ジヴェルニーの妹達の庭

作品集: 最新 投稿日時: 2009/05/09 21:47:06 更新日時: 2009/05/09 21:47:06 評価: 22/24 POINT: 150 Rate: 1.52
 Giverny De Petit Soeur




 不思議な不思議な入口。
 なんだこりゃ。
 こいしは思わず頭をぽりぽり掻いた。

 暗い深緑に生い茂る葉っぱの雲の下。苔むして滑る地面の上。ごつごつとこぶだらけ、うねって曲がって空まで延びる黒い木々が集まってできた壁の、ぽっかりと空いた間隙に、本来だったら何もないはずの空間の真ん中に、それは浮いていた。
 全体はアーチドアの形をしていて、長方形に半円がくっついた輪郭の中は、まっ白い光で満たされている。
 こんなものは見たことが無かった。
 いやいやなんの、
 摩訶不思議奇想天外な体験なら、生まれたときから嫌というほどしてきたから、ちょっとやそっとのことじゃ驚かない。
 妖怪なんていう超常現象のトップに君臨している身分だけあってか、こいしは胸を張ってそう言えるはずだ。
 ……だけどやっぱり不思議なものは不思議だった。
 ふむ、さてはこれはどこかへ通じている扉なのだ。こいしはお得意の無意識から来る直観でそう悟った。本当は単に経験則から判断しただけなのもしれなかったが。
 さてその入口、反対側に回って後ろから覗いて見る。
 思ったとおり、後ろ側からは森の風景が見えるだけだった。透き通っているというか、自分が歩いて来た方角からしか見えないのだ。
 発光している場所を探ってみようと思いついて、ちょっと手を伸ばして見る。
 すぐに止める。
 中途半端に手を入れて、入れたとたんに扉が閉じて手がちぎれるなんて事態になったら、ちょっとぞっとしない。
 バックしながらぎくしゃくした手振り足振りで、もう一度来た方向へ戻る。三メートルほど、歩幅で言って四歩分ほど離れた後で、手のひらをおでこに当てて遠くの景色を見るような真似をして、眉をひねりながら入口の中を覗く。
 ぼやけて良く解らないが、微かに向うの景色がうかがえる。
 予想通り、扉の向こうは森の風景とは様子が違う。どこか別の場所へ通じているゲートなのだ。
 そんな物が森の真ん中に浮いているなんて、全く不思議だ。

「ふーむ」

 左腕を胸に組み、右手をあごに当ててこいしは思索する。
 どうやって作ったんだろう。妖術かな、魔法かな。そう言えば今思い出したけど、この郷には「すきま」と言う物ごとの境界を操るちからを持った風変りな妖怪が居るそうで。もしかしたらそういった類の術なのかもしれない。そうすると妖術か。
 いや待てよ。あるいはやっぱり。ここは魔法の森と言われていたから、魔法の類なのかも。どっちの可能性もある。どっちであってもおかしくない。こいしは妖怪なので妖術にはなじみが深いが、西洋から入ってきた魔法というやつにはあまり詳しくない。さてどうしたものか。みなぎる好奇心はこの扉の中へ入って行けと耳元で囁いているが、得体の知れない術の産物に自ら足を踏み入れるのは、いくらなんでも向う見ずすぎる気がする。
 いつも通りの目標を決めない放浪の果てに、この森に辿り着いたのは半日ほど前のことだった。濃い霧みたいな瘴気にさんざん迷わされて、どこへ行ってもおどろおどろしい樹木が立ち並ぶ、代り映えのしない森の中を当てもなくうろつき、だんだん陽が傾きかけてきたころに、この入口を見つけた。
 どうしようか。逡巡する。一歩だけずり足で前に出してみる。ふんぎりがつかない。でもこのまま森の中を彷徨っても、夜になる前に抜け出す自信がない。正直に言えば、もう陰気なだけの森の景色にも飽き飽きしてきたところだ。
 しかしどうにも見え透いた罠にも見える。こんな辺鄙なところに、いかにも入ってくださいよと言わんばかりの入口。魔法の森だから、魔女の罠ということなんだろうか? お菓子の家に住んでいる人食い魔女が、うっかり迷いこんでしまった人間をおびき寄せるために設置したトラップなのかもしれない。童話なんかだと魔女は人間を捕まえて食べるものと相場が決まっているではないか。
 でももしそうだったとしても、それはそれで、ちょっと楽しいかもしれない。少し前に山の上で出会った魔法使いの女の子のことを思い出し、こいしはくすっと笑みを漏らす。面白い子だった。外見は自分より少し年下で、元気でいたずら好きの目をしていて、なおかつ笑顔が可愛かった。確かあの子もこの森に住んでいるはずだ。魔女って言ってもあれは半シーフ半魔女だからちょっと毛色が違うのかもしれないが。

「よし」

 誰も聞いていないのは知っているが、自分に聞かせるために声を出す。
 覚悟を決めた。もし中に入って敵だか魔女だか誰かさんだかが待ち受けていて、望まずとも戦いになったとしても、それはそれで、別に自分は弱っちい人間じゃないんだし、恐れることもないだろう。得意の弾幕をお見舞いしてあげて、古き地底の忌わしい妖怪と言われた種族「さとり」の力をお披露目してあげればよいだけだし。自慢じゃないが腕っ節には自信がある。謙遜知らずに言えば自分は郷の中でも結構強い部類に入るはずだ。よーし、オーケー、イエスサー、レディ・ゴー、ガールズ・ビー・アンビシャス、少女よ、冒険者たれ。行ってみようじゃありませんか。虎穴に入らずんば塞翁が馬。見知らぬ森の秘密の入口探検なんてのも、なんだか冒険者らしくてわくわくするじゃないの。そうして勇者こいしは元気よく手を振りながら、白い光が溢れる新たな世界へ続く扉へ向かって、悠々と歩き出したのでした。
 一歩一歩近づいて行くと、入口の中にある物体の様子が徐々に鮮明になってきた。洩れて来る光の中、形を伴ってくる向こう側の風景に、どうも緑色の壁みたいなものが立ち並んでいるのが判る。なんだろう、と目をぱちくりさせながら頭をひねりつつも歩を進めた。
 そんなこんな考えてるうちに、いよいよ扉をくぐって中へ入ってしまった。
 さあて、視界が開けた。

 暗い森からいきなり明るい場所に出たので、少しまぶしく感じた。
 目を慣らしながら、周囲の様子を確認する。
 左右に角ばった植木の壁があった。外から見えた緑の壁みたいなものはこれだったのだ。
 振り向く。背後には薔薇の花がいくつも見えた。
 つるになって、鉄のアーチに巻きついている。
 さてはあのアーチの先が、自分がくぐってきた入口か。果たしてその先、入ってきた方向にやはり扉状の光があった。扉の向こう側にはついさっきまで自分が居た暗い森の風景が見えた。
 もう一度向き直って周りの景色を確かめる。
 正面を見る。綺麗に四角に隅を切りそろえられた植木の壁が左右を仕切り、道は右にカーブしながら続いている。
 まるで西洋の王宮にある迷路園のようだ。本でしか見たことがない記憶の中のそれは、確かこんな様子だった。
 こいしはその道を、黙ってそのまま進むことにした。

 隙間のない植木の壁に挟まれて数分歩く。
 遠くから花の匂いが香ってきた。
 やがて両脇の緑の壁がなくなり、開けた場所に出た。そこで周囲を見渡す。
 広大な西洋風の庭園だった。
 庭のそこかしこに丁寧に手入れされた植込みと、色とりどりの花々の群れが香っている。真正面に両脇に花壇を備えたレンガの小道が続いていたので、それを進んでいくことにする。やがて道は小川に差し掛かった。流れの先には池が作られていて、その池には水連の花がたくさん咲いている。
 池に設けられた橋を渡った先に円形の広場があるのが見える。
 橋の上から眺めると、広場の中央に噴水があった。アールヌーヴォーかロココ調というのだろうか、詳しくはわからないが、瀟洒かつ優雅な装飾がいたるところに刻まれている。
 ほお、とこいしの顔がほころぶ。それとともに、疑問が湧いてくる。

 ……ハテ、森の真ん中にこんな立派な庭園があるなんて。やっぱり別の世界へワープしたのかしら。一体どこへ飛ばされてしまったのだろう。

 きょろきょろ周りを見回して、色々考えながらもこいしは先へ進む。
 昔読んだ童話を思い出す。少女が庭にあった穴に落っこちると、そこはトランプの王様が治める不思議な国だったという突拍子もない話。ちょっとロリコンの気がある作者が、同名の女の子のために書いたと言われる有名な童話。「不思議の国のアリス」だ。確かあのお話の中に素敵な庭園がでてきた。なんとなく今自分の置かれている状況は、その話に似ていると思った。
 池の綺麗な水を横目で眺めながら、橋を渡り、その先に広がる石畳の広場に入った。
 天蓋の下にはテーブルと椅子がいくつか並んでいる。テーブルの上には布巾が被せられた山がある。山の隣には、水滴が一面に付いた銀色に輝く水差しが置かれているので、布巾の下はきっとティーセットみたいな食器なのだろうと見当を付ける。
 テーブルの上に右手を付いた時に、急に皮膚がぴりぴりする感覚を覚えた。
 こいしには分かった。天蓋の向こう側に誰かいる。
 それもこれは、強い力を持っている妖怪か精霊か。なんかそんなたぐいだ。天蓋のそちら側に壁が立っているので、遮られて姿は見えないが、隠しきれない強力な気配がびしびしと伝わってきている。
 少し不安になる。心臓が脈打ったのが分かった。やはり誰かが待ち伏せしているのだろうか。
 それでもこいしはテーブルのあった場所を後にし、左から回り込んで天蓋の裏側へと近づいて行く。一瞬歩みが戸惑いで鈍ったが、もうすぐだった。もうすぐで誰が居るのか見える。
 ふいに風が頬を走るのを感じた。硬いもの同士が当たったような、きんきん、という高い音がすぐ側で聞こえる。
 七色の光が、こいしの視線の先できらめいていた。赤や紫や青や、黄色や緑の水晶みたいな宝石みたいな形のものが、目の前でちらちらと踊っている。
 その後ろ姿が誰なのかを悟って、こいしは一瞬身構えた。
 黄色の髪の下、真紅が目立つ衣装を着ていて、その背中から、枯木の枝のようなものが生えていて、きらきら光る七色の宝石がいくつも釣り下がっている。見知っている後ろ姿だったのだ。
 その少女は、つい先日こいしが地上にある紅魔館と呼ばれる大きなお屋敷を訪問した折に、一緒に弾幕勝負を演じた相手だった。
 名前は覚えていた。確か、フランドールだ。紅魔館を治めるスカーレット家の次女。
 瞬時に恐怖の記憶が蘇ってくる。
 先の弾幕勝負では、その狂気に満ちた破滅的な力の一端を見せつけられて、背筋に寒いものを覚えたのだった。
 その時の弾幕勝負は故あって途中でお開きになってしまったが、フランドールは終始好戦的で、おまけに興奮すると見境をなくして凶暴になる性格。こいしにはそう感じられた。もし彼女が何らかの悪意を持って自分をここへおびき寄せた張本人だったとしたら。
 警戒する。咄嗟に腕を上げて徒手空拳で空手の構えみたいな威嚇のポーズを取る。
 すぐに我ながらそれは間抜けだったと後悔する。
 どうも前回とは様子が違うみたいだ。
 相手はまだこちらに気づいていないようだし、何かに熱中している様子。こいしは腕を下ろした。
 フランドールは椅子に腰かけてこいしの居る場所とは反対側の、池の方角を向いている。何か手作業をしているみたいだ。真後ろからだと何をしているか良く見えなかったので、こいしは少し首を横にずらして角度を変えてみた。
 フランの手には筆が握られていて、その先には布のキャンバスがあった。
 キャンバスは黒い木製のイーゼルの上に乗っかっている。イーゼルの下には無数のガラス瓶、小さなバケツ、ふきん、そして箱に入った一杯の油絵の具が乱雑に散らばっている。
 絵を描いているんだ。それも結構本格的な油絵だった。
 何を描いているのだろう。気になって斜め後ろからフランドールの手元を覘く。
 キャンバス一杯に色が塗りたくられているのがわかった。遠目からも色彩豊かに見える。
 白い布の上に乗せられた緑や青は、庭の樹木や植木や葉っぱや池の水や池に咲いている睡蓮の色。白や赤や黄色や紫は、庭に咲き乱れる世界中の花々、至るところに点在しているレンガの壁や彫刻の色だ。
 こいしが観察している間もフランドールは一心に絵に向かっていて、白くて小さな手を小刻みに動かして、さらなる色を塗りたくっていた。ぺたぺた、ぐりぐり、しゅっしゅっ。
 絵画という作業に熱中しているフランドールの後ろ姿からは、全く邪気が感じられなかった。純粋に絵を描くことを楽しんでいるようにしか見えない。
 それに、
 とても、上手だった。
 こいしはフランドールの手元にある、今まさに生まれつつある絵を見て感心し、少なくない感動を味わって溜息をついた。絵を鑑賞する趣味を持たない素人のこいしでも、けっこうな腕前であることが判る。
 しかしそんな風に普段触れることのない芸術に見惚れていられたのは数秒、そこでツンとするテレピン油の刺激臭が鼻についたのか、庭に漂っている花粉に感染したのか、こいしは盛大にくしゃみをしてしまった。

「へっくし」
「あら」

 庭中に響き渡る大音量。これで気付かなかったら嘘だろう。
 フランドールは丸い目を大きく開けてぐるりと後ろを振り向いた。
 こいしはいきなり振り向かれ、赤銅色のくりくりした両目に見つめられて、小さくなりつつおたおたした。

「ご、ごめんなさい。邪魔しちゃって」
「あなた確か……」

 フランドールは記憶の中から目の前に立っている人間の情報を探り出しているようだ。

「こいしだっけ」

 にっこりした邪気のない笑顔が返ってきた。
 フランドールの方もこいしを覚えていてくれたようだ。
 パレットを左手に、筆を右手に持ちながら、フランドール小画伯はこいしの全身を見回したあと、視線をこいしの顔に固定して、好奇心いっぱいの顔を作った。

「不思議ねえ。あなたどうやってここへ?」
「それが私にも。さっきまで森の中を歩いていたんですけど。綺麗な入口を見つけて入ってみたら、この庭に続いていたんです。ここは一体どこなんですか?」
「ここはね、紅魔館の中よ」
「ここ、屋内なんですか」
「パチュリーとお姉さまが私の為に作ってくれたんだ。魔法で作ったんだって」

 はにかみながら少女は語ってくれた。
 魔法で作った。言われてもう一度自分が立っている庭の風景を眺めてみる。
 手入れされた植込み。そこかしこに置いてあるプランタや鉢植えに乗っかった大小様々の観葉植物。温暖な気候から亜熱帯や熱帯まで、多種多様の樹木が絶妙な配置で庭の景色を飾っている。それに、大きな澄んだ水の池とそこに生えている水辺の草花。
 空は青く透き通っていて、雲も流れている。これが屋内だなんて言われてもちょっと信じられない。
 広場には大理石の彫刻がいくつも置かれていて、その一つが、偉そうにふんぞり返って椅子に座る悪魔の前で、天使が地面に頭をこすりつけて土下座をしている像だったりするのが、確かに悪魔の館らしかった。

「ほら、あそこに扉があるでしょ」

 そう言ってフランが指差した方角には、白い大理石のアーチが建っていて、その奥に蔦がからまった白壁がある。壁の真ん中に真赤な木製の扉が一つ付いていた。

「あそこを入って行くと、私の部屋に通じているんだよ。私あんまり外に出れないでしょ? 屋敷の中ばかりじゃ退屈だろうからって地下にお庭を作ってもらったんだ。普段は私しかいないけど、お姉さまの魔法も掛けてあって、それで私に少し縁がある人が入ってくるかもしれないって言ってたわ」

 そういうフランドールの表情は何だか神妙で、頬はちょっと赤らんでいた。
 実はフランドールの姉は、本当はもっと恥ずかしいことも言っていたのだったが、それはさすがに口に出せなかった。

「こいしはそれに引かれたのね。へえ、魔法の森なんかにまで入口が開くんだ。パチュリーの魔法も結構すごいわね」

 ちょっと見なおしたかも、と筆の尾をあごに付けながらフランドールは言った。
 こいしはくるくる首を回して庭の様子を観察していたが、やがてまたフランドールの描いていた絵に視線を戻した。

「フランドールさんは絵が上手なんですね」
「くすくす」

 フランドールは手を口に当てながら、上品な仕草で笑いを漏らした。

「どうしました?」
「こいしが他人行儀だから笑ったのよ。フランドールさんだなんて。一回弾幕勝負をした仲じゃない。真剣勝負を演じた後はもうマブダチでしょ?」

 一瞬きょとんとし、その後独特の言い回しに可笑しくなる。

「マブダチでしたか」
「そうよ、強敵と書いて友と読むマブダチよ。拳で友情を誓い合ったんじゃない」
「あはは」
「本当は夕日の河原で誓い合うのが正式らしいけど。今の私には夕日もきついからねー。ね、フランって呼んでよ。私もこいしって呼んでるでしょ?」

 甘えるようなうわずった声で、こいしの目を下からのぞきこみながらフランは言った。

「わかったわ。フランって呼ばせていただくわね。フランは絵が上手なのね」
「ありがとう。最近は一日中こんなことばかりしてる。暇だからね」
「これはこの庭とは別の場所?」
「元はこの庭をモデルにしてたんだけどね、こんな風だったらいいなあ、っていう空想の世界を描いているの」

 話ながらもフランは休みなく筆を運んでいた。ぺたぺたぐりぐり。ながらでも澱みの無い手つきだ。まるで筆に付いた絵の具自身がキャンバスの上の収まるべき位置を知っているみたいに、すいすいと流れるように筆先が動いて色が乗せられていく。

「綺麗だなあ」

 思わず見とれてしまって気付いた時には口から賛辞の言葉が出ていた。

「ホント? ありがとう。嬉しいな」

 返礼しながらフランはころころ笑った。
 絵を描いたことの無いこいしには、細かい技法や良し悪しは判らないけれど、フランの絵はとにかく楽しく見えた。七色の色彩が、心地の良い音楽でも奏でているみたいにキャンバスの上で舞っている。巨匠と言えるような渋い味はないのかもしれないけれど、見た目に派手できれいだ。筆を運ぶ手付きもダンスを踊っているみたいで、見ていてなんだかうきうきしてくる。

「なんて言うんだろう。うまく言えないけど、すごすぎて感動しちゃうわ」
「おほほ、お上手ですなー、こいしさんは。そんなこと言われると私、調子に乗っちゃいますよ」
「いえホント。こんな素敵な世界があったんだなって、驚いた。フランは自分の世界を持っているのね」
 
