やさかさまの姿見

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 23:50:35 更新日時: 2010/12/13 03:53:44 評価: 14/14 POINT: 77

 その朝、守矢神社の居間には奇妙な光景があった。
 部屋のまんなかに直立不動で立つのは八坂神奈子。
 そしてその前に立った早苗が、神奈子の胸元にグッと顔を近づけている。
 早苗の表情はどこか不満気で、なにか怒っているようにも見えた。更にその口は真一文字に結ばれている。

「うーん……」
「おい、早苗……早くしてくれよ」
「ちょっと待ってくださいってば。あと少し……」

 そこへ、少し遅く起きた諏訪子がやってくる。彼女はその場でポカンと口を開いた。――仁王立ちする神様の胸に向かって、巫女がぐーっと顔を近づけているという珍妙な光景を見て――

「なにしてんの?」

 その声に気付いた神奈子は「やれやれ」とため息混じりに髪の毛をかき上げる。そして早苗の鼻息で曇ってしまった、胸につけている小さい鏡を服の袖で磨くように拭いた。
 一方で早苗は前髪にあてがっていたカエル型の髪留めを片手に持ったまま、不満そうに頬をふくらませて振り返る。そして髪留めをポケットにしまうと、諏訪子に向かって早口に説明を始めた。

「聞いてくださいよ、諏訪子様! 神奈子様ったら、私の“姿見”をこっちに持ってこなかったんですって!」
「姿見ってあの、大きな鏡のこと……? それで、もしかして神奈子の胸にある……」
「そう! 仕方がないから神奈子様の胸についてる鏡で、髪を整えようとしていたんです!」
「いや、参ったよ。まさか、この鏡が身だしなみを整えるのに使われる日がくるとは……」

 大事そうに胸元を飾る鏡――名を『真澄の鏡』という――に指を添えて言う神奈子。
 それに対して早苗は、まるで鏡に向かって叱咤するように吠えた。

「しかも、なんだか薄汚れていて全然映らないんですよ、あの鏡! 真澄なんていう名前してる癖に!」
「おいおい早苗、自分の神社の宝物を否定するんじゃないよ。それに何千年も前の鏡なんだから、映らなくて当たり前じゃないか」

 神奈子は諌めるように優しくいったが、彼女の怒りは収まらないようだった。
 早苗は自分の髪を手櫛で梳くようにしながら、ふつふつと沸き立つ怒りを神様たちにぶつけた。

「大体ですね、神奈子様が引越し準備は私に任せろー、っていうから私は安心していたんです」
「むぅ。ちゃんと持ってきたじゃないか、鏡」
「あれは手鏡でしょう? そうじゃなくて、私の部屋に置いてあったような、大きな姿見が欲しいんです! これから信仰を増やしていく為にも、風祝の私は身だしなみをキチンとしなきゃいけないんですからね!」
「わ、悪かったよ。でも今更、外の世界から持ってくる事は出来ないからなぁ」
「もう、いいです! 私が幻想郷のどこかから探してきますから!」

 喋っている内にますますヒートアップしていった早苗は、ついに庭へと繋がる障子戸を開け放ち、廊下へと飛び出た。
 突然の行動に驚いた神奈子は、慌ててそれを呼び止める。

「お、おい! 早苗、どこにいく?」
「布教がてら、姿見を探しに行きます! 今日のお昼は、お二人で何か適当に食べてくださいね!」

 早苗は叫ぶように言いながら神社から飛び出すと、神奈子の止める間もなく空へと舞い上がっていった。
 神奈子と諏訪子は、それをただ呆然と見上げて、豆粒のように小さくなっていく早苗の姿を見送る。そして、諏訪子が「ぐぅ」と腹の音を鳴らし、ぼうっと空を見上げながら、ぽつりと零す。

「ねぇ神奈子。なんで早苗はあんなに怒っていたのよ……?」
「うーん、やっぱりお年頃だからね。見た目には色々と気を遣うのかも……」
「それにしたって怒りすぎじゃない? ……ま、でも、鏡を忘れてきたアンタもアンタよねぇ。なんで忘れちゃったのよ?」
「いや、忘れた訳じゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
「……いや、何でもない。ちょっと早苗が心配だから、様子を見に行くよ。そのあいだ留守番を頼むわ」
「まぁいいけど。今は神奈子が下手に顔を出さない方がいいんじゃないの〜?」

 ケラケラと笑いながら放たれた言葉をなかば無視して、神奈子は早苗の後を追うようにして空へと舞い上がっていった。
 雲ひとつない晴天の中に神奈子の姿は消えていく。居間に一人取り残された諏訪子は、早苗の暴走ぶりに呆れつつも、いつもと少し違った彼女の様子に心配もしていた。

「何事もなければ良いけどねぇ」

――それは、守矢神社が妖怪の山へと引っ越してくるという“異変”が解決した、その少し後の出来事。



          ☆          ☆          ☆



 顔の火照りを、吹きつける風で冷やしながら、早苗は幻想郷の空を飛ぶ。
 少し、強く言い過ぎたかな。――そう反省する気持ちもあったが、彼女は自分の怒りが正しいものであると信じていた。

 実は早苗も、姿見がないこと自体には、それほど強い怒りを感じたワケではなかった。
 ただ、神奈子の胸に掲げられた鏡。それを覗き込んだ時に映った自分の顔が、鏡の歪みのせいでか、ひどく醜く映ったのが気に障ったのだ。
 そしてカッと頭に血が上って、ついつい神奈子に対してあんな態度をとってしまった。

「もっとマトモな鏡、幻想郷にないかしら」

 彼女は鏡を求めてキョロキョロと周りを見渡してみる。そして思いついたように、とりあえず幻想郷において、自分ともっとも関わりが深い人間のもとを訪ねる事にした。
 といっても、“彼女”と早苗は決して仲が良いとは言えない。なにせ、早苗はその人間の所へ乗り込んでいきなり「営業停止命令」を叩きつけるという喧嘩を売った過去があるのだ。しかし、そんな遺恨もあんまり気にしないのが、早苗という人間の特徴である。
 あっという間に博麗神社に到着した彼女はさっそく、社務所に向かって底抜けに明るい声で巫女の名を呼んだ。

「霊夢さーん。お邪魔しまーす」

 社務所の中からは、心底面倒くさそうな顔をした霊夢が、ノソノソと亀のような足取りで現れる。
 そして腫れぼったい目で客の姿を確認すると、青い顔を隠そうともせず、だるそうに早苗を出迎えた。

「あら山の上の……。何か用かしら?」
「こんにちは霊夢さん。随分と眠たそうですね!」
「ああ、昨日は境内で、連中に遅くまで宴会をされてね。煩くって眠れないし、二日酔いだしで……最悪よ。……うぇっぷ」
「宴会なんてしていたんですか! 今度は私も呼んでくださいよ」
「別にいいけど……でも、あんた下戸でしょ。天狗とか来るから、絶対に辞めといた方がいいわよ……。それで、一体何の用?」

 霊夢は縁側に腰掛けるように手招きして、早苗に用件を言うようにうながした。
 彼女は遠慮なく巫女の隣に座ると「聞いてくださいよ、霊夢さん」と元気よく切り出した。

「私の家、姿見がないんですよ!」
「素が民……??」

 霊夢は呟いて首をひねると、しばらく無言になって考えた。“姿見”という単語自体を、随分と久しぶりに聞いたからだろう。やがて、彼女は「ああ、あったわね、そんなものも」といった様子で早苗の言いたい事を理解した。

「え、っと……姿見って、大きい鏡のことよね? ふーん、そうなんだ。で?」
「霊夢さんの家にはあります?」
「ええ、あるわよ。私の寝室に置いてあるっけ」
「じゃあ、それ、下さい」
「阿呆か」

 当然、反射的に霊夢はきっぱりと断った。
 対して早苗は不満そうに「えー」と漏らすと唇をとんがらせた。

「霊夢さん! 実は私、明日が誕生日なんです! だから下さい」
「嘘つけ」
「本当です!」
「本当だったとしても、普通そーいうのは自分からねだるものじゃないでしょうが」

 霊夢の説教じみた反論をもろともせず、早苗は何とか姿見を譲り受ける為の口実を作ろうと頭を捻った。

「何でですか? 霊夢さんって身だしなみとか気にしなさそうじゃないですか! 使わないだろうから、私に下さい!」
「失礼な奴ね、君は。……まぁ、私もそんなに見た目気にしてるつもりはないけど。でも朝起きたら鏡を見て髪の毛とかリボンとか、色々と整えるくらいはするわよ」
「あ、そうですよね。例えどんな人であろうと、女の子には鏡が必要ですよね! だから私も困っているんですよ〜」
「何でいちいち喧嘩を売ってくるのかは分からないけど……。そんなに困る? 鏡がないと」
「困りますよ! だって身だしなみをちゃんとしなきゃ、信仰を増やすのにも悪影響が出ますから」
「……そんなんで増える信仰だったら、安いものねぇ」
「霊夢さんだって、ちゃんとおめかしして里に出れば、きっと人気が出て信仰もアップですよ?」
「それは人気であって、信仰じゃないでしょ。……でも、あんたの信仰稼ぎに対する姿勢だけは見習いたいくらいね、まったく」

