だって、私は阿礼乙女

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 17:12:13 更新日時: 2010/11/06 17:12:13 評価: 18/19 POINT: 120
「阿求殿! しっかりするんだ!」

 遠くのほうで、私を呼び起こす声が聞こえました。
 遠く……もしかしたら、その声は私のすぐ近くで聞こえる声だったかも。
 なんだか靄がかかったように意識が薄ぼんやりとしていて、声の距離感がうまくつかめていないみたいです。

「いったいどうしたというんだ! おおい! 阿求殿!」

 ゆさゆさと少し強引に身体を揺すられる感じがします。揺りカゴの中で揺すられる感じ……にしてはいささか乱暴な扱い方。
 そういえば、私は今どんな状態なのでしょう?
 私が今感じているものは、この乱暴に揺すられる感じと、少しだけ暖かい木の床の感覚。どこかの木の床に横になっているのでしょうか?
 視界の先は真っ暗……って、これは単に目を瞑っているからですね。
 特に痛いところもないですし、頭がぼんやりしていることを除けばいつもと変わりません。

「阿求殿! 阿求殿!」

 では、この切羽詰ったような呼び声は何でしょうか? この強く揺すられる感覚は?
 私は何ともなさそうだから、そんなに慌てなくてもいいのに。ついついそんな感じでのんきに考えてしまうくらいの慌てっぷりです。
 とにかく、これ以上揺すられるのも気持ちのいいものではありませんし、今の状況を確認するためにも、目を開けることにしましょう。
 ゆっくりと目を開けますと、とたんに視界いっぱいに広がる真っ白な光。

「うう、まぶしい」

 視界に広がる一面の白。差し込んでくる光で周りが見えません。夜の間に降り積もった雪に反射してきたような光が、全方位弾のように差し込んできます。 
 手をかざして光を遮ると、白い世界がほんの少しだけ陰って見えました。

「あ、阿求殿! 気がつかれたか!?」

 まぶしさに目を細める先、うっすらと見える影から安堵と緊張を含んだ声がします。
 この声は、私の聞いたことのある声です。たしか寺子屋の先生をしている上白沢慧音先生。あの頭突きの痛さで有名な。

「慧音……先生?」
「ああ、気分はどうだ?」
「ちょっとまだ、頭がぼんやりして」
「起き上がれるか? 無理はしなくていい」
「平気です。すみませんが、手を貸していただけますか?」

 ゆっくりと身体を起こそうとすると、慧音先生のものであろう手が私を支えて起こしてくれました。
 思ってたより温かくて柔らかい手だなぁ。頭突きはあんなに痛いのに。

「ありがとうございます、慧音先生」
「ああ。しかし、肝を冷やしたよ。近くを通りかかったので寄らせてもらったのだが、部屋で阿求殿が気を失って倒れていたのだから」
「あはは、ご心配をおかけしました」

 もう心配ないと言うように笑いかけながら、今の私の状況を少しずつ思い出していました。
 ここは私のお屋敷の私のお部屋で、そこで私は確か。
 ……うん、確か絵を描いていたんでした。
 私が遍参した幻想郷縁起に掲載する挿絵を描いているうちに絵に興味を持つようになり、その後、暇を見つけては絵を描くようになりました。だから今日も日当たりのいい縁側にイーゼルを置いて、画板に貼った画用紙に下絵を描き、昨日買ったばかりの水彩絵の具を取り出して……。
 そこまで思い出したところで、その先の記憶がないことに気がつきます。つまり、私が気を失ったのは、ちょうどその頃だということなのでしょう。
 たしかに私は身体が丈夫なほうじゃないですけれど、絵を描いている最中にいきなり気を失うなんて。
 歳は取りたくないものですね。って、誰が歳ですか!

「阿求殿? 突然、顔をしかめてどうした?」
「え、ああ、いえいえ、何でもありませんよ」
「まぁ、なんにしても大事に至らなくて良かった」

 慧音先生も私が大事無いことがわかり、安堵の笑みを浮かべた様な気がします。まだ視界がはっきりしてないので、見えませんが。
 それにしても、このまぶしさは何でしょう?
 さっきから視界がまぶしすぎて何も見えません。というより、視界が白いと言ったほうがいいでしょうか?
 目が慣れてきて、目がくらむようなまぶしさはなくなりましたけど、いまだに私の視界は何も見えず白いまま。手の甲で目をぐしぐしと拭ってみても、目を凝らしてみても変わりません。ただ、慧音先生のものだと思われるぼんやりした影が、私の目の前に広がっています。

「阿求殿?」

 私の感情は相当顔に表れやすいのでしょうか? 慧音先生の不思議そうな声がします。

「あ、いえ、何でもありませんよ。大丈夫です」

 大丈夫なことをアピールするために、少しだけ勢いをつけて立ち上がってみせましょう。
 反動つけて、いち、にのさん!

「あ、あら?」

 視界がはっきりしないため、私はバランスを失い、床にコロンと転がってしまいました。

「阿求殿!?」
「あ、あはは。失敗失敗」

 慧音先生が再び慌て始めてしまったので、取り繕うかのように苦笑いを返します。やだなぁ、もう、かっこ悪い。
 今度は足元に気をつけながら、ゆっくり立ち上がります。少しふらつきながら、それでもちゃんと二本の足で立つことができました。
 私から少しはなれた場所で慧音先生はじっと私のことを見ているよう。

「このとおり、私は大丈夫です。どうもお騒がせしました」

 私はその慧音先生の影に向かってぺこり。

「阿求殿」

 その声は、私の斜め後ろあたりから聞こえてきました。

「阿求殿が頭を下げているのはイーゼルだ。私はこちらだ」
「え?」

 驚いて私の正面にあった影に手を伸ばすと、お日様の温もりを吸収して少しだけ温かくなった無機質な紙の感触。

「あ、あれぇ? おかしいですね。慧音先生がまるでイーゼルのよう。慧音先生、いつの間にこんなにぺっちゃんこに」
「阿求殿、もしや」

 必死にごまかそうとする私に構ってくれない慧音先生の震えるような声。その姿は見えませんけれど、どんな顔をしているのか簡単に想像できてしまいます。

「あ、あはは! あははは!」

 慧音先生の声がするほうを向いて、私らしかぬ笑い声。当然ただの空元気。こんな笑いにごまかさせる慧音先生じゃないとわかっているけれど。

「い、いやですね。ただの冗談ですってば。慧音先生、いつもお堅いのですから、たまにはこういう冗談のひとつも聞かないと……」
「阿求殿!」

 一喝。そして、私の肩ががしっと掴まれます。否応なしに私の眼前に迫る黒い影。

「正直に答えてくれ。阿求殿はもしかして」

 きっと慧音先生は真剣な顔で私のことを――私の目をじっと見つめているんだろうなぁ。
 そんな他人事のようなことを考えてしまうのは、きっともう慧音先生にはバレてしまっているんだろうという諦めのせいなのかもしれません。

「目が見えていないのか?」

 ほんと、慧音先生に隠し事はできません。
 慧音先生の言葉に、私はこくんとうなずくだけでした。















 それから私の自然治癒力を信じて待つこと半刻。全く回復する気配がなく、私はやっぱりか弱い少女だったと憂鬱な気持ちに浸りながら、慧音先生に連れられて里のお医者様に向かいました。
 目の見えない私を気遣って、慧音先生はお医者様に往診に来てもらおうと言いましたが、それだけは断りました。
 そんなことをすれば、私に何かがあったということがお屋敷中に知られてしまいます。私がよくお世話になっているお手伝いさんなんて、間違いなくひきつけを起こしてひっくり返ってしまうでしょう。
 稗田家の当主として、お屋敷の方たちをみだりに心配させてしまうのはできるだけ避けたいところです。

 薬独特のきつい臭いがする少しだけ陰った白い場所。
 目の前に浮かぶ黒い影は、私の目を診ながらずっと、そのしわがれた声を唸らせています。
 かちゃかちゃと金属の鳴る音がしたかと思うと、陰った風景が明るすぎるくらいの白に変わり、そのまぶしさに目を細めます。
 それを見てますます唸り声をあげる目の前の影。
 お医者様の初老を過ぎたころの顔にできた皺が、きっと面白いぐらいぐしゃぐしゃに寄っていたことでしょう。
 残念ながらその様子を見ることはできないので、想像して楽しむだけにしておきますが。

 結局、私の診察は半刻を過ぎないうちに終わってしまいました。
 出た結論は原因不明。
 その中でわかったことは、私は盲目になったわけではないということ。
 盲目ならば、目の前にランタンなどの明かりをかざしても何も見えないし、そもそも焦点が合わないと言います。
 でも私の場合、ランタンの明かりに反応して目を細め、見える物の影に焦点を合わせることができるそうなのです。
 つまり、私の目は見えている。でも、それを正しく認識できていない。すべて白と黒の濃淡となって私の目に飛び込んでくる。
 このような症状は、お医者様も初めて見たそうです。
 新種の病なのか、それ以外の何かなのか。どちらにしても、お医者様の手に余るものだと、申し訳なさそうに言っていました。

「いったい、どういうことだ? 阿求殿の目と、阿求殿が気を失っていたこと。何か関係が」

 慧音先生が私の手を引きながら、ぶつぶつと呟いています。考え事に夢中になっているからか、心なしか歩くペースが速い気がします。
 私は彼女に引かれるまま歩きながら、普段と様子が違う里の街並みを眺めていました。
 威勢のいい八百屋の掛け声、世間話に花を咲かせるおばさんの声、わいわい喧しく私の横を通り抜けていく子供たちの声。
 里の喧騒は、十数年間私が聞いてきた物と寸分違わず同じ物のはずなのに。
 明るい白の中、ところどころに映る黒、集まる黒、動く黒。
 いつも見ている風景が白と黒に統一されて、それだけで私が今いる場所が十数年間暮らしてきた場所ではなく、今初めて訪れた見知らぬ場所の様に感じてしまいます。
 里の風景だってきっと、その喧噪と同じでいつもと変わらない、私がよく知るもののはず。
 ただ、見えていない。それだけでこんなに一変してしまう。
 そのことに不安を覚えて、私はそっと目を閉じてみました。
 白が消え、黒一色に統一された世界の中に、今までずっと暮らしてきた里の風景を思い浮かべてみます。
 里の喧騒とともに、私の目に現れる、赤、青、黄色。
 記憶の中の里の風景は、いまだに変わらず私を迎え入れてくれました。
 一度見た物を忘れない私の能力はこういうときに便利なものです。

「あ、わわっ」

 とはいえ、さすがに目を閉じたまま歩けるわけがなく、慧音先生の歩く早いペースも相まって、私は前につんのめるように転んでしまいました。
 怪我は特になさそうですが、お気に入りの着物がちょっと汚れちゃったかもしれません、あーあ。

「む、す、すまん。ちょっと歩くのが早かったか」

 慧音先生のちょっと焦ったような声がして、前を歩いていた影が私を助け起こしてくれました。

「怪我はないか?」
「あはは、平気です。でも、もう少しゆっくり歩いてくれると助かります」

 着物の汚れをポンポンと払ってくれる慧音先生に明るく返答します。

「焦る気持ちはわかりますが、もう少し落ち着いた方がいいと思いますよ。そのほうがいい考えも浮かぶというものです」
「ははは、いちばん大変な阿求殿に言われてしまっては、私の立つ瀬がない。それにしても阿求殿は強いな。自身の目が大変なことになっているというのに、取り乱すことなく落ち着いている」
「きっと慧音先生が私を助けてくれているからかもしれないですね、ありがとうございます。ところで、慧音先生。私たちは今どちらに向かっているのですか?」

