レイニーデイズ/レインボウデイズ

作品集: 最新 投稿日時: 2009/11/12 08:06:17 更新日時: 2009/11/12 08:06:17 評価: 23/27 POINT: 166 Rate: 1.59
 




       1


 冷たい雨が鈍色の空からしとしと、しとしとと降り注いでいました。
 息の詰まりそうな昏い空から、静謐にリズムを刻む雫。濡れる庭の木々や花と、遠くに見える街並み。窓枠に四角く切り取られたそんな光景から、私は目を逸らすように机に向かっていました。
 しんとした屋敷の中に、がたがた、がたがたと、風が窓枠を揺らす音だけが響いていました。それは微かな音のはずなのですが、私にはひどく耳障りだったのを覚えています。

 ――こんなに、この家は静かなはずはなかったのに。

 考えても詮無いことではありました。無力な少女でしかなかった私には、どうすることもできない類のことでありましたから。
 だから私は、そんな考えを振り払うように、机に散らばった五線譜を指でなぞっていました。
 五線譜に記された旋律を、頭の中だけで口ずさんでみると、いっそう屋敷の中の静寂が際だったような気がして、尚更寂しい心持ちになりました。
 雨は止むことなく、窓を打ち据えて濡らしています。

 ――あれから、いつも雨が降っている。

 いいえ、そんなはずはないのでしょう。私から全てが失われた日から、既に幾月もが過ぎていたはずですから、その間ずっと外が雨だったはずはないのです。
 雨が降っていたとすれば、それは私の心の中でした。
 陳腐な言い回しですが、私はあれ以来ずっと、孤独の雨に濡れ続けていたのです。

 ――どうして。

 何万回と繰り返した問いは、ただ虚ろに静寂の中に消えていきます。
 五線譜をなぞっていた指が、その隅に描かれた落書きに辿り着いて、私はまた息を吐き出します。慨嘆と諦観の吐息を。
 その落書きは、あれから私が繰り返し描いたもの。
 稚拙な四つの笑顔。この屋敷にあるべきで、あり続けるはずだったものでした。
 あの日まで、私は何も知らぬ童子のように、無邪気にそれを信じていたのです。
 その愚かさは、けれど責められるべきではないのでしょう。
 幸福が永続しないということは、幸福の終焉をもってしか知り得ないのですから。

 ――姉さん。

 呼びかけても、落書きが答えてくれるはずもありません。
 そんな解りきったことを、けれどその頃の私は幾度も繰り返していました。
 五線譜の片隅に描いた落書きに、在りし日の幸福を重ね合わせて。
 孤独な心をそうして慰めることしか、私には出来なかったのです。



 だから、最初にそれを耳にしたときも、それは幻想の音でしかないと思いました。
 私の空想が、あたかも本物の音色のように蘇らせた、懐かしい旋律。
 彼女たちと奏でた音のひとつひとつは、私の中に深く、傷痕のように刻み込まれているのですから。

 けれど――ああ、それなのに。
 音は、微かに、けれど確かに、この屋敷の空気の震動として、私の耳に届いていたのです。
 それが幻想でないと気付いたとき、私は弾かれるように椅子から立ち上がっていました。
 そんなはずはない。ここには私以外の誰もいない。
 だから――誰も、あのピアノを奏でているはずがない。
 それが道理で、それが真実のはずでした。
 けれど、確かに、その音色は私の耳に響いていました。
 ピアノの音。穏やかで切なく、可憐で儚い、雨音のように静かな音色――。

 それは、彼女が好んで弾いた曲でした。
 あの五線譜に記された、私たちの思い出の曲でした。

 私は部屋を飛び出し、走りだしていました。広い廊下を駆け、階段を転がるように下りて、そして音色の響く、その源を探し当てました。
 そこは、あの日以来ずっと閉ざされたままの扉。
 もう開かれることはないはずだった、私たちの時間の詰まった場所。
 確かに、ピアノの旋律はそこから響いていました。
 そんなはずはないのです。そこにあるピアノは、もう奏でる人を失ってしまったのですから、埃を被り朽ちていくだけのはずだったのです。私と、この屋敷のように。
 ドアノブに手をかけようとして、私は躊躇しました。その扉を開け放ち、そこにある光景を確かめてしまうのが、何かとても恐ろしいことのような気がしたのです。
 けれど、雨音も風音もかき消すように、ピアノの旋律はひときわ強くなりました。
 その音色は、私を呼んでいるのだと、そんな確信が私の中にありました。
 だから私は、意を決して、ドアノブを掴み――軋む扉を、開け放ちました。



 そこには、誰も居ませんでした。
 がらんとした部屋の中、ぽつんと置かれたグランドピアノ。
 その光景は、私の記憶の中のものと何も変わっていません。

 ただ――ただ、ひとつだけ。
 誰も弾いていないのに、そのピアノは確かに旋律を奏で続けていたのです。

 あるはずのない指が、鍵盤を叩いていました。そのたびに、ずっと調律もされないまま放っておかれたはずのピアノが、在りし日と変わらない繊細な音色を紡いでいました。
 私は目を擦り、瞬きを繰り返してみました。けれど、光景は何も変わりませんでした。
 この部屋には誰も居ない。けれど、誰かがピアノを弾いている。
 私たちの思い出の、あの曲を、私に聴かせるために奏でている。

「姉さん? ……リリカ、姉さん?」

 私は、その音色に呼びかけてみました。
 ピアノの音が、不意に途切れました。
 そして、誰かの気配が、こちらを振り向いたような、そんな気がしたのです。
 返事はありませんでした。――いいえ、言葉よりもよほど雄弁な返事がありました。
 聞き慣れたその旋律が、私の呼びかけに答えるように、再び奏でられたのです。
 ああ、と私はそのとき、確信しました。

 ――姉さんが、リリカ姉さんがここに帰ってきたんだ、と。

 姿は見えなくても、姉さんは確かにそこにいたのです。
 私の好きな、みんなが好きだったあの曲を、いつもそうしていたように。
 ピアノの前に腰を下ろして、静かに奏で続けていたのです。






       2


 当時、プリズムリバー伯爵家といえば、少しは名の知れた名家でありました。
 豊かに栄える領地を持ち、決して傲らず、領民に慕われる模範的な貴族であったと、後々になってから伝えられておりますが、多少は美化が入っているのかもしれません。突然の悲劇に見舞われた貴族家――という物語の中においては、理想的であることを求められたが故のことでもあるのでしょう。
 とはいえ、幼かった私の目から見ても、両親は立派な人でありましたし、領民から慕われていたのも事実であったと思います。
 私はその、プリズムリバー伯爵家の四女として、この世に生を受けました。

