鏡の悪魔、またはダイヤモンドを渡された花売りのお話

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 17:24:30 更新日時: 2010/11/06 17:24:30 評価: 12/12 POINT: 55
 すぐ目の前、綺麗な青い瞳がふたつ、覗き込むようにしてわたしを見つめていた。

 そう、それを観察するわたしの瞳も青く、見ているものも見られるものも、わたし自身にほかならない。

 わたし、かがみにうつる、アリス。

 辺りは暗く、家族はみんな寝静まっている。

 夜の闇から、悪魔たちから逃れるために。

 悪魔は、いるんだ。

 誰も信じてはいないけれど。それは神さまを心から信じないことと同じで。

 神さまがいつもわたしたちを見守ってくださるのならば、同じように、悪魔はいつだってわたしたちを陥れようと狙っているのだと、わたしは気づいたのだ。

 だからわたしは悪魔を見ようと、お話の中で見た魔法を試してみるのだ。

 わたしの青い瞳。視線を上げて、金の髪。その後ろに、背中合わせに座るつむじが見えた。奥を見る頭は、また向かいに座る女の子を見つめていて、それはやっぱりわたしだった。

 大きな鏡はひたすらに長い奥行きを映していて、まっすぐ一列に何人ものわたしが座っているのだった。

 鏡の中央に向けて進んでいくにつれ、小さく収束していくわたしの姿。

 もし頭の後ろにも目がついていれば、そちらに立てたもう一枚の鏡にも、同じ光景が見えるはず。背中を向けたアリスからはじまって、こちら側とは逆に並んでいるのだ。

 合わせ鏡の一枚をひとつの世界と見るならば、ここにはいったいいくつの世界があって、何人のわたしがいるのだろう。ひとりひとり目で追っていって、見えないぐらい小さくなってしまったその先は、いったいどうなっているのだろう。

 ごくり、と。

 わたしののどの鳴る音があまりにすぐそばで聞こえたので、遠く遠くの小さい自分を見ることに夢中になっていたわたしは、びっくりして飛び上がってしまった。

 鏡の中のわたしたちも、みんないっせいに同じ仕草をする。わたしはどこまで遠くを見つめていたのか、もうわからない。

 ほうほう。家の外でふくろうが叫んでいる。ばさばさ。木々の揺れる音もする。どこか窓が開いているのだろうか。そんなことは、ないはずだけれど。

 まるでむき出しになってしまったかのように、ざわめきがほんの耳元で聞こえる。目を閉じれば、森の中に放り出された気持ちになる。

 いつのことだったろう。月の高い夜、家を抜け出して森へ出かけた時に見た、まるで大きな怪物のようにうごめいて、ざわめきを発し続ける真っ黒なもの。

 昼間に通りがかるときに見る、暖かな緑色を放つ森の姿とはまったく異なっていて、怯えたわたしは家に逃げ帰ったのだ。

 そのとき全身をかけめぐった震えが、今もまたわたしに襲い掛かってくる。

 今すぐにこの馬鹿げた儀式めいたいたずらをやめてベッドに逃げ帰るべきだと、おどかすように。

 もうここまでにしておかないと、とんでもないものがやってくる。誰もが怯える、夜闇の悪魔が。

 わたしはこぶしを握り締め、これから起こることに思いをめぐらせた。

 時計は持ってこなかったけれど、きっとその瞬間は近い。

 今日が昨日に、明日が今日になるまさにその瞬間。

 悪魔がここに現れるのだ。

 座りなおしたわたしは、立てた両膝をかたく抱きしめて、うずもれるような姿勢でまっすぐ鏡を見つめた。ずっとずっと先の世界。そこから悪魔はやってくる。

 じっと見つめる視界のはじで、ちらりと何かがよぎったけれど、目をそらすわけにはいかない。

 合わせ鏡の一番奥にだけ集中する。だけれど、ちら、ちら、と動いている何かが、わたしをこそばゆくしてしまう。まるで耳たぶをそっとなじられるように、身をよじりたくなる。

 ――それが突然外側から飛び出してきて、視界のまっただなかを横切ってくる!

 奥行きある世界をさえぎって、鏡に張り付く黒い何か。

 蜘蛛だ!

 いきなり目の前に現れた、まがまがしく黒い八本脚。わたしは電撃を受けたようにのけぞった。

 ずいぶんと大きな蜘蛛の姿は、奇妙なことに、鏡に反射してはいなかった。鏡の中のわたしが、腰を抜かして見つめるその先にはいないのだ。

 それは大変に不思議なことだったけれど、蜘蛛が鏡の中心を目指して進んでいることに気づいて、わたしはその行く手をさえぎるために手を伸ばした。夢中だった。

 鏡の表面を走るその姿が、合わせ鏡の奥行きにふたをしてしまいそうだったから。

 蜘蛛をどけようとしたのか、鏡の中心を死守しようとしたのか、どちらの意図かわからないまま伸ばされたその手は。

 どこにも当たることなく、そのまま鏡の奥へと入り込んでいった。

 ――え?

 まったく予想だにしない出来事だった。わたしの身体は飛び出した勢いのまま鏡の表面を突き抜けて、バランスを崩して前へと倒れこむ。



  ・



 鏡の中に入ってしまって、でも世界は何一つ変わらない同じ姿を映していた。

 紙一重の向こうの世界はそうやって親しげな様子をしていながらも、わたしのことを歓迎してはくれないのだろうということが肌から伝わってくる。

 木々と生き物のざわめきは、いつの間にか聞こえなくなっていた。それが鏡を通り抜ける前のことか後のことか、わたしには心当たりがなかった。

 あっけにとられている場合じゃなくて、わたしは振り返って背後の鏡を見た。

 それは何も映し出さない、完全な闇の壁と化していた。

 もう一度振り返る。前の鏡。そこには確かに、合わせ鏡の世界が作られている。前と後ろが折り重なって生まれる光景。でもそれは、今この時はただ――奥へ奥へ、といざなう鏡の道なのだった。

 わたしはもう一歩を踏み出した。鏡の中のわたしの姿が近づいて、まさにぶつかるという瞬間、目を閉じて通り抜ける。

 目を開けるとまた眼前に鏡があった。わたしは確信する。これは道だ。

 部屋の光景は何も変わらない。だけれど、元の世界とはふたつの隔たりがあって、この場所はわたしを受け入れてはいないし、わたしも何かの違いを感じている。

 それが何か、わかるまで進もう。少しずつ違っていく世界が、元の形を残さないくらい変わってしまうまで、この鏡の道を突き進んでいこう。

 わたしはそうしたかったんだ。

 誰もがいないと思ってる悪魔を見ようとしたのは、他の誰も信じない体験をしたかったんだ。わたしはお話が大好きだから、冒険がしたくてたまらなかった!

 わたしのいた世界は、誰もが知っているような出来事しか起こらないところだったから、そんなつまらない場所に戻りたくなんかない。わたしは進めるところまで進もうと、足を踏み出して鏡の道を歩んでいく。

 目を開けたまま通り抜けると、どこまでも同じ部屋をどうどうめぐりしているようだったけれど、確かに先へ進んでいるんだ、という実感があった。

 からだがぴりぴりとそれを感じている。進むにつれ、違和感がどんどん強くなる。

 そして気づいた。

 ふくろうの声も、木々のざわめきも聞こえない。だけれど、わたしの肌が伝える思いは、それらを聞いた時とまったく同じだった。真っ黒な森。暗黒の叫び。

 ぞっとするものが胸を叩いて、わたしは思わず背後に首を向けた。足は止めないまま。

 それは、やはり暗黒だった。つい今通り抜けた鏡は、闇だけを映す冷たい壁になっていて。

 ――いや、そこから黒い手が伸びてきて、わたしを掴まえようとしている!

 悪魔だ! わたしの脳裏にはあの蜘蛛の姿が浮かんでいた。

 全力で駆け出す。

 恐ろしい目にあうのは嫌だ。

 前方に続く鏡の道は、悪魔の姿を映し出さない。ただ前だけを見て、わたしは走った。

 吐く息と、足音だけが耳に入ってくる。

 その音がだんだんと大きくなって、わたしのリズムと違ってくる。別の誰かの音がする。

 わたしは思わず想像してしまう。鏡から伸びる手に過ぎなかった悪魔が、足と顔を得て、わたしのすぐ後ろをぴったりと追ってくるのだ。

 胸がはりさけそう。

 全身が熱くて、でも冷たかった。いくつも鏡を越えていくうちに、暖かさも、寒さも、優しさも、怖さも、何もかもがいっしょくたになってわたしの内側でスープになっていくみたいだった。

