あの夜のシューティング・スター

作品集: 最新 投稿日時: 2009/11/21 23:55:29 更新日時: 2010/08/03 00:25:47 評価: 27/28 POINT: 234 Rate: 1.85
 ☆ あの夜のシューティング・スターT





 ありふれた日常。ミントの香りを纏った朝霧。吸い込まれそうな青空。苺ゼリーのようにとろけていく夕日。そして生命が羽を休める夜。
 末期的な詩人が涙を流して有難がりそうな風景ではあるが、この魔法の森には全くといっていいほど縁がない。
 異様に発達した常緑の大樹や、妖怪と化した草木は、大きな葉っぱで日差しを遮り、雨までも散らしてただの霧雨にしてしまう。
 地面から湧き上がる湿気はやはり森に囲われて、水の粒が腐ってしまいそうなほど幾年も溜まり、茸たちは日照りも雪も知らない安穏な生活を送っている。

 では年がら年中変化がないつまらない場所、というわけでは断じて無い。季節も天候も平坦化して、されど森は人を惑わすように風景を刻一刻と変化する。
 悪戯好きの妖精、色々とアレな妖怪、偏屈な人間。そういった森の愉快な仲間たち以外を排斥・消化するという、激しい一面も持ち合わせているのだ。
 過剰すぎる森の新陳代謝は、外の人間には障気の毒となり、一方で順応した森の住人に妖の気を与える。ここにしかない茸や薬草が多いのは、無論そのため。
 いってみれば私たちは、魔法の森という、一匹の魔物の暖かくて栄養豊富なはらわたに、こっそりと住まわせてもらっているのである。


 しかしまあ、朝と夜で木の配置がかわるような節操無い森というのは、流石に住人からしても散歩するには億劫で、得てして奴らは引きこもりがちになる。
 この森の知り合いはせいぜい両手で数えられるくらいだが、知る限り、この森で最も外向的なのは私だと自負していた。

 特に親交の深い二人を例にとれば、一人は洗濯干しも風呂も水汲みも魔法と人形に任せ、もう一人はあろうことか花見まで宅内で済まそうとしやがるくらいだ。
 というわけで何かあるたび動くのは必ず私になる……不満があるわけじゃない。ただ、そういったパターンからしてありえないことが起こっていた。
 魔法の触媒を貸して欲しいとかで向こうに用事があれば来る前者に対し、用事ができても相手が来るまで待つような後者。
 ノックを聞いて前者――アリスかと扉を開ければ、よりによってこの後者――香霖のほうが扉の向こうにいたのだ。

「おおぅ」
「何故扉を閉めようとしているんだい」
「ブロッケンの怪物が出たんだ、くわばらくわばら」
「この程度の薄い霧雨で出るもんか」
「じゃあ霖雨の化け物が出るぜ」

 眉を少し動かして、香霖は肩についた雫を払った。雨に濡れるから中に入れろとでも示すような、わざとらしさがあった。
 別にこいつを家に入れることに関しては何ら問題はない、が、部屋が少し散らかってる。困った。

「話したいことがあるんだ」
「何だ? 香霖堂からはるばる数百メートル、果てしない遠路の土産話か?」
「それくらい重要って事だよ」
「ああ、とうとう借金の取立てにやってきたわけだな。だけどない袖はふれないぜ、ほれほれ」

 夏服なのだからあるわけもない。私の服は霊夢の巫女服みたいに香霖が作ったものではないのだし。
 ぶんぶんと振っていた右手を、静かに香霖は払って、眼鏡についた露をふき取った。その視線がどことなく遠い。

「……家に入れてやるけど、ちょっと待ってろ。女にはいろいろ準備ってもんがあるんだ」
「どうせ家の中が散らかってるだけだろう? 今更気にしない」
「ええい五月蝿い。このまま間違って愛の告白でもされた日にゃ、お前の後頭部がフラスコたちと刺激的なキスをすることになるぜ?」
「愛の告白? その程度の事だったら、わざわざここまで来るもんか。君が店にやってきたとき、小言のついでに言ってるさ」

 ふん、と鼻を鳴らし、茶色のタオルを投げつけて扉を閉めた。
 アリスからもらったオレンジの香りの茶葉を開け、片付けはどれくらい難航したことにしてやろうか、と窓の向こうを眺めて思う。
 髪を拭きながら、石像みたいに立っている香霖の後姿は、なんだか見れば見るほどつまらなかった。



 最近の調子はどうだい、とか面妖なほど無難な世間話から会話は始まった。
 まあまあだぜ、そっちはどうなんだ、そうか、いつも通りか。並べ立てた言葉たちはどれも薄味で、話すというより空気を吐き出しているだけのようだ。
 こいつはこんな話する奴じゃない。なんだ、調子が狂うな。口に出さなかったが、視線は次第に鋭くなっていく。

「で、用事は何なんだよ?」

 カップの底でソーサーをカチンと叩いた。

「今日はえらく舌のすべりが悪いんだな。いつもならとっくに龍やら神やら月やらを引っ張り出して薀蓄を垂れてる頃だろう」
「迷ってるんだ、言うべきか」
「ああ? 私に遠慮は要らないって言ったじゃないか。ほら、話せ。ついでにアリスのとこでもらってきたクッキーも食え」

 香霖は組んだ指を揉むように動かして、ぽつりと言った。

「里に行ったんだ」
「ほう」
「ちょっとした用事でね」
「……あいつに会いに行ったのか」

 数秒の間の後に、香霖は小さくと首を縦に振った。顔の血管が熱く脈打って、背筋がこわばる感じがした。
 私の知らないところで会う会わないまで口出しはしないが、それをわざわざこの私に言ってくるというのは半ば禁忌に近かった。

「霧雨の親父さんが」
「聞きたくない」
「魔理沙」
「私は家には帰らん」
「今回ばかりは話を聞いてくれ」

 ちょっとやそっとじゃ動きそうにない香霖に、私ができたのは、警戒する獣のようなうなり声と、精一杯のいやな顔を応酬してやる程度だった。
 こんなことだったら玄関で用件だけ聞いて、いざとなったら戸を閉めておけばよかった。後悔先に立たずだ。失敗した。
 茸のよく育ちそうないい雨の日に、よりによって世界で一番嫌いなあの男の話をされるなんて。

「わかった。耳ふさいでるから、さっさと言え」

 髪の毛をぐしゃぐしゃ耳に押し込めながら言った。殊更に大きなため息をした香霖は、おもむろに立ち上がる。
 テーブルを半周して私の横に。力をこめて耳に押し付けた私の左手を、強引に引き剥がしてきた。


「霧雨の親父さんが倒れた」


 体の中に風が吹き込んだ気がした。胸の中で熱く燃える炎を吹き払って、心に風洞をつくった。
 だけどそれはあくまで一瞬のこと、新たな大気を得た火は再び熱を取り戻し、前以上に激しく燃え上がった。

「はっ! ざまあみろだぜ!」
「魔理沙」
「何だよ、あんな奴のために安い涙を流せってか? お前だってあいつが私に何をしたか知ってるくせに!」

 無理やりに香霖を押しやって、吐き捨てる。

「……もう、くたばったのか?」
「いや。頭の血管が切れてしまったらしいが、腕のいい医者が運よく里に来ていたもので、なんとかなった」

 舌打ちが勝手に出た。死ねばよかったのに、なんて後ろ暗いことは考えないけれど、もやもやした不平不満が口からあふれてきそうだ。
 そっぽを向いた先、雨に薄くぬれた建て付けの悪い窓ガラスが、風にカタカタ震えている。

「ただ、問題がある。命に別状は無いが、後遺症が残ってしまって……親父さんは“ぼんやり”している状態なんだ」
「“ぼんやり”?」
「親父さんもかなり高齢だから、今後良くなることは、残念だけどあまり期待できないらしい」

 俯き気味で語る香霖は、ひとつひとつ、虫も殺せないような優しい言葉を丹念に選んでいた。
 針が生えそうなほどに気が立っていた私からすれば、無性に腹立たしい。

「ははーん、わかったぜ」

 きっと今、すごく醜い顔をしてるんだろうな、と頭の片隅に思いながら、私は嘲笑う。

「ボケたんだろ、あいつ」

 小さく鼻で笑って返答を待ったけれど、香霖が口を開くことは無かった。沈黙のなかで紅茶の湯気が視界を埋めていく。
 表情を一瞥するのも妙に恐ろしくなってきて、冗談だから本気にするなよな、と言いたげな乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
 湯気が立たなくなっても、雨の音を聞きながら、私は自分を守ってくれる幻を追っていた。

「……そうなんだろうな」

 諦めたような声に、突っかかるように頷いた。
 湿った靴で歩く音、戸の軋み、鮮明になる雨のばらつく響き。最後の一音に耳をすませるように、私は口を閉ざす。

「できれば、あまり悪くならないうちに、一目だけでも会ってもらいたかったんだ」



 ――なんだか、雨音、酷くなってるな。

「あ、あーあー、ちょっと言い過ぎた。あいつはお前の恩人だもんな、すまん。もう少し――」

 玄関を一瞥すれば、もう誰もいない。今まで二人でいたのが嘘みたいに、いつもの光景に戻っていた。
 心の火が消えた後に、焦げた空白を埋めるのは冷たい雨ばかりで、とうとう手のつけられなかった紅茶とクッキーの骸が転がっている。
 腕組みを解いて、小さなティーカップに口付けた。この薄甘酸っぱい液体は、本当にオレンジの香りだったのだろうか。もう、よくわからない。
 この世に大切なものほど、あっという間に失われてしまう。水面を覗き、悲嘆すべき一杯の死に、私は自らの姿を見るのだ。

「わからずや」

 森の中では、相も変わらず無表情な霧雨が降っている。ここいらじゃ、人家の屋根しか雨も晴れも知らないのだ。






 ★ 独白T



 霧雨魔理沙は実家と絶縁関係である、というのは風評やら誰かさんの幻想郷縁起やらのせいで広く知られるところである。
 さらに詳しく、霧雨魔理沙はまだ十歳にも満たないうちに父親に勘当された、ということを知っているのは全体の一割にも満たない。
 そして、その原因を知っているものは、店主であった父親に近しい人間と、私たち当人と、霧雨店で修行して当時香霖堂を開業したばかりの香霖だけだ。

 今はどうだか知らないが、私の生まれる前の霧雨店は、飛びぬけた売り上げを誇る最大手の道具屋だった。
 店に入ったお客は、ありとあらゆる便利な道具と雑貨、そして未だ十代と思しき美しい看板娘に魅せられたものだという。
 五十路で恰幅のいい店主が店の奥で鎮座していたものだから、きっと娘さんだろうという推量に至るのは、何もおかしいことじゃない。
 実際に今でもそう思っている人間はいるのかもしれないが、問題なのは、私は一人娘だということだ。後にも先にも兄弟姉妹がいたことなどない。
 結論。じつは看板娘というのは、店の誰かの娘や姪ではなく、店主の妻――私の母さんだったのである。

 霧雨店の商品には他店にはない特徴があった。ただの道具を売る他の道具店とは違い、魔法のかかった道具を取り扱っていたのだ。
 たとえば十枚つづりで売られていた着火の札。下半分をちぎって燃えるものに張れば、それだけで立派な火元を作れた。
 たとえば角砂糖大の氷のつぶて。桶に水を張ってこれを投げ込めば、全体が一瞬にして大きな氷と化した。
 そういった生活の質を二段階も三段階も上げてくれるような、夢みたいな商品。これを人里で入手できるのだから、それは繁盛もする。
 ではなぜ霧雨店はそんなものを入荷できたのかというと、表向きには秘密のルートとか言いながら、すべて母さんが作ったものだったからだ。

 母さんは私と同じ、人間の魔法使いだった。魔法に人生を注ぐような家系の生まれで、これは推測とか願望が混じるけど、凄い魔法使いだった。
 私は母さんの魔法道具を眺めながら育った。いつだってそこには尊敬と興味の念があふれて、母さん自慢だったら一晩中でも話し続けられた。
 柔らかな金髪、人間には見えない何かを見透かす瞳、たぶん母さんは日本人ではなかった。名前が日本人とも西洋人とも取れたので、今でもよくわからない。
 母さんと一緒にいたのは本当に幼かったころだし、あのことがあってから母さんについてのことはあの男のこと以上に寡黙になった。

 あのこと、というのが最終的に勘当まで尾を引く事件である。
 幼い私と、母さんと、そして香霖が一緒にいた。魔法の森、大きな切り株があった場所。確か私に香霖堂を見せに行こうとしていたのだと思う。
 その道中、化け物が現れた。長い毛並みをしていて、俊敏に動く姿はとても追いきれず、人のようでもあり、猿や狼や牛と言った獣のようでもあった。
 その妖怪は明確に私たちの命を狙っていた。香霖が果敢に飛び出したが力の差は歴然で、全員逃げることさえできない状態だった。

 ――その瞬間は良く覚えていない。
 襲い来る妖怪に向かって、母さんが魔法を使った。光が交錯し、洪水となって、何もかもを吹き飛ばした。森に空いた風穴の中心、私たちは救われた。
 母さんは凄い、母さんは何でもできる、母さんは妖怪だって怖くない。私は信仰と言っていいほど母さんを一途に尊敬し、憧憬した。
 疲れてしまった母さんを香霖がおぶって帰った夜。流星が雨みたいに降り注いで、無垢で無知な私は綺麗綺麗とはしゃいでいた。

 そしてそれから三日後、大好きだった母さんは冷たく、動かなくなっていた。火葬され、ひび割れだらけの軽い骨になって、店の裏のお墓に納められた。
 何日も墓前で待っても、摘んだばかりの花を供えても、こっそりと納骨の石扉の鍵を開けても、魔道書をたどたどしく読み上げても、母さんは帰ってこない。
 死という現象を理解して泣き叫んだのは、母さんへの献花がなくなった頃。烏が食べこぼした小動物の残骸に、母さんのボロボロの骨を見た。
 私は喪失とは何たるかを知った。同時に、愛と言うものも。

 なんだろう。幼い日々特有の、水たまりにキラキラ反射した光みたいなものは、あの出来事で一瞬にして燃え上がり、あまりにも早く失われてしまったのだ。
 良く言えば、私は一人の人間としての生き方を考えるようになったともいえるし、悪く言えば、世界を自身の周辺だけで完結させようとし始めた。
 今まで仲良くしていた玩具たちは、押入れに陳列されて、眺めるのみになった。遊んで、壊して、唐突に失われることが堪らなくいやになった。
 いったん手にしたものは、何でもかんでもとっておくようになった。無くなってからでは遅いんだ、と言う恐れ。
 大切なものほどフッと消えてしまうという脅迫的な妄想。今思えば、私の収集癖はこれの延長線上にあるのかもしれない。

 私はあらゆる物事に消極的になって、小さく閉じこもり、一部屋の永遠を作ろうとした。
 まだまだ柔らかく生白い心が壊れないように。二度とあんな思いを味わうことがないように。
 そして何より、私の中の母さんをこれ以上失わないために。



 母さんがいなくなって、私に肉親というものは、あの男しかいなくなった。
 いつも店の奥にずっしりと構え、客の応対や店員の指導をしていた姿が印象に残っている。ほかの家庭の父親みたいに、私と遊んでくれることは殆どなかった。
 といっても無視されたり放任されたりしたわけではない。私がいけないことをしたのなら厳しく叱り、行儀作法を身につけさせ、躾や教育には熱心だった。
 茶道、華道、書道と幼いうちから身に刷り込まされた。知識人を家庭教師にし、当時にしてすでに寺子屋でやるようなことは全て教えられていたほどである。
 おかげさまで我ながら絵に描いたような良家のお嬢様に育て上げられた。今の私を知る人には想像がつかないほど、言葉遣いも丁寧だったものだ。

 だから母さんが亡くなって、それで終わっていたなら、今頃私は道具屋の娘として里で働いていたのだと思う。
 幼い私は父親に従順で、そもそも逆らうなどと考えたこともなかった。恐怖心ではなく、自発的な一種の義務と責任感から、為すべきことを悟っていた。
 母さんと違って、手放しで大好きといえる相手ではなかったけれども、多大な敬意を払う対象であったのは間違いない。
 事実、私があいつに反抗したのは、ただの一回。最初で最後の大喧嘩で、私は勘当されることになったわけである。

 店の日常から母さんの名前が消えた頃、私たちの間で歯車が狂い始めた。

 最初に、店内から母さんの作った魔法道具が棚ごと無くなった。
 寂しいけれど売れてしまったのなら仕方ないと思っていたが、程なくして私は、店主が自らそれらの商品を一掃してしまったのだと知ることになる。
 半端な商品は置けないとか、難しくてよくわからないけど、経営の事情があったのだろう。私はそう言い聞かせて、魔法道具の販売中止の張り紙を見ていた。

 次に、家から母さんの私物が消えていった。大人しかった私も、これには流石に戸惑いを覚えた。
 数日と経たないうちに母さんの部屋にあったものは全てどこかへ持ち去られ、行方を訊いても誰も教えてくれなかった。
 父さんには何か深い考えがあるの? 家から母さんの跡を消して、誰かのためになるの? 母さんはこんなことを本当に望むの?
 私は一切を口に出さなかった。部屋の布団の中、ぞわぞわと這い出してきた薄闇の怪物を背負いながら、自問を続けるしかなかった。

 そして最後、外界に対する殻みたいなものに止めを刺したのが、あの男自ら、私の部屋にあった母さんの遺品を処分したことである。
 一生分の「やめてください」と「ゆるしてください」と「おねがいします」を使い切った気がするくらい、私は散々に騒ぎ立てた。
 大人と子供の現実的な力の差は歴然で、何をしようと片手であしらわれ、あいつの服に涙のシミを増やすばかり。
 母さんと一緒に散歩して拾った緑色の綺麗な石も、ケースに入った不思議な茸も、分厚い魔道書も、同じ袋につめられて輝きを失った。
 あいつは弁解どころか、ただの一言も発さなかった。思い出が着実に壊されていく不協和音。圧倒的な暴力。

「おかあさんを捨てないで!」

 大きな袋を持って去っていくあの男は、その言葉に一瞬足を止めた。
 それだけだった。


 それから、私はあいつが人間に思えなくなった。絶望の神が、同じ屋根の下にいる。そんな冷たい感覚だった。
 なるべく部屋から出なくなった。顔を合わせることになる食卓は早く切り上げるようになり、終いには一人で食べるようになった。
 此処に居てはいけない。妻であった母さんをあんなに冷酷に切り捨てられるなら、これから私もどうなるかわからない。このままじゃいけない。
 当時は、もっとぼんやりとした言葉にならない飢餓感みたいなもので、私の頭をぐるぐると濁らせていた。
 ごっそりと母さんの残り香を持っていかれた私だけの空間。そこに漂う大気は、一秒の狭間を延々と揺れ続ける壊れた時計の長針のようで。

 その頃からだろうか、今でも時折見るのだが、ある夢を繰り返すようになった。
 光の中、後ろから母さんに抱きしめられる夢。決して顔は見られなくて、それでも暖かさが絶対に母さんで、私はいつも何もできない。
 それから目が覚めるまで、私たちは溶け合うのだ。腰掛けるようにゆっくりと母さんの体に沈み込んで、暖かい場所に深く深く還っていく。

 巡り巡る季節に背を向けて、可愛そうに、お嬢様は死んでしまいました、とさ。






 ☆ あの夜のシューティング・スターU



「貴方ねえ、お茶菓子が足りなくなったら私のとこ来るのやめなさいよね」
「その言葉は遺憾だな。私はいつだって用事を済ますついでに、偶然そこにあったスコーンやクッキーやジャムを、ありがたく頂戴してるだけだぜ」
「へえ。で、その用事ってのは何?」
「お茶菓子が足りなくなったんだ」
「言うと思った!」

 人形を操る糸が集合するリングを、クルクルと人差し指で回しながらアリスは言った。実際は魔力で動いてるのだが、一種の見立てとして糸は欠かせないらしい。
 なんでも人形遣いのブレインは指先に宿るのだとか。糸は、人形たちの神経ということになる。私からすれば、この細い指はご苦労な中間管理職である。

「宴会があるんだとよー」
「神社?」
「んにゃ、今から決める」
「涼しいところがいいわ」
「そんじゃ山の上のほうの神社もいいかもな、たまには。水もあって涼しげだぜ」
「私は行く予定ないからどうでもいいわ」
「へっ」

 つれないやつだ。眼を輝かせて行きたがるようになったら、それはそれで気持ち悪いが。
 まあ、こいつは何かを手伝ってくれとか、人形で余興をやってくれとか言えば渋々やってくるから、参加者に数えといて問題ないだろう。

 ティータイムが始まったのは午後の三時を過ぎた頃だった。たまには貴方がお菓子持ってきなさいよ、とか言いながら今日も準備されている。
 私だってお菓子くらい作れるのだ。魔法で使う茸のスープを暖めたときに、オーブンをポップコーンみたいに大爆発させてしまったのが問題なだけで。
 実用的な道具なんて香霖堂には売ってないし、里の特に道具屋には近寄りたくないしで、此処数ヶ月はアリスのお世話になっているのであった。
 何かオーブン的な道具を入手したらお返しくらいはしてやるさ、紅茶の日々ってのも意外に悪くなかったし。もちろんそんなこと口には出さない。
 話題が冗長になってきたら、互いが思い思いの魔道書を手にとって、一方通行の談義。さながら読書会のようにマッドティーパーティーは続いていく。

「なあ」
「何?」
「お前、親ってどう思う?」

 スパイスのないスープみたいに気だるい時の流れがそうさせたのだろうか、テーブルに頬杖をつきながら、気がつくとそんなことを口走っていた。
 アリスは驚いた猫のように、目を少し大きく開いてこちらを見ている。

「親御さんに何かあったのかしら?」
「さあ」
「だって貴方、両親の話、全然しないじゃない」
「気のせいだろ」
「勘当されてるんでしょ、確か」

 もう、肩をすくめるしかない。

「ま、親を泣かせるのは感心しないわ」
「あいつが泣くもんか」
「親は大切にするものよ」
「こりゃまた高尚な一般論様だな」
「何も知らないんだから仕方ないじゃない。それとも何? この私に、親なんてくだらないって暴論、期待してたの?」

 あらゆる意味でアリスは正論であった。まったく、正論って言葉ほどの暴論は無い。
 私の心には、教科書に落書きしたくなるような衝動がむずむずと顔を出して、カボチャの仮面でこう言うのだ。
 トリック・オア・トリート。



 その後、何人かお祭り騒ぎが好きそうな奴らに山の上の神社での宴会を話してみたところ、予想以上に賛同されることになる。
 山在住の参加者が多かったのもあるが、たまには一風変わった宴会がいいとか、熱帯夜でも涼しそうとか、そういう意見もあった。
 そしていよいよ翌日と迫ったときに、大事なことを思い出す。そういえば、肝心の守矢神社側に何も連絡してなかったな、と。

「いきなり何を言うかと思えば……」
「霊夢のとこだったら当日でも大体何とかなってたからなあ。でも今から場所変えるなんて無理だぜ、みんな乗り気だ」
「境内を荒らすとかしなければ構いませんよ。こうやって人が集まることには吝かではないのです、信仰的な意味で」
「信仰、ねえ」
「今回の宴会がうまくいったら、どうかまた使ってくださいね。うふふ、何ならこっちを主な会場にしてもいいんですよ?」
「んなことしたら博麗神社が閑古鳥の巣窟になるぜ」