 我が家には跡継ぎとなる男子がおりませんで、私は女ばかりの四姉妹の末っ子として生まれたのです。私に対して両親はそんなそぶりは決して見せませんでしたが、きっと私が生まれたときには、男子でなかったことに父は落胆していたのでしょう。

 両親を恨んでいるか? とんでもない。たとえあの悲劇が、後に語られているように父の手に入れたものが原因だったのだとしても、それで私が父を恨むことなどあり得ません。父は私たち四姉妹を心から愛しておりました。そんな父を、私たちも敬愛しておりましたから、あれが父の引き起こしたことだとしても、それならばどうしようもなかったのだろう、と諦めこそすれ、父を恨むなどお門違いもいいところです。

 ――はい、父は貿易商でありました。屋敷は海の見える高台にあり、その膝元に広がる港は父の仕事場であり、我が家の領地でした。いくつもの商船を抱え、港に出入りする人や品物の管理を一手に引き受ける身でありながら、自ら船に乗り込んで商談に赴くことも多い人でした。そのため、家を空けていることも多く、父の記憶は母や姉たちに比べて多くはありません。

 母はもともと父の秘書を務めていたそうで、美しく聡明な人でありました。普段は物静かで温厚でしたが、叱るときのあの静かな厳しさは忘れられるものではありません。決して声を荒げることも、まして手をあげることもありませんでしたが、あの冷静な口調と厳しい視線に晒されると、お調子者のメルラン姉さんでもしおらしく縮こまったものです。

 そんな両親に育てられた私たち四姉妹は、性格もひどくバラバラな姉妹でした。

 長女のルナサ姉さんは、母に似て物静かな人でした。口数が少なく、ひとりで本を読んでいるのが好きな人でしたが、私が寄っていくと、優しく頭を撫でてくれたものでした。物事を悪い方に考えがちなのが玉に瑕でしたが、妹思いの心優しい姉でありました。

 次女のメルラン姉さんは、ルナサ姉さんとは対照的に、底抜けに明るくお喋りな人でした。いつも楽しそうにニコニコと笑って、何気ないことをさも重大事のように大げさに語っては、屋敷に明るい笑いをもたらしてくれる太陽のような人でした。

 三女のリリカ姉さんは、そんな対照的なふたりの姉の間で、うまくバランスを取っている感じの人でした。メルラン姉さんの大げさな話に絶妙な相づちを打っていると思えば、静かに本を読んでいるルナサ姉さんにそっと紅茶を差し出してみたりと、気配りのできる人であったと思います。歳が近かったこともあって、私をとりわけ可愛がってくれたのもリリカ姉さんでした。少し斜に構えたところもありましたが、しっかり者という言葉が似合う人でした。

 私ですか? どうなのでしょう、自分自身を客観的に見るのは難しいのですが、母などにはルナサ姉さん似だと言われていた記憶があります。実際、あまり活発な方ではなかったと自分でも思いますので。でも、メルラン姉さんとお喋りをするのも好きでしたし、リリカ姉さんのように他人の世話を焼いてみるのも好きでしたから、私は三人の誰にも似ていて、誰にも似ていない――そんな立場だったのかもしれません。

 そんな私たち四姉妹ですが、ひとつだけ共通することがありました。
 それは、音楽が好きだということでした。

 港では、長い船旅から地上へ帰り着いた者たちを癒す音楽が溢れています。父が船乗りでもあったわけですから、幼い頃からそんな音楽に馴染んでいた私達が、それぞれ楽器を手にするのは自然な成り行きだったのでしょう。
 ルナサ姉さんはバイオリン。メルラン姉さんは笛。リリカ姉さんはピアノ。父は音楽を愛していましたから、姉さんたちが楽器を習うことは喜んで援助しました。

 そんな中で、私だけは、自分の楽器を決められずにいたのです。
 バイオリンも、笛も、ピアノも、何かしっくりときませんでした。父は色々な楽器をあちこちから集めていましたが、そのどれも私にはピンとこなかったのです。姉たちと一緒に、四姉妹揃って演奏したいのに、自分の楽器が見つけられずに私は焦っていました。その焦りを、楽器たちがあるいは拒んでいたのかも知れません。

 そんなある日、楽器を習う姉たちの姿を見ながら、ひとりだけ仲間はずれにされたような気がして、私は庭でひとりで拗ねていました。そこに、母がやってきたのです。
 リリカ姉さんのピアノの音が、庭まで聞こえていました。母は、私の心の内など全て見透かしているような瞳で、私を静かに見下ろしていました。

 ――ねえ、レイラ。

 母に呼ばれ、私は顔を上げました。母はピアノの音に耳を澄ませながら、こう囁きました。

 ――音を奏でるのは、楽器がなくたって出来るのよ。

 目をしばたたかせた私に、母はそっと、子守唄のように優しく、語りかけるように歌い始めました。リリカ姉さんの、まだ拙いピアノの旋律に乗せて。
 それはどこか物悲しく、だけど優しい歌でした。
 母の綺麗な声が、ピアノの澄んだ音と溶け合うように響いて、私はたちまち聞き入りました。
 そしていつしか、つられて私自身も口ずさんでいたのです。
 そんな私の歌声に、母は優しく目を細め、そして頭を撫でてくれました。

 ――レイラはきっと、レイラ自身が、何よりも素敵な音を紡げるわ。

 そう言ってくれたときの母の声は、今でもありありと思い出せるのです。



 ルナサ姉さんのバイオリン。メルラン姉さんの笛。リリカ姉さんのピアノ。
 そして、末っ子の私、レイラの歌。
 それぞれが上達すると、私たちは四人で一緒に、色々な曲を奏でては披露するようになりました。そんな伯爵家の四姉妹の演奏会はたちまち、領地の評判になりました。
 今にして思えば、その評判には、跡継ぎのないプリズムリバー家に取り入って、婿入りを目論む港の有力者の思惑が紛れ込んでいたのかもしれませんが。

 リリカ姉さんのピアノが主旋律を奏で、メルラン姉さんの笛が明るく彩り、ルナサ姉さんのバイオリンが少しのもの悲しさを添えて、そして私が歌う。
 どんな思惑も、私たちには関係などありませんでした。
 ただ、四人で音を紡ぎ合わせるのが、私たちの何よりの楽しみだったのです。



