華胥の永遠

作品集: 最新 投稿日時: 2010/11/06 23:59:55 更新日時: 2010/12/13 02:00:57 評価: 14/14 POINT: 93

 



Rain keeps falling deep inside my soul
I've been here before...
Pain reaps harvests, here, inside my soul
I've learnt this before...
(INORAN / Owl's Tear より)









1.

 都を離れると荒涼とした大地が続いていた。眠りに就いたような深海の風景が月面にはある。足音が小さな波をたてる。生まれた波長は拡散して大気に溶けて消える。その波長以外は何の波もたたず、ただ静かだった。荒涼な大地は地平へと続いてなだらかな円を描いた。その全てを宇宙の海が覆っている。結界の端はすぐそこにあった。一歩でも外に出れば死ぬ。うっすらと引かれた境界が、もの言わぬ波長としてすぐそこを流れていた。
 月の裏側から表側に差し掛かる場所。結界の最果ての地。そこが地上の民を迎え撃つ場所だ。このあたりで始めて青き星が窺えるようになる。あそこから侵略者が来る。間もなくやってくる。戦争が、始まろうとしているのだ。
 何処からかレイセンを呼ぶ声がした。
 レイセン、遠くまで行っては駄目です。訓練はもう終わり。戻りなさい。都へ帰りましょう。
「依姫様……」
 小さく呟いて踵を返した。訓練の途中に抜け出していたのをすっかり忘れ、遠くまで歩いてしまっていたのだ。
 急いで駆けて戻ると、たくさんの兎たちが倒れていた。彼らは身動き一つしない。赤い粘液が雲のように広がり、まだ乾かぬ血が死んだ兎の髪からこぼれ落ちた。急襲に遭ったかのように皆が殺されていた。ぼろきれのようにころがって、あっという間に命をさらわれたかのようだった。ここには何も残されていない。依姫の姿もない。生も死もない。意識を抜かれたかたまりころがっているだけだった。彼らは岩のように沈黙を守り、ただ静寂だけが肉薄してくる。死が通り過ぎたあとの風景はなんと静かなことだろう。あまりの静寂に震えが襲ってきて、レイセンはその場から動けなくなってしまった。
 ふと音も無く一体の屍がのそりと起き上がった。ふらつきながら立ち上がり、濁った瞳でレイセンを見据え、笑い、ゆっくりと手招きをした。薄く口が開かれて言った。穢れた兎は何をした。あなたは私たちを見捨て、裏切った。月の使者としての立場を全うすることなく地上へ逃げた。そんな兎は許されない。裏切ったあなたを地獄が待っている。永き寿命は風前の灯。あなたの命は蝋燭のそれと同じ。灯された火があなたの命。蝋があなたの寿命。死はあなたを捕捉した。今度は逃れられない。その首輪に鍵穴はない。鎖はぎしぎしと音をたててあなたを巻き付ける。刻一刻と死があなたを引き擦り込む。蝋はみるみる溶けていく。それが穢れた地上へ逃げたあなたの運命。私はあなたを許さない。逃げ出したあなたを許さない。レイセン、思い知りなさい。閻魔に裁かれたからといって許されると思わないで。
 怯えたようにレイセンは震え、拒否するように首をふり、おそるおそる首に手をあてた。そこに硬質な冷たい金属の手触りがあった。手を這わせると、鍵穴のない首輪が巻き付けられていることが解った。それに鎖が繋がれている。何処かに伸びているようだ。じゃらりと音がして、突然鎖が引かれた。すぐに鎖は伸びきって首が持っていかれそうになった。つんのめって転んだ。首筋を強く痛めたが、それでも引かれる力は揺るがなかった。万力が歯車のように鎖を巻き込んでいるようだ。どんな力でも抗えないという思いに囚われた。ずるりずるりとレイセンは引き摺られた。鎖は闇のなかへと続いていた。それを見てすぐに直感した。死だ。あれは死だ。死がその穴蔵へと引き摺り込もうとしているのだ。蝋が業火にあおられて、ぼろぼろと溶け出しているような気がした。レイセンは倒れたまま引き摺られ、肘や膝が擦られたうえになお擦られ、酷い痛みが走った。血が滲んだ。つたない力で抗ったが、それでも引かれる力は揺るがず、無慈悲な鎖は音を発てて歯車に巻かれ続けた。
 引き摺られるレイセンのすぐ傍を、さっきの屍が立ちはだかった。彼女はゆっくりと手を伸ばす。全身に波を打たせるほどの衝撃が走った。彼女の顔や声は忘れられない。忘れようがない。
 彼女は握手を求めるように手を差し出した。その手は揺れていた。見知った手だった。レイセンが月を逃げ出したきっかけとなった月面戦争。彼女はそこで死んでいった、レイセンの親友だった。




2.