 霊夢くらい神様に罰当たりな奴もアレだが、こいつほど信仰に熱心なのも同じくらいアレだ。両極端って似通うと言うが、本当らしい。
 詳しい宴会の設定について話すと、特に何の障りも無く了承に至った。博麗神社より広いし、周りへの影響も少なめだから、色々と余裕があるのだろう。
 でも次回あたりには、またごみごみしたいつもの宴会に落ち着くのだろうな。

「魔理沙さん」
「んあ?」
「おひとつ守矢神社特製おみくじ引いていきませんか? ここいらでは最近話題でブームなんですよ」
「そうだったのか? 面白そうだし、場代がわりに引いていくかね」
「的中率はすごいんです。もう間違いなし」
「ほー、そりゃまたどうして?」
「逆転の発想ですね。おみくじを引いて将来を占うのではなく、将来を決めるためにおみくじを引けばいいんだって」

 首をかしげると、早苗は小さく笑った。

「大吉を引いたら、運が良くなるように神様のご利益を授けてもらうんです。凶だったら、逆に運気をもそっと」
「……貧乏くじって知ってるか?」
「貧乏だなんて。うちでは金銭の賭け事はゆるしませんよ!」
「おみくじと言うか福引の引き換え券みたいだな。福じゃないけど」
「毎日が単調でアンニュイな妖怪たちに大変人気です。さあ、お引きください!」
「普通のでいい」

 その特別なおみくじのほうが微妙に割高なあたり、ちゃっかりしてるもんだ。

「三十六番と。吉か」

 願い事 遅いが叶う。信神せよ。
 待ち人 来ず。
 学問 早くに始めれば吉。
 失物 低いところにあり。
 恋愛 感情を抑えよ。
 争事 親族の助けを得るべし。

「親っ……」

 親指を中心に、紙が歪む。その親族のせいで争事がおこってるんだっていうのに、こいつ。

「どうかしました?」
「べ、別に」
「親族?」
「ああ、いや、兎も角、大したことじゃない」
「そういえば、魔理沙さんのご家族ってどんな方なんですか?」

 乾いた笑いがはみ出てくる。そうか、またか。
 今日あった楽しかったことを語る寺子屋の子供みたいな笑顔の早苗を見ながら、自虐的に毒づいた。
 冷静になれ、さっさと終わらせてしまおう。下手にひっかかるとアリスみたいになる。

「父親が居るな。道具屋やってる。そんくらいだ」
「……はっ、もしかして香霖堂の」
「ちがわい!!」
「そうですか、お父さんいらっしゃったんですね」
「うむ、じゃあこの辺で――」
「私、いないんです、お父さん」
「へ?」

 我ながら、素っ頓狂な声が出たもんだ。

「私が生まれる前に、お父さんは、居なくなってしまって……顔もみたことがなくて、写真も残ってなくて」
「お、おう、そうだったのか。悪いこといったかな」
「いいえ、私は信じてるんです。きっとお父さんには何か深い理由があって、離れ離れになってしまっただけなんですよ」
「そうか」

 風が表情を変え、波を鎮め、地に凪いだ。

「でも――いいなあ、お父さん」

 ……馬鹿野郎め。
 顔を見せないように簡単な別れの挨拶をして、ほうきに飛び乗って、もう一度心のゴミ箱に吐き捨てる。馬鹿野郎め。
 この私の目の前で、雨の日の捨て犬みたいな目をしやがって。おもしろくもない、ちくしょう、ちくしょう。羨ましいのはこっちの方なんだよ。
 もう一度帰って「そういえば私、父親ってだいっきらいなんだよ」ってぶつけてやろうか。ボケたらしいとまで言ってやろうか。
 そしたら早苗はどんなに悲しそうな顔をして、私の為に涙するだろうか。軽薄なサディズムにどんな答えをくれるのだろうか。

 箒の推進は止まらない。速さについていけなくなった私の部分を振り切ってしまいたい。どうか幸せでいやがればいいんだ、あんな奴。
 涙がこぼれ出して、夜に星を増やしていく。悲しみの理由を追うには、それでも遅すぎたのだ。



 だからそれは、ささやかな復讐、だったのだろうか。
 宴会の当日、私は博麗神社まで霊夢を迎えにいって、一緒に会場へ向かった。二人で影を走らせて、月に跳ねた。
 その道すがら、私はこう問うのだ。

「なあ、霊夢。お前は親ってどう思う?」

 怪訝な顔で私の髪を一瞥、平然と霊夢は答える。

「親って……なに?」


 風切りの笛に似た音が、耳を包んではほどけていく。
 そうだ、お前はそれでいい。それが私の望んだ答えだったんだ。

「何で泣いてるの、魔理沙」

 可愛そうに、お前は私と同じだよ。




 ★ 独白U


 白馬の王子様なんて信じない。
 明るい明日なんて信じない。
 暗い昨日なんて信じない。
 父さんなんて信じない。
 自分なんて信じない。

 だけど、信じなきゃいけないことがひとつある。
 母さんは、死んじゃったんだ。

 だけど、信じたくないことがひとつある。
 母さんは、死んじゃったんだ。

 ……。

 私の血肉。半分は永遠の白。残りの半分は深淵の黒。
 眠るたびに混じりあって、私を消していく。
 静かに、獣の山の葬列の如く。





 ☆ あの夜のシューティング・スターV





 蝉が一足早い落ち葉となって、カビと茸の土壌を作っていく時分、香霖堂への道を行く。
 私からすれば年中似たような気温と湿度のくせに、生き物たちは敏感に季節の訪れを悟っていた。

 行ったらまたあいつの話をされるかな、と懸念はしていたけれど、あれから一月近くが過ぎていて、なんとなく頭が冷めていた。
 あいつに会いたいとはこれっぽっちも思ってなかったけど、話題にするくらいなら、もうどうでもよかった。
 むしろ、逆に話題になるのを期待している節さえあったかもしれない。いつまでも知らん振りはできないと、薄々感づいてはいたのだ。

 何かうまい整理のつけ方を模索して、悲しいかな、私の手には傷つけるための武器しかなかった。
 剣だって槍だって銃だって、構えっぱなしは疲れてしまう。このままあいつがいなくなったら、私はいつまで虚空に照準を向けなきゃならない?
 ――真っ平ご免だ。私はあいつに支配されたくなかったから飛び出したのに、もう一度縛られてたまるもんか。
 だとすれば、戦略を練らなければならないのだ。あくまで平和的に、ナイフを納めるときを、虎視眈々と。

「よお」

 カランと呼び鈴を鳴らして扉を開けた先には、いつも通りの光景があった。
 猥雑な商品の配置、いらっしゃいませも言わない無愛想な店員、薄暗くかび臭い店内。こいつは霧雨店でいったい何の修行をしたって言うんだろう。
 壁には『新商品入荷!』と威勢のいい言葉が踊ってるが、その張り紙はもう赤茶けてボロボロだった。

「魔理沙じゃないか」
「おっと、あいつの話をしにきたんじゃないぜ」
「む……」
「毎年恒例の流星祈願会だ。星が一番明るい夜を教えてくれ」
「そういえばそんな時期か。待っててくれ、調べてくる」

 ――香霖が居なくなった店内は、なんだか写真の中の風景みたいだ。
 何一つ変わらないようで、気持ち悪いほど死んでいて、どこか壊れている。

 ずっと前に香霖が、私に流星の多い夜というものの存在を教えてくれた。それから願いが叶い放題の夜として、霊夢と香霖と私で集まるようになったのである。
 晩夏に一回、冬の中ほどに二回、周期的な流星群はやってくる。天龍が空を上ることでその煌く鱗を振りまくように落とす、神秘的な現象。
 ……というのは香霖の弁である。第一回から結構な年月がたって、色々と勉強した私は、流れ星が鱗ではなく本物の星屑だってことを知っていた。
 毎年大体同じ時期にあるのは、星が降ってくるからではなく、地球が公転軌道上で静止した星の欠片の帯に突っ込むからなのである。

 じゃあ流れ星はただの物理現象で神秘性なんか何も無いなんて、馬鹿なこと言っちゃあいけない。
 星というものはエネルギーの塊だ。欠片になってもあんなに光ることができるんだから、夢を叶えるには十分すぎる。
 第一、本当に何の力も無かったなら、私はとっくに星の専門家をやめている。

 意外に知られてないことだが、そもそも星にエネルギーを与えているものは何かというと、実は、人の願いや祈りや望みに他ならない。
 信じる心から生まれる膨大なエネルギーは、早苗やその神様なんかを見れば一目瞭然。物であれ、信仰の先には神性が宿る。
 確かに、星自体はただの無機質な岩塊かもしれない。だが人間は昔から星を敬ったり模したりして、岩に命を吹き込んできたのだ。
 古今東西、星を命に例えたり、その配置を因果付けたり――太陽・月・流星と空で目立つ順に力を得たのは偶然ではない。

 人の希望と夢を抱えすぎて大きく膨れ上がった星はその欠片を落とす。それが通りすがった地球に流星雨となって降り注ぐのである。
 信仰によって神様は力を得て、神様はその力を神徳として人間に返し、人間はさらに神様を信じる。このサイクルと何の変わりもない。
 だから、星屑の最後の煌きに祈れば願いが叶うというのは、理にかなっている。あくまでそこに信じる心があればこそ……だがな。

「明後日だよ」

 暖簾の向こうから香霖が言った。

「奥さんの命日だ」

 唇をとんがらせた私を、あいつの空ろな目は捉えていないんだろう。
 情報ってのは何でもまとめて出せばいいってもんじゃないんだぜ、香霖。
 お前の店の陳列じゃないんだから。



 その翌日は曇り気味となり心配したが、当日は僅かに雲が残る程度の悪くない天気となった。
 竹製の長椅子に腰掛けて、隣には誰も居ない。香霖は店で、霊夢は来なかった。会うなり「行かない」とか言い出すくらいだから酷い顔してたんだろうな、私。
 黒みを帯びていく空に光の軌道を探す。そういえば第一回、百は星を数えてやろうと意気込んで、いつの間にか数を忘れて眠ってしまったっけ。
 目を凝らし、夜の境界を探す。不幸にも夜を待てず、太陽に掻き消えた名も無き星屑たちは、果たしてその何倍あったのだろう。

「見えたかい」
「まだだ」

 私が八卦炉を差し出すと、香霖はその中心の穴にとっくりを十秒ほど差し込んだ。とり出すと露がつきそうなほど冷えていた。
 もともとはこいつが霧雨店にいるころ使っていた火炉だっけ。母さんの魔法道具も、多くはこいつの活躍によるものだ。
 母さんは香霖とも仲が良かった。新たな道具の開発には、傍からみても最良のパートナー同士だった。あの男は魔法なんてものには全く疎かったから蚊帳の外だ。
 一方、香霖と仲が良かったのは、母さんとあいつくらいだった気がする。無口で、無表情で、いつも部屋の隅にいた。
 かく言う私が香霖にどう見られていたのか、今でも分からない。

「奥さんのお墓、もう十年以上も経つのに、花と供え物がいっぱいだったよ」
「人気者だったからな、私みたいに」
「お嬢様はお参りしないのですか」
「うえっ。やめろその言い方、鳥肌が立つ」
「ほら、折り良く冷酒だ」
「ええい寒い寒い」

 氷柱からしたたったように涼やかな液体が喉を流れていく。そして霞みたいに体中に行き渡り、唐突に発火した。
 皮膚が厚ぼったくなり、外界との間に膜を張るような、ぬるい揺らぎの感覚。もう一度、杯を満たす。酒精の魔性が心地よく意識を愛撫する。

「魔法使いにお嬢様なんていやしないんだ。誰だって等しく、神の摂理に背いた悪魔の仔さ」
「そういうものかい」
「そういうものだ」

 魔法使いは箒で飛ぶものである。魔法使いは黒のとんがり帽子をかぶるものである。魔法使いは夜を好んで隠者の森に住むものである。
 母さんは、魔法道具を作るときだけは、必ず魔女の服だった。そこには黒刃のような誇りがぴんと張り詰めていた。
 形式という制約は自己を律する。無意味な迷いをスカートの陰に隠してくれる。私を私でいさせてくれるための、小さな魔法。

「私を魔法使いにしたのは、お前なのかもしれないな」
「ん?」
「昔のこと、思い出しただけだ」

 なあ、霧雨魔理沙、信じられるか?
 小さな檻で毎日泣いて暮らしてたお姫様を連れ出して、綺麗な黒のドレスを着せてくれたのは、この野暮な男なんだぜ?





 ★ 独白V




 母さんが死んで、あいつに母さんの思い出を奪われて、私は半分死んでいた。
 心臓は動いていたし、走る事だってできた。でも、絶望的なほどに、私は生きていなかったのだ。
 誰も彼も信じられなくなって、一週間人と話さないなんてこともあった。最低限の用事でしか部屋を出ることすらない。
 まだ十歳にもならない子供のくせに、やることは中途半端に育った大人みたいだったものだ。

 ところが、例外は存在した。それが香霖である。
 香霖は母さんと仲がよく、二人して私の遊び相手になってくれていた。そのせいで香霖が私の父親だと勘違いされたこともしばしば。
 店を出てからは、機会は減ったものの、それでもたまにやってきては相手をしてくれた。母さんが化け物を倒したときも一緒にいた。
 私たちは母さんを介した強い共感があると思っていた。母さんが死んだのは、私たちを守る為、禁忌の魔術を使ったからなのだから。

「お嬢様」

 私はたとえ誰かが精巧に真似をしようと、その声だけは必ず聞き分ける自信があった。さっと襖を開けて、食虫植物みたいに部屋に連れ込んだ。
 感情が動く数少ない機会。私にとっての外界というのは香霖で、また、私の手の触れられる母さんは、香霖の中にしかなかった。
 会いにきてくれたときは、懐にしがみついて、思いつくだけの理不尽と悲痛をあげつらって、その頃の私には珍しく、命のある泣き方をした。

「ここにいては体に毒です」

 季節は晩秋だった。香霖が言うには、このままでは私の心身に良くないから、香霖堂でしばし引き取るようにあいつと話をつけてきたらしい。
 突然のことで狼狽したが、確かに今の家にいるくらいなら、いっそ離れたところで香霖と居たほうが気分が休まる気がした。
 見送りのない早朝に私たちは出かけた。荷物は香霖がもってくれたが、小さな足には十分すぎるくらい旅だった。

 里が遠くなるにつれて、凍りついていた羽が溶けるように、開放感があふれ出してきた。
 自然と多弁になって、そこらの草花を摘み取ったり、茸の種類を尋ねたり。閉じこもっていたあとでは、世界が目に痛いくらいカラフルに見えた。
 母さんが私と香霖を守るために戦った場所を通り過ぎるときは、やっぱり、大人しくなってしまったけど。
 魔法で綺麗に大穴の開いたはずの風景は、何事もなかったかのようにふさがっていて、魔法の森の不気味さを知ったのもそのときだった。


 香霖堂の建物自体はそのときからすでに古めかしさがあったけれど、看板と陳列は今よりもずっと綺麗だった。
 私を店に残して、香霖は奥へ行ってしまった。そして、しばらくしてから黒い何かを持ってきた。
 人生の分岐点なんて、気がつけば過ぎ去ってしまってるものだな、と思う。袖を通したのは、誇り高き魔女の服だった。

「親父さんには内緒にしてくださいね」

 香霖は夢見心地に惚けるばかりの私を箱の上に座らせて、自分は店の定位置で腰を下ろした。今と同じ場所だ。
 危ないから、決して一人で外に出てはいけないこと。森の瘴気で気分が悪くなったら、すぐに言うこと。店の品物で悪戯しないこと。
 この三つを約束させ、それ以外の全てを私に許可した。服に関しては、替えが何着もあるとのことだった。
 何でも、母さんが幼い頃に使っていた、本物の魔女服だったらしい。帽子は――本当にびっくりした、母さんがこの前までかぶっていたものだったんだから。
 母さんの遺品として、あの男からこれだけは貰ってきたらしい。私はそれから、寝るときでも帽子を抱きしめていた。

 香霖はなぜ、あいつに内緒にしてまで私にこの服を着せてくれたのか、今でも分かっていない。
 私と同じで母さんに命を助けられた手前、私の魔法への憧れを汲み取ってくれたのだろうか。それとも母さんがこうすることを望んでいたのだろうか。
 兎も角、それから春まで私は香霖堂にいた。毎日が信じられないほど楽しく、希望にあふれ、心に刺さっていた棘はポロポロと抜けていった。
 魔法道具を作っていた香霖は、その知識を使って私に初歩的な魔法使いの修行までさせてくれた。才能があると言われたときの喜びは今でも覚えている。
 香霖と一緒に魔法の森を散歩するたびに、里にはなかった神秘的な世界を垣間見た。残酷で、無慈悲で、だけどそこには濃密な命が息づいていた。

 春、香霖堂の裏で立派な桜が咲いていた。花見酒をしていた香霖にじゃれ付いて、私はすっかり年相応の娘に戻っていた。
 お酒を呑んだのはそのときが初めてだったっけ。水だと思って口にしたら、くらくらして、ふらふらして、きらきらして、倒れて眠ってしまったんだ。
 不味い飲み物だとは思ったけど、そのときに見上げた桜は、寒気がするくらい綺麗だった気がする。

 魔という存在に、私はすっかりと魅入られていた。母さんの変わりに魔法道具を作っていきたい、という将来の計画までたてていたくらいだ。
 魔女の服にはすっかり愛着がわいて、箒を構えて鏡に格好つければ、自分の本当の姿を見つけた気分になった。
 私を魔法使いにしたのはとんがり帽子と、箒と、この服なのだ。なにも間違ってないだろう?


 梅雨の季節に、久々に里の服を着て、我が家へと帰った。
 香霖には秘密にしていたが、私はあいつと話をつけるつもりだった。店の手伝いは必ずするから、私に魔法の研究をさせてほしい、と。
 あいつとの話し合いは白熱を極めた。魔法への興味、母を引き合いにした店への利益を拙いながらも精一杯説明した。
 だけど、結果は薄々わかってはいたのだ。現実はその一路を踏み外さず、私に近づいてきた。

「家から追い出された」

 その日のうちに香霖堂へ戻った私は、湿気で重たいスカートを握り締め、怒りに震えながらそう言うのだ。

「もうあんなところには帰らない。帰るもんか」

 香霖は私のしたことを聞くと、ため息混じりになんとか仲直りできないかと尋ねてきたが、私は頑としてはねつけた。
 あいつは私にはそんな才能などないと、何も知らないくせに決め付けた。あいつは私が努力もせず、すぐに飽きると、人格を否定した。
 あいつは私が女だから、一人ではやっていけないと言い、いつか婿を貰って霧雨店をついで行くという、つまらない生き方を押し付けた。
 あいつは私を何も分からない子ども扱いした。あいつは私に魔法という魔法一切を禁じた。あいつは魔法と私の夢を侮辱した。

 あいつは――魔法に生き、魔法で死んだ、私の母さんを侮辱したんだ!

「香霖、私、此処で魔法使いになるよ。あんなやつ、父さんじゃない……!」
「お嬢様」
「もう私はお嬢様じゃない!!」

 あのときの涙の味、痺れるくらいに苦かった。


「私を魔法使いにしろ! 私は母さんになるんだっ!!」







 ☆ あの夜のシューティング・スターW




「起きろ、魔理沙」
「んぁ?」

 物音に反応したネズミのように、はっと姿勢を正すと口の端から頬をつたって、香霖の袖へよだれの筋が光っていた。
 目を擦るふりをしながら拭い取る。本人は気づいていないらしい、空を見上げている。

「まったく、何のための流星祈願会だい」
「……はっ! 見えたか? もう見えたのか?」
「もうじき、かな」
「よし。お前より早く見つけてやる」

 薄夜空にかかった前髪の波を払いのけて、呼吸を整えた。一見して静止した星空の動きを見るにはコツがいる。
 ひとつの星に集中してはいけない。広く、全体をぼんやりと見るんだ。意識が薄くなって、体を持ち去られてしまいそうなほど。
 流れ星を見つけても追ってはならない。誰にも彼にも願われてしまわぬよう、意地悪な夜の神様は、偏った心と視界の隙間から星屑を零してくる。
 すべて、母さんの言葉だ。

 ……しかし、待っている時間というものは、パイ生地みたいによく伸びる。
 それでも、目を離すとすぐに焦げついてしまいそうで。

「なんか面白い話ないか?」
「そうだな、日本とそれ以外の流星の捕らえ方は、実は全く違うものなんだ」
「へえ?」

 香霖は抑揚の極度に少ない声で、淡々と続けた。
 日本では流星は幸運のシンボルであり、その短い煌きの間に祈れば願いが叶うといわれている。
 しかし西洋においては、幸運どころか死を象徴したりと、寧ろ凶星の意味合いを持っている。
 この差はどこに現れるのだろう。香霖が言うには、流星の名前そのもの、つまり「流れ星」と西洋の「Shooting star」の違いに起因するらしい。

 よくよく考えればShooting starというのは、直訳すれば射撃する星、星屑の弾丸だ。流れ星と比べ、とても攻撃的な言葉である。
 西洋では星空は極めて規則的且つ周期的に変動することから、調和と安寧の象徴であった。そこから星が脱落するとはどういうことか。
 それは例えば世の乱れ、天命が尽きるとき。聖書では世界の終わりに星が降るとされ、有名なマッチ売りの少女もまた、流れ星に人の死をなぞらえていた。
 言ってみれば、天という不動の絶対者が、か弱い命に放つ最期の弾丸。それゆえのShooting starであったのだろう。

 一方日本では、流れ星は、よばひ星と呼ばれていた。
 よばひ、とは男が求婚のため、身を隠して愛しい女の下に逢いに行く行為のこと。何度も呼びかけるという意味の「よばふ」から来た言葉である。
 夜に星が恋しさのあまり、本来の持ち場を離れて、魂だけがすっぽ抜けたように空を駆けてしまうのだと考えられていたのだ。
 次第によばひが夜這いと不道徳なものに解釈されるようになり、時代に合わなくなってきて、いつしか流れ星へと名前を変えた。
 射撃なんて痛々しい表現よりも、ロマンチックなこっちのほうが私は好きである。星だって恋するなんて、素敵じゃないか。
 もしかしたら、星に願をかける行為は、本来恋のおまじないだったのかもしれない。

 本来、恐らく星は中立であった。だけど人間がこのように全く違う意味づけをするようになって、流星そのものの性質を変えてしまった。
 悪い側面から危険の予兆と恐れるか、良い側面から崇拝の対象として見るか、つまるところ気の持ちようなのだけど。
 だから東洋の西洋魔法使いにはきっと、適度に縁起が悪くて良いんじゃないか、と香霖は言って、突然含み笑いを見せた。

「そういえばこんな話もある」

 あるところに少女がいた。その少女は不思議な癖があった。なんでも、星の綺麗な夜になると屋根に上って、空へ石を投げるというのだ。
 なにをしているのかというと、星をとろうとしていたらしい。次第に知恵を付けると、自作のパチンコを使ったり、餌でおびき寄せようともした。
 まあ、空なのだから一向に星を手に入れることなんてできるわけもなかった。それでもやめない少女に、ある男がその少女になぜ星を求めるのか尋ねた。
 少女は言った。星には願い事がいっぱい詰まってる。流れ星なんて待ってられない、星を撃ち落せば、きっと全部の願いが叶うんだ。
 少女はまるで、この世でたった一人、偉大な世界の真理に触れたかのように胸を張った。願いが降ってくるのを待つなんて、怠け者のすることらしい。

