Good Bye, Rainy Moon.

作品集: 最新 投稿日時: 2009/11/21 21:31:43 更新日時: 2009/11/21 21:31:43 評価: 18/19 POINT: 119 Rate: 1.52
     ***


 雨が降ってきたからって走ることはない。
 走ったって、先も雨だ。


     ***










     1



     ***



 死の海で、身体を濡らす。
 豊かの海と名付けられているここは、月にとって非常に重要な役割を担っているのだと、いつだったか豊姫様に聞いたことがあった。水面に映るすべてと、境界線を隔てて繋がっているのだ、と。それが原因となって、遥か昔に月面戦争が勃発したのだとも、彼女は言っていた気がする。

「―――は、」

 戦場から逃げ出してきた達成感と同時に、虚無感が私の全身を襲う。命のない水を顔に思い切り打ちつけ、目じりに浮かんでいた塩水を押し流した。

 戦争。

 つまりは、そういうことだ。
 今、地球と戦争をしているこの星は死にかけている。戦争自体で負けているわけではなく、穢れというものを目の当たりにした兵士たちが皆、苦しんでいるのだ。どちらかというと、生存競争のようなものだと私は思っている。

 月は穢れのない土地―――
 昔から、そうだ。
 だから今も、そうなのだろう。
 ずっとそう考えていたけれど、現実はどうも違うようだった。
 死という名の穢れは泡沫のように、次々と現れては消えていくし、“穢れた地”に住んでいるものと交戦している時点で、もはや月は穢れてしまっているに違いない。

 人を殺した私だって、既に穢れに満ちているというのに。
 それが住んでいる場所が穢れていないなど、あるわけがない。


「―――レイセン?」


 背後から、優しい声で名前を呼ばれて、私は思わずびくっと肩を跳ねあげてしまった。
 優しくて、温かい。ずっと聞きたかった主の声だ。

「豊姫様……?」

 私は言葉で表すことが出来ないほど嬉しくて、無理やりに笑顔を作って振り返る。隣には依姫様もいて、私はさらに嬉しくなった。このままさっき流して捨てた涙が戻ってくるかとも思ったほどだったけれど、


「―――どうして、逃げてきたの?」


 一瞬で笑顔が、凍りついた。

 二人は、笑ってなどいなかった。私に笑顔など、見せてはくれなかった。
 帽子で片目を隠したまま、豊姫様は私を睨んでいる。出来の悪い弟子を見るような目つきで、戦争から逃げたことを無言で責めている。
 両腕を胸の前で組んだまま、依姫様は私を眺めている。どうしようもない、手の施しようもない壊れた玩具を見るような目つきで―――、

「……あの、」
「戦争は、まだ終わっていないのよ」

 続けて依姫様の口から発せられたその言葉に、私は本当に言葉を失った。
 呼吸が掠れて、
 息が苦しくなって、
 訳も分からないまま、悔し涙が頬を伝う。

 私がいけないのか?
 死ぬことを恐れて、逃げた私が?
 無益な争いにすべてを捧げて散っていく者でなくては、この世界で生きていく資格などないのだろうか?

 たった一言、「おかえりなさい」と。
 そう主に囁いてもらえることを望んでは、いけなかったのだろうか?

 疑問がぐるぐるぐるぐると脳を侵食していき、私は二人から一歩後ずさった。このままでは、すぐに戦場に連れ戻されてしまうかもしれない。いや、私はもしかしたら連れ戻されることを望んでいるのかもしれないけれど、ただ、ずっと信じ続けていた二人が、どうしようもなく怖かった。

「レイセン、」豊姫様が私に告げる。「貴女は、仲間を見捨てているのよ?」

 ある意味で予想通りの言葉。私が何度も自分に言い聞かせ、それでも従う理由の見つからなかった意思。
 見捨てている?
 だから、どうした!?
 身体がざわつき、視界が真っ赤に染まる。
 赤い涙を流しながら、私は叫んだ。

「―――この戦争に、何の意味があるんですかッ!?」

 脆い私の感情は、こうしてすぐに爆発した。暴走、といっても過言ではないかもしれない。赤くぼやけた視界に映る二人の目の中で、真っ赤な兎の瞳がぎらぎらと輝いている。

「どうしようもないじゃないですか! 確かに負けてしまっては、この月は地球人に蹂躙されてしまうんでしょう。でも、勝ったってそれは同じ事じゃないんですか!? 弾丸が撃ち抜いた穢れが、もう月には満ちています!」

 きっと、狂っているのは私だ。叫びながら、私は冷たい客観で自分を眺めていた。真っ赤に燃えるこの赤が、自分自身をも狂わせている。私は、この眼が、私自身が、大嫌いだった。
 そんな、私の狂気の瞳。
 波長をずらして狂わせる―――彼女たちにもそれをやってしまおうか、と。今の私は本気でそう思った。まだ少し残っていた冷静な部分がそれを否定し、独りで走り続けていた感情も少しずつ大人しくなっていった。

 心配そうに私をみるその姿がどうしても演技に見えてしまって、私は心の中で首を振る。
 違う。実際に、ただ私がいけなかっただけなのだ。
 玉兎で、兵士である私が戦争から逃げて、あわよくばそれを歓迎してもらおうなど、あまりに虫が良すぎる話ではないか?
 ……そうよ、当たり前の話じゃない……。
 無理やりに自分を納得させて、私は先ほどよりもぎこちない作り笑いを二人に向けた。

「申し訳ありませんでした」そう言って、頭を深々と下げる。「私みたいな存在は、何も願ったりしては、いけないんですよね」
「レイセン……」

 作り笑いはどこまでも作り笑いで、私は皮肉を込めてしまった自分を嘲笑った。別に、彼女たち二人に八つ当たりしたところで、何かが変わるわけではないのだ。この戦争が綿月姉妹―――二人のことだ―――の所為ではないことくらい私はもちろん知っているし、私の大好きな二人に、こんな情けない、穢れた自分の姿を見せていたくはなかった。

「すぐ、戦場に戻りますから。どうか、見逃して下さい」

 それだけ言って、返事も待たずに私は位相をずらす。否、逆位相を取った。
 逆位相を取ることで、私の存在は否定される。
 私から、
 世界から、
 否定されればそれは消える。
 完全に姿が見えなくなるのだ。

 二人の認識から外れた私は、砂浜を踏みしめながら二人の下を離れた。依姫様が何事か叫んでいたけれど、豊姫様が一言何かを言っただけで、後には沈黙しか続かなかった。
 綿月姉妹は、私の狂気の力をよく知っている。使い方を教えてくれたのもあの二人だ。それだけに急に消えた私に気付いても別段驚くことはなかったのは理解できるけれど、まるでそれを予想していたかのように動かなかったのは不思議だった。

 振り返ったら、どんな表情をしているのだろうか?
 見てみたい衝動に駆られたが、思い直して私はまっすぐ歩き続けることにした。振り返って後悔するより、最初から何もしない方が精神的に健康だと思ったのだ。

「ごめんなさい」

 口の中で、呟いてみる。
 誰にあてたものでもないけれど、ただ、私が悪いということだけは良く分かった。それに気付くということは成長です、といつだったか豊姫様が言っていたような気がするが、私はあの時から少しでも成長しただろうか?

 ネガティブに進む思考回路は、今までとまったく変わっていない。自分の能力が嫌いだという事実もまた然りだ。
 嫌だ、と言っても戦争に参加する知り合いたちとも考え方が異なるし、誰とも一緒にいることがない、独りでいる方がずっと多いといったことも、周りとはまったく違う。自分は、月においての異端だった。

 消えたい。
 泡沫のように。
 消して下さい。
 命のように。

 逆位相を取ったかりそめの消滅なんかじゃなくて、完全にこの世界から消えてしまいたかった。
 それが私の願いで、たった一つの祈りだ。

 そう考えているうちに、私は戦場の基地へと戻って来ていた。別に、海と遠いわけでもない、町と特別離れているわけでもない。少しだけ“表側”にのめり込んだ空間で、私たちは戦っていたのだ。

 月の技術を駆使して作られた戦場基地。地球ごときの武装ではまず破られることなどあり得ないから安心して中にいることが出来るが、実際そんなものはどうでも良かった。月にとって地球が脅威なのは、地球の穢れが月に侵食し、生きていくための空間をどんどんと制圧してしまうことだ。現実が、幻想を駆逐することこそが、今起きている戦争の原因だった。

 基地は、逃げる前と当然変わらず、無機質な外観を私に見せつけた。冷たい風が身体を撫で、思わずぶる、と震えてしまう。足元に散らばる砂は太陽の光を反射して、穢れた地上を照らしているらしい。

 ようやく入り口に辿り着く。瞳孔認証システムを通過して、私は基地の中へと足を踏み入れた。
 中は、しんと静まり返っていた。

「あ、レイセン! どこ行ってたの? 死んだんじゃないかって心配したんだから!」

 同僚が、遠くから私に気付いて近づいてきた。私より耳の大きな、大柄な玉兎だ。いつも陽気な彼女は他の皆からの人気者で、独りで地球を殺し続けているだけの私にも気を配ってくれる。
 死んだんじゃないか―――?
 そうだったら、どれだけ良かっただろう? 私はくつくつと口の中で笑いを漏らす。残念なことに、私はその“死”を恐れて、自分のすみかに逃げようとしていた。あわよくば主に快く迎え入れられるという幻想を抱き、貴女たちを見捨てて生き延びようとしていたのだ。
 どこからどうみても、滑稽じゃないか。

「ちょっと、頭を冷やしに行っていたのよ」

 自分があまりにも情けなすぎて、彼女に目を合わせることが出来なかった。彼女だって、玉兎の中で最も狂っているとされた私の瞳となど、目を合わせたくないに違いない。
 勝手にそう納得して、私は彼女の横を通り過ぎようとした。

「そう……? 元気ないけど、……まぁ当たり前か」

 普段の私の性格を知っているからか、彼女はそう言って私の為に道を譲ってくれた。細いこの廊下では、そうでもしないと通ることが出来ない。
 ここですれ違ったということは、彼女はこれから出なければならないのだろう。他の玉兎の出撃予定など私は知らないから、そういうものについてはまったく分かっていなかった。

 無機質な廊下をただひたすらに歩き続ける。白い壁が私の色を否定しながら反射する。どんな攻撃をも防ぐことが出来るはずなのに、精神が未熟ゆえに内部から壊れ始めているこの戦争……。
 なんて、無様。
 もう溜息しか出てこない。

 ばたん、と勢いよく自室の扉を閉め、荒れ始めた呼吸を落ち着ける。優しすぎる彼女に、優しすぎる主たちに、私はどういう顔を向ければいいのだろう? 最後まで私は臆病で、現実から逃げ続けるだけなのだろうか?
 洗面所に駆け込み、鏡を見つめる。憔悴しきった白い顔が映って―――、
 赤い瞳が、
 私を睨む。
 狂い狂わす、気持ち悪い瞳が。
 私は、これが大嫌いだった。
 月の兎の目はすべて赤いけれど、私のそれだけは異常に赤かったのだ。

 何度も何度も、気持ちが悪いと言われた。
 私も、気持ちが悪いと思った。
 この眼のおかげで得をしたことなんて一度もなかったし、この濃厚で、濁った赤を認めてくれる人も、もちろんいなかった。
 決して触れないでいてくれたのは、主である綿月姉妹だけ。

「酷い顔ね」

 私は鏡の中の自分に囁く。声は掠れていて、自分でも聞き取れないほどだった。

「酷い、顔だわ」

 もう一度だけ、言ってみる。
 返事をするのも面倒くさそうな、つまらない表情で兎はそこに立っていた。
 銅像のように、押し寄せる感情の波に身体を濡らしたまま。
 何をするでもなく、ただそこに私は在っただけだった。

 ―――ざぱっ。

 息を止めて、豊かの海でしたのと同じようにして水を被る。蛇口から流れ出る水を止めもせず、私は数十回にもわたって水を浴び続けた。
 すぐ、戦場に呼ばれるだろう。
 それまでには、この気持ちをすべて流しておかないと。感情を殺してあの場所に行かないと、狂気の兎は狂ってしまう。


「……時間ね」

 時計の針は、日常の死へ行くための時間を指していた。汚れた方のブレザーを脱ぎ捨て、ロッカーから適当に選んで同じようなものを着る。それから再び鏡の前に立ち、乱れた髪形を整えた。
 理由があるわけではない。ただの気持ちの整理だ。こうして身だしなみを整えていつもの私に戻れば、感情を殺して歩き出すことが出来る。
 いつもなら、そうなのだけれど。

 明日、私は生きてここにいるだろうか?
 たぶん、そんなことはないんだろう。
 感情を殺しきれそうになかったから。
 私はもう既に、狂ってしまったのだ。
 戦場から逃げたしたりなどしなければ、こんな思いはしなくて済んだのかもしれない。


 走る、走る、兎は走る。
 基地を飛び出し、戦場へ。
 数多くの仲間たちが穢れの地球と戦い続ける、その場所へ。

「レイセン! 援護お願い!」

 あぁ、また貴女か。
 私は彼女に見えないように溜息を吐いた。
 彼女には、きっと穢れた地球の民が見えているのだろう。月に対して忠実で、この戦争は正しいものだと信じているから。悪いのは地球で、自分たちはそれから守っているだけなのだと信じているから。
 私には、まったく見えない。この場所で地球の民が見えた試しがない。
 そんなものは、幻想だ。

 私は彼女の言葉を無視して、前線へと進んだ。戸惑う味方たちの間をすり抜け、一気に最前線まで躍り出る。そこにいた玉兎たち全員が驚いた表情を浮かべて、私はそれすらも無視して走り続けた。
 私は、止まらない。
 幻想としての月から、現実としての月へ。
 その境界線まで、制止の声も聞かずに疾走する。彼女たちには、穢れの中を走っていく私の姿が見えているに違いない。けれど私には、誰も見えない。無機質な月の砂を蹴飛ばして、暗い月の平野を駆け抜けていっているようにしか、感じない。


 やがて、境界線まで辿り着く。
 ここは、月にとっての果てだった。
 幻想の月の手に届く、最大の範囲。
 果ては、
 静かだった。
 風はなく、ひんやり冷たい、氷のように。

「これが、幻影なんだわ」

 砂に突き立てられた赤と白の縞模様の描かれた大きな旗を、私は引っこ抜いた。
 人間たちが立てたといわれる、穢れの証。
 しかし―――、と私はいつも考える。
 地球は穢れか?
 誰が基準だ?
“すべてはただそこに在る”という常識を壊したのは、私たち月の民じゃないのか?

 生きていること自体が罪だとは言うけれど、それならば当然月に生きる私たちも罪人なのだ。そして罪人は、穢れている。当たり前のことだ。穢れがないから寿命がない、そんな考えが答えで、それでいいのだろうか?