 ――ええ、それが私たちの幸せの、おそらくは絶頂だったのだと思います。
 父がいて、母がいて、姉たちがいて、歌うことが好きだった。
 何も知らなかった、ただ無垢だったレイラ・プリズムリバーという少女の。





       3


 その日は、本当に何事もない、いつも通りの朝でありました。
 いつものように私が部屋で目を覚まし、着替えて階段を下りれば、メルラン姉さんとリリカ姉さんが他愛ないお喋りに花を咲かせていました。
 前日に帰ってきた父の姿はありませんでした。母が現れて、私にルナサ姉さんを起こしてくるように言いました。ルナサ姉さんは朝が弱くて、それを揺り起こすのはいつも妹である私たちの役目でしたから、私はすぐにルナサ姉さんの部屋に向かったのです。

 使用人の作る朝食の匂いが鼻腔をくすぐり、空腹を感じながら私は屋敷の廊下を私はぱたぱたと小走りに進んでいました。途中、父の書斎の前を通りがかりましたが、その扉は重々しく閉ざされたままだったのを覚えています。
 ルナサ姉さんは、ベッドの中で寝ぼけた様子で呻いていました。カーテンを開いて、曇り空からの心許ない光を部屋に満たし、私は姉さんを揺り起こしました。綺麗な金色の髪をぼさぼさにした姉さんの姿は、普段の澄ました様子とは似ても似つかず、けれどそんな無防備な姉さんの姿を私は愛おしく思っていました。
 おはようレイラ、と眠そうな声でルナサ姉さんが言い、私の頬にひとつキスをしました。私も姉さんの頬にキスを返して、それから姉さんの乱れた髪を整えてあげようとかがみ込んで、

 その瞬間だったのです。
 見たこともないほどの眩い光が、私の視界を満たしました。

 何が起こったのか理解する間もなく、私の視界は純白に染められて、目の前にいるはずのルナサ姉さんの姿すらも見えなくなってしまいました。
 微かに、ルナサ姉さんの声が聞こえたような気がしました。
 けれど次の瞬間には、耳鳴りのような甲高い音が弾けて、何も聞こえなくなりました。
 それから、ふわりと身体が浮き上がるような感覚がして。
 何かが物凄い勢いで、全身にぶつかってきた気がします。
 その瞬間にはもう、私の意識は寸断されていました。
 あとはもう、ただ白ばかりが意識を埋め尽くしておりました。



 ……そうして気が付いたときには、雨が私の顔を濡らしていました。
 ルナサ姉さんの部屋にいたはずなのに、頭上に真っ黒な空が広がっていました。
 音の消えた世界に、ただ雫だけが絶え間なく降り注ぎ、私の身体を濡らしていました。
 私はぼんやりとした意識のまま、ゆっくりと身体を起こして、周囲を見回しました。身体に降り注ぐ雨の冷たさも、どこか曖昧なままでした。

 そして、目の前の光景が、私には全く理解できませんでした。

 崩れていました。ルナサ姉さんの部屋だったはずのその場所は、ほとんど何もなくなっていました。ただ残骸のようなレンガの跡だけが残っていました。
 見上げると、半分吹き飛んだ屋敷が、雨に打たれて佇んでいました。それが自分の住んでいたプリズムリバー邸なのだと、私には理解できませんでした。

 レイラ、と微かな声が聞こえたような気がしました。
 その声に振り返ると、土の上に倒れ伏したルナサ姉さんの姿がありました。
 ルナサ姉さんは、こちらに手を伸ばしているようでした。
 だから私は、その手を握り返して、姉さん、と呼びかけました。
 姉さんはどこかほっとしたように目を閉じて、そのまま意識を失いました。
 私はそんな姉さんの身体を見下ろしたまま、ただ呆然とその場に座り込んでいました。



 ――はい、それが私の知る、プリズムリバー家崩壊の全てです。
 未だに私は、あの事件の直接の原因が何だったのかは知らないのです。
 ただ後に伝えられている、父が東国から持ち込んだ『あるもの』がそれを引き起こしたのだという言説以外に、私があの事件について知っていることはありません。
 私にとってはただあれは、自らの身に突然降り注いだ理不尽であり、不幸であり、悲劇でしかありませんでした。
 火事であれ、落雷であれ、あるいは戦争であれ――それが理不尽であるということについては等価なのですから、結局のところ原因など些末なことなのかもしれません。

 残されるのは、結果ばかりです。
 愛する両親を、私たち四姉妹が失ったという、それだけのことでしかないのです。
 広かった屋敷の、およそ半分を吹き飛ばした『それ』で、両親は跡形もなく吹き飛んだということになっていますが、実際のところはどうなのでしょうか。
 父も母も、あるいはどこかで生きているのかも知れない。
 何しろ、骨すらも未だに見つかっていないのですから、そう信じたくもなるものです。
 ただ、確かなことは、父も母も、『それ』が起きた日を境に、私たち姉妹の前から姿を消してしまったということで。
 それは即ち、プリズムリバー伯爵家という名家が、崩壊したということでありました。

 跡を継ぐべき男子も、婿養子もなかったプリズムリバー家が爵位を取り上げられ、領地を没収されるのはあっという間でした。そして、どこからともなく現れた人々が、残された私たち姉妹を引き取ると言って、姉さんたちを連れ去ろうとしました。
 抵抗は無意味でした。両親を失い、爵位も領地も財産も失った私たちは、寄り添っても生きていくだけの力は無かったのです。
 そうして、ルナサ姉さんも、メルラン姉さんも、リリカ姉さんも、どこか私の知らない遠くへと連れ去られてしまったのです。

 残されたのはただ、私ひとりだけでした。
 崩れかけた、海の見える高台の屋敷に、たったひとりきりで。
 私だけが、取り残されてしまったのでした。



 ……すみません。
 あの頃のことは、思い出すだけで、鈍い痛みに身体が軋むのです。
 私は無知で、無力でした。何ひとつ守ることも、救うこともできませんでした。
 ただ、我が身に突然降りかかった暴力的な運命に流されることしかできなかったのです。

 ああ――そう、その日もずっと雨が降っていたのでした。
 あれからずっと、雨が降り続けていたのです。そう、ずっと。
 ひとりきりの朽ちかけた屋敷を、冷たい雫がしとしと、しとしとと――。



 私は。
 ひとりきりで屋敷に残されて、私はそれでも待っている他ありませんでした。
 いつか、姉たちはきっとここに帰ってきてくれる。
 そしてまた四人で、音を紡ぎ合わせることができるだろう。
 その日が来るまで、私はここでずっと待っているのだ、と。
 姉たちが帰ってきて、この屋敷に再び、四人の音色が響く日までずっと――。
 それだけが、私の希望でした。
 ただそれだけにすがって、私はあの屋敷に留まり続けていたのです。



