水月

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 21:27:29 更新日時: 2010/11/06 21:27:30 評価: 21/22 POINT: 100
 昔の事である。
 まだ、大和の神々が正史を持たなかった頃、人為の条坊で編んだささやかな籠目の外では、異形の神々が跋扈していた昔の事である。
 一人の男が、夜の山を徘徊していた。といっても、男は狩人でも木樵でもない。衣服も頭髪も乱れるに任せ、持斎のような態[なり]をしてはいたが、かつては都でことごとしい官姓[つかさかばね]を背負っていた、権門の貴族である。
 それがどうしてそのように山中をうろついているのかというと、きっかけは他愛も無い醜聞事件である。三年ばかり前、男はどこぞの美女に入れ揚げ、家財を傾けて貢物を贈った挙句にすげなく袖にされた。その事は、一時[いっとき]口さがない都雀達の嘲弄の種となり、やがて忘れられた。結局その女は、ある時ふいと姿を消した。天に昇ったとも、海の向こうに渡ったとも噂され、勝手気儘な憶測が、荒れた屋敷に引き籠って落魄の日々を送っていた男の耳にまで伝わってきた。
 ある夜男がふと見上げると、空に月が懸っていた。真ん丸な、黄銅色をした、鏡のような月だった。男は、月の方へと歩き出していた。
 行けども行けども月には追いつけない。嫌になって月から離れようとすると、今度は月の側から追いかけてきて、どうにも逃げられない。後ろに行ってもどこまでも追いすがってくるし、横へ行ってもぴたりとついてくる。やがて月の方で傾いて沈むまで、そんなことが延々続く。そうして歩き回る内、気がつけば人家は絶え、周囲は雑木や藪が鬱勃と茂るばかりになっていた。
 人が居なければ静かかというとそんなことはなく、夜になるといつも獣の咆え猛る声が聞こえてきたし、木々の枝葉は少しの風にも一々喧しく騒いだ。人の喧騒が無いだけに、そうした物音が余計に耳に障った。それでも、そこには男を嘲る者は無いし、思いを懸けた女の居ない都に未練も無かったから、男はそのまま、そこで野垂れ死ぬつもりだった。そのくせ男の肉体は、実りの時季であったを幸い、一度爪跡程に細った月が再び丸い形を取り戻したこの夜まで、意地汚く生の僥倖を偸んでいた。
 今、男は渇きを癒すため、近くの水場に降りている最中である。月が中天に懸ろうという頃、清冽な水をたたえた湖に出た。平らかな水面が、湖畔の木立の影を映し出している。水を掌に掬うため、水面の上に身を乗り出した。
 そこには、女がいた。
 あの、男が懸想した、美しい女がいた。
 男は周章[あわて]て振り返った。振り返った先に女は居なかった。次に自分の、無精髭が垢を掻き分けて疎らに生えている頬に、手をやってみた。水面の女の手はぴくりとも動かなかった。
 葉叢の具合でこんな影も差すのかと、元来た方へと引き返し、湖岸の別の場所に出てきてみた。だが、そこにも待ち構えていたかのように女の姿があった。汀に沿って歩くと、女も寄り添うようにしてついてくる。まるで月のようだと思った。
 見間違いや陰影の加減といった現実味のある考えが悉く否定され、改めて水面を凝視した。
 丁度水底の方から水面へ鏡を差し出したような円形の像が結ばれ、その中に女の姿が映っている。女は心持ち顔を伏せ、物憂げに脇息に寄りかかったしどけない横姿をこちらへ見せている。周りは暗くて判然としないが、室内であることくらいは見分かった。側に余人は無い。
 月明かりのためか、女も暗がりの中に居る筈なのに、その姿はいやに清かに見える。黒髪の上をすべる艶も、眼を縁取る睫毛までも、細やかにくっきりと見て取ることができた。
 実のところ、女の姿を目にしたことはただの一度、それも衝立の隙間からちらりと垣間見えただけである。無論、女の面差しなど、ただこの世のものとも思えず美しかったとばかりにしか覚えていない。にもかかわらず、この水面に映る姿は、紛れ無くその女のものだと断ずることができた。
 気がつけば、普段騒がしくて仕方無い獣の遠吠えや葉擦れのざわめきが、今は聞こえない。まるで、森羅の全てが女を畏怖し、息を殺して額づいているように思われた。
「もし――」
