魂時雨

作品集: 最新 投稿日時: 2009/11/21 20:03:02 更新日時: 2010/01/17 12:17:29 評価: 16/17 POINT: 98 Rate: 1.45
 雨を斬れる様になるには、三十年は掛かると言う。
 じゃあ、雨を斬るとはどう言う事なのだろう?

 ――――――――

 それはいつもの日課の、何て事の無い稽古の一幕だったと思う。
 道場の空気は張り詰めていて、冥界には珍しい雨が屋根を打つ音も、私はどこか別の世界で起こっている事のように感じていた。
 手にする木刀が軋むくらいに強く握り締める。正眼に構えた木刀の切っ先は、師父の喉元に向けて真っ直ぐ突きつけられている。少し後ろ足に力を籠めれば、懐に飛び込んで一太刀浴びせるのは難しくないだろう。
「どうした」
 けれど私は動けない。木刀を強く握り締めたのは打ち込むためじゃなく、汗で滑る手から木刀を落とさないためだ。喉元から木刀を動かせないのは、動いた瞬間に打ち据えられてしまいそうだからだ。後ろ足に踏み込む為の力なんて籠められない。気圧されないように自分に言い聞かせて、重心を後ろに置かないようにするだけで精一杯だ。
 空気の張り詰めた道場に、師父の低くて重い声が響く。どうした、と、そのたった四字の一言で私の縮こまった体は竦みあがり、構えにも、精神的にも隙が出来る。張り詰めた空気が崩れた。
「断命剣――」
 先の先を取れないまま、私は師父に動かされる。木刀に纏う霊気は乱れ、腰は引けていて、振りかぶった手はただただ木刀を離さないように必死なだけ。
 命を断つと銘打たれた必殺の剣は、今はただ童が力任せに棒を振るうにも等しい。そして、そんな甘えを許す師父ではない。
「瞑想ざ……」
「未熟」
 木刀同士がぶつかり合う音一つせず、私の手から呆気なく木刀が吹き飛んだ。見えない速度の太刀筋に私の木刀は振り切る事もままならず、体崩しをかけられた私が床に叩きつけられるのと同時に乾いた音を立てて床に落ちた。
 仰向けで天井を眺める私に、師父が木刀を突きつける。しかし、対抗する為の木刀は既に手から離れている。立ち向かう術が無い。非の打ち所の無い敗北だ。
 一瞬で引っ繰り返った視界に認識が追いつかない。師父の双眸が私を真正面から捉える。揺らがない師父の目には、今の私はどう映っているのだろう。
 もう何千回と繰り返した稽古だけれど、私が師父に全く敵わないのも、師父の「未熟」と言う言葉も、私がみっともなく寝転がって終わる一連の流れも、全く変わらない。
 ……自分の不甲斐無さに泣きたくなるのも、毎回変わらない。
「泣くな。泣いても強くはなれん」
 師父は私を叱る事はしない。ただ言葉少なに物を語り、私に自分から何かを学び取らせようとする。剣の扱いだって、庭師としての仕事だって、私は全て師匠であり祖父であるこの人を見て学び取ってきた。
 ただ、直接的な指導の無い事が負けの言い訳になるかと言えば、そうではない。師父の後を継ぐにはそれを受け入れなければならない。それは私だってわかっているし、だからこそ漏れそうになる嗚咽を歯を食い縛って耐えているのだ。
 しゃくり上げる私、目を瞑ったまま黙っている師父、次第に鮮明に聞こえてくる雨の音。張り詰めていた筈の空気は一瞬にして破られ、今はもう静と動の世界が混ざり合って日常に戻ってしまった。
「……雨が降っているな」
 そう言って窓の外を見る師父の声は、稽古の時の研ぎ澄まされた業物のような鋭い声ではなく、普段の日常で垣間見せる老いを含んだ重い声だった。
 その声に私は安堵する。稽古の時の師父の声や眼差しは常に刃物を突きつけられているようで、正直に言えば恐ろしい。稽古が終れば厳格な師匠は物静かな祖父に様変わりするのだけれど、そんな事で一々安堵してしまうから私は未熟なのだと一人で落ち込んでしまう事もある。
「雨がどうかしましたか」
「いや、……うむ。いつかは教えねばなるまい」
 師父は一人で雨を見て、一人で何かを呟く。私が首を傾げていても、恐らく視界には入っていないだろう。
 こういう師父は珍しいと内心驚いていると、師父は再び私に視線を戻した。その眼差しが真剣な物だったので、思わず私は姿勢を正す。
「妖夢。お前の剣は、鈍っている」
 脳天を思い切り刀の峰で殴られた気がした。今まで未熟と言われた事は数あれど、こうも実直に自分の至らなさを指摘された事は無い。何処が鈍っているのか、何処を改善すれば良いのか、多くを語られない事が更に不安に拍車をかける。
 俯いた私に、師父は構わず言葉を続けた。
「西行寺の家に仕えていくために、お前は強くならねばならん」
「なら……どうすれば良いのですか」
 強くならなければいけない。それは私も痛いほどわかっていた。
 けれど私がいくら懸命にもがこうとも、単に焦りが増すばかり。打ち込みが強くなり足が速くなっても、それを実際に示せないのであれば意味が無い。そして私は師父と対峙する度に、何度も稽古で培って来た物の全てに自信が持てなくなってしまう。自信を持てないまま振るう剣ほど、なまくらと呼ばれる物は無い。
 だから私は師父に救いを求めたのだった。今まで何ら明確な助言を与えてくれなかった師父に、少しでも助けてもらいたかった。
 
「雨を斬るのだ」
 
 けれど、どこまでも師父の言葉は抽象的で、私は師父の言葉の不可解さに首を傾げる事しか出来ない。雨を斬る? 言っている意味がわからない。
 大体、日々の打ち込み稽古もままならぬ身で、どうやって雨を斬れと言うのだろう。雨と言ったら、今冥界に降り注いでいるような天から滴り落ちる水の事だろう。流れる水を斬るなんて、師父にすら出来るのかどうか不思議でしょうがない。
「今すぐに斬れだなど、無理は言わん。しかし、だ」
 ゆっくりとした重々しい声が道場に響く。師父は一言一言言葉を選びながら私に語りかけているようで、私は言葉の不可解さに首を傾げるのを後回しに、師父の言葉に耳を傾ける。
「雨を斬る事の意味。それをいつか理解しなければお前はいつまでも半人前だし――」
 そこで師父は一度言葉を切る。珍しく逡巡しているような、悩みこんでいるような、そんな苦々しい表情を見せた後に、意を決したように私の目を見据え、口を開いた。
「――お前の剣が、自身の命まで断つ事になりかねん」
 そう言う師父の表情が一層険しくなった所で、私の記憶は途切れている。
 
 ――――――――
 
 目を覚ますと、普段の起床時刻にはだいぶ余裕のある時間だった。
 いつもより早く起きたせいで頭が重く、目が覚めきっていない。しかし、かと言って二度寝をするほどの時間も無い。あと半刻もすれば、仕えている幽霊が朝食が出来た事を知らせにやって来るだろう。
 仕方が無いので寝惚け眼を擦り、起き上がって布団を畳む事にする。体は布団の温もりを恋しがっているけれど、ここで起き上がらないとまた幽々子様に笑われてしまう。そう思って掛け布団を剥いだ所で、ここ数日より空気が冷え込んでいるのに気が付いた。冬もだいぶ深まってくる頃だけれど、今日はいつにも増して寒い。思わず掛け布団を被りなおしてしまう。
 寒さに触れて初めて、外から雨音が聞こえる事に気が付いた。意を決して掛け布団から出て体が冷える前に着替える。布団を畳んで縁側に出ると、冬の冥界には珍しい雨。
 
『雨を斬るのだ』
 
 不意に、さっきまで布団の中で見ていた夢を思い出す。夢とは言っても、あの師父との稽古や禅問答のようなやりとりは、全て過去に経験した確かな記憶だ。
 あれからもう、何年が経っただろうか。師父が白玉楼を去り、私がその跡を継いで二代目を襲名し、広大な庭の手入れと剣の修行だけの日々を繰り返して、果たして何年。剣の腕は多少なりとも上達したとは思うし、仕事もそこそここなせていると思う。
 けれど、今でも師父の言っていた「雨を斬る」事の意味はわからない。腰に帯びた鞘から楼観剣を抜き、試しに軒下から雨に向けて素振ってみる。
「ふっ!」
 短い声に強い気迫を込めて、雨に向けて楼観剣を振る。夢で見た過去の私の様な剣はもう卒業した。格の低い妖なら一撃で切り伏せる様な一太刀だけれど、しかし雨を斬るには至らない。振り下ろした楼観剣が濡れただけだった。
「はっ!」
 二度、三度。楼観剣を振り上げ、雨目掛けて振り下ろす。体が次第に温まってきて、より速く、より強く、太刀筋は鋭さを増していく。
 けれども私の剣が雨を斬る事は無い。これではただ落下する水滴を弾いているだけだ。どれほど裂帛の気合を込めようとも、降りしきる雨は私を嘲笑うかのように白玉楼の庭を濡らしていく。
「せぇい!」
 全力の気迫と共に振り切った一振りも、雨を斬る事は出来なかった。振り上げる手を押し留める。まだ一日の始まりも始まり、早朝の素振りだと言うのに、体中にじっとりと汗をかいていた。
 肩で息をしながら、いつの間にか息を荒げる程に熱中していた事に気付く。果たしてどれほどの間、夢中になって楼観剣を振り続けていたのだろう。
「妖夢」
「は、はいっ!」
 呼吸を静めようとした矢先に背後から声をかけられ、私は驚き竦みあがった。慌てる余り手にした楼観剣を取り落としそうになり、慌てて握りなおす。
「一体どうしたの? 朝から夢中になって素振りしたり、取り乱したり」
 振り返った先にいたのは幽々子様だった。まだ寝起きなのだろう、眠そうに目を擦っていらっしゃる。大口を開けて欠伸をするような恥ずかしい真似はなさらないが、寝惚けて着替えたのか着物がはだけ気味なのは如何なものか。
「少し早く起きてしまったので、軽く体を動かしていたのです。幽々子様こそ、何故ここに?」
「朝ご飯の支度が出来たんだけど、なんだか鬼気迫る様子で素振りをしていたからって言われて」
 軽く、ねぇ……と幽々子様は私を見て呟いた。汗をかき息を荒げる私の様子は、確かに軽い運動の後と言うには少しばかり無理がありそうだ。
 しかし幽々子様はそれを特に追及する事もなく、部屋に畳んであった手拭いを一枚私に差し出した。ありがたくそれを受け取って、楼観剣を丁寧に拭く。水滴を綺麗に拭き取って鞘に収めると、幽々子様は感心した様子で私を見ていた。
「自分よりも先に刀を拭くなんて、未熟なりにも剣士なのね」
 そう言って、眠たそうな目を悪戯っぽく細める。幽々子様は良く私を未熟者扱いしてからかうが、それは自分でも自覚している事なのでしょうがない。むしろ早く一人前になりたいとすら思う。思うのだが、思ったように上手くいかないのが現状だ。
 先代である魂魄妖忌――師父が白玉楼を去ってから久しいけれど、私は師父には程遠い。年季の違いはあるかもしれないけれど、何かあってからでは遅いのだ。
 その為にも、早く「雨を斬る」と言う事を理解しなければいけないのだけれど……。
「それじゃあ、朝ご飯にしましょうか」
 幽々子様の言葉に返事をするように、恥知らずな私の腹の虫がグウと鳴る。
 仕事にしても修行にしても、先立つものは腹ごしらえだ。降りしきる雨に未練を残しつつ、私は先を行く幽々子様の後ろに付き従った。
 