 風景が歪んでいく。涙が出てるのかと思って目を拭ったけれど、どうやらおかしいのは世界のほうだった。輪郭がぼやけて、ものの形がわからなくなっていく。

 いつのまにか、鏡はうんと小さくなっていた。

 このまま闇に呑まれてしまうのだろうか――いっそう胸が痛んで、その時異変が起こった。

 突然、全身がぬるい空気に包まれて、たとえがたい、様々なものの混ざったにおいがした。

 ぶおおおおお……。低いうなり声のような音もする。

 そして何よりも。

 そこはもう、鏡の道ではなかった。

 石畳の両端に、規則的に並んだ灯りが頭上からわたしを照らしている。

 何だろう、考えようとした瞬間、さらに強い光とけたたましい音がわたしの全てを包んだ。

 ホワイトアウト。何もかもが消し飛んで、わたしの意識はぐるりと回る。



  ・



 その時わたしの身に起こったことを、順序良く説明することはできない。

 何がどういった順番で巻き起こったのか、わたしにはわからなかった。

 横合いから何かがぶつかってきたような。

 足が地面を離れて浮かび上がったような。

 すぐそばをうなる風が吹き抜けたような。

 めちゃくちゃに引っかく音がしたような。

 そういったことが一度に通り過ぎて、わたしは誰かの腕の中にいた。

 ママに抱かれるのよりは心もとない、ほっそりとした感触がわたしを支えている。

 地面に降りて、何かの危険からわたしを助けてくれた人物を見る。わたしよりは高い背丈は、だけれどもまだ子供のそれだった。

 辺りには夜闇が満ちている。頭上から降り注ぐ灯りは心もとなくて、世界の何もかもを明らかにするには及ばない。

 力持ちね、そう言おうとした口をつぐんだのは、顔を上げたその人の相貌が光の中に浮かび上がったから。それは、花やいだ女の子の表情だった。

 若葉のにおいと、鮮やかに染まり行く生花のみずみずしさが両立したかたちをしている。そのどれもこれもが、見たことのない色をしていて、ずいぶんと遠くの、知らない場所へと来てしまったのだとわたしは知る。

 その人が口を開いた。

「かわいい外国のお嬢さん、ここはあんたみたいな子が来るところじゃないわよ。こんな汚い街」

 そう言って、少し身をかがめて顔を近づけてくる。

 汚い街だという。

 土のにおいもしないのに。

 たしかにうっすらと、たとえられない、いろんなものが混ざったような香りがしているけれど、砂埃が服にまとわりつくような場所ではない。馬小屋の空気とも違う。

 細かい凹凸のある石畳も、わたしの知るものとは違っていて、一面に広がる漆黒の中にところどころ不規則に灰色が混じったような色合いをしている。

 空を見上げる。頭上の明かりを越えた向こう側。夜の天井には、星ひとつなかった。暗黒というには足りない藍色の空。その中を、灰色の染みがどこか不安げに泳いでいる。

 それが雲だと気づくのには一瞬だけ時間が必要だった。厚みの無い、ぼろきれのようなその灰色は、私の記憶にある綿のように分厚い雲とはあまりに違っていた。

 その雲の一部分、灰色に穴が開いているふちから、黄金色の光が漏れ出ていて、そこに月が隠れていることがうかがえた。そのきらめきは美しかったけれど、どこか冷ややかに、そっと地上を見下ろしているようでもあった。

「……ねえ、もしかして、さらわれてここまで来たの?」

「えっ?」

 女の子があまりに深刻な口調でそう訊いてくるので、わたしはここでようやく我に返ったのだ。

 そしてわたしは理解した。

 合わせ鏡のあの部屋から、いくつもの世界を飛び越えてやってきたこの場所。わたしにとっては夢見心地の世界でも、彼女にとってはここが現実なのだ。

 果たして、どのようなプロセスを経てあちらからこちらへやってきたのか、わたしの想像には及ばないことだけれど。この世界が、不思議な空想の産物だろうと、もしくは空間を飛び越えた別の現実世界だったとしても。

「いいえ、わたしは自分からここへやってきたのよ」

 そうであることには、違いなかったから。わたしは自信たっぷりにそう言った。

「ここがどこか、知らないくせに」

 女の子はそうしてためいきをついた。

 それは、そうだった。

 わたしは、わたしの世界じゃないどこかへ行ってしまいたくて、それは成功したけれど、ここがどこかなんて、推測しようともしていない。

 思わず胸をときめかせてしまうようなメルヘンな光景ではないけれど、彼女の言う汚さはまだ顔を覗かせていないように思える。わたしには。

「あたしは幽香。あんたは?」

 ユーカという名前は聞きなれない響きで満たされていた。彼女はため息の混じった仕草でわたしを見やるけれど、いらだちの色は浮かんでいない。それともわたしには見えていないだけだろうか?

「わたしはアリス」

「アリスね。いかにもな名前だわ」

 その言葉に含まれる意味は、わたしにはわからなかった。今度ははっきりと、わたしはその不明に気づいた。

「立ち話はここまでにして、別の場所へ行くのよ。あんたみたいな子供がいていいところじゃないんだから」

 ユーカは再三その警告を発している。けれども、わたしよりはお姉さんだとはいってもユーカもまだ子供だ。彼女自身はこの場所に危険を感じていないように思えるし、それほど深刻ではないのでは?

 ふと、わたしはユーカから視線をそらして、その頭の後ろにあるの灯りを見た。光が揺れているのか、ほんの少しだけ影が差したように思えたのだ。

 よく見れば、純白の光源がその周囲の暗闇をにじませているそのきわに、いっそう濃い暗黒がうごめいている。

「……どうしたの?」

 わたしの様子に気づいたのか、ユーカが尋ねてきた。わたしはすぐに答えを発することができなかった。その闇の正体を見てしまったから。

 暗黒は、灯りの裏から伸びる手――悪魔が、今まさにこちらへ向かって襲い掛かってくるのだった!

 逃げ出そうにも、叫びをあげようにも、身体はとっさに動き出せず、停止した一瞬がもどかしかった。

 そんなわたしよりも、ユーカの反応は速かった。

 彼女は振り返ると、そこへ迫っていた悪魔の手を――打ち払った。

 その動きはよどみなく、我が身に迫る脅威に対してまったくひるまない、まっすぐな行動だった。

 闇から伸びた一本の腕にすぎなかった悪魔の姿が、一気に形態を変え人の姿をとる。ユーカと同じ程度の背丈。

 表情のない悪魔に、いささか次の動作をためらうような気配がうかがえた。

 それに対して、ユーカはほぼ一連といって機敏ないい動作で、見事な回し蹴りを繰り出した。

 悪魔のわき腹に吸い込まれていくそのつま先は、まっすぐに闇を切り裂き、吹き散らした。

 直撃を予測していたユーカはいささか体勢を崩したようだったけれど、すぐに立て直して、前方を警戒していた。

 情けの無いことに、わたしはいまだ身をすくませたままだ。

 襲い掛かってくる悪魔に――いや、それがどんなものであれ、外敵を恐れず真っ向から立ち向かおうとするその姿は、わたしにはまったく真似のできない勇姿だった。

「あなた、なあに?」

 ひどくあいまいな問いかけだった。しかし、口をついて出たその言葉を、それ以上飾ることはわたしにはできなかった。

 なんなのだろう、彼女は。

 返ってきた答えは単純だった。

「花売りよ」

 きっとユーカにも、それ以上飾る言葉はなかったのだろう。

 吹き散らされた暗黒はそのまま夜闇にまぎれて、悪魔は姿を消してしまった。だけれども、いなくなってしまったのではないと、気配を消して好機をうかがっているのだと、わたしはなんとなく気づいていた。ユーカも同じなのだろう。張り詰めた様相を崩さない。

「あんた、あれに追われてきたのね」

「え……」

 わたしはすぐにうなずけなかった。

 自分からここへ来たのだと見得を切った、さっきの言葉を覆してしまう気がして。

 でも結局のところ、そう答えるほかになかったのだ。

「ええ……」

 そうつぶやいて、夜空を見上げた。いつの間にか灰色が一面を覆っているその空が、瞬間、明確に化けた。

 わたしは天に、わたしの顔を見た。

 鏡だった。

「空が……!」

 声に出した瞬間、本当の異変が起きた。

 わたしたちが立つ地面。両の足を支える石畳が、消えた。

 抗うことなどできるはずもなく。

 わたしとユーカは、まっさかさまに奈落へと呑まれていく――。



  ・



 叫び声をあげる余裕もなく、わたしはただ歯をがっちりと食いしばって、重力に押されるがままに落ちていく。

 この時、脳裏は完全な白紙だった。何の考えも浮かばない。

 身体を無理やりに動かして、周囲を見やった。ただ土壁だけが一面にあって、その凹凸が流れていく速さが、この状況の無慈悲さを語っていた。

 ――誰か、なんとかして助けて!

 ようやく浮かんだ言葉はそれだった。わたしにはどうしようもない。

 首を、壁とは反対に向けると、ユーカの姿が見えた。彼女も目を見開いて、ただ硬直したように落下している。

 わたしがすがれるのはユーカだけだった。わたしには思いつきもしない何かで、さっき悪魔を蹴散らしたように、奇跡を起こして助けて欲しい。

 その一心で手を伸ばした。

 ただすがりたかっただけに過ぎない。

 わたしが伸ばしたその手を掴もうとするユーカの表情はまるでからっぽだった。そこにはあきらめだけが浮かんでいるように視えた。

 ――いいや、違う。

 この時彼女も、わたしが願うのと同じほどに強く、奇跡が自分を助けることを祈っていたはずだ。

 わたしたちは、互いに伸ばした手をしっかりと繋ぎあった。

 目をつぶって、強く、強く願う。

 ――助けて!

