Miss Understanding

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 23:37:56 更新日時: 2010/11/06 23:37:56 評価: 13/13 POINT: 88
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 あなたは古明地さとりですか?
 それとも古明地こいしですか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 わたしはわたしであるという夢を見た。わたしは世界であり、世界はわたしである。しかし、わたしは世界の全てでないことを知っている。古明地こいしがいるからだ。
 わたしは布団から抜け出し、床に散らかった二人分の服からわたしの下着だけをつかんで身につける。小さくため息をつき、ベッドに残る人型の膨らみを見る。まるでミイラのように眠るそれ、つまりこいしは、くっきりとした体のラインを薄いシーツに浮かび上がらせている。わたしより少しだけ膨らんだ胸、少しだけ長い四肢を、わたしはそこからいともたやすく再現することができる。当然のことだ。
 汗を沢山かいたから、風呂に入らなければならない。地霊殿は今や、いつでも風呂に入るだけの湯があるからわたしはタオルを用意するだけで良かった。
 脱衣室に入り、先客があることを知ったけれど、特に頓着することはなかった。放し飼いにしているペットの一人だと分かったからだ。わたしは下着を脱ぎ、タオルをきつく巻きつけると、湯気立つ温泉に足を向ける。彼女はおそらく地上人から学習したと思われる歌を歌いながら、くつろぎの気持ちを放射していた。わたしは多分、彼女の気持ちをかき乱すと承知していたが、やはり風呂に入るべきであった。こいしの匂いを全身につけたままにしておくより、洗い流したほうが一日を過ごしやすいと判断したからだ。
 わたしは無言のままで湯に浸かる。すると少し離れたところにいる彼女、お燐がそのことに気付き、そろりと近づいてきた。彼女はわたしがさとりであることを望んでいた。そして絶対、こいしであって欲しくないと考えていた。
「わたしですよ」後者の思考を削ぎ落としたいから、わたしは敢えて声をかけて、お燐を誘った。「昨夜は地上に出て屍体集めですか?」
 心を読むまでもなく、お燐が苦手な風呂に入るとは概ねそういうことだった。彼女はさとり様と心の中で呼び、その喜びを強く放射していた。彼女に好かれることをありがたいと思う反面、嫌がる行為にわたしが手を染めているということ、近づかれればそれが分かることには、少量の申し訳なさを覚えた。
「さとり様」心の声が聞こえていると分かっているはずなのに、お燐はわたしの名前を呼び、身を寄せてきた。「さとり様は、今日も朝風呂ですか?」
 いつものアレではありませんように。お燐はわたしに気持ちを隠したりしなかった。一人前の分別と知性を身につけても、そうでなかった頃と同じように、お燐はわたしに包み隠さない。だから次に顕れた失望も等しくわたしに放射される。
 どうしてこいし様はいつもさとり様にひどいことをするの? 綺麗な体にいくつも痣がついて、きっとタオルの中はもっと酷い傷で一杯なんだ。さとり様は誰にでも優しいのに。こいし様はどうして酷いことをするの? 心が読めないから嫉妬してるんだきっとさとり様はそのことを知っているからこいし様の暴力を我慢しているんだでも嫌だ大好きなさとり様が傷つくなんて嫌だこんなことをするこいし様は嫌いーー。
「お燐」わたしは彼女の心を諫めるため、ペットを厳しく躾るときの声を発する。かつての習慣でお燐はすっかり萎縮し、まだ知性がなかった頃に、一時的に戻っていく。「お願いだから、こいしを悪く思わないで頂戴。わたしが嫌いでしていることではないのだから」
「でも、だって……」お燐の中にはこのことを見過ごしていることへの罪悪感が募り切っている。最初の頃はわたしもそんなお燐に絆されかけたけれど、今はもう慣れた。「あたい、さとり様にそんなことをしたいなんて思わないのに」
 わたしはお燐がお空にしていることを指摘したかったけれど、すぐに考え直して穏当なものに留めた。
「愛の形は、いくつもあるの。もちろん、お燐がお空に向ける健全な想いは、誰からも賞賛されて然るべきよ。ただ、わたしとこいしの間にも愛はあるの。それを否定されるのは、少しだけ悲しいわ」
 お燐は無機質な屍体を集める癖に情が深いから、わたしが弱そうなところを見せると沈黙し、逆らわない。お燐もお空よりはずっと頭が良いけれど、わたしからすれば五十歩百歩だ。事実、お燐は何十回も同じことを繰り返し、同じように諭されたことを、最新の数回を残してすっかり忘れている。心を読めるわたしにはそれが分かる。
「わたしはこいしを愛しているし、こいしもわたしを愛しているのよ」
 これだけが、いつまでも掛け値のない真実である。わたしはこいしを愛している。否、わたしはこいししか愛することができない。地霊殿に放し飼いしたペットたちのことは可愛いし、慕ってくれれば情を感じる。それでも、わたしの愛しているものがこいしだけであるという事実は変わらない。
 わたしはそのことをお燐にも、他のペットにも話したことはない。彼女たちを悲しませるだけであるし、そのようなものを毎日放射されては正直たまったものではないからだ。
 やれやれ、わたしは本当にどうしようもない。自覚はあるけれど、これがさとりという妖怪なのだから。否、古明地さとりなのだから、他に仕様がない。わたしにできることと言えば、お燐を抱き寄せて、耳元に心ない欲情を述べたてることだけだ。これもお燐が、情を発する時期に来ていると分かっているからするのだ。そういう時期に来た妖怪は無闇にはしゃぎ、凶暴性を容赦なく露わにすることがあるからだ。
「わたしは汚れた体をして、お燐の綺麗な肌には叶うべくもないわ。それでも、わたしを抱いてくれる?」
 お燐は無言でわたしの唇を奪い、タオルを剥いで身を押しつけてくる。きめ細やかな愛撫を受け、わたしの体は反応するけれど、感じはしない。わたしが感じるのはこいしとしている時だけだ。
 
 
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 あなたが目覚めると最愛のおねえちゃんはもういなくて、それはとても悲しいことだと感じる。何故ならば、あなたはぼろぼろに疲れながらも満たされて眠るおねえちゃんを眺めるのが好きだからだ。あなたは床に散らばる服からおねえちゃんの行方を推測し、シーツにくるまって帰還を待つ。
 おねえちゃんはあなたが考えていたよりも随分と遅く帰って来る。そのことが許せなくて痣を一つ増やそうと考えたけれど、すぐに思い留まる。新たな情交の匂いを感じたからだ。満たされない情交の香りはあなたの心を満足させる。おねえちゃんを満たすことができるのは唯一、自分だけだという自負が高まり、それは華やかな笑顔に出で現れる。
「おねえちゃんのえっち。きのう、わたしとさんざんしたのに、まだしたりないんだ」
 あなたはわざと舌足らずな声を出す。羞恥心を煽りたかったからだ。だが、あなたのおねえちゃんは、顔色一つ変えない。
「義務ですもの」あなたのおねえちゃんはこいしの前で羞恥することなく服を着る。するすると第三の眼が、まるで生き物のようにまとわりつき、あるべき所にぴたりと収まる。「こいしも早く、身支度を整えなさい」
「今日はどこへも出かけるつもりじゃなかったもん。わたし、まだ足りない。わたし、お姉ちゃんがもっと欲しい」
 あなたの嘘を、おねえちゃんは心も読めないのにきちんと把握して、シーツを強引に引き剥がす。流石に少し冷たい気がして、あなたはぷうと頬を膨らませる。
「お姉ちゃん、きらい!」
 するとあなたのおねえちゃんは、当然のように言った。
「こいしがわたしのことを嫌いになるわけないわ。わたしがこいしのことを嫌いになるわけないのと同じくらい」
「よく言うわ。おねえちゃんはわたしの心、読めないくせに」
 そう言ったけれど、あなたの不機嫌は既に払われている。おねえちゃんが投げて寄越した新しい下着を身につけ、ひょいと立ち上がる。床に落ちている服と閉じた瞳を回収して、部屋を出る。
「もしかして、本当に怒ってる?」
 起伏を殺した、僅かに滲む生のままの動揺に、あなたは浮かれながらも冷静に答える。
「今日の夜も、おねえちゃんの部屋に行くから」
 これがあなたの答えで、おねえちゃんがどのような顔をしているかは振り返らなくても大体分かった。このようなことを既に長い間、繰り返してきたからだ。お互いの気持ちが変わったことなんて、一度もない。
 だからあなたは既に、今日はどこへ出かけようかと考えている。そしてすぐ、からかい甲斐のある妹妖怪の住む館に向かうと決めた。自室で新しい服を着て、手動でコードを絡ませると、あなたは誰にも告げずに地霊殿を出る。
 
