入り口の歪んだハンチバック

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 08:57:43 更新日時: 2010/11/06 08:57:43 評価: 20/20 POINT: 131


 一


 地霊殿のエントランスホールは、天地をひっくり返したかのような騒ぎになっていた。
 住人のペット達が慌ただしく走り回り、台車ががたがたとホールの外へ走り出していく。その上では、血の赤が踊っていた。
 車上の住人は、一羽の鳩だった。しかしその綺麗な白い羽根は赤黒く汚れ、荒い息を吐いている。
 一方ホールの中では、体のどこかに獣の特徴を残した人型の異形が箒やモップを手に動き回っている。その足下には、光り輝く細かい屑が飛び散っていた。
 ホールの中心ではこの館の主である古明地さとりが佇み、周囲の状況を淡々と見守っている。その表情には緊張が宿っていた。
 彼女が向き合っているのは、エントランスの正面に置かれた大きな姿見の鏡である。しかしさとりの背丈の数倍ほどもある鏡の大部分にはヒビが入り、壊れ、床にガラス片の山を築き上げている。それはすでに鏡としての機能を完全に失った、ただのがらくただった。枠に僅かばかり残った破片が、辛うじて歪んださとりの姿を映し出すのみ。
 背の丸まった歯抜けの姿は、ぼろを纏った浮浪者のようで。
 さとりはその姿から目を背けると、ほうと息を吐いて自らの肩をゆっくりと回した。くきり、と乾いた衝撃が肩に走る。
 続いて、足下を見る。胴に包帯を巻き付けた一匹の犬がうなだれている。

「状況は分かりました。あなた達が追いかけっこに興じている間に、一人が勢いあまって姿見に激突してしまったと。運動するなとは言いませんが、少し軽はずみでしたね」

 包帯を巻いた犬はさとりを見上げ、悲しげにくうんと鼻を鳴らす。さとりはそれを見ると、前かがみにその場へ座り込んで目線を合わせた。首筋に手を触れて、責めるのではなくあやすように、労るように。

「分かっていますよ、わざとではないってことくらい。でも、ペット達には刺激を好まない者もいます。あなた達の行動は、不用意に他のペット達を興奮させてしまいました。少しだけあなた達が節度を持って遊んでいれば、防げたかもしれない事故なのです」
「さとり様」

 台車を引いた一人の少女が、エントランスホールに現れてさとりに近づいてくる。燃えるような赤毛と猫の耳を持つ、火車・火焔猫燐の姿。さとりは犬を送り出すと、再び立ち上がってそれを出迎えた。

「怪我人の搬送が終わりました」
「一人、大怪我をした子がいましたね。容態はいかがですか?」
「ええ、応急処置が功を奏しまして、命にゃ別状がなさそうですよ。一緒に追いかけっこに興じていた連中も深く反省していますし、どうか寛大な処置をお願いできませんかね」
「そう言っておけば、必ず甘い裁定を下してくれる、ですか?」

 燐が気まずそうにそっぽを向いた。さとりはそんな燐の様子を見て、笑みを漏らす。
 元より、自身にも彼らに罰を下すつもりなど毛頭ないのだ。

「冗談ですよ。ともあれみんなが無事で、何よりでした」

 声を上げて、ホールに残っていたペット達に手早く指示を出す。

「しばらくの間、鏡の周囲には立ち入りを禁止します。寝そべるなど、もっての外ですよ。ガラスの細かい破片がまだ残っていますから、触れると怪我をしてしまいます。有害な水銀なども使われていますからね。何日かに分けて入念に掃除をして、残った破片は……残念ですけど、廃棄処分するしかありませんね。空いた場所には、新しい絵でも飾りましょうか」

 周囲の空気が、唐突に変化したように感じられた。
 さとりの心臓のあたりに蠢き他者の心を読み取る、覚り妖怪の「第三の眼」。それが周りにいたペット達の、特定の感情を読み取っていた。
 一様な、不満である。

「あの、私はできれば姿見を直してもらいたいかな、なんて」

 おずおずと手を上げたのは、黒髪と黒い翼をはためかせる長身の少女。八咫烏と同化した地獄鴉の霊烏路空である。

「最初に人型を取れるようになった時のことは、鳥頭の私でもはっきりと覚えてます。私、ここで人型になった自分の顔と全身を初めて見ましたもの。その時の感動ったらなかった。私個人としては、同じ感動を後輩達にも味わってもらいたいですよ、やっぱり」

 古明地家で飼われるペットは、さとり達の妖気を間近で受けることで強力な力を持つ妖怪となる。ただの獣から人型に変化するのは、彼女らの成長過程における一大行事である。
 空に限らず、燐も、他の人型を取れるペット達も、みんなエントランスの姿見で初めて人型になった自分自身の姿を目にして、喜びを分かち合ってきた。
 さとりもまた彼女らの飼い主として、その歓喜を間近で見守ってきている。空の主張のような言い分があるのもよく理解できるのだが、それ以上に姿見の修復には、多大な困難が伴っていた。修復にかかる費用、職人探し、そして、それらを確保するために伴う最も重大な問題が一つ。
 さとりにとっては、忌避したい物事である。

「姿を見るだけなら、私の部屋の鏡台を使えばいいですし……それで目を瞑っていただけませんか」

 さとりの消極的な申し出は、彼女らにとって受け入れ難いものだった。燐が、空が、足下のペット達が、縋るような眼差しで一斉にさとりを見つめてくる。さとりの第三の眼は、彼女らの願いを痛いほど聞き取ってしまう。
 彼女らのそんな懇願は、振り払うには重すぎる障害だった。目の前に立ち塞がる難題よりも。

「……あなた達がそう言うなら、仕方ありませんね。姿見を修復する方向で手を考えてみましょう」

 ペット達の顔が、一斉に花開くように明るくなる。

「そのためには、鏡職人を捜す必要がありますね。これだけの大きさの鏡となると、特注品になるでしょうから」

 小首を傾げ、姿見の製法を思い出そうとする。姿見が作られたのは遠い昔、地霊殿が建設された頃にまで遡る。

「最初にあの姿見を作った時は、鬼の職人が数人がかりで、一ヶ月の歳月をかけて作り上げたと言います。今は手の空いている職人を探すだけでも、一苦労ですね……と、なると……」