 それはほんの短い間のことだったろう。ただ、わたしは時を忘れるほどに強く意識をこめていた。

 気がそれたのは、ユーカが短い吐息のような音を発したためだ。目を開けると、彼女は自分が落ちていく先、真下を見やっていた。

 わたしはそこを見るのがどれほど恐ろしいことかも忘れて、彼女と同じものを見ようとした。

 そして目を疑った。

 落ちていく先、奈落の底が見えていて――それは、一面の花畑だった。

 色とりどりの鮮やかなきらめきが、見る見る間に眼前に迫ってくる。

 目を閉じた刹那、わたしはこれ以上ないというほどにふかふかのクッションに全身を押し当てられていた。ずっぽりと、無数の花びらのなかに埋もれる。全身がやわらかく包まれて、それでもまだ先をかきわけるように落ちていって、ようやく止まった。

 呼吸が出来ない――と思った瞬間、まるで逃げていくかのような勢いで周囲の感触が引いていった。

 ぷはあ、と大きく息をして、目を開ける。

 わたしとユーカは、怪我ひとつ無くお花畑に寝転がっていた。それはあたかも、穏やかなお昼寝の光景であったかもしれない。

 わたしはそのまま、少しくすぐったい花の香りの中で横たわっていたかったのだけれど、ユーカがすぐに立ち上がって周囲を警戒するそぶりを見せたので、それどころではないと思い起き上がった。

 ユーカの危機感が落ち着くまでに、やや沈黙の間があった。

「……あんた、何が起きているのか説明できる?」

 唐突にそう問われるが、わたしは首を振るほかない。

それから上を見上げた。透き通った闇――とでもいうのだろうか。何一つかたちを浮かべていないのに、頂点まではるかな高みがあることをうかがわせている。

 光の降り注いでこない真っ暗闇の中において、存在しているものの姿はそれ自体が発光しているかのように明瞭に浮かび上がっている。わたしやユーカ、周囲の花々、遠くの壁面。

 たったそれだけがこの世界のすべてであるかのようだった。太陽さえ、月さえ取り払われた最小の世界。

 花を踏んでしまっていることに罪悪感を覚えていられるような状況ではなかった。地面全てが花でできているのだから。

 完全な形での花も散見されるが、ほとんどは花びらだけが散らばっているのだった。

 沈黙。

 こんなところにたったひとりぼっちではない、ということだけが唯一の幸運だった。だけれどもユーカは辺りをうろつきながら何かを探していて、わたしの方には振り返ってくれない。

 こんなところに希望も絶望も落ちていないとわたしは思う。

 そんなことなどよりもこの一面の花畑の中をふたりで遊びまわっていた方が、よほど幸せなのに。

 わたしは足元に無数に散らばる花びらを見た。赤、白、黄色……さまざまな色かたちの花が積み重ねられている。根を張って咲いているのではなく、大量に投棄されたかのようにばらまかれているのだった。

 それらの花々が持つ名称をわたしはほとんど知らなかった。花売りをしているというユーカに訊けばわかるのかもしれないが、尋ねられる雰囲気ではない。

 花びらを手ですくってみる。花の下にはやはり花が折り重なっていて、土も根も見当たらない。かきわけて、やや掘り進めてみても同様だった。

 それに飽いてまた仰向けに寝転がったそのとき、わたしのおなかが小さく音を立てた。

「おなかすいたなあ……」

 思わずそうつぶやいてしまう。その状況がいささか危機的である、ということに気づくのは一瞬後だった。

 首をもたげた空腹感は叫び声をあげてその窮状をわたしに訴えた。落ち着いてはいられないがかといってどうしようもない。さすがにお花を食べる気にはならない。

 その時、見上げる暗黒になにかの形がちらついた。なんだろう、と目を凝らして見る間もない速さでそれはわたしのすぐ近くに着地した。花に埋もれた小さい音を頼りに探してみると、小さい紙袋がそこにあった。

 開けてみると、中にはクッキーが何枚か入っていた。

 考える間もなくわたしは口にしていた。

 まさに望んでいたものが目の前に現れて、一も二もなく飛びつくほかに何ができるだろうか? 気づいたときには、紙袋の底に散らばっていた小さな破片までもがすっかりわたしのお腹の中におさまっていた。

 ユーカの取り分を残しておくのを忘れてしまった。そう思ったとき、また周囲で何かが着地する音がぽすぽすと立った。それもやはり紙袋に入ったお菓子だった。

 お菓子の雨――そう呼ぶほど激しくはないけれど、天からの恵みは惜しみなく降り注いできた。

 危機的な空腹は癒えていたけれど、せっかくならばもっと食べたいと思ったのでわたしはその欲求に従った。

 ユーカは状況を、ただ腕を組んで見ていた。彼女のそばにも紙袋が降ってきていたが、それには目もくれず、泥遊びをする子供を遠巻きに見つめるような顔をしていた。

「食べないの?」

 紙袋みっつを空にしたところでわたしは彼女に訊いた。

「試しに食べてみる気にもならないわね……そのクッキー、干しぶどうとかで何か模様が書かれてなかった?」

「いいえ?」

 クッキーはどれもこれも実に素朴なもので、中にはぶどうもチョコチップも何も入っていなかった。味も、わたしが普段食べているものと変わりない。

「ふつうのクッキーよ」

「そう。でも、あたしはお腹すいてないから」

 ユーカがそう言いおわったところで、天から降ってくるお菓子の供給も止まった。けれどもユーカがわたしを見る、怪訝そうな表情はそのままだった。

「どうしてクッキーが降ってきたのかしら。わたしがお腹すいたなあって思った、その気持ちに応えてくれたみたいだったわ」

「その通りなんじゃないの」

 ユーカはさしたる興味もなさそうにそう言い放った。

「落ちてたときも、なんとかして助かりたいと強く願ったでしょ?」

 確かにその通りだった。

 あの絶対的な危機の中で、どうにかして助けて欲しいと――そしてさっきは、空腹という欲求を満たしたい、そう思ったのだ。

 でも、どうしてわたしの願いが都合よく叶ってしまうのだろう?

「それで、あんたどうしたいの?」

 ユーカの問いかけが重なる。

「え……?」

「だから、命の危険をふたつやり過ごして、これからどうするの、っていう話よ」

「どうするって……どうしよう?」

 どうするべきだろうか?

 わたしは何の発想も浮かべられなかった。

 ぺたん、と花の上に座り込む。

 満ち足りてしまっているわけでは、もちろんない。だからといって、何がほしい、どうなりたい、といったプランもまた考え付かないのだった。

 ユーカに呆れられるかと思ったが、彼女は距離感のある目つきのまま、ただわたしを見つめていた。

 ややあって、わたしのほうに歩み寄ってくる。

 手を差し伸べて、言う。

「なら、その力あたしに貸しなさい」

 そこには一種のじれったさが含まれていたのだろう。実りのない釣り人から竿を借りるかのように。

 有無を言わさぬ口調に突き動かされて、わたしはユーカの手を握った。

 それはついさっきもした行為だった。しかし今、わたしには何の願いも無かった。だから――ユーカのお願いを叶えてください、と心の中で呟いた。

 地面が震えた。花々ががさがさと揺れ、こすれあう音がする。

 わたしは胸が色めき立つのを覚えたが、ユーカはなんということもないように、ただ向こうの壁面を見ていた。

 地鳴りのような音と共に、それは巻き起こった。

 壁面のそば。そこに散らばる花をかきわけて、何かが姿を現した。巨大な蛇が首をもたげたように飛び出し、うねりを描きながら高く上っていく。あっという間にその先端は見えないくらいの高みに達した。それでもなお止まらず、根元が途切れてしまうこともなく伸び続けていた。

 その成長と地鳴りが終わると、それは螺旋の登り道としてわたしたちの前にそびえ立っているのだった。

「落ちてきたんだから、帰るのよ。当然でしょう?」

 ユーカはこともなげに言った。

 わたしにとってはあまりに尋常ならざることで、開いたままの口にしばらく気づかなかった。

「魔法みたい……」

「魔法なんでしょう」

 やはり当然のように言って、そちらへ歩みだすユーカ。わたしは慌てて立ち上がって、その後についていった。

 巨大な蛇に見えたそれは、近づくにつれて正体をあらわにした。

 木の幹だった。

 大木というにも長大すぎる樹木。それが渦を巻くように生えているなんて、間近で目にしてもなお信じられなかった。

 ユーカは大樹の道を作り上げて、それで上まで登っていこうというのだ。

「どうやって作ったの?」

 目の前で起きたことなのに、わたしには何もわからなかった。ユーカと手を繋いだだけで、ものすごい勢いで樹が生えてきたのだ。

「強く願ったのよ。ただ帰りたい、というんじゃなくて、もっと具体的にね」

 そう言いながら、樹の根元から登りだした。

「帰るの?」

「帰るのよ。それ以外に何があるの?」

 それさえもわたしにはない発想だった。しかし彼女にとってはそれが当然のことなのだろう。

 わたしと違って、現実が大事なのだ、ユーカは。

 その思いの強さが、奇跡を起こしたのだろうか。

 足元の花々。これはきっと、クッションとなって着地の衝撃を和らげるものをユーカが想像した結果、実際に創造されたのだ。そして今は、遥か高みまでの足場になる大木を想像し創造したのだろう。