「そういう解釈のシューティング・スターってのも素敵じゃないかい?」
「つまらん」
「僕は個人的に気に入ってるんだけどね」
「この世で三十三番目くらいにつまらん。ああもう、つまらなすぎて鳥肌が立つ。損害賠償を請求できそうだぜ」
「暇つぶしにはなったろう」
「へっ!」

 その少女は、夜空を見上げて、何を思ったのか。
 私は多分、この世で誰よりも答えから遠い。
 その男は、そんな少女を見て、何を思ったのか。
 私は多分、この世で誰よりも答えに近い。

 沈黙をお酒の水音で薄めて、私たちは空を見上げる。

「魔理沙」
「あ?」
「墓参りだけでも、する気にはならないかい?」
「……知らん。なんだよ、いきなり」
「奥さんが死んだ夜を思い出しただけだ」

 香霖の表情は、月光を浴びた彫刻みたいに無機質で、廃墟に似た銀色の大気を帯びていた。
 悲しみすぎて、悲しむことに疲れ果ててしまったような横顔で、胸がつまって俯いてしまった。

「今日は綺麗な流星雨が見られそうだ」

 香霖、お前は星になんて祈るんじゃない。お前の瞳はまるで何かの殉教者を見ているようだ。
 この夜空は全部、私のものって、お前は決めてくれたんじゃなかったのか。

「何で、私の親に関わってくるんだよ、そんなに」
「……僕を人間にしてくれた人達だから、かな」

 言葉が消えていく。


 星が振り出したのはその二分後だった。
 蛍のように空を遊ぶ星々に、私は儚い恋路の果てを見る。死の寸前の発熱を知る。
 段々と、いてもたってもいられなくなって、足元の石を拾い上げ、虚空に向かって高く放り投げた。
 白っぽい、勾玉のように滑らかな石は、そうして見事に香霖堂の屋根に鎮座した。

「屋根が割れたらどうするんだい」
「ふん、私は親切心から石を投げたんだぜ。その屋根の少女とやらが、石が無いって泣いてたからな!」


 ――言えやしない。

 願い事、何も思い浮かばなかったなんて。

 今の私の手に、弾丸が無いなんて。







 ★ 独白W





 人が自分から変わるってことは、ちょっとやそっとでできるものじゃない。
 沢山のてこ、大量の歯車、いっぱいの燃料。過剰なほど物資を用意して、やっと少し動き出す。
 悠長な時の洗礼を待っていられないなら、やることは総当りの不毛な実験郡のみだ。私もそうだった。

 第一に、自分の名前を変えた。
 香霖がモノの名前と本質について因果めいたことを言うのは、昔から。私はそれを聞いて育ってきた。
 名前を変えるということはある意味過去の自分を殺し、新しい自分に転生する行為だとか聞いていたので、私は直ちに自分の改名を求めたわけである。

 当然その頃の名前は魔理沙ではない。もっとありふれた名前――真理沙だった。
 あいつが父親だったわけだし、そもそも縁起からしても魔なんて字が使われるわけがなかったのだ。

 名前をどう変えようかと考え始めてから、真を魔に変えることに落ち着くまでに、そんなに時間はかからなかった。
 実家との訣別、それと同時に魔の道を歩むことに対する決意が、我ながらうまく表せたと気に入っている名前である。
 それにいいじゃないか、魔の理。玉ねぎみたいに何重も仮面をかぶった真理って奴を追うより、よっぽど愉快だろう。魔女なんて、縁起が悪くて何ぼだし。

 儀式みたいなものも何もなく、私は今日から魔理沙だ、と宣言しただけで改名はおわった。
 始終頭を抱えてた香霖に、さらに私を今度から魔理沙と呼ぶように命令させた。お嬢様なんて言わせない、と。
 そして止めとばかりに、私を無力な女の子だと馬鹿にしたあいつを見返すために、わざとらしいくらい男言葉をつかうようにしてみた
 すっかり癖になってしまって、香霖はたまに口出しするが、いまさらやめられない気がする。


 ひとつひとつ、そうやって未練の糸を断ち切っていった。
 切れた糸の端に懐かしいおもちゃがついていたりして、時々悲しくなることもあった。
 そんなときは、香霖堂で高らかに誓いを立てたときの自分を思い出す。外の涙雨を背にして、あの日、私は最強だった。
 私は母さんになる。まだ短い人生の全てが、そこに凝縮していた。

 香霖はそんな私を見て四面楚歌の大将みたいに困った顔をしていたが、誰よりも協力的だった。
 森の中に空き家があるからそこに住むといい。もともと魔法使いが住んでいた場所だし、道具も本も十分あるだろう。妖怪払いの魔法も張ってあるから安全だ。
 それと、奥さんと僕で使っていたこの火炉をあげよう。これがあれば魔法の幅はぐっと広がる。もう僕には必要のないものだから。
 そんなことをいいながら、ガラクタかよく分からないような道具と生活用具をいっぱいくれた。今でもガラクタなやつも結構あるけれど。

 火炉というのはミニ八卦炉のことで、これ無しに今の私は考えられないと言っても過言ではない。
 鈍い色に光るこいつは乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤と言う八つの気を自在に操作でき、伝説では不死の薬である丹を錬るのにつかったといわれる。
 当時の私からすれば何だか凄そうで、格好いい道具でしかなかったが。香霖のひざの上で、どんなものかという説明も聞かず、はしゃいでいたものだ。
 今でも、本当にこの八卦炉、正しい使い方をしているのかと言われるとかなり怪しい。

 新たな家、新たな服、新たな目標。手探りの環境の中、現在の私につながる日常が流れはじめた。
 ひょんなことでいろんな奴と知り合ったり、手当たり次第に知識を身につけていったり、新たな魔法を生み出したり。
 初めは香霖のほうが魔法に詳しかったから習っていたけれど、一年もすれば私のほうが上に立っていた。当然だ、あいつは動かない古道具屋だからな。
 魔法の森の茸だって、きっと私のほうがよく分かっている。雨の匂いだって、光の色だって、私のほうが知っている。
 だけど、あいつは私が知らない何かをいつも抱えていて、玉石混交の古道具みたいな情報を求め、頻繁に足は香霖堂へ向かった。
 好奇心を英語でCuriosityというけれど、面白いことに、古道具屋って意味もあるらしい。


 そうして、いつの間にか、ここまできてしまった。
 人間の重ねてきた記憶の階層なんて、振り返るときは伝記のページをめくる程度の呆気なさだ。
 迷ったこと、後悔したこと、嬉しかったこと、辛かったこと、全部圧縮して、足元へレンガみたいに敷き詰めてある。
 いつか高く高く積み上げられた石塔のてっぺんで、願い星に触れられる日が来たのなら、私のゴールは――。


 本当に、そこにあるのかな……?







 ☆ あの夜のシューティング・スターX




 日常が滑っていく。
 何も変わらないように、誰にとも無く見せかけている。
 躓くのを恐れて、磨耗するのに怯えて、ダイヤモンドのふりをした石英が生きている。
 落葉とともに魔法の森のボリュームが僅かに減ったような気のする冬、霧雨魔理沙は憂鬱だった。

 天気は崩れに崩れ、戸の向こうには膝までありそうな雪が積もっていた。
 雪かきなんてしなくても、適度に屋根へ熱を送っているからこの家はつぶれないだろう。
 窓の外には行きの足跡と帰りの足跡が一対ずつ、追加の雪でマシュマロみたいに柔らかな形で残っている。
 魔法の森は、その柔軟な枝葉の屋根で雪を受け止め、さながらかまくらのように、相変わらずの、というより呆れるほどの恒常性を保っていた。

 寒いのは苦手だ。手がかじかむし、冷気を吸い込んだ肺は言葉まで凍らせる。
 だけど私は本日、この雪原を踏破しなければならない。ストーブの熱と湯で溶いた濃い目のココアが私を待っているんだ。
 それと、大して面白くないであろう、香霖の話。私にとっての嗜好品。


 ――カランカラン。

「おい! 呼び出しておいて定休日ってどういうことだ!」
「は?」

 気が滅入ったときこそ、挨拶は元気に。今決めた私のポリシーだ。

「お前、大事な話があるから香霖堂へ来いって霊夢に言伝頼んだだろうが。それで一昨日、雪の中を四苦八苦して来たら、定休日で誰も居ませんってか?」
「……頼んだのはもう一ヶ月も前のことだよ」
「大体定休日ってなんだよ」
「あらかじめ定められた休業のことだ」
「そういう意味じゃない! 年中無休で休業してる店にいきなりそんなまともな概念持ち込むなって言ってるんだ……うう、寒い」
「ストーブにでも当たってるといい」
「温かい飲み物を所望するぜ。とびっきり甘くしてな」

 数分後に現れたのは、湯気を立てる白い液体だった。

「なんだこれ」
「甘酒だ」
「あれ? 私が取っておいたココアの袋はどこにいったんだ?」
「取っておいた、じゃなくて、店の商品を勝手に開封した、だろ」

 舐めてみた甘酒は、甘さなんてわからないほど熱々で、危惧したとおり舌の先端を焼いてくれた。
 秋に味わった外来のココアがまさに甘露という味わいだったので、楽しみにしてきたと言うのに。

「霊夢にも飲まれたし、体にいい飲み物と聞くから霧雨店に寄贈してきたんだ」
「ちえっ、ここに来た理由の九割があいつの胃袋かよ」
「一割も僕の話を聞きにきたのか、君にしては殊勝だな」
「一割はストーブだ」


 甘酒がぬるくなる頃には、震えも指先の強張りもなくなっていた。
 脆い米粒を口の中で丹念に潰しながら、ストーブの火を眺め、またなんに使うのとも知れない仰々しい新商品を見遣った。
 こいつも物が捨てられない奴だ。私と同じにおいがする。

「話と言うのは最近の定休日にも関わるんだ」
「張り紙見てびっくりしたぜ、定休日・平日だって? 風邪も引かないくせにどうしたんだよ。どっか悪いのか?」
「悪いのは僕じゃない、親父さんだ」

 唇が硬くなる。

「続けていいのかい」
「好きにしろ」
「……親父さんの症状なんだが、かなり酷くなってきているんだ。初めは物忘れとか、計算の遅れとか、呂律が回らないくらいだったのだけど」
「どれくらいなんだ」
「もう、従業員の名前どころか、顔まで忘れてきてしまっている。しかも、知らない人間が来ると追い出そうとするから、世話もできない」

 まるで子供みたいだ。泥をかぶったように疲弊した香霖の顔は、そう言おうとして、やめた風に見えた。
 着実に壊れていく人間を見ると、確かに、こちらまで気がおかしくなってくるもんだ。
 自分の体が切り開かれ、まだ生の臓器を指差され「わたしはここがわるいのです」と言われてる気分。
 肉体の機密性、神秘性が失われて、私の体までもただのパーツの配列に帰納されてしまう。

「定休日、里にいって親父さんの相手をしているんだ。幸い、僕のことはまだ覚えて貰っているようだからね」
「そうか」
「だけど、いつまでこうしていられるかわからない」
「残酷だな」
「老いるっていうのはそういうことだよ、魔理沙」

 屋根の雪が落ちる音。

「人間は、そうして、死んでいくものだ」



 ベッドに寝転がって、帽子を顔にかぶせてみた。
 深い闇が竜の喉奥のように広がっている。黒い蛇みたいな化け物が、鼻から入り込み、眼球の裏を通って、脳に噛み付く。
 そこから緑色の毒がじわじわと自我を侵していく。痛みを感じないまま溶けていく。息が苦しくなって、帽子を潰すと、夢想は終わりを告げた。
 後に残ったのは、眠気に似た沈鬱と、鈍色の溜息。いやになる。

「あー……。んぅー……」

 未解読の古代文字でも発音してる気分だ。
 なんか、生きてる気がしない。

「やっぱり、そうするしかないのか?」

 無言の天井に肯定を求めるくらい、私の心は袋小路にあった。
 ネズミの心臓が、安らぎを望んでいる。毒を舐め、小さく息絶えて、風景が変わるならそれでいい気がした。
 不変と言うのは、それ自体、死なのである。

 ――この世に、綺麗に死んでいける奴なんてどれだけいるんだろう。

 急な疾病、事故や事件で死ぬやつは、自分を失う恐怖が無い。その代わり、周囲を巻き込みかねないほど、劇的過ぎる。母さんもそうだった。
 かといって枯渇と腐敗の温床になるまで年をとると、ああなる。その代わり、上手に周囲に愛想を尽かせ、予定調和の大団円で見送られる。
 良いところだけ併せ持って、静謐で美しい死は、だとすればどこにある? 小説の中? 古代遺跡の棺? 冗談じゃない。
 恵まれた奴は、大河の一滴に過ぎないのだ。残りの洋々たる流水に、私たちは目を背け、自らの顔を映さないようにしている。

「母さん」

 最後は穏やかな刺激だった。
 頭の中のピアノ線は、唐突に断裂する。



 自家栽培の薬草たちが、霜に健気に耐える白銀の庭。井戸の水をくみ上げて、頬を浸した。ほのかな暖かさを、口に含む。
 冷静に、冷淡に、私は過去を回想し、棘を抜く。決着を付けなければいけない、わかっている、わかっている。
 あいつがこのままいなくなったら、恐らくほっとするだろう。でもそれは問題を致命的にした上で、先送りしただけに過ぎないのだ。

 玲瓏な水に、黒白を映し、毒を盛る。
 そして、一思いに頭から浴びた。
 雪まじりの空気を吸い、胃の腑で一気に加熱して、放つ。


「うああああああぁぁああっ!!」


 空っぽの桶に蹴りを一発食らわせて、ブーツの残雪を踏み潰し、幽鬼のように湯気を立てながら、温い部屋に駆け込んだ。
 枕を息が切れるまで殴って、毒を飲み下す。ぬれた服と体が、いい感じに熱を奪ってくれた。

「……やってやろうじゃないか」

 私は自惚れる。
 今の瞳はきっと、訣別の夜と同じ色をしていると。






 ★ 独白X




 未だ短い人生、やり遂げた夢なんてひとつもない。そもそも簡単に到達できたり、既に解決の筋道がたっていることは、夢と言わない。
 ようやく指先でかすったかと思えば、それは蜃気楼に揺らぐ一里塚。近づくたびに、愕然とするほど遠くなる。
 そういうのが良い夢であり、ネズミとチーズのように、愚直に私を走らせ続けてくれる原動力と信じている。

 私は母さんになる。
 現状の最重要事項がそれだ。

 しかし世の中の大事なものが概ねそうであるように、夢は往々にして抽象的である。
 母さんと同じ格好をする、母さんのように立ち振る舞う、母さんのように生きていく。これらは全くもって到達点とはいえない。
 かといって、私の持つ母さんの情報は少ない。見た目はともかく、死んだ人間の内面まで理解しろというのは、それこそ夢のまた夢。
 私には精神でも容姿でもない根源的な何かで母さんと同等、もしくは超越した才覚が必要なのである。

 となると、私には魔法しかなかった。母さんの魔法を越える魔法、その主になれば母さんと肩を並べることができる。単純明快だ。
 だがこれにも問題があった。私は母さんの魔法を殆ど知らないのである。

 魔法の実験や道具の生成は、時に事故を引き起こす。そんな神経質な場所に子供を入れるなんて、誰もするわけがなかった。
 勿論母さんは簡単な魔法なら外で遊ぶときにいくらでも見せてくれた。空に浮かんだり、遠くに置いた缶を射抜いたり、暗い納屋を明るく照らしたり。
 その程度なら、とっくに私もできるようになっている。どれも魔術書を読めば基礎に載っているレベルなのだから。

 本来、魔法使いは本気を出さない。迂闊に自らの手の内を明かすことは、そのまま苦心の研究成果を露呈することに他ならないからだ。
 ちょっと人よりいい眼をもった魔法使いには簡単にコピーされてしまう。母さんも、生粋の魔法使いだっただけにその辺は慎重だった。
 もしかしたらいつかは私にその技術を教えてくれたかもしれない。だけど、母さんはすぐに逝ってしまった。
 残った魔術書、命の次に大事な研究ノート、中身を一見もできないまま、あいつに捨てられた。

 私の記憶に残っていて、且つ、母さんの本気が見られたと思われるものは、皮肉にも母さんの命を奪った名も知らぬ魔法だけだった。
 母さんはあの時、聖母のように手を組んで、呪言を唱え、押し出すように手を開いた。金属が灰になるような閃光。
 ほとばしるレーザーは、全能なる神の裁きのように太く、鋭く、重かった。妖怪の影までも燃やし尽くし、空を焦がして、三日後に母さんを殺した。
 言うまでもない。私がその魔法を求め、ひとつの大きな突破点として完成したのが、恋符「マスタースパーク」なのである。


 あの魔法は、恐らく母さんなりのアレンジが加えられていたとはいえ、禁呪だった。術式を掲載してある魔道書は、問答無用で禁書になるほどの規格外だ。
 禁呪の理由は、魂をすり減らすような修行をすれば、妖怪の魔法使いだけでなく人間でも使える術であった上、その破壊力が抜群だったから。
 そして使用の結果、肉体の寿命を一気に早めてしまい得るという、代償の重さも問題であった。
 それは、火のついた蝋燭に油を振り掛ける行為に似ている。その後続くはずだった命の煌きを一瞬に凝縮して、魔法は明るく輝くのだ。

 母さんが死んだ最たる理由、香霖が言うには、その魔法を何の道具も使わずに撃ったのがいけなかったらしい。
 実は、妖怪の魔法使いと違って、人間の魔法使いには魔力の源泉なるものがない。精進で身につく魔力もあるが、スズメの涙だ。
 つまり、人間の魔法使いには、茸の溜め込んだ精気とか、力を与える神秘的なアクセサリーとか、私の八卦炉のように魔法を触媒する道具が必要なのである。
 実際、私はマスタースパークを撃ったところで、次の日に筋肉痛が残るか残らないかくらいだ。
 解説者の香霖が何でもかんでも道具をありがたがる性格であることを差し引いても、道具の有無で効率や安全性はまるで違う。

 では、そんな魔法を補助するものが存在しない場合人間は魔法を全く使えないのか、といえばそうでもない。
 自らの生命力を魔力に変換するということは容易くできるのだ。平たく言えば、自分の体を切り捨てて、生贄にすればいいのである。
 無論、対価は高くつく。極端に短命になったり、身体の自由を失ったり、狂人や廃人になったり。魔に溺れる、と言われ魔法使いの恥とされることだ。
 思うに、母さんの場合は、単純に道具の不足でやむをえず体ひとつで魔法を使い、絶命したのだろう。

 ――だけど、あの優しい母さんが、何故そんな破滅的な魔法を知っていたのか、今でもわからない。


 私は母さんと違って、道具や時間にはとても恵まれていた。
 だから、あの魔法を模してみようとしたとき、何かしらの優位性を幼心に覚えていたのだろう。いつか母さんに近づけるという期待。
 しかしながら、今まで私は一切あれに匹敵する魔法を使えたことはない。思い出の美化を除いても、肌を削るようなあの魔力には及びもつかない。
 ただのきらびやかな極太レーザーで満足できる性分だったら、そこそこに満足した人生を泳いでこれたんだろうが、こればっかりはどうにもならないものだ。
 私は家中の書物を読んで、似非にしか見えない知識も寄せ集めて、それでも何度も諦めた。そして、起き上がることを繰り返した。

 香霖堂で流星祈願会なんてものをやったとき、私は魔の理を追う自分の手の短さが嫌になっていた。
 わざわざ空から私のところまで降りてきてくれるような流れ星は、なんて素敵だろうと思っていた。
 夜が深まるにつれ、段々と目先の星が母さんに見えてきた。私を見守ってくれているように、微笑んで、手を差し伸べて。

 ――どうか私を助けてください。

 流れ落ちた一番星に、すがる思いで三度願ったんだ。
 母さん。



 そのまま、いつとも知れず眠りに落ち、私は不思議な夢を見た。

 母さんが、私と一緒に魔法の茸のスープを作って、談笑していた。劇のワンシーンみたいに、私はその二人を遠まきに見ていたのだ。
 それは紛れもなく、私が焦がれるほどに望んで、手に入れることができなかった、母さんとの魔法修行の風景だった。
 懐かしさであっという間に視界は潤み、袖で何度も目を拭いながら、叫びたい衝動をぐっとこらえた。
 母さんの手際をひとつも見落とさないように、網膜に光景を焼き付けた。スパイスの配合を、鼓膜の奥まで刻みつけた。

 いたずら好きの幽霊みたいに踊る湯気の下、不思議な色、妖しげな香り。
 最後、これまで考えもしなかったものが加えられた。
 手のひらいっぱいの、金平糖だった。

「魔法には、素敵な甘さが必要なのです」

 星型の砂糖菓子が零れ落ちる。

「忘れないで、魔理沙」



 目を覚ますや否や、暴風雨のような日々が始まった。山ほどのノート、茸、お砂糖、スパイス。俄に混沌とする実験室、書斎。
 寝食を忘れて、崖を転げ落ちる小石のように、私は夢を追った。
 何かを手繰り寄せ、何かを引きずり出し、何かを必死に護ろうとした。

 マスタースパークが完成したのは、それからきっちり一週間後。
 精製された純な魔力の結晶は、氷砂糖に似ていた。




 ☆ あの夜のシューティング・スターY




「正月ぐらい、あいつの顔を見に行ってやってもいい」

 ストーブで、冷えた手を温めながら私は言った。

「もう私のこともわからないなら、それでさっぱりだ」
「そうかい」
「あいつを赦したわけじゃないからな!」

 頭を掻く香霖の表情は、相変わらず困った風だったけれど、その頬にどこか安堵を浮かべているように見えた。
 里に少しくらい戻ってはどうか、なんてことは私が勘当されたときからずっと言われ続けてきたことだ。
 もう、軽く十年は超えている。

 態度には出さないけれど、香霖がどれほど私たちの不和を悩んでいたかはそこそこ知っているし、申し訳ないとも思っていた。
 私を実家から連れ出してから、素数蝉の出た年にあいつの老躯を心配して霧雨店を訪れるまで、香霖は一切店と関わりを持たなかった。
 本人曰く、大事な娘を奪ってしまったようで、大恩ある親父さんに顔向けできないとのことだった。ナイーブな台詞を言うものである。
 だけど確かに、あの時私に魔女服を着せなかったら――さあ、どうなっていただろうかね。
 偉い人が言うには、神様はサイコロを振らないそうだ。巫女様は振るけれど。



 幻想郷にも除夜の鐘という文化が、命蓮寺の設立によって根付いたらしい。
 だが、初詣という言葉は有名無実のままだった。幻想郷に二つの神社は、どちらも参るには面倒だし危険すぎる。
 里にある分社は、その分そこそこ繁盛するようで、年が明けると人々が宴会場として寄り合いをつくって新年を祝うというのが慣習となっていた。
 店の中からも人が出払う。あの男はもう殆ど寝たきりだから、家に残る。香霖は店で世話をすることになっている。
 昔からいる店員と会うのが何となく憚られたから、香霖は気を利かせてこの時間に面会させてくれるように用意していた。