 さとりは口に手を当てて、最善の策をしばし模索した。彼女は精一杯顔をしかめて思案したが、苦渋の決断を下さざるを得なかった。

「……私から星熊様にお話をしてみましょう。あの方なら、旧都の職人に顔をつないでくださるでしょうから」
「さとり様が? 勇儀の姐さんに?」

 燐は表情を険しくした。目の前の主人が旧都に出たがらないことは、誰よりもよく知っている。

「勇儀の姐さんならあたいも面識ありますし、さとり様が無理して会いに行く必要はないと思いますがね」
「頼みごとの内容が内容です。無理を言って動いてもらうのですから、こちらとしても相応の誠意を見せなくてはならないでしょう」

 さとりは腕を回しながら、憂鬱な仕事に思いを馳せる。
 地霊殿の外、旧都に出るのは、彼女にとって大変な労力を費やす仕事だった。


 二


 鬼の四天王の一人にして星熊様こと星熊勇儀は、旧都市街にある一軒の酒屋を根城としている。四天王と言うからにはあと三人の実力者がいるのだが、他の三人は旧都に定住していないため、旧都の顔役と言えば実質的に星熊勇儀のことを指すことになる。
 地霊殿の周囲には、何もない空き地が広がっている。敷地というわけではなく、旧都住民の誰もが覚り妖怪の能力を恐れて誰も居を構えない。お陰で旧都は地霊殿を中心としてドーナツ状に他の住居が建つという、奇妙な区画になっている。
 そして地霊殿から旧都市街へと近づくにつれ、刺々しい心の声が強くなって、さとりの心を苦しめる。

 ──げ。覚り妖怪じゃないか。何をしに来たんだろう。
 ──距離をとろう。近づくと心を読まれてしまう。
 ──ろくでもない用事だろうな……呪われてしまうがいい。

 地底一の嫌われ者という不名誉な二つ名は伊達ではない。少なくない数の旧都住民が、覚り妖怪の風体と能力についてよく知っている。人混みの中に入ろうものなら、あっという間に覚り妖怪が来たことが知れ渡ってしまう。
 さとりの旧都繁華街における行動は、常に住民の悪意との戦いだ。これに押し潰されてしまう覚り妖怪も数多い。さとりの妹、古明地こいしのように。

 ──早く用事を済ませて、地霊殿に戻ろう。

 さとりは心の声をできるだけ聞き流そうと、肩をすぼめて足早に酒屋へと向かうことにした。
 幸いにして、さとりには誰も近づかない。通りの人混みは、モーゼの奇跡のように綺麗に割れていった。
 まるで流行病でも煩った物乞いにでもなったような気分だった。


 §


 しかしさとりにとっては不幸なことに、彼女のお使いは一度では終わらなくなってしまった。
 その原因となるものが、酒屋の入り口に立ち塞がっている。

「勇儀さんはあんたに会わねえ。帰ってくれや」

 さとりの前に立ちはだかったのは巨躯を持つ鬼が数人。いずれも見た目に違わず、その気があればさとりを一ひねりできるほどの豪腕である。
 その光景には、首を傾げざるを得ない。なぜ勇儀からこんな邪険な扱いを受けるのか、さっぱり見当がつかない。
 勇儀を始めとする旧都の住民が、さとりのことを快く思っていないことは百も承知である。だが、たったそれだけのことで門前払いを食らう謂われはない。彼女とペット達の尽力があってこそ地霊殿が奉る怨霊達は、地底に溢れ出さずに済んでいるのだから。

「理由だけでもお聞かせ願えませんか。訪問者に対して用件も聞かず、頭ごなしに追い払うのがあなた方のやり方ですか?」
「俺達も詳しいことは知らねえよ。ただ、勇儀さんからは『古明地のが来たらとにかく追い払え』って言われてんだ」

 さとりは鬼達をしげしげと眺める。
 少なくとも第三の眼から覗き見た彼らの言い分は、嘘ではないようだ。何より、鬼は嘘を嫌う。
 つまり、目の前の鬼達はただ勇儀に命令されるがままにさとりの行く手を阻んでいる、ということになる。それでいいのかと思わなくはないが、鬼社会は呆れるほど強者序列だ。
 では、どうするか。どうにか説き伏せて道を開けてもらうか。しかし、ここで彼らと無用のトラブルを起こせば、余計な禍根を残すことになる。
 短い時間の考慮ののち、先に折れることにした。

「分かりました。いったん出直します。また、来ますね」

 さとりは鬼達に背を向けると、元来た道を引き返し始める。

 ──おいおい、地霊殿の主が追い払われちまったぞ。
 ──勇儀さんも覚り妖怪を相当嫌っていたからな。いい気味じゃないか。
 ──あんなみすぼらしいなりの輩に、姐さんは会わんよ。

 旧都住民の嘲笑が、さとりの心には重く響いた。


 §


「門前払い、ですか? 勇儀の姐さんが?」
「ええ」

 さとりは憮然とした表情で燐に答えながら、自らの肩を強く握る。

「理由がよく分からないのですよ。私は星熊様に近づけないから、星熊様の心を読むことができない。他の鬼達も星熊様から何も聞かされておらず、ただ私を追い払えとだけ命令されている」
「つまり姐さんが会わない理由は、姐さんに近づかないと分からないと?」

 重々しく頷いた。反対側の肩も同じように握りながら、今後の対策を思案する。勇儀に会うためには、妨害してくる鬼達を突破しなければいけないわけだが。

「一応、その方法はないでもありません……あれを、試してみましょう」


 §


「弾幕ごっこだと?」
「その通り」

 酒屋の前で向かい合う鬼達に対し、さとりは不敵に笑いかける。
 虚勢である。

「あなた方がどうしても星熊様に会わせるつもりがないと言うのなら、その無理を通す筋があるはずです。この幻想郷において否が応にも他者を納得させる手段はただ一つ……違いますか?」