 私は旗をへし折って、彼方へと放り投げた。こんなことをしても戦争が終わるはずがないのに、どうしてもそうせずには居られなかった。魔法のように、月に幻影を見せ続けて、姿の見えない敵と戦争を続けるこの旗を、消し去ることが出来れば……、と。

 私が狂っているのだろうか?
 彼女たちが狂っているのだろうか?
 例えばこうして立っている今も、こめかみに銃を突きつけられているのかもしれない。
例えば今戦っている玉兎たちも、その銃を向ける先には広々とした宇宙空間しか広がってはいないのかもしれない。

「だから、私は」

 唇からわずかな言葉が漏れ出して、音にならずに溶けていく。

 あぁ―――、
 きっと、貴女たちは優し過ぎたのだ。
 豊姫様も、依姫様も、まだ名前も知らないあの玉兎も。
 優し過ぎるから、私は貴女たちが怖い。
 その優しい瞳に映る自分が怖くて、死んでしまいたくなるのだ。

 いっそのこと、死んでみようか? 鈍く輝いて、一瞬の塵になれるように。
 もちろん死ぬことはとても怖いけれど。
 そもそも、今の私が生きていると言えるのかどうかすら分からないのだから。


 私は自分を、解き放つ。


 視界の隅で、蒼が光る。
 生命の星、穢れた星、地球だ。
 穢れは、何故だかとても、綺麗だった。
 その蒼の輝きが、美しい。
 穢れたいとさえ思わせる甘美な誘惑さえ、そこに感じることが出来る。

 背後から、玉兎たちの声が追いついてきた。こんな果てまで、何をしに来たのだろう? 私を連れ戻すため? 私を助けるため? 私を殺すため?
 けれど、もう、ごめんなさい。
 私は、その誘惑に、勝てそうもありません。
 どっぷりと穢れに浸かってしまえば、何かを変えられるかもしれないと、そう思ってしまったのだから。

 振り向いて、姿を見せた彼女たちに微笑んだ。
 驚きと怒りと、困惑と……さまざまな感情を見せながら、月の兎たちは私を見つめる。
 皆が、優し過ぎるから。
 私はここに、いられない。


 足が地面を蹴って、
 私の身体は、月を離れて、舞い堕ちる。

 地球へ。


 彼方の月が、
 ふわりと、
 赤い。



 堕ちていくのは、私。










     ***



 落下、落下、落下―――、暗転。
 遥かな地球へ届くだろうかと、月を離れて幾らか経って。

 白い霧を何層も突き抜け、
 冷たい風に身体を裂かれ、
 それでも前を遮る霧を再び突き抜けて。


 ふいに、目の前に緑色が現れた。


「――――――ッ!?」

 声にならない悲鳴を上げて、緑の中へと真っ逆さまに私は落ちる。
 ただの木だと思っていたそれらは長く伸びた竹だった。私が落ちているここはどうやら鬱蒼とした竹林で、それが無限に生えている場所だ。

「  が、は……っ」

 そのうちの一つの竹に右胸を貫かれ、濁った声を漏らしながら私は土へとこの身体打ちつけた。柔らかい土に守られ、毒されながら、私は霞んだ意識をどうにか保とうと顔を無理やりに起こす。口の中に入った泥がなんらかの味を脳に伝えたが、それがどういうものなのか私には分からない。
 すべてがまともに働いてはいなかった。
 ごろり、と仰向けに身体を捻り、空を見上げる。
 空は夜で、ただの曇りだった。

 首だけを動かして、人間の旗のように私の右胸に突き刺さったままの竹の破片を見つめる。玉兎である私はこれだけで死ぬようなことはないけれど、これはしばらく治らないだろうという確信があった。
 月から堕ちて、竹に貫かれて、穢れ多き竹林で―――

 ……ここは、地球なのね。

 改めてそう、心の中で確認する。
 冷静に考えれば、ここが月とどう違うのかはまったく分からないけれど、感覚で分かった。月とは、波長が違う。物事の波長を受信することが出来る玉兎の耳がそう告げているのだから間違いはない。
 それに、月が。
 雲に隠されて見えないけれど、遥か上空に、月の波長を感じることが出来るのだ。
 あそこに、月がある。
 私は、生きている。
 たぶん、生きているのだ。

「…………、」

 このままでは埒が合ないと分かったので、私は痛みに悲鳴を上げ続ける身体を起こして立ち上がった。右胸から竹を引き抜き、血で染まったそれを土の上に放る。焼け石を身体の中に押し込んだような痛みが全身を襲い、思わず顔をしかめてしまう。とめどなく流れ出る血を感じながら、私は一番近くにあった竹につかまって身体を支えた。

 どこを見ても、竹しかない。
 竹と、土と、夜の森。
 感じる波長はどこからも同じもので、なんとなく、昼でも迷いそうな場所だと思った。

「あー、これは迷ったわね、たぶん」

 ふいに聞こえた声―――自分の声ではなかった。
 驚いて振り返ろうとし、急な動きに身体が対応できずに、ごぼ、と熱と共に変な音が口から零れる。熱を帯びた赤が実際に口の端から漏れて、足元の土に染み込んでいった。

 突然現れた別の波長に、私は混乱していた。幸か不幸か、その波長の持ち主は私に気付いていないらしく、優雅な足取りで竹林の中を歩いていた。とても迷ったという台詞からは想像も出来ない行動で、私はしばらく竹と竹の間から見つめていた。

 暗過ぎて良く見えないが、紫色のワンピースを着た少女だった。長い金髪を揺らしながら、片手のメモ帳らしきものに何事か書き綴りながら穢れた土を踏みしめている。
 私はゆっくりと彼女に近づいていって、この竹林のことについて聞こうとした。

 …………あの、と。

 あと数メートルまで近づいた少女にそう言おうとしたけれど、そこで口から出てきたのは再び、がぼ、というただの音に過ぎなかった。
 右の肺が潰れていて、声が出ない。
 その状況に私は混乱したまま、何度も何度も言葉をどうにか紡ぎ出そうと必死になっていたのに、結局は聞き苦しい音しか漏れてはこなかった。

 それでも私の存在に気付いたのか、その少女はようやく私の方を振り返って。
 私の“瞳”をはっきりと見て、首を傾げて、その眼が恐怖に歪んで―――、


「―――うそ」


 柔らかそうな金髪を翻して、脱兎のごとく逃げ出してしまった。

 ……待って!
 叫ぼうとしても、声は出ない。代わりにまたあの音が出てきてしまい、もしかしたら無駄にあの少女を怖がらせてしまったかもしれないと思った。いや、それ以前に私を怖がっているのなら、どうしても逃げられてしまうのではないか? 訊ねたいことはたくさんあったのに……だから、行く当てのない私はひとまず彼女の後を追おうと決めた。

 前方を去っていく少女を、足を引きずりながら追っていく。しかし、どう考えても追いつけるはずもなく、差は開いていく一方だった。けれど、姿が見えなくなってしばらくしてから急に目の前を横切ったり、彼女がふいに後ろを通り過ぎたりと、最初に感じたとおりこの竹林はどこかおかしかった。
 狂っている。そう感じた。
 例えば、月のように。
 私のように。

 ふ、と無意識に口元を綻ばす。その端から赤い血が顎を伝って落ちていくけれど、そんなものはどうでも良かった。ただ、ここに来てようやく安らかな感情が私に訪れた。
 ……なんだか、この竹林が好きになれそうだわ。
 私と同じ何かを感じる、なんて言ったら、また竹に突き刺されてしまうかもしれないけれど―――


「―――ちょっと、そこで何してんの?」

 一瞬だった。
 思考を少しの間視界から逸らしていただけなのに、いつの間にか私の目の前では炎が燃え盛っていたのだ。
 いや、その表現は少しだけ違う。
 炎は燃えているけど、その発火源は竹でも、木でもなかった。

「お前、あいつんとこの兎か? こんな妖怪兎は見たことないけど……」

 燃えているのは、少女、だ。
 長い白髪を揺らして、一歩、また一歩と私に向かって歩いてくる。赤いズボンと赤い目と、真っ赤な炎が、ぎらぎら光る。この赤の前では私の目なんて霞んでしまい、私は逃げるように後ずさった。
 暑い、熱い。
 まるで翼のように少女から噴き出している炎が、膨大な熱量を生み出している。
 不死鳥のような、姿が、怖い。全身を焼かれて土に還る自分を、幻視してしまう。幻覚だと分かっていても、その熱さだけは本物だった。
 逃げ切れるとは思えない。
 力が抜けて、狂気の能力も使えない。

 でも、少女の目は。

「……やれやれ、何とか言ってくれないと困るんだけどなぁ。ん? なんだ、怪我してるのか」

 優しい、赤だった。
 暖かい、温かい赤。
 何も狂わない、綺麗な赤。

「………………が、」

 はい、と返事をする。熱は喉を焼きながら溢れだして、また土を染めたけれど。
 何かが、伝わったかもしれない。
 そう思ったら一気に力が抜けて、私はその場に座り込んでしまった。柔らかい土の感触がお尻から伝わる。これも、月では感じることが出来なかった。

「ま、けが人に対してどうのこうのするのもアレだしなぁ……。面倒事はあいつに押し付けるかな。…………お、因幡の嘘つきじゃん。ちょうど良いかも」

 少女の独り言が耳から入り、すぐに頭上へと抜けていった。座り込んだままの体制から仰向けに転がって、落ちたときのように空が目の前に広がる。

「――――――、」

 誰が涙を流したのだろう?
 空からふいに水が降って来て、私の頬を少しだけ濡らした。
 ぽつぽつとやがて激しくなっていくそれを浴びながら、私は空に月を探す。

「これ、お前の知り合いか?」
「いやいや、私は知らないねぇ。でもこの眼はたぶん……」

 会話が聞こえる。一人だった少女は、会話する相手を見つけたらしい。いまいち状況が理解できないけれど、先程の話ぶりだけ考えれば、どうにか助かることだけは出来そうだと分かって安心した。自然治癒を待つには、この怪我は大き過ぎたかも知れない。ましてやこんなにも水を浴びたら、治りづらくもなってしまう。

 ひょい、と視界に顔を出したのは、兎だった。
 なんだか少しだけ意地悪そうな顔をしているけれど―――、

「こりゃ酷い怪我だね、本当に」


 ―――目の赤くない、兎だった。










     ***










   # 綿月依姫のモノローグ
     えぇ、レイセンが地上に堕ちたそうです。
     どうやら嘘じゃないようです。実際にその姿を見た、と幾人もの玉兎が。
     まぁおそらく、彼女は逃げたのだと思いますが。
     逃げさせる何かが、あったのだとは思うのですけれど……。
     ……本当、一体何なのでしょうね、この戦争は。
     レイセンはもう、その答えを見つけたのでしょうか?
     でも、そう……、彼女が独りじゃなくなれるように。
     あの子が、自分を好きになれるように、私は願います。
     私には、きっともうそれしか出来ませんから。
     お姉様もそう思うでしょう?










     2



     ***



 懐かしい記憶だった。
 月から堕ちて、竹林を彷徨い、助けられた記憶。
 それから私は永遠亭に運ばれて、ここにいたいと願ったのだった。
 あれから、本当にいろんなことが起きたけど……。

「優曇華、いる?」

 新しく、名前も貰った。鈴仙・優曇華院・イナバというたいへんおかしな名前だが、これは私が過去を捨てることが出来なかったのが原因だ。だから元の名前に漢字を無理やり当てて、このような変な名前にした。師匠が貴重な花の名前をつけてくれて、姫はイナバ、と、どの兎にも使う呼称を私にも使う。きっと、どの兎も同じなのだろう。

 月から逃げたことなど私にとっては遥かな過去で、もうどうでも良いというのが本音だと自分では思っていた。
 けれど、ここ数年は月をはっきりと思い出させる出来事がたくさん、たくさん起きたのだ。おかげで私の精神は不安定で、どうにもいろんなことが気になってしまう。
 とうとう全面戦争を始める、だとか。
 このままだと地獄行きだ、とか。
 誰彼が大騒ぎした、第二次月面戦争、だとか。
 ちっとも複雑じゃないはずのそれらが、結べない靴紐のようにぐるぐると私の中で廻り巡って、日に日に私は狂っていっているのかもしれないと、最近感じるようになった。
 することすべてに力が入らなくて、同じようにしていろいろなことが失敗してしまう。精神的な何かが原因なのだろう、と無駄に冷静な理性が嗤っていた。

「ちょっと、優曇華?」
「…………はい? あ、あの、人里ですか? すぐ支度します!」

 何か話していたらしい師匠の声に、私の意識は現実へと引き戻された。
今日は仕事に行く日だった、とすぐに思いついて、私は慌てて仕事の準備を始めた。だらしない恰好のまま朝食を片付けていた手を服で拭いて、床に投げ捨ててあったブレザーをはたいてから羽織る。それから洗面所まで駆けていって、寝癖の酷い髪の毛をブラシで無理やりに整えた。
 時計を見ながら師匠の前へと駆けもどって―――

「もういいわ、優曇華」待っていたはずの師匠は、溜息をついて首を横に振った。
「…………え、」

 怒られる―――、そう直感的に悟って、私は目を瞑った。最近仕事も手に付かなくなってきたし、失敗をすることも増えた。どうにか師匠の目は誤魔化してきたつもりだったけど、やはり彼女にはばれていたのだろう。
 最近は減ったと思っていたお仕置きが来るのだろうか、なんてぼんやりと考えていると、直後に師匠の口から発せられた言葉は、私の予想の遥か彼方を行くものだった。



「―――貴女に、一日だけ休暇を与えます。……その中で、貴女の答えを探しなさい」



 私は傍から見たら本当に間抜けな顔で、首を傾げた。

 休暇、というのが理解出来なかったのと、答え、という単語がどうもよくわからない響きを纏っていたのが理由か……、分からないという意思表示を示したまま、私は師匠の言葉を待った。

 師匠の目が、私を捉える。昔は目のあった人間に対して、なりふり構わず能力が発揮されていたけれど、ここ数年でそんなことはなくなってきた。
 私自身の狂気が弱まったのか、しっかりと制御できるようになったのか。そのどちらかなのかすら私には分からない。

「姫なら―――、」師匠は私も見つめたまま、口を開いた。「輝夜なら、休暇を与えたりはしないわ。もちろん輝夜は仕事なんてしていないから関係ないけど、……では何故貴女には休暇が与えられると思う?」
「……それは、輝夜様には……、時間が無限にあるから、ですか?」
「逆を言うなら、貴女は有限だから」師匠はゆっくりと頷いた。「貴女が最近少しばかりおかしいことは知ってるわ。原因は分からないけれど、それを隠そうとしていることも。でも正直に言うならそんなことはどうでも良いのよ」

 そこで一度言葉を切って、師匠は外を見た。昨日から降り続けている激しい雨は、永遠亭の庭を濡らしている。岩に当って、それを砕いて。竹に当たって、土に吸われる。あのとき初めて見た雨というものが、私には未だに理解出来なかった。
 雨の降る原理は分かった。
 ただなんだか、雨というのは師匠や姫、そしてあの炎の蓬莱人のような、永遠なのではないか、と考えてしまって、永遠ならば有限たる私に理解出来そうだとはまったく思えないのだ。
 八意永琳―――、目の前に座る、私の師匠。例えば、月の頭脳と言われた彼女の考えていることなど、私には一生分からないだろう。常に何かを考えているように見えるから、なおさら届きそうにない場所に彼女は立っているのだ。雨も、そういうものなのではないだろうか……?