 慧音先生のことだから、当てもなく彷徨っているなんてことはないと思いますけれど。

「ああ、私の知人に病に詳しい者がいてな。ほら、竹林の中に永遠亭と呼ばれる屋敷があるだろう。そこの薬師だ」
「薬師……八意永琳先生のことですね?」

 愛想の悪そうな兎が、里の広場で八意先生が作った薬を売っているのをよく見かけました。
 八意先生特製の薬は、副作用も少なく良く効くと評判です。変な効果の薬も多いですけれど。
 たしかに薬に精通した八意先生なら、私の目のことも何とかしてくれるかもしれません。

「ああ、そうだ。少し歩くことになるだろうが、問題はないか?」
「はい、大丈夫です」

 目を治す手段があるというのならば、俄然元気がわいてくるというものです。
 むしろ全力ダッシュしてでも急いで向かいたいくらいです。目が見えていればの話ですけど。

「わかった。早ければ日が暮れる前に到着できるだろう。申し訳ないが、少し急いで……」
「あっ、阿求ちゃんと慧音せんせー」

 とその時、どこかから私と慧音先生を呼ぶ声が聞こえてきました。私と同じくらいの年の女の子の声。
 きょろきょろとあたりを見回してみますが、見える物は白と黒ばかり。そうでした、見えないんでした。
 声が聞こえてきた方向も周りの喧噪のせいでうまく特定できませんし……困りました。

「君は、確か花屋の。こんなところで会うとは奇遇だな」
「奇遇って、ここ、私のうちの前ですよ?」
「む、そうだったか」

 お花屋、なるほど。
 お花屋で私のことを阿求ちゃんと呼ぶ人は、私が覚えている中で一人しかいません。
 で、お医者様からまっすぐ歩いてきたんですから、そのお花屋がある方向は、私から見て左の方向です。
 手がかりを見つけた名探偵のごとくちょっとした推理を頭の中で思い浮かべて振り返れば、確かにそれっぽい小柄で黒い影。

「こんにちは、今日はお日柄もよく」
「阿求ちゃん、それ看板」

 慣れないことはするものじゃないですね。

「もう、阿求ちゃんも慧音せんせーも、まだ若いんだからボケちゃダメですよ」
「あ、ああ、すまんな」

 自身の生徒に言われ、少し苦笑い気味の慧音先生の声。
 私の目が見えないことがバレていないようなので安心なのですが、なんとも複雑な心境です。だいたい、私、一応あなたと同じくらいの歳なんですけど。

「あ、そうだ、阿求ちゃん! 今日、すごく可愛いお花が入ったの。まだ、お店には並べてないんだけど、また阿求ちゃんにだけ特別に見せてあげるね!」
「え、あっ、ちょっと」

 私が止める間もなく、斜め前あたりにいた少し薄めの小さな影が、向こうへ行ってしまいました。
 あの子、そっちにいたんですね。ほんと、目が見えないっていうのは不便です。
 嘆息していると、そう間を置かずにさっきの小さな影が戻ってきます。

「はい、これ! 可愛いでしょう?」

 そう言って差し出してくるのは、やっぱり小さな影でした。大まかな形から、なんとなく花っぽい感じはしますけど、それ以上のことはわかりません。

「ムスカリっていうお花なの。青くてちっちゃいお花がたくさんついてて可愛いでしょ?」
「ムスカリ……」

 花の名前から、その花のことを見たことがないか、記憶の中を探してみますが、出てくるのは妖怪とか人間とか幻想郷の地名とかそういうものばかりで、いまいちうまくいきません。
 幻想郷縁起の編纂に能力を注ぎすぎた弊害でしょうか? あの書物に花について書かれた項目などあるはずもないですし。

「ムスカリか。ユリ目ユリ科ムスカリ属の植物の総称だな。花が一見するとブドウの実のように見えることからブドウヒヤシンスとも言われている」
「へぇー、さすが慧音せんせー。なんでも知ってるんですね」
「まあな。名前の由来はムスク、つまり麝香のことで、これは雄の麝香鹿の腹部にある麝香腺から得られる分泌物を乾燥させた……」

 調子づいた慧音先生の青空授業が始まってしまいました。何を言っているのかさっぱりわからないので、ぽかんとしておきます。
 私の目の前の影――お花屋の子も私と同じようにぽかんとしていることでしょう。

「そ、それで阿求ちゃん、どう? かわいい?」

 気を取り直すように目の前の影がぶるんぶるんとかぶりを振るように動き、私に尋ねてきます。
 どうと言われましても、目の見えない私は当然その花を見ることができません。
 記憶の中にようやくそれらしい形の花がイメージされましたが、それはあくまでイメージであり、心から可愛いとは言えない薄っぺらなもの。
 大体、そのイメージが本当に彼女が持つ花であるかどうかもわからないですし。

「阿求ちゃん?」

 何も言わず、ただじっと見ているだけの私を不思議に思ったのでしょう。目の前の影が不思議そうな声を発しました。困ったように眉を曲げ、首をかしげるお花屋の子の姿が思い浮かびます。
 ここでこのまま何も言わなければ、きっとこの子はとても悲しがるでしょう。それは、本当のことを言っても同じ。
 嘘をつくのはあまり好きではないのですが、やむを得ません。

「え、ええ、とってもいいお花だと思いますよ。青くてちっちゃいお花がたくさんついてて可愛いです」
「でしょでしょ? 阿求ちゃんならきっとそう言ってくれると思ったよ!」

 私の言葉に喜びはしゃぐ声が上がりました。彼女が言った言葉をそのまま復唱しただけなのですが、この子にはそれで十分だったようです。
 ああ、でも、彼女の喜びが心に痛い。
 私の記憶に浮かぶ彼女の笑顔がまぶしくて、今の私にはとてもじゃないけど直視できそうにないです。

「よかった、このお花を阿求ちゃんに見せて。またきれいなお花が入ったら見せてあげるね」
「う、うん。あ、ありがとう、ございます……」

 やめてー! そんな素直な気持ちを今の私にぶつけないでー!
 悟られないようお花屋の子に笑いかけつつ、心に受けた痛恨の一撃に悶えていますと。

「すまないな、私たちは所用で急いでいるのだ。そろそろ行かなければならない」

 慧音先生が助け船を出してくれました。さすが、慧音先生。

「あ、そうだったんですか。ごめんなさい、はしゃいじゃって」
「いや、かまわんよ」
「はい、うれしかったですよ、私は。では、失礼しますね」
「うん! 阿求ちゃん、慧音せんせー、またねー」

 お花屋の子の影が手を振るように動きます。私もその子に小さく手を振って、慧音先生を促すように手を取りました。

「まぁ、慧音先生。いつの間に手がこんなに角張って」
「阿求ちゃん、だからそれ看板」

 えーん……。















 喧騒が遠ざかり、どんどん辺りが静かになっていきます。人の声も人が使う道具の音も聞こえなくなり、かわりに聞こえてきたのは風の音と風が竹を揺らす音。
 里を抜け、私たちは迷いの竹林へとやってきたみたいです。

「ふぅ……」

 歩くペースを少しだけ落とした私たち。私の口から自然とため息が漏れます。

「疲れたか?」
「いえ、そうじゃないんですけれど。さっきのあの子に悪いことをしたと思いまして。あんなに喜ばれると、あの子に嘘をついてしまったことへの罪悪感が」
「嘘も方便という諺がある。あまり気にしない方がいい」
「あら、意外。慧音先生は嘘に厳しい方だと思ってましたのに」
「あそこで本当のことを言っていたら、あの子はきっと悲しんでいただろう。そうしなかったのは阿求殿の優しさだ。それを私は否定したりしないさ」
「そうですか。そう言っていただけると気が楽になります」

 それからしばらく、私たちは無言で歩きました。
 白い世界の中、黒くて小さな影が所々に散らばり、風が奏でる竹の音に合わせてゆらゆらと揺れています。優しい木漏れ日を作り出している竹の葉っぱの影なんでしょうか?
 風景に邪魔されて普段はあまり気にとめることのない影が、白い世界の中で幻想的な光景を作り上げています。
 それはたぶんとてもきれいなものなのでしょう。けれど、私にはそこに何とも言えない寂しさを感じてしまいます。

「あのお店に行くとですね」

 そんな寂しさを紛らわせるために、私は口を開きました。私の話す言葉に、かすかな切なさが混じっていたのが自分でわかってしまいます。

「さっきみたいな感じであの子がいろいろな花を見せてくれるんですよ。かわいい花、きれいな花、珍しい花、かっこいい花。その花を見ることが私もちょっとだけ楽しみだったんです」
「そうか」

 慧音先生は、軽く相づちを打つだけに止めたようです。
 何かを考えているかのようでもありますし、かける言葉がなく先を促しているかのようにも思えます。姿が見えないので、そのあたりの慧音先生の心情がよくわかりません。

「でも、それもしばらくできなくなるんですね。それがちょっと残念です」
「なに、目が治れば、またあの子と一緒に花を楽しむことができるさ。不安になるのはわかるが、今は心配事など忘れて目を治すことに専念するといい」
「そうですね。目が治るまで、あの楽しみはお休みです。今日はあの子に悪いことをしてしまいましたし。目が治ったら、今日のことを謝りに行かないと」
「ああ、その意気だ」

 慧音先生に励まされ、少しだけ元気が出てきました。
 落ち込んでいてもどうにもなりません。病は気からと言いますし、今は目が治ることだけを考えて元気を奮い立たせましょう。
 両手をぐっと胸の前で握りしめて、やる気を奮い立たせるポーズ。

「さあ、のんびりしている暇はありませんよ! はやく八意先生にお会いして、私のこの目を治してもらいましょう! 今、描いている絵だって完成させたいですし、新しく買った絵の具だってまだ一回も使ってないんですよ」

 森の入り口にある道具屋で買った、ちょっと古い14色入りの水彩絵の具。ちょっと古ぼけていますけれど、可愛い装飾の入れ物が気に入った、思わぬ掘り出し物でした。
 せっかく買ったのに1色も使えないなんてもったいないじゃないですか。

「やはり強いな、阿求殿は」

 慧音先生が感心するように小さくつぶやいています。

「何をおっしゃいます。ただの空元気ですよ。本当の元気は目が見えるようになったときまでしっかり封印してあります」
「なるほど。では、目が見えるようになった時が楽しみだな」
「はい! きっとすごいですよ。思わず角が生えてしまうくらい元気にあふれすぎちゃいますよ。だから、楽しみにしていてください!」
「ふふ、そうしておこう。……おや?」
「あ、あなたは……」

 私たちより少し離れた前方から、幾ばくかの緊張を含んだ声がしました。そちらの方を見ると、木漏れ日が作るちろちろとした影の中に浮かぶ別の影。
 背が私より頭2つ分高く、丸くて小さな肩から長い首が2本突き出し、右に左にゆらゆら揺すっているかのよう。

「きゃあ! 化け物!?」
「誰が化け物よ!?」

 大変です、2本首の影の化け物が憤慨して声を張り上げてきます。興奮して今にも襲いかかってくる勢いです。
 こういう時は、まず落ち着いて……助けを呼びましょう!

「慧音先生、やっちゃってください!」
「落ち着け、阿求殿」

 なぜか私がたしなめられてしまいます。なんで?

