無色透明な彼女

作品集: 最新 投稿日時: 2009/05/09 22:13:58 更新日時: 2009/05/09 22:13:58 評価: 21/22 POINT: 149 Rate: 1.58
 
 突きつけられた三択に容赦はなく、けれども慈悲はあって、残酷だった。
 敷き詰められた煉瓦の屋根が、臀部から温度を奪っていく。何時間、屋根の上で空を眺めていたことだろう。美鈴は覚えておらず、答えてくれる者も近くにいなかった。皆、気を使って離れているのだろうか。気を使う妖怪が気を使われるなんて、滑稽で笑い話にもならない。
 夜空は今日も気持ちが良いくらいに快晴。思い出したように雲はあるが、叢雲と呼ぶには些か力不足だ。存分に星と月を堪能できる。ひょっとしたら最後になるかもしれないと考えれば、これほど美しい星と月は見たことが無かった。現金な美的センスに、思わず苦笑が零れる。
 別にこれが最後だと、決まったわけでもないのに。
 でも。
 寝そべって、屋根を身体で感じる。紅い館と相性が良いのか、こうしていると身体が溶けて消えてしまいそうな錯覚を覚えた。いっそそうなってしまえば、悩みもなくなり楽になれるのかもしれないけど。それならば、三つ目の選択肢と変わらない。ただ前者は単なる現実逃避で、後者は元に戻るだけという違いはあったが。
 誰かに相談してどうなるものでもない。ないけれど、出来れば隣に誰かいて欲しい。我が儘な欲求だと分かっているが、叶って欲しいと願っている。
 果たして、屋根の上に誰かが上がってくる音を聞いた。
 咲夜か、パチュリーか、フランドールか、小悪魔か。
 それとも、絶対に来るはずが無いであろうレミリアか。
 寝そべったまま、美鈴は来訪者を確認することもしなかった。
















 お弁当を忘れた事に気付いたものの、引き返すのも億劫だ。仕方なく、阿求はそのまま調査を続けることにした。まだまだ夏とは程遠い季節。いくらおにぎりとはいえ、早々に腐るとは思えない。多分。きっと。
 呼吸を整え、阿求は道ばたに腰を降ろした。妖怪ならば息も乱さず歩ける距離なのだろうけど、なにぶん阿求はただの人間。それなりの距離を歩ければ疲れる。話を聞いた時に、ついでに距離も確かめておけば良かったと今更ながらに後悔を覚えた。
 これで目当てのモノが荘厳な滝だったり、美しい紅葉ならばせめて目は休まるというのに。眼前にあるのはただの岩。そして阿求の目的も、ただの岩だった。
 正確には『ひっぱり岩』という名称が付けられているのだけれど、見た目は岩でしかない。こんなものの為に足を運んだのかと思うと、百聞は一見にしかずと言っていた昨日の自分を殴りたくなる。いいではないか、百聞で。実際のところ、百聞すれば一見ぐらいの価値はあるのだから。
 息が整ったところで、阿求は改めて岩を観察した。大きさは、子供が丸まったぐらい。表面は少し凸凹しているものの、座ろうと思えば座れないこともない。ともすれば視界に入らないほど、普通の岩だ。
 しかし、この岩の近くでは不思議なことが起こるという。そもそも、阿求が歩いてきた道。これは人間が知らない、妖怪だけの道であった。現に阿求も、文から岩の噂を聞いて初めて、この道の存在を知ったぐらいだ。妖怪は飛んでばかりいると思っていたので、彼女らだけしか知らない道というのに大層驚いたのを覚えている。もっとも、妖怪の山と博麗神社を繋ぐ道なのだから、人間が知ったところで利用価値は皆無に等しい。
 閑話休題。ひっぱり岩だ。
 何でも、この岩の前を通った妖怪は例外なく此処で足を止めてしまうらしい。原因はまだ分かっておらず、害がないので実質上は放っておかれているのが現状だ。まるで岩が引っ張っているような事から、この岩をひっぱり岩と呼ぶようになったんだとか。文はそう言っていた。
 妖怪だけしか知らない道もさることながら、ひっぱり岩というのも幻想郷縁起に加える必要性がある。そう思って阿求はやってきたのだが、どうにも空振りに終わったようだ。岩の前を通り過ぎたところで、足を止める事は無い。ひょっとしたら妖怪だけの現象なのかもしれないが、それならば来る必要はなかった。誰か使いを送って、確かめて貰えれば済む話だ。
 時間を無駄にしたような気がして、晴れ渡る空とは裏腹に、阿求の心は雲って重い。道自体は加えるつもりだけれど、岩に関しては軽く触れる程度にしよう。そう決めて、腰をあげた。
「おや?」
 ふと、頬に違和感を覚えた。何かが引っ張っているわけではない。水滴が、頬を伝って地面に落ちた。見上げれば、空から雨が降ってきている。
 山の天気は変わりやすいというけれど、ここは平地。そこまで天候が動くは思えないのだが。それにそもそも、雨を降らせる雲はどこにあるのか。辺りを探したところで、空には雲一つなかった。
 狐の嫁入りにも程がある。何匹嫁入りしているのか、分かったものではない。
 雨から逃げるよう小走りに、阿求は神社の方へと走って行く。踏んだり蹴ったりとはこの事だ。
 一時間後。神社についた阿求は濡れ鼠のようで、空腹を紛らわすように巫女へ愚痴を語ったという。










「どういうつもり?」
 突き刺さるように冷たく、刺々しい親友の言葉。しかしレミリアは動じず、素知らぬ顔で紅茶を飲む。図書館で紅茶というのも不思議な話だが、妖精メイドのいれる紅茶ははっきり言って不味いのだ。舌の肥えたレミリアを満足させるようなものではない。
 図書館にはパチュリーと小悪魔の二人がおり、そのどちらもが美味しい紅茶をいれる事が出来る。テラスで不味い紅茶を飲むよりも、図書館で美味しい紅茶を飲んだ方が時間を有意義に使えるというもの。
 もっとも、今日は紅茶がメインというわけではない。そして、パチュリーの疑問もそこにあるのだろう。当然、分かっている。だが、そう簡単に説明する気にはなれなかった。特別な事情があるわけではない。単なる気まぐれ。吸血鬼とはそんなものだ。
「どういうつもりも何も、見れば分かることじゃない。それとも、あなたは彼女を裸のままにしておけば良いとでも?」
「どうして私のところへ服を借りに来たのか聞いてるわけじゃないわ。それだったら理解できる。あなたは自分の服しか持っていないので、彼女とはサイズが合わない。でも私だったら、自分以外の服も何着か資料として持っている。あなたはそれを知っていたから、尋ねてきたんでしょう。動機は分かる。問題は、どうして見ず知らずの女性を紅魔館に連れてきたかという事」
 本を閉じ、紅茶に手を移す。
「レミィだって、これぐらいの事は分かってるでしょ。わざわざ説明させないでよ、面倒くさい」
「事態を把握するには、第三者の説明が最も相応しいの」
「それは誰も理解できていない状況の話。今、理解できてないのは私だけ。さぁ、早く説明しなさい」
「短気は損気。焦れば真意を見逃すわよ」
「見逃すような話し方をしないで貰いたいわね」
 呆れた親友の顔を見て、ようやく話す気になれた。我ながら、歪んだ性格だと思う。
「しかしねえ、話すと言っても何から話したものか。私だって、全てを理解してるわけじゃないのよ。例えば、彼女の名前だって知らない」
「……名前も知らない子を誘拐したのね」
「誘拐じゃないわ。スカウトよ」
「名前も知らないのに?」
「そう、名前も知らないのに」
 納得できないといった表情が、ありありとパチュリーの顔に浮かぶ。だが、事実なのだからしょうがない。
「どこの子よ」
「ひっぱり岩に座っていたの」
「彼女、裸だったわよね。此処に来たとき」
「ええ、裸だったわ」
 困惑の色が、ますます強くなっていく。頭の良いパチュリーにだって、理解できない事は山ほどあるのだ。もっとも、敢えて理解させないように喋っているのだから、これで分かれば天才の領域。さしもの魔女も、そこまでは達していないらしい。
 悩むパチュリーを楽しみながら、服を着ている彼女を思う。小悪魔と一緒だから妙な着方をすることはないだろう。ただ、どんな服を着ているのかは知らない。パチュリーが妙な服を持っているのは何度も耳にしていたが、種類までは把握していなかった。
 はてさて、如何なる姿を見せてくれるか。非常に楽しみだった。
「どうも」
 難しい顔のパチュリーに、子供のように目を輝かせるレミリア。顔をあげ、声のする方へと向けた。レミリアの連れてきた女性が、飄々とした顔で立っている。
「あら、早かったわね」
「勿論です。迅速、確実が私のモットーですから」
 女性の後ろから、胸を張った小悪魔が姿を現す。紅茶だけではなく、着替えの手伝いも出来るとは。司書だけをやらせておくのは勿体ない。パチュリーが許すのならば、いずれ専属のメイドとして雇いたいものだ。
 だが、それよりも今は。
「見違えたわね、紅美鈴」
「え?」
 聞き慣れない名前に、女性は目を丸くした。
「ちょっと、レミィ。名前も知らなかったんじゃないの?」
「知らなかったわよ。だから、今付けたの。私とお揃いの紅を入れた、紅美鈴。それが、あなたの名前よ」
「私の、名前……」
 確かめるように、美鈴は自分の名前を繰り返す。まるで身体に覚え込ませるように、何度も何度も。
「それにしても、なかなか似合ってるわね」
 武術の達人が欲しいと思っていたから、そうなるように名前を中華風に仕立てた。見た目がアジア系だったので、そうすればきっと存在が名前に合わせて変わると思ったのだ。そんな事情を知らないはずなのに、小悪魔が着せた服は緑の人民服。何とも、運命を感じる話ではないか。
 それによく似合っている。
「メイドとして雇ったわけじゃないでしょうけど、だったら彼女をどうするつもり? まさかあなた専属の護衛とか、馬鹿な事を言いだしやしないでしょうね」
「そんな勿体ないこと、この私がするわけないじゃない。自分よりも弱い者を護衛に付けてどうするのよ。美鈴には、門番の職を与えてあるわ」
 名前も記憶もなかった美鈴。だが、職業は最初から用意されていた。いや、用意されたから存在したのか。
「ひっぱり岩の噂は、あなたも聞き及んでいるでしょ? あれはね、この子が原因だったの」
「この子が?」
「そう。あの道は多くの妖怪が通り道として使っている。私も、ごく稀にあそこを通っているぐらいだもの。だから大小問わず、あそこには妖怪の気が溜まってしまった」
 これが普通の人間ならば、気が溜まったぐらいで何か起こるわけはない。しかし、溜まっているのは妖怪の気。それが変化を起こして意志を持ったところで、驚くほどの事ではない。現にパチュリーも眉一つ動かさなかった。
「なるほど。それであなたは溜まった気に職業を与え、不確定だった存在を固定したのね。しかし、よくもまあ見つけられたわね。そんな不安定なものを」
 いわば漂う気配を察知するようなもの。近くにいるのは分かっても、どこにいるのか正確に察するのは至難の業だ。八雲紫や西行寺幽々子もあそこに何か気が溜まっている事までは把握していたらしいけれど、それが何処に溜まっているのかまでは分からなかったらしい。
 レミリアとて、感覚だけを頼りにしていたら一生かけても見つけ出すことは出来なかっただろう。
「忘れたの? 私は運命を操る吸血鬼。わざわざ見つける必要なんてない。美鈴と出会うよう運命を変えてしまえば、出会いは自然と必然になる。私が彼女を捜したんじゃない、彼女とは出会うべくして出会ったの」
 暴論だが、それを理屈で終わらせないのがレミリアの能力。パチュリーは呆れを抑えつつ、だけどと疑問を投げかけた。
「そうまでして、どうして彼女を見つけようとしたのよ? 門番だったら、探せば適任はいるかもしれない」
「別に門番が欲しかったわけじゃないわ。単に門番という職が空いていたから、存在を固定する為に職を与えただけのこと。何なら料理長でもいいし、私に服を着せる役目でも構わないわ」
 意志があるだけで、所詮はただの気。姿も無ければ、形も無い。有るのか無いのかも不明の存在を、確固たるものに変える為には多くの者が観測をすれば良い。職はその為の補助に過ぎなかった。
「雇った理由はごく単純。道を歩いていたら、とんでもない原石が落ちていたのよ。しかも、それは私にしか拾えない。だったら拾って磨く方が、面白いとは思わない?」
「面白い、ね。あなたらしい、素敵な答えね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒め言葉よ。一応は」
 レミリアは笑い、パチュリーは本を開いた。それで会話は打ち切りということだろう。小悪魔も司書の業務に戻り、残されたのはまだ名前を呟き続ける美鈴のみ。このまま此処にいても、何も始まりはしない。
 やれやれ。席を立ち、声をかける。美鈴はまだ、己の名前を繰り返していた。熱心なことだが、放っておけば白骨化するまでやっていそうだ。
「行くわよ、美鈴」
「え、あ、はい!」
 行き先も言わずに歩き出したが、美鈴は素直についてきてくれる。素直というよりは、単にこの館で知っている人物がレミリアしかいないからだろう。雛が親鳥の後ろを歩くように、美鈴もまたレミリアの後を歩く。
 門番を雇ったという噂は館中に広まっており、すれ違う妖精メイドは必ず美鈴を振り返った。考えてみれば、館にいるのは殆どが妖精。妖怪らしい妖怪など、レミリアとフランを除けば後はいない。もの珍しさもあるのかもしれない。
 もっとも、当の美鈴は何処吹く風だ。気にした様子もなく、変わらぬ表情で赤絨毯を踏み歩く。ごく稀に窓の外を眺めていることから、どちらかというと妖精メイドより庭園の方が気になるらしい。
 せっかく雇った門番だ。どうせなら、庭仕事も覚えさせておこう。脳裏の片隅にそう刻みこみ、二人は紅魔館の門まで辿り着いた。
 館を取り囲むようにそびえる塀。その一角に、西洋風の門があった。
 来訪者が飛べる者ばかりで、長らく形骸化していた門。当然の如く、門番などというものも存在していなかった。
「ここが、今日からあなたの働く職場よ。仕事内容は、まぁ言わずとも分かるわよね。門番なんだから」
「まぁ、大体は」
 それほど頻繁に招かれざる客が来るわけではないが、まったく来ないということもない。妖精メイドは役に立たないし、パチュリーは図書館から出てこず、妹は地下から出すわけにもいかないとなれば、処理するのはレミリアしかいなかった。歯ごたえのある相手なら望むところだけれど、雑魚相手を処理することほど精神的に疲れることはない。
 性急に必要としているわけではないが、いずれ雇おうとは思っていたのだ。門番を。
「詳しい話は妖精メイドに聞いて頂戴。一応、あれでもあなたの先輩なんだから」
「わかりました」
 律儀に頷き、門を背中に仁王立ちの美鈴。あんなに気張っていては、いずれ疲れて倒れるのは間違いない。だがそれも、いわば洗礼のようなものか。そう考え、敢えてレミリアは何も言わなかった。
 無論、技量について尋ねるような真似もしない。普通ならばするが、美鈴は出自から異常なのだ。今はまだ知識だけがある状態で、おそらく数年は使い物にならないだろう。だが技術さえ身につければ、体術に関しては館随一の達人になれるかもしれない。
 そうなってからが、本当の意味での門番となる。その日を楽しみに待ちながら、しばらくは自分が雑魚の相手をしよう。レミリアはそう決めていた。
 去り際、ふとレミリアは振り返った。一つ、言い忘れていたことがあったのだ。
 仁王立ちする美鈴の背中に、聞こえるか聞こえないか判断しづらい大きさの声をかける。
「ようこそ、紅魔館へ」