「書架の片付けがしたいのよ」
 朝餉を終えるや否や、幽々子様が私に言った一言である。
 素朴ながらも美味しい献立の一つ一つに感謝を捧げつつ、ゆっくり食後の茶でも飲もうとした矢先にこれだ。幽々子様はと言えば私よりも遥かに早くご飯を食べ終え、細くしなやかな体に二杯目のご飯を掻き込んで尚、私が食べ終わるのを待ち望んでいた様な節すら見受けられる。
 もっとも幽々子様の手伝いをするのは従者である私の責務だし、主を余り長々と待たせるわけにもいかない。今日は雨だから庭の手入れも出来ないだろう。
 幽々子様の頼みを二つ返事で引き受け、すぐに整理に取り掛かろうとお茶を勢い良く流し込み、そうしたら淹れたての熱々だった事を忘れていて噎せた。そんな私を見て幽々子様はまた笑っていたけれど、私は恥ずかしくてしょうがない。
 そんな事をからかわれながら書架に向かう。最後に書架の片付けをしたのはいつだったか、一年や二年では済まないくらいだと思う。何せ千年を越す歴史を誇る西行寺家の代々の書物が全て収められているのだから、生半可な覚悟で片付けは出来ない。
「別に全部引っ繰り返さなくても良いのよ、何か読み物を探すついでなんだから」
 書架の全てを整理し直すとしたら、二人で休まず続けても一日やそこいらではとても終わらない。なのでここ数百年の物だけを片付けるとの事だが、それでも半日はかかるだろう。
 書架の扉を開くと、溜まった埃が一斉に舞い上がる――ような事は無い。幽々子様がちょくちょく書見を楽しむ為に出入りしているからだ。
 が、逆にそのせいで年月順に並べられた本の順番がバラバラになったり、しまってあった場所を忘れられた本が床に積み重なったりしている。今日はそれらを整理し直す為に私が駆り出されたのだ。
「それでは、手分けして本をしまいましょう」
「ええ、頑張ってね妖夢」
 その返事からして嫌な予感はしていたが、案の定幽々子様は本を手に取ってはパラパラとめくる作業に夢中になった。片付けの最中に出てきた古い本などに夢中になる事は私もあるが、しかし幽々子様はそもそも片付けに参加していない。まぁ、主人と一緒に雑用をすると言うのも変な気分なので、私は私の作業に没頭する事にした。
 そうして本を片付け始めて数刻が経ったであろう時。床に積みあがっていた本はだいぶ数を減らし、幽々子様が新たに積み上げている本を除けば、僅かながら終わりが見えてきた頃だった。幽々子様は一冊の本に目を留めたまま私を手招きする。
「一体どうなされました?」
 問い掛けた私に、幽々子様は黙って手にする本に記された一文を私に見せてきた。
 
『富士見の娘、西行妖満開の時、幽明境を分かつ、その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
 願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様、永久に転生することを忘れ・・・』
 
「……何ですか、これは」
「あら、これを読んで面白そうだと思わないなんて。妖夢は頭が固いわね」
 いまいちピンと来ない私を、幽々子様は口元を本で隠し、からかう様な視線で見る。しかしわからない物はわからないのだ。本を見るに、結構な年月を経た記述である。そんな昔の記録を読んで、一体何が面白いのだろう?
 そんな私の考えは全てお見通しだったようで、幽々子様は一層目を細め、朗々と語った。
「西行妖。あれに何かが封じられていると書いてあるのよ、これには」
 その幽々子様の言葉で、私は朧気ながら理解した。
 西行妖は、この広大な白玉楼の庭にそびえ立つ一本の立派な桜だ。しかし、ただの桜じゃない。毎年他の桜が花をつける春になっても、西行妖は決してその花を満開にさせる事が無い。そんな不思議な桜に何かが封じられていると言う。
「一体何が眠ってるのかしらね」
「封印されるくらいだから、決して良い物では無いのでしょう」
 興奮を隠し切れない様子の幽々子様に、遠回しに釘を刺しておく。こんな書物に記されるくらいの大層な代物だ、いくら幽々子様でも興味本位でその封印を解いたりはしないだろう……と言い切れないのが我が主だ。
 しかし、実を言えば私も西行妖には興味があった。何せ、私どころか幽々子様ですら西行妖が満開になった所は見ていないのだ。もしその原因がこの封印とやらにあるのだとしたら、実際に行動には移さなくても心惹かれるのもわかる。そんな自分を戒める意味も込めて、私は幽々子様に釘を刺したのだった。
「大丈夫よぉ、そのくらいわかってるわ」
 おどけながら幽々子様は笑う。しかしその本心は掴みかねる。かと言ってこれ以上深く追求するわけにもいかず、私はそこでこの会話を打ち切り、作業を再開した。
 すっかり日が暮れた頃、ようやく作業は終った。幽々子様は西行妖について調べてみると言い、先ほどの本を部屋に持ち帰った。書架を出る時に背筋に寒気がしたが、振り返っても本以外には何も無い。早く風呂にでも入って冷えた体を温めようと、私は駆け足で部屋に戻った。
 
 ――――――――
 
 草木も眠る丑三つ時。広大な白玉楼の庭は、雨音を除いて静まり返っている。手元の提灯の他には一切の灯りの無い闇を、私はおっかなびっくり歩いていた。
 手元の提灯の他には、辺りを照らす物は何も無い。弱々しい灯りは今にも消えてしまいそうで、傘を握る手も、心なしか震えているような気がする。まるで何かが化けて出そうで、すぐにでも部屋に戻って布団にくるまりたくなる。
 半人半霊の癖してお化けが怖いのかと問われたら、情けないけれど怖いと答えざるを得ない。これはいくら修行を積んでもどうしようもない気がするけれど、しかしどこまでも自分が未熟に感じられて情けない。
 どうしてこんな雨降りの夜中に、わざわざ怖い思いをしてまで庭を歩いているのか。それは何故かと問われれば、自棄になりながらこう答えたい。
 誰かが居る気配がしたのだ。
 冥界故に白玉楼には結構な数の霊がいるが、しかしその誰もが、私や幽々子様を含めてこの時間は寝静まっている。本来はこんな時間に起きていて、しかも庭に出る者など誰も居ない筈なのだ。それなのに、この暗闇で確かに誰かの気配を感じて私は目を覚ました。
 怖い怖いと感じてはいるが、そのせいで逆に感覚が研ぎ澄まされている。この奇妙な気配の元を探るのには都合が良いが、しかし心臓には悪い。早いところ正体を確かめて布団に戻りたい。
 そう考えながら庭を歩いていると、暗闇に紛れて動く影が見えた。思わず提灯を取り落としそうになるが、傘を握り締める事で恐怖心を無理矢理抑えこんだ。動いた影を捉えるため、小走りで影を追う。
 遥か遠くの暗闇に、朧気ながら確かに動いている影。その動きは私に気付いている様子は無く、ある種の優雅ささえ携えてゆったりと歩いているのだが、対して少しずつ走る速度を上げている私は影に追いつけない。益々影の正体が化け物染みている気がしてきて、もう見なかった事にして部屋に戻ろうかなんて、情けない誘惑が襲い掛かってくる。
 影を追う内にいつの間にか広大な庭の外れに差し掛かり、私は枯れた桜並木をひた走っていた。何をするでもない目前の影は何が目的なのか、ただただこちらを振り返る事も無く歩き続ける。このまま歩き続けたらこの先には何があっただろうと考えて、その矢先に見えた物に私は背筋に薄ら寒い物を感じ、思わず立ち止まった。
 
 枯れた桜並木を抜けた先には。
 妖しく輝く花を咲かせた西行妖があった。
 
 追い続けていた影の正体は、私よりも背の高い少女だった。こちらを振り向く事のないまま雨に打たれ、弱々しくも妖しく光を放つ西行妖を見つめている。
 私はと言えば、まるで夢のような光景を呑み込む事が出来ず、ただただ呆然としていた。目の前の少女は何者だ? どうして西行妖が咲き始めている? そもそもこれは現実なのか?
 そして、私の背筋に寒気が走ったもう一つの理由。目の前にいる少女と西行妖が、昼間に幽々子様に見せられた封印の記録を想起させるからだ。
 少女の着流しが風に揺れる。生温い風はまるで誰かに息を吹きかけられているようで、非常に心地が悪い。今すぐにでもこの場を離れたい。しかしそれは叶わない。私の両足が、まるで金縛りに遭ったかのように動いてくれないのだ。
 風に揺られて、桜の花びらが一枚、ひらりひらりと舞い落ちる。その花びらはしかし奇妙な軌道を描き、訝しんで楼観剣の柄にかけたまま動かない私の手の甲に落ちた。
 そしてその花びらが花びらではなく、幽かに動く蝶であった事。それを理解して再び西行妖に目を遣ると、その全ての蝶が一斉に飛び立った事。それらから感じる名状し難き恐怖感。一斉に膨れ上がった死の匂い。鞘から剣を抜く事すら叶わず、私の意識はゆっくりと霧がかかるように薄れていく。
 血が止まるように力が抜け、膝から地面に倒れこむ私の瞳が最後に捉えた物、それは最後の最後で私の方に振り向いた少女。髪の色は夜を孕んだように黒く、見開いて私を見つめる瞳には儚さと僅かな殺意が不自然に同居しているのに――
 
 ――その顔は、何故だか幽々子様に似ていた。
 
 ――――――――
 
「夢を見たのよ」
 翌朝、気が付いたら自室の布団の中に戻っていた。幽々子様が言うには、朝起きて来ない私を見に行ったら部屋に居ない。適当な霊に捜索を命じたところ、私は西行妖の前で倒れ伏していた。余程深く寝入っていたらしく、朝餉を終えた頃になってようやく目を覚ました……と言う事だった。
 最初は病気か何かを心配していた幽々子様も、私が昨夜の出来事を話し始めると、途端に呆れた表情を見せる。最後まで話し終えた私にかけられた言葉が、溜め息と一緒になった「夢を見たのよ」だった。
「西行妖に花びらみたいな蝶が群がってて、しかも私にそっくりな少女が居たって言われても、ねぇ」
「でも……本当なんです……」
 それを真実だと言い張るには、私も少しばかり自信が無かった。何せ見た物が夢物語のような現実だったから。それを夢だと認めてしまう方が何倍も楽だし、整合性もつく。けれど私はあれほど鮮明な夢を見た事は無いし、感じた恐怖は今も覚えていて確かに本物だと言える。それに西行妖の前で倒れていたと言うのなら、私が自分から外に出てそこに向かったのは確実ではないのか。
 どこまでが現実でどこからが夢想なのか、何がなんだかわからない。それともやっぱり、私が見たのは全て現実だったのだろうか……?
「あの本を読んで、それを思い出して夢に見たってところでしょう?」
 幽々子様はあくまでも私の夢と言う事で片付けようとする。それもそうかもしれない。何せ私を捜すのに結構な数の霊が白玉楼を探し回ったそうだが、私が昨夜見た黒髪の少女は全く影も形も見つからなかったそうなのだ。冥界はそう簡単に出たり入ったり出来る場所ではない。もし黒髪の少女が存在したとしたら、それはまだ冥界のどこかにいなくてはいけないのだ。
「未熟な上に夢遊病だなんて、妖夢は面白いわね」
 幽々子様は扇子で口元を隠して意地悪く笑う。反発したいけれど、出来ない。昨夜に奇妙な気配を感じたのは私だけで、幽々子様は全く気が付かなかったらしいからだ。
 普段はとてもそうは見えないが、幽々子様も相当に鋭いお方である。同時にこれ以上無く掴み所の無いお方でもあるが、何にせよ知らない気配を感じても目を覚まさない程に鈍感ではない。そんな幽々子様の感覚が働かなかったと言うのだから、客観的に考えればこの件は私の錯覚か幻覚、或いは夢遊病の為せる業になってしまうだろう。
 一先ずは私の勘違いと言う事で話の決着は着いた。私は腑に落ちなかったが、しかしいくら違和感を訴えたところで証拠が決定的に欠けているし、日々の仕事は変わらずこなさねばならない。
 遅い一人の朝餉を終え、庭仕事をしようと庭へ出る。冥界は今日も雨だった。昨夜に比べれば幾分和らいではいるが、しかし小雨の中での仕事が億劫なのには変わりない。仕事を休める程降っているわけではない事が、尚更憂鬱だ。
 生温い風が私の体を撫でる。昨夜、西行妖の前での感覚に近い物を感じ、思わず辺りを見回してしまう。風に揺れている細い木々が、昨夜に見た少女の風に揺れる着流しに似ていた。
 