「ちょっとあんた! なんなの、その失礼な女は」
「気にしないでくれ、鈴仙。ちょっとやむにやまれぬ事情があってな。彼女も悪気はないんだ」

 鈴仙? どこかで聞いたような名前ですね。私の記憶の中から、その名前に該当する容姿の人物を思い浮かべます。
 ……あ。

「愛想の悪い薬売りの兎!」
「やっぱり失礼!」

 そうです、そうです。鈴仙さんって言ったら、里へ八意先生の薬を売りに来ていた兎じゃないですか。
 そうなると、私が2本の首だと思っていたのは、彼女のちょっとへちゃってる兎耳ってことになりますね。
 なんだ、化け物じゃなかったんですね。よかったです。

「ごめんなさい、勘違いしてしまいまして」
「ほんとよ! 私のどこをどう見れば化け物になるっていうのよ!」
「と言われましても」

 見えてないんだから仕方ないじゃないですか。

「だいたい、初対面でいきなり……ん?」

 それまで早口でがなり立てていた鈴仙さんですが、何かに気が付いたのか、急に言葉を止め。

「んんー? ねえ、あなた」
「は、はい?」

 鈴仙さんの物であろう影がずずいと私に急接近してきます。
 じっと私を見つめているようですが、何とも居心地が悪いです。
 どうしていいかわからずにとまどっていると、やがて鈴仙さんがこんなことを言いました。

「あなた。白い」
「はい?」

 白い? 私が? それはいったいどういうことでしょう?
 私のイメージとしては白と言うより黄色とか紫とか、そっちの方がしっくりくると思うのですが。
 いったい彼女は何を見て白いと……。

 そういえば、彼女は波長を操ることができると聞いたことがあります。
 見ている物の波長をずらして、見えない物を見たり、見える物を透かして見えなく……まさか!?

「ちょっと? なんで顔赤らめて袴押さえてるのよ? 違うから! 下着のことじゃないから! っていうか見えないから!」
「違いますから! 白い下着なんてはいてませんから! はいてませんから!」
「何言ってるのよ!? そうじゃなくて、白いのは視線! 視線が白いのよ!」
「はいてませんから! はいてませんから! って、視線?」
「そうよ! ……はぁ、疲れる」

 目の前の影がぐったりと肩を落として息をついています。

「鈴仙。もしや、阿求殿の目の病気のことがわかるのか?」
「病気かどうかはわからないけれど」

 慧音先生に促された鈴仙さんの声が、少しだけ神妙なことに少なからず緊張を覚えます。

「視線って言うのは、赤、青、黄色、いろんな色の波が合わさってできているもの。私は、その波の線を見ることができるんだけど……えっと、阿求って言ったっけ? あなたの視線には今、白い波しかない。あなたの目の前に、色の波を遮断するフィルタでも着いているかのように、きれいに真っ白なのよ」
「白い波……」

 確かに私の見ている物は白と黒のぼんやりとした形だけのもの。鈴仙さんが言っていること、私の目に起こっている病気と関係があるかもしれません。

「あなた、もしかして今は目が?」
「はい。完全に見えないというわけではないのですが、私が今見える物は、白と黒の世界です。モノクロとか、灰色とかではなくて、白と黒に二分されたぼんやりとした世界」
「そう……私にそれ以上のことはわからないけれど、もしかしたら私の師匠なら何か知っているかもしれないわ」
「ああ。私たちはちょうどこれから、お前の師に会いに行こうとしていたんだ。八意殿は今、ご在宅かな?」

 私の右前から慧音先生の声。

「師匠なら、今日はずっとお屋敷にいると言っていたわ。私はこれから、道具屋へ薬の材料の買い出しに行かなきゃいけないから同行はできないけれど」
「構わない。いつも妹紅と一緒に上がらせてもらっているから、勝手はわかっているつもりだ」
「あれは、乗り込んでるって言うのよ。まあいいわ、なら、師匠にあったらこう伝えておいてくれないかしら」

 一拍おいて、彼女はこう言いました。

「彼女の視線は色を失っているって」















「色ね……なるほど」

 永遠亭と呼ばれるお屋敷の中を右へ左へと行ったり来たりして、もう自分がどこを彷徨っているのかわからなくなるくらいまで進んだところで、ようやく彼女、八意永琳先生と出会うことができました。
 今私たちがいる場所は、八意先生の仕事部屋だそうです。
 見える物が白と黒だけなのでお部屋の様子を窺い知ることはできませんが、鼻に付く薬品の刺激臭と、古い本の埃っぽい臭いが合わさったような変な臭いがします。
 私の手の中には、八意先生の使用人――たぶん使用兎だと思うんですけれど――が入れてくれたお茶の入った湯飲み。
 千振というお茶らしく、一口飲んだらすごく苦かったです。胃腸にいいと八意先生は言いますが、この苦みは好きになれません。
 私は八意先生に目のことを説明し、ひとしきり問診を受けた後に先ほど鈴仙さんが言っていたことを伝えました。
 彼女の姿も白と黒の影にしか見えませんが、彼女の口調は私を興味深い観察対象にしているように聞こえました。

「うどんげの話が本当だとしたら、もうあれしかないわね。にしても、地上でお目にかかれるなんて珍しいわ」
「はぁ」

 八意先生はもう私の目のことをわかっているという口ぶりですが、私にはさっぱりです。
 まぁ、私の病状はともかくとしても、この目の治し方くらいはわかりやすく説明してほしいです。

「で、八意殿。結局、彼女の目はどんな病気にかかっているというのだ?」
「いいえ、病気じゃないわ」
「病気じゃない?」
「ええ」

 あっさりと言ってのけています。

「教えてくれ。阿求殿の目は今、どうなっているんだ?」
「そうね。結論から言ってしまうと、これは『かがみ』ね」
「か、かがみ?」
「そう、かがみ。影が見えると書いて『影が見』よ。もとは影の神、『影神』からくる言葉なんだけど。つまり……」

 えっと、八意先生の説明が慧音先生に匹敵するほど難しかったので、私が理解できた分だけまとめます。
 人の目が見ている物は大きく分けて2つあります。
 光と色です。
 光は見た物の明暗を表現するもので、光が多いところほど明るく、逆に光がない場所は暗く見え、これが影になります。
 色は見た物の鮮やかさと境界を表現し、色がないところは白くみえますが、色が付くごとに鮮やかに見え、やがては黒に近づいていきます。また、色と色の境は輪郭を形成して、物を分け隔てる境界にもなります。
 私が見ている白と黒の世界はつまり、光だけを見ている状態。光の強弱によって明るく見えたり、人や物がある部分からの光が弱くなって影になったり。
 見ている物が、どんな色をしてどんな輪郭を持っているのかを認識することができない状態。色を区別できなくなる色覚障害とはまた違う、名前の通り、影が見える――逆に言えば影しか見えない状態が今の私なんだそうです。

「私も地上に来てまだ浅いとはいえ、『影が見』になった患者に出会えるなんて珍しいわ。月でも滅多にお目にかかれないのに」
「そうですか……」

 八意先生がしきりに感心していますが、私にはさっぱりです。
 だいたい、八意先生の話からしてさっぱりです。なんですか? 地上とか月とか。

「で、病気じゃないというのなら、何だって言うんですか?」
「そうね……『影が見』というのは、その患者の状態を表す言葉であって、そうなる原因としてはいくつかあるのだけれど……一番あり得るのは、呪術のたぐいかしら」

 呪術。つまり呪いですか。

「あなたに恨みを持つ誰かが、あなたに呪いをかけたか。でなければ霊障、つまりこの世に未練をもつ霊があなたに取り憑いたかね」
「うーん、そう言われてもピンとこないのですが」

 だいたい誰かに恨まれるようなことをした覚えはありませんし、先祖のお墓参りはとうの昔に済ませてしまって、最近はお墓に近づいた覚えもありません。
 だから、今日急に呪いをかけられる理由なんて。

「……あー、ちょっといいか?」

 私が今座っている椅子の少し後ろで慧音先生の声があがりました。慧音先生のことだから、床の上に律儀に正座して挙手の上で発言してるんだろうなぁ。さすがにそれは偏見でしょうか?

「どうぞ」
「私も阿求殿の目についていろいろ考えていたんだが、もしかしたらこれは、阿求殿特有の原因……という可能性もあるのではないか?」

 なんでしょう? 慧音先生の声から少しためらいのような物を感じます。

「八意殿もご存じだろうが、阿求殿は御阿礼の子、九代目阿礼乙女だ。一度見た物をすべて記憶する者、その彼女ら特有の何かがあるのかもしれない」
「でも、御阿礼の子とはいえ彼女も同じ人間……」

 八意先生が途中まで言いかけた言葉を不意に止めました。はっと息をのんだようにも思えたけれど、目の見えない私にははっきりとわかりません。

「なるほど。その可能性は確かに否定できないわね」
「ああ」
「でも……いえ、まだ可能性があるという問題よ。結論を急ぐのはいけないわ」

 八意先生と慧音先生との間で会話が成立していますが、当事者である私はすっかり蚊帳の外です。
 でも、声の雰囲気からすると二人とも真剣そのもの。先ほどまで私の症状に物珍しそうな口ぶりだった八意先生も、声のトーンが落ちてシリアスになっています。

「あの、結局どういうことなんですか?」
「別に。まだわからないってことよ」

 たまらず聞いてみたらしっかりはぐらかされました。私の目のことなのに。
 ムッとして、彼女にしつこく食い下がります。

「私の身体のことなんですよ? なのに私だけ蚊帳の外なんてずるいじゃないですか! どんな話をしているのかは知りませんけれど、ちゃんと私にも……」
「……本当に知りたいの?」

 今、八意先生の声が、不気味なくらい冷たく聞こえた気がしました。
 突然のことにちょっとおびえ気味になる私。

「え、ええ」
「……話してもいいかしら?」

 その確認は私ではなく、後ろにいる慧音先生にされたものに思えました。

「私はその問いには答えられない。阿求殿の意思を尊重しよう」
「……話してもいいかしら?」
「も、もちろんです」

 今度の確認は間違いなく私に向けられたもの。だから私は大きくひとつ、うなずきました。
 八意先生の影が私の方に向き直ったように見えたので、私も慌てて居住まいを正し、聞く体勢を整えます。

「あなたの目について、ひとつ心当たりがあるわ。これは九代目阿礼乙女であるあなたにしか起こりえないこと。まだこれは可能性でしかないのだけれど、でもその確率は高いと私は思っている。そして……」





「もしそうだとしたら、あなたの目は一生治らない」





「……え?」

 えーと、ちょっと待ってほしいです。
 八意先生の話に私の理解が追いつきません。
 今、彼女がなんて言ったのか、よく聞こえませんでした。
 あれ? なんか変ですね。
 聞こえてなかった? 聞こえてた? 聞こえたけど理解できなかった? 理解したくなかった? あれ? あれ?

「あなたの目から色が消えた理由。それは……」

 ああ、ちょっと待ってください。まだ頭がうまく働いてないんです。
 今、落ち着きますから、その先を言わないで……。





「それは、老衰よ」





 ……はぁ?

 八意先生が放った言葉に、私の口が開いたまま塞がらなくなりました。
 混乱した頭にさらに混乱が折り重なってきます。そりゃそうです。

「つまり寿命ね」

 ちょっと、それはいくら何でも冗談がきついですよ。私、これでもまだ十とちょっとしか生きてないんですけど。
 老衰って、だれがおばあちゃんですか!? 私そんなに老けてませんよ! 失礼な!
 確かに八意先生は薬や医学に精通しているのかもしれませんけど、なんでそんな笑えない冗談を急に。

「あなたの阿礼乙女としての寿命」

 っ!?
 ……や、八意先生が何を言っているのか、全くわからないですね!
 も、もう、八意先生のことは当てにできません。こうなったら里のお医者様全部を回ってでも、原因を!