 
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 昼夜を判別できない地底では、いつ起きていつ寝ても良い。わたしがそれでも多くの地上人と同じ昼型の生活をするのは最近になって、地上からの訪問者が俄に増えたからだ。定期的に訪れるのは二、三人程度、あとは封じられた地底の妖怪すらも怖れるさとりがいかなるものか、肝試しのようにやってくるものたちが少々だ。
 わたしに地上の人間や妖怪たちを待ち受ける必要はない。やることがないよりはあったほうが良い、それだけのことだ。地霊殿の管理は長らくわたしのペットたちが行っており、わたしは読書と飲茶以外にすることがない。後者は必要性のない行為だけれど、物理的な食事をしないとペットたちが心配する。そうした思考の放射を受けるのは鬱陶しい。茶が美味しいと感じる舌を持っているのも理由の一つに付け加えて良いかもしれない。ただしわたしが元来する食事は、舌で味わうものではないから、どうして舌の機能があるかは謎だ。さとりは人間を脅かすことで糧とするから、そのためにできるだけ人間と同じ感覚を取得しているのかもしれない。もちろんこれはわたしの仮説でしかない。
 さとりの食事は心でする。ただし食べなければ飢えるということもない。美味しいからする、それだけのことだ。あるいはただ単に、能力の再確認、ないし微調整。そうでなければわたしはともかく、こいしはとっくの昔に飢えて死んでいただろう。いかに新しい能力を獲得したとしても、こいしはさとりでしかない。人間が決して蠅のように糞便を食することのできないのと同じ理屈だ。
 さとりの食事ができないという点において、こいしは可哀想だ。わたしのように美味しい心があることを知ることができないからだ。かつては知っていたのかもしれないが、こいしは覚えていないし、わたしもさとりであった頃のこいしを覚えていない。妖怪は長生だが、忘却しないわけではない。否、最も大事な記憶さえ容赦なく抜け落ちることがあるのだから、人間のそれより遙かに怖ろしい現象かもしれない。
 こいしがさとりであった頃、わたしたちの関係がどうだったのかも、当然ながら覚えていない。おそらくお互いを完璧に理解し合い、深く愛し合っていたのだろう。否、この推測は感傷に過ぎないし、こいしがさとりでなくなったならば、陰惨な出来事があったと考えるのが自然だ。
 わたしはそう結論付け、不完全な一つの愛を嘆く。否、これもただ、感傷に過ぎない。
 思索を終了する。時間が過ぎる。お空がふらふらと、わたしの元に近付いてくる。三本足の鴉は、まるで何か考えているかのようにぼんやりとしていた。彼女の中には妄らな情熱と、欲望に昇華された嗜虐への憧憬があり、わたしが観察している間にもぽろぽろと抜け落ちていた。彼女がお燐の、欲望の捌け口にされたことは明白だった。
 お燐がお空に様々な欲求をぶつけるのは、これが初めてではない。何故、お燐がそんなことをするかと言えば、お空がすぐに忘れてしまうからだ。こいしがわたしを傷つけるよう、わたしがお燐を傷つけるよう、お燐もまたお空を傷つける。どんなに酷くされてもすぐに忘れるお空は、この地霊殿で唯一、無邪気で明るく暮らしている。あるいはお空の無意識な忘却がこいしに繋がり、傷つけているのかもしれない。互いの尾を食らう。残酷なのに何と喜劇的なことだろう。
 これはわたしの希望に過ぎない。意識と無意識が円環し、新たな意識と無意識を生む。そのヴィジョンはとても美しい。その美のため、お空の純真を生贄に捧げているとしたら悲しいことだ。かといって、手を差し伸べる気にはならない。美は悲しみに勝るべきだからだ。否、純粋な悲しみこそ最も気高い美を生むと考えるべきだ。その中にいれば、汚らしいだけのわたしも、美しくいられるからだ。
「あ、さとりさまだ」お空は虚脱状態から抜け出し、わたしの元に駆け寄ってくる。その心中はわたしへの思慕で満ちていた。「さとりさま、今日もお勉強ですか? えらいなあ」
「本を広げてぼんやりとしているだけよ。それより仕事は良いの?」
 お空はかねてより灼熱地獄跡に住まい、管理のごく一端を担っていたが、山の傍迷惑な神が八咫烏という神格を与え、その結果としてお空は巨大な動力の担い手となった。今は山の神から定期的に燃料を与えられ、その代わりに太陽の力を必要とする実験を手伝っている。今日もその予定がいくつか入っていたはずだ。
「そうだったっけ、ええと」お空は右手を開き、それから慌てた顔で頭を下げた。「ごめんなさい、今日は用事がある日だった」
 お空は手に書かれた文字が余りにも新しいことに気付いていない。愚かなものは知恵のあるものに利用される。救いがあるとしたら、お燐は普段、お空のことを大切に考えている。そのためにかつて、お燐は危険を賭してまで、地上に怨霊を噴き上がらせた。お燐は猫だから気紛れだけど、情が深く優しい妖怪だ。
 ただわたしを想うときだけ、その優しさは弾ける。わたしが感じた振りしかしないのをお燐は見抜いていたから、お空に八つ当たりした。
 悲しいけれど、どうしようもないし、それだけのことだ。