 いつもより黒い服を着て、闇に隠れるように遠回りで里へ向かい、店の裏に着地した。
 すっかり風景は変わってしまっていたが、母さんのお墓だけは時に忘れられたように綺麗なままだった。

「来てくれたか、魔理沙」
「ん、あけましておめでとうだぜ」
「少し早いけどおめでとう」
「奴は、どうなんだ」
「親父さんなら起きてるよ。先ほどまで新年の準備で騒がしかったからね」
「そうか。寝てちゃケリをつけられないんだ、よかった」

 久々に踏み入った実家は、懐かしく、それでいて底知れぬ物々しさが宿っていた。
 踏み均されて滑らかな廊下。ぴっちりと張られた障子。昔と同じ柱の傷。記憶の層をざわざわと撫でてくる。
 こっそりと、ばれないように香霖の袖を握った。なんとも言えない空気との摩擦みたいなものを、こうして昔のように歩けば、避けられる気がした。

「親父さんの姿なんだが」
「なんだ?」
「もしかしたら、ショックを受けるかもしれない」
「そんなもん、私だってある程度は覚悟してるさ。要は正気じゃないんだろ」
「現実は、甘くないんだ。それだけだと思ったら必ず後悔するよ」

 歩調に合わせて語る香霖の言葉に、私は口を噤むしかなかった。
 君は知らない、僕は知っている。香霖の言葉はいつもそれだ、ずるい。
 そして往々にして正しく、だからこそ手が付けられなくて、袖を握る私の指を硬くする。


 あいつの部屋は、以前と同じ場所だった。
 香霖は戸の前で止まり、私にここで待ってるようにと言いつけ、先に中に入った。
 聞き耳を立てずとも、聴覚はどうしようもなく鋭敏になって、言葉の断片を追いかける。
 体の調子はどうですか。痛いところはありませんか。魔理沙がやってきました。わかりますか、貴方の娘ですよ。
 是とも非とも聞こえない、微かな応答の声。しゃがれてはいるが、昔と同じ響きを持っていた。

「おいで、魔理沙」

 息を呑み込んで、目を閉じた。震える息を吐いて、怒りをハリネズミみたいに武装した。
 ここまで、ここまでしか、近寄るな。私の領分に割り込むな。侵害すれば、突き刺さる。
 お前は私にそうさせるだけのことをしたんだ。永遠に許さないし、許してはならないんだ。

「……おう」

 胸に手を当てて、帽子のてっぺんを握りこむ。
 そして、意を決し、決着の場に乗り込んだ。





 ★ 独白Y




 よく訊かれることがある。
 貴方のその魔法、どこら辺が「恋」符なの、と。

 恋は様々な想いが混ざって最終的に純粋な白になるとか、何もかもを押し流すような心情の波濤とか。別にそういった意味ではない。
 そんな言い方ではあまりに解釈がぶれる。前者ならハートの赤色にしたっていいわけだし、後者なら胸の高鳴りを表そうと波状にする手だってある。
 スペルカードルールが制定される前からもそうであるが、術にはそれにあった名前を付けなければならない。
 例えば深い意味もなく水と提示しながら火を撃てば、どうしようもない違和感が力を格段に鈍らせる。精神的な戦いに、迷いは致命的だ。
 だからこそ、自らの過去や境遇を示すようなスペルというのは多い。それが大事なものであるほど、力は強くなるし、何しろ揺るぐ要素がないんだから。

 マスタースパーク。これ自体は、そのまま母さんの使った魔法の名前である。
 極められた閃光の術とも言えるし、或いは術者を電光の火花に変えてしまう魔法とも深読みもできる。
 母さんのいた場所を求めるという意味では、わざわざ自分流にアレンジする必要などなかった。響きもパワフルな感じで好みだったし。

 恋に関してはどうかというと、凄く迷った。その光はあんまりに純粋すぎて、どの色にも属していなかったのだ。
 かといってこんな騒がしい魔法、無を基調にするなんてのもおかしい。光というのも悪くなかったが、もっと自分自身の要素がほしかった。
 というわけで相談しに行った香霖の口から出た言葉が「恋」だった。平然と、四則演算を答えるように、恋。
 私もそれなりに思春期だったわけで、かあっと顔が赤くなるのを感じたものだ。

 想定してはいたが、香霖は大真面目だった。
 曰く「恋」とは万葉集にも載っている通り、その語源は「乞ふ」の名詞形「乞ひ」なのだとか。
 巫女の行う雨乞いなどでも使われるように「乞ふ」には、求める、祈り願うという意味がある。
 また深く恋慕し、互いを求め合う心が強いと、魂だけが抜け出してしまうとも言われ、「乞ふ」には魂を呼ぶという使用法も確立された。

 恋と言うものは、もっと知りたい、もっと近づきたいという、人間にとってとても大切な好奇心を表す言葉なんだ、と香霖は言った。
 ひたむきな私の姿や、向上心。人間らしさ、少女らしさ。それらを統合した上で「恋」という単語が私を如実に表していると考えたらしい。


 最初はそんな恥ずかしい言葉を付けられるかと思っていた私だったが、聞いているうちに納得し、えもいわれぬ興奮みたいなものを感じてきた。
 祈り、願い、探究心。母さんの魂への呼びかけ、そして多分、魔法の隠し味のお砂糖が、私に恋の名を与えさせた。
 その頃は知らなかったけれど、今思えば、恋してその身を落とす流星に、私は願っていたのだ。
 運命、だったのかもしれない。

 恋を冠するからには、相応の努力を続けてきた。
 二ついっぺんに撃つと強そうだからとダブルスパークを習得したり、過剰の魔力で撃つと強そうだからとファイナルスパークを編み出したり。
 ひとつの標的に照準を合わせにくいとか、そもそも制御がうまく利かなくて負荷が大きいとか、問題点はあるが確実に進化してきた。
 材料を変え、八卦炉を緋々色金にしてもらい、技術を磨き、基本のマスタースパークも大幅に強化してきたはずだ。

 だけど、母さんには、まるで敵わない。届かない。
 追っても捕らえられず、止まれば逃げていく。私は五里霧中に走り続けるしかない。
 流石は我が人生最高のスパイスだ。永遠の少女のように甘くて、罪人を責める地獄の火のように辛い。


 ……こんな問答をしたことがある。

「なあ、どうすれば母さんくらい強くなれるかな?」
「それは精神論だよ。奥さんの覚悟に、君が劣っているだけだ」

 香霖はこういうとき、案外はっきり言う。格闘家にとっての筋力や体格と、私たちにとっての精神論は同意義である。
 私がやってることは殆ど小手先。肝心な部分で全く足りていない。根本的で痛烈な批評をされたものである。

「じゃあ、もしもだぞ。いつか私にも、母さんと同じくらいの心の強さが手に入ったらどうなる?」

 香霖は小馬鹿にするように笑って、こう答えるのだ。

「もしかしたら、星を撃ち落とせるかもしれないね」





 ☆ あの夜のシューティング・スターZ




 ――信じられなかったんだ。


 私は逃げた。
 喧騒と祝杯の里を飛び出して、暗室の粘菌のような森を駆け抜けて、追われているわけでもないのに厳重な鍵で自分を閉じ込めた。
 そして今、暗い部屋の中、ベッドの上で小さく丸まって、抱えた膝は震えている。下着は汗でぐっしょりだ。
 喘ぐように息をして、時折服や布団を前歯できゅっと噛んで、頬は冷たく濡れていた。

 あの男の部屋に入った瞬間、私の中で急速に何かが萎縮した。

 まずは戸の隙間から、か細く漂っていた匂いだった。
 消毒の硬質さに混じって、柔らかく温く、どうしようもなく駄目になってしまったような甘ったるさ。
 次第にかぎ分けてくると、鼻の奥が辛くなってきた。吐き気が急にこみ上げてきて、すっぱいつばを飲み込んだ。

 それから視線をおろして、あいつの姿を確認した。そのときまでは、私の武装は完璧だった。
 だけど、どうしたことだろう、積年の恨み憎しみは一瞬にして、もっと別のおぞましいものに変貌してしまった。
 強い酸に朽ちて垂れ下がった鎧が、醜悪な姿をさらし始め、異臭を放った。

 一歩も動けなかった。
 薬に混じって、すえたような汗のにおい、微かなだけに背筋の粟立ちそうな糞尿のにおい、余計に具合を悪化させるにおい消しの香の甘ったるさ。
 太り気味でいかにもお金を持っていそうだった容貌は残酷なまでに失われ、不自然に引きつった顔に、影ができるほどこけた頬。
 香霖が支えなければもうまともに姿勢も保てない、積み木みたいな背中。半開きの口からは涎が垂れ、片方だけ開いた目は異様に澄んで井戸の底のようだ。
 顎の下、首の肉付きが、生者に見えなかった。刻まれた皺が歪曲した体を鮮明にし、奇形に相対するような根源的恐怖を否応もなく押し付けてくる。

 悪態のひとつもついてやろう。そんな私の思考は、その刹那、消し飛んだ。
 震えが徐々に立ち上って、へたり込みそうになった。見たくない、逃げたい、嫌だ。心の声は徐々に大きくなっていく。
 なんとか腰掛けたその老人は、じっと私のほうを見つめ、震える枯れ枝みたいな腕でこちらを指差し、口をやや開いた。

「お、おぅ……うぁ……」

 ボロボロの落ち葉を、ちぐはぐにつなぎ合わせたような言葉。首筋に氷の魔物が噛み付いたかと思った。
 私の父親は、もっと威厳があって、偉そうで、私のことなんかどうとも思ってなくて、むかつくくらい堂々としているはずだった。
 それなのにどうだ。この老人はおぼつかない身を乗り出して、懇願するように喉を鳴らし、必死に私を求めるのだ。

「ひっ……!」
「魔理沙、もう少し近寄って」
「待て、待ってくれ、本当にあいつなのか、こんなの……嘘だろ……嘘だろ……」

 香霖は横に首を振った。しゃがれて間延びした声が、さらに私を呼んだ。

「あ、あぁ、あ……」
「親父さん。大丈夫ですよ、ゆっくりと、ゆっくりと、話してください」
「う……う」

 人が損なわれるということに関して、私はあまりに楽観的だったのだと、ようやく動き出した頭で理解した。
 香霖が手仕草でこちらへ来いと言っている。長い躊躇。それから恐る恐る、足の裏で畳の目を数えるように、近づいていった。
 近づくと濃くて甘い加齢臭が漂ってきて、目を細めた。息は、昔と一緒でヤニくさい。鼻の穴からは干からびた鼻水がたれていた。

 子供の身長くらいの距離をとって、正座した。もうギリギリだ、直視なんかできるわけもない。
 説教される子供のように怯えきっていたが、心情は、ある意味それから最も遠いものだった。
 沢山言うべき台詞があったはずなのに、どれもこれも役立たず。途方にくれて、繰り返す吐き気が目に涙を浮かべさせた。

 黙々と、感情をジグソーパズルみたいに整理していった。
 ここにくるとき抱いていた気持ちは、ただの強がりだったと認めざるを得なくなり、それと同時に薄気味悪いことに気がついた。
 罵倒することなんか、簡単にできたんだ。だけど私は、それにブレーキを自らかけている。もし健常だったら存在しなかったブレーキ。
 あえて名前を付けるなら、それは優しさだった。そんな酷いことをしてはいけないと思ったのだ。

 だけどそこには隠しようもない憐憫があふれていてた。
 こんなかわいそうな人間をこれ以上傷つけちゃいけない? 何かやってこれ以上壊れてしまったら、見ていられない?
 思い浮かんだ言葉が我ながらあほらしくて、悲しくなってくる。何で私はこいつを弱者として見下してるんだ?
 対等以上だとおもってたんだ、この男のこと。それなのに、勝手に一匹の人間として終わってしまってるなんて、私はどうすればいい?
 わからない。全然、わからない。馬鹿野郎。

 男はむにゃむにゃと口をねばつかせ、たどたどしく語り始める。
 少しずつ視界にしわくちゃの顔を割り込ませていくにつれ、胸の痛みはひどくなっていく。

「あ……ぁ……ま」

 落ちていく最中に、そのたった一つの発音は、くもの糸のように光った。
 思わず私は見上げた。祈った。私を呼んでくれ、と。

「ま……な……」

 それが、限界だった。





 後ずさりして、背を向けて、私はそのまま厠に駆け込んだ。
 深い穴の中、あふれる涙に、薄すぎる唾液がぼたぼたと零れた。
 駄目だった。唯でさえいっぱいいっぱいだったのに、私にその名前は致命的過ぎた。

 ――何故、それを言ってしまうんだ。

 あんなに近かったのに。私のことなど、何も覚えてなかったんだ。
 あいつに私のことなんて大事にしてもらいたくはなかったけど、それでも私の心は、やはり裏腹を望んでいた部分もあったんだ。
 隠していた部分、目を背けていた部分が、一気に毒の牙をむいて、私を責め立てはじめた。
 自己嫌悪の向こうに、去り際のあの男の表情が思い浮かぶ。逃げる私に、あいつは目に見えて取り乱し、喚いて手を差し伸べた。


 行くな。


 その声、呂律が回ってなくても、私にはこうしか聞こえなかったのだ。
 そして私の心は酷薄にもあるひとつのことを想っていた。

「魔理沙、大丈夫か」

 焦ったような口早な香霖の声。小さなノック。密閉された個室に転がるように響いた。
 ろくに答えられない。嗚咽がとまらなくて、それが余計に悲しくなって、出られなくなった。

「今日は帰るといい、後は僕がうまくやるから……すまないことをしてしまったね」

 感謝しようとしたのか、謝罪しようとしたのか、私にはよくわからない。
 だけど、頼むから私をこれ以上泣かさないでほしかった。



 そうして、私は逃げ帰った。

 憎悪の砲塔も、拒絶の防壁も、どうであれ私の一部であったのだ。それが、この一件で、あっという間に朽ち果ててしまったのを感じていた。
 今にもバラバラになってしまいそう心に、かすがいは打てない。歪み歪んで私は別の何者かになってしまいそうで。
 だけど、どうすればいいのだろう。私の恐怖は紛れもなく自分自身の中に巣食っていた。
 私は、もう何を信じればいいのだろう。自身への猜疑心は柔らかい手となって、私の首を優しく締め上げるのだ。

 眠れぬ夜だった。朝になっても、動く気力すらなかった。日照りのカタツムリのほうが私と比べれば、よっぽど元気だったろう。
 昼間に香霖が訪ねてきてくれた。私を心配して食べ物も持ってきたらしい。でも、顔を合わせられるわけがなかった。

「そこに置いていってくれ、後で何とかするから……」
「魔理沙」
「ひとりになりたいんだ」

 再びの夜。皮肉なほど月が綺麗だった。
 少女が恋を歌うのにぴったりな窓辺、聴くは魑魅魍魎と草木のみ。
 大気はクリスタルガラスのように凛として、吐息を捕らえては殺していく。
 震える唇は懺悔の言葉を紡げない。


 私はあの時、父の死を願いました。






 ★ 夢幻T




 そこは、夜の境界だった。

 案山子みたいに立った私の正中線で、世界がモノクロに二分されていた。
 地球の丸さをかんじるほどの、虚無の地平。乾いた砂が薄く大地を覆い、水音もなければ、雲もない。
 まるで組み立てられている最中に投げ出された玩具のような光景だった。

 右手には夜。無数の星が燦然と煌き、流星が火虫のように飛び交っていた。
 左手には夜。たったひとつの星も月もなく、限りない闇が風紋のように波打って広がっていた。
 選択を求められていた。

 迷わずに右を選んだ。
 佇んでいるだけで、何もかもが微笑んでくれるような、満点の流星雨。
 このつかれきった足では、左に進めば餓死してしまいそうだった。

 その時、ある星が一際強く輝いて、遠くに墜落した。
 地面は噴水のように砂を巻き上げたが、枕を落とした程度の音しかしなかった。
 足を踏み出すと、そのたびに星が流れた。泥に噛み付かれたような重さが次第に歩を鈍らせた。
 とうとう落下した星屑の小さな光を拾い上げたとき、既に息は切れ切れで。
 見上げれば空は星を落としつくしていた。

 手のひらの中、唯一の明かりは、少しずつ死んでいく。穢れた砂の大気に、ほろほろと崩れていく。
 私は呆然と見送るしかなかった。ようやく手に入れた願いの欠片の、なんと儚いことか。
 零れ落ちる涙は、まるで何年も前から流れ続けていたかのように自然で、そのときに初めて哀しみと一緒に気がついた。

 砂粒の光が消えた瞬間、世界は境界を失い、崩れ落ちる。
 諦めて、目を瞑ると、全ては無に還った。





 ☆ あの夜のシューティング・スター[




 いつの間に眠ってしまったのだろう。いやな夢を見たものだ。
 頬の下の固い感触を確かめながら、私はゆっくりと瞼を開けた。

「あ……?」

 寝相の悪さは折り紙つきだ、どうせベッドの下に落ちたんだろうと思っていた私は、目の前の光景に口をぽかんと開けた。
 水滴の跡、香辛料のにおい、茸の切れ端……そして、ポップコーンと化したオーブン。そこは、キッチンだった。
 寝室から扉を二つ越えてやっと進入できる場所だ。当然布団なんかない。何かの理由でここにきて、眠気で倒れてしまったのか?
 なんだそれは、と私は倒れた姿勢のまま呟く。全く覚えてないんだから、仕方がない。

 ……涼しい?

 板の目が痕になっていそうな頬に、刺すような冷たさを感じた。
 半身を起こして、床を撫ぜた。細く、風が吹き上がっている?
 そんなことありえない。以前、この家の地下全体に温泉脈を召還したんだ。今の季節は暖かくこそあれ、寒いわけがない。
 それに何だ? 水の音さえ聞こえない。これじゃまるで、この下に空洞があるような……。

 私は夢を思い出す。



 突貫工事が終わったのはそれから二時間後だった。
 細いものを突き込んで空洞を確認した後、小さく床を切り出して、中を確認できるように少しずつ広げていったら、すっぽり入れる大きさになっていた。
 材木で囲まれた壁に細かく金属の板が打ち付けてあった。細く続く穴の底へ、はしごがかかっていた。今は半ば浴場になってしまった地下室より、さらに深い。
 その地下室に降りて見比べて気づいた、部屋の四隅に、太い柱があったのだ。そして謎の穴は、紛れもなくその柱の一本に続いている。
 敲くと、他の三本と違って、低くこもった音がした。

 ここは、香霖に住まわせてもらった家だ。なんでも、昔は魔法使いが住んでいたのだとか――私だって人並みには勘が働く。
 住んでいるうちに、魔道書の種目や実験の形跡から、ここはもともと母さんか、その関係者が居たんじゃないかと思っていた。
 魔法使いは、とくに魔法に関するプライバシーを大切にする。鍵穴のない錠で本を封じたり、厳重な禁書庫をつくったり。
 おそらくこの穴もまた、この家においてそのような意義を持っていたのではないだろうか。


 何があるかわからない。私は降りる前に装備を整え、帽子を深くかぶった。
 魂を得た本みたいな化け物が蠢いてるかもしれない。毒ガスが充満しているかもしれない。想像のつかない魔法が張られているかもしれない。
 危険は承知している、それでも放置することなんてできなかった。単純な好奇心に、確信めいたものが、芯として通っていた。

 はしごは細いが、錆もなく丈夫だった。底には少しの埃、古代遺跡の中に潜入したようだ。
 大人が二三人入りそうな余裕をとって、古めかしい扉が建てつけられていた。鍵は、ないようだ。
 ミニ八卦炉を握り締めて、戸を盾にするように、ゆっくりと開いた。


 足を踏み入れると、燭台に明るい炎が灯された。照らされる部屋の中は、簡素なものだった。
 そこそこ広い空間の隅に、重そうな机と椅子、黒いカーテンのかけられた四つの棚。召還の陣を何度も書いたと思われる中央の床。
 清潔そうな刃物のセットと、老樹を切り出したような杖が入った、黒い箱。その横に、この部屋にそぐわないほど安価そうな木箱。
 机の上には本が五冊積まれていて、厚みのある封筒がその上に載っていた。

 My last word,from Manah to Marisa...