 霊夢が呆れたように言うと、早苗はニッコリと嬉しそうに笑った。
 彼女には嫌味が効かない。それが早苗という人間の特徴である。

「はい! 私は八坂様と洩矢様の信仰を復活させる為に、この幻想郷に来たようなものですから!」
「はぁ〜、同じ巫女として頭が上がらないわねぇ。あ、そうだわ。きっと自分の神様がどんなのかも知らないから、やる気が出ないのね、私」
「きっとそうですよ! 神奈子様や諏訪子様のような神徳を目の当たりにすれば、霊夢さんも自然と布教活動に精が出るはずです!」
「ほぉ〜、それはいい上司を持ったわねぇ……。神様も嬉しいでしょうねぇ、あんたみたいな巫女がいると……」

 全く羨ましそうではない顔で、ただ羨望の言葉だけを口にする霊夢。
 それに対して早苗は、優越感に浸りきった顔で宣言する。

「ふふ、どーです!? 参りましたよね? 参ったなら、私に姿見を譲って下さい」
「どんな理論よ。まず何にも参ってないし。……とにかく! 家には一個しかないから、姿見はあげられないわ」
「えぇ? ……困りましたね。じゃあどこか他に、姿見がありそうな所ってないですか?」

 霊夢からの入手は無理と観念して、早苗は他にアテがないか質問した。それを受けて霊夢は「う〜ん……」と少し考える。
 もともと、幻想郷は物で溢れかえっているわけではない。だから“姿見”という物品自体、そう多くは存在していないはずだ。
 普段は霊夢も姿見のことなど気にしていないので、誰がそれを持っているとかいう情報は、彼女の頭にも入っていなかった。だが、その中でなんとか心当たりをひねり出した霊夢は、今か今かと隣で答えを待つ早苗に情報を教えてあげた。

「もしかしたら、だけど。多分あそこ……紅魔館になら、鏡がたくさんあるんじゃないかしらねぇ」
「紅魔館……ああ、聞いたことはあります」
「ええ、湖のほとり……えーと。あんたの所じゃなくて山の麓の湖ね。あそこに建ってるわ」
「ありがとうございます! タダでもらえるかどうか、ちょっと聞きに行きます!」
「タダでもらうの前提はどうかと思うけど。それじゃあ頑張ってね。あ、スペルカードを忘れないように」
「はい、失礼します!」

 早苗は勢い良く立ち上がると、懐に忍ばせたスペルカードを確認しつつ博麗神社から飛び去っていった。
 厄介な客が元気よく空へと戻るのを見送ったところで、霊夢の動きがピタリと止まる。

「さて、と……ぅぅぐ!?」

 そして霊夢は、突如として胃から込み上げる濁流を感じて口を押さえる。彼女はそのまま猛然と厠へダッシュした。
 そう、二日酔いの人間に、早苗の元気は毒だったのだ。



          ☆          ☆          ☆



――いきなりではあるが、東風谷早苗は軟禁状態に置かれていた。

 端的に状況を説明すれば、紅魔館に侵入した彼女は、あっという間にメイド長に捕獲され、紅魔館の一室にて尋問を受ける羽目になっているのである。

「それで、何しに来たの? 外来人」

 ナイフを片手で弄びながら、椅子に腰掛けて薄く笑ってみせる咲夜。その正面では、早苗が同じく椅子に座って「うーん」などと唸っている。
 だが早苗は捕まった事に悲観した様子もなく、ただ咲夜の顔を興味深げにじっと見ていた。――そして現在、彼女は咲夜の質問を華麗にスルーしているのである――堂々とシカトされ、咲夜はやや、イラついた。

「……。聞いてる?」
「っ! ああ、ここに来た理由ですか? 姿見を探しに来たんです。ありませんか?」
「姿見……?」

 早口でまくしたてた早苗の言葉に、咲夜は眉をひそめた。
 この悪魔の館に人間がやってくるのは、一部例外をのぞいて滅多にない事である。――しかもその理由が「鏡を探しに来た」などというのは全くの前代未聞だ。

「どういう事かしら? 姿見なんか探して、どうするつもりだったの?」

 その質問に、待っていましたとかばりに早苗の口が開かれる。
 そして、まるで水を得た魚のように、彼女は饒舌にメイドへと語りだす。

「聞いてください、メイドさん。私の家には姿見がないのです! ヒドくありません? これじゃあ、身だしなみを整えるのも一苦労ですよ! だから鏡を探しに来たんです。あわよくば譲ってもらおうと思って」

 それを聞き、咲夜は思わず吹き出した。一つは、よくもまぁ初対面かつ無関係な自分に対して、そこまでペラペラと愚痴を言えたものだという事。そしてもう一つ。
 目の前の人間は――時間を止める敵に捕まり、目の前でナイフを弄ばれるという状況においても――ただ姿見がない事に対して怒っている。
 ただの人間であれば、ここで命乞いをするなり、正当な理由を探して紅魔館への侵入を必死に弁解するところだろう。だが、早苗は違った。
 確かにコレは、外の世界の人間よりも、紅白や白黒に近い人種なのだろうな。――と咲夜は嘲った。

「私は十六夜咲夜。確かあなたは東風谷早苗……突如、山の上に現れた神社。そこに住む巫女だと聞いているわ」
「へー! 私の事知ってるんですか! やったぁ」
「なぜ喜ぶ。まぁ良いわ。それよりは、なぜ貴方が姿見を欲しているのか、その理由についてもっと詳しく知りたいわね」

 あまり他人に興味を示さない咲夜が、珍しく興味深げに早苗へと問いかけた。
 だが咲夜の質問に対して、早苗は不思議そうに口を半開きのままで首をかしげる。まるで、咲夜がその質問をすること自体が自分には理解できない、とでも言うように。

「だからぁ、言ったじゃないですか。姿見がなかったら身だしなみを整えることも出来ない。そんなの、嫌じゃない!」
「……本当にそれだけの理由で紅魔館(うち)に侵入したの? ふふ、貴方の価値観は人とは少し、乖離しているのね。流石は外の人間といったところかしら……面白いわ」

 まるで面白い玩具を見つけた子供のように、咲夜の目が爛々と輝いた。そしてナイフを弄る手が自然と加速される。
 だが、一方の早苗は咲夜のそんな心境の変化などは何処吹く風。自分の目的以外の事象には全く興味も関心もなかった。

「それで咲夜さん! 姿見、あるんですか? ないんですか?」
「ええ、あるにはあるわ。一つの部屋に、ひとつずつ」
「じゃあ、一つ下さい!」
「馬鹿なの?」

 タダであげる訳ないじゃない、と咲夜は呆れ返った。そこで咲夜は、自分がこの娘と喋る事に若干の疲れを感じている事に気付く。
 まさかこの世に自分のペースを乱すような人間がいるとは考えたこともなかった。咲夜はその「得体のしれない恐怖」にごくりと固唾を呑む。今も気付けば、自分が尋問をしているはずが、いつの間にか主導権は早苗に移っているのだ。
 そして疲れた瞳を早苗の方へ戻すと、彼女が自分の事をじっと見つめている事に気付いた。――こうなっては仕方がない、と咲夜も諦めて彼女のペースに乗ってあげることにした。

「……何かしら、早苗?」
「さっきから気になってたんですけど……」
「何よ?」
「咲夜さんって身だしなみとか、すごい綺麗ですね!」
「あ、そう」

 咲夜も褒められて、まんざらではない。
 完全な従者である彼女は、襟一つの乱れもない完璧なメイドの格好をしている。それは彼女にとっては当たり前であったし、主もそれをいちいち誉めるような事をしなかった。そして幻想郷に住む連中は、それに気付いて指摘をしてくるような機微もない。
 だから早苗にそれを褒められたのが、咲夜は純粋に嬉しいと感じた。

「すごいですねぇ。やっぱりメイドさんだから、ご主人様の為に身だしなみとかもキッチリしてるんでしょうか」
「……そう、そうね。あなたも主に仕えるという点では、私と同じなのね。まぁ吸血鬼と神様じゃ、勝手が違うでしょうけど」
「えぇ! 咲夜さんのご主人様って吸血鬼なんですか!?」
「知らなかったの? こっちが驚きね」

