わたしのかわいいこいし

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/01 00:35:53 更新日時: 2010/12/22 22:41:43 評価: 22/24 POINT: 166
 全身に絡みつくようなじとつく雨だった。
 渡部綱は今し方立てたばかりの金札に手をかけ、闇にそびえる羅城門を見上げた。夏の雨に濡れるその巨大な建造物はなるほど、こう蒸し暑い湿気に蝕まれていると巨鬼の口が酒気混じりの妖気を吐いているかのようにも思える。
 だが人の作りしモノが独りでに人を害することなどありえない。巷に囁かれる「羅城門が人を喰う」という噂の正体は、門の屋根であぐらをかいて綱を見下ろしている。
 いつからそこにいたのか。札を地面に打ちつけている間は、愛馬以外に生き物の気配はまるで感じ取れなかったはずだ。

「渡部源次綱どのと、お見受けします」

 笛のように高い女の声であった。綱は札から手を下ろし、眼光すら伺えない闇に問いかけた。

「いかにも。汝の名はいかなるものか」
「大江山に住まう茨木の華扇と申します」

 危惧していた代物が闇の向こうにいた。否、闇そのものがかの鬼であるかもしれなかった。
 体の自由を奪おうとするかのような熱気と湿気に反して、綱の肝が音もなく冷えていく。恐怖をまぎらわせるよう腰に帯びた刀の鞘を握り、腹に力を込めた。
 数年前、綱の主とその部下である面々は大江山に乗り込み、京を騒がせていた鬼の郎党を叩き潰した。しかし幹部の一部は取り逃がし、副将はそもそも誰も姿を見なかった。
 必ず鬼はいつか復讐にやってくる。その予感は羅城門の噂でより強くなり、遂にこうして四天王筆頭である綱が出張る事態に及んだのである。
 あるいは羅城門の鬼は、綱をおびき出すために狼藉を繰り返したのかもしれなかった。

「大江山では卑劣な手を用いて、我らが郎党を一網打尽に斬り捨てて回ったと聞くに及びます」
「いかにも。石清水八幡、住吉明神、熊野権現と神仏の御力を借り受け鬼ヶ城を血の海に沈め申した」
「解せません。源次綱どのは人の身にして妖のものに一歩も退かぬ力量を備えたもののふでございましょう。神仏や策を用いず戦い合わせてくだされば、喜んで我らはこの首を差し出したでしょうに」
「尋常に勝負をし、主らが負ければであろう」
「いかにも。己より弱い者に差し出す首を我らは持ち合わせてはおりませぬ」
「我らもののふは持ち合わせておるのよ。我が首は貴き人々の手に預けられておる」
「己の首は己の肩に乗せるものでありましょう」
「人は弱いのじゃ。主ら鬼ほど強くはなれぬ」

 四天王最強であるが故に筆頭を任ずる綱であるが、綱は己が弱いことを誰よりも何よりも承知していた。それ故武を極め、血筋を盾に京へと上り、貴族に武力を貸すことで財を成し糧を得ている。
 その生き方を鬼は本当に理解できないようで、高い声に困惑を帯びさせた。

「強うなれます。人は鬼と双肩並び得る強さをその血に秘めております」
「強うなってどうするのじゃ」
「友となれましょう」
「犬ころと変わらぬ友ではないか。同じ犬ころであるのならば、弱いままで許される人の犬である方が楽じゃ」
「それでは、人の格はとこしえに地に落ちたままでありましょう」
「それで良し。主ら鬼のように千鳥足で浮世を渡るよりは、人は地べたを這いずり回る方が性分に合っておるのよ」

 人としては恐ろしく強くなるほどに鍛錬してきた綱だからこそわかる。強さは決して魂を貴くすることも精神を格上げすることも無い。むしろそれらをより良くしたものこそが強さであろう。
 だが、山を登れば登るほど足場が狭くなるのと同じように、強さを極めれば極めるほど隣に立つ者も少なくなる。てっぺんに登りつめれば全てを見下ろすことはできようが、山を征した喜びを分かち合う者もいない。
 人は、それほどまでに過酷な強さを手にすることはできない。
 鬼もまた、その強さに到達して寂しいだけなのかもしれない。
 羅城門の闇に潜む鬼が、ふと綱の中で小さく見えた。
 女の声が響いてくる。

「よろしい。人の流儀に則った弁舌の段はここで終わりと致しましょう。ここからは我が鬼の流儀に則った闘争の段と致します」
「わしを攫うか」
「攫いましょう。源次綱どののもっともお得意な勝負で打ち負かし、酒呑の墓前にその首捧げましょう」

 鬼は、人間を試す。強き人間を友とするために、人間が出した勝負を受けて全力で挑み、そして打ち負かされることを何よりも望んでいる。
 復讐であろうとも茨木という名の鬼は、鬼の流儀から決して横道に外れることは無かった。
 綱は鞘からぞろりと刀を抜く。雨の一粒一粒が刀身を打つ重さをその掌に感じながら、綱は構えた。

「わしの得手はこれのみ」
「あいにくと刀の持ち合わせはない故、素手でお手合わせ致しますがよろしいでしょうか」
「良い。そのかわり鬼の異能は使わず、お互い武器とするは己の力のみ。人間の流儀に則って勝負致そう」
「承りました。では、いざ尋常に」
「勝負」

 鬼が羅城門の屋根を蹴った。そう知覚する間もなく綱はその身を捻った。
 雷でも落ちたかのような轟音が鳴り、羅城門の上部が丸ごと吹き飛んだ。それとほぼ同時に、綱の立っていた位置が公時の鉞でも打ち込まれたかのように土砂が噴き上がり、馬が嘶いた。
 正に人智を超越する鬼の膂力がもたらした壮絶な破壊であった。
 茨木の攻撃を避けた体勢から繋げて綱はぬかる地面を両の足で踏みしめる。その瞬間、生涯において何万何億と繰り返した素振りの型が綱の全身を動かした。
 神速の一刀が起き上がりざまの鬼の肩口を捉えた。振り上げられた爪の一撃が斬られたことによって逸れ、綱の真横を凄まじい衝撃が横切る。
 羅城門の支柱が枯れ枝のように折られた。嵐のような音と地響きの感触に綱は今し方斬り落としたばかりの腕を拾って荒れる愛馬に飛び乗り、その場から距離を取る。
 そして、都の正門である羅城門は綱の眼前で跡形も無く崩れ落ちて行った。

「京の、ひいては帝の象徴たる羅城門がこうもすんなりと落とされるとは鬼とはまこと恐ろしいものよ」
「――見事であります、源次綱どの」

 羅城門の瓦礫に鬼は降り立ち、雨音とは全く異質な粘着性を伴った水音を腕から従えさせていた。
 綱はその元の片割れである斬り落とした腕を見つめた。細く、生っ白い。まるでどこぞの姫のようなたおやかな腕である。
 このような腕が羅城門を跡形も無く破壊した事実に、綱はさらなる恐怖を覚えた。まだ巨木をねじ合わせたような毛むくじゃらの巨腕であれば己の手柄に打ち震えたであろうに。
 やはり、と綱は考えを巡らせた。鬼はその異能を封じられていようとも、身体だけで綱をはるかに凌駕する化け物だった。いかに源氏の霊刀といえども、このような代物に刀一本で立ち向かえるものではない。
 人間は、策無しに鬼には勝てないのだ。

「さあ仕切り直しましょう、源次綱どの」
「あい待った」
「ほう?」
「主の腕はわしが今し方斬り落とした。故に、わしの勝ちじゃ」
「……わたしは腕の一本や二本失っても勝負はできますが?」
「人はそうはいかんのよ。言うたはずじゃ。『人間の流儀に則って勝負致そう』と」

 凄まじい怒気が綱に浴びせかけられた。だが、それにむしろ綱は安心した。怒りであれば綱は対処を知っていた。目的は復讐でありながら、相手を立てて勝負を仕掛ける鬼の礼儀正しさの方が、底が見えずに綱は恐ろしかった。

「また、そのような卑劣な口車を用いて勝負から逃げますか。鬼から腕を斬り落とすほどのもののふが!」
「戦でもあるまいし、命の取り合いをすることもあるまい。して、鬼は人との勝負に負ければ褒美を差し出すと耳にしておるが」
「よくもまあ抜け抜けと」
「褒美は、茨木どの。主がこの皇が統べる日ノ本の国より立ち去っていただくことだ」
「……勝手なことを」
「鬼は人との約束を反故にするのか」

 綱のもっとも信頼できる武器は、髭切りではなくこの一言であった。
 強く、誇り高く、自らを律する精神も強固な鬼は約束を破ることなどできない。そういう不器用さこそ鬼は尊ぶ。その気高さに綱は付け込んだ。
 怒気が徐々に鬼の元へと戻り、平静さが漂う。だが今はそこに、困惑と寂しさがあった。そして発せられる涙ぐんだ声は、正にただの可憐な娘のものにしか綱の耳には聞こえなかった。

「人は……強き心を得ぬままこのような手で鬼を排斥し、夜の闇を火で照らし、山野を開き、一体何処へ行こうというのですか」
「人生四十年。星霜の時を生きる主らの行く場所こそわしらにはわからぬ」

 降りしきる雨に鬼の血脂を流し、綱は刀を納めた。
 茨木は瓦礫の地を蹴り、空中高く舞い上がった。その体は落ちず、雲の影となって綱の目にもはっきりと映った。

「よろしいでしょう。鬼と人との約定に従い、私は大陸へと流れましょう。しかし源次綱どのが死に、皇の治世が倒れた時、わたしはこの国に舞い戻りましょう」

 女の声は天から降ってきて、消えた。
 綱は大内裏の方角へと首を巡らせた。磐石のものと思える帝の治世が終わる時など綱には想像も付かぬことだった。
 だが、これよりおよそ二百年後、綱の中にも流れる血である源氏一族こそが帝を治世の座から引き摺り下ろした。
 大陸へと渡った茨木華扇は深山幽谷で世捨て人のように暮らし、やがて仙道を修め人と鬼との在り様に疑問を抱くことになった。
 山奥深くで修行に明け暮れる華扇の下に日本を治める者が武士に替わった報せが伝わった時、治世の中心は鎌倉の幕府へと移り変わっていた。









わたしのかわいいこいし










―1―
鬼とサトリ




 一羽のカワセミが、さとりの前でまた魚を咥えて飛んで行った。
 魚の断末魔の思考とカワセミの満足感の思考がないまぜになり、はるか彼方へと飛んで行く。足下では芋虫が蟻に食われ、水面を跳ねるようにして水を飲んでいたトンボが魚に丸呑みされる。そのたび生まれる小さな生への執着心を逐一さとりの第三の眼は捉えていた。
 山や川は多くの生き物が生まれ、そして死ぬ。その儚い命の有り様を感じ取ることはさとりの趣味の一つだった。
 だが、しかしそれにしても釣れない。

「私自身が川の淘汰に関与することは、中々どうして難しい……」

 いつまでたっても引っかからない釣り針をさとりはほぼ丸一日中眺め続けている。自分がもし妹の立場であれば、きっと気を利かした姉が自分のよく釣れる釣り針を貸してくれているところだろう。実際、さとりの妹はその後平気で釣り針を無くしそうな気がした。
 もっとも、さとりは妹が無くした釣り針のかわりに自分の宝物を潰してまで謝りに来たのなら、許してやる心の広さくらいは持ち合わせていたが。
 そんな詮無いことを考えている間も、当たり前のように釣り針はぴくりとも反応を示さなかった。川の中に第三の眼の焦点を合わせてみるが、魚は頭が悪すぎて何を考えているのかわかりにくい。
 きっと上手い釣り人ならば針を巧みに動かして魚の気など引けるのだろう。しかしさとりにはそこまでして魚を釣りたいほど、釣りに興味は持てなかった。

「カワセミさん。あなたは空に住まう者でありながら川の淘汰に関与しています。川の魚はあなたを正体不明の脅威としてしか受け止めていない。あなたはそれに対し、どのように感じますか」

 暇潰しにカワセミへと話しかけてみたが、妖気も帯びていないただの鳥にさとりの言葉を理解する頭も無かった。カワセミはさとりをただの風景の一部としてしか把握しておらず、彼らの頭の中は腹を満たすことだけでいっぱいだった。
 さとりと、カワセミと、魚は、今同じ場所にいる。しかしそれぞれがそれぞれを全く相手にしておらず、まるで別世界の住人同士であるかのようだった。
 おそらく、さとりが今こうして山川で太公望の真似事などしているのも、それが原因なのであろう。

「それにしても、カワセミの真似事をしているこいしはどうしているのかしら」

 さっぱり引っかからない釣り針へと向けた意識を放棄し、さとりは第三の眼へと強く意識を集中した。
 妖怪サトリの能力――それは他者の心を読み取る能力である。
 その『視界』は両の眼のものより広大とはいえ、限界があるし遠方になればなるほど精度は落ちる。だがしかし、同じサトリ同士であれば能力の限界距離は存在しないに等しかった。
 サトリの能力は、厳密に言えば心の奥底、自分でも全く意識できない深い深い海底に広がる、全ての生物の意識が融合した世界へと感覚野の一部を解き放つ力である。
 その精神世界では物理的な距離は一切意味を成さないため、本来であれば世界中全ての生物の意識を読み取れるのだ。もちろんそんなことをすればサトリの方が参ってしまうので、第三の眼の読み取り範囲は物理的な距離に依存されるよう、本能的に制限が設けられている。
 ただ、同じ能力を持つ者同士であればお互いの『視線』を頼りに焦点を合わせる地点を見つけることで、物理的距離に左右されない会話が可能となる。

(こいし、人釣りの塩梅はいかがですか)

 そう妹の心に話しかけると、疲弊した感覚がさとりに伝わってきた。

(ん? あ、お姉ちゃん? あー、坊主坊主。お坊さん一匹も見当たんないよー。やっぱ里に降りないと人間なんてそうそう見つけられるもんじゃないわね)
(だからと言って降りてはいけませんよ。人の噂も聞きつけるほど天狗の耳は地獄耳ですから)
(わかってるけど……ひもじいよぉ。狂う寸前まで追い込んだ人間の苦痛と恐怖が食べたいよぅ)

 改めて言われると、さとりも焼けつくような空腹感を覚えた。妹にはひもじい思いをさせて申し訳なく思う。どこか一つ所にでも定住し、近隣の人里に人食い妖怪の恐怖でもばら撒けばそれだけで常に腹は膨れるのだが、さとりたち姉妹はそのようなことをする余裕もなかった。
 百年と少し前までは第三の眼を広く開けば数え切れないくらいの同胞の『視線』が広大な精神世界に感じ取れたものだ。そこから妹をはじめとした家族の『視線』を探し出すのも一苦労だった。だが、今精神世界に放たれる『視線』の光は一条のみ。
 それは、サトリはさとりとこいしを除いてこの世から駆逐されたことを意味する。
 発端はやはり、大江山の鬼ヶ城が陥落された一件からだろうか。
 ここ数百年で、この秋津州もずいぶん様変わりした。どんどん増えた人間はどんどん北へ東へとその勢力を伸ばし、とどまることを知らない。この調子ではあと千年後には全ての妖怪の居場所がなくなってしまうのではなかろうか。
 大江山を根城にしていた鬼はもちろんのこと、その傘下にいた魑魅魍魎も全国津々浦々へと散った。そして、後に始まるは妖怪同士の土地所有権争いである。
 サトリは、元々その能力から妖怪にも忌み嫌われていた。精神的な強さこそ尊ぶ妖怪たちにとって、精神を丸裸にするサトリの眼は恐ろしかった。それ故に土地の所有権争いになった時、真っ先に排斥されるのがサトリであったのは自明の理ではあった。
 同胞が次々と追われ、殺された。さとりたち姉妹も故郷の山から下り、何処とも知れぬ土地で明日をも知れぬ逃亡生活を何十年と続けている。ただ、死にたくないが故に。ただ、居場所が無いが故に。
 空虚な毎日である。山で平和に天狗や河童を脅しすかしながら送っていた楽しい日々が懐かしい。

(お姉ちゃんが気に病むことはないよ。ねぇねぇ、それよりさ。もうこんな国捨てて、大陸にでも渡ろうよ。そこで私とお姉ちゃんの恐怖政治で人間たちをひざまずかせる大帝国でも作るの)
(そうは言っても、渡る手段がねぇ。天狗みたいに私たちは飛ぶのが得意でもないし、河童みたいに大海原を渡りきる船が作れるわけでもないし)
(そこがねぇ……って、あっ。人間見っけた)
(あら、山伏かなんかかしら)
(なんか苛々しているみたいだけど、こういう奴こそその苛々している部分を攻めると面白いの。大丈夫大丈夫、お姉ちゃんにも分けてあげるから! じゃ、ちょっと切るねー)

 軽い調子でこいしは第三の眼の焦点をさとりから逸らし、行ってしまったようだ。
 今日はもう釣りを諦め、人間を獲って帰ってきたこいしのために料理の用意でもして待っておいた方がいいかもしれない。まずは火でも起こすために枝でも集めようかとさとりは立ち上がった。



 第三の眼が捉える人間の思考をこいしは追った。足場の悪い腐葉土を音も無く駆け、枝を蹴っては宙を舞うその動きは見たままの少女のそれではなく、どちらかというと猿に近い。
 その人間は、ひたすら苛ついていた。何に苛ついているのかすら本人にも定かではないようで、まるでぐつぐつに煮詰めた溶岩のような暗く粘つく熱い怒りだった。その沸騰する怒りがあぶくとなって弾けるたび、練りこまれた思考の端っこが単語となって彼女の心を揺さぶっている。
『つき』だの『し』だの『かぐや』だのといった単語が一体何を示すのかこいしにはわからなかったが、直にわかる。彼女の怒りがこいしの手によってすくわれ、彼女自身の臓腑を焼く苦痛を想像すると、浮き浮きして止まらなかった。
 木の枝から枝へと飛び移り、下界を見下ろしたこいしの両の眼の視界に、その少女は現れた。

「……女の子?」

 思わずこいしは自分の肉体の眼を疑った。あれは娘か?
 髪が白い。年老いた人間は徐々に白髪が増えて行くものだが、ああまで見事に真っ白でありながら、全く薄くならずに地面まで届きそうなほどのたっぷりとした長髪を伸ばした人間などこいしは見たことも無かった。
 それでも老婆であれば髪が抜けにくかった体質なのだろうと納得はできる。だが、どこからどう見ても彼女はやや猫背気味ではあるものの、足腰のしっかりとした若い娘の体つきであった。かんばせには姫君のような高貴さすら感じられる。
 だが、瞳が暗く濁っていた。それは彼女の内に煮えたぎる溶岩の覗き窓のようだった。
 いつの間にか、見ているだけのこいしが彼女に圧倒されていた。しかし下手な魚釣りなどして待っている姉のことを思い出し、こいしはかぶりを振ってやる気を振り起こす。所詮人間だ。妖怪サトリの恐れるものではない。

「そんなに苛々して、どこへ行くのかしらお嬢さん?」
「…………?」

 枝の上からこいしは白髪の娘に話しかけてやった。娘はうろんな目つきで顔を上げるが、その時にはこいしは他の枝へと音も無く移っており、彼女にはどこから話しかけられたのかすらわかっていないだろう。

「そんなに怒りに身を焦がしていたら、いつか身も心も燃え尽きてしまうでしょうに」
「…………なんだ」

 自分の怒りを言い当てられて、少し娘の心に揺らぎが生まれた。だがこの程度、外から見ても苛立っていることくらいは誰にでもわかる。ここから思考を読まれているという恐怖を突きつけ、ずたずたになるまでその心をいたぶる――!