「あなたも、わかっているんでしょう?」
「や、な、に……を?」

 反論しようとした私の口からは、言葉にすらならないくらい掠れた声が漏れただけでした。
 見えていないはずなのに、八意先生の視線が私をがっと貫いているように思えました。
 彼女の言葉に、私の心が急速に冷えて、凍り付いてしまったかのよう。
 私は息をぐっとこらえて、震える身体を必死に落ち着かせようと。
 え? 震える? 震えていたの、私?
 そんな些細なことも、今の私は気が付かなかったようです。

「あなた達、稗田阿礼の生まれ変わりである御阿礼の子は、一度見た物を忘れない能力を持っているわ。その寿命とはすなわち物を見ることができなくなること。なぜ、ただの失明ではなく、色を認識できなくなったかは私にもわからないけれど、いずれにしてもこれ以上見た物を記憶することができないということは、阿礼乙女として死んだということ。御阿礼の子は短命……そして代を重ねるごとに寿命は短くなっていく。そう考えれば、あなたの阿礼乙女としての寿命が尽きたと考えてもおかしくない」

 八意先生が突きつけているものはまさに私にとって死の宣告のようなもの。
 たしかに私の寿命が短いことは知っていました。そしてその覚悟もしていた……そのつもりでした。 
 そんな覚悟なんて全くできていなかった。それをまざまざと見せつけられた瞬間でした。

「これから先、あなたがどうなるかわからないけれど、一度迎えてしまった寿命が戻ることはない。つまり、再び目が見えるようにはならないということよ。それどころか、もっと悪化する可能性の方が高いわね。完全に失明してしまうか、あるいは命すらも……」
「八意殿、もうやめてくれ。これ以上は阿求殿がもたない」

 私のすぐ近くで、慧音先生が八意先生に懇願している。
 いつの間にか私は、椅子から滑り落ちるような格好で床の上に崩れていて、それを慧音先生に支えられている状態でした。
 手の中にあった湯飲みはなくなっていました。今頃、どこかの床でお茶のシミを作っているかもしれません。

「……そうね。ごめんなさい、阿求さん」

 さっきまでとは一転して、私を落ち着かせるような優しい声でした。

「あくまで、そう言う可能性があるという話。なんにしても、もう少し調べて原因を調べる必要があるわ」
「そう……ですね……」

 私はそう返事をするのがやっとなくらい精神的に参っていたらしく、慧音先生に、ささえられ、たまま……。

「あ、阿求殿! しっかりしろ! 阿求殿!」

 いしき、がと、お、くに……。















 目を覚ました私は、どこだかわからない異質な場所にいました。

 目を開けても、閉じても、何も見えない真っ暗闇。私はそこに仰向けに寝そべっています。
 柔らかくて暖かい何かが、私の上に掛けられています。これは毛布でしょうか?
 身体を起こして辺りを見回します。当然何も見えません。
 かかっていた毛布がするりと落ちて、とたんに身体が寒くなります。
 それにしても暗いです。何も見えないのは嫌ですね。明かりはいったいどこにあるんでしょうか?

 少し思案します。今大切なのは、今の居場所と明かりの確保。こんな暗さとは早くさよならしたいです。
 とにかく必要なのは行動ですね。私はさっさと立ち上がります。
 柔らかい毛布の感触が消えました。ああ、寒い寒い。身体が寒い。
 両の手で身体をさすってみてもやっぱり寒い。異常気象でしょうか?
 とりあえず歩き出してみます。
 床の感触が柔らかい。さっきのが毛布だとしたら、これはきっとお布団でしょう。
 どうやら私は、どこだかわからない異質な場所でぐっすりと寝こけていたようです。
 我ながらなんと迂闊な。今は寝ている場合ではないというのに。

 って、あれ?
 何で寝ている場合じゃないんでしたっけ?
 だいたい、なんでどこだかわからない異質な場所ってわかるんでしょう? 私のお部屋で眠っていただけかもしれないのに?
 私、なにか、忘れています?
 いえいえ、まさか。忘れるわけないじゃないですか。
 だって、私は……。

 痛たぁっ!
 ぼんやりと考えているうちに、お布団に足を取られてひっくり返ってしまったようです。うう、強く打った膝小僧がすごく痛いです。
 やはり真っ暗な中を歩くのは難しいですね。まずはとにかく明かりを探さなきゃ。
 ここがどこなのか、私がどうなっているかを知るためにも明かりが必要なんです。
 転んだら痛いから、もう立ちません。手探りで探します。みっともないけど気にしません。他に誰もいないんですし。

 他に誰も?
 そんなことはなかったはず。
 ついさっきまで私と一緒に誰かがいたはずです。
 誰かと誰かがいて、誰かが私のことを支えてくれて、そしてもう一人の誰かが……。



 『あなたの目は一生治らない』



 !?
 私の心を揺さぶる、つい最近誰かに聞いた言葉。不気味なほどに無機質で無感情。
 空気がさらに寒くなったのでしょうか?
 身体が震えて止まりません。両手で身体をしっかり抱いてみても、その震えは止まりません。
 なぜでしょう? なぜ、こんなに私、震えてるんでしょう。



 『一度迎えてしまった寿命が戻ることはない』



 寒い……寒い……。身体の震えが止まりません。
 それにさっき打った膝がじんじんと痛みます。
 痛い……痛い……。涙が出るほど痛いです。



 『それどころか、完全に失明してしまうか』



 やだ。いやだ。
 なんで私がこんなことに。
 ここがどこなのかも、なぜここにいるのかも、どうしてこんなに寒くて痛いのかも忘れてて、全然思い出せない。
 え? なんで? なんで、思い出せないの?
 こんなに寒くて、痛くて、涙が出て、止まらなくて、誰もいなくて、寂しくて、思い出せなくて、でも、思い出したいのに!



 『あるいは命すらも……』



 思い出せない! 思い出せない!
 なんで? なんで!?
 なんで、なんで、なんで、なんで、なんで!?
 阿礼乙女の私が! 決して忘れることのない私が!
 思い出せない! 思い出せない! 全然思い出せない!
 こんなこと、今までなかったのに! なんで!?



 『阿礼乙女として死んだ』



 違うっ! そんなことない!
 私はまだ生きている! 死んでなんかいない!
 私が何も思い出せないのは……そう! 周りが暗くてよく見えないから! 明かりがないから!
 とにかく今は探さないと! 明かりを探さないと!
 こんなに暗いから思い出せないんだ!
 明かりをつけて明るくすれば、また思い出せるはず!

 まだ私は、阿礼乙女でいられるはず!

 明かりはどこ? どこ!?
 こっちじゃない! こっちでもない!
 どこにもない? そんなはずはない!
 でも見つからない! 見つからない!
 こんなに腕を振りまわして、こんなにみっともない姿をさらして探しているのに見つからない。
 見つからないと戻れない。阿礼乙女に戻れない!
 そんなのやだ。

 そんなのやだあぁぁ!!

 がつりと当たる。手の先が痛む。
 何かに振れた、固い感触。
 これは明かり? それとも違う?
 どっちでもいい!
 必死の思いでそれを掴む。
 引く。びくともしない。
 押す。びくともしない。
 がむしゃらに動かす。横に動いて……。





 私の視界が、灰色の光に包まれました。





 最初に感じたのは、冷たい風。
 ひんやりとして、それでいて優しい空気。
 かすかに感じる竹の臭い。
 足下に広がる畳の感触。
 さっきまで取り乱していた心を、急速に落ち着かせていく……そんな空間でした。
 私の手が触れたものは、おそらく部屋と外とを隔てる障子戸。
 そして、ここは永遠亭。

 そうでした。すべて、思い出しました。
 私の目が色を失ってしまったこと。
 慧音先生と一緒に永遠亭の八意先生を訪ねたこと。
 八意先生の話を聞き、ショックで気を失っていたこと。
 私のこれからのことも、すべて。
 何で思い出せなかったんでしょう? 全部、大事なことなのに。

 四つん這いのまま光の差す方へ向かうと、柔らかい畳の感触から固くてひんやりとした木の廊下の感触へと変わりました。
 私に降り注ぐ、暖かい太陽の光とは違う優しい光は、きっと月の光。
 もしかしたら満月の光かもしれません。
 そして、目の前に広がっているのはたぶん永遠亭の庭でしょう。

 きっと……たぶん……もしかしたら。
 すべて確実性のない推測。
 仕方がないことです。今の私には、目の前に広がる光景を見ることができないんですから。

 目を閉じます。
 視界が黒一色に包まれる中、私はそこにある、まだ見たことのない永遠亭の美しい庭の様子をイメージしてみます。
 背の高い竹林の隙間から差し込む青白い月の光。
 竹は風に吹かれ、葉をさやさやと揺らし、その影は青白い光の中でその黒い姿を踊らせます。
 月の光に浮かび上がる庭の石、池、お屋敷の白い漆喰の壁。
 それはとても幻想的で、私でなくても一度見たら忘れられないくらいの美しい風景なんだと思います。

 でも、それはあくまで私のイメージ。
 昼間イメージしたムスカリの花のように、一度も見たことのないそれらは、薄っぺらで作り物めいた模型のようなものに思えました。
 お世辞にも美しいとはいえないガラクタ。
 そんなガラクタの想像に耐えられず、目を開けた私が見た光景は、一面の灰色。
 庭の石も、鯉がいそうな池も、お屋敷のちょっとくすんだ壁も、青白く光る月も、今の私には見えません。なにもかも、無機質な色に塗り固められています。
 仕方がないことです。私はもう、記憶することができないんですから。
 絵に残しておきたいくらいの素敵な光景も、きれいな花もおいしい食べ物も興味のある書物も、可愛い人もかっこいい人も。全部。
 ぜんぶ……見ることができなくなっちゃったんですから……。



「……たすけて」



 震える声は灰色の光に消えてすぐに失われていきます。
 流れる涙は私の頬を伝って、ぽたぽたと落ちていきます。その行く先も私は見ることができません。

 私の心は、きっと見る影もないくらいぼろぼろになっているでしょう。
 このまま壊れて消えていくだけの存在。
 それが完全に消えた時、私は稗田阿求としての死を迎えるのかもしれません。
 阿礼乙女として死に、稗田阿求として死んで、残った何かはいったいどうなってしまうでしょうか?
 もう、そんなことはどうでもいいのかもしれません。
 もう、このまま終わってもいいのかもしれません。
 このまま、死んで……それで、ただ残っただけの何かになるのも……わるく……。



「たす、けて……!」



 ……悪いに決まってるじゃないですか!

 そんなの、嫌に決まってるじゃないですか!
 私はまだ十数年しか生きてないんですよ!
 まだまだやりたいことだってたくさんあります!
 もっといっぱいきれいな景色を見たいです!
 もっといっぱい絵も描きたいです!
 もっといっぱいおいしい物が食べたいです!
 いっぱい遊んで、いっぱい楽しいことをして、いっぱいおいしい物を食べて……、恋なんかもしたりして……。
 このまま、何もできないまま、終わるなんて!
 そんなの嫌ですっ!

