎餅布団に身を横たえて、自らも目を眠った。暗い闇が視界を覆い、まだ遣って来そうにない眠気を自ら誘っていたが、睡魔が訪れる機会は中々訪れず、仕方なしに私は先刻中断させられた思考の継続を図った。

 私は自身を不幸だと解釈する卑屈な人間である。だが、現在の私の生活をもしも見物する者が居たとしたら、余程の事が無ければ私がそうやって自身を卑下する人間だとは思わないだろう。餓えに苦しむ者ならば、私を全力で殴り付けるかも知れない。良妻と云って差し支えない細君を家に向かえ、健康な一児を設けているのだから、それは当然と云うものだ。だが、私はそれでも自身への批評を変える事は無いだろう。根拠などは無いが、私には私が走る線路の先を、何処まで遠く眺めて見ても真直ぐに続いているようにしか見えないのである。しかもその線路がやがて見えなくなる地平線には、不吉な光を放つ月が悠然と浮かんでいるのである。これは私の行く末を暗示する物に他ならないのだ。

 細君は兼ね兼ね決まっていた私の許嫁であった。双方共に裕福ではない家庭ではあったけれども、互いに仲の良い関係を持っていた家庭であった事に加えて、どちらも農業を営む家柄であったから、私と細君とが結婚する事は両親達にとって利益を齎しこそすれ、不利益を齎す事などなかったからである。細君が私の許嫁なのは、私が生まれて来た時から決まっていた事であると後に父親に聞かされた。私は何ら不評を零す事なく、運命の線路が敷かれるままにその上を駆けて行くのみであったから、世の移ろいに身を任せるが如く細君との婚約を受け入れた。

 そうして直ぐに健康な息子を授かり、安穏とした日々を送っている。傍から見れば私達家族は如何にも幸福な家庭だと判ずるのに何の抵抗も無いだろう。無論私は細君を愛しているし、私と細君との間に授かった息子の事も愛している。のみならず、こうして多少の貧困はあれど、大した支障もなく日々を送っている事に対して両親や義父母に対して感謝もしている。にも関わらず、私は元来より持っていた自分への批評を改める事はないのである。私は自分の中に存在するその評価に対する姿勢を批評すると、これもまた運命の線路が成す事象なのだと解釈する都合の良い人間であった。
 ――そこまで思考に溺れた所で、急激に睡魔に襲われた。
 私は睡眠には邪推な思考を打ち切って、それきり深い眠りに就いた。


 翌日の朝、私は覚醒し切らない頭を提げて温もりの残る掛け布団を退けた。息子はまだ眠っている。二月の半ばに差し掛かったこの季節は容赦のない寒気が蔓延るので、私は息子の寝相によって乱された掛け布団を胸まで掛け直してから寝室を出た。細君は既に起きて朝食の準備をしていたようであったが、私が起床するのを見るや否や、ほとほと困った様子で私に寄って来た。私はそのような様子の細君に対して事情を聞いたが、その内容は確かに重大な事件であった。
 要約すると、料理を拵える時にも暖を取る時にも必要な、生活するに当たって無くてはならない物である薪が無いと云うのである。今朝暖を取る為に使ったら、それが最後だったようで朝食を作ろうと釜戸に近寄った所で気付いたらしい。それだから、何時もは既に用意されている朝食は食机の上に並んではいなかった。醤油を入れた容器と、塩を入れた容器とが、虚しく鎮座しているばかりである。

「困ったわ。これじゃ朝食も作れないわ」

 細君が私の前で挙動を不審な物にしている。私は袂に手を入れて暫くの間どうするべきか黙考していたが、やがて袂から手を出すと細君に着替えを用意してくれと頼んだ。そうして今から近い山に行って薪を調達してくると告げた。細君はそれを聞くと、解り易く狼狽えた。と云うのも、我が家から一番最寄りの山は誰もが恐れる妖怪が潜む危険な山なのである。普段は手間を掛けてでも他の山に薪を調達しに行くのだが、息子と細君の為にも私は早く薪を調達しようと思ってそう提案したのだった。云うまでもなく、細君は血相を変えてその提案を棄却した。

「何を仰るの。あんな危険な山に行くだなんて」
「なに、心配は要らない。朝方なら妖怪も眠っているだろう」
「それでも万が一あなたが妖怪に喰われようものなら取り返しが付きません」

 細君の反論は私が後ずさってしまうほどの迫力と熱意があったが、私はお前と息子の為だと根気よく説得して、十分ばかり粘った末に漸く細君を説き伏せるに至った。細君はそれでも不承不承した態度であったが、私の着替えを持ってくるとお気を付けて下さいよ、と心配の色が濃く浮かぶ漆黒の瞳で私を覗き込んだ。
 私はもう一度心配は要らないと云うと、着替えを手早く済ませて、薪を纏める為の縄と薪を切る為の鉈を手にして、寒気蔓延る二月の空の下へと身を投げ出した。太陽は出ているものの、雀の涙にもならない光を提供しているばかりで、私の身体を暖めるのには遠く及ばなかった。
 私が寒空の下を妖怪の山に向かって歩いて行く間、細君は何時までも心配そうに私を見送っていたので、私は細君に一度手を振って会釈した後、足早に目的の山に向かって行った。成程、寒いものである。

 私が葉の枯れ落ちた淋しい木が群がる山の麓に到着したのは、太陽が少しばかり高く昇った頃であった。名も知らぬ青い葉が地面に伸び放題になっている中を、掻き分けながら山の中心部の方へと進んで行った。妖怪が潜むと云われているこの山は、外側が針葉樹に囲まれている。針葉樹は薪に使うには心許ないので、私は広葉樹がある山の中心部へと歩いているのだ。
 私が何の迷いもなくこうして山の中を突き進んでいるのは、一つの理由がある。実を云うと、私は何度かこの山へ訪れているのだ。目的は薪を取る為であったが、わざわざ遠くの山に赴くよりは此方の方が早いと云うのが主たる理由だった。妖怪に襲われるかも知れないと云う疑念は今もその前もあったが、私は他人よりも危機意識が希薄なようで、誰彼からも恐れられているこの山が然程恐ろしいものとは思っていない。

 それどころか、生え揃う木々は皆逞しく、生い茂る葉には活力があり、季節になって咲き乱れる花々は美しいの一言に尽きる。妖怪の山は、他のどの山よりも美しいように私は思っていた。或いは常に付き纏う死と云う甘美な魅力が私を引き寄せるのかも知れない。私はKが先だって経験した究極の束縛からの解放と云うものに憧れているのだ。無論、それを他人に話した事はない。また話すつもりも寸毫ない。私はその憧憬を自分の胸の中だけに抱き、この山に訪れている。いずれ訪れる死に、早く出会えるかも知れぬと云うのなら、妖怪に殺されても私には嘆くべきものが無かった。
 只妻子だけを気の毒に思うが、それでもやはり私は死に恋い焦がれている。これは、最早改めようのない業であった。人々が富豪に憧れるように、人々が物を欲するように、私は死に憧れているのだから。

 やがて、私は木々の梢が網を張るように茂る樹海を抜けて、開けた場所に出た。見知らぬ場所である。元来から真直ぐに進み、真直ぐに帰る為に私は薪を取りに来る度に違う道を通る。その度に見知らぬ場所を知るのだが、今日見た光景もそれに違う事なく見知らぬ場所であった。私は多少歩き疲れた足で、樹海を抜けて開けた場所へと身を晒した。
 先刻まで陽光が殆ど差し込まない、道と定義出来るかも疑わしい山道を通って来た為に、此処に差し込む太陽の光は殊更に心地が良いように思えた。その光が、私の前に流れる川の水面に反射して、煌びやかに光っている。水辺に寄って見ると、小さな魚が縦横無尽に泳ぎ回っているのが窺える。私はこの幽邃な光景に胸を叩かれたような感銘を受けた。まるで、絵画に出て来そうな光景である。川に覆い被さるように生えた木々の細い枝は、さながら枝垂れ柳のような趣を醸している。広い川幅の内側に点在する大きな岩や小さな岩などが、殊更に美しく魅せている。対岸はなく、その代りに結構な高さを持つ懸崖が見える。大きく抉れるようにしてあるその崖は、黄土色の土を剥き出しにしていた。

 足場は大小様々な石が無限に転がっていて、決して良いとは云えないが、靴の裏から感じる凹凸の感じが、私は嫌いではなかった。寧ろ、自然に直接触れているようで心持ちが良くなる。私は鉈を地面に置いて、暫くこの幻想的な風景に見入っていた。春になれば、此処の景色はさぞかし美しい事であろう。そのような日が来たなら、此処で細君の作った弁当を広げて、景色を楽しみながら一人花見をするのも悪くない。尤も、この辺りに桜が生えているのかは知らない。
 刺激された私の情操は中々落ち着きを取り戻す事がなく、妖怪の潜む山に一人で佇んでいると云う事も関連しているのか、私は軽い興奮状態にあった。何時目の前の景色が見えなくなるかも解らぬ五分の恐怖、少しでも長くこの場に留まりたいと思う四分の好奇心、薪を集めなければならないと云う一分の使命感――詰まる所、恐怖と好奇とが調和を保つ九分の感情と、大して重要に思えなくなった仕事に掛ける想いが綯い交ぜになっていた。
 そうして私は恍惚としながら景色を楽しんだ。果てにはこの景色に見入ったまま居眠りに興じたいとさえ思った。だが、此処の地面は身を横たえるには向かない。それを敢行しようものなら、背中に幾つ痣が出来るか知れなかった。

 私はそれから暫くの間呆けていたが、この寒さの中長く居座るのは些か気が滅入る。流石に私も寒さを我慢してまで景色を楽しんで居たいとは思わないし、素直に楽しむ事も出来ないだろう。私はそう思い立ち、鉈を手に持って薪を調達しに行こうと辺りを見渡した。針葉樹ばかりが繁茂していた外郭とは打って変わって、この辺りには良質な広葉樹が並んでいる。私は手頃な位置に木の中の一本を認めると、そこに向かって歩き出した。低い位置に程よい太さの枝が伸びる、私の為に存在していたかのような木である。――そして、いざ鉈を力一杯枝に叩き付けようと、天高く鈍色の刃を振り上げた所で、不意に、水の跳ねる音が私の鼓膜を劈いた。

 心臓が急に跳ね上がる。よもや妖怪が遣って来てしまったのだろうかと、安閑としていた私の脳が危機を告げる。だが、このまま駆け出そうものなら私の足は忽ち小石か何かに躓いて、不様に地に伏せる事になるだろう。だから、私はせめてもの気休めに深呼吸を繰り返した。この山に住む獣の類だろう。まだ襲って来ないのなら大人しい種かも知れない。その希望を抱きながら、暴れる心臓を宥め、後ろに振り向いて行く。――果たして、そこには一人の女の姿があった。

 私は声を失った。それどころか思考する能力でさえも無くなった気がした。眼と云う器官は既に先刻の幽邃な景色を見るのを止めて、今は女の姿に釘付けとなっている。聴覚でさえも麻痺していた。聞こえていたはずの川の潺湲の趣が、微塵も感じられない。ただ、女が動く度に跳ねる水の音だけが悉く鼓膜を劈く。大きな音では無い。それどころか耳を澄まさねば聞き取るのも難しい音である。にも関わらず、私にはその音しか聞く事が出来なかった。

 暗緑色の珍しい髪色と、深緑の瞳、頭に飾られたリボン、見慣れない靴と服装――何もかも異質な佇まいの女が、水に靴を浸して、円舞を踊っていた。厳密に云えば私は円舞が何たるかを心得ていない。だが、くるりと廻る度に跳ねる水飛沫の中で躍る彼女の姿が、優雅でいて美麗であり、それでいて妖艶な印象を与えるのは私の目が正常である事を前提に考えるならば、疑いようもない真実であった。
 私はこの時二つの選択を迫られていた。本来ならば躊躇などするべきではない選択である。だが、私は迷う。彼女を妖の類だと断定してこの場を去るか、このまま美しい姿を眺めるか、その選択肢に。

 幸い彼女は私に気付いていない。川の流れが奏でる舞曲に合わせて、優雅に舞っている。逃げようと思えば直ぐに逃げられるし、この場に留まるとしても多少危険が増すだけである。そして私は、この場に留まる事を選んだ。それも隠れると云うこの場合の常套手段を取らなかった。いずれ彼女が気付いてしまう位置で、私は彼女の演目を眺める観客となって、架空の席に着いた。無論椅子などはない。私は堅い丸石の上に立っているだけである。それも気に掛からなかった。

 くるり、彼女が廻る。上がる飛沫が陽光に照らされて、四方八方に光を撒き散らす色電球と化している。冷静に返った頭に響く潺湲の音が、彼女の舞いに合わさるようにして調和を産み出す。まるで人形のようだ――私は殆ど茫然自失となりながらそう思う。舞いを踊る絡繰り人形の、長い裾のスカートが彼女の動きと共に翻り、リボンが巻かれた腕が、天に翳される。唇に笑みが象られ、綻んだ雪のように白い頬が太陽に暴かれて殊更に白くなる。それでも白い光に一寸たりとも褪せぬ新緑の明眸は、徒に細められる。綺麗だ――思わず口の中に呟いた。それと同時に、彼女の舞いも終局を迎え、謎の女は浅い水の中に靴を浸し、誰にともなく礼をするようにスカートを少しだけ持ち上げて頭を下げた。
 それと時を同じくして、丁度彼女が止まった時点で正面の位置に居た私の存在を、女は確認したようであった。先刻まで笑みさえ浮かべていた表情が一変して無機質なものになり、冷然たる瞳が私を捉え、それから川を出た。

「貴方、人間?」

 靴の中に水が入っているのだろうか、女が川から上がって丸石を踏み付けて歩むと、ちゃぷりと云う小気味良い音がする。私は女の問いに対して、首を縦に振る事で肯定した。自白すると、この時私は声を発する事が出来なかった。先刻の舞踏がそう作用したのか、彼女が妖怪である可能性に怯えているのか、判然としない心持で、やはり口を開く事が出来ずに噤んでいた。女はと云うと、私のような人間に興味が無いのか相変わらず冷え切った瞳を私に固定しながら歩んでいる。やがて、私の正面に一間ばかりの距離を取って呆れたような嘆息を零した後、漸く口を開いた。

「どうしてこんな所に居るの? 人間なら此処がどれだけ危険か解っているでしょうに」

 私はその問いに薪を取りに来たのだと説明して、左手に持っていた鉈を掲げて見せた。この時には、彼女が妖怪だとか、そう云った懸念が忘却の彼方に置き去りにされてしまっていた。目の前の女から、敵意のような物は感じなかったし、見た目で判断するのは愚かだと解っていても外見から受ける印象は、綺麗な人間の女性だったからである。奇特とも云える私の感性のお陰か、言葉もすんなり口を出た。すると、女は「薪?」と私の云った事を反復して、やがてくすりと微笑んだ。他人を小馬鹿にしたような笑みである。だが、そこには大人寂びた気品がありありと見受けられた。

「薪なんて、他の山にでも行けば手に入るじゃない。こんな所まで危険を冒さずとも」
「この山が一番近場だった。なるべく早く持ち帰りたかったんだ」
「その割には随分とのんびりしていたように見えるわ」

 私は返事に窮した。女の瞳は、私が彼女の舞踏の一部始終を見ていた事を見透かしているようであったからである。急いでいると云う人間が、見知らぬ女に気を取られていたら、滑稽な話だ。私は正にその滑稽な話の主人公となっていた。
 答えに云い淀む私を見て、女はまたくすりと笑みを零した。どうやら一時の追窮は免れたようである。私は安堵の溜息を彼女に気付かれないように落とし、それから口元を押さえて笑っている彼女を見た。女は、近くの比較的大きく、腰を掛けるには丁度良いくらいの大きさを持つ岩の上に座ると、唐突に「どうだった?」と尋ねて来た。

「どうだったって、何が」
「私の踊り。見よう見真似の適当な振り付けだったけど、気に入ってるの」

 彼女は自身の舞いをそう批評した。私はその問いに、暫くの間思考の猶予を設けて、先刻見た光景を頭の中に描き出している。成程、思い返してみれば統一性の無い踊りであった。全て即行で作られたかのような振り付きばかりで、踊りを生業とする者達と比べれば劣る踊りだったのだろう。けれども、私は彼女の舞いを目にするまで舞踏と云うものを見た事がない。詰まる所、私に出来る批評はその場で感じた率直な感想を、この場で伝える事なのである。余計な修飾を加えようものなら、彼女の気分を害する恐れもある。私は私の情操が感じた通りの感想を、彼女に伝えた。

「綺麗だった。人形のように固定された美しさがあるように思った。水の中と云うのがまた良い。儚い響きが見て取れる。それに、あの踊りは水飛沫に良く映える」
「あら嬉しい。それは、初対面の人間に対する社交辞令かしら」
「思った事を有りのままに云っただけだ。それ以外に言い様が無い」
「なら、正直に受け取る事にしようかしら。――有難う、貴方が初めての観客ね」

 そう云って、彼女は微笑を浮かべる。先刻は大人寂びた印象を一方的に感受していたが、こうして見ると今浮かべたような表情は、何処か幼げがあるようにも見える。外見は二十歳を跨いだ辺りの年齢に見えるが、それ故に大人の魅力と子供の魅力を併せ持つ人物だと、私は彼女に対する批評を心の内で改めた。そして、諧謔を弄する彼女に「それは幸運に出くわしたものだ」と返して笑った。彼女の言葉を信用するのなら、私が第一の観客となった訳である。お互いに云っている事は冗句だと解っているのに、腹の底がむず痒くなって、私は緩んだ頬を少し引き締めた。

「あ」

 彼女が何かを思い出したように声を上げる。私は何事かと思って彼女に目を向けたが、当の女は別段特別な顔をしておらず、安穏とした様で岩の上に腰掛けたままである。私は彼女の二の句を待つ事にして、黙っていた。
 そしてその間に、私は一つの危惧を感じていた。もしかしたら彼女が人を取って喰わぬ妖怪で、私を気に掛けて早くこの場から離れた方が良いと、そのような事を云われるのではないかと云う危惧である。

 私は思いがけない場所で出会った彼女との関係をこの場限りで終わらせたいと思っていなかった。それどころか、あらゆる葛藤を閑却してまで彼女と親密な仲になれたら良いとさえ思っていた。何故そのような事を思うのかは考えても要領を得ない思考が錯綜するばかりで然したる意味を成さなかったが、彼女が演じた舞踏か、はたまた珍妙でありながら美しい彼女の容姿に惹かれたのか、どちらとも付かないが、とにかく私はこの場を離れるのを良しとしていない。例え彼女が妖の類だったとしても、その考えは変わらなかった。

「そろそろ、帰った方が良いわ。薪が早々に必要なんでしょう」
「……そうだが、特に必要としている訳じゃない。只、その内入用にはなるだろうから、取りに来ただけだ」
「それでも事は早めに済ませた方がいいわ。この辺は、人間にとってはとても危ない所だから」

 女の言葉は私の危惧を形にしたものであった。しかも彼女の言い分は尤もである。それでも私は中身のない言訳をしてこの場に留まろうとした。が、遂に私も用事があるしと云った彼女の言葉に負けて、潔くこの場を立ち去ろうと考えた。

「解った。用事を済ませたら直ぐに帰る」
「そうした方が良いわ。私にとっても、貴方にとっても」

 最後に彼女が云った言葉に対して何か違和感のようなものを感じたが、私は早く行けと促されていたのでそれについて言及する事が出来なかった。結局、鉈を左手に持って広葉樹の枝をある程度切って、縄で縛って纏めたら用事は済んだので、別れる事になった。見苦しい未練は相変わらず残ったままであったが、今更それに抗うのは自分を惨めにするだけであるのを自覚していたから、大人しく彼女と別れる事にした。私が帰りたくない為に、出鱈目な理由を話していた時に、彼女がしていた困ったような微笑を自分の中だけの土産に提げて行くだけで、踏ん切りが付く。彼女が浮かべていた表情はただ困却していただけではなく、確かにその影に嬉しさを忍ばせるものであったからだ。

「帰りの道中、お気を付けて」
「死なない程度には、気を付ける」
「また、そんな冗談云って」

 お互いに笑みを交わしながら、私は彼女に背を向ける。だが、今になって可笑しな事に気が付いた。今になって気付くのは少々耄碌が過ぎると云うものだったが、どうやら私は相当舞い上がっていたらしい。私は最後に一度だけと自分に云い聞かせて、後ろを振り返った。最初の冷めた視線を思わせない優しげな光を湛えた深緑の双眸が、心持ち細められて私を見詰めていた。まさか私が振り返るとは思っていなかったのか、微かに驚いているようである。そんな彼女に向かって、私は彼女と話している間に聞いておくべきだった事を、今更になって問うた。