「『かぐや』がそんなに気に入ら――」

 こいしは最後までその台詞を言えなかった。
 灼熱の憤怒が娘の胸から溢れ、炎となって実体化した。肉や髪を焦がす異臭がこいしの鼻腔を突き、紅い炎が目を焼く。
 全身火だるまとなった娘は落ち葉や木の枝に炎を燃え移らせながら首を巡らせ、立ち竦むこいしを暗い紅い瞳で見据えた。

「輝夜……?」

 第三の眼と両の眼が同時に剥き出しの殺意を捉えた。こいしは戦慄する。
 思考が読めない。なぜか? 簡単だ。

「かぐやああああああああああああああ!!」

 怒りに我を忘れているからだ。
 娘の背中から炎が両側へとぶわりと広がり、翼のようにはためいた。燃え盛る腕を無造作に振るったとたん、こいしの立つ木が真っ赤な炎に包まれた。
 こいしは枝から跳ねて次の枝に飛び移り、一目散と逃げ出した。まずい。あれはまずすぎる。食べても不味いが状況的にまずすぎる。はっきり言ってサトリ的には、彼女は最悪の敵だった。
 サトリは思考を読めるため大概の攻撃なら避けられる。だがあの手の狂乱した手合いは猪のようなものだった。こちらに突進してくるのはわかるが、勢いと速さがありすぎて避ける間もなく殺される。
 天狗や河童といった情報通との連絡を行えないため、こいしは知らなかったが彼女が手を出した人間は妖怪たちに恐れられている、通称火の鳥人間だった。
 普通妖怪退治を生業とする人間でも、ある程度は妖怪の事情を考慮したうえで仕事をする。しかし火の鳥人間は妖怪を暇潰しと八つ当たりで燃やして殺す、自然災害に近い存在であった。
 火の粉を尾のように引きながら追ってくる娘を後ろ目に見て、こいしは絶叫を上げる。またもや投げつけられた炎の弾が一瞬にして木の幹を灰へと変えた。攻撃の巻き添えを食らわないために地面へと降りたこいしは、とっさに足下にあった握り拳ほどの石を拾い上げ、娘へと向かってがむしゃらに投げつける。
 その石は、ものすごい速度で駆けてくる娘の顔面に見事命中した。こいしの人間離れした膂力と娘の人間離れした走行速度の力が真正面からぶつかり、石は眼球を潰し頭蓋骨を陥没して脳に埋め込まれたまま、止まった。
 娘は倒れた。めらめらと燃え盛る火炎の勢いはとどまることなく、やがて娘を灰へと還した。

「た、助かっ――」

 ぼわっ! と爆音がしてこいしのすぐそばで火柱が吹き上がった。
 真っ白な髪を逆巻く炎風にたなびかせ、衣服の替わりに火炎を身に纏った全裸の娘がこいしに殺意の瞳を向けた。

「ぎゃあああああああああああああ!!」

 こいしは逃げた。とにかく逃げた。戦闘が決して得意でないという自負を持つサトリであるが故に、自分の能力が役立たない相手と戦う必要は無いと判断し、三十六計の三十七番目を迷うことなく選択した。結果的にこの判断がこいしの命を救った。
 火の鳥人間こと藤原妹紅は蓬莱人、つまり不死者である。倒しても倒してもキリがない。この事実を知らずに多くの妖怪が人間如きに負けてたまるかと無謀な戦いを行い、灰燼と帰した。

「待てえ! 輝夜の仲間は殺してやる! みんな殺してやる! 灰にしてやる! 月への狼煙になって死ね!」

 背中にぶつけられる熱風と憎悪の中に、こいしは一筋の寂しさを見たような気がした。
 しかし、そんなことより、今は姉の下へと逃げるのが先だった。



 髪を一筋指に絡ませたこいしは、その先があらかたちりちりに焦げているのを再確認してため息をついた。

(命あっての物種だったと言えましょう。そのような人間がいたとはにわかに信じがたい話ですが……)
(お姉ちゃん、何度も見せたでしょう!? あの火の鳥人間の姿! サトリがサトリに嘘つけるわけないじゃない)
(もちろんわかっていますとも)

 黙々とさとりとこいしは口を閉ざして山を移動し続けている。傍から見れば寡黙な姉妹の光景ではあったが、各々の頭の中では互いに対する思念波を飛ばし合っていた。
 サトリ同士ではよくあることだ。特に今は起伏の激しい土地を歩いている最中なので、下手に口を動かせば舌を噛む。
 さとりは、こいしの心の中を深く見つめた。そこにはこいしが出会ったという燃える娘の姿が赤々と照らされている。こいしの記憶を引っ張り出して何度か石をぶつけられた時の姿と、火柱から現れた時の姿を見比べた。

(どう見ても死んだように見えたのですが……まさか生き返ったなどと馬鹿なことはありえませんか)
(大丈夫だよ、しっかり撒いたから……もう第三の眼が届く範囲にあいつはいないわ)
(そう祈りましょう。全く、得体の知れない思念を渦巻かせているのは見ればわかる相手じゃないの。こいし、もうあんな危なそうなのに手を出してはいけないわよ?)
(だってぇ……お姉ちゃんにおみやげ持って帰りたかったんだもの)
(こいしが無事で帰ってきたことが私にとって何よりの土産ですよ)

 こいしが死ぬと、この地上にサトリは遂にさとり一人だけとなる。それは第三の眼で見た広大な精神世界に一つたりとて光が灯っていない、真っ暗闇の世界に放り込まれるということだった。
 そもそも、さとりの本名は《さとり》ではない。故郷の山から逃げ出した時はまだ幾人かサトリは残っていた。しかし一人、また一人と狩られ生き残りのサトリを仕切っていた頭領が殺される寸前に、最後の生き残り姉妹の姉が頭領の座を継ぐよう命じたのである。
 それからサトリの長を意味する名として、さとりと名乗っている。もっとも、一番接する機会が多く名前を呼んでくれるはずの妹は一貫して「お姉ちゃん」と呼び続けているのであまり意味は無かったが。
 だが、独りではない。

(こいしの出会った火の鳥人間には、怒りの火を突っつくより孤独であることを突っつくべきだったのかもしれませんね)
(そう?)
(ええ。とは言っても怒りの強さが凄まじすぎて気づけたのは爆発してからでしたから後からではなんとでも言える、というヤツですが。でもね、いいことこいし? あの手の一つの感情に凝り固まっている手合いというのは、その感情に固執しなければ簡単に崩れてしまう自我を保つために、一極集中しているのです。心を揺さぶるには、まずその支柱の下にある不安定な土台が何であるのかを見極めねばなりません)
(んー、それを調べようと思ったら落とし穴踏んじゃったみたいで……)
(だから、もう少し様子を見るべきだったのです。まず話しかけるなどしてはいけませんよ。飢えた獣の下手な狩りそのものです)
(それにしても孤独ねぇ。輝夜って人が相当憎いっていうのはなんとなくわかったけど、男でも取られたのかしら。逃がした魚は大きいわー)
(ま、こいしを丸呑みできるくらいに大きかったことは確かですね)
(器は私の方が大きいわ)
(態度の間違いじゃないかしら)
(大言を吐けるっていう意味でなら、お姉ちゃんの方が一枚上手だけどね)

 二人、じゃれ合うような思念を交し合う。
 その底に見える不安を、姉妹は気づきながら互いに努めて意識せずにいた。
 逃げるために移動しているが、どこへ逃げるというのか。
 逃げた先に安息の地などないことはわかりきっている。だからと言って死んだ同胞の無念を晴らすために、無謀な戦いなどできはしない。そんなことをすれば、自分は元より何よりも大切な片割れが死ぬ。
 果ての見えない、行く当てもない逃げ道の末に疲れ果て衰弱して共に死ぬか、追っ手に仕留められて共に死ぬか。そのようなうっすらとした確信が、姉妹の意識の底には常にへばりついていた。
 そう、死ぬ時は共に。決して片割れをこの世に独り置いて逝くなどしない。
 姉妹は汗ばむ手を握り直した。声ならぬ声を交し合う二人の間に、余人には何がおかしいのか理解することのできない微笑みが浮かんだ。









 その洞穴は、乳呑み児でも放り込めば呼吸をしているだけで酔っ払いそうなほど濃密な酒精が漂っていた。
 敷かれた茣蓙の上であぐらをかき、樽の中に直接杯を突っ込んではぐびぐびと酒を煽る娘の額には、鮮やかな朱色に染まった一本の角が生えていた。
 熱っぽく酒臭いげっぷを漏らし、彼女は尖った爪の生えた指でぽりぽりと頬をかく。その杯を受ける逆の手には、手紙がつままれていた。
 年がら年中酒浸しの脳で、星熊勇儀は手紙の内容を反芻していた。鬼は力任せの野蛮な種族だと人間には思われがちだが、人間には理解も及ばない数々の不可思議で高度な技術を発明し、実現してきた。一度読んだ手紙の内容など頭の中で一字一句間違えずに覚えることなど造作もない。酒気で眼が滲んでいなかったらの話だが。
 手紙を丁寧に折り畳んで竹筒に入れると、勇儀は杯に新しい酒を汲んで口元へと運んだ。雫となった酒が首筋から胸元へと零れ落ちるのも気にせず、ぼそりと呟く。

「地獄か」

 発案は自分自身でありながら、いざ実現可能だと返されると百戦錬磨にして四天王の一角とすら謳われた星熊勇儀であっても、ためらいを覚えていた。否、これが仲間の鬼が一匹でも前にいれば笑って「良し」と頷いたであろう。人であろうとも鬼であろうとも、上に立つ者は下で支える者を不安にさせてはいけない。
 星熊勇儀は、この八ヶ岳と後の世の人間に呼ばれることとなる山の頭を務めている。それは鬼だけに留まらず、ありとあらゆる人外の化生全ての者に対する纏め役だ。かれこれこの大役を任されて二百年ほどにもなるためすっかり頭領っぷりも板についたが、しかしこの山もそろそろ限界を迎えていた。
 妖怪の密度が上がりすぎている。否、それだけならまだいいが人間全体が手を取り合って協力することができないように、妖怪も一枚岩ではない。数え切れない魑魅魍魎がひしめくことによって、妖怪同士の諍いが山では絶えなくなっていた。

『千年ほど様子を見ながら、少しずつ人間と妖怪との間に線を引いてお互いの生活圏をかち合わないようにした方が良いのかもしれません』

 境界を操る異能を持つ、さる頭の良い妖怪も勇儀にそんなことを漏らしていた。
 もはや人間と妖怪――否、鬼は共存できない。
 二百年以上も前に大将の首を挙げられた時、十分噛み締めたはずの感傷が再び勇儀の胸を焼いていた。

「あれぇ? 勇儀が一人酒なんて珍しいじゃ〜ん?」
「なんだ萃香か。ちったぁあんたも私の手伝いしてくれたっていいんじゃないかね?」

 どこからともなく響いた声に、勇儀は丸で動じずに受け答えした。
 と、部屋に満ちていた酒精が一箇所に収束し、一塊の気体となる。そこからぴょんと飛び出てきた亜麻色の髪をした二本角の小鬼は、勇儀に負けず劣らずの赤ら顔でにへらと笑ってみせた。
 伊吹萃香。かつては勇儀と共に四天王の一角を務めた古い友人だ。
 勇儀は杯を傾けて萃香が差し出した杯に酒を分けてやる。お返しに萃香は瓢箪の酒を勇儀の杯に汲み、二人で共に飲み交わした。

「で、どうしたの? やけにしんみりしちゃってさ〜」
「ああ、それがさ。この前あいつに打診した地底都市計画がさ。地獄の偉いさんからも許可出たってさ」
「あ、ホント? 良かったじゃん」

 もう一人の四天王である鬼は、現在極卒として地獄送りにされた罪人をいびる優雅な毎日を送っている。その伝手を辿り、勇儀はかねてより考えていた計画の根回しをしてくれと百年くらい前に頼んだのだ。
 それは、地獄の使用されなくなった土地を買い取って、地上にいる妖怪の一部を移住させるという計画だった。とは言ってもほとんどの者は地上に未練があるだろうから無理強いはしない。主に移住したがっているのは、勇儀や萃香の下にいる鬼の同胞たちだった。
 もはや鬼のほとんどは、人間に愛想を尽かしきっている。人間は鬼だろうが同族だろうがなんだろうが殺しすぎた。鬼が理想とする卓越した知恵と鍛え抜かれた身体を持ち真に正しき心で持って酒を飲み交わし合える、そんな気の良い人間は二度と生まれることは無いと失望した。
 最大の契機は、やはり勇儀たちの大将であった酒呑が卑怯な手によって討たれたことであろう。酒呑は本当に良い頭領であった。人間と鬼と酒と喧嘩が大好物の、どうしようもない鬼らしい鬼だった。誰からも慕われ、信頼されていた。
 それ故に討たれた悔しさや憤りは勇儀にも満ちている。討った張本人である人間たちは、一人残らず正々堂々勝負したうえで酒の肴にでもしてやりたい気持ちは今でも変わりない。だが、それは勇儀の頭一つ上の鬼によって咎められ、止められた。

「まぁ、副将に話を聞かずに事を進める気は無いがね」
「華扇ねぇ〜。えーっと、手紙送ったの何年前だったっけ?」
「よく覚えてないなぁ。でも善は急げっていうし、姐さんには早く帰ってきてほしいところだよ」

 四天王最後の一人にして筆頭、大江山鬼ヶ城の副将も兼任していた茨木華扇は、長い間大陸へと流されていた。そして、彼女がいればこの国の妖怪事情はもう少しマシになっていたのではないかと思うと、勇儀の酒は否応にも減るばかりであった。
 本来、勇儀は山の長になるはずではなかった。酒呑が討たれた後、この山を新たな根城として基礎を築き上げるまでの数年、華扇は長として鬼の指揮を取った。しかしある程度収まりがついたところで指揮権を勇儀に譲渡し、京へと下ったのだ。

『酒呑の無念を晴らす』

 そう言って、華扇は二度と帰ってこなかった。ただ、天狗が持ってきた手紙には勇儀が引き続き頭領として山を統治しろということ、自分は帝の政が終わるまで大陸へと居座り続けなければいけないということ、そして決して頼光たちに手を出すなという旨が書かれていた。
 あれから人間の天下の采配を握る権利は、武士に譲られた。華扇の長い刑期は終わったのだ。

「ねぇ勇儀〜」
「あん?」

 呑み比べの様相を見せ始める酒盛りの中、萃香は地獄から送られてきた手紙の入った竹筒をひっくり返していた。一枚の紙片を勇儀に渡し、ふらふらと酔った頭を傾げてみせる。

「都市開発計画はいいんだけどさ〜。それの成り手、当てあんの?」
「建設予定施設、地霊殿の家主候補を伝えるべし……ってなんじゃこりゃ」
「ちゃんと読まんといかんよね〜」

 どうやらやはり手紙を見落としていたらしい。そこに書かれている旨は、大体以下の通りであった。
 買い取り予定の土地の一部は、原住民と呼べる存在がひしめく場所もある。その場所には怨霊もいるため、並大抵の妖怪を管理者にすると逆に引き込まれる恐れがある。旧灼熱地獄と怨霊を同時に管理できるような、信頼できる妖怪をその施設の管理人として紹介してほしい。
 ふむと酒で濡れた顎に勇儀は手を当てた。

「なんか適当な奴いたっけ?」
「誰もそんなめんどいことやんないってー」
「参ったねぇ。せっかく羽休めのために買い上げる新天地だってのに、誰もそんな貧乏クジなんか引きたくないわな。どうする……って、いい奴いたか」

 そこまで口にして、勇儀は適材適所な妖怪を思い出したのである。

「サトリどもにやらせてしまおうか。あいつらの性格の悪さなら怨霊を喰いかねない」
「でもサトリってまだ生き残ってるのかなぁ〜」
「萃香、何言ってんだい。そういう時こそあんたの出番だろう?」
「はぁー。勇儀がそんなに私に薄っぺらい奴になれなんて言うなんてねぇ〜」

 面倒臭そうに洞穴の天井を仰ぐ萃香は、瓢箪を枕に茣蓙の上に寝そべろうとした。
 だがその瓢箪が、途端に紐を引かれて洞穴の入り口の方へとすっ飛んだ。ごつっ、と頭を打った萃香は涙目で瓢箪を盗んだ者に視線を飛ばす。

「あん? 私に喧嘩を売ってくれる親切な暇潰しさんは誰かな?」
「私ですよ萃香。それにしてもずいぶん見ない間に二人とも気合が抜けましたね。昼間っからお酒ばかり飲んで愚痴り合いとは良いご身分です」

 包帯がしゅるしゅると音を立てて紐を引き、やがて腕の形となって瓢箪を掴んだ。
 桃色の髪を二つの団子にまとめた娘が、にこりと洞穴の入り口で微笑んだ。
 勇儀と萃香は呆けた顔を見合わせる。

「そこに正座なさい二人とも。この山の丈くらいには言いたいことがあります」









「ほう、それではあなたはその男を連れ込むために我が子を殺したと?」
「うふふ『お母さん、ちゃんといい子にして待ってるからね』なんて言ってたこともちゃんと覚えているのね」
「でもその子を山犬狼魑魅魍魎ひしめく山に置き去りにしたのはあなた」
「子供を殺したのはあなた」
「仕方なかったと? 自分が生きるためには今の夫から見放されるわけにはいかなかったと思っていますね? ならあなたがその男に見殺しにされても文句は言えませんね」
「そうそう、こんな山奥で行方知れずになったら、だぁれも助けに来ちゃくれないわ」
「あなたはここで見捨てた子供と同じように誰にも知られず妖怪に食べられて死ぬのですよ」
「そう、その恐怖や怒りや哀しみの感情を最後の一滴まで絞り尽くすまでね」

 サトリ姉妹は食事中であった。
 山菜を摘みに来た、どこにでもいそうな里の女である。運悪く彼女は第三の眼の『視界』に入り、こうして山中奥深くまで連れ去られた。あとはもう心を抉る言葉の刃が彼女の胸の内を細切れになるまで引き裂くのみである。
 もちろん、心が壊れ抜け殻のようになった身体も美味しく料理していただくつもりであったが、妖怪の中でも特に精神的な部分に依存しているサトリにとって主食となるのは、やはり畏れの感情であることに変わりない。
 数ヶ月ぶりのまともな食事だ。さとりとこいしは骨の髄までしゃぶるつもりで、第三の眼を強くその女に集中させていた。
 だから気づくのが遅れた。

「……ん?」
(お姉ちゃん、いきなり周り気にしてどうしたの? なんかいる?)
(いるような、いないような……どちらかというとこれは何か巨大な生き物に呑まれたような……)
(えぇ? 私にはわかんないなぁ)
(だから、眼の焦点をその女から離して、もっと広く……え?)

 突然、姉妹を包み込むような気配が押し寄せてきて、あっという間に呑み込まれてしまった。それは苔、あるいは霧のようにも感じられる。
 だがその気配が突然、渦を巻いて一点へと集中し始めたのだ。拡散されていて読みにくかった思考が集まることによって正しい意味を成し、さとりの第三の眼に一つの心が映し出される。

(やっと見つけた。これで華扇にどやされずに済むね)

 ぼわっ、と収束した霧が弾け、中から亜麻色の髪から二本の捻じくれた大きな角を生やした小鬼が現れ、地面にべしょりと体ごと着地した。
 瓢箪を枕にした鬼のその姿にさとりとこいしは戦慄する。そいつは思考と同時に名乗りを上げた。

「我が名は伊吹萃香。ま、見ての通りしがない鬼さ。食事中のとこ邪魔してすまないねぇ」
(お姉ちゃん、逃げよう)

 こいしがさとりの袖を引っ張った。しかしさとりは萃香に鋭く第三の眼を向け、首を振る。

(無理です。彼女からは天狗の足でもっても逃げ切ることは難しいでしょう。疎の状態になった伊吹萃香に呑まれた時点で、私たちはこの鬼の腹の中にいたも同然だったのですよ)
(そんな……って、げっ?)

 萃香は、自分の能力の詳細をわざと思考に昇らせていた。自らの手の内を明かして事に挑むということは、正々堂々としているわけではない。むしろそれは『どう足掻いても抵抗は無駄だ』という無条件降伏を催促するふてぶてしい態度と言えた。

「我は個にして百万鬼夜行の萃香。あんたらサトリじゃ逆立ちしたって勝てない相手さ」
「でも人間には敗走したのですね」
「住み分けしただけじゃん? あはは、そのうちまた人間と遊べる時代だって来るって。けど今は人間だって貴族と武士が分かれた時代。妖怪にとっても分かれる時流が来てるんじゃないのかね?」

 さとりは心の内でなるほど、と頷いた。さすがに鬼はその精神も堅牢だ。図太いだけとも言えるが。
 萃香は何やら用あって、サトリの生き残りを探し当て、住処に連れて行きたがっているようだった。その用とやらを第三の眼で見抜こうとするが、酔いを上手く使って用件には思考が及ばないよう、自らの心を把握しきっている。
 これは確かに、逆立ちしても勝てそうにはない。こんなものを退治しようと考え、成功した人間が末恐ろしかった。
 からからと笑った萃香は瓢箪から頭を上げ、ぴょこんと立ち上がった。

「サトリは話が早くて助かるねぇ。もう何もかもわかったみたいだね。それじゃ、私と一緒に山まで来てもらうよ」



 萃香に連れられて姉妹がやってきた山は、数々の妖怪の思考が坩堝となり、混沌としていた。
 こいしが気分悪そうに眉をしかめ、さとりの手を強く握った。できるだけ第三の眼の『視野』を狭め、お互いの心にだけ向くようにする。
 先を行く萃香の方は、能天気なものだった。

「いやぁ、帰ってきたねぇ我が家。華扇に説教喰らってあんたら探して来いって言われて西へ東へ飛び回ったもんだよ。無事見つかって良かった良かった」
「萃香さん」
「あん?」
「天狗がこちらを見ているようですが」

 好奇心旺盛で排他的な天狗たちの思考が無数の礫のように姉妹へとぶつけられていた。そこにある敵意や嫌悪、恐れの感情は慣れたものである。だが殺意まで向けられると心穏やかではいられない。
 萃香はあくびをした。

「私がいるんだから、あいつらも手出しなんかしないさ」
「さて、それはどうだか怪しいものですが」
「ああごめん。手出しなんかできないさ」
「それは納得です」

 並大抵の天狗が萃香の手をかいくぐって自分たちを暗殺できるとは、さとりも思っていなかった。萃香も引き受けた仕事である以上、責任を持ってやり遂げるつもりでいる。
 ただ、肩を縮こませて囚人のように萃香の後を追って歩くこいしの姿が痛々しくて、さとりはどうにかしてやれないかと思ったのだ。
 こいしはそんな姉の思考を読み取って、にへらと空元気の笑みを浮かべてみせる。
 そんな二人のやり取りを後ろ目に見た萃香は、瓢箪から直接酒を飲んで首を傾げる。

「しかし、わからないねぇ」
「私としては心が読めてもなお、なぜそのように心が動くのか、鬼の精神の有り様の方がわかりませんが」
「私だってあんたらの心の有様がわからないんだよ。弱いものをなぶって楽しいのかい?」

 萃香はサトリを弱いものだと思っており、そしてそのサトリを数でもって滅ぼそうとしている天狗たちを格好悪いと思っていた。同時にサトリが弱い人間の心をいたぶって食事を取ることにも疑問を抱いている。
 鬼は何よりも強いことを尊ぶ。強さとは、自分より強いものへと立ち向かえる心の強さだ。だから鬼は地力では大きく劣るにも関わらず真剣勝負に乗って、時には鬼を下してしまう底力を持っていた人間が大好きだった。
 そんな人間も今はいない。一方、鬼は人間から突き放されてもなお、まだ心の有り様を変えることはできていなかった。だからサトリや天狗のような弱さを抱える者たちの気持ちが、理解できない。

「どちらかというと、とても楽しいですね」
「ちっさいねぇ」
「弱いものいじめというのであれば、鬼が人間を攫うのも十分弱いものいじめに見えますが」
「こっちは公正に勝負をしているじゃん。嘘ついたり騙したりする人間が悪いんだよ」

 しかしさとりは自身が弱く、弱い人間の心を無数に覗いてきたからわかる。人間ならば萃香の言葉に対しこう思うだろう。

『弱い者が自身に有利なよう考えに考えて作り出した規定の下正々堂々と勝負して、なお勝ってしまう自身の強さを再確認したいだけなのだろう?』

 と。
 実際のところ、そんな矮小な考えを持つ鬼は少ない。けれど一つの真実も含んでいるとさとりは思う。

「さて、ここが華扇の住んでいる洞穴だ。詳しいことはあいつと勇儀に聞くといいよ」

 山の岩壁を刳りぬいて作られた穴を萃香は指差した。さとりとこいしは互いに目配せし合う。

(お姉ちゃん、大丈夫かな? 中に入ったとたん鬼に捕まえられてむしゃむしゃ食べられたりしないかな?)
(ここまで凝った案内をしてそんなことをする理由もないと思いますが、それならそれまででしょう。まな板の上の魚が何をしても三枚に卸されることは変わりません。ならば食卓まで自ら赴くのが魚の矜持でしょう)
(そうかなぁ〜? ま、行こっか)