 その言葉を受けて、鬼達は案の定困ったように顔を見合わせた。その困惑に、若干の勝算を夢見る。
 鬼と言えば力自慢で、しかも根っからの勝負好きだ。弾幕ごっこに誘えば、断ることはできないだろう。結局力押しということにはなるが、幻想郷正当の決闘ルールなら誰も文句は言うまい。
 あまり腕っ節の強い部類ではないが、さとりには心を読む第三の眼によって相手のトラウマを具現化する能力がある。常に相手の弱点を突ける自らの能力を用いれば、鬼が相手でもどうにかなるだろうと考えていた。
 案の定、鬼達は顔を突き合わせると、対応を協議し始める。

 その中から「手勢を呼ぶか」という心の声が聞こえてきて、妙な胸騒ぎがする。

 何人かの鬼が集団を離れ、酒屋の中へ、旧都へと散っていく。やがて酒屋の中から、裏の路地から、腕自慢と思しき鬼が集まってきた。
 その数二人、三人。
 四人、五人、六人……。

「あの……こういうのって一対一なのでは」
「心配するな。一度にかかるのは一人だけだから」

 そんなやり取りをやっているうちに鬼の数は更に増え、ついに鬼の数は、十人を超えた。

 ──普通はせいぜい数人どまりなのでは……?

 そんなさとりの思いなど知る由もなく、更に鬼の数は二十人へと増える。集まった鬼の数が数え切れなくなったところで、全ての計算は放棄された。

 ──無理。これは、無理。

 その数十人は集まった鬼達が、さとりに背を向けて何事か話し始める。そのうち一人が振り向き、声をかけた。

「先鋒で誰が出るか決めるから、ちょっと待ってろ!」


 §


 燐が救急箱を片付けながら、さとりの話を聞いている。

「それで、負かされて戻ってきた、と。まあ、鬼どもが相手じゃ無理もありませんやね」

 頬に絆創膏を貼り付けた顔で、深く息を吐き出す。考えが甘かったとしか言いようがない。どんなに相手のトラウマを抉り出そうとも、勝ち続けるには相応の力が必要だったし、何よりあれほどなりふり構わない抵抗に遭うとは、思いもよらなかったのだ。

「流石に、十五人目あたりが限界でした……」
「いや、お一人でよく頑張ったとは思いますけれどね。それにしちゃ連中、あんまりじゃないですか。大の鬼が何十人もよってたかって……あいつら本気でさとり様を姐さんに会わせるつもりがないんじゃないですか」
「お燐、いい方法があるよ」

 空が、ばんとテーブルを叩いて威勢よく立ち上がる。さとりも燐も、微妙な熱を感じていやな予感が心を過ぎる。

「あちらが数にものを言わせるつもりなら、こちらもさとり様に加勢すればいいんだよ。鬼が束になってきたところで私がまとめてフュージョンしてやれば」
「駄目だったら。お空が出ていったら、余計話がややこしくなる。鬼どもと仁義なき抗争なんぞになったら、もう泥沼だよ?」

 燐が興奮する空を押さえつける。彼女は古馴染みの親友の暴走には、都度目を光らせている。空が本気で怒り出せば、地底を文字通り核の炎に包みかねない。
 状況を打開するべく、燐からさとりに一つの提案がなされる。

「あたいが話をつけてみましょう。姐さんには、心を読まれていやな理由か何かがあるのかもしれない」

 さとりは肩に手を当てながら、息を吐いた。燐は地霊殿の誰よりも、さとりよりも口がうまくて要領もいい。さとりには不可能な鬼達の説得も、燐にならばできるかもしれないと思った。恥ずかしい話だが、ペットの助力を借りることになる。

「では、お燐に任せましょう。よろしくお願いしますね」


 三


 燐が鬼の指先一つで突き飛ばされて、街道に尻餅を突いた。
 話をつける、以前の問題だった。心を読もうが読むまいが、問答無用、聞く耳持たず。様子を見ようと鬼の間から身を乗り出そうとすれば、強引に押し戻されてこの有様である。
 さとりの言う通りだった。筋が通らない。道理も何もかもを踏みにじって、彼らは力で押し通そうとしている。
 頭を振りながら上体を起こし、鬼達に毒づいた。

「乱暴だねえ。話くらい聞いてくれたっていいじゃないか」
「何度言ったって答えは同じだ。今勇儀さんは、古明地のにもその手下にも会う気がないって言ってんだよ!」

 宙に一台の猫車が現れ、鬼達と燐との間にがたんと落下する。死体を持ち去り灼熱地獄まで運ぶ、呪われた台車を。燐は猫車を手がかりにして、立ち上がる。
 彼女とて、古明地のペットとして最古参に属する者の一人。自身だけか無碍にされるならともかく、主人までないがしろにされるのは、我慢がならない。ついつい、語気が荒くなった。

「せめて理由を言いな、理由を! きちんと口に出して言ってもらわなきゃ、さとり様だってどうしたらいいか分かんないよ!?」
「だから、俺達もこまけえこたぁ聞いてないんだよ! 自分の胸に聞いてみろって、ご主人様に言ってみろや!」

 燐は舌打ちしながら、鬼達を睨み据えた。その様子から何かを察したか、燐の忠実な使い魔達──ゾンビフェアリーと怨霊の群れがぞろりと姿を現す。
 鬼達もそれを見るや、剣呑な顔で肩を並べて燐を威圧する。その数はすでに十数人に増えていた。。

「別に構わんのだぜ? 先日と同じように弾幕ごっこでケリをつけてもな。そっちがその気なら、こちとらもそれなりの対応をさせてもらうが、どうするよ?」

 燐と鬼達とが、酒屋の前で睨み合う。
 ゾンビフェアリー達が、怨霊達が、燐を一斉に見る。燐がそのつもりなら、鬼達と激突する覚悟だろう。
 しかし、燐にその指示を出す無謀さはなかった。いや正確には、その意思が一瞬芽生えたが、封殺した。

 ──まったくもう、あたいがおくうと同じことを考えて、どうすんのさ……!

