モノクロ色フローティングノイズ

作品集: 最新 投稿日時: 2009/05/09 19:51:10 更新日時: 2009/05/09 19:51:10 評価: 25/25 POINT: 159 Rate: 1.42
 
 
 
 ――始まりが突然だったかと言うと、多分そうだったのだと思う。






 冬の天気というのは、どうも今一つパッとしない空模様が多かったりするのだが、たまにはからりと晴れる日だってある。
 そんな日には、寒さのせいで家に籠りがちになっている幻想郷の面々も、少しのわくわくを心に秘めつつ、青空の下、静謐な冬の景色を楽しんだりするのだ。
 霧雨魔理沙もそんな一人であった。

 いつものとんがり帽子と白黒な衣装。それに加え今日は毛糸のマフラーと手袋を装着し、外出の準備はばっちりであった。何しろ久々の快晴である。満喫しないと損だ。
 特に何処へ行くとかの予定はないが、適当にぶらぶら飛べばきっと何かおもしろい事にぶち当たるだろう。
 そんな期待を胸に魔理沙はわくわくしながら大地を蹴り上げた。勢いよく相棒の箒と共に飛び立った大空。家屋が地上の点となる高度に達するまでものの三十秒とかからない。


「うーん。いい天気だ。最近はずっと体にカビが生えそうな生活してたからな。太陽の光が気持ちいいぜ」


 肌をなぞる冷たい空気も今は爽快だった。
 上機嫌な魔理沙の丁度目の前にはふんわりと浮かぶ雲。それを見て魔理沙は楽しげに唇を歪ませる。何か思い付いたらしい。

 数瞬の後、彼女は全く躊躇する事も無く、勢いそのまま雲の中へ突入していた。水蒸気に阻まれ真っ白になる視界。
 もちろん前なんか見えないが、大した問題ではなかった。何しろ広い大空だ。そうそう衝突事故なんて起きるものじゃない。
 久々に晴れた空のせいで魔理沙ははしゃぎたいのだ。だから今は好きなだけ視界ゼロの空間を楽しめばいい。


「ははは。こりゃ愉快だ」


 ちょっぴりのスリルを伴うこの雲中飛行に楽しそうな笑い声を響かせつつ、魔理沙は颯爽と雲の間をすり抜けていく。
 そして、数十秒の後、彼女は十分な速度を維持したまま、分厚い雲を突き抜けた。

 ぽっかりと雲に空いた大きな穴を背後に、再び冬空を滑空の舞台に戻した魔理沙。
 しかし、その快活な表情が、ふと顰められた。慌てたように急ブレーキをかける。
 ふわりふわりと空中に浮かびながら。彼女は挙動不審に辺りをキョロキョロ見渡していた、

 違和感。

 眼前に広がるのは、当然空である。幼いころより何千回と見てきた、美しい幻想郷の空である。
 しかし、


「これは……? 一体どういう……?」


 例えば、視界の無かった1分にも満たないほんの僅かな時間で、その光景が、単なる気のせいと看過できないほどの、常識では考えられないほどの大幅な変化を生じさせていたとしたなら? 
 思わず呟きが漏れる。

 冬の空とは本来澄み渡っているものなのだ。故に彼女が見るのはひたすらに綺麗な青色でなければならない。
 しかし、今この瞬間、目の前に映る空はどこか異質であった。

 すなわち青さが足りない。まるで黒の絵の具でも掻き混ぜられたかのように、すっかりくすんでしまっていた。
 唐突に彩度の剥落してしまった光景に魔理沙はごしごしと目をこする。しかし、灰がちな空は相変わらず。
 何かぞっとした物を魔理沙は感じた。酷く気持ちが悪い。

 先ほどまでの溌剌とした気分はすっかり消え失せてしまっていた。
 ごくりと唾を飲み、冷や汗を手の甲でぬぐう。
 このまま遠出と洒落こむには、あまりに落ち着かない精神状態だった。
 くるりと、来た方へ箒の舳先を向ける。そして随分と慎重な……そう、無意識のうちに何かにびくついてしまっているような足取りで、魔法の森にある住居への帰途に就いたのだった。












 モノクロ色フローティングノイズ 〜 魔法使い霧雨魔理沙の暗闘












「おい……? これは一体……冗談きついぜ」


 雑多な道具類がうず高く乱雑に積み上げられた光景は、見慣れた自室のそれである。
 しかし、つい数時間前より何一つとして変化の無いはずのそれを前に、魔理沙は明らかに動揺していた。

 冬というのは、大地を覆い尽くす純白の雪のせいで、随分と色彩が乏しくなる季節ではある事は知っている。しかしそれでも流石にこれはおかしかったのだ。
 当然家屋の中にまで雪は積もらない。あの手この手で収集した愛すべきアイテムたちが、その色彩を白に浸食される事なんてあるはずないのだ。
 それなのにである。魔理沙の大きく見開かれた瞳。信じられないような表情。

 目の前で転がる銀のオルゴールには、深紅と紺碧のガラス細工が装飾されている。熟練の職人の手によるものだ。
 その隣では、刃が剥き出しになった宝剣が立て掛けられていた。柄に埋め込まれたアレキサンドライトが鮮紅色の輝きを放っている。
 足元に目を向けると、アメジストの黒紫や、トパーズの蜂蜜色、アクアマリンの空色などが指輪やペンダントに嵌め込まれ、やはり乱雑に転がっている。
 こうして見ると随分物が多い。今更ながらその事に気付いた魔理沙だが、見慣れているはずの光景を前に、顔色は酷く悪い。

 万華鏡が落ちているのが目についた。震える手で拾い上げ、右目で覗きこむ。落ち着かない表情は相変わらずだ。
 香霖堂より拝借してきたその日の記憶ならはっきり覚えていた。紅青緑黄の四色が綺麗な幾何学模様を形作ってくれるそれ。しかし今の魔理沙が見るのは、思い出に残る美しいそれと同じではなかったのだ。
 苛立ったように、魔理沙は万華鏡を乱暴に放り投げる。パリンと中の鏡が割れる音がした。

 パチンと指を鳴らしてみる。指先から溢れだしたのはカラフルな星々の小さな弾幕。こういった煌びやかな魔法は彼女の得意分野であった。
 しかしそれを見つめる魔理沙は、やはり魔法の発動をすぐに中断させる。

 体は汗でびっちょりだった。絶えず彼女を蝕む悪寒がそうさせるのだ。
 もう一度魔理沙は部屋を見渡す。そして改めて失望する。

 思っていたよりも様々な色彩に囲まれていた愛すべき一人暮らし。
 しかし、見慣れていた景色は、今や明らかな異常を孕んでいる。

 あまりにも味気ないのだ。すなわち目に映る悉く。それが今や酷く灰色となってしまっていたのである。
 魔理沙は聡明であったから、実は既に原因に気づいていた。取り込む光が少なくなっている。もはや認めざるを得なかった。


 「そうか……私は」


 ――目が、悪くなっているんだな。

 つい数分前と比べて、間違いなく色あせた世界。そう、今この瞬間にも一段と狭くなり、そして暗くなった視界を前に、魔理沙は今にも泣きそうに顔を歪ませたのだった。









 ◆ ◆ ◆









 彼女が基本的に行動的な人間であった事が、この時は幸いしたのだろう。
 突然身を襲った、まったく想定外の事態に強く打ちのめされながらも、自ら行動を起こす事をどうにか選択できたのだから。

 永遠亭のとある一室。

 畳敷きの部屋が殆どのここ永遠亭の中にあって、純白で硬質なタイル敷きであるこの部屋は、幾らか異質な印象を訪れる人に与える。
 鼻をつく消毒液の匂い。壁際に置かれた大きな棚の引き出しが南京錠で施錠してあるのは、素人が触れるべきではない薬品の類が大量に収納されているからであった。
 色彩も形状も様々な薬瓶が、板ガラスの向こうでちらりと頭を覗かせている。

 ここは八意永琳の診療室であった。
 椅子に座り、永琳の診断を受ける魔理沙の隣には、付き添うように博麗霊夢がいる。

 魔理沙は適切な判断を下す事が出来た。目の異常に気付いたその時、心情的にはすぐにでも永遠亭に向かいたかったのだろうが、それが無謀であると知っていたからだ。
 永遠亭への通り道である竹林は複雑であり、何より暗い。もしそれをしていたなら視力の不足によって、魔理沙は竹やぶの中を絶望と共にフラフラ歩き回る事しか出来なかったはずだ。

 運も良かった。

 魔法の森を飛び出してから程なくして、魔理沙はたまたま近くを飛んでいた霊夢と出会う事が出来たのだから。
 気付いたのは霊夢の方から声を掛けられてだった。すれ違った事に気がつかない程に視力の減退はもはや深刻だった。太陽光降り注ぐ真昼の空が、まるで夜のそれと錯覚してしまう程である。
 一人で思うように空を飛べる時間はあまりにも短かった。しかしその僅かな時間で、頼っても大丈夫な友と出会えたのは正に幸運だった。
 霊夢の誘導により、魔理沙は無事永遠亭に無事辿りつく。そして今に至った。