 気を張りすぎだとレミリアは懸念していたが、予想を裏切り、美鈴はそのまま一ヶ月も勤務を勤め上げた。失念していたのだ。そもそも、美鈴は気の塊から生まれた存在なのだということを。
 不思議なことに、美鈴には知識だけがあった。おそらく、妖怪達の気と共に知識も塊となったからであろう。
 もっとも気は技術がなければ、攻撃や防御に変えることが出来ない。美鈴にはまだその技術がなく、しかし体力に変える技は身につけていた。その技術が無ければ、間違いなく三日後に倒れていたことだろう。
 仁王立ちする美鈴の背中に、ここ数日で耳慣れた可愛らしい声が聞こえてくる。
「美鈴さーん!」
 その声が合図となり、美鈴は身体中に張りつめていた気を抜いた。そうして初めて、今が夜なのだと知る。
「お仕事ご苦労さまです。これ、差し入れですよ」
 振り返ってみれば、バスケットを抱えた小悪魔が小走りに駆け寄ってきているところだった。同性同士なれど、その姿を愛くるしいと思ってしまう。なるほど、悪魔という名前がついているのも伊達ではない。ともすれば、その姿で男を魅了してしまうのだろう。
 今の美鈴にとっては、気のいい同僚みたいなものだが。
「今日はサンドイッチと、コーヒーです。こんなものしか作れなくて悪いんですけど……」
「いえいえ、そんなこと無いですよ。美味しいですし、とっても助かってます」
「そうですか?」
「そうですよ」
 気恥ずかしそうに小悪魔は頬を染め、美鈴の横に腰を降ろした。どうやら、彼女も此処で一服するつもりらしい。
「外は寒いですよ」
「でも、外の方が楽しいです。今は」
 自分がいるからそうなのかと思ったのは、些か厚かましい考えだろうか。空を楽しそうに見つめる小悪魔を見ていると、そんな野暮な質問は霧散してしまう。
「それにしても、美鈴さんが此処に来て三ヶ月ですか」
「もう、そんなになるんですね。時が経つのは早いなあ」
 思い返してみれば、美鈴が誕生したのは三ヶ月前のこと。だというのに、もう三年は此処にいるような気がする。それほど紅魔館は肌に合い、門番という職業が天職のように思えたのだ。
 相槌を打ちながら、マグカップを傾ける。苦みと渋みが咥内を通り過ぎ、喉に温かさを与え、胃を満たす。コーヒーの違いが分かるほどグルメではなかったが、これが美味しいことぐらいは理解できる。
 しばし味を堪能し、今度はサンドイッチを頬張った。トーストとレタスにトマトが加わり、胡椒の効いたチキンが良い味を出している。香ばしさが鼻腔をくすぐり、チキンの肉汁が舌を唸らせる。これだけの物が作れるのに、小悪魔は自分を料理が出来ない方だと自負しているのだ。
 だとしたら、美鈴はどうすればいいのか。知識はあるのに、作られるものは殆どない。卵焼きを作ろうとしても、いつのまにか激辛になっているのだ。料理人よりも、手品師になった方が良いのかもしれない。
 サンドイッチを咀嚼して、飲み込む。密かに鳴いていた腹の虫が、ひっそりと溜飲をさげるのが分かった。
「実を言うとですね」
 小悪魔の口調に、微かな緊張が混じっている。これを言いに此処まで来たのだろう。差し入れをするのは珍しいことではないが、こうして隣に座るのは今日が初めてのことだった。
 余計な茶々を入れず、黙って美鈴は小悪魔の話に耳を傾ける。
「告白するとですね、私、美鈴さんの事を疑ってたんです」
「疑う?」
「ええ。レミリア様は矜持の高い方ですから、命を狙われる事も少なくない。真正面から向かってる奴は撃退するだけで済むけれど、中には妖精メイドに紛れて潜入する奴もいる。私は最初、美鈴さんもそんな感じの妖怪だと思っていたんです」
 衣装を着せてくれた小悪魔が、そんな事を思っていたとは欠片も想像できなかった。我が子を着せ替える母親のように、微笑んでいてくれたのに。小がついているとはいえ、やはり悪魔は恐ろしい。
「だから尻尾を出したら、真っ先に始末してやろうと美鈴さんの様子を窺ってました。差し入れに来たのだって、いわば様子見みたいなものです」
 完全な善意などありはしない。人も妖怪も、打算や自己満足で動いている。それは分かっていた。しかし、だからといって密かに傷つくのを防げるはずもない。
 笑顔で尽くしてくれた子が、自分を見張る為だけに来ていてくれたのだとしたら。しかも美鈴はまだ生まれて間もない子供のようなもの。知識は人一倍にあっても、経験はそこらの妖精にも劣る。
 傷ついた表情を表に出さないことで精一杯。もしも此処で小悪魔が立ち去ったとしたら、人知れず泣いてしまうかもしれなかった。
「だけど、その疑いも晴れました。今日、ようやく」
「……どういうこと?」
 小悪魔は膝を抱え、清々しい顔で言い切る。
「だって、憎い相手の為に三ヶ月も仁王立ちなんて普通は出来ませんよ。仮にやり遂げたとしても、負の感情があるなら必ずボロが出る。確かに美鈴さんは愚痴を言ったり、不満を言ったりする事は有りました。でも、レミリア様を憎いと思うような感情は、ついぞ出ることは無かった。だから私は確信したんです。この人は、心の底からレミリア様を守りたいと思っているって」
 力説されると、逆にこちらが恥ずかしくなってくる。別に美鈴は、そこまでレミリアを慕っているわけでも、尊敬しているわけでもない。嫌いかと聞かれれば首を横に振るが、一生を賭して身を捧げるかと言われれば答えに詰まる。
 殺したいとは思わない代わりに、命を捨ててまで守りたいとも思わない。小悪魔が言うような忠臣ではないのだ、決して。
「私は、そう信じているんです」
 この笑顔は本心なのか。一度気持ちを裏切られた美鈴からしてみれば、そうそう信じられたものではない。だから小悪魔は苦笑しながら、口を開くのだった。
「今度は、私が試される番ですね」
 レミリアほどではないにしろ、自信に溢れた表情。単純思考と罵られようと、ついつい信じたくなる目をしている。
 小悪魔が美鈴を信じるのに三ヶ月かかったが、その逆は一日もいらないだろう。例え観察する為だとしても、小悪魔の差し入れは美味しく、とても温かかった。信じてくれと言われたのなら、二つ返事で頷いてしまう。
 ちなみに、後日。この事をレミリアに話してみた。
「あなた、餌付けされてるわよ」
 呆れ顔で、そう言われた。否定することも出来なかった。





 美鈴の基本的な業務は門番である。だが、たまに庭園の手入れをするようになった。
 今までは妖精メイドがやっていたのだが、どうにもメイドは適当すぎる。花壇の煉瓦はボロボロのまま放りっぱなしだし、芝の生え方もまちまち。花に至っては、生えるがままと言った感じだ。よくもまあ、あれだけ気むずかしいレミリアが怒らなかったものだと逆に感心してしまう。
 そのくせ、美鈴が手を加えるようになったら口を挟むようになったのだ。現金というか、我が儘というか。反論する気はなかったが、理不尽だとは思う。
 せめてもの救いは、庭いじり自体が楽しかったということ。自分の蒔いた種が花を咲かせた時は嬉しかったし、荒れていた庭が綺麗になるのは見ていて気持ちが良い。元が混沌のようなものから生まれた美鈴。清潔さに憧れるのは、ある意味で自分に無かったからなのではないか。
 自分ではそう思っていたが、本当のところはどうなのだろう。こればっかりは、他人に訊いたところで意味はない。
「パチュリー様? パチュリー様はいますか?」
 図書館の扉を開き、荘厳という言葉が相応しい広大な空間へと足を踏み出す。もっとも、広大と言ってもタカが知れていた。所詮は館の中なのだから、目を凝らせば端が見える。
 だから主を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
 本棚の隙間から、泥のようにはい出してくる人影。言わずと知れた図書館の主、パチュリー・ノーレッジその魔女である。
「なによ……もう……五月蠅いわね……」
 どうやら修羅場の真っ最中らしい。何をそんなに忙しいのかは知らないが、度々こうやってパチュリーは今にも死にそうなほど衰弱しているのだ。もっとも、今では慣れてしまってこれぐらいでは騒がない。
 倒れ伏すパチュリーに手を貸しながら、椅子に座らせる。小悪魔の姿が見えないのは、きっと里へ買い出しに行っているのだろう。この魔女が外に出ることは滅多に無いのだ。
「頼んでおいた肥料、そろそろ出来上がった頃かと思いまして。それを貰えるんなら、今すぐにでも出て行きますよ」
「肥料? ああ、肥料ね。出来てるから、とっとと持ってきなさい」
 花というのは難しいもので、ただ土に植えるだけでは咲かない。こまめな手入れが必要となる。肥料はその一つ。花だって生きるのだから、栄養分が無ければ枯れてしまう。生憎と里では主に農作物に肥料が回され、一般にはあまり出回っていない。
 そこで、美鈴はパチュリーにお願いしてみたのだ。肥料を作って貰えないかと。
 最初は渋っていたパチュリーだったが、出来た花を飾ると言ったら、しばし悩んで了承してくれた。本の虫と思っていたパチュリーにも、花を愛でる感情はあるらしい。いつも図書館に籠もって付き合いづらい人だと感じていたが、この一件で印象が変わった。
「どこですか?」
「隣の部屋。臭うから隔離したのよ」
 左と右、どちらか悩んだがどちらとも行けば良いだけの話。それだけの手間を惜しむほど、美鈴は短気ではない。
「分かりました、ありがとうございます」
 お礼を述べて出て行こうとしたが、雪崩の音が耳に入って足を止める。図書館に雪などあるはずがなく、当然のごとく雪崩れるのは本。音がした方を見れば、見事にパチュリーが本の下敷きとなっていた。
 埋もれた中から、むきゅー、という可愛らしい声が聞こえてくる。さすがにこれには美鈴も慌て、パチュリー様と叫びながら本をどかしていった。救出されたのは、僅か一分後のことだった。
 目を回しながら、むきゅーと不思議なうなり声をあげるパチュリー。どうしたものかと、美鈴は辺りを見渡す。このまま床に寝かせておくわけにもいかない。かといって、どこか寝させられるような場所があるわけでもない。
 となれば、残された道は一つだけ。パチュリーが起きないよう気をつけながら背負う。確か、どちらかの部屋が空き部屋になっていたはずだ。そこにはベッドがあり、パチュリーの仮眠室になっていると小悪魔から聞いたことがある。
 パチュリーは殆どをこの図書館で過ごしており、ごく稀にベッドで寝るんだとか。その時に使うものらしい。
「よっと」
 ずれ落ちそうになったのを戻し、崩れた本を避けて図書館を出た。さて、どちらの部屋に入るか。悩んだすえに、美鈴は右の扉を選択した。
 扉から漏れ出す、不思議な臭い。雨上がりの土を嗅いでいるような、到底部屋のものとは思えない臭い。美鈴は黙って扉を閉めた。そうか、肥料はこっちか。
 後でとっておこうと決め、今度は左の部屋へと入る。多少埃くさかったものの、肥料と一緒に寝るよりは良い。パチュリーをベッドに寝かせ、すぐ側にあった窓を開ける。空に浮かぶは輝く太陽。きっと今頃、レミリアは窓もない部屋ですやすやと眠っていることだろう。
 基本的に吸血鬼は夜型で、レミリアと出会うのも大抵は夜のことだった。たまには昼に会うこともある。日傘を差せば吸血鬼とて、太陽の下を歩けるらしい。もっとも、あまり好きではないようで滅多に出会うことは無いけれど。
「んん……」
 窓から入ってくる風が、パチュリーを起こした。目蓋を開き、眠そうに目を擦る。
「ここ、どこ?」
「パチュリー様の仮眠室です。本の下敷きになられたので、この部屋まで運んできました」
「ん、そう……」
 まだ寝ぼけているのか、それだけ言い残しパチュリーはまた目蓋を下ろした。魔女とはいえ、疲れるものは疲れる。何やら忙しそうにしていたけれど、こうして休みをとるのも大事なことだ。
 飲んだり喰ったりしていたとはいえ、三ヶ月仁王立ちだった美鈴の台詞ではない。だが、そういった体験をしたからこそ伝えられる言葉もあるというもの。一般的にはそれを経験と言い、経験で学ぶことを成長と呼ぶ。
 ならばきっと、美鈴は成長していた。実感はしていないが、確実に。
「小悪魔が帰ってきたら、起こすよう言っておいて……私は少し、寝るわ……」
「はい、伝えておきます」
 窓を軽く閉め、あまり風が入ってこないようにしておく。多少ならば心地よくとも、度を過ぎれば先程のように目を覚ます。何事も加減が大事なのだ。
 静かに扉を閉め、仮眠室から出た美鈴。肥料の場所は分かったことだし、早々に退散するのが一番だ。庭で作業をすれば、小悪魔が帰ってきたことも分かるだろう。
 そう思いつつも、美鈴の足は図書館へと向かう。崩れた本を直さないことには、どうにも気になるのだ。並べ方が雑で間違っていると怒られるかもしれないが、性分なのだから、これは仕方ないことと言えよう。
 目を覚ましたパチュリーは、美鈴が思っていた通りの台詞を言ってくれた。