 そしてそれを絵っていう方法で形にできるんだ。それってなんだか素敵なことだと思う。
 こいしがあんまり手放しに褒めるので、フランはくすぐったそうにしていた。



 ❤



 あまり気の利いた文句も見つからず、そこで会話が途切れた。
 しばらくこいしは黙ってフランの隣に立っていた。
 フランはすぐ絵画に没入してしまった。
 こいしはフランの様子を観察しながら、また庭の景色も見てみることにした。
 居心地の良い庭だ。
 ちくちくという鳥の鳴き声が響いてきている。どこかの梢に留っているのだろうか。屋内なのに動物が離し飼いにされているらしい。
 人造物だと言うが、若葉の匂いが香る五月の澄んだ高くて青い空も、特に不自然に見えるところはない。しかし言われてみれば、先ほど森に居た時はもうそろそろ空が茜に染まる時刻だったのに、この庭の空はまだ真昼と言った具合だ。外とは時刻の設定が違うのかもしれない。吸血鬼で太陽を苦手とするフランが浴びても大丈夫ということは、ほぼ真上に輝いている黄色い太陽も、本物とは少し違うのだろうか。
 ハーブや花の蜜の匂いがわずかに漂ってきているのが判った。そういえばさっきは風も吹いていた。それも魔法の力を使って演出しているのだとしたら、大したものだと思う。
 視線を元に戻す。今もってフランは一心不乱に描いている。
 それを見ながらなぜだかふいに、可愛いなあとこいしはしみじみと感じた。
 以前弾幕勝負をした時とは大違いだった。あの時はなんだかとげとげしくて、一緒にいるだけで不安な気持ちにさせられたけど、今はまるで違う。今は隣にいるだけで、心が落ち着いて、とろんとしてきてしまう。これが本当の彼女なのだろうか。だったらいいな。ううん、そうに違いない。
 フランが一所懸命に一つのことに打ち込んでいるから、それが健気に思えるのかもしれない。この熱中ははあれかもしれない。青春と言うものなのかもしれない。綺麗でセンスに溢れたガーデンで、マブダチの描く絵画を楽しむ青春。それってちょっと詩的でロマンチックかもしれないと浸ってみる。
 ふと、さっきフランが言ってた言葉を思い出す。
 あまり外に出ることができない。
 誰から聞いたのかは忘れてしまったが、彼女はいつも屋敷の奥に引き籠っていて、ほとんど表に出てこないのだという噂を聞いていた。
 同じ屋敷の中でも仲の良い妖怪は少なくて、いつも孤立しているのだという話も聞いた。
 今話した様子では、愛想も良くて女の子らしくてどこにもそんな陰を背負っている様子は感じなかったのに。
 もしかしたら、出て来ないのではなくて、何か事情があって出てこれないのだろうか。
 心の中で好奇心がうずいた。無意識のうちに、こいしの手が昔の習慣に伸びた。こいしの右胸に付けられた卵型のアクセサリー、その中央に一本入った線がぴくりと動いた。
 それは長らく封印していた、こいしの妖怪としての本性だ。それは『生き物の心の中を読む程度の能力』と言う名前で知られている。
 姉のさとりと同じく、その特異な能力を生まれながらに持っていたこいしであったが、心を読むことで他の妖怪や人間から嫌われてしまうことを知り、随分前にこいしは心を読むための第三の眼を閉じた。それは自分が傷つかないために他者と一定の距離を保つための手段であった。以来ずっと、生まれつきのその力のことを忘れて生きてきた。忘れようと願っていた部分もある。
 しかしつい最近、こいしの心情を変化させる出来事があり、こいしが心を許した相手が目の前に居る時は、時折閉じたはずの第三の目がゆるむ時間があった。そして現在こいしは、かつてないくらい落ち着いていて満ち足りた気分になっていたし、目の前に居る綺麗な絵を描くことのできる少女のことをもっと知りたくて、その心の中を覗いてみたいと思っていた。
 こいしの無意識には、ぼんやりと過去の情景が思い浮かんでいた。
 まだ幼いころ、自分を包む感情がすべて暖かいぽかぽかした優しさに充ち溢れていたころのこと。その時は心を読んだって、誰も自分を嫌ったりするものはいなかった。こいしはいつも、その頃に帰りたいと願っていた。誰も疑うことなく生きていられた懐かしい子供のころ。この子の心なら、ひょっとしてその頃みたいに自分を満足させてくれるかもしれない。こんな素敵な絵を描く子だったら。忘れかけていた、心と心が通じ合ったやり取りのぬくもりを思い出させてくれるかもしれない。そんな無意識の期待が働いて、それでこいしの右胸に付けられた無意識の第三の目が今まさに開きかけたその時、

 ぐきゅるるるっるっる、きゅるん。

 鳴った。調子っぱずれなその音が、こいしの下腹より盛大に響いてきた。何事かを悟り、音速より速くこいしの顔が赤く染まる。そういえば、一日中森を彷徨っていたので、朝から何も食べていない。乙女チックとは程遠い重低音のノッキングノイズを聞かされて、フランがこちらを振り向いて、口をぽかんと開けたままで固まっている。多少でない恥ずかしい場面。お腹を押さえて小さくなって、必死で言い訳をつのろうとするけど、何も思いつかないで、こいしは、このそのあのと意味を結ばないこそあど言葉だけを連発してうろたえるばかりだった。
 フランはそれを見て、筆を右手に持ったままで鳥の鳴き声みたいにころころと笑った。

「あはは……ちょっと休憩にしようか」
「あ、ごめんなさい。邪魔するつもりはなくって、私、本当に、その」

 あんまりない体験に気恥ずかしくてしどろもどろになり、顔を染めながら身体の前で手をぶんぶんと振ってとにもかくにも否定する。何を否定しているのか否定できることなのかどうかもわからないが。さっきはくしゃみで今は腹の虫。確かにこいしはフランの作業を邪魔してばっかりだ。気遣われているのが余計に恥ずかしかった。

「ううん、いいのよ。丁度休憩しようと思ってたから」

 無邪気な微笑でそう言うと、天蓋の方を振り向くフラン。しゅんとなっているこいしに向けて、視線で移動を促す。

「どうかしら。よろしければ一緒に紅茶なんて?」
「……いいんですか?」
「うん、もちろん。今日はお姉さまが忙しいみたいだから。そのままだと一人でお茶するところだった。こいしが来てくれてよかった」
 
 満面の、本当に嬉しそうな笑顔で迎えられたので、こいしの心も安心で暖かくなる。
 フランは筆を洗って簡単に後片付けをすると、こいしを天蓋の中まで案内した。

「じゃあ、こちらにお座りになってマドモアゼル」
「あ、はいお招きいただきありがとうございます、ムシュウ」

 良く分からない紳士ごっこの後、フランは手慣れた仕草で椅子を引き、まずはこいしを奥の貴賓席に着かせる。
 続けてテーブルの上に置いてあったハンドベルを手に取ると、肩のところまで持ち上げてからカランカランと鳴らした。
 甲高い音と一緒にフランの視線が庭の片隅に向いたので、こいしも自然にその方角を見た。
 さっき見た、アーチの奥にあった赤い扉。その扉がぎい、と開いた。
 誰か出てくるものと思い、扉が開いて出来た暗がりを見つめる。
 しかし、そのまま扉は再びぎいという蝶番の軋んだ音を残してひとりでに閉った。
 いったい何だったのか、不思議に思って首を傾げていると、

「あら、結構豪華ね」

 フランの声がしたのでこいしはテーブルに振り向いた。 
 いつの間にかテーブルの上に色とりどりの料理が並べられていた。
 サンドイッチ、焼いたチキン、豆と野菜のスープ、卵のサラダ、魚貝のマリネ、フライドポテトと白身魚のフライ。三段重ねのタワー型食器にはショートケーキ、ビスケット、スコーン、フルーツヨーグルト、小さなサイズのタルトなどのデザート。量も結構なもので、大人四五人分はある。
 いつの間に誰が運んだのだろう。こいしは驚く。
 ふと、事実に気付く。置かれていた料理をよく見ると、お盆の隣にハートのジャックのカード添えられていた。こんなことをするのは、たぶんあのメイド長だろうが、良く分からない自己主張だ。気をきかせて二人きりにしてくれたのか。いや、それは気をきかせていることになるのかどうなのか。どうにも不可解な趣向であった。
 飲み物はアイスとホットの両方のダージリン、オレンジジュース、良く冷えた赤白ロゼのワインがあった。
 先程紅茶をご一緒になんて言ってたフランは、まっさきに赤ワインのボトルを開けて、まずはこいしのグラスになみなみとついだ。続けて同量自分のグラスにも注ぐ。

「さあ、遠慮なくどんどんいっちゃって」
「ありがとう! 美味しそう、いただきまーす」

 腹ぺこだったこいしは大喜びで食器を手に取り、料理にかぶりつこうとする、が、思い直して一回咳払いをして仕切り直した。
 手を拭いていないし、ナプキンを付けるのも忘れていた。
 その後、少し落ち着いてからせいぜいレディっぽい淑やかな仕草でサンドイッチを一つつまむ。食べやすいように、子供の体の自分達に合うように一口サイズに切られている。
 ぱくりとほうばって味をかみしめる。ベーコンとレタスとトマトをくしゃくしゃ噛みしめながらフランの方を見た。フランはチキンにナイフを入れている途中で、こいしの視線に気づくと手を止めた。

「こいしっていい名前だね」

 と唐突に思いついたように言って来た。

「こいしこいし、兎こいし、かのやま……」
「そこは追いしだよ」
「うさぎと言えばれいせん・うどんげいーん!」
「あら、それ誰だっけ?」

 こいしがそう言うと、フランはチキンをおあずけしてナイフとフォークを皿の上に置き、テーブルの下をごそごそ探り出した。何してるんだろうと思っていると、テーブルの下からクロッキー帖が一冊にょきにょきと出てきた。フランはページをぱらぱらめくると、いきなりペンを持ってさらさらと流暢な手つきで何か描きだした。
 五十秒ほどだった。

「はい、できた!」

 フランからクロッキー帖を渡されたので、こいしはそれを手に取って見てみる。

「あ、すごい! 上手」

 頭に兎耳を付けた、ちょっと目つきの悪い長い髪と短いスカートの少女の絵が、こんもり茂る竹林の中に立っている情景が見事に描かれていた。
 まるで写真のように細密な絵だった。

「あー、この人か」
「会ったことある?」
「うん。一回この人の住んでる竹林に行ったことがあるの。それにしても上手……」

 あんな短時間で描いてしまうなんて。あらためてフランの腕に驚かされる。
 どれだけ練習してるんだろう、と感嘆しながら興味を持つ。
 こいしがクロッキー帖に見惚れている間にフランはざくざくとチキンにナイフを入れて行った。
 こいしもワインをごくごく飲みながら、へべれけに近づきつつ料理に舌鼓を打ちつつフランのクロッキー帖をぺらぺらめくって描いてある絵を鑑賞していく。
 二人ともお譲様育ちであるので、食事の途中に他のことをするのは行儀が悪いと習ってはいるけれど、どうせ二人以外には誰も見ている者がいないのだから、気にすることもないと割り切ることにした。ぺちゃくちゃおしゃべりをはさみながら、健啖な少女達は四五人分はあろうかという料理をぺろんとたいらげた。
 食事が終わった後、フランがベルを振ると、またいつの間にか食器が下げられていた。
 見事なものだと思う。それにしても、わざわざ時間を止めて仕事をしなくてもいいのにとも思う。
 訪問の挨拶もしておきたかった。一度ぐらい顔を見せてくれればいいのに。
 そう考えていたらまた、ぎい、と扉が開く音がした。
 扉の中からでてきたのは、あのメイド長ではなくて、ネグリジェを身にまとった野暮ったい姿の少女だった。

「フラン、できた?」
「あ、できてるよ」

 フランはそう言うと、またテーブルの下をごそごそと探り出した。

「えーっと、どこへやったけな……」

 なんでもかんでもテーブルの下に入れてあるのか。ちょっと可笑しく思う。
 フランを待っている間に、こいしとネグリジェの少女の目があったので、こいしは挨拶をすることに決めた。

「えっと、パチュリーさんでしたっけ? こんばんは」

 かろうじて覚えていた眠たそうな目をした地味な少女の名前を呼ぶ。

「久しぶりね。妹様の相手をしてくれてありがとう」
「あった、これだ」

 フランはテーブルの下から何枚か画用紙を取り出すと、パチュリーに手渡した。
 こいしが横から覗くと、そこには水彩絵の具で平面的な建築画みたいな丁寧な絵図が描かれていた。
 どこかの庭の様子だ。パチュリーはそれを確認しながら眉毛を捩って難しそうな顔を作った。

「うーん、これはまた個性的ね」
「あら、できないのかしら」
「できないかどうかはこれから調べるけど、ちょっと立体的な様子がわからないわ」
「ああ、それだったら三面図を描こうか?」
「そうしてくれると、ありがたいわね」
「何してるんですか?」

 気になってこいしも聞いてみる。

「フランが描いた絵を元に庭を造り変えてるのよ。ちょっとずつね」
「これからまた変えるんですか?」

 既にどこにもないくらい立派で綺麗で整った庭園だ。どこを変えなきゃいけないところがあるのだろうとこいしは不思議に思う。

「美の追求に終わりはないわ。箱庭造りは私の趣味なの。でも私よりフランの方が芸術的センスがあるみたいだから、デザインをまかせているの。私の趣味もフランの趣味も満たせて一挙両得でしょ?」

 ああ、なるほど、とこいしは頷く。要するにこの館の連中は皆暇なのだ。

「魔法で庭を造り変えるんですか?」
「そうよ、こんな風に」

 そう言ってパチュリーは手に持っていた杖で庭にあった大理石の像の一つを差す。ポンと言う音と少量の煙とともに、像が形を変えて、レミリアの顔型クッションができあがった。

「あ」

 フランはいきなり靴を脱ぎだすと、そのクッションのちょうどレミリアのはなっぱしらのところを踏みつけて柔らかさを確かめる。

「柔らかい。羽毛ひゃくぱーせんとと見た」
「なんで靴をぬぐの」
「だって、靴のまま踏んだら失礼でしょ」
「実の姉をモデルにしたオブジェをふんづけてる時点で十分すぎるほど人倫に背いているわよ」
「わざわざこの形のクッションにしたのは私に踏みつけさせるためだけとしか思えないんだけど」
「すごいですねー。何でも作れるんですか?」
「何でもってわけじゃないわ。素人は魔法を万能の道具のように考えがちだけど、七曜を元にした錬金魔法は等価交換が原則。同質量、同エネルギー量のものしか精製できない。私の魔法はライムンドゥス・ルルスという高名な錬金術師が提唱したアルス・マグナの法則に七曜のアストロラーベ理論を加えて実用的に改良したもの。万物の根源に刻まれているアカシック・レコードの空間情報を読みだして、そのコードを改変し物質変換を行うの。だけど再現しようとしている物の正確な心象がわからないと、多くの場合精製は失敗に終わる」

 いきなり訳の分からない講釈が始まったので、こいしは呆気に取られた。
 パチュリーはオタク特有の聞いている方が苦しくなるような早口で、さんざん自分の魔法に対する蘊蓄を語っていたが、そのうち気管に涎が入ったらしく、咽返って咳きこんだ。

「大丈夫ですか?」

 これは大変だと思い、こいしはコップに水を入れて、赤い顔でげほげほと苦しそうに屈み込んでいるパチュリーに手渡す。
 パチュリーはその水を飲んで一息つくと、喘息の調子が悪くなった、今日はこれくらいで勘弁してやる、次回の講義は来週と言い残して扉の向うに引っ込んでいった。二人はあきれながらパチュリーの後ろ姿を見送った。

「じゃあ私も、そろそろ帰るね」

 天蓋の側に立ってこいしはそう言った。
 夜も遅いし、泊めてもらおうかとも思ったけどまだそんなに打ち解けた仲でもないだろう。
 恐らく今外へ出たら真夜中だが、今度は森の中ではなく紅魔館の入り口に出られるから、そこからなら帰り道がわかる。
 麓の神社にでも行って軒先を貸してもらおうと考える。

「ねえ、こいし」
「うん?」

 こいしはフランが身をきゅっと縮めて小さくなっているのに気付いて不思議に思った。
 なにか言いたいけども、言いにくそうなそんな感じだ。
 フランはしばらく迷ったのちに、唾を何度か呑み込んだ後にようやく言葉を紡いだ。

「たまに来てくれるとうれしいかな」

 うつむき加減で頬を染めて、上目使いでおどおどしながら自分の目をちらちら覗きこみながらそう言う。
 どうしてそんなにびくびくした様子なのか。
 なぜだかわかっていた。フランは不安なのだ。
 自分に断らたらどうしようかと脅えている。

「ここあんまりお客さんこないしさ」

 あんまりというか実のところ全然である。外から来た客はこいしが初めてだった。

「その、こいしさえ良かったらいつでも」
「ぜひ、ぜひとも! 今日とっても楽しかったもの」

 一瞬固まったあと、喜びをあらわにし、こいしはフランの両手を握ってぶんぶん振った。

「そ、そう」

 暖かい手の温度が伝わってきて、フランはちょっとうろたえて気恥ずかしそうだった。
 そこでフランは思い出したように
 
「でも新月や満月の近くは避けた方が無難かな」

 ぼそりと言った。
 今までの喜色満面な様子から、急に真剣な面持ちと口調に変わったので、こいしははっとなる。
 新月や満月に一体何があると言うのだろうか。

「え? どうして……」
「私ね、月のうちでちょっと不安定な時期があるの。自分で言うのもおかしいと思うけど」

 月を見ると妖怪はおかしくなるのは確かにそうだ。
 しかし別に、狂って見境が無くなる程ひどいというわけでもあるまいに。

「この間こいしが来てくれた時、一緒に弾幕勝負をした時って」

 そう言えばと思い出してまたはっとなる。あの時は確か新月の前日だった。
 もしかして、と思う。本当にそうなのか。

「その時期は私ちょっとおかしくなっちゃうの。狂っちゃう、っていうか」
「そんな」
「ううん。いいのよ。みんなが噂していることは私も知ってる。実際そのとおりだもの。やっぱりその期間はやめた方がいいわ。私、おかしくなって自分でも気付かないうちにひどいことしちゃうと思うから」




 ❤



 さて、約束した通りこいしはそれからも足しげくフランの庭へ通うことになった。
 回数を重ねる度に仲が良くなっていき、最初はぎこちなかった会話もフランクになり、お互いの距離も縮まっていく。
 マブダチと言うよりは、まるで友達以上恋人未満な関係になってきた、ある日のことである。

「私も絵を描いてみようかな」

 こいしがふと思いついてそう言うと、フランは頬に花が咲いたみたいな期待に満ちた顔を作った。

「それいいね! それ素敵!」

 フランはぱちぱちと手を叩いて、こいしの紅魔館美術部入部を飛び上がらんばかりに喜んだ。
 賛成票二票、反対票棄権票ゼロ、満場一致でこいしはフランに絵を教わることになった。
 画材はとりあえずフランからお古をもらうことにする。
 こいしもフランの隣に椅子をもってきて、仲良く並んで一緒にイーゼルを立てる。
 こいしは絵に関しては全くもって初心者。まずは経験者のフランが多少の手ほどきをしてあげねばなるまい。

「デッサン用のブロンズ像、昔使ってたものがいくつかあったんだけど、どこへ行ったのか解らなくなっちゃったの。たぶん倉庫のどこかにあると思うので、今メイド達に探してもらってるんだけど。見つかるまでは、このレミリア像を使ってようか」
「これ、お姉さんの像じゃないの」

 ほぼ等身大の大きなブロンズ像だった。
 偉そうにふんぞり返って肩肘を付きながら玉座に座るレミリア・スカーレットその人の像だった。
 小さな顔を見ると、人を嘲笑っているような邪悪な笑みが浮かんでいる。体つきが本来の幼児体型から若干グラマラスな大人びたスタイルに脚色されているところ以外は、レミリア当人にそっくりだ。
 なんでこんなものがあるの、こいしは目を丸くする。

「お姉さまが彫刻の上手なメイドに作らせたのよ。あほだよねー、自分の銅像なんか作っちゃうなんて」

 普通こういうものは立派な業績を残した人のために有志が作ってあげるものだと思うんだけど、まああの姉のすることだからしょうがない。フランは苦笑しながらそう言った。

「でもこれならどんな風に描いても気にならないでしょ?」
「そ、そうかな」

 言われてこいしはあの容姿も言動も行動も子供っぽいフランの姉の姿を思い出して見る。空想の中のレミリア姉は牙をむき出しにし、両手を上げてバカにするなと怒っていた。
 フランからデッサン用の木炭を手渡されて、目の前の像を見ながらラフスケッチをしてみる。

「う……」

 二十分ほど木炭紙と格闘して、できあがってきたものを見てこいしはうめいた。
 ミミズののたくったような線が踊っている。それでもなんとか描いた手や足は、ぶかっこうな棒にしかみえないし、その先についているぎざぎざはどうやら指のつもりであるらしい。眼はなるとのようなぐるぐるであり、顔の輪郭はつぶれたカレーパンに見える。横に少し付いているはみ出した餡みたいなのが髪の毛だ。吸血鬼らしさを出そうとして牙のあたりを強調したので、人間と言うよりはつぶれたチョウチンアンコウのようにも見える。ちょっとばかり、芸術とは程遠いかもしれない。
 幼稚園児でも家族の絵を描けと言われたらもっとましなものを描くかもしれない。
 立体らしさは全くなく、どことなく原始人が石室に描いた壁面画にも似ている。

「なんというか平面っぽい」

 自分が下手くそだと言うことは知っていたが、隣でフランが素晴らしい絵を易々と描いているだけに、才能の違いを思い知らされてがっくりと落ち込む。

「最初はみんなそんなものよ」

 慰めの言葉が優しかった。最初はフランもこいしと同じくらい下手くそだったと言う。
 フランが絵を始めたのはここ数年のことで、最初は一本の線を描くことでさえまともにできなかったし、色はすぐににじませてしまっていた。手入れを間違えて何本も筆をダメにしてしまったし、人物画も風景画も小児の落書きと大差なかった。

「最初は誰でも下手だけど。何百枚何千枚と描いてるうちにうまく見える絵のコツはわかってくるのよ」
「本当?」
「そうよ。こいしだって、書き続けていればきっと、今の私なんかより全然うまく描けるようになるわよ」

 ちょっと信じられない。自分の作品とフランの作品を見比べていると、最初から、生まれたときから厳然たる才能の違いがあったようにしか思えない。

「でも、見た目うまく描けるようになるってのは単なる基本だからね。画家としてはそれからが大事なの」

 画家と言うのは見る人を楽しませる絵を描かなくちゃ一人前とは言えないと、フランは一本指を立てながらおしゃまにのたまった。

「でも世の中には小難しい絵もあるわ。芸術ってなんだか大抵そんな気がする」

 ロールシャッハテストの絵みたいな別の目的があるものならともかく、ピカソとかダリとかこいしにはよく理解できない絵がたくさんあった。先入観かもしれないが、芸術とは大抵一般人には理解しがたい、専門的で高尚なものだと思う。