 ………………師匠、か。

 ふと、思う。
 こうして私がまだ生きているのは師匠のおかげだろうか?
 生きているだけだったなら、あのまま放っておいても生きていただろう。だが、私が“鈴仙・優曇華院・イナバ”として生きている、としたのなら、確実に彼女のおかげだ。月から逃げてきたことを告白し、永夜異変の時は月から私と姫を守ってくれた。こき使われたり、実験台にされたりはするけれど、師匠は私がもっとも尊敬する人物なのだ。
 その師匠が、私に休暇を出す、と。
 だから、私には分からない。“答え”と彼女が呼ぶ、その抽象的な存在が。
 私は鈴仙・優曇華院・イナバだ、と―――それが答えだ。それが私の存在の証明でもあり、何より私をここに縛りつけてくれる呪文で……。

「ここは迷いの竹林と言ってね」つ、と視線を私に戻して、柔らかい声色で師匠は続けた。「まっすぐ歩いても出られない、変な方向に歩いても出られない……。それでいて、出鱈目に歩いていればいつか望んだところへと辿り着くことが出来るのよ」
「はぁ……」知っている話題に、私は曖昧な返事を返す。
「貴女は最近、迷ってばかりだわ。まるでこの竹林のよう。貴女の進みたい方向に世界は動いてくれないし、かといって貴女が進みたくない方にすら動かない。その相反する二つの世界の間で、彷徨っているの。常にどうでもいい状態で世界が動いているから、きっと貴女はどうすれば良いか分からなくなっている……違うかしら」
「それは、」

 そうかもしれないです、と。
 喉元まで出かかった言葉は遂には外に出ることなく、私のお腹の中へと逆戻りしてしまった。もしもそうだと認めてしまえば、今の私がどこにいるのか、分からなくなってしまいそうで怖かったのだ。
 師匠の言っていることはたぶん間違ってはいない。けれど、いくら師匠でも―――例え真実だとしても、分析されることは気持ちの良いものではない。分析されればされるほど反発心は強くなるし、そうではないと自分の中で完結してしまいたくなる。

「……師匠」
「そういうわけで」ぽんぽんと服の裾を叩きながら永琳は立ちあがった。「一日だけの休暇よ、優曇華。迷いの先の、答えを探す休みにしなさい」

 ……薬売りの仕事はしないでも平気なのですか?
 そう訊こうと思ったけれど、それは意味がないのだろう。休暇というからには、仕事をする必要はないのだ。

 師匠は背を向けて立ち去った。赤と青の服が、だんだんと遠ざかっていく。やがて障子の奥まで彼女は歩いて、白い格子が閉じられる。
 静まり返った部屋の中で、私は畳の上に寝転がった。微かに香るいぐさの匂いが鼻の奥まで届き、す、と私は目を閉じてみる。暗い赤が瞼の裏に映って、すぐに思考がそれを塗り潰す。

 ……私の探すものは、何かしら?
 命の意味?
 永遠の意味?
 私の罪と、それの罰?

 ここで考えているだけじゃ答えなんて出ないことは分かっている。
 だから師匠は、私に探す時間を与えたのだろう。
 私がどんな答えを見つけるのか、彼女は知っているのだろうか? 知らなくても、その後の私をどう思っているのだろうか?
 それも分からないから、私は明日、出かけてみよう。
 例えこの雨が、降り続けていたとしても―――、



 ―――耳に届く雨の音は、少しだけ強まったように感じた。










     ***



「鈴仙、遅いよ」
「何でてゐがいるのよ……」

 雨の竹林。昨日にも増して降りしきる雨の中、傘を差した私は合羽を着たてゐを見て呆然と立ち尽くしていた。
 予定通り、雨の中をとりあえずどこかへ行こうと思って永遠亭を出た矢先、嘘つき兎が目の前でニヤついていたら誰だって立ち尽くしてしまうだろう。どう反応すれば良いのかがまったく分からない。彼女は彼女で、しっかりと意味を持ってここに立っているのだろうが、私には分からないのだからしょうがない。ようやく、もしかして、てゐは昨日の師匠との会話を聞いていたのだろうか? というもっともわかりやすい仮説に至った。

「そりゃ、鈴仙と出かける為だよ」当たり前だ、というようにてゐは答える。
「昨日の会話聞いてたの?」
「師匠に話されたの」
「何で、師匠が…………」

 きっぱりと言い張ったてゐに、私は少し混乱していた。
 私の探しものじゃないのだろうか? てゐはこのことについて何にも関係ないはずなのに、どうして師匠は彼女に話したのだろう……?
 いつもの師匠が理解できない私が、これを理解できるはずもなく、疑問は頭の中を一周しただけで消えてしまった。師匠のことだ、きっと何か意味があるのだろう。あるいは、本当に何の意味もないのか。

「私と一緒に行けって、そう言われた訳?」
「質問ばっかりだなぁ、鈴仙は。……そうだよ、付いて行きなさいってさ。鈴仙が心配だからじゃない?」
「並みの妖怪にくらい、勝つ自信はあるわ」
「自意識過剰かもね。最近戦ってないみたいだし。鈴仙、昔は軍人してたんでしょ? 少しくらい日頃から鍛えておかないと、私みたいに長生きできないよ」
「べ、別に長生きするつもりはないけど……」

 軍人、という言葉に私はわずかに反応して、すぐに、黙れと自分を窘めた。今日はそういう日ではないはずだ。こう雨が降り続いているとどうしてもあの日のことを思い出してしまうのだけれど、休暇中に考える話題ではないだろう。ただ、師匠の言葉を思い出すだけで、どうせ考えなければいけないんだろうなぁ、と思ってしまった。
 探しもの。
 私の持っていないもの。
 こんなに視界の悪い雨の中で見つけるには……、

「ま、道連れくらいいても良いかもね」
「そうこなくちゃね。来るなって言っても付いて行ったけど」

 いつまでも生意気なてゐの口調にむっとするが、実際のところ、見た目に反して彼女の方がずっと年上なのだということを考えると、逆に幼すぎではないかと思う。健康に気を使っていたとはいうが、もしかしたら若い振りをするのもそれの一つにあるのではないか、と思わず勘繰ってしまった。


「で、どこ行くのさ」てゐは口を斜めにしたまま首を傾げる。


 当然のように発せられた質問に、私は十秒以上黙りこんだ。
 決めていなかったのだ。
 幻想郷は、狭い。広い宇宙に比べれば。
 それでも、小さな私に比べれば、とても広い。行き先を絞らないでふらついていたら、どこにも辿りつかずに一日が経ってしまうかもしれない。
 私の行き先、行き先……。

「……思いつかないわね」
「駄目兎」

 てゐの悪態に返すような言葉もなく、私は再びその場に立ち尽くす。

 雨だけが、時間を刻んでいる。手に持った傘を何度かもう片方の手に取り変えながら、私の思考は一人で幻想郷を巡っていた。どこか行くのに良い場所はないだろうか、と考えながら。

「イナバー、……イナバー?」

 背後から声が聞こえて、姫様―――蓬莱山輝夜が姿を現した。永遠の命を持つ月の姫で、今の私の、もう一人の主。師匠が仕えている人、と言ってはいたが、もはや私の目には対等の関係にしか見えてはいなかった。
 長い黒髪とそのお嬢様然とした態度が印象的な彼女も、実は月から逃げている身ではある。私のようにそれを引きずっているようには見えないけれど、内心どう思っているのかはまったく分からない。ある意味で、師匠よりも真意の読み取りにくい方なのだ。

 姫様は縁側から私たち二人を見て、雨に負けないほどの大きな声で叫んだ。

「お土産、買って来てちょうだいね!」

 まるで子供のようだ、と私の頬は思わず緩んでしまう。この雨の中店を回るのはしんどいけれど、それも悪くないような気がする。姫様の笑顔には、どうも「それで良いか」と思わせてしまう程の魅力があった。師匠もそれに惹かれて、彼女には無駄に甘いのかもしれない。

「わかりました!」私も雨に負けないように声を張り上げた。「それでは、何か美味しそうなお菓子を買ってきますね!」

 お願いねー、と袖を振り、姫様は部屋の中へと消えていった。用件はそれだけだったようだ。我が儘で、勝手で、自由気ままな永遠だ。私は姫様と師匠と、あともう一人だけ永遠を生きる者を知っているけれど、すべてに縛られていないように見えるのは彼女だけだ。師匠はああ見えて自身の知識と頭脳、そして私と同じように過去に縛られているような気がする。前者は間違いないと思うが、正直言って後者は余り分からない。ただ、そんな気がしただけだ。

 縛られない存在―――、か。

「てゐ、決めたわ。行く場所を」
「へぇ、どこ行くの? たぶんこれ以上は雨、強くならないから遠くでも平気だけどね」
「神社よ、博麗神社。まぁ、いつ行っても迷惑じゃなさそうでしょ? 最近は異変、起きてないみたいだし……」
「鈴仙にしては名案だねぇ。よし、そうしよう。ついでにそこでお土産も確保、と」
「泥棒じゃないの、それ」
「借りるだけ、……っていう文句は誰の言葉だっけ?」
「魔理沙ね……。嘘つくのはもう良いけど、泥棒にはならないで欲しいかなぁ。……あ、でも詐欺は泥棒みたいなものかしら」
「詐欺だなんて人聞きの悪い。人じゃないけど」

 そう言って彼女はからからと小気味良く笑った。人聞きが悪いとは、人聞きが悪い。

 ひとしきりいつもの会話に戻った後で、てゐは急に私の目を直接見てきた。彼女はいつも、私の目を嫌いだと言い続けていただけに、私にとって、その行為には少しだけ違和感がある。

「……何で、神社なの?」小さな口から放たれたのは、実に素直な質問だった。
「うぅん、何でかしら……」

 首を傾げて、考えている振りをする。
 強いて言うなら、“縛られていない”という単語が頭をよぎったからに過ぎない。
 博麗の巫女、という存在自体が、空を飛ぶという能力自体が、無重力―――束縛のない生を意味している巫女が、少しだけ気になったのだ。

 私は質問に答えないまま、傘を持ち直して歩き始めた。竹林の地面は、雨にぬれた泥で歩きづらい。足がとられてしまい、太ももを大きく持ちあげなくてはなかなか前に進めなかった。

 これからの行き先、博麗神社のことを考える。
 あそこの巫女は、妖怪退治の専門家だ。後に永夜異変と呼ばれた、師匠の起こした異変の時に初めて出会い、私はそこで一回負けてしまった。私の知る限り、人間で彼女に敵う者は一人もいない。強いて言うならば霧雨魔理沙を挙げることが出来るけど、聞いた話では霊夢の方が勝率は高いようだ。

 余りに久しぶりで、どんな顔をして出迎えられるかなかなか想像がしづらい。どうせ彼女のことだから、挨拶をした瞬間「出口はあっちよ」とか何とか言われて追い出されてしまうのかもしれないけど。

 それでも良い。
 今日は、休暇だから。










    ***










   # 八意永琳のモノローグ
     私は残酷なことをしたのかしら?
     貴方はそう思う?
     私は、そうね……。結局答えはないのだから、どうなるかはあの子次第。
     そういう考え方も、
     そうやって受け入れることも、地上に生きる者としては必要だわ。
     だって、そうでしょう? 私もあの子も、地上の民ですもの。










    ***



「出口はあっちよ」

 案の定、博麗霊夢は私とてゐの姿を見るなりそう言った。相変わらずの態度に一瞬めげそうになるが、今日はそういうわけにはいかない。いつもなら私も忙しいから言われた通り出口を通って帰るのだが、幸か不幸か、私は休暇中だ。帰ってもすることがないし、そもそも目的があってここまで歩いて来たのだから、今更引き返すわけにはいかないのだ。

「最近暇してそうね」私は霊夢のジト目を無視して近づいた。
「そりゃ、仕事がないからね。晴れてればいろいろすることもあるけど、この雨じゃ……」

 何にも出来やしない、と首を振って、いつもの縁側ではなく部屋の中で座っていた霊夢は、饅頭を二つ、私に放りなげた。

「何、これ?」
「饅頭。霖之助さんから魔理沙が貰って来たの」
「いや、そうじゃなくて」
「なんか話があって来たんじゃないの? こんな雨の中出掛けるなんて、兎らしくない」
「まぁ、そうだけど……」いつも通りの裏腹な態度にやや困惑しながら、私は饅頭を頬張る。
「鈴仙は師匠にクビにされたのよ」ひょい、とてゐが横から口をはさんだ。
「うちは、引き取らないわよ」霊夢は口に手を当てて笑った。
「違うってば……」

 私はてゐを無理やり黙らせて、霊夢にひと通りの説明をした。そうでもしないとこの暇な巫女は笑い続けかねないし、何より私が不快だ。師匠はそう簡単にクビにしたりする方ではない……はずだと信じている。

 傘を折りたたんで、濡れないところに適当に置いた。びしょびしょに濡れてしまった靴と靴下も遠慮なく乾かさせてもらうことにし、私たちはお膳を挟んで霊夢と向かい合うようにして座った。

 勢いの弱まった雨はしかし、静かに世界を濡らし続けている。初めのうちは気温の変化がなかったが、だんだんと熱を奪って当たりを冷やしていく。さすがに寒くなってきた私の前に暖かい湯呑みが置かれて、私は心の底から感謝をした。もちろん口には出さなかったけれど。妖怪は見境なく退治するのが彼女の特徴らしいけれど、神社で会う場合はそうでもないらしい。もっとも、片付けをするのが面倒くさいと宴会の後いつもぼやいている霊夢の姿を考えれば、その理由も大方想像がついてしまうのだが。

「で、なによ。暇だから話には付き合ってあげるけど、探し物って言ってもねぇ。あんたが何探してるのかわかんないんじゃ、どうしようもないわ」
「そう、よね……。でも霊夢。何だかわからないけど、私はこれをどうにかして見つけなくちゃいけないような気がするのよ」
「じゃないと師匠からお仕置きがっ」
「難しい家庭事情ね……。私はしーらない、っと」
「うん、ちょっとてゐは黙ってくれる?」

 私の切実な頼みに素直に首を横に振ったてゐに拳骨を浴びせ、私は霊夢に話を続けた。相変わらずつまらなそうな表情だけれど、細く開かれた彼女の目は、確かに興味を抱いている目だった。純粋な日本人らしく、黒く透き通った色をしている。他のどんな色をも飲み込んでしまう、暗い漆黒だ。
 他人の探し物の話題で興味が湧いてしまっていると考えると、普段の巫女の生活がどれだけ怠惰なのかが良く分かってしまう。同じような考えでもしているのだろうか、てゐは霊夢の顔を見てニヤニヤと笑っていた。

「それで、……そうよ、霊夢。私が貴女を訪ねたのは、師匠の考えとか、普段から自由気ままに生きている貴女なら、答えとやらに何か心当たりがないかどうか―――」
「知るか」切り捨てるようにそう言い、霊夢は湯呑みを口につけた。「……あのねぇ、それも含めて探すのが探しものじゃないわけ? 探すって事は見つかってないんでしょ? で、見つかってないって言うのは“分かっていない”というのと同じことでしょうが」
「師匠を理解するのが、この休暇の目的ってこと?」半ば困惑しながらそう訊くと、霊夢はまたもや鼻で笑った。
「んなわけないでしょ。あいつはそんなに自分勝手じゃなさそうだし」

 あいつと違ってね、と畳の上をごろごろと転がり始めていたてゐを指差して言い、すぐに立ち上がって「おとなしくしなさい」といつの間にか持っていた玉串で彼女の背中を叩いた。しぶしぶてゐは元の場所に座り込んだが、やはり落ち着かないらしい。いつもなら外で遊んでくるのに、今日は生憎の雨だった。

「含めてって言っても、一体私は何を探せば」
「だから、それが答えでしょ?」
「へ?」

 呆れた目で見てくる霊夢に、私は思わず間抜けな声で訊き返してしまった。

「探しものを、探すんでしょうが。別にあんたの師匠のことなんてちっとも分からないけど、こういうことなんじゃないの?」
「うん……」なるほどそうかもしれない、と私は頷いて、「そうかも知れないし、そうじゃないかもしれないわ。私もそれは考えたけど、なんだか答えなんてそこにはないような気がして」
「言い出したらキリがないわね」
「そう、ねぇ」