 紅魔館で注意することなど、二つだけしかない。当主たるレミリアの機嫌を損ねないこと。そして、もう一つが地下の一角にある部屋に入らないことだった。
 図書館に通った経験もある美鈴は、何度もその部屋を目にしていた。頑丈そうな鉄の扉で阻まれ、中の様子を窺ったことはないが。噂だけは聞き及んでいる。
 何でもレミリアには妹がおり、地下室にはその妹が監禁されているんだとか。だが、妖精メイドも誰かの噂で聞いたというレベルに過ぎず、実際に目撃した者は一人もいない。確かにそれらしい食事を用意してはいるのだが、持っていくのはいつも小悪魔。地下室に入ったことすら無い者が殆どだという。
 レミリアと親しそうに見えるらしく、美鈴に地下室の事を聞くメイドが絶えなかった。無論、美鈴は何も知らないわけだが。
「関わらない方が良いわよ。世の中には、藪から龍が出る事もあるんだから」
 同じ地下におり、小悪魔の上司であるパチュリーにもそれとなく話を伺ってみたことがある。その時の返答がこれだ。どうやら、妹というのは閉じこめられるべくして閉じこめられたらしい。
 ただ、どれだけ凶暴だろうと生涯を地下室で過ごすというのはどうだろう。美鈴とて、レミリアと出会わなければ、あの道で一生を終えていたのかもしれない。あの頃の記憶は殆ど無かったけれど、少なくとも寂しいという感情だけは残滓のようにこびりついている。
 自然と、美鈴は閉じこめられた妹と自分を重ね、不憫だと思うようになっていた。そして出来ることなら、解放してあげたいとも考えていた。
 機会が巡ってきたのは、月も沈まぬ満月の日のこと。図書館に呼ばれた美鈴は、パチュリーから一つの頼み事をされた。
「小悪魔が実験の失敗に巻き込まれて、いま動ける状態じゃないの。かといって、私はあまり動きたくない。だから、あなたにお願いするわ。妹様に食事を運んであげて」
 レミリアの妹が実在することに密かな驚きを感じつつ、二つ返事で了解した。解放するにも、まずは当人が実在して、どういう状況にあるのか把握しなければならない。今にして思えば、これはレミリアの差し金だったのかもしれない。何やら意気込んでいる美鈴に、現実を見せたのだと思わなければ、あまりにも都合が良すぎる。
 しかし、この時の美鈴は何も気付かない。用意されたトーストやらジャムをトレーに載せて、禁断の地下室へと足を伸ばした。開けてはいけないと厳命されていた扉を開き、妹が閉じこめられているという地下室に入る。
 まず最初に美鈴が思ったことは、後悔だった。どうして、私はあんなにも軽はずみに了解してしまったのかと。
 そして、どうして解放しようと考えたのか。レミリアは好きで閉じこめていたのではない。閉じこめなければいけなかったのだ。部屋に入っただけなのに、美鈴は身体中を凶器で刺されているような錯覚を覚える。よほど鈍感であるか、何事にも動じない精神力を持っていない限り、初対面の者は圧倒されるだろう。
 一人で眠るには過ぎた大きさの部屋。四方を壁で覆われた中央に、天蓋付きのベッドが置かれている。白いシーツにくるまれながら、幼い少女が眠っている。宝石をあしらったような羽に、金色の髪の毛。レミリアと違う箇所も幾つかあるか、間違いなく彼女が妹なのだろう。
 眠っている姿だけなら額縁に収めても違和感は無い。見た目はあどけない少女であるのに、息を詰まらせるような圧迫感を惜しげもなく放出している。それも眠りながら。力の使い方を理解していないのか。
 鞘に収まらない抜き身の刀があるのなら、誰だって傷つかないよう大事に仕舞い込む。刀が少女だとすれば、この地下室こそがある意味では鞘のようなもの。解放することは即ち、誰かが斬られる事と等しい。
 レミリアの判断は間違っていなかった。そして、出来ることなら早く此処から脱出したかった。
 音を立てないよう慎重に、トレーをベッド脇のテーブルに置く。思ったより古びたテーブルはかなり気難しかったようで、美鈴の置き方がなっていないと不満の音を出した。四方が壁に囲まれた地下室のこと。それはそれは、よく響く。
 盛大に冷や汗を垂らし、トレーから手を離す。そして恐る恐る、ベッドの方を見た。
「あなた、誰?」
 ベッドの上に座った少女が、紅玉のような瞳を輝かせていた。咄嗟に身体は逃げようとするも、此処で背中を見せるのは殺してくれと言うようなもの。理性で身体を抑え、少女から目を離さないよう気をつける。圧迫感がこけおどしという事もあるまい。おそらくその実力はレミリアに匹敵する。
 目を逸らせば殺されると思った方が良い。自分にそう厳命する。
「ねえ、聞こえてる? 誰なの?」
 いや、そもそも物騒な方へ持っていかなければ話は早い。ここは機嫌を損ねないよう気を付け、何事も無かったかのように出て行くのが望ましい。そう決めた美鈴は、声が上ずらないよう注意しながら、レミリアから貰った名前を口にする。
「紅美鈴です。紅魔館の門番をやっています」
「門番? ふうん、お姉様そんなもの雇ってたんだあ」
 好奇心だけだった瞳に、僅かな闘争心が見え隠れし始める。答えを間違ったのかもしれない。もしも少女がバトルマニアの気があるとすれば、門番という職業に興味を抱かないはずがないのだ。料理人と言っておくべきだった。
 気構える美鈴をよそに、しかし少女は眠たげに欠伸を一つ。そしてベッドから降りて、テーブルに用意された食事へと視線を移す。
「えー、またトースト。どうせならお姉様も料理人を雇えば良かったのに」
 料理人でも危なかったかもしれない。この料理は何だと文句をつけられ、下手をすれば死んでいた可能性もあった。
「何だっけ。ええっと……美鈴?」
「は、はい!」
 突然名前を呼ばれ、姿勢を正す。
「? 何で、そんなに緊張してるの?」
 なるほど、これは厄介だ。己の出す圧迫感に気付いていない。あるいは気付いていて、どうしてこれしきで気圧されているのかと不思議がっているのか。いずれにせよ、危険人物である事に変わりはない。
「仕事柄、強い人を目の前にしたら緊張する癖がついてるんです。だから普通に話している時でも、たまに緊張してしまう事があるんですよ」
「へえ、私ってそんなに強いんだ」
 自覚していない方だったか。恐ろしい話だ。
「私が見てきた中でも……と言っても出会いは少ない方ですが、妹様は三本の指に入るほど強いですよ」
「じゃあお姉様と私だったらどっちが強い?」
「そ、それは……」
 酷な問いかけに言葉を詰まらせる。どちらも強いという答えで、果たして目の前の少女は納得してくれるのか。
 だが、だとしたらどちらが強いのか。別に変な遠慮をしているわけでもない。純粋に、どちらが上なのか判断できないだけのこと。年齢から言えばレミリアに一日の長があるのだろうけど、少女には言いしれぬ力が存在している。これがぶつかり合ってどちらが生き残るのかは、まさしく運命のみぞ知ると言ったところか。
 難しい顔で美鈴は腕を組み、真剣に答えを求めようと必死になる。割り切れない計算をしている気分だ。
「悩むってことは、同じぐらいなのかあ。そうか、お姉様と私が同じぐらいねえ。あんまり悪い気はしないけれど、やっぱり上に見られたいよねえ」
「お願いですから、実際に試そうとしないでくださいね」
 不穏な空気を察し、釘を刺しておく。釘で止まるのか、はなはだ疑問ではあるが。
「お姉様が此処に来るなら、そうしても良いんだけど。滅多に来ないからね、あいつ。私が此処を出て行くってのも……無いし」
 最後の辺りで僅かに言い淀む。少女とて、好きでこんな地下室に閉じこめられているわけではない。きっと何かしらの事情があるのだ。美鈴の知らない何かが。
 ただ、どうやらこの少女を解き放てるのは自分ではないらしい。分不相応というか、自分にはあまりにも荷が重すぎる。この荷を感じないような強者でも表れない限り、少女が解き放たれる事はない。
「まっ、いいや」
 あっさりと言い放ち、少女はトーストに齧り付く。食事を始めたのなら、もう自分が此処にいる必要はない。トレーだけを回収して、美鈴はお辞儀の後に部屋を出ようとした。
「ねえ、美鈴」
 その背中にかけられたのは、どこか甘えるような猫を思わせる声。圧迫感の主なのだと分かっていても、振り向かずにはいられない。
「暇だったら、また来てよ。あなたの目はとっても面白そうだから、あなたの見る世界を私も見たいの」
 少女の荷を降ろしてやる事はできない。そんな脇役の自分に出来ることと言えば、せいぜい会ってあげることだけ。
 最初は後悔していた。どうして、こんな部屋に入ってきてしまったのか。
 でも、今はそれほど後悔していない。力はどうであれ、少女と美鈴は結局のところ似たようなものだったから。
「はい、また来ますよ」
 少女は嬉しそうに笑い、そういえばと言葉を付け足す。
「フランドール。それが私の名前。覚えといてね、美鈴」
 地下室に閉じこめられたレミリアの妹の噂。その日から、それは美鈴の中で現実となった。
 フランドールという名前と一緒に。