 ――――――――
 
 吹く風が障子をかたかたと揺らす。今も降り続く雨の音が微かに聞こえる。目を瞑って寝る事に専念しようとするが、暗闇では余計に風と雨の音が耳に響く。それが妙に神経をささくれ立たせて眠れない。
 昨夜に引き続き、今日も私は奇妙な気配を感じて目を覚ましたのだった。試しに頬を抓ってみると、鈍い痛みが走った。昨日は疑ったけれども、今も疑いたいけれども、感じている気配は確かに現実の物だ。やはり昨日のこれも夢ではなかったのだろうか。
 しかし、今日は私は外に出るのを躊躇った。日が沈むと、昨夜感じた恐怖が鎌首をもたげて襲い掛かってくるようだ。あの死蝶が一斉に飛び立つ様が、あの振り向いた少女が見せた瞳に宿る儚い殺意が、記憶の中から私の手足を縛りつけている。
 布団を頭まで被り、世界から音を消そうと躍起になった。早く朝になれとも思った。けれども闇に響く雨音はどこまでも私を追いかけてくるし、まるでこの夜が未来永劫続くように感じるくらい時間の進みが遅い。
 私はこのまま布団に篭もって震え続ければ良いのか、それともまた闇の中に少女を捜しにいくべきなのだろうか。幽々子様を起こして一緒に捜してもらう? 却下だ。どこの世界に、守るべき主人の影に隠れながら夜回りをする従者がいると言うのだ。
 そう、幽々子様がいるのだ。もしここで私が行かなかった事で幽々子様に何かあったとしたら、それこそ私は従者失格ではないのか。昨夜も気付いていなかったと言うし、もしあの少女が幽々子様に何か危害を加えるつもりなのなら、私が震え、縮み上がっているこの夜は絶好の機会だろう。
「それは駄目だ」
 それだけはさせては駄目だ。もし幽々子様に追い出されでもしたら私は行く宛てなど無いし、それを抜きにしたって幽々子様に何かあったとしたら私は耐えられない。そして、それを現実にさせない為には私が動くしかないのだ。
 どんなに怖くても恐ろしくても、私がここで怯えていて良い理由など無い。布団を跳ね除け、震える手で上着を羽織り、合わない歯の根を無理矢理に合わせながら楼観剣と白楼剣を手に取った。二振りの剣を差し、傘を手に取り提灯に火を灯す。そうして私は部屋を出た。
 雨は小降りとは言え、昨日から降り続いているせいで足元は滑りやすい。そもそも冥界にこうも続けて雨が降る事も異常なのだが、それはあの少女と何か関係があるのだろうか。転ばないように注意を払いつつ白玉楼中を歩き回る。無意識に西行妖の方面を後回しにしている事に気が付いたが、向かう気にはまだ慣れない。それまでには少女を捉えられるように祈るばかりだった。
 しかし祈りも虚しく、全く少女の見つかる気配は無い。そうして庭の粗方を捜し終え、帰りたくなる気持ちを抑えつつ西行妖に向かおうとした時だ。
「今晩は」
「うわあっ!?」
 突然、背後から声をかけられた。反射的に傘を投げ捨て、片手で楼観剣を抜き放つ。途端に速くなった鼓動を必死に落ち着けつつ、声の正体を確認しようと提灯の灯りに目を凝らす。薄ぼんやりと見えてきたその姿は――。
「主人の友達にいきなり刀を向けろだなんて、妖忌は面白い指導をしてきたのね」
「ゆ……紫様?」
「ええ。改めて今晩は妖夢、ご機嫌いかが?」
 幽々子様の親友であり、強大な力を持つ隙間妖怪――八雲紫その人であった。
 
「それにしても、こんな夜中にどうしたんですか? 幽々子様ならお休みになられてますが……」
 雨の中で立ち話も何だから、と、私は半ば強引に紫様に縁側へと連れて行かれた。少女の気配はまだ消えていなかったのだが、紫様にも何か考えがあるのだろうと、見回りから逃げたがる自分を正当化した。それ以上に、紫様が抵抗する暇すら与えてくれなかったと言うのもある。
 しかし、普段は昼間に来る紫様が夜、それもこんな丑三つ時に来るのもおかしい。もっとも本来は夜こそが妖の跋扈する時間であるし、普通の人間のような生活様式を保つ亡霊と半人半霊の方が傍から見たら可笑しいのかもしれないが。或いはこの紫様の訪問すら、あの少女の異変に関わるのだろうか?
 紫様はそんな私の混乱した思考を拾い上げる事も無く、隙間から上半身だけを乗り出した格好で私を見つめる。
「私が用があるのは幽々子じゃない。妖夢、今日は貴女に用があるのです」
 そして放たれた言葉は予想外。普段は私の事など歯牙にもかけないと言うのに、いきなり夜中に現れては私に用があると言う。今までの世界が中身だけガラリと様を変えてしまったようだ。その余りの違和感に、知らず私は吐き気を堪えていた。
 そんな私の様子など、紫様はそれこそ全く気にする様子が無い。ただただ自分の思う事を一方的に述べる様、その美しいまでの理不尽さだけは、私がいつも感じている日常と同じだった。
「私はあと少しで、しばらく眠りに着かなければなりません」
「は、はぁ……」
「その間に、貴女には幽々子を守って貰わないといけないのです」
 中々要領を得ない語り口も普段通りだった。
 紫様が「眠りに着く」と言って、長期に渡って姿を見せなくなる事は良くある事だ。本当に寝ているのかどうかは定かではないけれど、それは詮索したところでどうにもならないから極力気にしない事にしている。
 しかし、その間は私が幽々子様を守れとはどう言う事だろうか。それは私が普段やっている事ではないのか。或いはわざわざこんな夜更けに、紫様まで私を未熟だと言いに来たのだろうか。いや、いくら紫様でもそれは無い。何か裏がある筈だ。
「それはどう言う事でしょうか、出来ればもう少し詳しく……」
「妖夢。あなたは雨は斬れるようになったかしら?」
 けれども尋ねようとした私の言葉を遮り、紫様はまたもや要領を得ない質問を私に投げかける。雨を斬れるかどうかだって? 先日見た夢を再び思い出し、そして結局は未だに雨を斬るには至らない事が恥ずかしく思え、私は顔を赤くして俯いた。
 雨、そう雨だ。私があの夢を見た日から、書架であの西行妖の記述を見た日から、ずっとこの雨は降り続いている。頬を撫でる生温い風、幽々子様に似た黒髪の少女、全ての違和感はこの雨が降り始めた日に始まった。私が見た師父との夢は、もしかしたら私にこの異変を解決する事は出来ないと言う事を教えた物だったのだろうか?
 いや、だとしたら私は尚更雨を斬らなければならない。師父はこうも言っていた、『お前の剣が、自身の命まで断つ事になりかねん』と。その言葉の意味もよくわかっていないけれど、とにかく良い意味で無い事はわかる。
 じゃあ、どうすれば雨を斬れる――?
「どうして貴女が雨を斬れないのか、教えてあげましょうか」
 俯いた事で全てを悟ったのか、或いは最初からお見通しだったのか、僅かに声を低くして紫様は私に言う。投げかけられた言葉に驚いて顔を上げた。雨を斬れない理由? それを知れば、私はこの異変を解決出来るのだろうか? 恐らくは驚きを隠せない表情であろう私を一瞥し、紫様は口元を扇子で隠した。
「わからないのなら、教えてあげましょう」
 嘲笑っているような、高みから見下ろされているような、そんな視線が私の背筋に寒気を走らせる。その冷たい威圧感に負けないように懸命に眼に力を込め、紫様が何らかの解答を示してくれるのを待つ。時間が経つのが、酷く遅い。
 
「貴女が雨を斬れない理由。それは、貴女が雨を斬ろうとしているからです」
 
 放たれた言葉の意味がわからなかった。聞いたその内容をもう一度咀嚼して、しかしそれでもわからない。
 雨を斬ろうとしているから、私は雨を斬れない。全く持って意味不明、禅問答と同じか、或いは切迫したこの状況を考えたら禅問答の方が幾分マシに思えてくる。
「私から与えられるヒントはここまでです。後はあなたが答えを出せないと、とてもこれから先幽々子を任せる事など出来ない」
 紫様の声は、随分と辛辣な響きを孕んでいた。幽々子様を任せる事が出来ないとの言葉が、単に未熟と罵られるよりも何倍も重く胸に響く。
 けれど同時に、幽々子様を守る事その物が、今まで軽く考えていたよりもずっとずっと恐ろしい事のようにも思えてしまった。守る守ると言うばかりでいつまでも守られてばかり、そんな私は本当に西行寺家に仕えるに相応しいのだろうか?
 腰に差した二振りの剣が、急に重みを増した気がする。膝はいつの間にか笑い出していた。この場にへたり込まないようにするだけで精一杯だ。何かを言う事なんて、とても出来ない。
 紫様は扇を閉じ、はぁと溜め息をついた。私の未熟さにはほとほと愛想が尽きたとでも言わんばかりの、棘のある溜め息だった。
「妖忌はあなたに何を教えて来たのかしらね」
 妖忌、と紫様は師父の名を呼んだ。師父は私の生まれる何百年も前から西行寺家に仕えていたから、きっと紫様とも面識があったのだろうし、西行妖の開花も見た事があるのだろう。物静かな人だったから、そのような過去の思い出語りを聞く事は殆ど無かったけれども。
 師父は自分の主人を守り通す事が出来たのだろうか。師父は壁にぶつかった時、折れそうな心をどうやって繋ぎ止めたのだろうか。師父は――雨を斬る事が出来たのだろうか。
 答えの出るはずも無い堂々巡りの思考から気が付いた時には紫様はとっくにいなくなっていて、明るくなり始めた雨の縁側には、すっかり体の冷え切った私が一人佇んでいるだけだった。
 
 ――――――――
 
 結局その夜私は眠る時間など無く、夜を徹した状態で朝餉の時間を迎える事になった。
 口に運ぶ米は味がしない。自分が今生きている筈の世界に実感が持てない。勿論それは睡眠不足のせいではない。つい数日前までは何て事無く暮らしていた筈の世界が、まるで墨で塗りつぶされたかのように真っ暗に感じられる。頭が、重い。
「どうしたの妖夢、元気ないわね」
「いえ……平気です」
 心配する幽々子様の声も、どうにも遠く感じる。体は動いていて、私と言う存在は確かにそこに存在していて、けれど私は私と言う存在を上手く認識できない。ただ漠然とした巨大な不安、それが私の世界の全てを覆い隠している。
 味のしない食事を咀嚼し、熱いか冷たいかもわからない茶で喉を潤す。何かを見ているようで何も見ていない。聞こえているようで聞こえていない。ただただ怖い。
「……雨、随分長く降ってるわ」
 幽々子様の言葉通り、今日も雨は降り続いていた。殆どの感覚がぼやけて感じられていても、雨音だけは鼓膜を揺らし、少女の気配だけは肌に痛みをもたらしている。……少女の気配?
 