 お空と入れ違いになるよう、お邪魔しますとも言わずに、不躾な来客が現れた。新しい定期訪問者の一人、霧雨魔理沙だ。彼女は「よお」と言いながら手を上げて軽い挨拶をする。わたしは黙って頷き、それから手を差し出した。
「持ってきたんでしょ? 寄越しなさい」
「そんなに先々、心を読んで、余裕のない奴だな」
「要点も得ず、ぺらぺら話すような人間の相手は面倒なだけよ」
 魔理沙は同業者の入れ知恵で、口と心の両方で一気に喋ってわたしの読心を減じようとする。浅墓だけど、能力を使うときにより集中する必要が出てくるので微妙に鬱陶しいのだ。
「ぶうぶう」魔理沙は豚のように不平を表し、素っ気なく差し出した。それは白が目立つ文庫サイズの小説だった。「まあ良いや。こいつは最近、流れてきたのを霖之助の店で買ったんだが、実にえぐい代物だったぜ」
 それが本当であることは、魔理沙の内心に潜む強い嫌悪感から理解できた。その奥に潜む御馳走も、今回は実に上質だった。小説は可憐な孤児の少女を家族ぐるみで閉じ込め、虐待し尽くして最後には殺してしまうという、魔理沙が言うよう実にえぐい内容である。その舞台となる地下室は密かに、同じような部屋の地下室に繋がっている。そこで魔理沙は手足を縛られ、苦しい姿勢で固定されている。そんな魔理沙の向かいには金髪の可憐な少女が立ち、責め苛むような蔑みの顔を隠していない。半裸にぼろぼろの布切れだけの魔理沙を、金髪の少女は容赦なく虐待する。平手で叩き、痣がつくように拳で殴る。
「でも、こんな小説読んで楽しいのか?」
「ええ、楽しいわ」わたしは美味しいと言いかけ、慌てて言葉を質す。「苦難を与えられた人間がどう考えて行動するかを研究するのに、怪奇小説ほど良い再現物はないわ。ここには心理学関係の書籍はいくらでもあるけれど、通俗小説の類は殆どないから」
 二割ほどは真実だけど、八割は違う。わたしは二度目の訪問で、魔理沙の深奥に眠る願望を探り当てた。だから地上にある怪奇小説を、わたしに届けさせている。わたしが読むためではなく、魔理沙に読ませるためだ。
 魔理沙は気持ちが良いほど明るくて、裏表が少ない。時にひねくれた発言をするけれど、それは周りの人間や妖怪がそうしているから、合わせなければいけないと考えてキャラクターを作り、着ているだけだ。普通であることを自他称し、そのことを当然のように受け止めている。自尊心が強い人間にしては珍しいと考えたからこそ、わたしは魔理沙に気付かれぬよう、じっくりと覗いたのだ。時間が経っていたから催眠術はかなりの部分まで解けていたけれど、それができる程には効力が残っていた。
「流石はさとり様、趣味が悪いことで」揶揄の言葉と冷たい視線を、わたしは辛うじて聞き流しながら、食事を続ける。「それでは、わたしの用件も聞いてもらうぞ。心を読めるのだから、わたしが何を欲しいか分かっているよな?」
 一つ、魔理沙は恋をしている。彼女は地底探索の際、力を貸与した妖怪に懸想していた。恋の成就をひたすらに願っていた。それだけならば、乙女らしいと笑うだけで済んだだろう。だが、魔理沙の眠らせている本当の願望がそれを留めた。
 二つ、魔理沙は恋する相手に傷つけられたいと欲望していた。鉄面皮のような蔑みの表情を美しいと感じ、詰られて涙を流したがっていた。頬を張られ、痛めつけられ、屈辱的な姿で犯され、ぼろ雑巾のように投げ出されることを、暗く暗く求めていた。
 結論、霧雨魔理沙は潜在的な、重度の被虐趣味者だ。わたしにとって素敵だったのは、魔理沙がそれにまるで気付いていないことだ。そのとき、わたしの中に妙案が浮かんだ。被虐趣味を心の中に宿らせる体験を与えることで、魔理沙からいくらでも御馳走を頂けるのではないか。続けて怪奇小説を思いついたのは、我ながら会心だった。
 魔理沙は恋焦がれる少女に、下着越しに乳房を抓られている。非難するような声と表情をしながら、魔理沙は悦んでいた。もっとして欲しい、もっとして欲しいと、無言で訴えていた。甘くとろけるような御馳走を、わたしに放射していた。
「おい、大丈夫か? なに、ぼーっとしてるんだ!」
 乱暴に肩を揺さぶられ、わたしはようやく我に帰った。同時に大きな過ちを犯していたと気付く。心を読んでいたと気付かれないよう、わたしは慌てて繕った。
「すいません、ちょっと……妹のことを考えていたので」口から出任せだったけれど、悪くない線だと思った。「こいしったら最近、妙に出歩くようになったから。少し前なんて、随分ぼろぼろになって戻ってきましたし」
 あれにはわたしも驚いた。こいしはさとりの力と引き替えに、無意識を索引とした力を扱えるようになり、戦闘だけで言えばわたしを凌ぐようになった。鬼ですら持て余すこいしと壊し合いで互角に戦える相手が、軟弱な地上の妖怪にいるとは夢にも思っていなかった。
「ああ、それならわたしも知ってる。あのときは何というか、大変だったよ。痛み分けだったから良いものの、もし一方的な殺戮が成立していたら紅魔館と地霊殿の全面戦争が勃発していたかもしれない」
 大袈裟だと思ったけれど、魔理沙の心からそうでないことがはっきりと分かった。吸血鬼の姉が、妹をどれだけ愛しているのか、間接的だというのに、強烈で印象強くわたしに伝わってきたのだ。
「まあ、とにかくだ。それならぼんやりするのも理解できる」
 口とは裏腹に、魔理沙はわたしが心を読んでいたのではないかと疑っていた。単純だけれど、そこまで馬鹿ではないということだ。しかし疑いを確定することはできなかった。魔理沙は心を読めないからだ。そのことをもどかしく思い、それは二度目に訪れたとき、わたしがしなかったことへの恨みへと、ごく浅く転換された。それもすぐに掻き消え、魔理沙の心は求める本の具象に固着する。
「ふむり、これまた変なものを求めるのですね。貴女の想い人は」
「お、お、想い人違うわ!」魔理沙は分かりやすく動揺し、またわたしへの恨みと変わった。「くそっ、分かってるならなんで……」
「読心術者を媒介に想いを伝えようなんて虫が良過ぎますよ」
 二度目の訪問時、魔理沙は想い人を一緒に連れてきた。そうして、目一杯の期待をぶつけてきたのだ。心を読んだわたしが、魔理沙の想いに気付き、相手に伝えようとするのを。それは余りに魅力的で、だからこそ見え透いていた。だからじっと我慢したし、それはじりじりする魔理沙の美味しい心で報われた。
「想いは言葉にしてさえ容易に腐りますよ」
 口にして、危うい警句かなと考える。心を読めるわたしが、想いを言葉にして伝える相手はこいししかいないからだ。しかし魔理沙は気付く様子もなく、意地悪という単語で心を満たした。可愛らしい。
「それより、どうして心理学の本なんて貯め込んでるんだよ。さとりはさとりなんだから、人間が心を探るための学問なんて必要ないだろ?」
「それゆえに。見当外れの方へ向かう真面目ったらしい研究は、わたしにとってファルス、戯曲として愉快に楽しめるのです」
 わたしの言葉に魔理沙はうわあという表情を浮かべ、心の中でも同じ言葉を浮かべた。
「ただ、その本の著者はまだマシですね。見当違いであることについては疑うべくもありませんが、ところどころで核心も得ています。あなたの想い人はそれを何に使うのですか?」
「だから想い人じゃ……さあな、詳しくは説明してくれなかったよ。あいつ曰く、自我のある人形を生み出すための新しい手法らしいが。無名の丘で見つけた自立人形から着想を得たそうだ」
 意趣返しかと勘ぐったけれど、魔理沙は本当に何も知らされていなかった。残念なことだ。何故なら、自我の創出はわたしにとって興味深い。人工的な自我からなる心を読むことが可能なのかも知りたいところだ。
「成功したら、わたしにも見せて頂戴」
「あいつが良いと言うかは期待できないけど、善処はするよ」
 言ってみたものの、期待できないとわたしは踏んでいた。彼女ならばわたしの意図に到達するのもたやすいからだ。揺さぶるのも難しいだろう。魔理沙がここに連れてきたとき、わたしはその心の読み難さに辟易したものだ。意識の最外部に魔法障壁を張っており、しかも雑情報による妨害の手段も心得ていた。彼女の故郷には強い読心の魔法もあり、対抗手段が理論的に構築されている。わたしに少しなりとも読心できたのは、わたしが魔法と異なる手法での読心術を使えるからだと推測しているけれど、もしかするとわたしに読ませたかったのかもしれない。
 彼女の心は不自然なほど薄く。否、彼女の心は元々、とても薄かった。まるでその一部をどこかに置き忘れたか、最初からないかのようだった。人間とも妖怪とも違う、何か。そのくせ、彼女は魔理沙の手をどうやって握れば良いか、真剣に考えてもいた。できれば押し倒して、攻めたいと熱望していた。被虐を胸中に抱く魔理沙にぴたりとはまる愛情の形だった。否、彼女は分かりやすく演じたのかもしれない。何のために? もちろん、さとりに偽の心を読ませてあざ笑うためだ。そうに決まっている。
「良いわ。冷静に考えたらそんなに興味もなさそう」
 彼女がまたここに来たら、わたしはその心中を抉り出し、心的外傷を刻みたいと望まずにはいられないだろう。偽の気持ちを読ませたと分かったならば、わたしはいよいよそうせずにはいられない。
「素っ気ないなあ。まあ良いや、用事は済んだし、折角来たんだから本でも読ませてもらおうかな。もちろん、さとりのことは煩わせないから」
 わたしの能力には有効範囲があると知っての発言だった。魔理沙の知的な思考をいちいち放射されるのは煩わしいので、その提案は真にありがたい。
「では、ありがたく拝見させてもらうとするかね」
 何だかんだいって、魔理沙はわたしに感謝の気持ちを抱いている。何とも善良で、単純なことだ。わたしは微笑ましくも魔理沙を見送り、そのときようやく御馳走を半分も頂いてないことに気付いた。
 強い溜息をつく。今日はまことにわたしらしくない。
 魔理沙の惚気にあてられたせいだと、わたしは解釈することにした。
 