「出直してくる。次来る時までに心変わりしといてもらえると、有り難いね」

 燐は歯ぎしりしながら踵を返す。周囲で野次馬をしていた住人達が含み笑いを漏らすのを、睨みつけて黙らせるくらいしか憂さを晴らす手段がなかった。


 §


「すみません、話をつけられませんでした」

 さとりは手を上げて、深々と頭を下げる燐を労う。第三の眼で燐の記憶からことの顛末を読み取ると、下ろした腕をゆるく回しながら考え込む。

「力ずくでも駄目、心を読まなくても駄目。……手詰まりですね」
「酒の一本、いや一樽でも持っていってみたら、どうですかね?」
「ご機嫌取りは、鬼達に通用しないでしょう。手前の胸に聞いてみろと言われても……」

 さとりと燐がいやな熱を感じて、熱源を見る。
 空が、赤くなっていた。顔を赤くするどころか真っ赤なオーラを立ち上らせて、ぶるぶると震えている。

「さとり様、やっぱり私我慢できません。どうか私から鬼どもにがつんと」
「お空?」

 空はさとりと燐に睨まれると、あっという間にしおれてしまう。彼女も彼女で主人のことを大事に思ってくれているのはよく分かるのだが、少々加減が聞かないのが困りものだ。
 さとりは空の肩に手を置きながら、二人に告げる。

「こちらとしても意地があります。あちらがどうしても折れるつもりがないというのなら、気が変わるまで通い詰めるまでです。『三顧の礼』とも言いますしね」


 §


 しかしそれから数日に亘り、さとりは勇儀に会いに行っては追い返される日々を繰り返した。「三顧の礼」はあくまでも人間の故事でしかなかった。
 勇儀に会えるまで帰らないという態度を見せても、腕っ節の強すぎる鬼達が相手では無理があった。
 勇儀が酒屋から出てくるのを待ち構えて問いただそうとしても、鬼達に追い払われた。区画の整理された旧都は見晴らしがよく、隠れる場所もない。

 ──また門前払いだよ。あの人も懲りずによく通うけど、ざまぁねぇな。
 ──相当勇儀さんに嫌われたんだねぇ……こいつは長引くぞ。

 そして旧都住民の声はいつまで経っても、ただ徒にさとりの心身を磨耗させるだけだった。


 四


 さとりがいつものようにエントランスホールへと入るなり、その場にぺたんと腰を下ろして崩れ落ちた。たまたまホールにいた燐や他のペット達が、何事かと詰め寄ってくる。
 青白い顔で、光彩の消えた目でぶつぶつと呟く。

「私は駄目な主ですよ。交渉一つ取り付けられないなんて」
「慣れてないだけですよ。さとり様が立派な主だってことは、あたいらが誰よりも知ってますから!」

 もはや限界だった。不毛な往復が続きすぎた。何が勇儀の気に入らないのか、さっぱり分からないのだ。
 連日に亘り旧都住民の悪意を受け続けたのも、かなり堪えている。もういっそこのあたりで適当な理由をつけて、自分が折れてしまおうかなどという衝動に駆られもする。
 そんな絶望の一歩手前で崩れ落ちそうになっていると、燐がさとりの肩を叩き、声をかけてきた。

「さとり様、今日はもうお休みになってはいかがですか。血色が悪くて、とても見られたもんじゃない」

 その言葉に旧都住民達のような悪意は感じられない。それどころか、性懲りもなく門前払いを受け続けているさとりを労ろうとしてくれている。
 燐だけではない。周囲のペット達からも、心配の感情が伝わってくる。
 どんなに旧都で嫌われ、蔑まれ、嘲られたとしても、地霊殿のペット達はさとりを好いて、癒してくれる。彼女らにはいつもいつも救われている。さとり自身ペット達を心の支えとしている、生かされていると言っても過言ではない。
 それが、地霊殿の主である。
 なんとも、情けない話である。

「そうさせてもらいます……ごめんなさいね」

 よろけそうな足を引きずって、寝室に向かう。
 今すぐこの場に倒れ伏して意識を失ったとて何らおかしくないほど、自身が疲れ切っているのが、よく分かった。
 今の自分はまるで亡者のようだろう、と。


 §


 どういうわけか、目が覚めてしまった。
 聞こえてくる心の声は、僅かである。ペットの大半はさとりに聞き取ることができない夢の中、つまりは寝静まっている時間帯だろう。
 さとりは目を固く瞑り、しばらくの間再び眠りへと落ちれないかと努力してみるが、疲れ切った体はもはや睡眠すら受け付けようとしていない。
 眠るのを断念して、体を起こした。重い。上体が、手足がすごく重い。
 全身に力が入らない。おまけに、鈍い痛みが両肩からじんじんと伝わってくる。
 両肩を後ろ手に叩いてみるが、岩肌のように弾力がない。
 肩を一度持ち上げ、肩胛骨を軽く上下させてみる。ごぎり、と、信じられないほど固い感触が肩から響いてきた。
 元からの肩凝りに加えて心身の疲労が重なり、肩が凍り付いてしまったのかと錯覚する。腕を軽く回してみるが、痛みはいっこうに収まる気配がない。
 こうなったら冷たい水でも飲んで、気分だけでも疲れを忘れよう。そう思い、廊下へと続くドアにとぼとぼと歩み寄る。
 こんな堂々巡りを続けていたら、自分の身が保たないかもしれない。しかし、ペット達の期待を裏切ることだけは、どうにもできそうにない。
 そんなことを考えながら扉を開くと、思いがけないものに出くわした。
 燐と空が、扉を開けた体勢のままで固まっている。彼女らが使っている私室から、今まさに出ようとしているところに見えた。
 二人とも、今は寝ていてもおかしくない時間だ。それが寝間着にすら着替えずに、何をやっているのか。

「こ、こんばんはさとり様。起きちゃいましたか」

 さとりは二人の張り付いたような笑みを見て、顔をしかめる。

 ──様子がおかしい。

 さとりは二人の強い感情を読んだ。動揺である。どう申し開きをしようか、どう誤魔化そうか……そんな狼狽が飛び込んでくる。

「あなた達、こんな時間まで何をやって……」

 問いかけを終える前に、心を読み取るよりも前に、気がついてしまった。空の左手に見えた白い物体と、赤い斑に。
 さとりが血相を変えて空に走り寄る。彼女が手を後ろに回すよりも一瞬速く、その手に飛びついた。
 空は、怪我をしていた。左手にきつく包帯が巻かれ、その間から僅かに血が滲んでいるのが見える。止血がうまく行かないほど深く掌を傷つけてしまったことは、容易に察しがついた。
 血の気の引いた顔で、空の顔を見上げる。