 洞穴に足を踏み入れる。しばらく道なりに沿って進むと、大きな部屋になるよう開かれた空間に辿り着いた。
 そこに、朱色の一本角の鬼と、桃色の髪をした娘がした。

「ですから勇儀。あなたが本当に上に立つ者であるという自覚があるのなら……あら? あなたがたは?」

 指にまで包帯を巻いた右腕の人差し指を立て、お団子頭の娘が上品な微笑みを浮かべて姉妹を見つめた。
 その格好を見て、さとりは訝しんだ。なぜ仙人がここにいるのだ。鬼の頭目は仙人に取って替わったのだろうか。

「萃香さんに連行されてきたサトリの姉妹でございます」
「ああ、萃香が見つけてきてくれたのですね。礼を言いたいのですが、あの子はどこに?」
「あまり顔を合わせたくないようでしたね。華扇さん。少し説教が過ぎるのでは?」

 華扇の横でこくこくと勇儀も頷いていた。今のやり取りで各自の心の動きから、名前は割り出せた。
 しかし華扇は首を横に振る。

「私は茨華仙。その名は鬼としての名です。控えていただけますか」
「ほう。なぜ鬼が仙人の真似事など」
「二百年も深山幽谷で酒をただ飲み歌を詠むだけの毎日を過ごすのはいささか退屈に過ぎまして、仙道を学んでみました」
「ふむ」

 精神的な鍛錬も好む鬼は禅道などにも精通している。ならば仙道に傾いた鬼がいても不思議ではないのかもしれない。
 仙人は本来、人が厳しい修行を経た果てに到達する、天人へと昇る段階の一つである。その精神は霞のように掴み難く、サトリであっても心を喰らうのは難しいと伝えられている。
 ただ、仙人は獲得した術技や力を第三者に還元することをしない。ただひたすら下界の様子を眺めるばかりで、力を求められれば応ずることもあるが、基本的に口を挟むばかりで動くことは少ない。
 人知れず山奥で天へと枝を伸ばし続ける老木のような存在。それが仙人だ。

「鬼と人との己を高めあう関係は終わりました。ならばこれからは、一人己を高める術を知らねばなりません。それが仙道だと私は大陸で悟ったのです」
「なるほど」
「ま、姐さんがどう生きようと私ゃ止めやしないけどね。それより、なんで私とこいつらを引き合わせようと思ったのさ」
「もちろん、これから地底都市で共に暮らす者として、異なる勢力の頭目同士親交を深めておくべきだからです」

 そう言って、二人の鬼は自分たちの持っている計画に対する情報を思考に昇らせた。
 こいしの両の目が大きく開かれる。さとりもおそらく、そうなのであろう。それほど鬼たちが示した計画は大きく、明日をも知れぬただ逃げるばかりの生活を送っていた姉妹には及びもつかない事業だったからだ。
 旧地獄再開発計画。この地上に嫌気が差した鬼が率先して都市を築き、そこに同じ想いを抱いた妖怪たちがついてゆく。中には望まず封印される者もいるだろうが、鬼たちはどんな者であっても、決して拒否はしないということであった。
 ただし、地底に一度潜れば二度と出ることは叶わない。その逆も然り。つまり地上と地底は完全に交流を断ち、別世界としてやっていくことになる。
 さとりたち姉妹はそこで、怨霊と旧灼熱地獄の管理をしてもらいたいのだという。

「どうだい、いい話だろう? 私たち鬼としてもあんたたちに死なれちゃ困るから、サトリには決して手を出させないようにするさ。あんたたちは安住の地と職を手にし、私たちは面倒事が無くなる。うん、完璧な商談だ」

 確かに完璧だった。というより、拒否する余地が無い。何せここは鬼以外の妖怪もひしめく山中だ。気に入らないから帰ると言って、帰れるものでもないだろう。
 だからさとりは二人の鬼の胸中にどんな思考が紡がれていようと、気にしなかった。だがこいしはぷるぷると肩を震わせ、うつむいたまま鬼にたずねる。

「……今さら『手を出させないようにする』ってどういうことなの?」
「どういうことって聞かれてもね。どういうことなんだい? お嬢ちゃん」
「本当にわかってないんだから、吐き気がするわ! あなたたち鬼が妖怪の仕切りをするっていうのなら、もっと早くに私たちを助けてよ! お父さんもお母さんも長も友達もみんな死んじゃったの! 殺されたの! 私たちは何もしなかった! それなのに怖いから、邪魔だからってだけで殺された! ――このっ、鈍チンども! なんでこんな――融通の利かない言葉で言わないとわかんないのよ! 私の気持ちをわかってよ!!」

 こいしの嘆きは、事実鬼にほとんど届いていなかった。自分たち姉妹がどれだけ辛い思いをしてきたのかなど、言葉や態度を尽くせど心の読めない者にわかるはずがない。
『淘汰されて勝手に手元から逃げていく連中を保護するほど、暇じゃなかった』そういう旨の言葉を勇儀が発する前に、華仙が頭を下げた。

「申し訳ありません。私が私闘などせずにいれば、もう少しサトリへの弾圧は食い止められたかもしれません。ですが、現状のサトリの結果は、あなた方の責任でしょう」

 こいしの涙に濡れた瞳が、強く開かれた。ぎりぎりと歯が食いしばられ、華仙の思考を読んで怒りに震える。
 華仙は、鬼らしく包み隠さず胸中の思念を言葉に変えた。

「あなたがたサトリの弱さは、私たち鬼の与り知らぬ所です。自らの身を自らで守るのは獣であろうと人であろうと妖怪であろうと変わらぬこと。これからは必ずやあなたがたの命は守ります。ですが、それは必要ですからするまでのこと。今までは必要でないからしなかったまでのことです。その件について勇儀を責めるのはお止めなさい。責を問われるべきは、副将としての任を捨て私怨に走った私なのです」

 澄まし顔を装っているさとりですら、怒りで気が遠くなりかけた。勝手な言い分だ。
 そう、鬼とは身勝手な連中なのだ。強さを笠に着て傲慢なのではない。強すぎて弱さを理解できないからこそ、傍若無人なのである。
 さとりは、山に入ってきてから少し気になっていたことを思い出した。少し第三の眼の視野を広げ、天狗や河童といった鬼の手下どもの気持ちを探る。

「鬼の大将がた」
「ん、なんだい?」

 黙っていたさとりが口を開いたことから、勇儀は用件の答えが聞けるかと思ったようだ。それは受けるしかないので、後で答えることにする。
 それまでに一つ、さとりは言い返しておきたかった。

「あなたがたは自ら地底都市へと赴くと決めていらっしゃるようですが……おそらく、それは勘違いというものです」
「誰かに命令されたってことかい?」
「時流に圧されて、ですよ。萃香さんもそうおっしゃっておりました。あなたがた鬼は、配下の天狗にとっても河童にとっても、目の上のたんこぶなのです。融通の利かない、頭の堅い、酒癖の悪い上司。そうとしか思われておりませんよ。あなたがたは勝負を通じた強さを絆としていますが、そのあまりの強さに誰もついて来られないのです。
 認めなさい。あなたがたは地底に封印されるのです。私たちサトリ姉妹と同じです。嫌われ者として、目の前からいなくなってせいせいしたと言われるのが関の山。孤独に、誰にも別れを惜しまれず、時流に取り残され、隠者のように日陰者として暮らすのです」

 その言葉を、二人の鬼は静かに受け止めた。
 彼女たちの心の内は、微動だにしなかった。
 わかっていたのだ。だが、それでも鬼は、鬼であることをやめることができなかったのだ。
 さとりは、ふと胸の奥から浮かんできた考えに突き動かされて洞穴の入り口を見つめた。
 今は『いらないもの』としてゴミ処理されるのはサトリや鬼だけだ。だが明日はどうなのか? 天狗や河童、否神様ですら見捨てられる時代が来るのではないか。
 根拠も途方もない考えに怯えたさとりの腕を、あたたかく小さな手が握り締めた。

(お姉ちゃん、大丈夫だよ)

 涙で赤く腫れた目元を袖でこすり、こいしはさとりに笑顔を向けた。









―2―
獣とサトリ




 地面に穿たれた大穴の中に、続々と無数の妖怪が列を成して飲まれていった。
 列が乱れないよう穴の淵で見守るのは二人の鬼。星熊勇儀と茨木華扇である。
 地底へと潜ってゆく妖怪たちを慈しむような目で見ていた華扇に、勇儀は問いかけた。

「姐さん。本当に地上に残るのかい?」
「はい。地上から地底の様子を見守る役も必要でしょう」
「そんなのは地上の連中に任せたっていいじゃないか。それとも姐さんはお天道さまがやっぱり恋しいかい?」
「そうですね。二度と太陽を拝めないというのはぞっとしません。ですが、もっとも大きな理由は、私はもう勇儀たちとは袂を分かった鬼だからということです」

 華扇は包帯に覆われた右腕を勇儀に向けて差し出す。この中身が無いことは勇儀には一目瞭然であったし、羅城門で渡部綱が鬼の腕を斬ったという噂は山にまで響いていた。
 通常、鬼というものは四肢を切断されようとも、傷口と傷口をくっつけ合わせればそれだけで瞬く間に繋ぎ合わせられるほど強靭な肉体を持つ。だが逆に言えば自らの肉体でなければそんな無茶はできない。

「私は源次綱どのに奪われた腕を取り戻したいですし、勇儀や萃香たちのような人間への接し方にも同意できません。地底への引越しまではお手伝いしましたが、これ以上ついていけば私はあなたたちの不和になるだけです」
「大陸の広々とした空気に触れて、ずいぶん姐さんもさっぱりしたもんだね。それじゃ姐さんは今、人間に対してどんな考えを抱いてるんだい?」

 冥土の土産に教えとくれよと、勇儀なりの冗談を飛ばす。
 苦笑いを浮かべた華扇は真っ暗な穴の底を見下ろした。

「これから人はどんどん変わってゆくでしょう。それを見極めたく思います」
「なるほど。戦う相手じゃなく、観察対象になったわけだね」
「もちろん、道を外すようであれば口くらいは挟みますがね。どうやら、私は人間が好きなようなのです。強さや弱さに関係なく」
「もしかして仙人ってのも人間の真似事かい?」
「ふふっ、まあそれもありますが……隠居者にはちょうどいいでしょう」

 勇儀にはその華扇の言葉がよくわかった。
 二百年前の大江山で、勇儀は死に損なったように思うのである。手下を生かすために逃走の指揮を取ったが、一騎当千のつわものたちと言われる頼光四天王と戦い、首を刎ねられることこそ本望だったのかもしれない。
 敗走後も、酒呑の敵討ちに京へ殴りこみに行くべきだという手下たちの声の代表として、勇儀は華扇を説き伏せようとした。しかし華扇は人の犠牲も鬼の犠牲も最小限に食い止めるべく、自分一人だけで京へ向かった。
 それから、勇儀の生は幕を閉じ損ねた宴のようにだらだらと続くばかりだ。この度の地底への引越しも、生きたまま墓穴に入るようなものなのかもしれない。
 列の最後尾が動き出した。勇儀はそろそろと杯を二杯取り出し、片方を華扇に差し出した。

「それじゃ姐さん、今生の別れって奴だ。一杯、酌でも交し合おうじゃないか」
「全く……地底ではあまりお酒を過ぎないように。きちんとみんなの面倒を見てあげるのですよ」









 薄暗く蒸し暑い地の底で、こいしは鉄のハンドルを握り締めた。
 ぎゃりぎゃりと手前に回すと鎖が軸に巻き取られ、連動した天窓が少しずつ開いてゆく。
 火焔地獄跡に通ずる大穴にこもっていた熱気と黒煙が、開けられた逃げ道めがけてもくもくと立ち昇って行った。中庭にはびこっていた怨霊どもが巻き上がる暖気流に呑まれて埃のように舞う。
 そんな様子を見上げていると、こいしの心の中に姉の声が囁かれた。

(ごくろうさま、こいし。これであとしばらくは置いていても問題ないでしょう。さ、お風呂はもう沸かしているわ。煤を洗い落としたら、お茶にでもしましょうか)
(うん!)

 サトリ姉妹が地霊殿に移住してきてから、かれこれ一ヶ月は経とうとしていた。
 大穴の側面に設置された開閉機から、開けたばかりの天窓めがけてこいしは飛ぶ。熱風に煽られる怨霊たちは、まるで鍋に入った具のように力なく中庭をぐるぐると回っているだけだったが、それらの抱く想いは見た目ほど平和なものではない。
 生前罪を犯して死んだ者、未練というのも生ぬるい憤怒を抱えたまま死んだ者、拭いきれない恨み、生きとし生ける者へのあくことなき憎悪、決して癒されることのない生への渇望……そういった物騒な感情やしがらみに捕らわれて地獄から抜け出すこともできない人間の霊魂が、怨霊である。
 今し方行った火焔地獄跡の温度調節管理も姉妹の大事な仕事だが、この怨霊管理はそれに勝る重要な仕事であった。
 まず、火焔地獄の温度管理は、自分たちの生活に直結する問題である。火焔地獄からの熱源によってこの地霊殿は、様々な恩恵を受けられるよう設備が整えられていた。鬼の優れた技術で作られた機械類の扱いは姉妹たちには少々難しく、まだまだ慣れないことでいっぱいだったが、とにかく温かい食事と風呂が容易に楽しめるのは幸いである。
 この熱源は地霊殿のみならず鬼たちの暮らす都にまで行き渡るよう設計されていたが、少しばかり距離があるため地霊殿ほど大きな還元は得られないらしい。そのため地獄跡の温度管理は仮にサボって爆発を起こそうが火種を絶やしてしまおうが、鬼に文句を言われる程度で済むことだ。
 だが、怨霊の管理だけは違う。これらはそもそも地獄に務める公務員たちが管理しており、地上へと出て悪さをしないよう見張っていた。それに代わってさとりとこいしが見張ることになったわけだが、仮に管理を怠ると問題はもはや姉妹だけの手に負えなくなる。
 地底都市を築く際地上の妖怪たちと結ばれた様々な条約の一つに、怨霊を地上に逃がしてはならないという項目があるのだ。事の責任は姉妹だけに留まらず、地底世界そのものが責任を負うことになる。
 こいしとしては自分たち姉妹以外がどうなろうと知ったこっちゃないのだが、せっかく手に入れた安息の地を捨てるのも馬鹿馬鹿しい話だ。それに怨霊は姉妹の貴重な滋養ともなるので嫌う気持ちすら湧かない。ただ一つ気に入らないのが、それら全てを見越されたうえでこのような役目を押し付けられたということだけだ。

「あーあ、お風呂でも入らないとやってらんないわ。このお風呂がまた鬼の手作りで便利で快適ってのがムカつくんだけど……」

 脱衣所で服を脱ぎ、手桶を小脇に抱えてこいしは風呂場に入る。
 ざっと湯を浴びて汗を流し、風呂桶に浸かったこいしは両の眼を閉じて息を吐いた。やはり肉体労働後の風呂は格別である。
 鼻歌を口ずさむこいしは、なんだかんだと言っても現在の暮らしが気に入っていることを自覚した。決して本意ではなく、押し付けられた地位であるがさとりもこいしも安寧を求めていたことは否定できない。感謝までしてやる義理はないが、恨みに思うことくらいは止めてやってもいいかもしれない。

(…………さむい)

 こいしは両目をぱちくりと開いた。閉じることのない第三の眼が、何やら弱弱しい声を拾い上げた。

(くらい……ひもじい……)
「どこから聞こえるんだろ?」

 こいしは風呂桶から上半身を出し、周りをぐるりと巡り見た。
 思考の感じからして、それほど頭はよろしくないが、生きていることがこいしにはわかった。憎悪が薄いから怨霊ではないし、ある程度物事を考えられるくらいに知能を有した存在であるから虫などでもない。おそらく、なんらかの動物だ。
 そして、おそらく死にそうになっている。
 こいしは湯に濡れた裸の身体を風呂桶から出した。



(お姉ちゃああああああああああん!!)

 お茶請けの菓子を用意していたさとりは、突然脳裏に響いた妹の尋常ならざる声に危うく盆を取り落としかけた。
 風呂場へと向かいながら第三の眼の焦点を合わし、こいしとの会話を確立させた。

(どうしたのこいし……って、何その子たち)

 こいしの両目が映した視界を第三の眼が見つめた。
 まず、濡れたこいしの手が映った。そしてその手の中には水分不足で艶を失い、がさがさになった黒羽が見える。
 つぶらな黒瞳がこいしの瞳をきょとんと見つめていた。仔ガラスである。そしてその下ではがりがりに痩せた仔猫が全身の毛を逆立ててこいしに威嚇している。

(お風呂の火元にいたの! すごく弱ってる!)
(見たらわかるわ。どうやら凍えているようね。囲炉裏に火を入れているから、そこで暖めてあげましょう。私が迎えに行くから、こいしは服を着るように)

 たった二人きりしか住人はいないというのに、地霊殿は無駄に広い。この一ヶ月で覚えた、風呂場への道のりをさとりはおっとり足で駆けた。
 風呂の火元まで回り込み、そこでぐったりとする仔ガラスと仔猫を見つけ出す。さっそく第三の眼の焦点を一羽と一匹に合わせ、その心を読むことにした。

(うぅ、さむいよー、くらいよー、ひもじいよー。さっきお姉さんに触られたところが風に冷えてすーすーするよー)
(だからあたいはさっさと逃げようって言ったのに! 非常食のあんたが勝手にここでくたばられても困るんだけどね!)
(あんただってあったかそうな所でひさびさにゆっくり眠れそうとか言ってたじゃない〜)
(時と場合によっちゃどんな居心地が良くても捨てるの! ほらっ、あたいが気を引いている内にとっとと飛んで逃げる!)
(もうだめ。羽ばたく力も残ってない)
(くたばるならあたいの胃袋に収まるって約束だったはずだよ!?)

 どうやら、相当切羽詰っているようだった。様子からしておそらくカラスは大人しく保護されるだろうが、仔猫の方は難しそうだ。
 だが、まあこちらはこいしを含めれば二人である。仔猫一匹くらいは力ずくでなんとかなるだろう。
 まずはカラスの方の気を引くために、さとりは用意していた茶菓子の団子をちらつかせた。

「お腹を空かせているようですね。カラスは雑食ですから、お団子くらいなら食べますよね?」
(たべるたべるー)
(なっ? ちょっ、あんたっ、ああああ毒とか入ってたらどうすんのさ!)
「自分が食べるためのお団子に毒を仕込むほど物好きではありませんので、あしからず」

 さとりに威嚇していた仔猫の動きが、その言葉で一瞬呆けた。それは『なぜこいつはあたいの考えていることがわかるの?』という疑問を抱いた隙である。
 その隙にさとりはばっ、と手ぬぐいを袖から取り出し、仔猫に覆い被らせた。

(んにゃ!?)
「よっこいしょっ、と」

 脱出しようともがく前に袋状にくるんで逆さ吊りにし、仔猫の体勢を崩す。ばりばりと無闇に突き出された爪が布を貫通してさとりの腕に突き刺さったが、痛みを堪えて手ぬぐいの口を締めた。

「さて捕獲完了。こいし、そこのカラスさんを連れてきて」
(わー。さすがお姉ちゃんは手際いいね!)

 こいしが団子の串を奪うと、勝手にカラスは(とらないでー)とついて来た。ややおつむの出来に不安を覚えるが、楽ではあるのでこの際文句は言わない。
 姉妹は今まで、死に行かんとする動物を助けることが多かった。弱ればすぐに喰われる弱肉強食の世界で、心の中では助けを求めつつ決して弱味を見せないその姿に思うところがあったからである。
 囲炉裏のそばまでやって来たさとりは、カラスと仔猫の様子をこいしに監視させておき台所から干し肉を持ってきた。

「さて仔猫さん。あなたの食事も用意しましたが、少しは落ち着きましたか?」
(出せー、出せー……って、何? あたいに話しかけてんの?)
「その通りです。私たちは心が読めることくらいが数少ない特技ですのであなたの考えていることは最初から筒抜けですよ。殺したりいじめたりはしないから、ゆっくり暖まって食べておきなさい」
(む……そこまで言うのなら、まあいいけど)

 手ぬぐいの口を緩めると、顔を出した仔猫がぶるりと全身を震わせた。ちぎった干し肉を仔猫の前に置き、団子を食べ終えたカラスにも与えてやる。
 干し肉も平らげた一匹と一羽は暖かさを求めて囲炉裏の火元へと近づいた。近づきすぎて灰にまで足を踏み込むのを止めようとしたこいしの手を、さとりはさっと制する。

(この子たちはこの程度の火に触れても火傷なんてしませんよ。止めようとしたこいしの方が火傷します)
(え? あ、そうなんだ。お姉ちゃん、もうこの仔らのこと調べていたのね)
(というより、こいしがちゃんと読んでいなかったのです)

 この一匹と一羽はそれぞれ火車の仔猫と地獄鴉の仔ガラスである。共に灼熱地獄を生息地とする、旧地獄の原住生物だ。さとりはこの元地獄特有の地域現象や原住生物による被害を予防するためにまとめられた生活指南書のようなものを、鬼に渡されていたのである。
 火車は地獄から地上へと出現することもあるタチの悪い妖怪で、死体を盗み喰らい操り集め怨霊を使役する、死を玩具のように扱って遊ぶのが何よりも大好きな最悪の赤猫だ。
 一方地獄鴉は火車と共存関係のような生態を築いており、火車が捨てた古い死体を喰うかわりに新鮮な死体の在り処を教える習性を持つ。
 そんな知識を思い返したところで、さとりとこいしはふと同時に全く同じことに気づいた。というより、二人は同じ疑念をこの一匹と一羽を発見した時から思考の端っこにこびりつかせていたのである。

(お姉ちゃんもそう思う?)
(はい。とりあえず聞いてみましょう)

 鉄瓶の下で寝そべる火車の仔猫に、さとりは問いかけた。

「あなたたち、どうしてこんな所にまで迷い込んで来たのですか? ここは私たち姉妹のお家です。あなたたちのなわばりではありませんよ」
(ふん、ここは元々あたいたちの住処だよ。鬼がいきなりやってきて勝手にこんな屋敷おっ建てやがって、火焔地獄への大穴を塞いじまったんじゃないか。おかげであたいらはそれからてんてこまいだよ)
「やはりですか……」

 こいしの視線が垂れ下がった。
 火焔地獄を封鎖したことにより、この地はおそらく以前より相当気温が低下したのであろう。火の中で直接炙られてもへのかっぱなこの生物たちは、高気温な環境に適応しすぎたのだ。地霊殿建設によっておそらく数え切れないほどの原住生物が住処を追われたに違いない。
 追い討ちに地上への道が封鎖されたことで、新鮮な死体の調達は相当難しくなったはずだ。

(お姉ちゃん、鬼の連中はこのことに気づいていたと思う?)
(気づかないはずがないでしょう。でも鬼のことです。『火焔地獄の火は落としたわけじゃないのだから、絶滅するってことは無いはず。それじゃせいぜい弱い奴が死ぬだけのことだから、知ったこっちゃない』とでも考えたのでしょう。間違ってはいないとは思います)

 それが淘汰というものである。川を泳ぐ魚がカワセミの脅威を理解できないのと同じように、地獄再開発計画で犠牲にされる者はなぜ自分が死ななければいけないのか理解はできない。別次元の生物なのだ。
 仔猫は喜色を帯びた瞳でさとりに話しかけた。

(何? お姉さん、鬼と知り合い? ならあいつらにガツンと言ってやっておくれよ)
「そのようなことをしても、こちらがガツンと殺されるのが関の山です。泣き寝入りしかありませんよ」
(そんなぁ〜)
「とりあえずあなたたちはウチで飼ってあげるわ。とは言っても食事と寝床を提供するくらいですがね」
(ホント? いやいや、それだけでも助かるっていうかそれ以上はお節介だからいらない! ほらあんたも、お礼言いいなって!)
(すぴー……すぴー……)

 仔猫が嘴に前足の爪を引っ掛けたが、疲れがどっと出たのかそんなことをされても仔ガラスは起きようとする気配を見せなかった。
 ところで、とこいしが口を挟んでくる。

「あなたたち、名前ないの? 呼びにくくて不便なんだけど」
(名前なんて上等なものぁ親に貰う前に捨てられてねぇ。このおばかも一緒だよ。あたいらは先にくたばった方が生き残った方の非常食になるって約束で一緒にやってきたのさ)
「それは大変よろしい友情ですね。ま、名前は私たちが良いものを考えておきましょう」

 その言葉に合わせて、さとりはこいしに目配せしながら思念会話を行った。

(おそらく、この子たちと同じような目に合って死んでいる動物が現在進行形で増え続けているでしょう。私たちのせいだとは私は思いませんが、こいしは私の心がどう思っていますか読めますよね?)
(そういうお姉ちゃんこそ私の心が読めるよね?)