「君は、何者なんだ」
「あら、そう云えばまだだったわね。私は鍵山雛。この森に住まう、有り難い神様よ」

 面白い冗談だ、私は笑いを混ぜながらそう云って、自分の名前を伝えてから、今度こそその場を立ち去った。此処に訪れた時よりも、心持ち軽くなった足取りで下る山道は、驚くほど苦にならず、それどころか溜まる疲れは一種の喜びとなっているかのようであった。今も鮮明に残る水の舞曲と、彼女の舞いとを頭の中に思い浮かべて、そして彼女の声を思い出しながら、私は山を下って行った。今日薪を取りに来た事によって得られた物は、どうやら生活の必需品だけでは無かったらしい。私は今感じている感情を適切に表現する知識を持たないが、それも塵労に変わる事は無かった。

 私は山を下り終えて、家までの帰路を辿った末に、また山を眺めた。直ぐにでもあの場所へと駆け上がりたい衝動が身体の底から沸々と滾るようで、私は年少期より忘れてしまった久しい感情を思い出した心持ちになった。
 しかしそれも、私の帰りが遅いのを相当気に掛けていたのか、細君の怒号によって身体の内側に引っ込んでしまった。それから腕や足に妙に多くの切り傷があるのに気付いたが、何かの拍子に切ってしまったのだろう程度に考えて、細君に手当をして貰った。二月の半ばに差し掛かった外の空気は思いの外暖かったと、私は不思議ではない事を、説教が混じった手当を受けながら考えていた。明日は暖かくなるだろうか、そのような事も考えながら。







 翌日、私は朝から落ち着きが無かった。起きてから仕事をする間も、始終窓の外に妖怪の山を見ては昨日感じた不明瞭な、けれども心が躍る得体の知れない感情に苛まれていた。今のように仕事が碌に手に付かないのも、殆ど初めての事だろう。私は畑を耕す為に鍬を振るっていながらも、集中しているのは手足のみで、頭は全く別の事を考えていた。そんな挙動不審な私を、細君は何度か畑に遣って来ては注意したが、それも私のざわついた心を平生のものへと回復させるには至らず、結局細君が去っては散漫した集中力を何とか一点に集めようとして、失敗に終わっていた。

 私は鍬を二三度、霜が降りた柔らかな土に振り下ろすと、この寒さだと云うのに額に滲み出して来ている汗を服の袖で拭った。私の目は変わらずあの山に向いている。静かに、悠然と聳える妖怪の山は周りの山々と比べると一際大きく見えた。私は昨日自分が居た所は――彼女と出会った場所は何処だろうか、と意味も無い思考の元に荘厳な山の麓から少し登った辺りを眺めてみた。そこには尖った枝を張り巡らす木が見えるだけで、川はおろか開けた場所でさえ見る事は叶わなかった。失望にも似た落胆を感じつつ、私は止まっていた鍬をまた振り下ろす。
 ざく、と爽快な音が鳴って、砂が捲れた。青の絵具を水で薄めたような色をした空が、一定の諧調と共に白を混ぜている。私はこの空を見ながら、またあの舞いを見てみたいと、唐突に思い出した。そうして、この仕事を終えたらまたあの妖怪の山に赴こうかと心に決めた。丁度、早く仕事が上がる日であった。

 少し出かけてくる、と細君に告げた時、細君は何処へと尋ねて来たが、私は買い物にでも行こうと思ったと即席の適当な事を云い繕って、妖怪の山に向かった。細君に正直に話せば反対は免れないからである。細君は何ら私に猜疑を向ける事もなく、玄関に立った私を微笑を湛えながら送り出した。
 私は軽い足取りで、昨日と同じ妖怪の山の麓に歩いて行き、そこから鬱蒼と茂る薄暗い樹海を抜けて昨日と同じ川辺を目指した。寒さなどは気にならず、それよりも川が物静かに流れていたら、と思って不安になる事の方が多かった。自分を神様だと自称する女は居るのだろうかと。

 暫く歩くと、前とは少し風景の違う川辺に出た。昨日あったはずの岩や木が見当たらない。私は歩いている内に方角がずれたのだと判じて、川の流れを眺めながら大小様々な石を踏み付けて川伝いに歩き始めた。
 昨日と違って今日は太陽が真上で輝いている。時刻は昼を越えた程度だろう。私は細君の作った昼飯を収めた腹具合から時間を推測した。とすると彼女が居るのかどうかは怪しいものである。何しろ昨日とは時刻が余りに外れている。それに、毎日彼女があの場所へ出向くかどうかも私は知らない。だが、小さな期待を込めて、私は川辺を歩いていた。彼女は必ず居ると、期待を自覚した上に成り立つ不思議な確信があった。そして、私は見覚えのある光景を視野に入れた。

 大きく抉れた懸崖が対岸にある。昨日と同じ場所で川の流れを受けている岩が鎮座している。周りは広葉樹で囲まれていた。私は此処が昨日訪れた場所である確証を得た後、彼女が居るかどうか頻りに目を配らせた。だが、薄暗い樹海の中に目を通しても、暫く続くこの開けた川辺を見通してみても、人の気配は感じられなかった。ただ、鳥の囀りが山を包むように響き渡るばかりである。私は失望と落胆とを一度に感じて、昨日彼女が腰掛けた岩の上に落ち着いた。

 耳を川の流れの音が擽っている。肌に感じる冷気は昨日よりは暖かったが、上着を一枚脱いだかのように冷たく感じられる。私は齎された徒然をどうする事も出来ずに持て余していた。茫然と空を見上げると、太陽の光が強くなっている。白い光に目が眩んだので、私は瞼を閉じて外界の光を遮断した。そうして、目を閉じたまま俯いた。遠く聞こえていた鳥の鳴き声が途端に近くに聞え出す。私は今にも川の水を弄ぶ音が聞こえて来るのではないかと耳を澄ました。

 すると、私の願いを何者かが叶えてくれたのか、暗闇の中に水が跳ねる音を聞いた。聞き間違うまでもなく、私の前方の川から聞こえた音である。私は高鳴っている心臓の鼓動を無理に抑えようとしながら、緩慢な動作で瞼を開いた。妖怪の山にはその名の通り妖怪が住んでいる、その事実など最早私に何の感情も与えない。私にとって、妖怪の山とは彼女と出会える場所、と云う以外に意味を持ち得なかった。だから、目が開いた先に妖怪が居るかも知れない――などと云う考えは、頭の片隅で僅かに危機を訴えているだけであった。

「あれ、もしかして人間?」

 私が目を開いた先に、待ち望んだ彼女の姿は無く、その代りに空の色のように淡い青の髪の毛を二つに結び、その上に緑色の帽子を被った、幼い風采の人物が川の中に居た。この寒さだと云うのに川の真中辺りに肩まで沈めている。私は再度失望を感じながらも意外の感に打たれて、川の中で泳いでいる謎の少女と目を合わせた。少女は一瞬驚いた素振りを見せていたが、一度水中に潜って再び浅い所で顔を出した時には、好奇の視線で私を見詰めていた。

「そうだが、君は」

 少女の問いに答え、私もこの少女が何者であるか尋ねた。すると、その少女は澄んだ碧い瞳を丸くさせて、一層強くなった好奇の視線を私に注いだ。何か不思議な所でも私にあるのだろうか、そう考えた所で私は人間がこのような場所に身を置いているだけで、この山に住まう者からしたら不思議な事だろうと思い出し、口元を歪めた。その間に少女は川から出ると、私の元に歩み寄って来る。全身から滴る水が、渇いた石の上に彼女の軌跡を描いていた。

「この山に人間は居ないよ。私は河童の河城にとり。一応妖怪だね」

 私は少女の答えに驚かざるを得なかった。このような幼い容姿でありながら自分が妖怪だと云っている。恐怖などこの少女からは微塵も感じられないと云うのに、それでも少女は妖怪なのだと云う。私は興味深く彼女の小さな体躯を眺めていたが、やがて彼女が眉間に皺を寄せ始めたので止した。代わりに河城の目を見て、自身の事を話した。と云っても、私は妖怪と云う高尚な生物では無かったから、名前を教えただけである。
 少女は手に持った蒲の穂を空気に二三度振って、「珍しい」と云った。

「人間がこんな山に来るなんて、珍しい事もある」
「人間は此処を恐れるそうだ」
「そりゃ何時喰われるか解らないし、普通は来ないよ」
「君も人を喰うのか」
「お生憎様。私は胡瓜が大好物なの。それに人間とは古くからの盟友だから」

 目の前の少女は人を喰わないらしい。敵意を向けられていない以上は私にとって彼女は安全な生物なようだ。私は微々たる安堵を感じながら、河童と人間は仲が良いと云う何処かの書で読んだのを思い出した。その中には尻小玉を抜かれるだの何だのとあったが、今私の前で濡れた髪の毛を整えている少女はそのような事をする風には到底窺えない。それどころか、河童だと名乗らなければ普通の人間の少女と見違えるであろう。それ程、目の前の少女は人間らしかった。
 私はこのまま鍵山が来なければ無下に時間を費やすだけの予定だったので、彼女が現れたのは寧ろ好都合だった。私は極めて柔らかい物腰で、河城に鍵山雛と云う人物を知っているかと尋ねた。

「雛? 貴方、雛を知ってるの?」
「昨日、此処で会った」
「何かなかった?」
「何かって、別に何も無かったが」

 河城は鍵山を知っているようである。明確な証言は得ていないが、話振りから察するにどのくらいの仲かは解らないが、鍵山雛と云う人物を知っていると云う点に於いて疑う余地は毛ほどもない。私はその事に心の内で安堵の溜息を洩らしたが、一つ引っ掛かる事があった。先刻の河城の問いには疑問に思うべき所がある。
 鍵山と出会った事で何かなかったのか、と聞くならば相応の理由があるはずである。その理由が何なのかは解らないが、これも話振りから察すると良くない物と判じた。そして、その一方でその理由が陳腐な物であれば良いと考えた。例えば、彼女が妖怪だから、私を取って喰う可能性もあるだとか、そう云う物ならば差支えはない。

「へえ、なら良いんだけど」

 河城は多くを語らず、またそれ以上を語る様子も見受けられなかった。彼女はそう云った後、知ってるけどと云ってまた手に持っている蒲の穂をぶらぶらとさせた。私はその動きを目で追いながら、彼女の居場所を尋ねたが、その質問に河城は幾何かの逡巡を要したようであった。顎に手を当てて頻りに私を見ている。私が鍵山と接する事に対して何か不都合があるのだろうかと思い、私はそれを尋ねようかと思ったが、それ程軽い話題ではないように見受けられたので自粛した。私は興味の視線を蒲の穂から河城が背負っている鞄に向けて、妙に膨らんでいる中に何が入っているのだろうかと考えていたが、河童の所持する物など何一つとして解らなかったので、大方胡瓜が入っているのだろうと勝手に想像した。

「盟友として云うけど――」

 やがて河城が口を開いた時、私はその言葉を最後まで聞く事が無かった。と云うのも、丁度彼女が何かを云い掛けた時に、私の視線の先、河城の背負う鞄よりも先の川辺に探していた人物が舞い降りたからである。
 彼女は飾り気の多い、赤と黒のスカートを風に揺らしながら川辺に文字通り舞い降りて、私と河城の存在に気付いた。その時には私は勿論、河城も鍵山がこの場に遣って来た事を理解していて、結局私は最後まで河城の云い掛けた忠告の内容を知る事は叶わなかった。だが、それも直ぐに気に掛からなくなり、私は歩み寄って来る鍵山に釘付けとなり、それまでの瑣末事を綺麗に忘れて、彼女の第一声に耳を傾けた。

「あらあら、また来たの? にとりまで居るし、珍しい組み合わせね」

 私は彼女の言葉に、手を上げて会釈した。顔に嬉々とした様子をあからさまに表す真似は、私の中にある誇りが拒んだので、彼女の目には無愛想に見えたかも知れないが、鍵山の瞳を見るとそのような私の魂胆でさえ見透かされているようで、私は図らずも羞恥が身を襲うのを感じていた。だが、それも河城が鍵山と会話を始めた事によって見られずに済んだようである。私は愧赧の念を押し殺してその会話の内容に集中した。

「あ、雛。この人間と知り合いなんだって?」
「ええ。昨日、此処に薪を取りに来た時に。ねえ、貴方」

 突然言葉を掛けられて、私は落ち着きを取り戻しつつあった心がまた揺れ動くのを明瞭に感じ取った。だが、此処で動揺しようものなら、私の尊厳は著しく損なわれてしまう。何故だか私は、鍵山の前でそのような醜態を晒したくないと思っていた。であるから、必死に平生を装って「ああ」とだけ返した。この場に居る者が、もしも私の古くからの友人であったなら、私が無愛想な性質である事を知っているから特に思う事は無かったのだろうが、生憎この場に居合わせる二人は私の事など殆ど何も知り得ない者達である。私はそこに、この妖怪の山で一人佇み続けるよりも強い恐怖を感じた。

「貴方も珍しいけど、雛も珍しいね。人間と打ち解けてるだなんてさ」
「……そうね。私も人間と会話をしたのは久し振りだったわ」

 河城はそう云って無邪気に笑ったが、鍵山は少しばかり瞳に影を落とした。このような薄暗い樹海で、人間と話す機会など殆ど無いのだから彼女らの会話に不自然な個所は無いはずなのだが、どうやら彼女にとっては違うらしい。当然その真意を知る事は私に成し得ないが、一瞬の間に落ちてすぐに消えてしまった瞳の影は私の興味を惹き付けた。人間は他人の不幸を蜜の味だと評する事があるが、私のこの興味も単純な動機から来たのか、それとも別の何かから来たのか、私には判然とした判断を下す事が出来なかった。只興味を惹き付けられたと云う事実を記憶したのみである。
 やがて、二人の間に話の種が尽きたのか幾何かの沈黙が私達を包み込んだ。絶え間ない水の流れの音に入り混じる鳥の囀りと木々の梢が擦れる音が心地の良い沈黙は、先刻まで揺れていた私の心を落ち着かせ、その結果私は自ら話題を提供しようと思い、口を開いた。

「河城は」
「そんな堅苦しい云い方しなさんな。私はにとりで良いよ」

 幸先良く流暢に滑り出した私の舌は、河城――にとりの訂正に一度遮られてしまった。先に云ったように私は比較的無愛想な人間であったから、親しくない者の名前は基本的に名字で呼ぶ事にしている。当然初対面や一度会っただけの人物に対してもそれは同じである。だが、河城 にとりと云う少女はそれを認めず、自分の事は名前で呼べと云った。私は彼女の申し出に若干の擽ったさを感じたが、同時に嬉しさも感じた。厭世的な人間は、こうして他人から遠慮のない口を聞かれると弱いらしい。私はそれを妖怪から教えて貰った。そして、仕切り直してからもう一度口を開いた。

「にとりは妖怪だと云うが、鍵山はどうなんだ」

 にとりが妖怪だと云うのも俄かには信じられない話ではあったが、私の興味の対象は常に鍵山に向いている。昨日、彼女が自分の事を神だと自称せず、妖怪だと告げていたのなら、私は何の猜疑も抱かずにその言葉を信じた事であろう。だが、妖怪よりもその存在の信憑性が低い神と云う自称は私にとって冗談にしか聞こえない代物である。軽薄な心持で私は尋ねたが、それを聞いた鍵山は頬を膨らまして、心外だと云わんばかりに私を見遣った。

「雛、云ってなかったの?」
「云ったわよ。この森に住まう有り難い神様だって。ねえ、そうよね」

 そう云って、不機嫌な眼差しが私を見詰める。私は彼女の表情の中に冗談めいた光を見出す事が出来ず、本当なのかと念を押した。すると彼女は、それを肯定したので、私は益々彼女への興味を強くした。けれども、彼女の容姿の何処をどう見ようとも、珍しい色の瞳や髪の毛を除いて、普通の人間と変わらない。ただ、明らかに普通と評される人間との相違点に、彼女が此処に来る為に空を飛んで来たと云う事であった。

「此処は危ないって云ったのに、一体何しに来たの? 鉈は持っていないし」
「雛に会いに来たみたいだよ。私に会った時に雛を知ってるか、って聞かれたから」

 鍵山の問いに答えたのはにとりであった。私としては、不自然の無い理由を述べるつもりであったが、目の前のにとりと云う河童はそのような私の思慮など露知らず、事も無げに事実を云ってしまった。私は再び羞恥が顔の方に上がって来るのを感じながらも、それを悟らせまいと人知れず奮闘する羽目になった。のみならず、この時に失ってしまった矜持をどうにか元に戻せないかと思考を張り巡らせた。が、その結果として得た物と云えば、彼女が昨日も見せた、私の意図の深層までを見透かしているような、あの微笑であった。私は顔を赤くして、在らぬ方向に視線を向けた。

「あら、どうして? 大して話してもいないじゃない」
「お、私も気になるな。わざわざ危険を冒してまで来るくらいの理由なんでしょ?」

 深緑と空青の瞳に見詰められ、一寸答えに窮した。彼女らが納得の行く理由などは頭の中に存在し得なかったからである。と云うのも、私自身この山に再び訪れようなどと思い付いた理由が解っていないし、何故鍵山に対して只ならぬ興味を抱いているのかも判然としなかったからである。私は記憶の糸を手繰り寄せてこの場に適切な返事の内容を探し当てようとしたが、それでも断片的な情景が浮かび上がってくるのみで、中々要領を得なかった。
 二色の好奇の視線を受けながら、暫く私は黙考を続けていたが、それが終局を迎えたのはにとりが待ち兼ねた様子で蒲の穂を揺らし始めてからであった。私は今も鮮明に頭の中に残っている彼女の舞いを、唐突に思い出していた。

「またあの踊りを、見たいと思った」
「あの適当な踊り? 貴方って余程物好きな人間なのね」

 私の答えに、鍵山は口元を押さえて笑いながら不思議そうに目を丸くした。そこには一種の驚嘆が含まれていたが、私にとってはこれ以外に答える術が無いので、返された彼女の言葉にも頷くしかなかった。私達の会話の内容を知らないにとりは、私と鍵山の顔を交互に見比べては疑問符を頭の上に浮かべている。私は、そのようなにとりの様子は、疑問を明確に尋ねて来るまでは一先ず見送る事にして、あの踊りは綺麗だったからと鍵山に告げた。彼女はそれを聞いて、嬉しそうに頬を綻ばせたが、同時にその頬を仄かに色付かせた。白い頬が淡い桃色に染まるのは、壮観である。

「やっぱり貴方、物好きな人間よ」

 僅かばかり視線を私の頭上に向けて、鍵山はそう云った。そうして、話の流れに付いて行けないのに耐え兼ねたのか、遂ににとりが抗議の声を上げた。頻りに何の話、と尋ねている。私と鍵山は二人で顔を見合せて、同時に笑った。

「どうせだから、もう一度見せてくれないか。その方が早いだろう」

 私の問いに、鍵山は戸惑った。勿論、それは羞恥から来る戸惑いであろう。私はその初心な反応に気分を良くして、口元を吊り上げた。にとりがそれなら早くと急かしている。次第に押されつつある鍵山は、私達の視線と言葉に観念したのか、仕方がないわと云って川の方に歩き出した。その歩み方には、確かな緊張が見て取れる。私の存在を知らなかった昨日とは違い、他人に見せると云う判然とした動機がある以上は彼女とて落ち着かなくなるのだろう。
 そして、鍵山が一歩川に入った頃に、私は思い出したように岩の上から腰を上げて、にとりと共に川の方へと近付いた。私達が居た場所と、鍵山が現在居る所とでは些か距離が離れ過ぎる。私とにとりは鍵山の舞いの開幕を楽しみにしつつ、川から二間ばかり離れた所に立った。そして、想像の中にある観客席に腰を掛けた。

 鍵山の身体が、まずくるりと回転する。それに合わせて跳ねる水が、音を立てて飛沫を上げた。咽喉の辺りに纏められた暗緑色の髪の毛が僅かに揺れる。太陽に照らされた白雪のような肌が殊更に白くなり、頭に飾られ、長く垂れ下がったリボンが彼女を中心に円を描く。翻るスカートの中に覗く細く華奢な足が、艶やかに光った。
 そうして、その後になって私の頭の中に舞曲が流れ込んでくる。これからが舞踏の本番だと示唆するように、川の潺湲が、木々のざわめきが、鳥の囀りが、一つの調和を産み出して彼女の踊りと合わさる。清閑な山中の空気を全て取り込むが如く、私の見る世界は彼女によって狭い物になっていた。だが、それ故に、鍵山の舞いの細部に至るまでが、直接私の情操を刺激して来る。どれ程優れた絵画にも、どれ程幽邃な風景にも勝る舞いは、私に嘆息する暇すら与えず、逆に息を呑むばかりの私は心臓の高鳴りを感じた。それも尋常な高鳴りではない。真夜中で寝静まっている時に半鐘の音を聞いたかのように、心臓は高鳴っている。これ程興奮にも酷似した高鳴りを、私は未だかつて感じた事が無かった。