 十六夜咲夜が紅魔館にやってきたのは、冬真っ盛りの十二月。庭の一角にこしらえた門番の詰め所に、コタツを導入しようかと悩んでいた頃の事だ。いつものように門番をしていた美鈴は、レミリアに言われて見窄らしい格好の女性を運んでいた。
「お嬢様」
「何?」
「誰なんです、この人」
 少なくとも、美鈴に見覚えはなかった。廃棄品のような服装から察するに、妖怪にでも襲われたのか。はたまた彷徨って行き倒れたのか。だったら素性を知るはずもないと思っていたら、あっさりとレミリアは名前を告げる。
「十六夜咲夜よ」
「……お知り合いで?」
「いえ、知らない子。名前は今決めたわ。月、綺麗でしょ」
 夜空に輝く十六夜の月。初対面なのに勝手に名前を決めていいのかとか、あまりにも安易すぎやしないかと思うことはあるが、その結果として美鈴がいるのだ。責めるわけにもいかず、黙って咲夜を紅魔館まで運んだ。
 その後の事はよく分からない。部屋に運んだところで追い出され、何があったのかは教えて貰えなかった。ただ分かっているのは、何か戦闘をしたということ。おかげで館のあちこちが破壊され、修理にかり出される羽目になった。
 大工道具を片手に、壊された箇所の修理をする毎日。別に修理好きというわけでもなく、それほど作業が楽しいとも思えない。これだったらまだ門番をやっている方が良かったなと、気付けば愚痴っていた。
「すみませんでした」
 予期せぬ謝罪にコテを取り落としそうになる。危ないからと梯子から降りてみれば、十六夜咲夜が申し訳なさそうな顔でメイド服を着ていた。さて、これは一体どういう状況なのか。理解に困り、かける言葉が見つからない。
「紅さん?」
 呼ばれ慣れていない単語に、背中がむず痒くなる。
「美鈴で良いですよ。それに、私には敬語を使う必要もありませんし」
「でも、私よりも此処が長いとお嬢様から聞きました」
「だからって先輩風を吹かせるつもりはありません。どうしても敬語を使いたいというのなら止めませんけど、堅苦しい思いをしてるのなら止めた方が良いですよ」
 ちなみに小悪魔は敬語の方が楽だと言って、今でも美鈴には敬語を使ってくる。美鈴も常に敬語みたいなものなので、おあいこと言えばおあいこだ。
 咲夜は二人とは違った人種らしい。わかりましたと頷いて、表情ごと変える。
「だったら、御言葉に甘えさせて貰うわよ美鈴」
「はい、咲夜さん」
 端から聞いたら、どちらが先輩なのか分からなくなる。だが、そもそも紅魔館に先輩も後輩も無いのだ。あるのは当主と従者の区切りだけ。敬うべきは当主たるレミリアのみであり、無理をして同じ従者を敬う必要などない。
「それで改めて言うけど、悪かったわね」
「は? 何がです?」
「だから壁よ。私とお嬢様の戦闘で壊れたんでしょ、その壁」
 どうやら咲夜は愚痴を聞いていたらしい。無視しても良かったはずなのに、何とも律儀な人である。
 美鈴は苦笑しながら、梯子に上った。
「直すのはどうってことないですよ。慣れてますから。ちょっと作業に飽きただけです」
 壁を自由に装飾しろという命令ならば喜んで手を加えた。だがこれは、ただ修理するだけ。退屈も此処に極まりというやつである。
「そう。なら、いいわ。もしも大変そうなら手伝おうかと思ったんだけど」
「これは私が一人やりますよ。咲夜さんにも他の仕事があるんでしょ? 今はそっちを優先させるべきです」
「優先させるべき仕事、ね」
 格好から考えて、咲夜はメイドとして働くことになったのだろう。その腕前は知らないが、少なくとも妖精メイドよりは役に立つはずだ。もっとも、大概の人間ならば妖精メイドより役に立つ。
 願わくば、咲夜が料理の達人であって欲しい。紅魔館の自由さは気に入っているが、食事のレパートリーが狭い事は未だに解決されていない。ここで咲夜が一石を投じてくれたなら、紅魔館生活にも華が咲くというものだ。
「そういえば、あなたって私と同じなんですって?」
「ああ、そうですね。確かに似てるかもしれません。私もお嬢様に名前をつけて貰ったくちですから。ついでに存在自体も」
「存在?」
 ええ、と美鈴は頷く。
「私は元々、妖怪の通り道に出来た混沌とした気だったんです。誰にも見えず、誰からも観測されない。でもお嬢様が運命を操って、自分と私が出会うようにしてくれた。誰かが観測してくれるのなら、私は存在としてこの世に具現化する事が出来るんです」
「つまり気体だったあなたは、お嬢様が強引に凍らせてくれたおかげで人に見えるような姿になれたってわけね」
 微妙に間違っているが、さして修正すべきような事でもない。話を続けた。
「それでもあやふやだった私の存在に、お嬢様は名前と職業をくださった。ただの気だった私は、紅魔館の門番をやっている紅美鈴になったんです」
 普通は存在があって名前がある。だが美鈴は名前があって存在が生まれたのだ。ただどうにも、その辺りが上手く咲夜には伝わらなかったようだ。無理もない。当の美鈴とて、詳しく説明しろと言われたら困る。
「難しい話は苦手だわ」
「要するに、私もお嬢様に名前をつけて貰ったうちの一人ということです」
 それで咲夜は納得してくれた。かなり端折ったが、嘘は言っていない。
「大変な目に遭ってるのは、何も私だけじゃないってことね。気が楽になったわ。ありがと、美鈴」
「別に私は何もしてませんよ」
「良いのよ、私が勝手に感謝したいだけだから。そうね……」
 言うや否や、咲夜の姿が消えた。それも忽然と。高速で動いたとか、そういった次元の話ではない。文字通り、煙のように消えたのだ。
 辺りを見渡すが、妖精メイドの姿すらない。美鈴ただ一人。勿論、どこかの影に隠れている気配もなかった。まさか咲夜は姿を消す能力でも持っているというのだろうか。レミリアが招き入れた時点で、何かしら特殊な人間だと思っていたが。まさか透明人間だったとは。
 勝手に納得し始める美鈴に、咲夜が声をかける。
「これ、良かったら食べて」
「はぇっ? えっ、ちょっ、咲夜さん!?」
 思わず間抜けが出てしまった。しかし、誰が美鈴を責められるものか。消えたと思った同僚が、突如として姿を現したのだ。本日二度目の梯子から落ちそうになるという体験を味わう。
「ああ、驚かせてしまったわね。これが私の能力なの。時間を操る能力」
「時間を……」
 透明人間ではなく、時を止めて何処かへ行っていたのか。それなら一瞬にして消えたことにも説明がつく。仕組みが分かってようやく、美鈴は咲夜が突きだしている物に気付いた。
 白いハンカチに包まれたのは、香ばしい香りの丸いクッキー。いくら達人とはいえ、これだけの短期間でクッキーを作れるはずもないのだが、そこは先程聞いた能力を思い出せばいい。時を操れるのなら、クッキーを作ることだって容易いはずだ。
「あなたの話を聞かせてくれたことと、尻ぬぐいをさせているお礼よ。焼きたてのうちに食べて頂戴」
「あ、はい」
 素直に受け取る。ハンカチ越しに温かさが感じられた。
「それじゃ、私は行くわね。メイドにはメイドの仕事があるようだし」
 クッキーを頬張るより早く、咲夜は館の中へと消えていった。今度はしっかりと、歩きながら。
 感想を言おうと思ったのに。多少残念に思いながら、ありがたくクッキーを頂く。バターの香りが口中に広がり、仄かな甘みが舌を氷のように溶かそうとする。陳腐な表現力では、到底語り尽くせない美味しさだった。
 気が付けば作業の手を止め、全てのクッキーを平らげていた。これは、夕食も非常に楽しみである。現金なもので、それが分かった途端に作業速度は格段に増した。まるで人参をぶら下げられた馬だが、悪い気はしない。
 一足先に、ぶらさげられた人参が美味しいと知ってしまったのだから。





 もう二度と来ることは無いと確信していたのに、世の中というのは分からないものである。つくづく、阿求はそう思う。
 時間をかけてやってきたのは、以前酷い目にあった妖怪の通り道。そして今回の目的も、以前と同じ岩だった。もっとも、あの時は引っ張り岩などという名前で呼ばれていたが今は別の名で呼ばれている。
 ちょうど阿求が調査を始めた辺りから岩が引っ張るような現象は治まり、変わりに季節の錯覚を覚えそうな気候の乱れが生じているらしい。今にして思えば、あの狐の嫁入りもその断片だった可能性がある。
 せっかく最終稿が書き上がったところなのに、ここへきて書き直しという羽目に。どうにも自分はあの岩と相性が良くないようだ。腹いせに危険度を極高にしてやろうかと血迷いかけたが、私情を挟んでどうなるものでもない。あくまで阿求にとって危険度というか厄介度が高いだけで、今のところ異常気象で被害を被っている者はいない。
 元々、ただの通り道であり、利用しているのも妖怪ばかりという事が大きい。その為、巫女も感づいておらず、解決に乗り出そうとする妖怪も今のところはいなかった。結構な話である。調査の最中に解決されては、また原稿の書き直しだ。
 長い時間をかけ、再び岩の所まで辿り着く。狐の嫁入りにちなんで、今は狐岩と呼ばれているらしい。
 もう濡れ鼠にはなるまいと傘を装備して挑んだ調査であったが、まさかの快晴。それも夏を思わせるような、肌着を脱ぎたくなるような暑さだ。
「水攻めの次は火責めですか。真冬だというのに……なるほど、これは異常です」
 滝のような汗を拭い、傘で日光を遮断する。少なくとも、用意したことは無駄ではなかった。
 かと思えば突風が吹き、傘が飛ばされ、快晴なのに大雨が降る。僅か十秒の間に、汗で濡れた身体が雨に濡らされる。
「あらあら、随分とやられたみたいね」
「楽しそうに言いますね、紫さん」
 同じように傘を差しているにも関わらず、紫の手にはしっかりと傘が握りしめられている。かなり適当な差し方をしているのに、雨にも風にも負けていないのは一体どういう術を使っているのか。気になるし、出来ればご相伴に預かりたい。
「ちょっと気になる噂を聞いたから来てみたのだけれど、まさか濡れ鼠に会えるとは思わなかったわ。帰路も長くて大変だろうけど、頑張って頂戴」
 思い出したくもないことを正確に抉ってくる。阿求に力があったなら、此処で殴りかかっていても不思議ではない。
 怒りを鎮め、それよりも情報収集だとばかりに頭を巡らせる。身体にしっとりと着物が張り付いてくるが、どうせこれ以上濡れることはない。一度汚れてしまえば気にならないのと同じことだ。
「噂というのは、引っ張り岩の事ですか? それとも狐岩?」
「引っ張り岩なんてどうでもいいわ。収穫も無しに帰るのは可哀想だから教えてあげるけど、あれは此処に溜まった気の流れが妖怪の足を止めていただけのこと。渦のようなものとは違うから簡単に抜け出す事が出来たし、あらかじめ分かっていれば立ち止まることも無かったけれどね」
「要するに見えない壁があったということですか。それも抜け道のある大きな壁が」
「ああ、その表現は分かりやすいわね。誰もが一度は引っかかるけれど、抜け道さえ分かれば二度目はひっかからない」
 だとすれば、今はもうその壁が無いということか。おそらく、あの阿求が調査に来る直前か前日に消えてしまったのだろう。
「引っ張り岩については分かりました。そして、紫さんが気にしているのが狐岩の方だということも」
 片方をどうでも良いと言うのならば、気にしているのはもう片方。実に単純な理だ。
 紫は否定も肯定もせず、胡散臭い笑顔を返すばかり。
「そこまでサービスする気はないわよ。此処から先は自分で調べなさい」
 残念ではあったが、元よりそこまで期待するものでもない。紫の気まぐれなど今に始まったことでもないし、楽して手に入れた情報ほど胡散臭いものは無いのだ。引っ張り岩に関してだって、あくまで参考として聞いた程度。確証がとれなければ、幻想郷縁起に加えることは難しい。
「そういえば、紅魔館に面白い子が入ったそうね」
「ああ、十六夜咲夜さんですね。私も色々と調べてるんですが、なかなかどういう人なのか分からなくて。ひょっとしたら吸血鬼ハンターなのかもしれませんね。それでレミリアさんに倒され、忠誠を誓うようになったとか」
 もっとも、阿求がそれらしいと思ってしまえば推測だろうと平気で書き加えてしまうのだが。
「そっちじゃないわ」
 紫の言葉に首を傾げる。阿求の記憶で他に該当するような人物はいなかった。後は魔女だったり妖精だったり妖怪だったりで、さほど紫が気に留めるような人妖はいない。
 駄目もとで尋ねようかと思ってみれば、いつのまにか紫は姿を消していた。紫はスキマを使い好きな所へ行けるので、距離などあって無いようなもの。これからまた時間をかけて里に戻ることを思えば、何とも羨ましい話である。
 前髪を払い、来た道に身体を向ける。岩は引っ張らなくなったというのに、阿求の身体は重かった。
「それと」
「うわっ!」
 急に背後から声をかけられ、思わず濡れた地面に尻餅をつく。普通ならばこれでお別れなのに、これだから紫という妖怪は侮れない。
「楽しそうね。まぁ、それはいいんだけど」
「よ、よくありません! もう、驚かさないでくださいよ!」
「あなたが勝手に驚いたんでしょ。私の知ったことじゃないわ」
 酷い言いぐさだが、反論しても無駄なので話を打ち切る。
「言い忘れたんだけど、この道の事は幻想郷縁起から外して欲しいの」
「は?」
 突然の申し出に、怪訝な顔になる。当たり前だ。これだけ苦労したというのに、それを結果として残すなと言うのだ。あまりにも横暴すぎる。いくら大妖怪が相手とはいえ、これには異論をぶつけてしまう。
「意味が分かりません。せめて理由を教えて貰わなくては、検討する価値もないです」
「いずれ分かる、じゃ駄目かしら?」
「駄目です」
 にべもなく断る。当たり前だ。
 紫は困ったような顔で、じゃあ、と手を叩いた。
「もしも外してくれるのなら、あなたの質問に一回だけ答えてあげるわ。どんな質問でもいいわよ」
 予期せぬ条件に、自然と唾を飲み込む。相手はそこらの妖怪ではない。大妖怪、八雲紫なのだ。それこそ、幻想郷の誕生から終わりまで見守ってもおかしくない存在。そんな彼女がどんな質問でも答えてくれるというのは、あまりにも破格の条件だ。断る理由など、どこにもない。
「本当にどんな質問でも答えてくれるんですね?」
「ええ。幻想郷縁起を見て、ちゃんと外されている事を確認したらの話だけど」
「……わかりました。今回は特例です。その代わり、ちゃんと約束は守ってくださいよ!」
「勿論。八雲紫の名に賭けて、この約束を違える事はないと誓いましょう」
 真剣な表情で紫は宣言し、再びスキマを通っていずこかへ消えていった。どうして彼女は、ここまでこんな岩に拘るのか。気になるけれど、迂闊に質問しようもならそれを約束だとされるかもしれない。
 そちらは自分で考えるとして、さて何を質問したものか。もう雨も気にならなくなった阿求は、機嫌もよく、スキップでもしそうな勢いで帰路についた。
 質問に答えるという事と、真実を教える事がイコールで結ばれない事に気付かぬまま。