 姉妹の第三の眼は、お互いにお互いの同じ心境を映し合っていた。それは思念会話に昇らせるのも少し気恥ずかしい、だが偽れない感情である。

((この子たちを助けてあげたい))

 二人は手を合わせた。
 その様子を、不思議なものでも見るように仔猫が見上げていた。



 その日の内に、姉妹は食糧を持って地霊殿の周囲を歩き回った。
 二人で手分けしてあちこちにエサをばら撒くと、怪訝に思いつつも空腹には耐えがたったのだろう。姉妹がその場から消えるのを確認後、様々な動物が撒かれたエサを貪り始めた。
 そんな様子を第三の眼で眺めていたこいしは姉に問いかける。

(ねえお姉ちゃん。こんなやり方でホントにいいのかな? 強い個体ばっかお腹いっぱい奪って食べて、弱い子は食べられてないよ?)
(仕方ありません。これは振るい分けなのですよ)
(あ、なるほど。でもそんなに上手く行く?)

 姉の思考を読み取ったこいしは唇に指を当ててちょっと考えた。
 さとりはエサを喰いっぱぐれた弱い個体から声をかけて拾っていくつもりのようだった。切羽詰っている方がより説得しやすいし、何より死なせずに済むのだから妙案ではある。
 けれどこいしとしては、もっと一気に解決したい気持ちがある。もちろん現実的ではないし具体的な代替案があるわけでもないわがままに過ぎないのだが、問題を先送りしているような嫌な予感を覚えるのだ。
 強い個体は、過酷な環境となった現状の地獄でも生き残ることができる。姉妹の助けが必要ないのだ。それでも暮らしにくくなった恨みはあるだろうし、子供を育てていれば死なせてしまった悲しみも抱えているかもしれない。さとりのやり方は強く憎しみの詰まった集団を将来的に生み出す危険性を孕んでいる。
 いや、もしかするとそれすらこいしには言い訳なのかもしれない。

(お姉ちゃん、私……この子たちはかわいそうだと思うけど、一緒にいると辛いよ)

 こいしは干し肉をいくつか地面に投げ、その場から素早く移動した。しかし無数の視線はいつまでもこいしを追っており、視線に乗せられた思念が第三の眼に入り込む。

(なんだ。なにしている)
(メシなんか撒いてなんのつもりだ)
(お前があの屋敷に住んでいるのは知ってるんだ)
(あの屋敷のせいでみんな困ってるのに)
(はやく出て行け)
(メシなんかどうでもいい。出て行け)
(出て行かなければ、早く死ね)

 ちくちくと胸に嫌悪の棘が突き刺さる。
 サトリは自分へ向けられる恐怖や畏れの感情を喰らう。だが、それと似て非なる嫌悪の感情を糧にすることはできない。他の妖怪と同じように、嫌われることはサトリとて変わらず辛いのだ。
 短期決戦でこの問題は片付けなければ、こいしの心が持たないかもしれない。

(気持ちはわかります。私もこいしと同じ危惧と辛さは抱えています。でも、焦って事を仕損じれば、その時ばかりは私たち自身の失態ですよ。誰にも責任逃れはできません。そして泣くのは、こいしと私とこの地に住まう動物たちばかり。誰も得はしないのです)
(あーあ、私なんでこんなことしてるんだろ……だからって知っちゃったからには見捨てるってこともできないし。つくづく不便だよね、この第三の眼の力って)
(たとえ嫌われようと、貧乏くじを引こうとも、第三の眼はサトリの矜持です。鬼の勝負好きが巡り巡ってこのような地底に自ら封印される境遇を招いたのと同じように、この第三の眼は私たちに不幸を呼び込んだ。それでもやはり鬼と同じように、私たちは第三の眼を捨てて生きて行くことなどできはしないのです)
(因果だねぇ……よっぽど私たち前世で悪いことしたんだよ。現在進行形で地獄に落とされているんだし)

 姉と思念会話することで、こいしの心も少しは落ち着いてきた。
 投じられた小石によって波打ち立っていた湖面が、ようやく静かなものへと戻ったようなものだった。だが未だに湖面はさざ波立ち、周囲へと気を払う余裕はない。
 こいしは一瞬、遠方から殺気を覚えた。そちらに振り向こうとした時には投じられた石が側頭部に当たり、こいしは片目を閉じて傷口から零れだした血を抑えようとした。
 たとえどんなことがあっても決して閉じることのない第三の眼が、こいしに石を投じた者の思念を拾う。

(毒でもばら撒いているんだろう。わかっているんだ)

 人の形を取れるほどに年経て成長した動物たちだった。そいつらは手に手にとても妖怪など殺せそうもない、しかし痛みは与えることができる程度のものを持ち、こちらへと投げつけてくる。
 こいしはそれらを避け、何か言おうと口を開きかけた。だが、第三の眼が見た思念はこいしの心を折り曲げる。

(我々がいよいよ邪魔になって、殺す気だ)
(騙されるものか。若衆が死のうとも、我々は死なない)
(この土地は我らのもの。お前たちの土地ではない)
(好き勝手振る舞うな。お前たちを歓迎する者などこの地獄にもいない)

 同情の想いが、一瞬にして反転した。
 こいしは、自分に向けて憎悪を抱くそれらにはっきりと殺意を抱いた。たとえ妖気を帯び年月と人肉を喰らい力得た妖怪とはいえ、所詮は畜生だ。妖怪サトリを馬鹿にするなど畏れ多い。どちらが上か生殺しの身の上で思い知るがいい。

(こいし、おやめなさい)

 食糧を入れた麻袋を捨て、爪や牙を剥き出しにしたこいしの頭の上に、錘のような姉の声が圧し掛かった。

(暴力に暴力で返してはそれこそ獣畜生と同じです。あなたはあなたを信用しようと迷っている子たちに、同族の無残な惨殺現場を見せつけたいのですか?)
(――わかった。ごめん、頭に血が昇っちゃった)

 殺意を引っ込め、こいしは頬にまで伝ってきた血の滴をぺろりと舐めた。
 暖かな姉の思念が第三の眼を撫でる。

(家に帰ったら、傷の手当てをしましょう)
(うん)









 地底都市が開かれてから、十年ほどの年月が流れた。
 人よりずっと寿命の長い妖怪たちにとって十年など瞬く間の時間である。それでも生まれたばかりの存在が過ごす十年と、長く生きた存在の十年はその比率から生じる濃度がまるで違う。
 移住してきた初年の頃は未開発地区だらけで荒れ果てていた都も、十年鬼が働き続けたおかげで見違えるほど大きく、立派なものへと成長した。
 水道は上下共に整えられ、酒虫の養殖場が設立し、娯楽施設も増えていった。
 太陽は無いながらも作物の収穫は安定し始め、地獄特有の素材を使った調理法も確立し『地獄の味』と酔っ払って言えるほど、酒の肴も豊富になった。
 そして、生まれたばかりなのは都だけではなかった。
 サトリ姉妹が拾った火車と地獄鴉も、体格だけなら成体とさほど変わらぬくらいになるまで、大きく成長していたのである。
 燐と名づけられた火車は、火焔渦巻く地獄跡をその四足で軽妙に駆けていた。
 彼女の周囲には数体の怨霊が飛び交っている。弱いながらも自らの力で屈服させ、使役することに成功した怨霊だ。行く行くはこの力をもっともっと強くして主人の手伝いをすることがお燐の目標となっていたが、体は出来上がっても力はまだまだ未熟者。力をつけるために今日もお燐は死体を探して地獄を駆ける。

(欲しい、欲しい。死体が欲しい。さとり様のお役に立つため死体が欲しい。
 焼死体、渇死体、溺死体、凍死体、圧死体、轢死体、縊死体、頓死体、墜死体、戦死体、病死体、怪死体、殉死体、変死体、自殺死体、白骨死体、腐乱死体、バラバラ死体、首無し死体。
 死体も様々、どれを取っても素敵だけど、何より素敵で愛して喰らうべき死体は怨みを残して逝った死体。
 死体、死体、死体が欲しい。さとり様のお役に立つため死体が欲しい)

 命の恩人である姉妹を、お燐は親のように慕った。実際、親から捨てられたお燐にとって主人から向けられる無償の愛情は、食糧や睡眠以上に飢えていた代物だったのだ。
 サトリ姉妹に出会うまでのお燐の生涯は、この地獄跡に燃える炎のように苛烈なものだった。
 産まれ落ちたその日から、母の乳をきょうだいと奪い合った。乳を上手く飲めずに弱って行った子供から死んで行き、強い子供だけ選別して親は育てた。まともに歩けるようになってからはすぐ独り立ちさせられ、なわばりらしいなわばりも得られずに殴られ疎まれ弾き出され、暖かさを求めて地獄跡をあてどなくさまよい歩いた。
 今は無二の親友となったおくうこと地獄鴉の空も、さして変わらぬ境遇の持ち主である。一匹と一羽はお互いが生き残るためにお互いを利用し合った。
 そんな空虚な毎日から、主人姉妹は救い上げてくれた。必ずや恩返しをしなければと、お燐は猫ながら忠義を持って姉妹に飼われている。

(欲しい、欲しい。死体が欲しい。さとり様のお役に立つため死体が欲しい)

 お燐は死体を探す。喰うにせよ、操るにせよ、死体はお燐の力となる。そもそもなぜそれほど力を欲するのかというと――

「そこな雌猫。ちょいと待てぃ」

 人と同じ言葉で話しかけられ、お燐はさっとそちらを向いた。
 頭に重い衝撃が加わり、地面に叩きつけられた。目の前が火焔ではない赤い色に染まり、ぐらぐらと視界が揺れる。四肢が萎え、上手く立ち上がることができない。
 突然の攻撃にお燐は動揺した。混乱と激昂に染まる脳をなだめすかし、攻撃の出所を探る。
 それは頭上にあった。猫の耳と二本の尻尾を備えた人の形をしたモノがお燐の割れた頭を足で踏みつける。

「お前さんは地霊殿の飼い猫かぃ?」
(……聞く前に……同族に……攻撃するなんて……野蛮じゃないのさ……!)
「悪い悪ぃ。けど地霊殿の飼い猫はいぃ飯喰ってる分すばしぃこくてかなんのさ。いちいち確認なんぞとっておったらこのように捕らえるのはどだい無理ってぇ話よ」

 人の姿を取れるほどに年経て力を得た火車がお燐を、冷えた竈のような眼で見下ろす。
 今までも何度か命を取られかねないほど危険な攻撃を同族から向けられたお燐だが、ここまで手段も矜持もへったくれもない手合いは初めてだった。

(あたいが……地霊殿の飼い猫だったとして……どうするつもりなんだい?)
「そりゃお前さん、ざくざくになぶり殺してから地霊殿の玄関に吊るすのさ」
(さとり様自身にそうする度胸もないくせに……ッ)
「そりゃお前さん、そんな真似ぇすりゃ鬼に手前ら火焔猫は皆殺しにされるぜぃ?」
(はン……! あたいの死体一匹で逃げ出すほどさとり様は肝が小さいお方じゃないよ!)
「そりゃお前さん、自分を高く見積もりすぎじゃないかぃ?」

 ぐっ、と足底に力が込められた。目を開けることすら難しく、お燐は歯を食いしばる。

「あのサトリ姉妹がちょいとでも哀しそうな顔をすりゃ、手前らもほんのちょっぴりぃくらい溜飲が下がるってもんじゃないかぃ」

 お燐は目を閉じた。自分と同じ種族でありながら、あまりにも小さい器の持ち主で恥ずかしさを覚える。
 さとりとこいしは、お燐のような境遇の地獄原住動物たちを際限なくペットにしている。それによって命を永らえた動物たちは数え切れない。また動物たちの言葉を解する能力を持つ二人は、動物たちの伝えられなかった恨みや憎しみを真正面から受け止めてくれた。
 当初お燐自身がさとりとこいしに良い感情を抱いていなかったように、原住動物たちは地獄再開発計画によって喰らった被害の怨みを、サトリ姉妹にぶつけることで解消しようとしている。
 だが、多くの動物たちは実際のサトリ姉妹が心優しく懐の深い者たちだと理解して、自ら飼われることを選んだ。そこまでいかずとも、敵視はせず野良のまま今まで通り生きることを選んだ動物たちも少なくない。
 ただ、少数だが決してサトリ姉妹を許そうとしない心の狭い年寄り連中が、このように残っている。
 地獄事業はずいぶん前から経営不振に陥り、徐々に予算が削られていったことで過疎地帯ができた。それが、鬼の買い取ったこのあたりの地域だ。灼熱地獄の竈が地霊殿で閉ざされたことはトドメであり、ずっと以前から原住動物たちは周囲の環境に振り回されて不満を溜め込んでいたのである。
 お燐のような年若い世代はこの場所が地獄だった時期の栄華を知らない。
 ただ、力無く時代に取り残され、終いには誇りまで失ってしまった同族は、いっそ哀れにすら思えた。

「…………ん? 何がおかしぃのかぃ?」

 その年寄りは、お燐が嘲笑を浮かべていることに気づいた。
 こいつは怨みのこもったお燐の死体を地霊殿に打ち捨てることを望んでいるのだろう。だから、精一杯の抵抗として、お燐は最後まで笑ってやると決めたのだ。
 だがお燐は、聞き覚えのある足音を聞いたとたんあっさりとその決意を翻した。

「うちのお燐に何しているの」

 こいしが、年寄りの背中に感情のこもっていない声を投げかけた。
 気配の感知には自信を持つ猫であるが、声の届くほどの距離にまで接近を許したことに年寄りは動揺したようだった。
 その隙をついてお燐は首を捻り、足底から頭を抜いてその場を飛び退く。
 すぐさまこいしの肩へと飛び乗り、年寄りを睨み据えた。

「その調子なら大丈夫そうねお燐。良かったわ。さ、帰りましょう」
(待ってくださいこいし様。こいつ、とんでもなく卑怯でちっさい奴なんです。あたいがやられそうになったことやり返して、今後の憂いを断っちまいましょう!)

 踵を返して帰ろうとするこいしに、お燐は自分の意思を念じて伝えた。だがこいしは眉を下げて首を振る。

「悔しいのはわかる。けど、私の力に頼ってそんなこと言っちゃ、お燐だって同じくらい卑怯じゃない?」
(あ……そうですね。はい)
「それにね。この火車がお燐にやろうって考えていたこと全部やったら、私、ものすごく怨まれるわ。嫌われちゃう。……疲れるわそんなの。仲良くしよ。ね?」

 こいしはにへらとお燐に笑ってみせた。

(年寄りめ、こいし様の寛大さに感謝するんだね!)

 お燐は身を退く体勢にある年寄りに、べっと舌を出してみせた。こいしはそんなお燐を指で小突いてから地を蹴り、地霊殿へと向かった。









「じゃあねお燐、あんまり無茶しちゃだめだよ? 今度から出歩く時はちゃんとお友達連れて、しっかり気をつけてね」
(はーい!)

 お燐の割れた頭の治療を終えたこいしは、ふぅと息をついた。
 囲炉裏の周りには、すっかり増えに増えた地獄の猫どもが輪っか状になって寝そべっている。廊下を歩けばカラスが飛び交い、足下に気をつけて歩かなければ猫に蹴躓くほど地霊殿はペットで埋まっていた。
 そんな中、自分にあてがわれた部屋に入ったこいしはぴしゃりと襖を閉め、膝を折った。目を閉じる。
 先ほどから忘れようとしているのに、お燐を襲った火車がこいしへ向けた嫌悪の感情が抜けきれない。

「そんなこと思われても……私どうしようもないよ……私だってがんばってるよ……私悪くないよ……なんで私なの……私じゃないよぉ……」

 ペットには聞かせられない弱音を、ぶつぶつとこいしは漏らし始めた。
 あの火車は、自らの身に降りかかったありとあらゆる不幸をサトリ姉妹に責任をなすりつけることで、どうにか精神の均衡を保っているようだった。そんな風にしか生きられない者もいることを、こいしはたくさんの生き物の心を読んできたことで知っている。自分に矛先が向けられるのも慣れている。
 だが、こんな風に思われたのは今まで生きてきて経験が無かった。

(何もかも見透かすその眼が嫌いだ。私の仲間を奪って。私の味方を奪って。私を独りにして。心を見る眼が嫌いだ。私を見るな。孤独な私を見るな。みじめな私を見るな)

 それは、未だに敵意を向けてくる原住動物たちのほとんどが抱いている感情だった。
 こいしとて、好きでサトリなどという厄介な能力を持つ妖怪に生まれたわけではない。自らの運命を天に怨み、境遇を周囲に恨み、何も能力を持たない人間を羨んだ。
 それでも、自らの能力に絶対の自負と矜持を持ち、向けられる嫌悪の視線を笑い飛ばし、どんな危機にも上品に潜り抜けてきた姉と一緒だったから、耐えられた。自らと同じ能力を持ちながら、絶対に折れない姉の心がこいしの目標で幸せだった。
 なのに、今ではあの火車たちのような心こそが、自分のものに見える。

(――こいし、お燐が問題を起こしたようね。先方に謝罪しに行きたいから、同行してくれる?)

 頭を抱えるこいしの手の平を貫通して、姉の声が脳裏に響いた。
 こいしは布団に頭を埋める。声にならない声を綿に向かって叫んだ。

(私が行きたくないってことくらい、私の心を見たらわかるじゃない!)
(それでも行かなきゃならないことも、私の心を見たらわかるでしょう?)

 事態を止めた張本人であるこいしを連れてこないことには、謝罪も謝罪にはならない。そんなことくらいこいしにだってわかっている。
 だが、あんな心をもう一度見るのは嫌だった。あともう少しで原住動物たちとの軋轢も消え去ることができると言われても、今までの努力が水泡に帰すと説得されても、とにかくこいしは嫌だった。
 いっそのこと――

(わからずやの連中をなだめすかすなんて無駄な真似はやめて、皆殺しにしちゃえばいいのよ)
(こいし、それは自分の心を受け止めきれない八つ当たりですよ。みっともないわ)
(お姉ちゃんが強すぎるのよ! お姉ちゃんは私の辛さをわかっているのに、わかってない! 読めているだけで共感してくれない! 私の気持ちをちゃんとわかってくれるまで、私は絶対に言うことなんか聞かないからね!)