 領主の娘でなくなった私は、領地でもまるで居ないように扱われていました。
 誰ももう、私などに関わり合いたくはなかったのでしょう。あるいは、不幸を呼ぶ、などという噂でも流れていたのかも知れません。
 私たちの音を喜んで聞いてくれた人たちが、私を居ないかのように扱う。
 そのことに胸の軋みを覚えるのも、けれど次第に慣れてしまいました。
 ひとりであることに、ひとりで生きていくことに、私はいつしか順応していました。
 歌うことを忘れて、静かに、ただ静かに。
 あの場所でひっそりと、時すらも忘れて、姉たちの帰りを待ち続けて――。



 ……そして、あの雨の日に。
 姉たちは、私の元に帰ってきてくれたのです。
 姿は見えなくても、私には確かに解ったのです。
 姉たちが帰ってきたのだと。また一緒に音を紡げるのだと。
 あのピアノの旋律は、紛れもなくリリカ姉さんの音そのものだったのですから。





       4


 幻だと、そう仰りたいのでしょう。
 ええ、解っています。それは幻覚、幻想に過ぎないと。私の孤独な心が安らぎを求めて生み出した、儚い空想、夢物語でしかないと。そう仰りたいのでしょう。
 いいのです。そう思われるのでしたら、それでも構いません。
 しかし、私にとって、それは紛れもない現実であり、真実でありました。
 朽ちかけた屋敷に蘇った、リリカ姉さんのピアノの音色。
 弾き手の姿のない、ただ音だけを奏で続ける、思い出のグランドピアノ。
 何と言われようとも、それは事実なのです。あの雨の日、弾く者を失ったはずのピアノは、確かに私のよく知る旋律を、私たちの愛したあの旋律を奏で始めたのです。
 私は呆然と立ちすくんで、ただその旋律を聴いていました。
 流れるように叩かれる鍵盤が紡ぐ、流麗で儚い旋律。
 決して長くはないその曲が終わりに辿り着いて、ピアノの音は途切れました。
 けれど、気配は確かにまだ、そのピアノの前に残っていたのです。

「リリカ姉さん……なの?」

 私はもう一度呼びかけました。やはり、返事はありませんでした。
 私の声は、リリカ姉さんに届いていないのかもしれません。
 だけどリリカ姉さんは、私の存在は感じているはずなのです。おそらくは私が、姉さんの気配だけをピアノの前に感じているのと同じように。
 どうすれば、私の言葉をリリカ姉さんに届けられるのでしょう。
 すぐ目の前にいるのに、姿も見えず、声も聞こえす。
 それほど切なく哀しいことがありましょうか。
 私が胸の痛みをぐっと堪えていると――再び、鍵盤が一度高い音をたてました。
 はっと私は顔をあげ、そして悟ったのです。私の言葉を、目の前にいるはずのリリカ姉さんへと届ける術。その方法を。

 歌うこと。そう、リリカ姉さんがピアノを弾いて、その存在を私へ知らせたように。
 私は歌うことで、目の前のリリカ姉さんへ、私の言葉を届けられるはずなのです。

 そうするべきだ、というように、再びピアノが旋律を紡ぎ始めました。
 耳に馴染んだその曲の前奏に、私はそっと目を閉じました。
 目の前の朽ちた屋敷の光景は消え、瞼に浮かぶのは眩い、あの頃の記憶です。
 父がいて、母がいて、ルナサ姉さんが、メルラン姉さんが、リリカ姉さんがいた頃。
 姉妹四人で、一緒に音を奏でていたあの頃の――。

 そして私は、歌い出しました。リリカ姉さんのピアノに合わせて、あの全てが失われた日以来、本当に久しぶりに、この喉から歌を紡ぎました。
 どれほど長い間歌うことを忘れていても、きっと歌は私そのものでもあったのでしょう。流れるように、リリカ姉さんのピアノに乗せて、旋律は私の唇からこぼれていきました。
 瞼の裏には、リリカ姉さんの笑顔が浮かんでいます。
 歌いながら、私は瞼を開けました。

 ――そこに、リリカ姉さんの姿が見えたような気がしました。

 それはまだ、曖昧な輪郭に過ぎませんでしたが、ピアノの前に腰掛け、鍵盤を叩くリリカ姉さんの指の動きが、真剣な表情が、私の視界に像を結んだ気がしたのです。
 私は、泣いていました。歌いながら、泣いていました。
 あの日以来、きっと初めて――私は、嬉しくて泣いていたのだと思います。

 また、こうして歌えることが。
 姉さんと一緒に音を紡げることが、本当に、本当に嬉しくて。
 私は泣きながら、いつまでも、リリカ姉さんのピアノに合わせて歌い続けました。
 喉が嗄れ、声が出なくなるまで、ずっとずっと、雨音にも負けずに。



 帰ってきたリリカ姉さんが、実際のところ何であるのか、そんなことは私には些末なことでした。引き取られていった先で姉さんは亡くなっていて、亡霊となって私の元に帰ってきたのかもしれません。それとも、生き霊の類でしょうか。いずれにしても、それは私には大した問題ではありませんでした。
 姉さんたちとは、もう二度と会えるはずがないのだと、心の奥底では理解していたからでしょう。その正体などどうでもよくて、ただ姉さんが帰ってきたという喜びに私は満たされていたのでした。
 ええ、幸せでした。きっと、普通に一家が全員揃っていた頃と、あるいは同じぐらいにその後の私は幸せだったと思います。
 なぜなら、帰ってきたのはリリカ姉さんだけではなかったからです。



 それ以来、屋敷では次々と不思議なことが起こりました。出した覚えのない本がテーブルの上に載っていたり、本棚の本の順番がいつの間にか入れ替わっていたりしました。それから、食器の位置が変わっていたり、どこからともなくお喋りのような声が聞こえてきたりしました。
 何も知らぬ者なら、悪霊の類かと怯えもしたでしょう。
 けれど私は、怯えることなど何もありませんでした。
 すぐ傍らにあるリリカ姉さんの気配が、雄弁にその答えを教えてくれていたからです。
 そう、帰ってきたのはリリカ姉さんだけではありませんでした。