 ひどい寝汗とともに布団を跳ね上げた。息を切らせたように呼吸が続いた。衣服が肌に張り付いている。眩しい。強烈な陽光が鈴仙を照らしていた。寝る前に閉めた筈の障子が何故か開かれていて、その向こうから、鮮烈に輝く太陽の陽射しが降り注いでいたのだ。頬を汗が滑り落ちる。何度か呼吸を続けるうち、夢にうなされていたことに気が付いた。
 夏を過ぎたとはいえ、まだ暑さは続いている。猛暑はしぶとく幻想郷に留まり続けていた。鈴仙は張り詰めた意識のまま起き上がると、羽織っていた小袖を脱いで抱え、襦袢一枚の格好で部屋を出て水場へ歩いた。
 あれは、夢だ。夢なのだ。稀に見る月の夢だ。荒涼とした月面に兎たちの死体が転がっている。地上の猛威が月を襲ったあとだ。先頭に立つのは兎たちだから、最初に死ぬのは兎たちだ。鈴仙は死を怖れてなりふり構わずに逃げ出した。その戦争で何名かの兎が死んだ。それだけの話だ。今でも逃げ出す夢を見る。訓練を抜け出して月面を放浪する夢を見る。羽衣で月を抜け出し地上へ降りて、狂気のなかで森をさまよう夢を見る。迷いの竹林を走り続ける夢を見る。いつもその何処かで死んでいった兎たちに出くわし、彼らに捕えられる寸前で眼を覚ますのだ。そんなときは決まって飛び起きる。息が切れ、身体が震え、ときに頬が濡れている。
 水場へ行く途中、たくさんの地上の兎がそこかしこをうろついていた。永遠亭はさながら兎だけに限られた動物園だ。妖怪化できない兎は本能に従ったまま好き勝手にあちらこちらへ移動して回り、妖怪化できる兎は命令を受けて永遠亭の雑事を回している。鈴仙の感覚であれば、永遠亭を回す仕事のすべては地上の兎たちが請け負っているべきものだ。そして自分の時間は限られた、輝夜と永琳の二人だけのために奉げるべきものだ。それが一番しっくりくる。しかし現実は違う。輝夜も永琳も地上の兎たちに命令はするが、それ以上に口出しをしない。仕事をしない時間は本当に自由で、放任といっても良かった。鈴仙は仕事について、もっと細かな点まで定めるべきだと思っていた。永遠亭の雑事を纏め上げ、担当を決め、仕事をこなし、報告までを執り行う。そこで承認されて始めて仕事をしたと言えるのだ。だけど輝夜と永琳はそこまでこだわらず、大まかな仕事の宛がい方しかしなかった。それだから、鈴仙は自分の余分な感覚を持て余すような気持ちになることがよくあった。
 板切れの壁に囲まれた水場では妖怪化した兎たちが裸で騒いでいた。桶で水を汲んでは掛け合って、無邪気な笑い声をあげている。水を浴びる前に着替えを探したが見つからなかった。月から降りてきたときに着ていた制服、それに似せた衣服を永琳が何着か縫ってくれて、うち夏用の数着は常に水場に置いてある筈だった。しかし宛てが外れたので部屋に取りに戻らなければならなかった。
 持ち寄っていた小袖を籠に放り込んだあと、とぼとぼと廊下を戻った。襦袢だけの格好は肌を多く露出していて心持ち気分がよくない。寝汗で肌に張り付いていた襦袢は、歩くうちに風を浴びて多少は乾き始めている。だから水浴びをせずとも良いかと考えたが、それでも一度決めたことは筋を通さないと何となく気がおさまらなかった。すっきりしない気分も引き摺っていた。こんな状態で輝夜や永琳の前に姿を見せるわけにはいかなかった。
 部屋から着替えを持って戻ると、先ほど騒いでいた兎たちはもうあがったようで、水場はしんと静まり返っていた。頃合が良かったと内心思い、鈴仙は裸になって中に足を踏み入れた。敷き詰められた石が続いて、途中で窪みになって水が張れるようになっている。遠くの川からポンプで水が引かれていて、朝風呂をする妖怪兎たちの手で水は張られていた。指先で触れると少し冷たい。しかしうだるような暑さで目覚めた鈴仙にとってはちょうど心地の良い冷たさだった。
 長い髪を一つに纏め上げ、蒸した背中に冷水を浴びせ掛ける。身体の隅々までを薄布で拭いて、桶で流したあとに冷水に身体を沈めた。ひんやりとして気持ちが良い。目が覚めるようだ。瞑想をしているようだ。纏まらないものが、取り留めの無いものが一つに束ね挙げられるようだ。一本の細い線になるまで研ぎ澄まされていくようだ。鈴仙はしばらく目を瞑って、呼吸をし、なまめくような息を漏らした。
「準備はいい?」
 椅子に座って伊達眼鏡を掛けた永琳が振り返って言った。季節の変わり目。それは人間の里へ薬売りに出掛ける時期でもある。鈴仙はてゐと共に永琳の部屋を訪れていた。
 薬剤を調合する部屋は専用に用意してあるのだが、永琳は自室でも気晴らしのように薬をいじる。だから永琳の部屋は薬の匂いが漂っていることが多い。薬の匂いの染み付いた永琳の部屋はいつ来ても落ち着かない気がしたが、いつしかその気持ちは無くなっていた。それどころか、永遠が明けてから何度も永琳の部屋へ足を運ぶうち、不思議な安心感さえ覚えるようになっていたのだ。
「はい。問題ありません。まだ外は暑いですが、初秋を迎えて少しずつ肌寒さも出てくるので、風邪薬が出やすいと思います。多めに求められると思いますので、ストックは充分に用意してあります」
「そう。よく解っているわね」
 ちらと鈴仙は脇に眼を向けた。そこには竹の葉が山のように積み重ねられていた。磨り潰して材料とし、何か薬を作ろうとしているのだろうか。永琳の知識欲は止まらない。薬学の先に何を見ているだろう。いつか八雲紫が訪ねてきて永琳と輝夜を宴会に招待したことがあった。会場は吸血鬼が根城とする紅魔館だといった。そのときに紅魔館の図書の主であるパチュリー・ノーレッジと知り合い、書庫からさまざまな書物を借りるようになって、それを読み耽る日々が続くようになった。天才は天才のまま終わらない。新たな知識を吸収し続け、考察と実験を繰り返し、なおも新たな智慧を生み出している。
 意地悪そうな顔をした永琳が竹の葉の山を指差して言った。
「それが気になる?」
「あ、いえ。何の材料なのかなと思いまして」
「材料? あはは、材料じゃないよ。これはこれでいいの」
 鈴仙は首を傾げて考え込んだ。だが永琳はすぐに話を戻し、薬売りに使う新薬の説明を簡潔にした。鈴仙はそれを静かに聞いて頭に入れた。どうせてゐは聞いていない。
 話を終えたあと、永琳は微笑して眼鏡を外し、出掛ける二人を見送りに玄関まで着いてきた。
「気を付けて。行ってらっしゃい」
 見送られ、二人は永遠亭の門を出た。
 竹林は常に霧が漂っている。迷いの竹林の名のとおり、ここで道に迷って命を落とす者は多い。竹林は広大で、道らしき道もなく、人々の足跡も降り積もる竹の葉が覆い隠してしまう。それは常に均一を保持し、誰の目にも初めて触れるような景色を恒久的に造り続ける。まるで永遠だ。変わることのない永遠だ。嵐が起きようと、台風が通り過ぎようと、それは時を経て再び永遠のヴェールを纏うようになる。均一化された循環の繰り返し。それこそが永遠だ。竹林は常に永遠を造り上げている。こうして歩み続けてもその跡を掻き消して、今もなお永遠は維持され続けている。
「タンタラタンタン、タンタラタンタン、タンタンタンタン」
 隣を歩くてゐが陽気に口ずさんで踊っていた。薬売りに着いて来ても肝心の里で姿を眩ますことが多いだけに、そもそもてゐが着いて来る理由が鈴仙にはよく解らなかった。