 咲夜はクスリと笑いつつ、弄んでいたナイフをスカートの中へと仕舞った。

「それで早苗、あなたはもし姿見を手に入れたのなら……。なんの為に身だしなみを整えるのかしら?」
「え〜愚問ですよ〜! オシャレは女の子にとって、息をするのと同じような事じゃないですか! 目的なんてないです。咲夜さんは違うんですか?」
「私の場合はお洒落じゃないわ。ただ身を整えているだけ。お嬢様の従者として相応しくある為にね」
「あ、でも。それは……私もそうですよ。風祝の、巫女の私がしっかりした格好をしていないと、神奈子様と諏訪子様の信仰は増えない……」

 その言葉を聞いた咲夜は、早苗が紅魔館へ忍び込んだ本質をようやく捉えたような気がした。
 そしてニヤリと口元を歪めると、心なしか肩を落としている早苗へ言った。

「私とあなたじゃ、姿見の使い方は、やっぱり違うわね。あなたは主の役に立つ為に、何かしようという気持ちで鏡を覗きたがっている」
「え? 咲夜さんは、違うっていうんですか? ご主人様の為に、って思っているんじゃないんですか?」
「いいえ、私は主に相応しい自分である為に、毎朝鏡を覗いているのよ。役に立つとか何かしようって訳ではない。ただ従者であるが為の行動」
「それって、私と何か違うんですか? ……私のやりたい事って、間違っている事なんですか?」

 早苗はムッと顔をしかめた。
 咲夜の言葉は攻撃的ではなかった。しかしまるで羽毛で顔を撫ぜるような、優しい挑発のように早苗には感じられた。
 その様子を見て咲夜は静かに目を瞑ると、まるで諭すような、やや柔い声を出した。

「いいえ、どちらも間違った事じゃない。それはただ、あなたと私の境遇の差ね。さっきも言った通り、私は吸血鬼、あなたは神様に仕えているのだもの。それは、違って当然よね?」
「そりゃ、そうですけど……でも……」
「ならいいじゃない。私と貴方は違う人間なのだから、同じようにやって同じ結果が得られるとは限らない。貴方はあなたなりの答えを見つけなさいな」
「……うー、なんか納得がいきません。結局、咲夜さんに上手く丸め込まれたような……」
「とんでもない。初対面で私とここまでマトモに話せた人間は、そうそうまだ生きてはいないわよ」
「あ、じゃあ、ご褒美に姿見ください」
「駄目よ。調度品のひとつ足りとも、この館からは出てはならない。それは全てお嬢様のものですもの」

 咲夜も譲らない。流石の早苗も、この人物からどうにかして姿見を入手するのは無理だと悟った。
 そして、がっくりと肩を落とした早苗に向かって、咲夜は一言付け加えた。

「ただ、教えてあげましょう。この館にある姿見は全て、里にある家具屋で買ったのよ」
「えっ、お店に売ってるんですか?」
「そうよ。まぁ、まだ売っているとは限らないけど」

 それを聞いた瞬間。しょぼくれていた早苗の顔が、太陽に照らされたようにパァッと明るくなった。
 武者震いのように身体を震わせ、勢い良く立ち上がると、振り下ろすように咲夜へと頭を下げる。

「ありがとうございます! それでは、ちょっと買いに行きますね!」
「あ、ねぇ。一応、あなた、うちに侵入したって事で捕まっているのだけど……」
「あっ! そうでした! 咲夜さん、どうしましょう?」
「……もういいわよ。今回は初犯だし、何か盗まれたわけでもないし。ただ、次からは本気で刺しにいくわよ」
「どうもです! それじゃまた!」

 早苗は素早い動きで部屋の窓を開けると、そこからひらりと飛び出す。そして騒がしい巫女は強さを増した日差しの中へと、高速で飛んで消えていった。
 それを横目で見届けた咲夜は、深い溜息と共に椅子の背もたれへと体重を預ける。
 手の中の懐中時計を見ると、早苗が侵入してから一時間ほどが経過していた。

「私も、お嬢様と一緒にここへ来ていれば、ああなっていたのかしらねぇ」

 珍しく独り言など呟いてから、咲夜はおもむろに時を停止させた。
 早苗のせいで滞った仕事を一時間程、ここから取り返さなければならないからだ。
 どうせ妖精メイドたちは、私が居ない間はサボタージュしていたに決まっている。――咲夜はもう一回、深く溜息をついた。



          ☆          ☆          ☆



「すいませ〜ん。ここって姿見売ってたりします?」
「……ハァ? 姉ちゃん、八百屋に鏡が売ってるワケねぇだろ! 家具屋に行きな、家具屋に」
「あ、本当だ、八百屋だココ。う、しかも大根が安い! おじさん、後でまたお邪魔しますね」
「おうよ、待ってるぜ」

 早苗は八百屋から離れると、焦燥感でいっぱいになった頭を左右に振って、なんとか頭を冷やそうとした。
 なぜ早苗が八百屋に入ってしまったかと言うと、それ程に彼女は多くの店を探して里中を歩きまわり、もう疲労困憊だからだ。
 疲労のあまり、白菜がランプシェードに、カボチャが土鍋に見えてしまってもおかしくはない。おかしくは、ない。

「見つからないなぁ……」

 天を仰いで呟く早苗。彼女は里に存在する店という店を回ったのだが、しかしそこで売っているのは、外の世界ではガラクタと呼ぶに相応しいものばかり。早苗の求める姿見は、どこにも見当たらなかったのである。

「しまったなぁ。咲夜さんに、お店の名前まで聞いておけばよかったわ」

 いっそのこと、もう一度紅魔館に戻ろうかと考えていた時。早苗の目の前に、ついに求めていた光景が飛び込んできた。
 その店は珍妙な置物などが売っている、普段の早苗なら見向きもしない店だったのだが、ちょうど店頭には中華風な化粧箱と一緒に、小さな手鏡が売っていた。

「鏡が売ってるーっ!」

 早苗は叫びつつ店頭に駆け寄ると、退屈そうに店番をしていた子供に向かい突進した。
 その早苗の形相と迫力に、店番は顔をひきつらせながら「い、いらっしゃいま……せ」と応える。

「すみません! このお店って姿見売ってませんか? お金は後で持ってくるので!」
「ごめん。あったけど、さっき売り切れたよ」
「えぇぇぇぇ!」

 早苗はそのままの勢いで、店番に向かって激しく転倒した。
 足元にうつ伏せになった早苗を見下ろし、申し訳なさそうに鼻の頭を掻きながら、店番は説明する。

「いや、本当についさっき売れちゃってさ。お姉さん、運がないねえ」
「なんてこと! 紅魔館なんかに寄らなければ買えたって事……!? 悪魔の館め……!」

 紅魔館に行かなければ、そもそもこの里の店には来なかったという矛盾を差し置いて、早苗は紅魔館を逆恨みした。
 くやしがる早苗を見てあんまり哀れに思ったのか、店番は手近にあった手鏡を持って彼女に差し出した。

「お姉さん、普通の手鏡なら売ってるけど……」
「もう、そういうのは持ってるんです! 一目で全身が見れる、立派な姿見が欲しいんですーっ!」
「参ったなぁ。あれは貴重なものだから、うちで売っていたのが、このあたりでは最後の奴じゃないかなぁ」

 店番は首を傾げながら手鏡を陳列に戻す。
 早苗は歯ぎしりをしながら、次なる情報を得る為に彼へと問い詰めた。

「あう……。何か、心当たりはないですか? 姿見が売っている場所とか!」
「いやぁ、知らないなぁ。さっき言ったとおり、売り物としてはさっきあったのが最後じゃないかな」
「じゃ、じゃあ……。姿見を持ってる人に心当たりは? それも、できるなら簡単に強奪できる、弱そうな人とか妖怪……」
「強奪って……お姉さん、山の上の新しい神社の人だよね? 巫女さんが、そんな物騒な事いってて良いの?」
「うっ、私のこと知ってるんですか? あ、いや、強奪なんて聞き間違いです! ていうか私は巫女じゃないです、ただの通りすがりの乙女です! そそ、それでは失礼します!」

 早苗はあわてて店から逃げ出すと、姿を隠すように活気溢れる人里の通りへ飛び込むと、しばらく夢中で駆けた。
 そして店から大分離れたところで足を止めると、乱れた息を整えつつ溜息をつく。

「はぁ〜。危ないわ、もう少しで神社の評判を落とすところだった……。それじゃ、本末転倒じゃないの」

 早苗はしばらくの間、とぼとぼと寂しく人里を歩いた。
 日はやがて天頂にさしかかり、まもなく正午を知らせようとしていた。

「う……?」

 そこで早苗はお腹が空いた事に気付いて、どこかの店で昼食を食べようと思いついた。
 蕎麦屋やスキヤキなど、外の世界の和食屋とあまり変わらない品揃えが、早苗の目の前を通りすぎる。 