 鍵山が手を太陽に翳す。肩から指先まで真直ぐに、且つ嫋娜に伸びる。そこに巻かれたリボンが殊更に優雅である。そうして、天に伸びた腕を軸にするように、彼女の身体がまた廻る。スカートの裾が円を描いて風に靡いた。彼女は最初に見せていた羞恥を思わせる態度を忘れたかのように、楽しげに踊っていた。瞳を閉じて、桜色の唇に笑みの形さえ象る姿は、技術云々を気に掛ける踊りなどではなく、全てを感覚に任せた自然派の舞踊である。私は心地良さそうに踊り続ける彼女の姿が好きだった。無心に、只踊りたいと云う意思の元に身体を委ねるその姿が好きであった。

 にとりは感嘆と驚嘆とを同時に表現するように、口を半開きに目を丸くさせて彼女の踊りに見入っていた。鍵山の観客である私達二人の間に会話は存在し得ない。私達は自らの言葉がこの場の空気を濁すのを惜しんだのである。私はその疎通を、彼女との間に無言の中で感じ取った。が、その後のにとりの行動は凡そ私に予測出来る範疇を遥かに超越していた。何を思ったのか、彼女は踊り続けている鍵山に向かってにやりと笑い、そこに駆けて行ったのである。

 川の中では、鍵山が腕を広げ、胸を張り、首を仰け反らせて、大空を仰ぐように廻っている。上がり続ける水飛沫が昨日と同様に、跳ねては太陽に照らされて色電球と化す。その中に、にとりは颯然と飛び込んで行った。
 鍵山は一瞬驚いたようであったが、それでも舞うのを止めなかった。彼女らは一瞬間の間に顔を見合わせて何かを伝え合ったようだったが、そこに交わされた意思が何たるか、私に知る由は無い。仕方なしに私は彼女の舞いを眺め続ける。にとりは鍵山の背後に回って、水中の中に潜り込んでいた。

 その間にも奏でられる舞曲の旋律は、多くの変化を遂げては新たな趣を醸し出していた。それは大自然が成し得る、美しき音楽であった。鳥の囀りの中に違う生物の鳴き声が入り混じったり、颯と吹き抜けていく風の音がひゅうと高い音を残して行ったり、時には鍵山が躍る度に跳ねる水の音ですら、舞曲と一体化している。それら一つ一つの音を、川の潺湲が包み込み、奥行のある広大な舞曲は誕生する。私は、どれ程の時間が経過しているのかも解らなくなり、一心に視線を彼女の踊りに注ぎ、耳を舞曲に傾け、観客に徹していた。

 次第に鍵山の動きが終局に向けて激しくなる。緩やかな時の流れを表すかのような、形容するならばこの空に悠然と浮かぶ雲のような円舞を踊っていた彼女の動きは、次第に早くなって行き、人生の焦燥を体現したかのような踊りが繰り広げられている。右へと動いて天に祈りを捧げるように両手を絡め、かと思えば左に動いて山に呼び掛けるように両手を広げる。そうして、その中心に戻って来てくるりと廻った、その時であった。
 私は自身の眼球の機能を疑った。私の人生の中で培って来た知識では、到底信ずる事の出来ない光景が目の前に広がったのである。鍵山の背後を流れている水が突然うねりを上げ、壁と見紛うほど大きな波が立ちあがったのだ。さながらそれは、舞台の背景を彩る水の暗幕である。それらが川辺に敷き詰められる石達に叩き付けられて、膨大な水飛沫が天高く上がる。冷たい水滴は、私にも降り掛かり、髪や服を多少濡らして行った。
 だが、そのような事は寸毫たりとも私の興味を逸らすに及ばず、それどころか陽光を受けて燦然と輝く無数の水滴の向こうに、鍵山の舞いを認め、私はあらゆる感嘆の言葉を失った。それは余りにも美しく、余りにも儚く見える、芸術的でありながら何処までも独創的な神の舞いであった。私はこの光景を形容する術を到底持ち得ない。生半可な言葉を用いれば、現在の感動は忽ちに褪せてしまう事であろう。私は心中にも余計な批評を下さず、子供のように邪気の無い心を以て、一心に彼女の円舞を見詰めていた。そして、その舞いの終焉が目前に近付く。

 一、二、三、四、と彼女が手を広げ、私達を取り巻く全ての世界を纏めて抱こうとするように廻る。深緑の瞳は、何時にも増して輝き、色付いた頬は嬌羞を感じさせながらも美しさに拍車を掛けている。そして、彼女の回転に合わせるかのように、背後で流れる水が立ち上がり、その更に後ろに厳格に佇んでいる懸崖の高ささえも超える水柱が立ち上がる。鍵山が一度廻れば、水柱が一本立ちあがり、二度目を廻ればまたもう一本が立ち上がる。その夢を映したかのように幻想的な風景が、私の前に惜し気もなく晒されている。一瞬自分が本当に夢の中にに居るのではないかと、内頬を噛んだくらいだった。

 ――そして、鍵山の動きが止まり、彼女が私に向かってスカートの裾を持ち上げて辞儀をし、同時に水柱が耳を劈く轟音と共に爆ぜてから、鍵山の円舞は終焉を迎えた。晴れ渡る空の下に、場違いに降り注ぐ驟雨が余韻を残す中、私はその音にも負けないように有らん限りの力を込めて拍手をした。鍵山は一礼を終えて面を上げると、私に向かって嫣然と微笑んだ。その一瞬間に、私は私を取り巻く世界の全てが時を止めたかのような錯覚を受けていた。彼女の微笑みは剣呑である。他者の心を惑わし、掻き乱す危うさを秘めている。私はこの時、後悔も立たない虎口に身を入れたのと同義であった。決して後戻りが出来ず、決して忘れ得ぬ虎口の中に、私は鍵山の姿を見出したのである。





「まさか雛が躍るなんて思わなかったなー」

 私達は鍵山の円舞が終わった後、先刻の位置に戻っていた。但し、今では鍵山が岩の上に座っている。素晴らしき踊り手に敬意を表して、と云う私とにとりの言葉に、鍵山は頬を仄かに染めながらも大人しく従った。そしてにとりが彼女を囃し立てたのだが、それに対しての鍵山の返答は至極単純な物で、只の気紛れだと答えた。

「でも、案外楽しかったわ。熱心なお客さんも居たし」

 鍵山はそう云って私を見た。私は期待以上に見惚れてしまったと答えると、僅かに波立った心を悟られる前に話題を変えた。当然、私が振った話題は先刻の演出についてである。まるで水が生きているかのように、うねりを上げ、水柱となり、果てには爆散した光景が、何の道具も無しに成し得る事とは思えなかったのである。ましてや、普通の少女と何ら変わらないにとりがそれを行ったとなると、私は図らずも猜疑を向けてしまう。目の前で起こった事を何の抵抗も無く受け入れられる程、鷹揚な人間ではないのだ。私がその旨をにとりに尋ねると、彼女は自慢げに胸を張って、誇らしげに説明を始めた。その姿に、やはり幼い印象を受けた私は、心の内で微笑を零した。

「私には水を自由自在に操る能力があるの。例えば、こんな風に」

 にとりは得意気に云った後で、川の方に手を向けた。すると瞬く間に川の水がうねりを上げて立ち上がり、懸崖がある景色の一切を隠してしまった。白い泡が、水の壁の上で暴れている。私は驚きつつも、一度見ている所為か冷静を保つ事が出来たので、凄いなと呟くと妖怪は随分と高等な生物らしいと評価した。にとりは素直に褒められたのが嬉しかったのか、相変わらず振っていた蒲の穂の振幅を大きくさせた。それを、鍵山が微笑を湛えながら見守っている。しかし、その瞳に私は一寸の影を見出した。劣等感を感じる人間が宿す影と同じ物を、彼女は瞳の中に携えていた。
 だが、例えそれを明確に認める事が出来ても私には如何なる行動も取れなかった。私の臆病がそうさせたのには疑いの余地は無い。けれども、その臆病は恐怖から来る物では無かった。私は一塊の羞恥心と、不必要な自尊心とで自らの行動を縛り付けていたのである。彼女と出会った日から胸の奥に燻ぶり続けている木片が、急にその火力を強くしていた。私は唐突に、Kが云った言葉を思い出していた。――私はまるで、籠の中の青い鳥だ。

 それから私達は取り留めのない会話を続けていた。その中で私は随分と彼女らの事を知った。にとりはどうやら研究熱心な妖怪らしい。自分の棲み処には、誰も目にした事もないだろう発明品が沢山あるのだと云う。私はそれがどんな物かと聞いたが、彼女は秘密と云って徒に微笑むばかりであった。それから、その鞄の中身には何が入っているのだと尋ねた。彼女はあらゆる物を分解する道具が入っている、と答えて、また誇らしげに胸を張って見せた。そうして、友好の印だと云って私に胡瓜を何本か持たせた。どうやら入っているのは道具ばかりではないらしい。

 ――鍵山は私達の問答の中に混じって何事かを話しているのみであった。時折私やにとりをからかった。そうして心外だと云うにとりに大人寂びた微笑を返したり、からかい文句を受け流す私に何か付け加えたりしていた。私はそのような他愛のない一般的な遣り取りの中にも楽しみを見付け出し、普段はどちらかと云うと寡黙な人間ではあったが、この時ばかりは懸河の弁とは程遠いが、それなりに饒舌に話していた。――が、私は結局、鍵山について新たな情報を知る事は無かった。彼女は自身について話すような事はおろか、それについて尋ねる事も許さないと云うような態度を保っていたのである。どちらにしろ私にそれを尋ねる勇気は無かったが、確かに私は落胆を感じていた。

「じゃあ、滅多な事がない限り、もう此処には近付かない方が良いよ」
「そうね、それが良いわ。にとりの云う通りにした方が自分の身の為よ」

 二人はそのような事を別れの文句にして、それぞれ別々の場所に飛んで行った。私はそれから間もなくして山を降り始めたが、昨日と同じに足取りは軽いと云う訳には行かないようである。それは鍵山が自身の事を何事も語らなかった落胆に起因するのか、それとも私の中で起こった変化が齎す懊悩に苛まれているからなのか、判然とした分別は付かないが、二人の別れ際の言葉が重々しく私の中に突き刺さっていた事が何割かの原因となっているのは確かである。
 だが、私は二人の忠告を聞き入れる自信が無かった。如何なる理由があろうとも、私は結局この山に来てしまうだろう。それほどまでに、私の中に燃ゆる火は、強くなりつつあるのだ。今更消化と云う手段を使う事も出来ず、私はそれを冷やかに見詰める野次馬として行動を起こすだろう。例え、そこに彼女が居なかろうと、畑で仕事を熟すよりも、家で酒を飲むよりも、私にとってあの場へ出向く事は重要な意味を占める物であった。

 我が家に帰宅すると、細君は何も持たない私を見て彷徨していただけですかとからかい混じりに聞いたので、私は目ぼしい物が見当たらなかったと答えて、それよりも飯は出来ているかと聞いた。細君は私が帰って来るのを待ち兼ねていたと見えて、直ぐに食卓に料理を並べてくれた。息子はもう食事を済ませたのか部屋の隅で絵描きをしている。私は喉に酒を通して、一息吐いた。夜はもう更けている。私は自分が随分と長い間あの地に留まっていた事を再認識した。

「あなた、また怪我をしているじゃありませんか」

 私が窓から覗く夜空を何ともなしに見上げていると、細君は若干の焦燥を混ぜながら私の足を見ていた。自分の足を見ると、成程、生々しい切傷の跡がある。云われるまで全く気付かなかったが、これもあの山に入った時に何処かで切ってしまったのだろうと結論付けて、私はまた細君の手当を受けた。心なしか、昨日よりも酷い傷のようである。手当をされている時に感じる痛みが、前とは異なっていた。同時に、私は腕にも傷が付いている事を細君に指摘され、つくづく自分は不幸な人間だと苦笑した。

 それから私は晩飯を食べ終わった後に風呂に入り、細君と取り留めのない会話をしてから床に就いた。何時になく良い夢が見れそうだ、私は漠然とした確信を持ちながら、深い闇の中に誘われて行った。





 次の日は昨日の晴れやかな空が仮初の物だったかのように思えるほど、激しい雨が地を穿つ日であった。起床してから真先に耳を突く煩わしい音が、世界に響き渡っている。窓から空を見上げると、車軸を回してしまいそうな勢いの雨が降り注いでいた。細君は嫌な天気ですね、と零していたが、それほど気に掛からないと見えて、鼻歌なぞを歌いながら台所で水仕事をしていた。私は一人、物憂い気な気分のまま曇天の広がる暗い空を見詰めては溜息を零していた。

 この雨だと、あの場所の川も氾濫を起こしていそうである。土砂の危険もあるかも知れない。私はあの山に住まうにとりと鍵山を密かに心配した。この雨では、幾ら人外の存在だからと云って多少の危険は及ぶであろう。にとりは水を操ると云うし、その証拠も申し分なく私に見せてくれたので大丈夫だとは思ったが、私はとても何か凄まじい力を持つようには思えぬ華奢な体躯の鍵山が、心配であった。そして、そう思うとこの雨が甚だ不愉快になるのであった。

 この雨では仕事も碌に出来はしない。私はあらゆる要素の干渉によって齎される憂鬱に、気が塞ぎそうになりながらも平生を装っていた。現に細君は雨を見上げている私にも何ら疑問を持っていないようである。息子も、私を気に掛けるような事もせずに部屋の隅で遊んでいる。私はこの雨では何処に行くのもままならないと判断を下し、久方振りに息子の遊び相手を勤めようと思い立った。ふと、息子が何を書いているのか気になったのである。

「何を書いているんだ」

 私が息子の近くに寄ってそう尋ねると、息子は不思議そうな顔をした。私がこうして息子の書いている絵に興味を持つ事は今までに殆ど無かったので、驚いているのだろう。すると息子は嬉しそうに頬を綻ばせて、私と細君を書いている、と答えた。見ると、拙い絵ではあるが辛うじて人物の絵が書いてあるのが解る。
 だが、私には細君と私がどちらなのか、明確に確認する事が出来なかった。只、髪の毛が長く描かれている人物が細君で、もう片方が私なのだろうと勝手に解釈した。
 息子はそれから、背景に描いたのは此処から見える大きな山だとか、空は今日の天気を表して曇天にしてあるだとか、そのような講釈を始めた。私はそれを黙って聞いては、息子が何かを嬉しそうに説明する度に頭を撫でて遣った。息子は擽ったそうにしていたが、どうやら嬉しそうである。細君はそのような私達を見て、柔和な微笑を始終湛えていた。

 私は暫くそうして過ごしてから、また空を仰いだ。熾烈な勢いを以て大地を穿つ雨は、一向にその勢いを緩めるような事はせず、一刻と時間が経過して行くにつれて更に強烈さを増している。到底仕事など出来る天気ではない。ましてや妖怪の山に行くなどと、愚の骨頂である。私は腹の底に感じる違和感を拭い切れぬまま、無聊な時間を持て余す日を過ごす事になった。只、頭の中に常に引っ掛かっている心配事が何時までも色濃く残っていた。





 時季外れの大雨は、その翌日も、更に翌日も、果てには一週間も続いた。勢いこそ最初の頃よりは劣っているが、それでもぬかるんだ畑の土は足を踏み入れるだけで飲み込もうと牙を剥く。山では土砂崩れや洪水が多発していると云う情報も入って来るほどであった。我が家は決して丈夫でも良い作りでもなかったから、一部の天井からは水滴がぽつりと落ちて来る。その下にたらいを置いて漸く事なきを得ているが、この雨は私にとって不愉快であった。

 細君も流石に鬱陶しくなったのか、時折この天気についての愚痴を私に零す。洗濯物が乾かないだの、雨漏りが台所でも発生しただの、細君が受け持つ仕事に関する不満がその大部分であった。この愚痴に対して、私は常に同意していた。仕事が出来なくなるのは大した苦脳には成り得なかったが、少し前まで頭の中に引っ掛かっていた心配事が、とうとう爆発しそうなまでに膨らんでいたのである。私は窓の外に妖怪の山を認める度に、焦燥に突き動かされそうになった。

 だが、この雨の中、例え市に出向くと要件を細君に述べても反対されるのは必至であった。私は誰彼に心配を掛けず、また自分が安堵する為の手段を、この時点で持ち合わせていない。自分を安堵させる為に利己的な行動を取るのなら、細君に心配を掛ける。だからと云って家の中に留まり続けていてはこの心配に押し潰されそうになり、要領を得ない。詰まる所、私は私の中に揺れる選択肢の内どちらが自分の為になるのだろうかと考える以外にする事が無かったのである。

 ふと、台所の方に目を向けると細君が朝食の片付けをしているのが見えた。割烹着に身を包み、冷たい水に手を付けている。食器の擦れる小気味良い音が雨音と同化して、私の耳に届いていた。何時もはそれを見ると、私は忽ち心の中に平穏を取り戻す事が出来た。細君や息子が、私が私自身へ向ける批評を、僅かばかり和らげてくれるからである。だが、私は私の幸福の結晶として疑う余地もない細君や息子の姿をこの目に収めても、一向に平穏を齎される事が無かった。

 その内に、家の中に置いてある家具が全く目に入らなくなった。次いで、あれほど鬱陶しく私の耳を叩いていた雨音が卒然として消えた。聴覚と視覚を失った障害者のように、落ち着きの無くなった心臓は、頻りに私の骨肉を内側から叩いている。私は遂にこの不可解な現象に耐え切れなくなり、前と同じように息子の傍に行って、相変わらず飽きもせず絵が描き続けられている紙面の上に目を通した。そこには、以前と同様の代わり映えのない絵が描かれている。二人の人物と、空に広がる曇天の空、そうして背景に聳える妖怪の山――多少の修正が施されているようではあるが、内容自体は見違えるほどの変化はない。私は、未だに鉛筆を走らせている息子に問いを掛けた。

「何を書いているんだ」

 私がそう尋ねた時、やはり息子は驚いた中に喜色の色を混ぜて頬を綻ばせた。そうして私と細君を描いていると云って、笑った。だが、幾ら見ても私は紙の上に描かれている二人の人物のどちらが私で、どちらが細君なのか判別出来なかった。そこで、素朴な好奇心からもう一つ尋ねてみようと思い立った。紙の上に存在する小さな疑問が心地良く解消されたなら、私の中に蠢く何かも身を潜めるかも知れないと云う思慮の元の行動であった。

「左のが、己れか」

 そうして、私は髪の毛の短い方の人物を指差した。すると息子は私を、丸く邪気の無い瞳で見詰め出した。私の云っている事が疑問のようである。私はその視線の意図を測り切れず、只一心に向けられた黒い瞳を見返した。そして、息子は暫しの逡巡の後に、私が指差した人物とは違う方の人物を指差して、此方がお父さんだよ、と云った。息子の小さな指先に、髪の毛の長い人物がにこりと笑いながら佇んでいる。私はその時、過去の回想の中に身を投じていた。

 私は最近になって髪の毛を短く切った。以前は切りに行くのも面倒に思えて、一纏めにしていたが、やはりそれも邪魔に思えたので一思いに切ったのだった。そして、細君の髪の毛は今こそ肩甲骨に垂れるぐらいに伸びているが、以前は首筋が隠れるか隠れないかぐらいの長さであった。息子に物心が付いたのも、丁度私達が今の髪型でない時である。
 やがて息子は、茫然と絵を見詰める私に追い打ちを掛けるように言葉を続けた。それは、忽ちに私の中の天秤を破壊してしまう言葉の暴力となって、私の鼓膜を劈く。その一瞬間に於いて、私は息子が鬼の子の類かと疑った。それほどまでに、息子の言葉は私にとって辛辣な物であり、鞭撻を通り越して打擲と変化していたのである。

「お父さんとお母さんは、前の髪の毛の方が似合うよ」

 何と云う事だ。私は腹の内で呟いた。そしてその瞬間にはあらゆる拘束を振り解いて、我が家を飛び出していた。家の方からは細君の金切り声が聞こえる。が、それも一目散に駆け去る私の足音と、降り続く雨音とで、一寸足りとも聞き取る事が出来なかった。私は只、私の中で壊れた天秤の皿に乗っていた物の内、原型を寸毫も損なう事なく残った物の方に駆け寄る以外に方法は無いのだと自分に言訳をしていた。でなければ、元より天秤の存在意義は無いからである。
 身体を貫こうと打ち付ける雨は、顔に落ちれば痛く、服に落ちれば重みが増した。休む事なく駆け続ける足は、それでも止まる事はなく、最高速度を保って一つの目的地に向かっている。――遠く聳えるあの妖怪の山に。





 最早地面に堅さなど殆どない斜面を駆け上がるのは容易ではなかった。一歩足を踏み出せば、それだけで体重を支える足は滑り、身体は前のめりになった。転んだのは一度や二度ではない。その拍子に木々の枝によって肌が傷付けられたのも、到底数えられるものではなかった。私は服の内に痛々しい傷跡を何本も残し、泥塗れになりながら妖怪の山の急斜面を必死に駆け登った。まるで自分が幽霊の類に憑りつかれてしまったかのように、脳が下す命令は一点に絞られている。私はあらゆる苦難が待ち受ける虎口の中に、敢えて飛び込もうとしているのだ。その行動を、私は酔興と評するより他にない。この雨の日に、この山に登るのは狂人の行いである。私はその自覚を持ちながらも、後悔はしていなかった。