 昨日は朝になれば消えていた黒髪の少女の気配。
 それが今日は、朝を迎えても消えていない。
 
「そんな、馬鹿なっ!」
「妖夢!?」
 居ても立ってもいられず、私は勢い良く立ち上がった。弾みで湯呑みが倒れ茶が零れたが、そんな物を気に留めておく心の余裕は無かった。
 楼観剣の柄を握り締め、私は白玉楼中を走り回る。柄にかけた手は、少女を見つけ様に斬る為ではない。ただただ何かに縋り付いていないと壊れてしまいそうで、恐怖を少しでも逸らす何かが必要だったからだ。
 自室を、書架を、物置を、白玉楼中の全てを走り回った。仕えている霊が何事かと私を見る。私はと言えば、追っているのか逃げているのかわからない。ただ、少女の気配は薄いながらも白玉楼の何処に行っても感じられて、逃げ場が無いと言う事だけは理解できた。
「妖夢、落ち着きなさい」
 足の力が抜けてへたり込む私の肩に、後ろからやって来た幽々子様が手を掛ける。既に命は無い筈のその手に温もりを感じて、初めて私は心の隅に安堵を見つける事が出来た。離れてしまわないように、震える手で幽々子様の手を掴む。その手を空いた手で包み込まれて、私はほんの少しだけ恐怖を忘れる事が出来た。
「落ち着いて、一つ一つ話して御覧なさいな。大丈夫だから」
「幽々子様……」
「昨日話していた事と関係があるのでしょう? ……私も何か、違和感を感じるようになったもの」
 その言葉が、どれほど私を安心させてくれた事か。孤独だった世界に、一筋の光が差し込む。そして私はその光を失うわけにはいかない。
「先日話した通りです。幽々子様に似た少女が居て、その少女の気配をどこに居ても感じるんです」
「何処にいても?」
「何処にいても、です。冥界に迷い込んだ妖の類だとしたら、段々と力をつけているのかもしれません」
 ふうん、と呟いて幽々子様は首を傾げ、何やら思考に耽り始めた。しかし、果たして幽々子様にも正体が見極められるのだろうか。得体の知れない相手は、ただ力が強いだけの相手より何倍も恐ろしい。仮に今ここで少女が襲い掛かってきたとして、果たして私は幽々子様を守れるのだろうか?
 守れるかどうかじゃない、守るんだ。そう自分に言い聞かせても、体が震え出すのは止められない。先日夢に見た師父との稽古、その対峙した時の竦み上がる様に近い。昨夜の紫様との問答の時にも似ている。けれど、二人と違ってあの少女は見知らぬ存在だ。もし襲い掛かってきて勝つ事が出来なかったとしたら、その先で私を待っているのは「死」だ。
「やっぱり、あの本にあった西行妖云々と関係がありそうね」
 そして私は死が怖い。少し身近に迫ったそれを考えただけで、幽々子様の言葉なんてまるで頭に入って来ない。自室へと向かう幽々子様の後を、縋りつく物を求めて引き摺られるように歩く私。そんな情けない私が、自分や主を守れるわけがない。
「あれから色々と調べてみたのだけれどね、どうやら西行妖は強い怨念の篭もった桜らしいのよ」
 幽々子様の自室に入る。あれから随分と多くの書物に目を通したらしく、部屋の至るところに古めかしい本が散らばっていた。
「怨念、ですか」
「そう、怨念。かつて桜の下に名のある歌聖が葬られ、それ以来その桜は人々を魅了し死に至らしめた。そうした時には、西行妖はより妖艶に花を咲かせたと言うわ」
 人の血を吸う妖怪桜、それが西行妖なのだと過去の記録は語る。
 覚えている限り過去に一度だけ、師父が西行妖の開花した様を語ってくれた事があった。年端もいかない私が他の桜が咲く中、満足に花をつけない西行妖を不思議に思って尋ねたのだったと思う。師父は渋い顔をした後に、搾り出すように呟いていた。
『それは凄い桜だったが、……もう二度と咲くことは無いだろう』
 今から考えれば、師父は西行妖の封印についての何かを知っていたのだと思う。だからこそ咲かない桜を見て渋い顔をし、以降何を語る事もなかった。多くの人々の血を吸った桜がどれ程の物だったかは知る由も無いが、最初に読んだ書物の通り、随分と大層な手順をかけて封じられたのだろう。
 それでは何故、今になってその西行妖に関わる異変が起こり始めているのだろう? 封印が解け始めているのだとすれば、果たして何故? 私には何もわからない。
「私はもう少し調べてみるから、妖夢は休んで良いのよ」
 私を気遣う幽々子様の言葉にも、しかし私は碌な返事をする事が出来なかった。何もわからない、何も斬れない、何も出来ない。無力感に打ちひしがれ、かと言って打開策もわからず。果たして自分は何の為に仕えているのだろう――。

 ――――――――
 
 気が付けば、私は闇の中にいた。
 何も見えず、何も聞こえない。ただただ広がる暗闇の中、在る物はただ肌に刺さる研ぎ澄まされた殺気のみ。余りの殺気の濃さに眩暈がしたが、ここで倒れるわけにはいかないと直感で感じた。私が倒れたら、誰が幽々子様を守る。
「幽々子様、下がっていてください」
 背にした幽々子様に一声かけると、幽々子様が静かに頷いた気がした。何も見えない暗闇で、敢えて私は目を瞑る。こうすれば、僅かな衣擦れの音も聞き逃さない。体中に刺さる殺気が動いた瞬間に、その殺気の元を断つ。
 鞘から楼観剣を抜き放ち、静かに上段に構えた。両の手でしっかりと握り締める。張り詰めた空気の重さに負けそうになるけれど、背負う物の重さに比べれば何と言う事は無い。
 その体勢のまま、果たして何秒、果たして何分。下手したら何時間と暗闇での睨み合いは続いた。先に動けば斬り伏せられる。後の先を取るためには、痺れを切らした方が負けだ。
 そうして、時間の感覚を忘れる程に集中が研ぎ澄まされた時。張り詰めた空気が僅かに動く音がした。
「断命剣」
 手にする楼観剣の刃に霊気を纏う。いつぞやの稽古の時のように取り乱す事は無い。振り下ろす刃は確かに動き出した敵の後の先を捉え、翡翠の如き煌きを伴って殺気の主を両断する――筈だった。
「瞑想……なっ!」
 振り下ろす筈の手が、突然後ろから現れた何かによって掴まれた。無論、楼観剣が振り下ろされる事は無い。極限の集中でもって作り上げた最高の一太刀は、しかし突然の事に気を散らされ、雲散霧消してしまった。
 腕を掴んだ何者かは、そのまま私を羽交い絞めにする。剣だけは落とさないように握り締めているが、しかし次第に近付いてくる気配を前にして何も出来ない事に変わりは無い。
 そう、殺気の主は音速をもってして私の首を狙うような事はしなかった。むしろ蛇が獲物を絞め殺すように、一歩一歩ゆっくりと私に近付いてくる。その緩慢さに反して、段々と近付く度に殺気が濃くなっていくのがわかる。数瞬前までは抑え込めていた筈の恐怖は、もう抑えが利かない。手は震え、足の力は抜け、楼観剣を放さないように握り締める事さえも辛い。
 果たして私を羽交い絞めにしているのは誰なのか、背後からと言う事は、幽々子様は無事なのだろうか。力を振り絞って首を後ろへと向ける。
 
 そこに幽々子様の姿は無い。或いは最初からいなかったのか。
 そして私を抑えつけているのは、あの黒髪の少女。
 
 余りの事に声も出せない。恐怖が感情の全てを飲み込む。
 何故なら、その少女を、たしかに、幽々子様と同じに感じてしまったから――。
 混乱と恐怖の中、不意に私の手から楼観剣が離れた。持っていられなくて落としたわけではない。誰かに奪われたのだ。誰に? 答えは一つしかない。
 直後、私の胸を深々と切り裂く何か。私の心臓から流れ出る真っ赤なそれは、見紛う事なき私の血。背後の少女が手を放したが、もう私は自分の体を支える事さえ出来ない。そのまま冷たい地面へと倒れこむ。
 地面に転がった瞬間、意識を失う数瞬前。力を振り絞って眼を見開くと、そこには幽々子様とは似ても似つかない邪悪な笑みを浮かべる少女と、返り血に塗れた楼観剣を持った――私がいた。
 
 ――――――――
 
 もはや寝る事すらままならなかった。布団を跳ね除け起き上がる。
 今の今まで体験していたのは確かに夢なのに、夢だった筈なのに、胸を切り裂かれた感触は今も生々しく残っている。慌てて手を当てるが、現実の私には何も起こっていなかった。それが逆に不気味でならない。実感を伴わない現実よりも、現実を伴わない実感の方が気持ちが悪い。
 私を苛む悪夢は、日に日に危ない物になっている。夢が現実を浸蝕しているようなら尚更だ。夢の中で殺されたせいで現実でも死ぬだなんて、とてもじゃないけど洒落にならない。
 体は疲れているが、とても寝れる気分ではない。ゆっくりと起き上がって外を見ると、今日もまだ雨は降り続いていた。冬だと言うのに生温い風は止まず、昨日にも増して少女の気配は濃くなっている。冥界が段々と少女に包囲されていってる錯覚を覚え、それが夢での殺意の在り様に似ている事に気付く。
 楼観剣も白楼剣も、現実では奪われる事も無くしっかりと手元に残っていた。魂魄家に代々伝わる霊験あらたかな二振りの刀は、しかし私の手の中では輝きが鈍ったように見える。迷いを断つと言う白楼剣も、迷走を続ける私の手には余る代物だと言う事だろうか。
 そっと白楼剣を抜き放ち、逆手に構えてみる。切っ先を試しに喉元に当ててみると、ひんやりとした金属の感触が伝わってきた。
 
 例えばこのまま一思いに自分を刺してみれば、この迷いからも解き放たれるのではないか?
 