 庭園で密かに栽培していた苺が収穫の時期を迎えた。景観を悪くするからとビニールハウスを小規模にしていたが、取れ立ての苺を食べたならレミリアもハウスの拡張を認めてくれるかもしれない。館と同じぐらい赤い苺を籠に入れながら、そういえばこの庭も随分と自分色に染まったものだと感慨にふける。
 初めて館に来たときは、庭としても機能していなかった。廃墟の庭園という方が呼ぶのが相応しいぐらい荒れており、誰か住んでいるのかさえ妖しい景色だった。それが人に自慢したくなるような庭にまで発展させたのだから、感動もひとしおである。
 幻想郷の方でも、この庭以上の変化があった。霧を出したり、春が来なかったり、夜が永くなったり、沢山の花が咲いたり、神様が現れたり、温泉が湧いたり。鬼や天人も姿を現すようになったというから驚きだ。
 その影響は館にも広がっている。レミリアが霧を出してからというもの、頻繁に黒い魔法使いが図書館を襲撃するようになり、その度に美鈴が酷い目に遭っている。どういう経緯があったのか知らないが、フランドールが元気になったのは素直に喜びたいところだけれど門番としての評価は滝のように真っ逆さまだ。
 あまり外に出る機会のなかったレミリアも、今ではよく神社に通っているし、天狗が取材と称して訪れることもある。パチュリーを尋ねて人形使いやワーハクタクがやってくることもあり、咲夜もまたレミリアに付き従ってあちこちへ出かける回数も増えた。
 閉じられていた紅魔館という世界に、風が吹いたようだ。もっとも、自分は何もしていない。せいぜいが巫女や魔法使いを撃退しようとして返り討ちにあったぐらいで、殆どは人づてに聞いたものばかり。天狗のように行動的になるつもりはないが、出来れば自分の目で見たいという思いはあった。もっとも、それは脇役として過ぎたる願いなのだけれども。
「あっ、美鈴さーん!」
 小悪魔の声で我に帰る。気が付けば、作業の手が止まっていた。回顧というのは真に厄介で、作業の上では邪魔にしかならないようだ。首にかけていたタオルで汗を拭き、ハウスから出て行く。
 湿度も温度も高かったハウスとは違い、外の風は冷たく気持ちいい。
「わあっ、それ苺ですか? 一つ貰えませんかね?」
「良いですよ。後であげようと思ってたんで」
「ありがとうございまーす!」
 籠からひょいと苺をつまみ、頬張る小悪魔。目を瞑り、うー、と唸って表情を明るくする。
「すっごく美味しいですね、この苺!」
「自慢の苺ですから、当然です」
 我が子のように育ててきた苺。褒められたなら、悪い気はしない。胸を張って自信満々に答える。
「後でパチュリー様にもあげたいです。あっ、そうそう。パチュリー様がしっかり魔理沙を撃退しなさいって怒ってましたよ」
「ううっ、それは申し訳ないって言っておいてください」
 いつもの事とはいえ、良心が咎める。門番なのに招かれざる客を完全に通しているのだ。レミリアがその気ならば今すぐクビにされても文句は言えない。無論、美鈴とて手を抜いているつもりはなかった。日々鍛錬は欠かさず、魔理沙を撃退できるよう目指している。
 ただ、それが実現するには時間が掛かるだけ。出来ることなら、魔理沙が寿命を迎えるまでには追い返したいところだ。
「それと、こっちが本題なんですけど。レミリア様が呼んでましたよ」
「お嬢様が?」
 まさか本当にクビを言い渡されてるのだろうか。俄に背筋が凍るけれど、何の前触れもなくそんな事をするレミリアではない。仮にクビにしようとするなら、咲夜と一騎打ちなどの条件を経てから。退屈が嫌いなお嬢様は、そういった刺激を求めているのだ。
「何でしょうねえ?」
「さあ、私には何とも。それじゃあ、確かに伝えましたから。苺、パチュリー様にもよろしくお願いしますね」
「わかりました」
 去っていく小悪魔を見送り、ハウスの入り口を封じておく。収穫の続きはまた後にした方が良さそうだ。あまりレミリアを待たしても得になることはない。
 タオルやら手袋を仕舞い込み、美鈴は館の中へと入っていた。小悪魔は何処で待っているのか言わなかったけれど、長年紅魔館に勤めている者なら大体の察しはつく。今が夜ならテラスでお茶会。そして昼なら、自室で読書だ。
 空に上るは黄色い太陽。美鈴はレミリアの自室へと向かった。
「随分と遅かったわね。また庭いじりかしら?」
「咲夜さん? 何してるんですか、こんなところで」
 レミリアの部屋の前。まるで扉を守るように仁王立ちしているのは、十六夜咲夜その人。普段ならば部屋の中で、レミリアの世話をしているはずの人物だ。
 咲夜は唇を噛みしめ、悔しげに告げる。
「お嬢様が外に出ていろと言うんだから、従うしかないでしょ」
 珍しい話もあったものだ。あのレミリアが咲夜を外で待たせるなどと。博麗神社に行った時も一緒に中まで入らせているというのに。いよいよもって、何の用なのかと不安になってくる。
 恐る恐る扉を叩き、美鈴は部屋の中へと足を踏み入れた。
「これで、ようやく話が出来るわね」
 美鈴を迎え入れてくれたのは、憮然とした面持ちで椅子に腰掛けるレミリアではなく、その向かい側で机に肘杖をつく八雲紫であった。
「何を突っ立ってるの。良いから、そこに座りなさい」
 居るはずのない妖怪に動揺し、石像のように固まっていた美鈴。レミリアのぶっきらぼうな一言で、何とか身体が動き方を思い出す。言われるがままに席に腰を降ろすものの、視線は紫から離れようとしなかった。
 そんな美鈴の動揺を見抜いている癖に、紫は弄ぶように婉曲な話を始める。
「それにしても、本当に驚いたわ。話に聞いた時は誇張も混じっていると思ったのに、まさか全て真実だったなんて。長生きするものね」
 途中から参加したには美鈴には、何のことだかさっぱり分からない。レミリアは理解しているようだが、説明するつもりはないらしく、不機嫌そうに天井を眺めている。レミリアの部屋には窓がなく、目を楽しませるものが天井の模様しかないのだ。
「あの、話が全く掴めないんですけど。私はどうして此処に呼ばれたんですか?」
 紫に聞いても無駄だろうと考え、矛先をレミリアに移す。
「知らないわよ。私だってそれを教えろって言ってるのに、こいつが美鈴が居なければ話す気は無いって言うんだもの。しかも咲夜を外に出せとか」
 珍しいと思ったら、紫の提案だったか。しかし、それでレミリアが素直に従うとは。何か弱味を握られていても、敢えて反抗するのがレミリアだと思っていたのに。どういう風の吹き回しだろうか。そちらの方が気になる。
 レミリアと美鈴の視線が集まっている事を承知しても、紫の態度は変わらない。これが大妖怪の風格というもの。そう主張しているようにも見える。
「私が壁なら穴が空くわね、この視線」
「本当に空けられたくなかったら、とっとと言うことを言って帰りなさい」
 棘を隠さぬレミリアの言葉にも怯まず、怖い怖いと馬鹿にしたような口調で苦笑を浮かべる。
「まあ、彼女を呼んだ事から大体の察しはついていると思うけど。私の話ってのはね、紅美鈴に関することよ」
 急に名前を呼ばれても、眉をひそめる事しか出来ない。八雲紫ほどの妖怪に注目されるような真似をした覚えはなかった。
「一々説明するのも面倒だから言っておくけど、私はあなたの事を知っているの。その特殊な生い立ちも、全部ね」
 研ぎ澄ますように細くなる紫の目。慧眼に射抜かれているようで、何とも居心地が悪かった。
 だが驚きはしない。紫は幻想郷でも屈指の賢者。美鈴ごとき妖怪の生い立ちぐらい、むしろ知っていない方が違和感を覚える。それに自覚はあった。自分の生まれ方が他の妖怪と微妙に異なっていることにも。
 通常は何か媒介が変化して妖怪となる。狐は妖狐となり、人が鬼に変わる。物から妖怪になる奴らとて少なくはない。気という目に見えないものを媒介にした美鈴とは、根本的に種類が異なる。
 無論、そんな妖怪が美鈴一人だけだとは思っていなかった。探せば他にいるだろう。ただ、珍しい事は確かだ。紫が気になって調べていたとしても、さして不思議がるような事ではない。
 ならば知っているからこそ、紫は何を言おうとしているのか。美鈴は自然と背筋を伸ばし、紫の話に耳を傾けた。紫は巫山戯た笑みを引っ込め、真剣な眼差しで口を開く。
「単刀直入に言いましょう。紅美鈴、あなたは死んだ方が良い」
「…………は?」
 呆気にとられる美鈴よりも早く反応したのは、天井を眺めていたレミリアだった。間抜けな声を出した時には、既にテーブルに身を乗り出し、紫の襟元を掴んでいた。
「吸血鬼というのは品格と礼儀を弁えた誇り高き種族だと思っていたのだけれど。訂正すべきなのかしら」
「相手が無粋な蛮族の場合、こちらが礼を守ってやる必要などない。従者に死ねと告げる輩が、まさか好意で迎えられるとは思ってないわよね?」
「話を聞いて貰う場合、大切なのはインパクトですわ。判断するなら、最後まで聞くべきではなくて?」
 レミリアは無言で紫を睨み付け、襟を離して席に戻った。乱れた服を整えながら、紫が仕切り直すように咳をする。
「話を続けるわよ。あなたも、良いわね?」
「あ、はい。いいです」
 考え無しに頷いてしまったが、紫の言うとおりなのだ。話は最後まで聞かなければ、何も判断することができない。
「誤解を与えるような表現だったことは謝るけど、結論であることに変わりはないわ。紅美鈴という存在は死んだ方が良い。いえ、正確には元に戻った方が良いと言うべきかしら。どちらにせよ、紅美鈴という存在は死ぬわけだけど」
「戻れと言われましても、そんな簡単に戻れるわけじゃ……」
「美鈴」
 顎で紫を指すレミリア。
「相手は紫なのよ。それぐらい、簡単な部類に入るんじゃないの?」
 確かに紫ならば、美鈴を元に戻すくらいはわけない。それを裏付けるように、紫は力強く頷いた。
「勿論、今なら出来るわよ。ただし、もうちょっと時が経っていれば無理だったでしょうね。あなたはレミリアに名前と職を与えて貰ったとはいえ、まだほんの刹那ほど不安定な存在。だけど時間が経って多くの人から認識されるようになったら、完全にそこらの妖怪と変わらなくなる。そうなれば私でも元に戻す事は不可能だわ。だって、私は境界を操る妖怪。境界が無くなってしまえば、どうする事もできない」
「残念な話ね。どうせなら、もっと遅くきてくれれば良かったのに」
 レミリアの鋭角な言葉にも怖じけず、紫は説明を続ける。
「だから戻そうと思えば、今なら戻せる。ただし、それにはあなたの了承が必要なの。いくら私だって当人が存在することを望むのに元の状態へ戻すことは出来ない。だからあなたが望むのなら、今すぐにだってあの頃に帰してあげる」
 そう言われても、はいそうですかと頷くわけにはいかない。美鈴は今の生活が気に入ったし、わざわざ元に戻るつもりなど微塵もなかった。レミリアも同じようで、馬鹿らしいとばかりに鼻を鳴らす。
「仮に最初の発言が無かったとしても、ここらで私はあなたの襟を掴んでいた」
「やっぱり野蛮なのね、吸血鬼は」
「こんなに滑稽な話を聞かされれば、吸血鬼じゃなくてもあんたの首根っこを掴みたくなる。それで、早く言いなさいよ」
 惚けたように紫は笑う。
「何のことかしら?」
「あなただって、無条件で美鈴が望むと思ってるほど馬鹿じゃないんでしょ。何か事情があって、そしてどうしても美鈴を元の状態に戻さなければならなくなった」
「ご明察。そして、ここからが本題」
 紫は笑みを崩さず、美鈴に視線を寄越した。
「狐岩って知ってるかしら?」