 呼びかけの声がたった一言、喉に絡みながらもかろうじて出た。だが応[いら]えは無い。水の中では外の声は聞こえないから、応えが無いのも道理と、妙な事を考えた。
 招く手振りをしてみたり、無駄と知りつつ再び呼びかけてみたり、色々に女を振り向かせる手立てを試みたが、女がこちらを向く気配はまるで無い。果ても無いような静けさの中で、男の徒労ばかりが続いた。
 静寂が、耳から忍び込んできて、男の正気を浸蝕し始めた。そもそも、こんなものが見えていること自体、己の狂気の産物なのかもしれないという考えが、今更ながらちらりと脳裡を掠めた。
 その時、今まで俯きがちに向こうを向いていた女が、顔を上げ、こちらを見遣った。そればかりか、男の側へとにじり寄り、真面に顔を寄せてきた。
 かつて焦がれた女の面が、今、男の間近くにある。眼差しを確と男の眼に合わせ、じっと見つめてくる。
 女が、両の腕を差し出した。指先が、かろうじて水面に触れるばかりの所にある。その仕草が、男を魅惑し、誘っているようにも見えた。男の懸想を受け入れ、優しく抱きとめようとしているようにも見えた。救いを求めて、すがる先を探しているようにも見えた。
 唇が微かに動いた。その動きが発した言葉を理解した時、男の耳は、聞いたことのない女の声をはっきりと聞いた。
 ――月は嫌だわ。逃げられないもの。
「姫、姫君!」
 男は、声を限りに叫んだ。だが、呼べど叫べど、その声が届きはしない。水に手を差し入れてばしゃばしゃと水を掻いたが、そんな足掻きが功を奏する由も無い。
 とにかく、その手を取らなくてはならないと思った。両腕を突き出した。女の手には届かない。腕の節も指の節も、伸ばせるだけ伸ばしきった。それでもなお、女の指に触れるには足りない。全身を、女の許へと寄せた。やっと女の指先に触れ得た。次の瞬間、指と言わず手と言わず、男の全身が、女を映した水面に叩きつけられた。
 男の体は大仰な波柱を立てて水面を乱し、美しい女の顔を惨々に潰した。そのまま黒い水に沈み、程無く見えなくなった。
 波が静まると、水面は再び鏡のような平らかさを取り戻し、空に懸る黄銅色の月を映した。辺りは、何事も無かったように静まり返っていた。
「あーっはっはっは、大成功!」
「ほんと。夜にまでがんばった甲斐があったわね」
「ね、言った通りでしょ? 男の人はきれいな女の人に弱いのよ、って」
 静寂を叩き割って、三つの幼い声が、夜闇に似つかわしからぬ明朗さで響いた。人形程の童女が三人、今まで暗闇であったところから出てきた。黒ばかりだった中に、鮮やかな彩がともった。彼女らの内、ある者は山中に隠棲する姫君の鏡から光を拝借した自分の能力を讃え、またある者は、それを補助した自分の功を誇った。そうしててんでに今晩の悪戯の中で自分が立てた手柄を自賛しながら、透き通った羽を揺らめかせて消えていった。
 昔の山の中では、屡々こんな不思議に出くわしたものである。
 お読みいただき、誠にありがとうございます。
 種明かしがうまく伝わっているとよいのですが……。
mizu
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投稿日時:
2010/11/06 21:27:29
更新日時:
2010/11/06 21:27:30
評価:
21/22
POINT:
100
1. 7 ■2010/11/07 13:12:32
きちんとした妖怪譚に、東方のキャラの居場所が確かにあるということを確かめられると嬉しくなりますね。
この落ちのためにここまでかっちりした文章を書いたのかと思うとなんかそれだけで笑えてきますw
2. 6 ななしの文字読み ■2010/11/17 01:26:55
妖精たちの残酷な無邪気さが怖いですね。
でも男が死んでなければ心には残らなかったかも。
3. 2 パレット ■2010/11/20 00:23:24
 文章とオチの落差がいい感じでしたw
4. 5 asp ■2010/11/29 11:00:49
 ちょっと堅めの文体がいいですね。淡々としていて難しく捻らないストーリーも、オチの無邪気な残酷さが際だっていいと思います。やはりこの短さも作者様のこだわりなんでしょうか。
5. 7 みなも ■2010/11/30 17:04:18
オチがかんけつでよいですね。
ナイスホラーなのでしょうか?