「しゅ、しゅるる、だっけ」
「シュールレアリズムね。ああいうのもそれなりに楽しむ人がいるのよ。価値観の違いねー」
「そうなんだ」
「そうよ。ああいうのは哲学なのね。フィロソフィ。こいしの弾幕にもあるでしょ?」

 確かにあった。良く考えないでそんな風に名付けてしまったスペルカードが一枚。
 哲学ってちょっとロマンチックな響きがある。わざわざ小難しいことに憧れるのは中二病なのかもしれないけど。

「知ってる? こいし。一番頭の良い人は社会に親しみ、二番目に頭の良い人は哲学を楽しみ、三番目に頭の良い人は芸術に親しむの。四番目、一番頭の悪い人間は無政府主義者になって何も考えずに生きるんだって」

 ほおと頷く。フランが格言じみたことを言うなんて、ちょっと不思議に感じた。
 最近気付いたのだけど、この子はかなり頭が良いのであった。さすが長生きしている吸血鬼だけあると思う。子供っぽい外見とそれにも増して子供っぽい行動とは裏腹に、知識は結構持っている。

「さしずめ私は三番目か四番目かな。引き籠りだし、絵ばっか描いてるし」
「クスクス。そう言われたら私も三番目か四番目ね。何にも考えず無意識に行動して、働かずにぶらぶらしてるし」

 自分で言ってて少し落ち込んできた。

「私たち二人ともろくでなしだーダメ人間だー」
「アハハ」

「あら、二人で仲良く何描いてるの?」

 はっ、となる。いつの間にかすぐ後ろまで誰かがやって来ていた。
 しかもレミリアだった。こいしの描いた絵をみつけたレミリアは、おもむろにこいしの手元から木炭紙を奪い取った。
 
「見せて」
「ああっ」

 束の間まずい、とこいしは思った。自尊心の高いレミリアに自分の前衛的絵画を見せたらどうなるだろう。
 誇りを傷つけられて怒り狂うことは必至。

「まあ、上手。海に住んでるサハギンね。この醜悪な表情が良く似てるわ。立派な悪魔画家になれるわよ。でも半魚人に羽根はないんじゃないかしら」

 そこでレミリアはこいしの前にある自分の像に気が付いて凍結した。
 事件は唐突に起こった。
 まず、画用紙を持つ手がぷるぷる震え出した。
 画用紙に描かれたものが指し示す事実関係を理解し、強張ったレミリアの顔が我を忘れた憤怒の形相に変化するまでに要した時間は約三秒だった。こいしの目には、レミリアがいきなり両手をあげて万歳をしたように見えた。
 予告なし、いきなりの渾身の不夜城レッドであった。

「うわあっ!?」

 轟音と共に紅色の破壊のオーラが発生し、庭をこれでもかと埋め尽くした。こいしはまぶしくて紅い光から眼を覆いながら、サングラスが欲しいとわけのわからないことを考えた。気が動転しているのである。
 破壊の余波によって、まず一番近くにあったこいしの絵画セットが損害を被った。同時にすぐ隣にあったフランのイーゼルも被弾し弾き飛ばされて、乗っかっていたキャンバスは十メートルほど宙を舞い、やがて重力に引かれて庭の池にぼちゃりと落ちた。
 それはフランがこの一週間描き込続けていた力作だったと言う。
 水面に浮いているキャンバスの無残な姿を見て、フランの表情が信号機のように青い狼狽から黄色を経て真紅の怒りの色へと早変わりする。
 これもいきなりだった。身を鏃のようによじって十分に回転力を付けて、フランはフランドール版デーモンロードクレイドルを放った。弾丸となったフランが、オーラを出し切って滞空下降状態に入った無防備なレミリアの腹に直撃し、肉をえぐった。
 何事、こいしはまたも電撃が走ったように目の前で起こった珍事に戦慄する。
 ぐほはあと悲鳴と共に涎を撒き散らし、きりもみ状態でレミリアの体はピンポン玉のように吹き飛び、庭の出入り口である白壁に追突してしまい、物の壊れる派手な音が庭中に響き渡った。
 レンガの破片や埃が舞う中で、間髪入れないまま姉と妹の二人はそのままもつれ合い、今度はお互いに髪をひっつかみ爪を立ててのキャットファイトに移行している。
 はたで見ているこいしは泡を食ったように慌てる。状況がわからない。いったいどうしてこうなってしまったのか。
 すべては自分の絵が下手くそだったことが原因だったのか。それにしても、いくらなんでもレミリアの反応は過剰すぎるんじゃないのか。フランもいきなり攻撃をしかけるなんて。どうなってるんだこの姉妹は。

「二人ともやめて! 私が悪かったです! わざとじゃないんです!」

 こいしが必死に謝っていると、二人とぴたりと手を止めた。
 もみ合いをやめて、荒くなった鼻息を止めながら、ブレイクして距離をとる。
 レミリアはとても悔しそうな顔をして、踵を返すと扉を蹴り破り、そのまま庭を去って行った。去り際、ばーかばーか、おまえのかあちゃんアンデッドーという子供が喧嘩に負けたときの捨て台詞みたいな声が聞こえてきたが、まさかそれがレミリアから出たものとは思い難い。

「まったくとんでもない姉だよ!」

 フランはぷんすか怒りながら熱い紅茶を啜る。
 絵画をお開きにして、二人で天蓋の下に戻ってきた。
 どっちらけになってしまったのでお茶休憩を取ることにしたのだ。

「ど、どうして急に暴れたのかしら」
「さあ。わけわかんないわ。だいたいあいつ、いつも自意識過剰なのよ」

 全く意味がわからない。いつもいつもあいつのすること為すこと訳がわからない。
 おかげでせっかくの力作がおじゃんになってしまったし、画材もいくつか壊れてしまった。
 それからフランは姉に対する不満をバルカン砲のようにまくしたてた。
 こいしも姉がいるから人ごとではなく、そんなフランの漏らす不満をくすくす笑いながら聞いていた。

「でもいいお姉さんじゃないの。こんな素敵な庭をプレゼントしてくれたんでしょ?」
「それは感謝してるけどさあ」

 まったくもうちょっと大人しくして、他の人間にも解る行動を取ってくれればそれなりに尊敬してあげるのに、とフランは顔を歪めながら言った。おかしくてくすくすとこいしは笑う。どこの家も姉妹とはこんなものなのだろうか。
 その日はそれから、二人でお互いの姉のおかしなところを並べ立てて盛り上がった。
 わけのわからないレミリアの珍行動であったが、こいしは少し思い当たる節があった。
 もしかしたらレミリアは、単純に輪の中に入りたかっただけなのかもしれない。
 でもなかなか言い出せなくて、感極まった揚句の行動が先ほどの不夜城レッドなのだとしたら?
 やっぱりわけ分からないわバカヤロウであった。どうもフランの姉は相当な変人であるようだ。



 ❤


 最近こいしの様子が変わった。
 陰からいつも妹の様子を観察しているさとりがそれに気づいたのは、朝方にふらっと食事を食べにこいしが戻ってきた時だった。
 朝帰りである。
 素行不良化の第一歩。危険信号である。
 保護者として咎めるべきかとも思ったが、ちょっとそれは過保護すぎる気もした。
 何分地霊殿は広いので、隅々まで目が行き届かない。姉妹の生活はただでさえすれ違い気味になっている。
 気になって朝食の席で食パンをもぐもぐ食べながら、こいしの方をちらちら覗く。
 テーブルにはさとりとこいしの姉妹の他にも数名のペット妖怪達が座っている。だいたいさとりは指定席である一番奥の良い席に座るが、朝食の場にいたりいなかったりするこいしはいつも勝手な席に座る。今日はさとりの席からは遠い、食堂の入り口側、こいし自身のお気に入りのペットと、さとりのペットであるお燐という火車猫叉の間に座っている。もっと自分のそばに来ればよいのにとも思う。どうしてそんなに他人行儀にするのだろうか。たった二人しかいない血を分けた姉妹だろうに。こいしの考えていることは本当に分からない。
 いつもトーストにはピーナッツクリームを付けるのに、今日はバターを付けている。実は相手のそんな些細な変化に気付くぐらい、さとりはこいしのことを観察している。
 地霊殿に洋食文化が入ってきたのは江戸時代初期のことである。隠れ切支丹の宣教師たち異人がその異形から鬼とよばれ、地底に逃げ込んで来て、そのまま本物の鬼となって止むを得ず旧都に定着して伝えたのが始まりだった。旧都の妖怪たちは、元々政争に敗れて地上から追われた精霊たちであったり、土着的な信仰が妖怪化したりした者達であったりと、いわば表社会からはぐれたものが多かったため、同情心か親近感が湧くのか、弾圧された異文化を好み、寛容に取り入れる傾向があった。
 そう言った経緯から、地霊殿でも朝は洋食と決まっていた。そしてこの百年来、朝食においてこいしの食事の趣味が変わったことはなかった。
 これは大きな変化だと思う。
 どちらにだろう。たぶん良い方にだと思う。なぜならこいしの食器を使う手付きが弾んでいるからだ。
 また何か、心境の変化があったのだろうか。
 自分がよかれと思ってペットを与えた時には、さほど変化がなかったのに。
 自分が与えた者にはあまり興味を示してくれないのだろうか。家族という身近な存在だからこそ、かえって興味が薄れてしまうのかもしれない。だとすれば少し寂しく感じる。それでも妹の心に響いた出来事とは一体なんだったのだろうかと気になった。

「ねえ、こいし」

 さとりが声をかけてもこいしは返事をしなかった。上の空でもぐもぐとパンを食べ続けている。時々口元がにやにやしている。まったくいつものこいしらしくない様子である。

「ねえ、こいしったら」

 はっ、と呼ばれていることに気付く。

「なにかしら、姉さん」
「あなた、外で何かあったの?」
「と、特に何もないわよ」

 うろたえている。明らかにおかしいと思う。

 じろじろさとりがこっちを見出している。
 こいしは姉に気付かれないように、平静さを取り繕おうとした。
 自分でも気付かないうちに、感情が表に出てしまったのだろうか。
 友達ができた。
 口に出して見ればただそれだけのことである。
 それだけのことで、普段の仕草も言動もがらりと変わるものなのだ。
 


 ❤



 その日こいしがまた緑の壁をくぐって庭を訪れたとき、フランはドームの下で居眠りしていた。
 春だけど少し肌寒い日だった。寝入る時に身に着けていたのであろう肩掛けが、ずれて椅子の下に落ちていた。
 こいしはそれをそっと拾って、テーブルにうずくまっているフランの肩に、優しくかけてあげた。
 テーブルの前、フランの向かいの椅子を引いてそこに座る。
 音を立てたつもりはなかったが、うたたねだったらしく、それでフランは気付いて起きた。
 目の前に友達が来ていることを確認して、ちょっと微笑む。
 自分の肩に掛っている衣に気がついて、

「あー、ありがとう」

 と言ったが、そこまでで、続ける言葉が出ない。
 奇しくもこの時、こいしの第三の目は、無意識のうちに全開になっており、こいし自身そのことに気付いていなかった。
 声が聞こえてきて、それが肉声ではなく目の前にいる少女の不可解な心の動きを捉えているものだと判って、初めて自分が心を読んでいたことに気づいたのだ。

――何で思い出せないの?

 か細くすり切れそうな、弱弱しい声だった。
 どうしてどうして肝心のことが思い出せないのだろう。
 思いだせないことを知られたら、この人のことを傷つけてしまう。

――よりによってこんな

 目線が泳がないように。狼狽が動揺が相手にばれないように。工夫をしているが、それは全て筒抜けなのだ。
 フランは傷ついている。深く落ち込んで、今にも引裂けそうだ。だけど一体何にそんなに苦しんでいるのか。
 断片的な思考の声だけではフランが一体何を悩んでいるのか分からない。
 もっと細かい情報があれば、フランを苦しめていることの原因がわかるのに。
 こいしは我を忘れ、自ら禁じた術であったことも気づかないふりをして、久方ぶりの読心に没頭した。

――目の前にいる人の名前が思い出せないなんて。

 受信したヴィジョンを分析し、こいしの思考が凍りつく。
 思いだせない? 何を言っているのだろうか。名前とは自分の名前のことか。古明地こいしの名前を忘れたと。ド忘れをしたとでもいうのだろうか。しかしどうもそれとは違う不自然さがある。一体?
 茫然自失のこいしが突っ立っていると、フランは自然な笑顔を取り繕いながら、足もとに置いていたきんちゃく袋から、一冊のクロッキー帖を取り出し、おもむろにそのページをめくった。そこに何が書いてあるのか、フランの目がどのように運ばれて、どんな情報が頭の中に入ってきたのか、こいしには筒抜けだった。フランの視野に移る文字情報が、フランの言語野を介して目に見えぬ波長となり、こいしの第三の目に受信される。

――こいし! そうだ、この子はこいしだ!

 一緒に絵を描いたんだった。とっても楽しかった。幸せだった。なんでこんなこと忘れてしまってたんだろう。

――自分の一番大切な友達じゃないか。それなのに私は。

 でもよかった。まだ完全に壊されたわけじゃなかった。ちゃんと残っていた。
 深い安堵。緊張の糸がほどけて、汗がどっと噴き出す。いったい心が汗をかいたのはどちらだったのか。
 全てが筒抜けだった。耳を塞ぎたくなった。それでも、
 これは一体どういうことなのかと、こいしの頭は否が応にも分析を始める。

「こいしが掛けてくれたんだね、肩掛け」
「え、ああ、うん、そうよ」

 どうしてこのような時に。よりによって、自分の眼は開いてしまったのか。
 早くこの場から立ち去りたかった。フランが隠している事実はフラン自身知られたくないものだったのだろう。
 それを自分は暴きたててしまった。しかし、知ってしまった以上はそれに基づいて行動しなければならないのだ。
 事実は一つ。
 フランドール・スカーレットには記憶障害がある。原因は不明。
 その日は用事があると言って、こいしは足早に庭を去ることにした。
 


 ❤



 真っ赤に塗りたくられたアンティーク風のキャビネットや天蓋付きベッドが並ぶ部屋の中で、レミリアは一人たたずんでいた。
 この間やらかしてしまった失態のことを思い出すと、身がよじれ臓腑がひっくり返るような想いを味わう。恥ずかしさに胸が焼ける。
 年上の姉らしい親しみやすさをアピールしようと思って近づいたのに、こいしの絵のあまりの稚拙さに我を忘れてしまった。
 別に自分をバカにしてあんな絵を描いたわけではないのは、状況から判断すればすぐわかっただろうに。
 フランが自分を攻撃してきたときに、ムキになって反撃したのも、こいしの方をかばったと勝手に勘違いしてしまったからだった。
 どうにも自分はプライドが高すぎて、前が見えなくなってしまうようだ。特に妹がからむとおかしくなってしまう。気をつけなくてはならない。
 落ち着いて、深呼吸して、今度は前回のような失敗をしないように。
 ドアをノックする音が聞こえた。メイドに案内されて彼女がやってきたのだ。

「入って」 

 落ち着いて、威厳を正して。
 こいしはレミリアに問いただしたいことがあり、咲夜に頼んで面通しを願ってきたのだ。

「どうしたのかしら、私に用なんて」

 椅子に座りながら、レミリアは森厳な面持ちに見えるように表情を作りつつ、優雅に見えるように肩肘を付いてこいしを迎えた。

「あなたには感謝してるわ。あなたが来てくれるようになってから、フランはとても明るくなった」
「それについて聞きたいことがあるんです」

 こいしの真剣な表情を受けて、レミリアの顔から余裕の笑みが消える。
 紅い部屋の中にしばらくの沈黙が充満した。
 
「フランはもしかして、病気なんじゃないですか?」

 それを聞くと、レミリアの顔が強張った。目をつぶり、一度深いため息をつく。
 結構速かったわね、と言った。遅かれ早かれ知ってしまうとは思っていたけれども、と付け加える。
 どういうことなのかとこいしが再び尋ねると、レミリアは立ち上がって、少し待っているようにと言い残し、続きになっている隣の部屋に入って行った。
 しばらくしてレミリアは奥から額に入った絵をいくつか持ってきた。

「この絵は?」

 ひときわ黒い絵だった。絵の全体の配色は灰色で、小さな部屋の隅に黒い丸がある。そこに目のような紅い斑点がいくつも付いている。部屋は狭い、窓がない。何か得体の知れない凶暴なものを閉じ込めている檻。そんな風に見えた。壁には染みがあり、ぼんやりとしていてはっきりとは言えないが、人の形にも見える。
 何が描かれているのかは判別がつかなかったが、なぜか、見ているだけで不安にさせる不気味さがある。
 見ているとだんだんとそれが、人の苦しみのように思えた。単調だった壁の模様が、地獄で苦しむ亡者の群れのようにも思えるし、戦争で無意味に虐殺された犠牲者の霊にも見えた。いくつもの死や怨念がこの絵には塗り込められている。
 狂気に満ちていた。
 なんでこんなものを描くのかと作者の人格を問いただしたくなるような絵だった。
 ロールシャッハテストにある蝶みたいな図柄を見て、割れた女の頭と答えるような人間が描いた絵。
 禍々しく見えた。最初にフランに出会った時、弾幕勝負を演じた時に感じたものと同一。
 しかし能天気な絵には見られない、一面の真理がそこにはやはりあるとも思う。

「あの子が描いた絵よ」
「フランが」

 びっくりする。庭で見せられた色彩に溢れた絵からはとても想像がつかない。
 フランにこんな内面があるというのか。

「自分の中にいる怪物を描いたって言ってたわ。よく夢に見るそうよ。そいつが、自分の中に居てフランを壊していくんだって言うの」
「いつからあんな風に?」
「わからない。実を言うと、私たち。フランもそうなんだけど、ここ百年ほどの記憶しか持ってないの」
「解離性健忘といったところかしら。心的外傷を受けたことによって、自分を守るために記憶の一部が思い出せなくなっているのよ」

 入口の方から新しい声が聞こえた。部屋に入ってきたのはパチュリーだった。分厚い本を右の脇に抱えている。

「でもフランの場合は少し違うわ」
「パチュリー!」

 棘を含んだ声でレミリアが制したが、魔法使いが表情を変えることは無かった。

「彼女にも教えてあげた方がいいわ。あなたも承知であの庭に魔法をかけたんでしょ? きっとこの子が」
「それはまだわからないわ」
「こいし、フランは自分の持つ力に蝕まれているの」
「フランの……力?」
「ええ、この郷に居るものはみな何らかの能力を持っているわ。私なら『魔法を使う程度の能力』、レミリアなら『運命を操る程度の能力』、あなたは『無意識を操る程度の能力』、でしょ?」

 ええ、と頷く。

「フランの能力が何か知っている?」

 首を横に振る。それは聞いていなかった。

「フランは『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』よ。私達は最初、それはフラン以外のものを全て破壊できる能力のことだと思っていた。でも『ありとあらゆるもの』ってつ付いている」

 この紫の魔法使いが何を言いたいのかをこいしは悟った。

「フランの能力はフラン自身を破壊している?」
「そういうことよ。世界に存在するありとあらゆるものを破壊するんだったら、当然その対象には自分自身も含まれる。フランだってこの世界の一部なんだから」

 息を呑む。

「そんな……だって、能力って道具みたいなものでしょう? 特技みたいなものじゃないの? 自分を壊してしまう特技なんて」
「道具の中には使い方を間違えれば、持ち主を害するものがたくさんあるわ。それに、フランの能力は『破壊できる』、じゃなくて『破壊する』なのよ。つまり、あまり本人の意思は関係ないと解釈できる」

 馬鹿げていると思う。そんなの単なる言葉の意味の上での、こじつけに過ぎないじゃないか。

「私もそう思うわ。普通の場所だったらね。でもここは幻想郷なのよ。他のどんな場所よりも、言葉が魔力を持つの」

 そう、ここは忘れられたものがいきつく最後の楽園、幻想郷なのだ。
 そこでは物質の摂理ではなく精神の法則の方がより力を持つ。
 有体に云えば強く信じればそれが現実になる。それが幻想郷だ。
 そして人間は、口を突いて出る言葉よりも、たいてい無意識に抱いている信念の方が強いものである。
 フランはありとあらゆるものを破壊する。そう皆が無意識に固定観念を抱いていれば、いるほど、それが現実になるのだ。

「フランの中には、とてつもなく凶悪な精神が宿っているわ。宿主が望まずとも、自然に全てのものを破壊してしまうようなものが。そいつは封じられた意識の奥底にいて、フランの記憶を食らっている。こいし、レーヴァティンという剣を知っているかしら」