 そんなの……いやだよぅ……。



「だれ、か……」



 誰だっていいです。
 人間でも妖精でも、それこそ妖怪だって構いません。
 助けてください。
 私の心が死んでしまう前に。
 助けてください。
 私が消えてしまう前に。



「だれか……たすけて……!」





「あいわかった」





 声がしました。
 私の背中に重みがかかって、暖かな物に包まれました。
 誰かに後ろから抱き留められている、そうわかるのに時間がかかりました。

「貴様の願い、私が叶えてやる」

 私のすぐ後ろから、また声がしました。
 どこかで聞いたことのある、力強い、温かい、優しい声でした。

「慧音……先生?」

 首だけを動かして後ろを見ると、灰色の世界が黒い影に塗りつぶされていました。
 慧音先生の大きな影。

「どうやら私は、貴様を買いかぶりすぎていたようだ」

 普段とは違う乱暴な口調。でも、決して怖くない。

「貴様は弱い。とても脆弱で儚い人間だ」
「……はい」

 私は素直に、そう答えていました。

「私はとても弱い人間です。私の心は自分でもわかるくらいボロボロで、今にも壊れてなくなってしまいそうです。このままでは私の心は死んでしまう。私が私でなくなってしまう。
 そして今の私にはもう、私の心を守る力なんて残っていません。……でも、私は生きたいのです! 阿礼乙女は死んでしまったかもしれないけれど、稗田阿求としてまだ死にたくない!」
「そうか、ならば」

 さらに強く抱きしめられます。
 痛いくらいに強い力なのに、全然平気。むしろ、この力がとても心強く感じられます。

「貴様の歴史は私が預かろう。私は歴史を創る者、そして里を守護する者だ。今、消え去ろうとしている貴様の歴史は私が創る。貴様は私が護る」
「慧音先生……」

 私の目から再びこぼれ落ちる涙。
 でもそれは、慧音先生の言葉に温められたうれしい気持ちの結晶。
 涙が流れるたびに、私の心は癒されていきます。
 ふぁさりと私の身体に暖かい毛布のような物が掛けられました。
 柔らかくて、暖かい感触。
 まるでふわふわの尻尾に包まれているかのよう。

「さあ、今日は休め。今の貴様には休息が必要だ」

 そう言って、慧音先生が私の頭を優しくなでてくれました。
 その言葉に惹かれるように、急速に眠気が襲ってきます。

「慧音先生……絶対ですよ」

 だんだんとおぼろになっていく意識。私はその中で慧音先生に縋るように言いました。

「絶対に私を護ってくださいね。私はもう、一人では生きていけませんから」
「……ああ」

 慧音先生の返事に今度こそ安心して、私の意識は眠りについたのでした。















「おはよう、二人とも……あら?」

 朝。八意先生の仕事部屋を訪れた私たちは、八意先生の挨拶とちょっと不思議そうな声に迎えられました。

「おはようございます、八意殿」
「八意先生、おはようございます」
「ええ。思っていたよりも元気そうで何よりだわ」

 その言葉から、先ほどの疑問符は私に向けられていたことがわかります。

「実は心配してたのよ。昨日あんな話をしたものだから、阿求さんが耐えられなくなって発狂してしまうんじゃないかって」
「あ、あはは……」
「でも、その心配は杞憂だったみたいね。よかったわ。阿求さんが精神力の強い人で」

 八意先生はしきりに私を感心しているよう。でも、それは違います。
 私は全然強くありません。
 たしかにあのまま一人でいれば、八意先生が言うように、私は自我を失って発狂していたでしょう。鋭利な刃物を手渡されれば、何の迷いもなくそれを自分の首に突き刺していたかもしれません。
 でも、そうならなかったのは、慧音先生のおかげです。
 朝起きてからここに来るまで、ずっと慧音先生につないでもらっている手。
 この手の温もりがあれば、ずっと私は稗田阿求のまま生きていられると、そう思っています。

「さて、阿求さん。これからのことなのだけれど」

 八意先生が少し堅い口調で話し始めました。

「昨日も言ったけれど、もう少し調べて原因を絞り込みたいの。だからしばらくの間、ここに滞在してもらう必要があるのだけれど」

 しばらく滞在……。その言葉を聞いて不安になり、私は慧音先生がいる方を見上げます。
 それを見たのかそうでないのか定かではありませんが。

「その件についてなんだが、阿求殿はしばらく私の庵で面倒を見たいと思うのだが」
「それはなぜかしら? 検査にしても治療にしても、ここに滞在した方が融通が利くと思うのだけれど?」
「今の阿求殿をこのまま残していくのは忍びない。稗田家の者も里の者たちも心配するし、それに」

 慧音先生の視線が私の方を向いた気がしました。

「約束してしまったからな、阿求殿を護ると。ならば、私の手近に置いておいた方が護りやすいと思ってな」

 慧音先生の視線がはずれます。
 今の慧音先生の様子は、見えていなくても手に取るようにわかります。言ってしまった後、気恥ずかしくなって顔を赤くしながらそっぽを向いている様子。
 うふふ、慧音先生ったら可愛い。でも、とてもうれしいです。
 八意先生も慧音先生の意図がわかったのでしょう。口調を優しいものに変えて。

「そういうことなら、構わないわ。じゃあ、そうね。2,3日したら、様子を見にそちらに伺うわ。どちらにしても、検査は必要だし」
「ああ、助かる」

 慧音先生が立ち上がって、それにつられて私も立ち上がります。
 正直、これから先のことはわかりません。
 私の目と同様、私の先にある未来のことも白と黒の光の中にかすんでしまってはっきりとしていない。それは今でも変わりません。
 八意先生が昨日言っていたように、このまま色を失うだけでは済まないかもしれません。
 色だけでなく、光や命までも失ってしまうかもしれません。
 でも、大丈夫です。私は一人じゃないですから。
 私がどんなことになっても、それを見ていてくれる人がいるから、護ってくれる人がいるから。
 今はずっと先を見ないで、足下を見ながら、転ばないようにゆっくりと歩いていこう。
 私を導いてくれる人の手を離さないまま、ずっと。

「世話になったな」
「ありがとうございました」
「ええ、お大事に……」





「ししょ〜! 助けてください〜!」





 突然、お部屋の入り口からそんな情けない声が聞こえてきました。
 びっくりして声のしたほうを見ると、お部屋に入ってくる誰かの姿。
 私より頭2つ分高い背に、丸くて小さな肩から長い首が2本……じゃなくて、あれは耳でしたね、たしか。
 思えば、先ほどの情けない声もどこかで聞いたことのあるもの。

「まあ、うどんげ。一晩経っても戻ってこないし、どうしたのかと思ったら……緊縛プレイ?」
「違います〜!」

 そういえば鈴仙さんって、そんな名字だったような。あれ? あれは名字? ミドルネームかしら?
 鈴仙さんはお部屋に入るなり、転がるように私たちの間に倒れ込んできました。
 シルエットでしかわかりませんが、彼女の身体の回りにうにょうにょした巨大ミミズのようなものがまとわりついています。

「で、うどんげ? このまとわりついているロープは、いったいどうしたのかしら?」
「こ、香霖堂です! あそこで買い物していたとき、手に取ったロープが急にまとわりついてきてー!」
「……なるほど」

 八意先生は合点がいったよう首を縦に振っているようです。

「きっと、そのロープに取り憑いた霊によるものでしょうね。あの道具屋は無縁塚で道具を仕入れているという話もあるわ。無縁塚は孤独な無縁仏たちが集まる危険な場所。だから、そこに落ちている道具には未練に縛られた霊で呪われた物が多いのよ」
「そんな、うんちくはいいから何とかしてくださいよー!」
「大丈夫よ。こういう霊的な呪いは、取り憑いた霊の未練をはらしてやれば解放されるものなの。しばらく縛られていれば、そのうち動かなくなるわ」
「そ、そんな〜」

 声が半泣き状態の鈴仙さん。きっと目が見えている私なら、その姿がおかしくて笑いながらその姿を記憶に焼き付けていたのでしょうけれど。
 にしても、香霖堂でしたっけ? あのお店、そんな危険な道具も売ってるんですね。

 って、あれ?
 記憶の隅になにかが引っかかった気がしました。
 香霖堂……そういえば、香霖堂って。

「あの、慧音先生?」
「どうした?」
「香霖堂って、あの、森の入り口にある道具屋ですよね?」
「そうだな。眼鏡をかけた偏屈な店主がやっている店だ。よく博麗の巫女や白黒の魔法使いがたむろしているようだが……」

 香霖堂……森の入り口……。
 偏屈な眼鏡店主……。

 記憶の中をぐるぐると探し回ります。
 あの記憶はまだそんなに古くない。というか、比較的新しい記憶。
 たしか私、あのお店に、つい最近、行ったような。
 それで、えっと……ああ、もう!
 頭が混乱しているのか、肝心な記憶がなかなか出てきません。
 しっかりしなさい、阿求! あなたは阿礼乙女でしょう!
 もう、記憶することはできなくなったかもしれませんが、それで今まで記憶してきたものまでなくなる訳じゃない。
 自分の記憶に鞭を打ちつつ、少しずつ、少しずつ、その記憶をたどっていきます。

 香霖堂……森の入り口……偏屈な眼鏡店主……。
 商品が雑多に転がった店内。
 その中にある無縁塚の道具。

 未練を持った霊。
 霊障。

 八意先生は言っていました。
 私のこの目は呪いによる可能性があるかもしれないと。


 ふと見上げた古ぼけた棚。


 そこに乗った古ぼけた入れ物。


 可愛い装飾。


 きれいな色。


 思わぬ掘り出し物だった。


 14色の水彩……。





「ああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!」





 私らしからぬ大声。
 自分でも驚くくらいの大ボリュームに、私以外の人が驚かないわけがありません。
 私の目に映る影が全員動きを止め、私の方を凝視しているのがわかります。
 でも、今の私にはそんな視線を気にしている余裕なんてありません。
 なぜなら、思い出したから。

「お、おい、阿求ど……」
「香霖堂! 香霖堂ですよ! 慧音先生!」

 私に声を掛けるべく近づいてきた慧音先生らしき影をむんずと捕まえ、大きくシェイク!