「どうして、こんな怪我をしてしまったのですか?」

 空はだらだらと脂汗を流す。どう足掻いたところで、心を全て読んでしまう地霊殿の主に、隠し事などできるはずがない。
 だから、第三の眼は全てを読んだ。空が包帯を巻くほどの怪我をしてしまった、その理由を。
 次の瞬間、二人を押し退けて歩き出していた。行き先はその向こう側にある、エントランスホール。
 扉の前まで回り込んで、その正面にあるものを見上げる。

 姿見が、元に戻っている。

 だが、よく見るとひび割れだらけだった。割れた鏡の破片を再び集めて組み合わせ、テープなどで補修してある。
 背後に慌てた様子の燐と空の気配が近づいてくる。振り返るや、二人を問いただした。

「これを、あなた達がやったのですね?」

 第三の眼に、燐と空の狼狽が伝わってきた。燐が必死の形相で言い訳を始める。

「すいませんすいません。あたい達、さとり様が苦しんでいらっしゃるのを見て、とてもいたたまれなくなって。もうさとり様が、無理して頭を下げに行かなくたっていいじゃないですか。こんなんですけどちゃんと姿は映せるし、中々立派なもんです。他の子等も、みいんなこれでも構わないって言ってくれてますから」

 さとりは燐の弁解に答えず、足早に空の目の前へと詰め寄った。空が思わず肩を竦める。勇儀と肩を並べるほどの長身である彼女も背の低いさとりを前にして、この時ばかりは母親の咎を受ける子供のようになった。
 空の頬をひっぱたく……代わりに、包帯の巻かれた空の手にそっと手を触れる。

「それで怪我を……しばらくの間は、この手で核融合を行ってはいけませんよ」

 空から離れて、姿見を見上げる。
 破片を不用意に触れて、手を傷つけてしまったのだろう。ただでなくても空はあまり器用ではないのだから、無茶はしないでもらいたいと思う。
 しかし、二人の好意は伝わった。安堵のため息を吐きながら、姿見を見る。
 ジグソーパズルのできは完璧とは言えず、所々に無理矢理組み合わせた破片が見える。隙間になった部分には当然像は映らない。また破片の一つ一つには微妙な傾きができてしまっていて、像の上下左右が微妙に歪んでいる。
 こんな鏡にペットが不用意に近づいて、鋭角の割れ目に手を触れて怪我をしてしまわないかも心配である。立ち入り禁止線を作っておくべきかもしれない。
 まあ、映る像は随分と歪になってしまったけれど。それでも鏡としての役目を果たすのならば、これはこれで悪くはない。
 そんなことを考えながら、割れた鏡を不意に凝視する。
 鏡に映ったひび割れだらけのさとり自身の姿と。
 そして、背後に映ったひび割れだらけの燐と空の姿を。
 それらを見比べたところで、さとりはとんでもないことに気がついてしまった。

 ──私の背は、こんなに曲がっていたかしら。

 猫背。単刀直入に言えばその一言に落ち着く。猫屋敷の主人だけにとも言えば、酷く自虐的な洒落に聞こえる。
 背後の燐や空より自身が小さく見えてしまうのは、きっと背丈の差だけの問題ではない。彼女らに比べると、さとりは酷く背が曲がって、顎が突き出て、肩が下がって……

 ──実に、みすぼらしい。

 その感想を抱いた自分自身に、愕然とする。動けなくなる。あんなみそぼらしいなりでは勇儀はさとりに会わない、という旧都住民の心の声を思い出す。
 と、足下から、不安が伝わってくる。さとりと同様、起き出してきたペット達の姿がある。

「すみません、大丈夫ですよ。少しぼうっとしただけですから」

 さとりはあたふたとその場に腰を下ろし、ペット達に目線を合わせるべく前方へ大きくかがみ込んだ。
 その姿勢に、さとりは二度愕然する。
 この地霊殿に何百匹と存在する、古明地家のペット達。さとりはそれらと会話する度、面倒を見る度、都度大きく背を曲げ、かがみ込んでいる。
 それは無意識のうちに刻みつけられた、さとりの癖だった。
 さとりは再度我に返ると、表情を険しくして一つの決意を固める。彼女は背後で呆然と立っていた燐に振り返った。

「あなたに頼みたいことがあります」


 §


 さとりは燐を旧都へ使いにやって、一人の骨女を地霊殿に招いた。自らの体を標本として整骨を学び、現在の生業としている女性である。
 彼女は落ち窪んだ眼窩でさとりの体を上から下まで眺めると、率直な感想を脳裏に思い描いた。

「肩凝りが酷いだろう、ですって? その通りです。流石は本業ですね」

 骨女は頷くと、寝床にうつ伏せになるようさとりに指示する。彼女はさとりの腕を取って持ち上げ、処方を始める。

「なるほど、猫背を続けていると肩の筋肉が衰え血行を悪くする、ですか。ペット達と目線を合わせようとすると、どうしても背中を曲げないといけないですからね……前かがみにならないように、背を伸ばしたまましゃがめばいいのですか。なるほど」

 さとりの腕を背中に回すと、ゆっくりと負荷をかけていく。思わずさとりの口から、ぐう、という声が出る。

「根が深いものですか。何日か続けて処方を続ければある程度は改善しますか。ご足労かけてしまって申し訳ありませんが、地霊殿に通っていただけませんか。……変な噂が立つのが心配ですか。無理もありませんね。滅多に客の訪れない場所に、何日も続けて他者を招くのですから」

 さとりは汗の浮いた顔を、骨女に向ける。その目には、意地と決意が宿っていた。

「話の種にしていただいて構いませんよ。むしろ鬼達の耳に届くくらい、噂が立った方がいいかもしれません。門前払いを食らい続けた覚り妖怪が、恥を濯ぐのに躍起になっていると」


 五


 さとりは鏡台に映った自分自身の姿を確かめる。

 ──よし。

 数日のトレーニングを経て、矯正は成った。自分でも分かるほどに猫背は解消し、数センチは身長が伸びたかのような感触すらある。

 ──今日のさとり様、なんかいつもより大きいです。

 そしてその感想は自分一人のものではなかった。周囲でさとりを見上げるペット達の評価も彼女自身と似たようなものだった。
 さとりはペット達に微笑みかけ、かがみ込む……代わりに片膝立ちになって、猫の一匹を抱え上げた。