「……あ、お昼ごはん、作ってなかったっけ」

 何を食べようかと目移りしていた早苗。だが、ふと神様たちの顔を思い出すと食欲が失せていった。
 神社では二人が今頃、自分の作るお昼を楽しみにしているのではないかと思って、彼女はさらに落ち込んでしまう。思わず、鏡を探すために神社を飛び出してきた自分自身に「一体なにをしているのだ」と叱咤の言葉をぶつけてやりたくなる。
 きっと帰ったら二人とも怒っているのだろう。――そう考え、早苗は急に憂鬱になってしまった。

「あきらめよっかなぁ……」

 その時、ふと、定食屋から漏れた美味しそうな臭いが、早苗の鼻腔へと流れつく。
 否応なく食欲が反応して、思わず目線をそちらへ向ける。

 そこには、定食屋の店先でカツ丼をかっ込む、洩矢諏訪子(神)の姿があった。

「諏訪子様ァー!? 一体、ここで何をしているんですか!?」
「おお、早苗じゃん。ご飯は各自で、って早苗が言ったから、外食しに来たのよ」
「えっ、じゃあ神奈子様も?」
「ああ、あいつは一足先に神社に戻ったよ。なんか山の連中と協議があるんだってさ」
「……そうですか」
「それで? 姿見は見つかったかい?」
「う、……駄目でした。やっぱりそう簡単には見つからないみたいです……」

 分かりやすく落ち込んでいる早苗に向かって「とりあえず何か食べる?」と聞いた諏訪子は、店員にカツ丼を追加注文する。
 その店は“美味い、早い、妖怪もOK”の三拍子揃ったのがウリの店だった。ちなみに諏訪子は入店前に「妖怪はOKだけど、神様でも大丈夫なのか?」と店員に尋ねようとしたが、隣で豊穣の神様が二人してカツ丼を食べているのを見て入店を決意したのである。――などと余談をしていると、その宣伝文句の通りに、ものの数分でカツ丼が出てきた。
 店先に並べられたテーブルの上に置かれたカツ丼からは、ほかほかと白い湯気が沸き立ち、そして肉汁がじんわりと流れでている。
 すでに一杯食べ終えた諏訪子の方が、思わず、じゅるりと涎の音を鳴らしそうになった。

「美味しいよ。ほら、食べなよ」
「……はぁ、いただきます」

 早苗は箸を取ると、あんまり浮かない顔のままでカツ丼を食べ始めた。
 だが流石に身体は正直なもので、一度口にしたら後はガツガツと肉も白米も平らげてしまう。
 空きっ腹はあっという間に満たされて、心なしか早苗の表情にも元の明るさが戻ってきた。
 それを満足気に眺めていた諏訪子は、早苗への伝言があったのを思い出した。

「あ、そうそう、早苗が留守にしている間、白黒の魔法使いから宴会のお誘いが来たよ」
「えっ? 魔理沙さん?」
「うん。なんか具合悪そうだったけど、二連チャンで行くぜ、って張り切っていたわ」
「宴会……ですか。あまり乗り気じゃないけど、せっかくなんで行きましょうか」
「うんうん、神奈子も協議が終わったら来るっていってたし。場所は博麗神社らしいよ、一緒に行こうか?」
「はい。ご一緒させていただきます」

 早苗は姿見が手に入らない事で意気消沈したので、宴会に行って気分転換でもしようと考えた。
 外の世界では年齢制限があって呑まなかったお酒だが、郷に入っては郷に従え、彼女も少しずつ嗜むようになっていた。だがそれは神社の三人だけの晩酌といった風で、他の人間たちとの宴会に早苗が参加するのは稀であった。

「でも早苗、あんまり強くないんだから、ほどほどにしておきなよ?」
「分かってますよ諏訪子様! 私だって好きこのんで醜態を晒すような趣味はありませんから!」

 締めの緑茶を飲み干すと、二人は里で宴会の差し入れを購入してから、一路博麗神社へ向かった。



          ☆          ☆          ☆



 ぐでんぐでんに酔っ払った早苗を、霊夢が嫌々看病していた。

 太陽が山の陰に隠れた瞬間。その宴は始まった。
 博麗神社にゆかりのある人間や妖怪、そして近くを通りかかった者、ただ暇な者。
 それらがごちゃごちゃと入り交じって、薄暗い中で呑めや歌えやの大騒ぎだ。

 ただ、その喧騒から外れた境内脇にある大きな桜の木、そこに背中を預けながら霊夢が不満げに叫んでいた。

「ちょっとー、あんたの所の巫女なんだから、そっちで面倒見てよー」
「同じ巫女のよしみだ、少し見ていてくれ」

 霊夢の抗議を聞き流しつつ、神奈子と諏訪子は宴会の中心で妖怪たちと飲み比べなどをしている。
 盃の神様を自称しているだけあって、その飲みっぷりは大層なものらしく、二柱の神様は酒豪ぞろいの妖怪たちにも受けが良かった。

 霊夢が「まったく……」と鼻から息を吹くと、その傍らで芝生に寝っ転がっていた早苗がピクリと反応した。
 先程まで酔いつぶれ伏していた身体をゆっくりと起こすと、じぃっと霊夢を凝視し始める。彼女の目はトロンとして焦点が合わず、頬は真っ赤に染まり、その動きは軟体動物のようにクニャクニャとしていた。

「うー、お母さぁぁん?」
「お母さんじゃありません。博麗霊夢です」
「あぅー? 霊夢さぁあん、お酒わ〜? わわぁぁぁ〜?」
「馬鹿、これ以上あんたには呑ませないわよ」
「まっだまだぁぁ、だいじょぉぶでしゅってぇ」
「駄目だこりゃ。……外の世界の人間は皆こんなにもお酒に弱いのかしら? それだったら大人になるまで禁止されるのも無理ないわ……」

 呆れて頭を掻きむしりつつ、傍らで喚いている早苗に水を飲ませたり様子を見たり、何だかんだと面倒見のよい霊夢。
 そこへ宴会の参加者たちも、ちょくちょくと寄ってきては邪魔をしてくる。
 まずは、こういった状況を目ざとく見つける事に定評がある魔理沙である。彼女は麦酒の入ったグラスを片手に、少しふらつきながら霊夢のところへやってきた。

「おう霊夢、大変そうだな。何か食べ物を持ってきてやるか?」
「もうお腹いっぱいよ。出来るならコレ、代わって欲しいわね」
「おぉっと、駄目だぜ。幹事は常に手を空けておかなきゃあな」
「それじゃあ、こんな所にいないで、宴でも盛りあげなさいな」

 酒でほんのりと赤くなった頬を指で掻きながら、魔理沙は「分かった、分かった」と宴会の真っ只中へ戻っていこうとする。しかし、それを緑色の悪鬼が阻止する。

「うがぁぁ! 置いていかないでー!」
「あだだだだ! エプロンを引っ張るな!」

 早苗はまるで沼地に潜むワニが獲物を捉えるが如く、その場を立ち去ろうとした魔理沙のエプロンを後ろから引っつかんだ。
 魔理沙は後ろに引っ張られつつ腰を締め上げられ、まるで絞られた雑巾のようにウェストを細くしていた。

「ぐぇぇ! バカ! 置いてくも何も、酔っ払って一歩も歩けないだろ、お前! ぎぃぅうぅ絞られるぅぅ」
「うぅ、お母さん……」
「だからお母さんじゃなくて、そいつは霧雨魔理沙だって」
「れ、れいむ、解説はいいから、助けろ……ぐぎぎ」
「置いて……か……ふにぃ」

 早苗は力尽きるように倒れると、また静かに目を瞑って意識を失った。魔理沙は「大丈夫かよ、こいつ!?」と覗き込みながら、絞られた腰のあたりをさすった。

「あー、大丈夫。ただ酔うと暴れて眠るタイプみたいだから」
「むちゃくちゃ厄介なタイプじゃないか。呼んだの、まずかったかな。無理させて……」
「いや、本人は呼んで欲しいっていってたし、魔理沙が気にする事でもないわ」
「うーむ。……とりあえず、霊夢。任せたぜ」
「はいはーい。私も自分の家の庭先で一晩中寝られちゃ、困るしね」

 魔理沙はくしゃくしゃになったエプロンのシワを伸ばすように手で直しつつ、再び宴会の中に突入して騒ぎにいった。
 するとそれを見計らったように次の来客だ。彼女は赤い液体の入ったワイングラスを片手に、しっかりとした足取りでやってきた。

「あら、鏡を探していた癖に自分が虚ろになっていちゃ世話ないわね。……って聞こえやしないか」
「お、メイド。今日も料理は美味しかったわね。ありがとう」
「そうそう、こんな所で油売ってないでお嬢様の所にも行ってよ。私の顔を立てるつもりで」
「あんたの面目は潰れっぱなしがお似合いよ。――で、そうそう。早苗が鏡を探しているのを知っているって事は、咲夜の所にも来たの? こいつ」