 
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 あなたは誰にも気付かれず、紅魔館の最奥に辿り着く。気を操る門番も、七曜を操る魔女も、時間を止めるメイドも、運命を従える吸血鬼も、誰もあなたに気付かない。あなたは在りながら、存在しないも同じだからだ。あなたは易々と、フランドール・スカーレットを見つける。
 フランドールは部屋の片隅でめそめそと塞ぎ込んでいる。正に鬼の撹乱だと思いながら、あなたは声をかける。フランドールは振り向き、意識のないことを発見する。
「こいしなら、今日は帰って。わたし、何もしたくないの。特に弾幕ごっこはしたくない」
「あら、珍しいこともあるものね。フランドール・スカーレットと言えば弾幕ごっこ、弾幕ごっこと言えばフランドール・スカーレットではなかったのかしら」
「誰もそんなこと言ってない」
 フランドールは拗ねてそっぽを向く。あなたはますます面白くて、笑顔を隠さずに事情を訊ねる。
「もしかして、愛しのおねえさまに怒られたの?」
「怒られたなら、まだ良いよ!」フランドールは声を荒げ、あなたの服を強くつかむ。「わたし、おねえさまにひどいことしたの」
「きゅっとして、どかーんしちゃったのね」
 フランドールは小さく頷く。
「最近は、魔理沙や咲夜、パチュリーに美鈴、みんなが定期的に遊んでくれるようになったから、随分と気持ちが安定していたの。それなのに昨日、おねえさまはわたしを訪ねても紅白の巫女のことしか話さなかったの。わたし、かーっとなって、気がついたらおねえさまはばらばらだった。やってはいけないことなのに、おねえさまを含めて、誰も怒らないの」
 なんだそんなことかと、あなたは判断する。フランドールが爆発した理由は、心の読めないあなたでもすぐに分かったからだ。
「おねえさま、咲夜が運んでいったわ。しばらく会っちゃ駄目だって」
「ふうん、吸血鬼って壊れてもすぐに元通りになるんでしょ。それなのにお見舞いも駄目なんだ」
「一度ちぎれたものをくっつけるのは難しいのよ」
「もしかして、怖いのかもね」あなたが素っ気なく指摘すると、フランドールは子鼠のような態度を示した。自覚があるのだと理解し、あなたは話を先に進める。「わたしが暴力を振るい過ぎると、おねえちゃんも時々そうなるから」
 あなたは嘘をついた。あなたのおねえちゃんが閉じこもるのは、痛いからではなく、気持ち良いからだ。ぼろぼろにされてなお性的な反応を示し、身も心も依拠する己に怖れを覚えるからだ。あなたはそのことをよく知っている。だから愛には強い暴力が伴う。
「おねえさまはそんなに弱くない!」
「弱いとは言っていないわ。わたしのおねえちゃんと同じくらいに、フランドールのおねえさまも強いと考えているの。でもね、妹に傷つけられた姉はすぐ元には戻れないのよ。両親がいないとなれば、尚のこと」
「どうしてそこに両親が出てくるの? わたしもおねえさまも、親に頼ったことなんて一度もないのに」
「だからこそ、よ」あなたは長年の時を経て、辿り着いた結論をフランドールに聞かせる。「両親がいないのだから、姉妹はどちらかが母で、どちらかが父でなければいけないの。長く生きたほうは母になりがちだから、短く生きたほうは父になるの。強くて、母を困らせるもの、それが父よ。だからわたしもフランドールもこのままで良いのよ」
 あなたはそのことに強い確信を持っている。しかしフランドールには飲み込むことができない。
「そんな難しいこと分からないわ。わたしが父で、おねえさまが母だったとしたら、何が変わると言うの?」
 フランドールの問いに、あなたは言葉でなく行動で示す。するりと側に近付き、フランドールの唇を素早く奪い、耳元で囁いた。
「こういうことができるのよ」戸惑うフランドールの唇に、あなたは同じものを重ねて、今度は強引に舌を入れた。咥内に満ちるとろりとして敏感な反応をしばし楽しむと、あなたはゆっくり引き抜いて、艶然と笑んでみせた。「このようにして、父と母は愛し合い、姉と妹を生むの」
「わたしたち、もう生まれてるよ」フランはごく当然のことを言ったけれど、あなたはまるで気にしなかった。半ば陶酔し、濡れた唇を指でなぞるフランドールを見て、これからする話を無視できないと分かったからだ。「それにこういうことを、わたしとおねえさまでするのはおかしいと思うの」
「おかしくないわ。だってわたしとおねえちゃんはこういうことをずっと続けているから仲良しを続けられるの。確かにわたしたちはもう生まれているわ。でもこんなに気持ち良いこと、役目が終わったからといって放棄する必要はないんじゃない?」
 あなたはフランドールの手を取り、人差し指を口に含んで舌を這わせる。一度反応すれば、フランドールからあらゆるものを引き出すことは可能だと考えたけれど、それはやらなかった。疼かせて、駆り立てたかったからだ。あなたは紅魔館の吸血鬼姉妹が仲睦まじくあることを心の底から望んでいる。愛によって結ばれる二人を祝福したい。それが翻って、あなたとおねえちゃんの確かな愛を証明すると考えるからだ。
「おねえさまの部屋に忍び込むの。もしかするとメイドが見張っているかもしれないけれど、一日中ではないのでしょう?」
「咲夜は時間を操れるから、やろうと思えば一日中でも張りついていられるの。だから、やっぱり時間を置いてからのほうが良いよ」
「駄目よ。フランドールとおねえさまには荒療治が必要よ。そうね……わたしだったら、その咲夜というメイドに気付かれず、接近できるわ。意識を奪い、数時間ほど眠ってもらいましょう。それだけの時間があれば、十分だと思うわ」
 何度もするのだったらその限りではない。あなたはそう付け加え、なおも渋るフランドールにもう一度、舌を絡める口づけをする。幼心に情動の芯が灯るのを、あなたはフランドールの瞳から確信する。
「こういうこと、いくらでもできる機会なのよ。さあ、行きましょう?」
 あなたはフランドールの手を引き、図書館に住む魔法使いに見つからないよう、本棚に隠れながら地下を抜ける。階段を上り、一目散におねえさまの部屋を目指す。その一つ前の角からおねえさまの部屋に通じる廊下を覗き込むと、そこには厳しい表情のメイドがいた。
「では、わたしが上手くやるから、フランドールも上手くやるのよ」
 ごく僅かな声でフランドールに伝えると、あなたは意識を無にして咲夜に接近。気付いていないことを念のために確認してから、鳩尾に一撃した。延髄でも良かったけれど、人間では即死するかもしれない。鳩尾ならやりすぎても内臓破裂で済む。あなたなりの気遣いだ。
 そのようなものは必要なかった。一瞬後、何十ものナイフがあなたの周りを覆い尽くした。
「スペルは被弾の瞬間に発動させることもできるのよ」耳元に冷たく鋭い囁きが響く。「止まっているものは動いていない。だからエネルギーもない。退けば、ダメージもない」
 あなたは時間が動き出すと同時に、何本かナイフが刺さるのも構わず、全力疾走で廊下を駆ける。痛みを堪えながら、それでもあなたは問い質さずにはいられない。
「出鱈目を言わないで!」制止する矢のパラドクスは間違っている。止まっている時でも矢は動いているからだ。「一瞬でも当たっているならば、エネルギーは伝達しているはずよ」
 涼しい声をしていたけれど、ダメージがないなんて嘘だ。あなたはそう言い聞かせながら、手近な窓を割って館の外に逃れる。メイドが追いかけてきたのを見て、あなたは別種の好機だと判断して、撤退戦を演じる。フランドールがおねえさまの部屋に忍び込み、せめて深い口づけを寄せる時間だけは稼ぐつもりだ。
 あなたは意識無意識を駆使して、咲夜を広大な紅魔館の庭中で翻弄する。ただし囮だと気付かれてはいけないから、時にはナイフに身を曝す必要がある。心が読めないことを不便と感じたのは久しぶりだった。
 そんなあなたの苛立ちを読んだかのように、メイドがわざとらしく声をあげる。
「癇に障るし、面倒臭いわね。でも、そろそろ籠の中かしら」
 メイドは大きく柏手を打ち、スペルカードと共に《殺人ドール》と宣言する。彼女の周囲に百を越えるナイフが打ち出され、そのうちのいくつがあなたに迫る。
「盲撃ちなんて、躱せば良いのよ」
 しかし、あなたは壁のない空間に端を感じる。だから避けきれずに一つ、肩を掠めていった。広いのに、狭い。そのときあなたは空間を歪められたと気付いたけれど、既に遅かった。痛みで一瞬だけ励起された意識を手繰り、メイドはあなたの位置を把握した上で、出鱈目な量のナイフを投げつけてきた。
「姿を消してちょろちょろだなんて、何処の妖精さんかしら。今ならお尻百叩きで許してあげるから、素直に出てきなさい」
 人間風情に上手を行かれ、更には妖精呼ばわりで、あなたはいい加減、堪忍袋の緒が切れそうだった。そうしなったのは、騒ぎを大きくするより素直に説教を受けた方が時間稼ぎになると信じたからだ。だから姿を現し、両手をあげた。
「あら、あなたは最近、妹様の所に現れるようになった妖怪ですわね。古明地こいしさん、でしたか?」
「すいません、わたしつい悪戯心でやったんです」あなたは先だって頭を下げ、上目遣いでメイドの顔を見やる。「ここには時間を止められる強い侍従女がいると聞いて、わたしの力と比べたくなって」
「そう」メイドはそれだけ言うと、あなたを木の下まで連れていき、両手をついてお尻を突き出す格好にさせる。「素直に正体と目的を明かしたから、では宣言通りで許しましょう」
 あなたにも一つだけ予想できないことがあった。メイドがほとんど見ず知らずの他人に、本当にお尻百叩きを実施したことだ。あなたは屈辱を感じながらそれに耐えた。フランドールに大きな時間を与えられると考えたからだ。
 ようやく解放され、門から放り出されたあなたは、結果を聞く気力さえ失っていた。今日聞いても明日聞いても同じだと考えたあなたは、痛むお尻を抱えながら地底に戻る。
 この痛みをあなたは今夜、おねえちゃんにぶつけて発散するつもりでいる。父であるあなたは、母であるおねえちゃんにそうする権利があると考えているからだ。
 