 本を動かしていたのは、本好きだったルナサ姉さん。
 お喋りの声は、いつもにぎやかだったメルラン姉さん。
 リリカ姉さんがピアノを弾いて、私にその存在を知らせてくれたように、ルナサ姉さんとメルラン姉さんも、私にその存在を知らせようとしてくれていたのです。

 だから私は、本が動いているのを見つけると、ルナサ姉さん、と呼びかけました。
 お喋りの声が聞こえると、メルラン姉さん、と返事をしました。
 すると、本のページは風もないのにぱらぱらと捲れ、お喋りの声は大きくなりました。
 姿は見えなくても、確かに姉さんたちはそこにいたのです。
 だから私は、満たされた気持ちで、何度も何度も呼びかけました。
 大好きな姉さんたちの名前を、何度も、何度も。



 信じられないと思われる気持ちはよく解ります。
 けれど、これは本当に、私の身に起こったことなのです。
 雨は止むことなく降り続いていました。けれど、私の心は晴れやかでした。
 姉さんたちの気配は、いつでも私のすぐ近くにあったのですから。
 大好きな姉さんたちは、ずっと私のそばにいてくれたのですから。



 けれど、困ったことがひとつありました。
 屋敷が吹き飛んだとき、リリカ姉さんのピアノは無事でしたが、ルナサ姉さんのバイオリンと、メルラン姉さんの笛は一緒に吹き飛んでしまっていたのです。
 父が保存していた楽器のコレクションは、大部分が無事に残っていましたから、ルナサ姉さんの代わりのバイオリンはすぐに見つかりました。けれど、メルラン姉さんの吹いていた笛は、父が南国から手に入れてきた特別なもので、代わりは存在しなかったのです。
 せっかく姉さんたちが帰ってきたのに、四人の音をもう一度奏でることはできない。
 そのことに、私はひどく落胆しました。

 けれど、私が姉さんたちの気配を楽器コレクションの詰め込まれた部屋に導くと、メルラン姉さんの気配は、すぐに別の楽器を手に取ったのです。
 それはトランペットでした。メルラン姉さんが吹いていた笛よりも、ずっと軽快で陽気な音を奏でる楽器です。
 姿の見えないメルラン姉さんは、そのトランペットを手にして吹き鳴らしました。
 私の眼には、宙に浮いたトランペットが音をたてているという不思議な光景が映っていましたが、そこに私は、トランペットを吹くメルラン姉さんの姿を確かに見ていました。
 そして、トランペットの底抜けに陽気な音は、笛よりもよっぽどメルラン姉さんにお似合いだと、私は感じました。それはルナサ姉さんやリリカ姉さんも一緒だったようです。

 ピアノと、バイオリンと、トランペット。ひどくアンバランスな三つの楽器が揃って、私たちはピアノの部屋に集まりました。
 他の人が観れば、それは奇怪な光景であったでしょう。私ひとりだけのはずのその場所に、バイオリンとトランペットが宙に浮き、ピアノと合わせて勝手に音を響かせ始めるのですから。
 それは、久しぶりの、本当に久しぶりの、四人でのアンサンブルでした。
 私は今までになく声をはりあげて、思い切り歌いました。
 私の歌を引き立てるように、姉さんたちの音が絡み合います。
 バイオリンと、ピアノと、トランペット。アンバランスなその三つの楽器が、最初からかくあるべきと定められたように、ひとつの旋律を奏で彩り、紡ぎ上げていきます。

 幻想のファントム・アンサンブル。
 プリズムリバー幽霊楽団、とでも名付けましょうか。
 けれどそれは、誰に聴かせるための音でもありません。
 ただ、私たち四姉妹の絆を確かめるための。
 目には見えないお互いの存在を確かめ合うための音でした。

 音を奏でている間、確かに私たちはあの頃と変わらず、そこにいたのです。
 ルナサ姉さんと、メルラン姉さんと、リリカ姉さんと、私。四人で、変わらず。
 あの頃のように、私は歌を歌い続けて。
 朽ちたプリズムリバーの屋敷に、旋律は途切れることなく響き続けました。
 喉が嗄れても、私は幸福に満たされて歌い続けました。

 ああ――そうしているうちに。
 いつしか、ぼんやりとしか見えなかった姉さんたちの姿が、次第に確かな輪郭を伴っていって――私の大好きな姉さんたちの姿を、確かに象っていったのです。





       5


 それからのことで、語るべきことは多くはありません。
 旋律を紡ぎ続けるうちに、姉さんたちの姿はもはや、はっきりと私の眼にも見えるようになりました。それは私の記憶にあるそのままの、姉さんたちの姿でした。
 けれど、触れることはできませんでした。そして、声も聞こえませんでした。
 姉さんたちの身体に触れようとしても、私の手は虚空をすり抜けてしまいました。
 そして姉さんたちの声は、私の耳には決して届きませんでした。

 ただ、姉さんたちの奏でる音だけは、どこまでも雄弁でした。
 そして私の歌も、雄弁に私の気持ちを紡ぎ上げてくれました。
 だから私たちは、いつも音楽とともに暮らし続けました。
 絶えることなく音を奏で続ける、プリズムリバーの屋敷で。
 私は、姉さんたちとずっと幸せに暮らし続けました。

 だからこれは、めでたし、めでたしのお話なのです。



 ええ、閻魔様。誓って今の話に、嘘偽りなどはございません。
 私はその後、姉さんたちとともに幸せに暮らし、天寿を全うしてここに来ました。
 私の最期も、姉さんたちは音を紡ぎながら、笑って見送ってくれました。
 そのときのことは、はっきりと瞼に焼き付いています。



 ルナサ姉さんと、メルラン姉さんと、リリカ姉さん。
 三人は、私にとってそれぞれ、光でありました。
 ルナサ姉さんは、静謐で穏やかな月の光。
 メルラン姉さんは、眩しく暖かな陽の光。
 リリカ姉さんは、慎ましく美しい星の光。
 三つの光に照らされた私の人生が、幸福でなくて何でありましょう。

 雨は決して止むことはありませんでした。
 ですが、それでいいのです。
 最期のとき、私は雨の降る空を見上げて、そこにそれを見たのですから。
 そして、どうしてずっと雨が降り続いていたのかを知ったのです。

 雨上がり、空に架かる七色の橋。
 厚い雲を突き抜けるように、私の頭上にそのプリズムが輝いていました。
 その美しい橋の下、雨が生み出した川は、海に向かって流れていきます。

 ――プリズムリバー。
 姉さんたちが光なら、私はきっと雨だったのでありましょう。
 雨に光が射すとき、その七色の橋は生まれるのですから。
 だからこそ、私は幸福だったのです。
 私たちそのものが虹であったのですから。
 その根元には、いつだって宝物が埋まっているのですから――。





 
 



       一


 はい、どちら様――。
 ……どうして貴方がここへ?
 いえ、都合が悪いわけではありませんが。……お仕事は、お休みですか。しかし、我が家にどんな御用で? 私たちは貴方の裁きを受ける身ではないはずです。

 ああ……こんなところで立ち話も何ですね、お上がり下さい。汚いところですが。
 雨に濡れませんでしたか? そうですか。お茶でも用意しますので、少しこちらでお待ちを。

 ――はい、どうぞ。
 妹たちですか? 今は出掛けています。夜には戻るかと思いますが。はい、私ひとりです。
 ところで、どんなご用件で? 是非曲直庁でコンサートでも?