「香霖堂です! 香霖堂! 慧音先生、聞いてますかー! こーりんどー!!」
「わ、わかった! わかったから 落ち着いてくれ!」

 慧音先生の制止すら聞かず、私はしばらくシェイクし続け、息が苦しくなってきたあたりでようやく解放しました。
 肩から息をしながらも、慧音先生に思い出したことを打ち明けます。

「はぁ……はぁ……け、慧音先生」
「落ち着いてくれ、息を整えろ。いったいどうしたというのだ?」
「慧音、せんせい……はぁ……香霖堂ですよ!」
「だから、なにが?」



「私、香霖堂で買ったんですよ! 水彩の絵の具を!」















「ああ、君が買った絵の具かい? 確かにあれは無縁塚で手に入れてきたものだが……おぶぅ!」

 そうのたまった道具屋の店主を往復びんたで張り倒してからしばらくの後、私と慧音先生は、慧音先生の庵へと来ていました。
 香霖堂で買ったあの絵の具に取り憑いているであろう霊。その話に心当たりがあるという慧音先生の発言によるものです。
 今、私たちがいるのは慧音先生の書庫。ここには、慧音先生が編纂した数多くの幻想郷の歴史が保管されています。

「見つけたぞ」

 書棚の奥から、慧音先生の影が現れました。
 彼女の言葉が本当なら、彼女は手に一冊の本が握られているはずです。

「それは?」
「この里周辺で起きた人間と妖怪の事件についてまとめたものだ。吸血鬼異変よりも前……まだ妖怪と人間が、襲われ退治されていたころのものだがな」

 そう言って、その場に腰掛け本を開きます。
 私も慧音先生の隣へ。横から本を覗いても、当然その中身を見ることはできませんが。
 ぱらりぱらりと何枚かページをめくる音の後、慧音先生の手が不意に止まります。

「あった」

 慧音先生に読んで聞かされたそのページの内容は、私がまだ生まれる前に起きた悲劇の内容でした。





     ◇          ◇          ◇





 昔、森の近くの古びた小屋に、一人の女の子がその母親と一緒に住んでいました。
 彼女の家はとても貧しく、毎日の食べ物ですら満足に得ることができませんでした。
 でも、その女の子はそれでも満足でした。
 女の子の母親は、彼女のために毎日のようにお仕事を探しに出、彼女のためになけなしの食料を調達してきました。
 そのことを女の子はよく知っていて、自分のためにがんばっている母親のことがとても大好きだったからです。
 女の子は絵を描くことが大好きでした。
 なので、彼女は里で拾ったチラシや新聞の裏に絵を描いていつも遊んでいました。
 森で見つけた木炭を鉛筆に、乾いた砂を消しゴム代わりにして絵を描きました。
 しかし、女の子の家は貧しかったため、絵の具を手に入れることができず、彼女の書く絵はすべて、白い紙と黒い線だけの色のない絵だったのです。
 いつかは自分が描いた絵を、絵の具できれいな色に塗ってあげたい。
 女の子はそんな小さくて些細な夢を持つようになりました。

 その願いはすぐに叶うことになりました。
 その子の誕生日。女の子の母親が、彼女にほしい物を買ってくれると言ったのです。
 一生懸命お仕事をがんばった結果、母親は女の子に好きな物を買ってあげられるほどのお金を得ていたからでした。
 女の子はすぐに言いました。きれいな絵の具がほしいと。
 女の子と母親は、その日、里の道具屋で絵の具を買いました。
 可愛い装飾の箱に入った14色入りの水彩絵の具。
 女の子が一目見て、とても気に入った一品。
 女の子はとても喜びました。彼女が描いた絵にきれいな色を付けられることに。
 最初に色を付ける絵は、もちろん決まっていました。
 無邪気にはしゃぐ女の子、彼女をうれしそうに見守る母親。
 彼女たちは幸せそうに、仲むつまじく帰路につきました。

 その帰り道で、彼女たちは妖怪に襲われたそうです。
 母親は女の子をかばって死に、女の子は命こそ無事だったものの、目に怪我を負い、光を失いました。

 森の近くの古びた小屋。
 そこに女の子は一人佇んでいました。
 彼女の家はとても貧しかったので医者を呼ぶこともできず、毎日の食べ物を得ることもできず、光を失ったため絵を描くこともできず。
 すべてを失った女の子はみるみるうちに衰弱して……そして、孤独のうちに死んだのです。
 彼女の遺体が発見された時、彼女は見ることのできない目を大きく見開き、ただ、一点を見つめていたそうです。
 彼女が描いた絵のある方。
 もう色を塗られることもなく、ずっと白と黒のままの絵。
 そして、その近くにうち捨てられていた、可愛い装飾の箱。
 女の子の些細な夢の破片。





     ◇          ◇          ◇





「……以上だ」

 慧音先生が顔を上げたように思えて、でも私は何も言うことができず、ただ神妙にうなずくだけでした。
 間違いないです。
 私が買った水彩絵の具は、あの女の子の絵の具です。未練を残した彼女の霊がその絵の具に取り憑いているんです。
 幸せな日々から、一気に不幸のどん底まで突き落とされた女の子の孤独な霊。
 そして、私のこの目は、あの子の霊の呪いによるもの。
 今、私が見ている世界は、あの子が残した絵の世界。色のない、白と黒だけの。

「……かわいそうな話ですね」
「そうだな」

 確かにかわいそうな話。
 でも、今は感傷に浸っている場合じゃありません。
 八意先生は言っていました。霊的な呪いは、取り憑いた霊の未練をはらしてやれば解放されると。

「慧音先生」
「なんだ?」

 彼女の未練をはらす方法。そんなの簡単にわかりました。
 そしてそれは、私にしかできないことです。

「私のお屋敷に向かいます」
「わかった」

 慧音先生も私の考えに気が付いているようで、私のお願いを二つ返事で聞いてくれました。















 私のお屋敷の私のお部屋。
 中庭に続く縁側から差し込む午後の日の光も、畳の青臭い香りも、いつも私が何気なく感じているもの。
 たった一日留守にしていただけで、こんなにも懐かしく感じるのは、私のこの目のせいなのでしょうか?
 慧音先生に連れられて、私はゆっくりとその前に立ちました。
 私がいつも使っているイーゼル。そしてその上に乗っている画板と画用紙。そこには、私が昨日まで描いていた絵が残っています。
 下絵だけを済ませた、白い紙と黒い線の絵。あの子の絵のように色のない世界。
 そして、例の絵の具も隣に。
 記憶を頼りに手を伸ばすと、確かにあの箱の感触がありました。
 私の記憶が確かなことに安堵を覚えて微笑み、すぐに表情を引き締めます。

「慧音先生、絵筆とパレットをいただけますか?」

 この絵を完成させます。
 あの子の絵の具を使って色を塗り、最後まで仕上げます。
 それがあの子の未練をはらす方法です。

「大丈夫か?」
「ええ」

 今の私にはイーゼルも画板も画用紙も、一体となった黒い影にしか見えません。
 画用紙の白も下絵の黒も何もかも同じ。
 普通の人なら、こんな状態で下絵のとおりに色を塗るなんてこと、できるわけありません。


 でも、私にはできます。


 だって、私は阿礼乙女。


 一度見た物は決して忘れない。


 慧音先生から絵筆とパレットを受け取りました。
 そして、私が描こうとしていた絵を、その内容を、思い出していきます。
 私が描こうとしていた絵は何? 風景? 人物? 抽象画?
 顔を描いて手を描いて……そう、確か人物画です。
 誰を描いたもの? 男? 女?
 いえいえ、そんなことより、まずは下塗りです。
 明るい雰囲気? 暗い雰囲気?
 暖かい色? 寒い色?
 きっと暖かい色、明るい色。それがあの子の望む色。
 ならば。

 最初に使う色を決めて、私は絵の具の箱のふたを開けました。

「あっ!」

 私の慌てた声と、バラバラと絵の具のチューブが飛び散る音が重なります。
 思っていた以上に勢いがついてしまったのでしょう。ふたを開けた弾みで絵の具の箱が滑り、床に落としてしまったのです。
 さあっと血の気が引くような思い。
 ど、どうしましょう?
 箱に収まっていた時の絵の具の配置は覚えていても、散らばってしまってはどうしようもありません。
 私が使いたい色がどこにあるのかも、これでわからなくなって……。

「どの色がほしいんだ?」

 慌てる私を何かの影が遮りました。

「え、えっと、黄色を」
「わかった」

 何かの影――慧音先生は、そう言って私の手に一本の絵の具のチューブを握らせてくれました。

「慌てるな、私がいる。ほしい色があれば、私に言ってくれ」
「慧音先生……はい!」

 そうでした。
 ここにいるのは私だけじゃない。ちゃんと慧音先生もいます。
 一人じゃない。そのことを忘れなければ、私は大丈夫。
 慧音先生から渡された絵の具のチューブ。小さなふたをくるくると回して開けます。
 そのままパレットの上に絵の具を小さく出してあげますと。

「ああっ!」

 今度の叫び声は、あまりにも驚いてしまったためです。
 今まで白と黒しかなかった世界。そこに黄色が生まれました。
 チューブから出た黄色い絵の具が、私が見ている色のない世界に、初めて色をもたらしてくれたんです。
 慧音先生にそのことを伝えると、彼女も自分のことのように喜んでくれました。

 絵筆に多めに水をつけ、黄色い絵の具と混ぜ合わせます。
 最初に染めるのは全体の下地の色。白一色の画用紙を、暖かい色で染めます。
 大丈夫、難しくはない。落ち着いて塗れば大丈夫。

 すうっと大きく息を吸い、軽く止めてから一気にはき出します。
 心、落ち着きました。イメージ、できました。

 さあ、参りましょう!

 手にした絵筆を画用紙に押し当てます。
 まず、すっと一閃。
 折り返し、同じようにもう一閃。
 繰り返し、折り返し、一閃。

 折り返すたびに私の記憶の中にある画用紙に色を付けていきます。記憶の中の画用紙を白から黄色へ塗り潰していきます。
 絵筆の感触がかすれてきたら、再びパレットの絵の具をつけて画用紙に。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し。
 折り返し、折り返し、折り返し。

 そうして折り返し続けていくたびに、私が見ている世界にも変化が現れていきました。
 今まで黒一色だった画用紙の影が、絵筆を滑らせた箇所から淡い黄色に置き換わっていきます。さらにそれと同期するかのように、私が見ている白一色の世界にも黄色の光が差していったのです。
 それは雲の隙間から差し込む日の光にも似た、暖かな光の線。
 幾重にも幾重にも重なって、やがて白い世界は見えなくなって。

 一通り画用紙を黄色に塗り終えた時、世界に白という色はなくなっていました。
 あるのは黄色と黒の二色だけ。

 いけます。このまま絵を完成させれば!
 気持ちは逸りますが、焦るわけにはいきません。
 水彩は時間のかかる物。下絵の乾かないうちに色を重ねてしまえば、醜く滲んでしまうかもしれません。
 慌てず、ゆっくりと乾かしながら、少しずつ色を塗っていきます。

 優しい自然のような黄緑色。
 人の温かみを感じさせる肌色。
 夕暮れの穏やかさを彷彿とさせる橙色。

 色を足すたびに、私の見ている世界に色が増えていきます。
 黄色と黒だけだった中庭の木が新緑に色づき、絵筆を持つ私の手が血色を帯びた肌色で形作られます。
 まだ不十分だけれど、ちゃんと輪郭を持って、私の目に映る物の形。

 燃えるように熱い赤。
 少しだけ暖かくなったピンク。
 ちょっと大人っぽい紫。

 絵筆を動かすたびに作られていく世界の色、形。
 それはまるで私の絵筆がこの世界を作っているかのように思えて、私は興奮にも似た感覚を覚えます。
 絵筆を置いて絵を乾かす時も、次は何の色を塗ろう? 次はどこの色を塗ろう? と非常に私らしくない。

 深い海のような青。
 高い空のような水色。
 雄大な森のような緑。

 大まかな部分を終え、細かい部分に手をつけるころ、世界はだいたいの形を取り戻していました。
 陰影も模様も何もない、のっぺりとした世界ですが、それももうすぐ終わります。

 暖色にアクセントをつける茶色。
 無機質だけど、暖かい思い出の灰色。

 陰影がつき、奥行きがつき、世界が色と形だけのものから風景へと変わって。

 すべてを吸い寄せる黒。
 そして、すべての始まりだった白。

 すべての色を使って。

 すべての能力を使って。

 私ができることすべてを。

 この絵に込めて。





 そして……。





「……できました」

 作業を終えて、私は大きく息をつきました。
 正直、けだるい。でも、すごく気持ちいい。
 普段絵を描き終わった時も、こんな気持ちになることはなかったと思います。

「よくやったな」

 掛けられる声に私は振り返ります。
 夕暮れ前の少し明るい橙色に染まる私のお部屋。
 その光に照らされ、茶色をさらに濃くするちゃぶ台に、私が編纂した書物の緑色の表紙。
 棚の上の黄色い調度品、よくわからない青い置物、その輪郭、陰影、細部まで。
 そして。
 振り向いた先にある、慧音先生の笑顔。
 それは今まで私が記憶していた、どの慧音先生よりもいい笑顔で。