 こいしはそう一方的にまくしたて、第三の眼の焦点をなるたけ自らの内に向けた。
 そうすることで精神世界に向ける『視線』の光が絞られ、遠距離会話がしにくくなるのだ。
 姉の声が小さくなり、こいしはそれを無視して部屋から飛び出した。地霊殿にいればペットに見つかり、さとりに報告されてしまうので街の方へと向かった。
 逃げ出したかった。
 逃げる場所などどこにもないとわかっていても、逃げずにはいられなかったのだ。



 酒臭く薄暗い路地に入り込んだこいしは、家の陰に潜り込んで膝を丸めて座り込み、深くうなだれていた。
 姉に見つかると、手を引っ張られてでも連れて行かれるような気がしたからだ。
 いつからこんな風に姉とぎくしゃくとするようになってしまったのだろうか。
 動物たちを助け始めた頃は良かった。しかし増えるにつれて手が足りなくなり、姉と一緒に行動できなくなってから反りが合わなくなったような気がする。
 精神世界では物理的な距離は意味を成さない。そのはずだった。
 姉とはいつまでもどこまでも一緒であるはずだった。
 なのに、姉は今とても遠くにいる。物理的な意味でなら、こいしから距離を取っているのは現状を見れば間違いない。それは姉が怖くなったからだ。
 心の重荷となるような仕事を要求してくる。
 こいしの辛さを理解していて、我慢しろと言ってくる。
 甘えようとしても、どこか壁があって近づけない。

「私、弱すぎるのかな……お姉ちゃんにいつまでも寄りかかりっぱなしなダメな子なのかな……」

 姉の思考の端々に、打たれ強さや自立を求める思念が混じっているのを、こいしは敏感に感じ取っていた。
 第三の眼を広げれば、街行く鬼たちの心が雑然とごちゃ混ぜになって見える。色々な奴がいるけれど、嫌われたらどうしようととか、嫌われているからどうにかしようなんていう考えはどこにも見当たらない。そんなことを悩むのは心の弱い奴だけなのだ。
 ふと、狼の群れの中に取り残されたウサギのような気持ちになった。
 本物の狼と違って、鬼はこいしを取って喰ったりはしない。だが決して狼はウサギの気持ちを理解できないだろう。
 自分は一人ぼっちなのだ。
 故郷を追われ、地上も追われ、遂には我が家からすら逃げ出してきた。
 どこにも行き場がないのなら、ここでくたばってもいい。こいしはそう思いながら、地底の闇に目を閉じる。
 だが対照的に、第三の眼はより強くより広くへと『視界』を広げて行った。
 このままでは姉に見つかってしまう。そう意識したこいしは『視点』を狭めようとして――
 その『声』を視界に捉えた。



「なるほどねぇ。理屈はわかる。私らも助かるしね。いい計画だ。けど私にはあんたの心が読めんな、サトリ」

 あぐらをかいた膝の上に手を乗せ、星熊勇儀は身を乗り出してきた。
 灯火に影が揺れる客間で、さとりは勇儀と向かい合わせに座していた。地霊殿の敷地から滅多なことでは出ないさとりが、突然鬼の頭領である勇儀と面会したいと申し込んできたのがそんなに気になるのか、部屋の外からは多くの妖怪の思念が感じ取れる。
 さとりは杯に満ちた酒を含み、口を湿らせた。

「先ほど、掃除は任せられると申しましたでしょう。私は掃除がしたいだけなのですよ」
「一掃かい。そりゃ私らはそういう荒事が大好物さ。血を見ない祭りなんて退屈さね。狩りだって面白いし、生き物を殺すのは楽しい。けど掃除ってぇ言い方は気に喰わんな」
「こちらも手を尽くしました。頑なな心でしたが、その心を私たちは読めるのです。時間と誠意を存分に使えば、その心もほどけると考えました。
しかし彼らは徐々に目的を忘れ、私たちに相容れない意味を尊重するより、私たちに相容れぬ心を維持するため自らの正当性を捨て始めているのです。そのような輩は百害あって一利無し。この地獄の底であろうと居場所はありません」

 酒精に濡れた勇儀の瞳が険しく細められる。
 さとりは、ペットにある仕事を任せようと考えている。それは都に溢れるゴミの清掃業務だ。
 地獄鴉は目鼻が利くし、火車は狭い所でも潜り込める機動力がある。集めたゴミは火焔地獄に放り込んで燃やせば良い。ゴミが死体であれば、各自好きなように処分するであろう。
 ただ、都に我が物顔で獣が闊歩するのを好まない者もいるだろう。さとりはそれをどうにかこらえてくれるようという、住民たちへの説得を勇儀に任せようとこうして直談判しに来たのだ。
 そして、もう一つどうしてもこの仕事を――地霊殿は地底に必要なのだと知らしめる計画の一環を遂行するためには、どうしても邪魔になる存在を消してもらうためだ。
 勇儀はさとりを蔑むような目で見る。いや、実際蔑んでいるのだ。

「あんたらサトリは人間のようだね」
「そうですか?」
「そうさ。人間のように弱く、身勝手だ。これで私の相手をしてくれりゃあ友達にでもなれるってもんだがね。どうだい? 私を負かせば言うことは聞いてやるよ」
「謹んで遠慮させていただきます。私には帰りを待たせている妹がいますので……」
「そうかい。あんたが掃除してくれって頼んだ動物たちにも、家族くらいいると思うがね」

 さとりは、未だに地霊殿へと下ろうとしない原住動物たちを、こいしの言うように皆殺しにしてくれと頼みに来たのだ。
 勇儀はその仕事を頼みに来たさとりの心が読めないで、戸惑っているのだ。サトリ姉妹が動物を助けているのは物好きなことだと思っているが、本人たちが動物好きならばせずにはいられないのだろうと、勇儀は理解している。
 間違いではない。さとりは動物が好きだ。だが、反抗を続けている連中は邪魔なのだ。
 勇儀はそこが理解できないらしい。さとりが可愛がっている動物も、皆殺しにしてくれと頼んでいる動物も、同族なのだ。自分にとって都合の悪い個体だけ潰すというのは、筋の通らないことだ。鬼はそのような行動を著しく嫌う。

「どうしても、動いてはくれませんか」
「殺し以外の部分なら動いてやるよ。だが汚すなら自分の手を汚すんだな」
「私たちは非力なのですよ。一匹一匹ならともかく、皆殺しにするというのはとてもとても」
「それなら土蜘蛛でもたぶらかせばどうだい? 大量虐殺はあいつこそ好むところだよ」
「なるほど、制御が難しそうな方ですが……では、汚れ仕事はそちらに委託しましょう」
「待ちな」

 立ち上がったさとりを勇儀は見上げる。

「妹さんは元気かね?」
「――あまり。ですが、アレを片づければ妹の心も少しは穏やかになるでしょう。わかっていながら、私は今まで堪えろと命じ続けました」
「妹さんに汚れ役はさせたくないからかい?」
「そうです。辛い仕事を引き受けるのは年上の役目でしょう?」

 欺瞞だな、とさとりは自分の言葉を評価した。勇儀もまた、その心を見抜いているのか険しい視線を変えない。
 確かにさとりはこいしより、精神的な負担のかかる仕事を自ら率先してこなしてきた。だがさとりの心とて鋼鉄ではない。傷つき、血も流れる。だから後ろで守る妹に羨みや憎しみをわずかながらに覚えることもあるのだ。
 自らの感情を律することなどサトリとて不可能なのである。

「……あんたらのうち、片方は地上の姐さんの所にでも置いておくべきだったのかもしれないね」
「それぞれ立派に独り立ちできたとでも? 私たちはそれほど強くないのです」

 自らの半身とも言える妹と別れることなど、さとりは想像すらしたくなかった。今でこそ鬼の計らいとはいえ安息を得られているが、さとりの心底は放浪時代から変わっていない。
 生くも逝くもさとりとこいしは、どこまでも一緒だ。









 都に来た足で土蜘蛛の住処まで向かい、交渉を終えたさとりは日付が変わってからようやく地霊殿の敷地へと帰ってきた。
 そして、その濃い血臭と共に流れ来る狂騒の思念を第三の『視界』へと収め、戦慄した。
 数知れない断末魔に、血の臭いに酔った獣の咆哮。苦痛と憎悪と敵を倒した歓喜が混じり合い、ぐつぐつと煮詰められている。
 土蜘蛛が動く日程はもっと後日のはずだ。そして彼女が動けばもっとタチの悪い病魔に呻く怨嗟の思念が吹き荒れるはずなのである。このような、まるで――殺し合いをしているかのような状態にはならない。
 そこまで思い至ったさとりは、全力で地を蹴ると同時にこいしの『視線』を精神世界に探し始めた。
 果たしてこいしは、断末魔の嵐の渦中にいた。こいしの視界が脳裏に浮かび上がり、さとりは思わず言葉を失う。
 血の海だった。
 老いも若いも雄も雌もなく、地獄跡の地面も見えないほどに猫と鴉の死体が一面と広がっていた。
 その血の海に膝を浸け、こいしは一羽の鴉の首を締めていた。腕は傷だらけの火傷だらけで、指は幾本かちぎれて無くなってしまっている。それでもこいしは鴉の首を地面に押しつけ、体重をかけて文字通り息の根を止めた。

(こいし……何しているの?)
(何って、お掃除するんでしょ? お姉ちゃん)

 現実の肉体は地霊殿の玄関を抜け、中庭へと向かっている。しかしさとりの心と魂は、妹のいる戦場にあった。
 こいしの心は今、途方も無く荒れ狂っていた。周囲から向けられる殺意に殺意で返し、憎悪に憎悪で返し、怒りに怒りで返していた。それらは思念会話の言葉として成り立たないものの、さとりにすら時折刃を向けられている。

(お燐もおくうも、お掃除するんだって言ったら喜んでみんなに声をかけてくれたよ。楽しい楽しい殺戮も死体も独り占めしちゃだめだよね。――ああ、あいつも殺さなきゃ)

 既に姉妹のペットと戦って傷を負ったのだろう。体中に噛みついたままくたばった仔猫の死体をぶら下げて、後ろ両足を奪われた火車がずりずりと地を這って逃げ出そうとしていた。
 その尻尾を踏みつけ、こいしは火車の首に手を伸ばす。怯えた火車の眼がこいしの眼と合った。

(住処を奪い、同族を奪い、同士討ちをさせて満足か? 心を弄ぶ下衆め)

 攻撃的な感情だった。こいしの心はそんな想いをぶつけられるたび悲鳴を上げ、歪み、血を流している。だからこそこいしはそんな心を抱く者を一匹残さず潰そうと、自らの手で動物たちを殺して回っているのだ。

(私を見ないで。私をそんな眼で見ないで。私だってあなたたちを許したかった。私だってあなたたちと仲良くしたかった。そうしなかったのはあなたたち。私を傷つけたのはあなたたち)
(私を見るな。私をその眼で見るな。私たちはお前たちが恐ろしい。いつかこんな風に襲ってくるとわかっていたから怖かった。攻撃せずにはいられなかった。そんな心の弱い自分を見透かされるのが怖かった)

 開かれた天窓から飛び降り、地獄跡へと降り立つ。血の飛沫がぱしゃりとさとりの足下に散った。

「こいし!」

 現実の声で妹の名を呼んだ。
 死屍累々の遥か彼方、新たな死体を投げ捨てたこいしはさとりへと首を向けた。
 自らの血とも返り血ともつかないほど身を深紅に染め、こいしは爛々と三ツ眼を輝かせていた。
 その威容に、さとりは思わず足が竦んだ。たとえどれほど姿形は狂気に彩られていようと、胸の内は痛みと恐れで縮こまっているだけの弱い心しかないのだとわかっていてもなお、恐怖を抑えきることはできなかった。
 こいしは、そんな姉の心を読んで、顔をくしゃくしゃに歪めた。

(お姉ちゃん……私がんばったよ? この子たちに好かれようってがんばったよ? お姉ちゃんの言う通りにすれば間違いないって思ってがんばったよ? お姉ちゃんが怖くて、お姉ちゃんに嫌われたくなくって、私がんばったんだよ?)
(私がこいしを嫌うわけないじゃない)
(うそだよ)

 先ほど覚えた感情を無かったことにしようと、妹との離れてしまった距離をさとりは詰めようと走った。しかし屍に足を取られ、血はぬかるみ、炎は荒れていた。
 こいしは不揃いな形になった手で頭を抱える。髪が血と指の間に引っかかったはらわたでまだらに染まり、こいしを凶相へと駆り立てた。

(お姉ちゃん、私を邪魔だなって何度も思ったじゃない!)
(違う)
(私より動物の方が大事なの? ってちょっと考えたら、軽蔑したよね!? 私がもう嫌だって思ったら、しょうがない子ねって、呆れていた! 私はなんとかしようって思ったけど、そのたびにぎくしゃくして、怖くって、逃げるしかなかった! お姉ちゃんは私を見なくなった!)
(ちゃんと私はこいしを愛している。私の心を見ればわかるでしょう?)

 こいしは、ぷるぷると首を横に振った。
 そして、欠けた手で第三の眼を握り掴む。

「もう嫌だ! お姉ちゃんの心なんかもう読みたくない! 誰にも嫌われたくないの! 怖がってほしくない! そうだよ、こんな眼があるから! みんなにも、お姉ちゃんにも――!!」
(やめなさい、こいし!)

 心の声の方が速かったから、さとりは思念でもってこいしを制止させようとした。
 その時にはもうこいしの第三の瞳は瞼を閉じていた。
 こいしはその瞳から自身の身体へと伸びる血管を、力任せに掴んで引きちぎった。
 新たな鮮血が血の海地獄の嵩を増やした。
 さとりの伸ばした手は、こいしに届かなかった。



 瞳を見開いたまま、こいしは血の海に倒れ伏してぴくりとも動かなかった。
 手には閉じられた第三の眼が鷲掴みにされたまま、なんの反応も示さない。
 その唇に、さとりは震える指先で触れた。

「……こいし?」

 息を、していなかった。
 指先が下がり、首筋を通り、胸元へと到達する。耳をこいしの薄い乳房に押し当て、さとりはそこに無音が広がっているのを覚った。
 人形のように力無く横たわる肉体を抱き起こし、第三の眼を開いてさとりは精神世界へと埋没する。

「ぁ……」

 一面の、暗闇が広がっていた。
 どこを探しても、どこまでも見渡しても、他人の『視線』など感じ取れなかった。

「いやだ……」

 サトリとは心を読む妖怪である。そして妖怪とは精神的なものにその生命を依存する。それ故にサトリの読心能力は恐れられ、嫌われ、殺され、こんな地獄の底まで追いやられた。
 だが、サトリ自身もまた精神に生命を委ねている。心が傷つけば体調も悪くなる。そして、自らの支柱であり心臓であり矜持であり能力であり嫌悪する第三の眼を閉じれば、どうなるのか。
 死ぬしかあるまい。
 自らの否定は、自殺にしかならない。
 サトリ妖怪とは、心の妖怪なのだから。

「いや……こいし、私を独りにしないで……」

 抜け殻になった肉体を揺さぶっても、叩いても、何も変わらない。
 失われた命は二度と戻らない。
 そう理解した瞬間、さとりの第三の眼に繋がる血管が、ぶつりと一本切れた。

「あ……あああぁぁぁあぁぁああぁあぁぁぁあああああぁぁあああ!!」









―3―
地上とサトリ




 まどろみから覚めたさとりは寝返りを打とうとして、ベッドが妙に狭くなっていることに気づいた。
 お尻をつっかえさせたそれはさとりの肩にそろそろと伸ばした腕を巻きつかせる。ウェーブがかった灰緑色の髪がさとりの口元にかかった。

「にへへ……お姉ちゃあん……」

 唇の端から涎を流し、こいしはさとりの胸に顔を埋めていた。
 無意識に行動するこいしは、時折猫のようにいつのまにか寝床へと潜り込んでいることがある。いつもは遠慮なしにひっぺがすのだが、夢の内容を思い出したさとりはこいしの肩を掴んだ手で、その頬に触れた。
 地底に住み始めたばかりの頃で辛い時期の夢だった。何百年も前のことだが意外にも鮮明に覚えている。あの頃は本当に忙しくて、こんな風に姉妹揃って床につくなど、考えもできなかった。
 だからなのだろう。妹がこんな風になってしまったのは。
 さとりは夢の続きを追うように、目を閉じた。あの後息絶えたこいしの身体を地霊殿に持ち帰ると、なんと息を吹き返したのだ。
 だがそれは完全な蘇生ではなかった。妖怪サトリの能力を否定したこいしは、サトリではない新たな妖怪として生まれ変わったと言った方が正しかった。
 さとりの第三の眼をもってしても読めない、無意識に行動し他人の無意識の隙間に忍び込むサトリとは正反対の心を弄ぶ妖怪。
 それが、自らの心を閉ざして得たこいしの力であり、生き方だった。事実こうなってしまってからこいしは泣くことも塞がることも落ち込むことも無くなり、取りとめのない妖怪になった。
 ただただやりたいことだけをやり、やりたくないことをやらず、誰にも気づかれず、咎められず、受け入られることも拒絶されることもない空気のような存在だ。

「こいし……」

 それでも、傍にいてくれるのだ。
 こいしの細い肩を抱きしめたさとりはベッドの暖かさに再び目を閉じた。



 地霊殿のエネルギー事情は、近年とある事件を境にほぼ無尽蔵の使い放題な景気のいい状態へと突入した。
 風呂は常時沸きっぱなし、明かりも暖房も付けっ放し、竈の最大火力は釣瓶落としも入れそうな寸胴鍋満杯にした水を十秒で沸騰させ終いには鍋をも溶かす危険域へと到達しており、火遊び大好きなペットたちは大いに喜んでいる。
 棚ぼたのような恩恵で得られた暖かい朝食を、さとりはこいしと向かい合って頂いていた。
 ベーコンから浮き出たスープの表面に漂う脂をスプーンで一箇所に集めつつ、こいしはにこにことさとりに話しかけ続けている。

「それでね、この間は永遠亭ってとこに行ってたの。焼き鳥屋さんがよく出入りしているからって聞いてね。まあその焼き鳥屋さんはただの健康オタクだったんだけど。永遠亭の姫となんか壇ノ浦の話で盛り上がっていたわ。それでねー。二人とも見てきたような話しぶりで、人間の歴史研究ってのも進んでいるのねーって思ったの」
「人間の寿命は短いですからね。見てもいない光景をまるで見てきたかのように面白おかしく話すことこそが歴史なのですよ」
「面白おかしいかなー? 人里で歴史を教えている寺子屋の授業っていうのを覗いてみたことあるけど、すんごく退屈ですぐ出てきちゃった」
「それで、人里は面白かった?」
「んー、旧都の方がよっぽど都会的だけど、人間と妖怪が案外仲良くしているのは見ていて面白かったわ。カフェで読んだ新聞は退屈だったけど」
「そう」
「お姉ちゃんも来ない? 人里で人間驚かしたり串刺しにしてみたりしようよー」
「ごめんなさいね。私は知っての通り出無精なものだから。それに、地底の妖怪が地上と交流を持ってはいけないという条約が解消されたという話も聞いていませんしね。一応」
「お姉ちゃん、お燐にもおくうにも私にもガンガン地上に出てどんどん地底の妖怪の恐怖をバシバシばら撒けって言ってるじゃない。お姉ちゃんも人里を恐怖と血の海のどん底に沈めてみたくないの?」
「気持ちだけありがたく受け取っておきますわ」

 こいしは地底と地上を繋ぐ間欠泉が噴き出してからはよく地上へと遊びに出て、たまに帰ってきては必ずさとりへと報告をするようになっていた。
 よほど地上は楽しいのだろう。食べることも忘れるほどに語ることへ熱を上げる妹の姿を見ることこそが、さとりには楽しみであった。

「もう、お姉ちゃんったらノリが悪いんだから。そんなんだから嫌われるんだよ?」

 ただ、毎度毎度最後にはこうして地上に出ることを誘われ、断ることによって空気を悪くするのが問題なのではあったが。
 こいしの言うように、さとりはかつてこの地底都市が築かれた際に結ばれた条約は無効になったと判断しており、配下のペットたちを地上へと解き放っている。長い時を経て忘れられた妖怪の恐怖を、新しい世代の妖怪たちにも人間たちにも教えることで、お互い良い刺激になるだろうと考えているからだ。
 だが、そこに自身は決して同行しない。
 こいしは生まれ変わった。ペットはほぼこの地底の原住動物だ。だがさとりは封印された時から変わらないサトリで、地上の妖怪たちには未だに嫌われているだろう。
 今さら地上の連中を恐れる気など無い。ただ、地霊殿にお前たちが封じたサトリは未だに健在なのだと伝わればさとりとしては十分だった。地上へと顔を出さないことが、プレッシャーになる時もある。
 嫌われ者なら嫌われ者で良い。だが、決して忘れられるつもりもない。どれほど栄華を極めようと、楽園を築こうと大いに結構。しかしその浮かれる足下のはるか底には、虫唾が走るほどに嫌な奴が笑っているのだと意識の隅っこに留めさせることこそが、さとりの嫌われ者としての矜持だった。

「私は私に向けられる悪意に対して、相応の悪意を返すだけよ。私を嫌う者は全て自分が嫌いなのです。その程度のことに気づけない小さいものの好悪など、私にとっては路傍の石ころくらいどうでもいいことですわ」

 そんなこんなで、地霊殿の優雅な午前は消化されて行くのだった。









 地底に封じられ、ペットたちとの結束も強くなり、こいしがあてもなくふらつくようになってから、さとりの負担は少しずつ減っていった。
 本来の仕事である怨霊と旧灼熱地獄跡の管理は、それぞれ火車と地獄鴉を仕切るお燐とおくうが担当するようになった。ペットたち自身もまた成長するにつれ自分の身の回りのことは自分でするようになり、やがては年少組の面倒まで見られるようになるのである。
 以来、数百年。ペットたちだけでは解決しきれない問題や、こいしの起こした騒動の片付け以外でさとりが出張る仕事はなくなった。いわば隠居である。
 となれば後に残るは趣味にかける余生である。珍しい生き物を見つけてはペットにして愛でる生活は穏やかであったが、やや退屈にすぎるきらいがあったのも事実だ。そこに降って湧いてきた地上への道開通という朗報は、さとりにとっても嬉しいものだった。
 自らは外に出ないというものの、地上の懐かしい動物たちをペットに捕まえさせて新たなペットの一員に加えるというのは、中々に充実した日々である。生来の能力故なのか、長女であるからなのか、さとりは世話好きなのだ。
 その日もまた、さとりは前庭の池へと放ってやった鯉に餌をやっていた。魚類の思考は単純ではあるが、鯉は長生き故に頭の良い個体も生まれてくる。そのうち龍神になるまで飼ってやれば、きっと面白いことになるだろう。
 自然に綻ぶ口元を隠さずに餌を撒いているさとりの第三の眼に、何やら邪まな気配が感知された。
 さとりは感知方向である上空を眺める。はるか彼方に岩の天井が見えるだけのはずが、突如放たれた眩い光にさとりはとっさに手でひさしを作って、身構えた。

「おや、気づかれましたか。さすがはサトリの地獄耳ですね」

 ばさっ、ばさっ、とおくうとは似て非なる風切り音を従えて一羽の烏天狗が地霊殿の前庭へと降り立った。
 河童が作ったというカメラをさとりに向けて、にこりと千年前から変わらない営業スマイルを浮かべる。

「こんにちは。清く正しい射命丸と申します」
「ああ、射命丸文さんですか。巫女の心にありました偏屈記者ですね。こんな地の底までよくいらっしゃったものですが、私は労いませんよ」
「ええ、記者の取材に限界などありません。そこにスクープあるならば、例え火の中水の中、烏天狗でもモグラの真似だってしてみせましょう」
「『もちろん鬼も取材した上でやってきたわ。大声大会や絡み酒なんかはネタにならないけど、それを我慢してまでやってきた魔境の奥地。まともな収穫一つも無しに帰ることなんてできはしないわよ!』ですか。ちょっとレバー取り出してみませんか? たぶん鉄の毛がもじゃもじゃ生えていると思いますよ」
「おぉっとっ。私の心を読んで弱味につけこもうとしていらっしゃいますね。そうはいきません。弱味には弱味。私のカメラはあなたの弱味を激写しますよ?」
「良いでしょう。退屈していたところです。地上の妖怪の心、久しぶりにさらけ出していただきましょう」