 最初の頃は違った。永遠が明けたあと、いち早く身の置き方を理解した永琳は何種類かの薬剤をまとめて調合し始めた。そしてその薬を地上の民に分け与えようと鈴仙を遣わした。そのときに、竹林を越える案内役として一緒になったのがてゐだったのだ。
 てゐは率先して案内を申し出た。初めての里への出立だからと、永琳もすぐに同意した。鈴仙も助かったとばかりに協力を仰いだものだった。しかしてゐの目的は別にあって、彼女は鈴仙と遊ぶつもりで同行を求めたのだ。真夏の陽射しが切れ切れに照らす竹林のなかで、初めての里への旅路で緊張していた鈴仙は呆気にとられながらもすぐに断った。仕事の途中に遊ぶなどとんでもないことだと思った。だからてゐは渋々ながらも案内するだけになったのだ。それから何度か色々な機会をもって遊びに誘われたが、鈴仙はそのすべてを断った。穢れた地上への忌避もあったし、そもそも悪戯をしたり仕事をさぼるてゐを追い回して竹林を飛び回ることも多く、これで代わりに遊んでやっているという意識もあった。そうこうするうち、てゐが鈴仙を遊びに誘うことは無くなってしまったのだ。
 てゐは迷いの竹林を庭と言うだけあって、迷うことがなく、どの方向に何があるのか、よく理解しているようだった。しかし今となっては鈴仙は一人でも里に行ける。この残り火のような付き添いの習慣はいつまで続くのだろうか。それを口に出したら、てゐがもう隣を歩かなくなるのではないだろうか。そんな小さな疑念が生まれては消えていった。
 鈴仙は輝夜と永琳に逆らうことはないが、地上の人間と面と向かって話すのは嫌だった。だから最初はぎこちなく、要点もうまく伝えられなかったかもしれない。それでも月日を重ね、季節を重ね、年を重ね、次第に地上に慣れるようになったのだ。時には気負ったり、力みすぎたこともある。病状が重そうであれば、永琳に話して診てもらったこともあった。それが最終的には永琳の言葉に従うものだと思ったからだ。
 永琳は言った。これからは地上の民となる。地上の民の勤めを怠ってはならない。他人の為に働くことが地上の民の勤めだ。その言葉を鈴仙は意識し、忌避する感情を押し隠して地上の民と接してきた。今でもその感情は無くならず、火種が燻ぶるように残り続けている。
 永遠亭が地上の民として生きるには、地上の民との交流が不可欠だった。それは自分たちだけでは捻出しきれない、生活するための食料や資材を得るための交流だった。衣類の材料である絹織物や、薬剤の材料である植物、花や古草をよく買い取った。それを元手とした永琳の薬売りに加え、輝夜は溜まった資金を使い、敷地のなかに月史館という建物を造り、月都万象展を催した。それは幻想郷において好評を博し、潤沢な資金を得ることに成功している。
 気の進まない薬売りが続くとはいえ、永遠亭は順調とも言える日々を送った。永遠亭は疑いようもなく穏やかな時の流れにあった。鈴仙は輝夜と永琳を敬い、ずっと付き従うつもりでいた。それは変わることはない。月を降りて永遠亭へ迷い込んでから、今までずっと。これからもそう過ごしてゆくだろう。ただ、ふとした瞬間に蘇るものがあった。それは重く圧し掛かる罪の意識だ。穢れた地上の人間が月に攻めてくるという噂を耳にして、生まれて初めて死が間近に迫っていることを意識した。それが忘れられず、怖くなってしまった自分のもとに、裏切って逃げ出した自分のもとに、仲間の怨嗟の声が蘇ってくるのだ。それはふとした拍子に蘇ることもあれば、今朝のように夢に出てくることもあった。
 冷たい風が吹いて、竹の葉が鈴仙の肌を掠めて通り過ぎた。温暖な気候を維持し続ける月の都と違い、地上には四季がある。温暖な春、暑い夏、寂の秋、凍える冬、常に季節は巡り続ける。今朝は暑さに汗を掻いたと思ったのに、今はこうして寒さを感じている。もう夏は終わってしまったのだ。肌寒さを感じた鈴仙は肩を抱いて青い空を見上げた。
「……最近は暖かかったり寒かったりするわね。もう、そういう季節なのよね」
 てゐは踊りをやめずに笑った。
「夏が過ぎたからって、すぐに冬じゃないもの。まだまだ遊べるよ」
「まだ、って。冬が来たらどうするの」
「遊ぶよ」
「なんだ。結局、遊ぶんじゃない」
 苦い顔をする鈴仙をよそに、てゐは笑っていた。
「じゃあ何をすればいいのさ」
「やることはたくさんあるでしょう? 仕事とか」
「私だって働いてるよ。ほら、お賽銭とか貰ったりさ」
「まぁ、そうだけどさぁ」
 実際、てゐは遊びの一環のようにお賽銭箱を抱えて出て行ったと思ったら、幾ばくかのお金を持って帰ってきたことがあった。文字通りお賽銭を貰ってきたというのだ。中身もしっかり入っていた。てゐは神社と関わりが無いから賽銭など貰える筈は無いのだが、これでいて口が上手い。だからその話術が暗躍したのだろうと思った。
 生き上手、とでも言うのだろうか。てゐは不思議な洞察を持っていて、悔いや憂慮を長引かせることがないように思えた。悪戯がすぎて見つかって怒られても、不敵な顔をしていたり、上手く言い訳をする。時にはしょんぼりとしたり、泣いたりする。でも次の日にはけろりと戻っている。引き摺ることがないのだ。
 てゐがぴょんと飛び込むようにして逆立ちになって、そのまま器用に歩きながら言った。
「もたもたしてたら、冬が来ちゃうんだからさ。暖かいうちに遊ぶのがいいんだよ」
「へぇ、暖かいうちねぇ。そういえば、今朝はやけに暑かったわ。私の部屋って東の対でしょ? 障子が開いてて陽射しをまともに浴びてたのよ。勘弁して欲しいわね。閉めたと思ったんだけどなぁ。てゐ、ひょっとして開けたりした?」
「知らないよ」
「……あ、そう。まぁいいけど」
 てゐは前方に回転して軽やかに着地をきめた。そしてまた陽気に口ずさんで踊りだした。
 鈴仙はてゐを疑心の眼で見た。嘘だろうと思った。嫌な感情だ。障子は閉めた。それは慣習だから確実なことだ。ただ、てゐが障子を開けたという証拠も根拠もなかったので黙ったのだ。嫌な感情が皮膚の表へ抜け出ようとして身体が張った。熱いものが身体を流れている。体内で毒が流れているようだ。どんどん汚染されていくようだ。それは身体に錘を持たせて動きを鈍らせる。これも穢れの蔓延する地上の罰だ。これまでに何度も経験があった。時間とともに失わせるしかない種類の毒だ。
 それからは言葉もなく、ただ流れ落ちる竹の葉のなかを二人で通り過ぎた。擦れあう竹の葉の乾いた音と交じり合って、二人が踏みしめる乾いた足音は竹林のなかに溶けて消えた。二人の足跡も降り積もる竹の葉が覆い隠して消えた。生まれた波長が拡散して消えていく。そんな光景に何処か既視感を覚えた。鈴仙は月を思い出した。あの荒涼とした大地を思い出した。懐かしい日々が蘇った。穢れを除き、寿命を捨て、長久の時を生きる民。もう戻れはしない昔のことだ。
 鈴仙は舞い散る竹の葉を見て思った。そのまま混ざり合えばいい。溶けてしまえばいい。全てを包み込んで、等しく永遠のなかに埋もれてしまえばいい。自分もそのなかに溶け込みたい。地上の民が訪れるまで過ごしていた、あの永遠亭での暮らしのように。月で暮らした、あの懐かしくも二度と戻れない日々のように。