 私は失礼にも仰向けに寝転がり、意外と綺麗な天井を見上げた。この前の地震の時に立て替えたから当たり前かとは思うが、永遠亭のそれと見比べると明らかに汚れが少ないので少し羨ましくも思えた。

 師匠も、姫様も、今頃は永遠亭でいつもどおり寛いでいるのだろう。とても古く今にも壊れそうな印象を与えるけれど、永遠に壊れることのない屋敷の中で。

 だから、師匠は何故……、と私の思考はすぐに元の場所に戻ってきた。同時にいくつもことを考えることが出来ない悪い癖だ。いや、それが出来る人の方が少ない、とか師匠が言っていたことがある。出来ている、と思っていても実際にはそうでないことのほうが多い、ということも。彼女は多分、それが出来る人なのだろう。

「鈴仙、師匠のことばっか考えてない?」ふいに同じように寝転がっていたてゐが訊いてきた。私は首を傾げて訊き返す。
「どういうこと? 師匠が言ってきた内容だもの、それは普通でしょ」
「そうじゃなくて、これは誰の休暇なのか、ってこと」
「ぁ…………私、か」

 当たり前のことに気付かずにいたことが少し恥ずかしくなって、私は目を閉じた。
 じゃあ、私に問題があるのか?
 最近仕事が手に付かなくなったから、休暇を? 師匠はそこまで甘い方じゃない。私だってそんな同情をされても困る。
 自分のことも、師匠のことも。
 私の中では全部分からないものとして認識されて、さながら幻覚を見ているようにぐるぐると廻る。
 幻覚を見せるはずの私が、自分に混乱させられているなんて、笑ってしまう。


「―――探し物は、何ですか?」


 その場の誰でもない声が聞こえて、私とてゐは驚いて振り返った。霊夢だけが慣れた様子で台所へと向かい始める。その意図も分からないまま、私は空間を裂いて現れた妖怪に軽く会釈をする。人里などではおそらくもっとも有名な妖怪、八雲紫だ。

「……こんにちは、紫……さん?」
「紫、で良いと何度も言ったはずよウサギさん。……あぁ霊夢、御機嫌よう」
「はいはい、雨の中変な客が来たと思ったら、次に来たのはいつも通りの妖怪、ってわけね。機嫌が一気に悪くなりそうだから、異変ならすぐに退治するわよ」
「私は客じゃないのね」
「胡散臭い、胡散臭い。いつの幻想郷縁起にも、毎回そう書かれてたよぅ」
「胡散臭くても客は客だわ、嘘つきウサギめ」
「なんだそこは認めるのね。……で? 紫は何しに来たのよ。探し物がどうのこうの言ってたけど、こいつに関係あるんだったら何か話してやれば? クビにされて暇みたいだし」
「休暇ですってば」

 霊夢は紫に湯呑みを差し出して、有無を言わせぬ目つきでそこに座らせた。暴れられるのを余程嫌うのか、彼女の周りにはすぐに暴れだす妖怪が多いからなのかは知らないが、少なくともここにいる妖怪ならてゐ以外その心配は無用だと私は思う。

「そうよ」おいしそうにお茶を飲みながら紫は微笑んだ。「月兎を久々に見たからちょっと会ってみようかと思ったの。何故か悩みを抱えているみたいだから楽しそうだし」
「楽しくなんかないですよ……」

 不満げに私は言うが、そんなものは八雲紫には通じなかった。むしろ逆効果かもしれないと勘繰ってしまうが、きっと本人はそんなことを言ったら心外だと言って怒るに違いない。自分のことほど、自分ではなかなか分からないものなのだ。私ももちろんその中の一人。だからこそ、自分が何を探したいのかが理解できていないのだろう。

「だからね、霊夢」
「はい、饅頭」ぽん、と箱からもう一つ饅頭を取り出して、霊夢は紫に投げつけた。
「ありがとう」それを頬張りながら紫が再び微笑む。綺麗な笑みだ。「だから……そうそう、探し物は何ですか? ってね」
「あー、何だっけそれ? 外の世界の歌とか言ってたわね」霊夢は何かを思い出すように天井を見上げた。
「そうよ、霊夢、じゃなかったウサギさん。貴女の目はきっと何も見てはいないの。真っ赤なフィルターが掛かってるから、本当の世界が見えない。“真実の月”なのに困ったことよねぇ」

 そういって紫はくすくすと笑う。よく笑う妖怪だ。これで素直な笑いだけならみんなから愛される妖怪になるのだろうが、正確に難がある彼女は、胡散臭い笑いばかりしか見せることはない。先程ちょっとだけ綺麗な笑顔を見た気がするけれど、気の所為だったという可能性だってあり得るのだから。

「それって、どういう意味ですか……?」

 話を混乱させてはいけないことくらいわかっているのというのに思わず訊ねてしまった私に、紫は扇子を突き付けて、こう言った。

「夢の中も、記憶の中も、探したけれど見つからないのかしら? ……なーんて、うふふ、もっとよく探してみて頂戴? まだ眼は濁っていないはずなんだから」

 訳の分からないことを言うのも、胡散臭いことを言って混乱させるのも、八雲紫ならいつものことだ。真剣に聞く必要なんてない、とも私は思っている。
 けれど、今の彼女の話は何故だか私の心の中にすぅ、っと染み込んでいって、呼吸がぴたりと止まってしまった。
 息を吐かず、吸えず……。そのままの状態で、私と紫は向かい合った。てゐが私の饅頭を取っていくのが見えたけれど、それを気にしていられるほど軽い気持ちは私の中になかった。
 ……あぁ、胡散臭い。
 それが、ひとつの感想。
 分かった振りをしているような笑みなのか、本当にすべて分かっているのか。賢者と呼ばれるほど頭の良い者には、常にこの疑問がついてまわる。師匠にももちろんそれはあるだろうと思うし、彼女よりも余程怪しい紫のことだ、どう形容すれば良いかまったく分からない。

「さぁて、私は満足。また一つ境界を弄れそうだわ。それでは皆様、次逢う時までお元気で……」

 前触れもなくそう言葉を発し、紫は目の前に境界線を引いた。スキマは一瞬で広がって、すぐに彼女が入れる程の大きさになった。その中から覗く、無数の“眼”が―――私を狂わせてしまうかもしれないと、何故だか唐突に私はそう感じた。
 眼は、怖いから。
 私を見ないで欲しいから。
 だから私は、眼を背けて……その視線の先に座っていた霊夢と目が合ってしまった。

 黒い。

「あぁ、紫、帰るの?」霊夢は私から視線を外して背後にいた紫に声をかけた。「私、兎が帰ったら暇になるんだけど」
「それは残念ねぇ」霊夢の目に映る紫は、既に半身しかスキマから出てはいない。「でもまぁ私にもいろいろ仕事があるのですわ。兎が餅を搗くように」

 そこで紫の言葉は唐突に途切れた。言葉の途中でスキマの中にするりと入り込んでしまったのだ。私が振り返ったときには、そこにはもう彼女の影すら残ってはいなかった。
 霊夢はそんな紫の行動に慣れているらしく、大きく欠伸をしてからようやく私に視線を戻した。特に意味があるわけでもなさそうに、黒い瞳が私を捉える。

「さぁて」紫と同じ台詞を吐きながら、霊夢は言う。「訳の分からないやつもいなくなったことだし、そろそろ昼飯でも作ろうかしら」彼女はまたすぐに視線をそらして宙を見つめた。
「喜んで同席します」横からてゐがにやりと笑う。
「ちょっと、てゐ……」

 はぁ、と溜息をつきながらてゐを窘めようと手を伸ばすが、彼女はひょいとかわして霊夢の横へと退避してしまった。無言で霊夢の拳が降り下ろされ、てゐは涙目になりながら「巫女の方が怖いわ」と私の下へと戻ってきた。あっちへいったり、こっちへ来たり、蝙蝠のように忙しい兎だわ、なんて思いながら、私は霊夢に訊ねた。

「そのお昼ご飯は、何人分作るのかしら?」
「残念ながら三人分―――、」

 苦笑をしながら彼女はそう言いかけて、ふと雨の降り続ける空を見やった。昼とは思えないほどの暗さだった。

「―――いや、五人分かしらね」

 部屋の中へと吹き込む風雨。
 風の吹いていなかった神社では猛烈な嵐が来たかのように空気が乱れ、それを作りだしながら一つの竹箒が霊夢の額へと直撃した。
 無言のまま、霊夢の立っている角度は鋭角に近づく。

「おおっと、すまん霊夢! 久々にアリス乗せてたら勢いが止まらなくなった!」
「ちょっと魔理沙、速過ぎよ! ……ぁ、霊夢大丈夫?」
「…………あんたら……」

 仰向けに倒れてしまった霊夢の声に、怒りの色が混じる。現れた二人の台風は、そんな彼女を見ながらゆっくりと後ずさって私の後ろに隠れた。どちらの顔にも苦笑と「私は悪くない」という考えしか浮かんでいない。どう考えても悪いのは魔理沙とアリスなのだろうが、それでも巫女を怒らせることは良くないと分かっているようだ。かといって、私だって身代わりは勘弁してほしい。

「……もう、飯作んないから」

 不満げに霊夢はぼやいて、それからすぐに目を閉じた。脳震盪でも起こして気絶したのか、あるいは一気に体力を使ってしまい疲れて寝てしまったのか……、はたまた怒って寝てしまっただけなのか、私には見当もつかなかった。気まぐれな巫女だ、どの可能性でもまったくおかしくはない。

「ちょうど昼飯だったのか……。アリスが重いのがいけないんだな、これは。雨に濡れたくないっていったのもお前だし」
「私の所為だっていうの? これはどう考えても私たち二人が悪いんでしょうが」

 こういう発言の一つ一つに彼女たちの性格が滲み出ている。同じ魔女で、金髪で、綺麗な目をしていて……と、似たようなところが多々ある二人だが、性格の面ではまるで真逆だ。ひたすら己の道を突き進んで、突き進んだ果てにまったく後悔しない魔理沙と、すべてに慎重になって、自分をひた隠しにしているアリス。今のように、言ったことを撤回して都合の良いように場を取り繕うことも出来る。もちろん彼女たち自身がどう考えているかなんてわからないけれど、少なくとも私の目にはそう映った。

「あ、優曇華とてゐも来てたのね」ようやくアリスがこっちをみて、取り繕うように微笑んだ。……ちゃんと私の後ろに隠れていたじゃない。
「あれ、ホントだ。兎じゃないか」アリスと同じく、初めて私に気付いたという様子で、魔理沙が声を上げた。「どうしたんだ? こんな雨の中。最近全然見かけなかったが」
「鈴仙がクビにされたんだよ」
「今日だけ休暇なのよ」懲りないてゐを無視して私は話を続ける。「休暇なのに、師匠にとあることを命令されたの。それでちょっと、霊夢に会いに来たんだけど……」
「へぇ、お前が休暇なんて珍しいな。一日だけってのがまた永琳らしいと言えばそうだが」
「一体何を命令されたのかしら?」

 からからと笑う魔理沙に反して、アリスは少し思案顔で私に訊いてきた。私たちがここにいるのが余程不思議だったのかもしれない。
 てゐは首を横に捻って、外を眺めていた。参道を打つ雨粒は一向に勢いの変化を見せず、淡々と降り続けていた。淡々と、とは言うけれど、普段の雨よりは相当激しい。いつもより声を大きくして話さないと聞こえないほどだ。

「…………探し物を、探せ、って」
「探し物?」

 魔理沙とアリスは同時に首を傾げた。その姿はまるで人形のようだ。既に二人の瞳には魔女らしい好奇心の色が表れ始めている。
 二度も説明するのは正直言って面倒くさかったが、彼女たちもまた、幻想郷で生きている人たちだ。何か聞けるかもしれない。紫も霊夢も、言い方はそれぞれ違えど、私だけでは生み出すことの出来ない言葉で説明してくれた。そのなかでも、紫の言葉は何故だか私の中で尾を引くようにして残っている。
 私は彼女の台詞が頭の中で暴れ出さないように抑え込みながら話し始めた。

「……師匠は―――」

 私は、何かを探している。
 それを、探して来いと師匠に言われた。
 簡単に言うならそれだけで済んでしまう。
 けれど師匠は、探す期間を一日だけに定めた。それは私が、有限だから。蓬莱人のように、永遠にそれを探し続けることなんて出来ないから。
 今はようやく正午に近づいてきている時刻。あと半日も過ぎれば、今日という休暇は―――探し物の日は、終わってしまう。そんな風に終わっても、師匠は何も言わずにそれからの日々も流れていってしまうのだろう。
 降りしきる雨が、余分なものを流すように。
 涙が上から下へと流れていくように、

「紫が、この眼はまだ濁っていないって言ってたけど……、」

 濁っていないなら、鮮やかな赤だ。
 でも私は、そんなに綺麗だろうか?


「厄介な休暇を押し付けるんだなぁ、あいつ」魔理沙はひと通り状況を把握した様子で呟いた。「だが、なんで霊夢のところに来たのかはいまいち分からないぜ」
「それは、」私は俯いて答える。「なんと……なくよ。霊夢は、何にも縛られていないように見えたから。昔のこととかいろんなものに縛られたままの私とは違ってね」
「そうかぁ?」魔理沙は間抜けな声を出して笑った。「あいつだっていろんなものに縛られてると思うがなぁ。巫女なんていう職業についているのもある意味では束縛の一種だ。妖怪を退治しなけりゃならんし、結界の管理も仕事の内。まぁ、あいつは確かに縛られるのが嫌いそうではあるが。だからしょっちゅうサボってるんだろ」
「そうね」アリスは小さく欠伸をした。「……霊夢の能力を考えれば、あいつが真に願っていることが何なのかとか、いろいろ考えることは出来ると思うけど……、そんなもの考えたって、面白くもなんともないじゃない」

 私はしばらく黙って考え込んだ。
 霊夢も、つまるところは私と大差などない、ということだろうか? いや、それはあり得ない。どう考えたって、彼女の方が“生きた”人間だ。もちろん私は人間ではないけれど、日ごろの自分を顧みるときと、博麗神社で巫女を見るとき。明らかに私たちは同じではないことが分かってしまう。別に霊夢に憧れているわけじゃない。ただ、この幻想郷で違和感なく生きていられるその姿が、羨ましいだけなのだ。その存在の差は一体どこにあるのだろう? 生きた年月なら私の方が長いし、相当破天荒な人生を歩んできた自信がある。今の私には、それが足手纏いとなっているのだけれど。

「―――あー、魔理沙? その兎の相手してると疲れるからやめておきなさい」
「うおっ、霊夢、もう起きたのか!?」

 ふいに響いた声に驚いて振り返ると、そこでは霊夢が額を抑えながら立っていた。その眼に特に怒りの色は見られない。先程の出来事は忘れてしまったのか、それとも気にしないことにしたのか。

「疲れるって、随分失礼ね」私は不満を露わにして口を尖らせる。
「ここはお悩み相談所じゃないの」霊夢はいつものように冷たい。「それに、たぶんこれからたくさん来るわ。あんたって、人混み苦手じゃなかったっけ?」
「たくさんって、何が……」