 いつもの青と赤の衣装に白衣を羽織った永琳は、神妙に椅子に腰かける魔理沙の眼窩を覗きこんでいた。
 瞳孔に光を照射したり、頭のあちこちを指先で触ったりして、診断を進めていく。


「……なるほど」


 一通りの検診を終えたらしい永琳は、ふむふむと頷きつつ、カルテに何やら難解な文章を綴っていた。
 それを見る魔理沙の瞳は焦点が合っていない。実際のところ今の彼女に永琳の姿は殆ど見えていなかった。かろうじて人影が動いている事を認識できる程度である。


「ねえ、魔理沙。貴方が目に異常を感じたのは、箒に乗って空を飛んでいた時だったわよね?」

「ああ」


 永琳の問いに魔理沙は答える。不安を孕んだ声だった。


「その次に、症状の悪化を自覚したのはいつかしら?」

「家に帰って、蒐集品を見ていた時だ。万華鏡を覗いたり、色付きの星を出したりしてみて、すぐの事だった。
 どうやら視力が落ちているらしいと、はっきり自覚したその時だったな」

「なるほどね」


 カルテに新たな一行を書き加え、永琳は魔理沙へ視線を向けた。真剣な表情だった。


「まずは診断の結果から報告しようかしら。今の貴方だけど失明の一歩手前ってところね。すでに足元を見るのもしんどいでしょ?」


 失明という単語に魔理沙は顔を曇らせた。その単語が孕む現実味に恐れを抱いているのだ。


「知ってるかもしれないけど、物を見るというのは眼球だけで出来る作業じゃないの」


 スラスラとメモ用紙に鉛筆を走らせながら永琳は説明を始めた。紙の上に描かれた眼球の図解をもはや魔理沙は見る事は出来なかったが、むしろこれはこの手の知識に疎そうな霊夢への配慮なのだろう。


「図で説明するわね。物が見える過程として、まず光が角膜に入る。その後瞳孔、水晶体、硝子体を通って、網膜に像が映る。
 この網膜を構成するのが桿体と錐体の二つの視細胞。前者が物の形を、後者が物の色を認識していると考えてもらっていいわ。
 ここまでが眼球の仕事。実際物が見えるようになるには、次のステップを踏む必要があるの」


 メモ用紙の上に描かれた眼球より、すっと一本の線が永琳の手によって引かれた。


「これが視神経……まあだいぶ簡単に描いてるけどね。実際はもう少し複雑なのだけど、そこまで細かい事は今はどうでもいいわ。
 この視神経というのは網膜で形成された像の情報を大脳に送り届ける部位。すなわち脳と眼球を繋ぐ道路なの。
 そして実際に私達が物を見る事が出来るのは、脳で最終的な情報の処理が行われるから。
 つまり、当然の事だけど、脳に至る道が寸断してしまったとしたなら、私達は網膜に映る映像をそれと認識する事が出来なくなる」


 永琳は先ほど引いた線の上に、さらにしゅっしゅと鉛筆を走らせた。視神経の上にバッテンが重ねられた。


「魔理沙。貴方の眼球は完璧に正常。脳の異常もないと思う。
 ただし視神経が機能低下を起こしている。それもとっても酷くね。それが今の症状の原因だわ」


 魔理沙は顔を俯ける。何も言葉を発する事が出来なかった。
 分かってはいた。視力の低下とは極めて重篤な症状だ。一度失ってしまったそれを取り戻すのは多くの場合難しい。
 しかし、一縷の望みを胸に魔理沙はここ永遠亭にやって来た。だが告げられたのは視神経異常という診断結果。
 魔理沙は魔法使いであり、人体の構造についてもそれなりの知識を蓄えている。故にそこが治療によって元に戻り得る部位かそうでないか容易に悟る事ができたのだ。

 沈み込む魔理沙の背中を、気遣うように優しく撫で、霊夢は永琳に尋ねた。


「それで、永琳。魔理沙の目は元通りになるのかしら?」


「そうねぇ……」


 顎に人差し指を伸ばし、永琳はしばし思案する。表情はやはり固かった。


「……うん。出来ない事もない。貴方の目はまだ元に戻る可能性を残した段階にある。
 壊れた視神経を直接修復するのは難しいけど、自己治癒力で再生させる方向なら、私はその為の薬を調剤する事が出来ると思う。いや、薬師としての矜持にかけて、必ず作ってみせましょう。
 それを毎日欠かさず服用すれば、貴方の色彩は元に戻るはずだわ。少し時間はかかるでしょうけどね」

「そ……それは本当か!?」


 予想していなかった永琳の言葉に、魔理沙はぱぁっと顔を明るくした。くすんだ瞳も少し輝いているように見えた。
 流石は月の頭脳であった。保有する医学知識は幻想郷の常識の数段上を行く。再び光と色彩で満ちた生活に戻れる可能性を示され、魔理沙は確かな希望を抱いた。
 しかし、永琳は難しい顔を崩してはいない。事の解決はそんなに単純ではないと、表情に滲んでいた。


「ええ、本当よ。ただし、一つ重要な事がある。すなわちその薬だけじゃ根本的な解決にはならないの。
 貴方が本当に失明を回避したいというなら……1つ約束してもらわないといけない事がある」

「なんだ? 私に出来る事なら何でも言ってくれ」


 期待に満ちた魔理沙の声色に、永琳は顔を少し陰らせた気がした。逡巡である。


「……いいかしら、魔理沙。これはきっと貴方にとって、とても残酷な要求。
 同情するしかないわ。基本的に貴方に過失はなかった。これは極めて理不尽に貴方の人生を蝕んだ傷病なのだから。
 でも、貴方と私が患者と医者の関係である以上、貴方の体の治癒に必要な手段を私は包み隠さず提示しなければならない。その義務がある。
 だから、冷静に聞いて。そして判断してちょうだい」


 壁時計の秒針がコツリコツリと音を響かせていた。静かすぎる診療室。魔理沙はごくりと唾を飲んだ。その音が妙に大きく聞こえた。


「貴方には……魔法を捨てる覚悟はある?」


 それは、残酷なまでの冷静さを以って告げられた。


「貴方の視力が失われるその原因。それは貴方の生業。すなわち魔法に他ならないのだわ」


 がたりと音を立てて椅子が倒れた。勢いよく魔理沙が立ち上がったからだ。


「そ……そんな事……まさかそんな事あるはずない!」


 荒らげた声。しかしそれは剣幕ではなく悲愴であった。
 予想していなかった代償。先ほど抱いた僅かな希望を砕いた永琳の宣告に、感情が知性を挟む事もできず迸ったのだ。

 一瞬の後、魔理沙はハッとしたような表情を浮かべた。
 霊夢は椅子を起こすと、なだめるようにして魔理沙を再びそこへ座らせる。

 魔理沙にとって魔法がどれほどの価値を持つか、霊夢はよく知っていた。
 長い付き合いだ。新しく開発した魔法を自慢してくる輝くような笑顔も、研究で連日徹夜した末に満足いく成果を上げた時の安らかな寝顔も知っている。
 それが、突如として理不尽にも奪われようとしているのだ。
 魔理沙の抱く、どうしようもない感情は痛いほどに理解できた。

 しかし、それだけでは事の解決にならない事も霊夢はよく心得ていた。同情に易く流されないのは彼女の素養である。冷静に永琳へ目線を向けた。


「永琳。あんたが適当な事を言うとは思えないけど、もう少し詳しく説明してもらえるかしら?
 でないと、魔理沙も私も、納得はできないと思う」

「……ええ、そうね」


 永琳は一言一言、言葉を紡いでいった。


「基本的にはレアケースだと思う。魔法使いなら誰しも盲目になる訳じゃない。
 例えば昔貴方がここに殴りこんできた時に組んでいた金髪の魔法使いのあの子、彼女の目が悪くなったとは聞かないでしょ?
 魔法との相性とか環境とか色んな要因が絡み合わないと症状として現れる事はないはずなの。
 でもね。大前提として心得ておかないといけない事がある。すなわち魔法とは本来人間が扱うには難しすぎるものなのよ。ありていに言うと、肉体が耐えられないのだわ。
 最近では研究が進んで随分とマイルドになったみたいだけど、大昔の文献を紐解くと、しばしば魔法の発動には大きな代償を必要としている。
 例えばグリム童話『ヘンゼルとグレーテル』で、食べかけの骨付き肉をグレーテルの指と勘違いした魔女。彼女もまた視力を失っていたわ。
 おそらく今の魔理沙と同じく、脆い人の身で魔法を扱った対価として光を奪われたのでしょうね。
 私も数件だけど、同じ症例を実際に見た事がある。
 魔力を魔法として変換出力する過程で、余剰となった熱量が、視神経を通過し、焼き切ってしまうのよ。
 そして魔理沙。貴方の扱う魔法は他の魔法使いと比べて、消費する熱量が特別大きいから、余剰な熱量が多くなる可能性も高かったのだと思うわ。
 ついでに言えば、体質もたまたまそうなりやすかったのでしょうね。それらの要因が合わさった結果、今の貴方の眼がある」