 ――――――。

 何故、今さら私たちに、そのようなことを?
 貴方は既に、何もかもご存じなのではないのですか?
 私たちがここに在る理由も、私たちを生み出したものも、何もかも。

 ――そうですか。裁きのため、ですか。
 では……あの子は、貴方の元へ辿り着いたのですね。
 何を、語ればよろしいのでしょう。あの子が貴方の元で何を語ったのだとしても、その真偽は貴方の目には自明なのではないのですか?

 ……いいえ、構いません。
 貴方が聞きたいと仰るならば、語りましょう。
 あの子のことを。私たち四姉妹のことを。

 ですが、閻魔様。
 ひとつだけ、前置きしておかなければならないことがあります。

 ――あの子が貴方に何を語り、これから私が貴方に何を語るとしても。
 それはどちらも、あの子の真実であり、私の真実であるのです。
 貴方にこんなことを言うのは、差し出がましいことかもしれませんが。
 それだけは、心に留め置いていただければ、幸いです。





       二


 私たちの生前については、あの子の口から既に語られているのでしょう。
 ええ、そうです。私たちは港町の領主、プリズムリバー伯爵家の四姉妹。私はその長女で、あの子――レイラは、その末っ子でした。
 豪放で稚気のある父と、聡明で沈着な母に育てられた私たちは、似るところの少ない姉妹だとよく言われたものです。私とメルランの性格はまるきり正反対でしたし、リリカはその間を取ったような子でした。
 そしてレイラは、私たち三人に似ているようで似ていない、不思議な子でした。私から見れば、レイラはリリカ似に見えたものですが、メルランは私に似ていると言い、リリカはメルランに似ていると言いました。

 私たち三人が楽器を手にし、あの子が歌を選んだのは、だからこそでしょう。
 私のバイオリンにも、メルランの笛にも、リリカのピアノにも、レイラの歌声は美しく重なり、どのような曲も繊細に、力強く歌い上げたものです。

 バイオリンのように優美で静謐な歌声。
 笛の音のように軽やかで高らかな歌声。
 そしてピアノのように、激しさと繊細さを兼ね備えた歌声。
 その全てがレイラの歌声でした。
 レイラの歌声があってこそ、私たちの演奏は引き立つのです。
 誰が欠けても成立しない、私とメルランとリリカの三角形の中心に、あの子はいました。

 私たちの音色を、あの子の歌が膨らませ、立体とする。
 それが本当の、プリズムリバー楽団の音色なのです。



 私たちは皆レイラを愛していました。
 可憐で愛らしく、けれど傲ることはない。
 誰からも愛される、天使のような子だったと、本当にそう思います。
 だからこそ、レイラこそがプリズムリバー家の中心でした。
 あの子は、自分が姉たちの影に隠れる存在であったと思っていた節がありますが。
 そんなことはないのです。むしろ、あの子こそが光でした。

 ――こんなことを閻魔様の前で言えば、笑われるのかもしれませんが。
 きっと、だからあの子だけが奪われてしまったのだと、私は思うのです。



 あの雨の日、私たちは家族を失いました。
 私たちも、その原因が何であったのか、詳しいことは知りません。父が東国から持ち込んだものが原因であったと言われているのを耳にしましたが、所詮は噂に過ぎません。
 しかし、今私たちがここにあり、そしてこの場所にたどり着いたのも。
 あるいは、その何かのせいであるのかもしれませんが。

 ――はい、その通りです。
 あのとき、私たちは三人の家族を失いました。
 父と、母と、そして――愛する末の妹、レイラを。

 そのときのことは、この身となった今でも、忘れられなどはしません。
 父と母は、あの閃光に跡形もなく吹き飛ばされました。
 けれどレイラは――ああ、レイラは、あの天使のような妹は。
 私の腕の中で、息絶えたのです。
 誰よりも優しいあの微笑みを、赤い血に汚して。
 その血すらも、冷たい雨が洗い流していく中で。
 ――あの子の身体が力を失った瞬間を、今も克明に、私は覚えています。





       三


 そして、あの雨の朝を生き残ってしまった私たち三人は。
 遠方の親類へ、それぞれ別々に引き取られていきました。
 そのときのことは、語る必要もないでしょう。貴方に今語るべきはあの子のこと。レイラ・プリズムリバーという少女のことなのですから。
 あの屋敷は無人で捨て置かれ、姉妹はバラバラになりました。
 私たちは、満足に妹と両親を弔う暇すら、与えられなかったのです。
 そのことは、引き取られた先でも、私の心に軋みを与えていました。
 メルランとリリカも、きっと同様であったのだと思います。

 それぞれが引き取られた先のことは、私たちには教えられていませんでした。
 けれど私たちは、手の届く範囲のあらゆる情報網を駆使して、互いの居場所を知りました。
 そして、密かに連絡を取り合っていたのです。

 その、秘密の手紙のやり取りの中で、聞こえてきた噂がありました。
 廃屋となった、旧プリズムリバー邸から、少女のすすり泣きが聞こえる、と。
 亡くなった娘の亡霊が、あの屋敷で今も悲しみに暮れているのだ、と。
 その噂を聞きつけて、私たちは決心しました。
 もう一度、あの屋敷に戻るのだ、と。
 そして、そこで悲しんでいるあの子の魂を、安らかに眠らせてあげるのだ――と。



 そして、私たちは示し合わせて、引き取られた先から逃げ出しました。
 かつて暮らした廃屋にたどり着くまでの道程のことは、今は省きましょう。
 娘ひとりの旅など、どれほど無謀なことであったでしょうか。
 それでも、私たちは三人ともが、あの港町に辿り着いたのです。
 かつて私たちが暮らしていた、あの町に。――あの屋敷の跡に。