 首を傾げて訊き返そうとした矢先、部屋の外から聞き覚えのある声が響いた。


「お、なんか随分集まってるじゃん、霊夢」
「お嬢様の暇潰しに参りましたわ」

 そこに大きな傘を広げて現れたのは、紅魔館の主従だった。レミリアと咲夜。その後ろからは、魔女であるパチュリーもゆっくりと着いてきていた。雨などの流水が苦手なレミリアが来るとは、一体どれだけ暇をしていたのだろうか。
 急に現れた三人を前に、私は驚きで目を白黒させた。

「ど、どうして貴女たちが……?」
「いつかの兎か。どうしてって、だから暇潰しだよ。ここ一週間雨続きだろう? 夜の帝王も羽を伸ばしたくなったのさ」

 おどけたようにそう言って、レミリアは両手を挙げて大きく伸びをした。それに反応するように蝙蝠の翼が小刻みに震える。
 霊夢はレミリアよりも、その隣に立っている咲夜の方に興味を示したようで、「助かるわぁ、咲夜。ここにいるの許すから、お昼ご飯任せるわね」と彼女をつつきながら要求していた。咲夜が面倒くさそうに頷き、それからすぐにお膳には人数分の食事が用意された。時を止めるという非常に強力な能力を持っている彼女だが、普段から基本的に有意義な利用方法をしていないように私には見える。

「さっき、階段のところで亡霊を追い抜いたわ」ようやく追いついたパチュリーが淡々と霊夢に告げる。「たぶん、すぐ来るんじゃ―――」


「霊夢〜、久しぶりねぇ」
「……もう来たじゃない」
「なんかすみません、押し掛けたりして……」

 ひょい、と部屋に冥界の姫とその従者―――幽々子と妖夢が入ってきた。狭い部屋が次々と新たに現れた人たちで埋まっていく。それぞれが傘を外の壁に立て掛けてからいそいそとお膳の前に座り込み、すぐに人数分の食事が追加された。咲夜の仕事は早い。
 霊夢や魔理沙、そして他の人たちも当たり前のようにこの状況に対応しているのに、何故だか私だけそれが出来なかった。いつの間にかてゐだって食事を食べ始めているし、何がどうなっているのか分からない。
 宴会ならば、人が集まるのも分かる。しかし、基本的に幹事をしている魔理沙が、雨の日にはやらないと決めているのだ。だからもちろん今日はそんな日じゃないし、他の用事があるようにも思えない。

「何で……?」

 この和やかな雰囲気の中に、私が漏らした不安の声は溶けて消えてしまった。
 私の声だけが冷たく、温かい床にぽとりと落ちる。跡も残さないくらいに吸い込まれて、何という言葉を発したのかさえ、私が何かを呟いたのかさえ誰も気づかなかった。

 どうして?
 実に下らない疑問だった。
 どうしてこの神社には、こんなにも人が集まるのか。何故、こんな冷たい雨の降る日にでも、彼女の周りは暖かいのだろう?

 ―――分かっている、これは嫉妬だ。
 いつまでたっても一人でしかない私が、幻想郷の中心たる彼女を妬んでいるだけなのだ。
 誰も私を見ていない中で、強く唇を噛んだ。血が滲むほど強く噛んでも、そこから流れ出るものは何もない。
 嫉妬……これもまた、一つの穢れだ。地上に這い蹲っている生き物しか感じないという、汚れた感情。月の民は、それを嫌う。
 私のこの嫉妬だって、またそれとは違う穢れを忌避してのそれなのだろう。だが、その行為がまた新たな私の穢れを生み出している。私はそれに気付いているのに、やめることが出来ない。

 そんなことを考えているうちに、神社にはさらに人が集まって来ていた。山の上の神社からも、二柱とその巫女のような少女が傘を差しながらやって来て、逆に傘も何も差さずに鬼や天狗が偉そうに参道を歩いている。天界からはこの前の地震の元凶たる天人が、これまた偉そうな態度で「下界が雨っぽいから来てやったわよ!」と霊夢の下まで降りてくるし、地底にいるという猫やら帽子を被った少女の妖怪もいつの間にか部屋の中に上がり込んでいた。彼女たちが来るたびに咲夜の能力で部屋が広くなり、食事もその分だけ用意された。

 別に霊夢に会いに来たとか、そういうわけではなく、ただ“この場所”に。今までいろいろな形で出逢ってきた様々な友人たちと、同じ時間を過ごすために彼女たちは集まって来ていた。誰もが、隣に座った人や、向かいの妖怪、それから、その場を仕切り始めた魔理沙と楽しそうに談笑している。
 得意気に先日解決した異変を語りだした魔理沙に三分の一ほどの注目が集まり、鬼と天狗が茶々を入れた。

 それからものすごい勢いで過ぎていく時間に、私はその場で何故か、抗い続けている。流れに身を任せることが出来ずに、必死に立ち止まっていた。
 独り、取り残される感覚。
 先程までの、一瞬の日常風景は。
 もうここには、塵の一つ分ほども残ってはいなかった。


「……はは、」

 乾いた笑いが、半開きの口から溢れてくる。次第に、本当にこの状況が面白くなってきて、私は小さく声をあげて笑った。それでもこの声さえ、誰も気づきはしない。一緒に来ていたてゐさえ、既に私を置いてみんなの輪の中へ入っている。
 誰もが楽しそうで、迷惑そうな顔をしていたはずの霊夢も、今はまんざらでもない表情だった。


「―――私、独りだ」

 はっきりと口に出したそれは、床に吸い込まれるよりも先に、私の心が受け止めた。試験管の中の病原菌のように、ゆっくり、確実に私を侵していく。
 滑稽じゃないか。
 そう自分を嘲笑う。
 口元に浮かぶ笑みとは裏腹に、私の赤い瞳からは水が零れ出したけれど。
 きっとこれは、真実なのだろう、と。そう思ってしまったから、私がここにいる理由はもう無いように思えた。

「ねぇ、師匠……?」

 ―――貴女が探せと言った答えは、これなのですか?


 兎は、神社を飛び出した。




















     3



     ***



 傘は神社に忘れてしまった。
 だから私が立っているのは、いつまでも止まない雨の降る竹林。
 冷たい、氷のように鋭いそれが、私の身体という身体を突き刺して、思わず身震いしてしまう。
 月から逃げたときだって、確かに私は苦しかった。生きるということに絶望していた。けれど、こうして本気で死んでみたいと思ったのは初めてだった。余りに自分が滑稽過ぎて、今まで当たり前のようにあの輪の中で座っていた自分が恥ずかしくて。
 同時に、師匠を恨んだのも今日が初めてだった。

 そもそも、霊夢と私は根本的に違っていたのだ。内側の問題だってそうかもしれないけれど、それ以前に周りの人たちとの関係が既に別物だった。
 異変を解決して、何故かその異変を起こした張本人たちから愛される。本人がどう思っているかなんて知らないが、それが博麗霊夢の魅力なのだと思う。


「―――ほら、言った通りじゃない」


 雨の中でも、その声ははっきりと私の耳に届いた。視線を上げれば、そこでは普段日傘として使用されている傘がくるくると回りながら雨を弾いていた。

「紫さん……帰ったんじゃなかったんですか?」
「言ったでしょう? 悩んでいる人を見るのは楽しいって」

 八雲紫はくすくすと笑った。竹林は暗く、彼女の表情は良く見えない。声は笑っていても、顔までそうとは限らないのだ。特に紫の場合は。

「まぁ、良かったじゃないの。貴女の眼はやっぱりまだ濁ってなんかないわ」
「……濁っていた方が、」

 まだマシでしたよ―――、と。そう言おうとした私の唇は、スキマから出てきた紫の指に塞がれていた。出そうとした声が口からお腹の中へと逆戻りしてしまい、私は混乱しながら紫の顔を睨んだ。荒んだ気持ちが、彼女に八つ当たりでもすればいいさと私を嗤う。

「それにしても、この竹林は良いわねぇ」紫は指を引っ込めて、辺りを見回した。「迷いの竹林―――貴女にぴったりの場所だわ。だからここに堕ちてきたのかもしれないわね?」
「……なんで、貴女が私の堕ちた場所まで知っているんですか」
「さぁ? どうしてかしら」

 そうして再び堪え切れないかのようにくすくすと笑い声を零した。私は少しむっとして文句を言おうとして、

「…………あれ? そういえば貴女……」

 私はあのときの竹林で見た、金髪の少女のことを思い出していた。
 考えてみれば確かに、あの少女は紫に似ているかもしれない。紫色の服も、綺麗な長い金髪も……、思考がそこまで辿り着いてから、私は激しく首を振ってそれを追い払った。

 似ている。でもそれだけだ。似ているかもしれないけれど、そうだという確証だって存在しない。このスキマ妖怪なら、どこにいてもすべてを見ることが出来るのだから。スキマを作って、それを他の空間の繋げるだけで良い。

「気の所為だ、って思った?」紫の顔が目の前に迫っていた。私は驚いて一歩後ずさる。「もちろん気の所為なのでしょう、貴女がそう思うなら」
「な、何が言いたいんですか……?」
「捉え方の問題よ。すべて、貴女がどう捉えるかによって変わってくるの」

 捉え方? 私は彼女の言葉を頭の中で反芻した。そして、それの意味を理解するとともに、ふつふつと汚れた感情が湧きあがってくるのを感じる。
 その言葉を、今の私に対して言うというの?
 いつだって貴女は全部分かったような顔をして、相手の心の弱点を知っている。そして、的確なやり方でその傷を抉るのだ。

 ……やめて。

 怒り、なのだろう、この感情は。笑顔で私を狂わせる。いくら悲痛な瞳を、狂気の瞳を紫に向けても、彼女はお構いなしに微笑み続けた。

 背筋を汗が伝い、悪寒が私を包み込む。全身の肌が粟立つのを感じ、爬虫類のように体温が異常な上がり下がりを見せている気がした。
 紫の笑顔が、私に纏わりつき、呪いのような言葉を囁き続ける。

 …………やめて!

 私は、それらを振りほどくように目を見開いて彼女に叫んだ。

「―――今の状況を、前向きに捉えろとでも!?」私は嘲笑った。紫をじゃない、いつまでも愚かな自分を、だ。「私はどこにもいない、誰も私とは関係のないところにいる! それに気付いてしまったというのに、どうすれば前向きになんて出来るのよ!?」叫んでおきながら、内側では冷静にもう一人の私が今の自分を分析しているのに、私は気付いた。

「別に前向きになんて言ってないわよ……」声を荒げた私に、紫は呆れた表情を向ける。「まぁ、その先に何があるのかなんて私には分からないから、何とも言えないんだけどね」
「言えないって……」

 大声で捲し立てた自分が次第に恥ずかしくなって、私はその場に座り込んでしまった。服や髪の毛が雨を吸い、どんどん重くなっていく。この竹林に堕ちてきた時も、確か雨が降っていたように思う。その時は、雨という単語を知らなかったけれど。
 もう、古い話だ。
 思い出しても気持ちの良いものじゃ、ない。

「ほら、そんな濡れ兎になっていたら風邪を引きますわ」弱いものを虐めるように、半ば諭すような、笑顔。「早く帰った方が良いんじゃないかしら? ……もっとも、帰る場所があるなら、の話だけれども、ね」

 一瞬の光。
 雷が落ちたのだ、と認識するより早く私は紫の表情を見てしまった。
 口元は、にんまりと猫のように歪んでいて―――その眼は、驚くほどに悲しそうなものだった。
 私が言葉を失っているうちに、遠くで雷鳴が轟く。頭に響く重低音が私の心を不規則に揺さぶった。

 そして竹林は暗くなる。
 光源のない世界で、さらにたくさんの葉が生い茂るこの竹林。
 先は見えない、貴女の顔も見えない。
 この眼では―――、

「貴女は、独り」
「私は……、」

 ぐらぐらと揺れ始めた世界の中で、紫色の少女が妖艶な笑みを浮かべる。
 足元で空間が裂け、真っ赤な何かが口を開いた。
 赤い、
 赤い、
 ―――真っ赤だ、まるで血のように!

 心が悲鳴を上げながら、私は境界線へと堕ちていく。
 私が引いた、空間のスキマに。

「貴女は、独り」

 再び紫色の何かが、嘲笑う。

 違う、と私は叫び返したかった。私は独りであることが怖いんじゃない。そんなものは全然怖くない、それが私の常だったのだから。今更その事実が分かったということで、いちいち絶望なんてしていられないのだ。

 だから、違う、と。
 溺れていく私を見下す彼女に、そう叫んでやりたかった。

「じゃあ、貴女は何がそんなに怖いのかしら?」

 私は答えられない。
 答えられないまま、遥かな底まで。

 私は何処?
 何処にいるの?
 何処へ堕ちていく?



 消えたい。
 泡沫のように。

 消して下さい。
 命のように。


 あぁ、もう、ほら―――雨に融けて、消えていく。




















「―――何してんだ、お前」
「――――――ッ!?」

 燃え盛る炎が、目の前にあった。降り注ぐ雨を蒸発させて、それは一層強く燃え上がる。
 私の意識は深い底から浮かび上がって、その呆れた表情を見上げた。
 藤原妹紅。三人目の永遠。繰り返し続ける不死鳥の命が、私の顔を心配そうに見つめていた。

「酷い顔してるな」

 はぁ、と大きな溜息。変なものでも見るような目つきだけれど、何故だか反感は覚えなかった。ただぼうっと、彼女の言葉を反芻する。

 酷い顔―――、あぁ、かつて鏡に向かってそう呟いたことがあったような気がする。
 あのときから私は、何一つ変わっていなかった。独りだったあのときに心を置き去りにしてきてしまったから、この幻想郷でも、それは変わらなかったのだ。

「ひとまず、ほら、医者んとこ行くか? 本当に酷い顔だしなぁ、風邪でも引いたか…………誰かに虐められたか、な」

 からから笑いながら、妹紅は私を軽々と持ち上げて、その背に負ぶった。炎の翼はそこにはなく、ただ生きている人間としての、温もりだけがあった。

「あの、紫は……?」体温を感じながら、私は妹紅に囁きかけた。
「金髪妖怪か? 見なかったけど」首を少しだけ捻って、彼女は答える。
「そう……」
「まったくあの時といい、お前は雨が好きなのか? 傘くらい差せばよかったのに」
「傘は、神社に忘れたわ」
「故意にだろ」
「…………たぶん」
「体温、すごく低いぞ。寝てたんじゃないか?」
「………………たぶん」

 曖昧に答えながら、私は彼女の背にしがみついたまま眼を閉じていた。心地よいリズムが刻まれながら、竹林の中をゆっくりと進んでいく。既に私が道を理解している、永遠亭の近くまで近づいてきていた。
 足元をてゐの部下の兎たちが雨も気にせず跳ね回り、予期せぬ来訪者を主に伝えに走っていった。しかし、残念ながらてゐは今神社にいるはずだ。中にいるのは、師匠と姫様だけだろう。

 あれは、夢?
 雨の中の白昼夢か。
 紫と話したところから、既に夢だったのか、あるいは、それ以降の途中から……?
 そうだとするなら、私はいつ、夢を見始めたのだろう。
 どこからが夢?
 どの紫までが、現実?
 結局、彼女が何をしたかったのかは私には分からなかった。ただ、傷口を抉られたようにしか、感じない。
 ……あぁ、でも、と私は思い直した。
 知ることの出来ないことも、知らなくても良いことも、この世の中にはたくさん存在する。そう深刻になる必要はない。
 そう、誰かに言われたことがあったのを覚えている。
 師匠だったか、姫様だったか……。または、今私を負ぶってくれている、妹紅か。
 永遠の命を持つ者だったということだけしか、覚えていない。