 説明を終え、永琳はまっすぐ魔理沙の眼を見た。


「ああ……そうか」


 魔理沙は苦しげに声を絞り出した。
 見つめてくる永琳の瞳は見えない。が、彼女が決断を求めている事は十分すぎるくらい伝わって来た。

 酷く喉が渇く。心臓がばくばく激動する。感情が敏感になっていて、今にも涙が溢れてきそうだった。
 本当に残酷だと魔理沙は思う。納得など出来るはずがないのだ。
 天秤の両皿に乗せられたものは、どちらもあまりに身近すぎたから。
 自らの手で片方を捨て去るなど、十と少しの年月しか重ねていない幼き少女には、重すぎる選択だった。


「なあ、永琳。……それしかないのか? 魔法を捨てるって事は、魔法使いを止めるって事だ。……本当にそれしか方法が」

「そうね。それをしないのなら、近いうちに貴方は失明するわ。完全にね。
 そして一度そうなってしまったのなら、もう回復の手立てはないと認識しておいて頂戴」


 永琳が告げた見解。それは残酷なまでに魔理沙をばっさり切り捨てた。
 しかし、そうあっさりと諦められるはずもない。魔理沙はすがるように、足掻くように、最後の懇願をする。


「例えばだ、魔法を完全に捨てなくても、その薬をずっと服用し続けたなら……? 完全に視力が元に戻らなくてもいい。最低限見えさえすればいい。
 私は今までそう生きてきたように、魔法使いでありたい、あり続けたいんだ!」


 永琳は一つ溜息をついた。鉛塊でも吐きだしたような、重い重い溜息だった。
 これから己が魔理沙に告げる言葉の冷酷さが、永琳にそれをさせた。


「あまり過大評価しないで……私はそこまで万能じゃない……。何でもそう。壊す速度に、抗う速度が追い付く事なんてまずありえない。
 それに、いい事? 医者は誰が相手でも誠実に疾病の治療に取り組むもの。ただし、自ら病気になろうとしてる患者だけは例外だわ。それはよく心得ておいて」


 魔理沙はぎゅっと唇を噛みしめた。くすんだ瞳に濁りが混じって闇色を増した。
 永琳の言葉。それを理解する事はできる。正当である事も分かる。
 それはそうだ。言うなれば先が己の台詞は我が儘なのだから。

 永琳は医者としての本分に従い、もっとも的確な手段を提示した。しかも本来のところ、もはや手遅れであったはずの魔理沙の瞳を、彼女は月の頭脳の名にかけて、元通りまで回復させる事を保証までしたのだ。
 それはまったくの善意であった。
 ならば、これ以上、何を求める事が出来ようか?
 判断は魔理沙の手に委ねられている。永琳が医師としての責務を履行したように、魔理沙は患者としての選択を果たす事を求められていた。


「じっくり考えてちょうだい。……ただし、貴方に残された時間は少ない。限界まで傷つけられて、視神経への負担が大になっている。
 例え魔法を発動させなくとも、数日……いや、もしかしたら今日の太陽が沈むその時まで持たないかもしれない。何にしろ近く貴方は失明するわ。それまでに決断して」


 色彩と生業。片方を自らの手で握り潰さないといけない。
 了承できるか? 魔理沙は自問する。


「……そうか、私は、もうどうにもならなくなってるんだな」


 そんなに簡単に答えは出るはずがなかった。
 ……いやしかし、実はそれは違う。魔理沙は気付いていた。
 そう。選べないのではないのだ。最初から選ぼうとしていないのだ。

 極めて感情的な心の鬩ぎが、彼女に理で以って決断する事をさせなかったのだ。
 ぐつぐつとはらわたが煮えたぎる音を聞いた。怒りを自覚して少し驚く。


「……滑稽、だな」


 何に怒っているのか。それを魔理沙は知らない。
 しかし、じっと視線を向けているらしい二つの人影。それに対してでない事は分かる。
 彼女らに怒りの矛先を向ける理由など、どれだけ探したところで一欠片たりとも見つかりはしなかった。

 怒れる対象がないから困るのだ。今も肺腑に溜まりゆくどす黒い感情をどうすればいいか分からないから。
 苛立ちが膝を震わせた。貧乏ゆすりに床がカツカツと音を立てる。霊夢も永琳も何も言わない。

 今の己の抱く感情は、駄々をこねる子供と変わらない。ちっとも合理的でない。魔理沙は了承している。
 しかし、よくよく考えれば当然の事なのだ。
 彼女はまだ幼き少女である。子供である。失って尚達観する事を求めるなど、あまりに酷な話ではなかったか。

 舌打ちが漏れた。理不尽な怒気がいよいよ胸を破ってしまいそうなのだ。
 魔理沙には二つの選択肢がある。一つは暗灰色の視界を標的に、なりふり構わず怒号を外にまき散らす事。もう一つは強引に自分自身の中に押し込めてしまう事。

 しばしのもっとも重い沈黙。

 そして、霧雨魔理沙は初めて決断をした。その内容がまったくもって建設的でない事を自覚しながら。
 結果として胸中が孕む激情におもねってしまった。それが少し悔しくて魔理沙はぼそりと呟いた。


「……畜生」


 すっと魔理沙は立ちあがる。次に彼女が取る行動を霊夢も永琳もきっと予想していなかっただろう。
 手を伸ばしたところには箒があった。永遠亭の廊下を歩く際、杖として使ったのだった。
 それをぎゅっと握りしめる。
 これからの己が行動が、極めて破滅的である事、そしてそれは魔法と視力の両方を失う事よりも重大な結果を招く事を、頭のどこかで理解しながらも、魔理沙は後ろを向いた。
 自らの決断に最終的な承諾を下したのだ。

 診療室は明るい。廊下は暗い。故に視界はぼんやりとしながらも出口の位置をとらえる事ができた。
 そして次の瞬間。


「すまんな。霊夢。すまんな。永琳。私には無理だ、やっぱり魔法を捨てるなんて出来ん!」

「え? ちょっと魔理沙!」


 霊夢が制止に手を伸ばした時には、魔理沙は既に駆け出していた。
 診療所から飛び出し、壁に何度も体をぶつけながら、遠くに見える永遠亭玄関のおぼろげな光を目指しひたすら疾走したのだ。

 そして突破した玄関。太陽光の熱を肌に感じ、魔理沙は箒に跨った。
 そのまま碌に包囲も定めず全速力で飛び立つ。突っ込んだ竹藪が彼女の繊細な皮膚に切り傷をつけたが、もはや痛みなど感じてはいなかった。


「……畜生。……畜生! 畜生! 畜生っ! どうして! どうして私がこんなっ!」


 悲痛な声が溢れだした。
 どうやら診療室で座っていた先ほどは、人の視線がある手前、何だかんだで理性は働いていたらしい。自覚する。
 しかし、今の彼女は、ひたすら感情的だった。極めて純粋な激情に突き動かされ、魔理沙は叫ぶ。


「納得できるか! できるはずないだろ!」


 理不尽に対するやり切れない思いが、彼女の涙線をこじ開けた。ぼろりぼろりと零れ出る涙達。
 既に竹林は抜けてしまったらしいが、見えないのだから、今ここがどこなのか魔理沙は知る事ができない。いや、しかし彼女は知る事をしようともしなかった。
 激情のまま、ブレーキなんて一切かけず大空を暴走している。
 きっと何かと衝突して事故死してしまっても構わなかったのだ。それだけ自棄になっていた。涙が風圧に流され、後ろにぽろぽろ落下していった。









 ◆ ◆ ◆









 魔理沙が暴走を終了させたのは、それから十数分が経過してからの事だった。
 高度も分からなくなっていたから、いつの間にか地面すれすれに飛行していたところを、箒の柄が何かに引っかかったのだ。

 盛大に箒から投げ出される魔理沙。
 結構な速力が出ていた。本来なら体を強く打って、そのまま命失ってもおかしくない状況であったが、幸い何かがクッションとなり彼女が傷つく事を最小限にした。
 それでも衝撃は相当なものだったから、体にはずっしりとした重さが残っている。

 動くのが酷く億劫で、だから魔理沙はそのまま体を横たえたままにした。体側に感じる感触はふんわり柔らかい。
 短時間で爆発させた感情は、すでにピークを超え冷えはじめているようだった。酷い倦怠感がある。

 丁度その時、鼻先に芳醇な香りを感じた。魔理沙は花のそれだと思った。冬なのに珍しい。そう思って香りの正体を確かめようとした魔理沙だったが、やはりそれはできなかった。
 見えなかったからだ。視力はさらに低下していた。