 さとりが遊ぶつもりになったことを理解した文は、翼の一打ちで風を巻き起こし、地霊殿の屋根より高い高度へと一瞬に飛び上がった。相変わらず烏天狗はすばしっこいだけが取り得のようである。
 対照的にゆっくりと高度を上げたさとりは、万華鏡を覗き込んだような弾幕を撒き散らす。さとりが名前を付けていない弾幕は全て催眠効果を誘発させるもので、そこから得た記憶の取っ掛かりから様々なトラウマを引きずり出すのが彼女のプレイスタイルだ。
 反面、殊勝なことに天狗は弾幕ごっこだというのに、自らは弾の一粒も撃たないスタイルを貫くようであった。代わりに次々さとりの姿を激写し、ネタ集めに腐心している。
 八枚ほど姿を撮られたあたりで、さとりは様子を見ることをやめた。あちらがネタ集めをするつもりなら、こちらもトラウマ発掘に専念させてもらおう。そういった恐怖演出にぴったりなスペルカードも用意してある。

「脳符『ブレインフィンガープリント』」

 四秒後、まばらに放射された緑弾をかいくぐってさとりを接写しようとした文は、時限式地雷の爆破に巻き込まれて撃墜された。



「いやぁー、トラウマ堪能させていただきました。もう三度と見たくないですね!」
「『はたても一度と言わず二度三度天井に押し潰されるといいわ』ですか。はたてさんとやらが来た時のために覚えておきましょう」

 ライバル記者らしい烏天狗の姿が文の思考の端々から感じ取れた。さとりが発掘した文のトラウマは、こうして第三者にも被害がばら撒かれて行く。ささやかな悪意のお裾分けである。
 何度と無く天井と弾幕に押し潰された文にさとりは自らの手で淹れたお茶を差し出した。
 軽く百回くらい撃墜されたにも関わらず、不屈の意志で取材を諦めなかった彼女に敬意を表して、さとりは文を食堂へ案内し口頭取材も受け入れた。
 天狗は千年近く前にサトリを情報網で追い立てた怨みはあるが、文の記憶を読み取ったさとりは気にしないことにした。当時の文はどうやらまだひよっ子だったようで事件に関与していなかったようなのである。そもそもサトリへの恐怖が染み付いた世代が、突撃取材などするはずもない。
 メモ帖とペンを手にした文は、さとりに質問を投げかけた。

「あいかわらず性格は悪いようですが、地底に移住してお友達などはできましたか?」
「『それにしても獣臭い屋敷ね。嫌んなっちゃうわ』ですか。お察しの通り、友などおりません。周りにいるのはペットばかりです」
「さすがはサトリですねー。嫌われ者の中の嫌われ者、嫌われ者の金字塔です」
「『わかりきっていてこの程度じゃネタになんないわ。そのペットの取材はもうしちゃったし』ですか。私はそういう記事を書いてほしいですから残念な話ですね」
「と、言いますと?」
「『無闇にみんなの恐怖心を煽るだけの記事は書けないわー。もし載せるとしてももうちょっと誇張しないと怖さがわかってもらえないしね』ですか。私としても正確に私の恐怖を伝えて頂かなければ迷惑なので、それくらいならボツにしていただいて結構ですよ」
「ははぁー。私を通じて地上の我々に自らの存在をアピールしたいのですね」
「『意外と普通ねー。みんなと同じこと考えているわ。つくづくネタにならない』ですか。ま、サトリといえども妖怪であることには変わりないということですよ」

 文はどうやらさとりがもっと強烈なキャラクターであることを期待していたらしい。だがこれも裏返しなのだ。
 もし文がもっと無礼で取材など気にせずさとりを害するつもりで来ていたならば、さとりも相応の対応でもって文を害したであろう。文がつまらないと思うのは、文自身が記事にならないようなつまらない真面目な天狗だからだ。
 そういうような意味のことをさとりは文に説明してやった。そしてこう締める。

「つまり、そんなつまらない真面目天狗のあなたが書いた記事も、どうあがいたってつまらないということですよ」
「む……。そうなると、サトリ妖怪とはまるで空っぽな山彦のようですね。それを嫌ったり怖がったりするのもばかばかしく思えます。この線で記事を書いてみましょう」
「『それにしても伝聞と全然違うわねー。やっぱ現場に出て突撃取材はしてみるべきものね』ですか。天狗の言い伝えなど当てになるはずなどないという証明は胸に手を当てればわかると思うのですが」
「手に入れられる情報源の信用性はどうであれ、そこから想像することが知性の豊かさと言えるんじゃないでしょうか。心を読めばわかるサトリにはわかっていただきにくい概念かと思いますが」

 嘘つきで口も頭もくるくるとよく回る烏天狗にしては珍しく、思考と台詞が一致した言葉であった。その程度には確固たる信念に裏づけされているのだろう。そう、烏天狗たちにとって新聞とは情報収集するためのメディアではなく、単なる娯楽なのだ。

「それはもはや新聞ではないのではないかと」
「新聞とは元来そういうものなのです。情報の真贋を見抜くことは読者の手に委ねられているのです。私たちは真実の押し付けなど致しません。わかりきっていることを言うのもばかばかしいでしょう?」
「『たとえば目の前の思っていることを復唱する奴みたいにね』ですか。ですが、これも私なりの娯楽であり生き甲斐なのですよ。自身を真正面から見るには少なくとも水面が必要でしょう。心を真正面から見るには私のようなサトリが必要です。自分の心の醜さに耐えられなくなり、自滅して行く様を見るのはとても楽しいことじゃありませんか?」
「川に吠えて肉を落っことした犬を見て喜んでいる時点で、犬と同列じゃあありませんか。私たちならば、そんな愚かな真似をして溺れ死んだ犬をネタにしたとしても、決して笑いを取るような記事にはしませんとも」

『そんな低俗なネタを記事になんかしたりしませんけどね』と文は内心で結んでいた。
 つまり、とさとりは指を顎に当てて首を傾げてみせる。

「私は記事にはなりませんか?」

 文が喧嘩を売っているわけではないことは理解していたが、挑発する意図を込めてさとりはそうたずねた。
 首を振った文はこれ以上無駄な労力を割きたくないようだった。

「いえ、はるばる地底まで来て得たネタなのですから、記事にしますとも。出来上がったら持ってきましょうか?」
「『もう一回鬼と挨拶するのは勘弁願いたいけどねー』ですか。なら手ずから持ってきてもらいたいところですね。もっとも、私の妹に渡していただければ手間は省けますが」
「ほう、妹さんがいらっしゃるのですか。あなたがサトリ最後の生き残りだと聞いていたのですが」
「あなたの世代にとっては過去のことですからね。あなたたちが住んでいる山にはかつて、私たちも暮らしていたのですよ。ですが、あなたがた天狗たちが私たちサトリの恐怖を煽ったばかりに、私たちは住む場所を追われ、このような地底にまで封印されました」
「そりゃあ、みんなあなたのような性格の悪い方ばかりでしたのなら、追われても仕方なかったんじゃないでしょうか」

 文を試すつもりで放った言葉だったが、彼女は思考をそのまま即答して返した。
 答えそのものはつまらない。しかし天狗でありながら取材対象のご機嫌伺いなど考えもしなかったその態度自体を、さとりは気に入った。
 こいしの話を聞いても、文の思考を読んでも、地上がすっかり様変わりしたことは伺い知れた。だからさとりはこうたずねた。

「では、今の地上は私を受け入れてくれるでしょうか?」
「ふむ」

 文の思考が滑車のようにめまぐるしく回り、様々な妖怪や状況をさとりに当てたケースを想定し、分析し始める。
 だがその内容はどのようにすればさとりをネタに記事が書けるかどうかという、天狗らしいシミュレーションだった。苦笑いを浮かべるさとりに文が気づいたとたん、彼女の思考にすとんとある人物が落ちてきて、今まで組み立てたシミュレーションが砕け散った。
 文は残念そうに首を振った。

「あ、無理ですね」
「……茨華仙は私たち地底の妖怪が地上に出るのを好まないだろう、と?」

 シミュレーションを砕いた人物――それは妖怪の山で修行をする仙人のことだった。
 彼女は今も地底と地上に繋がりが出来るのを止めたがっているようである。

「今は間欠泉のことなど気づいていらっしゃらないようですけれどね。私としては穴など塞いでほしくないのですが、あの方は地底と地上の交わりを断つために動くやもしれません」
「そうですか……」

 思わずため息が出る。
『おや、サトリでもこのように残念そうな表情をするものなのね。よっぽど地上に出たかったのかしら?』
 そういう文の思念を読んで初めて、さとりは自分がため息をついたことに気づいた。
 自分は文の言うように、地上に出たかったのだろうか。
 だが文に質問を投げかけた時のさとりの思考を見つめる者は、もう地上にも地底にもいない。心を真正面から見るための水面は、この世に一つさとりしかいないのだ。
 水面は自らの形を知ることはできないのである。









 博麗霊夢は熱気のこもる境内から林の方へと逃げ出し、吹き抜く風が汗をさらう快感に目を閉じた。

「あっつぅー……やってらんないわ。あんなとこにいたら紅白饅頭が蒸し上がっちゃう」

 酒臭いげっぷを吐く。霊夢の背後ではどんちゃか妖怪たちが鍋を肴に騒ぐ声や物音が絶え間なく聞こえ、夜が明けるまで宴会は続きそうな様子だった。
 のそのそと台所の方まで霊夢は逃げ、桶いっぱいに溜めた冷たい井戸水で顔を洗った。手ぬぐいで水の滴る髪や汗まみれになった体を拭きつつ、どうして真夏に鍋なんかやっているのだろうと霊夢は思い返した。

「……って、なんでよその神社のご利益のためにウチが宴会場の敷地貸してあげてんのよ!?」

 本日の博麗神社における守矢神社のイベント《常温核融合実験》は成功し、どこかの誰かが言い出した『この熱で核融合鍋でもしましょうか』からなし崩し的に場は宴会空気へと流れ込んだ。
 騒がしいのは好きだが暑苦しいのは勘弁と魔理沙は早々に逃げ出した。霊夢はただ酒が飲めるならなんでも良かった。あとは宴会の片づけをみんながしてくれるのなら文句はなかった。状況の認識が甘かった。
 酒豪の天狗と平気な顔して飲み合える山の神様が大勢の鍋など用意すれば、狭い博麗神社の境内はたちまち地獄釜へと変貌を遂げるのは自明の理であった。さすがは核融合エネルギーである。霊夢は本日をもって核融合とはお湯を沸かす力と地獄を作り出す力があることを学んだ。

「おや、巫女はもうへばっちゃったのかしら?」
「お酒飲みながら心頭滅却なんかしてらんないんだもん。って、そもそもこんな暑っ苦しいどんちゃん騒ぎになったのはあんたのせいでしょ!」

 台所を借りに来たらしい華仙は山盛りの野菜と菜切り包丁を携えていた。
 勝手にまな板を出して野菜を刻む華仙の後ろ姿を恨みしげに霊夢は見つめる。

「大体、昨日はあんたの口車に乗せられたけど、地底の核融合炉が止められたら温泉も止まるじゃない。私、得しないどころか損するだけよ。あーあ、パラジウム合金なんて作ってもらうんじゃなかったわ」
「あのねぇ霊夢。あなた、人間の安全と温泉どっちが大事なの?」
「んーっと……温泉?」

 華仙は、はぁとため息をついた。霊夢はむっ、と身構える。これはどうやら華仙の説教スイッチが入った模様である。

「いいですか霊夢。地底の妖怪は地上の妖怪と違うのよ。全ての地底の妖怪があなたのやり方で退治できるとは限らない。聞けばずいぶん前の夏に出た鬼を、結局あなたは退治しそこなったそうじゃない。取り返しのつかない事態が起きる前に封じるのがゆくゆくはあなたの負担も減らすのです」
「って言ってもねぇ。もうこっちで根ぇ降ろしている奴も結構いるし、そいつらまた地底に押し込むだけでいざこざ起こるのが面倒だし」

 霊夢の言う地上に根を降ろした者とは、妖怪寺に住まう連中のことだ。妖怪の救済を謳うあの寺の親玉が、自分の弟子たちを地底に封じ込め直すと聞けば相応の対応をしてくるに違いあるまい。

「それに今のところ地底の妖怪全部が地上に溢れ出てきているってわけでもないじゃない。あっちが心地良い奴はあっちでのんびりしているのよ」
「そのとおりです。だからこそ私は地獄の蓋を閉めたいのよ。地底の妖怪が地上を害するだけとは限らない。地上の妖怪が地底を害することも十分にあり得るのだから」
「はい?」
「地底には忌み嫌われ封じられた妖怪しかいないというわけではないのよ。地上で生きることは危険だから、やむを得ず地底に逃げ込んだ者も少なくはありません」
「結構ややこしい事情があるのね。ま、私は温泉が湧き続けてくれれば何も文句は無いんだけど」
「だから、もう少しあなたは自分のことだけでなく――」

 霊夢はそっと耳栓をした。
 仙人である華仙は、もしかすると地底世界が出来上がった経緯を見てきたのかもしれない。そういう歴史の現場を見てきた者と言い伝えだけ聞いた者との間では隔絶した認識の差がある。
 人間は既に地底の妖怪のことなど何も知らないのだ。









 放し飼いの猫は複数の住処を持っているものである。食餌にありつく家、昼寝するための家、おやつを食べるための家、夜寝るための家――用途や目的は様々であるが、火焔猫燐もまた地霊殿以外の住処を地上に複数確保していた。
 その一つが、博麗神社である。
 猫の姿のままこいしに抱かれた彼女は熱気渦巻く神社から間欠泉の穴を通り、地底の我が家へと帰ることにした。

(今のところ肝心の神様たちがどうするつもりかわからないとはいえ、ちょいと先行きが不安だねぇ)

 お燐はさとりから地上の様子を伺う仕事も任せられている。その中でも現在特に重要な偵察任務は、核融合炉閉鎖の兆しを察知することであった。
 一時はその融合炉の心臓部である親友を元に戻すため一計を案じたお燐ではあるが、おくうが反省し正気に戻った今、手に入れた力をむざむざ返すのは癪に障る。核融合炉閉鎖に関してはお燐もまた反対派の一匹であった。
 もっとも、大きな行動を起こすことはさとりから止められている。天狗が情報源である以上信憑性は薄い話なので、下手に事を大きくすれば恥をかくのは地霊殿の方だ。ペットの中でこの情報を知らされているのはおそらくお燐だけであろう。
 こいしの能力に相乗りして橋を通過し、旧都を越え、地霊殿に到着したお燐は、玄関で人間の姿に変化しながらエントランスホールを駆け抜けた。

「さとり様、お燐でーす! ただいま地上から帰りましたー! ……ってぇ言って聞こえたら世話ないよねー。お屋敷が広すぎるのも問題だー」

 屋敷のあちこちに生息するペットの世話をして回っているさとりを捕まえるのは、これで結構面倒なものなのである。頬をかいてさてどうしたものかと廊下を歩き出したお燐の袖を、こいしはちょいちょいと引っ張った。

「お燐、そっちじゃないよ。お姉ちゃんはこっち」
「あ、はい」

 こいしが指差す方向へとお燐は素直に踵を返した。
 どういう原理なのだかお燐にはよくわからないのだが、こいしは心を読めないくせにさとりの位置だけは正確に把握できるという特技を持っているのだ。
 案の定、さとりはテラスに出て地獄鴉たちとお茶をしている最中であった。お燐の心を読んだらしいさとりは今まで談笑を交わしていた地獄鴉たちに視線を向ける。

「悪いけれど、お燐たちとだけでお話したいの。あなたたち、席を外してくれるかしら?」

 おくうの言うことも滅多なことでは真面目に聞かない地獄鴉どもであるが、主人の言うことだけはよく聞くものだ。黒い羽根をテラスに散らかして地獄の空へと鴉たちは飛び立って行く。
 その間にお燐の心から『報告』を読み取ったさとりは、紫の瞳を少し険しく細めた。

「ごくろうさま、お燐。それからこいしも」
「いえいえ。で、どうするんですか? 引き続き様子は見続けようと思うんですけど」
「それには及びません。お燐が見た仙人の姿――間違いなく大江山の鬼の副将を務めた茨木華扇です」
「誰ですかそれ?」
「地上に残った唯一の鬼ですよ。お燐が見たように、鬼であることは隠し仙人として暮らしていたようですが……未だに彼女は地底の様子を見張っているつもりなのかもしれません。騒いでいるのは彼女だけです。一度、彼女と私が話し合いをすればわだかまりは消えるでしょう」

 どうやらさとりは穏便に事を進める気らしい。喧嘩好きなお燐としてはやや残念ではあるが、主人が血を出したくないというのなら従おう。
 そのかわり、お燐には重要な仕事を任せられるはずだ。即ちあの仙人をこの地獄の底の地霊殿まで案内するという――
 さとりはそんなお燐の思考を遮るように、首を振った。

「いえ、出向くのですよ。お燐に連れてきてもらう必要はありません」
「え?」

 主人の言葉を、お燐は聞き間違いかと思った。今までさんざんこいしに誘われながらも地底に引きこもり続けたさとりが、地上に出る?
 お燐が内心で抱いた疑問にさとりは頷く。

「お燐。四本足のあなたは勘違いしているようですが、話し合いというのは血を見るより凄惨な事態を引き起こす解決法ですよ。地上の幻想郷では今やもっとも平和的な諍いの落とし所は、弾幕ごっこです。私はそれを最初から放棄し、サトリとしてもっとも得手な戦い方を選んだということを理解なさい」

 主人から放たれた覇気に、お燐の毛が無意識に逆立つ。
 そう、妖怪の弱点である精神的な痛み所を察知する第三の眼を持つからこそ、さとりは忌み嫌われ恐れられ地底に封じられたのだ。さとりの戦いに剣も弓も槍も弾幕も必要ない。ただ言葉だけでさとりは妖怪を殺せるのだ。
 いつだったか――まだ仔猫と言っても良かった時代の記憶がお燐の中で甦った。確か、さとりの留守中にこいしがお燐やおくうといったペットたちを扇動して、まつろわぬ動物たちを皆殺しにすると宣言した時のことだった。
 あの時のこいしの方が、相手の戦場に立とうという意思がある分サトリのやり方としてはまだマシなのだ。

「護衛に空を連れて行きます。燐、呼んできなさい」

 お燐は黙って頷き、親友を呼びにテラスから飛び立った。
 さとりは今から地上へ攻め入るのだ。およそ約千年ぶりに地上へと帰ってきたサトリは、鬼を殺すつもりでいる。
 因果といえば因果である。
 ただ、お燐としてはなぜそこまでさとりが地上にこだわるのか、未だに読めなかった。

「さとり様、あたいはさとり様のお心がわかんないですからね……万全な調子でないのに鬼に喧嘩売るなんて真似はやめてくださいよ……」

 精神を傷つけるつもりで戦いをするのなら、逆に傷つけられる覚悟も決めるべきである。主人がその程度のことも承知していないはずはないとお燐は信じていたが、心にせよ体にせよ十全でない状態で戦いを挑むのもまた、愚かなことであった。









―4―
サトリとさとり




「ねぇお姉ちゃん。お客様を招待してもいい?」

 数年ぶりにこいしとまともに夕食が摂れた折、さとりは妹が持ち出した突拍子もないお願いに細い目を丸くした。
 つい先日地霊殿に殴り込み旧灼熱地獄跡でおくうと遊んだ人間を客と定義するなら、あれは実に数百年ぶりの客だったということになる。それほど地霊殿に訪れる者は絶えて久しかった。
 ましてやこちらから招待するなど、ペットにする動物を除くと今までに例が無いのではなかろうか。

「……どうしたの突然。やぶからぼうに」
「うん! それがね――」

 さとりの問いかけに、ぱっと顔を輝かせてこいしは事情を語りだした。立て板に水を流すように勢い良く、そして楽しそうに話す妹の姿も、久しく見ていないことにさとりは気づいた。
 ――おくうに授けられたパワーが羨ましくなって、自分のペットにも頂こうと考え地上へ飛び出したこと。
 ――約千年ぶりになる様変わりした地上の賑やかさと華やかさ。
 ――登りつめた妖怪の山に建つ神社で出会った、さとりやお燐におくうとまで戦ったという、不思議な人間。
 ――その人間と力いっぱい遊んで、もっともっとかの人間のことを知りたくなった。
 ――そして、その人間に地底のことをもっともっと知ってほしくなった。
 ――友達になりたい。
 こいしのまっすぐな言葉にさとりはただただ驚くばかりだった。
 確かに、さとりもこの三つの眼で見たかの巫女と魔法使いは、姉妹が地上にいた時にはいない種類の人間だった。妖怪のように飄々とし、人間そのままに刹那的で、知恵の深さと思慮の浅さが混在した、なんとも言えない魅力に溢れていた。
 それでも、嫌われることを嫌うが故に己自身を拒絶したこいしが、自宅にまで地上の人間を招待したいなどと言い出すとは、まるで思いもしなかった。

「……もちろん、構いませんよ。お燐の案内で地獄巡りしてもらうのもいいわね」

 自然に表情が綻び、さとりは快諾した。
 嬉しかったのだ。
 自らの手では終ぞ閉ざされた妹の心を開くことができなかった。責任の全てはさとりにあり、今も時折血の海に沈むこいしの姿を夢に見ては過去を悔いる日々が続いている。
 長い年月が過ぎた。
 空に授けられた力は太陽の力だ。その力強い光は、地底の片隅で倦んでいたサトリ姉妹に、暖かな日差しを与えてくれたのだ。
 一度は捨てた地上の光が妹の心を救ってくれるのなら、これほど素晴らしいことはない。
 妹が捨てられた地獄から這い上がり、生き返ることをさとりは何より楽しみにしていた。
 生まれ変わった地上の幻想郷は、きっとサトリ姉妹も受け入れてくれると心のどこかで信じていた。
 その気持ちを踏みにじるのなら、蜘蛛の糸を切るつもりなら、たとえ釈迦でも許さない。
 おくうに抱えられたさとりは間欠泉と共に、地上へと飛び出した。



 空気を蹴りつけるように力強く羽ばたく翼の風切り音が、しばしさとりの真っ赤な視界の中で響き渡った。
 高揚した胸の鼓動が背中を叩き、第三の眼が捉えた心と同じ声がさとりに話しかける。

「見てさとり様! あれが私に与えられた力よ!」

 さとりは、自分が目を閉じていることに気づいた。
 うっすらと両目を開けば、予想外の眩しさに眉をしかめてしまう。長い地底生活でさとりの瞳はすっかり薄闇に慣れていた。それでも生まれて初めて立ち上がる小鹿のように少しずつ瞼を開き、おくうが指差す莫大なエネルギーを放出する天体を見つめた。
 入道雲がそびえ立つ夏の青空に、燦々と太陽は燃え上がっていた。
 おくうはその身に宿した神の習性に導かれるが如く、ぐんぐんと高度を上げて行く。自らの翼の力だけでは速度が足りないと判断したおくうは、さとりを左腕だけで強く抱き締めると右腕の制御棒を背後に向けた。
 爆発的な力が制御棒の先端から噴射され、大気が壁となってさとりとおくうを打ち据えた。凄まじい推進力に後押しされたおくうは正に太陽めがけて撃ち込まれるロケットそのものだった。
 核熱より生じたエネルギー噴射を止め、おくうは進行方向に背中を向けて翼を叩き、ブレーキをかけた。やがてその勢いも緩やかになり、さとりを固定していた腕の力も弱められる。