 封筒の隅に、小さく、メモみたいな走り書き。
 自分の名前を見つけたときに、全身の毛が逆立ち、その横の名前を確認したときに、頭を打ち抜かれたような衝撃が走った。

 あの男が私と見誤った女性――母さんの名前。

 赤蝋の封を裂いて、わななく手で中身を一枚ずつ机の上に広げていった。
 急いで書いたような筆跡で、お世辞にも綺麗とはいえなかったが、紛れもなく母さんの面影のあるものだった。
 ……いや、全体の半ば程度になって、字が変わった。融通のきかなそうな角ばった文字、これも見たことがある。
 香霖の字だ。よく見れば、冒頭に代筆を頼んだと書いてあった。


 軋む椅子に座って、一枚一枚文を追っていく。呼吸を忘れそうになるほど没頭して、そこに書かれた光景を頭に染み込ませていく。
 だけど、読み進めるうちに、激しい拒絶が身を包んだ。嘘だ、と勝手に口が動くのだ。指先がカタカタ音を立てて、止まらないのだ。
 そこに書かれた内容は、私の観念をぶち壊し、再び創造してしまうのに十分な事実、証明。

 読み終える。首吊り人形みたいに立ち上がり、私は黒いカーテンで遮光された棚の前に立つ。
 暗幕の向こうに、果たして真実は在った。最後に残っていた、この手紙は全部嘘なんじゃないかという一縷の憶測も消え去った。
 ぺたんと座り込み、このままずっと地下に引きこもりたい気分になった。外の空気は、此処に入る前と全く別物になっていそうで。
 何故、ここを母さんの家だと明言しなかったのか、それはつまりこういうことだったのだ。

「香霖……」

 代筆で書かれた、あの遺言の最後の一枚。お前は気づいていたのかな。
 事切れて、茫々とした空白に、小さな塩の花が咲いている。
 一輪、二輪。






 ★ 遺言T




 この手紙が貴方の目に触れるのは一体何年後でしょうか。もしかしたら、永遠にその機会は無いのかも知れません。
 だけど、もし貴方が人里を離れ、此処で暮らすようになったとき、いつか必ず迷うことになるでしょう。
 その時、これがせめてもの道しるべになることを祈っています。

 私は自分の体の危うさを知っています。あと数日もしないうちに、死神の鎌が振り下ろされることになっています。
 この遺言も、最後まで書けるかわかりません。こうなってしまった理由は、全てわかっていると思いますが、私の魔法によるものです。
 貴方は妖怪を倒した私に、正義の味方と言ってくれましたね。ですが、それは違うのです。むしろ真逆かもしれない。
 私は魔を使うものなりの業を背負っていました。そのことを教えるには、貴方はあまりに幼すぎました。

 こうしてこの手紙を読んでいる、ということは、貴方はおそらく実家との訣別を済ませているのでしょう。
 貴方の父親は、私の死後、魔法を店から一掃してしまうに違いありません。それに反発する貴方もまた、目に見えています。
 道は二つ。今までどおりの里の娘で居続けるか。それとも私と同じ魔法使いとしての道を選ぶか。
 魔法の良い側面しか見せられなかった貴方は、強い意欲や信仰を持っていました。後者を選ぶのも無理はないことだと思います。

 その上で、貴方が魔法使いとして成長したことを踏まえ、敢えて言わなければなりません。
 私は、貴方が魔法使いになることを、望んではいませんでした。あの人に魔道具の片付けを申し出たのもまた、私なのです。

 きっとつらい思いをさせてしまったことでしょう。本当にごめんなさい。弁明するなら、深い理由があったのです。
 中途半端な志で魔を手にすれば、貴方は身を滅ぼします。もし、安穏を捨て魔に走るなら、そのときのみ貴方を信じ、魔法使いになってもらいたかった。
 残念ながら、きちんとした過程を経て貴方の将来を決定するには、時間がなさ過ぎたのです。

 今の貴方は、霖之助さんに、大変助けてもらったのでしょうね。どうか、口のない私の代わりにお礼を伝えてください。
 万一貴方が魔法使いを求めたのなら、難儀なことですが世話をよろしくと、彼に頼んであったのです。

 こんなに魔法について否定的なことを言うなんてと、貴方は驚くに違いありません。私は上辺しか見せられなかったのです。
 先にも述べましたが、私自身がそれで大きな罪と罰を抱えているからこそ、娘の貴方には平穏を愛してもらいたかった。
 失望されるかもしれません。だけど、明らかにしなければならないことがあります。
 いいですか、貴方は私のようになってはいけません。


 今から書くことは、伝えられなかった私の恥ずべき過去です。もしかしたら、私を慕ってくれた貴方を激しく傷つけてしまうかもしれない。
 ですからこの手紙は、私の昔のことをよく知っている、霖之助さんに保管をお願いしました。貴方が十分に成長するまで、世に晒されないように。
 私の住んでいた家の、地下室。おぞましいものたちの標本室であり、実験室。そこに隠してもらいます。

 もしも、幸運にも何もしらず、健康な体と心を持っているなら、どうか此処で破棄してください。これ以上は貴方を損なう毒です。
 もしも、何かに心が壊れてしまいそうなら、少しずつ読み進め、無理になったらそこでやめてください。どこまでいってもこれは劇薬なのです。
 どうか、この地下室の扉をふさいでください。私の懺悔は、未だこの部屋を離れられない哀れな魂たちと共に、闇に沈むのが相応しいのです。


 ――それは、私が七歳の時でした。


 この家には私、両親、祖母、兄、それと使い魔の黒猫が住んでいました。
 妖怪化することを求める一般的な人間の魔法使いと違って、私たちは頑なに人間の血を保ち続ける家系でした。
 その理由は、私が嫁いでからしたように、人間の目線で、どんな人にでも利用できる魔法の研究を求めたからではありません。
 人間は短命の代わりに、妖怪にない成長率を持っています。単純に研究を続けていくなら、人間でいるほうが柔軟に進歩できるのです。
 何度も継ぎ足すように一族の人間を消耗していって、究極の魔法を作ることが、先代からの至上命令でした。
 その末裔の私は、小さい頃からの刷り込みによって、やはりその教えに妄信していました。今思えば、なによりも異端な家だったのだと思います。
 禁忌的な魔法の影響のせいか、一家の子宝は極端に減り、私の体が女性として機能するようになったら、兄と結ばれることが決定していました。
 両親も、そうでした。妹は、生まれて三日後に自ら首を捻って死んでいました。

 新月の夜に、森へ行くことが習慣でした。家族総出で、実験の材料を調達に行くのです。
 私は幼かったので家での待機ばかりでした。兄は十六歳だったので、皆についていきました。黒猫も兄になついていたので一緒に行きました。
 霊気が土の中に染み込んで、無いはずの月の囁きが聞こえてきそうなほど静かな夜でした。

 翌日になっても、翌々日になっても、誰も帰ってきませんでした。
 とうとう我慢できなくなって家を飛び出し、ほんの五分ほど歩いたところで、兄を見つけました。
 虫がたかって、耐え難い悪臭がしました。腹からは大量の血、家まで逃げようとしている最中に、絶命したようでした。
 ぞっとした寒気に襲われました。血はすでに黒くなっていましたが、その跡を辿るのは容易でした。
 私は終着点で、残る家族の死体を見つけました。大きな陥没に、鍋の中の野菜の切れ端みたいに皆が散らばっていました。

 私にはなかなか理解ができませんでした。父親の手に、銀色の毛がしっかりと握り締められているのを見て、妖怪の仕業だと確信しました。
 この一帯は、確か良質な茸や木の実などの材料が手に入るのです。だけど、怖い人食い妖怪がいるという噂もありました。
 その妖怪は長い銀の体毛を持っているとも聞いていました。皆は、採集中にその妖怪に襲われたのでしょう。

 私は烈火のような怒りを覚えました。
 厳しいながらも愛情を与えてくれた両親、物知りな祖母、頼りになる兄、可愛い黒猫、全員がたった一匹の意思で失われてしまったのです。
 細い月の夜に絶叫しました。妖怪を不倶戴天とし、命を賭しての復讐を決意しました。


 そこからの私は、考え付くだけの努力をしました。家にあるものは何でも利用し、禁書も含め、全てに目を通しました。
 道具は分解し、何度も組み立てることで構造を知り、自分なりの改造を重ねて強化しました。
 実践も欠かさず行いました。妖精や、魂を帯びた道具や、簡単な動作を組み込んだ人形などを相手に魔法の威力を試しました。

 あの人――貴方の父親ですね。彼に逢ったのもその頃でした。
 彼という言い方は他人行儀で好きではないのですが、貴方との兼ね合いもありますし、客観性を無にしてしまいそうなのでこのまま使いましょう。

 彼は、私の父親と懇意にしていたそうです。噂で一家が襲われたと聞いて、私の家に訪ねてきました。
 私は魔法の森から一切出たことがなかったので、彼のことはよくわかりませんでした。あまりいい印象も、持ちませんでした。
 彼は私を不憫に思い、娘のように可愛がってくれました。頻繁に食べ物を持ってきてくれました、この危ない森の中に。
 ここに一人でいては危ないだろうと、里で引き取ろうとも言ってくれました。無愛想だけど、優しい人でした。

 ただ、私もそのときは気が立っていた上、誰も信用できなくなっていたので、彼に対してはかなり邪険にしました。
 人を信じられないとは悲しいことなのです。だけど、私はまだ、信じることによる恐ろしさしか知りませんでした。
 彼は、今もそうですが、魔法に関しての理解はありませんでした。私の刺々しい心はそこにつけこみ、憎悪を生み出しました。
 復讐すると言ったときに、やはり彼は止めてきました。私は自分という存在を否定された気分になって、当り散らしました。
 大嫌いだったんです、あの人のこと。だから好きだったのかもしれませんね。


 私は順調に力をつけ、ある壁に突き当たりました。貴方も知っていると思います、自分の知る世界からひとつ飛びぬけた力を手に入れる方法。
 ひとつは、捨虫による妖怪化。ひとつは自己犠牲による、強力な魔力練成。どちらも、これから努力で得られる力を軽く凌駕できます。
 前者は、最早妖怪というもの全体を呪っていた私には不可能でした。残る後者、私の手には禁書の山がありました。
 その時の私は、死など恐れていませんでした。それどころか、命のひとつで復讐を果たせるなら、安いものだと思っていました。
 本当のところは怖いもの知らずだっただけです。護るべきもの、大切にすべきものなんて、何一つないと信じきっていました。
 真の意味で己と向き合わなかった私は、軽々しく自分を捨てることができました。

 貴方には伝えていませんでしたが、私は魔に溺れました。
 力量を測るために、妖精では満足できなくなった私は、とうとう通りがかりの妖怪まで無惨に退治するようになりました。
 強いからという理由で何の咎めもなく人を殺す妖怪が、恨めしくて仕方なかった。私から暖かさを奪いつくし、のうのうと生きている妖怪が赦せなかった。
 復讐を遂げた後のことなんて考えていませんでした。考えれば、弱くなるとさえ思っていました。

 私の左目は見えません。私の肋骨は、両方とも一本ずつ足りません。私の下半身に、温感はありません。
 私の肺、腎臓、卵巣、どれも片方は殆ど動きません。私の舌では、甘みがわかりません。私の背は、十四歳で伸びなくなりました。
 私の心臓は今も悲鳴を上げています。体中の骨がひび割れていく音がわかります。不気味なあざが浮かび上がってきました。

 ……自分の娘にも言えないなんて、本当に、情けない姿になったものです。



 十七歳の春のことでした。私をみれば妖怪は逃げるようになり、少しの優越感に浸り始めていた頃です。
 ある日、森の中で、魔力の綻びを見つけました。何か結界のようなものを張って、ものを隠しているようでした。
 その魔力は明らかに人間のもの。術者が衰えたか、配置された魔道具が破損したか……かなり大きなもので、中に術者が住んでいるようでした。
 このままでは破れたときに妖怪に襲われてしまうかもしれないという心配から、私は小さくその防壁をやぶりました。
 魔術の弱まりを、中の人に知らせてあげようと思ったのです。

 穴から吹き出る魔力に、私は震撼しました。
 いままでの弱った人間の術以外の、とてつもない力……恐らくは妖力が、急激にあふれ出してきたのですから。
 何故かはわかりませんでした。しかし、穴の向こうに見えてきた新たな風景に、大きな家がありました。
 こんなに近くにあったのに、全く気がつかなかったのは、やはりその魔術が弱いながらもよく練られた人間のものだったからかもしれません。
 瘴気漂う森の中で、人間である私の肌にはあまりに自然すぎたのでしょう。

 足音を踏み殺すように近づき、様子を伺いました。埃でほとんど見通せなくなった窓を擦り、中を覗きました。
 私が十年、復讐の相手と探し続けてきた、銀毛の妖怪がいました。あの日に拾った毛と全く同じ妖気を放っていたのです、間違いありません。
 穴が見つかる前にと、私は走って帰りました。そしてできる限りの魔法を高める道具を身につけ戻ってきました。

 戦略は決まっていました。油断しきった今に突然割り込んで、強力な魔法で不意打ちし、間髪いれず細かい魔法で敵を捕らえ、再び強力な魔法を打つ。
 非常に単純なものですが、私はこうやって二段階に分けて攻撃することで、今まで勝利を収めてきていました。
 術者に大きく負担をかける魔法を、まさか何度も撃つわけがないと、相手は高をくくるのです。私はそこにつけこみ、妖怪を幾度も葬りました。

 使用する魔法は、やはり禁呪でした。それもこれまでで一番重く、何代もかけて一族が研究してきた究極の大魔法。
 特殊な材料を特殊な方法で処理し、それを起爆剤に己の魔力を発火させる、破壊の魔術。
 名を「マスタースパーク」といいました。

 代償は寿命。約五十年、短命になるのです。
 狂気だったのでしょうね、私はその記述にほくそ笑んだものです。
 私は十七だから、運がよければ、二回も撃てる、と。


 一家を滅茶苦茶にした妖怪が、僅か数メートル先に息づいていました。
 この魔法で殺してやる、と一瞬感じた死の冷たさを、憎悪の熱でかき消しました。
 一発目は無理に当てなくていい、相手の戦意が覚醒する時間までに動きを封じればいい。
 私は手を組んで、呪文を小さく唱え、入り口の扉に手のひらを当てました。その時、家の中で妖気が膨れ上がりました。
 気づかれた! そう思った私は一思いにその魔法を放ちました。

 刹那、神経が焼き切れ、臓腑で魔力が融解され、血管を巡り、骨の器に注がれました。
 光の奔流は、夢現の境を彷徨うように輝き、罪深さを感じるほどの破壊を生み出しました。

 体が壊れていく感覚の最中、私は苛烈な痛みと共に絶頂を覚えました。紛れもなく、快楽でした。
 存在意義や生存理論がたった一つの帰結に至るカタルシス。丹念に丁寧に組み上げた積み木を、思わず崩したくなる破滅的陶酔。
 ああ、私はこのために生きていたんだ。自らの究極に火葬される日を待っていたんだ。
 私は、不幸にも、幸せだったのです。


 骨が鉛になったような反動で、我を取り戻しました。
 私の目的は魔法を使うことだけではありません、その妖怪を殺すことでした。私の体は耐えてくれた、天命を執行せねばならない、そう思いました。
 術が終了するや否や、痛む腕を振り払って、部屋の中に無数の光弾を炸裂させました。激しい音で聴覚までも奪う武器でした。
 あの妖怪のことです、この一撃で葬れたわけがありません。煙が次第に晴れて、大穴の空いた部屋が見え始めた時、私は異常に気づきました。

 妖怪は仁王立ちで、私の正面に立っていました。おそらく始めの魔法から、まるで何かを護るように両手を広げて。
 深い息と唸り、白い牙の一瞥、妖怪はくずおれて地を這いました。血を吐き、炎に包まれて、動かなくなりました。
 解せませんでした。わざわざ真正面から、この魔法を受けきる道理なんてないのです。外側に逃げれば密度も低くなるのに。

 私の復讐は、実にあっけない展開を迎えました。目を閉じたまま白い火に焼かれていく妖怪を見下ろしていました。
 何でこの妖怪はあんなことをしたのだろうと、視線を部屋の奥にに移した時です。奇声といっていいほど甲高い女の声が響き渡りました。
 まさかまだ敵がいるのかと、私はすかさず魔法の用意をしました。その声の主は……私は、息を呑みました。

 人間の老婆だったのです。それも、老いに老いて、長い白髪を撒き散らし、竹の節のように歪んだ体躯。箒の化け物のようでした。
 彼女は私を責め立てました。驚くべきことに、その妖怪の妻だというのです。人間と妖怪は相容れないものと信じていた私に理解などできません。
 私は人間を傷つけない主義でしたから、彼女に貴方の夫が私の家族を皆殺しにしたのだと説明しました。
 酷いこともいいました。貴方はもしかして、この妖怪に騙されたり惑わされたりしているだけではないのか、と。

 老婆は憤慨しました。狂っているのはお前だと、私を指差して言いました。
 わかるか、狂気の魔女め、私はお前と同じ血統を持ったものの一人だ。お前の罪の重さを誰よりも知るものだ。
 老女の言葉に唖然としました。なるほど、唐突では在りましたが、そう考えれば話がつながります。結界は彼女が張ったものだったのでしょう。
 老齢がその強度を弱めて綻んで……思えば、あの術式、私が習った基礎の魔法とかなり類似していました。

 真実はこの世にはないかもしれません。
 だけど信じなければならないことはあるようです。
 少なくとも私にとって、彼女の言葉はそうでした。


 お前たちは、悪魔にさえ異端の烙印を押される忌むべき一族だ。
 世の中はすでに人間と妖怪の間に、襲う襲われる、以外の関係が生み出されるほど平和になっている。
 どうせお前も、妖怪は強大なる悪で、今でも人間に不当な生存競争を強いているのだと教え込まれてきたのだろう。
 私は、洗脳が解けた人間だった。家族の命を究極の魔法とやらの為につぶし続ける意味はもうないのだと説いたら、家を追い出された。
 夫は平和的な妖怪だった。行くあてのない私を匿ってくれ、まだ幼かった私を育ててくれたばかりか、娶ってくれた。
 幸せな日々だった。老いてからは延命の為に、自らの血を毎朝毎晩私に吸わせてくれたのだ。こんな風貌になっても、夫でいてくれた。

 それに対しお前たちのしたことは何だ。ある日見つけた私を人質にし、私の夫を罠にかけ、殺害――いや、採取しようとしたではないか。
 お前の親族たちの顔は忘れない。縛り付けた私を妖怪に惑わされた狂人扱いし、貴重な妖怪採取に手伝ってくれてありがとうと言ったのだ。
 あれほどの侮辱を受けたことはなかった。お前たちは魔法を極めるという大層な名目を背負っているが、世界を自分中心でしか認知していない。

 愛し愛され、血を分かち合ったわが夫を、その臓腑を、実験材料として調達したいが為だけに卑怯な策を練るなど、許すまじきこと。
 ただ、己の下劣な知的好奇心を満たすためだけに殺され、刈り取られて行った妖怪たちの悲痛に全く耳を傾けはしない。
 そして失敗して逆に一族が殺されたなら、それには揚揚と復讐に出向く。ふざけるな。

 私も夫の血で延命した身だから、いかに妖怪の血肉が魔術的にすばらしいかはよくわかっている。
 だが、この世界はお前たちの実験場でもなければ、採取し放題の生物繁殖場でもない。
 鼠を殺すのと妖怪を殺すのは同じ行為? 力が強ければ、弱いものは従うべき? 妖怪もそうやって人間を食うではないか?
 違う。人間はそういった行為に心痛んでこそ、人間なのだ。お前たちは人間の尊厳を持っていない、実に傲慢で哀れな生き物たちよ。

 何百年かけて、命を陵辱し尽くした結果が、自らを滅ぼす魔法か――。


 おそらくこの手紙の置かれた部屋、遮光された棚があります。私たちの罪を知りたければ、開けてください。
 そこにあるのは、標本となった妖怪の遺骸たちです。認めるしかありません、私たちは魔術的に価値あるものなら、どんな手を使っても採取していったのです。
 多かれ少なかれ、妖怪の体を用いた魔術は今でもあるでしょう。しかし、高度に知的な者や、人間に友好的な者までは暗黙のうちの禁忌となっています。
 感情を見出すことさえできれば、こんなことにはならなかった。私たちは、豚の鳴き声も人妖の懇願も一緒にしか聞こえませんでした。
 そう育てられてきたのです。

 老女の言葉は衝撃的であり、核心的であり、私の心が有耶無耶にしてきた弱点を穿ちました。
 私は幼くして家族を失ったがゆえに、教化が浅く、これでも自らの論理をまくし立てられるほど狂信的ではありませんでした。
 なんとなく恐ろしいことをしていたのだと思い、そこまでで考えを放棄していたのです。深く推量しないようにしていました。
 始めに残虐な光景を見てしまったがため、その一瞬にとらわれて、思考が停止してしまったのですね。
 復讐のみで生きる私は、とっくにひび割れだらけでした。体も、心も。

 平和的な採集に向かったら、妖怪に殺された。それが、私の固定観念。
 無辜の人間を人質にして、夫の妖怪を誘い、皆の力を合わせて袋叩きにし、臓腑を持ち帰ろうとした。
 単純に、良質な実験材料として。それが、悲しいかな、事実。

 老女をかばって倒れた妖怪の体は、なおも燃え続けていました。
 彼女は、はらはらと涙を流し「呪われるがいい」と言い、それが最後の言葉になりました。
 覆いかぶさるように、火の中へ飛び込んで、夫の体を強く抱きしめ、妻は慟哭しました。激しく、魂まで溶けてしまいそうなほど。
 止めることなどできませんでした。それどころか、見ていることもできなくなって、後ずさりに家から離れてしまいました。
 人間と妖怪の恋の、あまりに惨い結末がそこにありました。


 涙声は、数分もしないうちに、聞こえなくなりました。彼女は延命したといっても、体は人間だったのですから。
 私は火が消えるまで、何も言えず、動けず、涙を流すばかりでした。どこまでいっても偽善です。
 そのうち、妖力が、か細くですが復活しました。妖怪が息を吹き返したのです。
 彼は、己を抱きしめた妻の亡骸を見ました。森の震えるような哭鳴をあげました。

 私は止めを刺すことができました。彼の哀しみと怒りに染まった双眸で見つめられても、復讐の連鎖を思い浮かべながら、姿を隠す気になれませんでした。
 今この場で、いっそ息の根を止めてもらいたいとさえ思っていたのです。しかし、妖怪は怪我が激しかったのでしょう、森の奥へ逃げてしまいました。
 私は再び家の中に戻り、老女の遺体の傍に立ちました。土間でしたから、火は消えていましたが、熱が大気をゆがめていました。
 人を殺したのだと、ようやく実感がわいてきました。私はその時はじめて、深く死というものを知ったのです。
 だけど、あまりに遅すぎた。


 その家の裏に、桜の大樹がありました。
 奇しくも花盛り、魔性を感じるほどに美しく、何も知らないようで全てを見透かされているような、目を奪われる荘厳さでした。
 その根元に、骨になるまで焼いた彼女の遺体を葬りました。きっとあの桜は愛されていたのだと思ったから。

 貴方の顔が思い浮かぶようです。
 そう、貴方の思い描いた桜はきっと、間違っていません。


 朝から書き続けて、もう夜になってしまいました。
 意識は危ういですし、私の手もそろそろ感覚がありません。続きを書きたいのですが、これ以上は無理なようです。
 もともとが衰えた体。それに私は二度、禁呪を使ってしまいました。今は必死にその毒が体に回りきるのを食い止めて、生き永らえているに過ぎないのです。
 目前の死は、確定事項として受け止めなければいけません。後悔はしていますが、仕方のないことです。運命とは、そういうものなのですから。

 つい先ほど看病にきた貴方は、私に寄り添いながら、眠ってしまいました。可愛い寝顔に、涙が溢れて止まりません。
 後悔ばかりの人生で、貴方は確かに私の光でした。貴方の笑顔は、一番星のような希望でした。
 明日、目を覚ましたい。こんなに深く願ったことはありません。

 おやすみなさい。





 ☆ あの夜のシューティング・スター\






 翌日は勇気が出なかった。翌々日も勇気が出なかった。
 三日後、季節にそぐわない、突然の暖かさが幻想郷の屋根を軽くした。暇な奴が暴れたのか、はたまた天の気まぐれか。
 軒から水がしたたって、大雨みたいにびちゃびちゃと音をたてていた。神経を露出して眠っていた私には、少々生々しすぎたのだろうか。
 目を覚ますなり、何かに急かされるように、私は家を出た。右手に母さんの遺言を握り締めて、いい天気だと憎たらしそうに呟いた。

 香霖堂は開店していた。ストーブの上の薬缶がもうもうと湯気を出し、その向こう側に店主は居た。
 ずかずかと目の前まで歩み寄って、遺言の束を箱の上に置くと、突然心臓でも悪くなったかのように香霖は胸を詰まらせた。

「見たぞ」
「……そうか」

 香霖はお茶の用意をしよう、と言って眼鏡をなおした。特別な茶葉な、と注文を付けておいた。
 お前も同じだな、儀式の前の静粛みたいものがほしいんだろ。しかめっ面の香霖を見ていて、クスリと口元が軽くなった。
 私がお前のことを叱るとでも思ってるのだろうか。

「私、今度は逃げない」

 離れていく背中を、ふと止めたくなった。

「あいつのところにいく。ちゃんと会わなきゃいけないんだ」

 たっぷり十秒ほどの間があった。窓から外を眺めると、屋根の雪解けのせいで、天気雨のようだった。
 世界は鮮やかだ。ここ数日、どこか仮初の空間を生きてきたような気分になった。
 視線を戻すと、香霖が振りむいていた。神妙な表情に、身構えた。

「正月の餅を貰ってきたんだが、食べるかい?」

 相変わらずピントが合ってるのか、合ってないのかわからないことをいう奴だった。



 どうやってこれを見つけたのか、と香霖は問う。何でも、私が引っ越す前に、丁寧に床を張りなおして隠したらしい。
 私は他になんとも言い分がないので、変な夢を見て、夢遊病かよくわからないが気がついたら穴のところに居た、と答えた。
 腕を組んで、納得された。

「やはり奥さんは、まだ何処かに居るんだ」
「何処かって、どういうことだ?」
「稀にやってくるお得意さんに冥界の庭師が居るんだが、ずいぶん前に尋ねてみた事があるんだよ」