 こいしは首をふって、否定を示す。そこでレミリアがパチュリーの肩に手を置いた。

「パチュリー、いいわ。私が話す」

 パチュリーに代わってレミリアが話すことになった。

「この間、あなたがフランと弾幕勝負をした時に、紅い剣を見たでしょう?」
「ええ」
「たぶんあなたもあの剣に一番重圧を感じたはずよ。過去の記憶がないのに、私もフランもあの剣がレーヴァティンという名前だと、最初から知ってたの」
「剣の名前の由来はすぐにわかったわ。有名な神話だったから。レーヴァティンというのは北欧神話に出てくる魔剣。破壊神と言われる巨人スルトが所持していた剣と言われているわ。これが破壊神の剣と同じかどうかについては諸説があるみたいだけど、フランを見る限り、たぶんそういうことで間違いないでしょう」

「北欧神話を記したエッダという書物によれば、破壊の巨人スルトは神々の黄昏と呼ばれる最終戦争のときに、他の神々を全て殺しつくして、その後炎の剣で周囲を焼いた。炎は世界中に広がり、全てのものを焼きつくして、やがて彼自身もその炎にまかれて灰になったそうよ」

 神話なんて聞き慣れている。なにしろさとりは伝説的な存在なのだ。幻想郷には神様だって一杯いる。
 なのに、なぜかこの話だけは不安に聞こえた。
 周りの世界だけでなく、自分さえも焼いてしまう煉獄の炎。
 フランはそんなものを自分の中に隠しているというのだろうか。

「実際に破壊神がフランの体の中に宿っているのかどうかは分からないのだけど」
「レミリアに頼まれて、私もかなり調べてみたわ。でも詳しいことは分からなかった」

 魔法使いが溜息をつきながら喋っている間に、レミリアは一度目をつぶり、しばらくして開けてこいしを見た。

「これはほとんど誰にも話したことのないことなんだけど。夢を見るの」
「夢?」
「ええ。とても嫌な夢。この槍」

 光を感じた。レミリアの手の中に紅い槍が握られていた。
 レミリアが自分の中にある魔法の槍を解放したのだ。

「グングニルと言うわ。やっぱり北欧の神話で、オーディンと言う神が持っていたと言われている槍。これの名前も、私が神話をもじって付けたわけじゃない。あの子の剣と同じで、最初からそう言う名前だと知っていたの」

 少し、部屋の温度が下がった気がした。

 とても暗い夜。星の光はあるのに、私たち吸血鬼一族の力の源である、あの優しい月の光がない、新月の晩。私は目を開けて、目の前にフランが立っていることに気付くの。フランは優しく微笑んでいて、だけど、口から紅い血がにじみ出している。誰か召使いがこの子に食事を与えたのかと私は不思議に思うのだけど、違っていて、フランが血の泡を吹いて震えだす。私は手元を見る。私の手にはこの紅い槍が握られていて、その穂先はフランの胸にずっぷりと沈み込んでいる。そこで私は気付くの。
 ああ、私はこの子を殺さなきゃいけなかったんだって。なんでかそれが正しいことだと思う。
 殺さないと、表に出してしまうとフランはぜんぶ、この世の中の私たち姉妹と関係のないぜんぶをまきこんで死んでしまうから。フランが死んでしまわないためには私はフランをこの槍で刺し殺さなきゃいけないんだって。
 矛盾しているのはわかりきっているのに、私はそれが正しいことだと信じているの。
 その夢を見た時はいつもうなされて、汗をびっしょりかいて起きるわ。 
 そして起きたとき、直感的に悟るの。これは未来の映像なんだって。それも遠くない、近い将来に実際起こること。
 私が気を抜いたらこうなってしまうという、未来の一つの形。破局の形。
 だから私はフランを外に出すことはできない。特に、夢で見たとおりの景色の時、新月の晴れた晩には。
 あの子は外に出ちゃいけないのよ。あの子もそのことは知っているはず……

「だからって……でも」

 ずっと閉じ込めておくというのだろうか。一生、死ぬまで?
 吸血鬼に死が訪れないのだとしたら、永遠に?
 確かにレミリアが、フランドールにできる限りのものを与えていることは知っているけど……

「あなたがあの子のことを気にしてくれるのは嬉しいけど。そういう理由だから」

 レミリアの声には異論を寄せ付けない頑なさがあった。余計なことはするなと言っているのだろう。

 部屋を出て、帰り道の途中こいしは自分とフランのことを考えてみた。
 自分とフランの出会いはまるで物語のようだと感じていた。何しろ自分は妖怪という物語の中の存在で、ここは幻想郷と言う夢の集う場所なのだから。
 そして、物語には伏線や暗示と言うものがあると言うことを思い出した。
 フランの描いた黒い絵を見せられた。世界中の不安を塗りたくったようなそれは、まるで、何か良くない未来を予言しているかのようで。
 そんなことはない。首をぶんぶんと振って否定する。
 単に自分の考え過ぎだと言い聞かせる。
 少なくとも、聞いた話の通りなら、フランが屋敷の中に籠っているならば最悪の展開は訪れないはず。
 それでも頭の片隅にこびりついた不安はやはりぬぐえなかった。
 何しろ何も問題は解決していないのだ。フランはこれからも、記憶を失い続けるのだろうか。



 ❤



 午後にはいつも紅茶を取る。
 フランは上機嫌な様子で、こいしの知らない曲を鼻歌で口ずさんでいる。
 こいしがうつむき加減なのに気づいて、不思議そうな表情を向ける。

「ねえ、フラン。あなた」

 こいしが顔を上げて声を出した。

「ほえ? なに?」
「あなた昔の記憶がないの?」

 間を飽かずフランは真顔になる。こいしの心配そうな視線がその顔の上に注がれる。

「お姉さまが喋ったの」
「誤解しないでほしいの。お姉さんは心からあなたのことを心配していたわ」

 フランが怒り出すのではないかと心配だった。あれこれ勝手に詮索して、姉にまで根掘り葉掘り聞いてしまった。

「ううん、解かってるわ。ほんとのこというと、きっとレミリアも良く分かっていないんだと思うわ」

 だけどフランは少し寂しそうな顔をしているだけだった。

「いろいろ調べたけど、結局私たち、記憶を覚えていないの。お姉さまも言ってた?」
「ええ。あなた達はここ百年ぐらいの記憶しか持っていないって」

 過去の記憶や自分達の経歴についてまるで知らなくても、それらの情報は幻想郷で暮らす上ではさして必要がなかったから、差し迫った問題ではなかったが、それでも気になって姉妹は記憶を探そうと努力をした。だが結局何をしても記憶を取り戻すことはできなかった。
 断片的な過去の記録が屋敷の中から発見されたので、自分達の出自についてはそこからある程度学ぶことができた。
 スカーレット家が由緒正しい吸血鬼の家柄であることも、姉は五百年ほど前に生誕し、妹はそれに遅れて五年ほどあとに生まれたのだということも、吸血鬼の始祖であるという著名なヴラド・ツェペシュと少なからぬ因縁があるということも、全てそれら過去の自分達が残したと思われる記録から学んだ情報なのだと言う。
 そして、記憶はないが、いくつかの決まりごと、そうしなければいけないのだという強迫観念めいたものを始めから持っていたと言う。フランはずっと、自分は引き籠って生活していなければならないのだと思って来た。理由は明確に分からなくても、自分が外へ出るとなぜだかとてつもなく恐ろしいことが起こるような気がしていた。
 それでも、月のうちの不安定な時分、新月や満月が近くて、フランが我を忘れて別人のような時には勝手に外に出て行こうとして、その度に姉や、姉の命令を受けたパチュリーや咲夜によって止められていたのだそうだ。

「うすうすはわかっているわ。多分この剣のせいだと思うんだけど」

 そう言ってフランはあの紅い剣を出して見せた。
 確かに威圧感があるが、以前弾幕勝負の時に感じたような度を越した恐ろしさはなかった。
 もしかしたらフランの現在の精神状態と関係があるのかもしれない。

「本当は、昔のことで覚えていること、少しはあるの」

 フランの声が低くなった。
 こいしは雰囲気の変化に釣られて息を呑んだ。

「ねえ、これは誰にも話したことがないことなんだけど。聞いてくれる?」

 強い口調だった。

「うん」
「これは、私が覚えている一番古い記憶。二百年か三百年か、正確にはわからないけど、ずっと昔に起こったことだってことだけは解る」

 私たち姉妹は二人になって、聖書の中のキリストやヨナみたいに、三日三晩、荒野をさまよっているの。
 そこで私は自分の右手が焼けただれていることに気付く。でも目の前が暗くて手が良く見えない。
 何で目の前が暗く見えるのか、瞬きをして眼の周りをすっきりさせようとするけど、まばたき自体ができない。良く自分の体を調べると、目自体がつぶされていて、本当は見えないはずなんだけど、私には羽根があるから、それが触覚の代わりになってくれて、周りの様子がわかったのね。
 なぜ自分がそんな風になったのか、どうしてこんな何もない寂しい場所を二人でうろついているのか、全く覚えていないの。
 そこで忘れていた痛みがわっと襲いかかってきて、私が痛みにうめくと、
 ごめんなさい、と言う啜り泣くような声が前から聞こえてくる。
 気が付くとお姉さまが私の前に居た。
 お姉さまがしきりに泣いていて、ごめんなさいごめんなさいって私の足もとにすがりついて泣いているの。
 こうなったのは全部自分のせいなんだ、って今にも死んじゃうんじゃないかってぐらいに落ち込んだ声で、どうかその剣で自分の胸を貫いてしまって、なんて言うの。
 私はお姉さまがとても可哀想になってきて、心配になってきて、
 だから私はお姉さまに言ったわ。私は大丈夫だから、それよりお姉さまが泣いている方が悲しいの。
 そう言ってあげてお姉さまを抱きしめて、片手だと抱きづらかったけど、なんとか抱きしめてお姉さまの背中をさすってなだめるんだけど、泣きやんでくれなくて、私もしまいに悲しくなってきて、二人で途方に暮れている……

「それだけなんだけど。何だか不気味な夢でしょう?」
「それ、お姉さんに話したことあるの?」
「ううん、言ったことないわ。そんなみっともない姿を夢で見たなんてお姉さまに教えたら、嫌がるでしょうし」
「……」
「こいしに話したのが始めてだよ。こんな話、今まで誰にも言えなかったし」

 フランの視線が戻ってくる。
 こいしはうつむいた。
 それで話は終わった。

 フランが記憶を失ってしまうと言うのも、単なる物忘れの激しいだけのおっちょこちょいと解釈して、周りが気を使っていれば、笑い話ですむたぐいのことなのかもしれない。

「きっと仕方のないことなんだよ。そんなふうに生まれてきたんだし」

 フランはそんな風に、笑顔で言う。
 確かにもっとひどい運命の子はいっぱいいるのかもしれない。現代でも外の世界では毎年数百人の子供が餓死で死んでいる。自分が地底へ逃げ込んだ時代は飢饉で、口減らしのために捨てられて山をうろついていた子を何度も見かけた。
 生きる意味なんてわからないまま、一度も幸せを実感することなく死んでいく恵まれない運命なんて腐るほどあるんだ。
 それに比べれば、今のフランは、優しい姉が居て、食うに困らず屋敷のお嬢様として暮らしていけるフランはましなほう?
 だけど、いちいち同情してたらきりが無いから、だからこそ目の前の友達ぐらいは助けてあげたいと思うんじゃないのか。
 それが偽善だと言うのなら、この世のどこに正義があると言うのか。
 自分に使命感を与える。出会いに意味を持たせようとする。
 それの何がいけないというのか。そのために生きて何がいけないというのか。
 知らないうちに憤りを感じる。こいしは、フランの幸せを願っていた。
 そこで色々複雑な理由をつけなくたって、シンプルな理由が一つあったことを思い出した。まったく自分は回りくどい。困っている友達を助けたいと思うのは当たり前のことだ。
 レミリアの話とフランドールの話。過去の記憶を持たず、過去の影と思われる夢に悩まされる姉妹。こいしは二人の少女の話を聞いた。
 彼女達は知っているだろうか。
 夢判断は自分の専門領域である。
 破局の予知夢に反復夢。無意識の科学では、抑圧された過去は夢になって現れる。
 彼女達姉妹の夢はきっと何か隠された事実につながっている。そう考えて間違いないだろう。
 自分の力ならば。無意識を操る能力を持つ自分なら。二つの夢と砂の塔のように崩れ去っていくフランの記憶。それらの事実の裏に隠された、見えない糸をほどいて一つに結びつけることが可能なのではないか。その時はそう考えた。フランの無意識の中に入れば、彼女を治療できるかもしれない。そうレミリアやパチュリーに提案してみようか。
 しかし、しばらくしてこいしはその話自体を忘れてしまったのだ。
 フランの記憶の崩壊は、そう毎日起こることでもなかったから。
 だが大地震の予兆が気付きにくいわずかな初期微動であるように、崩壊の序曲も最初は穏やかなテンポで始まるものなのだ。
 目に見える症状はわずかでも、悪性の腫瘍があちこちに転移してしまっていて既に手遅れになっているということは往々にしてある。
 こいしがそのことに気付くのは、五月に初めてフランの庭を訪れてから、ちょうど一ヶ月後のことだった。



 ❤



 大昔の幻想郷で交わされた古い盟約により、地上の妖怪達は地底へ行くことができないので、交流はもっぱら地底の民が地上を訪問することによって行われる。
 紅魔館でパーティが開かれたのは六月半ばに入った土日のこと。梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばそうという目論見で、何の縁日でなくとも夜通し盛大にサバトの祝宴を行うのだと言う招待状が、郷中に発送されていた。
 こいしはもうフランの友人であり、何度も紅魔館を訪れているために、こいしも姉のさとりも共に招待を受けることになった。
 当日、さとりとこいしは自分のお気に入りのペットを少数伴い、少しばかり着飾って地上に出ることにした。
 吸血鬼のパーティーは夜の魔族である彼女達らしく、陽がすっかり沈み込んでから始まり、夜明けを待たずに終わる。
 野の獣たちが眠りに入る丑一つ時、開会の時間にしばし遅れて、こいしは姉と共に紅い館の鉄門をくぐった。
 当日はじめじめした梅雨の合間を縫った久方振りの晴天に恵まれて、空は星座と月の輝く真夜中で、紅魔館の庭には赤々とした篝火が焚かれていた。門を入ってすぐに、楽器の音やダンスの掛け声に交じって笑いさざめく人々の歓声が聞こえてくる。既にホールに入り切れない訪問客や屋敷に勤めるメイド達が、庭に設置されたテーブルで歓談を始めていた。
 こいし達はその列を横目でみながら、紅魔館の正面玄関へと歩いて行く。まずは館の主人に挨拶して、その後で紅魔館の主要メンバーとも顔合わせをしなければならない。さとりは地霊殿の主として、妹がお世話になったことについてお礼を述べる義務がある。手土産もいくつか持参してきた。地底でしか取れないフルーツに古い妖怪の毛でできた織物や、その昔鬼を退治するために使われた神便鬼毒酒という由緒の正しい銘酒など。地上の妖怪達には入手困難であろう地底の産物をどっさりと持ってきた。半分はペットに持たせているが、彼女たちも持ちきれないので半分はこいしとさとりが抱えてきた。
 玄関の前に居た赤い髪の女性、こいしが彼女に挨拶をして、門を開けてもらう。扉が開くと、バイオリンやトランペットやオルガンの即興演奏が重なり合った、けたたましくも楽しいノイズが津波のようにわっと押し寄せてきた。ホールの中には外よりもまたさらに多くの人でごった返している。
 フリルとエプロンドレスと短いスカートとリボンとカチューシャで着飾った大勢のメイド達が、右へ行ったり左へ行ったりあわただしく動き回りながら、来客の接待を続けている。絹のすれる音、あちこちでシャンパングラスをかちんかちんと合わせる音が聞こえる。シャンシャンという鈴の音とカンコンカンコンという高い鐘の音が、硬い壁や紅い絨毯の上に立ち並んだ銀の燭台に当たって反射し、不思議な残響を残す。ホール一杯に漂う塩味の匂いや酢漬けの匂いや砂糖菓子の甘い匂いや野菜ソースの匂いを掻き分けて奥へ進んでいくと、豪奢な水晶のシャンデリアが自分のきらびやかさをアピールするその下で、白いクロスをかけた丸机の上に乗ってけったいな踊りを踊っているのはあのシーフの人形使いだった。すっかりできあがっており、こんにゃくみたいにぶるぶると震えながら「う、う、馬馬」と理解不能で奇怪な叫び声を連発していた。
 そのテーブルの隣にはちょっと趣を変えたこぎれいなスペースがあり、豪華なソファがいくつも並んでいて、英国貴族のクラブ風といった雰囲気が漂っている。中央の一番立派なソファに座っている小さな人物には見覚えがある。
 赤黒い蝙蝠の羽根、大きなぶかぶかのリボン付きモブキャップ。透き通った翡翠色の髪の毛はこの館の主の持ち物だ。
 吸血鬼レミリア・スカーレットだ。紅魔館の当主は既にアルコールがかなり入っているのか、幼い顔の頬から鼻のてっぺんまで上気しまくっている。
 彼女は周りに座っていた連中の話に耳を傾けている最中だったが、ふいにその視線がホールを進んでくるこいし達に注がれた。
 大きな眼がまんまるに見開かれて見知った姿を掴み取ると

「こいしじゃないの! 良く来たわね!」

 嵐のように立ちあがってこちらへ向かって手を振った。
 大声で呼ばれて少し戸惑ったものの、こいしはにこやかな笑みを返す。
 いつもは尊大にふるまうレミリアが、来客に対してこれだけ愛想がよいのも珍しい。

「お久しぶりです。レミリアさん」

 お招きいただいてありがとうございますと型どおりの挨拶をかわし、姉のさとりや連れのペットなどを紹介する。レミリアも心からの歓迎の意を幻想郷名物のお決まりの皮肉を交えて返し、場の空気をそこはかとなく悪くしたのち、パーティーの次第について説明してくれた。

「あの、ところでフランは?」
「ああ、あの子ね、今日は具合が悪いみたいで。自室で休んでいるわ。ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」
「そうなんですか。心配ですね」

 気になる。やはりあの、先日聞いた呪いのような記憶の障害に関係あることなのだろうか。
 今日の月齢は立待月で、新月の日まではあと五日あるが、それでもフランの体調に何らかの悪影響を及ぼしているのだろうか。

「まあ、とにかく楽しんで言ってよ。咲夜」

 レミリアはいつの間にか隣に立っていたメイド長に目くばせをする。
 咲夜がぱんと手のひらを叩くと、音もなく背中に羽根の生えたメイド達が集まってきて、丸テーブルの上で奇怪な踊りを踊っていた白黒エプロンドレス姿の魔法使いがテーブルごと退場させられた。
 なにをする、表現の自由の侵害だと誰にも聞く耳持ってもらえない叫びを言い残しながら、白黒魔法使いの姿がホールの奥へと消えて行った後に、どんどんと新しいテーブルが置かれると、白いクロスがさっと敷かれ、間髪入れずに新たな料理がどっかりと運ばれてきた。見事なスタッフワークだ、同じ当主という立場であるさとりも感心してうめいた。

「おお、だいぶ教育したのね」「苦労しましたよ」

 レミリアは役立たずだった妖精メイド達を鍛え上げた咲夜の健闘を称えた。

 紅魔館の面々と地霊殿の面々は改めてそのテーブルで歓談した。
 さとりから地底のお土産がレミリアに渡されて、レミリアは表面上は大喜びしたものの、実は日本酒があまり好きではなかったので、渡された銘酒が巡り巡って伊吹萃香の下に渡り、鬼を退治する力のある銘酒によって後に彼女は思いもよらぬ運命を辿ることになるのだが、それはまた別のお話である。
 さとりは上機嫌でレミリアの相手をしていたが、こいしはフランのことが気になってあまり食がすすまなかった。
 しばらく上の空で周りの会話を耳に入れていると、突如として奥からざわめきが起こった。
 フランが咲夜に伴われて、奥から出てきたのだ。

「フラン? 大丈夫だったの?」

 こいしはすぐさま立ちあがって友達を迎えた。

「あ、こいし! こいしじゃない! 久しぶりねえ」

 何気ない声音だったが、こいしは頭の中が真っ暗になる想いを味わった。
 フランとこいしは三日前に会ったばかりだった。もう忘れているのか。
 やはり記憶障害はかなり重度に進行しているらしい。