「あなた達とお話する時は、少し不便になってしまいましたけれどね」

 矯正によってなで肩も直り、あれほどさとりを苦しめていた肩凝りもかなり和らいだ気がする。これまでどれだけ体に悪い姿勢を続けていたのかと呆れ果てるばかりである。
 その一方で、正しい姿勢を保とうとすると、どうしてもペット達とコミュニケーションを取りづらくなるのが気にかかる。
 ともあれ、これで改めて勇儀に会ってみることにした。あの腕っ節一辺倒な鬼の頭目が、この程度の変化で態度を改めるとは思えないが。
 シャツを身につけ、身なりを整えてエントランスに出る。すると、なぜか燐や空を先頭とするペット達が、さとりを待ち構えていた。

「行ってらっしゃいませ、さとり様。ご武運を」
「今日こそ姐さん、いや、勇儀の奴をぎゃふんと言わせちゃってくださいよ」

 燐と空の言葉には苦笑を禁じ得ない。まるで命がけの大勝負でもしに行くような見送りの言葉ではないか。

「いつものように鬼に話を通しに行くだけですよ。これで追い返されたら、その時はその時。ヒビの入った姿見にもまた趣があります」

 ペット達に手を振りながら、地霊殿を出る。
 旧都の繁華街に近づくや、いつものように心の声の大合唱が近づいてくる。それに気圧されないように、歯を食いしばり思考の奔流に自らを埋める。

 ──おいおい、また出てきたぞあの覚り妖怪め。
 ──しばらく顔を見せていないから、諦めたのかと思っていたのに。

 絶え間のない侮蔑と嘲笑。それらを無視しようと努めながら更に歩みを進めていく、と。

 ──雰囲気が、変わってないか?

 その心の声を聞いて、内心かなりの驚きを感じた。それは自分に対する反応として、かつて聞いたことがないものだった。

 ──先日見た時よりも、でかくなった気がするなあ。背丈も、態度も。
 ──いったいどういう風の吹き回しだろう。
 ──何度も追い返されたせいで、開き直ったんじゃないか。

 旧都住民達の反応に好奇が入り交じっているのは、これまでとさほど大差はない。しかし、その心の声はさとりを嫌悪し悪態をつくといった感じのものから、肩で風を切って歩くさとりに対する驚嘆や畏怖へと変化している。
 姿勢を改めただけで、他者の心象はこうも変わるものなのか。第三の眼にひっきりなしに飛び込んでくる旧都住民の心の声は、いつものように精神を侵すような感触はなく、むしろ心地よいとすら感じられた。
 何か少し、自信も出てきた気がする。さとりは少し胸を張り気味にして、通い飽きるほど歩いた道を進み、酒屋までたどり着く。そして、いつもとは異なる気配の数と大きさにはっとなった。いつものように、三下の鬼達が待ちかまえていたわけではない。
 なんと勇儀本人が、酒屋の門前で立ちはだかっていた。
 腕を組み、背を矯正したさとりよりもなお頭二つほど高い位置から彼女を見下ろす。威風堂々とした仁王立ちである。
 さとりはすぐさま勇儀の心を読み取って、その真意を知る。

「……本当に背が曲がっているというだけで、私に会う気がなかったとは思いませんでした」

 対する勇儀は、腕を組み仏頂面でさとりを見下ろしている。さとりはその様子を眺め、不機嫌に染まった心の声を聞き取った。

「私を見ていやなものを思い出したから、ですか?」
「……あんたも知っているだろう? 私達が山の上を離れてここに移り住んだ理由くらいは」

 さとりも確かに、その話は知っている。かつての鬼と人間は、決闘によって結ばれた仲だった。しかし人間達はその関係を破壊し、鬼達はそれに失望して地底に下った。

「たまたま、思い出しちまったんだよ。私の前に現れた人間どもをさ。背を小さく丸めて上目遣いにこちらの様子を窺う様子が、あんたとそっくりでねえ。だから、なんとなくつむじが曲がった。ぴんしゃんとした背格好で私の前に現れるまでは、顔を見せるまいと思ったんだ」

 勇儀の様子を見る。何かを思い出したように歯噛みして、さとりからも心持ち目を逸らして。
 さとりの第三の眼は、彼女の記憶を盗み見ていた。
 人の首を差し出し、媚びへつらって頭を下げる人間達の姿。
 酒に混ぜられたしびれ薬でこちらが弱るや豹変して、刀を手に襲いかかってきた人間達の姿。
 勇儀もまた他の鬼達と同じく、地上を追われた時に人間達の卑劣な策略にはめられた口なのだろう。彼女らの望まない戦いを選んだ人間達と、さとりが重なって見えたということか。
 だが、しかし。
 そんな人間達と同一視されるのは、少々気に入らなかった。

「……あなたの憤りはごもっともですがね。私は別に、あなたの命を穫りに伺ったわけではありませんよ。そんなことをすれば、ますます私の立場が危うくなるじゃないですか」
「そうでなくとも、背を卑しく曲げたあんたの姿は見ていて気に入らなかった。余所の者と対面する時くらいは、せめて正々堂々とした態度を見せるもんだ。それが勝負師の鑑ってもんじゃないのかい」

 そう勇儀は言い切って、胸を張る。呆れ顔でその姿を眺め返すしかなかった。本気で言っているだけに、反論する気分にもなれない。

「別に私は、あなたに勝負を挑みに来たわけではないのですけれどね。でも、まあ、あなたがそういう者と同じ態度を私に望むのなら、そのようにいたしましょう」

 それを聞いた勇儀は、にいと歯を剥いた。全ての緊張を和らげる、気さくな笑顔だった。

「では。用件を聞こうか、古明地の」


 六


 地霊殿のエントランスホールに、鬼達の姿がある。
 彼らは継ぎ合わせた鏡を再び剥がし、その破片を大八車に積み込んでいる。新たな鏡を造るために、それらを再利用するのだという。
 さとりはペット達を足下に連れ添い、直立不動でその様子を眺めていた。
 やはり鬼達の仕事は速い。作業の様子を見守りながら、それを実感する。力が強い上に手際もよく、鉄よりも丈夫な肌のお陰で破片に触れても傷一つつかない。
 勇儀はさとりの話を聞くと、あっという間に新しい姿見を製造するための手はずを整えてくれた。旧都の郊外に特製のやぐらを組み上げ、そこで鏡を造るための全ての工程を行う。
 彼女の気まぐれさえなければ、もう少し早く片付いていたはずなのだ。彼らにはきちんと仕事をしてもらわなくては。
 と、頭に鉢巻きを巻いた一人の鬼が、さとりに近づいてくる。背後には、鏡の破片が満載された大八車が見える。