「そりゃ、そうか……見えなくもなるよな。こんなに速く飛んだのは久しぶりだもんな」


 もし周りが一面の花畑だというなら、瞳に焼き付けておきたかったとも思ったが、もはやそれが出来ないのが少し残念だった。
 さっき沢山泣いたせいで枯れてしまったのかもしれない。悲しいのに不思議と涙は出てこなかった。

 仰向けに寝がえりをうち、顔の前に手をかざす。
 しかし、ほんの数センチメートル先のそれすら、魔理沙の視力は満足にとらえる事が出来なくなっていた。
 太陽ももはや眩しくない。遠く遠くにぼんやりと小さく何か仄紅い光源がある事だけがかろうじて分かった。

 ――思えば魔法使いを志したのはいつのことだったか?
 魔理沙は思い出を振り返る。

 物心ついた頃にはすでに恋い焦がれていた。憧れが過ぎて、親と喧嘩もした。しかしそれでも、たとえ勘当されても、魔法使いになる夢を諦めなかった。
 悪霊に弟子入りしたり、色々と無茶もした。でも、初めて箒で空を飛んだ時の、始めて弾幕を撃てた時の、魔法使いになったと実感した時の、その感動はいまだ心に焼き付いている。
 魔法使いでない霧雨魔理沙になんの価値があるのか? それは彼女の生涯の根底で、彼女を形作り続けた思想だ。
 だから魔理沙は魔法を手放せなかったのだろう。たとえ世界を彩る様々な美しい色を引き換えにしてもだ。

 ただ、全く後悔はないかというと、勿論そんな事もないのだ。
 だって、彼女はまだまだ幼い少女なのだから。今の今まで幸せを謳歌し、そしてこれからも生涯が希望で満ちている事を、疑いもしていなかったのだから。
 割り切り、受けとめるには重すぎる運命だった。

 魔法使いにならなかった自分を思い描いてみる。
 それが果たして楽しい人生だったのかは分からないが、ただ道具屋の看板娘としてなら、少なくともこんな風に世界から色を奪われる事はなかったのだろう。

 まあ、しかし、もはや何を考えても栓無き事。
 魔理沙は苦笑する。あまりに寂しすぎる笑顔だった。かざした手の平は、もう全く見えない。
 確かな諦観を孕んで、魔理沙はぼそりと呟いた。


「……あばよ、私の瞳。あばよ、私の色」


 瞬間、かろうじて残っていた最後の色彩が、すとんと落ちるように消えていった。霧雨魔理沙の視神経は、この時、機能を完全に喪失したのだ。
 ぶわっと涙が再び溢れてきた事を知ったのは、流れ落ちる何か熱い物を頬に感じてだった。だが、もはや涙が視界を曇らせる事はない。
 ひたすらな惣闇と、絶えずちらつくノイズ。その二つだけが、今の彼女の所有する全てである。

 嗚咽は漏れなかった。涙を流しながらも、浮かべている表情はどこか笑っているようでもあった。

 諦めたからだ。
 希望を持つ事を彼女は放棄した。

 魔理沙は瞼を閉じる。視界は闇のままだ。そして胸の上で祈るように手と手と握り合わせた。
 どうやら周りは花畑なのだろう。例え真実はそうでなくとも、彼女がそう思っている限りそれで間違いないのだ。冬らしく空気は冷たいが、太陽はぽかぽかと暖かかった。

 ――死ぬにはいい場所だ。

 魔理沙は静かに呟いた。ゆっくりと意識がまどろんでいくのを感じた。









 ◆ ◆ ◆









「花畑が荒れてるから、何かと思って来たのだけど……随分珍しい物を見た気分だわ」


 足音と、知った声を聞いて、魔理沙は目を覚ました。


「昼寝? 私の領地で堂々と。まあ、基本面の皮が分厚いのが貴方だし、別段に驚く事もないのかしら?」


 優雅に響くメゾソプラノ。ただし幾許かの険呑さを孕んでいる。
 その声を聞いて魔理沙は、ここが花畑だと考えた自分の予想が正しかった事を知った。

 風見幽香。
 花と暮らす大妖怪。声の主は彼女に他ならなかったのだから。
 魔理沙は臥したまま、声から幽香の位置のあたりをつけ、そちらに首を向けた。


「あんたねぇ……そういう露骨な態度取られると、いい気分はしないわ」


 どうやら、まったく的外れな方を向いていたようだ。
 魔理沙は自嘲するように、笑いを零した。


「ん? 何、貴方? もしかして私が見えてないとか? 目でも潰れたの?
 ちょっと前に、私に喧嘩撃ってくる身の程知らずの眼球抉り取ってやった事があるけど、その時のそいつの行動にそっくりだわ貴方」


 流石に、魔理沙の挙動はおかしかったのだろう。苛立ちを浮かべていた幽香の表情が、疑問のそれに変わる。
 魔理沙はこくんと力なく頷いた。


「なあ、幽香一つ頼まれてくれないか?」
「ん? 何よ?」


 魔理沙の声は不気味な程に落ち着いていた。精彩を失った渇いた声だ。
 今の魔理沙は殆ど屍と変わりない。精神がもはや生きる事をしていない。


「私を……殺してくれないか?」


 何の躊躇いもなく発せられたその言葉。今の魔理沙が持つ唯一の願いである。

 幽香の手にかかるなら、そう悪くないと魔理沙は思った。
 妖怪らしい妖怪であるが、嗜みを心得た淑女でもある。それに知り合いでもあった。
 彼女に殺されるなら、無意味な死ではなくなるような気がしていた。少なくとも格好の悪い死に方ではないように思えたのだ。
 しかし、幽香から返ってきたのは、魔理沙にとって少々意外な答えだった。


「はぁ? 自惚れてるんじゃないわよ。どうして私が貴方を殺してあげないといけないわけ?
 後始末が大変だし、何より楽しくないじゃない」


 幽香の性質には随分と残虐な一面がある事をよく知っていたため、魔理沙は驚いたのである。しかし少し考えると理解はできた。
 彼女は何よりも矜持を大切にする妖怪だ。


「無抵抗な相手を一方的に嬲るのはあんまり楽しくない。
 だから、私は価値を示す事を貴方に要求する。そう、この私が、風見幽香が、命奪うに相応しい人間であると証明する事を求めるものだわ。
 立ちなさい。殺し合いの舞台なら用意してあげる。後は貴方がそこで上手に踊れるかどうかよ」


 幽香はぽんと魔理沙に何かを放り投げた。
 こつんと体に当たったそれを魔理沙は握って確かめる。しっくりくる感触だった。それはそうだ。長年連れ立った相棒だ。
 魔理沙の箒には、少々の無茶をしても大丈夫なように、魔力的な防護加工がなされてあった。それ故に先ほどの衝撃でも破損しなかったのだろう。

 ふらりと魔理沙は立ちあがった。別に闘いがしたい訳ではないが。まあ、しかし頼んで殺してもらうのだ。ならば、幽香の要求にも応えてやるべきなのだろう。
 おぼつかない足取りで箒に跨る。途中地面を這う蔦に足を取られた。目が見えないという事はやはり行動に大きな制約があるように思えた。
 箒に魔力を込め、ふわりと浮きあがる。バランス感覚に違和感があった。
 これで、闘争をするというのは、随分無茶な話にも思えたが、しかし魔理沙にとってはそれほど重大な問題でもないのかもしれない。何しろ勝利する必要はないのだから。


「じゃあ、始めましょうか」

「……ああ」


 声で概ねの方角は分かる気もする。しかしやはり気のせいかもしれない。確信は持てなかった。
 弾幕勝負をするにあたって、相手の位置を正確に把握する能力は大切な要素だが、魔理沙のそれは酷く曖昧であったのだ。
 故に使える手段は、限られたものとなる。

 星型の弾幕。魔理沙はそれを全周囲へ向けばら撒いた。
 下手な鉄砲でも数撃てば当たるの理論であるが、圧倒的な弾幕密度で相手を制圧するのは基本的に有効な戦法である。
 彼女が所持する「ミルキーウェイ」などのスペルはその典型と言えた。

 しかし、今の魔理沙が放つ弾幕に幽香を制圧できる力があるかというと、やはりそんな事は無かったのだ。
 単純な話、密度が薄い。今の魔理沙が展開する弾幕は弾数が絶対的に不足していた。
 故に幽香は殆ど体を動かさなくても、弾が近くをかすめる事すらない。もう少し彼女の機嫌が悪かったなら、きっと今頃大きな欠伸をしていただろう。