「ようフラン。相変わらず陰気だな」

 メイドに引っ張られていったはずの魔理沙が戻ってきて、フランに声をかけた。

「えーっと、誰だっけ」
「また忘れたのか? ひどい奴だな。魔理沙だよ、霧雨魔理沙。麓の神社の巫女」
「えー? その格好で巫女は無理があると思う」

 本人から聞かされてはいたことだけど。ショックだった。
 魔理沙でも知っているほど、記憶の喪失は恒常的に行われているらしい。
 いずれ、フランは自分と過ごした時間を忘れてしまうかもしれない。自分はそんな事態に耐えられるのだろうか。
 そこでフランの目つきが宙を泳いだ。

「フラン?」

 周りにいた皆が代わる代わる声を掛けたが返事がない。
 恍惚とした表情で宙をぼんやりと眺めていたのも束の間、一斉に顔から血の気が引いてまっ青になったかと思うと、細い体が藁のように力なく崩れ落ちて行く。
 ぱりん、というワイングラスの割れる音。
 フランが倒れた。
 絨毯の上に、血のように赤いワインが広がっていった。

「フラン!」

 すぐ隣にいた魔理沙が叫んだ。

「フランドール!」

 離れた位置にいたレミリアも叫んだ。
 助け起こしに周りのメイド達が一斉に駆け寄る。
 一瞬の静寂に皆が凍りついた。客はほとんどが妖怪や妖精達で、体調を悪くして倒れるという事態に余り慣れていないため、何が起こったのか解らない者が多かった。ほとんどの者が、新しい催しかサプライズの一種だろうと感じたが、場の真剣さから重大事であることを悟ると、どよめきが広がって、ホールをうめつくしていく。皆うろたえている。
 客の心配する視線を後に、フランは咲夜に抱かれて地下の自室に運ばれていった。
 こいしも途中まで付いて行ったが、レミリアに別室で待機するように言われて、その通りにした。地下のフランの部屋の隣に集まり、皆で深刻そうな顔を寄せ合った。隣の席にはパチュリーやさとりが座っている。

「あなたが何を考えているのか、察しが付くわよ」

 隣にいたパチュリーが、機先を制するように言った。
 何のことかわからないが、強い口調にこいしは息を呑む。

「でもそれは無謀極まる。意識をのぞくことを専門とするさとりならわかるでしょう? 他人の精神の中に入っていくのがどれほど危険なことか」

 心根を読みつくされて、こいしははっとなる。

「こいし、一体どういうことなの?」

 さとりが心配そうに尋ねるが、こいしはうつむいたまま何かを考え込んでいた。

「目的のものに辿りつけるかはわからないし、それに精神の中であなたの無防備な精神を傷つけられたらひとたまりもない」
「攻撃される?」

 怪訝な顔で、訳知り顔の魔法使いに向かって問い返す。

「フランの中に巣食っているのは、この上なく危険なやつよ。食い殺されるわよ」
「こいし、まさか」

 さとりが心配そうな顔向ける中、こいしは黙って宙を見つめて何も語らなかった。


 パーティーはお開きとなった。間もなく月齢が新月になるために、紅魔館ではフランの暴走を抑えるために結界を強化する必要があるという。
 フランの容体について、看病をしたレミリアも咲夜も何も伝えてくれなかった。余計に心配になる。
 言いたいことがいっぱいあったが、止むをえずこいしはさとりと一緒に地霊殿に帰ることにした。
 まだ自分の中でも考えがまとまっていない。それをしても良いことなのかどうか、迷いがある。
 こいしは悩んだまま、そのまま数日が過ぎた。

 
 新月の前の晩、こいしは夢を見た。
 どこまでも暢気で陽気で変わることのない時間が流れて行く郷の中、一人で自分を壊して消えて行く少女の夢だ。
 たった一人、孤独で地底に閉じこもっている。その少女はこいし自身だ。人との触れ合いを恐れて、せっかくの心の目を自分から縫い付けて見えなくして自分の殻に閉じこもった、今までのこいし自身だ。
 少女はそれで良いと言うかもしれない。この世で最も危険なものを、封じ込めるために自らを犠牲にする。
 それで良いのだ。自分の生涯は、誰かに糧を与えるために消費されてゆき、自分自身は忘れ去られていく。
 何と、実り多き生涯であることか。

――本当に、本当にそれでいいの?

 壊すことができる力を持った者は、壊すことを望んでいるだろうか?
 あの少女が? 庭でひたむきに自分の世界を表現しようとキャンバスに向かっていた少女が?
 彼女こそ何かを壊すものではなくて、何かを創るものなのではないか。
 
『こんな風だったらいいなあ、っていう空想の世界を描いているの』
『フランは自分の世界を持っているのね。そしてそれを絵っていう方法で形にできるんだ。それってなんだか素敵なことだと思う』

 呪いが彼女の心をむしばむ限り、記憶の崩壊が続く限り、身に付いた技量は記憶と共にいずれ流されてしまうのではないか。
 そのたびに一から覚えなおして、同じ所に足踏みして先へ進めない――
 たゆまぬ研鑽も世界への詩情も、いくら積み重ねたところで砂上の楼閣。実を結びさえすれば、新しい無限の世界が開けるはずだろうに。

『きっと仕方のないことなんだよ』

 最後に少女の悲しげな笑顔が見えて、はっとなって、真夜中過ぎに目を覚ました。
 暗い部屋の中で、重い頭を振る。軽い熱に浮かされたような気分だった。

 ずっと触っていたい心に始めて巡り合えたと思っていた。最初から似たところが多かった。
 お互いに次女で、人と触れ合いたくても上手くいかないという傷を共有していて。
 まるで生まれた時に生き別れた、自分の片割れのように感じていた。
 彼女を救いたかった。
 彼女だけが不幸になるのはおかしいと思う。彼女だけが忘れ去られていくのはいけないと思う。
 そんな風に考えていたら、自分の力に気づいた。
 深層意識を操る力。こいしは自分の力が何のためにあるのかずっと疑問だった。
 人には知られたくない秘密も心の機微も全て暴きたててしまう無粋な力だと思っていた。
 だけど、こんな使い道があったなんて。運命、そう。自分達が出会ったのは運命だったのではないか?

 ベッドから出る。水を飲みに台所を目指す途中に、食堂を通った。
 灯りが見えた。食道を覗くと、一番奥の席に姉のさとりが座っていた。

「こいし」

 こちらに気付くと優しい声をかけてきてくれた。

「どうしたの? こんな夜中に」
「うん、ちょっと眼が冴えちゃって。喉が渇いたから水を飲みにきたの」

 そう言うとさとりが丁度テーブルの上にあった水差しを使ってコップに水をついでくれた。
 丁度良いタイミングで、姉は自分の欲しいもの差し出してくれる。ペットの時だってそうだった。
 どうしようもなく孤独にさいなまれていた時に、姉が自分に育てるように言ってくれたのだった。
 どうしてそれが判ったのだろう、どうしてそれが必要だと思ったのだろうと不思議だった。その時にはもう、自分は無意識の中に閉じこもった後で、姉には自分の心が読めないはずだったのに。

「ありがとう」
 
 姉の淹れてくれた水をごくりごくりと、一息で飲み干す。
 さとりはこいしを観察していた。若干眼が腫れているのが分かる。眠れなかったのか。それとも別の理由があるのか。

「こいし、あの子のことを考えているのね」

 こいしはうつむいた。
 コップを抱えながら、自分の心の正直な部分を全て吐き出してしまう。
 いつもこの姉にはそうしてしまっていた。

「私こんな気持ちになったの初めてだわ。馬鹿げていると思うでしょう? 私たち二人とも女の子なのに、私は恋をしているみたい」

 夢を見ているみたいだ、とこいしは言った。
 さとりは笑わずに、優しげな表情を作った。

「馬鹿げているなんて思わないわ。私たち妖怪は、精神的な存在なんだからね」

 永遠を子供のままで過ごす妖怪は、精神の象徴的存在である。
 そんな彼氏彼女たちの恋は、我々人間の知る普通のものとはちょっと違う。妖怪は性にではなく精に恋をするのだ。
 ただ、精神がそこにあるだけ。

「まるでもう一人の自分みたいに感じるの」

 フランのことを語っている時のこいしの顔はとても幸せそうだった。
 それをみて、さとりは複雑な心境になる。うらやましくもある。ちょっぴり寂しくもある。そして、不憫でもある。
 この子の眼はもう、屋敷の中ではなくて外に向いているのだ。
 だったら、伝えておかなければならない。 

「私もあの子のことについて、気になっていることがあったの」

 テーブルの上で、さとりは指を組み直してあごをその上に乗せた。長い話に入る時にさとりがよくやる癖である。

「これはね、大昔に西洋から来た妖怪から聞いたお話なの。こいしには初めて話すお話ね。まさかとは思っていたけど、もしかしたら」


 その日の夜中、さとりはこいしに昔話をした。
 不思議で奇妙で、こいしにとっては大いに驚嘆に値する話だった。





 ☆ きゅうけつきものがたり ★


 あるところに吸血鬼の姉妹がいました。
 姉妹は二人きりで、他に家族はいませんでした。
 昔は彼女たちを優しく育ててくれたお養父さんがいたのだけど、その人とも訳あって生き別れになってしまったのです。
 吸血鬼は神様に背いたために、表の社会からは追われる身です。姉妹は誰の助けも借りず、二人きりで生活していかなければなりませんでした。
 闇に隠れ住むことになった姉妹は、悪魔の世界で武名を上げるために力を必要としました。
 悪魔の世界は昔の妖怪世界と同じで、実力第一主義ですからね。力のない悪魔はすぐになめられてしまい、皆に見下されて、誇りを持てずみじめに暮らしていかなければなりません。プライドの高い姉はなめられるのが何よりも許せなかったのです。

 それはウプサラとか、そんな大昔の精霊の名前がついた、古い古い古ぼけた遺跡でした。自分達の住んでいた屋敷から少し歩いたところにある神殿、姉はそこに上代の神々が残した伝説の武具があるという噂を聞きつけたのです。
 
「私たち姉妹でそれを取りに行きましょう。きっと向こうも掘り出されるのを待っているはずよ。何者にも負けない強い力を手に入れたら、二人で安らげる場所を見つけてそこで永遠に面白おかしく暮らしましょう」

 姉は妹にそう誘い、姉のことを信頼していた妹はこくりとうなずきました。
 二人は暗く深い神殿の奥の、さらに地下にある迷宮に足を踏み入れて行きました。
 もうそこは魔物の巣窟になっていたのですが、まがりなりにも悪魔の力を手に入れた姉妹の敵ではありませんでした。二人は冒険者気分で、ずんずん迷宮の奥へと進んでいきました。
 そして迷宮の一番奥、閉ざされた封印の扉の向うにある室、その最奥に果たして宝はありました。
 二振りの宝具です。いわくつき、伝承付き、正真正銘の神様の使っていた武具。
 気が狂うほど美しい夕日のように紅く染められた真紅の槍と、恐ろしい煉獄に燃え盛る火炎のように紅く塗り尽くされた真紅の剣です。ちょうど二振り。自分達におあつらえ向きだと思い、姉妹は喜びました。

「お姉さま、二つあります。どちらがどちらを取りましょうか?」

 少し考えてから、姉は妹に微笑みかけました。

「ではあなたが剣を取りなさい。私はこの槍にするわ」

 長い槍は聖堂の門を守っているガーゴイルの持つ得物みたいで、自分の蝙蝠の羽根に良く似合う。
 短い剣はきらきらした七色の天の川みたいな妹の美しい羽根に良く似合うと思ったのです。
 
 姉妹がそれぞれ目星をつけた武器の束に手をかけたその時でした。
 空間が歪み、大地が混沌とした渦に変わりました。

 まどろみの中で、姉は妹の顔を見ていました。
 妹の目は虚ろで所在なげに戸惑っているように見えました。ちょっとだけ、口元に微笑みが見えます。
 そんな笑みを見ていると、とろんとしてきてしまって。姉は妹との絆を思い出していました。
 血を分けた、たった一人の姉妹です。孤児となり養父とも別れた今、肉親と呼べる者は、過去の思い出を共有しているのはこの妹だけでした。この子は生まれおちたときに別れたもう一人の私なんだ。そんな風にさえ考えて、姉は妹のことをこの上なく愛していました。
 その場所はとても広く、空は夜で澄んでいます。
 雲ひとつないのに、自分達悪魔の力の源であるあの柔らかい月の光がありません。
 それは月の光が死に絶える、新月の夜でした。
 この西欧の世界では、新月の夜には封印された大昔の神様の力が最も強くなるのです。
 夜空の向こうには、星辰がいくつも瞬いていました。それらの星は、遠く銀河の果てに追放された昔の神様たちなのです。神様達は、いつもは星座の形になって暗黒の檻の中に閉じ込められています。彼らは新月の晩だけは、月の魔力の鎖から解き放たれて、真の姿に戻り、各々の魂の形を表現して自由に羽ばたくことができるのです。
 暫く姉は妹を前に、昔の神様達が演出する、夜空のキャンバスに描かれた光の芸術を眺めていましたが、やがてゆっくりと視線を下に運びます。そして一つの事実に気付くのです。
 自分の手には先ほど取った真紅の槍が握られていて、その刃先が、妹の胸の中に深々と突き刺さっていました。再び見た妹の顔は、苦悶に歪み、喘ぎ声が上がり、続いていくつかの呪詛の言葉、蔑みの言葉が姉に向かって投げ掛けられました。
 姉はその毒々しい言葉を聞いて一通り傷つきながら、目を点にして呆然と立ち尽くしていました。そのつもりだったのですが、腕には力が入り、槍は尚深く突き刺さり、愛しているはずの妹の体の中に沈みこんでいきます。
 姉は妹の命を奪ってしまったのです。さらに奪いつくし、汲みつくそうとしていました。
 死の間際、妹の手には姉の命が握られていました。もろくはかない紅い宝玉のようなそれに、ゆっくりと切り傷が入ってゆき、憎々しげな笑みを浮かべた妹は、それを熟れたサクランボのようにぐちゅりと握りつぶしました。果汁が血と同じに手のひらから満ちて滴り落ちて零れました。鋭い胸の痛みが一瞬で体中を切り裂いて、それで姉の命は尽きるはずでしたが、それ以前に姉は知っていました。
 妹を刺し殺した時に、既に自分を形作る最も大きなものが壊れてしまって、あとの自分はがらんどうの、抜け殻のようになってしまっていたことを。

「うわああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 姉は叫びました。
 どこからかくすくす、くすくすという高い、荒野の草がこすれ合うような、神経を逆なでする厭らしい笑い声が響いてきました。

「なぜだ、なぜ私にこんなものを見せる!」

 姉はその厭らしい笑い声に向かって絶叫しました。

『それは』

 くすくす、あはははは、げらげらげら。
 どこからか、甲高い声がしました。複数の音声が混ざりあっているような、不思議な奇妙な気味の悪い声です。その声は、四方八方から響いてきて姉の鼓膜をさいなみます。

『それは、お前が見たものは未来よ』
「未来だと!? 何をバカな」

 私が最愛の妹を殺めるなどと、そんなバカなことがあるはずがない、と姉は吐き捨て叫びました。
 けれど声の短剣を突き付ける相手が見当たりません。それもそのはず、その厭らしい声は、姉の頭の中から聞こえてくるからです。

『殺しなさい、刺しなさい。お前が本当に望んでいるのはそれなのだから』
「何を言うんだ。お前はいったい、なんだ」
『私はこの神殿に奉じられた女神よ』

 女神だって?

『お前の頭の中にある、伝承の。上古の。滅びた世界の女神だよ。私はここで墓所の番をさせられていたんだ。それなのに、お前らは私の夫の墓所を荒した。宝物に手をかけた。だからお前に呪いを掛けてやったのよ』

 呪い? 言われて姉は自分の体を探ってみます。姉は左手に真紅の槍を持っていました。
 そして目の前には妹がいました。苦しそうに、虚ろな顔で呻いています。みると開かれた瞼の中には眼球がなく、どくどくと鮮血が滴りおちて顔を汚しています。右手はむざんに焼けただれていて、煙の出ている手の先にはあの紅い剣を携えています。体中からしゅうしゅうと煙があがっていて、はた目から見てもとても苦しそうです。

「おまえ、妹に何をした!?」
『それは私の力じゃないわ。バカな子達ねえ。その剣はとても昔に、世界を滅びの炎で焼きつくした破壊の神が使っていたものよ。破壊の呪いが掛っていて、持つ者はその呪いに犯されてしまうから神殿の奥に封じられていたのに。お前たちはその呪いを起こしてしまった。クッ、くくっ』

『アッハッハッハッ、傑作。いい気味ねえ』
「な、なにを……」

 姉は気付きました。
 この女神は、心底自分達姉妹を嘲笑っているのです。
 女神と思ったものの余りの邪悪さに、姉は驚きました。
 姉妹は勘違いしていました。
 古代の神々は、決して善良な者たちではありません。彼らは何千何万何億もの昔に、長い黄昏の戦争の果てに、世界を一度滅ぼしてしまった罪びと達のなれの果てなのです。
 自ら憎み合い、争いあった末にお互いの命を奪いあって死に絶え、新しく生まれた人間達とその奉じるアドナイに、地上の覇権を奪われてしまい、むくろを神殿に封じ込められて荒魂となったかつての神々達は、生きるとし生けるもの全てになべて深い憎悪の念を向けていたのでした。

『あなたに私の名前、運命(フリッグ)をあげましょう。この力によって、あなたは未来が見えるようになる。アハははは、ざまあみなさい。いつかお前の妹は、破壊の神の力に操られて、世界の全てを滅ぼそうとするようになるわ。その時お前は、私の夫がそうしたように、その運命の槍でお前の妹の胸を刺し貫いて、自分の命と引き換えになんとかそれを止めようとするの』
「そんなことが、そんなことがあるはずがない」
『信じたくなければ信じなければいいさ。でもおまえはそのうち気付くわ。何てったって私が見せたのは、まぎれもなく神の力が見せた未来の姿なんですからね。私はこの力のおかげで、ずっと昔からいつか来る自分達の滅びばかり見せられて、半分狂ったようになってしまった。これからは私に代わってお前がそれを見るようになる。そして折に触れては未来の形を目にして、何をしても運命が変わらないことに絶望し続ける羽目になるのさ』

 お前は果たして運命の車輪に押しつぶされずにいられるかしら? と言い残して運命の女神は黙りこみました。姉は槍を捨てようとしましたが、それはすでに身体の一部となり、腕に深く食い込み、例え腕を斬り落としたとしても、捨てることができないのでした。

 それ以来、姉は運命の再現を恐れて、妹を屋敷の地下室に閉じ込めました。記憶を壊され半分狂ってしまった妹も、わずかに残っていた理性を操って、自分で自分を封印しました。自分が破壊の呪に支配されて狂いきってしまい、全てを破壊してしまわないように。悪魔の使う魔法の封印が幾重にも施された扉の向うに、妹はひきこもることになったのです。特に新月の時には厳重な警戒をしました。
 姉妹はお互いを殺し合うという運命におびえ切っていたのです。
 それから姉妹は誰にも会わずに、お互いに狂いながら暗黒の屋敷の中で孤独に暮らすはずでした。

 ところが、その一部始終を見ていたものがいたのです。
 全ての水の源である、美しき青きダニューブ河の女神様です。
 自業自得とはいえ、大昔の神々の呪いを受けてしまって苦しんでいる姉妹を見て、女神様は哀れに思いました。
 
「可哀想な子たち。あなたたちは、別に望んで吸血鬼になったわけではないというのに。吸血鬼にさえならなければ、あの神殿に力を求めていくこともなかったでしょうに」

 女神様は、姉妹が生まれた土地に昔から住む神様です。彼女は姉妹の事情を知っていましたから、住む土地を追われ、止むにやまれぬ事情で吸血鬼になってしまった姉妹を憐れに思っていました。

「その呪いを受けたまま、朽ち果てていく肉体を抱えて永遠を生きるのはつらいでしょう。だけど、私はもともと神聖なものだから、闇に生きるお前たちを祝福して呪いを解いてやることができません」

 そこで女神様はひとつ名案を思い付いたと言いました。

「そうだ、お前達の外見が永遠に子供のままでいられるように、新しい呪いを掛けましょう。心も子供のままで。ある程度時間がたったら、また子供からやり直す。そうやって永遠を生きればいいわ」