3.

 漆黒の空に青い星が浮かんでいた。地上の民を迎撃する最前線の基地。その一室の窓際でレイセンは青い星を見ている。この周辺でしか青い星は見られない。暗き宇宙の海を越えて、地上の民はあの星からやってくるのだ。
 ベッドの軋む音がして、後ろのほうからかぼそい声が聞こえた。
「レイセン……。ねえ、レイセン。何処にいるの……?」
「……ここよ。私はここに居るわ、ミズカ」
 振り返ると、ベッドで寝ていた同室のミズカが寝ぼけた顔でレイセンを視界におさめた。
「レイセン……。あなた、今夜も外を見ているのね……。寝付けないのかしら?」
 表情を変えず、レイセンは言った。
「……そうね。緊張するわ。眠れない。眠れないの」
「ふふ。あなた、訓練のとき一人で何処か離れてたじゃない。休んでたんじゃないの? あのとき、依姫様が怒っていたわよ。いくら能力があるからって、訓練を怠っちゃだめだって」
「休んでいないわ。それに、能力がないのに私以上の成果をあげてるあなたに言われたくないし」
「それが本当の実力ってやつだよ」
 にっこりと、肩越しまでの髪を揺らせてミズカは笑った。彼女は優秀で、兎たちのなかでも突出した実力と才知があった。身体的技術はそこそこだが波長を操る能力で優秀な位置にいるレイセンに対し、ミズカは特別な能力こそないがあらゆる面において優れた資質と技能があり、依姫から兎たちを指導する際の見本として重宝されていた。ミズカとレイセンは、少し話しただけで非常に馬が合うのをお互いに感じていた。普段から率直な物言いをするが実は繊細さを隠したミズカに対し、レイセンは繊細さが表にありながら稀に大胆な行動をとるのだ。二人は互いの性質を早い段階で見抜いていた。誰にも指摘されたことはなかったが、合わせ鏡のようだという認識がお互いにあった。似た考えをもち、相性の良かった二人が常に一緒にいるような間柄になるにはさして時間はかからなかった。
 レイセンは再び窓に振り返って肘をつき、青い星を見た。
「ねぇミズカ。地上の人間が攻めてくるのって。嘘じゃないのよね」
 ミズカはゆっくりとベッドから降りた。レイセンの隣まで歩いて、円形に描かれた窓の外の青い星を眩しそうに見上げた。
「嘘なわけないじゃない。依姫様が言ってたんだからさ。私たちはそれに答えなくちゃいけない。地上の人間と戦うのなら、それに備えなくちゃいけない。そうでしょう?」
「解ってる」
「……怖い?」
 レイセンは答えなかった。ミズカは何も言わず、黙って青い星を見続けた。先ほどの笑顔はもう、あの青い星に吸い込まれて消えてしまっていた。レイセンはミズカを見つめ、俯いた。
「私、まだ何処かで信じられないの。本当に地上の人間が来るのかどうか。何かの間違いなんじゃないかって。だって、月はこんなに静かだわ。風も静か。涼しいじゃない。このままずっと、何もない日々をあなたと過ごしていければ良かったのに。豊姫様のお傍にいて、依姫様に稽古をつけてもらうけど、月を攻める侵略者は本当は誰もいないの。だから今回の騒ぎは全て取り越し苦労に終わるの。きっと、そんな幻想を私は見ていたいんだ」
 くすりとミズカが笑った。
「私もさ、そうであって欲しいよ」
「……」
 ぼそりとミズカがつぶやいた。
「私たち、生き残れるのかな」
「やめてよ!」
 レイセンが悲痛な顔で仰ぎ見たが、ミズカは構わずに続けた。
「依姫様がいれば何とかなると思うよね。でも、地上の人間がそれより強かったらどうなるだろう? 私たち月の使者は、皆の力を合わせても依姫様一人の力にすら及ばない。ただの寄せ集めなんだよね。依姫様が揺るがないから他の兎たちは楽観的だけど、私は違うと思う。地上の民の実力なんて、誰も解りやしないって思ってる。そう、何が起きるかなんて解らない。きっとあなたもそう思ってる。そうでしょう?」
「……」
「だから、さ……。ひょっとしたら、私たち、死ぬかもしれないね」
「ミズカ」
 静かに呟いた一言がレイセンの心を抉った。止めようと呼びかけたが、彼女は黙らなかった。ミズカは思ったことは何でも口にしてしまう性格だった。それをよく知っている。感じている不安も、怯えも、全てレイセンの前で彼女は口にしてしまうのだ。まるでレイセンの心を代弁するかのように、こと細かく、吐露し続けるのだ。
「私。今まで死について考えたことなかった。死なんて、生まれてから何度聞いたかしら。覚えがないわ。私たちが生まれてから、まだ誰も死んでいないんじゃないのかな……。以前は何だっけ、カグヤ様を迎えに行った使者一向が行方不明、だっけ……」
「ミズカ」
「地上の民が攻めてくるなんて、月の歴史上、初めてのことじゃない? 地上に降りた使者はたくさんいたわ。そのときは簡単に地上の民を蹴散らしたっていうじゃない。戦いの舞台が月だっていうのは……初めてだよね。私たちも長い間訓練してたけど、実際の戦は経験がない。だから初めて。話のとおり、簡単に追い返せればいいんだけど」
「やめてってば」
 ミズカが驚いたように鈴仙を診た。
「……何よ、レイセン。何で泣いてるの。まるで私が泣かせたみたいだわ」
「違うわ。あなたよ」
 寂しげにうなだれてミズカは言った。
「ごめんなさい。でも、私たちが要なんだもの。私たちが前線に立つんだもの。だから何とかするしかないの。地上の民の力は解らないけど、それでも全うするしかないんだわ。私たちがやられて、依姫様までやられてしまったら、月の都に人間たちが入り込むわ。きっと略奪の限りを尽くされる。やるか、やられるしかない。追い返せられればそれでいいんだけど……。月の都に穢れを持ち込んではならないから、何としても前線で抑えきるしかないの。私たちに逃げ場はないのよ」
「……そう、よね。逃げ場なんてないのよね」
「泣かないで、レイセン」
 そう言ってくれたミズカこそが泣きそうだった。解っているのだ。永い暮らしに終わりが来るかもしれないということを。いくら月の民が穢れを除き、長久の寿命を持つとはいえ、直接に降りかかる死を拭うことはできない。ミズカはレイセンを抱きしめた。震えが止まるまで、身体の熱を感じあった。それからミズカは静かに離れ、隣室に消えた。そのあとすぐに酒瓶を持ってあらわれた。彼女はもう泣いていなかった。いつもの笑顔がそこにあった。弱々しい本当の彼女はすぐに顔を隠してしまう。不安のなかに生きて、それを吐露することに不慣れなレイセンは、それを惜しげもなく見せるミズカに強く惹かれていた。この笑顔への切り替わりにもまた、強い憧憬があった。ミズカは笑って青い星を指差して、杯を傾けた。あの青い星を肴にして呑もうと言うのだろう。それは実に快活で、実に彼女らしい話で、鬱屈とした気持ちを吹き飛ばすには実に都合のいい提案だった。
「でもさ、ミズカ。私がお酒を苦手なのは知ってるわよね」
「もちろん、解ってる。だから一杯だけ」
「私はその一杯が駄目なのよ」
「だからそうだって、言ってるじゃない。あなたのために、一杯だけなの。依姫様がいたら、怖いわよ? ふふ、あなたいつも潰されちゃってたね」
 レイセンは口をとがらせた。
「ほどほどで良いって言ってるのに、いつも余計に薦められるんだもの」
「ほどほどで良いって言うから、いつも余計に薦められるのよ」
 笑顔で、首を傾げてミズカは小さな酒瓶をふった。それを見ると、レイセンは何も言えずに彼女を許してしまう。彼女の笑顔につられて笑ってしまう。
 ミズカは二人分の杯に酒を注いで並べた。
「でも、結局出されたお酒を飲んじゃうでしょ。そういうところがいいのよね」
 呆れたようにレイセンは溜息を吐いた。
「もう。一杯だけよ」
「そうよ。あはは、やっと笑ったわね」
 それから、一杯だけのお酒で二人して語り合った。使者として任命されたときの感慨、同じ部隊に任命されて初めて出逢ったときのこと、依姫と豊姫の屋敷での暮らし、成績を競いあったこと、豊姫にこっそりと桃をもらったときのこと、依姫に叱られたこと、褒められたこと、泣いて、笑いあったこと。残された少ない時間の全てを消費するかのように二人は話し合った。だけど、楽しい気持ちと交差するように流れる別の感情があった。それは螺旋を描き、離れることなく絡み合っている。それはきっとミズカも感じていることだった。もう、地上の民の接近は間近に迫っている。ここは前線で、月の都までは遠く離れている。いつでも戦場に出れる準備をしていなければならない。だからこれが最後の晩餐になるかもしれなかった。その可能性は薄闇に紛れていたが、地上の船が近付いているという予感がぬぐえなかった。まるで二人を覆い潰すようにそれは迫り来る。ミズカは少しでも抗うために酒を出したのかもしれなかった。
 ミズカが、ふと言った。
「外に出ない?」
「え?」
「外よ。少し、風に当たりたいわ」
 抜け出した屋外は静かだった。裏側の月の広大な海が広がっている。とぼとぼとミズカは歩き、ときおり海を眺めては黙った。レイセンは何も言わずに着いていった。
 ミズカがぼそりと言った。
「八意様って、知ってる?」
「……そりゃあ、知ってる」
「聞いたことあるでしょうね。依姫様と豊姫様の教育係をされていたお方。口にしてはならないお方だけど……、あなたと二人の今なら、いいでしょう? ほら、カグヤ様を追って地上に降りられた……」
「解ってるってば。使者を全員裏切って、カグヤ様を連れて逃亡するのを見たって、死の間際からの玉兎からの連絡があったって。誰もが知ってる話よ」
「そう。有名すぎて口にするのも憚られるぐらいの話よね。でも、そのお方がいれば、きっと何とかなったんじゃないかって思う」
「……どうしてそう思うの?」
「依姫様がぼやいているのを聞いたの。八意様が居たのなら、容易く地上の民を追い払う智恵を授けていただけたでしょう、って。はっきりと断定出来ないことは口にしない依姫様がそういうんだもの。きっと何とかなったんだわ」
「そうかもしれないけど……」
「信じるって、大事だと思う。本当に出来るか出来ないかじゃない。信じていることが大切なんだ」
「……そうね」
 ミズカが言った。
「私、あなたを信じてる」
 鈴仙はどきりとして言った。
「何よ、急に」
「この戦争で何が起ころうとも、私はあなたを信じてる」
「……どうしたの」
「だから、私を信じて欲しいの」
「……信じてるわよ。私も、ミズカを信じてる」
「ありがとう」
 ミズカは手を差し出した。レイセンはそれを握って良いのか迷ったが、つたなく握った。温かみのあるミズカの手だった。
「ねえミズカ、何を考えているの?」
「……私、あなたと別れたくないから」
「それは……、私もよ」
 そのまま静かに時が流れ続けた。ミズカはずっと海を眺め続けていた。
 レイセンがつぶやいた。
「八意様は、今ごろ何をしているのかしら」
「さぁ。あの星の、何処かにいらっしゃると思うわ」
「どうして八意様は地上に降りたのかしら」
「カグヤ様を迎えに、でしょう?」
「でも、そのカグヤ様を連れてお隠れになっているのでしょう? いったいどうしてなのかしら」
「さぁ……。私たちには知る由もないことね。きっと聞いても、教えていただけないわ……」
 しばらく二人は無言のままだった。
 警備を続ける兎に発見されるまで、密やかな海を眺め続けていた。




4.