 呆然としているわたしを置いて、ユーカはさっさと先へ進んでしまっていた。慌てて後を追いかける。

 元の場所に帰りたいわけではないが、ひとりになるのは嫌だった。

 そんなわたしをちらりと見やって、ユーカは声をかけてきた。足を動かして前を見据えたまま。

「あんた、いったいどっからどうやってあの街に来たの?」

「わたしは……」

 合わせ鏡の悪魔を見ようとしたのだ。

 他の誰もしていない体験をしてみたくて。

 そして、鏡の中に入り込んでしまったわたしは、どんどんと突き進んでいったのだ。

「帰るあてはあったの?」

「いいえ」

 ユーカの問いに、わたしはただそう答えた。すると彼女は足を止めて、わたしの方に振り返ってきた。

「……」

 何か言いたそうだったが、言葉は投げかけられなかった。

 ユーカの方が背が高いし、勾配の先にいるから、わたしを見下す形になった。

 足を止めると、急に汗が噴き出してくるような気がした。

 顔を拭きたいな、と思うと、ぱっと目の前にふかふかのタオルが現れた。

「あ……」

 やればできるものだ。

 もう一回、今度はユーカの目の前にタオルを出現させる。

 それぞれ顔を拭いた。

「ありがと」

 ユーカはそれだけ言って、また前を向いて歩き出した。わたしもそれに続く。

「ねえ、この魔法が自由に使えたら、もっと素敵なことが起こるんじゃないかしら? どんな願いでも叶うのよ!」

 わたしの胸中は希望に満ち満ちていた。しかし振り返らずにユーカが放った言葉がその胸を打った。

「そんなことをしても、人は何も変わらないのよ!」

 鉄槌に打たれるような痛みが走った。

「悪魔を呼んで、鏡を越えて、奈落に落ちて、クッキーを食べて……あんたの魔法でどれだけ冒険しても、アリスという人間は変わらないのよ」

 なぜそこまで言い切れるのだろう。

 出会ったばかりのユーカに。

 反発するのはたやすい。けれど、言い返すことはできなかった。

 わたしは変われないのだろうか。

 現実にいても。

 現実から飛び出しても。

 魔法の力を得ても。

「人を変えるのは……魔法とか、そういうものではないわよ。力が人を変えたとしても、それはきっと、幸せじゃない」

 ユーカがちらりとこちらを見やった。

「不幸になりたいわけじゃないでしょう?」

「そうだけど……」

 それきり、ふたりとも黙ってしばらく歩いた。

 辛くなってきたところで、幹から枝分かれしてりんごがなっているところに行き当たった。いくつかもぎとって、その場に座って食べる。今度はユーカも口にした。

 大振りの果実は乾いたのどを潤し、お腹を満たしてくれた。

「今まで食べたりんごの中で一番おいしいわ」

「そうね」

 そうしてしばし休憩し、また歩き出した。

 登って、折り返して、登って、折り返す。

 どれほど歩んできて、まだどれだけ先があるのか。どちらもこの目で確かめたいとは思わなかった。

 ずっと同じ景色を歩いて、交わす言葉もないし、何も思考できない。

 ぼんやりと歩くわたしの視線の先。ユーカの足元はずいぶんしっかりとしていて、一歩一歩を着実に進んでいるな、と思う。

 ユーカというこの少女には、目的があって、意思があって、自分がある。わたしには、そのどれひとつとして持ち合わせがない――彼女に比べて、まるでわたしは吹き飛ばされた風船でしかなかった。その風船の紐をしっかりと掴んでいるべきなのは、やはりわたしなのだ。しかしそうするつもりになれない。

 それが、歩いている中で思いついたことだった。

 大樹の道は唐突に終わる。

 折り返すべきところで折り返さず、途切れた道の先には――ユーカとわたしがいた。

「鏡……」

 わたしはユーカと並んでその前に立ち、そこに映る自分と手を重ね合わせた。ぴたりとは触れ合わず、狭間に決して乗り越えられない透明な壁をはっきりと存在させていた。

 ――お願い、通して!

 強く念じながら、手のひらに力を混めた。しかし何の反応も無い。

 来たときはずっと、夢中だったから――どうやって通ったのか記憶にない。

「ユーカ」

 ふたりの力をあわせるべきだと思い、わたしは彼女に手を差し出した。

 けれども、ユーカはこちらに目もくれず、鏡の中の自分と向き合っていた。

「試してみるだけ、ひとりでやらせてくれない? なんだかできそうな気がするの」

 その言葉には少し驚いたけれど、わたしは素直に後ろへ下がって、様子を見てみることにした。

 何をするのかと思ったら、ユーカはいきなり腕を振り上げて、鏡の自分へ向けて握りこぶしを叩きつけたのだ!

 そんなことをしても、ただ痛いだけだろうに――わたしは目を覆いたくなる衝動をこらえて、その結果を見ようとした。

 ばりん。

 あっけなく。

 わたしたちの行く手を塞いでいた大鏡は割れた。

 のみならず。

 わたしたちの来た道を作っていた大樹が割れた。

 すべてが。

 世界すべてが割れて、わたしたちはまた見知らぬ場所に立っていた。



  ・



「ここは……?」

 まず認識したのは、水の音だった。けれどもそれはどこか遠くから。

 見渡せば、あたりには木々ばかり。それも、見たこともない緑色のつるつるとした幹が無数にそびえているのだった。

 天井は枝と葉がふさいでいるけれど、すべてを覆いつくしているわけではなく、その向こう側にまばゆくも暗くも無い青色がひろがっていた。

 ユーカはわたしのすぐそばで、鏡を割った直後の姿勢のままそこにいた。手だけをこちらに向けて、言う。

「コンパス」

 うまく想像できなかったのでその手を掴んだ。

 ユーカの目の前に方位磁針が現れて、彼女はそれを手にした。

「このまままっすぐ進むわよ」

 そうして、てきぱきと進んでいってしまう。

「鏡が割れた、この状況が不思議じゃないの?」

 わたしも歩みだしながらそう尋ねる。

「不思議がっていてもどこへも進めないでしょ」

 その答えは簡潔で明瞭だった。

 ユーカの力で鏡が割れることがわかって、そして向こう側が彼女の世界でなかったから、また次の鏡を割るために進むのだろう。

 そうやって現実へ帰るつもりなのだ。

 どれほどかかるだろうか。

 もしも、ユーカがひとりでもこの先鏡を割って進められるのなら、そして、もしもこの先で他の誰かと出会ったら。

 そこで彼女とは別れるべきかもしれない。わたしはそう考えた。

 ひとりになるのは嫌だけれど、ユーカに付き従って元の世界へ帰りたいわけでもない。

 きっと、このまま進んで、つつがなくユーカの世界へ帰って、それからひとりで身の振り方を考えることになるのだろう――結局、そういう予感に行き着いた。

 方向を見失わないように、木々の間を縫ってなるべくまっすぐ歩いて、またも鏡がわたしたちの前に立ちふさがった。

 ユーカは迷い無く手を振り上げる。



  ・



 それからどれほど進んだことだろうか。わたしたちは太陽が激しく照りつける下を、砂の大地が延々と広がっている光景に嫌気を覚えながら歩んでいる。

 全身を風通しのいい布ですっかり覆い隠して、ユーカの後姿はまるでオバケだった。

「ねえ」

「なあに?」

 しばし続いた沈黙を破って、ユーカが何事か問いかけてきた。わたしは、前を向いたまま話すユーカの言葉を聞き取ろうと、足を速めて彼女に近づいた。

「あんたが最初の合わせ鏡に飛び込んで、わたしの世界に来るまで、何枚の鏡を通り抜けてきた?」

 どうして今、そんなことを訊くのだろう?

「覚えていないわ……。時間にしてみれば、ほんのすぐだったと思うわ。あなたと出会ってからのほうが、よっぽど長いのは間違いない」

「時間は……鏡を割るか、通るかするときに飛び越えているのかしらね」

 ユーカは何か考えているようだった。どこまで進んでも、元の世界へたどり着く兆しが見えないことにあせりを感じているのだろうか。

 彼女の気持ちは、わたしには想像することさえ難しかった。わたしは帰ろうなどと少しも思っていないのだから。

 鏡と時間、という言葉から、思いついた話があった。関係ない話をすると怒られるかもしれないが、ほんのわずかでも気を紛らわせる助けになるかもしれない。わたしはそれを口にしてみた。

「鏡って、いつだって未来を映している、っていつかわたしのママが言っていたわ。お化粧をするときに鏡を見て、めいっぱい綺麗な自分が映ってると思い込みながら、それに近づけていくんですって」

 もっとも、わたしはお化粧なんてしたことがないし、それはユーカも同じだろうけれど。その話を聞いてからしばらくは、わたしは暇さえあれば鏡を見て、将来立派な女の人に成長した自分を想像しようとしたのだ。

 その時、ちょうどよいというか、間が悪いというか、鏡が目の前に現れた。

 せっかく始めたお話はここで打ち切られてしまうのだろう。

 握りこぶしを作って――鏡に映るユーカの瞳は、色も輝きもない暗黒だった。

「それは心の話よ」

 腕をすぐに振り下ろさずに、鏡を見たままそう言った。

「鏡に映るものは全て、光が往復した時間分だけ過去の姿に過ぎないわ」

 そして鏡を割った。



  ・



 次に現れた世界は、やはり彼女の住む街ではなかった。

 荘厳な石造りの宮殿、といった風情の場所だった。

 ユーカはその光景に何の感動も表さず、手元のコンパスを見た。方向を確かめて、歩みだそうとして――。

 違和感に気づき、振り返った。

 そこにはもう、わたしの姿はない。

 ユーカはこの時、たったひとりぼっちになったのだ。



  ・



「……アリス?」

 別にべったりとついてきて欲しいなんて思わなかったけれど。

 急にいなくなられると空虚なものであって。

 あたしはほんの少しだけ、その場所に立ち尽くしていた。

 ――驚くことは無い。

 アリスはどう見ても、元の世界へなんて帰りたくないという表情をしていたじゃないか。彼女が望んでいたのは血沸き肉踊る冒険劇なのだ。あたしは無難に帰りたいだけだったから、一緒に行動するのはさぞ退屈だったろう。