 偽りの月が浮かんだあの夜以来、永遠亭に訪れた事は無かった。パチュリーは薬師と何度か交流をしていたみたいだけれど、レミリアにとって永遠亭にはそれほど価値がなかったのだ。今日、この時まで。
 永遠亭は永琳の部屋。見慣れない草花や木簡がひしめく和室の中で、レミリアは正座をして向き合っていた。己の持たぬ知恵がある者達に、相談をする為に。
「ふむ、話は理解した」
 堅苦しい口調で頷くのは上白沢慧音。永琳は自分の椅子に腰掛けながら、聞いているのかいないのか分からない態度で草を煎じている。
「なるほど、八雲紫の真意がようやく分かりました。狐岩の所に居たのは、そういう事だったんですね」
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、阿求が畳を叩く。
「しかし稗田。聞いたところによると、八雲紫から質問を許されていたそうじゃないか。狐岩に関して訊かなかったのか?」
「あれは調べれば分かる類の話だと思っていましたから、別の事を尋ねました。八雲紫に年齢についてです」
「ふむ、それは興味深い話だな。で、紫は何と?」
「十七歳ですって返されました。それで私が巫山戯ないでくださいって言ったら、別に真実を教えるとは言ってないわよって。騙されたんですよ、私」
 愚痴る阿求をよそに、レミリアは永琳に向き直る。狐岩を調べていたらしい阿求と、ハクタクでもある慧音を呼びこそしたが、本命はあくまで永琳なのだ。だが永琳はまったく答えるつもりがないのか、変わらぬ姿勢で薬と向き合っている。
「稗田。それは確かに災難だが、今はレミリアの話に付きあってやるべきではないか。こうして相談してくれたわけだし」
「……そうですね。分かりました。上白沢さん、後で屋台に付きあってください」
「ああ、私で良ければ幾らでも」
 二人にも、勿論にも永琳にも。八雲紫との会話は全てあますことなく伝えてある。その上で尋ねたのだ。何か、美鈴が消えることなく事態が解決する方法はないかと。
「しかし妙だと思ってはいたんですが、まさか狐岩の異常気象が紅美鈴さんだったなんて。さすがに気づきもしませんでした」
 気の塊に名前と職を与えて妖怪に変えた。しかして、あの塊は別に不法投棄されたものではない。溜まるべくして溜まった、いわばダムのようなもの。レミリアはそれを強引に破壊して、自分の館に連れ帰ったのだ。
 決壊した気は天気に干渉し、あの岩付近では異常気象が多くなった。狐岩と呼ばれ始めたのも、ちょうど美鈴が館に来た辺りから。時期は一致する。
「あの道の中ならば問題はないのだが、影響がどんどん大きくなっているのだろう。いずれ里に来る事を考えるのならば、確かに今の内に対処しておいた方が良いのかもしれん」
 岩の近くだけで天気が変わるだけで、あの八雲紫が動くはずはない。影響は確実に広がり、今や道全体が異常気象に見舞われていた。
 だが、今ならまだ間に合う。美鈴が再び元に戻り、あの付近に止まるのなら異常気象は治まるというのだ。確かに有り得なくはない話だけれど、素直に納得することはできない。それを承知するということは、美鈴を失うということ。
 我が儘なレミリア。従者の腕一本に至るまで、失いたくはなかった。だからこうして、恥を忍んで相談に来たのだ。
 美鈴が消える以外で、何か解決する方法は無いのかと。
「ううむ……さて、どうしたものか」
「何か代用できる物があればいいんですけど、少なくとも私には思いつきませんね」
 悩む二人も、レミリアも。いつのまにか見つめているのは一人の薬師。八意永琳。
 月の頭脳にして天才。常人では考えられない発想をする彼女ならば、この難題も解決できるのではないか。誰しもがそう思っていたのだ。
 ひたすら薬を煎じていた永琳の手が、ようやく止まる。
「結論から言うと、遅すぎたわ」
 提案でもなく、意見でもない。永琳が告げたのは、時間切れという無情な現実。
「せめてあと三ヶ月ぐらいあれば、何か良い対処法が見つかったかもしれない。でも、これには制限時間がある。そして、その時はもう来てしまった。阿求」
「はい」
「博麗霊夢はもう知ってしまったのよね、この異変について」
 幻想郷に住む者なら誰もが知っている博麗の名前。この異変における時間切れの代名詞でもある。
 阿求はレミリアを気にしながら、首を縦に振った。
「紫さんが細工して伝わらないようにしていたみたいですけど、限界だったようです。博麗霊夢はこの異変を察知しました」
「そういうことよ」
 怒りで目の前が真っ赤に染まる。何も知らずのうのうと過ごしていた自分に。そして、面白半分でこの事を隠していた八雲紫に。そんな気持ちを察してか、永琳は口を開く。
「あまり八雲紫を責めない方が良いわよ。とても珍しいことだけど、今回の八雲紫はあなた達の為に動いていたんだから」
「何が!」
「だってそうでしょ。仮に時間があったとしても、それは仮の処置に過ぎない。根本的な解決には至らないのよ。やっぱりどうあっても、この異変は紅美鈴が元に戻る事で解決するもの。だから紫はギリギリまであなたに何も伝えなかった。下手に時間があったら誰だって考えるものね。別の対処法を」
 だからと言うのか。だから、敢えて霊夢が動きそうになるまで待っていたというのか。
「だが、それは妙だぞ。だとしたら、何故八雲紫は稗田を騙したりしてまで霊夢を遠ざけようとしていたのだ? 稗田に待ったをかけたのは、幻想郷縁起にあの道が載ったら霊夢が感づくかもしれないからだろう。追いつめたかったのなら、邪魔する必要など何処にもなかったはず」
 慧音の言葉に永琳が苦笑する。
「だから言ってるじゃない。今回の八雲紫はレミリア達の為に動いていたんだと。すぐに霊夢が察知したなら、あなた達の幸せな時間はもっと少なかったはずでしょ?」
「そんな馬鹿な事……あるわけないじゃない! あの八雲紫が意味もなくそんな事を!」
「そうなのよね。どうしてあなた達の為に動いたのか、それは私にも分からないのよ」
 美鈴が消える事でしか解決できないのだから、手放す判断ができるように真実をギリギリまで隠していた。だが幸せな時間をより長く過ごせるようにと、霊夢がこの事を察知するのは防いでいた。
 前者は確かに紫らしくもあるが、後者はまったくの別人としか思えない。紫が考えるのは幻想郷のことばかり。たかだか吸血鬼と門番の幸せなど、何の意味もなく願うような輩ではないのだ。
「まあ、八雲紫の真意はこの際置いておくとしても。迅速に判断しなければいけない事に間違いはないわ。霊夢が動き出せば、この異変は解決するでしょうね。今回に限っては、最悪の形で」
 美鈴が消えなければ、この異変は終わらない。だが霊夢はただ美鈴を退治するだけ。根本的な解決には全くならないのだ。
 そう説明したところで、どうせあの巫女は聞き入れない。その事は此処にいる誰もがよく知っていた。だからこそ判断しなければならない。
 美鈴が死ぬか。
 それとも霊夢に退治されるか。
 霊夢と紫にあがなって、幻想郷を見捨てるか。





 紫の言葉は寝耳に水のようなもので、衝撃は確かに受けた。もしも消えなければいけないのだとしたら、それは即ち紅魔館の皆と別れるということ。年月で見るなら長い付き合いではなかったが、精神的には竹馬の友よりも絆は固い。辛い別れになるだろう。
 驚きはしていたものの、美鈴は紫の言葉を素直に受け入れていたのだ。別に自殺願望があるわけではない。ただ、心のどこかで納得しているだけ。遊びに出た子供達が母親に呼ばれて家に帰るように、美鈴もあるべき場所へ帰らなくてはならない。
 勿論、出来ることなら此処に居たいという気持ちもある。誰だって、好きこのんで別れを経験したがる奴はいない。暴れて結果が変わるのなら、喜んで美鈴は暴れただろう。
 だけど現実は冷酷で、何をしたって変わらない時というのはあるのだ。
 霊夢に退治されるのも御免だし、挑んだところで敗れるのが必定。奇跡的に勝ったとしても、それからどうすれば良いのか。異常気象の勢いは増し、幻想郷中に広がるだろう。そうなれば幻想郷を見捨てて外の世界に行くしかない。だとしたら、そんな選択肢は御免だ。紅魔館と同じぐらい、美鈴は幻想郷を愛していた。
 残る選択肢はただ一つ。そして、きっとそれが最善の答え。
 崇高な自己犠牲と言えば聞こえはいいが、結局は自分の不始末を自分で解決するだけの話。美鈴が美鈴にならなかったら、そもそもこんな異変は起こらなかった。
 だけど、美鈴は後悔していない。僅かな間だけだったとはいえ、一生を楽しむことが出来たのだ。束の間の夢にしては、あまりにも豪華すぎる。失いたくない者と同じ数の、持っていて良かったものができた。
 屋根を踏みしめる音がする。寝そべっていた美鈴は、それでようやく身体を起こす。
「……これは」
 予期せぬ人物の来訪に、思わず言葉を失った。月を背景に佇むのは、紅魔館の主、レミリア・スカーレット。美鈴が絶対に此処へは来ないだろうと予想した吸血鬼だ。
 レミリアは無言で屋根を歩き、美鈴からちょっと離れた場所に座り込んだ。
「ちょっとだけ、探したわよ」
 微かに責めるような口調。屋根にのぼったのはこれが初めてで、確かに探しにくかったかもしれない。
「すいません。でも、気持ちいいとは思いませんか?」
「そうね。確かに気持ちいいわ」
「出来ることなら、もっと早く上っておけば良かったです。たった一度だけしか味わえないなんて、残念だなあ」
 夜風が吹く。ばらつく前髪を整え、落ちかけた帽子を押さえた。
「やっぱり、行くのね」
 咎める口調ではないものの、こちらを向く視線は厳しい。つまらない用件だったら、あっさりと決意を翻してしまうだろう。
 美鈴は頷き、膝を抱える。
「覆水なら盆に返らない。けれど私は、水ではなく気。戻せる人がいるのなら、素直に戻った方が良いんです」
「私が行くなと命令しても?」
 目を丸くしながら、レミリアの真剣な表情を見つめる。温かい言葉より何よりも、その一言が美鈴には嬉しかった。
 別れたくないと、暗にレミリアは言っているのだ。矜持が高いゆえに、それを素直に言わないのはらしい。
「はい。例えお嬢様の命令だったとしても、今回だけは駄目です」
「そう。勝手に私の元を離れていくのは腹立たしいけど、あなたが決めたというのなら仕方がないわね。どこへでも行きなさい」
 突き放すような言葉を言われても、心はまったく痛まない。レミリアの本心を垣間見てしまったから、上辺だけの冷酷な言葉は美鈴には届かなかった。
「……私に怒りを覚えたかしら?」
「え?」
 何の前触れもなく、意味のわからない事を言われ動揺する美鈴。レミリアはそっぽを向きながら、恐る恐るといった風に尋ねる。
「私があなたを存在させた事、怒ってないかしらと聞いたのよ」
「怒る事なんて何もありませんよ。別れが辛いということは、それだけ親しい人達がいるということ。悲しくはありますが、怒ることなんてどこにもありません。むしろ、感謝しています。ただの塊で終わるはずだった私に、こんなにも楽しい時間を与えてくださったお嬢様に」
 本心からの言葉をぶつけても、レミリアは素っ気ない。
「なら、いいわ」
 それだけ答えて、屋根に視線を降ろした。目を拭うような動作については、何も言わない方が良いだろう。美鈴だって、似たようなことをしていたのだから。おあいこだ。





 紫が迎えに来るまでに、美鈴は紅魔館を回ることにした。
 時刻はまだ夜。宵の口といったところにも関わらず、門の所には小悪魔の姿があった。待ち人いまだに来ずといった感じで、門にもたれかかりながら誰かを待っている。誰か。自惚れかもしれないが、この状況では間違いなく自分だろう。
 はたして、小悪魔は美鈴の姿を見るや否や駆け寄ってきた。そして、そのままの勢いで抱きつかれる。
「うう……美鈴さぁん……」
 涙と鼻水で胸のあたりが濡れていた。だが今日だけは文句も言えない。自分の為に流してくれたのだから。
「悲しいです。私、とても悲しいです!」
「いやあ、小悪魔さんにそう言って貰えると嬉しいですよ。なにせ、最初は疑われてましたからね、私」
 一方通行だった信頼が、時間をかけて双方向に開通した。そういった意味では、小悪魔との仲が一番深まったと言えるのかもしれない。紅魔館の中でただ一人、美鈴を敵視していたのは彼女だけだ。
「あの頃は、私が馬鹿だったんです。だから後悔してます。もっともっと早く、美鈴さんを信頼してれば、過ごせる時間が増えたのにって」
「差し入れを毎晩持ってきてくれて、嬉しかったですよ」
「うぅ……美鈴さぁん!」
 感極まったのか、また胸の中で小悪魔がまた涙を流す。不覚にもまた涙腺が緩みかけたが、何とか堪えた。泣きながらの別れよりも、笑いながらの別れの方が美鈴は好きだった。
「私、絶対に会いに行きますから! 毎日、美鈴さんが居るところに行きますから!」
 ぐしゃぐしゃの顔で、小悪魔が叫ぶ。ちょっとだけ目を閉じて、美鈴も頷いた。
「私も、小悪魔さんをずっと見ています。だって、大事な大事な親友ですからね」
 それから小悪魔は三十分間、美鈴に泣き縋っていた。