 里は静かな賑わいを見せていた。
 恒例のようにてゐは姿を消していて、鈴仙は一人で各々の家を訪ね歩いた。案の定、風邪薬は多く求められた。いつものように補充、販売を続け、小腹が空いた頃に昼食を摂った。茶菓子屋でしばらく暢気に休憩したあと、また家を訪ね歩く。そうして陽ざしが傾き始めた頃、次の家を見つけた。
 古びた屋敷には長森という表札が掲げられていた。鈴仙は呼び鈴を鳴らし、ごめんくださいと呼び掛けて待った。じきに奥方らしき女性がゆっくりと出てきて、鈴仙の顔を見て少し驚いたようだった。見覚えのある女性だ。何度か対話したこともある。それでも人間は、鈴仙を含めて妖怪の姿を見ると多少なりとも驚きを見せる。薬売りを続けるうちに見なくなっていたが、改めて驚かれると最初の頃を思い出してしまう。女性はすぐに落ち着きを取り戻し、柔和な笑みを浮かべたが、鈴仙はそんな女性の機微を無視して言った。
「毎度ありがとうございます。薬の補充に来ました。在庫のほうは如何でしょうか」
 女性は微笑して言った。
「どうぞ中へ。あがってください」
 そのまま手を奥へ向けて、家にあがるよう促された。鈴仙は少し驚いた。これまでは玄関口でのやり取りが主で、家に上がったことは数える程しかなかったからだ。それですら患者を診る永琳の付き添い程度のものだ。鈴仙一人で家にあがることが、これまでにあっただろうか。そうこうするうち、女性がさっさと奥へ入ってしまったので、鈴仙は仕方なく屋敷に入り、靴を脱いで家にあがった。
 磨かれた板間の廊下を渡って和室に案内されると、そこには仏壇があって、線香があげられていた。線香は死が通り過ぎたあとの匂いがする。穢れた地上は嫌いだが、線香はまた違うものがあった。そこには物言わぬ静謐が眠っている。
「母です」
 鈴仙は黙って頷いて、焼香をあげた。真っ黒な位牌がとても重たいものに見えた。
 立ち上がって鈴仙は訊いた。
「あの、あなたの母は、いつ……?」
「……二月前です。朝方、母が起きてこないので様子を見に行ったら、まだ眠っていたんです。そのまま朝食の用意をしていたのですが……。嫌な予感がして確かめました。そのときにはもう……」
「そう、ですか」
 それ以上は何も訊けなかった。薬売り以外の用事で鈴仙は殆ど里に行かない。だから以前里に訪れたとき、女性の母は生きていたのだ。前回は生きていたのに今回は死んでいる。何かが剥離していくような錯覚を覚えた。
 隣の部屋に縁側付きの和室があって、そこに座布団と茶菓子を用意された。促されるままに座ると、女性は音もなく席を外した。鈴仙は落ち着かない他人の家でしばらく待たされることになった。周囲には大きな壁掛け時計、古びた茶箪笥などがあり、床の間の小さな花瓶には鈴蘭の花が差して置かれてあった。柱にはナイフで付けられたような横一線の傷が幾筋もあった。一緒にマイという字が彫ってある。ミキという字もあった。他にも読めないものが幾つかある。傷の高さから見て、身長と名前を記したものだろう。部屋には他に何も置かれておらず、茶室にでも使われているのだろうと思った。
 縁側から入る風に揺られる鈴蘭を眺め続けていると、先ほどの女性が薬箱と包みを抱えて現れた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいえ、気にしないでください」
 同じように腰を下ろした女性を鈴仙は見つめた。薬売りの交渉は玄関口でもできる。家にあげた理由があると思った。早速、女性は薬箱を見せた。在庫は程よく減っていた。それは定期的に服用する者がいることを示している。日常で使う機会があるだろう微熱、頭痛、風邪などの症状の薬はあまり使われておらず、喘息、気管支炎などの呼吸器系の薬、低血圧、動悸、息切れ、不整脈などの循環器系の薬が主に使われていた。
 ひとしきり薬箱を見て鈴仙は言った。
「不足分を補充しましょう。他に、入り用なものはありますか。今日は風邪薬がよく出ています。それと、喘息や低血圧などの薬は多めに補充しましょうか」
 女性は小さく首をふって鈴仙を見た。
「いいえ。不足分だけで充分です。もう多く減ることはないと思います。それらは母が服用していましたので……」
「そうですか」
「これをお受け取りくださいませんか」
 女性は薬箱と一緒に持ってきていた包みを静かに差し出した。両の手のひらに乗るぐらいの大きさのものだった。
「これは? 開けてもいいですか?」
「どうぞ」
 柔らかな感触だった。包みを開くと、自分によく似た人形がそこにあった。長い耳を立たせて、膝ほどの高さまで伸ばされた紫色の髪。月を降りたときに着ていた制服がそこに再現されている。永遠が明けて、初めて薬売りをしていた頃に付けていた三日月のブローチもあった。間違いなく自分を模したものだった。そこに、いつかの自分が居るような気がした。
「母は逝く前に、もう一度あなたに会いたいと言っていました」
「この人形は……」
「はい。母が造ったものです」
 鈴仙は顔をあげて訊いた。
「どうして、私を?」
「あなたが初めて家を訪問されたとき、私はたまたま外出をしていました。応対したのは母だったんです」
 女性は庭を眺めた。静かな眼で、何かを思い出すように薄く笑った。
「家に帰ったら、母が楽しそうに笑ってるんです。どうしたのか聞いたら、不思議な薬売りが尋ねてきたよ、って言うんです。長い兎の耳で、妖怪の類だと思ったそうなんですが、それにしても言葉がたどたどしくて、妖怪らしくないって」
 鈴仙は顔が熱くなって、おぼろげにそのときのことが思い出された。初めての里への進出だったので、輝夜と永琳のためにきちんと仕事をこなさなければならないと気負っていたのだ。永遠亭に戻ったとき、そんな状態のまま永琳に報告したことを覚えている。落ち着いてやりなさい、と微笑まれたことも覚えている。確かその客にも同じことを言われたような気がする。
「私の父は、森へ出かけたときに妖怪に襲われて亡くなったと聞いています。母はそれ以来、妖怪の方々を快く思っておらず、認めようとしませんでした。妖怪が憎い。はっきりとそう口にしていました。仇討ちと言って家を飛び出して、皆に止められて、沈んだ顔で帰ってくることもありました。それでも外出を続け、とぼとぼと帰ってくる日々が続いたんです。……心持ちが悪いと身体にも影響が出るのでしょうか。母は、どんどん具合が悪くなってきました。布団でずっと、死んでしまったように寝ている状態だったんです。私の世話も、励ましも、何処か通り抜けているようでした。私は……母に何もしてやれなかったんです。そんな折に薬売りに訪れたあなたを母が迎えたとき、苛立ちをぶつけてやろう、刺し違えてやろう、そういう気持ちで話を聞いていたそうなんです」
「……そうだったんですか」
 驚きを隠せなかった。まったく身に覚えのないことだった。その母とやらはどんな顔だったろうか。憎まれ口を叩かれたことなどあっただろうか。だが、始めたばかりの頃は相手の顔すらよく見ようとしていなかったのかもしれない。
「……ですが、話を聞いているうちにどうでもよくなってしまったそうです。妖怪らしくない娘だ、と言って笑ってました。それですっかり、あなたのことが気に入ったそうなんです」
 鈴仙は眼を大きくした。
「私を、ですか? その、妖怪らしくないとはどういうことでしょう」
「解りません。母はそれを言いませんでした。私も想像しかできません」
「何だと思いますか」
「そうですね……。いえ、うまく言えません。ただ、母はあなたの振る舞いを通して、何か感じるものがあったのだと思います」
「感じるもの……」
「はい。あなたは……妖怪の方、ですよね。それでありながら、落ち着きを払ったように物静かです。まるで規律された生活を送っていたような……、そんな、洗練された物腰を感じるのです。それは妖怪らしくないですし、また普通の日常生活では得られないものでしょう。母は昔、花売りをしていました。私を産んでからは茶道、華道を嗜むようになりました。作法や普段の立ち居振る舞いには、人一倍厳しい人でした。私も女だからと厳しく言われたものです。だからあなたが訪問されたとき、会話をしているとき、母はあなたの姿を通して何かを見たのかもしれません。過去の、昔の自分の姿を思い返したのかもしれません」
 静かに鈴仙は俯いた。恥ずかしさ、居たたまれなさ、地上への忌避、それらが絡み合って訪れた。どういう反応もできなかった。規律された生活。それは確かに送っていた。死んでいった仲間たちが、彼女が、少しだけ浮かび上がって消えた。隣室から線香の匂いが漂ってきた。縁側の向こうからささやかな外の喧騒が聞こえてくる。
 女性は静かに鈴仙を見つめた。
「……初日の日、母の病状が良くなかったのか、あなたはすぐ翌日、お医者様……八意様を連れてこられました。八意様に別の薬を配合いただいてからはみるみる具合がよくなっていったんです。その日あたりを境として、母は、笑顔をよく見せるようになったんです。元気になって、病気を追いやってしまったようでした。病は気から、という言葉を意識したのを覚えています。それから……、年を経て、母は編み物をするようになりました。ご近所の友人を模して人形を編んで、プレゼントしていたんです。親しい方の人形は編んでいるようでした。母が亡くなったあと、たくさんの人形が茶箪笥に仕舞われているのを見つけました。渡す暇が無かったのか、恥ずかしかったのか、最初から残すつもりだったのか、私には解りません。ただ、それらは母の遺品です。そこには主人や私、娘のマイの人形もありました。あなたの人形と、八意様の人形も」