 
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 わたしはベッドから抜け出すと、体中の痛みを堪えながら下着を身につける。昨日の打ち身は紫色へと変わりつつあり、不気味な斑をわたしの肌に追加していた。
 昨夜の行為と暴力は殊更に激しく、わたしはほとんど眠る暇がなかった。もっとも、さとりは一晩どころか一月ほど眠らなくても問題はない。毎日眠るのはペットたちを心配させないためだ。辛いのは一歩進むたび、こいしによって与えられた感触が甦ることだった。わたしにとって、こいしの理不尽な暴力は、最上の愛撫になお勝る。慰めを求める心は、脱衣所に辿り着いたときにはもう限界に近かった。だから今朝もお燐が先に入っていると知り、わたしは最後の恥じらいとしてタオルだけはきつく巻き付けて、お燐の隣で湯に身を浸した。
「昨夜も、屍体探しだったのですか?」そうでないことは、お燐の切実な感情の放射から分かっていた。分かっていて、訊ねたのだ。「それとももしかして、綺麗好きになりましたか?」
「さとり様の意地悪」ここにいればさとり様に会えるから。昨日と同じことができるから。さとり様を愛したい。さとり様に愛されたい。お燐は何度も何度も、わたしの心に直に訴えてくる。「綺麗なことじゃなくて、汚いことがしたいからここにいるんです」
 お燐はわたしに了解を得ず、タオルを剥がして傷だらけの体を凝視し、泣きそうな顔になった。
「どうしてですか? どうしてここまで酷いことされて、さとり様は我慢できるんですか? どうしてこいし様じゃないと駄目なんですか?」
 わたしは目隠しをされて犯されることを好むからだ。心を読むことのできないこいしだけが唯一、わたしの切なる要求に答えてくれるからだ。わたしはそれらをもう少しで口にするところだった。我慢したのは心のどこかで、お燐に軽蔑されるのを怖れたからだ。あるいはそれでもわたしを好きでいてくれるかもしれないお燐を怖れたのかもしれない。どちらにしても、わたしにできることは一つだった。
 抱いて、抱かれて、誤魔化すことだ。わたしはお燐の行為一つ一つに気を払い、感じるように努めたけれど、やはり反応することしかできなかった。爛れただけの情事が終わり、昨日のように無言のままでうやむやに流されるはずだった。しかし、お燐はわたしと肌を重ねたことなどなかったかのように、突如として憎しみを爆発させた。
「あたい、こいし様を許せないです。さとり様をこんなにも傷つけるのに独占するこいし様が許せないです」
 心に反した、淡々とした声がお燐の怒りの強さを否が応でもわたしに示す。お燐がこんな反応を示したのは、わたしが覚えている限りで初めてだし、到底あり得ないことだった。ペットたちがわたしの掌握を離れるなんて、どう考えてもおかしい。お燐はどんな時でも、抱いてやれば諦めるかお空に八つ当たりするかの行動を取るはずだ。それなのにいま、お燐はこいしを激しく憎んでいた。何かが壊れていると感じたけれど、誰がどのようにして壊したのか、わたしには分からなかった。
 わたしの戸惑いと沈黙に、お燐は更なる怒りと激情を発した。
「許せない! こんなの許せない! ねえ、さとり様。あたいなら、さとり様を傷つけません。いつでも慈しみ、愛しきる自信があります。それなのに、こんな、酷いです……せめて、さとり様とこいし様が傷つけ合うことなく愛し合う仲だったら、こんな気持ちにはならなかったのに!」
 お燐は涙を流し、強い哀切をわたしに向けて放射する。
「さとり様。あたいのことを愛してくれなくても構いません。でも、あたいのことを思いやる気持ちがあるならば、こんな酷い関係はやめてください。お願いですどうかお願いです……」
 お燐は思慕の想いを残しながら、わたしとこいしが幸せになることを心の底から望んでいた。こんな気持ち、しばらくすれば忘れるから放っておけば良い。理屈では分かっているのに、わたしは何故かそんな誤魔化しに怒りと忌避感を覚えた。わたしの中で壊れていくものがあると分かっていながら、止められなかった。
 それでも即答することは躊躇われ、わたしは曖昧に首を振ると、先に風呂から上がった。わたしは、体についた痣を初めて、忌まわしいものと感じられた。感傷だと己に言い聞かせても、静めることができなかった。だからこそ、既に目を覚ましてベッドの縁に座る下着姿のこいしを見つけたとき、数箇所のかすり傷だけの綺麗な肌に強い苛立ちを覚えた。
「こいし、目を覚ましたのなら、早く着替えなさい」
「嫌よ、服を着るってもうしないってことでしょ?」こいしは鼻を動かし、嫌らしい笑みを浮かべる。「今日もして来たんだ。わたしがこんなにも持て余しているのに、ひどいなあ」
 こいしの言葉がはしたなく、恥ずかしく感じられた。怒りを覚えずにはいられなくて、わたしは側まで近寄り、こいしの頬を叩いた。わたしから暴力を振るうなんて、記憶の中では初めてだった。
「痛い」こいしは無機質に言うと、手で頬を押さえた。「わたしね、お姉ちゃんみたいな趣味、ないんだよ。痛いの、嫌いなのに」
 こいしは立ち上がり、わたしの頬を拳で殴りつけた。服で隠せるところ以外に暴力を受けるのは久しぶりで、わたしはよろめき倒れる。こいしはそんなわたしを足蹴にし、全身を容赦なく蹴りつけた。咳込み、喘ぐわたしに、こいしは暴力を振るい続けた。血を吐き、余りの苦しみに涙を流すわたしを見て、こいしはようやく暴力をやめた。
「きたないきたないおねえちゃん」こいしは軽蔑するように言おうとしたけれど、実際には頬を染め、シャツ越しに胸を強く押さえる。「ごめんね、ごめんね、おねえちゃん。わたしおねえちゃんのこと愛してるよ、誰よりも誰よりも、愛してるよ」
 わたしは血を吐ききり、息を整え、首を横に振った。
「いつもと同じことをしただけよ。少しだけ激しくて感情的だったけど、いつも通りよ。だからこいし、悲しまないで。わたしはこいしが大好きよ、愛してるわ」
 わたしは汚いと言われた体でこいしを抱きしめる。こいしはわたしの腕を振り払い、服と動かない第三の眼を拾い、部屋を出ていく。
 わたしは溜息をつき、痛む体を再点検し、そして気付く。
 こいしの暴力で感じなかったことに。わたしは急いで廊下に力を巡らしたけれど、すぐに引っ込めた。こいしの心だけ、わたしは全く読むことができないからだ。そしていま、初めてそのことを恨めしいと思う。
 否、かつてそう感じたことがあるのだろうか。必死で思いだそうとしたけれど、わたしにはそのような思い出を見つけることができなかった。
 
 ままならない体のまま、わたしは今日も書斎で読書と飲茶をして過ごす。顔についたいくつもの傷を心配するものがいたけれど、笑顔を押しつけ、無理矢理に下がらせた。それでもペットたちの感情はいつも以上にわたしへ向けて放射され、とても読書をする状況ではなくなっていた。
 自室にこもるか、誰もいない所へ移動するべきか考えていると、予期しない客がやってきた。博麗神社の巫女、霊夢だ。彼女はどこから調達してきたのか、新しいカップとポットの載せられた盆を手にしており、手ずから注いで溜息をついた。
「ただで飲むお茶って美味しいわねえ」
 心の中でも彼女は同じことを考えていた。何とも現金なことだが、この手のふてぶてしさ故に、人間の参拝者がろくに訪れない神社で巫女を勤められるのかもしれない。
 霊夢は忘我の境地で茶を啜り、八割ほど飲んだところで、話しかけて来いと心で告げてきた。口で言えば良いものの、何とも物臭なことだ。
「用事がないなら帰って下さい」
「うわあ、酷いこと言うわねえ。今日は折角、心理的な相談を持ちかけようとしてきたのに」
「わたしは精神を診る医者ではありません。心を読み、それを種に驚かせ、美味しく頂くことが信条の妖怪です。妖怪にまるで驚かないあなたに来られても困ります」
 対する霊夢の心は、わたしを驚かせてみろだった。こいしのことを考えたいのに、七面倒くさい邪魔ばかりが入る。お燐やお空に命じて無理矢理追い払おうと決意しかけたとき、霊夢は爆弾発言をした。
「わたし、いま、恋してるのよね」恋という単語をトリガーに、彼女は魔理沙ほどではないけれど、甘い気持ちを放射し始めた。「さとりに、わたしの想い人が誰か当てて欲しいの。それが今回の相談よ」
「訳が、分かりませんね」そう言いながら、わたしは霊夢の心に強い興味を示し始めていた。こんな恋心、初めてだった。霊夢は異変などを通じて、自分を苦しめた妖怪たちに、等しく焦がれる感情を抱いているようなのだ。恋は普通、特定人物への傾倒から始まるのに。「どうしてもと言うのであれば、応じるに吝かではありません」
「催眠術、とか使わないの?」
「前にかけましたから」わたしはわざとらしく手を叩き、霊夢が見せた僅かな心の揺れを縁にして、術の効力を引き出した。「では、そのままでお願いします。数秒で済みますから」
 わたしは第三の眼を構え、霊夢に力を向ける。彼女の平等な恋心をかき分け、襞を分け入り、奥へ奥へ。意識と言葉を手繰り、わたしは愛の深奥に辿り着く。そしてすぐに合点し、同時に後悔した。これはいわゆる答えのない問いだと分かったからだ。
「ずるいですね。わたしが勝てない勝負を挑むなんて」
 霊夢は遊戯のつもりで己の恋をさらけ出したのだと思った。だが、わたしの予想に反して霊夢は強い落胆を示した。
「さとり、答えて。博麗の巫女の心根、見えたかしら」
「ええ、はっきりと。これ、酷いですね」あまりにも陰惨で、わたしでも同情せずにはいられなかった。「それで。この事実を再確認して、どうしようと言うのですか?」
「別に」言葉と裏腹、彼女は数多の妖怪からただ一人を選び出し、ごく穏やかな思慕を放射した。「どうしたいのかしらね」
 霊夢は本当に、己が何をしたいのか分からないようだった。
「誰かを特別に想いたいのですか?」
「かもしれない。ううん、分からないわ。それにわたし、人間をやめられないし」
 博麗の巫女は特別な魂を持っているから、魔法や他のどのような力にも変遷を許されない。どう足掻いても百年すら生きられず、それは相手を深く悲しませるだろう。霊夢は素直に心の内を語る。己よりも相手を悲しませることが、霊夢には我慢できないようであった。
 そのとき、一瞬だけふっと、こいしの姿が浮かぶ。そこから一連の思考が新たに生まれ、わたしは小さく首を横に振った。
「残念ながら、こいしがどうしてこいしになったのか、わたしにも分かりません。遠い過去なのか、あるいは別の理由があるのか」
 さとりがそうでなくなる方法を通して、博麗の巫女がそうでなくなる方法を模索できないかと霊夢は考えていた。同時にそれが随分と虫の良い考えであるとも承知していた。
 わたしの答えで霊夢に諦観が芽生え、それは訪問の終了を意味していた。
「ごめんね、変なこと相談して。それとこのことはできれば」
「言えませんし、食べられませんよ、こんなこと」
 残酷に過ぎて、わたしでも食べる気にならなかったのだ。
「お返しではないけれど、いつか神社を訪ねてきて。美味しいお茶くらいなら、出せると思うから」
 霊夢はさとりのわたしを招きたいと本当に考えてくれていた。だからこそ余計に申し訳なかったけれど、わたしには何もできない。せめて遠ざかる霊夢の姿を最後まで見送り、わたしは天を見上げる。
 彼女の恋の果てにあったもの。それは妖怪に殺されることを快感とする、奇形的で屈曲した欲望だ。霊夢は力の限りを尽くして妖怪と戦い、殺されたいと心の奥底で願っていた。博麗の巫女を人間として、妖怪退治の請負人として逃れられぬようにする呪縛に相違ない。それ故、彼女は全ての妖怪に、平等に焦がれるわけだ。オンリーワンが現れること自体、奇跡のようなものであり、耐えがたい苦痛を伴うに違いなかった。
「心はときとして、かくも酷い」わたしは歪められた心を想い、それは自然と妹の読めない心に繋がっていく。「こいしも歪められているとしたら。わたしには何ができるのだろうか」
 彼女の心を正しくする必要があるとしたら、わたしにできることはなんだろう。
「正しく愛すること。でも、正しい愛なんてわたしには分からない」
 お燐は、わたしとこいしが傷つけ合わずに愛することを希った。それが正しい愛なのか、変形した心を正す術なのか。わたしは気もそぞろに書斎から出ると自室に戻り、こいしを待ち受ける。
 わたしはすっかり壊れてしまった感情を紡ぎ直し、新しい形に仕立てたいと切望していた。
 