 庭で摘んだ花を花瓶に生けて、パチュリーの図書館へと足を向ける。苺は小悪魔に頼んで、適度な時期に収穫して貰うこととなった。来年もきっと実らせるよう頑張りますと、小悪魔は意気込んでいた。
 花瓶を持ったまま扉を開き、広大な図書館へと踏み出す。咲夜が来てからというもの、図書館の面積は信じられないぐらいに広くなっていた。それこそ、どうやって館の中に収まっているのかと疑うぐらいに。
 おかげでパチュリーを探すのにも一苦労である。今日は、入り口のところで読書をしていてくれたから助かったものの、たまに最奥で資料の整理などしていた時はあやうく遭難しかけた程である。
「パチュリー様」
 声をかけても、パチュリーは顔をあげない。仕方なく、美鈴はテーブルの上に花瓶を置く。
 それでようやく、目だけが花瓶を向いた。
「お花、ここに置いておきますね」
 庭が花を咲かすようになってからというのも、美鈴は毎日のように図書館へ花を届けていた。小悪魔は素直にありがとうと言ってくれたが、パチュリーは感謝も否定もしない。花瓶を置く美鈴を、いつだって感情の読めない瞳で見つめていた。
 ひょっとしたらという思いはあったが、どうやら今日もそれは変わらないらしい。パチュリーとって所詮美鈴は、ただの門番でしかなかったということか。寂しい気持ちもあるが、それを口に出したりはしない。
 頭を下げてから、図書館を出ようとする。その間際。
「美鈴」
 名前を呼ばれ、足を止める。振り返ったところでパチュリーは顔をあげず、本に視線を向けたままだが、言葉の矛先は確かに美鈴に向けられていた。
「はっきり言って、あなたは門番として最悪よ」
 辛辣な一言に身体が強ばる。
「霊夢は通す、魔理沙は通す、しかも魔理沙は頻繁に通す。それでいて職務中に寝るし、やる気がないとしか思えない」
 全てが全て、反論できない事実だった。美鈴の口から出せる言葉など、すいません、の謝罪しかない。
「ゆえに、門番としてのあなたに点数をつけるのなら0点」
 突き刺さるように一言に、違った意味で涙がこぼれそうになる。パチュリーは言葉を休めることもなく、本を閉じた。
「ただし」
 花に触りながら、無表情のままで。
「庭師としてのあなたは、103点」



 別れだと告げても、フランドールは笑顔を崩すことはなかった。
「ねえ、お姉様は泣いた? 泣いたでしょ?」
 ベッドに寝そべりながら、そんな事を聞いてくる。どう答えものか悩み、とりあえず誤魔化すことに決めた。迂闊な事を言って、最後に恨みを買うのは避けたい。
「どうでしょう。顔を見たわけじゃないので、よく分かりませんでした」
「ふーん、絶対に泣いてたと思うんだけどなあ。お姉様」
 無邪気な顔で断言する。そして今度は、覗き込むように美鈴の顔を見上げた。
「私は泣かないよ」
 虚をつかれたように唇を結む。不思議がってはいたが、それを口に出すような真似はしていない。
「美鈴と別れるのは悲しいよ。でもね、これで今生の別れってわけじゃないもん」
「え?」
「だってそうでしょ。孤独だった私だって、今はもう寂しくない。まだ完璧に解放されたわけじゃないけど、いつかは自由に外を出歩けるようになるよ。だから美鈴だって、きっといつかまた会える。違う?」
 別れを惜しむわけじゃなく、また会える事を願っている。だからフランドールは泣かなかった。美鈴とて、これが今生の別れになると思っていたのに。ただ一人だけ、フランドールは信じていた。
 気が触れていると周りは言うけれど、あるいはこの少女こそが紅魔館で一番聡いのかもしれない。そんな事を思った。
「だからね、私はさよならなんて言わないよ。また美鈴の話を聞いて、あなたの見る世界を共有したいから」
 子供のようにあどけない顔で、フランドールは言う。
「またね、美鈴」
 だから美鈴も笑って答える。
 また会いましょう、妹様と。



 フランドールはまた会えるかもしれないと言った。それに間違いはなく、確かにいつかは会えるかもしれない。だが、咲夜に限ってみればその可能性は限りなく低い。
 咲夜は人間。妖怪などとは寿命が違うし、脆さも違う。美鈴が再び幻想郷に戻ったところで、咲夜や霊夢はもういないかもしれないのだ。
 無論、会える可能性とて零ではない。だが、咲夜はそんな事を期待していないだろう。僅かな望みに縋るより、きっぱりと別れてしまう事を選ぶ人なのだ。十六夜咲夜という女性は。
 地下室から出てきた美鈴を迎えたのは、憮然とした表情の咲夜だった。
「紫が待ってるわよ。早く行きなさい」
 素っ気ない言葉。
「それと、お嬢様は見送りには来ないそうよ。もう、別れは済ましたから」
 事務的な態度。
 それでも美鈴は気分を害した様子もなく、丁寧に頭を下げるのだった。
「ありがとうございます、咲夜さん」
 顔を上げたとき、咲夜は無表情のままで美鈴を真正面から見ていた。
「私はね、何が嫌いかって出会いが嫌いなのよ。出会えば出会った分だけ別れがある。陳腐な言い草かもしれないけど、だったら出会わなければ別れも無いわけでしょ。だから私は誰とも出会いたくなかったし、出会っても親しくするつもりはなかった。ここでの生活だって、事務的にやろうと努めていたわけよ」
 だから最初、敬語であったり名字を呼ぼうとしていたわけか。
「だけど私はそれほど強くないから、優しくされたら断ることもできないの。お嬢様は私を信頼してくださるし、パチュリー様や妹様や小悪魔も、私を大事に思ってくれる。それになにより、あなたは私を大切に思ってくれるじゃない。まったく、おかげで別れるのがこんなにも辛い」
 表情は変わらない。だけど、震える言葉は如実に咲夜の気持ちを表していた。
「もしもあなたが私に優しくしてくれなかったら、きっと此処での生活は変わっていた。クッキーを作ってあげることもなかったでしょうね」
 そういえば、と思い出す。確か最初に会った時、咲夜は時間を止めてまで美鈴の為にクッキーを焼いてくれたのだ。それが美味しくて、いたく感激したことを覚えている。
「私が紅魔館に愛着をもてるのは、半分がお嬢様のおかげで。そしてもう半分は、美鈴。あなたのおかげよ。ありがとう」
 咲夜は微笑み、そのまま告げる。
「そして、さようなら」
 レミリアの時はちょっとだけ泣いた。出来ることなら泣くまいと、心に決めていたから耐えられた。
 でも、もう駄目だ。小悪魔の時とは、状況が真逆する。
 美鈴の涙腺は崩壊し、それを見られないよう咲夜の胸に顔を押しつける。言葉にならない声をあげ、それをあやすように咲夜は美鈴の頭を撫でた。
 溜まっていたものがあるとすれば全て、咲夜のおかげで吐き出せた。感謝の言葉は美鈴が述べるべき台詞である。
 そして、別れの言葉も。





 門の所にいたのは、八雲紫ただ一人だけ。
 小悪魔はまた泣いてしまうからと遠慮し、パチュリーは言うことがないと図書館に籠もり、フランドールはまた会えるからと地下室で待ち、咲夜は別れなら済ませたとばかりに姿を消した。そしてレミリアは来ないと言う。
 なんとも寂しい出発にも見えるが、美鈴の心は満たされていた。例え此処にいなくとも、自分がどれほど大切に思われているのか分かったから。寂しいなんて思えるはずがない。
 そんな気持ちを察してか、誰もいない事に紫は何も言わなかった。代わりに傘を傾けながら、
「行きましょうか」
 とだけ告げる。美鈴は頷き、紫に付き従って歩き出す。
 静かな夜。先頭を行く紫は一言も喋らず、虫たちの鳴き声も聞こえない。
 居心地が悪かったではないが、ふと美鈴は疑問に思っていた事を口から出した。
「紫さんは、どうして私たちにこんなにも良くしてくださるんですか?」
 歩みを止めることなく、振り返ることなく、紫は言った。
「別に良くしてるつもりはないわよ。異変を解決しなければ、迷惑を被るのは私も同じ。幻想郷を守る為であって、別にあなたに良くした覚えは無いわ」
 それは確かにそうなのだろう。だが、それだけが答えであるはずがない。
 幻想郷を守る為だとしたら、どうして美鈴に時間を与えたのか。その事に説明がつかないのだ。
 もっとも、素直に教えてくれるわけもない。美鈴はいわば当事者。八雲紫に限って、秘密を当事者に漏らすような真似はしないだろう。
 疑問を置いて消えるのは心残りだが、こればっかりはどうにか出来るものではなかった。
 再び沈黙に包まれた二人は、そのまま妖怪だけしか知らない道へと入っていく。異常気象が頻発している割に、今は変わらず快晴のままだ。もしも天気にも意志があるとすれば、さしずめ空気を読んでくれたということか。
 なんにしろ、雨の中を歩かなくて済むのは助かる。そのまま二人は歩き続け、やがて目当ての岩が見えてきた。考えてみれば、美鈴は紅魔館に行ってからというもの、全く此処に戻ってこなかった。
 だからだろうか。郷愁にも似た思いを感じるのは。
「感慨にふけるのは結構だけれど、手早く済ませるわよ。制限時間はもうとっくの昔に切れているんだから」
「わ、わかりました。それで、私はどうすればいいんですか?」
「とりあえず、そこの岩の上に座って頂戴。後は私が……」
 突然、紫が言葉を途切れさせた。岩の上に座りながら、美鈴は首を傾げる。何か不味いことでもしてしまったのか。
 しかしそんな考えを否定するように、紫はいま来た道に視線を戻す。
「思ったより早かったわね」
 苦渋を舐めるかのような紫の顔で、美鈴は察した。
 博麗霊夢が、すぐそこまで来ているのだ。
「間に合わないんですか?」
「そんなにすぐ出来るものじゃないし、どう考えても霊夢が此処に着く方が早い」
 仕方ないわね、と紫は傘を握り直した。
「帰ってくれるかどうかは分からないけど、やってみるしかないようね」
 暗い夜道の向こう。霊夢の姿は、まだ見えない。



 夜空を飛ぶ博麗の巫女。このままの調子で飛び続ければ、あと一分もしないうちに目的地まで辿り着く。そこには異変の元凶である美鈴がおり、霊夢の使命は彼女は倒すことにあった。
 無論、倒すといってもただ倒すわけではない。今回ばかりは美鈴を消滅させなければ、異変は解決しないのだ。少なくとも、霊夢はそう思っていた。
 さあ、あともう少し。もう少しで美鈴を捉えられると確信したところで、霊夢は止まる。
 空から落ちてきたのは、赤い槍。地面を抉るようにして突き立った槍は、霧のように姿を消した。
「博麗とは白であり、零である。全てを無に返す、幻想郷の理」
 幾匹ものコウモリが集まり、形を作る。
 見慣れた形だ。紅魔館でよく見かける。
「巫女は大人しく、神社でお茶でも啜ってなさい」
 問答無用とばかりに張られる弾幕。その間隙を縫って、赤い槍も飛んでくる。そのいずれも、当たればタダでは済まないだろう。
 以前、霧を出した時にもこうして戦ったことがあるが、今日ほどの必死さはなかった。
 今のレミリアは本気。だとしたら、こちらも油断するわけにはいかない。
 お札を取り出し、レミリアに向き合う。ボムの準備も万端だ。
「せっかく私が紅く染め上げた従者を、無粋な白で塗りつぶされてたまるもんですか!」



 闇を睨み付けていた紫が、ふと傘を畳む。
「どうやら、私の出る幕じゃないようね」
 霊夢に何かあったのか。訝しがる美鈴をよそに、紫は着々と準備を始めた。といっても、ただ美鈴の額に指を当てるだけの準備だが。
「あの、何があったんですか?」
「あなたの主が足止めしてくれてるみたい」
「お嬢様が!?」
 美鈴は目を丸くする。
「まぁ、霊夢相手にどこまで保つか分からないけど。この時間を無駄にするわけにはいかないわ」
 そう言って、紫は目を閉じて精神集中を始める。何も言われずとも、邪魔してはいけないという雰囲気を感じ取れた。
 それに、美鈴は何か言えるような状態ではない。
 嬉しかったのだ。レミリアが自分のような門番の為に、霊夢と戦ってくれていることが。最後の最後ぐらいは絶対に泣くまいと決めていたのに、まったく紅魔館の面々は思ったことをさせてくれない。
 苦笑しながら、涙を拭った。
 例え元に戻ったとしても、この気持ちを失うことはない。いつかまた会える日が来ることを祈って、その時まで大事に持ち続ける。
 そう心に決めた瞬間。
 紅美鈴という存在は、この世から完全に消えてなくなった。
