 そう思って手に力を入れてみるも、それ以上刃を進める事は出来なかった。当たり前だ。迷いを斬れる剣とは言え、普通のものが斬れないわけではない。喉を突き刺すだなんて単なる自殺で、それ以上でも以下でもない。
 そして私は、それが何の解決にもならない事を理解してしまっている。いっそ楽になりたいと思っても、守るべき物を頭で思い浮かべてその手を押し留めてしまう。理性が抑えを利かせるせいで、その理性が危うくなってしまっているのだ。自分が正気を保っているのかどうかすら、あの夢の後では良くわからない。
 理性と衝動の格闘の末に白楼剣を鞘に戻すと、ちょうど朝餉の支度が出来た事を仕えの霊が伝えに来た。のろのろと服を着替え、足を這いずるようにして廊下を歩く。空気が湿っているせいなのか、湿った板張りの廊下は何かの粘膜のように粘っこく感じた。
「おはよう、妖夢」
 食卓につくと、既に幽々子様は食事を始めていた。こくんと白米を飲み込んだ後の挨拶、それに伴う穏やかな微笑み。今のこの冥界の空気には、とても似つかわしくない優しさの篭もった一言。
「……おはようございます」
 私は同じようには挨拶を返せない。目の前の幽々子様は違うのに、これは現実なのに、しかしどうしても夢の中の少女と幽々子様が被って見える。この微笑の裏には邪悪な笑みが、刺すような殺意が籠められているような錯覚。私は何を考えているんだ、幽々子様は幽々子様で、あの少女ではないのに――
 否、果たして本当に違うのだろうか。幻想と現実が次第に溶け合っていく中で、幽々子様もあの少女の様にになってしまわない可能性はゼロではないのではないか。現に夢の中とは言え、背にして守っていた筈の幽々子様は少女へと変わってしまった。或いはあの夢の中に、最初から幽々子様なんていなかったのか?
「また、何かあったのかしら?」
 しかしそれを言うのなら、私だって幻想が現実に成り代わってしまう可能性もある。夢で最後の瞬間に見た、返り血に塗れて楼観剣を手にした私。もし現実に現れたあの私に私が殺されたとしたら、次に狙われるのは恐らく幽々子様だ。あの私と一緒になって笑っていたのは、幽々子様の姿をした少女だから。
「幽々子様……」
「どうしたの?」
 だから、私がもし本当に幽々子様を守りたいのだとしたら。
 真に選ぶべき選択肢は、やはり私がいなくなる事なのかもしれない。
 
「私を、殺してはいただけませんか」
 そう言って私は幽々子様に白楼剣を差し出した。
 
 幻想が現実に浸蝕してくるのなら、その前に現実に生きる事をやめてしまえば良いのではないか。それが私の答えだった。
 気まずい沈黙。差し出した白楼剣は今更戻せず、かと言ってもう戻す気も無く。幽々子様は何も言わず、ただ黙って私を見ていた。
「このままでは、きっと私は幽々子様を斬ってしまいます」
 言葉を重ねる。今まで溜めていた分、感情の堰を切ったように言葉が溢れ出てくる。逃げるためにならこうも饒舌になれるのか、やはり私は情けない半人前だ。
「そうなる前に、私を斬っていただきたいのです」
 自分で自分を斬る事が出来ないから、守る為だなんて大義名分をつけて幽々子様の手を汚させる。それが幽々子様をどれだけ愚弄し、傷つける行為なのか。けれど今の私には、自力で幽々子様を守る事が出来そうに無い。いや、それすらも言い訳だろうか。実のところ私は、ただ単に逃げ道を作ってもらいたいだけだ。
 私を見る幽々子様の目が細められる。さぞかし失望されている事だろう。これでは師父にも顔向けが出来そうにない。
「貸しなさい」
 献立を口に運ぶ手を止め、幽々子様は私の手から白楼剣を受け取って立ち上がった。鍔鳴りと共にゆっくりと白楼剣が鞘から引き抜かれ、手入れは欠かしていない筈なのに輝きの鈍った刃が顔を覗かせる。黙って私は眼を瞑った。あとはただ、幽々子様の手にある刃が私の生を終わらせるだけ。
 そうして湿った空気を切り裂くような一太刀が振るわれて。
 白楼剣は、横薙ぎに私の腹に「叩きつけ」られた。
「っっふ!?」
 刹那の痛みの後は安らかに逝ける物だと思っていた私は、みっともなく畳に顔を埋めながら混乱した。どうして私はまだ生きているのだろう、どうして苦しみが続いているのだろう。第一、走った痛みは肉が切り裂かれる痛みじゃない。重く鈍いそれは、斬撃ではなく打撃。
 ――そうか、峰打ちか。
「少しは落ち着いたかしら?」
 まだ内蔵が慣れないダメージにのた打ち回っていると言うのに、幽々子様は冷ややかにそんな事を言う。無論、食事を再開した幽々子様に言葉を返す事も出来ない。何かを喋ろうと口を開いても、出てくるのは苦悶の呻き声のみ。
「妖夢がそんなに無責任だったなんて知らなかったわ」
「申し訳……ございませ……」
「謝罪なんていらない。今は顔も見たくないわ」
 吐き捨てられるようなその言葉を受けて初めて、私は私が思っていた以上に放った言葉の持つ意味が重かった事を知った。体の中で燻ぶる吐き気を抑え、這い蹲るようにして白楼剣を手にし、その場を後にする。流石に今はもう死んだ方が良いとは思わなかったけれども、それ以上に自分が惨めに思えてしょうがなかった。
 
 ――――――――
 
 布団に倒れ伏し、私は自己嫌悪の輪廻に飛び込んだ。弱いから殺される、殺されたら幽々子様を守れない、幽々子様を守るには状況を打開する強さが要る、けれど私は弱い……。ああ、しかもそのせいで幽々子様に何て事を言ってしまったのだろう。
 肉体と精神の両方が悲鳴を上げている。師父が冥界を去ってからこれまで、私は何か壁にぶつかる事は無かった。ただの人より長い寿命、先の長過ぎる冥界暮らし。やる事と言えば庭の剪定と剣の修行で、しかも実戦の経験なんてどれだけ長い間していないのか。ひたすら素振りに費やされた日々は、しかし今役に立つわけではない。
『――お前の剣が、自身の命まで断つ事になりかねん』
 師父が言いたかったのは、今のこの状況の事なのだろうか。夢の中で、確かに私は私によって殺された。一片の曇りも無い殺意をもってして振るわれたあの一太刀は、断命剣、即ち命を断ち切る死その物。
 しかし師父は、私の剣によって私が殺されると言った。確かに姿形は私だったけれども、じゃああの私が私その物だったのかと考えると、それは何か違う気がする。あの夢の私にあって、今の私に無い物……?
「お悩みのようね」
「ひぃっ!?」
 突然首筋に冷たい手が触れ、私は驚いて飛び退いた。背後に現れたのは、もうそろそろ長い眠りに着く筈の紫様。
 現れた時の軽い口調に似合わず、その眼は全く笑っていない。殺意すら感じる――否、明確な殺意が籠められている眼だった。延髄に触れた指先の冷たさが、今も私を締め付けているように感じる。掻き寄せるようにして楼観剣を抱くが、そんな私に紫様は冷ややかな視線を送り続けていた。
「言ったでしょう、幽々子を守りなさいと」
 自己嫌悪の二重想起。言葉一つに空間が凍りつく錯覚。低く重い声が部屋に響き、私は気圧されて呼吸も忘れていた。
「幽々子を守れないあなたに――魂魄家に、価値なんて無いわ」
 そう言いながら紫様は隙間から体を出し、ゆっくりと私に近付いてくる。逃げ出したくても、腰が抜けて動けない。尻餅をついたままジリジリと後ずさりをするが、紫様はわざと私の下がるペースに合わせて歩いてくる。大して広くもない部屋、すぐに戸に背をぶつけ、止まってしまった。
「か、価値が無いとは、どういう事ですか」
「言葉通り。生かしておく価値が無いと言う事です。いや、むしろ今の貴女は幽々子にとって害になる」
 喉元に扇子を突きつけられて動けない。ずい、と紫様の顔が近寄ってくる。紫様の瞳に映る私は怯え、震えていた。
「自分でもわかったのでしょう、妖夢? あなたの考えた通り、このままではあなたは幽々子を殺してしまう」
 吐息を感じる程に顔を近づけられたまま、私はただ紫様の言葉に耳を傾けていた。反論したくなかったわけじゃない。けれど、有無を言わせて貰える状況ではない。それに紫様の言う事が、ついさっきまでの私の振る舞いをまるで肯定しているようにも感じたのだ。
 殺してくれだなどと守るべき主人にのたまった罪を、しかし紫様は必然だと言う。あそこで食い下がって殺されなくてはいけなかったと、紫様が言うのはつまりはそう言う事なのだろう。先刻までの私なら、もうこの時点で紫様に己の体を好きにさせていた。けれど――
「何故……何故私が幽々子様を殺すのですか」
 あの時体に打ち込まれた白楼剣の峰打ちが、僅かに私の中の迷いを打ち消していた。或いは幽々子様の冷水の様な視線で我に返ったのかもしれない。今の私は少し、ほんの少しだけ状況を打開する策を求め始めていた。策を求め、自分と幽々子様を救いたいと思い始めていた。だからまだ、今ここで殺されるわけにはいかない。
「何故私が、幽々子様にとっての害になるのですか。教えてください紫様」
 体は竦みあがって震えているけれど、眼に全神経を注ぎ込んで紫様を睨みつける。精一杯の抵抗。それがどの程度利いたのかはわからないけれども、紫様はしこたま私を睨み返した後に体を引いた。紫様が離れて初めて睨みつけていた間息を止めていた事に気付き、僅かに引き締めた心が弛むと共に深呼吸をする。動悸が速い。心臓が不自然に脈を打っている。
「……何故、魂魄家の者が冥界に仕えているか。貴女は知っている?」
 しばしの沈黙の後、紫様が口を開いた。さっきとは打って変わって静かな口調だけれども、その裏には明確な殺意が見え隠れしているようで安心できない。
「何故、と問われましても、死者の国である冥界には生きている人間が住めないのでは?」
「惜しいようで、全く違う」
 紫様が左手で扇を開く。その扇で口元が隠され、元からわからない表情が益々わからなくなる。
「冥界だから人間が住めないのではない。人間が住めないから冥界なのだと、そういう考えには至らないのかしら?」
 もっとも、わからないのは話の内容もなのだけれど。
 どう答えるか考えあぐねている私を差し置き、紫様は口元を隠したまま話を続けた。
「西行妖。冥界をより一層冥界たらしめているあの化け物は、確かに封印された筈だった」
 西行妖、その単語に私の耳は敏感に反応する。私の見る悪夢、冥界に漂う気配、止まない雨。それらは全て、書架であの西行妖に関する書を紐解いた日から始まった。
 記憶の中に根を張る、死蝶の飛び立つおぞましい様。幽々子様に酷似した少女。私を貫く楼観剣。思い出しただけで身が凍る。
「けれど、ここ数日になって封印に綻びが見え始めている」
「だとすれば、私が見ていたのはやはり現実……?」
 ぶれる事無く真っ直ぐに私を見つめる視線、その目元だけで紫様がそれを肯定しているのがわかった。
「しかし、それがどうすれば私が幽々子様を……殺してしまう、その事に結びつくのでしょう」
 あれの一部は現実。楼観剣で斬られたのはともかくとして、やはり西行妖の前での少女との邂逅は本物だったのだろう。ただ、これだけでは私が西行妖を巡る因果に巻き込まれる理由がわからなかった。紫様の目が一層細くなる。
「人間が住めない筈の冥界に、半分は人間の魂魄家が仕えている理由」
 そうして再び場の空気が冷たくなる。喉がカラカラに渇いている。頭が割れそうに痛い。生唾を飲み込む音が部屋に響いた。怖い、怖い、逃げ出したい。けれどここで逃げたら、恐らく私たちに未来は無い。
「生きる人間は西行妖の死に魅了され、しかし既に死んでいる身ではその毒性に気付く事も無い。かと言ってあれは放っておくには少しばかり危険過ぎる。半分は生き半分は死んでいる、その身をもって生と死の境界を体現する魂魄家の者にしか、西行妖を監視する事は出来ないのです」
 長い長い説明を、しかし紫様はあらかじめ用意していたかのようにサラリと言ってのけた。内容は一気に語られたせいで完全に理解するのは難しかったが、つまりは魂魄家は西行妖を管理する上で欠かす事が出来ない存在なのだろう。私は教えて貰った事もないせいで初めて知ったし、師父から受け継いだ庭師と言う仕事にそんな重要な意味があるだなんて、考えもしなかった。
「しかし裏を返せば、半分は死の魔性に引き摺られる要素があると言う事。それも貴女の様に未熟なら尚更」
 そして、だからこそ私が幽々子様に害を為す存在になり得ると言う事も。西行寺にとっての魂魄、幽々子様にとっての私は、身を守る脇差であると共に懐に突きつけられた短刀でもある。紫様が言っているのはそう言う事だ。
「封印に綻びが生まれた今、西行妖の怨念は貴女を使って完全に封印を解こうとしている。それだけはさせてはいけない」
 紫様の目に宿る殺意が、今までとは段違いに大きくなる。気圧される前に必死に視線を撥ね付け、楼観剣に手をかけた。
「ここであなたを殺せば、冥界に西行妖の操れる駒は無くなる。そうすれば時間が出来る、今度こそあの化け物に完全な封印を施せる」
 私如きの反発など何でもないと言うように、紫様は幽雅に、妖艶に閉じた扇を私へと向けた。いつぞやの記憶の中の、師父に竹刀の先を突きつけられている感覚に近い。けれど対峙している紫様は、あの時の師父の何倍もの威圧感を放っていた。それでも懸命に震える声を絞り出す。
「私は……私は、西行妖になど、屈しません!」
 抵抗虚しく、紫様が一歩私に近寄った。扇の先も間合いにグッと深く入り込んでくる。対して私が出来る事と言えば、視線を逸らさないように逃げたがる自分を叱咤し、楼観剣の柄を強く握り締めるだけ。鞘から抜き様に一太刀浴びせれば逃げる機会も万に一つは出来るかもしれないが、震える手では楼観剣を振り切れる自信が無かった。
「見える物しか触れられないお前に、何が出来る。雨を斬る事は流れる水を斬る事とは違う。そんな事も理解出来ないお前に、幽々子を守る事など出来るわけがない」
「いいえ、守ります! 守ってみせます!」
 とうとう紫様の私に対する呼称が「あなた」から「お前」になった。もうどうあれ、私はこのままでは殺される運命にあるのだろう。半ば自棄になりながら叫ぶ。
「お前が何を言おうとも、最早信用には値しない。吠えるだけで大切な物を守れるのなら、私も妖忌も別れを経験せずに済んだ」
 けれども最後まで紫様の心が変わる事は無かった。それもそうかもしれない。何せ私は実戦経験も無ければ特別腕が立つわけでもない、世襲で後を継いだに過ぎない頼りない半人前なのだから。
 判決を下すかのように扇が振り上げられた。この扇が振り下ろされた瞬間に、恐らく私は死ぬのだろう。
「死になさい」
 死を目前にして考えるのは、過去の思い出でも自分への情けなさでもなく、幽々子様の事だった。ああ、せっかくわかりかけていたのに。もう少しで何かが掴めそうだったのに。
 上がり切った扇は、そのまま真下に振り下ろされ――
 