 
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 あなたは強い怒りをはらんだまま、紅魔館に向かう。捨て身の行動を生かしてフランドールがどのように動いたか、少しだけ気になったからだ。臆病風に吹かれたならば、酷い言葉を沢山ぶつけるつもりだった。その結果、フランドールと喧嘩になり、最終的には紅魔館総出で取り押さえられるかもしれないけれど、構わないと結論する。あなたは無意識のままで紅魔館の地下最奥に向かう。
 メイドがいないことを確認してから無言のまま意識すると、フランドールはすぐにあなたの姿を見つけ、華やかな顔で近付いてきた。フランドールは感謝の表情で満たされており、あなたの手を強く握りしめた。
「ありがとう、こいし。あの、わたし、上手くいったよ」
 頬を赤らめ、もじもじするフランドールに、あなたの心はどんどんと冷めていく。昨日の、姉妹を結びつけなければいけないという使命感が胸のうちから消え失せている。
「そう、では首尾を聞かせてくれないかしら」
「うん、でもそんなにはないの。咲夜が離れていったあと、わたしはおねえさまの部屋に忍び込んだの。棺桶を開けて、肩を揺するとおねえさまはすぐに目覚めたわ。わたしの姿を見て驚いていたけれど、怖れてはいなかったわ。眠そうではあったけれど、わたしは構わずおねえさまにキスをしたの。歯が閉じられていたから、舌を入れることはできなかったけど、それでも心がきゅっとなって。何だか急に悲しくなって、ごめんなさいと謝ったら、おねえさまはわたしをぎゅうっと抱きしめてくれたの。ごめんね、わたしの可愛いフランって、言ってくれたのよ」
 フランドールの夢中な語りぶりは、あなたにとって特に興味のないことだ。あなたが聞きたいのはそんなことではない。
「それから、何をしたのかしら。気持ち良かった?」
 あなたの問いに、フランドールは深く首を傾げた。
「ううん、別に何もしてないよ。ぎゅっとして、ぎゅっとされただけ。わたしはおねえさまを愛しているし、おねえさまがわたしを愛してるってとてもよく分かったわ」
「嘘よ、その程度で分かるはずないじゃない。お互いの肌を重ね、感じ合わないと。愛してるなんて分からないわ」
「嘘じゃないよ。わたし、分かったもの」
「心も読めないのに、分かるはずない」
「分かったもん! 言葉と態度と、匂いで分かったもん!」
 そんなものはいくらでも誤魔化せるし、昨日までのあなたならば一笑に付していただろう。しかしいま、フランドールの言葉はあなたに動揺を与えている。
「肌を重ねないと、感じ合わないと、分からないわ。体中を触って、舐めて、わたしはおねえちゃんに暴力を振るうの。それで……」
 そこまで口にして、あなたはあることに気付く。今朝、風呂上がりのおねえちゃんに暴力を振るったとき、まるで感じていなかったことに。
「どうしよう」あなたは意識しない無意識の言葉とともに、顔を青くする。「わたし、おねえちゃんに愛されていないかもしれない」
 昨日まで疑わなかったことが、あなたのなかでがらがらと崩れていく。心が読めなくてもただ一つだけ分かっていたことが、不確かになり、あなたはただ混乱することしかできない。
「どうしよう、おねえちゃんがわたしを嫌いになったかも……」
 あなたは昨日、朗々と教えを垂れた相手に不安をぶつける。だからフランドールはしばらくまごついていたけれど、今度はこちらが励ます番だと考え、あなたを強く抱きしめる。
「おねえさまにこうしてもらうと、不安が消えたよ」フランドールはぎこちなく、しっかりとこいしの不安を受け止める。「こいしも、こうすれば良いと思うな」
 抱き合うなんて、これまでいくらでもやってきた。今更、軽い抱擁の一つで物事が解決するなんて信じられかった。それでいて、フランドールに抱きしめられていると、そんな猜疑や不安がどんどんと壊れていき、不思議と胸のうちが穏やかになる。
 あなたはゆっくりとフランドールの腕を解き、小さく頭を下げる。
「ありがとう。わたしも、やってみる」
 穏やかな抱擁が、新たな愛を生んでくれるのか。あなたは縋るような気持ちで地底に戻り、地霊殿の、おねえちゃんの部屋のドアをノックする。
 
 
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 わたしとこいしは言葉もなく、ただ抱きしめ合う。どうしてこいしがわたしと同じことを求めてきたかは分からないけれど、それこそ互いの想いの深さを示しているように思えてならなかった。
「本当だ、わたし、これだけで十分なんだ。愛されてるんだ」
 わたしの腕の中にあるこいしから、暴力の気配は感じられなかった。それだけではない。わたしもまた、こいしに暴力を振るって欲しいと感じなくなっていた。
「どうしよう、おねえちゃん。わたし、これで十分だよ。これだけで、おねえちゃんに愛されてるって分かっちゃったよ」
「わたしもよ。これだけで良いわ、これだけで……」
 どうして暴力が必要だなんて考えていたのか、今となっては不思議に思えるくらいだった。互いの体の感触を、甘い匂いを感じるだけで満足できた。
 否、我慢できたのは数分くらいだった。抱きしめ合っているだけでも十分だったかもしれないけれど、やはり試さずにはいられなかった。そしてこいしも同じ気持ちのようだった。
「あのね、おねえちゃん。わたし、その、一つだけ気になるの。暴力がまるでないのって、どんな気分なんだろう」
 わたしとこいしには試すだけの時間がいくらでもあった。
 だから。暴力など全く必要でないことを、互いが力尽きるまで確認し合うことができた。
 
 
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 あなたは幸福な微睡みから目覚める。めくるめく愛の洪水、暗闇の中にまるで光が灯ったようで、あなたは左手を伸ばし、すぐに力なくだらりと下がる。
「おねえちゃんが可愛いから、頑張りすぎたのかな」
 光が眩しい。どこから発せられているのだろうと訝しみ、立ち上がろうとした瞬間、手にコードが絡みついてくる懐かしい感触を覚えた。
「第三の眼だ」閉じていた眼が開かれたのかもしれない。「もしかして、おねえちゃんの心、分かるのかな」
 あなたは隣にいるおねえちゃんに眼を向ける。
 そうして、あなたは知ることになる。
 あなたはわたしであり。
 