 私は既に自分がどれほどの距離を登り詰めたのか、解らなかった。只、足だけが必死に動いているのを客観的に眺めているだけである。それだから、疲労など微塵も感じなかったし、ましてや何本と刻まれた傷に痛痒を感じる事も無かった。木々から伸びる、細く鋭利な枝は時折眼球を掠め、上からは石が落ちて来るのも稀ではなかった。私はその悉くを或いは避け、或いは受けながら、半ば自動的に動く足に全神経を集中していた。密接する死の危険に脅える事はない。私は死をも望んだ人間なのだから、それは当然であった。だが、私はこうして駆けている今、確かなる死の恐怖を感じていた。もしもこのまま、不慮の事故に遭って死ぬような事があれば、とても死に切れないと思っていた。

 それが何故なのか、私は未だに解らない。選択肢の内の一つを放擲しておきながら、理解が追い付いていないのは愚者の愚行である事は重々承知であった。しかし、その批評を私は改めなければならない。今の私には、既に愚者としての価値も存在しなかった。何故なら、こうして狂悖した行動を取っている理由が何かを解っているはずであるのに、それに気付かない振りを装っている事をも理解しているからである。腹の奥底の、冥々たる闇の中にその自覚は来るべき時に備えて燐光を瞬かせていた。私はそれが露見されるのを、死の次に恐れている。その自覚が明らかになる時が、私の到底償い切れぬ罪の発覚になるからであり、私の選んだ道の退路が完全に断たれるからである。

 ――どれほどの時が過ぎたのか、私は漸くあの場所に辿り着いた。が、開けた先に広がる光景は幽邃とは程遠く、寧ろ陰惨たる有様であった。連日続いた雨により増水した川は、猛然として荒れ狂い、何もかもを飲み込んではそれを噛み砕き、藻屑としてしまう危険がある。あれほど広かった川辺は今や見る影もなく、私に出来たのは川辺に入る直前の、木々の生い茂る間から川の様子を窺い見る事のみであった。

 その中で、私は私が此処に来た意義を会得する為に、辺りを見渡した。豪と流れる川の音が耳を頻りに突いてくる。雨音が聞き取れないほどに川は氾濫していた。濁った水が、白い泡を立てては飛沫を上げている。この中で何かを探すなど、出来るのだろうかと疑った。が、私はどうなろうとも見付けださなければならない。珍妙な格好をして、淋しく微笑む彼女の姿を。――鍵山雛を、私は見付けなければならないのだ。

 視界を覆う雨は私の眼球の機能を奪おうとするかのように、激しく降り付ける。額に張り付く髪の毛が鬱陶しい。内から滲み出て来る熱が、外界からの干渉によって瞬く間に冷めて行く。彼女が居ないかも知れないと云う危惧に、忘れていた痛みと疲労が舞い戻って来そうになる。私はこの時、涙さえ流しそうになるほど脆弱であった。
 彼女が居ないと云う、只それだけで私はこの世界に一人取り残されたかのような孤独感に襲われた。一思いに彼女の名前でも叫びたかったが、思い出されたように舞い戻ってくる疲労と寒さが、私に声を発する事を許さなかった。心臓は内から破裂して四散してしまうかのように暴れ、肺は空気を取り込むのも辛くなっている。それだから、私は自身に迫る物理的な危機に気付く事が出来なかった。思考能力の欠落した脳は、人間に在るべき生存本能を悉く忘れていたのである。

 私が荒れ狂う川へと視線を戻した時には、全てが遅かった。岩に打ち付けられた泥水の塊が、私に向かってうねりを上げながら突進している。私はそれが迫って来る瞬間、自分でも目を見張るほどに冷静だった。向かってくる水に巻き込まれた石の数さえ解る気がしたほどである。そして、その冷静な思考の中で、漠然と死の運命を感じ取った。この水に飲み込まれたら、生き残る術などない――それは、脳がそう理解するよりも早く身体が悟っている事であった。
 眼を閉じると、途端に轟音が無くなった。私は静かなる世界の中で、来たる濁流と、この身に齎される苦痛とに耐える為に、身を強張らせた。只一つ、彼女に会えなかった事が何より悔いとして残る。私はそう思った時、家族に向かって心よりの謝辞を送り、最後に自分を罵った。――お前はまるで、籠の中の青い鳥だ!







 瞼の裏に闇が広がっているのか、それとも紛れもなく闇が私を包んでいるのか、私が見る世界は暗黒に満ちていた。凶悪な水の塊が寸前に迫った事は覚えていたが、それより先の記憶が途切れてしまっている。幾ら何が起こったのか思い出そうとしても、空白が続くばかりで何も知る事は出来なかった。もしや私は死んだのではなかろうか、とまずは四肢があるかどうかの確認をするべく、両足に力を込め、両腕に力を込めた。すると、多少の鈍痛が走るが、腕と足は問題なく動くようである。私は幽霊の感覚が解らないから、自分はまだ死んでいないのだろうと解釈した。

 四肢の感覚が明らかになると、次は背中に柔らかな何かが敷かれているのに気が付いた。そして、あれほど冷たい雨に打たれて凍えていた身体が、今ではすっかり暖まっている事にも気が付いた。私は暗黒に包まれているばかりだった目を凝らすと、朧げながら次第に浮かび上がって行く周囲の光景を眺めた。
 寝かされている為か、真先に天井が見える。お世辞にも綺麗とは云えない、岩の天井である。私の周りは満遍なく薄暗かったから、恐らく此処は洞窟なのだろう。私は動かす度に痛む首を回して、何とか天井以外に見える物はないかと探った。すると、首を曲げた先に見覚えのある鞄が見える。緑色で、中身が沢山詰まっているだろう鞄と、緑色の帽子、そこから流れる水色の髪の毛――そこに居るのは誰なのか、私はそれらの要素から理解する。どのような経緯を通したのか、私はにとりに匿われているようであった。

「う……」

 にとりに何か声を掛けようと、私は口を開いたが、喉から絞り出されたのは情けない呻き声だけであった。身体が声を出すと云う行為を拒絶しているかのように、何度言葉を紡ごうと思っても掠れた呻き声ばかりが出る。だが、にとりに私の存在を示すのにはそれだけで充分だったようで、彼女は私に顔を向けた。そして、私が既に意識を取り戻していた事を確認すると、慌てた風に駆け寄って来た。心配の色を湛えた瞳が、私の真上から注がれる。私はやはり声を掛けようとしたが、徒労に終わるだけである。にとりはそのような私を見兼ねたのか、漸く口を開いた。

「気分はどう? 大丈夫そう?」

 私はそれに頷く事しか出来なかった。只、声が出ない事をどうにか伝えられないかと、その後に首を横に振った。にとりはそれを見て、また私の傍を離れて、何処からか水が注がれた水飲みを持って来て、それを私の唇に宛がって僅かに傾けた。冷たい水が、体中に染み渡るようにして喉を通って行き、渇いた肺腑を満たしてくれたお陰か、私は咳払いを二三度すると、何とか人並みに喋られるほどの体力を回復した。

「此処は?」
「私の棲み処。少し危なかったから、勝手だけど運ばせて貰ったよ」

 そうか、と呟き、私は身体を起こす。先刻は感じていなかった背中に走る鈍痛が、直ぐに響き、危うく倒れ込む所だったが、にとりに手を貸して貰って、私は座る体勢に落ち着いた。そうして自分の膝元に視線を落とすと、現在の自分の体たらくに心底落胆した。細君ですら振り切って家を出たと云うのに、気付けば友人の手を借りて漸く一命を取り留めている。家族にも迷惑を掛けていれば、にとりにも迷惑だ。甚だ可笑しい。そうして不様だった。

「何で、こんな日に此処へ?」

 にとりが、俯いたままの私に声を掛ける。以前の気さくな態度ではなく、他人を叱り付ける厳かな態度であった。私はそれが何の為の今現れているのか、理解に苦しむ事は無かった。今日のように危険な天候の日に、妖怪の山へ平凡な人間が赴くなど在ってはならない事である。にとりと鍵山と私とで話したあの日にも、もうこの山には近付くなと釘を刺されていたはずであるのに、私はその忠告さえも無視して自ら危険に飛び込んだ。それを誰彼が諌めようと、私に反論など用意されているはずがない。私は懺悔を体現するかのように、黙ったまま俯いていた。

「妙な胸騒ぎがして、私があの場所に行かなかったら、貴方は死んでた。私が助けに来る保障も何も無いのに、それでも助かったんだから幸運だね。神様に感謝すると良い。私がああして駆け付けたのも、神様のお告げがあったからさ」

 彼女がそう云い切った時には、先ほどの厳かさは身を潜め、にとりの本質なのであろう気さくな様子が僅かに戻っていた。私を幸運だと評するのがそれらしい。が、私がこうして生きているのも思いがけぬ僥倖のお陰であるのは尤もであったから、私は小さく笑った。にとりは、そのような私を見て「案外元気そうに見える」と云った。

 それから私達の間には、遠くにあるように聞こえる雨音のみを残した静寂が流れていた。お互いに言葉を発さなかった。また、掛けるべき言葉を見付けだす事が私には出来なかった。本来ならば、すぐにでもこの場から立ち去るべきだとは思ったが、幾ら立ち上がろうと四肢に力を込めても一向に私の手足は動こうとしなかった。それでも無理に動かそうとすれば、体中に刻まれた傷跡が急に暴れ出す。仕様が無くなった私は、結局その場に座るままであった。
 にとりは密かに動こうと奮闘する私の隣で、何か考えているようであった。彼女が自分の棲み処を見せるのを好しとしないのは、以前の会話からも察する事が出来る。そうなると、やはり私が此処に居るのを迷惑に思っているのだろうか。そのような心配事を想像しては、私は申し訳なさに泣きたくなった。

「私は、何となく解るよ。貴方がまたこの山に来た理由」

 唐突に、呟かれるように云われたその言葉は私を脅かすには充分な威力を伴っていた。にとりは澄んだ眼差しで私を見詰めている。その瞳が、一瞬彼女と被った。何もかもを見透かしているかのようなその輝きは、一種の畏怖を私に与えている。私は身が凍らされたかのような錯覚に、暫く外界から解き放たれていた。だが、それも現実の内の時間で換算すれば、刹那にも満たない瞬く間の出来事である。にとりは、一つ一つ言葉を選んでいるかのように、目の前の石橋を何度も叩いて渡るかのように、慎重に言葉を紡ぐ。私はそれを、心して謹聴した。

「……雛に、会いに来た。それで合ってるかい?」

 私は返事に窮した。彼女の雰囲気は、私には測り兼ねる危うさを孕んでいる。例えば、生と死の二択を突き付けられた時のような、恐ろしさがある。彼女の問いに、私は二択を突き付けられている今、一方の答えは死の選択肢と同等であるように思えた。だが、それでも私は正しい答えで応えなければならない。でなければ、細い糸が成す架け橋が、ぷつりと呆気なく切れてしまう。そうなれば対岸に渡る事など永劫叶わない。それでも谷を飛び越えようとすれば、真下の地面に叩き付けられて死ぬ。この時の、私にとって正しい答えとは、彼女の問いに対して素直に応える事である。

「……そうだ」

 私の声は心持ち震えていた。何に恐怖しているのかも漠然として解らぬままである。だが、私の答えを聞いて、先刻の荘厳な雰囲気を取り戻したにとりの態度が、これから聞いてはいけない――否、私が聞きたくない事を話すのではないかと思わせるのだ。それを聞いた時、私は現実と向き合えるのか、それでさえ定かではなかった。
 何故だか、卒然として鍵山の淋しげな笑みが私の脳裏を過った。それが何か良くない予兆である確信はない。しかし、それを凶兆と捉えられないほど、私は楽観的な思考の持ち主では無かった。

 ――にとりは、暫く押し黙った後、重々しく口を開いた。

「――今から雛の事を話すよ。独言だと思って良い。私は只話すだけだから」

 にとりはそう云って、一度私を見遣った。私は只頷くのみである。

「雛は、神様だ。有り難い神様である事に変わりはない。でも、決して他人と繋がれない神様。前に雛と会ったのだって、私は久し振りだった。――貴方、私と雛が仲良さそうに見えた?」
「見えた」
「そうかもね。でも、それはきっとまやかしさ。仲は良くても決して相容れる仲じゃない」
「何故」
「雛は、厄を溜め込む神様なんだよ。人間に纏わり付く厄を、雛が受け止めて害を及ぼさないように監視する。――雛は、そう云う神様。だから、人間や妖怪が近付くと必ず厄が降り掛かる。下手をすれば死ぬ。そうでなくても危険な事に変わりはない。だから、雛は誰とも関わらない。この山に間違って入ってしまった人間が、万が一自分の所為で死ぬような事がないように、そう云う人間を追い返してる。それが、神様である雛に課せられた仕事」
「だが、己れには何も無かった」
「そうかも知れない。でも、普通に過ごしてれば決して負う事の無かった怪我とか、本当に無い?」

 私は彼女と会った日、必ず身体に傷が刻まれていたのを思い出した。急いで山を下った訳でもなく、注意をしていたにも関わらず怪我を負ったのを思い出した。もしかしたら、あれがにとりの云う厄なのかも知れない。

「まあ、雛の周りに厄が余り溜まって居なかったって理由もある。それに、貴方は滅多に居ない幸運の持ち主みたいだし。本当なら、もっと明確な不幸に遭遇しててもおかしくないんだよ」
「それが、己れと鍵山が会えない理由か」
「正確に云えば、会わせたくない理由。元々神と人間とじゃ何もかもが違い過ぎる。深く関わる前に忘れてしまった方が良いよ。――只、私の提案に貴方が甘んずるかどうかが、問題だね」
「それでも会いたいと云ったら」
「私はどうもしない。貴方の好きにしたら良い。雛と会う為の周旋はしてあげるから」

 にとりはそう云って、再び私を見る。荘厳な雰囲気は一寸も損なわれてはいない。とすれば、私もにとりの醸し出す雰囲気に相当する誠意を持ってこの問いに答えねばならなかった。

 鍵山は他のあらゆる生物と相容れない存在だと、私は聞いた。人間も妖怪も、彼女に近づけば須らく不幸になる。故に彼女は他人との関わりを持ちたがらない。誰かに近付く事によって、その誰かが傷付くのを見るのは辛い物であろう。私には想像も出来ないような世界に、彼女は生きているのだ。つまり私が無理に彼女に会いたいのだと云えば、鍵山はまた傷付く事になる。私の勝手な行動で、私が不幸に見舞われれば、それは私にとっては因果応報である。が、鍵山はそう云う訳には行かないのだ。以前、鍵山が見せた淋しい笑顔は、それをありありと示し出していたのだから。

「……」

 私達は双方共に押し黙った。聞こえるのは、心持ち勢いの弱まった雨音ばかりである。
 私の瞳には、にとりが帰れと云っているように見えた。鍵山に私を会わせたくないのか、はたまた私の身を案じているのかは不明である。が、どちらにしても、私が会いたいと云うのを良しとしていないようであった。
 私は長い時間を返事に窮した。私の内にある想いを此処に吐露するのなら、悩むまでもなく会いたいと云うべきである。だが、鍵山の事を考えればそこに苦悩が発生する。穏やかな水面が水滴によって乱れるように、鍵山と云う雫が私の心に波を立てる。その波に静けさを取り戻すのを優先するか、そのまま荒れ狂ってしまうのを望むか、私は悩んでいる。

「只――云っておこうか。決して貴方の為にならないけれど、それでも貴方にとっては大切な物だろうから」

 にとりの瞳を思わず見た。にとりは、何処か諦念のような物を含んだ光を瞳の中に湛えている。そうして、茫然と天井を見詰めながら、「聞く?」と事の是非を私に尋ねた。無論私は頷いた。終わりの見えぬ回廊を昇っている気分であった私に、何らかの切欠を与えてくれるのなら、私にとって良くない事であろうと受け入れられる。
 彼女は、落ち着いた声音で言葉を紡ぐ。それが洞窟内に木霊して行った。

「雛は、楽しかったって云ってたよ。久し振りに人間と話せた事が。それと、嬉しいとも云ってた。あんな風に話してたのは、殆ど初めてだったかも知れないって。それと貴方があの河原に行こうとしていたのを教えてくれたのも雛だよ。危あそこに居れば危険は免れない。殊に私が居れば確実だから。そう云って私に貴方を助けて欲しいって云ってた。貴方がこの山に来る度に、奇跡的に他の妖怪や獣に襲われなかったのも、雛が密かに見ていたお陰。その代わりに、貴方は多少の傷を負う事にはなったろうけど、それでも死なせるよりは良いからって」

 にとりはそう云った。真偽のほどは私には解らない。だが、それは先の彼女の問いに答える為の切欠を充分に持っていた。私は全てを捨てたも同然の人間である。彼女と向き合う為に賭ける物は無いが、それならいっその事この命を賭けようと思った。この命を賭して、彼女に会うと決意した。間違っていると云う事は承知していたが、その認識を覆してしまうほどの感情が、現在の私の中には渦巻いている。――私はにとりに毅然と向かって、「会いたい」と告げた。

「……そっか。どちらにしろ私は、貴方に何を云っても、結局はこの山に来るだろうとは思っていたけど」
「迷惑を掛けてしまって、すまない」
「気にする事じゃないよ。それに、私は最初に云ったでしょ?」

 そう云って、悪戯めいた笑みを投げ掛ける。彼女に一番似合う、無邪気さが含まれた笑みであった。先刻の厳かな雰囲気は、今ではもう無くなっている。にとりの自然の笑みが、そこには在る。私は安堵を感じながら、首を傾げた。私にはにとりが云ったと云う言葉が解らなかったのである。やがて、にとりは蒲の穂を振ると、やはり悪戯めいた笑みでこう云った。――人間と河童は古くからの盟友だからね。

 それから私は暫くにとりの棲み処で過ごしてから、家に戻る事になった。にとりの棲み処を出た時には、あれほど降り続いていた雨は嘘のように止み、静謐な山中には川の流ればかりが木霊していた。時刻は既に戌の上刻にまでなっており、辺りには闇夜が広がっている。とても私一人で帰れる訳が無かったので、麓まで送って行くと云うにとりの好意を有り難く受け取ったのであった。
 にとりは、明日の巳の下刻にまたこの山の、あの場所へ来いと云った。私が、あの場所は川が氾濫していてとても近寄れないと云うと、それは何とかして見せるから安心して良いと云う。確かに、彼女の能力を以てすれば造作もない事であろう。事実、私を助けた時もその能力を使って助けたのだと云っていた。

 家に帰れと云ったのはにとりである。私は鍵山に会いたいと云った時点で家族に顔を合わせる権利は無いと判じていたが、その自覚があれば尚更けじめを付けるべきだと云うにとりの言葉に押されて、戻る事にした。恐らく、私は細君や息子に以前のような振る舞いを見せる事は出来ないが、それこそが私が見せるべき決別の証なのであろう。この時に背負った罪はもう購う事も叶わないが、私は購おうとも思っていない。一生その罪を背負って行く事こそが、与えられた罰であり、地獄に行くまで持ち続けなければならない自覚なのである。

 帰りの道中は、何とも呆気ないものであった。にとりが自身の能力を使って道を作ってくれた為に、今日この山を登った時のような苦労は微塵も無かった。水を含んで抜かるんだ危うい地面も、にとりが居れば忽ちに堅固さを取り戻す。彼女に説明を要求すると、土に含まれた水分を少しだけ端に追い遣っただけだと、教えてくれた。私は成程と思い、一歩先を歩くにとりの足元を眺めていたが、小さな靴から波紋が広がるように、地面が乾いて行くのは何とも霊妙な光景であった。当の本人はと云えば澄ました顔で歩み続けるばかりなので、余計である。

 私達の間に交わされた会話は、先に云った問いと答え以外に何も無かった。只、二人とも無言で真暗な斜面を歩いて降りていた。が、不思議と落ち着かなくなる事はなく、寧ろ私は冷静な方に在った。自身に判然とした決断を付けたからかも知れないが、一寸前までは我が家に帰ると云う事が、自ら猛獣の口の中に飛び込むくらいに恐ろしい事に思えて震えさえあったと云うのに、現在の私はそう云った懸念を悉く忘れてしまったかのように、ともすれば悟りを開いた者の如く、穏やかで居ながらも冴え渡っている。慌てふためくよりは滑稽でなくて良いが、私は自分自身のこの冷静さが、不思議に思えてならなかった。最終的には、これが嵐の前の静けさと云うものなのだろうと結論付けてしまった。

「……そろそろ麓だよ」

 にとりが暗闇の中を見渡すように、瞼の上に手を翳して遠くを見遣った時、彼女はそう云って私を顧みた。私はそうかとだけ答えて、にとりの隣を抜けて行こうかと思ったが、木々の犇めき合う樹海からこの身を出した時に、にとりに呼び止められた。丁度別れの挨拶をしようと思って振り返る所であったから、必然私達は三間ばかりの距離を置いて、お互いに見詰め合いながら立ち尽くす事となった。にとりの青い瞳は何をも語らない。また、察しろと私に語っているようにも見えるが、だとしても私には察する事が何なのか見当も付かない。それだから、やはりそこで突っ立っていた。
 にとりはやがて、何をも語らなかった瞼を寂しそうに細めた。普通の人間と何ら変わらない、人の心を掴む愛嬌がある。私は彼女の元に歩み寄ると、殆ど無意識の内にその柔らかな髪の毛を撫でていた。