 自分が紅魔館の存在を教えた事など、すっかりと忘れたような口ぶりで霊夢が問う。
 咲夜はおおよそ、そんな事だろうとは思いつつ、草の上で横になった早苗を一瞥する。

「そうそう、いきなり鏡をくれ、なんていうから泥棒よりもタチが悪いのが現れたと、戦慄したものよ」
「そーそー、私も言われたわ。それにしても、なんで姿見がそんなに必要なのかしら……話聞いても良く分からないし……」
「それはですね!」

 突如、酔いから醒めたように起き上がった早苗は、相変わらず焦点の合っていない瞳で霊夢を睨みつけ、大声を上げ始めた。
 ギョッとした霊夢は慌てて早苗の身体を地面へ押し戻そうとしたが、その酔っ払いは意外に力持ちで、びくともしない。

「神奈子様と諏訪子様の為なんです! 私が広告塔になって、お二人の為に信仰を集めなければならないんです!」
「それは聞いたけど……でも、そんなに必死にならなくても」
「! ……そう、霊夢さんは気楽で良いですよねぇ。私と違って布教活動なんてしなくて良いんですもの」
「うわわ、絡み酒……」

 霊夢が気付いた時には、さっきまで話していたはずのメイドの姿はなくなっていた。
 上手いこと逃げられた、と舌打ちする霊夢の両肩を掴んで、早苗は酒臭い息を吐きかけてきた。

「私がどんな気持ちで、布教活動に力を入れているのか、知っているんですかぁ?」
「知らないわよ。それに私だって神社に人が来るように色々と……」
「だって私、外の世界の全てを捨てて……」
「あー、こりゃ人の話聞いちゃいないわ」
「それでお二人の信仰を取り戻す覚悟で、ここに来たんですぅ……よぉ?」
「ギブアーップ」

 もはや会話は不可能であると霊夢が白旗をあげる。すると、それを隙と見たかのように、早苗は物理的な攻撃を仕掛けてきた。
 緑の頭が霊夢の死角をつくように深く沈む。それに気を取られた霊夢は、魔手が己の腰を捉えるのを許してしまう。「しまっ……!?」逃げられなくなった彼女の腹部に鈍重な衝撃が叩き込まれる。蛙の髪飾りが、地味に痛い。――そして早苗は、まるで霊夢に膝枕をされるような体勢になった。

「いったぁ! てか重い、重い!」
「むふぅ〜」

 霊夢はその重たい頭部を何とか退けようと、腕で押しのけようとするものの、早苗は胴体にがっしりとしがみついて動かなくなってしまった。
 そして霊夢の服に顔面をこすりつけるように、グイグイと鼻先を左右に動かす。

「あちゃあ、こりゃまた面倒な……」
「でもぉ聞いてくださいぃぃ! それなのに神奈子様ったら、私の姿見を持ってきてくれなかったんですよぉぉ? 私は、こんなにも、お二人の為に、頑張ろうとしているのにぃぃぃ、そぉんな大事なものを忘れるなんて……うう」
「うーん、あんたのやる気は分かったけどさぁ。姿見なんてなくたっていいじゃない。あんたはここにいるんだから」
「なーにを訳分からない事いってるんですか! 私がここにいたって、信仰がお二人に集まらなければ意味がないんです! その為に姿見が必要なのにぃ……世の中信仰、信仰ですよぉ〜」

 早苗は霊夢の身体を捕獲していた腕を解いて、何故か自信満々に胸を張る。

「っ! 今しかない!」

 霊夢はその隙を逃さず、脇に置いていたコップを掴むと、ついに早苗の顔面に冷水を浴びせた。

「ぶへぇ! なにするでしゅか、霊夢さぁん」
「そろそろ頭冷やしなさい。……それにねぇ、私ほどじゃないにせよ、力抜いたら?」
「駄目ですよぉ、私は……かじゃはふり……にゃんでぃすきゃら」
「その気負いが駄目。……あのお二人さんはさ、あんたがこっちに付いて来てくれただけでも、十分に感謝してると思うわよ。……ってもう意識がないわね、こいつ」

 大きなイビキをかいて寝始めた早苗を見下ろしながら、珍しく人の為になる事を言おうとした自分が馬鹿らしくなる霊夢。ここはとりあえず、保護者を呼んで引きとってもらう事にして、会場責任者権限で一次会をお開きにする事にした。
 月も爛々としてきた時間。酒の入った妖怪や一部の人間は、まだまだ呑み足りないと喚く。しかし、その中で神奈子と諏訪子は早苗の酩酊具合を見て、「こりゃまずい」と一足先に神社へ帰る事にした。

「はい、そこの神様。この風祝、お引き取りくださーい」
「すまないね、迷惑かけて。今度、美味い酒でも詫びに持っていくよ」
「私が足を持つから、それじゃ神奈子そっち持ってー」

 神奈子と諏訪子の二人に担がれた早苗は、なにか良い夢でも見ているのか、口元も緩く幸せそうに眠っている。
 その呑気な寝顔に、さっきまで手を焼かされていた霊夢は呆れ返った。

「ったく、人の気も知れないで……。あんたらも、姿見の一つくらい用意してやったら? 神様なんだから」
「はは、そうさせてもらうよ」
「そもそも、神奈子が鏡を忘れてきたからいけないんじゃん」

 まだ騒がしい地上の宴会を尻目に、神様たちは山の上の我が家へと帰っていく。
 その様子を見送った霊夢は、早苗の世話をしていて呑み足りなかった分を取り戻そうと、宴会の中へ飛び込んでいった。



          ☆          ☆          ☆



 早苗を担いでいるせいか、彼女たちの飛行速度はいつもより非常にゆっくりとしていた。
 夜風にそれぞれの髪が吹き流されて、それはさながら空を駆ける天女たちのように美しかった。
 それもそのはずだ。神様は信仰されなければ存在出来ない。そして信仰を得るには、まず何より美しくなければいけない。――見た目が醜悪な神に、人々は純然な崇拝を注ぎはしないのだから。

「それにしてもさぁ神奈子?」

 しばしの無言を打ち破り、まだまだ酔いの回っていない諏訪子が口を開く。

「ここの連中は面白いねぇ。私たちにもう馴染んじゃったみたい」
「正確に言えば、私たちが馴染んだ、ってところかな。……やはり、こちらに越してきて正解だよ。そうは思わない?」
「まぁ、誰かさんの一存で勝手に来ちゃったから、私は今更何も言えないけどねぇ?」
「やれやれ、ここに住んでいる限り、それは一生言われ続けるのかしら。参ったわ……」

 二人の神様は、この幻想郷での生活に概ね満足していた。
 幻想郷へ来てから二柱の神様は山の妖怪から信仰を得て、自分たちの力の維持という一番の目的は達成できたし、そして何より、その住民たちの気風がお気に召したのだ。
 妖怪はもちろん、人間ですらも神様である自分たちへと別け隔てなく接するという気質。もちろん、里に住む一般の人間は自分たちへ畏怖の念を持っているのだが、中にはそんな人間がいても良いものだ、と二人は感じるようになっていた。

「何よりさ、早苗もこっちの世界の方が、合ってるんじゃないかと思うんだよね」
「……そうだと良いわ。いや、そうじゃなかったら、私たちはこの子に何と詫びればいいのか」
「良いじゃない、早苗の意思で私たちについてくるって決めたんだから。それに私たちが負い目を感じたら、逆に失礼よ」
「そうだろうか。それでも、やはり、私は心苦しさを感じるよ」

 一体どれほど酔いが廻っているのか、早苗は未だに目を覚ます様子がない。
 そこで諏訪子は、ふと神奈子に尋ねた。

「ねぇ……なんで、早苗の鏡。持ってきてあげなかったの?」
「う、あんまり責めないでよ。忘れたものは、しょうがないじゃない」

 その台詞を聞いて諏訪子はやれやれと首を横に振った。傍から見ていても、その言葉には無理がある。諏訪子は朝の時点でそれに気がついていた。

「あんたねぇ、八坂神奈子が単純に忘れ物をしました。なんて言い訳、早苗くらいにしか通用しないわよ」
「……やっぱり諏訪子にはバレるか」
「それで、本当の理由はなんなのよ」

 やがて彼女たちは山頂へと到着する。
 しかし神社はまだ先にある。目の前に広がる湖――彼女たちが外の世界から持ってきたそれ――を渡り切らなければ、神社は見えてこない。
 その大きな湖には、ちょうど満月を迎えた月が映し出され、見事な景勝を生み出していた。
 更にそれを映すのは神奈子の赤銅の瞳、諏訪子の金色の瞳。