「慧音先生……」
「なんだ?」

 言葉がうまく出てきません。
 下手に出そうとすれば、ずっと溜めていた物があふれてしまいそう。

 ……いえ、いいんですよね。こういう時くらい。

「慧音先生の顔って、結構凛々しかったんですね……」
「失礼な。私は元からこんな顔だ。それとも、今までは凛々しいと思わなかったのか?」
「あはは、そうですよね……今、改めて見て……ぐすっ……わかり……ぃ…ぅ…うぇぇ……」



 こういう時くらい、稗田阿求も阿礼乙女も関係のない、ただの女の子の阿求になってしまってもいいんですよね。



 泣きました。ただひたすら泣きました。
 声を上げて、涙を流して、恥も外聞もなく、みっともなく、まるで幼子のように、ただひたすら泣き続けました。
 私が泣いている間、慧音先生はそこにいて、ずっと子供をあやすように私の頭をなでてくれました。
 だから私も安心して、ずっとその場で泣き続けていました。

 よかった。
 阿礼乙女で、本当によかった。

 一通り泣いて、少しだけ落ち着いてふっと顔を上げた時、私の目に例の絵が飛び込んできます。

「……ぷっ、ふふっ、あはははっ!」
「お、おい、どうした? 泣いたり笑ったりと忙しい」
「あはははっ! ぐすっ、ごめんなさい。だって、あはは、私の描いた絵。ものすごく変な絵なんですもの」

 私が描いていた絵には、私の知らない女の人が微笑んでいる姿が描かれていました。
 下絵はそこそこ描けていますが、絵の塗り方は全く変。
 所々がはみ出していますし、色の強弱もめちゃくちゃ。目なんて黒目で大半が塗りつぶされています。
 やはり、目が見えない状態で色なんて塗るものじゃないです。これじゃまるで……。

「まるで小さな女の子が描いた絵みたいです」
「そうだな。でも私は好きだ。一生懸命なことがよくわかる」















 私の描いた絵は、慧音先生の寺子屋に飾ってもらうことになりました。彼女の絵の具もその絵の近くに飾られる予定です。
 女の子の霊が宿っていた絵の具と、絵に描かれた女性――きっと、彼女のお母さんだと思いますが。
 これで彼女も孤独な思いをすることはないでしょう。すべてめでたしめでたしです。

 あ、いえ、めでたくないことが一件だけ。

 私が帰ったことを知ったお手伝いさんのことですが……ものすごく怒っていました。
 私の目のことはバレていなかったものの、私が無断でお屋敷を空け、無断で外泊した事実だけがしっかり伝わっていたようで。
 本当に心配したんですよと、時には涙目で、時には頭に角を生やす勢いで、ガミガミガミガミと丸一刻。
 私は正座したまま、ずっと黙っておとなしく彼女の言葉を聞いていました。
 いろいろあったとはいえ、彼女を心配させてしまったことは事実ですし、稗田家の当主として、彼女の感情はしっかり受け止めてあげなければいけません。
 ……正直、後半は足の痺れが激痛に変わったせいで、聞いているどころではありませんでしたが。

「ずいぶん長い間、世話になってしまった。そろそろお暇させてもらおう」

 お手伝いさんの説教から解放されたころ、慧音先生が玄関で帰り支度をしているところに出会いました。

「慧音先生、本日は、痛つっ……ほんじつはありがとうございました」
「おいおい、痺れているのなら無理をしなくていいのだぞ」
「い、いえいえ。このくらい、なんてことは……」

 四つん這いでひょこひょこ出てきた私を見て、大丈夫だと思う人はそう多くないと思いますけれど。

「それにしても、もう少し滞在されてもよろしいのに。せっかくですからお夕飯も食べていってくださいよ」
「いや、そこまで世話になるわけにはいくまい。寺子屋を一日空けてしまったし、妹紅のところにも顔を出したいからな」
「……そうですか」

 なにげにつぶやいたつもりでしたが、自分でもわかるくらい声のトーンが落ちていました。
 慧音先生には寺子屋がありますし、妹紅さんという友人がいるということも知っています。
 私の目が治った以上、慧音先生がここにいる理由はなくなってしまいましたし、仕方ないことです。
 大丈夫……別に、寂しくなんか。

「大丈夫だ」

 ぽんと私の頭に乗せられる手。顔を上げると優しそうな笑みを浮かべた慧音先生の姿。

「また近いうちに寄らせてもらう。毎日というのは厳しいが、私もできるだけ時間を作るよう努力しよう」
「あ……」

 ゆっくりと私の頭をなでる手。大きくもなく小さくもない温かな温もり。
 ああ、私もずいぶんと簡単な性格だなぁなんて思ってしまいます。こんな小さな優しさで、こんなにも安心できてしまうのですから。

「……そうですね」

 安心したと同時に沸々と湧き上がるイタズラ心。心の中でうふふと小悪魔的な笑みを浮かべつつ、私はにこりとその言葉を口にしていました。

「だって、慧音先生、言ってくれましたもの。私のことを護ってくださると」
「うぐっ!」

 慧音先生の言葉が詰まり、今まで白かった顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていきます。
 あの夜の言葉、忘れたとは言わせません。

「ねえ、慧音先生? いえ、これからは私を護ってくれる騎士様なんですから、慧音様とお呼びした方がいいでしょうか?」
「き、騎士様って。い、いや、あれはだな……」

 顔がさらに真っ赤、目がしどろもどろ、口は開いたり閉じたりと非常に挙動不審です。
 もしかしたら今朝、八意先生に私のことを伝えたときも、こんな顔をしていたのかもしれません。

「だ、だってあれはその……満月だったし、えっと」
「えー? なんですか? よく聞こえないですよ、慧音様?」
「ぐっ……と、とにかくまた近いうち寄らせてもらう。では、失礼する」
「あ、あーっ! まってくださいよ、慧音様ぁ!」















 さて、慧音先生の赤ら顔をじっくり記憶に焼き付けて楽しんだ次の日。
 手早く身だしなみを整えた私は、朝食を食べるのもそこそこにお屋敷を出て、買い物に出かけました。
 見えるようになった目を慣らすためというのもありますが、本当の理由はもっと別。

 里の商店街はまだ朝早いというのに、すでに人々の活気と喧噪に満ちあふれていました。
 朝のうわさ話にいそしむ奥様方。駄菓子屋の店先に集まる子供たち。
 威勢のいいかけ声とともにお仕事に精を出す魚屋の店主。日傘を手に、優雅に散歩を楽しんでいる妖怪。
 イタズラをしてばれたのでしょうか? 血相を変えた妖精たちが私の脇をかすめるように走り去っていきました。あ、一匹転んでます。

 本当に何気ない日常でした。
 十数年生きてきて、ずっと変わらない風景でした。
 どこまでいっても変わらないもの。
 一度それを失いかけて、再びこの場に舞い戻ってきた私にとっても、それは結局何も変わらないもので。
 その何も変わらないことこそが幸せなんだと、私は深く実感するのでした。

「阿求ちゃーん!」

 私のお買い物の目的地が見えてくると、すぐさま声が聞こえてきます。
 お店のほうから、てててと寄ってくるお花屋の女の子。今日は一段と明るく人懐こい笑顔です。
 もしかしたら、昨日も同じような笑顔だったのかもしれませんが。

「おはようございます。今日はお日柄もよく……」
「阿求ちゃん、昨日もそんなこと言ってたよ?」
「いいんですよ。何も変わらないことがいいんです。今日の私は、そうしみじみと思ってしまうくらい達観しちゃってるんですよ」
「はぁ、よくわからないけど。阿求ちゃん、今日はとてもうれしそうだね」

 お花屋で花瓶に入れる花をいくつかとムスカリの鉢植えを買いました。
 お花屋の子がうれしそうに持ってきた鉢植えに咲いていたムスカリは、ブルーベリーを逆さまにしたような形に咲く小さな青い花。
 昨日、私がイメージしたものと全然違いました。こっちのほうが断然きれいで可愛いです。

「でね、でね。これが今日のお花。ほら、見て見てー!」

 と彼女がお店の奥から抱えてきた鉢植えには、背丈50センチくらいの大きめの花が植えられていました。
 太いけど柔らかそうな茎の先端に、赤くて大きな花が2個咲いています。花びらの形は、ユリの花みたいな感じでしょうか?

「アマリリスって言うお花なの。こんな形してるけど、実はヒガンバナと同じ種類の花なんだよ。でも、きれいでしょー?」
「よく知ってますね。さすがお花屋さんです」
「えへへー、実はこれも慧音せんせーに教わったんだけどね。ほんとはもっといっぱいしゃべってたけど、難しくて忘れちゃった」
「あはは、さすがは慧音先生。……あの、もしよかったら」

 今日、私がここに来た理由。目のリハビリと、お花を買うことと、あと。

「私にもっといっぱいお花のことを教えてくれませんか? できれば、実際に見せていただきながら」
「え? 教えるって、私が? うーん、別にいいけれど。でも、どうしたの、急に?」
「まあ、ちょっとした心の変化がありまして。まず手始めとして、お花のことをもっとよく知れたらいいなと」
「……?」
「えっと、つまりですね」

 わけわからないといった感じぽかんと私を見ていた彼女の顔は。

「もっとお花のことをよく知って、もっとお花のことを好きになりたいなって思ったんです。あなたみたいに」
「あ……」

 まるで蕾んでいた花がぱっと開くように。

「うん! 私も阿求ちゃんがもっとお花のこと好きになってくれたらうれしいし。よーし、それじゃ、がんばっちゃうよ、私!」

 私の記憶に、決して消えない最高の笑顔を残してくれたのでした。
 彼女の笑顔につられるように私も笑顔を綻ばせながら、思います。

 私の目が色を認識できなかった時、あの白と黒の世界の中で私はたくさんのものを見つけました。
 それは私の弱さであり、悲しさであり、覚悟であり、生き様であり、喜びであって、そして強さでもありました。
 今回、私に降りかかった呪いは、計らずとも私に、私の存在がなんであるかということを再認識させてくれたのです。
 呪いを通して私自身を映し、私自身を見つめて、私が何者であるか、私はどう振る舞うべきかを確認すること。


 それってまるで、朝起きて、身だしなみをチェックするために『かがみ』に向かっているみたいですよね。


「あ、でも、大丈夫? お花っていっぱい種類があるから、阿求ちゃんに全部覚えきれるかどうか……」

 私の目は無事に治りましたが、私の寿命が長くなったというわけではありません。
 阿礼乙女が短命であることは変わらず、私に残された時間もあまり多くはないと思っています。
 それは、本当に仕方のないことです。

 だからこそ私は、たくさんのことを記憶したい。
 お花のことだけじゃなく、動物とか、食べ物とか、風景とか、とにかくこの幻想郷のありとあらゆることを。

 たくさんたくさん記憶して、たくさんたくさん記録して。
 たくさんたくさん書物に書いて、たくさんたくさん絵に描いて。

 いつか本当に私の命が尽きるまで、本当に私の目が潰れてしまうまで。
 私が記憶したすべてのことを、未来永劫、私がいなくなった後までずっと残していきたい。

「大丈夫ですよ。だって……」

 だって……。



「だって、私は阿礼乙女ですから」
失意、絶望、お先真っ暗。もうだめだと思ったそのときに、たった一つだけ見つけた希望。そんな話が大好きです。
あと、パニックあっきゅんと格好いい慧音先生が書きたかった。うむ、満足。