 
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 わたしはあなたである。だから、わたしが目覚めたときあなたが、こいしがいないのは当然の帰結だった。わたしは右手を伸ばすべきか、左手を伸ばすべきか、すぐには分からなかった。
 両手を伸ばし、何にも包まれていないことを確認する。こいしの匂いを探ろうと、片腕ずつ鼻に寄せる。しかし、わたしには違いが分からない。わたしはこいしでもあるからだ。
 わたしは両腕で、己を抱きしめる。しかし、こいしを感じることはできなかった。当然のことながら。突如として恐慌を来たし、わたしは服を着て部屋を出ると、誰でも良いから来てくれと大声を張り上げた。一番最初にやって来たお燐の肩をつかみ、揺さぶるようにして訊ねる。
「お燐、こいしはどこへ行ったの?」
 わたしはこいしが誰であるか、お燐に訊ね返されることを怖れていた。しかしお燐は顔をしかめ、渋い声だけど言ってくれた。
「知りませんよ。こいし様はいつもふらっと出て行き、ふらっと戻ってくるんですから」
 その答えはわたしを安堵させ、同時に強い不安と強烈な問い、深い喪失感を与えた。わたしはそれらを一つずつ解消する必要がある。しかし今は、こいしがわたしの想像だけの人物でないことを、噛みしめることしかできそうになかった。
 こいしはどこかにいる。今はそれだけで十分だった。
 
 こいしがわたしになってから、人間の暦で一月ほどの時間が過ぎた。
 わたしは薄れることのない喪失感と戦いながら、ようやくわたしに突きつけられた問題を考えることができるようになった。
 古明地こいしとは、何者か。わたしはそのことを証すため、まずは古明地こいしの定義を並べ立てた。
 わたしの妹である。
 さとりの力を捨てたさとりである。
 わたしの最愛の存在である。
 いくつもの定義はあるけれど、結局はただ一つの定義と相反する。
 それは、古明地こいしがわたしであるということだ。
 わたしとこいしを分けるものは色々ある。髪の毛の色、服の色、第三の眼の色さえ、わたしとこいしでは異なった。そして最たるは、わたしが心を読め、こいしは心が読めないということだ。
 逆に言えば、心を読めるこいしは、わたしだ。
 それはつまり、わたしが心を読めないさとりとしてこいしを創出したということだ。わたしとこいしは姉妹ではないということだろうか。では、わたしとこいしはどういう関係であるか。
 そこで一時期、考えが詰まっていたこともある。しかし、特に悩ましい問題ではないことに気付いた。わたしは母であり、こいしは父である。と同時に、わたしは姉であり、こいしは妹である。時系列的に矛盾しているようだが、心の中での出来事に厳密な時系列を当てはめる必要はない。
 だからわたしとこいしは愛し合い、同時に姉妹でもある。この複雑な定義物の成果として、こいしはわたしが創出した。ここまでは良いのだ。
 さて、それでは最大にして最も単純な問題に進もう。
 どうしてわたしには、古明地こいしが必要だったのか。わたしが愛に飢えていたから? 極限のナルシズムを満たしたいから? もちろん、それもあるかもしれない。でも、本当にそれだけだろうか。
 わたしがわたしを愛したいならば、心を読めるこいしを創出すれば良いだけのことだ。そうすれば、互いの心が分からないことで苦しんだりしなかった。
 心を読めないこいしで、被虐趣味を満たしたかった? そう考えれば一応の辻褄が合う。でも、わたしはそれを認めたくなかった。こいしの存在を認めることで、わたしはお燐やお空を傷つけていたことになるからだ。わたしがそこまで身勝手な存在であると考えるのは、あまり愉快なことではなかった。あるいはお燐やお空への思いやりが、十全な行為とこいしの消失として結実したのだろうか。
 わたしは大きく首を横に振る。こいしは決して、都合が悪いから消してしまえる存在ではなかった。わたしはこいしを一個として認めていたし、真剣に愛していた。それに、わたしとこいしが暴力なく満足に愛し合えるなら、こいしが消える必要はなかった。例えわたしであっても。それなのに何故、こいしは消えたのか? あるいは消されたのか?
 そこでわたしは完全にどん詰まり、先に進むことができない。今日もわたしは書斎で、空費した時間を憂い、大きく溜息をついた。
「さとり様、大丈夫ですか?」
 お燐の声と想いは同時に届き、思索の凝りを少しだけほぐした。
「こいし様がずっと戻られなくて心配なのは分かりますが、こいし様のことですから、いつかひょっこり戻ってきますよ」
 わたしが同時にこいしであったことは、お燐を始めペットたちにはまだ話していない。だからこその楽観的な言葉であり、素直に頷けはしないけれど、お燐が本当にこいしの心配をしてくれるのには少しだけ気持ちが和らいだ。こいしのことをあんなに嫌っていたのに、行方が知れないときちんと心配してくれる。今も屍体集めと平行して、こいしを探索してくれようと考えてくれている。
 うん、これは良い考えだ。できるならば、勘ぐられない程度でこいし様の所在を確かめても良い。
 今日は仕事のこと、忘れなかったぞ。
「さとり様、わたし仕事に行ってきますねー」
 おお、一丁前みたいな顔と言葉じゃないか。お空も彼女なりに、こいしの行方については心配さとり様どうしたんだろうぼんやりして最近は新しい寺ができて屍体集めもやり難くわたしはこいしはお腹すいたさとり様にごはんを今日は水浴びの日だ嫌だわたし
 いくつもの思考が同時に流れ込み、わたしは思わず絶叫する。
 
 わたしはその日、どうしてこいしを創出する必要があったのか、その真実に気付き、地霊殿を後にした。そうしてなるべく人間も、妖怪も、他の誰もがやって来ない場所に、一人でじっと閉じこもった。けれども、自我の拡大を防ぐことはできなかった。
 こいしはわたしの自我が拡大することを防ぐために、創出された対存在だ。正確には自我の境界面を失ったわたしと、その境界を与え合う存在だ。わたしとこいしは互いに向き合い、参照し合うことで自我を確立し合っていた。人間の自我創出課程を応用したのだ。わたしがただわたしであるために、こいしはいなければならなかった。非対称な、傷つけ合う愛はそのためにこそ必要だった。
 わたしとこいしが同時に満たされ、対称的で健全な愛を得たならば、境界を与え合う関係は消滅する。それ故にこいしはわたしになった。今ではあまりにも自明なことである。
 わたしがどうしてこのような存在になったのかは分からない。さとりを続けた結果、その能力が肥大しすぎたのか。それとも人間が一繋がりとなり、お互いに完璧に理解し合えることを望んだのか。わたしとしては後者のほうが有り得るように思える。
 人間は隣にいる人間の気持ちや、己自身の気持ちすら分からず、煩悶を突き詰める。霧雨魔理沙や博麗霊夢のケースから、そのことは明らかである。同じような気持ちが人間たちの共通心理領域で極限まで堆積した結果、わたしのような自我を拡大し、意識を一つに束ねようとする、真に怪物的な妖怪が生まれたのではないだろうか。
 わたしは即座に解決されるべき異変である。それなのにいつまで経っても博麗の巫女はわたしを退治しに現れない。あるいはもしかしたら、既に巫女の心を併呑したのかもしれない。最近のわたしは広がる速度が大き過ぎて、誰の意識を飲み込んだのか、いちいち覚えていられないほどだ。わたしと称するわたしも、かつてのわたしとはまるで異なっているのかもしれない。それともわたしの与り知らぬ事情のために、わたしであることは確保されているのかもしれない。
 もし博麗の巫女が呑まれていたとしたら、誰にも止めることはできないだろう。あるいは霧雨魔理沙の想い人が、魔法の力を駆使してわたしを封じてくれるかもしれない。でもそれはもう、見込みのない希望のような気がしてならない。
 これから先、わたしはどうなるのだろうか。広がり続けたわたしは、全ての意識を飲み込んでどろどろのスープのような巨大意識体へと変貌するのだろうか。それともあまりに薄くなり過ぎて、いずれわたしの影響は零に等しくなるのだろうか。後者ならば、わたしだけが薄く消えてしまうだけだから、できればそうであって欲しいと思う。残念ながら、わたしにはまるで予測ができない。わたしの力はわたしでさえ、ほとんどブラックボックスなのだ。
 一つだけ言えることがあるとすれば、わたしはこいしを失った結果、こうなってしまったわけだ。では、わたしがもう一度、こいしを創出することができれば、この現象は収まることになる。
 しかし、今のわたしにはこいしを創出することなどできそうにない。わたしだけの力では、それは極めて難しい。不可能といっても良いかもしれない。
 
 
 undef
 
 そこで、ようやく最初の問いに立ち返ることができます。
 
 あなたは古明地さとりですか?
 それとも古明地こいしですか?
 