 女神様は自分の力を使って姉妹にかかった太古の神様の呪いの上に、新しい呪いを上書きしました。
 たとえ永遠に生きることに苦しんだとしても、精神がある一定の機会に刷新されるならば。
 悲しい思い出したくない記憶は貯め込まないようにすれば。
 そうすれば狂わずに生きていけるかもしれません。
 それはちょうど私たち妖怪が、長い一生を生きるために使っている術と同じなのです。
 吸血鬼も人間よりは遅いですが、だんだんと歳を取って成長します。
 妹は呪いによって成長するたびにだんだんと体が壊れて行きますが、完全に壊れる前にまた元の子供の姿に戻るので、朽ち果てた肉の塊にならずに生活していくことができます。
 そうして姉妹は百年に一度、生まれ変わって新しく子供からやり直すことによって、なんとか永遠を生きることができるようになりました。
 愛くるしい子供のままの彼女たちを不憫に思ってくれるものも何人かいて、自ら彼女たちに仕えて世話をするようになりました。屋敷の中で二人は、それなりの幸せに包まれて暮らしていくことができるようになったのです。
 だけど、妹が破壊の神様の力に操られて、いつか全部を壊してしまうという悪夢からは逃れることができませんでした。
 姉は時折それを夢で見て、不吉な夢におびえます。妹も自分の強い力を恐れて、二人とも陰から逃れられずに過ごすのでした。


★ ☆





「つまりその姉妹が、スカーレットの姉妹だと。フランとレミリアのことだとお姉さまは言うのね」

 あまりにも符号し過ぎている。偶然ということはないだろう。

「単なる作り話だと思っていたのだけど。でも、私も実際あの二人を見て驚いたわ。伝えて聞いていたお話の中の二人とイメージがぴったりだったもの」

 童話にしては意味も教訓もよくわからない話だから、実話だったとしたらうなづける。
 それならばレミリアやフランは呪いによって記憶を保てなくなったのか。
 あの破壊の力も記憶の障害もまさしく全て古い神々の呪いだと言うのか。
 遠い雷鳴のような轟きを感じた。地底の空にはそのようなものが光ることはない。
 こいしの心の中にだけ聞こえた音だった。
 こいしの両目には、彼女の瞳の色とは異なる色彩が浮かんでいた。







 ❤



 雲ひとつない夜空に春の星座が輝いている。一等星が光る澄んだ空には、現在月の光がない。
 今日は新月の夜だ。
 レミリアはフランの部屋におり、ベッドの前に椅子を置いて、寝ているフランの顔を眺めていた。
 フランは新月を前に体調を崩した。最近ますます、精神の崩壊が進んでおり、それに応じて肉体まで弱ってきている。
 食事が喉を通らず、嘔吐を繰り返す。悪魔のマナを集める長い準備を必要としたとっておきの儀式も、里からなんとか工面して分けてもらった貴重な処女の生血も、レミリアやパチュリーや咲夜が施したいかなる施術も、彼女の体の乱れを癒すことができなかった。やがて全てが崩れて行き、手に負えなくなるだろう。本来不死者である彼女がこのような事態になるはずはないのだが。
 ほぼお手上げといった事態だ。もともと悪魔に近く神聖なものに遠い紅魔館の住人達には、神様の呪いなんてものは専門外だから。
 恐ろしかった。この先どうなるのかがわからない。予想以上にフランの崩壊は深刻だったのだ。
 レミリアはやがてできることもなくなり途方に暮れて、ひたすらベッドに伏せて脂汗を流すフランの額を拭いてあげていた。
 なぜだかはわからないが、これらは全て自分の不甲斐無さがもたらした事態なのではないのか。そんな風にレミリアは感じていた。レミリアは理由も分からず自らのうちから沸き起こる罪悪感に身をよじっていた。

 がつんと言う何かを打ち付ける音がしたのは、丁度正午ごろのことだった。
 二、三度同じ音が鳴った後に、燭台の灯りだけが照らす暗い室内に、日の光が差した。どこから光が入り込んできたかは知っている。吸血鬼であっても影響のない偽の陽光、それは、今現在は封印を施してあった、フランの庭へと通じる扉から来ている。誰かがその扉を破ったのだ。
 扉が開け放たれて、中から後光と共に現れたシルエットのことを、レミリアは良く知っていた。
 フランの親友と呼べるのは今はこの子だけだったから。フランが好きだと言うから、自分もこの子のことを好きになろうと、この子のことをよく知ろうと試みた。

「こいし、今日は来ちゃだめと言ったでしょう」

 拒絶の意思を言葉に込めて、はっきりと伝えたレミリアであったが、何かただならぬことを決意したような瞳で、まっすぐに自分を見てくる少女に少し気押されたかもしれない。

「私の話を聞いてくれませんか?」

 こいしは強い口調で語り出した。
 自分自身が持つ力のこと。さとりの中でも最も強力な力を持つに至ったこいしは、心を読むだけでなく、無意識の中へ入り込む能力を身に付けていた。それがこいしの「無意識を操る程度の能力」の真髄だと言う。
 その能力を使って、フランの精神の中へと入り込む。
 そしてフランの中に巣食っている、病根となっている破壊の神の呪いの部分を取り除いてみせると言った。

「そんなことが」

 できるはずがないと思った。すぐさま否定した。あまりにも突拍子もない発想だ。

「いいえ、きっとレミリアが協力すれば可能よ」
「パチュリー」

 いつの間にか魔法使いは室内にいた。吸血鬼の友人は、深刻な面持ちで庭から現われた少女と同じように、やはりまっすぐにレミリアの目を見つめてきた。

「神と言うのは信仰だから、非常に精神的な存在よ。無意識の中には神話という集合無意識が存在する。こいしはそれにアクセスする手段を持っているの。精神世界は広大だけど、レミリアが運命を操作して、こいしをそこまで導けば」

 無意識への侵入、運命の操作。現実的にはとりとめもない話だが、幻想郷に居る彼女達にとっては不可能なことではない。
 お互いの担当範囲は解らないが、自分達の能力の分担する範囲ではそれが可能なことだとわかる。
 しかしレミリアには懸念がある。目の前の少女のことを心の底から信頼しても良いものだろうか。
 妖怪達が力を合わせて何かを成し遂げる。幻想郷においてそのようなことはあっただろうか。
 あったとすれば、この場所を作り上げた時、幻想郷を外界から隔離した時だ。
 レミリアはそれに参加していない。
 彼女にとって、周囲の妖怪達と言うのはいつだって何を考えているのか解らない得体の知れない連中だった。
 今まで自分がやりたくてもできなかったことを、この目の前に居る、出会って数か月しかたっていない少女が成してみせると言う。
 しかし今のこいしは。その瞳には誠実さが感じられる。妹はこの子のことを親友だと言ったではないか。
 こいしがフランや自分を害して、一体何の得をすると言うのか。

「レミリア、私も今は信じるわ。あなたがあの庭に掛けた魔法」

 パチュリーが真剣な表情でレミリアを見た。
 これは運命だったのよ、静かに七曜の魔女は言った。
 そこで姉は妹にプレゼントをあげる時に、自ら付け足した言葉を思い出す。

『この庭には、きっと、あなたの運命を変える人が現れるでしょう』

 判った。
 これは可能なのだ。
 そして可能だと信じることが、この幻想の郷に置いて最も大切なことだった。
 果たしてレミリアは首を縦に一度、こくりと振った。
 きっとこれは運命だ。
 思い出すことのできなった記憶の中で、何十年何百年と待ち望んでいた、運命を変える者がやっと現れたのだ。

 フランドールをベッドに寝かせて、こいしも隣に座る。こいしはフランの左手を握りしめ、そのこいしの左手をレミリアが硬く握る。二人、頷きあって、いよいよ共同作業が始まる。
 第三の目がかっと全開に見開かれて、灯りを持たない暗かった室内に、光が溢れた。


 昔々、精神学派と名乗る学者達が居た。
 彼等は人類には共通の集合無意識があると語った。
 世界創世譚やバナナ型神話や近親相姦の神話。地理的にも文化的にも離れて、何の交流も無いはずなのに、世界中に共通した神話が見られるのは、人類全体が一つにつながっているからだ。
 今じゃそれはESPやUFOやUMAと同じトンデモ理論になっていて、そこそこ知識のある連中は誰もそれを科学と認めていない。動物の仕組みは全て遺伝子から成り立っているし、親から子には記憶は受け継がれない。人間の意識の奥底には単なる野性の本能があるだけだ。それが現在の科学の常識である。
 しかし、それは外の世界の都合である。
 まさにそのことが、その学説が否定されたものであることこそが、幻想郷にいる無意識に生きる少女の、すなわちこいしの後押しをするのだ。
 外の世界で無意識の科学が幻想となればなる程、今のこいしにとって有利に働くはずだ。
 幻想郷には無意識の世界としての非想天が既にあり、そしてその下に住む人々の中には、共通の集合無意識が確として存在しているのだ。それが外の世界と隔離された、このファンタジアでのリアルなのだ。

 かくして、こいしはフランの精神の中に入っていった。
 フランと一緒の席に座って、ティースプーンで紅茶と角砂糖をかき混ぜる時間とか、フランに素描を添削してもらったりスケッチを褒めてもらったりする時間とか、スポーツにも似た弾幕ごっこでお互いのマブダチっぷりを確認するための時間とか、フランと自分達の姉についての愚痴を言い合ったりする時間のために。そういう何でもない時間を一緒に過ごしていたことを忘れないでいてもらうために。
 自我を越えてイドを越えて、無意識の奥の奥へ。
 小石が精神の水辺に放り込まれて、大きな波紋を作る。

 辿りついた精神の世界とはとてつもなく奇異なものだった。
 夢のようにとりとめがなく、場面も背景もころころと変わり、物理の法則も安定していない。そんな世界を、こいしは長い間歩き続けた。そして、おそらくはフランが貯め込んだと思われるセピア色の思い出の肖像をいくつも見た。見たことのない、古い田舎の景色や闇に包まれた廃墟の景色や寒風吹きすさぶ雪原の景色、フランが体験したと思われる過去の情景がいくつも駆け巡っていき、やがて、その先に広がる、果てのない荒野に辿り着いた。
 そこからの旅はまた長かった。獏寂たる精神の荒野は、終わりなく延々と続いていた。
 地平線の向こうまで、ずっとモノトーンの景色。二度目にフランと出会って以来長い時間を共に過ごした、あの素敵な庭の光景や、そこで描かれていた色鮮やかな絵とはまるで正反対。
 フランがいつか夢に見た、姉と共に彷徨った荒野とはこのような場所だったのだろうか。
 その荒野に足を踏み入れて以来、こいしの精神にかかる重圧が格段に増していた。向かい風が強く、砂塵に交じって不快な霊のようなものが通り過ぎてゆき、歩くたびに、体力とは違うこいしの、魂の抗力のようなものが擦り減らされて行く。
 辛い。精神の中だと言うのに、疲労感が強く、体中が痛い。
 だが止まるつもりはない。やっと自分の力が真に役立つ時が来たのだから。
 深層意識の奥、閉ざされた記憶の中から、フランを助ける手掛かりを見つけ出す。
 鍵は忘れられてしまったフランの過去にあるはずだ。
 しかし、どうなのだろうか。もし、地霊殿でさとりが話してくれた物語が、真実フランの過去だとするならば。
 自分が対峙しなければならないのは……

 やがて、地平線の向こうに砂礫とは別のものが混じってきて、その像が明らかになる地点まで近づいたとき、こいしは絶句した。
 不可思議に歪み、皮膚が疱瘡におかされたように爛れた人体の一部分が、他の部分ともつれ合いながら、砂の中から顔を出していた。かと思うと、腐って腐敗した臓物のようなグロテスクなミミズ状の物体が、無造作にまき散らされて行く手を塞いでいる。
 狂人が描いた絵画のような、あのレミリアに見せてもらったフランがひた隠しにしていた黒い絵画と同じ、病んだ破局のイメージが、そこかしこに埋まって放置されていた。
 吐き気がした。頭痛がして、耳鳴りがして、目にノイズが走った。一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。
 だが、ひるんでなどいられないのだ。引くつもり毛頭ない。友達を救うために、今こそ勇気が必要だから。フランの中にひそんでいるものが、狂気であることは先刻承知だったのだから。
 こいしは身体の変調を気力で抑え込んで、再び前だけを見つめて歩きだした。
 不快な景色の中を、臓物と汚染物質と死体の生い茂る森を、こいしは進んだ。
 頭痛も耳鳴りもさっきより、だんだんとひどくなってきている。
 そして、何かが一歩ずつ近づいてくる気がするのだ。
 いる。確かに。この先に。フランの中に巣食っている何か。それは今のところ漠然とした恐怖でしかないが。

 それは果たして唐突にあった。
 今までと同じ砂漠に、音の無い世界に一瞬の静寂が塗り重なる。きんという高音。
 刹那、爆裂の波動が目に見えない神速の刃となって、こいしの眼前の空間を炸裂させた。
 こいしの体は横隔膜のところで上下に分断されて、下の部分は単なる血礫となって右後方に丁度あった石の壁一面に撒き散らされた。
 薄れゆく意識の中、上半身だけになったこいしは、ああ、自分は死ぬのだとゆっくりと自覚した。














 ❤



 様々な光景がよぎっていった。
 すぐに意識がなくなると思っていたのに。走馬灯にしてはおかしな景色だと思う。
 行ったことのない場所、まるで見覚えのない場面ばかりだった。
 それらが、次々と目の前を通り過ぎて行く。
 幼児の顔に濡れた布をかぶせている母親が見えた。寝室に忍び込んで、娘のベッドの上でなにかごそごそと始めた父親。
 スコップを渡されて、自分の墓穴を掘らされる捕虜の群れ。収容所へ向かう飢えた異民族の列。地面に首から下を埋められて、先の丸まった刃物で切り刻まれていく兵士。
 銃声が轟き、血飛沫が空を赤く染めた。轟音を上げて空を飛ぶ黒い鉄の塊の一部がちぎれて、たくさんの小さな豆粒が降ってきたかと思うと、大地が炎で埋め尽くされた。一瞬にして出来上がった火の海の中を、黒こげになってしまって、もう原型をとどめていない以前は人間だったものたちが逃げ惑っている。
 それは繰り返される死のイメージの連続だった。淡々と、絶え間なく、唯死が繰り返されている。
 いかに生が無意味であるか、人間が物質に過ぎないか、地球上に発生した生物は単なる偶発時であり、そこには何の意味も神秘性も無いのだと、それを骨の髄まで知らしめるかのように。
 面白みのない単純作業を続けるように、視界に入る物が壊され続けていく。
 時代も場所も次々と移り変わりながら、生命の誕生以来延々と繰り返されてきた生死のサイクルの、その死の瞬間だけを切り取って見せられ続けているのだ。胸糞の悪くなる出来の悪いスナップビデオの視聴を強要されているような感覚が続くのだ。それも、永遠に。
 頼むからもう意識を絶ってくれと思った。
 死を懇願した時、生きてきたことを後悔しそうになった時、気が狂いそうになった時に、映像のスケールが変わった。
 死が大規模になった。
 高度な文明を築いた生命体の住む星に、巨大な隕石が落ちてきて、一夜にして文明を廃墟へと変える。
 何千万もの命が一瞬にして失われる。
 醜く膨張した赤色巨星の表面に、一度だけ立った火柱が、自分の周りを回っている星々を焼いて行く。その中には、以前は水をたたえて、緑を生命を、多く育んでいた母なる星も含まれている。やがてその太陽も、燃え尽きたのち爆発してガス状の亡骸に変わる。
 超新星の爆発。星の断末魔。高重力のブラックホールに吸い込まれていく星雲。別次元の宇宙が消滅した時に起こるというタンホイザーゲートの一瞬の残光。
 小宇宙の炸裂や、やがて来るであろう最後の大破局、全てを巻き込んで起こる宇宙の大収縮。
 これは一体何の心象なのだろうか。まさかこれが、フランの破壊だと言うのだろうか。これが生物の深層に潜んでいるという集合無意識だと言うのか。
 こいしの精神が変調をきたし、泣き狂い始めたころに、見覚えのある風景が現れた。
 それは最も身近で、最も耐えがたい破局の形だった。
 綺麗な庭で、二人の少女が一緒に絵を描いていた。
 くすくすと幸せそうな笑顔が洩れて来る。
 自分の一番綺麗な思い出のうちの一つ、そいつにその得体の知れない何かは、牙をかけようとしている。
 くしゃくしゃに噛みつぶそうとしている。

「やめて」

 心の底から泣き声が洩れた。

 その瞬間だった。
 こいしの体は元通り再生された。





 いつの間にかこいしは、暗闇から抜け出して砂漠の上に立っていた。
 そして、目の前にそいつが居るのに気づいた。
 どこでそのイメージを見たのだろう。
 本で見たのだろうか。写真だったろうか。
 地底の旧都にはたしてそんなものがあったのだろうか。
 あるいはこれまで読んできた人間の心の中に、それに類するイメージを持った人がいたのかもしれない。

 最初、魚類のような形だと思ったのは道理である。
 人間は母親の胎内で、生物の進化の過程を一通り体験して、始めて人間らしい姿に成長する。
 その過程の一つには、魚類によく似た姿もある。

 それは胎児の姿をしていたのだ。
 巨大な、
 人間の胎児。

 破壊の神は巨人だと聞いていた。だからこんなにも大きいのだろうか。
 凍った気持ちでそう考えた。冷静ではなかった。ただ思考が停止していただけだ。
 麻痺から溶けると、こいしはぱくぱくと池の鯉のように口を動かした。
 言葉が出てこない。呆気にとられるにも程があった。
 直観が教えていた。これが、フランの中に巣食っている破壊神だ。
 もっと普通の悪魔の形をしてくれていたら良かったのに。これじゃあんまりにも不気味すぎるじゃないか。
 怖かった。逃げ出したかった。地底にひき籠って、いつも母親代わりをしてくれた姉の暖かい胸に飛び込んで優しく慰めてもらいたくなった。
 だけど、ひるんでなどいられないのだ。引くつもりは毛頭ない、そうじゃなかったか。友達を救うために、今こそ勇気が必要なはずじゃなかったのか。
 そう決めてここに来た。
 おびえる少女を守り、敢然と悪と立ち向かう勇者のように。言いたいことを言ってやらなければ気がすまない。
 こいしは自分で自分を奮起して、両足に力を込めた。


 三秒でくじけた。
 怖い。全く怖い。怖すぎる。
 肉体があったら即座に小便を漏らしていただろう。体中の水分が下痢になって出て行ってしまっただろう。
 変だ。おかしい。自分は妖怪なのだ。地底を支配する、過去には神とも崇められた、忌わしい呪われたさとりの種族ではなかったか。であれば、恐れる何ものがあるとの言うのか。
 いや、妖怪だからこそ尚のこと怖いのだ。
 姿形も、今駄々洩れで自分の中に入ってくる相手の心の動きも。
 精神世界だったから、無意識の奥底だったから、そこでは一切の嘘は通用しなかった。
 今自分はフランの無意識に入って、お互いに意識を共有しているのだ。だから、自分の考えていることも、相手の考えていることも、筒抜けになっている。それで、眼前にぷかぷかと浮いている禍々しい胎児の頭の中が余さずのぞけてしまい、その内容を教えられて、こいしは心底ぶるっていた。
 いったい何を考えているの。始まりから終わりまでずっと、あらゆる者と物とモノを壊し続けるシミュレートをし続けているだけだなんて。何でもっと建設的なことを考えないの? おかしいでしょう。狂っている。キチガイだ。

『生きた人間が入ってくるとは思わなかったから』

 しゃべった。
 それだけで震えが来る。足が際限なく震えて地震でも起こったみたいになる。

 ……え、しゃべるの?