 人通りの途絶えた妖怪の道。かつては異常な天気に翻弄されていたこの道も、今では何事もなく平穏な毎日を送っている。ただ一つだけ違いがあるとすれば、道の途中に祠が出来たことぐらいか。
 霊夢も早苗も知らない、何を祭っているのかも不明な祠。ただ、一部の人妖だけが真実を知っていた。
 その人妖によって毎日のようにお供えが置かれ、ある者は雨が降ろうと雪が降ろうと足しげく通っているという。どうしてそこまでするのか、尋ねられても答えてくれる者はいない。ただ、あの祠はとても大事なものなのだと答えるばかり。
 早苗なんかは新しいライバルの出現かと危惧していたが、勘違いも甚だしい。祭られているのは妖怪で、しかもその妖怪を信仰している者など一人もいなかった。ある者は友情の為、ある者は見守るように、その祠に通っているのだ。
 しかもどういうわけか、その祠は八雲紫が立てたものだという。天狗にしろ鬼にしろ河童にしろ、そう易々と八雲紫に喧嘩を売るようなマネはしない。だからその祠は誰にも破壊されることがなく、長き日を過ごすことが出来たのだ。
 日課であるお参りを終えて、小悪魔が帰っていく。彼女と入れ替わるようにして、滅多に此処へ寄りつかない吸血鬼が空から降りてきた。
「久しぶりね、美鈴」
 開けてはいけないとされる扉を開き、中の帽子を確かめる。咲夜あたりが手入れをしているのか、風雨にさらされても帽子はあの日のまま綺麗な状態で置かれていた。
 祠が出来て以来、此処へ来るのは二回目のこと。一回目は祠が出来た時だから、実質的にはこれが一回目の訪問ということになる。別に避けてはいたわけではないが、何となく寄りづらかったのは事実だ。
 ある事が分かり、それを報告をしなければ思い来たのだが、それがただの切っ掛けでしかない事はよく分かっている。
「ようやく分かったわよ、紫があなたに時間を与えた理由が」
 それとなく、時には大胆に。レミリアはその理由を探った。そうして見つけ出した答えは、何でもないただの親切。八雲紫だからとフィルターをかけていたが、別にあの妖怪だって終始人を困らせているわけではない。
「あなたはとても不安定な存在だった。だから私は美鈴という名と門番という職業を与えたんだけれど、もしもあのまま放っておいたら。あなたは八雲紫のようなスキマ妖怪になっていたのかもしれない」
 俄には信じがたいが、そうなるには膨大な時間が必要だという。それに一度名を与えられてしまっては、例え時間をかけたところでもうスキマ妖怪にはなれないのだと聞いた。もっとも、どこまで本当かは疑わしい限りだが。
「要するに、あいつにとってあなたは後輩になるかもしれない存在だった。だからやたらと、あなたに良くしようとしてたのね」
 生死に関わるほどの酒を飲ませ、酔わせたところでやっと聞き出せた本心。レミリアが美鈴にしなければ、未来の世界でレミリアの立ち位置に紫がいたのかもしれない。そう思えば、何となく彼女の気持ちも理解できる。
 もしもレミリアが紫だったとしたら、せめて幸せな時間を多く過ごして欲しいと願うだろう。いや、レミリアの場合は自分も過ごしたいと願うから見守るような真似はしない。そこがレミリアと紫の大きな違いだった。
「ねえ、美鈴」
 他人が幸せであるだけでなく、自分も幸せでありたいと願うレミリア。我が儘だと言われても、これを改めるつもりはない。
 だとしたら、こんな状況を放っておくような吸血鬼ではなかった。
「紫や永琳は諦めたようだけど、私はまだ諦めてないのよ。あなたがあなたであり、それでいて此処が安定するという未来を」
 今のところ、レミリアの能力を使ってもそんな運命は見つからないし作れない。運命といっても、理を無視することはできないのだ。事故で死ぬ未来を回避できても、寿命で死ぬ未来は不可避。
 美鈴を再び存在させるのは、それほど難しいことではない。これだけの人妖に思われているのだ。その気になれば、今すぐでも復活させることができる。そういう運命は、確かにあった。
 だが、それでは二の舞だ。レミリアが願うのは、美鈴がいて、それが誰の邪魔にもならないこと。出来ることなら、咲夜がまだ存命の間に成し遂げたい。美鈴が蘇ったのはいいが、咲夜だけがいないなんて悲しすぎる。
 またしても用意された制限時間。しかし、今度は自分もちゃんと知っている。だから何か出来るはずだと、今日も今日とて幻想郷を飛び回っていた。
「私はね、あなたが思ってるより子供なの。そして我が儘。だから一度手に入れたものは、手放したくないの」
 こんなこと、当人の前では言えない。もしも蘇ったとして、この独白を覚えていたとしたら確実に記憶が消えるまで殴る。何とも迷惑な話だが、それでこそレミリアだと美鈴は笑うだろう。
「私が言えた台詞じゃないけど、運命なんてものは紙みたいに薄っぺらいもの。だから簡単に破れるし、曲がる」
 それを知っているからこそ、レミリアは見ようとしなかった。紅美鈴を存在させたところで、どのような運命が待っているのかを。どんな未来だろうと、運命はあっさりと覆されるのだから。
 もしも見ていれば違った未来があったかもしれない。だが、それは後の祭り。今更気付いて遅いし、それで改めるべきところもない。
 帽子を指さし、レミリアは宣言した。
「だから見ていなさい。またあなたを見つけて、紅く染めてあげる。レミリア・スカーレットはそれぐらい執念深いのよ」
 言いたいことは全て言った。また次に来るときはきっと、再開の時。それまでは、小悪魔や咲夜に任せておこう。こまめに通うのは、レミリアの性に合わなかった。
 扉を閉めて、背を向ける。
「それじゃあね、紅美鈴」
 無色透明な彼女は、何も言わずに去りゆく主を見つめていた。
 紫にも白にも染まることがなく、ただ紅く染まることを夢見ながら。
 美鈴はその時を待っていた。
 
 
 
八重結界
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作品情報
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投稿日時:
2009/05/09 22:13:58
更新日時:
2009/05/09 22:13:58
評価:
21/22
POINT:
149
Rate:
1.58
1. 5 パレット ■2009/05/18 00:39:42
美鈴の始まりから、とりあえずの終わりまで。全体的にしんみりとした文章が良かったです。
2. -1 名前が無い程度の能力 ■2009/05/18 13:27:37
こりゃまた凄い独自解釈ですねえ
3. 8 三文字 ■2009/05/19 00:49:10
美鈴ほど多様な出自があるキャラはいないんですよねぇ。
実は龍の化身だったとか、鈴の妖怪だとか、門の妖怪だとか、元人間説、キョンシー説、スカーレット家の遠縁説なんてのもあったり。
まあ、全部二次設定ですけど……でも、同人が盛んな東方ならではのキャラだと思います。
そんな美鈴への思いや、紅魔館組への愛が詰まった作品でした。
4. 10 ■2009/05/20 22:28:25
満点。こういう温かい話、かなり好みです。
紅魔館の面々のいい人っぷりに感動しました。別れのシーン、特にパチュリーの台詞はグッときました。最高です。
この作品を読むことができて本当によかったです。ありがとうございました。
5. 10 ユッキー ■2009/05/25 22:27:07
よもや美鈴の話で泣かされるとは・・・
本気で泣くくらい悲しいけれど、それでも決して不幸ではなかったなぁと

いいもの読ませていただきました。
6. 9 神鋼 ■2009/05/29 18:46:52
もう最初から最後までお嬢様がカッコよくて仕方ありませんでした。
話の長さに対して流れの匙加減が丁度良く、非常に一貫とした作品でコース料理のような雰囲気でした。御馳走様です。
7. 7 As ■2009/06/01 01:43:44
美鈴……(ノД`)
8. 7 佐藤厚志 ■2009/06/02 05:43:36
悲しいけれども、未来はまだあるんだ、と読み終わってちょっと安心してしまいました。
まるで雪の日に食べる雪見大福のように、やさしい小説でありました。
9. 7 気の所為 ■2009/06/02 22:22:40
別れの挨拶回りにグッと来た。
ストーリーとしてはある意味ベタだけどそれを気にさせない上手さを感じました。
お嬢様は本当に我が儘だな!
10. 7 有文 ■2009/06/08 00:53:40
爽やかで読後感の良い作品でした。いつか戻ってくると信じるお嬢様が格好良くて素敵でした。
11. 9 ふじむらりゅう ■2009/06/11 00:53:44
 だめだわ……泣いてしまった。悔しい。
 ベタだし、こういうのに弱いのは前からなんですけど、特に最後のレミリアの台詞がね、レミリアらしくてね、辛抱たまらん。震えが来ました。我慢してたんですけど。
 欲をいえば、フランと咲夜さんのエピソードをもうひとつずつくらい挟んでると更に深みを増したかな、と思わんでも。
12. 6 so ■2009/06/11 07:29:52
筆主様の解釈が面白いです。
こういう切り口でくるとは、と思いました。

ただ、物語の中身に関してですが、美鈴の決意があっさりし過ぎていたかなあと感じました。
消えるか否かの選択なのだから、もう少し苦悩させてもいいのでは、と思いました。
13. 7 読人 ■2009/06/12 00:57:53
これは美鈴の新解釈ですね。
なんの妖怪だかわからない美鈴だけあってこういう設定も面白かったです。
美鈴は消えてしまうラストでしたが未来に希望を残すような終わり方でホッとしました。
14. 7 ぴぃ ■2009/06/12 04:30:26
どういったらいいんでしょう。何というか、全体的に色が薄い。お題のことではなくて。
ひょっとしたら作者様の文体は、書くストーリーを選ぶのかもしれません。
そう感じるのは私だけかもしれませんが、なぜか乾いた雰囲気があるというか。
いい話なはずなんですが、それでちょっと違和感があったかな……と。ごめんなさい。
15. 9 moki ■2009/06/12 18:56:33
淡々と抑えて綴られた文章が、なんとも物語に合っていて味わい深い。着眼点も面白いし安易なハッピーエンドで終わらないのも好感が持てました(ハッピーエンドも好きですけど)。
ただ語り手の位置がどこにあるのか少し引っかかりました。一人称的な内面描写があるのに神視点があったりと。一人称的な内面描写をなくして、全てが終わった時点での過去語りという風にすると、更に内容にあった文章になったのではないかなぁと思います。
16. 10 木村圭 ■2009/06/12 21:48:44
冒頭から文章の上手さが感じられてこれは期待できるぞ、とか思いましたがここまで見事に裏切られるとは思わなかった。
ずっとお腹にきゅーっと力が入りっぱなし。自分のことながら意味が分かりませんが、心の中に留めておくにはあまりに強すぎる衝撃を少しずつ外に出していたとかそんな感じでしょう多分。
そうでもしなけりゃ読み進められなかった。そうまでしてでも読み進めたかった。訪れたひとまずの結末は大団円とはいかなかったけど、いつか訪れる(に決まっている!)それに想いを馳せるのもまた一興というものです。
素晴らしい作品を本当にありがとうございました。残りを読まずしてナンバーワンを確定できるケタ違いの作品に出会えることがこんぺの最大の楽しみだと改めて思う今日この時。
17. 6 時計屋 ■2009/06/12 22:58:42
 実にしんみりとするSSです。
 別離を描きながら必要以上に湿っぽくならないところが特に良かった。
 最初はお題薄いかなあ、と思っていたのですが、最後のお嬢様の台詞を読んで納得しました。そういうことも含めて、綺麗な終わり方でした。
 ただ、紅魔館組全員との出会いや親交を書こうとしたためか、全体的な密度が薄く、冗長な感じも受けました。いくつかのエピソードは省かれていてもこのお話は成立しているようにも思えます。話をレミリアとの主従の関係を描くことに絞り、他の面々は脇役程度に抑えたほうが、よりすっきりまとまったのではないでしょうか?
 文章は基本的には丁寧で、うまい表現も散見されたんですが、逆に荒い部分も目に付きました。
 
 個人的には良作まであと一歩といった印象で、もったいなく感じました。
18. 2 ハバネロ ■2009/06/12 23:04:09
面白くないわけじゃなく、文章も多少の読みにくさはあるが整然としている。
が、
設定ありきで進んでいる所があり、どうにも前半が蛇足に見えてしまう

紅魔館を動かすのは難しいねぇ
19. 7 つくし ■2009/06/12 23:08:50
申し訳ありません、時間が差し迫っているため、採点のみにて、感想本文は後ほど改めて。
20. 10 名前が無い程度の能力 ■2009/06/12 23:22:41
レミリアに惚れた。
すげぇ!
21. 7 K.M ■2009/06/12 23:27:26
さようならは要りませんね。See you again.
22. フリーレス 出遅れ人 ■2011/05/10 21:34:36
ああ無色透明ってのはそういうことか……
面白い解釈だったし、何より一連のストーリーに感動しました
もう1年以上前のssだけど読めて良かった
レミリアが再びその祠の前に立つ日を楽しみにしておこう
心の中で点数は入れておきますね
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