「……必要ないと思ったのさ」

 ぽつり、零した言葉に諏訪子は首をひねる。

「はぁ? どういう事よ」
「そのままの意味さ。早苗には姿見なんて、必要ないと思っていた」
「何の根拠に、そんな事を」
「この湖さえあれば、私たちはそれだけで良いと思っていたんだ」

 諏訪子は、親友が発した言葉。それに秘められた真意を掴みそこねていた。
 だが眼下を滑る湖面へ向けられた神奈子の眼差しは、特別な想いを持ったものであると察した。

「あーうー、湖の上は寒いわね〜。……聞かせてよ、その話」
「いいけど、ただ……馬鹿らしい話よ?」
「いいじゃない。馬鹿らしい話、大歓迎よ」
「……それじゃあ」



          ☆          ☆          ☆



『あれは……私?』

 目の前には、確かに自分が立っていた。
 まだ世事を知らない幼い自分が、湖のほとりに向かって立ち尽くしている。
 それを自分が後ろから眺めているという不思議な光景。それは現実では決して有り得ない現象。
 やがて、よく見知った神様が横手の森から現れたのを見て、彼女は思い出した。

『これは、私の小さい時の記憶かしら……? あぁ。夢、夢ね』

 頬をつねっても痛くない。――古典的な方法でそれを確認すると、早苗は幼い自分と同じように、ただその湖を眺めはじめた。
 神社と一緒に幻想郷にまで持ってきた湖。それは、早苗が幼い頃から慣れ親しんできた湖だった。幼い頃の自分は、こうして湖を見るのが大好きだった事を思い出す。
 ふと神様へと視線を移した。その神様は幼い子供、早苗の横に立って大きく、何度も頷いていた。朝霧で向こう側が隠された湖を、魅入るように見つめ続ける幼い子供。それを見て、どうやら神様はしきりに感心しているようなのだ。
 やがて神様は頷くのをやめると、満足気にニンマリと笑いつつ口を開いた。

「ほほう、この湖に興味を引かれるとは。なかなか有望な子供じゃないか」
「……? あなた、だれ?」

 誰に言うでもなく神様が呟いた独り言。
 それを当然のように拾いあげた少女に対して、神奈子はひどく驚いた。まるで蛇に睨まれた蛙のように身を強ばらせると、やがて、ぎこちない口調で問いただす。

「おま、お前。……私の声が聞こえるのか?」
「なにいってるんですか。わたし、目も耳も、わるくないですよ」

 耳の端っこを両手でつまんで、大きく横に広げる動作をして見せる早苗。
 神奈子は口に手を当てて、目を見開くと、動揺を隠し切れないままに続けた。

「姿も見られる……。すごい、何百年振りだろう……」
「へんなひと。ねぇ、あなた、だれ?」
「私は……。この地を治める神だ」

 そのあまりにも裸のままの言葉。
 普通の人間ならば耳を疑うような宣言にも、幼い子供は一切戸惑わなかった。少女は跳ね上がるような勢いで、表情を明るくして両手を合わせた。

「かみさま! やったぁ、ついにわたしのもとへ姿をみせてくださったのですね!」
「馬鹿に喜ぶじゃないか? 私の事を知っていたのか?」
「えぇ、だって、お母様が」

 その時、夢見の早苗は胸を抑えた。針が刺さったように、心臓が鋭く傷む。
 『おかあさま』――その言葉は、ある日以来、自分が決して口にすることのなかった言葉。
 無邪気に“その名前”を口走る幼い自分が、今の早苗にはまるで恐ろしいもののように見えた。

『くっ……』

 目をそらし、耳を塞ぎたい。だが、この夢は正面から受け止めなければならない、そんな予感がする。早苗はそう思って踏みとどまり、正面で繰り広げられる少女と神様の会話を見つめ続けた。
 だが、そんな事とはお構いなしに、彼女たちは淀みなく話を続ける。

「お母様が?」
「ええ、教えてくださったのです。わたしの仕えるべき方が、ほんとうは神社にいるんだって。それがかみさまなんだって」
「そうか。待たせて、すまない。まさか私を見ることが出来る者が現れるとは夢にも思っていなくてね。しばらく神社にも此処にも寄り付かなかったんだ」
「もう、ひどいです! わたしはこうして、毎日、ちゃんと湖を見にきていたのに」

 その時。幼い早苗の言葉に応えるように、朝もやのかかった湖が、その姿を二人の前に披露した。――舞台の幕が開いたように、白いベールに包まれていた湖が、美しい鏡面をさらけ出す。
 早苗は思わず「綺麗」と呟いた。その気持ちは、神奈子と幼い自分も、確かに同じであったはずだ。
 目を細め、二人して呆けたように湖へと目を奪われながら、神奈子が言葉をつないだ。

「毎日、湖に……? なんで、ここに来ていたのだ?」
「だって、こんなにもきれいじゃないですか。ここ、わたしのじまんの場所です」
「そうか……! やはり見る目があるな、お前は。これは私たちの誇りなんだ。何千年もの間、守ってきた宝なんだ」
「やさか、さま。ですよね……。わたしは東風谷早苗です。これから、よろしくおねがいもうしあげます」

 小さな頭を敬々しく下げた。神奈子はそれを見て、肩を震わせていた。
 それを傍から見ていた早苗は、同じように唇を震わせた。

『なんで私、忘れていたんだろう』

 ところどころはっきりと、大人びて。しかしほどほどに年相応の舌っ足らずな喋り方。――その幼い早苗は、ひどく歪な話し方をするものであった。
 だが今の早苗は、自分がそのような話し方をする子供だったことも、そうなった理由さえも忘れていた。歪だった自分から逃げるように、あの頃の事をすっかりと忘れてしまっていたのだ。

「そう、私は八坂神奈子。お前の、いや。……早苗の仕えるべき神。それが私だ」
「はい。おかおは知りませんでしたが、ずっとお慕いしておりました」
「もう一人、早苗に紹介したい奴がいる。いや、本来はそっちが早苗の仕えるべき神なんだが……」
「ええ、かみさまはお二人いらっしゃると、母からもきいてます。でも、なんで二人なんですか? そこがよくわかりません」

 そうだ、自分はこの時から、自分の神社の事を何も知らなかった。――早苗は最早、思わず笑いそうになった。
 ただ神奈子様と諏訪子様を信じて、お二人の為に信仰を集めれば良いと、自分では何も考えずにいた。
 見た目や喋り方こそ拙いものの、幼い自分と今の自分、何が違うというのだろう。
 その考えの果てに、早苗の視界がぼやけ始めた。

「それは、難しい話さ。まぁ……この湖を一緒に作った私の友達。今は、そう思ってくれれば良い」
「なら、すごいです。わたしの宝物をつくった方……ありがとうございます」
「ありがとうって……。別に早苗の為に作ったワケじゃないけどなぁ……」
「私はこの湖さえあれば、ほかにはなにもいらないんです。そのくらい、このみずうみが好きなんです」
「はっはっは、歳に似合わず殊勝なことを喋る子だねぇ」

 ――そうだ、自分の中にはまず、美しい湖への大いなる敬意があった。
 そして、それを作った二柱の神への確かなる尊敬があった。
 でも、後はそのまま。そのまま私の身体は成長したんだ。私自身には何も残さずに――

「そういうわけでさ。早苗には、他に何もいらないと思ったんだ。この湖さえあれば、他にはなにも」
『えっ』

 突然、どこからともなく神奈子の声が響き渡ってきた。湖に反響するその声は、どこから発せられているのか見当がつかない。
 慌てて目の前にいる幼い自分と神奈子の姿を見る。しかし、彼女たちの口は開かれてはいない。
 つまり、どうやらその声は、夢の中にいるのとは違う“他の神奈子”が喋っている言葉らしい、と早苗は気付く。

「ばっかだねぇ。そんな小さい時のこと、真に受けて。早苗だって覚えてないでしょうよ」
「……だから言ったじゃない。馬鹿な話だって!」

 今度は会話が響き渡る。“ここ”にはいないはずの諏訪子の声まで混じった事で、早苗はようやく理解した。
 自分が夢から醒めかけている。そして、今はその中間地点にいるのだと。
 外から響く現実の声が、この夢の中にまで聞こえてきている。それはまるで、拡声器を通したようにくぐもり拡大されている。早苗は「聞いてはいけない」と思って咄嗟に耳を塞いだが、その音はまるで脳に直接届くようにして彼女の鼓膜を震わせた。

「だからといって、姿見を持ってくるくらい、してやれば良かったのに……」
「それは本当に反省しているよ。気取り過ぎたかな……あんなに怒るとは思わなかったんだもの」
「この子も、私たちの役に立とうって必死なのよ。だから身だしなみにも、あんな異常に気合が入ってたんじゃない?」

 早苗はもがこうとしていた。この夢から抜けだそうと、二人の会話が聞こえる方へと。
 しかし身体の半分が現実に戻ったせいか、逆に夢の中の彼女は金縛りにあったように、ぴくりとも動けなくなっていた。