「……お師匠様の人形もあったのですか?」
「はい。八意様には時折拙宅にお越しいただいて、母を診ていただいておりました。昨日も来ていただいたのですが、そのときは母はもうおりませんでしたので、そのときに……」
「そう、ですか……」
「あなたの分は、直接渡して欲しい、と言っておられました。そのほかにも……、里に住んでいない方の人形がありました。一度、母が小さなお友達を連れて帰ったことがあったんです。お人形さんのような可愛らしい女の子で、娘と一緒に、母の部屋で楽しそうに喋っていました。その方の人形はあるのですが、何処に住んでいるのか解らないんです。だから、ずっと残ったままです……。いつ訪ねて来るかも解りません。だからその人形は、ずっと茶箪笥に仕舞ったままです」
 鈴仙はしばらく女性を見つめ、抱いた人形を見た。人形が鈴仙を見つめ返した。あの頃の自分に見返されているようだった。永遠が明けたばかりで、これから穢れた地上で生きることを余儀なくされて、不安に溺れそうな自分がそこに居るように思えた。今にも動き出して、おぼつかない口調で薬の説明をしそうに見えた。
 人形があまりにも自分を表わしているようで、鈴仙は不思議な感覚を覚えた。もう亡くなった地上の民に、自分が受け入れられていた気がした。永遠亭の住民としてでなく、鈴仙個人として、気付かぬ間に繋がりを持っていたような気がした。ふと、鈴仙は自分から意識してその女性の顔を見た。弱々しさと、凛とした輝きが同居しているような瞳がそこあった。
 玄関口で女性は丁寧に頭を下げた。
「母はきっと幸せだったと思います。あなた方が居ていただけたから、幸せに、生涯を終えられたと思います」
「そんなこと……ないです。買いかぶりすぎです」
 拒否するように鈴仙は首をふった。
「いいえ、言わせてください。永遠亭の方々が、あなたが来ていただけたから、私の家は少しでも明るくなったんです。今まで伏せっていて悪かったと、母は私を強く抱いたんです。母が安らぎを覚えるきっかけをくれたのは、間違いなくあなただと。私はそう思っています」
「そんな」
 奈落の底へ落ちそうな予感がした。拒否を示す鈴仙を、凛とした女性の瞳が見詰めた。
「母は、あの日を境に変わったんです。父に会いたいと言って泣いていた母が、死にたいと言っていた母が、穏やかな眼をするようになったんです。それまで、私の家は暗い生活が続いていたんです。娘も暗かったんです。だって、母は身体を崩していて、それを喜んでいるんです。もうすぐ父に会える、早く会いに行きたい、迎えに来て欲しいって、私に言うんです。それも穏やかな顔をして……。実の娘にですよ。それが、あなたがあの日にやってきて、すぐ次の日に、お医者様を連れてきてくださってから、母は持ち直したんです。それから何かを得たように、少しずつ変わり始めていったんです」
「違います!」
 自分のなかの穢れが際立って感じられるようだった。言葉の一つ一つが鈴仙を抉った。堪え切れなかった。抑え切れなかった。居た堪れなくなった鈴仙は声を荒げた。
「やめてください。私は、そんな喜ばれるようなことはしていません。駄目なんです。私、そんな綺麗な奴じゃない。薬売りだって、お師匠様には言えないけど、本当は嫌なんです。人間だって、好きじゃない。嫌いなんです。こんなこと、好きで続けているんじゃありません」
 女性は表情を変えず、静かな眼で鈴仙を見た。
「……嘘じゃないですか」
「どうしてそう思うんですか」
「あなたは最初に母を診られたとき、八意様を連れてこられました。それは何故ですか?」
 鈴仙はその答えを返せず、沈黙の時が流れた。女性が静かに口を開いた。
「人間が嫌いであれば、放っておけば良いじゃないですか。仕事は仕事です。事務的にこなせばいいじゃありませんか」
「あなたは……」
「はい」
「あなたは妖怪を憎みはしなかったのですか? 父を殺されて、憤りはしなかったのですか?」
 女性は顔を伏せて言った。
「私は……。その頃は物心が付いていませんでした。物心が付いたときにはもう、父の死を受け入れてしまっていたんです」
「では、あなたの子どもが妖怪に殺されたらどうしますか」
 女性は一転して厳しい眼をむき出しにした。
「きっと、母と同じことをするでしょう」
 行き過ぎた言葉の無情さに鈴仙は気が付いた。眼をそらし、俯いて、小さく、ごめんなさい、とつぶやいた。女性は眼を閉じて、それから薄く開いた。そこには気丈な冷静さがあった。
「私から見れば、あなたは人を避けているような気がして……。その、あなたは他の妖怪とは、少し違う気がするんです。妖怪は人を襲うものです。あなたはそういう意味で、妖怪らしくない。むしろ、人間に近いです。この里が妖怪に脅かされないのは、妖怪の賢者に守られているからだといいます。変な話ですよね、妖怪が襲ってくるのを、妖怪が守っているだなんて。でもこの里は、そんな不思議な均衡の上に成り立っています。私は、そのことをどう捉えていいのか解らないんです。蚊帳の外の出来事にも思えます。ひょっとしたら麻痺しているのかもしれません。一時期、母と同じように、業火に駆られて、妖怪を追い出して人間の力だけで生きていけないのかと考えたこともあります。また別の時期に、妖怪と共存して生きていけないかと考えたこともあります。私は、どうすれば良いのかずっと考えていました。そもそも、その答えが本当にあるのかどうかすら私には解らなかったんです。思い切って、御阿礼のお言葉を聞きに稗田の家を訪ねたこともあります。ですが、思うような答えは得られませんでした」
「何と言われましたか」
「あなたの思うままに、と」
「そうですか……」
 話の途中で、近くをぱたぱたと走る音が聞こえた。
 小さな女の子が、元気良く髪を振り乱してこちらに走ってくる。
「マイ」
「お母さん!」
 屈んで、女性は走り寄ってきた娘の頭を撫でてやった。
 女の子は鈴仙を見て眼を大きくする。そして指を差して言った。
「この人だぁれ?」
「こら。指差しちゃ駄目よ。この方は薬売りの兎さんよ。私たちみんな、とってもお世話になっているの」
「ふぅん」
「あなたもお世話になるわ、きっと。この里が変わらなければ、あなたが大きくなって、子どもが出来ても、孫ができても、ずっとね。だから悪いこと言っては駄目よ」
 女の子は、うん、と生返事を返した。しかし頭は別のことを考えているようで、視線は鈴仙の耳に向かっているようだった。子どもは皆、この耳を珍しそうに見る。
 女性は娘を嗜め、家へと入れた。その足で戻り、深々と鈴仙に頭を下げた。
「ごめんなさい、好奇心旺盛な娘で……」
「気にしないでください。人の子どもはそういうものですから」
 女性は薄く微笑して言った。
「……今日はありがとうございました。母の遺品を渡せて良かった。これからも、ずっと薬売りを続けてください。私の代が終わっても、娘が誰かに嫁いだあとも、どうか診てやってください。孫が生まれたあとも、大きくなっても、ずっと、続けてください」
「薬売りは……ずっと続けると思います。お師匠様が止めると言わない限り、続けます」
 何処か満足したような笑みを浮かべ、女性は空を仰いだ。
「こういうこと、なのかもしれませんね」
「こういうこと?」
「私なりの妖怪の方との付き合い方です。少なくとも私は、妖怪の方とも、その……仲良くやっていきたいと思っているのです。あなたたちを見て、そう思いました」
「……あなたたち?」
「はい。人間と妖怪が一緒に暮らしているのを、永遠亭の方々は平然とやっているじゃありませんか。私はお二人を見て、まずそれに驚かされました。幻想郷は、まるで境界で区切られているかのように人間と妖怪は別のものです。在り方も違いますし、私も、別のものだ、相容れないものだって、そんな風に思っていました。妖怪の賢者に守られているといっても、それは私たち人間には選択の余地がない一方的なものだと思っていたんです。でも、あなたたちの姿を見ていて思いました。先日の八意様を見ても思いました。私は合点のいく考えを見出したんです。私も、そのようにありたいと思ったんです。守られるのでなく、共存するという在り方を目指したいと、そう思ったんです」
 人間と妖怪が共存する。それはとても難しいことのように思えた。人間は妖怪とは違う。妖怪だって人間とは違う。また永遠亭は少し事情が違う。人間と妖怪の間柄は、こと永遠亭においては当て嵌まらないのだ。それでも、何故だろう、小さな意識が芽生えようとしているのを鈴仙は感じた。地上の民との距離が近くなるのを感じた。それは永遠亭として、鈴仙という個人として、一人の地上の民との邂逅とも思えるものがあった。この女性と、少し距離を近づけたいという意識が働いた。
 だから、自然と口をついて出た。
「出来ると思います。少なくとも、私たちなら」
 女性は微笑して、深く頭を下げて言った。
「鈴仙さん、今後とも、宜しくお願いします……」
「あ……、その、すみません」
「はい」
 鈴仙は困ったように、しどろもどろになって言った。
「あの、今さらですみません。名前を教えていただけませんか。私、あなたの名前が知りたい」
 彼女は微笑んで、握手を求めるように手を差し出した。
「私は、ミズカといいます」