「おーい、輝夜!」

 妹紅が中に呼びかけながら門をくぐった。霞み始めた視界の中で、姫様がゆったり歩いてくるのが見えた。足の引きずり方から見るに、おそらく寝起きだろう。日々怠惰に過ごしている彼女は、まさに永遠の時を歩む者の姿をしていた。

「あら、妹紅じゃない。どうしたの……? って、イナバ!?」

 永琳、ちょっと来て頂戴! と姫様が奥に呼びかけた。従者が客人を出迎えず、主がその役を担うこの屋敷というのは一体どうなのだろうか。そんな馬鹿なことを考えながら、私は師匠の診療室まで連れて行かれた。
 硬いベッドに寝かされる。
 本当の目的でここに寝かされたのは、一体いつ振りだろうか? 弾幕程度の怪我なら、師匠はそんなに心配してはくれない。彼女が診療室のベッドを私に使わせるのは、意識の混濁か、身体が動かない程になってしまった時くらいなものだ。
 最初に来た時は、気雑していたから覚えてはいない。


「帰ってきたのね、優曇華」

 頭上から、優しげな声。
 今の私が恐れている、残酷な、貴女。
 霞んだ視界の端に赤と青の服が揺れ、右腕に軽い痛みを感じた。注射が刺されたんだ、と認識したと同時に私の意識は溺れるように沈んでいった。










     ***



「…………師匠」
「あ、起きたの?」

 私の隣で書類にペンを走らせていた師匠は、驚いたように振り返った。それから私の鋭い眼つきに気付いたのか、少しだけ表情を険しくさせる。

「酷い人です、貴女は」
「…………」

 それだけ告げて、私は目を閉じる。彼女がどういう顔で聞いたか、私は知りたくなかった。これは、ただの八つ当たりに近いから、私が悪いということくらい、分かっているのだ。
 無言で布団を掛けられる感覚。小さく、「ただの風邪ね」と呟いた声だけが聞こえて、すぐに部屋の中は沈黙で満ちた。

「師匠」目を開く。その顔は目の前にあった。「……私にこんなことをさせて、師匠は―――何をしたかったんですか?」
「………………」
「これが答えなんですよね?」口にするたびに、心が静かに悲鳴を上げる。「私にこんなことを気付かせて、いつまでも変化のない私なら、狂ってしまうことなんて分かっていたはずなのに! 今日という一日に、一体何の意味が!?」

 うっすらと、口の中で血の味が甦る。右胸を貫かれて喘いだあの夜の痛みが、赤い液体に変わって口から溢れたあの日の味。
 絶望と後悔と鉄と、
 ―――雨の味。

 涙をぼろぼろ零して泣きじゃくる私に、師匠は逆に問いかけてきた。

「貴女は、どうしたいと思ったの?」静かに、諭すように彼女は話す。「絶望して、生きていることに後悔して、苦しくて、どうすればいいのか分からなくなって、雨に打たれて幻覚も見て憔悴して、その果てに……? そこまで行かなければ、答えとは言えないのよ」

 そう、独りだ。
 はじめから、私は誰かに依存することが出来なかった。その相手の存在を侵すことが、何よりも怖かったから。
 同時に、私は誰にも依存されることはなかった。今一緒に住んでいる彼女たちでさえ、私がいなくなっても別段問題はないはずだ。悲しくはない。いや、苦しいけれど、それは紛れもない真実なのだ。
 涙を流しても、仕方がない。

 けれど、やっぱり師匠は優しい方なのだ、と私は分かった。
 根拠なんて無い。
 ただ、その温かい瞳が、視線が。
 感情的に、私にそういう想いを抱かせる。


「……ねぇ、師匠?」震える声で、語りかける。
「何かしら」
「貴女は、私のことが好きですか?」私は、どんな顔をして訊いているのだろう?
「そうね……」師匠は静かに目を閉じた。「今の、自分自身を好きになれない貴女のことは、大嫌いです」

 私は大きく頷いた。空っぽになって喘いでいた心の中に、温かいものが流れ込んでくるのを感じる。目を閉じたまま微笑をたたえた彼女に、ありがとうございます、と頭を下げる。

 これが、本当の答えだ。
 今度こそ、間違いじゃないはず。
 ようやく私は融けだして、再び雨の中に飛び出せるのだ。

「決めましたよ」明るい感情と暗い感情が、私の中で暴れている。「私が、これからどうしたいか―――どうするのかを」

 その感情の、どちらが勝つかは、今の私になら良く分かる。

 師匠は薄く眼を開いて私の顔を見た。それから、ふと気がついたかのように私の後ろへと視線を動かす。
 襖が大きく開け放たれて、姫様と妹紅がお互いボロボロの格好で入ってきた。またこの二人は、雨の中喧嘩でもしていたのだろうか。この格好を見る限りはそうとしか考えられないが。

「難題も難題……」姫様が服の埃を落としながら笑った。「そして残酷な問題を出したものね、永琳も」
「まったくもって本当だ、これだから月人には碌なやつがいない」妹紅が汚れたリボンを解いて放り投げた。「雨の中倒れてる兎を背負って運んでくるほうの身にもなって欲しいね」
「私は地球人ですよ」不敵な笑みで、師匠は妹紅に応えた。「それに雨の中出歩くから、優曇華を見つけてしまったのでしょう?」

 まぁ、そうだけどさぁ……、と不満げに妹紅が呟き、急に私の方を睨んだ。

「ほら、それでお前はどうするんだ?」
「あぁ……」

 そうだった、と再び私は頷いた。それを師匠に伝えようとしていたのだった。
 私は三人と距離を置いて座り、彼女たちの顔を眺めた。どの顔も、私の良く見知った顔で、それでいて私が依存できなかった、優しい人たちの顔だ。
 永遠が、三つ。
 有限が、一つ。
 そう―――、私が今まで出逢ってきた人は、みんな、みんな優し過ぎたのだ。
 綿月姉妹、月の玉兎たち、地上の兎、永遠の炎、師匠、姫様―――私と少なからず関わってきた人たちは、綺麗な人たちばかりだった。それに甘えていたから、私はいつまでも変われない。むしろ、どんどん弱くなっていく一方だ。

 いつだったか、こんな感情に満たされたことがあった。
 もういつのことだかなんて、とっくに忘れてしまったけれど、あの時は確かに、私はどこかを目指していた。
 例えば、穢れた地上だったり。
 例えば、遥かな月だったり。
 例えば、自らの死に場所だったり。
 例えば―――、

 私が歩いてきた道は、まるで降り続ける雨のようで。
 一瞬、進んだと思えば既にその先は溶けてなくなってしまっていたりした。
 どうして自分はこんなに駄目なのだろう、とか。
 消えてしまいたい、とか。
 そんな思いがいくつも重なり合って、私はどんどん自分が嫌いになっていったのだ。

 原因は、最初から私の中にあった。
 ひっそりと、自分を蝕みながら眠っていた、小さな綻びが。
 僅かなスキマが、私自身を壊していただけ。

 そう、例えば、自分を少しだけ好きになること。



「私は―――歩きます」



 そう一言、言葉を放つ。
 三人とも何の反応も示さず、きょとんとしたまま黙ってしまった。私なりに精一杯の表現をしたつもりなのだけれど……というより、そう表現するしかなかったのだ。
 やがて、数十秒。私は何も話さず、もちろん彼女たちも身動き一つせず、ただ雨の降り続ける音だけが永遠亭に響いていた。

「……その足で?」我に返った妹紅が訊ねる。
「この足で、ね」私はどうにか笑顔を作った。

 うぅん、と彼女は首を傾げてしまい、すとんとその場に胡坐をかいてしまった。そんな彼女を眺めながら、姫様も座り込んで、つい、と私に目を向けた。「それで?」と私に先を促す。
 師匠は立ったまま、黙っていた。

「それだけですよ」ゆっくりと首を横に振り、私は答えた。「一度きりの有限。罪は晴れないし、何かをするために生まれてきた訳でもない。誰にも必要とはされず、誰も必要とは得ず、だから、ただ―――果てまで」
「果て?」
「そう、果てまで歩いていきたいのです。そこがきっと、私の折り返し地点で……」
「果て、ねぇ……」

 姫様は何か考え込むような仕草で微笑んで、意地悪そうな目つきで師匠を見た。彼女はばつの悪そうな表情になって、私の方を向く。

「鈴仙」そのままの表情で、師匠は私に訊ねた。「どうして、それを私たちに告げるのかしら?」
「え? それは……」師匠の意図が分からず、私は首を傾げる。「私は永遠亭で働いている身ですから、二人の許可を得ないと……」
「そんな訳ないじゃない。貴女の生だもの」師匠はきっぱりと否定した。「貴女が決めたことに、私たちが文句を言うはずがないわ」

 輝夜さえ良ければだけど、と付け加えて、師匠は彼女の方を見た。視線を向けられた姫様は悠然と微笑み、私に笑いかける。

「私だって引き止めはしないわ。私が決める生じゃない。確かに、貴女がいなくなるのは永遠亭にとっても大きな損失だし、現状を考えれば誰が働けばいいのか分からないわ」
「その点は優曇華の管理不足ね。兎のしつけがなっていない」
「す、すみません……」私は慌てて頭を下げる。
「でもね」姫様は少しだけ、私の方に顔を近づけた。「貴女には、私たちにはもう出来ないことが出来るのよ」

 それが―――果てまで歩き続けること。
 永遠は果てまで歩くことが出来ず、有限たる私にそれが出来るという、一見矛盾しているようで、これも一つの真実だ。
 何故なら、永遠には果てが存在しないから。
 私には、果てがあるから。
 もちろんここで果てを迎えることだって出来るけれど、ここは同時に、今まで歩き続けていた場所なのだ。別の、新しい場所ではない。

 まだ見ぬ新境地―――それもまた一つの、幻想郷なのかもしれない。

「いつ行くのかしら?」師匠が訊ねる。
「すぐにでも、です」私は答えた。
「善は急げだわ」姫様がころころ笑う。
「月の民って、みんなこんなに訳の分かんない奴ばっかりなのか……?」妹紅はさらに深く、首を傾げた。

 沈黙が訪れる。姫様と師匠は無言で、「じゃあ、荷物をまとめなさい」と私に目で示していた。妹紅だけが、私を見つめて、「変な奴だな、本当に」と呟いていた。

 首を傾げたままの妹紅に、そうかもね、と笑いかけて、私は荷物をまとめに自分の部屋へと歩き出した。背後から、「じゃあこれで、さよならだな」と妹紅の声が聞こえて、私は左手だけを挙げてそれに応えた。

 すべてが、私から遠ざかっていくようだった。

 余りにも早い決断かもしれない。
 余りにも遅過ぎた結論かもしれない。

 廊下は冷たい。床が軋む音を耳にしながら、吹き込む風を全身に浴びた。わずかな隙間から素肌に直接あたるそれが、私を身震いさせる。

 外では相も変わらず雨が降り続けていた。石に当たって跳ねて、少しだけ廊下の床を濡らした。この雨がずっと続いたなら、きっとこの石には穴が空いてしまうだろう。

 廊下をしばらく歩いて、そこへ辿り着く。住み慣れたはずのそこが、私が来る前はただの客間だったんだ、と記憶から情報を引きずり出しているうちに、何故か視界がぼやけ始めた。

「悲しいのかしら?」

 声に出して言ってみる。
 悲しくは、ないかもしれない。

「嬉しいのかしら?」

 嬉し涙というものがあると聞いたことがある。
 しかし、そういう感情は湧かなかった。

「……わからないわ」

 結局、私の行きつく先はそこなのだ。分からないと喘いでいたから、求めようと今日、動き出すことが出来た。
 古い床が、軋む。
 心と同じように、踏みつければ踏みつけるほど。


「言い忘れてたわ」背後から姫様が歩いてきた。「貴女がいなくなるのは、永遠亭にとっての損失であると同時に、私の―――私たちの損失でもあるのよ」

 ゆっくりと振り返る。まだ目じりに涙が浮かんでいるのに気付いて、私は慌てて袖で拭った。普段から真っ赤な目が……、これではさらに赤く染まってしまう。

「姫様たちの、損失ですか?」
「だって、そうじゃない? 血も繋がっていないし、生きる時間もまったく違う。考えることも、歩んできた道のりも解いてきた難題の数だって違うけれど、それでも私たちは、ある一瞬を共有してきた家族だから」

 私は反射的に顔を背けて、天井を見上げた。本格的に視界が歪み始めて、良く分からない感情が全身を襲う。

 わからない。
 わからない。
 わからない。

 同じ言葉だけが繰り返されて、その分からないものの所為で、私の頬に涙が伝う。雨の中に立っていたように、それは顎を伝って床へと落ちていった。

「姫様……」
「なあに、イナバ?」
「何故でしょうか……? 悲しくも、嬉しくもないのに涙が止まらないんです。これはなんていう感情ですか? 私には、分かりません。良く分からない感情なんです」
「じゃあ私にも分からないわ」姫様は幸せそうに微笑んだ。「だから、それは分からない感情なのね、多分。難題の答えなんて、大抵そんなものよ」

 わからない。
 わからないけれど、何故だかとても素敵だ。
 わからないから、綺麗なのかもしれない。

「それが、きっと有限を生きるということなのでしょう」別の声が聞こえる。「いくつも分からないものに出逢って、それを越えて歩いていく。今貴女のしようとしていることこそがきっと、人生そのものに繋がるのよ」

 いつの間に移動したのか、廊下の反対側から師匠が小さな箱を持って現れた。大事そうに抱えている箱は、私が彼女の研究室で何度も見たことのあるものだった。触ってはいけない禁忌の箱だったけれど、師匠はそれを私に差し出した。小さな箱で、幾重にも細い紙が巻きつけられていて、それがその箱の重要性を表している。紙に書かれた無数の呪文が、開けられないような仕掛けになっているのだろう。

「これを、持って行きなさい」

 目の前に差し出されたそれを、私は両手で受け取る。思っていた以上に軽いものだった。何が入っているのだろうか、と疑問が浮かぶ。

「開けてはいけない、という奴でしょうか?」そうおどけてみせると、意外にも師匠は首を横に振った。
「良いわよ、開けても。つまらないものだし、ね」

 つまらないもの―――?
 私は不思議に思って箱を開く。師匠からその封印の解き方を教えてもらいながら、震える指をどうにか動かす。幾重もの細い紙で縛られているそれは、気持ちが焦るほどに、開けるのを困難にした。
 二人が見守る中、私はこの、ただの箱を開けるのに一分もかかってしまった。

「……これ、その、師匠……?」

 ようやく箱の中身を見た私は、驚愕とともに師匠の顔を思わず見つめてしまった。
 見たことのない薬が、中には入っていた。金属のようで、液体のようで、流れだしてもすぐに元に戻る様子は、どこか不老不死を思わせる―――、

「蓬莱の、薬……?」

 ね、つまらないものでしょう? と言って師匠は優しく微笑む。私はさらに訳が分からなくなって、蓬莱の薬と師匠とを何度も見比べてしまった。
 どうして、こんなものが私の手の中にあるのだろう?
 『永遠そのもの』にして、不老不死の薬。蓬莱人としての彼女たちの人生を決めた、その薬。それが今―――

「どうして……ですか?」思わず訊ねてしまう。
「貴女に渡すためよ」師匠は即答した。「どういうタイミングかは知らなかったけど、いつか貴女に選択を迫る時が来るだろう、と思って作っておいたの。作ること自体は、私にとってはそう難しくないのよ。すぐ隣に、永遠を操る者がいるからね」
「私に選択を?」
「そう。もちろん決めるのは貴女自身だけれどね」