 望みのものが何でも手に入る魔法の力は便利だったけれど。いや、むしろ、その力を持つアリスが帰還を望んでいないから、あたしはいつまでたっても帰れなかったのではないか。

 だとすれば、いなくなってくれて都合がいいというものだ。

 あたしはせいせいした気持ちになって、モスクのような建物の内部を歩みだした。

 コンパスを頼りに、最初に踏み出した一方向へ。

 世界が合わせ鏡のように繋がっているのなら、その道はまっすぐに連なっているのに違いない。

 しかし、今。

 行き過ぎる風景は合わせ鏡のようにぴったりと向かい合い、あるいは背中合わせにはなっていない。

 それは、きっと。

 あたしが鏡を割ったからだ。

 アリスが合わせ鏡を作り、悪魔から逃れるために旅をしてきた――それとあたしの道は違うのだろう。

 あたしは鏡を割るのだから。

 それがどういった影響を及ぼして、あたしの未来がどうなるかなんてわからない。

 難しく考えるのは好きではない。

 現実離れしたこの不思議な状況を受け入れているわけでもない。

 ただ、あの汚い街へ帰りたいのだ、あたしは。

 愛郷心からではない。

 人生に希望を持っているからでもない。

 いまさら魔法を手にしたところで何も変わらないほどに、あたしの生涯は根っこから乾いてしまっている。

 何も残せずいつか死ぬだけのさだめ。

 それは、今この瞬間も何も変わらない。不確かな道をただ歩むことしかあたしにはないのだ。この道のどこかで倒れても、あの街のどこかで事切れても――あたしはひとつの後悔も浮かべないだろう。

 あたしは麻痺してしまっている。とうの昔に。そういう自覚はあった。

 アリスは、そんなあたしを冷たい、つまらない子供だと思っただろう。

 物語のような冒険を望み、自分の想像を超えるものだけを追い求めるあの子は、元いた世界へ帰るつもりなどまったくないに違いない。

 まったく違う方向を目指したふたりは、しかしどこか同じようでもあった。あたしはそう思う。

 アリスも、幽香も、自分自身の物語を失ってしまっているのだ。

 だから、アリスはここではないどこか、不思議な冒険を追い求め。

 だから、あたしはここではないいつか、不明瞭な現実へ帰るのだ。

 ため息が漏れた。

 アリスはきっと、これから物語を、冒険を手にするだろう。彼女の望みの通りに。

 自らの意思とは無関係に巻き起こる様々な出来事に翻弄されて。

 彼女がそうなれる、そのことが――あたしにとってのたったひとつの希望だと、気がついたのだ。

 かぶりを振る。

 あたしはその顛末を見届けることはできない。

 なぜなら、それは。

 あたしの物語ではないからだ。

 あらゆる物語を放棄して。

 あたしは現実に帰る。

 帰らなければ。

「ママ……」

 もはや自分で身を起こして、鏡を見ることさえ叶わない母親の姿が浮かぶ。

 脳裏に――ではない。

 眼前に映る、あたしの背後に。

 鏡に。

 布団に寝そべって、ただ天井を見つめている、やせ細った女の人。

 からだの内側がひどく痛烈な叫びをあげて、あたしは湧き上がる震えを静めるために身を縮ませたい衝動に駆られた。それに抗って、鏡を打ち壊すために手を振り上げる。

 だが――それ以上、腕はあたしの命令を聞かなかった。

 あたしの意思がいくつにも散らばってしまって、それぞれ戦っているのだ。そうした心持になるのは、ひどく久しぶりのことに感じられた。

 腕をゆっくりと下ろして、振り返った。

 そこにママの姿はない。

 代わりに、ひとりの少女が立っていた。

 金の髪、青い瞳。

「アリス……?」

 その面影があった。

 しかし、少女の背丈はあたしと同じくらいで、顔つきから、年齢も同じほどだとうかがえた。

 <アリス>は友好的でも否定的でもない表情で、あたしを見つめている。

 片手には分厚い本。もう片手に持った光る石を、あたしに差し出してくる。

 無色透明のみずみずしい輝き。世界を映し出す光を一身に集め、この上なく美しいきらめきに昇華するそれがダイヤモンドだとしたら、手のひらで包みきれないほどのその結晶にはいったいどれほどの価値があるだろうか。

 きっと途方も無い宝物なのだ、それは。

「これを持っていきなさい」

 <アリス>はそう言った。誰もが耳を疑い、そして間違いなく顔をほころばせるであろう一言。

「いらないわ」

 あたしはそれをつっぱねた。

 <アリス>は眉をひそめるでもなく、納得するでもなく、ただ語りかけてくるのだ。

「どうして? これを持って帰れば、いくらでも現実を変えられるでしょう? お金を稼ぐ心配はしなくていいし、ママの病気だって治るかもしれないわ」

 彼女は親切心から言っているのではない。それどころか、その宝石が一抹の希望よりも多くの苦悩を生むことになるときっと知っているのだ。

「それで、めでたしめでたしと終わるのかしら?」

 あたしは疑念から訊いているのではない。<アリス>の言葉を受け入れるつもりなどもとから無い。

「人生は物語のようには紡がれないのよ。人生は物語のようには終わらないのよ」

 つとめて丁寧に言ったつもりだった。それはやはり<アリス>にあのアリスの面影を感じているためだった。もっともアリスがアリスのままだったら、この程度の説明ではまったく理解に及ばなかっただろう。

「その石を金に換える。借りていたお金をいっぺん返す。莫大な治療費を払ってママを入院させる。幸運なことにママがまともに動ける身体になったら、ふたりであの街を離れてどこかで静かに暮らす……」

「素敵なことじゃない」

 思ってもないことを言う<アリス>は、やはり表情を浮かべずに。

「素敵、なんて言葉で苦痛を覆い隠すことはできないわ」

 あたしは言う。

「その宝石を持ち帰って、困難を解決しようとする道のひとつひとつに……ちっぽけな希望よりも遥かに大きい苦痛を孕んでいるのよ」

「……」

 <アリス>が沈黙する。

 その瞳はあたしに向いている。だが、あたしを見てはいない。あたしの心を、あたしの言葉を、考えようとしていない。

 あたしは確信する。

 こいつはきっと、知っているのだ。目にしているのだ。

 幽香という人間があの街で経験した過去と、これから経験する未来を。決定した景色を映すだけの水面に波紋を生み出すために投じる一石が、その宝石だということだろうか。

「儚く散る花として生きることを、あなたのママは望んでいるかしら?」

 あくまで淡々と、<アリス>は問いかけてくる。

 その態度は――知っているんだ。

「あなたの生があなただけの希望ではないのなら、これを持っていくべきよ」

 それは、諭す振りだけして、自分のエゴを押し付ける悪魔のささやきなんだ!

「……あたしは」

 脳裏に浮かぶ、ママの姿。かつては誰もが振り向くほどに綺麗だったというその頃の姿は、写真さえ失われて、あたしの記憶には無い。あたしにとってママは、傷だらけの外側とぼろぼろの内側を抱えて、ほとんど骨だけで生きているような醜い女の人。