 続けざまに破壊神が思考した内容を読み取って、さらにこいしは仰天する。

 普段通り記憶を破壊し続けていたら、急に視界に見慣れないものが混じったのでびっくりした。
 手を止めるのが間に合わなくて、うっかり壊してしまってから生身の人間(?)なのだと言うことに気づいた。
 別段申し訳無いとは思わなかったが、なんにしろこちらの手違いだったことは確かなので、慌てて体を再生した。

 そう言っていた。
 
 茫然とする。
 眉をひんまげる。最初予想してたものと、なんだかひどくイメージが違う。
 それに大体この思考パターンは、どうにも女の子っぽい気がする。
 破壊神は続けて言った。ワタシはこの子の心の中にあるもの以外はしばらくは壊す気はないから、あなたのことも見逃してあげる。さっさとここから出て行ってくれれば、何も危害は加えないわ。
 ありがたい。こいしは心底安堵する。逃がしてくれるというのなら、渡りに船だ。
 そこではっとなって目的を思い出す。いや、だめだ。違うだろう。自分は何のためにここに来たのか。友達の精神を救うためじゃなかったか。目的と共に、同時に恐怖もよみがえってくるが、ともかくも目の前にいるのが目的の破壊神であることは間違いないのだ。当初の予定通りに行動しないと。しかし、当初の予定ってなんだ。要するにさっき見たことが、フラン崩壊の原因なのだろう。この破壊神さんが、フランの精神の中に住んでいて、そこらに漂っているフランの意識のかけらを破壊しまくっている。それによってもたらされる精神の変調が、フランの肉体まで蝕んでしまっているのだ。
 なるほど、原因はわかった。で、それからどうする?
 この破壊神が住んでいるのが原因なのだから、この人をフランの中から追っ払う?
 どう考えても無理だろう、そんなの。さっきは瞬きする間もなく殺されていた。
 攻撃する瞬間も、攻撃された手段もわからない。気が付いたら死んでいた。今もって何をされたか見当もつかないのだ。
 自惚れていたとかそういうレベルじゃない。圧倒的に次元が違いすぎるのだ。何をしても、かないっこないだろう。
 戦うなんて、有り得ない。ああ、そういえば忘れていたが、精神世界だから、あっちの声が聞こえるように、こっちの声もあっちに筒抜けなのだった。やばい。どうしよう。さんざっぱら倒すとか追っ払うとかこの人を邪魔者扱いして害することばっかり考えてしまった。気を悪くしただろうか。

『別に気にしないよ』

 良かった。意外と寛容な人だった。
 そういえばさっきも自分のミスを認めて死んでいた自分もよみがえらせてくれたし、無法者的な空気はあまり感じない。
 破壊神っていう字面と先ほど見せられたイメージから先入観で邪悪なものと考えていたけど、もしかしたら結構話が通じる人なのかも。だとしたら交渉の余地があるのだろうか。
 少し探りを入れてみようか。何にしろ情報が足りない。会話して相手の情報を聞きだしてみよう。
 しかし、怖い。変なことを考えて相手の気を悪くしたら。

「あ、あなたは世界を滅ぼすつもりなんですか?」

 迷ってさんざん逡巡した揚句に、やっとそれだけ口からでた。なんとも間抜けな質問だと思う。
 しばらくの沈黙があって、こいしが相手の迫力にびびってその場にへたりこみそうになった直前に、

『うん』

 意外にも、普通に答えが返ってきた。

「やめてくれませんか?」
『……どうして?』

 どうしてって。訳の分からないことを言う。
 あなたが居ると、みんなが安心して平和に暮らせないんです。
 すべての物を破壊するためだけに存在する神様なんて、この暢気な幻想郷には必要ないんです。
 私は可愛くて優しくて無邪気なフランと一緒にずっと面白おかしく暮らすんですから。
 フランだってあなたが中にいるせいで、色々おかしくなって、記憶も壊れて体も壊れて行って、普通に暮らせないから可哀想じゃないですか。
 こいしの主張はだいたいそんなところだ。

『……ずいぶんと独善的な主張ね』

 なんだって。再び呆気に取られる。
 確かにそれは目の前の、魚みたいな獣みたいな中途半端な生き物の姿をした神から聞こえてきた声だった。

『私にだっていろいろと事情があるのに……』

 好き勝手なことを言って駄々をこねている子供に心底疲れたみたいな口調でその人は言った。
 ハテ。話が予想外の方向に転がってきた。こいしは恐怖と混乱とフランへの愛情がごっちゃになって、汗をだくだく流しながら首をひねった。頭の中にクェスチョンマークが無数に浮かぶ。正義は我にありじゃなかったのか? 自分はフランを救いに古代の悪神と対決しに来た勇者のような存在。そんな単純な図式じゃなかったっけ。

『あなたの事情にばっかり付き合う気はないわ』

 そしてそいつは自分について語り出した。
 こいしの精神に自分の精神を直結させて、自分に関する情報を流しこんで来たのだ。
 それは意識の共有と言ってもよい。神経を研ぎ澄ませば、相手のイメージが全て分かる。そしてそれは、相手も同じことだ。
 そいつは生まれて落ちて以来、ずっと考えてきたと言う。
 本来、なにもしなければ神々も人間も永遠に生きる。だけど、不死とはどういうことだろうか。永遠とはどういうことだろうか。独りならば、永遠の命は堪えがたい孤独だ。別れの連続。苦痛に満ちた時間。だから自分が終わらせる、それが自分の役割だった。それが自分が生きている意味だった。
 だけどもし、ずっと一緒に歩いてくれるものが、常に隣にいてくれたら、それは? 孤独じゃないから、変わらない友情が不死の魂を満たしてくれるでしょう。ずっと幸せに暮らせるでしょう。ちょっと待て、それじゃ、おかしいじゃないの。だって何もしなければ、自分がいなければ破壊なんてないんだから、みんな永遠に生きて孤独も生まれないのだから。
 結局そいつは、理由も分からずに、唯最初から破壊することだけを目的として発生した現象だった。本来事象に存在理由なんていらないのから、壊すこと以外に何も知らず、ただ機械のように自動的に感知できるものを破壊するシステム。ただそれだけなのだ。
 遠い古代に、人間達の都合で神としての意味付けをもたされて以来、そいつはいつか来る世界の終焉の時に、世界を滅亡させるものとしての役割を与えられた。その役割がそいつの全てだった。それだけでよいはずだった。破壊するという行為は、そいつにとっては生理現象で、食事や排泄や性行為に似ていたので、破壊することで一応の満足を得ることができたから。
 ところがある事件をきっかけに、不幸な少女の中に同居するはめになり、その子の積み重なった記憶を壊し続けているうちに、そいつに変化が訪れた。少女が考えること大切に思うこと心の奥底にしまってずっと取っておきたいこと。そんなものを食い続けるうちに。
 それは今まで触れたことのない価値観だった。そしてそいつは、密かに知性を蓄え始めてしまったのだ。
 自分は壊すだけ、だけど、破壊は創造のために行われるという。二つは対になっているはずだ。では自分と対になる生みだすものはどこにいるのだろう?
 自分が食らっていたものたちが、創造するものだったのだ。そして長い繰り返しのうちに、作り出すことに倦み疲れて、投げだしてしまった物達。だから半端な意志だったから、これまでは自分が勝った。

『わかった? 私はそういうものだから』

 今度ははっきりした声だった。
 はっとなってこいしは忘我から引き戻される。

『とくに神々の力がもっとも強まる新月の晩は要注意。外に出たら、破壊の化身となって目につくもの全てを焼きつくすでしょう』

 破壊神としての担当範囲は世界まるごと一個なので、この幻想郷と呼ばれる世界を全て滅ぼしつくしたら、私の役目も終わって、私自身も消滅する。滅亡させるというのは比喩だけど。その世界に住む生物全てを死滅させて、全土を焼け野原にする程度だとおもってくれればいい。無関心な声でそう付け加える。
 だけど、それが本音でないことは解っている。まだ何か言い足りないことがあるのだ。
 こいしは読み取る。この人は自分の「破壊すること」という存在に、疑問があるのだけど、それは自分が言葉にしたい。
「運命を操る程度の能力」「無意識を操る能力」、そして、「全てを破壊する程度の能力」。
 この郷には無数の能力がある。能力とは一体何だろう? それは何も特別のものじゃない。
 生まれてから死ぬまでずっと持ち続けるようなものじゃないし、それに囚われて生きる必要もない。
 なぜなら、人は変わることができるからだし、人が持っている能力も変わっていくものだから。

 その通り、
 と言われたような気がした。

 大切なのは変化だ。
 チェンジ。ヴァリエーション。
 これまでは破滅は絶対的な約束事だったのかもしれない。
 栄え過ぎた文明はやがて滅ぶ。始まりのあとには終わりがある。生きとし生けるものは皆必ず死を迎える。
 これまではそうだった。だけどこれからは? 永遠に、ずっと、そうなのか?
「全てを破壊する程度の能力」の持ち主は、ずっと壊し続けなければいけないのか? 破壊神はずっと破壊神のままなのか?
 馬鹿馬鹿しいと思う。神様だか何だか知らないけど、なんで他人の決めたルールにずっと従って生きて行かなきゃならないのか。
 幸せを制限される必然的な理由なんて、どこにも見当たらないじゃないか。

『最初にワタシが宿った時のこの子の状態はひどいものだった』

 ぼそりと言った。悲しそうな声だった。心の声が聞こえてくる。
 ワタシのせいでこの子を傷つけてしまった。
 彼女は破壊神は、フランを傷つけてしまったことをとても悲しんでいるのだった。
 出来る限り無意識の奥底に引っ込んでいようとするけど、そもそもが破壊神なので、表に出て行って出来るだけ何かを壊そうとしたくなる。壊すのが自分の仕事だから、それをしなければいけないという強迫観念に捕らわれている。
 つまり、この人は、破壊するという自分の役割に疑問を持ちつつも、やめられない。
 それを止めてしまったら、自分が自分でなくなるから。
 フランを守りたいという意識と、破壊神としての勤めを果たさなければいけないという葛藤が、丁度均衡を保った位置が、フランの無意識の中にひっこんで、時たま流れてくるフランの記憶のかけらを破壊し続けていることだった。

『ワタシもときどき自分は破壊神にむいていなんいんじゃないかと思う』

 しょんぼりした声で申し訳なさそうに、破壊神はのたまった。
 まるで演劇で自分の役をうまくこなせなかったことを申し訳なく思っている子供みたいだった。
 ああ、そうなのだ。こいしは潮が引くように全てを悟った。
 この破壊神はどうしようもなくフランの一部なのだ。まさしく、意識の深層で眠っていたもう一人のフラン。
 愕然とする。手足を棒のようにして、人気のない砂漠の中で、こいしは魔神と対峙してしばらく無言のまま突っ立っていた。
 精神が唾をごくりと飲んだ。
 なぜだかとても寒く感じた。
 もっと嫌な奴だったら良かったのに、と呟いた。
 心の底からそう願った。
 問答無用で世界を憎んで全てを殺しまくるぐらいの不条理の欲望の塊だったら。
 たやすく憎んで、悪役にできたのに。
 こんな。理性と知性と人間らしさのカタマリで。生まれたときからずっと孤独で、それでたった一人のトモダチだという自分と同じくらいあの子を愛しているものを敵と呼ばなければいけないなんて。
 そうなのだ。結局これは、勧善懲悪の存在しない、しまらない物語の結末でしかなかった。
 どっちらけだ。ふざけんな。
 絶対的な正義も悪もいてくれないリアルな世界の物語。白と黒に塗り分けられないグレーな彩度のぼやけた世の中なんて、もう飽き飽きしていたのに。時として、悪者の不在は正義の味方の不在以上に悲しいのに。
 優しい魔神もファンタジー業界じゃ今や陳腐な個性になっているけれど、当の本人からしてみれば自分のそういう性格はつらく苦しく不都合な問題だろう。破壊の神がいちいち慈悲心にほだされていたんじゃ、与えられたロールをプレイングできないじゃないか。

 この先どうすればよいのだろう。

 そうぽつりと考える。
 ヒーローもヒロインも観客も、自分達の都合の良い部分にしか目を向けないものだ。お話なんてそんなものだから、みんなは悪者を求める。全ての悪いことの責任を引き受けて、一人で孤独に死んで行ってくれる悪者の登場を切に願っている。そして今、それに一番近いのは、間違いなく目の前にいる不気味な彼女であろう。
 この郷には弾幕ごっこというルールがあるけれども、圧倒的すぎる力を持ったこの神様は、そんなルールの輪の中にさえ入っていけないはずだ。輪の外に居るのはこちらとは違うやつだから、友達になれない。友達じゃないなら、そいつを悪者にしてしまえばいい。
 仲間外れを作らないルールからも外れてしまうもの。彼女が一番悪者に相応しい。彼女さえ滅びてしまえば。

 そんなのは嫌だった。
 彼女を救いたい、と思った。性懲りもなく大団円に恋い焦がれる自分が居た。そんな力も勇気も覚悟もないくせに。
 さあ、ウェンディを迎えにきた、永遠に子供でいたいピーターパン。こいしは勇者なんでしょ、と心の中の脚本家が問いかけてくる。
 もし彼女を悪者にできないと言うのであれば、あなたが代わりのラストを考えて。誰もが幸せになって、仲間外れなんて一人も作らないご都合主義じゃない誰もが納得できるハッピーエンドを、あなたが、今すぐ、考えて。



――できるはずがない。



 だから、こいしはもう一つの選択肢を取るしかないと思った。自分が卑怯者にならないために。
 それは、自分の部下になってくれたら世界の半分をやろうという魔王の提案に、勇者がイエスと答える方法。

「あなたがフランなら」

 そんなことを口走っている自分は狂っていると思う。
 でも、狂ったままでもいいんじゃないかとも思う。恋は人を狂人にさせるものなのだから。
 別に自分は世界を救いたかったわけじゃない。自分はフランを救いたかったのだ。
 そうだ、自分がいれば、自分が協力すれば、全ての障害をはねのけてフランを外に出せるんじゃないのか。
 後先を良く考えずに狂ったままそう考えた。
 もしこの無意識の奥底にいる彼女がどうしようもなくフランの一部であるというのなら、

「あなたがフランなら、一緒に世界を滅」『いい』

 出かかった声にさらなる声が塗り重ねられる。なんで、と悲鳴のような疑問をこいしは心の中で叫ぶ。

『無理しなくてもいいよ』

 無理しなくていいってなんだ。自分は覚悟を決めたって言ってるのに。
 自分はこの恋に殉教しようと決めたのに。

『もう一つ思いついたでしょ?』

 だけどそっちは。それはなんとか彼女を追っ払うことができないかと考えていた時に、思いついたもう一つの方法だった。
 こんなことを考えているのがバレたら。彼女を害しようとしていることが伝わったら、絶対に彼女は気を悪くする。
 それどころか、身の危険を感じてすぐに自分を始末してしまうかもしれない。そうずっと不安だったことだった。

『それでもいいよ』

 冷や汗がだらだら流れる。精神世界なのに。肉体と離れていて、生理現象とかは幻覚に過ぎないから、汗なんて本当は落ちるはずないのに。

「なんと?」

 さっきからトレースし続けている心の様子は一緒だった。こちらに対する害意は全くない。
 心底目の前の破壊の女神は自分の発言を、そう信じている。

『それでもいいって言ったのよ』

 正気を疑う。
 今自分が何を考えていたのか、ちゃんと分かっているのだろうか。
 それは極めて自分勝手な都合にまみれたアイディアだった。

 もし彼女の周りだけ、時間が止まってしまっていたら、どうなるだろう。

 それは外道な発想だった。
 この郷には時間を操ることができる者が何人かいる。身近なところで紅魔館のメイド長とか。永遠と須臾の間に生きる永遠亭のお姫様も、確かそんな能力じゃなかったか。例えばその能力は、精神の中の一部分だけを凍結してしまうことはできるのか。
 あるいは、時間を止めなくとも、ここだけ時間の流れが限りなく遅くなれば。記憶の破壊のスピードも遅くなって、ほとんどフランの健康を害しないレベルに収まるんじゃないのか。

『あなたがその術者をここへ導いてくればできるんじゃないかしら。そこが落とし所でもかまわないよ。別に早く出番が欲しいとか考えたことはないし』

 なんてことだ。しばらくこいしは何も考えられなかった。
 結局彼女は、自分自身を人身御供にすると言ってしまっている。
 自分の宿主を守るために、一人だけ皆と同じ時の流れから外れて、時の牢獄の中に引っ込んでやろうと言っている。
 ありえないと思った。それは禍々しい悪魔の発想じゃなくて。

 自分を犠牲にして、他の物を救う。それはまるで聖女の献身だ。

――それで宣い、ワタシの生涯は人に糧を与えて、自らは忘れ去られる生涯なのだ

 再び思考が舞い戻ってくる。
 鼻水が出てきた。涙がぼろぼろと皮膚を伝わってきた。
 最悪だと思った。これは偽善の涙だ。
 本当は自分は喜んでいるはずだ。彼女が自ら自分を封印してくれるというのなら、それは願ったりかなったりじゃないか。
 だけど、しかし。
 本当に、それでいいのか?


「わかりました。必ずいつの日か、あなたを倒しにきます」

 言った瞬間、恥を知れ、と自分をののしった。
 あなたをその呪縛から解き放つ力を手に入れるまで、私達に時間を下さい。
 力も心根も、今よりもずっと強くなって、予定されていた破局なんて屁でもないと撥ね退けられるまで、どうか引っ込んでいてください。
 虫の良すぎる提案だ。
 こんなことは間違っている。それは痛いほど知っている。
 誰かを除け者にしたラストなんて。主人公たちだけが幸せになる未来なんて。
 だけど、自分にはそれしかできないのだ。どうしようもなくちっぽけな一妖怪にすぎない自分は、力も心も弱すぎて、誰かの好意にすがることしかできない。
 宿敵のおこぼれにあずかって生きて行く。
 まだまだ自分はしょっぽい。死んでしまえと自分をののしる。

『別にそんなに頑張らなくてもいいけど。何にしろ、今のあなたたちじゃ弱すぎて私の相手にはならないからね。もっと力をつけて、対等に戦えるぐらいになってくれればワタシも破壊のしがいがあるし』

 そう言って皮肉っぽく女神は笑った。
 卑怯で弱くてずるがしこいだけの、みみっちいださい人間のカスみたいな空想から生まれた、人間達の精神のなぐさみものにすぎないみじめな妖怪の言葉を信じてあげる。
 半ば本気で半ば冗談なんだ。全開の心根はジョークの本音の裏の裏まで見通してしまう。
 彼女はこいしのことを信じていた。
 なんで、どうして?
 もしかしたら、自分は彼女をだましているだけで、永遠に彼女の時を止めたままで、知らん振りを決め込むかもしれないのに。そっちの方がずっと可能性が高いだろう。

――だって私もフランドールですもの。もう一人のフランドールもやっぱりあなたの言うことなら信じるでしょうから。
 
 その言葉に、再び泣きたくなった。


 敵と心の中で握手をした。
 決闘の約束をしたのだった。

 外へ出て、周りで待っていた皆にも伝えなくちゃならない。
 契約をしたんだ。
 ずっと未来で戦いましょうという約束だった。絶対に破ってはならない誓いだ。
 私達の希望と、あなたの摂理と、どちらが正しいのか、それを証明するための血闘の約束だ。




 ❤



 そしてその儀式は行われた。
 時を操る能力を持った二人、紅魔館のメイド長、それに永遠と須臾の間に生きるお姫様は、こいしの導きによってフランの精神の中に入って、フランの精神のうちの危険な部分を隔離するための術を施した。
 なおその時、二人の術者はお互いを取り巻く数奇な宿縁に気付くのであるが、それはまた別のお話である。
 自ら志願した究極の破壊の神様は、自ら施術のためのアドバイスまで行い、望んで時空の彼方の牢獄へと去って行った。
 再び彼女が出てくるのはいつになるだろう。薄められた時の先、百年か千年か。妖怪にとってはそれほど先のことではあるまい。
 
 術を施された後、フランの病状はだんだんと落ち着いていって、週をまたぐころには普通の状態に戻った。
 一人の少女の犠牲によって、一人の少女が助かった。

 全てが落ち着いたあと、こいしはレミリアに呼び出されて、彼女の部屋で二人きりになって会話した。

「あの夢、あなたに話した夢のこと覚えている?」
「はい」
「私はずっと思っていた。なぜだかそう感じていた。あれはきっと未来の、そう遠くない未来の出来事なんだって。私はいつかあの子に裁かれる時が来る。私の過ちの償いをしなきゃいけなくなる。あの子を失うことによって……今じゃ自分でも馬鹿げた想像だと思うわ」

 レミリアは悪夢を未来だと信じて、ずっとフランを閉じ込めてきたことを後悔しているのだ。
 こいしはさとりから聞いた昔話の内容を、断片的にしか伝えていない。
 結局レミリアは自分達の過去に何があったのか詳しく知ることはなかった。破壊神がどうやってフランの中に宿ることになったのかも。こいしは複雑な気持ちになった。

「ずっと思ってた。私じゃ妹を幸せにできないのではないかって」

 窓を見詰めながら、フランは寂しそうに言った。

「一緒にいて、幸せかどうかはフランが決めるんだと思います。私達がフランと一緒にいたいかどうかが問題なんじゃないでしょうか」
「確かにそうね」
「フランはレミリアさんのことが大好きだって言ってましたよ」

 そう言ってあげると、レミリアは嬉しそうに静かな微笑みを浮かべた。

「ねえ、こいし。妹について行ってくれる?」
「ええ、嫌って言われても着いていきますわ」
「あなたは立派ね。あなたは友達のためってだけで、自分の危険も顧みずに行動した。なすべきことをやった。私はこの五百年間、あの子の側にいて、あの子を閉じ込めるだけでなにもできなかったのに……」

 そんな風に言わないでほしいと思った。
 立派なことなんて何一つない。自分は我がままを押し通しただけだ。好きな子と一緒にいられるだけの権利が欲しかっただけ。
 他人なんてどうなったって構わなかった。自分の姉や、この目の前にいるフランの姉でさえ。
 今となってみれば、はなはだしく向う見ずな行動だったと思う。後のことも先のこともほとんど考えずに、ただ目の前の扉に飛び込んで行っただけだった。
 それでも、レミリアは感謝してると言ってくれる。
 申し訳無い気持ちで心がいっぱいになったが、それでも嬉しかった。