 かざしていた日傘を幽香はパチンと閉じた。そして星の弾幕を悠々とすり抜けつつ魔理沙に接近していく。
 程なくして真正面に到着した。振り上げた日傘。横一線に薙いだ先には魔理沙の脇腹がある。
 グエと。蛙が潰れたような声がした。魔理沙は幽香の近接に気づいてはいなかったし、ならば当然この衝撃も予想していなかった。
 想定外の痛みに人体は脆い。堪らず魔理沙は箒と一緒に地面へ落下した。

 背中を打ったが、それほど高度が無かったのが幸いした。落ちたのが丁度花々が特に密集して生い茂る一角であったのも良かった。結果魔理沙は落下の衝撃で軽く体が痺れる程度で済んだのだから。
 脇腹の痛みに顔をゆがめる魔理沙を前に、幽香の表情は苦々しげだった。
 繰り出した攻撃に、魔理沙が何の対応も出来なかった事に、いやそれ以上に、直接殴りかかるなんて事が出来る距離まで、あっさりと近接を許してしまった魔理沙の弾幕に苛立っているのだ。
 彼女は魔理沙の目の前に降り立つと、幾らか感情的に声を荒らげた。


「納得いかない。ねえ、さっきのは何?」

「怒るなよ。今ので分かっただろ? 私は目が見えないんだ……お前を満足させる弾幕なんか、撃てるはずがない。
 ああ、勿論不本意だ。こんな無様な姿を見られてな。
 だから幽香。頼むよ。私はもう絶望に心削られたくない。苦しみたくないんだ。お願いだから楽にしてくれ……」

「そんなの聞いてない。どうして本気でやらないの?」

「だから目が……」

「ああ、もう言い訳は聞きたくない!」


 舌打ちが聞こえた。幽香は相当苛立っている。
 しかし、その苛立ちを繕うように幽香はくしゃくしゃと髪をかきあげると、幾らかトーンを押さえた、理性的な声色で言葉を続けたのだった。


「貴方は勘違いしてる。とっても酷い勘違いを。
 いい事? 貴方が失ったのは視力だけ。そう、たったそれだけなの。なのにどうして貴方は、牙まで一緒に抜けてしまったかのような錯覚をしてしまうのかしら?」


 魔理沙は幽香の言葉の意味が理解できないような顔をしていた。
 盲目になった事を、たったそれだけと断言されても、魔理沙は共感できないだろう。
 何より彼女は絶望と諦観にすっかり染まってしまっている。かけられた言葉を頭で反芻する事すら億劫になっていた。
 相変わらず無気力だけを表情に湛えた魔理沙に、幽香は一つ溜息をついた。


「ったく……」


 幽香は魔理沙を眼下に見据え、右腕を高く掲げた。

「私もつくづく甘いなぁ……」


 魔理沙は瞼を閉じた。十と数年。その人生に幕が下ろされる瞬間を静かに待っている。
 びっくりするほど心は落ち着いていた。それだけ無感動になっているのだろう。

 そして幽香は、掲げた腕を、勢いよく振り下ろした。

 ……しかし彼女の拳が魔理沙の脳天を捉える事は終ぞ無かったのだ。
 代わりにパチンと快い音が鳴り響いた。幽香は振り下ろしの勢いで指を鳴らしたのである。それは能力発動の合図であった。
 
 その音に思わず見えない瞳を開く魔理沙。
 変化は唐突だった。


「え?」


 ぐらぐらと体が揺れるのを魔理沙は感じた。そう大地が震えているのだ。
 一体何が?
 予想外の異変にあたふたする魔理沙。
 そんな彼女を幽香はおかしそうに見つめていた。

 ぼこぼこと大地が鳴き声を上げた。産声である。
 可憐に色彩を散らす地上の花々達。その隙間隙間から更なる生命が芽吹いているのだ。
 萌えた新芽は、強靭な生命力を以って天へとその体を伸ばし、我先にと黄緑色の葉っぱを展開させてゆく。頂上には蕾が結ばれていた。
 凄まじい勢いで、大地をびっしりと埋めてゆく花々達。

 そして、次の瞬間。
 スミレの濃紫色が。鈴蘭の純白が。赤薔薇の深紅が。ラベンダーのマゼンタが。菜の花の太陽色が。ヒルガオの群青が。コスモスの桃色が。ありあらゆる花々とありとあらゆる色彩が。
 この瞬間、盛大に花開いた。

 地平線が途切れるところまで、幻想的に世界の光景を変えた花畑。
 幽香は自慢げに、ふふんと鼻を鳴らした。


「どうかしら? 綺麗でしょ? 目が見えないとか、そんなのどうでもいいの。私が綺麗に思う物の価値を、眼球如きが否定できるはずないわ。
 魔理沙。感じなさい。体と精神の悉くを以ってね」


 魔理沙が、最初に気付いたのは嗅覚であった。濃密な花の香りが鼻をくすぐった。
 次に気付いたのは触覚と聴覚。辺り一帯で躍動する気配を確かに感じとっていた。それが生命の持つ熱量であると気づく。
 大きく息を吸い込む。清涼な冬の空気はおいしかった。
 この瞬間、魔理沙は視界が一気に開けたのを感じた。


「ああ、綺麗……だな。とても。とても……」


 自然と呟きが漏れた。上体を起こす。
 瞳が映すのは、完全な暗闇とちらつくノイズだけだ。勿論見えはしないのに。それでも魔理沙はこの幻想的な光景を心に焼き付けるように、ゆっくり周りを見渡したのである。
 図らずも、美しいと思ってしまった。
 魔理沙は自らの肉体を囲む花々の、華麗な色彩を確かに感じているのだ。
 しかも、それは、目が見えていた少し前に比べて、よりずっと深い部分で色彩を理解しているようにすら思えた。

 魔理沙が“視て”いるのは、言うなれば生命の本質であるからだ。
 生命に色がある事を、魔理沙は初めて知った。視力に依存し切っていた少し前には、気付けなかった事だ。
 見えなくなって、だから分かった事もある。
 魔理沙の中で、諦観以外の何か、確かに取り戻されようとしていた。

 腕を伸ばす。そこにあったのは大きな向日葵。その大輪と手のひらが重なる。なんだかとても温かいと感じた。
 魔理沙は胸の奥から湧き上がってくる、強い強い意志を感じた。それは、どこまでも前向きで、そして優しい色をしていた。

 ……そう、あれほど生を諦観していたはずの魔理沙だというのに。
 思わず。そう、あんまりにも綺麗だったから思わず。死ぬのがもったいないと、そう思ってしまったのだ。
 ゆっくり諭すように幽香が口を開く。


「貴方は醜く縋るべきではない。グライアイの瞳は三人で一つ。
 なら、デイノーは、エニューオーとペプレードーが眼窩に瞳を嵌め込んでいる間。すなわち生涯の2/3の時間をどう使うべき?
 瞳の使用権が移り、視力が戻る生涯の1/3の時間を待ち続ける事だけに費やせばいいのかしら?
 まさか。馬鹿げてる。貴方なら分かるわよね。100年持たずして壊れる短命な人間の貴方なら。
 喪失を過大評価するべきではない。そう、貴方はその実、まだ殆ど何も失ってはいないのだから。
 貴方が人間なら生き得る3/3を目一杯に使うべき。それが出来ない理由なんて貴方には一つたりとも存在しない」


 今の魔理沙には幽香の言葉を十分に理解する事ができた。胸を強く揺さぶられる。
 心に炎が再び灯るのを感じた。それは初めて魔法を使いこなせた時の、魔法使いという人生に確信が宿ったあの時の感覚に似ている。
 魔理沙は納得したように一つ頷くと、しっかりとした顔つきで正面を見据えた。例え目は見えずとも、そうすること自体に意味があった。
 箒はしっかりとその手に握り締められている。今、彼女の中で、新たな決意がなされようとしていた。

 魔理沙は静かに瞼を閉じた。

 脆弱である事を十分了承しながらも、たゆまぬ努力と砕けぬ強靭な意志によって、自らを遥かな高みに持って行けるのは、人間の特権である。
 ならば彼女は諦めるべきでない。投げ出すべきでない。
 それに何より彼女は魔法使い、不可能を可能に変えるために、ありとあらゆる手を尽くし、いかなる艱難辛苦にも耐え抜く生物。

 魔理沙は己の意志を今一度確かめる。
 受け入れる事が出来るなら。欠損した己を完全に受け入れる事が出来るなら。
 それは重大な決断である。過去に抱いた莫大な希望との決別を告げる決断だからだ。
 だが、それが新しい一歩となる。

 魔理沙の闇色の瞳に、この瞬間確かに光が宿ったのを幽香は見た。

 さあ、視覚が残した過去の色彩は、もはや煤けた遺物になり果てただろう!? 貴方はこれからの人間だ。
 だから霧雨魔理沙よ。気高く力強く這い上がるのだ!