「……変だね。私の方が断然年上のはずなのに、ちっとも嫌じゃない」
「その方が姿相応と云うものだ。妖怪だと云っても、見た目は子供だろう」
「その妖怪にそんな事を云ったのは、貴方が初めてだ」
「己れは物好きな人間らしいから」

 彼女の言葉が思い起こされる。私が再び山へ訪れた時に見せた、淋しげな笑みと共に、鮮明に思い起こされる。彼女は私を物好きな人間と評したけれども、私は自分へその評価を向けていない。物好きとは酔興と同義であるが、単なる興味が私の身体をあの山に向けたのではない。それに決して劣る事のない感情こそが、私の足に一心不乱の力を与えたのだ。この荒んだ精神に、不動の想いを焚き付ける事が出来たのだ。彼女に出会い、私は自分に齎された変化の全てをとても枚挙出来ないであろう。この短期間の内に、私はそれほど多くの事を教えて貰っているのだ。

 ――にとりは暫くして視線を私の目に合わせた。背丈には随分と差がある為に、この距離ではにとりが私を覗き込むような形になる。鳥目になったかのような錯覚さえ起こしてしまいそうになるこの暗闇の中で、にとりの青い双眸が煌々と、夜空に瞬く星のように輝いているように思われた。吸い込まれそうになるほど澄んでいる。それでいて、その奥には何人も犯し得ない領域を示す光が宿っている。その時、私は図らずも一瞬我を失っていた。

「ねえ貴方、雛の事愛しているんでしょ?」

 何をも語らなかったにとりの青い瞳が、私に語りかけて来る。無論語りかけて来るのはにとりの瞳ばかりではない。小さな唇から紡ぎ出されるその言葉も、白い頬も、小さな体躯も、全てが私に語りかけているのである。そして、それらは全て先のにとりの言葉に集約される。どれだけ長い冒頭が存在し得ようとも、結局はその疑問に統一されるのだ。にとりはその問いを私に掛けた。ならば私は答えなければならない。己との決別の為に、そしてまた、大きな罪を背負う為に。私は肺腑の隅々に至るまで酸素を充分に染み渡らせて、少しずつ吐き出した。

 ――青い鳥が、羽毛に覆われた翼を掲げて、開け放たれた扉から躍り出る。最早籠は青い鳥を束縛する事は出来ぬ。最早青い鳥は自由である。だが、住み慣れた籠を振り返れば途端にあの温もりが惜しくなる。何時も感じていた青い空への憧憬が、それを諫める。青い鳥はそうして羽ばたく。雀のように小さな体躯であっても、嵐の中を突き進み、身体を貫かんと打ち付ける雨の中を滑るように飛び、何時か晴れ渡る空を夢見て飛び行くのだ。――それが困難な道のりである事は、余りにも判然としている。所詮は小鳥、自分の身を守る術さえ持たぬか弱い命は直ぐに摘まれてしまう。或いは自然の脅威に、或いは逞しい身体を持つ鷹に、そして或いは、孤独と云う寂寞に。

「ああ、だから会いに行く。会いに行きたい」

 ――青い鳥は、私である。





 私が我が家へと帰宅すると、細君は何時もなら寝ているはずの時分にも関わらず居間で独座していた。私の存在には無論気付いているはずである。古いこの家は戸を開けるだけで全体が軋むのだから、気付くに違いない。けれども、居間の机に両腕を乗せて、それを枕に頭を置いている細君は、居間と台所とを隔てる欄間に立つ私に何事も話す事なく、その場に座り続けているのみであった。私はその小さな背中をこの目に収めて、これが私達の間に生まれた壁なのだと、初めて自分が背負った罪を目の当たりにして、幾らか後悔の念を感じたが、もう戻れぬ道である。私は細君の小さな背中を一瞥すると、汚れた身体を綺麗にするべく、暗い浴場へ向かった。

 私はこんな時分だから、到底張られた湯は浸かれるほどの温度を持ってはいまいと考えていたが、その予想に反して私が浴場の戸を開けると、特有の湿気と共に暖かな温気が顔に纏わり付いてきた。不審に思って湯に手を付けると、先刻まで暖め続けられていたかのように湯は温かく、それが細君によって行われた所業だと理解するのに時間は掛からなかった。そして、その些細な細君の優しさですら、私にとっては巨大な岩を担がされるが如く、苦痛へと変貌を遂げる。私は暫くの間手を湯に浸けていたが、やがて我に返ると脱衣場で服を脱ぎ、遠慮なく細君の用意した温もりに抱かれた。

 未だ残る体中の傷は湯を被る度に痛みを伴ったが、それも報復だろうと思って、私は耐えた。凡そ私が経験した事もないであろう、煩悶に満ちた風呂であった。上がった後も、爽快感などはなく、重苦しい何かが絶えず私に圧し掛かっていた。寝室に行く時に見た細君の小さな背中が、その重量を一層増やした心持ちがした。

 今宵の就寝は、何時になく様々な想いが錯綜するものとなった。凡そ心も体も休まらない最低の睡眠である。私は居間と寝室を隔てる戸の、僅かな隙間から差す光を見ては、それを見ないように瞼を腕で覆って、隣りで安らかな寝息を立てる息子の呼吸を聞いては、耳を塞いだ。が、瞼を覆えば耳を塞げなくなる。耳を塞げば瞼を覆えなくなる。その果てしない鼬ごっこの終わりを望み続け、悩む内に、私の意識は次第に曖昧になって闇に堕ちた。

 ――次に、明確な意識を取り戻したのは太陽が稜線の向こうから面を上げて、燦とした光を地に降ろす時分であった。
 明確と云っても、寝起きは低血圧な方である私は、茫然と窓の外を眺めるばかりで意識事態は大して定まってはいない。その瞼を閉じてもう一眠りしたい欲求の中に、今日と云う日がどのようなものであるか、思い出しているだけである。私は暫くの間布団の上で朝焼けに染まった空を眺めながら呆けていたが、その内そうしているのも時間の浪費に思えて来て、それに堪らなくなった私はのそりと立ち上がると、箪笥から自分の着替えを引っ張り出して手早く着替えた。

 寝室に細君の姿は無かった。が、私が居間へと出ると、机の上に突っ伏して寝入っている細君の姿があった、昨夜と何も変わらぬ小さな背中が、規則正しく動いている。私はおいと声を掛けて細君が起きているかどうかの確認をしてみたが、細君は一向起きる気色を見せなかった。私はそれを認めると、寝室から毛布を持って来て細君に掛けて遣った。そうして、まだ随分と寒いであろう朝焼けの空の下に出るべく、短い廊下を通って外に出た。予見した通り、服を三枚ほど重ねて着ているにも関わらず冬の空の下は耐え難い寒気に包まれていた。私は手を擦り合わせて、何とかこの寒さを和らげようとしてみたが、一瞬暖まるだけで手は直ぐに冷えてしまう。それきり私は手を暖めるのを諦めて、歩き出した。

 家の門を出て、道沿いに歩いて行くと結構な広さを持つ畑が目に入る。私が所有する畑である。疾うに見慣れたと思っていたその畑の姿が、何故だか新鮮に思えて、果てには初めて見たのではないかと云う気さえした。環境の変化が人を変えると云うのならば、この事象は私の環境の変化に起因するのであろう。そればかりではなく、環境によって変化した私の人格が、この畑の姿を見慣れない物としたのであろう。私は以前のように集中して仕事を熟す事が出来なくなっていたのだから、それも当然である。何とも無しに見ていた光景が、その原因によって集中して見れるとは、皮肉な物だ。私は一人寂しい自嘲の笑みを落として、畑から目を外した。そして、また道沿いに歩き出した。

 暫く歩き続けると、柊の樹が、一つの集団を作って立ち並ぶ林が見えた。この林は、退魔の効果があるとされる柊の樹を植える事で妖怪を人里に近付けないように、古くから存在する林であった。鋭い鋸歯がある柊だから、おいそれとこの林に踏み込むような真似をした事はないが、この林を只眺めている事は幾度もある。そう云えば、Kと共にこの林を見ていた事もあったと、私は卒然として思い出した。十二月の時分、柊の花が咲き誇る時期であった。

 Kと共に柊の樹を眺めて、何を話していたかは寸毫も覚えていないが、大して何かを話していると云う事も無かった気がする。私達は只、この柊の林を眺めているだけであったのだ。何も云わず、また何もせず、只茫然と眺めるだけの、特に意味も無い行為に時間を費やしていた。私は元より、Kも不満を漏らす事は無かったはずである。私達は互いに申し合わせたようにこの林まで散歩に来て、手頃な位置に席を取ったのだ。今思えば、Kと友人らしい行いをした数少ない行いである。私は郷愁を感じたようで、心持ち安らかになった。

 颯と風が吹くと、柊の細い枝が互いに擦れ合って、囁き声のような音を立てる。ざわざわと、何か良くない事を示すかのような不吉な音であった。私はそれに、漠然とした恐怖を捉えた。柊の林を迂回すれば、そこには妖怪の山の麓がある。私が目的地とする、あの山がある。その山を覆い隠すように立ち並ぶ柊の樹は、成程退魔の役割などではなく、人間をあの山に立ち入らせないように植えられた物である気がしてきた。私はこの木々に忠告されているのだ。あの山に入れば命など在って無いような物であると、諭されているのだ。――私はふと、Kの家で手を合わせたい気分になった。そうして、明日時間が空いたなら、必ずKの家を伺おうと心に決めた。住所は人に聞けば解るはずである。

 ――それから私は、宛ても無く歩き続けて、約束の時間が来るのを待った。
 待っている間の無聊な時間は酷く長いと感じられたが、その時刻が来てしまえばそれも早かったと感じる。私は辰の刻に差し掛かったと思われる太陽の角度を確認して、妖怪の山の麓に立っていた。あの私と鍵山とが出会った川辺に行けば、彼女と会える。その期待ばかりが膨らんで、私は子供のように瞳を輝かせながら険しい道のりを登って行った。

 山中の気温は肌で感じる限りとても冷たかったが、登って行く内に、また鍵山への想いを募らせる内に暖まる身体には何の痛痒も与えなかった。半刻ほども歩き続けただろうか、ふと私が坂の上を見ると、そこにはもう開けた景色が見え始めている。私はそれだけで、心の蔵が忙しなく鼓動を刻むのを感じ取った。
 未だ抜かるんでいる土を踏みしめて、足を取られまいとしながらも出来る限り早く目的の場所に着きたいと足を動かし、私は漸く川辺へと足を踏み出す事が出来た。にとりが云ったように、昨日の氾濫して手も付けられぬほどに暴れ狂っていた川の様子は影も残さず消え失せて、穏やかに流れる川の水が、爽やかな音を奏でている。だが、そうさせた本人であろうにとりの姿は何処にも見えず、私の視界に映るのは清閑な景色ばかりであった。

 仕方なく、手頃な位置に置いてある岩の上に腰掛けて、私は茫然と空を見上げた。蒼穹に漂う雲は、悠然と何処かに向かって流れて行く。その中心に浮かぶ太陽の光が眩しくて、目を瞑った。
 すると近くで物音がした。石と石とが擦れ合う音と、靴音の小気味良い音である。私は反射的に目を開くと同時に、音のする方へと目を向けた。何の前触れもなく、また何の気配も感じさせずに、彼女は実に呆気なく私の前に姿を現した。深緑の瞳が私を捉え、陽光を受けても尚褪せない暗緑色の髪の毛が、風を受けて靡いている。何処か遠く、鳥の鳴き声を聞いた。そうして、私は豆鉄砲を撃たれた鳩のように、その場に佇んでいた。

「――また、来たのね」

 鍵山は私の一間ばかり先に立って、そう云った。私を叱咤するような声音では無かった。ましてや呆れでもなく、怒りでもなく、私には彼女の声音に含まれた意味が解らなかった。もしかしたら、彼女はその言葉の中に感情を込めなかったのかも知れない。だとすれば、彼女の声音が私の理解を超えているのも頷ける。が、それが齎す物は、私にとって決して良い物ではなかった。それだから、私は無愛想に只「ああ」と云ったきりであった。

「私とにとりの忠告は馬の耳に念仏……って事かしら」
「そうではない。忠告を受け止めた上での行動だ」
「にとりも、要らない世話を焼くものね」
「鍵山は何と云われて此処に」
「待ってる人が居る――只それだけ云って帰ったわ」
「待ってる人が己れでは、嫌だったか」

 私の問いに、鍵山は答えなかった。或いは答えられなかったのかも知れない。今まで鍵山が人と、或いは妖怪と関わろうとしなかったのは、自分に課せられた使命故だろう。嫌ではないと答えれば、鍵山は今までの自分を否定するのと同義である。そして、会いたくないと云えば、私が傷付くとでも思ったのかも知れない。良くない答えは誰であれ、後ろめたさが残る物だからだ。が、押し黙った鍵山の真意を私が汲み取れるはずもなく、私は只黙って鍵山の答えを待った。鍵山は、睫毛から降りる例の淋しい影で、瞳を翳らせていた。

「その質問に答えるのは私が最初じゃないわ」

 俯かせていた顔を空へと上げて、鍵山は云う。
 私がその言葉の意味を理解していないのを見て取ったのか、鍵山は続けた。

「貴方は、私が此処に来て嬉しいと云える? これを見て、本当に嬉しいと断言出来る?」

 そう云って鍵山は瞳を伏せた。私は直ぐに勿論と答えようとしたはずであった。例え鍵山が意識せずとも周囲に害を成してしまう存在であろうとも、そのような事は関係なしに嬉しいと答えられる気兼ねを持っているはずであった。けれども、彼女が目を伏せた後に出現した人知を超える光景を見て、私の口は自然と閉じられてしまった。
 彼女は、光を身に纏うように、けれども光には決して成り得ない禍々しい闇に身を包んでいた。それが、私の目と鼻の先にまで近付いている。鍵山と私の間には一間ばかりの距離が離れていたが、それでも尚その闇は私の鼻先を掠めていた。そしてそれを目にした時、私は瞬時に悟った。これが、厄その物なのだと。厄を溜め込む神様――にとりはそう云った。ならば、鍵山の身を覆うこの闇は、私達人間、はたまた妖怪ですらも忌避する厄なのだろう。触れずとも、私はこの闇に危険な匂いを感じた。人間としての本能が、この闇に近付くなと身体の奥底で訴えているような心持ちがした。

「これは厄。生物に災厄を齎す忌むべき汚物。近付けば不幸は免れない。私の傍に居るだけで、私以外の人間や妖怪は不運に晒される。それを知って――ねえ、貴方。それを知りながら、嬉しいと云う事が出来る?」

 蠢く闇が、彼女の言葉と共に一層薄気味悪く動く。私は口を開く事が出来なかった。私は、目の前の厄に対抗出来るだけの強みを何も持たない、極普通の人間である。故に、目の前の闇を乗り越えると云う行為がとてつもなく難儀な事に感じられた。が、後退する事もままならなかった。此処に来た意味を考えれば、その理由が醜く私をこの場に止まらせる。私達はお互いに見詰め合ったまま、見動き一つ取らなかった。

 ――私はふと、自らが辿って来た道を振り返った。それは走馬灯のように一瞬の出来事であったかも知れない。兎に角、私は自分で描き出した軌跡を、顧みていた。険しい山の道のりを下り、麓へと辿り着き、それから暫く進んだ先に柊の林を認め、更に進んだ先に我が家がある。その中に、細君と息子が居る。私を欠いた家の中で、何事かをしているのだろう。私はその光景を思い描いた時に、それが既に放擲されている物だと云う事を思い出した。私は全てをかなぐり捨てて、顧みないと心に誓い、自分の居場所を無くそうとも此処に来たのだ。ならば、恐れる物など何も無かった。仮に私が死んだとしても、気の毒なのは私ではない。細君と息子である。私はそれを罪として、此処に来たのではないか。
 ――青い鳥は、籠の中から飛び立ったのだから。

「己れは嬉しい。鍵山とこうして会えている事も、話している事も」

 岩から腰を上げて、私が一歩踏み出すと、私を覆う闇が圧迫感を与えているように思えた。一種霧のようなその中を、私は鍵山に向かって進む。彼女は私の行動が予期していないものだったのか、私が数歩歩くと自らも後退した。それは彼女が私を気に掛けての行動だったのだろう。怯えと不安とが綯い交ぜになった彼女の瞳の光が、この闇の中からも窺えた。私が一歩進む度に、それは色濃くなり、やがては叫び出しそうなほど彼女の表情は引き攣るようになった。

「貴方、何を考えて……私に近付けば危険だって、死ぬ事だってあるのに――」
「関係ない。危険があっても、死んだとしても、己れは今を大切にする」

 私達の距離は、最早存在していなかった。私は鍵山の言葉を遮って、その私よりも随分と華奢な体躯を抱き締めていた。鍵山は息を呑んだように言葉を詰まらせて、震えている。私は自身の殆ど無意識の内の行動を疑いながらも、彼女の背中に回して腕に力を込めた。すると、一層鍵山の身体の震えは激しくなる。私は彼女の耳元で、先刻の問いを繰り返した。――待ってる人が己れでは嫌だったか。そう尋ねると、彼女は心なしか震えた声で、その答えを紡いだ。

「勝手な人。許可も得ずに抱き締めるなんて、失礼よ。私は神様なんだから」

 恐らく、彼女が紡ぎ出した本当の答えは、その言葉ではなく、私の背中に回された腕だったのだろう。その温もりは、神だの人間だのと云ったしがらみを全て無き物としているようである。私は、私が生きる今に心底感謝し、この先私の身にどのような不幸が降り注ごうとも悔いはしないと云う誓いを胸に立て、彼女の肩に顔を埋めた。鍵山もまた、私の胸に顔を埋め、心地良い一時を享受した。あの闇の圧迫などは、既に感じて居なかった。

 ――青い鳥の宿り木は、ここに在る。





 私の住む界隈に比べると随分と騒がしい人里の中を、私は一人歩いていた。人里の中でも最も多く人間が集まる市は、右を見ても左を見ても、種々様々な店が立ち並び、そのそれぞれが活気付いている。時折漂ってくる何かの料理の良い匂いなどに誘惑されながらも、私は目的の場所に向けて足を一直線に向けていた。
 私が向かっているのは、今は亡き私の友人であったKの実家である。何故だか彼の位牌の前に座って手を合わせたくなった私は、昨日決めたKの実家に赴く決心を揺らがせる事なく、こうして里に出向いている。彼の家は中々に大きいと聞いていたので私如きが中に入れて貰えるのかは甚だ疑わしい所ではあるが、どちらにしろ訪ねてみなければ解らぬ事である。私は一か八か賭けてみようと、気楽な心持ちで歩を進めていた。

 彼の実家への道順は、そこらを歩いている人に聞けば直ぐに知れた。何でも、彼の実家はこの辺りでも相当な地主らしく、有名な所なのだと云う。それだから、この市を抜けた先にある大きな屋敷も相応に有名らしい。私とは余りにも身分が違い過ぎるので、多少驚きに囚われもしたが、今ではこうして気楽な心持で居られるのだから、私は自分の神経の図太さを知るに至った。――そうこう思案している内に、私の目前には大仰な和風の門が構えていた。石の門に張り付けられた表札に、Kの名字が彫られている。私は此処が目的の場所だと云う確信を得ると、門の前で御免下さいと半ば叫ぶようにして声を張り上げた。すると、すぐにこの屋敷の侍女らしき女性が、慌ただしく玄関から出て来た。

「どうかされましたか」

 侍女らしき女性は、門を隔てた向こう側からそう云って、訝しむような眼差しを私に向けた。私はKの友人で、諸々の事情があって葬儀にも出られなかったから、今になってKの為に手を合わせに来たのだが、通してくれまいか。邪魔はしない。手を合わせたら直ぐにお暇するから、と事情を説明し、この屋敷に邪魔する許可を求めた。侍女はそれを聞いて一寸何か考えているようであったが、少々お待ち下さいと告げると足早に屋敷の中に戻って行った。

 暫く空を見上げて過ごしていた私だったが、屋敷の入口の扉が開かれる音を聞いて、そちらに向き直ると、そこには先刻の侍女の姿ではなく、もう随分と年を食った白髪の老婆が、曲った腰を杖で支えながら立っていた。恐らくは八十を過ぎているだろうか、その老婆は覚束ない危険な足取りで、私に向かって歩いて来た。手助けしようにも門は閉じられているので私はこうして老婆を心の内で応援する事しか出来ない。果てには危ないと注意しようとも思ったが、それも老婆が二三歩ばかり歩いた時に、慌てて飛び出して来た先刻の侍女によって阻まれた。