5.

 里を出た鈴仙は茫然自失としたまま平野を歩いていた。あのあと、ろくに薬売りに手がつかなくて残りの数件は流れるように仕事を終わらせてしまった。彼女と、ミズカと握手を交わしたときの手の感触が、いまだに離れてくれなかった。
 彼女は月の兎のミズカとは別人だ。ただ名前が同じなだけだ。それだけの話だ。なのに、どうしてこんなに動揺させられるのか。その理由も鈴仙には解っていた。彼女と握手を交わしたからだ。
 いつもの夢のなかで、終わりに差し出される手があった。それは死へと誘う親友の手だ。鈴仙はそれを握ることもできず、抗うこともできず、ただ震えるしかなかった。その手を握ってしまったような気がしたのだ。彼女と、ミズカと握手を交わしたときの手の感触が、いまだに離れてくれなかった。
 月での生活がまざまざと甦った。
 彼女の髪、彼女の声、彼女のしぐさ、彼女の瞳、すべて、忘れずに残っていた。今でも手に取るように思い出せる。
 平野をとぼとぼと歩き続け、さらさらと擦れる竹の葉の波長が耳に伝わってきた。そのまま竹林に入り込み、むせかえる竹の香りの包まれたあたりで、てゐがわざとらしく合流してきた。
「さぁ帰ろうよ。もうしばらくしたら陽が落ちるよ」
 薬売りをさぼったことについて怒りたい気持ちはあったが、その感情は発露する機会を失い、身体を素通りして拡散した。空気の抜かれた風船のようだった。今はそんな気分にはなれなかった。ミズカのことを思い出して、罪の意識が自縛霊のように圧し掛かって、しばらくは何もしたくない気持ちだった。陽気なてゐが隣を歩くことになれば、その明るさに少しだけ鬱陶しさを感じてしまうかもしれない。そんなことを考えててゐを横目に見た鈴仙は、彼女の様子がいつもと違うことに気が付いた。てゐは明るく振舞っているようで、その実、まったく違うように思えた。怪訝に思った鈴仙は訪ねた。
「あんた、どうかしたの?」
「え、何が?」
 眼をぱちくりし、てゐは自分では何も解っていないようだった。いつも陽気な者は自分がそうだと気付いていない。それが自然体だからだ。ありのままに笑い、泣き、遊んで生きるてゐは、本質的に演技者には向いてなかった。他者を騙すことはできても自分を騙すことはできないのだ。
「なんか、いつもと違うわね」
 てゐは子どものように首をかしげた。
「いつもってどんなんだっけ」
「もっと飛んだり、跳ねたり、走り回ったり、踊ったり、居なくなったりさ」
「そうだっけ」
 その感情の小さな反応は見慣れないものだったので、鈴仙は少しだけ心配した。
「ええ、そうよ。いつもなら小躍りしてるところだわ。どうかしたの?」
 何でもない、といっててゐは隣を歩いた。後ろ手にして鼻歌も歌わず、てくてくと鈴仙に沿うように歩き出した。鈴仙は何を言ってやればいいか考えたが何も浮かばなかった。だから黙って、時折、てゐを横目に眺めながら歩き続けた。
 ふと見ると、里に戻るのだろうか、竹林の奥のほうを歩く人の姿があった。狩りにでも行ったような格好だった。事実、そのとおりだっただろう。陽気に歩くその背には、兎が力なく吊るされていた。
 足どまり、てゐは何の気なしにそれを眺め続けていた。落ち着かない気持ちになった鈴仙はつと口を開いた。
「追い掛けないの?」
「……」
「あれ、兎でしょ。連れていかれるよ」
 人間が竹林の入口のほうへ歩いていくのをずっと見送って、てゐがつぶやくように言った。
「私たちは人間に深入りしない。それが掟なんだ」
「掟?」
「そう。兎たちの掟。私たちは人間と距離を置かなければならない。近付いてはならない」
「確かにあんたたちは人を避けるようにしてたと思ってたけど……」
「特別に選んだ人間は別だよ。でもそれ以外は駄目なんだ」
「どうしてよ」
「捕まったら皮を剥がれて食われるからだよ」
 衝撃が空砲となって鈴仙を撃ち抜いた。重心がぐらつき、緩やかな傾斜を転がるように感覚が揺らいだ。世界が捻じれていくさまを脳裏に焼きつけられた気がした。
「……あんたぐらいになれば、人間を煙に巻くことだって出来るんじゃないの」
「私はただの兎だよ。鈴仙みたいな能力はもってない。それに相手だって人間なだけじゃないんだ。たくさんの妖怪化した動物も竹林にいるんだ」
「でも、そんなこと言ってたら兎が捕まってばかりじゃない」
「捕まる……」
 てゐはしばらく考えてから言った。
「そうだね。たくさんの兎が死んでいくね」
 力づくで抗えば、あるいは救えた兎もいたかもしれない。だがそれではもっと駄目になるとてゐは言った。兎は弱々しく、武器だって持っていない。いつだって追い返せるわけじゃない。せいぜい地の利を生かして煙に巻くだけで手一杯だ。だから返り討ちに遭って連れ去られるのが関の山となる。
 動物の母親は自分の子どもに近寄る獣を威嚇して追い払う。生まれて間もない赤子は捕食されるだけの弱者でしかない。子が強く成長するまで母は世話をする。狩られないように周囲に気を配る。近付くものに敏感に反応して威嚇する。ふと姿が消えたら狂ったように探し出す。ただ近付いてきた小動物ですら暴走したように襲い掛かって痛めつけ、ときに勢いあまって殺す。それは牙を持たぬ草食動物も同じだ。彼らは子を守るために獰猛な獣を前にしても対峙する。獣はぎらついた眼を輝かせ、鋭い牙を見せつけ、これまで幾匹もの同胞を食らってその味を覚えている。己の肉さえ食らいかねないそんな獣を前にしても、彼らは命を捨てて立ちはだかった。己が狙われれば命を剥き出しにして抗った。
 捕食される者は捕食しようとする者に対して徹底的に抗うことが必要だ。でなければ殺される。だが兎は抗うための武器を持たない。牙も角もなく、ただ逃げる足しかない。兎は成長しようが親になろうがいつだって捕食される側だ。狩りの対象とされ、矢で射抜かれ、耳をひっつかまれ、皮を剥がされ、食われるためには一羽二羽と数えられ、寓意では太陽に飛び込まされ、あらゆる時代で生贄として捧げられた。兎は生き残るために強い繁殖能力を身に付けた。死んでいくなかで種として生き延びるには、母数を増やすしかなかったからだ。それが次第に多産、豊穣としてもてはやされた。てゐはそれを悲しいことだと言った。