「そこまでよ。妖夢から離れなさい、紫」
 
 ――扇が振り下ろされ、私が隙間に喰われるほんの一瞬前。戸を開き様に放たれた一言が、その声の主の姿が、初めて紫様の怒りを困惑へと変えた。
 開け放たれた戸の方を見れば、朝餉の時に私に向けたそれとはまた違った表情で紫様を睨みつける我が主。
「幽々子……」
 その場にいた誰もが、時が凍りついたかのように動きを止めていた。幽々子様は紫様を睨みつけたまま動かないし、紫様は驚愕した表情を変える事も無く幽々子様を見つめる。私は単純に緊張で動けなかった。
 いつまで経っても動かない空気に業を煮やしたのか、それとも単純に怒りが収まっていないのか。心底身震いしそうな声で、幽々子様は言う。
「離れろと言っているの。何がどうあれ、あなたにだって妖夢を殺されてなるものですか」
 その言葉を受けて、紫様の表情はハッキリと驚愕から悲哀へと変わった。理解されない事を嘆き悲しんでいるような、何か言いたい事を無理矢理押し留めているような。そんな紫様の様子を見るのは初めてだったから、私は私で更に混乱する。
「今日はもう、帰って」
 普段から仲の良い二人しか見た事の無い私には、この光景もまた夢か幻のように思える。半端者で未熟者な私を叱咤する時とはまた違う、幽々子様が本気で他者を否定する時の声の、なんと恐ろしい事か。その相手が紫様ともなれば尚更。
 しばらくの沈黙の後、動いたのは紫様だった。幽々子様に何かを言いかけて、やめる。苦虫を噛み潰したかのような表情を見せた後にスキマを開き、帰っていった。
 途端、緊張が解けたせいか腰が抜けてその場にへたりこむ。張り詰めた糸が切れたせいで私は荒い息を吐き、いつの間にか背中を濡らしていた冷や汗に不快感を覚える。そんな私の前に幽々子様は歩いてきた。
「幽々子様、いつから……?」
 息も絶え絶えになりながら問い掛ける。あれほどまでに失望させてしまったのに、私の部屋を訪ねてくるだなんてどういう事なのだろう。
「西行妖の封印が綻んでる、って辺りかしら? 紫から話を聞こうとするといつも骨が折れるから、盗み聞きでも話を聞きだした方が良いと思ったのよ」
 話の雲行きが怪しいとは思ったけどね。そう言って幽々子様は溜め息をついたが、私は己の不甲斐無さを感じずにはいられなかった。
「申し訳ありません、私が未熟なばかりに……」
 全ては私が至らないせい。私にもっと強さがあったのなら幽々子様を面倒事に巻き込む事も無かったし、紫様を怒らせる事も無かっただろう。滲み出る涙を誤魔化すために、座り込んだまま俯いた。嗚咽を隠そうと呼吸を止めたけれど、何か暖かい物が私の背中に回されて、それが幽々子様の手だと気付いて、驚いて私の涙は止まる。
「……ねぇ妖夢。私は確かにあなたが未熟だと思っているけれど、だからと言ってあなたがいなくなれば良いなんて思った事は一度も無いわ」
 その言葉が、まるで母のような温もりを伴って私の鼓膜を揺らす。迷子になって、冷たい雨に打たれて、途方に暮れている時に差し出された傘。
 もう、涙を堪える事が出来ない。大声を上げて幽々子様の胸にしがみつき、昼を過ぎ日が暮れてもそのまま、いくら流しても枯れそうに無い涙を流し続けた。
 
 ――――――――
 
 泣き疲れて、いつの間にか寝入っていたのだろうか。目が覚めた時にはとうに夜も更け、幽々子様はいなくなっていた。
 結局今日一日、何もせずに終わってしまった。ひたすら幽々子様の胸で泣きじゃくった記憶しかない。けれど一度ああして気持ちを清算したせいか、今の私は昨夜までとは嘘のように気分が良い。とても紫様に殺されかかっていたのが自分だとは思えない。もしあの時幽々子様が割り込んで来なかったら、今頃はとうに死んでいたかもしれないのに。
 そう、命がある、生きていると言う事は尊い事だ。肉体がじゃない。心が生きている者には、暖かさがある。あの時に幽々子様に抱き締められ、温もりの中でそう感じた。感じる事が出来た。殺してくれなどと言った時の私は、さぞかし幽々子様には冷たい彫像のように見えた事だろう。
 迷いの雨の中で傘を差し出されて、今度は私が幽々子様に傘を差し出す番だ。何せ幽々子様は、恐らく自身が雨に打たれている事にも気付いてはいない。いや、私にたった一つの傘を差し出したせいかもしれない。唯一確かなのは、主人に風邪を引かせるようなみっともない真似はもう出来ないと言う事だ。
 月明かりの無い闇の中、起き上がると世界は暗いのに開けて見えた。雨はまだ降り続いている。昨日までは纏わり付くように感じていた湿気は、今はもうどうとも思わない。夜の闇の中、どこかで彷徨う幽々子様を感じる。
 助けに行きたい。けれど助けに行くために、まずは焦らない事が肝心だ。焦りは世界を曇らせる。目を瞑り、落ち着いて深呼吸をすれば、
 ――ほら、ヒタヒタと近寄ってくる殺意がわかる。
 昨日と全く変わらない、まるで夢か幻のような混じり気の無い殺意。昨日と変わったのは、あれほどに震え怯えていたそれを、今は正面から直視出来る気がした事。
 闇の中、姿を見せずに殺意は歩を進める。一歩一歩、ゆっくりと。どこから来るのか、正面か、背後か、或いは横か頭上か――そのどれとも違う。
 殺意の主が楼観剣を振りかぶった瞬間に、私は眼を見開き現実へと覚醒した。
「見つけたっ!」
 目を覚ませば、布団に横になる私の上にのしかかり、楼観剣を振り被る私の偽者。夢の中にいる間に私を殺そうとしたのだろうけれど、覚めない夢なんて無い事を私は知った。目を覚ました私を見て偽者は驚く。身を捩って振り落とす事も容易。
 私の姿をした偽者は床に転がった後、楼観剣を手にしたまま外へと走り去った。何処に向かうかは想像に難くない。枕元の白楼剣を手にし、私はその後を追った。
 雨はここ数日で一番と言える程に激しい。大粒の雨が草木を打ち、私を瞬く間に濡れ鼠にする。それでも私は走る足を止めない。何かが欠けている違和感を感じたが、考えてみればなるほど、半霊がいない。生と死の境界である体、引き摺られる死の魔性、その意味がわかった。楼観剣を手にしているのが私の半霊ならば、つまりこれは自分自身との闘いと呼ぶに相応しい。
 雨の向こうに、庭を走る半霊の姿が見えた。駆ける足に一層力を籠め、距離を縮める。半霊が向かう先は、夜にも関わらず盛大な桜色の光を放っていた。
 決着を着ける場所、それ即ち西行妖。恐らくは数多の死蝶と黒髪の少女が待ち受けているのだろうけれど、遠くから見ても気付くのだから、西行妖の開花具合は先日の夜の比ではない。先日は精々三分咲きだった桜が今はほぼ満開に近いのだろうが、と言う事はもう本当に封印が解ける瀬戸際まで来ているのだろう。冥界に漂う死の気配は、今にも大口を開けて私を呑み込もうとしている様。
 そして私は、西行妖の前へと辿り着いた。満開の死の気配。
 西行妖の傍で、ただ私を見つめる少女。
 その少女の許へと駆け寄る私の半霊。
 役者はもう充分に揃ったと言える筈なのに。
 ――どうして、幽々子様までもが居るのか。
 幽々子様は西行妖に面した広大な庭の真ん中に立ち尽くし、呆然と西行妖を見上げていた。
 桜が散るように死蝶が飛び立ち、幽々子様へと集まる。死を操る幽々子様は死蝶に集られようがなんともないが、しかしそれでも動く事無く西行妖を見つめるその様は、異常だ。少なくとも、日中の私を優しく包み込んでくれた幽々子様ではない。
「幽々子様っ!」
 足を止め、声をかける。死蝶が生気を吸うせいで、今の幽々子様には私では近寄れない。私の呼び掛ける声も聞こえていないのか、幽々子様は動く気配すら無い。
 そして、私が近寄れないと言う事は。私の半霊が幽々子様を狙う、絶好の機会だと言う事。半霊が幽々子様に駆け寄る。死蝶が一斉に飛び立つ。半霊が楼観剣の鞘に手をかける。それでも幽々子様は動かない。まるで世界が停滞しているように感じていた私は、そこでようやく足を動かした。
 横薙ぎに振るわれた楼観剣が幽々子様を斬りつける直前、私は幽々子様に飛びかかり、突き飛ばした。幽々子様は泥濘んだ地面に転がり、代わりに楼観剣は深々と私の腹を切り裂き、しかし幽々子様の体に傷がつく事は無かった。そこでようやく正気を取り戻したのか、幽々子様が西行妖から私へと視線を移す。
「よう、む……妖夢?」
「幽々子様、ご無事ですか!?」
 雨の中、幽々子様は震えながらふるふると頷く。何かされた様子も無く、幸いにも幽々子様が無事だった事がわかる。幽々子様は震えながら言葉を続けた。
「何かに呼ばれた気がして……あの西行妖……開花を見るのは初めてなのに。……初めての筈なのに、どうして前に見た事ある気がするの……?」
 そこで言葉を切り、幽々子様は両腕で震える体を抱いた。寒さだけではあるまい。幽々子様の言葉から察するに、私が夢を見た後のような感覚に陥っているのだろう。自分が自分である事を信じたくなくなる、信じられなくなるような感覚。西行妖が幽々子様にどう関係しているのかは私には知る由も無いが、しかしわかるのはまだ問題が解決していないと言う事のみ。
「幽々子様、少しだけ待っていてください。私はまずは、目の前の危険を斬り伏せます」
 そう、私と幽々子様がこうしてやり取りをしている間にも、冥界の死の気配は濃くなっていく。楼観剣を力任せに薙いだ姿勢から動かなかった半霊も、私の言葉に反応したようにゆっくりと顔を持ち上げ、殺意しか無い眼で私を見る。この状況を切り抜けない事には、真相の究明だなんて言っていられない。
「だ、駄目よ妖夢! だってあなた、その怪我……!」
「大丈夫です。……私を信じてください」
 珍しく狼狽した声を上げる幽々子様。確かに幽々子様を庇った時の傷は決して浅くないが、けれどここで私が戦う以外の選択肢など無い。それに、命が奪われるよりも心を傷つけられる事の方が辛い。ここで幽々子様を見捨てて逃げ出したとしても、それは私にとっての死以外の何でもないのだ。