「あの子のお友達ですか」

 老婆は、閉じられた門の向こう側から、掠れた声でそう問うた。その間に侍女は門を開き、中に入るように私を促した。老婆は、はいと答えた私に、殆ど口の周りの皺と同化している唇に緩やかな曲線を描いて見せて、嬉しそうに微笑んだ。そうして、まあ入りなさいなと云って、自分は侍女の助けを借りてよちよちと屋敷の方に引き返し、私はその後に付いて歩き、やがては豪奢な置物やら絵画やらがそこら中に存在する屋敷の中に通された。

 老婆はまず私を、仏壇のある居間へと招待して、手を合わせてあげて下さいと云った。元よりその為に此処に来た私は、有難う御座いますと礼を述べて、仏壇の前に正座して冥福を祈った。別段、他にする事も無く、心の内でKに語り掛けたりなどと云うような事はしなかった。暫く手を合わせてから、老婆の方に向き直ると、彼女は相変わらずしゃがれた声で、話し出した。私にはその声から言葉を聞き取るのが大変で仕方無かったが、耳に神経を集中させて、やっとの思いで老婆の話を咀嚼して行った。

「あの子は物心が付いた時から無愛想な子でね。大人でも同い年の子でも素気ない態度ばかり取ってたものだから、友達も居なかったのよ。お葬式にも親戚ばかりが参列してて、あの子の友達だ、って云う人も勿論居なかったわ。そこへ、あの子の友達だって云う貴方が来てくれたものだから、嬉しくて嬉しくて思わず家を飛び出してしまったわ。わざわざあの子の為に手を合わせに来てくれて、本当に有難うね。折角だからあの子の部屋も見て行きなさい。何も手を付けずに、只掃除しているだけだから、きっと貴方の知らないあの子の部分もあると思うわ。ねえ、そうして行きなさいな」

 しゃがれた声で話す老婆の話は聞き取るのが難儀だったが、恐らくはそのような事を話していたのであろう。辛うじて聞き取れた単語を繋ぎ合わせると、存外話の内容は簡単だった。今日は元より此処に来るのを決めていた為、老婆の提案を棄却する意味はない。私は二つ返事で了承すると、この屋敷の侍女に部屋まで案内して貰った。老婆は体調が優れないのか、別の侍女に支えられて何処かに行ってしまったが、老婆の代わりに私を案内する侍女が「気の済むまで御部屋を御覧になりましたら、御自由にお帰りなさいませ」と云った。

 Kの部屋の内装は綺麗であった。私の勝手な想像ではこの部屋はもう少し散らかっていたのだが、それも容易に払拭されてしまう。尤も、最早使う者も居ない部屋を残しているのだから、この綺麗さは後付けされた物なのかも知れない。様々な種類の本が立ち並ぶ、一貫性のない本棚には新品同然とも云えるほどの綺麗さを保つ本があったし、窓際に置かれた机は隅々まで整頓が行き通っていて、使う者の生真面目さを連想させた。
 置物や絵画など、幾つか有りはしたがどれも自作のようであった。無暗に華美にあつらえた訳ではなく、自分らしさを表現しようとしたのかも知れない。技術こそ、素人の私から見ても拙い物であったが、それでも歪な形をした花瓶や、水の滲み過ぎた水彩画などは、Kらしさを充分に表現していたように思う。殊に彼の云った自由と云う物を、此処に示している心持ちがした。Kはこの歪な花瓶や水の滲んだ水彩画を見ては、自分らしさを誇らしく思っていたのかも知れない。

 やがて、何ともなしに部屋の中を見渡していると、私の目は本棚に置かれた一冊の本に奪われた。
 青い表紙に金文字で幸せの青い鳥とある。私は何となくそれに興味を引かれて、少しくらいなら見ても問題はないだろうと思い、手に取った。幸せの青い鳥――まるで、Kが私に云った言葉の中に出てきそうではないか。もしかしたなら、この中にKの言葉の真意を表すような物語があるのかも知れない。私の興味は益々増して行き、表紙を捲って内容に触れてからは、その中に記された文字を読む事に没頭した。時間など、疾うに気にしてはいなかった。






 随分と長い時間が経過したように思われる。私が立ちながらこの本を読み始め、丁度読み終えた時に様子を見に来たのか先刻の侍女が遣って来た。が、私がまだ此処に居たのが意外だったと見えて、妙な顔をする。私は長居し過ぎたかもしれないと自身の行動を諫めて、もう帰るからと侍女に告げた。しかし妙な顔をした割には、どうぞごゆるりとして下さいと云う。私まで妙な心持ちになったものだから、ついそこに立ち尽くしてしまった。

 侍女にごゆるりと、と云われても私は迷惑な存在に他ならないと思ったから、それから間もなくしてこの大きな屋敷を後にした。思いの外、Kの思い出と向き合えた。長い間使われ続けた机や椅子の全てにKの魂が宿っているのだ。私は今日此処で、K自身と向い合った。そうして、あの言葉の意味を知らしめるに至った。
 果たして私にとってそれが思わぬ僥倖であったのか、それとも不幸であったのか、それは解らない。――が、それでも私はこう思うのである。私は紛れもなく、青い鳥なのだと。

 私がそう思うのは、幸せの青い鳥と云う書をKの部屋で見たからである。その物語の中では、青い鳥は幸福の象徴であった。が、最後には青い空に向かって飛び立ってしまう。あの物語が伝えたい事とは、幸せの象徴たる青い鳥が、真の幸福ではなく、鳥が飛び去ってしまった後に残る家族の愛などが真の幸福なのだと示しているのだろう。
 だからこそ、Kの例えはこの上なく適切であった。この私に対する批評にあれ以上などは存在し得なかったろう。或る意味私は愚かしいのかも知れない。目先の幸福に気付かずに、蒼茫たる空ばかりを見上げて、遂には飛び立ってしまったのだ。住み易い環境を放擲してまで、自分の憧れた幸福に向かったのだ。それは愚かしいのだろうか。そう自問してみても、答えは一向解らなかった。ただ、あの空に飛び立ち、得た物があるのも確かなのである。

 自宅への帰路を辿りながら、私は口の中に繰り返し呟いていた。
 ――お前は青い鳥だ。籠の中の青い鳥だ。
 Kの声が卒然と思い出されたような心持ちがした。






「一つだけ、約束をして欲しいの」

 Kの実家を訪れた翌日、私は例の河原に赴いて鍵山と逢瀬していた。きょうもにとりが手を回してくれたのか、川の水は濁ってはいるが穏やかに流れている。その潺湲の響きは、濁っているとは思わせぬほどに澄み切っていた。
 そのような時に、鍵山は唐突に云った。彼女が何時も浮かべている、淋しげな笑みはそこにはない。寧ろそこには、神として在るべき姿を体現しているかのように、厳かな態度がある。私は驚いて、暫し黙った後にその約束が何なのかを尋ねた。声は落ち着いていなかったように思う。此処でまた、会えないと云われても私は到底納得出来ないだろう。既に私は、私の持っていた全てを放擲してきたも同然な人間なのだ。

「これから一週間は、私の所へ来ないようにして」

 私は図らずも、目を丸くしていたように思う。それほどまでに鍵山のその発言は私を驚愕させた。その驚愕の内訳は、意外の感よりも理不尽な現実に対する憤りに近い物があったかも知れない。鍵山が持ち掛けたその約束は、私が危惧した物でなくともそれに近しい意味を持っている。それ故に、私が納得出来なかったのも仕方がない。私はそれが当たり前であるかのように振舞う鍵山に近寄って、理由を問い詰めるべく、声量を大きくした。

「それは一体、何故だ」
「……最初から判っている事でしょう。私は神で、貴方は人間。そして神である私には与えられた役目がある。その役目を熟す間の一週間は、人間では立ち寄れないわ。精神論でどうにかなるほど、簡単な物ではないから」

 詳しく語らない鍵山に不信感を抱きはしたが、それを外界に発散する前に私は前に云われたにとりの言葉を思い出した。鍵山は厄を溜め込む神なのだとにとりは云った。だから普通の人間とは、そしてまた妖怪ですら決して相容れぬ存在なのだと。それを念頭に入れて、私はもう一度考えた。これから一週間、何が行われるのか。そしてそれらの中で鍵山との関連が少なからずある物を、探し出そうとした。

「……流し雛」
「解るのね」

 頭の中で近々行われる行事を思い出していると、正にそれが私と会えなくなる最大の理由なのだとすぐに気付いた。穢れ――即ち厄を洗い流す為に、自分の代わり身として人形を川に流すのが、その行事である。それはつまり、洗い流した厄を鍵山に委ねると云う事だ。今までとは比べ物にならぬほどの厄を彼女は溜め込み、それを害なく解き放つ為に私とは会えぬと云っているのだろう。諦念の感を秘めた表情で悲しげに俯く鍵山からは、それが手に取るように解った。

「それは必ず果たさねばならない事なのか」
「でないと人間は幸福になれないわ。只でさえ、厄の付きやすい生き物なんだもの」
「だが、それでは鍵山が貧乏くじを引いているじゃないか」
「そう云う神様なんだから、仕方がないわ」

 私達の間に起こった問答から、私は察するのを余儀なくされた。否、それは元より覚悟を決めていた事であろう。鍵山はそう云う神様なのだ。生まれを呪う事は許されぬ。与えられた使命は果たさねばならぬ。それが神としての在り方なのだ。毎日を安穏と過ごしていた私には考えも付かない過酷な責務を、彼女は持っている。それが例えどんなに理不尽だろうとも、私はそれを受け入れねばならない。でなければ、鍵山はまた悲しむ。

 が、幾らそう思えども、私には一向納得が行かなかった。辛くはないのかと問うても、鍵山は寂しげな笑みを浮かべて辛くなんかないわと云う。それが余計に、私を不快な心持ちにさせるのだ。決してそれは鍵山の所為ではない。私は自分の厄を全て鍵山に託すと云う身勝手な全ての人間に対して憤りを感じていたのだ。無論、納得はしなければならない。それでも私は、腹の内であらゆる人間を軽蔑し、怨嗟した。最も身勝手なのは、独り善がりな考えを持っている私なのだと云う自覚の元に、それは成り立っている。しかし、その自覚を持ちながら私はこの憤りを抑える術を持ち得なかった。

「――解った。これから一週間、己れは此処に立ち寄らない」

 暫く悩んだ末に、私はとうとう決断を下した。しかし、この決断には或る打算が少なからず含まれている。果たしてそれを鍵山が本当に望むかどうか、その猜疑心を糧に生み出された打算は、鍵山にとって良い物ではないのだろうが、それでも私は敢行する勇気を持っていた。そしてそれは、鍵山が例の笑みを浮かべるか否かに、明暗を分つ。

「……そうしてくれると助かるわ」

 ――果たして、鍵山の唇が象ったのはやはりあの笑みだった。この浮世を自ら遠ざけるかのような、厭世的な笑みが象られていた。その笑みは私ですらも遠ざけている。神と人間との間にある溝をより深くさせている。鍵山はそう云ったきり幽邃な景色に目を向けた。そうして無理に繕ったような不器用な笑みを私に向けて、話をしましょうと持ち掛けた。――私の打算は見事に的を捉えた。私が好いていないその笑みを浮かべているのが、何よりの証拠である。

 私は視線の先に濁った川を収めながら、同時に鍵山の横顔を見たりした。他愛のないやり取りの中で楽しげに笑う鍵山の姿は紛れもなく本当の姿である。自分を高尚だと見定めていただけかも知れないが、所詮私にはそうする事でしか鍵山を理解する術を持っていない。だから私にとっての真実とは、今見ている光景の全てであった。
 平凡な会話を交わしている中、私は唐突に云った。驚かすような意図があった訳でもなければ、不信感を抱かせたい訳でもなかった。只、自己を守る為の保険を、此処でかけようと思ったのだ。

「覚悟は出来ている。出来ているから、鍵山も覚悟をしていてくれ」

 鍵山からしたら、それは全く要領の得ない依頼だったろう。彼女は不思議そうに目を丸くして、何を云っているのか解らないわと云った。私は解らなくても良いから、覚悟をしておいてくれと云った。

「面白い人ね」

 くすりと微笑んで見せた鍵山は、するわと云った。
 そのような、恐らく意味を成してはくれないであろう保険は、それでも微かな安心感を私に与える。満足したように私も笑って、それから取り留めのない話の続きをし始めた。

 服の下に嫌な感覚がある。私は努めてそれに気付かないように、鍵山との会話に集中した。それは決して吐露してはならぬ秘密事である。幸いな事に、鍵山は全く気付いていないようであったから、私も少しの安堵を得る事が出来た。
 一週間と云う短い時日の間、この場に立ち寄らない事。――それが私と鍵山が交わした約束である。私はその約束を胸の内に秘めながら、相反する私の中の意地と闘わせていた。勝敗は元より決定している。極めて愚かしい愛に走った愚者の一人として、私はその勝敗の様子を傍観していた。







 雲一つ見当たらぬ清々とした天気が空に広がっていた。暖かな陽気を提供する太陽が顔を出している今日、上着は脱いでも苦にならないほどの好天気である。私はそんな中、一人散歩をしていた。
 長閑な風景は既に見慣れた物だが、遠くに聳える妖怪の山だけは何時でも新鮮な印象を私に与える。その妖怪の山を視界に収めながら、私は歩いていた。澄んだ空気は私には似付かないほどに涼やかで、空で明るい囀りを響かせる鳥達はまるで私の心中の反対を表しているようである。一種の罪悪と戦いながら、私は散歩とは云えぬ行為を、敢えて散歩と称しながら歩いていた。風の凪いだ静謐な世界には曇りがない。それだから、私の心中は一層曇っていた。

 今日は例の柊の林を見なかった。私が目的地を目指す道のりが普段と違っているからに他ならないが、退魔の力を持つと云われている柊の木が見えないだけで私は不安に襲われる。それが昨日と違って、一変した私の状況を端的に表しているのだろう。だが同時にこれは一つの戒めでもある。何の助けも必要とせず、どんな運命が私に牙を向けようとも恐れぬようにする覚悟なのである。――私は今日、鍵山の元に赴く。

 暫くの間歩き続けていると、遠くに幅が広く、緩やかな流れが落ち着いた旋律を奏でる川岸に辿り付いた。そこには結構な人が集まっている。私の予期した通り、妖怪の山から流れる川に、雛人形は流されていた。
 老若男女問わず、此処に居る誰もが手にしている小さな人形は、それを持つ人間の厄を受け取って鍵山の元へと辿り着くのだろう。私は厄その物を見た事がある所為か、それが明確に解る心持がした。まるでそこに人々の誰もが、身体に薄気味悪い闇を纏っているかのように思われた。鍵山に纏わり付いていた物と同様、一目で危険だと解るおぞましい闇が繋がり合い、遂には川を流れる水にそれが映り、透明な水が濁って行く錯覚さえ覚えていた。

「此処から余り遠くに離れないようにして下さい。この場所ですら危険な事には変わりないと云う事を忘れないように。特に子供や御老人方は気を付けて下さい。決して私の元を離れないように」

 ふと、川岸を歩きながら楽しげに人形を川に流している子供や、信仰の厚そうな老人が手厚く人形を扱い、願を掛けて川に流す姿を観察していると、声を張り上げて流し雛を仕切っている女性を目にした。銀色に輝く長い髪の毛は、まるで水銀の趣を凝らしているかの如く、風に靡いている。明らかに周りとは違い、異色の雰囲気を持つその女性は、何処か鍵山と似通った所があるように思えたが、何処がどう似てるのだか、まるで見当が付かない。
 けれども態わざわざ面倒事を増やしたくもなかった私は、その女性に対する興味を無理やり打ち切って、再び歩き出した。向かう先はこの川の上流である。私には人々が人形を川に流す姿を見る必要があった。どうしても、その姿を目に焼き付けておきたかったのである。そして私の目に映ったそれらは、やはり身勝手な者ばかりだったように思える。その人形を流す事により誰が苦労するのかまるで解っていない人間達を見ると、知らず知らずの内に拳を強く握り締めていた。

 ――鍵山はこの光景を見て何を思うだろうか。やはり、あの淋しげな微笑を湛えたまま、仕方がないわと笑うのだろうか。私はそう考えると、鍵山を思う気持ちが胸を握り潰そうと力を入れてくる感覚を覚える。あらゆる関係を絶ってまで、何も知らぬ人間達の為に厄を引き受けるなど、誰が望むだろう。鍵山だって決して望んでいないに違いない。望んでいないとすれば、この一週間は甚だ迷惑である。

 私が歩く道は平坦から緩やかな傾斜になり、それから急な坂へと変わって行った。終いには歩くのではなく大きな岩を踏み台に飛び上がって行くように、私は山を登っていた。当然疲労が溜まりはしたが、見慣れた光景が目の前に開けると、その疲労も何処かへ飛び去ってしまったかのように思われる。私は足取りを軽い物に変えて、更に川岸を伝って行った。この先に鍵山は居る。一人厄を引き受けている鍵山が居る。交わした約束の糸は今にも千切れそうである。

 平生の私ならば、何の問題もなく鍵山の元を目指して進んでいた事であろう。
 それがどうした事が、軽快な足は卒然として重くなり、私に何の痛痒も与えはしなかった疲労は今更になって身体を苛め、私の体調はがらりと変わった。終いにはこの先に進むと云う行為に恐怖を覚え、流れる汗は冷やかになって行った。まだ比較的明るい時分にも関わらず、目と鼻の先に闇が広がっているように見える。それが現なのか幻なのか、とんと解らない。それら全てが、鍵山の約束の理由に帰着するのであろう。この事態を見越して、鍵山は私を遠ざけたのだと云う事実が今になって私の理解に及んだ。

 自白すれば、私は見誤っていた。昨日の内は鍵山と普通に接していられたのに、今はその存在を感じるだけで膝小僧が笑い声を上げ始める。この一週間と云う時日の僅か一日目にして及ぼす影響力がこれほどだとは思っても居なかった。それ故に困惑は大きい。私は私の目的を果たす前に、その前提を通過出来るのかも疑わしかった。けれども、進まねばならないと思っていた。そうしなければ私は此処最近私が歩んだ軌跡を、否定しなければならぬ心持がした。
 これしきの苦難に立ち向かえないで居ては、今後鍵山と一緒には居られない。私はこの壁を乗り越えねばならないのだ。これが唯一、私に乗り越える可能性を与えている。それ以外の壁は、高過ぎて私には決して越えられない。だから私はせめてもの慰みに、この壁を乗り越える選択をしたのだ。――例えそれを、鍵山が望んで居なくとも。

 それから踏み出す一歩は、とてつもなく長い時間を要した。続く一歩も、やっとの思いで出していた。膝小僧は笑うだけに済まなかった。体中の関節が痛み出して、この前進を拒んでいるかの如く思われる。それでも実際にはまだ如何なる被害も受けていない足を、私は動かした。闇の濃くなる方へと、一生懸命に。きっとこの闇の中心には光があるのだと信じて疑わなかった。そして私は、漸くその光の一端をこの目に収めた。

「……」

 鍵山は、舞っていた。
 何時か見た、型も何もないあの舞いである。
 それを見た瞬間に、私は私を取り囲む闇の全てが晴れた気がした。暗闇しか見えなかった世界には再び色が灯り、その中心で一際明るい色を放つ鍵山が動く度に、私の目を眩ませる。身体の異変も無くなったよう思えた。余りにも現実離れした鍵山の舞いが、錯覚を起こしたのかも知れない。実際の私はまだ得も知れぬ苦痛に呻いていて、立っているのもやっとの状態なのかも知れない。だが、それでも私はこの時ばかりは、その全てを忘れたのだ。

 鍵山は私の存在に気付いていない様子であった。ただ例の淋しげな笑みを口元に湛えて、それでも気持ち良さそうに踊っている。まるで、私と鍵山が初めて出会った頃に戻ったかのような心持である。私は得体の知れない美しい女に見惚れ、鍵山は私の存在に気付かず、何処か滑稽な構図で私達は存在している。
 鍵山は手を太陽に翳し、スカートの裾で円を描きながら何度も廻る。それが一回転、二回転と進むにつれて、後ろの崖に罅が入って行く。やがて、鍵山が幾度と廻った後で、彼女は川岸の方へ近付いて、その先に広がる森に挨拶をするかの如く、大きく礼をして見せる。動く度に飛沫を上げる水滴は陽光を受けて煌びやかに輝き、白い鍵山の肌が殊更に白く、美しく艶を放つ。妖艶な姿は終わりを知らず、それから限界まで背筋を反らせ、雲一つない青空に向かって身体を開く。それに釣られるようにして、私も鍵山が見る空を見上げた。そこには何もない。ただ白い太陽が目を眩ませてくる。少し離れた所には鳥が飛んでいる。が、鍵山の見上げる空にその鳥が近寄る事は遂になかった。