 何でも母さんの臨終に際して、気になったことが在ったらしい。
 いよいよ危篤となったとき、母さんはずっと何かを呟いていたのだという。そして言い終えた直後、微笑んで、亡くなった。

「何の術だよ」
「僕だってわからない。殆ど聞き取れなかったからね。おそらく呪文、だけど西洋のものじゃない。言葉の端々から東洋の呪術に聞こえたんだ」
「東洋?」
「奥さんは当時の博麗の巫女とも交流があったからね」

 それは初耳だったが、そういえば店で使われていた八卦炉というものも、よく考えれば東洋のものだ。

「それと妖夢がどう関係するんだ?」
「巫術と言うものは、平たく言えば魂を呼応させる術だ。例えば神をおろしたり、口寄せを行ったり。他にも」
「霊夢じゃない、妖夢の話だ」
「死に際の人間が、魂の操作をした。そう考えると、自ずと用途は定まってくる」

 お茶を啜って、香霖は一息した。

「僕はこう聞いたんだよ。奥さんが彼岸に渡っているか確認してくれ、とね。彼女の主人は冥界の管理者だったろう?」
「答えは?」
「閻魔様が怒っているらしいとさ。つまり、渡っていないんだ、まだ」
「渡って……ない」
「奥さんは自らの魂を何かに移したんじゃないかと、僕は思ってる」
「何に移したんだ!」
「そこまでは知らないさ。ただ、魔理沙を助けたかったんじゃないかな。本当に君の事を案じていたんだ、それこそ自縛霊になりそうなほど」
「……」
「だとしたら、君が夢見にそこにたどり着いても、それは必然だろう。奥さんがそこに踏み入ることを許したんだ」

 口を噤む。回想する。母さんのみせた夢?
 だとしたら、もうひとつあるじゃないか。私を私たらしめる単純な定義。
 母さんが夢で教えてくれた――マスタースパーク。

「なあ」
「何だい」
「私わかった気がするぜ、母さんの居場所」

 とんがり帽子を、ひざに置く。

「何でお前は私にこれをくれたんだ?」
「それは……あそこでみてきただろう。奥さんの遺品は捨てたと言ってたけど、本当は全部地下室に仕舞ったんだ。君の所有物もね」
「なんで、これだけ持ち出してきた?」
「大きなものを持ち出すのは気がひけたし、君も使えるもののほうがいいと思って」
「その他には?」
「なんとなく、かな」
「なんとなく、か。そういうことだな、香霖」

 抱きしめれば、いつだって魔法の虜にしてくれる、素敵な帽子だ。

「母さんは此処に居る」

 この世に偶然なんてないのかもしれない。





 ★ 遺言U




 最初に、運命の神様、私に一日を託してくださり、本当に感謝しています。
 残念ながら手は使い物にならなくなってしまいましたが、こうして代筆で残りの言葉を伝えられる幸運を思えば、取るに足らない不幸です。
 霖之助さん、貴方には色々と迷惑をかけっ放しでしたね。こんな私に最後までありがとう。

 こんなときにのろけ話なんてと思われるかもしれませんが、お父さんとの馴れ初めについて話そうと思います。
 誠意と規範を大切にし、その分激昂しやすく頑固で不器用な人です。私の死後に、貴方は多かれ少なかれ対立することになると思います。
 これを読む頃には貴方は魔法を使っているのでしょうから、悲しいことにその溝はさぞ深くなっているでしょう。

 だけどわかってください。あの人にとっては、妻を死に至らしめ、不幸な輪廻を作った元凶であり、愛娘の将来を脅かすものなのです。
 貴方は身一つですから魔法の危険も覚悟できているでしょう。だけど彼にはそう簡単にできないものなのです。
 私は私なりに魔法の有用性を示そうとしましたが、それでも届かないほど傷は深かった。私が魔道具をつくるのだって精一杯の譲歩だったのでしょう。
 単なる毛嫌いではないのです。利益も損失も何もかも知った上で魔法を拒むことに、口を挟む余地はありませんでした

 これは願望ですが、私は二人の和解を願います。貴方を傷つけるような真似をしたのは私なのです。
 私を憎むに憎めない状況に立ってからこんなことを言うなんて、虫がよすぎるのはわかっています。
 だけど、どうかあの人のことだけは許してあげてください。形は違っていても、私と同じくらい貴方のことを愛していた人間なのです。
 未練を感じたら逆に断ち切ろうと強い態度に出て、その実断ち切れていない弱さも持っている、父親なのです。


 あの妖怪を打ち払い、結果的に人を殺してしまった日から、私は酷くふさぎこみました。
 信じてきたものが真っ向から否定され、何よりも私の中の良心がそれを認めざるを得ない状況にありました。
 魔法を憎んだりはしませんでしたが、その在り方についてかなり否定的だったのは間違いないです。
 しかし、同時にそれは家族に対する反逆でもありました。私にとってはどうであれ全員が大切な人でした。皆に間違っていたなんて言えるわけがない。
 洗脳に近い教育は非難されるべきかもしれませんが、その教育者もまた、同じ過程を経ているのです。誰を恨むこともできません。

 強いて一人悪者がいるとしたら、それは私だけでした。私は、私を呪いました。
 いつか必ず来るべき、あの妖怪に復讐される日を待ちました。そこで命を散らしてこそ、何かが許される気がしたのです。
 だけど、妖怪も相当な深手だったのでしょう、待てども待てどもその日はきませんでした。
 私は日々、死を想い続けました。

 あの人は、そんな私を彼なりに慰めてくれました。あまり要領は良くない人でしたが、逆にそれが私にとってうれしかった。
 私はかなり長い期間反発し続けたのです。もってきてくれた食べ物をそのまま放置して、腐ったものを持って帰らせたことだってありました。
 彼はむすっとした表情のままでしたが、帰り際に肩を少し落としていました。それでもまた数日後、私の家を訪ねてくれました。
 私は不幸な娘として、哀れまれるのが嫌いだったのです。愚直に繰り返す彼の行動は、酷く傷ついたあとではとても優しいものに感じられました。
 もし私の様子を見て、腫れ物を触るように扱いだしたり、逆に媚びるような慰め方をする人だったら、こうはなっていなかったでしょうね。


 ある日、それでも立ち直れない私に、霧雨店で働かないかと提案してくれました。
 衣食住揃い、心の不安定な私からは接客業を外してくれ、私にしかできない役目を考えてくれるという至れり尽くせりの内容でした。
 それで私は霧雨店で魔道具を作り始めるようになったのですが、初めは信じられない気分で、疑ってしまったほどです。
 自傷を繰り返す私を見て、彼は魔法を嫌っていたと言うのに。

 そうして私は霧雨店に住み込みで働くようになりました。想定はしていましたが、いざ森の外に出てみると、私の常識は全く通じませんでした。
 普通に妖怪が闊歩している上に、住民に溶け込んで、更には人間の子供に勉学を教える妖怪までいたのです。
 我々は人間を迫害する妖怪を滅ぼすため、究極の魔法を作らねばならない、なんて私の教え込まれてきたことは、本当に狭い世界観だったのですね。
 もうそんなものは必要なかったのです。もっとささやかな、誰にだって役立つ魔法を作ろうと、決意しました。

 それから、いくつも商品を開発しました。自分でも驚くほどよく売れました。
 店の奥から自分の商品が買われていく光景を見たときの興奮、お客様が商品をほめてくださったときの感激。人々とのふれあい。
 私は少しずつではありますが、心を取り戻してきました。店に立つようにもなって、普通の暮らしができるようになりました。
 あの人は魔法には苦い顔をしていましたが、やはり私の再生もまた魔法でしかできないとわかっていたのでしょう。

 ――気づいたら恋に落ちていました。

 並大抵ではない苦悩をしました、相手は独身とはいえ四十近く年が離れていたのです。普通ならありえません。
 このことで彼が馬鹿にされたり、何か損を受けたりしないかと本気で心配しました。身分不相応ではないかとも思いました。
 それに、ボロボロの私は子供を産めるか分かりませんでした。夜、布団にもぐると切なくて涙が止まらなくなる日々でした。
 諦めたくても、一人で生きてきた私にとって、男はあの人しか居ませんでした。全てを捧げていいほど、愛していました。

 近頃私の様子がおかしいとのことで、二人きりの状況におかれたとき、もう私の頭は爆発しそうで、選択の余地なんかありませんでした。
 絶対に想いは遂げられないと思っていました。断られたあとの身の振り方を考えながら告白しました。
 返答はあっさりしていました。そうか、私もお前のことが好きだ、問題ない。それだけです。
 好きの意味を勘違いされているのかとさえ思いました。子ども扱いされているのかと愕然としたりもしましたが、そうでもないようでした。
 結婚しようと言ってきたのもあの人です。私は自分から好きだと言ったのに、どれほど私では迷惑をかけるかと力説するほど混乱していました。
 彼の言葉は、今でも覚えています。禁呪で寿命が縮んだなら、これほど年の差があれば、一緒に死んで行ける、と。
 そんなこと言われて、断れるわけが無いじゃないですか。


 私たちは結婚しました。確かに下世話な茶々が入ったこともありますが、私の懸念は殆どが杞憂に終わりました。
 それどころか夫婦に見えないと言うことが、逆にお店をやっていく上ではちょっとした話題作りとなって、人を呼んだりもしました。
 私は幸せでした。心身ともに、森にいた頃から比べれば見違えるほど健全になりました。

 それでも、私には枷がありました。幸福を感じるたびに、忌避したくなるような感情が沸き起こりました。
 私は幸せになってはいけない。そんな資格はない。嬉しさには、必ず耐え難いむず痒さがついてきて、私はいたたまれませんでした。
 それは罪の意識だ、とあの人は言ってくれました。人が罪を忘れるには救うしかない、とも。前々から何か考えがあるようでした。

 それでやってきたのが霖之助さんですね。最初はまるで、ここに来たばかりの私を見ているようでしたよ。
 寡黙で、いつも暗い顔をしていて、人との間に分厚い壁を作っていました。半妖と言う身分ゆえ、馴染めない生き方をしてきたのでしょうね。
 私はそんな彼を見ていると、共感を覚えるような、母性をくすぐられるような思いでした。
 だからでしょうか、私も人間を恐怖する人間でしたが、霖之助さんには寧ろ自ら関わっていくことができました。

 これは彼には長らく秘密にしていたことですが、貴方は知っているでしょうね。
 霖之助さんは幼い頃に、親元を離れざるを得なくなりました。息子に、妖怪としての暮らしより、人間としての暮らしを、両親は求めたのでしょう。
 その両親と言うのが、件の妖怪と人間の夫婦でした。ええ、私が復讐を果たしてしまった、彼らです。
 あの人は、霖之助さんの身の上を不憫に思い、また私の罪滅ぼしにもなると思って、霧雨店にひきとったのでした。

 私と一緒に魔道具の開発に携わってくれて、本当に助かりました。道具の名称と用途がわかる力は、この分野においては素晴らしいものでした。
 色々なものを作りましたね。私が昔に考案した八卦炉を、実用的に使える段階まで持っていけたのは、霖之助さんのおかげです。
 そうやって仕事を共にしているうちに、少しずつ私に心を開いてくれましたね。とてもとても嬉しかったのですよ。
 それまで何ヶ月もかかりましたが、初めて笑顔を見せてくれたときは、抱きつきたくなるほど感激してしまったんです。

 私が霖之助さんの両親に何をしてしまったかを告白したとき、慰めてくれましたね。
 今まで騙して付き合っていたのかと軽蔑されるか、親殺しと激怒されるかと思っていたのですから、意外でした。
 奥さんはそうせざるを得ない状況だった、悲しいけれど仕方のないことです。そう言ってくれました。
 私がこのことを気に病んでいたのだと気づいてから、寧ろ霖之助さんのほうが私に申し訳ないように振舞って……。
 一生懸命私の罪をすすごうとしてくれましたね。元気付けようと、薬草狩りのときに花を摘んで私に贈ってくれたのも覚えています。
 たしか、綺麗だけど毒の花だったのですよね。二人で笑ってしまいました。今でも押し花にしてとってありますよ。

 私は、救われていたんです。こういう体になってから、何でもっと感謝してこなかったんだろうと思うくらい。
 心に根深く刺さった罪の痛みを麻痺させてくれて、おかげさまで残りの半生、私は笑って生きることができたんです。
 貴方が生まれてからも、時折香霖堂から通ってきて、自分の娘のように可愛がってくれて。
 私は心地よい湯船につかるように、なんの憚りもなく幸せを味わうことができるようになりました。



 懐かしい思い出たち。数え切れないほどあるのに、一つ一つが違った輝きをもつ、美しい宝石です。
 喉が辛くなってきてしまいました。話せなかった分は、私の胸に積んだまま、お墓の中に入れさせてください。

 私の復讐は果たされてしまいました。一昨日に、魔法の森で私たちを襲い、私の最後の禁呪で打ち破った銀髪の妖怪。
 彼は霖之助さんの父であり、私の元復讐相手の妖怪でした。目を真っ赤にたぎらせ、正気を失っていました。
 対峙したとき、真っ先に霖之助さんが制止に入りましたが、その言葉も届きません。それどころか息子と認知すらできないようでした。
 無理もないことです、私の手によってあの妖怪は妻を失った上、何年にも及ぶ苦痛に耐えなければならなかったのだから。
 濃縮した魔力は治癒を妨げ、何年も経ったというのに傷跡は乾いていませんでした。

 もし私が人の温かみを知らなかったら、軽々しく首を差し出せたでしょう。やっと来てくれた、と安心したことでしょう。
 しかし、私には大切な娘と友人が居ました。私一人死んだところで、貴方に被害が及ばない保障など、どこにもありませんでした。
 私の判断が正しかったかは今でもわかりません。だけど、その短い時間で思いつくことは、ここに互いの命を終わらせることだけでした。
 私が救われる道なんて、とうの昔に放棄してしまったのです。憎しみの連鎖に、終焉を想いました。

 結果的には、傷が癒えていなかったことが救いだったのでしょう。無闇に飛び込んできた妖怪は、自ら私の魔法に焼かれました。
 思念を遺す余地もないほどの、一瞬の出来事でした。妖怪は灰となり、全ての罪を私に還元して、決着がつきました。

 後悔はいっぱいあります。貴方との愛しい時間を無にしてしまったこと。どうであれ、霖之助さんの両親を殺すことになってしまったこと。
 突然の出来事に周囲を巻き込んでしまうこと。貴方に、危険と、家との不和が生じかねない状況を作ってしまったこと。
 貴方を泣かせてしまったこと。泣かせてしまうこと。うっすらとしか覚えていませんが、霖之助さんもこんな私に涙してくれた気がするのです。
 箒星の見せた幻覚だったのでしょうか――。
 貴方たち二人は私にとって希望そのものでした。それを護ることができたという事実だけは、ささやかな誇りにさせてください。


 お別れの言葉をずっと考えていました。
 日が暮れるまでに私は意識を失うでしょう。目覚めることはもうありません。
 どうか約束してください。貴方は私のようになってはなりません。怒りや復讐に生きる人生ほど空しいものはないのです。
 どうか朗らかに生きてください。貴方は聡明な子です。幸せになる資格が十二分にあるはずです。
 最後に、どうか夢を忘れないでください。人生の最後にようやく掴んだ私の夢は、貴方です。

 私はきっと、いい母親にはなれませんでした。ごめんなさい。
 貴方の未来を見られないのが心残りです。私の罪に与えられた罰です。
 後悔を抱えたまま死なせてください。貴方を愛しています。

 さようなら。
 いつか私を超えて、憎しみより強い心を教えてくれると、期待しています。
 光は、常に胸の中に。見失わないように、強く、生きてください。

 貴方が幸せの星と共に在りますように。



 霖之助さん。
 貴方に背負われて、あの夜、星が綺麗でした。
 忘れません。






 ☆ あの夜のシューティング・スター]





「私って、そんなに母さんに似てるかな」

 主に香霖と二人で介護をする生活が始まって、およそ一ヶ月。それなりの困難はあったが、ある程度の慣れが今では身についていた。
 落ち着いて、ゆっくりと話してもらえれば、まだ言葉が通じるのがわかって安心したせいもあった。以前は私自身がそわそわしていたのが良くなかったのだ。
 不思議と香霖より、私の言うことを聞いてくれるようだったから、リハビリをさせるのは私の役目となった。
 あいつは私を母さんの名前でしか呼ばなかった。

「似てるどころか、瓜二つだよ。奥さんは魔法のせいで背も低かったからね」
「むぐ」
「奥さんに再会できたと想って、頭がいっぱいなのかもしれない」
「そういうものか?」
「親父さんも奥さんが亡くなったのは理解してるんだ。だからこそ、覚めてほしくない夢みたいなものなんだよ、きっと」

 私は夢か。そう突っかかろうとしてやめた。
 責任は私にだってあるのだ。


「ごはんができましたよ」

 鼻の先がかゆくなりそうな喋り方にも慣れてきた。
 匙で食べさせながら、身体をさする。背骨が浮き出て、竜の骨でも撫でているようだ。
 食欲がないんですか、でもちゃんと食べましょうね。終わったら少しだけ体を動かしましょうね。
 いつも同じことを言っている。当たり障りのない、ういろうみたいな言葉だ。

 食べた後は、関節を曲げたり伸ばしたり。リハビリといっても殆どマッサージだが、半身の麻痺は幸い改善が見られた。
 香霖だけのときは、殆どこういったことをさせてくれなかくて、悪化の一途だったらしい。自分はもう死ぬ、構うな、と言っていたのだとか。
 私と居ると話す機会も多くなったせいか、言葉も幾分滑らかになってきた。喜ぶべきことだった。
 だけど喜び褒めている私は、いつも自分の三歩前に座って居るようで、奇妙な疎外感がやまなかった。

 私はどこに居るんだろう。
 私はお前の妻じゃない、娘なんだ。そんなこといえるわけがない。
 今の幸せな夢をふいにする意味はないし、本当に私のことを覚えていなかったとき、お互いどうしようもなくなってしまう。
 何か解決策がないかと模索するため、私は香霖と同じくらい里で介護をするようにした。触れ合った。
 だが、一向に見つからない。べたべたと壁に厚化粧を繰り返しているだけ。他人の幻想に甘んじているのだ。

「父さん」

 老人の深い寝息を聞きながら、一日一回、おまじないのようにそう言っている。
 それから私は部屋を後にするのだ。



 梅の花が匂い始める頃だった。記憶や精神の後退は私が来るようになってから、抑えられている風に見えていた。
 季節の変わり目、風邪が流行った。どこからどう感染したかは知らないが、老いた身体にも病魔は忍び寄った。
 真っ赤な顔、浅くて速い呼吸、高熱、吐瀉、下痢。咳に痰が絡み、時に窒息しそうになるから、目が離せない。
 私が呆然としている間にも容態は悪化した。もうだめだ、と何度も思った。喉仏が上下するたび、壊れた笛のような呼吸音がした。
 握った手は何時でも熱くて、長年の酷使に耐えてきた指は、無骨な溶岩の塊のようだった。

「このまま死んじゃうのかな」

 空室がいくらかあったので、私たちはそこで寝泊りすることも多くなった。
 別々の部屋が割り当てられてはいたが、夜にお酒を飲みながら話したりして、そのまま眠ってしまうこともしばしばで、事実上一部屋だった。
 香霖の部屋は元は母さんの部屋で、二人寝る分には十分に広かった。それに一人でなんて居られるわけがなかった。

「わからないよ」

 香霖は店の仕事に関しても手伝いをしているようで、机に向かって筆を走らせていた。
 持ち込んだ布団にもぐりこんで、首だけ出しながら私は言った。

「怖いんだ」
「何が?」
「正しい手順を踏んで間違った方向に進んでる気がする。まるで崖に向かって全力疾走してるみたいだ……このままじゃ後悔する」
「多分、君は自分を認めてもらいたいんだろう、娘として」
「そんなことわかってるぜ」

 枕に顔をうずめて、蒸し暑い息を吐いた。一緒に呑んだお酒の甘い匂いが、鼻にツンとする。
 今頃、あいつのところに店の人間が交代で様子を見に行っているんだろう。大丈夫だろうか。

「母さんと父さんは愛し合ってたんだ。だから今は絶対幸せなんだ」
「そうだね」
「それを壊すほどの価値があるかわからない。幻だって、最後まで騙しきれば真実さ。他人の人生の締め、無茶をやらかすより、無難を望んで何が悪い」
「魔理沙、それは親父さんのためじゃなくて自分のための言葉だろう? それと親父さんは他人じゃない」
「はぁ……死んじゃうのかな、やっぱり」
「誰だって、いつかはそうなるものさ。神となった聖者だって、殆どは亡くなっているんだ」

 紙をまとめ、香霖も布団に入った。丸めて持ち込んだ私のしわくちゃと違って、綺麗な長方形だ。
 私に合わせてくれてるんだろう。こいつは一ヶ月や二ヶ月程度眠らなくったって、大丈夫な身体をしているんだ。

「理想的な死に方ってなんだろう」
「……僕に聞くかい」
「他に誰が居る」

 ため息の音が聞こえた。

「今の親父さんみたいになるのは、望んでない人間が多いだろうけど、何かもっと別のところに価値の基準はあるんじゃないかな」
「富や名声なんて、死ねば三途の川に投げ捨てるだけだ。徳を積んだって、来世に持ち越せるわけでもない。天界は人口過密、最近は地獄だって温いんだぜ」
「また困った時代だな」
「……怒るなよ、香霖」
「怒る気力もないから言ってごらん」

 冷めた気温を暖めるように、ぼわぼわと息を吐いた。
 お酒は便利な飲み物だ。困ったら全部こいつの仕業にしてしまえる。

「私、ここで初めてあいつに会ったとき……吃驚して……悲しくなって……凄く気持ち悪くなった」
「わからないでもない」
「そしたら凄く恐ろしい感情がわいてきたんだ。私、死ねって思っちゃったんだよ……あんなに嫌ってたときも、死ねなんて思わなかったのに」
「……」
「私は憎いからじゃなく、憐憫したんだ。ずっとこんな風にしか生きられないなら、早く逝ってしまえばいいのに……って。救えないな……」
「……そんなに責めるべきことじゃない。綺麗な言葉にすれば、慈悲と安楽死だ」
「ちがうよ、香霖。私の理想像からかけ離れてるってだけで……ちゃちな美意識を護りたかっただけなんだ。でも、その理想ってのも見えなくなってきた」

 寝返りを打って、背を向けた。遠くに人の声がした。

「奥さんは綺麗に亡くなったと思うよ」
「なぜだ」
「そう思いたいんだ」

 寝ようと思った。明日になれば綺麗に忘れたことにして、また同じことに悩めばいいのだと考えた。
 だけど、次第に喉と舌がざらついてきた。布団に入る前、結構呑んだせいかもしれない。
 半分だけ布団から這い出て、湯飲みに注いでおいた水を一口、香霖がぽつりと言った。

「この時間、よく此処に水を運んだものだ」
「母さんに?」
「身体が悪かったからね……すぐに喉が乾いたんだろう。でも、苦じゃなかった」

 行灯の薄明かりに、金の瞳が光っていた。
 人形みたいに、遠く遠くを眺めて、現在を見透かしているような目だった。
 ハンガーにかかった、香霖のくれた魔法使いの服を眺めながら、私は言ってみたくなった。