『なぁんだ。諏訪子様には、バレバレだったのね』

 もがきながらも呟いた言葉は、喉の奥底をジンと熱くさせた。
 それと同時に、早苗の中で今日という一日、常に張りつめ続けていたものがプツリと切れたような気がした。

『馬鹿みたい。一人で張り切って、周りに迷惑かけて……』

 目の前の過去は、美しい湖と共に虚ろになっていく。幼い自分と昔の神奈子が、最後にこちらを向いて微笑んだように見えた。「バイバイ」――そのように彼女たちの唇が動いたように思えたりもする。
 次いで早苗は臍のあたりから、自分の身体が別の世界へと飲み込まれ、裏返っていくような気持ち悪さを覚える。そして次第に、彼女は夢の世界から帰還し始めた。夢の中を埋め尽くしていた水のさざめきは薄くなっていき、代わりに現実世界の音が明瞭になっていく。――耳のそばを風が切っていく音、どこかで獣が哭いたような声、そして二人の話。

「早苗には、あんまり負担を掛けたくないんだけどねぇ」
「そうよ、私たちはあの子がついてきてくれた。それだけで十分なのに……」
「まっ、昔っから、何かやろうとすると周りが見えなくなる子だったからね」
「ふふ、危なっかしくて、まだ一人じゃ野には放てないねぇ」

 二人の談笑を聞きながら、やがて早苗の肌には神奈子の背中、その柔らかくて温かい感触が戻ってきた。
 それはまるで母親に感じるような、大きくて優しい暖かさだった。――歪な早苗が求めていたのは、それだったのかもしれない。
 その時には、意識は夢からすっかりと醒め、後は冷たい夜風が身体を起こしてくれるのを待つだけだった。

「あ、あれ? 早苗、泣いてるよ?」
「え? あら、本当だわ。何か悲しい夢でも見ているのかしら」
「……あっちの世界の事を、思い出しているのかもね」
「姿見が見つからなくて、悲しんでいるのかも……」
『ごめんね、早苗』

 開かない瞼。閉じない涙腺。重なる声に、必死で横に振ろうとも、微動だにしない身体。
 それらの感覚を持て余しながら、彼女はただただ、ひとつの事を強く思っていた。

――『ああ、湖がみたい』と



          ☆          ☆          ☆



 早暁。まだ吐く息も白いほどの寒さの中、燃えさかるように輝く大きな朝日が、ひとつの人影を湖面に映しだした。
 鳥たちでさえも囀るには早い時間。周りを深い森に囲まれた大きな湖。それはまるで子供がいたずらで置いたように、ぽつん、と場違いに山頂の上で横たわっていた。
 人影は微動だにせず、ただ水の揺らぎによって僅かにたゆたっている。そして、その影の主が唇を動かした。

「綺麗……」

 早苗は、湖のほとりに立っていた。
 それは酒が抜けて、ようやく自分の身体を取り戻した早苗が、一番にしたかった事。
 神奈子と諏訪子に気付かれないように、こっそりと神社を抜けだした彼女は、早速この湖へと足を運んだのである。

 夢の中での出来事。そして神奈子の想いを知ってしまった彼女は、心から遠ざかっていたこの湖へと自然に引き寄せられた。
 両手を擦り合わせてそこに息を吐きつけながら、早苗は目の前に広がる、まるで海のような大きさの湖を眺める。――その向こう側が蜃気楼のように霞むほど、それは本当に広大な湖だった。

「そっか、これが私の一番大事な……あっ」

 言葉に詰まったのは、その瞳に飛び込んできた茜色の極彩によるもの。
 この山頂へと朝日が降り注いだ光をその身に映した水鏡は、幾重にも折り重なった静かな波の中で乱反射して、神々しささえ湛えた輝きを放つ。
 その光の中に身を投じた早苗は、全身が暖かな風に包まれるような感覚に陥った。数千分一秒という短い間隔の中で、繊細な模様を次々と描き続ける様は、まるでカレイド・スコープ。

「これが神奈子様と諏訪子様の守り通してきた、自慢の……」

 早苗は、ふと足元を見る。まず、呆けた面の自分が映る。彼女はすぐに身体を少し上昇させると、覚悟を決めたように静かに首を上げた。――そして早苗は見てしまう。そこにある一つの“絵”を。
 その縁を森の深緑、カンバスの中央には雲と太陽。そして背景を染め抜くのは、何処までも広がり続ける青空。――そんな偉容を誇る絵画が、そこには映し出されていた。
 そんな中で自分はというと、一番下っ端、最果ての一部にぽつりと写り込んでいるだけ。それは、まるで絵の具の跳ねた粒のようにちっぽけだった。

「小さいなぁ」

 早苗はハハハと苦笑した。あまりの自分の矮小さに、人間は笑うしかなかった。――現人神だなんだと言われても、所詮は一つの生命体でしかないのだ――それが分かると、早苗は憑き物が落ちたように笑顔になった。昨日まで感じていた不平不満などは、いつの間にか吹き飛んでしまったようだ。

「帰ろうっ」

 彼女は地を駆けた。不思議と空を飛んで帰る気にはならなかったのだ。
 朝露で湿った地面を踏みしめて、山頂の冷涼な空気を全身で感じて、そしてその中を駆け抜けたかった。
 一歩進むごとに、彼女の身体からは、何かややこしいものが抜けていく。どんどん、どんどんと抜けていく気がした。

「神奈子様ぁー! 諏訪子様ぁー!」

 満面の笑みで神社へと戻ってくると、彼女は叫びながら居間へと突入していった。
 そこでは見慣れないエプロン姿で、味噌汁を作ろうとする諏訪子の姿があった。どうやら早苗が見当たらないので、自分で朝御飯を拵えようとしていたようだ。

「あ、早苗! どこ行ってたの? 心配したのよ?」
「えへへ、すみません。お散歩にいってました」
「やれやれ、朝っぱらから姿見でも探しに行ったのかと思ったわ……」

 天狗の新聞を広げながら零した神奈子の言葉で、早苗はハッとした。
 そういえば、二人には伝えなければいけない事があったのだ。
 彼女はすぐさまに勢い良く頭を下げて、こう言った。

「すみませんでした、神奈子様! 諏訪子様! やっぱり私、姿見は要りません」
「えぇ!? なんで、どうしたの?」
「私には鏡なんかよりも、もっと大切なものがあるって、気付いたんです」
「そ、そうか。……参ったなぁ」
「へ?」

 早苗は首をかしげた。
 自分が姿見を要らないといえば、二人とも一件落着で一安心すると思っていた。
 だが目の前の二人は明らかに安心などしていない。むしろ神奈子は困惑し、諏訪子も心配そうに神奈子へと視線を送っていた。

「ど、どうしました? 何か不都合でも……」
「いや、早苗……実は」

 ごほん。と大きく咳払いをすると、神奈子は何やら恥ずかしそうに身を捩った。諏訪子も神妙な顔つきでそれを見届ける。

「……実は、早苗の誕生日プレゼントに、姿見を買っていたんだ」

 言って神奈子が立ち上がる。彼女は居間と廊下をつなぐ障子戸を開けると、すぐさま横にスッと避けて早苗へ廊下を見せるようにした。――そこには、見事な姿見が佇んでいた。
 背丈は早苗よりも大きく、枠の装飾もアンティークのように品が良い。そして何より、鏡面の状態が最高であった。それはまるで氷のように冷たく感じる程に完璧な鏡。そして、今はそこに早苗の全身が映し出されていた。

「あ、これ……」
「いや黙っていて、すまない。実は昨日買ってきていたんだが、ちゃんと誕生日に渡すまで秘密にしておこうと……」
「まぁ、早苗は昨日酔いつぶれてたから……どちらにせよ、ね」

 早苗は頬をほんのり赤くしながら、鏡をじっと見つめた。
 湖ではあれほど小さく虚しく映っていた自分の姿も、この姿見の前では堂々と一つの肖像画のように映し出されている。早苗はしばらく鏡の前で固まってしまった。
 一方で神奈子は、その様子に戸惑っていた。早苗が鏡を気に入ったのか、それとも怒りに黙り込んだのか分からないのだ。不安に思いながらも、とりあえず彼女は一つの提案をした。

「……でだ、せっかく買ってきたんだ。良かったらこいつ、早苗が使ってやってくれ」
「え、ええ」

 早苗も別に姿見があって困る訳ではない。使わせてもらえるならば、それは喜んで受け取るに決まっている。
 彼女はもっとよく見ようと廊下の方へ歩み寄る。すると当然、鏡は次第に自らをより大きく、はっきりと映していく。いよいよ手が触れる距離になって、彼女はそこに映った自分の姿と目が合って、ハッと口に手をあてた。
 そんな様子には気づかずに、二人の神様は少し自慢気に早苗へと話しかける。