 鍵山は後ろに下がりながら、廻る。崖の上から大きな石が落ちて、川の中に点在する岩に打ち付けられた。細かい破片となった石は、雹のように川へと降り注ぎ、彼女の周りに落ちた。それによって高く跳ねた水滴が鍵山の頬を濡らす。目尻に当たり、頬を伝い、顎から滴る。或いはその前に、鍵山の激しい動きに跳ね飛ばされた。それから鍵山は天に手を翳した。途端に、緩やかに吹いていた風が止み、木々の囁き声が消え失せる。瞬時に森閑となったこの空間に、水の跳ねる音ばかりが響き渡っている。鍵山はその中で、終局に向かって奔走して行った。

 彼女の舞いを最後に飾ったのは、鮮やかな回転であった。翻るスカートが円を描き、彼女の腕に巻き付いたリボンが解かれて大きな円を描く。二重の円の中心に居る鍵山は楽しそうに、悲しそうに何時までも廻っている。私はその時、自身の心臓の鼓動が激しく脈打つのを感じた。胸の扉を叩くかの如く、動悸は激しくなり、それが却って舞曲に調和を齎す。どんと鳴る心臓に合わせて鍵山は廻り、後ろの崖に罅が走る。――やがて、彼女はぴたりと止まる。あの日と同じに、私の方へと向いて、観客に向かって一礼をする道化師のように、スカートの裾を摘まんで、頭を下げた。
 ――その瞬間、後ろにある、川の方へと出っ張った崖が、音を立てて落ちた。膨大な質量の落下は、川の水をうねらせ、爆発させる。津波の如く鍵山の背後から襲い来る水の壁は、しかし鍵山に当たらなかった。丁度、以前にとりが見せた時のように、鍵山を避けるようにして波が真二つに裂けたのだ。それが舞いの終局を表したのであろう。白い飛沫が渇いた石に叩き付けられるのを眺めながら、私はそう思った。

「また、来たのね」

 長い礼を終えて、顔を上げた鍵山の瞳は確かに私を捉えていた。だからこそ、独白にも聞こえるその言葉は呟かれたのであろう。私を見る鍵山の瞳には、約束を破った事に対する憤りは見えなかった。只、あの淋しげな笑みが浮かんでいる。私はその笑みの中に鍵山の悲しみを見出した。そしてそれを見付けて、きっと彼女は涙を流さずして泣いているのだと、思った。
 それを最後に私の意識は途絶えた。糸の切れた繰り人形の如く身体は動かなくなり、暗幕が目の間に降ろされたかの如く、景色が見えなくなった。只、倒れたはずの身体に何の痛みも感じなかったのは、確かである。







「貴方、やっぱり変よ」

 私の目が覚めた時、鍵山の顔は真上にあった。その上に宵の色彩に染まった空が見える。煌びやかな光が炯々と輝くのを背景に捉えながら見る事の出来る鍵山の顔は、何とも美麗である。鍵山の表情は何処か穏やかで、何処か悲しげであった。傍目から見れば無表情だったのだろう。だが、私にはその無変化の中に確かな変化を見出せた。しかしそれを見ながら、それに対して何か言葉を掛けようと思えども、一向その言葉は見付からない。

「そうだろうか」

 鍵山の批評はよく解らなかった。一般の人間と自分とを比べて見て、明らかに一般と異なる点を見付けた事はあるが、この時の鍵山の言葉にはそれ以外に何か意味が込められているような心持ちがした。それを妙に思って、その違和感の理由をもしかしたなら鍵山が語ってくれるかも知れぬと云う打算的な考えの元にそう呟いた。私を見下ろす鍵山の瞳には未だ変化は現れなかったが、真一文字に結ばれた唇を動かすには充分だったようである。

「だって、こんなに危険な所なのに幸せそうに寝ているんだもの」

 そう云われ、少し辺りを見渡すとそこは私が此処に訪れた時から何も変わらぬ河原の光景が広がっていた。妖怪の山、人間が恐れおののく危険な場所に、私は鍵山と二人で居る。確かに、妙なのは私の方であった。だがそれは命の価値を浅く判じる私を知らない鍵山が受けた一般の思いだったろう。傍目から見れば確かに私は変な人間に変わりはないが、私の主観から見れば何もおかしな所などはない。単純な動機の元に、単純な身体が突き動かされたのみである。

「幸せになる為に此処に来ているのだからそれも道理だ」

 そう云った後で、私はこの言葉自体が甚だ滑稽だと思った。厄を溜め込む神である鍵山に近付く事が幸福への第一歩だなどと、霊妙な話である。黒を白にしたいと望み、けれども敢えて黒の絵具に黒の絵具を混ぜるのと殆ど同義であった。黒に黒を混ぜたとて、白に成り得るはずもないが、それでもその黒の中に私は幸福を見出している。それが殆ど同義であって、完全に同義でない所以であった。私は不幸の中心――鍵山の膝に頭を乗せながら、そんな事を思った。

「不幸の中に幸福があると云う矛盾を、解消出来ると云うの」

 鍵山らしからぬその問い掛けを意外に思った私は、思わず上にある彼女の双眸を見詰めた。その中には真剣な光が宿っている。背景に瞬く星々にも劣らぬ輝きが秘められている。私は一瞬怯んだ後、鍵山の云う矛盾を解消する言葉を持ち得ない事に気が付いた。解消する感じは捉えているけれども、それを表現する言葉を見付けられないのだ。だから私は曖昧な答えを返すしかなく、それが鍵山の満足を促せぬと解っていながら、不完全な答えを提供した。

「出来ない。――出来ないが、解っている」
「それもとんだ矛盾ね」

 彼女は諧謔を交えたような調子で微笑しながら云った。その時に漸く穏やかな表情が固定されたように思われて、私は安堵した。が、その安堵も長く続かないと思っている。何故なら不幸を身に纏う鍵山にとって、先刻の問いは自身の幸福の在り処を求めているからに他ならない。不幸の中に幸福が絶対に存在しないとすれば、彼女に幸福は有り得ない。私は努めて正しい答えを返さねばならぬ立場に居た。居たけれども、解らない。だからこの安堵も長く続かないのである。

「――貴方、立てる?」

 暫くお互いの瞳を見詰めているばかりであった私達は、鍵山の言葉によって変化した。
 約束を守らなかった私を帰らせる為なのだか、純粋に私を心配していたのだか、判然とした区別の付かなかった私はつい大丈夫だとも、大丈夫でないとも云えなかった。元より身体が良くない。鉛を全身に巻き付けたかのように、ずしりと重みが掛かっているように思われる。そうして肺の辺りが痛い。私はその痛みが平生と懸け離れた今の状況と、鍵山が私の在住を快く思っていないと云う推測の元に生まれた不安なのだと解釈した。

 問い掛けられて、何も云えずにいた私に向かって鍵山は何も云わずにいた。只私の瞳から視線を外して、何処をともなく眺めている。周りには闇ばかりが広がって、光など淡い月光だけであったが、それでもこの山に降り注ぐ光は充分に闇を打ち消してくれている。森の中は一寸先も見渡せぬほどの暗闇が広がっていたが、私達の居るこの空間だけはまるで別世界のように、明るく照らされていた。

「また来るつもり?」
「また来る」
「危険だって、充分に云い聞かせたつもりなのに。それでも来ると云うのは、貴方が勝手なのか、それとも真っ当な理由があるのかしら。あると云うなら、たった一週間の時日も耐えられない理由を是非聞きたいわ」

 鍵山の口調には一種愉快な響きがある。私が答えられぬと思い、からかっているような口調にも見えれば、真剣にその理由を聞きたがっているようにも聞こえる。私にはそれが甚だ愉快であった。理由を尋ねる調子が、猜疑を抱く人間のそれではなく、確信を得ていて敢えて尋ねるように思えたのである。つまり鍵山のからかっているような口調は、真剣な裏面の隠れ蓑で、本来の真剣な方の調子が私には際立って見えたのだ。

 私は少し、自分の性格に対して疑いを持った。かつて悲観的な捉え方をし易かった私が、今では全く逆の人間になっている。楽観的な思考は必ずしも良い結果を出すとは限らないし、寧ろ慎重になれる悲観的な思考の方が良い所はあるかも知れない。平生私はそう考えていた。が、今ばかりは習慣的な一般論は無意味に思える事が出来た。鍵山と同様、相手に対して持つ確信が、その一般論を忘れさせる。それ故に楽観的な思考が齎すのは楽天論であった。

「舞が見たい。何度でも見たいから、何度でも来る。舞わぬのならそれでも良いが、そう云う建前を置けば会いに来ようとも不自然ではないだろう。理由などどうでも良い。大事なのは直感的な行動力だ」
「それじゃ貴方、やっぱり勝手な人だわ。そんな事を云われたら姿を眩ませられないもの」

 そうして私達は笑い合った。身体は重いが、心は今までに感じた事がないほどに軽やかである。
 それから、鍵山はその様子を見るととても家に帰れそうもないから、暫くはにとりに匿って貰いなさいと云った。鍵山は夜通し厄を溜め込むのだと云う。また、自分は神だから別に一週間程度寝なくとも大丈夫なのだと云う。無論心配したが、鍵山は一向に引く様子を見せなかった為にとうとう私が折れて、大人しくにとりに匿って貰う事にした。棲み処の場所は知っているらしい。私は重い身体を必死に引き摺りながら、にとりの棲み処に連れられて行った。

 ――肺が痛い。
 私の性格の変質によって齎された解釈は、私を苛んで離さないように思われた。







 私が我が家に帰らぬようになってから経過する時間は、酷く早かった。また遅いとも感じられた。鍵山の所へ赴く度に悲鳴を上げる私の身体は既に限界に達していると云っても良い。しかも、それは日を重ねる毎に酷くなる。鍵山が云った通り、多くの人間が持つ厄を一度に溜め込めば相応の不幸が界隈に齎されているようであった。だが私は一向に鍵山への訪問を止めようとはしなかった。日に日に顔色の悪くなって行く私を見てにとりは何度も注意したが、それも何かと理由を付けて断わり、私はとうとう三日間彼女の元へと通い続けた。

 だが、四日目に目が覚めて、いざ鍵山の所へ行こうとしたところで、私は明らかなる身体の異変に気付かされた。平生が健康な身体だったから、その異変は殊更に大きいように思える。今まで気質の変化の所為とばかり思っていた肺の痛みが、急に激しくなりだしたのだ。起きてみれば、咳が止まらず、ごほんと息を吐き出す度に刺すような痛みが胸に走る。喉は完全にやられ、声を出すのも億劫で、出せたと思えばそれは自分の物とは思えぬほどに掠れている。私は初めてその声を聞いた時、Kの実家に赴いた事を思い出していた。丁度、あそこの老婆がこんな声だった。

 何にしろ、私の五臓六腑が破壊されつつあるのは既に傍目から見ても明らかであった。そしてそれを更に刻薄な現実として私に叩き付ける事実が、四日目の朝、にとりから告げられた。雲行きの怪しい、今にも雨が降りそうな嫌な天気の日である。にとりは私が病を患っていると云った。それも、一昔前に流行った病なのだと云った。極め付けに、その病は決して治らないと云った。私の寿命は後少しもないらしい。にとりは肺の痛みが酷くなるのは、この病の末期症状なのだと云った。目に見えない所で、この病の種は着実に芽を出し、成長していたのである。

「何が原因なのか、解らない訳じゃないね」
「……鍵山を取り巻く厄の所為なのだろう」
「まず間違いはない。幸福に見えて、水面下で不幸に遭っていたのに違いはないだろうさ」
「今日、また鍵山の元に行けば、持たないか」
「持たない。雛の厄は日毎に増す。それが病の進行を早めているから」
「ならば今日が最後か」
「最後にしようと思うなら最後、そう思わないのならまた行けるよ」
「最後にしようとは思わない。だが行かないとも云わない。行かなければならない」
「どうして。急がなくとも時期を見極めればまだ時間は沢山あるのに」

 私とにとりは、彼女の棲み処である洞窟の入り口付近で、曇天を見上げながら話していた。にとりは何時かの厳かな声音よりも更に重厚感の増した声で、私はしゃがれた情けない声で、言葉を交わしていた。

 今ではもう、私の目は何をも明瞭に映してはいない。何もかも縹渺としているように思える。その中でにとりの瞳ばかりが徒に輝いている。私はにとりの問いに答える前に、暫くの時間を敢えて要した。

「舞いが、――ああ、舞いが見たいのかも知れない」

 話している合間にもそれを阻害しようと牙を剥く咳が煩わしかった。思うように言葉が口を出ない。にとりからすれば素っ頓狂な理由であったのだろう。目を丸く見開いた中に見える空色の瞳がやはり輝いている。私はまた曇天を見上げた。縹渺とした景色しか見えなかったが、元からぼんやりとしているあの空だけは何時も明瞭に見える。もしも太陽が空を支配していたなら、私の目には白い空が映った事であろう。今の私に、この鈍色の空は丁度良かった。

「舞いは何時でも見られるよ。何時でも見られる。見られるけど――」

 そこでにとりは言句を切った。唇を噛み締める白い歯が覗いている。それから先ににとりが何を云おうといたのかは解らない。だが、それでもにとりは私に多くを伝えたように思えた。私は何も云い出さなかったにとりに、ありがとうと呟くと、背を向ける。最早私を止める手立ては尽きた。それは既に私の意識を超えている。にとりはそれに感付いたのだろう。だからこそ、それ以上を云わず、静かに私を啓発してくれたのだろう。

「盟友にあげる為の胡瓜が、まだ沢山あったのにね」

 その声は心持ち震えている。にとりは何を思っているのだろうかと、一瞬そんな考えが頭を過った。鍵山の事を考えているのかも知れないし、私の事を考えているのかも知れない。どちらにしても、にとりには辛く感じられた事であろう。それでもそんな冗句を以て別れの挨拶にしたにとりには心底敬服せざるを得ない。私は振り返らずにその場に止まり、最後になるだろうにとりとの会話に終止符を打つべく、言葉を口にした。

「くれるなら、細君と息子にあげてくれ。人里から離れた辺鄙な所に建てた家がそうだから」

 今にもその分厚い天井のような雲は細い糸に変化しそうであったが、この時になってとうとう降り始めた。鼻先を掠めた水滴が、一滴二適と続いて落ちて来る。私は鍵山の所に辿り着く頃には、もうこの雨は土砂降りになっているだろうと判じた。そして同時に、水に良く映えるあの舞いを、土砂降りの中で躍ったならさぞかし綺麗に見えるだろうと思った。最後の我儘なら聞いてくれるかも知れない。そんな事を考えつつ、歩き出す。
 ――背中に、「さようなら」と小さな声を聞いた気がした。







 鍵山の元へと向かう道中、私は今までの人生の中で経験した事がないほどに、外界から齎される干渉の悉くを拒絶していた。私がそうなるのは、無論Kに云われたあの言葉の意味について考える時である。だから私は、身体に感じているはずの雨の冷たさや、肺の痛み、咳の辛さなども、全て忘れていた。只足が動くのはその中でも判然としている。私は一種繰り人形の如き歩み方で、終焉へと続く道のりを歩いている。

 今思えば、Kのあの言葉は今この瞬間の私を批評する為に云われたように思える。Kが未来予知などと云う卓越な能力を持っている訳もないが、奇しくも私の現状ほどにあの言葉の意味が的確に当てはまる時は今までに無かったのである。
 Kは私を籠の中の青い鳥だと評した。当時は何の事を云っているのだかとんと解らなかったが、あの物語を目にした私にはKの真意の一歩奥まで理解する事が出来た。そうしてそれを、今の私に当てはめて見ると愉快とさえ感じられるほどに適切なのである。

 青い鳥とは即ち私自身である。傍目から見ても幸福な家庭を持つ私は、確かに幸せの象徴と云っても差し支えなかったろう。だが、一般的な象徴たる青い鳥が私だった故に、私はその幸福に気付かなかった。それ故に青い空への憧憬を捨て切れず、今まで居た籠の中を飛び出したのだ。そして宿り木を見付けた青い鳥は新たな幸福を噛み締めた。それが鍵山との出会いである。これらが少し前まで私が持っていた、Kの言葉への解釈である。

 しかし、今の私の解釈は少々異なっている。
 私は青い空に憧憬を持っていた事には持っていたけれども、決してその空に羽ばたく事は無かったのだ。飛び立ったとばかり思っていた私は、その実新たな籠の中に入り込んだに過ぎない。例えるならば、この比喩の中で云う籠が鍵山の纏う厄で、その中にあつらえられた羽休め用の木が鍵山なのだ。しかも籠はとても狭い。その上内側に棘がある。青い鳥は羽を動かす度にその棘によって傷を付けられる。出ようと思えば出られるけれども、その木から離れたくないが為に、棘の痛みを甘んじて受け入れる。そしてとうとう羽がもげてしまう時が来た。それが今日、この日であった。

 私は、私が生きて来た軌跡を滅多に振り返らぬ男だと云う自覚があった。死を目の当たりにした事も、死の危険に巡り合った事も無いからかも知れない。Kが死んだ時でさえ、何時かは死ぬと云う絶対の運命を考えなかった。そんな私だったから、鍵山を好いたのかも知れないと思う。或いは自分が不幸だと思い込んで疑わなかった私と、不幸その物である鍵山とが、因果の元に偶然出会ったのかも知れない。――そんな私が死について考えている。平生死とは懸け離れた位置に居た私は、既に死を肌で感じるほどに、自分の命の残量の少なさを予感していた。

 朝だと云うのに薄暗い妖怪の山は風光明媚に映った。重苦しい雲海を背負いながら、時折吹く冷たい風に梢を揺らされる樹木も、その風に吹かれて宙に舞う落葉の数々、或いは虫の鳴き声や鳥の鳴き声、何処からともなくどんな生物かも知れぬおぞましい咆哮、全てが美しく聞こえる。そこに雨音が混じり、一つの合奏が誕生する。さながら前に見た鍵山の為に奏でられた舞曲の如く、美しい調和を生み出しているように思われた。

 だがそうして視界が判然としてきて、耳が外界の音を捉え始めると、思い出されたようにして、私の肺は痛み出し、喉は枯れて咳が出るようになる。自分の脳に作り出した小さな部屋を出て見れば、そこはもう現実の世界なのだ。私はその象徴たる苦悶に呻吟しながら、更に足を進めた。次第に近付く闇が、鍵山への接近を示している。それでも私は恐怖よりも先に、悲しみよりも先に、嬉しささえも飛び越えて、溢れんばかりの幸福を感じたのである。

 私は今一度Kの声を聞いたような心持になった。お前は籠の中の青い鳥だと、罵るような呆れたような、或いは激励してくれているような、そんな不思議な声音のように思われた。もしかしたら、当時Kがあの言葉を私に云った時、彼は私の自堕落振りに呆れたのでもなく、只運命に敷かれるがままに生きていた私に癇癪の角を表したのでもなく、純朴に私の幸福を羨んでいたのかも知れない。彼は自由だった。自由だったけれども、独りだったのだから。







 そこはまるで、別世界のようであった。
 あらゆる人間の因子が一つに集まり、そこに作り出された膨大な闇は、彼女の云った厄と云う物なのであろう。今やそれは、此処界隈だけを夜にしているかのようである。平凡な人間であるはずの私にさえ判然と映すその光景には驚嘆させられるべき要素があったが、残り時間の少ない私にそんな暇はなく、生唾を飲み込むとその闇の中に足を踏み入れた。

 闇の中はその姿が与えた通りに、熾烈な不幸を雨のように注いでいるように思われた。急に痛み出す身体の節々と、痛みを通り越して、異物が入ったかのような感覚に転じた肺の痛み。枯れた喉は貪欲に水を欲していて、せめてもの慰みに口に入れる雨粒も、喉を潤す事はない。既に満身創痍な私が、この場に足を踏み入れるのは容易でなかったと、今更になって気付いたが、それでもそこに乗り越えねばならぬ壁がある限り、私に引き返す事は許されなかった。

 鍵山はどちらを望むだろう。
 そう考えた事は道中で何度もあったが、その度に私は鍵山の批評を思い出す。彼女は事あるごとに私を「勝手な人」と評した。そしてそんな部分が、鍵山に好かれているのだろうと私は思う。誕生した時からの運命に縛られ、望みもしなかった役割を与えられ、自由奔放を許されない立場の鍵山が感じたのは、私がKに感じた憧憬と羨望と同義だったろう。

 鍵山の傍に行こうとする時、私は何時も同様の想像を頭の中でして、自分を励ます。この辛い空間に居る時は心が折れて挫けそうになる事もあったから、それに負けるのを潔しとしない私はそうして鍵山の元に辿り着いていた。私は頭の中にこう云う想像をする。この暗い世界を抜けた時、まるで目を潰さんばかりの明るい光が私を出迎え、燦然と輝く太陽のような温かみを以て私を癒してくれるのだと。そして鍵山も何時もそうだった。私の想像した通りに、闇の中を抜けて来た私を癒してくれるのだ。さも嬉しそうに微笑みながら、出迎えてくれるのだ。それも私が此処に来る理由の一つなのかも知れない。女の喜ぶ顔が見たいからなど、性に合わないように思うが、今日ばかりは感傷的になるのも無理はないと思った。最早今日私が死ぬのは自明の理になりつつある。体調が大変著しくないのは私が一番解っていた。