「そしてこれが地上。妖怪が作った最後の楽園、幻想郷」

 眼下に、雲でもやがかかった世界が惜しげもなく広げられていた。
 覆い茂る緑に点在する湖や丘はわかるが、建物となると豆粒のようでろくに把握できる高度ではなかった。しかしひとたび第三の眼で見下ろせば、そこには豊かに活気付いた無数の心が息づいている。
 湖をテラスから望み、お茶をする吸血鬼が見えた。
 竹林で死闘を興じる蓬莱人たちと、悪戯うさぎを追う月のうさぎが見えた。
 三途の川べりで昼寝をする死神が見えた。
 向日葵に囲まれ向日葵と共に太陽を見上げる育ちすぎた花が見えた。
 山の中腹に立ち並ぶ鳥居の間を掃除する現人神が見えた。
 瘴気漂う森のそばで魔法使いと談話する道具屋が見えた。
 その全ての自然の中ではしゃぎ回る妖精たちの嬌声が聞こえた。

「……こいしに、いつかこの絶景を見せてあげたいものですね」
「うん」

 いくつもの層、いくつもの区画に分けられた地底世界では、一つの世界を一望することなどできはしない。何ものにも閉ざされていない、行けるところまで行ける、見渡すばかりの世界がそこにはあった。
 さとりは、東の果てを指先で示した。そこに八百年前サトリ姉妹を地底へ誘った地上最後の鬼が、残っていた。

「おくう、あすこへ行きなさい。私の敵はあすこに居ます」
「はい」

 短く答えたおくうは翼を震わせ、博麗神社めがけて急降下した。
 重力と、核エネルギーの推進力、そして翼の姿勢制御を経たおくうの落下速度は音の壁を突破し、衝撃波を幻想郷中に撒き散らした。自らの生み出した音よりも速く博麗神社上空に到着したおくうは核エネルギーを逆噴射して急制動をかけ、石畳を着地地点と狙いを定める。
 縁側で暑さにうだっていた霊夢が上空の異変を感じ取り、立ち上がった時には既におくうの両足は石畳をクレーター状に陥没させて着地していた。一拍遅れてやってきたソニックウェーブが鎮守の森を弾けさせ、目を丸くしていた霊夢の体を屋根より高くぶっ飛ばす。
 砕けた石畳の欠片がぱらぱらと雨のように降り注ぐ中、おくうの腕から放されたさとりは自らの足で地上の大地を踏みしめた。
 その足裏から第三の眼を通じて伝わる、この地に積み重なった思念の重みを感じ取る。博麗神社の歴史は幻想郷の歴史だった。地底へと潜り込んだ時以来からの八百年余りにも及ぶ時間の流れが、この土地には眠っていた。

「博麗大結界ですか。これこそが幻想郷の限界なのですね。八百年前、鬼は自ら地底に引きこもり、独立した自治社会を築いてきました。覚えていますか茨華仙さん。私があの時あなたたちに対して送った言葉を」
「鬼は地上の妖怪たちから排斥された。あなたたちサトリと同じように、鬼は疎まれ、忌み嫌われ、封印されたのです。だから私はその封印を地上から見守り続けてきました」

 ぶっ飛ばされた際に目を回した霊夢を猫でも持ち上げるように片手で提げた華仙が、博麗神社の屋根の上に着地した。
 臨戦態勢に入ろうとするおくうを手で制し、さとりは笑顔で華仙を見上げた。

「お久しぶりです、茨木華扇さん」
「この巫女には私が鬼だというのは内緒なの。あまり昔の名前で呼ばないでいただけないかしら?」

 気を失った霊夢を華仙はちらりと見やる。彼女の心中には確かに正体を隠さねばならないという焦りはあった。だが、そこに後ろめたさは見受けられない。
 ため息を零し、さとりは切り出した話の続きをすることにした。

「このおくうが開けてくれた地上への穴を、あなたは塞ぐつもりだと聞き及びました。しかし今や幻想郷そのものが、八百年も前に封じられた地底と変わらぬ有様ではありませんか。そんな地上と地底に今さら何の違いがあるのでしょう。私はただ、その一点だけを抗議したくて、あなたに会いに来たのですよ」
「この幻想郷が、地底世界と同じ――ですか。大まかな意味や目的を考えれば、頷かざるを得ません。ですが無視できない唯一にして絶対の違いがあります――この娘たちがいることですよ」

 華仙は霊夢を指差した。
 人間の有無。それは妖怪にとって大きな意味を持つ。なぜなら人間と妖怪は大きな視野を持って見れば共存関係を結んでいるからだ。
 地底の妖怪たちはその関係を断った。そうして出来上がった地底社会の法に従う妖怪たちが、地上に悪影響を及ばさないとは限らない。
 華仙の考えていることは、大体そのようなことだった。
 さとりは、八百年前にやらなかったことをやるべく、第三の眼に意識を集中した。華仙の思考から拾える、彼女の弱点、心的外傷と呼べる一点を見つけだすために。
 読心能力には限界がある。表層意識に浮かんでいるものしか、第三の眼は見通すことができない。トラウマを意識に昇らせない限り、サトリに命を奪われることはないのだ。
 千年、華仙は仙道の修行を積んできた。その堅牢な精神は死神の精神攻撃をも何度となく跳ね除け、今日まで維持された巌のような心だ。
 さとりはその巌を、言の葉で切り崩す。

「あいかわらず鬼の本性が抜けきらない方なのですね。その腕を見る限り、まだあなたは千年前に奪われた腕を取り返せていないようですが……そもそも、その話からして私はおかしいと思っていたのです。鬼が腕の一本や二本を斬られたところで逃げ出すでしょうか。鬼にとっては酒より好物である人間との勝負を反故にして? 茨木華扇。あなたは、千年前の決着をつけたいのではありませんか?」
「ほう。面白いことをおっしゃられるのね」

 華仙の思考に、雨に濡れた武士の姿が映った。右手に血刀、左手に切り落とした腕を手にした武士の記憶は、千年たっても未だ色褪せておらず昨夜見たばかりかのように鮮明な絵として残っている。

「あなたは人間と地上と地底を繋ぐ通路の行く末を、その目で見守っているつもりのようですが、その実は宙ぶらりんのまま放置された勝負の白黒をつけたいがために、地上に居残ったのではありませんか」
「源次綱どのは千年も前に亡くなられました。人とは一期一会。勝負も一瞬の駆け引きで終わります。私にとって、このようなだらだらとしたお喋りは、命のやり取りにもならない遊びですよ」
「そう。こちらの意図が伝わって幸いだわ」

 さとりは唇の端を吊り上げて見せた。
 実際、この程度は前哨戦だ。華仙はさとりの能力と、突然切り替えられた話題から弱点を探られていることは承知済みだったのだ。さとりは、言外にこう言ったのである。

『こちらの要求を呑む気が無ければ殺す』

 ここまでやってさとりの本気が伝わり、華仙が引かぬ気であることがわかれば、弾幕で勝負をつける。
 それが現在の幻想郷の落とし所だ。だが片や千年前から、片や八百年前から時が止まったまま生き続けてきた古い妖怪同士の戦いにその決着は似合わない。
 さとりが華仙の弱点を見つけ出すか、それを恐れた華仙がさとりを直接攻撃で殺すか。
 地味で長々とした、華々しさの欠片もないチキンゲーム。それがサトリの戦い方だ。
 茨華仙は首を振る。

「地獄の蓋は閉ざされねばなりません。地底と地上の交わりは断たねばならない。その約定は今も変わりなくあるのです」
「未だにそう思っているのはあなただけですよ?」
「確かに、今この世に解放されてもよい者たちは少なくありません。しかし、鬼、怨霊、そしてあなたたちサトリ姉妹は永遠に変わりなく地獄に居続けてもらいます」
「『鬼は人と相容れないため。怨霊は制御の利かない害を成すため。そしてサトリは地上に出ると不幸になるため、出すわけにはいかない』、と。相変わらず傲慢なのね。他人の命運を力ずくでどうにかできると思っているのですね」
「サトリが心にも無いことを言ってはいけませんよ」

 挑発を軽く受け流し、華仙は微笑む。
 冷静だ。思ってもいないことをあえて口にすることで、自己認識が曖昧になりよって立つ土台が崩される戦法も全く意味を成していない。それは華仙の自己が恐ろしく強固だからこそ揺るがないという証左でもある。
 華仙は自分の力に絶対の自信は持っているが、限界があることも知っている。第三者に影響を与えられるのは説教くらいなもので、力押しで納得などさせられるものではないと理解しているのだ。
 だから、野に放たれたサトリ姉妹の恐ろしさを理解していない若い妖怪がその恐怖の片鱗を味わい、恐慌状態に陥ることは止められないと諦めている。やがてその恐慌がサトリ姉妹に牙を剥いたとしても、庇いきるにはやはりどこかに封印するという形しかないと考えているのだ。
 さとりはその心を読んで、微笑みに嘲りを返した。

「心の読めない者は不便ですね。あなたの説教は右から左。聞く者の深奥を突くことはありません」
「仙人はただ、下界を傍観するのみです」
「それはただ、あなたが下界から追い出されたことの言い訳に過ぎないのではありませんか? 爪弾きにされ乾いた心を守るためだけの虚栄なのでは――」

 様子を見るために放った刃の言葉を受け止める華仙の心を読んで、思わずさとりは息を飲んだ。
 華仙は全く動揺していない。それはさとりの言葉が的外れだからだ。しかし同時に鬼という種族が事実上追いやられたことも華仙は認めている。
 結論として、華仙の心の中にある答えは『自分は独りである』という事実を当たり前のものとして受け止めた認識だった。
 その認識が、まるで深淵の底を覗き込んだようでさとりは足がすくんだ。
『独り』の定義が、尋常ではないのだ。茨華仙は自分が鬼の中でも鬼子の立ち位置に居着いてしまっていると理解しており、未来永劫同胞と会うことも、わかりあえることもないと覚悟している。人間にどれだけ説教を重ねても百年も経たずにこの世からいなくなることもわかっているし、神や妖怪の友が互いの人生や運命を変えるものでもない存在だと把握している。
 ただ、寂寞とした時間だけが華仙の前には横たわっている。
 彼女はそれを何度も何度も繰り返し追想しては、さらに立ちはだかる傍観の時に思い馳せ、何もしない。
 さとりの顔色から全てを察した華仙は、困ったように眉を下げて笑っていた。

「普遍的な辛さや苦しみというものはあります。あなたたちサトリはそれをとっかかりにして、対象の心を痛みつけて貪る。だから嫌われる。けれど、鬼や仙人にそのような心遣いはいらないのです。私たちは既に、そのような辛苦を超越しているからです」
「……私にあなたは殺せないと?」
「最初から私はそう思っていませんでしたか?」

 無視していた。さとりを前にして、大概の妖怪は最初の威勢だけ良いのだ。見えていても、見えない情報だった。
 まだ、勝負を続けようと思えばいくらでも続けられる。だがさとりは華仙の心をつぶさに見れば、引き込まれそうで恐ろしかった。

「……さとり様?」

 様子がおかしいのをおくうにまで気取られたらしく、背後から心配そうな声をかけられてさとりは手を上げて「大丈夫」と返した。
 だが、事実としてさとりは華仙に敵いそうにない。だからと言ってこのまま引き下がればさとりの家族たちは悲しむだろう。落ち込むだろう。何よりこいしは――
 さとりは喘いだ。華仙の心は鉄のように手応えが硬く、そして知恵の深さと観察力でさとりの心を逆に読み取る。自分の姿と取っ組み合いをしているようで、めまいがしてくる。
 それでも退いてはならなかった。今度こそさとりは、たとえどんな困難に直面してもこいしに対して正々堂々としていなければならないのだ。はるか昔はそれができずに見逃し、すれ違ってしまった。その果てにこいしは無謀な自爆をし、さとりを責めたのだ。
 こいしは、誰よりもさとりに嫌われたくなかったのだ。さとりだってそうだった。けれどお互い心が読めるから、態度や言葉で示すことを忘れた。
 だから、さとりはいつ妹の心が戻ってきてもいいように、こいしのための行動に関しては手を抜いてはいけない。妥協してはいけない。逃げ出してはいけないのだ。

「お姉ちゃん、もういいよ」

 こいしが、服の袖を引っ張った。



「……いつのまに」

 華仙が呆気に取られていた。おくうは言うまでもなく、さとりも今この瞬間初めて気づいた。
 他人の無意識に潜り込むこいしは、その存在を見せようと思わない限り路傍の小石のように誰からも無視される矮小な存在となる。その能力の一端だ。
 だが今の問題は、その能力より、その言葉と行動だった。

「こいし、いつからいたの?」
「私はお姉ちゃんのそばにずっといるよ。どんな時だってお姉ちゃんと一緒。私はお姉ちゃんの影なんだから」
「話を聞いていたのね」
「まあね」
「なら――隠し通せないけど、厳しいことに変わりないけど――私は彼女を説得し続けます。心配はいりませんよ」

 こいしに対して恥ずべき行動は無いと、さとりは優しく笑ってみせた。
 そのさとりに、こいしはやはり首を振る。

「わかってるよ。お姉ちゃん、あの鬼から逃げ出したいんだよね」
「……こいし?」

 その断定口調を訝しげに思ったさとりは、こいしの第三の眼を見つめた。
 あいかわらずこいしの瞳は閉じたままだ。さとりの心は読んでいない。
 こいしはさとりの肩を掴み、第三の眼から伸びるコードを指先に絡ませた。

「お姉ちゃんの考えていないことは、私にはよくわかるの」
「あなた、どうしたの。様子が変よ」
「前々から擦り合わせが苦しくなっていると思っていた。お姉ちゃんの願望を『私』じゃ処理しきれなくなっていた。地上に穴が開いたとわかった時から――ううん、そこの巫女と出会った時から」

 こいしの視線の先には、屋根の上に下ろされて目を閉じ呻く霊夢がいた。そろそろ気がついてもおかしくない頃合いだろう。
 あの巫女と出会ったのは、確か地霊殿に殴り込まれた時だ。考えていることと目的が違って、どうにも読めない人間だと思った。それがただの遠隔通信による結果だとわかった時は拍子抜けしたものだが。
 だがそれが、今の状況となんの関係があるというのだ。

「わからないの? お姉ちゃんが、ずっと地上に出たがっていたんだよ」
「私が?」
「お姉ちゃんは、私じゃなくて自分のためにあの鬼と戦うべきだったの。でももう遅いよね。ただし、私を理由にしてお姉ちゃんは判断を誤っちゃいけない。私はそれを表層意識に警告しなければいけない」
「こいし、いい加減に――」

 さとりは逆にこいしの肩を掴もうと手を伸ばした。
 その手が、空を切った。
 こいしの姿は、変わらずそこにある。しかし水面に映った像のように、さとりの手はこいしの身体をすり抜ける。
 ずきりと、側頭部に痛みが走った。動悸が早まる。何か嫌な予感がする。

「今わかった。私の役目はもう終わったの。お姉ちゃんは自分のために、自分の意識で、自分の足で、地上を歩くべきなんだよ。……私、何回も誘ったんだけどなぁ」

 寂しそうに言ったこいしは、さとりの肩に腕を回し、全身で抱きついてきた。
 その感触もまるで無い。いや、姿すらかき消えて存在しないのだ。最後に聞こえたこいしの声は、自分の内から響いてくるようだった。

『ただいま』

 ことりっ、と石畳に閉ざされた第三の眼が転がった。
 そして、こいしは現れた時と同じよう唐突に、さとりの前から姿を消した。
 いつものことである。猫のように帰ってきては、猫のように去ってしまう掴み所のない妹だ。
 だが――だが、頭痛が妙だ。熱を持ち始めている。何かが引っかかっている。おかしいのだ。何がおかしいのか思い出せないが、根本的にさとりは何か間違っている。
 さとりは膝をつき、こいしの第三の眼を拾い上げた。おくうは翼を畳み、さとりの肩を抱いた。
 華仙が神社の屋根から飛び降り、さとりへと近づいてくる。

「この世に生を受けてから今まで起こった全てのことを思い出してごらんなさい。それからまた、お話は聞きましょう」

 そう、おそらく華仙の言うように、生まれた瞬間から遡らなければならないほど昔から、さとりは違えていた。
 喉を震わすだけで揺れるような頭の痛みに顔をしかめ、さとりはおくうに命令した。

「……いったん、家に帰りましょう……」
「はい」

 来た時と正反対の静かで穏やかな離陸を経ておくうは空へと飛び立った。









 妖怪の記憶というのは虫食いだらけである。百年近くもの間の記憶がすっぽり抜け落ちていることも珍しくはない。反面、印象に強く残った事に関しては鮮明な記憶を持つ。
 さとりが地霊殿に辿り着く頃には、掘り起こした記憶の時間軸は姉妹二人の放浪時代にまで進んでいた。
 廊下を一歩ずつおくうの肩を借りて歩むごとに、さとりの頭蓋の中で時間は早回しに過ぎてゆく。その先に待つものがわかっているからだろうか。さとりは自分の部屋に近づくのが怖くなってきた。

「さとり様、早く休もう。顔真っ青だよ?」
「ええ……」

 主人を心配する心でいっぱいのおくうにさとりの心情を察する余裕があるわけもない。彼女はむしろ早足で廊下を進んで行こうとする。
 遂に記憶の時間は地底時代へと進んだ。さとりの自室は視界に入っている。一歩進めばひととせ時は流れ、小さかったお燐やおくう、ぶつけられた憎しみや怒りと贈られた愛情や感謝の気持ちが甦り、ぐるぐると視界が回る。
 そして、おくうはさとりの自室の前に立ち、ドアノブに手をかけた。

「待って、空」

 愛称ではなく本名を呼ばれておくうは反射的に振り返り、行動を止めた。さとりの記憶の再生も、最悪の場面で止まった。
 こいしが第三の眼を閉ざし血の海に沈んだ、あの瞬間だった。
 ――忘れたくても忘れられない記憶だからこそ、その詳細は鮮明に覚えている。さとりは今までそう思っていたからこそ、積極的にあの前後のことを思い出そうとは今までしてこなかった。
 だが、華仙に促され、ここまで記憶を辿ってきたからこそ、さとりは不自然な虫食いに気づいた。
 あの時のこいしの言葉、一挙手一投足までさとりは覚えている。焼きついたのだ。

 それなのに、こいしが蘇生した部分の記憶が全くない。

 鐘を打つように痛む側頭部が、震える全身が、止まらない脂汗が、おかしなくらい激しい鼓動が、鉛のように重い腕が、全て教えていた。
 この部屋に、答えがある。
 いつの間にかこいしがベッドの中に紛れ込み、一緒に眠ってきたこの部屋の中に、穴に嵌め込むピースがある。
 さとりは空の肩から腕をほどき、床に膝をついた。縋るように両腕を上げ、ドアノブに手を伸ばす。
 指先がノブに触れようとした瞬間、ばちりと静電気が弾けた。
 たったそれだけのことで、心が折れた。
 さとりは自分の力では、開けないのだ。
 音も無く閉ざされた扉が、今は別のものに見えた。

「……おくう、頼みます。開けてください」
「……? わかった」

 おくうは首を傾げながらも、改めてドアノブに手を伸ばし、扉を開いた。
 うなだれるさとりには部屋の様子はわからない。しかしおくうの心を見れば、そこに何があるのかはわかった。
 霊烏路空は、目の前にある代物を見て困惑し、それがなんなのか理解するのに何十秒もの時間を有した。

「……こいし様?」

 さとりは頭を抱え、床の上で縮こまった。
 おくうの目に映る、さとりの部屋の壁に飾られたモノ。
 それは屍蝋化した死体だった。
 第三の眼を閉ざして泣き叫んだまま死んだ、こいしの死体がそこにあった。



 サトリは心を読み、心を喰らう、心の妖怪だ。
 それ故にサトリの体調はその精神状態に強く影響される。落ち込めば具合が悪くなり、喜べば精気が漲り、怒れば熱を持ち、楽しめば体が軽くなる。
 ならばその心の心臓である第三の眼を閉ざせばどうなるのか。
 死ぬしかあるまい
 自らの否定は自殺にしかならない。
 無意識が表層意識の代替をすることなどありえない。
 こいしは八百年も前に死んでいた。生き返ってなどいなかった。
 ならば今までさとりが慈しんできた、あの無意識に動く可愛い妹はどこの誰だったのだろうか。
 答えはさとりの手の中にある。博麗神社で拾った、こいしの閉ざされた第三の眼。

「私は……自分の無意識を……切り離していたのね」

 表層意識で普段押さえ込んでいる願望、欲望、衝動、そして能力。
 心の妖怪サトリの能力は心を読むだけのものではない。例えば想起弾幕を再現する原理は、対象のトラウマを浮かび上がらせて催眠状態に追い込み、幻影の弾を実体化しているものと思い込ませて被弾させるというものである。つまりサトリの第三の眼は受動的な器官に終わらず、能動的な能力を秘めている。
 この世でたった一人になったさとりは、種の危機的本能かその能力を全開に開花させた。結果さとりの無意識が望んだ最大限に力を注ぐべき事柄は、妹の蘇生であった。
 もちろんそんなことは無理だ。だから無意識から昇ってくる虚偽を、さとりの表層意識はなんの疑問もなく受け入れた。
 ――こいしは第三の眼を閉ざして、無意識に動く妖怪として生まれ変わった。
 ――無意識に行動するので今までとまるで別人のように見えるが、今まで押さえ込んできたものを解放しただけの結果に過ぎない。
 ――自分は独りではない。少し変わってしまったが、可愛い妹がそばに――