 私は手の中の薬を見つめた。金属質な表面に、怯えた表情の兎の顔が映る。赤い目をして、長く伸びた耳を持ち、背筋の伸びた、月兎。
 この薬は、それを生かし続ける。
 だから、これは私の願いとは違う。
 私が求めているのは、永遠の命でも、永遠でもなかった。
 それがそうだと、はっきりと意識出来ただけ、今の私は変わってきているのかもしれない。ほんの少しだけの、成長を。

「もし、貴女が望むのなら―――」師匠は続けた。「いつかまた、その果てで逢えることを祈っているわ」

 そう告げた師匠に、私は自分の思いを再確認してから、ありがとうございます、とだけ答えた。蓬莱の薬を箱の中に戻して、それを荷物の中に詰め込む。

 私は、独り。
 それは今の私には変えようのない事実だ。だからそれを、どうにかすることは出来ない。

「最後の難題よ、イナバ」姫様が、難題を出すとき特有の目つきと表情で私に言う。
「……はい」
「私たちは、また逢えるかしら?」

 その答えは、もう決まっていた。
 けれど、私は答えない。
 出題者は答えを知っているから。
 回答者も答えを知っているから。
 互いが答えを知っているとき、回答という行為は成立しない―――師匠が昔、ふとこぼした言葉だ。
 そして、その師匠も答えを知っている。


 僅かな永遠が、そこに―――



「さようなら」

 ただ、それだけの言葉を伝えた。
 二人は微笑んで応える。

「さようなら」
「さようなら」

 最後に三人で、くすり、と微笑をかわして―――



 私は、傘を片手に持って永遠亭を後にした。





 雨は未だに、止む気配を見せない。










     ***










   # 藤原妹紅のモノローグ
     厄介な兎だったなぁ、ホント。
     いや、正直言って悪くない気分だったよ、あいつと過ごしたいろんな時間は。
     あいつはいろいろ考え過ぎる面があるけどさ。
     そこがまた、永遠とは違うんだよ。
     生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く。
     死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
     ……なんて、ね。
     彼女は生きて死ぬ、有限の狂気だ。
     忘れない限り、もしもあいつが戻ってくるのなら覚えていようか。
     真っ赤で、臆病な、兎のことをね。










     4



     ***



 私は、細い腕に首を絞められていた。濡れた土に押し倒され、上からの体重が首を圧迫する。
 視線の先では、暗い表情で笑うてゐが私に圧し掛かっていた。手に持っていたはずの傘は二、三メートル先に転がって、無駄に雨を弾いている。せっかく堂々と永遠亭を後にした私の服は、また先程のように濡れてしまっていた。

「てゐ……」圧迫された喉から出る声が、掠れる。
「損な役回りだったよ」暗い笑いだ。先程までの自分を見ているようで、思わず私は戦慄する。「師匠に命令されて、あんたに着いて行った。お師匠様は神社に行くこともお見通しだったのよ。それで、人が集まってくるだろうから、鈴仙を離れて他の人のところで楽しむ……それだけで良いってさ」
「じゃぁ、」

 ―――仕組まれていたんだ。
 出ない声の代わりに、私はその形に口を動かして彼女に伝えた。それに満足したのか、てゐの笑みは一層深くなる。

「鈴仙、出ていくってね、聞いてたよ。あんたが消えたのを確認してから、すぐに竹林に戻ってきたんだから」
「そう、なんだ……」

「―――殺されてもいい、って今思ったでしょ」

 淡々と、てゐは両腕の力をさらに強くこめた。少しずつ視界が霞んでいくのと共に、私の身体は酸素を求めて震えだした。
 殺されてもいい?
 自分に訊ねる。客観的な視線が赤い眼で泣きじゃくる兎を見つけて、答えを求めた。あのときの私なら、否、数時間前の私なら間違いなく死ぬことを選んだに違いない。生きている価値なんてないと、自分に見切りをつけていたから。
 でも、貴女の……私の出した答えは、それなの?

「…………がうわ」

 辛うじて吐き出した声に、腕の力が弱まる。霞んでいた視界が鮮明さを取り戻し、私を見下ろしていた彼女の姿をはっきりとこの眼に見せ付けた。
 今にも泣きそうな、苦しそうな瞳。
 まるで、私のようだ、と心の片隅が微笑む。精一杯の笑顔をてゐにも見せて、私は大きく口を開いた。雨が遠慮なく口の中に入ってくるけれど、そんなことはどうでも良かった。

「違うわ、てゐ!」

 彼女の小さな身体を、跳ね飛ばすように私は立ち上がった。跳ね飛ばされたてゐは尻餅をついて、私たちはさっきと真逆の関係になった。
 怯えたような、どこか力のこもった瞳が、私を見上げる。それにしっかりと思いを伝えようと、私は言葉を紡いだ。

「……てゐ。私はね、逃げる為に出ていくんじゃないわ」濡れた髪を掻き上げる。
「嘘。なんだかんだいって、どうせこじつけに決まってる」
「嘘をつくのは貴女でしょ?」
「兎が嘘をつくんだよ。だから鈴仙も嘘つきだ」

 傘一本分ほどの距離。怒りの炎は少しだけ和らいで、てゐはそれでも私を睨んでいた。
 ……違う、嘘じゃない。
 もう揺らがない。
 私は、そう決めたのだから。

 私はてゐの目をまっすぐに見つめて、思いを放った。

「逃げても罪は消えないし、逃れることは出来ない。同じように、私が独りであることには何の変わりもない。そうじゃなくて、私だとか仲間だとか生きるだとか……そういうモノじゃないのよ、私が歩こうって決めた道は。そもそも―――逃げることには、何の意味もなかったんだわ」
「言ってる意味が分からないよ。私は、あんたにいなくなって欲しくない。それだけなんだよ。分からないと思うけどね……、この竹林で永遠と共に過ごし続けるのが、辛いとは思わないのかな? ……私は昔、それが辛かったんだ」

 私は小さく頷いた。
 怖い、という感情。私も、てゐと同じことは何度も考えた。自分は有限、彼女たちは無限。
 けれど、同じ有限を生きる兎が、すぐ隣にはいたのだ。嘘つきで、悪戯好きで、何かと手のかかる兎だけれど、独りの有限であるという恐怖から逃れることが出来た。
 今、同じ思いをさせてきたてゐを置いて行くのは、もしかしたら残酷なことなのかもしれない。

 それでも私は、そうじゃない、と。
 上手く言えないけど、その小さな、僅かな愛情に甘えることは出来ない、と。


「……ごめんなさい、てゐ。私は、もう逃げられない。逃げたくないの」
「じゃあ、鈴仙は止めないんだ」返事は、すぐに返ってきた。
「止めないわ。それとも、てゐは……一緒に来る?」

 自分でも意外な台詞が、口から漏れた。結局、それでは変わらないじゃないか、と頭の中で誰かが叫んだが、考えもせずにそれは言葉として放たれていた。
 果てを見るための道連れは―――必要だろうか?
 雨を全身に浴びながら、てゐは呆然として私を見る。言ったことが理解できないかのように、理解できてもその意図が分からないかのように。

「いや」やがて、てゐは答えた。「私は行かないよ」

 半ば予想できていた答え。
 そして期待通りの答え。
 それでも私の口からは溜息しか出てはこなかった。一瞬期待してしまった、自分自身の嘘の言葉を。
 肺に溜まった二酸化炭素を大きく吐き出し、やれやれ、とその暗い気持ちを振り払う。

「じゃあ、これでさよならね」
「鈴仙、また逢える?」

 雨から、空へ。
 私から、貴女へ。
 一瞬から、永遠へ。
 流れるように進み行く想いは、最後まで一つしか存在しない。

 姫様も訊ねたその問いに返す答えもまた、一つだ。
 貴女は、答えを知らないから。
 だから私は、はっきりと答える。
 二度と振り返らないように、それに向かって進めるように、果てを通り越すことが、出来るように。

「もちろん!」雨が一粒、蒸発する。「だって、私はそのために行くんだからね」

 今の私は、大嫌い。
 それがすべての原因として、自らの首を絞めていたのだ。
 自身が永久に独りだったのも。
 常に過去に怯えていたのも。
 死ぬことにも、生きることにも怯え続けていたのも。

 ―――今の、自分自身を好きになれない貴女のことは、大嫌いです。

 別れる前の、貴女の言葉。
 嫌い、といわれてあんなに気持ちが楽になったのは初めてだった。

「てゐ、今の私のこと、どう思ってる?」
「大ッ嫌いさ」彼女は笑う。花の咲くような笑顔で。「だから、また逢えるんでしょ?」
「……そう、いうことよ」
「私だって伊達に長く生きてない、あと鈴仙が死ぬまで行き続けるくらいなんてことはないさ」
「頼もしいわね、それは」

 泥にまみれて茶色に染まった、白い服。詐欺師は黒、てゐは白。彼女は人を騙すから、詐欺師だから色をも騙したのだ。自分自身で、道を作って。そして今まで長く生きてきた。こんな偉そうにものを語る私なんかより、ずっといろんなことを経験してきているはずだ。
 ただ追いつこうというのではなくて。
 
 てゐはびしっ、と私に指を突きつけて、

「それじゃ、いってらっしゃい」
「……ふふ、なんかやってる事と言ってることがあべこべだわ」
「地上の兎は、あべこべなんだよ」
「そうなの? ずっと一緒に居たのに分からなかったわ」
「……自分自身を好きになって帰ってくれば、分かる」

 俯きながらそう呟いて、彼女は照れたような笑みを私に向けた。そこだけ雨が避けて降っているような錯覚を覚えて、私は眩暈と共に、倒れるようにして背を向けた。一歩前に出した足が身体を支えて、どうにかその場で立ち止まる。

「風邪引いたでしょ、あんな雨の中にいたから」
「……たぶんね」
「休めなんていわないよ。果てに行くまで……雨が止むまで、絶対に戻ってこないでね」
「それは―――」私は落ちていた傘を拾い上げた。「約束するわ」

 じゃあね、と傘を持っていない方の手を挙げててゐに振り、私はゆかるむ泥の中に足を踏み入れる。
 待ってるから、と微かな声が耳に届いた。
 背後で私のほうを見ていたてゐの気配が倍の速さで遠ざかっていく。彼女ももう、私の背中を見てはいない。永遠亭へ、雨宿りでもしに行ったのだろう。


姫様と別れ、
師匠と別れ、
妹紅と別れ、
てゐと別れた。

 今まで出逢ってきた彼女たちと別れの言葉を交わして、今の私はここにいる。
 出逢いの数だけ別れがあるというのなら、まだ最後の邂逅は続くのだろうか? 私にとって大きな存在だった彼女たちと、こうして最後の時間を過ごせたように。


 そしてそれは、待つ暇もなく私の元へと訪れた。




「―――レイセン?」


 懐かしい名前で、名前を呼ばれた。











     ***










   # 因幡てゐのモノローグ
     汚れ役ってのは楽しいもんじゃないね。気分がむかむかするよ。
     ま、どっちかって言うともどかしい、の方が近いかな。
     私は長生きで、幸せの兎だから。
     待つこと自体は、やぶさかではないのさ。
     詐欺は、自分だって騙せる。これってとっても賢いでしょ?
     ……悲しいかって?
     私は悔しいんだよ、少しだけ。











   ***



 懐かしい声。
 昔に捨てた、月独特のイントネーション。
 私の主だった人の、柔らかな波長。


「豊姫、様? 依姫様も……」

 月のリーダーである、綿月姉妹が私の視線の先に立っていた。傘で顔が隠れているけれど、その特徴的な服装と、彼女たちの波長ですぐにそれと分かった。どれだけ時間が経っていても、決して忘れない波長というものもある。既に別れた彼女たちのそれだって、間違いなくそうなのだろう。

「あぁ、本当にレイセンだわ!」

 豊姫様が私の顔を覗き見て、嬉しそうに隣の依姫様に笑いかけた。彼女の方も嬉しそうに、少し照れたように頬を掻いて「良かったですね」と笑う。

「なによぅ、貴女だってレイセンに逢いに行くって行ったら必死の形相で連れて行って下さい、って行ってたのに。まるで人事みたいに言うのね」
「いや、それは……」慌てふためいて、依姫様は未だに驚きを隠せない私と豊姫様を交互に見比べた。「元部下の前で、少しばかり恥ずかしいんですよ……」

「どうしてここに……?」

 心の中からそのまま現れた疑問。第二次月面戦争はもう終焉を迎えたはずで、それが終わった以上、彼女たちがここへ来る理由はどこにもないのだ。
まさか、月でまた何か起きたのでは……? と危惧した私に、豊姫様は薄く微笑んで答える。艶のある唇がしなやかにその言葉を紡ぎだす。

「だからね、貴女に逢いに来たのよ」

 息を呑む。
 ただの兵士として仕えていた私に?
 月のリーダーともあろう方が、穢れの地まで赴いて逢いに来るほどの価値が果たしてあったのだろうか?

「ねぇ、レイセン」豊姫様は、どこか悲しげな口調で言った。「私たちのところに、戻ってくる気はないかしら?」

「ありません」

 私はきっぱりとそれを否定する。その言葉を吐いてしまった後に私は悩み始めたが、こんなところで折れていてはいけない。
 誰も彼も、優し過ぎたのだ、と。月から逃亡するときに気付いていたはずなのに、私はずっとそれに甘えていた。
 今までは。
 だから今からは、違うものであろうと。
 てゐと話した時と同じような状況に、私は微かにデジャヴを感じた。

「それは……」依姫様が、豊姫様と顔を見合わせる。それからこっちに向き直って、「貴女が成長したというこなのかしらね?」
「いえ、まだ私は昔のままです」
「そうなの?」
「そうです、まだ。……ところで、今の月の都はどうですか? それとも、この質問は野暮というものですか……?」

 再び姉妹は顔を見合わせた。困惑したような表情の妹に、姉は横に首を振った。それから私に微笑みかける。

「その答えは、保留にするわ」

 戦争はまだ、続いているのだろう。私がただの幻影だと思っているそれと、月は未だに戦い続けているのだ。
 だからこれは、捉え方の問題だ。
 生きていることこそが正しいと考えるか、死もまた生の一環であると考えるか、というものと同じように。
 戦争は有意義か、無意味かという問題じゃない、と。そこにある者たちがどうするのかにすべてが帰結するということを考えれば、それでいい。

「ご用は、それだけですか?」

 自分でも冷たいなぁ、と思いながら、そんな言葉を彼女たちに告げる。

「貴女に対しては、ね」依姫様が言う。「これから八意様に会いに行ってくるわ」
「それでは、師匠によろしくお願いします」
「…………?」彼女は首を傾げた。「貴女は、八意様のところに戻る途中じゃないの?」
「出て行く途中なんです」

 私は口元を斜めにしてそう答えた。予想外とでもいうかのように、二人が眼を見開く。私は二人が勘違いしたのだと悟って、慌てて説明した。

「師匠にクビにされたとか、そういうのではないですよ? ただ、その……、私を、もう少し好きになろう、って……。具体的なことは恥ずかしいので省きますが、それにはあの場所で甘えていたらいけないんだ、と。そういうことが分かったものですから」
「それで、出て行くのね?」依姫様が確認する。「タイミングの悪いときに来ちゃったわね」
「そんなことありませんよ」大きく首を横に振る。「私は、二人に逢えてとても幸せです。そう感じることが、出来るようになりました」