「終わったぜ、古明地のご主人。あとは」
「それらを溶かして板ガラスを作り、銀引きして新たな鏡にする、と。納期は一ヶ月後ですか。かしこまりました、それまでにお代金は用意しておきますね」

 ものの見事に心を読まれた鬼達が、顔を見合わせぼそぼそと話し合う。その間も鬼達の心の声は、第三の眼を通して否応なしに流れ込んでくる。

 ──とっつきづれぇな。

 それでいい。以前のように「気味が悪い」だの「近づかないでくれ」だの言われるよりかは、遙かにましである。
 嫌われることを避けることはできない。だからせめて、それら嫌悪の意思に押し潰されることなく、毅然としていようと思う。評価はあとからついてくる。
 あの勇儀の言うことに流されるのは、少し癪だけれども。

「……そういうこって。じゃあ、こいつは引き取らせていただきますんで」
「よろしくお願いいたします」

 さとりは軽く片手を振りながら、鬼達がエントランスホールから出ていくのを見送った。そうして鬼達の心の声が遠ざかるまで、閉じたドアを眺めると。
 へな、と空気の抜けたバルーンのように力を失い、その場にしゃがみ込む。
 ペット達がさとりの異常に気がつき、心配そうにすり寄ってくる。さとりはその体勢のままペットの一匹を抱え上げた。

「大丈夫、大丈夫ですよ。少し気が抜けちゃっただけですから」

 さとりは笑みを浮かべながら、ペット達をあやしていく。その内心で自身の体を襲った変調の正体を探る。

 ──背中が、痛い。

 ここのところ精神的に張りつめていた上に、背筋を伸ばし続けて普段使わない筋肉を使ってしまっている。
 やはり勝負師の態度なんてものは、自分自身には合わないと思う。ペット達と目線を合わせるいつもの姿勢の方が、自身の性に合う。
 鬼達に会いに行く度に整体師を呼ぶのも少々気が引けるが──

 するり。

 不意に、頭の横に腕が伸びた。さとり自身の腕ではない。
 首回りに見えたものはさとりのシャツと同じ、しかし色はベージュの袖。

「お疲れ様、お姉ちゃん」

 それと共に聞こえてきたのは、さとりに気配を察知されずに背後をとれる唯一の相手の声。さとりの妹、古明地こいし。
 その腕を見て、その声を聞いて、さとりは青ざめる。
 なんと言うことか。ペット達に無用の気遣いをさせていたどころではない。
 三度の食事よりも楽しみな、最愛の妹の相手すらも忘れていたとは。

「ごめんなさい。私、色々とかかりっきりで、あなたにも構ってあげられなかった」

 こいしはさとりの首に回した腕をほどくと、その前に回り込む。まるきり侘びしさを感じさせない様子で一八〇度を回り、その笑顔をさとりの方へと向ける。

「別に構わないわ。面白いものをいっぱい見せてもらったし」

 その言葉を聞いた途端、さとりの心中にいやな予感が芽生える。
 こいしは何を見たのか。いっぱいの、面白いものとは。

「こいし。はっきりとお言いなさい。いったい今まで、どこで何をやっていたの?」

 こいしは自らの口をUの字につり上げる。その表情の変化を見て、芽生えた予感がどんどん成長していく。
 まるで色々知っているような口振り。
 そして、彼女は例え鬼の群れのど真ん中にいようとも、誰にもその存在を気づかせない。

「ご想像にお任せします」

 その一言で、大方察しがついてしまった。
 恐らく、こいしは全てを見ていたのだ。さとりの失態と苦悩を。そして勇儀の思惑をも。
 さとりは眉間を押さえて、首を振る。姉としては少々どころではなく恥ずかしい悪戦苦闘を、ずっと見られ続けていたことになる。

「あいつの思惑が分かっていたのなら、教えてくれてもよかったのに。鏡の修理を頼むだけで、かなり無駄な時間を使ってしまったわ」

 だから、そんな悪態が口を突いて出た。しかしそれを聞くこいしは、悪びれる様子すら見せようとしない。

「誰かに言われて身なりを改めるより、自分で気がついた方が実になるでしょう? 無駄とかより、そっちの方がきっと大事だわ」

 そんなことを言われても、さとりとしては納得が行かない。
 前かがみの姿勢が好ましくない。たったそれだけのことに気づくために、地霊殿と旧都とを何度も往復した。嫌悪と嘲笑の渦に耐えながら、勇儀のところへ足を運び続ける必要はなかったはずなのに。

「気づき、ねえ。それを私に求めて、あなたは何を望むのかしら?」

 さとりは説明を求めるように、こいしの顔を見る。しかし返事の代わりに戻ってきたのは、この言葉だった。

「ところでお姉ちゃん、夕御飯はまだかしら? 今日は久しぶりに、温かいお食事が食べたいわ」

 こいしはさとりに背を向けると、奔放な蝶のように離れていってしまう。
 まだ話は終わっていない。こいしの背中を捕まえようとするように、自らの腕を持ち上げる。

「ちょっとこいし、待ちなさい」

 無駄な足掻きであることは分かっているのだが、やらずにはいられない。
 振り返ったこいしの顔が、ちらりと見える。
 さとりがそれを目に入れた刹那。こいしに向けて手を伸ばした体勢のまま、彫像のように凝り固まってしまった。

 ──はて?