余談ですが、話の中に登場した二つの花。
ムスカリは「明るい未来」、アマリリスは「自尊心 誇り」って花言葉があるらしいですよ。
papa
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/06 17:12:13
更新日時:
2010/11/06 17:12:13
評価:
18/19
POINT:
120
1. 6 ハー ■2010/11/16 23:17:50
色彩が増えると同時に取り戻されていく色彩。鳥肌がたちました。いいけねあきゅでした。
2. 5 ななしの文字読み ■2010/11/17 01:11:20
色の表現が良くて心に残りました。
良い話だし好きなんだけどテーマの鏡が今一つ心に残らなかったなあ。
3. 3 パレット ■2010/11/20 00:10:43
 失う過程、蘇る過程。それぞれちょっと単純すぎるような気もしたけれど、シンプルゆえの強さ面白さも感じました。
4. 7 さく酸 ■2010/11/25 20:58:09
慧音さんマジカッコいい、あとかわいい。意外なところから複線を持ってきて最後はハッピーエンドにつなげるあたりうまいなと思いました。個人的に好きな作品です。
ただ、途中の変身した慧音が阿求を励ますシーンに比べ、最後の絵を仕上げるシーンの描写が失速気味になってしまったなぁと。
盛り上げる場所を間違ってしまったような感じで、ちょっともったいないです。
5. 4 asp ■2010/11/29 10:58:18
 阿求と慧音の絆がいいですね。絵に色を塗るシーンもきれいです。ですが、なんだか『かがみ』というより二回前のテーマの『色』を強く感じました。もう少し阿礼乙女の件とか阿求の内面を掘り下げてもよかったかもと思うのですがどうでしょうか。序盤の阿求の非悲観的で妙に明るい様子も気になる。
6. 9 yunta ■2010/11/30 22:17:01
執筆お疲れ様でした!

文体と阿求の語り口がマッチしていて、独特な雰囲気をつくっていたと思います。
阿求や慧音のキャラクターも良かったし、最初は暗い話かと思いましたがホッと出来てよかったです。
清涼な読後感もあいまって、読んで良かったと思える作品でした。
7. 7 とんじる ■2010/12/02 14:35:50
 あっきゅん可愛いよあっきゅん。
 前半の、ドジっ子属性を得た阿求の破壊力がやばい。

 阿求一人称の丁寧な文体で描かれているため、後半以降の阿求の嘆きや悲しみがストレートに伝わってきてじんときた。
 
 目が見えない=寿命説は、興味深い設定・解釈だった。まあ、寿命説は結局正しくない訳ですが。

 しかし呪われた絵の具の解釈が出てきた辺りから、一気に絶望感が拭われてしまうのが、ホッとした反面、少しご都合主義に感じるような……。寿命説というのがあまりにも生々しく重かったので、別の原因として出てきた「絵具の呪い」の方が、解決法として軽過ぎて、拍子抜けしてしまう感じ。

 しかし、クライマックスは良かった。
 少しずつ、ひと筆ずつ広がっていく、色と世界。
 じわじわとハッピーエンドに向かっている感触、その描写の仕方が上手い。

 ただ、「かがみ」の解釈が全体のストーリーから考えて少し付け足し気味かな、といった風にも思う。
「影が見」というのは独自性があって面白い、と思ったけれど、以降全くその名称が触れられていないし、最後の「それってまるで、朝起きて、身だしなみをチェックするために『かがみ』に向かっているみたいですよね。」のフレーズも付けたしっぽくてなんかしっくりこないなあ。
8. 7 NT○ ■2010/12/09 19:06:57
これは良いあっきゅん!読みやすいし、会話も丁寧。
王道の話で奇を衒った所は無いものの、面白かったです。
9. 8 PNS ■2010/12/09 20:45:29
 慧音先生、おっとこまえー! 設定を上手く料理した秀作だと思います!
10. 7 deso ■2010/12/11 20:22:18
面白かったです。
達観しているようで実は普通の女の子、そんな阿求さんが可愛い。
11. 9 八重結界 ■2010/12/11 20:27:35
全体的なインパクトには欠けたものの、丁寧な終わり方には思わず高得点。
風邪でさえ心細くなるのだから、稗田阿礼が色を失えばどうなるのか。
近くにいたのが慧音で良かったというべきなのか、慧音だったからこの終わり方になったのか。
いずれにせよ阿求が変わったという事に関しては間違いないわけで。
この稗田阿礼がどんな幻想郷縁起を編纂するのか。そちらにも興味がわきました。
12. 9 木村圭 ■2010/12/11 20:29:16
タイトルがニクイ。もうわざわざ言わなくていいんじゃないの、という場面できっちり使ってくれるのがまたニクイ。
にしても、原因が霊的なものにあるのだと永琳には分からないのかしら。まあ薬師にそれを期待するのも酷ってものなのかな。
13. 8 Admiral ■2010/12/11 20:34:47
絵の具に秘められた悲しい過去の出来事。
かつてはどこにでもあっただろう悲劇を受け止め昇華させて上げることが出来たのだと思います。
登場人物が皆生き生きとして引き込まれるようでした。
良いお話、ご馳走様でした。
14. 5 ニャーン ■2010/12/11 20:58:17
阿求の心情描写がすごく上手くて、すぐに感情移入することが出来ました。
慧音に恋心のようなものを抱いているところだけは、ちょっと共感できませんでしたが。
視力を失う、ということの不安さが、あくまでゆっくりと現実味を帯びて、重圧になってくるさまが心が痛い。
トラブルは無事に解決でき、結局は日常に戻る話なのですが、
結果として慧音との関係が発展しているので、物足りないながらも、これで良かったのだと安堵したいと思います。
15. 6 gene ■2010/12/11 20:58:47
絶望の中の光明は私も好きな話です。
サブキャラの花の娘が良い味だしてました。
しかしどうして四つんばいの阿求に扇情を感じるのだろう。
16. 7 名前が無い程度の能力 ■2010/12/11 21:19:06
タイトルに惹かれて読んでみて、期待以上のおもしろさでした。
シリアスだけど全体的に重くない印象を受けました。霊となった女の子の話や阿求が錯乱するところなど所々で重いシーンもありましたが、綺麗に解決されていて読後感もさっぱりしていて良かったです。
17. 5 兵庫県民 ■2010/12/11 21:52:14
ちょっと弱いかな? と感じてしまいました。
いっそ「モノクロにしか見えなくなっちゃったのか、なーんだ」とギャグに突っ走った方が面白かったかな、と。
…スイマセン俺得でした(コラ
18. 8 文鎮 ■2010/12/11 22:56:31
慧音様!は新鮮でした。かっこ良かったですよ。
色を塗るたびに自分の司会にも色が蘇るという演出はお見事です。
とばっちりを受けた霖之助に合掌。でも、阿礼乙女としての寿命でないと分かったときは安心しました。
19. フリーレス papa ■2010/12/15 23:23:00
このたびは当作品を読んでいただきましてありがとうございます。
久しぶりのコンペ参加で、受け入れられる作品が書けたか心配でしたが、まずまずの評価がいただけて大変うれしく思います。
とはいえ、まだまだ上を見ればキリがない位置ですので、もっと面白い作品が書けるようがんばりたいと思います。
以下、コメント返信です。

>ハー 様
最後の部分は、どうやったらきれいに表現できるか苦労しながら書きました。なので、その部分を評価していただけるのはうれしいです。

>ななしの文字読み 様
お題のかがみについてですが、ストレートに鏡を使うのもなんだかなと思ったので、作品のテーマの中に盛り込んでみました。
つまり、のろいを受けて、改めて自分を見つめなおす = 鏡を見て身だしなみを整える という感じです。
少しわかりづらかったですかね?

>パレット 様
失う過程については、あえて単純に呪いのせいと決めて書いています。呪いを受けて色を失い、それを取り戻すまでの過程を大切にしたかったので、
まあ、その取り戻すまでの過程まで単純だと思われてしまったのは、完全に修行不足なんですけれど。

>さく酸 様
あとがきの通り、かっこいい慧音先生が書きたかったんです。ちょっと力入りすぎてラストが失速気味になってしまったのは、その通りとしか言えませんが。

>asp 様
序盤で阿求が妙に明るいのは、単純に現実を受け止め切れてないだけです。阿礼乙女や阿求の内面を掘り下げることについては確かに面白いかもしれないですね。
これとはまた別の作品でそれができればいいなと思いました。

>yunta 様
どんなに暗い話だって、最後はハッピーエンドがいいじゃない。そんなことばかり考えています。

>とんじる 様
目が見えない=寿命説を通してしまってもよかったのですが、それだとどうやってもハッピーエンドにならないわけで。
ご都合主義だと思われてしまっても、最後は元の阿求に戻ってほしい。そう思っての展開でした。単純に自分の好みの話ってだけなんですけれどね。
お題のかがみについては、むしろ最後の一文に入れた『かがみ』が本命でした。最後の『かがみ』が言いたかったために、阿求の呪いに『影が見』という独自の読み方をつけてみたわけで、
だから、この感想は私にとって目から鱗でした。ありがとうございます。

>NT○ 様
常に読みやすい話作りを心がけています。難しい話やひねった話が書けないというのも…まあ、ありますが。

>PNS 様
満月のときの慧音先生ほど、ダンディズム溢れたキャラはいないかと思います。と言うと、角の生えた頭突きが飛んできそうですが。

>ざる。 様
月の賢者だって間違いはあるのです、きっと。

>deso 様
阿求だって年頃の女の子なんですから、かわいくて当然なんです。ええ、そりゃもう。

>八重結界 様
きっと、色々とごちゃ混ぜの図鑑のような厚みと内容の幻想郷縁起になりそうです。
でも、それも面白いかもしれませんね。

>木村圭 様
話を書いている途中でこのタイトルを思いつき、もうこれしかぬぇと思いました。評価していただけてうれしいです。
永琳については、いくら月の賢者だって、最初に見ただけでは何が原因かまではっきりと特定するのは難しいかと思いました。
あれからもう少し時間をかけて、ちゃんと調べれば、原因を特定できたかもしれませんね。

>Admiral 様
ハッピーエンドがいいのです。呪いの主が、幼い女の子だというのならなおさらです。

>ニャーン 様
慧音への恋心と言うより、心の支え的な意味合いを持たせたのですが、私の内に秘めた慧あきゅ成分を押さえ切れなかった結果かもしれません。
慧あきゅはジャスティス!! ああっ、また暴走が……。

>gene 様
求聞史記の花屋の娘はいつか出したいなと思っていました。それが叶ってよかったと思います。
四つんばいの阿求に扇情? なにをおっしゃる、それが正常ですよ。

>名前が無い程度の能力 様
無駄に重い話や難しい話はたぶん私は書けないと思います。途中でめげてしまって。
それに、最後はやっぱり笑って終われる話がいいじゃないですか。

>兵庫県民 様
この話でこのテーマでギャグ一直線で話を書くには私じゃ修行不足過ぎて……ほんと、ギャグは難しいです。

>文鎮 様
実は書き始めた当初は、最初から阿求に「慧音様」と呼ばせるつもりでした。でも、それだと慧あきゅ成分が強すぎて断念。
とばっち霖之助は、なんと言いますか、お約束です?
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