「うっ」

 八百年、さとりは変わってしまった妹のために心を砕いてきた。
 どうにか元に戻そうと奔走した。それが無理だと諦めると、せめて不自由だけはしないようにと見守ってきた。地上を行き来するようになってから調子が良くなっているのが嬉しかったから、鬼に喧嘩まで売りに行った。
 だが、違う。それは全てさとりが誰かにしてほしいことだった。自分のために奔走し、黙って見守ってくれ、地上を遊び回り、それを邪魔する者がいるのなら命をかけてでも立ち向かってくれるような、そんな都合のいい寄りかかれる相手が欲しかっただけだ。
 ある一人の青年が湖面に自らの姿を見て、その美しさに見惚れた。彼はその水面に求愛の言葉を捧げ続け、やがて衰弱死した。
 歪んだ鏡像を妹だと思い、さとりはずっとこいしを愛し続けていた。
 本物の妹の死体を屍蝋化加工して部屋に飾っておきながら、ずっと無意識に目を逸らし続けてきた。
 誰にも気づかれないようあらゆる存在の無意識に入り込み、妹は生きているのだと嘘をつき続けてきた。

「……空」

 床から顔を上げたさとりは、戸惑うペットに声をかけた。

「その死体を燃やして」

 さとりは閉ざされた第三の目を抱えたまま、床に倒れた。
 そうすればこいしに会えるような気がした。









 まどろみから覚めたさとりは寝返りを打とうとして、ベッドが妙に狭くなっていることに気づいた。
 お尻をつっかえさせたそれはさとりの肩にそろそろと伸ばした腕を巻きつかせる。ウェーブがかった灰緑色の髪がさとりの口元にかかった。

「にへへ……お姉ちゃあん……」

 唇の端から涎を流し、こいしはさとりの胸に顔を埋めていた。
 無意識に行動するこいしは、時折猫のようにいつのまにか寝床へと潜り込んでいることがある。いつもは遠慮なしにひっぺがすのだが、夢の内容を思い出したさとりはこいしの肩を掴んだ手で、その頬に触れた。
 ろくでもない夢だった。細部がどんどん表層意識から零れ出して行くが、目の前のさとりにとって何よりも大事な妹に関する内容だったことだけ覚えている。
 顎へと伝い落ちる涎を舌ですくい、さとりはこいしと唇を重ねる。
 強く、その細い身体を抱き締め、存在を感じ取る。

「さとり様ー! 今日もおくうのバカがよく働いていい天気ですよー! 早く起きてきてくださーい!」

 お燐の呼びかける声が睡魔に冒された頭に響いたが、さとりは無視して再び眠りについた。
 妹の腕が、さとりの背中を優しく結んだ









―My sweet sister "Epitaph" closed.―
一目見ただけでこの作品を理解できる406KB

元ネタは【<●>】古明地さとり&こいしスレ 4th eye【<―>】の>>896の書き込みから。

いつかいつか書こうと思っていたら、2年近く経っちゃったんだぜ。

※ここからコンペ終了後のあとがき※


酒呑童子伝説が好きで茨木童子ももちろん好きで、いつか一次で酒呑討伐譚を書こうと思ってかれこれ4、5年。
華仙ちゃんが出てきたことで「四天王三人揃ったことだしいっそ東方で書いてみるか?今回のコンペがそれ向きのお題だったらゴーだ」と思っていたのですが、どちらかというと別に暖めていた今回のネタの方が向いていると判断して、やっぱ一次で書くことに決めました。

また、今回は以前書いた作品のネタをまんま流用していてバレやしないかとドッキドキでもありました。具体的には「嫌われ者と人気者の人生哲学」という1500Pしか獲得していない底辺作品なのですが。
そもそもあの作品自体が今回の作品のネタを現代妖怪であるプリバ三姉妹視点から見たらどうなるか、という試みをやろうとして途中でやめた作品だったのでネタが被るのも当然といえば当然なのですが……あとはareの口上とかも暖めていたネタの一端です。

あとオマケに。
私は毎回ジョジョの奇妙な冒険ネタを入れてしまう悪癖がありますが、今回タイトルがそれです。具体的にはディアボロの台詞。
ジョジョファンなら、それを踏まえるとこの作品の締めの英文の意味に気づいてくださるでしょう。

※ここからコメレス※


>鮫さん
エピとエピを繋げるのが苦手なんですよね……なんでだろうなぁ。全体的なストーリー構成を俯瞰して見る視点に欠けているのかもしれない。
覚っていう妖怪はすごく人間に近しいイメージを覚えるんですよね。人間的な弱さを内包している、むしろ人間より弱いんじゃないかとすら思えるほどどこか親しみを覚える妖怪。

>Atosさん
そろそろ借りようかと思いつつ読むの大変そうだなー、と読んでません>ドグラ・マグラ
今回、実は最後まで「鏡」という字は使わないつもりでした。それでもわかるように、と。……結局チキン心出たのでやめましたが。

>3. 10点   ■2010/11/09 02:56:27
>なんという… 素晴らしいの言葉しか沸いてこない
プロット悩んでいた時間が実に作業時間の三分の一を占めていた事実。
実は感情表現に関しては定評を得ているのですが、現在の文章に満足していないというかもっと比喩を使った簡潔な文章にしてみたいと思っているというか悩んでいたりします。

>過剰さん
今回も夢オチしたら「また夢オチかよ!」と作者バレ後に突っ込まれます。順位まで一緒とか……。ミスタが発狂死する。

>読み専さん
あー……自分の作品群全体の欠点を突かれたような気がします。一貫性、というんですかね。
ちょっとネタを詰め込みすぎたのかもしれません。どうするべきだったんだろう……。

>パレットさん
まあパレットさんはいつも通りよく読みこんで読み込みすぎている人なのであまり気にしません。作者と読者の意識の齟齬はよくあること。むしろその怨みや未練をぜひ自作に生かしてください。
ってなんで俺こんなに上から目線なんだ。
私としては最初っから姉妹のことしか書くつもりが無かったのに色々と枝葉が……コンペチャットで言われたことそのまんまですかね。鬼と妖怪の諸々は一次でやるつもりです。いつになる。

>7. フリーレス 名前が無い程度の能力 ■2010/11/23 00:02:04
(ぎくり)
……一次でそういう話を考えています。

>さく酸さん
冒頭は……いらないっちゃいらないんですよね。東方版羅生門が書きたかっただけだろと言われたら頷きます。
個人的に二次で過去話で終わっちゃうのって嫌いなんですよね。そのキャラの過去を想像して、描いて、だから何?って印象を覚えます。んで結果こーなったと。

>もみあげさん
そこらへんすごく書きたかった部分だったり。
うちの祖父が大体東方の鬼みたいな性格です。

>aspさん
全体的に書きたいように書きましたからね!!!そりゃあ不要な部分も……うん、反省しよう。
地霊殿キャラは好きなんで、今まで書かなかった愛を込めて込めまくった結果になりました。もっと書け。

>yuntaさん
現代パートはプロットの分量見た感じでは同じくらいの長さだったのになぜこんなことになってしまったのか教えてくれ五飛。
副将華扇ちゃんは豪気で大雑把な酒呑の補佐として口うるさいんでぶっちゃけ他の四天王の面々には避けられていたみたいな感じで書きました。

>とんじるさん
うちの祖父がね……70過ぎてもバリバリ働いているし色々と本当にすごい人だとは思うんですが、自分にできることは他人にもできると思い込んでいるというか。萃香、勇儀、華仙ちゃんと各鬼キャラは全員好きなんですがね。鬼の設定は恐怖を覚える。
ただ、キャラクターに入れ込みすぎて物語の構成がガタっちゃったのが問題でしたね。これを両立するのが今後の課題でしょうか。

>Admiralさん
番外編というか後日談は夜伽向けのもののプロットがうっすらとありますが……気が向いたら書いてみるのも悪くないかもしれません。あとこのネタやり直すのも……正直しんどいのであとさらに2年は欲しいです。

>ざる。さん
これ知ってペイントで試した時の衝撃といったら……
そこらへんわかっていただけるようにやっぱりペイントでちまちま加工しました。うpロダ探す方が時間かかった。

>藤村・リーさん
東方の妖怪って成長止めているところがあるんで、そこらへんも含めたラストであったりもします。
でも鬼は未だに鍛錬をやめてないようなんですよね。対照的だなぁ、この種族。

>desoさん
本当に多かった。ネタ被りをどれほど恐れたことか……。
テレパシスト同士のキャラは口を開かず思念会話するだろう、というのは割りと昔っから思っていたのでやってみました。実際書いてみるとどんどん二人だけの世界に閉じて収束していくヤンデレっぷりがすげぇ。これはヤバい。
華仙ちゃんは可愛いんですけどfebriが内容の割には容赦なく高いんでコミックス待つのも手だと思います。

>geneさん
持ち上げるのは楽しいんですが落とすのが下手です。つくづく最近自分がMだと痛感する日々。
華仙ちゃんは茨木童子好きなので、いつかまたメインで一本書きたいなとも思っています。病気のおとっつぁんの所に駆けつけたら追い出されるお話を。

>木村圭さん
鬼キャラはそれぞれ個性が強いんで、東方の鬼の傲慢さをそれぞれ違う角度から切り口を描く、みたいな扱いにしてみました。ラスボスしてくれた華仙ちゃんマジありがとう。
ネガ反転はどこで聞いたかな……確か古明地姉妹スレだったと思います。今は渋ペディアなんかでも書いてますしわかりやすいイラストもあったかと。

>ニャーンさん
鬼と覚、さとりとこいしで対比する構造にしてみたんですが、そこは成功したものの話自体が成功しなかった。だめだこりゃ。
現代パートのプロットは本当、これでも頭を捻って捻りまくったんですけど、それでもなんか納得がいかなかったんですよね。他の人にも言われたように、色々と詰め込みすぎて収束点が定まらなかったのかも。

>兵庫県民さん
そりゃ華仙ちゃんメイン話を当初は書くつもりの勢いでしたから。

>21. 8点 名前が無い程度の能力 ■2010/12/11 21:26:58
>最後に今までの話が夢だったかのように思える描写がありますが〜〜
ラストは私おなじみの私の中では明確な答えが出ているけど、各読者がどう取るかはその人次第オチですね。
やっぱ補完の意味でエロいverを夜伽に書くべきなんでしょうか。

>如月日向さん
そりゃ初めてだろうというかまだ書くべき部分もないというか。
私が書いた部分って、ぶっちゃけほとんど茨木童子の物語であって、茨木華扇ひいては茨華仙の話ではないんですよね。

>774さん
ちょっと分かり辛いのはいつも通りですが、今回そもそも理解していないコメが無かったあたりむしろなぜだと思ったり。

>NT○さん
言うまでもなく姑獲鳥の夏が元ネタです。あとこいしちゃんのエントランスに死体飾ったるわ発言。
みづき
http://tenkai7tyoume.blog83.fc2.com/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/01 00:35:53
更新日時:
2010/12/22 22:41:43
評価:
22/24
POINT:
166
1. 10 ■2010/11/07 02:05:11
ああ、弱い、弱っちい。
心の弱さをただ単に悪いものとしてだけではなく、しっかりとリアリティを持たせて描写したことに心から敬服します。
あの年老いた火車の心の声が、こいしの悲痛な叫びが強烈に突き刺さりました。
これだけ深く深く抉るような痛みを与えてくれてありがとうございます。
ただ少し、物語全体の構成が甘い、というかまとまりがないような印象を受けました。
場面場面はこれ以上ないほど上手く書けているのですが、場面ごとのつながり方が少し緩い気が。落ちも少々唐突に感じてしまいました。
ただ、それを差し引いても満点を差し上げるのにいささかの躊躇いもありません。
本当に素敵なお話でした。
2. 10 Atos ■2010/11/07 04:19:14
なぜか「ドグラ・マグラ」を思い出しました。
どのようにお題と結び付けるのかと思っていましたが…こうくるとは。
でもせめてフィクションの中では二人は幸せでいてほしいですね。
3. 10   ■2010/11/09 02:56:27
なんという… 素晴らしいの言葉しか沸いてこない
感情表現の掘り下げが非常に深いところまで突っ込んでいるというか、
まるで自分が物語に迷い込み、その光景を追ってるような気分でした。

特にこいしが目を閉ざすまでの過程、さとりが真実に気づくまでの過程、一切無駄が無いように感じました。
鬼という種族の問題まで含めて、長編にも関わらず冗長にならず洗練された傑作だと個人的には思います。

素晴らしい作品をありがとうございます。
4. 9 過剰 ■2010/11/10 17:11:15
夢オチだ。
これは夢オチなんだ!
誰が何と言おうと…………。

なんか、そんな願いしか浮かばない。
とても悲しく、一方で美しい物語でした。
5. 6 読み専 ■2010/11/15 11:53:01
読み込み不足あるいは敢えてなのかもしれませんが、
広げた話が纏まってない、個別のエピソードが一点に収束していない印象を受けました。
そのためか、結が少し唐突、急だと感じました。

部分部分は面白かったです。
6. 6 パレット ■2010/11/19 23:55:15
 う……おおお……? おおおお……? なんか尋常じゃないほどの消化不良感が……だって、ええ……?
 正直ちょっとリアルに頭を抱えました……はっきり言って神作品の予感がしたんです。地道で、丁寧で、かつ大きな大きな風呂敷の広がり。130kbちょいというのは少し短すぎるかなーと不安もあったり、こいしが目を閉じるあたりとかちょっと展開急ぎすぎかなーとかいう気持ちもあったのですが、それでも……華仙の絡ませ方もすごく上手かったですし、鬼という存在に関してもじっくり描いていた。覚妖怪というものに関しても真っ直ぐ逃げずに描いていた。これは久々にすごいのがきたかと思ったのですが……すみません、たぶんこの言葉はすごい棘なんだろうけど、正直なところ、勝手に期待して勝手にガクッとなった感じです。だってだって、これもう話の進め方から見るに、地底という存在、鬼という存在、そして覚妖怪等々をがっつり絡めて過去から未来まで描き、何かしらの結論まで導き出すものかと思ったのです……というか、というかこの作品ではそれができたと思うというか、今でもまだできるとすら思っちゃったりしているのです。この結末の先があるのなら……という感じで。Closedしちゃったけど!
 なので、本音を言うと、「残念」というのが先に来ます……それでも面白かったんだけど! 十分に面白かったんだけど! でもやっぱり、東方二次でも数えるほどしかない神作品に化ける可能性を見てしまっていたので、やっぱり物足りなかったという気持ちが大きいです。なんかほんと勝手な感じに書き殴っちまってすみません。でも、本当に心から、面白くて、物足りなかったんです。
7. フリーレス 名前が無い程度の能力 ■2010/11/23 00:02:04
ドキドキしながら読みました。さとりとこいしの能力を能動的に使ったらその有効範囲内の世の中を思い通りに創れちゃう気がしますね。
8. 8 さく酸 ■2010/11/25 21:03:44
さとりとこいしの過去話なのかなと思ったら、最後ですごく衝撃的な展開。インパクトのある面白い作品に仕上がっていると思いました。
あと、華仙を出したことは個人的に評価したいです。
ただ、冒頭の部分。あの文でわかることは、華仙が綱に奪われた腕を取り戻したいと思っていることと、その後大陸に渡って、話の中で戻ってきたということ。
作中の核である、さとりとこいしについてあまり関係がなく、また硬く古い文章から、とっつきにくい印象を受けました。それ以外はすばらしかったです。
9. 5 もみあげ ■2010/11/26 12:12:20
鬼の自己中具合がそれらしくてよかった。
10. 7 asp ■2010/11/29 10:49:59
古明地姉妹が地底に移り住む前後と、それを取り巻く諸問題。地底と地上の軋轢とか鬼の矜恃、とかそんな感じのお話ですかね。大作ですが一気に読まされました、面白かったです。華扇は本編未読だったのでよくわからなかったのですが、全体的にどうも不必要に感じる部分が多いなあと感じます。渡部綱の部分とか妹紅の登場とか本当に必要だったんでしょうか? こいしの設定にもちょっと首を捻る部分があったりします。色々と投げっぱなしでただ落ちていくだけに見える展開も。しかし、地霊殿組の書き方や最後の締め方なんかは非常にツボでした。特にこの古明地姉妹いいですね。マイナスに感じる部分もあるのですが、そういったプラス部分が打ち消してくれているかなと個人的には高評価。
11. 7 yunta ■2010/11/30 21:59:17
執筆お疲れ様でした!

今の地霊殿が出来るまでを、鬼と覚りという対称的な種族の会話を通して表現されていてお見事でした。
強いていうなら過去の密度に比べてこいしが倒れてからの話があっさりしていたので、オチが強烈なインパクトにはならなかったかなぁ、と思いました。
華仙を含めた鬼たちの関係が自分好みでした。
12. 8 とんじる ■2010/12/02 15:29:19
 冷静で理知的なキャラクター考察が見事。
 サトリ、鬼、獣、人間など多種多様な種族の、強さ、弱さ、矛盾点などを突き詰めて綺麗に描き出している。
 例えば、鬼というと、その強さと真っ直ぐさばかりを強調し、さも誇り高い素晴らしい妖怪という風に描かれることが多いですが、この作品では、その矛盾点や非難されるべきところを、サトリという視点を通して鋭く指摘していると思います。
 深いところまできちんと描こうとし、それに成功している。

 そして衝撃的なクライマックス。
 こんな終わり方悲しすぎる。思わず打ちのめされました。
13. 6 Admiral ■2010/12/05 16:11:19
長めの物語ながら一気に読んでしまいました。え?もう終わり?
いやはや、楽しませていただきました。

なんという悲しいお話…最後の落ちには涙orzさとりはこのまま夢の世界に…?
「サトリ」妖怪は東方世界では悲しい運命を描写されることも多いですが、さとりたちには幸せになって欲しいです。
鬼の傲慢、というのも一つのキーワードかなと思います。
仙人として修行を積んだ華仙でさえ、鬼としての傲慢さが見え隠れしていますし。
(東方世界における一般的な仙人がどういうものかは不明ですが)

華仙さんが勇儀に「姐さん」と呼ばれているのが新鮮!でも納得がいくのぜ。

元ネタの方拝見しました。これは色々とふくらませそうなネタですね。
しかし、このお話でそれが十分に描写できていたかとなると話は別です。
残念ですが、終盤に「さとり=こいし」と言うのがぽっと出て来たという感じがし、唐突な印象は否めませんでした。
最後の落ちも、投げっぱなしという感じがして消化不良に感じます。
ストーリー上あまりにも悲しい結末、丁寧なフォローが必要ではないでしょうか?

コンペでの評価とは無関係に、これで終わらせてしまうには惜しい素材、ストーリーだと思います。
出来れば続編とかアナザーストーリーとか期待したいですねえ…
14. 6 藤村・リー ■2010/12/10 04:55:17
 初めは鬼の話かと思ったけど、途中から本格的にサトリの話になって、最後の最後に持って行かれた。
 後半は読んでいてとても苦しかった。サトリの気持ちがわかるとは言わないけれど。
 さとりは前に進むことができるのでしょうか。
15. 7 deso ■2010/12/11 20:07:34
面白かったです。
さとりとこいしの話、今回のこんぺでたくさん読みましたが、読心能力による姉妹の交流を描いてる点は個人的にポイント高いです。
華仙は、元ネタをまだ読んでないのでキャラがいまいち掴めなかったのが残念。
16. 8 gene ■2010/12/11 20:14:41
良作の香りがするぞ、と思ってたら唐突に終わってしまった感が。
ただその設定には舌を巻きました。さとりには行き着くところまで行き着いて欲しかったです。そこが残念でした。
あとはまさか茨華仙が登場する話があるとは思わず。これを取り入れたのがまた驚き。
東方茨歌仙の「仙」って鈴仙だろ? いやありえないけどそうであってくれ、頼む、と密かに願ってた鈴仙ファンとしてはあんまり東方茨歌仙には目がいってなかったのですが、一回読んでそのまま積まれたキャラメルを注意深く読み返してみようかなぁと思わさせられました。その点に感謝。しかし茨華仙ってこんなに格好良かったっけ。
17. 9 木村圭 ■2010/12/11 20:23:28
ネガポジ反転……だと……!?
ってググったら引っかかるのか。全然知らなかったなぁ。
茨華仙がうまい位置で動いていたこともあわせて調理の仕方がとても上手かったと思います。
何より落とし方がえぐい。
本人にとってはこれが一番いい……かどうかは難しいところですが、一概にバッドと言うことも出来ないなぁと。
18. 9 ニャーン ■2010/12/11 21:05:41
まさかの華仙。
鬼の話から始まって、挿入されるタイトルが古明地姉妹。
これは只者ではないなと、思わず身構えてしまいました。
実際、只者じゃなかった。文章が達者。読み応えがありました。
そして読み終わった後、少し鬱になった作品。
こいしが死ななければならない理由が、序盤から伏線があったとも感じられなかった為、
終盤だけは他の部分と繋がっていない別のエピソードのように感じました。
過去の掘り下げが凄まじく、これなら別の終わり方でも、充分満足できたかなとか思ってしまいます。
19. 7 兵庫県民 ■2010/12/11 21:18:31
なんという補色。
そして茨華仙。やはり書く人は書くものだなぁ。
20. 8 名前が無い程度の能力 ■2010/12/11 21:26:58
最後に今までの話が夢だったかのように思える描写がありますが、夢は一般的に筋だったストーリーが無かったり、色々な矛盾点があるものな気がします。
そう考えると100kB以上かかって書かれた出来事はやっぱり実際に起こったこととしか思えないんです。
話の展開や設定の魅力と綿密さ、伏線の回収など面白い点が多かったのですが、ラストスパートで伏線を回収して悲劇に持って行く、その後に一瞬だけ希望を見せてでもそれは冷静に考えるとやっぱりそんなことはないってのが何だか一番印象的で衝撃的でした。
21. 8 如月日向 ■2010/12/11 22:40:17
華仙の話を初めて読んだのですが、とてもよかったです。
22. 7 774 ■2010/12/11 22:54:16
なんて哀しい物語。
ちょっと分かりづらかったけど、楽しめました。
23. 5 NT○ ■2010/12/11 23:25:19
さとりの部屋にこいしの死体があるシーンが、かなりどっきりしました。
最後のこいしの存在が切ないなぁ。
24. フリーレス エーリング ■2011/03/09 23:15:51
1500点は底辺じゃない事を創想話の点数分布とWikipediaの底辺の定義から
以下150行ぐらいにわたって語ろうと思いましたがどう考えても邪魔なので止めました。
いやしかし私の好きな作品の点は(以下略

うーん、何か序盤のこいしの残虐さを含んだ無邪気な性格と
中盤以降のこいしの感受性豊かな性格が違うキャラのように感じられて
それが最後まで引っかかってしまったのが残念。序盤の性格のこいしは嫌われたところで動じなさそうだと思うの。
3以降のパートの話は面白かったです。
このいつもの東方っぽい感じがいつ剣呑になるかなあってワクワクしながら読ませていただきました。
オチを最初に知って無ければ、もっと面白かったかも……。いやあれは私が悪いのですが。
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