 その日もやはり、あの日のように雨が降っていました。
 私たちは、何年ぶりかにその屋敷へと足を踏み入れました。
 屋敷は荒れ果て、今にも崩れ落ちそうに、雨の中に沈んでいました。
 建物全体が微かな風にも軋みをあげ、どこからか漏る雫が足元を濡らしています。
 そして、その中に。
 確かに私たちは聞いたのです。すすり泣く少女の声を。
 それは紛れもなく、妹の。レイラの声でありました。

 私たちは呼びかけました。レイラ、と。何度も、そのすすり泣きに叫び返しました。
 けれど、レイラの泣き声は、決して止むことはありませんでした。
 私たちの声は、亡霊となったレイラには届かないのかも知れない。
 そんな徒労感に包まれようとしていたとき――リリカがそれを見つけたのです。
 ピアノでした。あの頃から変わらず置かれたままの、リリカのピアノでした。
 埃を被ったそのピアノの前に座り、リリカが鍵盤と叩きました。
 ひどい音がしました。当たり前です、何年も埃を被って、調律もされていないのですから。

 ――だけど、ああ、だけど。
 ピアノの音が鳴り響いたその瞬間、すすり泣きは刹那、途切れたのです。
 私たちは顔を見合わせました。そして、リリカはその曲を弾き始めました。
 あの頃、まだレイラが生きていた頃、よく演奏した、あの子が好んで歌った曲を。

 すすり泣きは、いつの間にか聞こえなくなっていました。
 リリカの演奏にかき消されたわけではありません。確かに消えていたのです。
 やがてリリカの演奏が終わりました。そのときには、私たちが気付いていました。
 私と、メルランと、リリカ。その三人の誰でもない気配が、その場にあることに。
 レイラ、と私が呼びかけました。けれどやはり、声は届かないようでした。
 リリカが鍵盤を叩きました。凛とした音が、響き渡りました。

 そして、――そして。
 次に聞こえたのは、すすり泣きではなく、歌声でした。
 それは紛れもなく、私たちが愛した、レイラの歌声でした。





       四


 ええ、そうです。
 私たち三姉妹の目から見た真実は、その通りなのです。

 レイラは亡くなり、あの屋敷から離れられぬ地縛霊となっていたのです。
 私たちが屋敷へと集まり、それぞれにもう一度楽器を手にしたのは。
 あの子の魂と、もう一度アンサンブルをするために。
 そうすることで、悲しむあの子を、安らかに眠らせてあげるために。
 プリズムリバー幽霊楽団は、そうして結成されたのです。



 きっと、その時にはもう、私たちはあの世界とは別の理の中に生きていたのでしょう。
 私たちがこの幻想郷に辿り着いたのも、つまりはそういうことです。
 幻想のファントム・アンサンブル。
 私たちの奏でる音色に重なる、レイラの歌声。
 それは幻想であったのかもしれません。
 家族を失った私たちの悲しみこそが生んだ、幻だったのかもしれません。
 けれど私たちにとって、それは真実であったのです。

 あの屋敷で、私たちはずっと音を奏で続けました。
 レイラの歌が終わるまで、ずっとずっと、そう、永遠に鎮魂歌を奏で続けるのが。
 私たち、プリズムリバー幽霊楽団の使命なのだと。



 ――ええ、実のところ、私たちはいつからこのような身になったのかは、はっきりと記憶していないのです。ひょっとしたら、あの屋敷にたどり着いたときには、私たちももう亡霊と化していたのかもしれません。
 けれどそんなことは、やはり些末なことでしょう。
 レイラは確かに、あの屋敷に居たのです。
 そして私たちは、そこで彼女と永遠のアンサンブルを続けたのです。
 ――そして、今も。



 いつか、貴方は私たちに仰いましたね。
 私たちはよりどころの無い霊である、と。
 私たちを生み出した人間は既に亡いのだから、と。

 ええ、そうでしょう。
 私を生み出した存在――即ち、人間であったルナサ・プリズムリバーは既に居ません。
 けれど、私たちには確かによりどころはあるのです。

 それは、願いです。
 かつて人間であった私が、騒霊である私に残した願い。
 ――レイラの魂が安らかであるように、鎮魂の音色を、永遠に。
 それこそが、私たちの寄る辺なのです。
 かつても、そして今も、プリズムリバー幽霊楽団は、そのために在るのです。





       五


 私の語るべきことは、これで全てです。
 あの子が既に、貴方の裁きを受ける身になったのだとしても。
 私たちは、寄る辺たる願いがある限り、ここで音を奏で続けます。
 あの子が寂しがることがないように。
 この世に遍く響き渡る、幻想の音色を。



 閻魔様。
 貴方の目には、どちらが真実と映るのでしょうか。
 あの子は――レイラは、自分が死んでいることに気付いていなかった。
 きっとあの子の目から見れば、私たちこそが騒霊であったのでしょう。
 そしてそれは、紛れもなくあの子の真実なのです。

 そして、私の語ったことも、私の目から見た真実でしかありません。
 本当はやはり、あの子は生きていて、死んでいたのは私たちだったのかもしれません。

 しかし、そのどちらが真実であったとしても――。
 それを定めることに、果たして意味はあるのでしょうか?



 ああ――雨が上がりましたね。
 虹が見えていますよ。ほら、太陽の光を受けて、七色の橋が天高く。

 閻魔様。貴方の目に、あの虹はどんな風に映っているのでしょうか。
 雨上がりに架かる虹は、誰の目にもはっきりと、七色に輝いています。
 けれどその虹に触れられる者は、誰も居ないのです。