 自分の脳裏に宿った奇妙な感覚に、首を傾げる。どうしてそんな感想を抱くに至ったのか、さとり自身でもよく分からない。
 こいしの顔が。いつでも飄々とした笑顔を浮かべている、こいしの顔が。
 さとりの目にはなぜか、妙に嬉しそうに見えたのだった。



要約:みがかれた鏡の前のさとり様 前かがみにて鑑となれず
FALSE
http://false76.seesaa.net/
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/06 08:57:43
更新日時:
2010/11/06 08:57:43
評価:
20/20
POINT:
131
1. 3 パレット ■2010/11/20 00:04:02
 背筋が曲がっていたから。
 一見しょーもない理由なのがなんか逆にそれっぽかったです。
2. 6 名前が無い程度の能力 ■2010/11/25 00:32:13
要約が憎いねぇ
3. 8 さく酸 ■2010/11/25 20:50:42
後書き、誰がうまいことを言えと。

タイトルがすごくうまいなと思いました。ハンチバックって猫背って意味なんですね。
まったりした読み口でも、しっかりと考えられていて、納得のいく作品でした。
4. 4 もみあげ ■2010/11/26 12:14:38
肝心のネタ、種が「姿勢が悪い」ではインパクトに欠けるかな、と。
5. 4 asp ■2010/11/29 10:52:59
 地霊殿組が生き生きと描写されていていいですね。勇儀の大人げない行動はどうかと思いますが、結末でしっかりフォローが効いていると思います。さとりが少しナイーヴすぎるかも。ともすれば暗くなりがちなストーリーですが、適度に淡泊で適度に丁寧な文章がそんな暗さをうまく打ち消しているように感じます(少々描写不足にも感じましたが)。突出した勢いはないものの、仄かな温かさを感じる作品でした。
6. 8 yunta ■2010/11/30 22:05:19
執筆お疲れ様でした!

確かにさとりは猫背ですねぇ。腕が短く見えるのも猫背のせいなんだ!
しっかりとしたお話で読みやすかったです。少々こいしが出てからの場面が短いように感じましたが……。
地下における、さとりの立場がほんの少しだけ変わる、そんな静かな作品であるところが良かったです。
7. 7 とんじる ■2010/12/02 14:27:08
 トリプルミーニング……!
「鏡」と「鑑」が作中で意識されているのは解りましたが、そうか「屈み」も意識しているのか。納得。巧く取り込んだなあ。
 SSというよりも訓話に近い感じでした。
8. 9 Admiral ■2010/12/07 12:47:04
これはお上手!
内容、表現、キーワードの使い方、
どれをとってもお見事ですね!
最初、勇儀の態度が「?」でしたが、ちゃんと理由(いかにも鬼らしい不器用な)があったとは。
お話の方も、途中までは、「さとり、どうなってしまうんだ…!」と心配でしたが、
最後まで読み、安心させられました。地霊殿は家族!
良作、ご馳走様でした。
9. 8 PNS ■2010/12/09 20:42:54
 鏡と屈み、は分かりましたが、あとがきの「みがかれた」の「みがか」も「かがみ」の逆になっているとは……。
 お話の内容は軽やかで、文章も飲み込みやすく、ほのぼのとした話でした。
 さとり様が猫背になる理由にも納得ですw
10. 5 TUNA ■2010/12/10 00:22:37
最後まで読みやすく、完成度の高い作品だと思います。
カガミというお題もクリアしているし。
本当に好みの点で腰の曲がったさとり様、という表現に抵抗があったのでこの点数で失礼します。
11. 6 リコーダー ■2010/12/10 01:39:59
前かがみがお題だとは気付けなんだ。
重みがあって、いい話のはずなのに。一番活躍したのが整体師という一点だけが、どうも釈然としないんです。
いい意味でですけど。
12. 8 deso ■2010/12/11 20:14:09
整体にかかるさとりさん……なんだか良いね!
13. 8 八重結界 ■2010/12/11 20:21:58
周りから見れば違和感丸出しでも、案外当人は気付かないもので。
そういった意味では鏡という物の重要性が改めて分かります。
健気なお燐達に心温まるなど。
14. 6 木村圭 ■2010/12/11 20:26:12
んー、どうも勇儀の、そして恐らくはこいしの言い分が気に入らないなぁ。
卑屈な訳ではなく媚びている訳でもなく、ペットたちとの愛情の篭った触れ合いの結果だというのに、それを否定しているようでどうもすっきりしません。
背を丸めている姿を見て良い気がしないこと自体は同意できるのですが……。
タイトルにも本文にもセンスの良さを感じる良い作品だと思います。おかげでちょっとさとりに肩入れしすぎたようです。
15. 6 gene ■2010/12/11 20:45:20
必ず一発落ちがくる。落としてくる。これは一発ネタ。そう思いながら読んでてすみませんでした。
見事なトリプルかがみでした。
片膝立ちになって猫を抱え上げるさとり様がベストショットだと思います。
16. 10 ニャーン ■2010/12/11 21:00:31
「かがみ」というお題を最も上手く取り扱っていると思います。非常に好感が持てました。
鏡、前かがみ、鑑。どれも作品を構成する大事な役割を担っているのがまた良い。
物語として読んでも、問題解決の爽快感があり、鬼の態度が変わるさまは、実に気持ちいい。
さとりが断られている理由に気付いた場面では、思わず膝を叩いてしまいました。
鮮やかなお手並みです。
17. 6 兵庫県民 ■2010/12/11 21:40:05
姉に一言で説教するこいし良いな。
つか後書きの短歌が秀逸すぎて何やってんのww
18. 6 如月日向 ■2010/12/11 21:43:57
自信のなさ、他人の目が気になって姿勢が悪くなる。身に覚えがあるだけに、何とも耳に痛い話でした。
後書きもお上手で。
19. 6 774 ■2010/12/11 22:25:57
きれいなお姉さんは好きですかってことですね分かります(多分違います
しかし流石に理由として無理があるような…。
こいしが黒幕で無意識に訴えかけた、とかなのかな、とか想像。
20. 7 文鎮 ■2010/12/11 23:09:09
ついつい自分の背筋を伸ばしてしまう作品でした。
勇儀がやや意地悪かなぁ、と思いましたが、覚りという種族のことを考えれば仕方ないかもしれませんね。
名前 メール
評価 パスワード
<< 作品集に戻る
作品の編集 コメントの削除
番号 パスワード