「どこへ行くつもりなの?」豊姫様が訊ねる。
「果てへ、」私は言葉を紡ぎだした。「―――どこへでもなく、ただ、歩き続けようと思いました。自分を、少しでも好きになれるまで」

 ―――いつか戻ってこれるように。優しい貴女たちに、また巡り会えるように。

 そう決めたのは、本当に数時間前の出来事だったような気がするし、本当は地球に来た頃からすでに決めていたような気もした。
 それくらい、不思議な感情。
 私の発言に、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして黙ってしまった二人は、すぐに声を上げて笑い出した。目じりに涙が浮かんでいる。

「え、ちょ、何ですか二人とも!?」
「うふふ、八意様みたいなことを言うなぁ、って思って」豊姫様は目に指を当ててこっちを見た。
「……はぁ」大きく息を吐き出して、依姫様は続けた。「レイセン、八意様はいつだったか、『どこまでも、歩き続ける人生を送ってみたかったわ』と話してくれたの。蓬莱の薬を呑んだ直後のことだったと思うわ。……地上に降りる前に、ね。永遠の命では不可能なことだとも言っていた。矛盾しているように聞こえるでしょう? 私たちもずっとそう思っていたんだけど……」
「貴女がそういうのを聞いたら、なんだか分かるような気がしてきたわ」

 月で生まれ、月で育ち、地球に堕ちてそこで学んだ。
 だからその先にこそ、何かがある。
 ここで知ることの出来なかった、私のまだ見たことのないほど綺麗な感情が。

 その場所がどこなのか、私にはまだ分からないけれど―――

「レイセン―――鈴仙・優曇華院・イナバ。貴女が元気そうで何よりだったわ」微笑をたたえたまま、依姫様は背筋を伸ばして私を見据えた。
「えぇ、本当に。元気で……歩き続けて」涙を拭いて、座り込んでいた豊姫様が立ち上がる。

 ―――あぁ、彼女たちは。
本当に私に逢いに来たのか、と。

 そう思った。
 そう考えた。
 そう願った。
 そうだと、心の底から信じることが出来た。

「そうだ。忘れてたわ」

 何かを思い出したように豊姫様が顔を上げ、依姫様と共にこっちを振り返った。
 二人の先では、豊姫様の能力によって繋げられた月の風景が見える。何度も忘れようとして、忘れることが出来ないままに忘れてはならないことだと知った、遥かな過去の景色。
 それが目の前に広がっていて―――

「―――お帰りなさい、鈴仙」

 矛盾している言葉。
 それでも、私がずっと聞きたかった言葉が、ようやく耳に届いて。

「さようなら」
「さようなら」

 別れの挨拶。
 消える姿。

 二人に応えようと私は口を動かして、声にならない想いを紡いだ。

 出逢いから遡るような、逆回りの邂逅。
 ここまできて、ようやくそれは終わってしまったのだと私は分かった。

 わけもなく……、いや、ただの綺麗な感情の所為で、私の頬を涙が伝う。

 それが顎を伝って滴り落ちるより早く、





 ―――すべてを押し流すように、雨は嵐に変わり始めた。










     ***










   # 蓬莱山輝夜のモノローグ
     永琳は泣いていたわ、一日中。どうにかなる訳もないのにね。
     戻ってきたてゐも部屋に閉じこもってしまって。
     私?
     もちろん、泣いてなんかいないわ。これが永遠と須臾の違いね。
     ただ少しだけ、今日は雨が強い気がするのだけれど……。
     でもほら、きっとあの奥の満月は、綺麗なんでしょうね。










     ***



 あれは雨だ、と私は思った。
 ようやく雨は小降りになって、ところどころ雲が隙間を見せ始めたというのに。
 その隙間の奥で、また雨が降っているように見えたのだ。

 流星群―――私に見えたそれは、星の雨だ。一瞬の命を燃やしながら、空で燃え尽きて散っていく。そんな、儚い、命。

 綺麗だった。
 なにもかもが輝いていて、本当に、綺麗だった。星も、雨も、今私の中で時を刻んでいる命さえも、あぁ……なんて綺麗なんだろう。

 果てはこの先にあるのだと、私にはわかる。なぜなら、ここが私の歩く道だから。
 長い、永い道のりになるかもしれない。もしかしたら次の瞬間には先の道は途絶えているかもしれない。
 それでも―――、

「いや……だからなのかしら?」

 私は手に持ったバッグを開いて、中から蓬莱の薬を取り出した。
 師匠が私にくれた、禁薬。単体で永遠を意味するそれが、今私の手の中で転がっている。
 ころころと。
 とろとろと。
 くらくらと。
 金属とも液体ともつかない永遠を掌で弄んでいると思うと、思わず口元に微笑が浮かぶ。私が死ぬまで手にすることのないそれを、手中に収めているのだから。少しだけだけれど、嬉しく感じた。
 それよりも、薬の感触が、楽しかった。
 その程度の、喜びだ。

 薬は雨を弾いて、掌の上で孤立している。

 ふいに、飲んでしまえと誰かが叫んだ。いつか私が殺した、死にも生にも、独りでいることにも誰かに依存することにも怯える、弱い私だ。その弱さでさえ私はまだ持っているけれど、そのことを、今では愛おしいとさえ思うことができる。
 自分にはきっと、必要なのだろう。すべてを否定しない感情が。
 弱い感情を抱きしめて、愛しい想いを抱きしめて―――私は生きている。これからも、きっとそれは変わらない。

 弱い雨が、身体を濡らす。湿った服が張り付いたままの状態で、私は右手を空に掲げる。
 指には、蓬莱の薬を挟んで。

「これを飲むのは、」

 歩き続けると決めたのだから。
 戻ってくると、決めたのだから。
 有限を生きようと、何度も、何度も決心して、揺らぐ想いを封じ込めたのだから。
 だから、これは少しばかり―――

「アンフェア、よね……」

 瞳を閉じて、虚空に囁く。



「……ただいま」
 おかえりなさい、と言ってくれた貴女へ。



「…………さようなら」
 笑顔で見送ってくれた、貴女へ。



「………………ありがとう」
 待ってる、と呟いてくれた、貴女へ。



 そして、今まで出逢ってきた、すべての貴方に―――





「―――行ってきます」



 ―――ぱん。

 乾いた音と共に、蓬莱の弾丸を撃ち上げる。
 空へ。
 高く。
 彼方へ。
 果てへ。
 雨の中を永遠は突き進み、やがて水に溶けてしまうだろう。

 清らな水を浴びながら、私は待った。永遠が墜ちてくるのを。
 けれど、それは墜ちてこない。
 もう、溶けて、融けて、解けた。

 それは雨に。
 それは水に。
 悠久に流れ出して、私の身体に、降り注ぐ。
 やがて永遠の雨に、変わる。

 全部、流れてしまえばいい。
 心と、
 想いと、
 祈りが。
 赤を、
 黒を、
 狂気を通して、重なり合って。


 例えば、独りで―――





 Good Bye, Rainy Moon.
 いつかまた、逢う日まで。
 弱くて、臆病な私を、私が綺麗だと想える―――そんな日が来るまで。

 まずはこの世で夢を見て。
 果てまで歩けば、続きが見える。

 身体を濡らす優しい雨と、頬を流れる冷たい涙が。
 捻れて、
 交わり、
 巡り逢う。

 私の想いはもう、彼方へと放たれたから。
 綺麗な夢はここにあるよと、貴女は迷う私に手招きをして。

 そこに、私の果てがあるに違いない。
 だからきっと、戻って来れる。


 赤い眼の捉えた視界に、私は見知った顔を幻視した。


 嘘つき兎が、にやりと笑う。
 咎人たる姫が、手を差し延べて。
 賢者は、永遠を手にして微笑む。
 月の姉妹が、私を見つめて―――、



 見えないはずの、

 雨の月が、

 涙に揺れて、

 ふわりと、





 赤い。













































 雨は、止んだ。
後書き。

孤独を感じたことは幾度となくありますが、今になって振り返ってみると、本当に孤独だったことはたぶん一度もなかったように思います。良かった。

 *

読者の方の脳裏に、ずっと雨が降っているような話になれば良いなぁ(悪い意味とかではなく)、と思いながら書いたらこのような話になりました。お見苦しい点が多々なければ嬉しく思います。

紫とかメリー的な誰かがアレなまま終わっているのは、この話が鈴仙にスポットライトを当てて書いたからというのと、似たような理由になりますが、ここで二つの関係を定義する必要はない、というものが私の中にあったからです。疑問を感じた方がいらっしゃいましたら申し訳ありませんでした。こんな理由です。

長々と書くのもアレなので、これで終わりにします。
この度は拙作をお読みいただいて、本当にありがとうございました。
もしも楽しんでいただけたのなら、幸せ。

 冒頭の引用文は、坂本龍馬の言葉より。
 妹紅の言葉はもちろん、ご存知、空海『秘蔵空論』より、です。
零四季
http://ergoregion.web.fc2.com/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/11/21 21:31:43
更新日時:
2009/11/21 21:31:43
評価:
18/19
POINT:
119
Rate:
1.52
1. 7 百円玉 ■2009/11/24 01:30:52
蓬莱の薬に概念的なものにすらも永遠にする力があるならば、もしかしたら鈴仙の願いが叶うのもそう遠い未来ではないのかもしれませんね。
願いが永遠になる、なんだかやはり矛盾しているようですけど、果てまで行くのも願いの一つならきっと叶うはずです。
『永遠』は拒む者には厳しく、望む者には甘露のように甘ったるい……。

うわぁ、一人で膨らましてたら何かしら形にしたくなってきたぞなもし!
……という、作り手側に意欲を持たせる作品は素敵です。素敵なのです。
僕もこういうの書きたいなぁ。
2. 8 神鋼 ■2009/12/09 19:37:04
凄く「雨」という感じがあり、降られていても構わないような感覚がありました。
3. 10 バーボン ■2009/12/13 23:20:44
凄く面白かったです。鈴仙が挫折から成長へと進んで行く姿が、わかり辛く(誉め言葉です)描かれていたと思います。
文章も読みやすく、会話や地の文も味があって、最後の「雨は、止んだ。」の一節では思わず感嘆の溜め息をついてしまいました。
何より自分好みなんです、こういう話。その補正もあるかもしれませんが、文句無しなのは変わらずです。
4. 8 静かな部屋 ■2009/12/14 21:59:06
無事に帰って来られますように!
5. 4 藤木寸流 ■2010/01/04 02:23:05
 後半、鈴仙が旅立つのを決めたあたりから、雰囲気で語りすぎてふわふわしてました。よくわからない、というのはまんま鈴仙が感じた思いではありましょうが。こちらが感じるままに感じればいいのだろう、とも。
 周りがみんな楽しそうにしている中で自分ひとりが溶け込めないで佇んでいると、よりいっそう独りだという気がしてくるのですよね。別に排斥されているわけでも拒絶されているわけでもないのに、俯いているから話しかけることも話しかけられていることにも気付けない。視野狭窄。
 鈴仙が決断に至るまでの心理描写、過程がやけに早かったとか、てゐもいきなり首絞めんでも、とかいろいろ思ったりしました。
6. 6 いすけ ■2010/01/05 19:27:56
なんともいえない気分にさせていただきました。
こういう雰囲気の作品は好きです。
7. 5 パレット ■2010/01/10 05:16:17
 うーん、良い。綿月姉妹まで出てくるのはご都合っちゃご都合だけど、この素直な突っ走りっぷりが良いと思います。鈴仙が自分を嫌う過程、月での戦争時代からキャラを作っているために、彼女がここにたどり着くことにすごくカタルシスがありました。
 ラストシーン、雨の中に佇む鈴仙と、そして最後に晴れるその情景が浮かんでくるようで、とても好きです。
8. 5 白錨 ■2010/01/10 10:45:02
優曇華の成長物語。という観点では良い話だったと思います。月の国と永遠亭を両方描写した事が効果的だったと思います。
ただ、終わりが釈然としないような気がしました。
9. 7 椒良徳 ■2010/01/11 19:00:02
人は唯独り生まれ、唯独り死んでゆく。
何と言いますかこの作品からは仏教的な世界観を感じました。
読んでいて楽しい作品では無いのですが非常に丁寧に書かかれていることが拝察されました。
そんな訳でこの点数をつけさせて頂きます。
10. 7 詩所 ■2010/01/13 22:13:33
 孤独な時、人間は真の自分自身を感じる。BYトルストイ
11. 9 ホイセケヌ ■2010/01/13 22:59:18
コテ、ュ、ハヤ庁」、、、、、、抱、ュ、ソ、、、ア、、ノ。「、゙、ネ、゙、鬢ハ、、、茖」

ヤ侃ホ、隍ヲ、ヒ。「ク隍ホク靫~、ホ、隍ヲ、ヒ。「・ニ・・ン、隍ッ。「ミ。壥ホカ、ホ、、、、ケ攴リ、キ、ヒ、ー、テ、ネ、メ、ュ、ウ、゙、、゙、キ、ソ。」、ウ、ヲ、、、ヲホトユツ、ャ抱、ア、ネヒ、マ譱、、゙、ケ。」
12. 5 deso ■2010/01/14 00:24:51
むむむ、1日だけの休暇だといいながら、永琳と鈴仙の会話の翌日も休暇になってるのですが?
悩む鈴仙を細かく綺麗に描いてあると思います。
読んでいて息苦しくなるくらいでした。
ただ、個人的には自分探しの旅なんて気恥ずかしくて、その決断をした鈴仙の若さがちょっと辛かったり。
13. 8 2号 ■2010/01/15 10:09:26
鈴仙は永琳を師匠として慕っていますが、永遠に生きれるわけでもないし、師匠を超えることはできないんだろう、どう生きようと思ってるんだろう、と考えたことがあります。
この作品で、謎だった鈴仙像にひとつの答えをいただきました。
ナイスキャスティングでした。
14. 7 八重結界 ■2010/01/15 15:58:57
 人生の悩みに正解も不正解も無いわけで。
 ただ、少なくとも悩みに気づけたウドンゲは幸せだったのかもしれません。やるべき事を見つけたようですし。
15. 5 Tv ■2010/01/15 20:17:19
まずは誤字の報告を。
>だんだんと熱を奪って当たりを冷やしていく。
>最初に来た時は、気雑していたから覚えてはいない。

人の持ち込むものが月の幻想を壊していく。そこから抜け出て、幻想を渡り歩きながら進んでいくんでしょうか。
兎、兎、何見て跳ねる。
16. 7 やぶH ■2010/01/15 21:05:32
鈴仙の生の葛藤に踏み込んだ作品、過去に名作も多いですが、この作品もかなりの力(あるいは愛情)を注いでいらっしゃるようです。
ちょっと中盤以降の鈴仙の行動の矢印に対して?でしたが、最後の場面は切なく、どこか爽やかな余韻があり、終わってみればかなり楽しんでいた自分に気がつきました。
17. 4 時計屋 ■2010/01/15 22:45:34
 どうも鈴仙の心の動きが急激もしくは複雑に感じられて、私にはついていけませんでした。
 読み手として至らないだけだったらすいません。
18. 7 木村圭 ■2010/01/15 23:11:54
凄く……綺麗です。と言うと色んな人に怒られそうだ。
来るに決まっている再会の時を思うと自然と明るい気持ちになれます。
透き通るような青空の下で、ただいま、って。
19. フリーレス ななしの ■2013/05/24 14:02:50
雨、というよりも雨が降る5秒前の雰囲気を感じました。
名前 メール
評価 パスワード
<< 作品集に戻る
作品の編集 コメントの削除
番号 パスワード