「……どうだい? 外の世界のものと、遜色ない出来だと思うんだが」
「いい掘り出し物だったねぇ」

 そこで早苗は振り返ると、目を潤ませて、両手を身体の前で固く握りしめ、神様たちへ頭を下げた。

「ありがとうございます。大切に、使わせてもらいます」
「……そうか!」

 その言葉に神様も安心したようにホッと一息ついた。諏訪子などは子供のようにピョンピョンと跳ね、手足をバタつかせて「良かった、良かった!」と神奈子へ目配せした。それを受けて神奈子は安堵から、自然な笑みへと表情を移した。
 そして、居間には一日ぶりに三人揃った明るい笑顔が戻ったのである。

「よし、それじゃあコレ、早苗の部屋に運ぼう」
「あ! 私が一人で持って行きますから、大丈夫ですよ!」
「早苗の細腕じゃ無理でしょ。私と神奈子が二人がかりでそこまで持ってきたんだから」
「おい、それじゃあ一人でコレを買ってきた私が、やたら力持ちみたいじゃないか」
「でも実際、神奈子様がうちで一番の力持ちですよねぇ〜」
「ハッハッハ、いいじゃん力持ち。何を恥ずかしがってんのさ?」
「は、恥ずかしがってはいないけど!」

 笑い声に包まれながら、早苗の姿見は無事に彼女の部屋へと連れていかれる。
 これから毎朝、鏡は早苗の姿を映して、彼女が自分を磨き上げるのに役立つだろう。そして、早苗は今からそれが楽しみでしょうがなかった。何故なら……

 さっき鏡に映った自分の姿が、いつもよりちょっぴり綺麗に映ったのは、決して気のせいではないだろうから。
いくら鏡が立派でもね、大事なのはそこに映る人間の方ですよ。

12/12 何故か改行が増殖していたのを修正しました。

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12/13 コメント返し
皆様コメントと評価をありがとうございます。

1.奇声を発する(ry さん

 ありがとうございます。ほのぼのとした雰囲気の作品はあまり書いたことがないので上手くいくかどうか不安でした。

2.パレット さん

 背景色も少し考えてみたので、雰囲気作りに一役買っていたら幸いです。

3.T/N  さん

 確かに早苗の母親は臭わせだけにしすぎたかなぁ、と思いました。情景描写に力を入れてみたので評価していただけて良かったです。

4.さく酸 さん

 少し淡白すぎる気もしますね。咲夜との戦闘描写も入れようかと迷ったのですが。
 酔っ払いの描写は、ギャグっぽくした方がリアリティあるかなと思って書きました。

5.asp さん

 もう少し起伏があった方が良かったかも知れないですね。次に繋げたいと思います。

6.とんじる さん

 少し早苗さんを都合良いキャラにし過ぎましたかねぇ。張り切りギャグみたいなものを意図していたのですが。
 テーマは直球で使う代わりに演出とかを頑張ろうと書いたので、評価していただけて幸いです。

7.ケンロク さん

 確かにストレートですね。もう少し捻りを入れた方が良かったかなぁ、と思います。
 早苗と同じく自分が空回りしていた感じですね。

8.リコーダー  さん

 誰も損しない話にしたかったので、早苗さんが楽しそうで私もなによりです。

9.ざる。 さん

 神様との間でもコミュニケーションは大切ですよね。

10.ニャーン  さん

 妖怪がいるんだから、神様が定食屋にいてもいいじゃない。そんな気持ちで書きました。

11.八重結界 さん

 咲夜との会話が思ったより長くなって本筋から外れそうになりました。
 二人の共通点と相違点は興味深いと思います。

12.deso さん

 自分の表現力不足だと思います。楽しんでいただけるようなSSを書けるように頑張ります。

13.gene さん

 多分、おっしゃる通りに改行トラップにハマりました。プレビューは普通だったのですが……。
 ネタ被りするかと思って小物程度にしたんですが、他には特に見当たらなかったので真澄の鏡をもっと使えば良かったと思ってます。

14.文鎮 さん

 やはり真澄といったらお酒の方ですよね。でも加奈子様はお酒好きだから、きっとそれでも喜んでくれるはず。

15.兵庫県民  さん

 正直、主題が上手く書けなかったので後書きに記すという暴挙に出ました。
 日々精進ですねぇ。
yunta
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/06 23:50:35
更新日時:
2010/12/13 03:53:44
評価:
14/14
POINT:
77
1. 9 奇声を発する(ry ■2010/11/09 11:32:25
とても心温まる素晴らしいお話でした。
2. 3 パレット ■2010/11/20 00:41:20
 早苗さんいい性格してんな……。  文体、というかCSSによる文章の印象かな。それも合わせて、なんだか澄んだ雰囲気を演出できてたように思います。いい感じでした。
3. 6 T/N ■2010/11/25 15:29:34
容量の割りに文章がさらさらと読みやすかったです。
気になるところは早苗母の存在感の薄さですが、ラスト近辺の湖のシーンの美しさと、二柱の神が用意した鏡でほっこりした気分になりました。
4. 6 さく酸 ■2010/11/25 20:56:40
いいほのぼので、情景描写がきれいなところがいいですね。酔っ払った早苗さんも書き方がうまいなぁ。
まあ、文章量が多くて途中でだれ気味なところと全体的にインパクトに欠けるところが気にはなりますが、これもほのぼの系ならではかと。
5. 4 asp ■2010/11/29 11:43:30
 湖と鏡とは面白いなあ。早苗さんと神奈子諏訪子の関係も温かくていいですね。突出するようなシーンとかカタルシスがなかったのが個人的には残念ですが、ほのぼのとして綺麗にまとまっている作品だと思いました。
6. 6 とんじる ■2010/12/02 15:09:27
 早苗さんが、ちょっとウザいのが残念。
 いや、原作(風)からしてウザさの片鱗をのぞかせていた早苗さんだから、それに忠実に書いたのかもしれませんが……。
 風神録終了直後の話ということで、自信家で肩肘張ってるっていうイメージは解りますが、こんなキャラだったけか……。
 テンションの高さ、感情の波の大きさに、思わず置いてけぼりを食らった感じでついていけず、前半部はあまり楽しめなかったです。

 しかし、後半部はそのイメージを一気に払拭してくれた。
 メインとなる「かがみ」という題材をフルに活用したクライマックスシーンは見事。その幻想的な美しさを描ききる描写力と言い、演出力と言い、どちらも素晴らしく、一気に作品に引き込まれる。
 湖を鏡に見立てる。言葉にすると陳腐だが、その意味合いの持たせ方が上手い。

 伏線をちゃんと回収した纏め方も上手い。
7. 3 ケンロク ■2010/12/07 13:36:45
実にストレートなお話。行間多めに取ってくれたけど、実際薄味だったように思いました。
薄味だけど、シンプルかと言えばそうでない気も。
八百屋のオヤジとの会話とか要らなくないかなぁ。
8. 6 リコーダー ■2010/12/10 00:53:26
いい話だなー。
空回ってる所まで含めて、早苗が楽しそうで何より。
9. 5 ニャーン ■2010/12/11 20:46:12
ガンガンいく風祝な早苗さんのキャラクターがすがすがしくて、楽しく読めました。
二柱の優しさが染みます。神奈子様の親心には、しんみりとさせられました。
神様たちが普通に定食屋にいる光景が素敵。
10. 6 八重結界 ■2010/12/11 20:48:44
なんというか現人神なのに人間らしい早苗。下手をすれば咲夜よりも人間として生きているのかもしれない。
それこそ境遇の違いなんでしょうけど。
11. 4 deso ■2010/12/11 21:01:53
細かいところにいろいろ違和感があって、話に乗れませんでした。
早苗がそこまで姿見にこだわる理由がピンとこないし、神奈子がわざわざ姿見を置いてきた理由も納得できません。
他にもいろいろあるのですが、うーん、すみません。自分にはちょっと合わなかったということで。
12. 6 gene ■2010/12/11 22:37:24
何か変だと思ったらこれも改行トラップにハマってます?
はっちゃけた早苗の冒険活劇という印象でした。来たばっかりならテンション高いだろうなぁ早苗さん。
しかし何気に神奈子の鏡について触れてるのはこの作品だけだったとは。
神奈子の寂しい背中が垣間見えるようです。
13. 7 文鎮 ■2010/12/11 22:58:03
鏡をまったく見ないで生活するのはよほど自信が難しいなぁ、と思ったり。
真澄と聞くとどうしても酒の銘柄を想像してしまいます。
14. 6 兵庫県民 ■2010/12/11 23:07:52
小説もまた然り。
いくら良い題材を用いても、技量が伴わなければならない。
意味深な後書きを残しおって…w
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