 次の瞬間、魔理沙は自らの意志によって立ち上がっていた。
 大地を踏みしめる足取りは力強く、もはや蔦に足を絡め取られる事はないだろう。放たれる言葉には自信がみなぎっていた。


「なあ幽香。さっき私は殺してくれって言ったがやっぱりそれは撤回だ。生きたいって、そう気が変わったんだ」

「へー、なるほどね。でも一度言った事をあっさり翻しちゃうのは、私はあんまり好きじゃないかも」

「ああ、分かってる。だから私はお前に闘いを挑む。お前に打ち勝ち、生きてここから帰るためにな」

「ふふふ。いい度胸。いいわ。かかってきなさい」


 にぃと魔理沙は唇を歪めた。幽香も同じ顔をしていた。
 そしてタイミングを同じくして大空へ飛翔する二人。

 先手必勝とばかりに魔理沙は弾幕を展開する。
 マジックミサイル。極めて直線的な動きをする、破壊力重視の弾幕だ。
 高速で宙を直進するそれが通過したのは幽香の鼻先。殆ど当てずっぽうで放たれたそれであったが、明らかに精度が向上していた。
 幽香の声や、彼女が動く時に発生する衣ずれの音。それらを元に方位を割り出す事を、魔理沙はしているのだ。


「はあ? 何よこのヘナチョコ弾は? こんなで私を仕留めようなんて、考えが甘すぎるんじゃなくて? もっと気合入ったの撃ってきなさいよ」


 幽香は続け様に放たれる弾幕の軌道を見切りつつ、途切れる事無く魔理沙に喋りかけている。
 言葉遣いは刺々しいが、それらの言葉に、魔理沙は幽香の優しさとでも呼ぶべきものを確かに感じ取っていた。
 すなわち彼女は声を以って己の位置をわざわざ魔理沙に伝えている。

 普段の傲岸不遜さを顧みると、少し幽香らしくないと思ったし、配慮をされて気恥ずかしい気持ちも確かにあった。
 しかし魔理沙は考える。

 己は盲目の初心者。まだこの体で闘う術をよく知らないのだ。
 ならば、幽香の優しさに、今は素直に甘えていい。


「ほら、こっちからも行くわ。あっさり沈むんじゃないわよ!」


 幽香が声を張り上げる。
 魔理沙は幽香のいる方向に、新しい何かの気配を感じ取った。
 どうやら弾幕が形成されたらしい。魔理沙はそう考える。十数メートル先で生起した現象を、皮膚感覚で探知する事に彼女が初めて成功した瞬間である。
 盲目の人間が持つ、視力以外の四つの感覚は、そうでない人間……すなわち外から得る情報の殆どを視覚に依存する人間に比べて、遥かに鋭敏であるという。
 霧雨魔理沙は凄まじい速度で盲目に適応しようとしていた。

 感覚を元に魔理沙はその弾幕の分析を始める。それはどうやら随分と大きいらしい。人間一人や二人のサイズは優にありそうだ。
 蓄えられた知識より合致する情報を検索する。当該情報はすぐに見つかった。
 『幻想春花』。それはゆっくりと回転する巨大な花の刃だ。当たればタダでは済まない。しかし、その速度は極めて緩慢であり、また動きが直線である事を魔理沙は知っていた。ならば対策は容易である。
 箒に魔力を込め。高度を一気に上昇させる。幻想春花は既に見下ろす位置だ。これで被弾する心配はなくなった。


「油断しない。まだまだいくわよ!」


 回避を成功させた魔理沙目がけ、幽香が新たな弾幕を放つ。
 先ほどの物に比べれば随分と小さく、そして速度を持ったばらまき弾だ。
 フラワーシューティング。もし、まともに躱そうとするなら、盲目の魔理沙にはそれに必要な回避精度が幾らか不足しているようにも思えた。

 だから彼女は策を打つ。
 ポケットに突っ込んだ右手。中には数枚のカードが収められていた。カードに掘り込まれた文字の僅かな凹凸を感じ取れるまでに、魔理沙の指先の感覚は鋭利となっている。
 目当てのカードが見つかった。そしてそれをポケットから勢いよく引き抜き、高く掲げると、堂々と宣言をしたのだ。


「儀符『オーレリーズサン』!」


 魔理沙の周りに展開される四つの宝珠。次の瞬間それらにはヒビが入っていた。フラワーシューティングが突き刺さったのである。
 本来なら被弾していたはずの軌道であった。しかしとっさの判断で魔理沙は盾を展開し、そして幽香の攻撃を再びしのいでみせたのだ。

 ここで魔理沙は攻勢に打って出る。第一撃はひび割れたオーレリーズサン。それをそのまま幽香目がけ撃ち放つ。
 大雑把な攻撃であるから勿論当たるとは思っていない。しかし一瞬幽香の意識を宝珠の方へ向ける。それが出来れば目的は十分達せたと言えた。
 その一瞬の隙に、魔理沙は一枚のカードをポケットから取り出す。銘打たれた文字は恋符。


「頼むぜ……私の分身」


 今から撃つのは、とっておきの魔法だ。だから魔理沙はより一層の集中をした。感覚が加速度的に研ぎ澄まされていくのが分かった。
 聴覚の精度がますます緻密となる。周囲に展開されてゆく花の弾幕の、ぴりぴりした気配を肌が余すところ無く感じ取っていた。
 それらの感覚が集約された総合的なセンサー能力を、人はきっと第六感とか勘と呼んだりするのだろう。

 そして魔理沙のそれは、いまや常識で考えられぬほどに鋭い。
 例えば蝙蝠が光届かぬ洞窟の奥深くで、驚くべき精度を以って狩りをなすが如く。魔理沙の空間把握能力は、この瞬間視覚を超越したとさえ言えた。

 構えられたミニ八卦炉。握る手に震えはない。確信を伴っていた。
 ありったけの魔力を注ぎ込む。青白く眩く八卦炉が輝きを発し始めた。
 そして――


「幽香! これが私の本気だ! 躱せるもんなら、躱してみやがれ!」


 刹那、太陽よりもまぶしい光芒が迸った。
 恋符マスタースパーク。もっとも豪快にしてまっすぐな、魔理沙が魔理沙たり得るための魔法!
 そして、その切っ先は、寸分の狂いもなく、幽香目がけて直進しているのだ!
 盲目の少女が、意志の力を以って不足を見事補って見せた瞬間である。

 幽香は驚きを顔に滲ませたようにも見えた、しかしそれはすぐに満足げな笑顔に変わる。


「甘い甘い! 全っ然駄目だわ。そんな馬鹿みたいに真っ直ぐ撃って当たるはずないじゃない!」


 ひらりとスカートを翻し、幽香は軽やかに魔砲を回避する。
 程なくして光芒が途切れた。


「ち……外したか。だが次は当てる」


 残念な事は勿論残念である。しかし魔理沙の表情は何とも楽しげであった。
 八卦炉の充填は既に開始されている。すぐに二発目を放てるだろう。
 からかってくる幽香の声から方位を決定し、魔理沙は八卦炉を構えた。射線上には、寸分狂わず幽香を捉えている。
 チャージが完了した。後は引き金を引くだけだ。にやりと唇が壮絶に歪んだ。

 ……ごつんと頭に衝撃を感じたのはその時だった。
 魔砲の発動に気を取られて、どうやら周りに対する注意が少々おろそかになっていたらしい事に気付く。
 しまった、被弾したかぁと、漏れた声が最後まで紡がれるのを待たず、魔理沙の意識はふわりと遠くなった。
 箒からずれ落ち、ゆっくり地面へ落下していく魔理沙。しかしその表情は、何だかとても満ち足りているように見えたのだ。









 ◆ ◆ ◆









 意識が覚醒したのは。聞きなれた友人の声でだった。


「あ、魔理沙。起きたんだ」


 博麗霊夢。幼い頃からの付き合いだ。だからたとえ目が見えなくともすぐに彼女と分かった。
 日に焼けた畳の香り。それでどうやらここは博麗神社らしいと、ぬくぬくした布団の中。魔理沙は思い至った。


「おはようだぜ。……ふむ、ここは神社でいいのか?」

「うん、博麗神社だけど。昨日の夕方から預かってる。まさかあんたの家に放り込んで、一人放置しておく訳にもいかないでしょ?」

「そうだな。感謝してるぜ霊夢」


 敷き布団の上、上体を起こし、魔理沙は霊夢の声のする方を向いた。


「礼なら幽香に言っときなさい。行方知れずだったあんたを担いで、ここまで持ってきてくれたのはあいつなんだから」

「幽香か……なるほど、そうか」


 花畑での弾幕を思い出し、魔理沙はくすりと笑いを零した。それを見て霊夢は胡乱な表情を浮かべる。


「ああ、今度会ったら礼を言っとくぜ」

「そうしなさい。傍迷惑が服着て歩いてるような妖怪だけど、恩人には変わりないわ。
 ところで魔理沙。今から朝ご飯作るんだけど、あんたも食べる? そうするなら二人分作るけど」