 けれども、あたしは。

「どんなにしおれても、どれほど踏まれても、ただ生きていて欲しい。それだけを望むひとがいるから……」

「……そう」

 <アリス>の手からダイヤモンドが消えていく。さらさらと砂のように散らばって、どこかから吹いた風に溶けていく。

「美しく咲き誇る姿を誰にも……自分にも見せることなく、ただもぎとられるように散るのが望みなのね……」

 風が止んで。いっそう濃く、重い沈黙が訪れた。鼻先をくすぐるそれは、何かが壊れてしまうその瞬間の空気だった。あたしはそういうものを、これまでに何度も見ていた。

 <アリス>の顔色が、うっすらと変わる。一変したというほどのことではなく、だが、確実に宿った影の色。

「この、売女」

 爆ぜた。

 あたしの全身を駆け巡った電撃のような激しいほとばしりに呼応するように、世界全てがガラスのように割れた。<アリス>さえ巻き込んで。



  ・



 砕け散った世界の外側には、途方のない暗闇が広がっていた。最初に落ちたあの世界に似ているが、唯一見えていた壁面さえも存在しない。暗闇の中を暗黒の上に立っていた。

 少し離れて、ひとりの少女と相対する。

 やや落ち窪んだ青い瞳。<アリス>はつい今とは別人の姿をしていたが、しかし、やはりそれは<アリス>なのだった。片手には、あの分厚い本。

「見込み違いだったようね」

 失望の様子さえ見せない顔色。

 あたしは理解する。

 こいつは世界に対して空っぽでいて、その内面には、ひどく毒々しいほどに濁ったエゴに満ち満ちているのだと。

「あなたがもっと違った世界を知っていれば」

 つぶやく<アリス>の背後、暗黒の地面から顔を出すものがあった。

 それは木の根だ。飛び出した自動車のごとき速度で伸びるそれは、暇乞いの猶予さえなく<アリス>の胸を串刺しにする。

「もっと貪欲な心を、力を追い求めていれば」

 割れる身体とは別の<アリス>が、つぶやき続ける。

 木の根も割れ、暗黒も割れ、あたしはまばゆい光に包まれた。



  ・



 さんさんと照らす日光。それを受けきらめく向日葵が――無数に咲いていた。黄金の世界。

 わけもなく胸が躍る。

 鼻腔をくすぐる香り、あたしは目を見開いて、その全てを一身に受け入れていた。

 だがそれも、一瞬のこと。

 あたしは全身を厳しく叱咤して、背後を振り向いた。

 <アリス>はやはり、驚くでも、せせら笑うでも、賞賛するでもなく、ただあたしを見つめていた。

 それが。

 傲慢なのだ。

「ひたむきに強い花を咲かせられたかもしれないのに」

 それが、どうした。

 あたしはあたしなのだ。幽香という人間は、日陰に咲くくすんだ花でいい。

 いや、それどころか、雑草であったとしても、何も悔いはない。

 富も、平穏も、あたしには過ぎた幻想でしかなくて。

「あたしは確かにそこに在った。それだけを叫べるのならば、何も無くていい」

 向日葵が消えていく。太陽が翳っていく。

 暗黒はすぐに訪れる。そして――割れるのだ。



  ・



「それならば、なぜ?」

 問いかけが宙に浮かぶ。

 気づけばまたどこかの空の下。

 闇を纏った悪魔たちが襲い掛かってくる。あたしを守るように木の杭が地面から飛び出す。

 飛び退るあたし。追いすがる悪魔。あたしに触れることは叶わずに、木に身体を突かれて霧散する闇。

「どうして、抵抗するの?」

 知らない。

 それは、最初からだ。最初のアリスに出会ったあの時。

 悪魔に迷わず蹴りを食らわせたのは、まったく無我夢中の出来事で、あたしはそれが起こるに至った理由を知らなかった。

 そういう心構えはいつだって持っていたし、身体を動かす練習もしていた。だが、実際にそれを行使したことは一度たりともなかった。

 暴力でもって解決できるような事態など、現実には存在しなかったのだ。

 誰も、あたしに抵抗を許してはいなかったから。

 だというのに。

 なぜ今、あたしの身体は走り続けているのだろう。あたしの心は、己を守るために戦い続けているのだろう。

 蹴散らして、蹴散らして、悪魔はさらに勢いを増して襲い掛かってくる。それに呼応して、あたしが呼び出す木々の本数も多くなっていく。それらは全て、あたしの想像の下に動かされているのだ。集中力は研ぎ澄まされていき、頭の中から言葉が閉め出される――そのきわに。

「さあ、おっつかないわよ」

 <アリス>の声が、この状況が彼女の望みどおりであることを伝える。

 ごくわずかに上気したような声。

「あなたがどれほど強くても、その幽香には限界があるわ。だから、あなたも変わりなさい。望みなさい。強い自分を、美しい自分を、今よりももっと高みにいる自分を。望みなさい。欲しなさい」

 いやに耳に残る甲高い声を追い払って、あたしの頭はクリーンになろうと働いていた。

 ただひとつだけ、結論付けるように考える。

 <アリス>とあたしの魔法において、イマジネーションがすなわち力となるのならば。

 ダボハゼのように貪欲なるものこそが彼女であって、それは既に人間ではないのだった。

 欲望に駆られた者の末路をあたしは知っている。それは人間らしく言葉を発することも、他人を思いやることもやめて、ただただ一途に、己を満足させることだけを行うのだ。

 あまりにも力を持ったために、あまりにも醜い。

 そして、その欲望を持った<アリス>こそが。

 合わせ鏡に潜む悪魔に他ならないのだ。



  ・



「君の親父は本当に勇敢だった。けれども、この街で誰も逆らえない人物には……やはり勝てなかった。決して侮辱するわけではないが、蛮勇でしかなかったんだ」

 パパが死んだ数日後、彼の友人が訪ねてきてあたしにそう言った。

「幽香。君は何も背負うことは無い。君が本当に行きたいと思う道を進めばいい」

 あたしはゆっくりと首を振った。

 彼は帰っていって、その数日後には街を離れていった。今どうしているのかは知らない。

 その時既に、ママは自分で立って歩けないほどに衰弱していた。



  ・



 数十もの悪魔たちが、巨木になぎ払われて消えていく。大樹が自由にその身体を動かすことが出来るのなら、彼らは人間による伐採にさえ抵抗するだろう――だがこの奇跡は幽香の意思であり、想像であり、魔法だった。それにすぎなかった。

 私はそれほどまでに強い幻想を心に浮かべることの出来る幽香という人間を、ただ見つめていた。

 幽香は私の姿に気づく余裕もなく、眼前に次から次へと押し寄せる悪魔と戦い続けている。

 私は、アリス。この合わせ鏡の世界で、あの小さなアリスと出会った幽香を、ずっと見ていた。

 その出会いに、大いなる運命の介在を感じずにはいられなかったのだ。

 私には過去も無く、未来も無く、故に己の何もかも知らず、世界の何もかも知っていた。

 アリスが合わせ鏡の悪魔を見ようとしたあの瞬間、私は自分の存在が顕になったことを知覚した。だがそれは、その瞬間に誕生したということを意味するのではない。

 無数――厳密には無限ではないが、ほぼそれと同等に存在する平行世界。鏡と実像の間に、ごくわずかな時間のずれがあるのと同じく、隣り合った世界はそれぞれごくわずかな違いを抱いている。

 僅かなずれが積み重なっていって、遠く離れた世界はまったく違ったものになる。

 アリスという少女は、その世界全てに存在する。

 どちらが先なのか。あのアリスが合わせ鏡を作ったためにそうなったのか、アリスがそういう少女であるがために合わせ鏡の魔法を成すことが出来たのか。どちらにせよ、アリスのその行いのために、今あらゆる並行世界は合わせ鏡として繋がっている。

 そして、そのために――私という、合わせ鏡の悪魔が存在するのだ。

 今、全ての世界の全てのものは、私の想像力のままに操られる人形でしかない。ありとあらゆる欲望を思いのままに叶えることが出来るし、それを全て叶えてしまった後の世界に横たわっているだけのものが私なのだ。

 しかし、たったふたつだけ、例外がある――はじまりのアリスと、あの幽香。

 幽香の心は、想像力は、並大抵ではないほどに強い。どれほどの悪魔をけしかけても、それを上回る奇跡を起こして戦い続けている。

 類を見ないほどの大樹が生まれた。悪魔の欲望によって二度と生命が誕生しない宿命を負わされた、壊れた世界の中に。

 それは幽香を守るための巨城であり、枝葉全てが剣となる武器であり、そして幽香の心そのものでもあった。

 不屈の心は揺らがない。

 彼女の望みはたったひとつ。

 幽香にとっての現実。あの汚い街に帰ること。

 その街には、まるであの悪魔たちのように欲望をむき出しにした、醜い人間が溢れかえっている。幽香は、悪魔たちと戦うように人間と戦いはしないだろう。

 葉も、花も、果実も、全て他者の欲望のままに奪われていく。

 そういう世界に、ただ帰って、ただこれまでと同じように暮らしていく。

「それが本当にあなたの望みなの!?」

 <アリス>の姿を借りて、知らず私は叫んでいた。

 その時、私は自分自身に気がついた。

 なぜ、幽香の行く手を阻もうとするのか。

 そこにはふたつの理由がある。

 ひとつは、彼女の才能がどれほどかを計るため。彼女が想像を創造する力を得ているのは、私の魔法を分け与えているためだ。力を発揮する衝動をもってして、彼女の天賦の才はどれほどのものを見せてくれるのか。

 その底は、未だに窺えない。彼女は隠すつもりも無いのだろうが、しかしそれ故に、まるでどこまでも高みに達してくるのではないかと思わせるほどの、恐ろしいほどの願望が渦巻いている。

 だというのに。

 幽香は、それの力を振るうことを、心から望んではいないのだ。

 かたくなに、ただ、現実に帰るためだけに。

 ――それが私には理解できない!