「いつかフランドールも紅魔館を出て暮らす時が来るのかもしれない」

 そう言ってレミリアは優しい顔でこいしの目をしっかりと見つめる。

「それでもたまには帰ってきて欲しい。この家のことを忘れないでほしい」

 どうしてそんな風に考えるんだろうと思う。
 帰ってこないわけがない。
 暖かいスープとか、清潔なシーツのベッドとか、団欒のある食卓とか。
 家族の呼びかける声とか。
 フランの家はここしかないのだから。



 ❤

 

 日が暮れる頃に、さとりが一人で紅魔館を訪れた。
 いつも気忙しく働くメイド長は留守にしていて、たくさんいる妖精メイド達は、近頃郷の空を徘徊しているという未確認飛行物体を鑑賞しにいくとかで、以前にされたしつけもすっかり忘れて皆で遊びに出て行ってしまっていたので、館の主が自らエントランスホールまで出てきて来客を出迎えた。

「珍しいわね」

 応接間に通して、二人でアイスティーを飲むことにした。料理なんて絶対にしないだろうと言われている館の主人の吸血鬼が、ことのほか手慣れた手つきで給仕をしてくれるのを見て、さとりは少なからず驚く。

「妹と二人きりで暮らしていた時はね、私が家事をやっていたのよ。さとりは?」
「私もそうでしたよ」

 今日のレミリアはいつもとは全く違っていて、ずいぶんと大人びて感じられた。
 夕暮れの紅い西日が差しこむ言葉少なげな室内の中で、姉たち二人が考えていることは、大体似通っているだろう。
 こいしも同じ感情を同じ場所で共有したくて今日この時この場所を訪れたのだから。
 フランの中の破壊の力、その大部分が封印されて、もうこの館に彼女を縛り付けておく理由はほとんどなくなった。
 陽の光は相変わらず苦手ではあるけれど、それでも気を付けていれば生活に支障がない程度だと言う。
 そして昨日の晩、関係者一同がそろった食卓で、フランが驚くべき発表をした。
 一件の解決を記念して、友達と二人で旅行に出かけることを思いついたと言うのだ。
 スケッチ旅行だと言う。
 宛てもなくそこらを放浪して、素敵な景色を見つけたらそれを絵に描く、気ままな旅なのだそうだ。
 いきなり行動的になったフランに、狼狽していたレミリアの顔を思い出す。
 もちろん一緒に行くその友達とは言わずもがなである。
 妹が旅立って行く。単に字面だけのことではないことは解っていて、少し寂しくもある。
 さとりは以前、飢饉や戦乱によって荒れ果てた人里の近くを離れて、新天地を求めて幼い妹の手を引いて地底の深道を歩いて行った時のことを思い出した。
 両親と死に別れて以来、ずっとさとりはこいしの母親代わりを務めてきた。あの時は二人だった。今その掴んでいた手を、彼女の親友が握っている。二人がどんな会話を交わすのか、さとりにはわからない。知らなくてよいのだと思う。
 その手は以前、自分の手を握っていた。その思い出があれば十分だから。
 
「少しお酒入れよっか」

 そう言ってレミリアは戸棚の中からブランデーを出して、空になったティーカップに注ぎ始めた。
 少しでない量のブランデーが注がれて、その上に申し訳程度の夕日色の液体が注がれる。

「心配?」

 紅茶入りブランデーをすすりながら、レミリアが聞く。

「そりゃ心配ですよ。あの子は昔から向う見ずなところがありましたからね。よそさまの子にまで迷惑かけなければいいけど」

 さとりのおっかさんみたいな口調がおかしくて、レミリアはくっくっと笑った。
 さとりは思う。
 考えてみれば、この吸血鬼さんとはお互いに友達になれるのかもしれない。
 だって友達って、同じ趣味を持っていたり、同じ体験を共有したり、同じ想いを味わった人たちのことでしょうから。

「まあ、少し寂しくはあるわね」
「子供はみんな旅立って行くんですねえ」
「まあ、みんな永遠に子供ではいられないからね」

 そう言われたので、こいしはレミリアのちんちくりんな全身を見渡した。

「精神的な意味でってことよ」

 少し拗ねながら、レミリアは言った。

「わかってますよ。それにしても、青春っていいですね」

 確かに、とレミリアもうなずいた。
 琥珀色の夕焼けが窓から部屋の中に差し込んでいる。
 梅雨が明けて、熱くて青い夏の足音が聞こえてくる六月の終わりの夕暮れだった。



 晴れた朝、二人は出発を決めた。
 一度フランの庭に集って、そこから部屋とは反対側の出口を使って出る。
 出口は魔法の力で用意されており、どこに通じているかは入ってみるまでわからないから、全くもって行き当たりばったりの旅である。
 いきなりそんな難易度の高い旅行をしなくても、まずは手近なところから始めたらどうかという常識的な提案をレミリアにされたが、無視した。
 二人はおそろいのリュックを担いで庭に出て、見つめ合った。
 パンパンになったリュックの中には、この先の旅に必要になるであろう必需品がいっぱいに詰め込まれている。
 イーゼルとか油絵の具とか。小さめのテントや寝袋や少しの炊飯用具まで入れてある。
 すこし高いところにあるこいしの目を見上げながら、フランは言った。

「正直言って怖いの。ずっと家の中に閉じこもっていたから」

 確かにそうかもしれない。
 太陽の光も、周りの視線も、慣れない世界も。
 ずっと引き籠って生活してきた彼女にとっては、過去の記憶がない彼女にとっては、見るものすべてが目新しく見えるだろう。

「でもこいしが手を引いてくれるなら、私行けると思う。だって今までずっとこいしと一緒の時は安心したし、楽しかったから」

 そう言って、弱々しい可憐な少女の微笑みで、自分を見つめてくるフランを見ていると、ほんのり母性本能がくすぐられる。
 この旅行が本当に必要なのか、と言われれば、まあ確かに疑問符は付く。
 でも、何百年後か何千年後か、孤独な破局さんと約束した対決の時までに、夢を蓄えておかなきゃならない。
 永遠に子供のままでいる権利を得るためには、もっと夢のことを信じていなくちゃいけないだろう。
 で、結局それのために何をするべきかなんて、考えても思いつかなかった。
 でも結局夢を見ることって、今いる自分の世界を愛して、その未来を信じることなんじゃないの。
 だったら。
 
 それでもフランはまだ逡巡を続けていた。
 もう庭の出口だ。緑の壁が続く迷路園の中の道を、重いリュックを担ぎながら、先をゆくこいしの姿を追いながら、えっちらおっちらフランは進んだ。
 始めて海に入る子供みたいにおっかなびっくりの足取りで。
 ふいにフランの足が止まる。もう出口の薔薇のアーチは目の前で、その先には未知の国へと通じるゲートが開いている。

「やっぱり……」

 うつむき加減でフランは言った。

「やっぱり屋敷の中でいいのかも。それで十分なのかも」

 お姉さまも優しくしてくれるし。もう暴れたり狂ったりすることもないから、メイド達も一緒に遊んでくれるだろうし。
 屋敷の中だってみんな遊びに来てくれて、友達も増えるし。別に無理して外に出て行かなくたって。
 屋敷の中の世界でもう十分なのかも。

「もう十分?」

 問いかけるように言う。こういうとき、女の子を誘うにはどうしたら良いか、こいしは知っている。
 怖いなんて言ってるけど、窓辺で外の景色を眺めている少女ってものは、広い世界に憧れているものなんだから。
 
「本当に? ……違うよ。見てないよ。まだ何も見てない。世界はもっときれいなんだ。前の君は、それを知っていたはずさ。さあ、一緒に行こう。まだ見ぬ広い冒険の世界に、僕が連れて行ってあげる」

 紳士の手をゆっくりと彼女の取りやすい位置に運んで、男の子みたいな口調でもう一人の少女を誘う。
 その子を連れ去りにやってくる王子みたいに。自分はこの子にとってひとときの浪漫でいてあげたい。
 それは例えるなら、夜の窓からやってきて、ずっと大人にならないウェンディに手を差し出したピーターパンみたいに?
 ううん、もっと今風で断然かっこいいメタファーがあると思うけど、今は思いつかない。

 今の自分は知っていると思う。世界は無限なんだ。なぜって、常に変化し続けているから。同じ時なんて、一回もない。無限の変化の積み重ね。その輝く一瞬一瞬を、自分達は見て行く。それが生きているってことなんじゃないのか。
 変化。強い言葉だと思う。それは失うことを恐れない勇気のこと。現在の状態を何もかも破壊してしまい、新しい関係を作り出すこと。
 大人にならなくとも、子供のままでも変化は続く。能力なんていう設定に縛られる必要もなく、妖怪の郷なんていう枠に捕らわれる必要もなく、自分達には自由がある。
 生きている幻想はいつでも変化していて、そして歩き続けて今も昔も現在進行形で新しい形に変わって行く。
 しかし、同時に、
 変わらないものも常にあると思う。
 それが今回自分が守ろうとしたものだって勝手に結論づける。
 それは百年を共に生きるだろう者達が共有するかけがえのない宝である。
 今から、これから、どこへ行こうとも、それは彼女達と共にあるだろう。色褪せることのない、宝石のような思い出は、セピア色の切なさと、無限色の憧れをいつでも二人の永遠の少女の心の中に蘇らせてくれる。

 長く生きる妖怪は生きるのが暇をつぶすのが大変だと言う。
 何が退屈なものか。
 さとりなんていう妖怪の頂点に君臨している種族の一員だけあってか、こいしは胸を張って言えるはずだった。
 世界はこんなにも色彩にあふれているじゃないか。
 自分が覗く人の心はこんなにも豊かじゃないか。
 希望はいつだってあるのだ。
 だから少女は少女の手を取って、狭く閉ざされた庭より旅に出ることに決めたのだ。
 新しく広がっていく世界を、まだ見ぬ色彩を、自分達の思い出の一部にするために。
 忘れられない楽しい記憶を増やしていくために。
 今度からは広い世界が彼女達のキャンバスになるのだろう。

 随分昔のことだ。
 緑の美しい庭の、薔薇のアーチの出口を通って、二人の少女が外の世界へ駆けて行った。





 閉ざされた森の一角に、白い光が漏れてくる不思議な不思議な入口がある。
 その入口の隣には石碑がひとつ、ぽつんと立っている。そこにはアルファベットでジヴェルニーという名前が刻み込まれている。その名前の由来、作者である魔法使いが愛用の埃の積もる本棚から掘り出してきた出典には、大昔に睡蓮ばっかり描いていたとある有名な画家が、晩年に丹精こめて作りあげた美術のための庭が、そんな名前をしていたのだと記されている。
 その庭は、季節と共に移りゆく色彩に溢れた水と花の庭だった。ある時それは、笑いさざめく妹たちの庭となった。生活の中から美しいものを取り出す、優しい目を持った画家たちの庭ともなった。
 それに、長い間閉じこもった少女の精神世界の箱庭でもあった。
 かつてのそこの主は今は外へ旅に出ている。
 年がら年中そこらを放浪していて、たまにしか帰ってこない。
 それでも彼女の帰郷の折には、古い馴染みが集まって、その庭を使って、やっぱり盛大な晩餐が催されるのだ。
 それが、思い出の場所というものでしょうから。














 EXボス同士でガールミーツガールをやってみました。
 鬼っ子フランに愛の手を。
 作者が忘れようとも僕らは彼女のことを忘れない。
nig29
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/05/09 21:47:06
更新日時:
2009/05/09 21:47:06
評価:
22/24
POINT:
150
Rate:
1.52
1. -3 名前が無い程度の能力 ■2009/05/10 00:43:48
>作者が忘れようとも僕らは彼女のことを忘れない。
こういう物言い嫌いだ
2. 7 パレット ■2009/05/18 00:37:05
こいしちゃんフランちゃんうふふふふ!
精神世界に入ってからの鬼気迫るような心理描写、絶対の正義も悪も無いお話を真摯に描こうとするその熱さに惚れ込みました。もうこれ以上無いくらいの恋のお話。お題成分がちょっぴり薄かったような気がしたことだけは、残念だったかも。
3. 10 三文字 ■2009/05/22 01:08:10
妹妖怪可愛いよ妹妖怪。
色々とお腹一杯なお話でございました。北欧神話をちょっと混ぜたり、集合的無意識とか精神面に踏み行ったり。
うん、俺の中の何かが疼くぜ……
ただ、ちょっとだけ残念だったのがフランの精神に入っていくところがちょっと早足すぎたかな、と……
出来ればもう少しじっくりと精神世界を見てみたかったです。
あと、破壊神ちゃんにちょっと萌えたのは変じゃないはず!妹様なら全てを愛せる!!
4. 8 神鋼 ■2009/05/28 21:27:53
やはりこの二人は相性が良いということを改めて感じました。
ちょっと後半の展開が忙しかったよう気もしますが、勧善懲悪な結末にしなかったのは上手いと思います。

……なんかサブイベントがいっぱい残ってませんか?
5. 9 佐藤厚志 ■2009/05/31 23:01:06
不思議なことに、私にとってこの作品は現代の童話なのです。ひょっとしたら著者さまは心外かもしれないけれども、何となくそんな感想を持つに至りました。それはこの『ジヴェルニーの妹達の庭』 が、現代人の私の心に素直な形で、深く刻まれたからです。おとぎ話特有の、ノスタルジーと、そして勇気や友情といったものを、なんとも幸せなまでに感じながら読みました。素晴らしい作品、どうも有難う御座います。
6. 4 As ■2009/06/01 01:38:39
中盤以降から終止、地の文で心象を説明するような言葉が多く書かれていて逆に読みづらくなってしまっていたように感じました。
もう少し簡潔に書いてみると物語のテンポが良くなったかもしれません。
7. 6 名前が無い程度の能力 ■2009/06/02 09:35:11
こいしとフランが幸せになれてよかった
8. 7 気の所為 ■2009/06/02 21:52:33
何と言ったらいいんでしょう、
全体的に、惜しい。
もう少し際立たせたい部分を強調して、出来る限り説明的な部分を削ればもっとスリムで物語として飲み込みやすいものになると思います。
とはいえ、実に楽しませてもらいました。通常ならば難しいであろうものの描写がとても上手に感じました。特にフランドールの精神世界の描写なんかに惚れ惚れしました。
9. 9 有文 ■2009/06/08 01:01:56
読んでいて、非常に楽しかったです。こいしが可愛くて格好良いです。
個人的に人が旅立とうとしている瞬間が、好きですね。なので非常に素晴らしかった。
なによりも、全体的な潔さが良い感じ、読後感最高でした。
10. 6 so ■2009/06/11 07:31:25
EXキャラへの愛に溢れていますね。
ビバこいしちゃん。

ただ、終わり方が少々消化不良かなあ、と。
11. 6 ふじむらりゅう ■2009/06/11 23:52:15
 こいしがフランの精神世界に行って、破壊神と対峙してからのシーンは、見せ場であるのと同時に、何だかノリノリで書かれすぎていて一瞬こいしの心理なのか書き手の心情がそのまま投影されているのか、その境目が曖昧になっているような感がありました。確かに、それだけ強い思いが込められているのは感じたのですが。
 結局、全部が全部まるっと解決したのではなくて、問題を先送りしただけというのもあって、なんとなく不完全燃焼。でも終わりは爽やかに。
12. 7 ぴぃ ■2009/06/12 04:14:34
最後がとてもよい雰囲気です。
しかし、そこに到るまでの道がストレートすぎる気がします。
さとりの語るバックストーリーも、ちょっと都合が良い感じ。
それくらいで、後は面白かったです。

特に「う、う、馬馬」には爆笑しましたよ! 何を書いてるんですか!w
13. 8 名前が無い程度の能力 ■2009/06/12 17:01:53
まず誤字の報告をば。
>かと思うと、腐って腐敗した臓物のようなグロテスクな
>だが、ひるんでなどいられないのだ。引くつもり毛頭ない。
>本来事象に存在理由なんていらないのから、壊すこと以外に何も知らず、
>『ワタシもときどき自分は破壊神にむいていなんいんじゃないかと思う』

あと
>胸糞の悪くなる出来の悪いスナップビデオの視聴を強要されているような
ここはスナッフビデオ(もしくはフィルム)でしょうか?

フランの解釈など全体的には非常に面白く、うまくまとまっているなぁと思います。
所々『イリヤの空、UFOの夏』から引っ張ってきたような文章が見受けられるのですが、お好きですか?
14. 5 八重結界 ■2009/06/12 18:34:15
悲痛な運命に立ち向かう少女達が、とても美しく見えました。
挫けそうになっても諦めないこいしは、フランの良き友なんでしょうね。
15. 8 moki ■2009/06/12 19:00:49
こいしの解釈ってどうなんだろう。無意識を意識的に語る、操るってのに違和感。確かに能力を意図的に用いるとすればそういうことはできるんだろうけど、無意識の及ぶ範囲ってそれだけでなく人格部分にも影響するのでないかなぁと思います。勿論無意識しか存在しないわけではないでしょうが。また、ぶっとんだ精神分析やら神話の世界やらってのはどうも東方世界との馴染みが薄い分、オリジナル要素が強くて東方SSなのかなーとかオリジナルでやった方が面白いんでないかなーとか個人的には思いました。
秘密の庭でガール・ミーツ・ガールや、フランの解釈、純粋無垢とは決して言えないハッピーエンドと、物語自体はとても面白かったんですが。うーん、東方SSとして評価はどうしたらいいんだろうなと迷います。
あと、段区切りの絵文字。ハートマークのようですが、&#9829の方にしたほうがいいんでないでしょうか。当環境では表示されませんでした。
16. 6 リコーダー ■2009/06/12 21:13:35
非現実的な庭園とか胎児とか、それっぽさが良い。
しかし明らかに童話っぽくない昔話とか、少々ご都合主義な感が。
17. 5 木村圭 ■2009/06/12 21:47:03
こいしとフランドールの出会いはどこかで書いて欲しかったです。あとは概ね文句無し。
が、後書きのせいで余韻ぶち壊しでした。こんな偏屈は自分くらいでしょうが、何も書かずに終わってれば今こんぺ指折りの良作として数えられただろうにと思うと残念でなりません。
18. 7 時計屋 ■2009/06/12 22:52:42
 まず情景描写が細やかで感心させられました。丁寧でそつがない、お手本にしたいような文章でした。
 お話のほうは、これまで数えきられないほど書かれてきたフランを外に出そうというものでしたが、新キャラであるこいしの登場や神話を絡めた能力の独自解釈といった新味を出しており、ありきたりなものを感じさせません。
 終盤の破壊神を取り除こうとする場面も、西洋医学のような外科手術のように、悪い部分を切って捨てる、というのではなく、東洋医学のようにそれと共存するところを目指す。言い換えれば、個人が有するその社会にとって害悪な部分を悪と断じて排除するのではなく、その人間の個性とみなして寛容を目指すとでもいうのでしょうか。そういういうところがいかにも東方的に思えて、私の好みに合致していました。
 ただ一方で、こいしがフランに与えるだけじゃなくて、フランがこいしに与えるところももう少し見せて欲しかった、という不満もありました。フランのために頑張るこいしも良かったのですが、こいしのために頑張るフランも見たかった。そのほうがより二人の絆が色濃く見えたかも知れません。与えるだけだとどうしても行為が同情っぽく見えてしまう、というのは私の穿ちすぎかもしれませんが。
 後はお題分がちょっと薄かったかな、と読了した後、思いました。
 というわけでちょっと点数は辛めなのですが、128KBという文章量に恥じない壮大な物語でした。
 敬意をこめて、お疲れ様でした、という言葉を贈りたいと思います。
19. フリーレス ハバネロ ■2009/06/12 22:59:46
本題に入ってからが迷走するという困ったケース

設定に振り回されているように思える
20. 9 つくし ■2009/06/12 23:07:07
申し訳ありません、時間が差し迫っているため、採点のみにて、感想本文は後ほど改めて。
21. 10 名前が無い程度の能力 ■2009/06/12 23:16:10
とっっても面白かった!!
こんな楽しんで読めたの何時以来だろうってくらい楽しかった。
>作者が忘れようとも 
涙が出てきた……
22. 8 K.M ■2009/06/12 23:30:16
軽妙な文章が、読んでて心地よかったです。
23. 8 つくね ■2009/06/12 23:57:37
コメントはすみません後ほど。
24. フリーレス つくね ■2009/07/10 14:28:56
コメントが遅れて申し訳ありません。
さて、序盤の二人の出会いから破壊の根源と出会い、そして彼女達が旅立つまでの流れがスムーズで余分なものがなく、よくまとまっていると感じました。ガールミーツガール素晴らしい。一方、その破壊との対峙が意外にもあっさりと終わってしまったのは、その性格などを考慮すると当然とは思うのですがむむむ……結構長く、そして物語上重要なポイントにしては、その他の場面と同様に扱えてしまうように思えました。
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