「おお、頼む。昨日の昼から何も食べてないからな。腹ペコだぜ」

「ん、分かった」


 魔理沙の傍らから、すっと立ち上がり台所へ向かおうとする霊夢。
 しかし、その足取りが、途中で止まった。


「ねえ魔理沙……?」

「ん? なんだ?」

「触っちゃだめだって思ってたから、敢えて聞かなかったんだけど……」


 霊夢の表情には少しの躊躇いが浮かんでいる。しかし、聞いておかないと胸の収まりが悪いという思いが顔には滲んでいた。


「何て言うか……落ち込んでないの? 目、今もやっぱり見えないんでしょ? それなのに随分と平気な顔しちゃって……」

「ああ、なるほどね。その事か」


 ニヤニヤ笑いを浮かべたまま、魔理沙はほうほうと頷いて見せる。


「そうだな……朝飯の準備は少し遅れても構わないだろ? ……ふふふ。ちょっと外へ行こうか。付き合ってくれ」

「外に? 何をしによ? ……うーん、まあ、いいけどさ」

 布団の中より立ちあがった魔理沙は、案内してくれと、手を伸ばした。霊夢は不思議そうな顔をしながらもそれをぎゅっと握った。





 霊夢の手に引かれ、魔理沙は境内の玉砂利の上を、音を鳴らして歩いている。
 やはり盲目であるから、少し足もとがおぼつかない感じがあるのだが、その辺りはその内慣れるだろうと、魔理沙は楽観的だ。
 天候は晴天らしい。ほんのり柔らかな風を頬に受けながら、魔理沙はゆっくり語り始めた。


「そうだな。まずは謝るか。あの時は迷惑かけたな。随分と私は自棄になっていた。悪かったと思ってる」

「まあ、仕方ないわよ。急に物が見えなくなったんじゃ、誰だって取り乱す」

「はは。あんまり怒ってないみたいで安心したぜ。それでだ。きっとこれからも、色々手助けしてもらう事になると思う。迷惑かけるかもだが、よろしくだぜ」

「はいはい。あんたには迷惑かけられてばっかだしね。今更それの一つや二つ増えたところで変わりはしないわ」

「ははは。頼むぜ」


 からりとした魔理沙の笑い声が、冬空に響いていた。


「……さてと、やはりあの後の事は話しておくべきだろうな」


 ゆっくりと、足を進めながら魔理沙は話を続けた。


「まあ大体察しは付いてるだろうが、あの後の私を最初に見つけたのは幽香だった。
 そして詳しい経緯は省くが、あいつと弾幕ごっこになった」

「ふーん。結果は?」

「そりゃ当然負けたさ。だって、見えないんだぜ。弾をかわすのがやたら難しくなってる」


 負けたというのに、何だか妙に満足げな魔理沙の表情は、霊夢にとって少し不思議でもあった。
 彼女が基本的に負けず嫌いである事をよく知っているからだ。
 しかし、その疑念は魔理沙の口より解決される。


「ハンデがあったとはいえ、負けは負けだ、勿論悔しい事は悔しいんだが、しかしあの弾幕勝負で私は、ああ、そうだな……」


 じゃりっと玉砂利を踏みしめ、魔理沙は足を止めると、青空を仰いだ。
 その顔が嬉しそうにほころんだのを霊夢は見た。


「……ああ、そうだ。なんだか吹っ切れたんだ。
 目が見えなくても、私は十分私でいられる。その事に気付いてな。
 まあ確かに失った物は大きいが、致命的でもなかったという事だな。それに、失っただけ、得られた物もあった。
 だから今は、とても清々しい気分だ」


 自信たっぷりに朗々と声を響かせる魔理沙に、霊夢はよく分かっていないような表情だった。


「霊夢分かるぜ。お前今、ぽかんとした顔してるだろ? 私が何言ってるか分からないってな。
 ふふふ。きっと分っかんないだろうなぁ。そして分かる必要もないか。
 ああ、でも何だ? 霊夢には分からない事を、私は分かってる。おお、これは凄い。
 何だか生まれて初めてお前に勝った気分だぜ」


 怪訝な顔つきのまま、霊夢は首をかしげる。


「あんまり一人で盛り上がらないでほしいなぁ。反応に困る。
 で、つまりはどういう事なのよ?」


 ふふふと魔理沙はまだ笑いを漏らしている。
 ひゅるると音を立てて、一際強い風が吹いた。煽られて枯れ葉が舞う。その風の流れを感じ取った魔理沙はぴっと手を伸ばした。指と指の間には枯れ葉が挟まっている。


「ほら、大したもんだろ? 私は自信を持っているぜ。霊夢。お前なんかよりずっと沢山が見えているとな」
「目、見えないんじゃなかったの?」
「ああ、見えないぜ全く」


 手にした枯れ葉を再び風の流れに戻した魔理沙を前に、霊夢の表情はますます怪訝なものとなる。


「そうだな、霊夢。目を閉じてみな」


 魔理沙の自信に満ちた声色に、霊夢はむうと唸りながらも瞼を閉じた。
 当然広がるのは、真っ暗な世界だ。


「何にも見えない」

「そりゃそうだ。目、瞑ってるんだし。ぽっかりと永遠に続くような深い深い闇と、時折混じるノイズ。それだけだろ?
 でも、私はこのどこまでも真っ暗な深淵にいながらも、より遠くまで世界を見渡す方法を知っているんだぜ」


 くるりと魔理沙は体を一回転させる。世界を遠くまで見渡す事をしたのだろう。


「温かな風が心地いいな。若葉が萌える香りがほのかに漂ってくる。太陽もそうだ。だんだん元気になっていくのが分かるぜ。
 大地のあらゆるところで、新たな生命が脈動し始めようとしている。桜もポツポツと蕾が出来てきてるんじゃないか。
 ああ、春が始まるんだな。
 見えるぜ。分かるぜ。始まりの季節を塗りつぶす、柔らかな色彩たちがな。
 それは、たった二つの眼だけで世界を見ていたあの時代よりもずっと間近に見えて、そして美しい」


 はははと気分よく笑い声を響かせる魔理沙に、霊夢は少し呆れたような溜息をついた。
 言ってる事はやはり分からなかったので、瞼はすでに開いている。

 それにしても、少し前までの、落胆して今にも死んでしまいそうな魔理沙は果たして何だったのか?

 結局、魔理沙はどこまでも魔理沙だったのだろう。
 魔法と視力を天秤にかけた彼女は、最終的に魔法を選び取った、一度は捨てそうになったとは言え、最後に結局握りしめていたのは魔法である。
 それは困難を伴う道筋である事を了承した上の選択だ。

 ひたすら脆く儚い乙女であると霊夢は思っていた。しかし備わっていた芯はその実とても強靭だったらしい。
 もはや魔理沙にとって盲目は憎むべき仇敵ではない。
 筆舌に尽くしがたい苦悩に直面しながらも、それを糧に、ひたむきな前進を志す人間の特権を魔理沙は行使しているのだから。
 だから今の魔理沙はこんなにも魅力的に見えるのだろう。

 それに、彼女は魔法使いであるから、多少のハンディキャップはむしろ箔になるのかもしれない。
 そんな事を考えて、霊夢はやれやれと微笑んでみたのだった。何にしても大切な友人が快活さを取り戻したのだ。今は素直に喜んでおくのがいいのだろう。


「ああ、そうそう。これ預かってたんだった。あんたにだって」

「ん?」


 霊夢は母屋から持ってきていた、何かを魔理沙に手渡す。
 細長く硬質な棒であった。


「これは、杖か?」

「あんたが診療所からどっか行っちゃった後にね、すぐに必要になるだろうからって永琳が」

「ほうほう。まったくどこまでも察しがいい奴だなぁ。あの医者は」

「ちなみに、今までの症例を当たってみると、魔法で目を悪くした魔法使いが悪くしていたのは、やっぱり目だけなんだって。
 なんか難しい言葉を使うと、視神経って言ったっけ? まあ、負担がかかるのはそこだけだから、そこが既に壊れてる以上、もう他に壊れるところはないって永琳が。
 つまり今まで通り思いっきり魔砲をぶっぱなしても、今以上に悪くなる事はないってさ」

「お墨付きか。ありがたい事だぜ」


 カツカツと地面に突き立ててみたり、ブンブンと振り回してみたりして、魔理沙はこれから二人目の相棒となるであろう杖の感触を確かめていた。
 しばらく、そんな事を繰り返して、ふむふむと満足げに頷く。どうやら気に入ったようだ。


「よし、決めた。霊夢。ちょっと朝飯の後、付き合え」

「付き合えって……何によ?」

「決まってるだろ? 修行だよ」


 魔理沙の瞳は真っ黒だ。だが今の彼女にとってそれは本当に些細な事だ。
 盲目を背負いながらも、彼女は弾幕勝負の舞台に、再び闘士として立つ事を心に決めているのだから。