 もうひとつは、たったそれだけのこと。

 引き止めているのだ、彼女を。

 大樹が割れた。世界を渡る魔法によって、己が創造物を手放すことにすら躊躇なく。

 既に世界は幾度と無く砕けている。

 今や悪魔もその他も区別無く、七色がどろどろに溶け合う中を、幽香が木の幹で道を作り駆け抜けている。

 七色の世界――それが、イマジネーションの行き着いた果てだった。私はその、七色が区別無く溶け合っている世界に存在していたのだ。七色あれば、全てを叶えるに足りる。

 だがその中で、幽香は彼女自身であり続けた。彼女が自分を見失えば、その瞬間、七色の中にいっしょくたに溶けてしまうというのに。

 未だ、走り続けている。時間も距離も、とうに消えうせた世界を。



  ・



 あたしは、ただ、夢中だった。

 それは、ずっと前から、そうなのだった。

 誰もが平穏に生きるだけでは飽き足らず、あらゆるものを食い物にして生きてるあの街で。

「あたしは何も恨んではいないもの。パパを殺したやつも、あたしに花を売らせているやつも。……それが、同じ人物だったとしても」

 憎みもせず、かといって慈しむでもない。

 ただ、そうあるだけのものなのだ。

「悔しくはないの、そんな生き方!」

 <アリス>の声は、いつの間にかあたしを説得しているようで――少し滑稽だった。

「それが、あたしなのだから。悔いもない。なにもない」

 何を言われようとも。

 もはやあたしの心は、どうやって生きるかという問題から離れているのだ。

「ママは、どれほど身体がぼろぼろになっても、泣き言ひとつ言わないで生きようとしているわ。あたしも、そうありたい」

 それだけのことだ。

 そうあろうと思えば、何もかも、ただ通り過ぎるだけのものでしかない。

「何もかもが通り過ぎて、全て終わった後に……」

 生きた。あたしは人生を全うした。

 そう叫ぶことが出来たのなら。

 ――そうして、あたしの中で全てが言葉になった。

 もはや、コンパスがなくとも道が揺れ動くことはない。

 この手が掴むものは、栄光でも汚泥でもなく。

 ただちっぽけな、ひとひらのものでいい。

 それを目指して、あたしは走っていた。

 七色が密度を増して、あたしの行く手を阻もうとも。

 それを割って、あたしは駆け抜ける。



  ・



 ずっと向こうに、ちらりと、何かの影が見えた。混ざった七色とは別の輪郭を浮かべるもの。

 近づくにつれ、それは森だと理解した。圧倒されるほどの規模で群がる木々。あたしがひた走る木の幹の道はその先で、たくさんに枝分かれして森を作るのだろう。

 実のところ、それはあたしの想像の埒外のものなのだと思う。

 あたしはあたしの創造した大樹の皮に目をやった。

 色の濃い表面。凹凸は緩やかで、ささくれだってはいない。思いっきり走っても揺らがない、がっしりとした安定感は、樹という生命の上を走っているのだということを確かに感じさせる。

 だけれど、あたしはその木を知らなかった。それに限ったことではなく、あたしは植物に関する知識がほとんどない。コンクリートとアスファルトに囲まれて育ったあたしは、木登りをして遊んだことすらないのだ――。

 あたしは無我夢中なるままに、まったく知らない大樹を想像し創造していたのだ。そこに因縁はなくとも、地上でもっとも大きい生命を頼って、あたしは生き延びたかったのか。

 今、あたしは落ち着いていた。だからこそ、意識を飛び越えて発現した魔法について、考えることができなかった。その空想に触れられる時間は過ぎて、思い返すたびに謎がつきまとうのだろう。

 その時。

 七色から手が伸びた。

 あたしの周囲を包む、世界の七色。その全てが、あの悪魔の想像力が具現化したものであるということを失念していた。一瞬。あたしは何も想像できず、命を奪われるにはあまりにも充分すぎる時間だった。

 脳裏に鈍い痛みが走る。それは時間を歪めて、何もかも止まった感覚の中であたしはただひとつ、全身を砕くような苦痛に溺れていた。

 がむしゃらに力を込めて、身体を前に押し出した。じっとりと浮かんだ脂汗が空気を吸い上げる。

 たった今通り過ぎた箇所が崩れ落ちる。七色の悪魔の手が、やすやすと大樹の幹をへし折ったのだ。

 木はまだ遠く、あの森まで繋がって支えられている。踏みしめる表皮には、未だ揺らがない生命の強さが感じられる。だが、あたしの心が折れるとき――全ては無に還る。

 もう一度、悪魔が攻撃を仕掛けてきたら、身を守るすべが、もう思い浮かばない。

 ――駄目。

 あと少し。あの街に帰るまで。

 手がすぐ背後に迫る。見えずとも、その感覚があった。あたしを捕まえて、それで終わる。

「力を貸して!」

 あたしは知らず、叫んでいた。

 誰に向けて?

 木はあたしを助けられない。それは、あたし自身の想像でしかないから。

 だというのに。

 確かにあたしの声に呼応して、何かが動いた。

 手が。七色の悪魔の手が、あたしに触れられず、風に吹き飛ばされるように遠く前方へ行ってしまう。それを追うように、周囲の七色すべてがあたしを追い越して、ものすごい勢いで先へ先へ向かっていく。

 すべてが、吸い込まれつつあるのだった。

 あたしの前方、あの森に向けて。

 それは人一人が走るスピードなど及びもつかず、とうとう七色の端っこまであたしを追い抜いていった。その後にはただ暗黒と、あたしの走る木の幹だけが残った。

 世界は閑散としてしまった。あの七色は、量ることのできないほどの密度で詰まっていたのだ。全から無という、あまりにも極端な変化を迎えてなお、あたしはただ走っている。その光景だけは変わりが無かった。

 どれほど走っただろう。やがて、眼前の森はその姿を見つけた時よりも遥かに大きくなって、足元に鮮やかな花畑が広がっているのも伺えた。

 あたしは花も知らない。それでも、ひときわ高く立ち並ぶ向日葵に胸を高鳴らせるほどには、自然に対して無関心ではないのだ。

 花畑に足を踏み入れたその時、あの七色が空中にわだかまっているのが目に入ってきた。ずいぶんと密度を疎らにしてしまっている。

 吸い上げられているのだ。だけれども悪魔は必死に抵抗して、しかしそれは無駄な足掻きだった。

 やがて、それは一点に収束して――ぱたん、と閉じられた本の中に消えた。

 それは、あの<アリス>が持っていた分厚い本だった。

 今、手にしているのは――あのアリスだった。小さなアリス。

「アリス!」

 金の髪はくしゃくしゃで、服もあちこち汚れていたりほつれていたり破けていたりして、ずいぶんと大変な冒険をしてきたようだった。

 背が少し伸びたようにも思える。

 あたしは思わずため息をついたけれど、それにどんな意味を込めていたのかは自分でもわからなかった。

「ユーカ、あなたって、本当にいじっぱりで、かたくなで……強いのね!」

 アリスはそう言って微笑んだ。褒められているのかどうか。しかしやっぱりあたしは思わず笑っていたから、好意的に受け取ることにした。

「その本は?」

 <アリス>たちはその本をさも大事そうに抱えていながら、誰一人それを開いて見せたことが無かった。アリスもやはり大切に胸に抱えて、それは大切なプレゼントのようにも見えた。

「悪魔から奪ってきたの。合わせ鏡の魔法の根源。全ての想像を叶える、究極の魔法」

 アリスはそれを手にするために冒険していたのだろうか。彼女はその力を持っていたけれど、本という形を得て、それはようやくアリスのものになったのだ。

 彼女の表情は笑顔に満ち満ちているというほどじゃないけれど、疲労に勝る満足感が浮かんでいた。

 本人は神妙にしているつもりなのだろう。

 あたしは世界を見渡した。

 音も光もなく、存在物たちはその姿を虚空に浮かび上がらせている。

 何もかもが通り過ぎた後で、美しく咲き誇る花々も、隆々とそびえる森も、生命の息吹を発してはいなかった。

 あたしは電撃が胸を打つままに振り返り、自分の走ってきた道を見た。花畑が暗黒を縁取っているその向こう側には根の一本も残っておらず、ぽっかりと虚無が口をあけているだけだった。