 完全に私に向き直った半霊が、再び楼観剣を振りかぶる。振り上げられた楼観剣には瞬く間に翡翠色の霊気が纏わりつき、充満する殺意をもってして何倍にも刀身が膨れ上がった。私は呼吸を落ち着け、腰に差した白楼剣の柄を握り締める。
『ダンメイケン』
 頭の中に直接響く声。それは自分の声とは似ても似つかない、殺意に塗りつぶされた雑音。私の半霊を乗っ取っているのが西行妖だとするのなら、聞こえた声は死に魅了された人々の嘆きが冥界に木霊している様か。
 風が一層強く吹き付け、雨は凄まじい勢いで私たちに叩きつける。冥界の全てが西行妖に魅了されたかのような、そんな感覚。
『メイソウザン』
 楼観剣の何倍にも膨れ上がった霊気が、そのまま翡翠色の刃となって私と幽々子様に向けて振り下ろされる。純然たる殺意で出来た断命剣は、私が今までに練り上げたどの断命剣よりも強い。視界が死の色で覆い尽くされそうになって――

 ――私はただ、白楼剣を横に払った。

 風が止んだ。
 雨が止んだ。
 冥界の全ての音が、糸が切れたかのように止まった。
 飛び立つ死蝶も、驚愕の表情を浮かべる少女や半霊も全て、一切合財が動きを止めた。
「無駄だ」
 私たちを両断する筈の死の刃は、しかし届く事なく眼前で掻き消えた。半霊が剣を止めたわけではない。私が斬ったのだ。
 ゆっくりと目を瞑る。全ての感覚が消え失せ、しかしそうして初めて私は世界を視る事が出来た。
「命を斬る事しか出来ないお前に、私たちは殺せない」
 『雨を斬るのだ』と言った師父。『雨を斬る事は流れる水を斬る事とは違う』と言った紫様。その言葉の意味を、ようやく私は理解する事が出来た。
 見えない物を視て、斬れない物を斬る。それこそが魂魄の剣。命を斬る殺人剣ではなく、守るべき物を守る活人剣。まるで雨の中の迷子に傘を差し出すような、それこそが私が幽々子様の為に振るう剣。それを私は守るべき主に教えられた。
「妖怪が鍛えた楼観剣にも――」
 だから、私はもう逃げない。守る力を手に入れた私には、幽々子様を守り通す責務がある。それはただの主従関係なんかじゃない、もっと深い所で繋がっている物。
「――絆だけは、斬らせはしない!」
 目を見開き、半霊を見据える。半霊はしばし呆然としていたが、初めてその表情に変化が現れた。みるみる内にその顔が怒りに染まり、見開いた瞳は紅く充血し、額には青筋が走る。私もしっかりと白楼剣を握る手に力を入れ直した。
 半霊が再び楼観剣を振りかぶり、霊気を纏う。先ほどの比ではない殺意は、直前のそれの何倍もの大きさの刃を作り出す。色も濃い。澄んだ翡翠の色をする筈の剣が、今は濁って真っ黒だ。
 けれどもう、風が吹き荒れる事は無い。雨が降る事も無い。憎しみでは心は動かせない。
「断迷剣」
 今度は私も、静かに白楼剣を振りかぶった。澄み渡った心は澄み渡る刀身を生む。憎しみで出来た断命剣の何倍も大きいそれは、晴れ渡った空のような蒼色をしていた。

「『迷津慈航斬』」

 断命剣が振り下ろされる前に、私は剣を振り下ろす。蒼空の如き刃は濁った泥のような刃を掻き消し、半霊へと、そして西行妖へと達した。
 夜の闇すら両断しそうな一太刀。冥界の夜に一筋の剣閃が走り、見える物も見えない物も、全てが時を止めたかのように沈黙する。静寂のみが支配する世界で、私も幽々子様も息をする事さえ忘れていた。
 やがて、カランと音を立てて楼観剣が地面に転がる。先刻までそれを振るっていた半霊は、今はもう元の形に戻り地に落ちていた。西行妖に咲き誇っていた死蝶は一匹残らず消え去っている。幽々子様に似た黒髪の少女は、ゆっくりと薄れていき……そして西行妖にもたれかかるようにして、消えた。
 ……勝った。勝てた。私にも幽々子様を守る事が出来た。その事を理解し、私は思わず飛び上がりたくなるのを堪え、幽々子様へと振り向き――倒れた。
「妖夢!?」
 四肢に力が入らない。視界が霞む。体を動かす事すらままならない。今になって、血が流れ続けている腹部の熱さを感じ始めた。少し、無茶をし過ぎたのだろうか。
「妖夢、しっかりして!」
 幽々子様の悲痛な叫びが耳に痛い。せっかく守り通せたのに、ここで倒れたら意味が無いじゃないか。起き上がれ、起き上がって幽々子様と部屋に戻って、そうしたら恥ずかしいけれども手当てをして貰おう――。
 しかし私の体は動いてくれない。何か言おうと思っても、喉が潰れたように声が出せない。視界は一層暗くなってきている。
 もしかして、これが死なのだろうか。だとすれば、あれほど殺される事に対して恐怖を抱いたのに、今は幽々子様を守れなくなる事の方が辛い。理解した途端にこれか、私はどこまで未熟者なのだろう。そう思ったその時、新しく近付いてくる気配を感じた。
「紫殿に呼び出されてみれば、既に終わった後とはな」
 突如現れた第三者は、しかし殺意などは感じさせない。そういった殺伐とした気配よりも、むしろ穏やかで澄み切った物を感じる。そしてこの気配には覚えがあった。
「私が来るまでもなかった。紫殿はもう少し、人を信じると言う事を覚えたほうが良いな」
 気配の主は、私と幽々子様目掛けて真っ直ぐに近付いてくる。もう目は殆ど見えなくなっているけれど、幽々子様が驚いて息を呑む様子が見えるようだ。
「妖夢」
 はい。潰れた喉を懸命に働かせ、私はその呼びかけに答えた。懐かしい、いつも厳しく私に剣を教えてくれた声。私に生きる術を教えてくれた声。私に守る術を教えてくれた声。
「強くなったな」
 もう、体の感覚なんて殆ど残っていないのに。
 堅く筋張った手が私の手に重ねられたのだけは、感じられた。

 ――――――――

 朝の陽射し。ほんの数日間感じなかっただけの太陽の光が、しかしもう随分長いこと見ていなかった物の様に感じる。
 布団に横になりながら、目だけを開けた。西行妖との対峙、自分自身との決闘、意識を失う程の深手。そんな凄惨な昨夜が嘘のように平和な朝。昨日まで冥界に満ちていた死の気配も、今はもう跡形も無く消え去っている。
 こうして目を開けられると言う事は、私はあれから一命を取り留めたのだろう。今から考えれば、半霊が気絶すれば肉体にも影響は出る筈だ。元々半分は死んでる身、そう簡単に死ぬわけがなかったのだろう。それはむしろ喜ばしい事なのだけれど。昨夜は死んだように転がっていた半霊も、今は私の隣で同じ布団を被っていた。
「目が覚めた?」
 そんな考え事をしているうちに、幽々子様が部屋に入って来た。布団から出ようと思ったが、昨夜斬られた腹部に鋭い痛みを感じ断念する。幽々子様は眉間に皺を寄せて言う。
「あら、まだ起き上がっちゃ駄目よ。いくら半人半霊だって、刀で斬られたら無事じゃいられないわ」
 その仕草がいつもの様に優しい物を感じさせるので、私は胸を撫で下ろした。昨夜のショックで塞ぎ込んだりしないのならば、ひとまず安心だ。……或いは、師父や紫様から何か聞いたのかもしれないが。
 幽々子様が持ってきてくれた、傷に効く薬草粥を寝ながら食べる。陽射しと言い、お粥と言い、妙に温まる。平和を噛み締めているような気がして、一口一口を大事に食べた。幽々子様が食べさせてあげるとの提案をしたが、そこまで悪い具合ではない。少し気恥ずかしくもあるので断った。頬を膨らます幽々子様を見て笑う。幽々子様と話して笑うのも、随分と久し振りな気がした。

「結局、西行妖には何が封印されているのかしらね」
 縁側に腰掛けて庭を眺めながら、幽々子様が呟く。扇越しの視線の遥か先には、昨夜の一件の現場となった西行妖がある。
 書架で見つけた一冊の本から始まった一件は、結局何一つ解明されずに終わってしまった。最初は事の真相を知りたいと幽々子様が始めた事なのだから、事が落ち着いた後で当初の目的が気になりだすのはしょうがない事なのかもしれない。
「わかりませんが……あの少女はもしかしたら、西行寺の者だったのかもしれません」
 あの本に書いてあった「富士見の娘」、それがあの幽々子様に似た少女だったのではないかと私は思っていた。死して尚西行妖の呪いを共にするその苦しみは、とても考えの及ぶ物ではない。「願うなら、二度と苦しみを味わうことの無い様――」と付け加えられた一節は、せめてもの手向けだったのだろうか。あの少女を封じる事になった魂魄の者は、守るべき主を守れなかった者は、果たしてどれほど苦しんだのだろうか。
「でも、それも全て憶測なのよね」
 そう、今となっては真相を知る由もない。私の考えている事だって、後から勝手に推測しただけの事だ。幽々子様の声が低くなるのも自然だろう。
「あなたは……いえ。私たちは、あの西行妖について何も知らない」
 そしてあの一件を通じて尚、私たちは西行妖の事を本で書いてある事以上には知らないのだ。知らない物を守り、監視しなければならない。西行寺と魂魄、両家に課せられた任務は重い。
「ねぇ妖夢。何も知らないって、凄く怖い事よね」
「幽々子様……?」
 幽々子様の口調が、心なしか真剣な物に変わった。戸惑う私を差し置き、幽々子様は言葉を続ける。
「私はね、本当の事が知りたいのよ。今度は好奇心だけじゃない、冥界を、妖夢を守るためにも」
 幽々子様が言っている事、それは再び西行妖の封印を解くと言う事だった。しかも今度は偶然にではなく、能動的にだ。それは少し考えただけでもおぞましい事。
 けれど、私はそれに対して異を唱える事が出来なかった。どうしてか?
「もしまたあんな事が起こったら、あなたはまた私を守ってくれる?」
 私もまた、いつまでも西行妖を腫れ物として扱うわけにはいかないと思っていたからだ。逃れられぬ運命にあるのなら、いっそ正面から向き合った方が遥かに楽になる。それは今回の一件で私が学んだ事でもあった。
 布団から出て畳に正座する。幽々子様の問い掛けに対して、私は力強く頷いた。
「私は幽々子様の従者です。幽々子様にお考えがあるのなら、私はそれに従うまで」
「そう」
 しばらく場を制する沈黙。幽々子様は西行妖を見つめながら、手にする扇をはためかせていた。果たして何を考えていらっしゃるのか、それはわからないけれども、幽々子様の為ならもう私の剣が鈍る事は無い。
 やがて幽々子様は扇を閉じ立ち上がる。私に扇を向け、真っ直ぐ私の目を見つめ、冥界中に響き渡るような凛とした声と共に口を開いた。
「冥界白玉楼の主、西行寺幽々子が命ずる」
 空気が震える。けれどそれは威圧ではない、決意だ。続く言葉を座して待つ。
 