 きっと困難は多い。しかし今の彼女を見るに、それは無謀な未来などでは決してないように思えるのだ。
 事実彼女は、視力があった頃の自分よりも遥かに華麗な弾幕を展開する自分をはっきりと思い描いている。傲岸なまでの自信に溢れていた。

 ぽっと脳裏に浮かんだのは。新緑色の髪の大妖怪。
 追いつけるものなら追いついてみろと挑発してくる様が容易に想像できた。

 まだ、その背中はあまりに遠い。しかし、だからこそ挑戦する意義があるのだと、魔理沙は思うのだ。
 ほんの少し先の未来を想像して、魔理沙はにやりと笑顔を浮かべた。まぶしく、どこまでも快活な彼女らしい笑顔だった。


「借りを作りっぱなしなのは性に合わん。いつか真剣勝負で、あいつをギャフンと言わせてやるんだぜ!」


 細められた瞳はやはり闇色をしていたが、その中には何よりも鮮烈な色彩がたっぷりと詰まっているのだった。
 霧雨魔理沙に、希望に満ちた春が訪れる日は近い。
 
 
 
 
 
 ――人間は、強い生き物だと、信じたいのです。
ねじ巻き式ウーパールーパー
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/05/09 19:51:10
更新日時:
2009/05/09 19:51:10
評価:
25/25
POINT:
159
Rate:
1.42
1. 9 名前が無い程度の能力 ■2009/05/13 02:51:30
素晴らしい。感動した。
2. 2 名前が無い程度の能力 ■2009/05/14 16:39:04
なんだか読後感がむずむずしますね
3. 5 パレット ■2009/05/18 00:27:55
色が無くなったからこその色。素晴らしく真っ直ぐな希望を見せてもらいました。
4. 8 神鋼 ■2009/05/22 18:49:30
話が全くと言っていいほど反れず愚直なまでに真っ直ぐ。
その力強さのおかげで、暗くなりそうな内容にも関わらず爽やかささえ感じるほどでした。
5. 9 As ■2009/05/24 14:57:50
まず思ったのがスペース、改行がほどよく使われていたのですごく読みやすいことです。
文量自体は多すぎないのに話としてまとまっていて、良い作品だと思いました。
視力、色を失っても魔理沙らしさは失わないところが魔理沙たる所以でしょうね。
それにしてもやっぱりマスパが似合う。
6. 7 三文字 ■2009/05/26 01:11:02
魔女は気質に敏感な生き物だってパチェが言ってた。
人は困難にぶち当たり、それを乗り越えるとどこまでも強くなるといいますよね。
そういう意味で、魔理沙は人としても魔女としても一皮剥けたんでしょうね。
ここまでポジティブに考えられるのは、流石魔理沙というべきか。
ちょっとうらやましいです。
7. 3 気の所為 ■2009/06/01 19:49:57
序盤が急ぎすぎていて置いていかれた感じです。つかみという意味では良いのかもしれませんが。
そこから先もとんとん拍子に展開していっていまひとつ話に入れ込めた気がしませんでした。
8. 7 佐藤厚志 ■2009/06/03 00:35:13
東方と言う作品がある限り、そしてその作品に何かしらの影響を受けた作家が居る限り、こういった悲劇は繰り返し生み出されるのでしょう。
そしてその裏側に見え隠れする作家の美意識、センス、そして力強いメッセージなどを読み手が受け取り、それを機に新しい作品を生み出す。東方界隈とは、そんな空間なのでしょう。
とてもいい作品であったと思います。
9. 8 有文 ■2009/06/08 01:19:10
ひたすらに前向きな魔理沙さんが良い話ですね。なんとも救われる話だと思います
10. 10 読人 ■2009/06/09 05:23:29
見えないからこそ見えるモノがある。本当にその通りだと思います。
魔理沙が失明するという重い内容でしたが、読み終わった時に清々しさすら感じさせる素晴らしい話でした。
魔理沙を導いた幽香も良い味を出してたと思います。
個人的に人間賛歌的な話が大好きなんで満点です。
11. 6 so ■2009/06/11 07:36:09
最終的に前に向かっていくのは素晴らしいと思います。
ただ、それを引き立てるため……といっては言葉は悪いのですが、途中のプロセスでもっと悲壮感を出してもよかったのではと思います。
12. 6 ふじむらりゅう ■2009/06/11 23:42:04
 難しい題材を、丁寧にじっくりと書いたような印象を受けました。
 なんだかんだで幽香も優しいという。
 魔理沙が男前。
13. 9 八重結界 ■2009/06/12 17:11:04
魔法で視力を失うという設定もさることながら、その後の魔理沙の葛藤も実にお見事。
幽香に諭され、落胆から立ち直る魔理沙には感動すら覚えました。
人間、限界を決めなければどこまでもいけるものなのですね。
14. 7 ぴぃ ■2009/06/12 19:33:08
人間の魔理沙には、逆境を跳ね返す姿が似合いますね。
後半の弾幕戦も見事に書かれています。少し固い表現が多く、「!」を使いすぎかな、と思ったのは私の好みの問題かもしれません。
話の内容は面白かったです。
15. 8 どうたく ■2009/06/12 20:33:20
 魔理沙が失明する。
 この発想は、東方の姿を180度ひっくり返すぐらいの大事件ですが、あえてその題材を選んだ作者の勇気はすごいと思いました。

 そして、失明したままEND。けれども幽香との戦いの中で得た、新しい自分への可能性を得た魔理沙。
 作者のテーマである、人間は強い生き物。困難を乗り越えていける生き物だという思いが伝わってきたストーリーでした。

 かなりシリアスで、悲しい話でしたが綺麗にまとまっていたと思います。
16. 9 実里川果実 ■2009/06/12 21:09:22
 魔理沙の強かさ、健気さがすごく伝わってきました。
 重くて暗いテーマながら、それでも救いが、暖かさがある終わり方にグッときました。
 幽香や霊夢の優しさなど、魔理沙を支える面々もさることながら、魔理沙の人間らしい強かさが、とても良かったです。
17. 6 リコーダー ■2009/06/12 21:16:59
マジックアイテムで例の魔女三姉妹の目玉とか手に入ったらいいな。
自棄になった魔理沙は人の話を聞かない所が鼻について感情移入しづらい。そこから思い直すのですが、すぐ元に戻ってしまったので、心の動きとしては魅力的とは言い難かったのが少しばかりマイナスです。
18. 3 木村圭 ■2009/06/12 21:33:07
あまりにもあっさり自己解決してしまって感情移入する暇もありませんでした。
彼女にとっては大したことではないようですが、一般論としてこの上なく重大なことなんだからもう少しじっくり書いても良かったのでは。
19. 5 moki ■2009/06/12 21:56:44
出来ることなら一人称でこの物語を読みたかったです。確かに三人称にしないと物凄く描写が難しく書きにくいだろうですが、三人称故に視覚的な表現も描写できてしまうというのは話としてあまり綺麗じゃないかなぁと。
また、説明的な文章が多かったり、全体的に駆け足というか魔理沙の心情の変化が急で、文章が練りなれてない印象を受けました。
20. 1 ハバネロ ■2009/06/12 22:38:58
どこまでも前向きな魔理沙ならこういう奇跡に辿りつくかもしれない。
21. 7 時計屋 ■2009/06/12 22:41:49
 かのベートーベンが聴覚を失いなって、なおも名曲を生み出し続けたという話を思い出しました。
 余人には魔理沙の選択は賞賛するのも奨励するのも憚られるけれど、絶望を背負ってなお自分の道を進もうとするその姿には、無条件の尊敬と無責任な憧憬を抱いてしまいます。

 物語はテーマに沿ってすっきりとまとまっており、読み手を飽きさせない構成になっています。
 丁寧で分かりやすい文章は読んでいて疲れを感じさせません。
 読んでいて長さを感じることの無い、密度の濃いSSであったと思います。

 ただ反面、視力を失う、という深刻な絶望に対して、魔理沙の選択、そしてその立ち直りに重さが足りないようにも感じました。
 特に魔法を失うか、視力を失うか、という選択が、半ば自棄的とはいえ、その場で性急になされてしまったことが引っかかりました。
 選択に至るまでの葛藤。そして復活に至るまでの絶望。そこが十分に描かれていれば手放しで拍手を贈れたと思います。
22. 7 つくし ■2009/06/12 23:01:44
申し訳ありません、時間が差し迫っているため、採点のみにて、感想本文は後ほど改めて。
23. 5 渦巻 ■2009/06/12 23:29:26
この手の作品で開始で落ちが読めてしまうのは苦しいかったです
幸い描写が安定していて、物語を補強してくれているようでした
24. 7 K.M ■2009/06/12 23:32:32
見えてなくても前を向く事はできる、とな。
25. 5 つくね ■2009/06/12 23:52:31
私なら魔法を捨てちゃうかもしれませんねぇ……魔理沙は強い子だ。その彼女が膝を屈してから立ち上がる過程はこちらも清々しかったです。
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