6. 9 yunta ■2010/11/30 22:21:27
執筆お疲れ様でした!

短い話ながらも、二転ほどして見事に落ちた話だと思います。
文章も読んでいて面白かったし、一気に東方の世界へと引き込むオチも良かったです。
しかし、昔は彼女らも和服などを着ていたのだろうか。読んでいて思い浮かんだのは洋服の姿でしたが……。
7. 2 とんじる ■2010/12/02 14:38:27
 うーん、何となくよくわからない話、という印象のまま終わってしまった。
 オチは、ただ単にサニーの仕業でしたー、でいいんでしょうか。
8. 4 ケンロク ■2010/12/07 14:02:35
たぶんちゃんと伝わってます。たぶん……。
姫は輝夜でいいんですかね。妖精って長生きだなー
9. 7 fish ■2010/12/09 08:14:27
しっくり来ました。
10. 3 NT○ ■2010/12/09 18:58:01
古語調の文章が面白いですね。
でももう少し長く読みたかったかも……。
11. 7 PNS ■2010/12/09 21:45:56
こ、この三人全然変わってない!w
それはともかく、いい味わいの作品でしたー。
12. 3 藤村・リー ■2010/12/09 22:50:39
 最後に出てきたのは、三月精? なのかな。
13. 4 Admiral ■2010/12/11 20:28:15
なんと恐ろしい…。
こういう事もあるのかも知れない、と思わせるお話でした。
14. 2 八重結界 ■2010/12/11 20:29:26
文章の硬さと物語の濃さが合っていないような気も。
15. 6 deso ■2010/12/11 20:30:21
三妖精の悪戯になら、いくらでも引っかかりたいです。
16. 4 木村圭 ■2010/12/11 20:31:18
妖精の悪戯で人が死んでも博麗の巫女様は放置なのかしら、と思ったり思わなかったり(作中の時代にそんなもん居やしないでしょうが)。
つーかこいつら一体何年生きて……妖精の生態はホントよく分からないですねぇ。
17. 1 ニャーン ■2010/12/11 20:55:54
分かりませんでした。……残念です。
18. 3 gene ■2010/12/11 21:12:43
最後で三月精の仕業と解りましたが、それまでの風景が描写からイメージしづらかったです。
そこには女がいた、とあるのに何故か振り返り、影であったと後で気付かされたり。
情景がぱっと浮かぶような文章で読んでみたかったです。
19. 5 如月日向 ■2010/12/11 21:47:38
サニーにはこういう使い方もあるんだ!?
20. 6 兵庫県民 ■2010/12/11 22:03:29
三月精の悪戯だったのかwww
21. 7 文鎮 ■2010/12/11 23:06:04
李白しかり、美しいものに惑わされて水面へ落ちる者は古来から多いですね。
少々えげつないことをやる三月精も妖精らしいといいますか。
伝奇小説的な雰囲気が出てて良かったです。
22. フリーレス 774 ■2017/01/07 13:33:38
いいね、あっさりしているのにも関わらず、物足りなさを感じない
堅い文章からのあのオチ
雰囲気も出ていた、心理描写が上手いのでしょう
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