「もしかしてさ」
「何だい」
「香霖、母さんのことが好きだったんじゃないか……?」

 風景が一瞬にして絵画にされたような沈黙だった。

「――わからないよ」

 今まできいたことがないくらい臆病な声色で香霖は言った。

「心には名称なんてついてないんだ」

 ねじれていた。視線も、体勢も、言葉も、直撃を避けるように。
 二人の部屋はひとりだった。見えている相手に、徒労と知りながら信号を送り続ける寂しさを、お前は知っているか、香霖。
 お星様くらい遠くないと、人間は孤独のメッセージに希望を見出せないんだ。

「一緒の布団で寝てやってもいいんだぜ」

 瞼をとじて、息を潜めた。

「私と居ると、寂しいんだろ」
「……いらないよ」
「そっか……」

 床板の冷たさを二の腕で味わってから、おもむろに立ち上がった。
 髪の癖をなおし、パジャマをこれ見よがしにはたいて、布団を折りたたんだ。

「戻るのかい」
「あいつと一緒に寝てくる」
「魔理沙」
「私は母さんになるんだ」

 瞼が水風船みたいに重たかった。


 見回りに来ていた人間を帰らせて、父親と二人きりになった。明かりを消して、真っ暗にした。
 猫みたいにもぞもぞと潜り込むと、いつもはどちらかといえば悪臭と思っていた身体の匂いが、不思議と心を落ち着かせてくれた。
 老人は目を覚まして、くぐもった声を上げた。私がすっかり薄くなった胸に触れると、全てを了解したように、私の身体を包みこんでくれた。
 暖かかった。昼間とは打って変わって落ち着いた呼吸。私は昔、こうして誰かに抱きついていないと、ろくに眠れなかったのを思い出す。
 母さんにも、香霖にも抱きついた。今でもつい布団を丸めて抱き込んでしまう癖がある。だけど父親には初めてだった。

 心拍が、古びたからくり細工を思わせた。ふと、このまま、そういうことをされてしまったらどうしようかと想像した。
 私は母さんに間違えられているし、母さんは夫婦の関係だったのだ。そう思われても不思議はない。
 しばらく身を緊張させてから、頬を甘えるように摺り寄せた。もう、それでもいいやと意識をあいまいにした。
 貞操とか純潔なんてものは、少女らしい神秘性によって、世界の秩序のように扱われていたのに、なんだか急に見えなくなった。

 夜が歩き過ぎてゆく。
 老人は、無垢な少年に還っていた。
 私と同じように身体を丸め、温もりを感じながら目を閉じて、再び眠りに落ちるのだ。





 ★ 夢幻U




 それは、夢ではなかったのか、それとも夢だったのかわからない。
 朝になれば、山を越えて呼吸を落ち着けた男が、いつもと同じように横たわっているだけなのだ。

「これをやる」

 肉をかぶった骸骨のようだった顔は、凛とした生気に満ち溢れ、戦士のように鋭い眼光を宿していた。
 昔、店の奥に鎮座して、威風堂々と商売の中心に居たときの姿だった。老いた王の矜持のように、背筋を伸ばして。
 手には赤茶けた鉱物の結晶のようなものが握られている。

「魔理沙を頼むぞ」

 同じ風景のまま、私は覚醒した。男は寝息を立てるのみだった。
 枕元には不可思議な石が転がっていた。現実との接点はそれだけで、幽玄な夢想の香りを漂わせていた。
 お前のせいかと問えど、鉱物に口はない。

 何かの奇跡が起こって、一時的に正気を取り戻したのだろうか。それとも、私の解釈や願望が夢に現れたのか。わからない。
 だけどそれはどうであれ、蝋燭の最期の煌きに似たものだった。熱病のあと、男は大きく失われていた。
 名前を呼んでもらえたのも、はっきりとした言葉を聞いたのも、それが最後だった。

 石ころの名前は、緋々色金。
 一説には、黄泉の川辺に鉱床をもつと言われる、幻想の金属である。





 ☆ あの夜のシューティング・スター]T




 夢みたいな夢から覚めれば、一方通行の時が、老人に不可逆を刻印していた。
 その日を境に、言葉と表情が失われ、眼球の僅かな反応を見るのみとなった。もう、私にも香霖にも、不動だった。
 濃密な死臭が、身体の複数個所に膿のようにたまって、少しずつはじけているようだった。
 熱がやはり悪かったのか、それともこうなる定めだったのか。

 ある意味、誰にでも世話ができるようになった。もう暴れたりしないのだから。
 私たちを労って、昼間にも交代で皆が世話をしてくれることになった。その日中に、布団の中で昏倒した。
 たまっては無視していた疲労が、一気にやってきて、目が覚めれば翌日の朝だった。

 ある日、香霖と一緒に買い物をしていたら、里に下りてきた霊夢と出くわした。

「はあ、デートのお邪魔かしら」
「お邪魔かしらって言いながら近づいてくる奴は初めてみたぜ、あとデートじゃない」

 香霖堂が閉まりっぱなしだったので、仕方なくお茶とお茶菓子を買いに来ていたらしい。香霖が面白いほど苦い顔をした。
 どら焼きと、羊羹と、べっこう飴と、金平糖。玉露を一缶。それとご飯のためか、野菜を少々。

「里にはこないんじゃなかったの?」
「事情が変わったんだ。実家で色々あってな」
「ふーん。まあ、詳しいことは聞かないわ。あんまり目出度そうじゃないし、魔理沙もお通夜みたいな格好してるし」
「いつも通りの服だぜ?」
「此処じゃそぐわない格好ってだけよ。神社じゃ葬式しないでしょ?」
「それ以外の式も割りとしてない印象があるがな」

 霊夢は、買い物袋を探り始めた。
 取り出したるは、色とりどりの金平糖の入った瓶、私の胸に押し付けてきた。

「お見舞いかお供えものかしらないけど、あげるわ」
「なんだ、明日は大雨か?」
「明日は快晴よ。初詣に来た妖怪退治したらお金が入ったからつい買っちゃったけど、飴とかぶったのよね」
「健全にお賽銭で稼ごうとはおもわんのか」
「それに魔理沙好きでしょ、金平糖。要らないなら返してもらうけど」
「有難く借りるぜ」
「死ぬまで?」
「遺灰を探ったらボロボロ出てくるぜ、多分」
「巫山戯た舎利ねえ」

 ひらひら手を振って、霊夢は行ってしまった。
 次は薬屋だったかとメモを見ながらあるいていると、香霖が居なかった。さっきの場所で腕組みして、思案しているようだった。

「どうしたんだ」
「……いや、なんでもない」



 春風が桜の花びらを吹き散らした時分だった。私たちの目の前で、老人はしきりに喉を詰まらせ、血痰を吐いた。
 肺がんだった。もって半年、悪い感染症にかかればそれまでだろう。医者は言った。
 人の死は、ぞっとするくらい簡単に抽象される。霊験あらたかな金平糖は、枕元で少し砕けていた。

 哀しいなんて言葉が阿呆らしくなるくらい、くたびれた。
 時折現れる面会客は、皆弔問しにきているようだ。その中には阿求も居た。そういえば稗田家と縁があったのだった。
 私の姿を見たとき心底吃驚された。いつの間に復縁したのかとも言われた。哀しいけれど亡くなる前に和解できて良かったですね。
 店主さんは魔理沙さんのことを話そうとはしませんでしたが、決して貴方のことを悪くは言わない人でした。
 私はどんな表情をすればいいのかわからなかった。

 もう言葉も聞こえているのかわからない。開けているのか閉じているのかわからない瞼。
 僅かに動く手足も、役目を忘れかけていた。それでも心臓は動き、体毛は伸びて、ガラクタの入った肺は収縮している。
 生きている。生きなければならない。それでも、そのときまで。



 禍福はあざなえる縄の如し。
 命のともし火に最後の輝きを与えた風は、気まぐれに私たちにも吹き始めた。

 少しずつ停滞していく時の中。突然動き始めたのは、意外なことに、香霖だった。
 私の部屋から医書を取ってくることを頼んだときに、緋々色金を見つけたのだとか。それまであの石を緋々色金と知らなかったのだから驚いた。
 ミニ八卦炉を緋々色金にしてもらいはしたけれど、さすがに鉱物のままじゃわからなかった。香霖の面目躍如といったところか。

「魔理沙を頼むって言われて、渡されたんだ」

 香霖いわく、もともと香霖堂にあった緋々色金もこの店から持って帰ったものらしい。
 母さんの居た頃、八卦炉の構想を練っている最中に、店の緋々色金を使えば飛躍的に性能が上がるという結論に至った。
 だけどあいつに頼んで渡された緋々色金は、全体の半分程度だった。必要量には不足があった。
 母さんの死後、残りも譲ってもらえないかと香霖は交渉したが、けんもほろろに断られた。
 もう魔法道具に関わることはできないと言う理由だった。

「ミニ八卦炉って、緋々色金になったんじゃなかったのか?」
「君は錆びないように、といって頼んできただろう。だからメッキに使ったんだ。これならば量が足りたからね」
「そうだったのか、微妙に性能も上がった気がしたんだが」
「しかし緋々色金は本来魔力を持つ金属だ。錆びない上に、木の葉一枚燃やす熱で湯を沸かし、優秀な耐久力をもつと言われる」
「ほう」
「これだけの量があれば、中心の精密部をまるごと代替できるかもしれない。そうしたら性能は段違いに上がるだろう」

 語る香霖の表情は、子供みたいな好奇心を隠せずにいた。私も久々に魔法使いとしての興味がそそられた。
 これを私に使えって言うのか、父さん……?

「魔理沙、君は認められているんだよ。親父さんに」
「そうなの……か?」
「それと、この前霊夢と話したときに思いついたことがあるんだ」
「ん?」
「親父さんは魔理沙を忘れたわけじゃない。だけど、奥さんに間違うしかない状況だったのかもしれない」
「意味がわかるようにいってくれ」
「君は奥さんに似すぎていたんだよ。そして、いつも魔女の服を着ていたんだ。そぐわない、ね」
「そぐわない? 似合う似合わないは知らんが、私は昔からこの服だぜ?」

 香霖は首を横に振った。

「親父さんが見た魔女服は、実験をしているときの奥さんだけだ。君の着ている姿を現実で見たことなんて、無かった」
「……あっ!」
「見慣れた僕から見れば魔理沙の格好は自然だよ。だけど親父さんが見た君の姿は、魔女じゃなく、いつも村娘の服だったはずだ」

 言葉を聞き終わらないうちに飛び出した。なんとなく昔を思い出しそうで避けてきた、自分の部屋の戸を開けた。
 そこは綺麗に整頓されていたものの、全ての服、全ての道具、全ての本が家を出たときと同じようにそろっていた。
 服を二三着まとめて引きずり出した。そこに追いかけてきた香霖がやってきた。

「何してるんだ、魔理沙」
「おい、着替え中だぞ! 出てけ!」
「着替え中って……その服を着るつもりかい? 一体何歳の頃のものだと思ってるんだ、着られるわけが無い」
「ええい五月蝿い! 試してみなきゃわかんないだろ!」

 乱暴に服を脱ぎだした時だった。頭から布切れが降ってきた。
 振り払って香霖に一喝してやろうと思った。だけどその布を見たときに、怒りの牙は尖りを失った。

「おい、これ、服……」
「すぐに言わなかったのには理由がある。同じ模様の布地を探すのに手間取ったし、縫うのにも時間がかかったんだ」

 床に散らばっている、私の一番気に入っていた服。それが寸分違わず、今の私の背丈に合わせて、そのまま大きくなったようだった。
 そうだ、元はこの服も香霖に作ってもらったんだった。私は香霖の服が気に入って、他の店で買おうとしなかった。

「僕の自信作だよ、存分に使ってくれ」
「……ありがとう」
「もちろんツケだ」

 そういって香霖はぴしゃりと戸を閉めて出て行った。


 肌に触れる柔らかい生地を感じながら、廊下を歩いた。
 部屋に入ると香霖が居て、私の姿を眺め、安堵のようなため息をついた。
 老親は眠っているのか眠っていないのか良くわからなかった。傍に座り、肩に手を当て、ゆっくりと揺らした。
 煤けた息がフッと出た。僅かに目に輝きが戻った。

「父さん」

 こわばる頬を震わすように、もう一度言った。
 すがりつくように、老いた目にも見えるように、顔の目の前で。

「父さん……!」
「ぉ……」
「私だよ。ずっと母さんの振りしてたけど……私だよ、魔理沙……」
「ぐ……」
「聞こえる……? 私は、魔理沙……父さんの娘……」

 くぐもった響きを耳に、青色の絵の具が、さあっとしみこむような後悔を覚えた。
 遅かったんだ。もう父さんには認知できてもできなくても、それを表す手段が無いんだ。
 結局私には何もできなかったんじゃないか。最後の最後まで親不孝で……。

 昂ぶった気持ちは、その分落ち始めると、鳥が墜落するようだった。目の前が真っ暗になった。泣きそうになった。
 首をもたげ、嗚咽をついに漏らしてしまったとき、背中が温かくなった。香霖かと思った。違った。
 父さんの手が、背中を撫でていた。相も変わらず虚空を見上げながら、やさしく手を滑らせていた。

 胸で何かが水中爆発したように膨れ上がった。引っかかれている。
 なにか、規則のようなものを持って、指が背中をなぞっている。

 ……。

 ――ま。

 ――――り。


 ――最後の一画まで耐えられなかった。
 身を震わせて、激情をたたき付けるように泣き叫んだ。
 背から落ちた父さんの手は、柔らかく私の手を握って、血を通わせるように熱かった。
 それでも愚直に、握りこんだ指先では私の名を呼び続けてくれていた。



 父さんが眠るのを待ち、私は豪雨が降ったみたいな布団に別れを告げた。
 神妙な表情で私たちを見守っていた香霖を、引きずるように部屋の外へ、家の外へ連れ出した。

「理想的な終わり方、見つけたぜ」

 ごしごし目を擦ってから、空を見上げた。
 雲の隙間には星が見えていた。

「流れ星が綺麗なのは何故だと思う?」
「よく光るからじゃないかな」
「だけど香霖、じゃあ空にある星がその形のまま、光りながらゆっくり落ちて消えたら、綺麗か?」
「む……」
「流星には尻尾が必要なんだよ。キラキラたなびいて光る星屑、箒星の光の軌跡――」

 店の裏、母さんのお墓の前まで連れてきた。

「人間は、最後、自分で人生を飾れない。余韻をつくれない」
「余韻?」
「流れ星はただ消えるだけじゃないんだ。身を削いで生み出した星屑たちは、星の消滅に自らを費やして光る。最期を飾るように……」

 だから、流星は美しく、人は憧れるのだ。
 懐の中を探った、固い感触を放り投げて、キャッチし、香霖に向かって突きつけた。

「ならば私が父さんのために光ってやらないでどうする!!」

 風が吹いた。金髪を巻き上げて、月光の橋が架かった。

「……協力しろ、香霖」
「何だい?」
「父さんの前で、私は母さんを超える!」

 銀髪は対照的に淡く輝き、クスリと挑戦的に笑った。

「奥さんの前だ、断れるかい?」




 軽くホコリのかぶった実験道具を一晩で丸ごと洗って、乾燥させた。
 それから一週間のうち、半分は自分の家に戻るようにして、実験に明け暮れた。
 父さんが落ち着いたら、その隙に理論を組み立てたり、計画を立てたりして、今まで経験したこと無いほど濃密な努力をした。
 香霖もそれは同じだった。面倒極まりないとか言いながら、八卦炉の改良に明け暮れてくれた。

 私にももう一段階の力の引き上げには策があった。なんともおかしななものだが、その原点は霊夢がくれた金平糖だった。
 金平糖は始め、本当に小さな核を用意し、そこに糖の衣を少しずつからめ、成長させてあの形に作り上げるらしい。
 実は母さんの見せてくれた夢で作る魔力結晶は、そこまで大きく育たなかった。本当に金平糖くらいの大きさなのだ。
 じゃあ、そうやってできた結晶を核にして、さらに錬成してみたらどうなるだろう。あの金平糖をずっと眺めてたら、そう考えた。

 理論としては単純だが、実験は困難を極めた。一気に高温で作ろうとすると、釜の中のエネルギーが高くなりすぎ暴発の危険もある。
 かといって安全に常温でやってれば、千年かかってもできやしない。ギリギリの点を目指すのは試行錯誤しかなかった。
 一旦は大きな結晶ができても、外気に触れると粉と崩れてしまったり、おかしな別物になってしまったり、安定しすぎて発火しなくなったり。
 だけどやりがいはかんじていた。限られた時間の中に、私は間違いなく、今迄で一番生きていた。



 夏の終わり、ふと暦を見ると、また流星雨の季節だと気がついた。
 父さんの容態は、当然だけど悪化していた。痰が酷くて、少しも目を離せない。呼吸も怪しい。
 止めとばかりに、熱が出た。恐れていた事態だった。

「父さん、もう少し……もう少しで母さんを越える魔法を見せられるからな。待っててくれ……」

 言葉を知ってか知らずか、父さんは私の願いを聞くと、すこし苦しみを収めるのだった。
 耐えているだけかもしれない。だとしたらなおさら私は一刻も早く実現しなければならない。
 奇跡的に、そのときの熱は、一日で引いてくれた。私たちは胸を撫で下ろした。

「今夜、どうしても試したいものがあるんだ」

 改造して、不思議とやや軽くなった八卦炉をしまい、私は裏口から店を出た。

「魔法を作る環境を変えてみたい。火の魔法は暑い日差しの下、木の魔法は深い森の中でよく働くんだ」
「もうすこし親父さんが安定するまで待たないのかい?」
「……すぐ帰ってくる。星の魔法は流星雨の下に輝くんだ、きっと。今日は逃せない」


 降り始めた流星の中を駆け抜けて、大きな釜を外まで引きずり出し、火力万能な八卦炉を設置した。
 今までに作れた良好な結晶を全部溶かし、最もよくできた純な結晶を、核としていれた。
 無色の水面には大きな泡がコポコポとたち、星の光を存分に吸い込んでいた。霊夢にもらった金平糖も、今日一日に賭けて、全部入れた。

 所要時間きっかりで冷却し、結果を見た。
 最初は失敗かと思った。小さな欠片がコロンとひとつしかできていなかったのだから。
 だけど、これも実験結果として何か役に立つだろうと水中から取り出して、驚いた。
 結晶は自ら淡く発光し、黒い夜風を虹色に染めていた。想像とは全く違うものだったのに、私は完成した、と直感した。


 明日一番で帰ろう。そう思いながら、疲れた身体に仮眠を与えようとベッドに向かった。
 何も怠ける理由を作ったわけじゃない。最後の問題がまだあったのだ。
 いつぞや香霖が私にいってくれた、精神論。心の強さ、だった。

 きちんと位相を制御して力を発すれば、簡単な魔法でも莫大な力になる。逆にどんな魔法を使っても、ろくに扱えないなら屑になってしまう。
 私の魔法は、多分これっきりだ。完璧な状態で望まなきゃ、無駄になってしまう。永遠に母さんを超えるところを見せられなくなる。
 そのためには今眠って、気力を回復する必要がある。

 結晶は部屋の机の上で、神秘的な光の世界を創っていた。
 母さんの教えてくれた魔法、香霖の作ってくれた道具、父さんの与えてくれたきっかけ、私は全部吸い込んで、母さんを超えるんだ。
 母さんと父さんを星屑の輝きで見送るんだ。私が生きて、光って、二人の分まで……。


 悲しみを超えるんだ……。





 ★ 夢幻V





 そこは、夜の境界だった。

 案山子みたいに立った私の正中線で、世界がモノクロに二分されていた。
 地球の丸さをかんじるほどの、虚無の地平。乾いた砂が薄く大地を覆い、水音もなければ、雲もない。
 まるで組み立てられている最中に投げ出された玩具のような光景だった。

 右手には夜。無数の星が燦然と煌き、流星が火虫のように飛び交っていた。
 左手には夜。たったひとつの星も月もなく、限りない闇が風紋のように波打って広がっていた。
 選択を求められていた。

 ……知っている。

 左に走り出した。光を待ちわびるだけの幼さは、もう捨てた。
 薄っぺらい希望を振り切るように駆け抜けた。世界の果てまで。名残の星が全部消えてしまうまで。
 砂漠に道を作るのは私だけだ。それが生きるってことだ。

 そのとき、風が吹いて帽子が吹き飛んだ。
 あわてて後ろに振り返ると、白い光に包まれて、母さんが居た。

 神々しく、美しかった。鏡の中に潜む、理想の私だった。
 次第に光は強くなり、目を開けなくなった。
 離れていく。そう思ったとき、すでに母さんは空っぽの空に浮かび上がり、唯一の星として輝いて。

「母さん」
「魔理沙」

 それ以上の言葉は要らなかった。母さんが自ら、私の悲願にものさしを引いてくれたのだ。
 遠ざかっていく。もう当たらないかもしれない、いや、まだいける。ミニ八卦炉は存分に温められてあった。
 母さん、私をこんな風にさせて、許さない。撃ち落したら、その胸、飛び込んでやる。


 ――星を撃ち落せば、きっと全部の願いが叶うんだ。


「いくぜっ!!」


 真っ直ぐな虹が空を照らす、収束する。
 一瞬の闇のあと、光が大地と空をつないだ。
 神の宮殿の柱のように突きあがり、天蓋に接触して、夜を削り落とす。


 ――流れ星よ、願はとっくの昔にかけただろ。


 重い、苦しい……負けない!


 ――今日投げつけてやった石ころは、ちょっと特別製だぜ?