 ――こんなところでじっとしていたら、どんな欲望も枯れてしまうだろう。

 天国とはこういうところなのだと思った。

 あたしはきびすを返して、森に向けて歩みだした。

 鬱蒼と立ち並ぶ木々の狭間、その暗闇の中に――あたしが立っていた。

 傍らにはアリス。

 向こう側に見えるふたりの背後に広がるものは、花畑ではなかった。あたしたちの眼前にあるものと同じ、暗闇にそびえる森の姿。

 そしてその上。空は、虚ろな暗黒とは違う、藍色を映している。薄雲の向こうににじむ星の輝き。

 静かにたゆたう灰色の淵を、月光が黄金に染めていた。

 あたしはもう一度振り返る。

 花と暗闇。

 鏡が映すのは幻影に過ぎなかった。

 あるいはそれは、隣り合わせの現実か。

「……」

 沈黙。

 アリスが小さく呼吸をする音だけが聞こえた。

 見やれば、彼女はじっとあたしを見つめているのだ。見つめ返すあたしの視線とぴったり重なって、子供らしく揺らぎもしない。

 ああ。

 ――アリスの冒険は、もう終わったんだ。

 あたしをとっくに追い越して、彼女はその小さな望みを叶えたのだった。

 ならば、後は。

「アリス、その究極の魔法で、あたしを元の世界へ帰してくれる?」

 差し伸べた手を、アリスはしっかりと握り返してきた。

「ええ、もちろん」

 そして、鏡が割れる。



  ・



 その向こうに、また鏡があって。

 わたしたちはそれを割りながら、突き進んでいく。

 今や鏡が映すのは、わたしとユーカの姿だけで。虚像を退けるようにして、それらを打ち砕いていく。

 騒がしかった時間は過ぎて、もう何も起こらないことをわたしたちは知っている。

 だから、言葉も無い。

 ただ駆け抜けて、ゴールに飛び込むだけ。

 なのに、ユーカは時折後ろを気にしているみたいだった。

 見ないで欲しい。わたしはそう思うけれど。

 砕けた鏡が散らばったその光景はあまりにも綺麗で、天の川のようにさえ見えるだろう。

 それだから、わたしは見ないのだ。

 鏡の破片はひとつひとつ、別のものを映している。それは、暗闇の中に幻覚を見せるのだ。作り物の風景が映った破片を、別の破片が映し出して。

 あやまちの破片が連なって、一体となって作られる景色は、きっと人の心を簡単に掴んでしまうだろう。

 そして、そのひとつひとつが、それぞれ違った可能性を持った魔法の具現だと気づいてしまったら。ユーカは足を止めてしまうかもしれない。

 ――まさか。ユーカに限って、そんなことないわ。

 わたしの心の中でも対立が始まってしまって、もしかしたらそこから悪魔が現れるかもしれない。

 ぎゅ、っと。ユーカの手を強く握ったけれど、それは強く握り返されることなく、どこか虚ろだった。

 もう、もはや、語る言葉も無いほどに、鏡の道は終わりに近づいているのに。

 一枚、また一枚。

 鏡は向こうからやってきては、割れ散って通り過ぎていく。

 それが、ユーカの心が止まっていない証明だった。彼女の魔法が続いている証拠だった。

 ちらりと隣を見やると、ユーカはしっかり前を見据えていた。

 わたしは安堵の息を漏らしてしまわないよう、少し顔をこわばらせた。

 いったいわたしたちの来た道には、どれほどの鏡の破片が連なっていることだろう。

 そしてそれらは、どんな色を映しているだろう。

 わたしはもう一度それを意識したけれど、決して振り返らない。

 次の鏡を割ったとき、あらゆるものが一度に来た。

 わたしたちは空からやってきた。眼下には、灯りのともった建物が所狭しと立ち並ぶ、街。

 天井は星も見えないほどの薄暗闇だというのに、わたしには想像もつかないほど多くの人たちが生きていて、起きている。

 土のにおいがしない街は、どこもかしこもつるんとした石でできていて。

 それは、天地をひっくり返して騒いでいるようにさえ見えた。

 ああ、これが。

 ユーカの帰りたかった現実だった。

 わたしたちはゆっくりと地面に降り立った。初めて訪れたときと同じ、様々なものの混ざったにおいがして、それがどこか懐かしかった。

 ユーカは静かな笑みを浮かべていた。

 これから辛いことが起ころうと、たとえ報われない結末を迎えようと、ここで生きる――そう願ったユーカの魔法が、今終わるのだ。

 そして、わたしの冒険も、ここまでだ。

 ユーカと目が合った。

 彼女は言う。

「結構。じゃあ、帰りなさい。あなたはあなたの世界へ」

「帰らないわ」

 わたしは繋いだ手を解いて、きっぱりとそう答えた。

「帰るつもりはないの」

 ――わたしも、ここで生きるんだ。そう決めた。

 その時、ふと視線を感じ、わたしは反射的に顔をそちらに向けた。

 鏡があった。

 わたしとユーカと、その周囲の街並みを映している。

 ユーカが、そこに立つ彼女自身に近づいていこうとする。

「……駄目よ!」

 わたしは手を伸ばして、それを止めようと駆け出した。

 それをしては。

 その鏡に触れてしまっては。

「わたしは、そんなこと望んでないのに!」

 足が進んでいかない。ユーカに追いつけない。まるで水の中を走ろうとしているかのように。

 鏡がひときわ強く反射して、わたしの視界からその映像を隠してしまう。

 だからわたしは。

 その瞬間のユーカがどんな顔をしていたのか、見ることができなかった。



  ・



 伸ばした手は。

 どこにも届かなかった。

 わたしはただ、決壊した地面から奈落へと落ちていく。

 街が、離れていく。

 ユーカが、遠くなっていく。

 そして――全て、割れてしまった。

 何もかも、見えないくらい小さな破片になって、消えてしまう。

 わたしはユーカの姿を目に焼き付けた。

 決して、絶対に、忘れないように。

 それは、笑顔だった。

 百合のように無垢で、桜のように美しく、スミレのようにつつましく、向日葵のように咲き誇った、笑顔。

 それは、もう。

 割れてしまった鏡には決して映らない、消えてしまった幻想。

 水の抜けた池。

 損ねてしまった絵画。

 仰向けに落ちていくわたしは、いくつもの鏡を割り、破片を取り残していく。

 それは何かを映し出している。だけれど、小さすぎて何だかわからない。

 破片がいくつ並んでも、映るものはばらばらで、ひとつに結ばれたりなんかしない。

 簡単なことだった。

 いつの間にか、わたしの手にあった本が開いていた。そこには虹色を描いたページが何枚も束ねられていたはずだけれど、今はただ、真っ黒な紙が一枚一枚剥がれ落ちていくだけなのだった。

 一枚、いちまい、鏡が割れて。

 一枚、いちまい、本が破れて。

 ああ、なくなっていく。

 わたしは何もかも追い抜かして落ちていく。

 すべて終わっていく。

 とっくに枯れていたようで、でもまだ残っていたわずかな言葉も、浮かばない。

 何かこぼれ出るようなものはないかな、と思ったとき、目頭が熱くなった。

 次の瞬間。鏡の破片とは違うきらめきが、上へと落ちていった。わたしはそれとは逆方向に、ただひたすら落ちていく。

 ああ、そして。

 その瞬間が来る予感が全身を駆け巡って――。



  ・



 ぱりん、どすん。

 そうして。

 撒き散らされた鏡の破片に囲まれて、わたしは座っていた。

 ふくろうが鳴いている。

 森が叫んでいる。

 それを塗りつぶすようにして、誰かが走っている音が響き渡る。

 前を見ても、後ろを見ても。

 わたしは自分の姿を見られない。

 ぼんやりとした暗闇に目が追いつかなくて、ただ不明瞭な世界をきょろきょろと見渡していた。

 そして、ああ。

 奇跡も魔法も失ってしまった。

 何を想像しても叶わない、枯渇してしまったような世界で。

 わたしはどうしよう。

 ――本を書こう。

 意外にも、答えはすぐに浮かんだ。



(了)
のらなのに
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/06 17:24:30
更新日時:
2010/11/06 17:24:30
評価:
12/12
POINT:
55
1. 3 パレット ■2010/11/20 00:11:30
 うががががが……すみません、なんだかちょっとよくわからなかったので、雰囲気だけ楽しませていただきました。雰囲気。雰囲気はなんかすごい出てたんですが、具体的にどんな話だったのかがよくわからん……。
2. 1 もみあげ ■2010/11/26 12:20:51
映像にしたい感じ。
3. 3 asp ■2010/11/29 10:58:46
 なんだか壮大なストーリーの導入部とクライマックスだけ見たような読後感でした。話に入り込む前に置いて行かれてしまったような。設定や収束の仕方は非常にいいですね、ラストシーンも印象的です。もう100kbくらい細かく世界やストーリーを読んでいたかったなあ……というのはわがままでしょうか。
4. 7 yunta ■2010/11/30 22:17:46
執筆お疲れ様でした!

絵本のような情景が浮かぶ作品ですね。
東方分は少ないんですが、雰囲気はとても良かったです。文章が詩的ですね。
5. 7 TUNA ■2010/12/09 19:05:32
この幽香は好きです。
ちょっと漠然とした話にも感じましたが、これはこれでありですね。
ミヒャエル=エンデの「鏡の中の鏡」や村上春樹のどこか透明な世界を彷彿とさせる作でした。
面白かったです。
6. 5 deso ■2010/12/11 20:25:18
うーん、難しい。
判断に困るお話でした。
絵本のような始まりと終わり。
しかし、東方SSなのかというと、どうなんだろう。
この話のアリスと幽香は、東方キャラの彼女らではなくて、ごくありふれた、どこにでもいる女の子なのでしょう。
もしこの話から東方を見出すとすれば、彼女らが切り捨てたもの、捨てざるをえなかったもの、そういう可能性の中なのかな、と思いました。
7. 8 Admiral ■2010/12/11 20:27:37
なんて不思議なお話…色々考えさせられますね。
結構な長さにも関わらすお話に引き込まれてしまいました。
少し意外な幽香のキャラクターに驚かされながらも、楽しく読ませていただき

ました。
アリスと幽香の視点変更も、ストーリーを効果的に表現していますね〜^^

最後に幽香はどうなってしまったんでしょう?
このお話が我々のよく知る幽香の誕生秘話、と言ったところでしょうか?
気になります!
うーむ、これはまだまだ伸び代がありそうな題材だと思います。
ぜひ続きが読んでみたい、と思わせるお話で
8. 7 八重結界 ■2010/12/11 20:28:22
絵本のようで絵本じゃない。例えるなら哲学の入門書を読んでいるような感じでした。
最後の終わり方は綺麗でとても好きです。
9. -3 ニャーン ■2010/12/11 20:57:53
(悪い意味で)カオスな作品でした。
日本語がひどいわけではないのですが、語られていることが抽象的すぎて、
光景はイメージできるのに、何が起こっているのかよくわからない。
『鏡の国のアリス』を下敷きにした作品なのでしょうか。読んでいれば理解できたのでしょうか。
10. 6 gene ■2010/12/11 21:01:25
これも改行に失敗したっぽいですね。。
自然に、ありのままでありたい。そんなメッセージなのでしょうか。
まるで童話みたいでした。鏡の国のアリス?
これも読み取ろうとするより雰囲気小説なのかなぁ。でも何かしらテーマらしきものが横たわっている気はしますが……。
11. 5 兵庫県民 ■2010/12/11 21:55:19
着想元は鏡の国のアリス…かな?
だとしたら、原典を読んだことのない私を大いに呪いたくなる。
そうでなかったとしても、自分には難解すぎて得点はこれ位で。
12. 6 文鎮 ■2010/12/11 22:55:55
まさに鏡の国のアリス、というおとぎ話のような印象の作品でした。
アリスがどんな冒険をして幽香のところへたどり着いたかも読んでみたかったです。
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