 虹は果たして、そこにあるのでしょうか? そこに無いのでしょうか?
 閻魔様。――あなたは、どちらだと思われますか?
浅木原忍
http://r-f21.jugem.jp/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/11/12 08:06:17
更新日時:
2009/11/12 08:06:17
評価:
23/27
POINT:
166
Rate:
1.59
1. 9 バーボン ■2009/11/22 01:06:42
どこら辺に雨が絡むのかと思って読んでいたら……。
そうですよね、雨が降ったら虹も出ますよね。レイラと三姉妹の話では王道的な内容でしたけど、しかし雨と絡めた描写・言い回しが凄く魅力的でした。
2. 8 shinsokku ■2009/11/22 14:12:26
巧みですな。
しかし、虹にも白黒つけるのが閻魔さま。
そこもまた、妄想しがいがあるというか。
3. 8 冬。 ■2009/11/22 16:07:23
上手くまとめられていて、良かったです。
私の中で最も、レイラの人生を描き出している話だと思えました。
4. 10 Lu ■2009/11/22 19:49:35
在りし日の色褪せない思い出を
愛しむように、優しく語りかけるような文章がとてもよかったです
記憶の中で生き続けている
そんな表現がまさしくぴったりな素敵な物語ですね
5. 7 神鋼 ■2009/11/24 22:29:42
最初にありきたりな話に思えた分だけ後半の展開にしてやられました。
6. 10 夕霧 ■2009/12/29 14:07:57
ああ、何時ものプリズムリバー、レイラ系のお話かぁと思って読んでたら、
良い意味で期待を裏切られました。
光、雨、虹、レイラの真実と、プリズムリバーの真実。
Phantom Ensemble……この鳥肌と涙目をどうしてくれよう。
7. 5 藤木寸流 ■2010/01/05 00:33:14
 レイラが天寿を全うしたとき、おばあちゃんだったのか少女のままだったのか、そのあたりで真実が分かれそうではあります。それを定めることに意味はないとしても。
 レイラの解釈が新鮮で、わりと出し尽くされたネタではあるのですが、一人称ということもあって話に引き込まれました。
8. 4 白錨 ■2010/01/10 00:06:34
レイラが映姫(かな?)に語りかけるのは上手いと思いました。
設定がほとんど無いレイラ視点で書いたのが素晴らしかったです。
9. 3 パレット ■2010/01/10 04:36:25
 プリズムリバーSSを久しぶりに読んだ……。
 丁寧に紡がれるお話、だけど丁寧すぎて特色は無いかなと思いながら読んでいたのですが、そのぶんオチがいい味をかもし出していました。
10. 9 文鎮 ■2010/01/10 14:47:53
少し変わったレイラの話でしたが、私はこういった解釈は好きです。
どちらの真実も美しく、音と愛が溢れていました。真実なんていくらでもあっていいじゃない。
11. 10 椒良徳 ■2010/01/11 16:50:01
素晴らしい作品です。言葉を失いました。
ぜひとも貴方の他の作品も読んでみたいですね。
12. 10 零四季 ■2010/01/12 22:44:15
これはすごい。二重の旋律を綺麗に奏でられたような感覚。是非を問うているけれど是非に答えは存在しない話は好きなので、とてもよかったと感じました。
両方のパートを同時に進めたらどうなるのかと妄想してみたくもなる。 良い話だったと思います。
13. 10 ホイセケヌ ■2010/01/13 13:59:48
ヒス、ホ・マゥ`・ネ、ヒ、ノ・ケ・ネ・鬣、・ッ。」エコテ、ュ、ハヤ彫ヌ、キ、ソ。」
ソ詐圖ヌセ_畝ハユZ升、ポx、モキス、ネ。「・・、・鬢ソ、チ、ホ椄キ、、ユZ、ソレユ{、ャミト、ヒヌ゚、゚ネ、熙゙、ケ。」
14. 6 詩所 ■2010/01/13 21:39:28
 幽霊を浄化するために人間が頑張る、全て逆だったわけですね。
 でも、レイラだけ裁かれて三姉妹と違う道を歩むようになったのは、少し悲しい気がします。
 そういえば、映姫様は騒霊三姉妹は裁かないんですよね。実際のルナサと亡霊のルナサは別物だから騒霊の存在を許している、のでしょうかね。
15. 8 deso ■2010/01/14 01:51:22
プリズムリバー弱いのですよ。
実に良いとこを突いてこられる。堪能しました。
16. フリーレス 静かな部屋 ■2010/01/14 20:41:45
幻想の虹は、観測者の意識が生み出します。
こういう話はよく読みますが、仕掛けがきちんとしていていいです。
ただ、レイラパートに比べて、三姉妹パートがおざなりだったのが気になりました。
17. 6 2号 ■2010/01/14 21:02:53
興味深く読み進められました。
あとがきも面白く使ってると思いました。
どちらの言い分が真相なのか、という点では、もう少しどちらが正しいか考えさせてもよかったと思います。
18. 8 やぶH ■2010/01/14 22:31:53
プリズムリバー三姉妹、いえ、四姉妹ですね! その新たな解釈が素晴らしい。SSとして大いに楽しめる作品でした。
気になる点と言えば、真相をあとがきに回したのは問題ないんですが、ちょっと長さを感じてしまいました。
余韻が霞んでしまったので、ここは匂わせる程度で、すっきりまとめてみてはいかがでしょう。単なる好みの問題かもしれませんががが
19. 7 八重結界 ■2010/01/15 11:58:54
 観察する方向によって物語はいとも容易く変わるのですね。読者としては幸せなレイラの方向を指示したいのですが、閻魔様はどちらを選ぶのか。
 気になるところではありますが、浄玻璃の鏡で全てが分かるのではないかという気もしました。
20. 6 焼麩 ■2010/01/15 21:10:56
これは良い語り。
あんまりにも自然だったので、納得してしまいました。事実として。
妹のために計画的大脱走なんてかっこよすぎるでしょう?
21. 7 時計屋 ■2010/01/15 21:21:11
 文章が綺麗で読みやすい。
 頭に文章の意味が流れるように入ってくる。読み手に疲れを感じさせない、見事なものでした。
 最後の話のひっくり返し方も良かったと思います。意表を突かれつつも、公式の設定をこういう風に使ってきたか、と唸らされました。
 後書きをうまい具合に使った良作でした。
22. 8 如月日向 ■2010/01/15 22:26:52
 レイラの独白形式がとてもよかったです。物語の作りこみも素晴らしい。後書きを使っての二本立て構成も上手いですね。

〜この作品の好きなところ〜
"――プリズムリバー。"
 この言葉がとても美しく感じました。
23. 3 木村圭 ■2010/01/15 22:48:36
落としどころは上手かったと思います。この発想は無かった。
が、レイラの独白が長い上にどこまでも淡々としているせいでいささか退屈でした。
ところでこの後書き、本文に入れた方が良かったのでは。後書き部分が無いと欠陥品になってしまうような構成ですし。
24. 4 ■2010/01/15 23:02:24
レイラが歌というのは割とある話で、だけど別にケチをつける場所でもなく。
双方向の話は怪談にはよくある事。でもまぁ両方幽霊というのも面白かったです
25. フリーレス 静かな部屋 ■2010/01/17 12:49:26
点数の付け忘れ、本当に申し訳ない
26. フリーレス massage therapist ■2010/11/08 22:07:44
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