「私の願いを……なめるなあっ!!」









 放出のあと、何もかもがゼロだった。

 星もまた、そこに無く。

 砕け落ちる夢幻の世界。




 星を撃ち落した夜。


 母さんが、さよならと

 ――微笑んで


 私は、ありがとうと

 ――言えなくて






 ☆ あの夜のシューティング・スター]U




 雨が降っていた。丑三つ時ごろから曇りだし、早朝にかけては豪雨となった。
 家の前に倒れていた。香霖が私を見つけてくれた。

「魔理沙!」
「にゃ……?」

 傘を放り出して、お姫様抱っこで家の中まで運び込まれた。
 誰も居なかったけど、恥ずかしかった。
 動く余力なんて無かったけれど。

 身体を拭かれながら、夢を辿った。
 またフラフラ寝ながら動いたのかな。
 母さん、土砂降りの中で放置は酷いぜ……。

「親父さんが今朝、亡くなったよ」

 ぼうっとしていた。涙なんかでなかった。
 冷静と憂鬱の間に彷徨って、現実をパンみたいに千切って食べた。
 理解した。やっぱり涙は出なかった。

 ああ、きっと哀しすぎるんだ、と思った。
 私の分まで空は泣いてくれていて、だから涙雨と言うのだ。




 早朝、まだ日が昇らない頃、父さんは急激に容態を悪化させた。
 すぐに呼吸ができなくなり、もう助からないと言われた。そのとき私はすでに帰っていて、とても呼んでくる時間はなかった。
 香霖は生前にこう言われていた。死ぬときは母さんのお墓の前で逝きたいと。
 車椅子に乗せられ、父さんは雨の中、家の裏に運ばれていった。もう生きているかも、よくわからなかった。

「マスタースパークを撃たなかったかい?」
「ああ……撃ったような、撃ってないような」
「僕たちは見たんだよ。この家の方角から、空に向かって激しい光が延びるのを」

 それはそれはすごい光景だったらしい。一瞬にして朝がきたかのように明るくなり、雲が掻き消えて、雨がやんだ。
 なおも光柱は輝き続けて、人々の目に残像を焼き付けたあと、消えた。里でも相当話題になっているとのことだ。

 そのとき、父さんが目を覚ました。
 驚く香霖の前で、父さんはじっと光を見つめ、落涙した。
 そして手を合わせ、母さんのお墓に向かってお辞儀して、その姿勢のまま、亡くなったそうだ。
 母さんの流れ星が、父さんを迎えにきたのかもしれない。

「ありがとう。魔理沙」
「なんだよ……死に目にも会えなかったのに」
「親父さんが泣くのは、初めて見たよ。最期も報われたような綺麗な微笑だった」
「……私は、母さんを超えたのか?」
「ああ」
「そうか、よかった……見せられた……星を撃ち落としたんだ……」
「あんな魔法見たことが無い。撃ち落すと言うより、地上から流れ星が昇っていったようだったよ」

 地上の流れ星か。悪くない。
 私は輝くんだ。もっと。





 葬式だ店の引継ぎだ相続だと、慌しい日々が過ぎていった。
 父さんの縁者は里の半分以上居るんじゃないかと思うほど多く、全員に頭を下げていたら腰が折れてしまいそうだった。
 今更になって、私は父さんの偉大さをかみ締めていた。凄い人だった。

 遺産は概ね断って、残ったのはたった一冊の日記。
 父さんの寝ていたところのすぐ傍の金庫にあったものだ。簡素なもので、四つの数字をいれれば開くタイプの錠がかかっていた。
 高々一万通りだ、一日かければ総当りで何とかなるだろうとやり始めて、もしかしたらと思った数がそのまま正解だった。

 私の誕生日だった。そんなものでいいのかと思ったが、中身を見ると理解した。
 金目のものも遺言も一切無く、私が載った新聞の切抜きと、鉛筆と、父さんの日記だけだった。
 父さんの日記は、殆ど事務的なものだったが、倒れた日を境に途切れていた。

 残った空白のページを埋めていたのは私だった。新聞をみたのかきちんと新しいほうの名前で、魔理沙。
 それが何ページも続いていた。段々と字に秩序が失われ、震えでとうとう書けなくなってからは、まりさになった。
 それがずっと続いて、途絶えた。私の名前だけは最後まで覚えていようとしてくれたのだ。
 緋々色金もそこから取り出したのかもしれない。私の誕生日を忘れずに、ずっと傍において。
 あの日、私の背に「まりさ」と書く、たったそのときのためだけに、父さんは生きようとしてくれた。
 私は恩返しできたかな。

 そんな父さんと母さんは同じお墓に入った。
 お墓を前に言う台詞じゃないと思ったが、どうもこれしか思い浮かばなかった。
 どうか末永く、お幸せに。




 冬、流星祈願会は二人だった。

「濃い一年だったなぁ」
「まったくだ」

 雲がちらほら漂っていたが、十分に星は見えていた。

「何を願うんだい」
「来年は今年の私を越えられますように、だぜ」
「魔理沙」
「あ?」

 香霖は燗をしたお酒を注ぎながら言った。

「君もそろそろいい年だし、その男勝りな口調を改めたらどうかな」
「香霖の小言が減りますように減りますように減りますように」

 ため息が白く濁って流れてきた。

「……不思議だな」
「何がだい」
「こうして流れ星を見てると、思い出して、ちょっと涙もろくなる」
「いいんだよ、それで」
「いい夜だな」
「ああ」

 空を見上げ、目を閉じる。
 手も足も透き通るほど希薄になり、風に溶けて消えていく空想。
 血液が三日月の銀色を宿し、精神の廻廊に浸みこんでは錆びた時間を攫っていく夢想。
 そうして体の全てに夜が降りた時、私の存在していた場所にはたったひとかけらの金平糖が佇んでいる幻想。
 舞い散る雪のように、螺旋をなして踊り、私の中に溶けていく。死と生を少しずつ塗り替えていく。

「あの星が父さんで、あの星が母さんだ……って思いたくなる」

 マフラーを深く巻いて、隣接するように光る二つの星を指差し、私は言った。

「でも星と星はあんなに近く見えても、本当は何光年も離れているかもしれないんだ」
「そのとおりだよ」
「私たちだって、本当はものすごく離れているのかもしれない。あの星よりも遠く」

 頬がぽっと温かい。よくお酒が効いていた。

「私たちは本質的に孤独なんじゃないかって思うんだ。光るのも、引き寄せるのも、生きるのも」
「だけど魔理沙。あの星が僕たちに見えると言うことは、両方の星は確実にお互いが見える位置に在るんだ」
「間の星が陰になるかもしれない。ブラックホールに吸い込まれるかもしれない。違う色の光に見えてるかもしれない」
「人間の理解だって、似たようなものじゃないか」
「……ふん、孤独ごっこがしたかったんだよ」

 星が落ちる。恋しくて、近づいて、消えてしまう。
 時には相手を傷つける。そうやって生きている。

「綺麗になりたい」

 ポツリと言った。

「君は美しくなったと思うよ」

 同じくらいポツリと言われた。
 むず痒さが頬から胸からあふれて、とまらない。


「……よーし、あの雲全部吹き飛ばすぞ! もっと星がみえるようにな!!」
「また無茶をするのかい」
「別に私に祈ってくれてもいいんだぜ? 何せ私が星だからな!」

 一歩、二歩、三歩、大股で歩いて空に照準を合わせた。
 もっと近づきたい、もっと知りたい、もっと一緒にいたい。
 それが恋だ。だから、これは孤独なものたちへの恋文だ。
 遠く遠く届いて、消えて、忘れられて、私の一瞬を永遠にしてくれる。


 ――だから、こんなに流れ星の綺麗な夜くらいは、泣いてもいい気がする。


「魔理沙?」
「届けるぞ!!」
「好きにすればいいけど……また八卦炉を壊してくれるなよ」

 クスリと鼻で笑って、振り向いた。

「何言ってるんだ? 私の本気はこれからだぜ?」

 照準、屋根の石投げ少女、仰角四十五度。
 夢はお前の代わりに叶えてやる。恨むなよ?


「だからまだ惚れるんじゃないぞ!!」






 ☆ 恋文



 空を突き上げるマスタースパーク、

 地を震わせて“私は光になる”。

 孤独を照らして、強く生きていく。

 幸せの星は此処にあるから。

 だから、父さん、母さん。

 私の星をありがとう。



 いつか、流れ星になる日が来ても。


 あの夜のシューティング・スター、きっと忘れない。
雨というお題でとても悩みました。
その結果思いついたのが、雨にちなんだ二人、霧雨魔理沙と森近霖之助の話でした。
折りしも流星雨のニュースがあったころです。

雨の降り続く夜に読んでみたくなるような、そんな作品を求めてみました。
長文にもかかわらず、読了ありがとうございました。良い雨の日を。
14
http://patitcarol.xxxxxxxx.jp/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/11/21 23:55:29
更新日時:
2010/08/03 00:25:47
評価:
27/28
POINT:
234
Rate:
1.85
1. 9 北信 ■2009/11/22 09:11:19
ところどころ首を傾げたくなるような表現や設定が目につきましたが、
それを差し引いても最後までぐいぐい読ませるだけのパワーを感じました。
特に老人介護という、幻想卿には一見ふさわしくないエピソードを盛り込むことで、
結果として魔理沙という快活なキャラの魅力を高めることになるという、
すばらしい作品だったと思います。
2. 10 歩人 ■2009/11/23 06:07:21
拍手喝采。何も言うことはありません。しかし、あえてただ一言。

堪能させていただきました。
3. 8 静かな部屋 ■2009/11/23 10:50:43
堅実なストーリーに、容赦のない描写。
星を打ち落とすという軸がしっかり通っていて、長い割にすらすら読めました。
4. 5 佐藤厚志 ■2009/12/11 02:54:02
5つの長編を読んで。

隠れ者の小傘、唐傘雨音頭、雨流夢、あの夜のシューティング・スター、首切り蓬莱人形を読んで。どれも100キロバイト以上の大作という訳で、読むほうは楽しめるし読むだけなので気楽ですが、書くほうは大変な努力があったと思います。まずはご苦労様でした、という紋きりな挨拶でこの書評(?)を始めたいと思います。

この5つは登場する舞台も人物も、恐らく時間もそれぞれ違う。無論SSを面白くするための舞台装置やギミック、文体など、五作品それぞれ違ったご趣向が凝らしてある。ただこの書評ではあえてそういったものには触れず(多分他の人がやってくれるでしょう)、もっとSSの基本的な部分を考えてみたいと思いました。ここからはSSというか、あえて小説と呼ばせていただきますが。

@小説の描写とは何であろうか?事実をつらつらと書き綴ることだろうか?
事実について。例えば科学的な知識であったり、どこかで読んだ哲学本の内容であったり、史実のことであったり、もしかしたら著者が作り上げたファンタジックな設定、SF的な世界、人物の口調とか人柄。そんなものを事実というのだろうか。うん、仮に事実としておきたい。
小説における描写とはただ事実を綴ることではない、と思う。自分の知っていることを書くだけではないのだ、と思う。
今コンペの某歴史長編でも似たようなことを書いたのですが。知識それ自体が興味をそそるものだとしても、小説にそれをただ書いても、それは描写ではない。単なる知識の丸写しに過ぎないのだ。例えそれが作者の手がけたフィクションの世界であってもだ。物語を大きく見せるために、事実が思いつきの付け加えで書かれている印象。エンターテイメントでも純文学でも、何かの論文であっても、知識を使うだけでなく、そこから自分の結論を出さねばならないと思う。極端な例だが押井守の衒学的著述や、小栗虫太郎の怪奇探偵小説に横溢する知の氾濫は、物語を一つの方向(結論)に導くために働く重要なアイテムとして生きている。知という事実が生きている、とでもいうのでしょうか。

A物語の展開
 どれもイイハナシである。涙を誘うような展開あり、友情あり、または死と再生、別れ。お馴染みのキャラクタはイイ人が殆どだし。イイ言い方をすれば清廉な後味、きっぱり言うとアザトイ。今回の諸作品は恐らく著者諸兄が順位を狙いに来たため、結果的にどれも万人向けの物語に仕上がったのではないか、と思われる。しかしそのためか、軽い。ちなみにイイハナシ、イイ人が悪いと言うのではない。

今回の長編作は全体的に軽い、というか凄く平坦な印象を受けています。前回の『黒き海に紅く』、前々回の『華燭の春 燐火にて』クラス、超重量級爆弾をそう沢山求めるのは酷な話かもしれないが……。とにかく、そういう意味では少し残念だったかな、と思ったりして。まだ一回ずつしか読んでいないので読み解かれるべき部分を抜かしているかもしれません。そういう意味では申し訳ない。本当は深く何度も読むべきなのでしょうが。読むスピードが遅いのです。あと、目上からの書き方で申し訳ないと改めて思います。

しかしそれぞれがすごい熱気を有していて、伝わってくる、というのでしょうか。成程、創作の醍醐味なるものを感じながら読ませていただきました。最後にこのような力作を世に送り出してくだすった著者様方に、拍手!ありがとうございました。
5. 7 いすけ ■2009/12/25 06:35:00
魔理沙の過去話は今までにも読んでいますが、これは印象に残るお話でした。
6. 8 神鋼 ■2009/12/27 23:36:24
多くは語りません。私も死ぬ時は満足して死にたいです。
7. 6 藤木寸流 ■2010/01/04 03:36:16
 ごめんでもあんまり雨って感じはしなかったよ!
 面白いんだけど、あと一歩という感じ。すごいんだけど、もう一伸び。ちょこちょこ誤字があったのも気になった。魔理沙の子どもっぽさが打ち砕かれて、父親と和解していく過程は胸に響くものがありました。母親の過去と、霖之助の過去を重ねるのは、何だか絡ませすぎという気も。絡ませたわけに、霖之助側の描写が母親の主観だけで、いまいち霖之助の心情が読めない。行間を読め、というところかもしれませんが。
 似たようなところで、父親の心情ももうちょっと読み取りたかった。
 母親の過去をこれほど重くする必要があったのかな、というのも少し。面白い設定ではあったのですが、話の雰囲気をより重くするためだけの重さ、という気もしました。
8. 10 文鎮 ■2010/01/08 03:28:22
子供にとって親を超える瞬間とは特別な意味を持つ。それが魔法使いなら、我々以上の意味を持っているのかもしれません。
長文でしたが、魔理沙と両親、霖之助の関係を書くにはちょうど良いくらいの長さだと感じます。
昨年、寒い中で見た流星を思い出しつつ読むことができました。
最後まで魅魔さまの登場を期待していた私は、きっと欲張りなのでしょうね。
9. 10 バーボン ■2010/01/09 19:39:03
アクの強い独自設定に一瞬「んん?」と首を傾げそうにもなりましたが、読み終えた時にはそんなもの気にならなくなっていました。
魔理沙の魔法絡みは個人的に好きなテーマの一つなのですが、それをオリキャラ・オリ設定を交えて上手く表現出来ていたと思います。文章もストレスを感じさせない、レベルの高い物だと感じました。
クライマックスにかけての高揚感とか、霧雨の親父さんが涙を流すシーンで不覚にも感動したりとか、ツボをしっかり押さえた上でよく魅せてるなぁ……と感心することしきりでした。
採点基準どうこうよりも、単純に感動できたのでこの点を入れさせて頂きます。
10. 6 パレット ■2010/01/10 05:36:49
 凄く良かった。がっつりと正面から魔理沙を、いや霧雨の面々を書いてきていて、いい意味でお腹いっぱい。
 話の骨格そのものはわりとストレートな感じがしますが、魔理沙の母親に関する設定がオリジナリティ出してて味になってました。
11. 6 白錨 ■2010/01/10 12:30:43
魔理紗の過去って結構深刻そうですよね。霧雨の親父を上手に使った作品だと思います。
後、流れ星とシューティングスターの違いについての解釈は気に入りました!
12. 10 名前の無い程度の能力 ■2010/01/11 13:54:44
急逝でも昏睡でもない“老い”とその介護という過程が生々しかったです。
かつて良く知っていた人が別人かと思いたくなるように変貌するのはとても辛いことです。
この作品では、最悪の状態から魔理沙の働きで徐々に良好になりつつ、
それでも迫る死期を止めることはできないことがはっきりと描かれています。
その描写の深さゆえ、別れの場面での感動がより切なくなりました。
2人の親の代の愛と憎が、奇妙な形で子供達に影響する構成・描写に実に心震わされます。
また、魔理沙と霖之助の腐れ縁が徐々に懇ろになっていく描写も自然で素敵です。
魔理沙は来年も再来年もそのまた翌年も、ずっと輝きを増し続けることでしょう。
この素晴らしい作品と作者に感謝します。あなたにも素晴らしい雨の日を!
13. 10 椒良徳 ■2010/01/11 20:22:31
思わず涙してしまいました。素晴らしい作品でした。
このような素晴らしい作品を送り出して下さった貴方に心の底より感謝いたします。
その感動に比べれば割に合わぬほどささやかではありますが、この点数を入れさせて頂きます。
14. 10 かに ■2010/01/11 21:37:52
親父……
親孝行しないとな…
15. 10 nns ■2010/01/12 20:23:17
会えなくなる前に仲直り出来て良かった
16. 10 詩所 ■2010/01/13 22:35:08
 すごい作品が来ましたね、こりゃ。
 綺麗な雨の使い方はさることながら、物語の構成、進め方、一つ一つの会話、感服するばかり。
 設定なんかも、特殊なものだとつい小さな粗を探してしまいがちな私ですが、気がついたら何も気にすることなく読み切ってしまいました。自分でもびっくりです。
 魔理沙と霖之助の距離感、霖之助と魔理沙母の距離感が実にいいです。くどすぎないこの距離間が話の良さを際立たせているのではないかと。
 決して願いが叶う、奇跡が起こるような幸せな終わり方ではないですが、人間の心の弱さを丁寧に惜しみなく書いたという中盤があるからこそ、最後に儚い美しさを感じられるのかと思います。クライマックスの夢現のマスタースパークが夜空へと打ち上がる光景が、弾幕の煌びやかさと消え行く光彩、読後にも感動の余韻が残ります。
 雨が降っても変わらない親子の絆を再確認しつつ、この作品を仕上げた作者さんに感謝の意を申し上げたいと思います。
17. 9 deso ■2010/01/13 23:32:12
素敵な魔理沙でした。
とても綺麗な文章で、読んでてちょっと泣けちゃうくらい。
良いもの読ませていただきました。
ありがとうございました。
18. 6 ホイセケヌ ■2010/01/14 20:38:29
メサ、トメサ、ト、ホ・ィ・ヤ・スゥ`・ノ、ャミト、ホヨミ、ヒネ、テ、ニ、ュ、ニヒリヨア、ヒクミモ、キ、ソ。」モHクク、オ、、ャ。「トァタノウ、ホテヌー、コ、ヨ、ネ、ウ、、ネ、ォ。「、筅ヲ、ヘ。」
アネノアャF、筅、、チ、、、チ。「ムヤ、、オテ、ニテ、ハ、筅ホ、ャカ爨ォ、テ、ソ、ネヒシ、、、゙、ケ。」

、ソ、タ。「ネォフ螟ホチ、、マコテ、ュ、ハ、ホ、タ、ア、、ノ。「モ熙ネ、、、ヲ、ェ}、ネ、ホケヤx、ャ、メ、ノ、、、隍ヲ、ヒヒシ、、、ソ、ホ、ャイミト。」トァタノウ、ネチリヨョヨ、ャモ熙ヒ、チ、ハ、、タ・ュ・罕鬢テ、ニ、、、ヲ、ホ、マ。「テヌー、ヒモ騅4、ホホトラヨ、ャコャ、゙、、ニ、、、、ネ、、、ヲ、タ、ア、ヌ、ケ、隍ヘ」ソ。。、荀テ、ム、熙ス、、タ、ア、タ、ネネ、、壥、ャ、キ、゙、ケ。」
19. 9 774 ■2010/01/15 00:58:11
東方二次創作でここまでやるかー、というのが正直な感想です。
凄く引き込まれました。
20. 9 やぶH ■2010/01/15 02:23:14
巧みな文章、見事な構成力、そして物語のテーマ、おまけで登場人物へのSっぷり。
どなたが書いたのか序盤で確信しました。今回は、どんな素敵な二文字名でご登場なんでしょうか。
(これで人違いでしたら、マジで顔から発火しますね;)

と、蛇足から始まって失礼します。
魔理沙の実家絡みの話は、もちろん二次創作において格好の材料なのですが、ここまで深刻なストーリーを味わったのは初めてです。
動揺する魔理沙の心理描写もリアルで、気づけば完全に引き込まれていました。この引力は本当に羨ましい。
ただ個人的には、前半はもう少し比喩が少なくてもいいような気がします。どれも気の利いた瀟洒な言い回しなだけに、もう少し削るとさらに効果的になるのではないかなーと。
多少の傷と引き替えに得るハッピーエンドも満足。これでバッドエンドだと沈没してたので一安心。長いコンペ感想期間のさなか、充実した時間をありがとうございました。
21. 10 八重結界 ■2010/01/15 17:58:56
 祖父が亡くなった日のことを思い出し、私は何を見せることができたのかと自問自答。
 勘当から和解に至るまででもドラマなのに、そこからもう一つ新しい物語が始まっているような印象を受けました。もっとも、そこで扱っているテーマは死という終わりなのですが。あるいは老い。
 いつかは誰の元へも訪れるものに対し、悩み苦しむ魔理沙の姿は嫌が上にも感情移入せざるを得ません。彼女が示した答えは魔法使いらしく、人間には真似することができないものの、至った答え自体は私達でも出来ることなのでしょう。
 だから人は儚くも美しいなどと、陳腐な台詞が浮かびます。残酷で現実味が溢れているお話でしたが、幻想的で綺麗でした。
22. 10 2号 ■2010/01/15 19:13:54
両親との死別という、外連味(けれんみ)は決しておおきくない話で、なぜこうも引き込めまれるのでしょう。
細やかな描写、練りこまれたプロットに驚嘆。
魔理沙の心情に笑い、泣き、感動させられました。
文句なしです。
23. 10 麻袋 ■2010/01/15 22:31:07
さまざまな要素が煮詰まった重厚な物語でした
子供ならいずれは訪れる親との別離
苦味のあるネタを最後まで読ませる展開は見事の一言
魔理沙の魔法がこれからも真っ直ぐに育つ事を
24. 9 焼麩 ■2010/01/15 22:38:47
ああ、クソッ、そうか。うんめえ。
文がカチリカチリとはまりました。マスタースパーク。滅殺の恋。
そしてLast Word、ブレイジングスター。マスタースパークを逆噴射し推力にして流星となる奥義……
うーん、やりおる。
単純に出生譚としても最高でした。
回顧、どん底での発見、親しい人の導き、愛と哀しみを背負うこと、親を超えること、等々。
恋は求めるもの、愛は与えるものという至言がありますが、彼女にはずっと恋する乙女でいてほしいものです。
25. 10 零四季 ■2010/01/15 23:10:17
雨だった。ボリュームも満足で、話も非常に綺麗。感情が波のように入れ替わる情景も良かったと思います。
独自設定ってやはり引き込まれるものがありますね。魔理沙が、なんというか、美しく見える作品だったと思います。
素晴らしい作品をありがとうございました
26. 9 木村圭 ■2010/01/15 23:24:09
おおう、みんなカコいいなぁ。
寿命を削って魔法を使ったら永遠の少女になった辺りは都合が良すぎる気がしないでもないですが、物語を円滑に進めるためには仕方ないかな、と。
親父さんの描写が良い感じにグロくてゾクゾク。あれは適当に誤魔化してはいけない部分だ。
27. 8 時計屋 ■2010/01/15 23:32:16
 不仲だった親子の死別という王道物語を、実にうまく調理していると思います。
 父親とはなんなのか。理想的な死とはなんなのか。
 答えの出しにくいそれらの問いに、まさに魔理沙らしく真っ向から立ち向かったすっきりとした良い物語でした。

 公式で断片的にしか語られていない魔理沙の過去や実家との関係をうまくつなぎ合わせて、違和感の無い一つの物語に織り成している、その構成力は見事だと思います。
 また、随所に流星の解釈や恋符にこめられた意味など、物語の背景となる説明・設定が散りばめられているのが、また心憎いほどの演出です。
 情緒纏綿とした魔理沙の語りも、長編にも関わらず、飽きを感じさせないほど面白く、また疲れを感じさせないほど読みやすい丁寧なものでした。
 雨というお題も実に見事に、そして美しく使っていると思います。

 演出がややあざといかな、という感じも受けましたが、それでも見事な良作だという評価に変わりはありません。ありがとうございました。
28. フリーレス S.Kawamura ■2012/02/12 13:58:28
豊富な語彙と多彩な表現力で非常にレベルの高いSSになっているなと思いました。
「シューティングスター」「独白」「遺言」「夢幻」と章を分けているのもわかりやすい。
最後に空に向かって打ち出すシーンもかっこいいなと思いました。けれども、共感できるところがあまりありませんでした。
自分の人生経験不足かなと思います。うーん。とにかくよくできたSSであることは間違いないですね。
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