 ――肺が痛む。やはりこの肺は痛む。その痛みを心臓へ移したかのようにも思われる。そうして血液に移って全身が痛い。何処が痛いかも解らないほど、全身が痛い。殊に頭が痛む。頭を通して脳へ行き、そこから痛みが目に流れて来るようである。そう思った途端に、目が熱くなる。痛み故に感じる熱なのか、判然としない。だが今度はそれがいきなり冷やされた。温い水が膜を張ったように思われる。それが頬を伝っている。私はこれが恐怖であり悲しみなのだと漸く気が付いた。その時には、太陽の如き眩い光が私を包んでいた。その中心に鍵山の姿を認めた私は、その場に崩れ落ちた。

「……また、来たのね」
「また来た。だが、そろそろ限界も来たようだ」
「貴方、泣いているの」
「鍵山だって泣いている」
「じゃ、これは雨ね」
「それなら己れのも、雨だ」

 鍵山は私の元に歩み寄り、俯せに倒れた私を抱き起こすと、何時かと同じように頭を膝の上に乗せた。雨に濡れた布は冷たい。痛みに火照った身体を、程よく冷ましてくれる。そこに鍵山の体温をしかと受け止める事が出来る。私にとってはそれの方が重要な事実であった。私達はそうして渇いた笑いを零した。この場を取り巻く雰囲気はあの曇天のように重く苦しい。

「……己れはもう死ぬよ」

 私は冷たい空気をどうにか肺の中に取り込んで、やっとの思いでその言葉を吐き出した。途端に鍵山の私を見る目が険しくなる。鍵山の前で自らの病状をかつて告白しなかったのだから、驚くのは無理もない。私は頬を張られる覚悟もしたが、鍵山はその手を私の額に乗せるだけで、何もしなかった。只悲しげに伏せられた目に、睫毛から落ちる影が淋しげな表情を作り出している。恐らく、自己を苛める罪悪感が、その表情を作らせているのだろう。

「知っていたような云い方なのね」
「結局理想を見ているだけだった。現実を鑑みれば、今の己れほど滑稽な者はそうは居まい。死期も悟った。済まないが、今日限りで己れは死ぬ。身から出た錆だ、因果応報だ。己れは何も出来やしなかった」

 私はそれを云った後で、自分が自分でないような錯覚に囚われた。弱音ばかりがこの口を出て行くのは、死が間近に迫っているのか、せめてもの言訳をしたいからだったのか、それも判然としない。或いはこれが私の本心だったのかも知れない。それでも鍵山は私を蔑視する事はなかった。最初から無謀で、とても勇敢だとは云えない行動に走った私を今更責める事もしなかった。だが、寂しげな影は一向なくならない。私は何か云わないといけない気がしたが、吸い込まれそうになるほど透き通った深緑の瞳に魅せられて、何も云えなかった。

「滑稽かも知れないわ。最初から無理だったのよ。一週間は来ないで、って云ったはずなのに。ねえ、解るでしょう。私を取り巻くこの厄に近付けば危険だって。鳥も決して私の上を飛ばない。虫も近寄らない。川に住む魚は、流れに逆らってでも私から離れる。それなのに貴方は近付いた。今日死ぬのも、摂理ね」

 ――ああ、そうだった。鍵山は孤独を望みたくないばかりに、それを望むようになってしまった。無論それが確かなのかどうかは私には解らない。だが、一時の間を置いてとうとう口にされてしまった私を責める言葉は、その悉くが本来の意味を伴っていなかった。その全ては瞳に落ちる影が語っている。鍵山の声は心持ち震えていた。

 鳥も決して私の上を飛ばない。雲と太陽だけが広がる空を、彼女はどれくらい見たのだろう。
 虫も近寄らない。綺麗な合奏を聞かせてくれる虫を、彼女はどれくらい見たのだろう。
 川に住む魚は、流れに逆らってでも私から離れる。自由気ままに泳ぎ回る魚を、彼女はどれくらい見たのだろう。
 それなのに貴方は近付いた。今日死ぬのも、摂理ね。――彼女が人間と懸け隔たるのは、これで何度目なのだろう。

「――青い鳥と、云われた事がある。青い鳥は、幸せの象徴なんだそうだ」
「そんなに幸せだったなら、なんでこんな不幸に遭っているの」
「青い鳥は自分が青いとは気付けなかったらしい。甚だ滑稽な話だ」
「それなら、今の貴方は青いのかしら」

 ふと漏らした呟きは、鍵山に一寸の興味を与えてくれた。急な話題転換を訝しむ目をしたが、鍵山は自ら発した問いの答えを求めているように思われる。だが、私は答えられなかった。自分が青い鳥でない事は解っている。青い鳥は実質的な意味を伴って、初めて青い鳥として信仰される。だが私に実質的な意味はない。あるのは実質的な不幸ばかりである。そこに、この間の矛盾が発生している。何故なら、私は今確かに、幸福を感じているからである。そしてその幸福は、私ではない別の所にその根源を置いている。私だけでは幸福は感じられない。誰であれ、他人なくして幸福は有り得ない。私にとって本当の青い鳥とは即ち、鍵山なのである。私は実質的な意味を伴わない、只青いだけの鳥であった。

「青くない。だから、――ああ、そうだった。もうすぐ己れは死ぬのだった」

 言葉少なに私は云った。鍵山の問いに対する答えにするには、甚だ不十分である。どうしても誤解の方向に解釈してしまうような言葉を、私は口にした。再び私の中に起きた矛盾を、表現する言葉が見付からなかったのだ。
 不安はあった。私が死んだ時、起こり得る誤解が鍵山を苛めはしないかと。その不安を解消するには私は新たに言葉を続けねばならない。しかし私を蝕む病魔の牙は、それを許さなかったのだ。もう言葉を口にしても、それが正常に形成されない事は解っている。肺は痛み出す。喉は苦しくなり、血の混じった咳をする。何か云おうとすればそれが私の邪魔をする。苦痛を省みずに何か云おうと思ったが、やはり咳に阻まれるばかりで、どうしようもなかった。

「青くないと云うけど、貴方はやっぱり青い鳥よ。だって、云ったじゃない。青い鳥は自分の身体が青い事に気付かないって。その理屈からしたら私も青い鳥じゃないわ。貴方が青い鳥だもの」

 私は言葉を発せられない代わりに、目を見開いて驚きを表現した。
 私の心の内など解らないと思っていたからこその不安が、鍵山の言葉によって瞬時に解決されてしまったのだ。そしてその言葉には新たな響きが含まれている。鍵山は自分を青い鳥だと称したも同然なのだ。そこに、私が此処に敢えて訪れ続けた意味が全て込められている心持ちがした。その時に、あれほど瞳を曇らしていた影が消え失せたのだ。私を見て微笑を浮かべる鍵山には、もう一片の影もない。燦爛と煌めいているかのような姿が、そこにある。
 ――鍵山は青い鳥だ。私はそれを、鍵山に届けと云う願を掛けて、心中に呟いた。

「ねえ、何か頼み事はある?」

 目が霞む。痛みはもう消え失せた。鍵山の声も、山彦の如く聞こえている。曇天の空はまだあるのだろうか。まだ穏やかだった川のせせらぎは、聞こえているのだろうか。雨は――雨は降っている。けれども暖かい。雨であって雨でないような心持ちがする。何故なら私の感じた雨は、柔らかな温かさを持っている。
 そんな事ばかりを考えながら、私はたった一つの頼み事をする為に奮闘した。

「……舞いが、――舞いが見たい」

 それが私の頼み事であった。切実な願いは、とうとう私の奮闘の末に届けられた。

「もう舞っているわ。ねえ、見える?」

 思いの外、鍵山の答えは早かった。もう舞っているのだと云う。だから私も頷いた。鍵山は舞っている。雨の降り注ぐ中、その舞いはとても映えていた。鍵山がよく見せた回転も、雨を弾いているように思われる。そうしてその弾かれた水が綺麗である。一種花火のような趣がある。にとりが見せた水の演出まである。噴水が鍵山の周りに幾つもあって、それらが一斉に水を吹き出し、飛沫の向こうで舞う鍵山は神聖なる美しさがあるように思った。
 
「ああ、とても綺麗だ。ちゃんと見えている。――とても、綺麗だ」

 鍵山が礼をする。スカートの裾を摘まんで、恭しく礼をして見せる。私はその姿を見て感想を述べた。多くを語る事は出来ない。だが、その言葉が全てを伝えている。最後に彼女の名前を云った。すると、嬉しそうな顔をする。私も嬉しくなって、つい頬を綻ばせた。――私も雛も、青い鳥に成っていた。








――了
 
 まず御読了して下さった方々、ありがとうございます。
 今回のコンペのテーマに於いて、この作品では直喩的な表現と暗喩的な表現をしました。
 純粋に水が成す景色の美しさ、澄んだ音の綺麗さ、それらが出来ていたら幸いです。
 またこの作品の主人公である私≠フ考え、または心と言うべき物が、どんな形にでも変わってしまう水の性質に酷似している事を感じて頂けたら嬉しく思います。特に青い鳥≠ニいう単語が出てくる時、それはより顕著になっていると思います。

 誰であれ幸せは願いますが、その様々な形による葛藤に悩まされる物語にしました。
 端折るべき所が多々あったかも知れませんが、個人的に最低限書きたい事は全て書き終えたように思います。
 本当はもう少し時間が有ればその後の事についても書きたかったのですが、余りにも時間が足りませんでした。これは別の場で語りたいと思います。SSという形にしてですが。
 それでは長く語るのもお目汚しとなると思うので、この辺で。
 
 
twin
http://touhoudream.blog.shinobi.jp/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2008/10/05 08:19:21
更新日時:
2009/02/08 00:46:18
評価:
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5.00
1. 7 慶賀 ■2008/10/05 13:16:42
テーマは青い鳥ですか?いいですねー。こういうこんぺみたいな
場において、読者に喧嘩売るような文章を書かれると自分の一本が
グッと硬直します。この話の理解?さっぱりわかりませんでしたけど。
良い意味で。
2. 7 小山田 ■2008/10/07 11:53:11
良質の小説を読み終えた読後感に浸っております。
卓越した文章のおかげで長さもまったく苦になりませんでした。
ただ一点、登場人物たちの心情の薄っぺらさだけが気になりましたが、だからこそ流されるままストーリーにマッチしていたのかもしれませんね。
3. 5 佐藤 厚志 ■2008/10/09 07:02:32
太宰治とか夏目漱石とかの文学作品を髣髴させるssでした。
重厚な描写のスキルをお持ちなのだと思いますが、余計に言葉を使いすぎている気がします。時たま軽く書く、描写のメリハリが欠けていると感じました。
4. 9 #15 ■2008/10/11 11:01:41
非常に深い作品ですが、一つだけ。何故、彼が子の言葉に、それほどの衝撃を受けたのか。それが全く理解できません。一体、如何なる意図があったのでしょうか?
5. 9 yuz ■2008/10/12 00:20:04
幻想的だ。お腹いっぱいになった。
6. 10 三文字 ■2008/10/12 19:20:01
この後の話も見たいような、見たくないような……
なんというか、最後の情景を思い浮かべて涙が出そうになりました。
素晴らしい修辞の数々、凡庸な幸せを享受していた男の本当の幸せ……読んでいて、本当に心地よい一時でした。
男の行動は傍から見れば身勝手で独り善がりなもので、残された家族の今後を考えると何とも言えませんが、それでもハッピ−エンドといえるんでしょうね。
とにかく、素敵な作品をありがとうございました。
7. 5 あずまや ■2008/10/16 21:50:28
自分に足りないものを、埋めていくような物語だったと感じました。心の隙間に水を満たしていくような。
緻密に書き込まれた文章で、読み応えがありました。
8. 6 deso ■2008/10/23 22:43:30
大変濃密でした。
しかし、楽しめたかといえば、難しいところ。
どこか収まりが悪く、落ち着きません。
多分、長々としたわりに、主人公がやったことがただひたすら雛の元へ通うだけなので、今ひとつ盛り上がりが足らないまま萎んでしまった感があります。
もっと何か、ガツンとするものが欲しかったです。
9. 6 神鋼 ■2008/10/25 17:58:48
主人公の行動があまりにも理不尽、まるで泥のように淀んだ読後感でしたが、
そこに魅せられる作品でした。
10. 3 ミスターブシドー ■2008/10/27 01:01:48
……長いのは丁寧な描写があるからなんだが、それが入ってこないというか。
長さの割に展開に波がない。ゆっくりと坂を下りている感じがある。
読ませる勢いが欲しかった。
11. 7 詩所 ■2008/10/29 00:26:13
後書きにも書いてあったことですけど、丁寧すぎる表現は文のリズムを悪くすることがあります。
情景叱り、説明叱り。
最初のほうは良しにしても、しつこく書かれると読むほうも疲れるし、文としてプラスにならないかと。
同じ言葉も見られましたし。
物語の内容として非常に好みだったために少々悔やまれます。
12. 6 PNS ■2008/10/29 21:54:12
描写に関しては、作者さんの狙い通りに出来ているのでは、と思います。
しかし、水がテーマとはいえ、全体的に文が湿っていて重たすぎる気がします。
主人公にも感情移入がしにくいです。
たとえ暗かったり切なかったりする内容でも、引き込まれる話というのはありますが、この作品については読んでいて盛り上がれませんでした。
ごめんなさい。
13. 6 眼帯つけた兎さん ■2008/10/30 06:37:05
水というよりは青い鳥、もしくは幸せについてのお話。
心の流転を水と捉えるに至るのはあとがきの後でしたので。
ぶつり、と途切れるような終わりが死の無常さ、そして静けさを感じさせました。
14. 1 つくし ■2008/10/31 11:38:36
 まず、この文体は昭和までの「知識人」と呼ばれたもののそれであり「学のない百姓」の文体ではないです。時を経ているとはいえ明治から隔離された幻想郷の、しかも底辺社会の教育を受けた人間にしては「近代的自我」が自己主張しすぎです。線路の存在を自覚した瞬間人間は線路をそれるものでありまして、最初からそれを知っている主人公は生まれたときから線路の上など走っていないのであります。この矛盾によってへんなロマンチシズムというかナルシシズムばかりが前面に押し出されて終始鼻につきます。そして主人公の行動原理に説得力が見出せません(とくに子供の絵を見てから以降)。せっかくの水準以上の文章技術も使いどころ次第でありました。ところでもしかして夏目漱石の「こゝろ」とか好きなのでしょうか?(Kとかその辺から、なんとなく。)
15. 9 じらふ ■2008/10/31 21:47:44
しみじみ幸せって何なんだろう、と考えさせられてしまいました。「青い鳥に成った」「私」は、雛は、本当に幸せだったんだろうか、不幸だったんだろうか。
それとも他者がそういう二元論で語る事自体が間違いなのか?
「私」の家族やKについてもどうであったかと言う部分も含めて、正直これを書いている時点でも思考がぐるぐる回っていて良く分からないです…。
ただ…何か悲しい気はしました、と。不幸ではなかったとしても、「私」も雛も悲しく切なく思えてたまらない。

若干長めでしたが、丁寧な文章だったので最後まですっと読むことが出来た気がします。後日談を書かれた暁には、是非読ませて頂きますね。

追記 それと「流し雛を仕切っている銀髪の女性」は永琳でしょうか?
自分の中の永琳像は作中の雛と同様、どこか人との距離をとった態度と内に秘められた優しさを持っている人なので、流し雛を取り仕切る役目にふさわしいなあ…なんて、そんな風に思えたもので。
16. 4 リコーダー ■2008/11/01 09:17:16
何だか……
誰も幸せにならない物語をここまで力作に書く、というのも逆に凄いと思います。
家族は捨てる、周囲の忠告はガン無視と、結局最後まで主人公に感情移入が出来なかったのですが、それこそ「水」なのかー
17. 7 今回は感想のみ ■2008/11/01 15:07:46
力こもった作品というか、力をこめすぎて冗長になり、ややくどくなって構成の効果が半減した部分があります。
ですが、こういう情念のこもった話は好みです。人間を書こうとした意欲と十分な筆力に敬意を抱きます。
ただ、心が水に酷似しているということですが、この物語で登場人物がもっていた心は水とはちょっと違う気がします。
というか、水の自在な形になる性質とか持ち出されると、最悪どんな物語を書いても適応できる便利すぎる解釈になるような。
それに、読んでいて水をまったく感じませんでしたので、その分は減点します。
18. 6 八重結界 ■2008/11/01 18:52:57
人間は愚かしいけど、愚かでなければ人間でない。そして愚かでなければ恋もしない。
死で終わらせると大抵は悲恋になりますが、これはきっと幸せな恋愛だったのでしょうね。
19. 6 藤ゅ村 ■2008/11/01 20:46:12
 ちっちゃいことだけど、キャラを苗字で呼ぶのって結構珍しい。
 縦書き、本の形態で読みたいかな、と思いました。主人公の語り口が淡々としているのも相まって、読むのに時間が掛かる。じっくりと舐めるように読むのには向いていると思うのですけど。
 幻想郷の一部、というには、ちょっとばかり西欧の雰囲気が漂っているような。妖怪の山という単語が出てきて、雛が登場するまで、どこかヨーロッパの山奥の話かなと思っていたので。明治時代の文学ぽいのかも。
 雛とにとりの会話は、とても彼女たちらしくて好きです。彼女たちなら、こういう話し方するだろうなって思えたので。

 人は浮気をする生き物です。相手が神であれ、別の世界であれ。
 どこの誰から見ても幸せそうな家庭を持つ人が犯す過ちとは、つまるところこういうものなのかもしれない。
 それが過ちなのかどうなのかは別にしても。
20. 8 木村圭 ■2008/11/01 22:03:51
過剰装飾気味でくどい。内容の割に長い。終わり方が尻切れトンボすぎる。何より、息子の言葉にあれほどまでにショックを受けた理由が分からない。自分の愚かさ加減が恨めしいです。
青い鳥が明確に物語に絡みだしてからは圧巻でした。
比較的穏やかに流れる前半には肉厚な文章をスムーズに流すだけの力が無く冗長ささえ感じましたが、後半部では加速していく流れにも負けない重厚さが非常に心地よく感じられました。
文章だけでなく会話も随所にセンスの感じられる素晴らしいものでしたが、中でも主人公とにとりの別れのやり取りは際立っていたと思います。
そう突飛なものではありませんが、最高の一は決して突飛である必要は無いということを改めて。強く心を抉られたその時の私には考える余裕も無かったのですけれども。
前半をもう少し軽やかにまとめていれば非の打ち所の無い作品になったのではないかと思います。この辺りの感触はかなり好みに左右されやすい部分ですけれども、個人的には残念でなりません。
座して完結を待つ次第。採点はこのSSのものです、当然ですが。
21. 9 blankii ■2008/11/01 23:24:45
ラストシーンがあまりにもキレイだったもので――光景としても、意味的なものの上でも。

他者のない幸福はない、とのテーゼが書かれていたのだと(勝手に)解釈しています。他者の裡にこそ己の幸福を認め、それ故に自分ひとりでは幸福にはなれないのだ、と。
あと、雛に対する愛情みたいなものがヒシヒシと伝わってくる文章で、キャラクターの魅力をきっちりと引き出していたのがなんとも心憎いです。
22. 6 時計屋 ■2008/11/01 23:53:29
最初はただの青い鳥症候群の話かと思ったのですが、なるほどこう纏めるとは。

自分が不幸だと思い込んで疑わなかった「私」と不幸その物である雛とが出会ったのは因果のもとの偶然だ、
というこの一文が実に皮肉めいて面白い。

しかし肝心の葛藤の部分にどうもいまいち共感できなかったのは、主人公が最初から半ば自棄的に妖怪の山に入っていったところから話が始まっているからかもしれません。
また雛の舞いの美しさに比べて、それを引き止める役割をする家庭の幸せ、そして災厄の苦痛、主人公の苦悩が十分に描かれていなかった気がします。
ですから私にとってこれは葛藤の話ではなく、最初から結論ありきの話に理由付けがされている話にしか見えませんでした。

また文章がややもっさりとしているという印象です。
描写するのに難解な語句の使用に頼りすぎていることや、雛の舞い以外の部分の文章が淡々としていることが原因かもしれません。
長いSSですので、(特に序盤)どうやって読者を惹きつけるか、構成や文章等にもう少し工夫があっても良かったように感じました。
23. フリーレス つくね ■2008/11/03 19:32:10
感想期間には間に合いませんでしたが、せめて感想だけでも述べさせて頂きたく存じます。
一途な思い、盲目とも言いますがそれが美しく、また愚かでかつ綺麗です。それが丁寧に描き出されていて鮮やかに思います。終わり方もこの流れに沿う形でこの作品の雰囲気には合うものの、しかし明確ではないので若干物足りなさがあります。いっそ亡くなるまでを描いてしまえばよかったようにも。
あとは小作人の割には随分と現代っぽくもあり。背景は江戸あるいは明治の地方農村と言った感じですが、どこか昭和初期の町中のようにも感じてしまいました。(たぶんつくしさんが指摘される部分のせいかと)
点数を付けるなら6か7か。
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