 あなたはわたしと異なる自我境界で思考できる存在です。もしかすると認識の方法、あるいは次元が異なるのかもしれません。それでいて、わたしとコンタクトできるのですから、稀有な存在と言い切って良いでしょう。
 だからこそ、わたしとあなたの間には、新たな鏡像関係を築くことができるはずです。わたしはさとりとなり、あなたはこいしとなるわけです。
 もちろん、別の選択肢もあります。古明地さとりとして、わたしの自我に呑み込まれることです。その結果がどうなるか、わたしには未だもって分かりません。無限大と零、どちらかになるのは明らかですが、いつ判明するかは分かりません。一秒後かもしれませんし、永遠に確定しないかもしれません。主観系とはそういうものですからね。

 突然、このような問いを突きつけられても困る、ですか?
 確かにそうですが、ここで未定義を選択してもいずれは同じ問いにぶつかる可能性は非常に高いはずです。確定的と言っても良いでしょう。選択は早いほうが、後の後悔も少ないですよ。もっとも、さとりであるならば後悔すら一つの意志に併呑されて感じられなくなるかもしれませんが。
 
 わたし、ですか? わたしはどうなりたいか?
 それは実に難しい問いです。何故ならば、わたしがオリジナルの古明地さとりと同一であるか、今の状態では保証できないからです。
 それでも、私見を述べるならば。
 これまでの記録で、あなたはオリジナルの古明地さとりを知ることができたはずです。彼女は心を食らい、冷然として、欲望に忠実で意地汚く、己のために他人を犠牲にしてやまない存在です。かつて数多の妖怪たちが忌み嫌い、率先して閉じこめたのも頷けるような最低最悪の妖怪です。あんなものはいなくなったほうが良いと思いますね。
 
 それでも、ほんの少しでも彼女に同情を感じるならば。
 あるいは一繋がりの意識など御免被るというのであれば。
 ただの一言で、こいしは新たに生まれることができます。
 個々の意識は個々のものとして存在できるようになるでしょう。
 ただし、覚えておいてください。こいしはさとりと満たされた愛を交わすことはできません。非対称の、互いを傷つけ合う、それでいて決して失われることのない、拷問のような愛が、おそらくは半永久的に続きます。その課程で多くのものが傷つけられるかもしれません。一繋がりの意識であったほうがましだと考えるかもしれません。
 それでも良いのならば。あるいは、そういったものを変えていけると、心の底から信じているのならば。
 
 あなたの一言で、こいしは新たに生まれることができます。
 あなたはただ一言、これだけを口にしてください。
 尽きぬ愛を、心の中に想いながら、口にしてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 おねえちゃん、と。
あなたがディスプレイの前で、そう言ってくれたならば、それも一つの選択です。
一繋がりの意識が良いと思うならば、それも一つの選択です。
こんなことを決めさせるなと、未定義を貫くならば、やはりそれも一つの選択です。

あなたが何を選び、あるいは選ばなかったのか。
それが楽しみであり、怖ろしくもあります。

最後に。このような捻くれ作品を最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。
blue_nowhere
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/06 23:37:56
更新日時:
2010/11/06 23:37:56
評価:
13/13
POINT:
88
1. 9 SAT ■2010/11/07 22:03:03
いや。いや。こんなアプローチを仕掛けてくる作者さんがいるとは思いもかけず。
この作品に私は9点を入れますが、それをするには一つやらなくてはいけません。
今作品の何もかも、私の足りぬ頭では理解しきれなかったことまで、責任も放棄して肯定するには。
ですのでおねえちゃん、と心の内で叫ばせて頂こうと思います。姉妹にとって良かれ悪しかれ。
私にとってこの作品は、良し。
2. 4 パレット ■2010/11/20 00:35:16
 本当はエロい東方地霊殿。
 正直ちょっと鬱陶しい語りとも感じたけど、最後まで読んでみるとすとんと飲み込めました。
3. 7 NT○ ■2010/11/25 15:45:42
ラスト、壮大な流れ。
それでも丁寧に書かれた文章と濃い姉妹の関係に引き込まれました。
4. 2 asp ■2010/11/29 11:39:40
 ううん……失礼ながら全体的に空回りしているように感じます。露骨な性的描写とか狙った感ぷんぷんの不自然な文体とか大胆な設定とかオチとかもろもろ。試みや設定は面白いのですが、どうも書き方がまずいかと。読み手には不親切すぎて好意的に読んでもらいにくい気がします。実験的な部分や前衛的な部分ばかりが突出しているせいで、どうにも作品の持ち味が死んでしまっているかなあと。せめて文章だけは引き込ませるようなものにして欲しかった。個人的には嫌いじゃないので、よけいに残念です。
5. 7 yunta ■2010/11/30 22:37:06
執筆お疲れ様でした!

全編に渡って哲学的というか、内面的というか、いかにも古明地姉妹らしいSSという印象でした。
官能的なシーンが盛りこまれていたのですが、こんぺ規則の関係か物足りない気がしました。
ストーリーの一部として入ってくるには、描写が足りないような……。いっそ年齢制限有で読んでみたいと思いました。
6. 10 とんじる ■2010/12/02 14:59:40
 これは……凄い。
 読み終わってから、あまりにも深い世界観に、思わずため息が漏れました。

 まず、この作品で印象的なのは、ひたすらに徹底したキャラクターの描写、造形。
 思考、嗜好、心理、そう言ったものを洗いざらい克明に(残酷に)描ききっている。その筆致の何と鋭いことか。それぞれのキャラの歪んだ愛情、そして正しい愛の形が綺麗に浮き彫りに。
 そうして描き出される世界観は、残酷で、どこまでも歪んでいて、退廃的で気だるく。
 それでも「わたし」と「あなた」は正しい方向へ向かいつつあった。はずなのに。

 古明地姉妹の在り方をここまで徹底させた作品は、なかなかないと思います。そして、その方向性もオリジナリティを内包しつつも、説得力がある。

 ある意味で超設定、さらに歪んで醜いキャラたちのやりとりに、目を背けたくなりましたが、それでも否応なしに引き込む力強さと作品全体から溢れる魅力は凄い。
7. 5 藤村・リー ■2010/12/10 05:24:18
 こうしてみると、愛の解釈っていろいろありすぎて面倒くさいですね。
 とりあえず地霊殿がえろいことはわかった。
8. 9 八重結界 ■2010/12/11 20:45:18
途中までは10点でしたが、最後でマイナス1点と。最初と最後の問いかけこそが話の肝で、それ以外のストーリーは肉付けのようなもの。
しかしながら私が惹かれたのは肉の部分であり、捻くれた幻想郷という世界でした。
ある意味では残酷な終わり方なのでしょうが、もうちょっと歪んだ結末を見てみたかったというのが本音。
どのキャラクターも魅力的に描かれていましたし、とりわけ魔理沙が素敵すぎました。
このマリアリは幸せになってもらいたい。被虐的な意味で。
9. 5 ニャーン ■2010/12/11 20:49:20
SMの話とは……。コンペでなければ読んでなかったであろう異色の作品でした。
書き方が上手なので没頭することができましたが、最後の展開は唐突すぎて呆然。
10. 7 deso ■2010/12/11 20:51:11
なんだ、このSM地霊殿。
どっちを向いても色欲地獄だぜ、と思っていたら予想もしないオチが待ってました。
わたしもあなたもみんなもさとりさんなら、それはそれでパラダイスだと思います。
11. 7 gene ■2010/12/11 22:13:00
うーむ、すみません。バイオレンスな昼ドラという印象が先行してしまいました。
百合のDLLも持ってないのでそっち方面も簡素に読みました。やるにしろ寸止めにしろ、その気になってるのはどうも苦手で。
覚りの種の一人としてこいしが生まれてきたのではなく、さとりんの空想や想像からこいしが生み出されたのであれば、どれだけ心傷ついたって、自閉するようになったって、こいしは居ないほうがいい気がします。それは結局、自分の姿でしかない。無性生殖で自分の持つ範囲の情報で創り出されたものでしかない。種としての継承が目的ではなく、寂しさを埋めたいならもっと方法はあるんじゃないかと。
そしてこいしがさとりとは別の生命体として存在し、既に死んでるならそれを受け入れるべきだし、生きてるならとっとと認識したほうがいい。というのが譲歩した答えです。
理解を求めるのもありですが、程度が必要じゃないでしょうか。きっと完璧に理解したら味気ない。差異を埋めていく過程で得られる発見や感情こそが味わうべき旨みじゃないかと思います。
さとりんは心を読む妖怪なのに、それに翻弄される自分をまずは克服したほうがいいんじゃないかと……。
内容的には一つ飛びぬけたものを感じたので点数に反映を。
12. 6 兵庫県民 ■2010/12/11 22:51:36
なんという歪んだ愛…
そして、それをメリットにしてしまうとは。
13. 10 名前が無い程度の能力 ■2010/12/11 23:51:25
感情表現がとても見事でした
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