「魂魄妖夢。西行妖を咲かせるために、幻想郷から全ての春を集めてまいれ」

 ざわついた空気は、幽々子様が喋り終えると共に嘘のように静まり返った。
 幽々子様の命に対して、私は楼観剣と白楼剣を手にし、深々と頭を下げる。
「仰せのままに」
 それは、冬の青空の下で交わした決意。
 私たちの妖々夢が、始まる。
「雨を斬れる様になるには三十年は掛かると言う。
 お前はまだ、雨の足元にも及ばない。」

お題を見た瞬間に、この一節が思い浮かびました。
カッコ良い冥界組が書けてる事を祈ります。

――――――――

コンペお疲れ様でした。
フリーレスにてコメントを返させて頂きました。こんな拙作に様々な感想を頂けて、もうホント何がなにやら。
コメントのおかげで、次のコンペも頑張れると思います。

それでは、お読み頂きありがとうございました。
バーボン
http://2style.net/bourbon/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/11/21 20:03:02
更新日時:
2010/01/17 12:17:29
評価:
16/17
POINT:
98
Rate:
1.45
1. 6 神鋼 ■2009/12/13 04:36:31
前半のペースに比べて終盤がやや性急に思いましたがよく練られていて興味深かったです。
2. 8 静かな部屋 ■2009/12/21 15:01:23
ということは、妖々夢の時の妖夢は病み上がり?だったのか。
従者も大変だなあ。
それはともかく、キャラクターがしっかりしていて良かったです。
ただ、なぜかちょっと読みづらかった……。
3. 6 藤木寸流 ■2010/01/04 02:01:06
 やだ……この妖夢格好いい……
 妖夢が開眼するのがちょっと唐突だったかな、というかその直前までへたれにへたれてたから特に。
 ここから妖々夢に繋げるにしては、ちょっと無理があるかなと思わないでもないですが。いきなり春度集めろって言ったり。この妖夢は相当成長してるし。この妖夢さん強いよ!
 ゆかりんの立場もなぁ。なんか報われないと思いつつも、同情され得ない悲しさ。
4. 4 パレット ■2010/01/10 05:11:28
 かっこよくまとまってるのですが、原作との辻褄合わせ的なものにちょっと苦労してるかなーという感が。
 妖々夢の動機付け、背景作りを舞台にして妖夢の成長を描いたという印象なのですが……なんだかんだで妖々夢において幽々子と妖夢は負けて、西行妖の開花もまあいいやってことで落ち着くイメージが強いので、妖々夢に対しては、このお話のように「きっちりかっちり背景を描いて動機付けをする」こと自体がそぐわないような気持ちが、少なくとも自分の中にはあってしまって。妖夢の成長物語としてきっちり描けているからこそ、そこのところが少しもやもやする感じでした。
5. 6 白錨 ■2010/01/10 10:31:56
妖々夢、直前の設定になるのでしょうか。妖夢の成長っぷりが見れて良かったです。
6. 6 椒良徳 ■2010/01/11 18:44:33
ちょっとしか出てこないけど、妖忌は渋いなあ。
「雨を斬れるようになるには〜〜」の一文から話を膨らませるのは素晴らしいと思います。
文章も読みやすく、妖夢、紫、幽々子がそれぞれ互いを大切に思っているのが感じ取れました。
ただ、いかんせん傑作というには若干力不足ということでこの点数にいたします。
7. 8 詩所 ■2010/01/13 22:08:14
 そして霊夢に負ける妖夢かわいい。

 己の未熟を知りもがきながらも極地に至る妖夢。
 直向きに従者の成長を願う幽々子。
 不完全な親友の従者を嘆く紫。
 かっこいいじいちゃん。
 場所的な動きがあまり無い中での登場人物を主に置いた描写もあり、出てくる者が生き生き(霊が多いですが)していました。
 妖夢の一人称という形と物語が合致していたため、危機感と恐怖感、焦りが直に感じられたのも良かったです。
8. 4 ホイセケヌ ■2010/01/13 22:31:47
ム廻、簷シノ、筵ォ・テ・ウ・、・、。」

、タ、ア、ノ。「、チ、遉テ、ネ・ュ・罕鬣ッ・ソゥ`、ヒネチヲ、ャクミ、ク、鬢、ハ、、壥、ャ、ケ、。」ム廻、マ、コ、テ、ネ、ヲ、ク、ヲ、ク、キ、テ、ム、ハ、キ、タ、テ、ソ、キ。「、チ、遉テ、ネラマ、ャタイサセ。、ケ、ョ、壥、ャ、キ、ハ、、、ヌ、筅ハ、、。」
9. 7 deso ■2010/01/14 01:02:16
かっこよかったです。
紫が語る魂魄家の役割は、なるほどなあ、と頷いてしまいました。
10. 6 零四季 ■2010/01/14 23:32:52
カッコいい冥界組。冥界組カッコいい。
少し薄いように感じました。結果として紫を敵に、桜を敵にして倒して終わり、という感じがして。ストーリーはある意味で王道、王道は大好きなので良かったと思います。
11. 7 やぶH ■2010/01/15 00:19:38
かっちょいい冥界組、だけではなく、解釈も素晴らしいですね。
原作にかなり忠実に書かれているため、妖々夢のバックストーリーとして違和感の無い出来だと思います。
12. 6 2号 ■2010/01/15 10:04:19
妖夢と幽々子への愛が伝わってきました。
冥界の二人は絵になって切なくていいですよね。
13. 4 八重結界 ■2010/01/15 15:42:14
 何かもう一つ、話にアクセントがあれば良かったのかもしれません。
14. 5 時計屋 ■2010/01/15 22:39:22
 文章は丁寧で読みやすいのですが、ちょっと味気なかったような気もします。
 長い部類のSSですので、文章もしくは展開に何か一味欲しかったです。
 後は「雨を斬る」という言葉が生かしきれてなかったように感じました。
 ちょっとありがちな解釈になってますし、それだと別に斬る対象は雨じゃなくても良かったような……。
15. 7 焼麩 ■2010/01/15 22:55:26
カッコ良いです。
ただ、カッコ良すぎて原作の迷走っぷりを思い出したときにもどかしくなる。
お題の活かし方がいい。あの台詞は忘れていました。
淡麗な語り口が妖夢のストイックな姿勢と相まって、クライマックスまでじりじりと盛り上げてくれました。
16. 8 木村圭 ■2010/01/15 23:09:33
カッコ良い冥界組でした、で必要十分な賛辞になると信じて。
幽々子登場シーンだけがとってつけたような尊敬語での描写だったり、ところどころ妙に軽かったり、
シリアス全開のストーリーを支えてくれた地の文がところどころほつれていたように感じられたのが気になりました。
しっかりしているだけに浮いている部分が殊更目立ってしまったような印象。減点対象ではないですけども。
17. フリーレス バーボン ■2010/01/17 03:40:05
そそわじゃ有り得ない(少なくとも自分にとっては)量のコメントを貰って、入賞したわけでもないのに悶えました。
パソコンに向かって深く頭を垂れてから、コメント返させて頂きます。

>神鋼さん
前半で少々間延びしてしまってるかなーと思ったのですが、むしろ後半をじっくり書くべきでしたね。
もっとも時間的に厳しかったのですが、興味を惹いて頂けたのなら幸いです。

>静かな部屋さん
やっぱり、読み辛いですよねコレ……縦読みだと少しマシになるかもです、横だと文字が詰まりすぎだなぁ
キャラの造形、大丈夫でしたか。結構不安だったので、そう言って頂けると安心です。

>藤木寸流さん
紫は血の涙を流しながらフォローするのをやめました。作中語ってない部分で「決して悪意があってやってるわけじゃないんだよー」ってのを伝えていられれば良いのですが。
展開の急さは今後の課題ですね。原作とのすり合わせも。妖夢が格好良いと言って貰えたそれだけで、充分今後の活力になります。

>zarさん
原作のバックボーンを妄想するのが大好きなんです。妖々夢の付属txtを何度も読み返して書きました。

>パレットさん
確かに、本編の終わりまでを考えると雰囲気にそぐわない感じは否めませんね。
そう言う意味で、東方っぽくない今作の結果が振るわなかったのも必然だったのかもしれません。

>白猫さん
妖々夢の前日譚ですね、書いてたイメージとしては。
あとは「妖怪が鍛えた楼観剣に〜」の台詞が書きたかったってのもあります。絆以外は何でも斬れるよ、みたいな。

>椒良徳さん
このSSは妖夢だけじゃなくて妖忌も裏の主人公として書いたので、妖夢の回想なんかから、妖忌が何を思って妖夢に話をしていたのかとかも思い描いて頂けたらと思います。
傑作には程遠いですねw 他の方々のSSで勉強しつつ、次のコンペでは違った結果を出せるように頑張ります。

>詩所さん
妖夢の一人称に関しては、普段書き慣れてる文体が一番良い物を書けるだろう……と思っての事なので、むしろ三人称が苦手なだけだったりw
良い方に転んだようで良かったです。キャラは全員に何かしらの見せ場・救いを持たせたかったので、こうなりました。

>desoさん
カッコ良かったなら何よりです。独自設定も違和感はそんなに無いようで、安心です。

>零四季さん
そう、この話一本道なんですよね。寄り道して主軸がブレるよりは良いかなーって思ったんですが。
幽々子を封印せざるを得なかった妖忌との対比ってのもあるにはあるんですが、そこまで大した物でも無いですし。
ただ、そんな拙作でも楽しんでいただけたのなら幸いです。

>やぶHさん
そこまで誉められると逆に怖いですw
ただ、なるべく矛盾を出さないように考えて話を作ったので、そう言って頂けるとありがたいです。

>2号さん
キャラ愛は創作の根底ですよねw でも自分は東方に好きじゃないキャラがいないからなぁ
妖々夢は初めてエンディングを見た原作なので、その分思い入れも強かったのです。

>八重結界さん
自分が今回のコンペで面白いなと思ったSSも、それも一つの話の中に様々な話が見事に混ざり合っていた物でした。
自分も、そう言った話を書いてみるべきなのかもしれません。

>時計屋さん
そう、他に代用の利く解釈の仕方何ですよね。自分の脳味噌じゃこんなんが精一杯でした……。
文章も展開も味が足りない、凡百じゃあなぁ。現在、暗中模索の最中であります。

>焼麩さん
原作とのズレはいかんともしがたいようですね……。
あの台詞、格好良いじゃないですか。皆さんもっと萃夢想やりましょうよ!

>木村圭さん
全体的に詰めが甘いのかな自分。そういう所で上位陣との差が出るんですよねー。
それでも自分の書いたキャラがカッコ良いと言われれば、次もまた頑張れます。

>9の文字化けしてる方も、コメントして貰っただけで充分嬉しいです。

最後にもう一度、コメントしてくださった方もスルーされた方も。
読んで頂いて、本当にありがとうございました!
名前 メール
評価 パスワード
<< 作品集に戻る
作品の編集 コメントの削除
番号 パスワード