「兎はあっけなく死んでいくんだ。種がどうこうじゃない。私はただ生きて楽しみたいだけなんだ。長生きする兎って、それだけで珍しいでしょう? 逃げ延びて震えて生きるんじゃなくて、もっと楽しいことだってしたいじゃない。皮を剥がされるのって痛いんだよ。剣山を身体中に捻じ込まれる感じだよ。もう動けないんだ。この世の地獄だよ。もう二度と味わいたくない。外敵が増えても兎たちはここを離れたがらなかった。私も離れたくなかった。だから私たちは生き延びるために最善を尽くした。死んでいった兎の血と肉で掟はできている。でも、兎たちが生き延びるにはまだまだたくさんの智慧が必要だったんだ」
 妖怪兎になって人型になることが重要だ。人間は兎を捕まえて食べることがあるが、人間の姿をしていれば食べられない。妖怪兎に化けることは生きていくうえでとても重要な智慧だとてゐは言った。見つかっても兎の耳を残して可愛らしく振る舞えば、見逃されたり、食べ物にありつけたり、小物を貰えることもある。人型になって悪いことは何もない。どんな良くないことがあっても野良兎として食われるよりはよっぽど良い。今日捕まえられた兎は、鈴仙がくる以前、永琳と輝夜が竹林に住み着くずっと前から群れにいた古い兎だ。そんな兎でもヘマをする。陽気になって群れを離れ、そのまま遊び続けると、力を弱めた妖怪兎は人型を保てなくなってもとの姿に戻る。そうなると駆けてまわるにも竹林は広大すぎる。そんなときに運悪く、待ち伏せのように仕掛けられた罠にひっそりとかかることがあるのだ。群れで大移動中の兎たちは気づかない。住みかに帰ったあとにふと居ないことに気付くのだ。最後に顔を向かい合わせたのはいつだったろうか。どんな言葉を交わしただろうか。こんな別れはざらにある。ある満月の夜、力を得て凶暴化した妖怪を避けて移動するなか、突然の嵐に見舞われて大慌てで帰ってきたことがあった。そこで点呼が合わず、ひっそりと姿を消した妖怪兎がいた。怪我でもして、危険な妖怪のうろつく竹林に取り残されたままかもしれない。今ならまだ間に合う。探そう、探そうと言い続け、不安に溺れてむせび泣いた別の妖怪兎がいた。彼女は夜も寝ずに泣き続け、震えて過ごし、朝を待たずに暗がりの大雨へ飛び出してしまい、そのまま帰ってくることはなかった。誰も彼女を止められなかった。二人は姉妹だった。
 竹林の兎のほとんどすべてがてゐと言葉を交わしている。たくさんの兎がてゐのもとを通り過ぎて死んでいった。ただ質素に木の実をかじり、果実を食べ、じゃれあって、陽射しのなかでうたた寝をし、陽気に遊びまわる。それだけのこともかなわないのか。ずっと竹林にひそみ、日陰に隠れ、ただ逃げ延びて過ごすことに価値はあるのか。迷いの竹林は以前は高草郡という名前で、幻想郷に流れ着いたてゐたちの故郷だという。竹林のなかにどれだけ野良妖怪が増えようと、兎が捕まろうと、故郷を離れることはできなかった。
 あくる日、てゐは竹林をとびまわっていると、急にぽっかりと地図に穴が開いたような感覚を覚えた。竹林は自分の庭のはずだったのに、ある一部が庭でなくなったような気がしたのだ。不審に思ってそこへ行くと、見慣れぬ屋敷が突然建たれていた。それは純和風の古屋敷で、まるで以前からずっとそこにあったかのような佇まいだった。てゐは極めて注意深く、静かに、時間をかけて観察を続け、そこに住む二名が人間とも兎とも妖怪ともなんら関わりを持たない力ある第三者だと判断した。単身でそこに乗り込み、契約を交わし、兎たちは大いなる智慧を授けられた。兎たちが兎たち自身を守っていける智慧、手段。それこそ兎たちがのどから手が出るほど欲しかったものだ。ただ捕食されるだけではない、ただ逃げ延びるだけではない、楽しく生きられる答えの一つがそこにあったのだ。
 永遠亭は兎たちにとって楽園だ。妖怪も妖精も屋敷には近付いてこない。ここでは気兼ねなく木の実や果実を食べられる。陽を浴びてじゃれあうこともできる。たまゆらの午睡にふけることもかなう。これ以上の楽園はなかった。
 とつとつとしたてゐの短いつぶやきは、鈴仙に語ったものではなかったかもしれない。ただ思い出した景色が独白として口からこぼれただけかもしれない。いくつもの感情が鈴仙の胸をあふれた。身体が熱くなり、溶け出しそうになった。
 舞い落ちる葉のなか、鈴仙は立ち止まった。
 とぼとぼと歩くてゐが気付いて素の顔で言った。
「どうしたの。帰るんじゃないの」
「あんたは帰るのよね」
「そうだけど」
「じゃあこれ、持ってってくれる? ちょっと用事思い出した。薬売りさぼったんだから、これぐらいしてよ」
 背負った薬売りの籠を降ろし、嫌そうな顔をしたてゐの背中に手早く取り付けた。
「里でだいぶ捌けたから軽いでしょ」
「まぁそうだけど。何処いくの?」
「ちょっと、近くまで。だからすぐ戻るって、お師匠様に伝えて!」
 返事も聞かず、鈴仙は駆け出した。
 駆け出さずにはいられなかった。
 故郷を捨てて逃げた鈴仙には到底耐えられる話ではなかった。
 月を降りて長い時が過ぎた。地上の穢れにまみれた今、もう月には帰れない。もう故郷には帰れない。あの荒涼とした大地を見ることはもうない。静寂の大地を走る幻想の結界を見ることもない。地上の兎たちが命を削がれてまで離れることのなかった故郷は、鈴仙にとってはもう到達することのできない彼方へと消えてしまっていた。一度捨てたものはもう拾うことはできない。二度と帰ることはかなわない。一人ぽつんと佇んで見上げるだけだ。故郷を失って、帰るべき場所を失った兎は何処へ帰ればいいのだろう。疎外感が身体を覆い尽くした。握られた手が、ミズカの手の感触だけがずっと離れなかった。月の海で繋いだ手の感触、里で交わした手の感触、その柔らかく、暖かい感触がずっと離れなかった。
 波長を通じて届いたミズカの言葉が、今、水を得たように甦る。
 ――レイセン、何処にいるの?
 ――私の声、聞こえている?
 ――声を聞かせて。
 ――ねえ、レイセン、レイセン、レイセン……。




6.

 竹林を飛び出し、平野を駆け抜け、鈴仙はただ走り続けた。ミズカの声が、親友の声が、まざまざと再生された。脳裏に甦った。抱きとめられたときの彼女の匂いがあふれ出した。
 ――ねぇ、レイセン。
 ミズカ。
 ――生きて、レイセン。
 ミズカ。
 ――どうか、生きて。
 ミズカ。
 ――私の分まで。
 嘘だ。
 妄想だ。
 都合のいい。捻じ曲げた記憶だ。本当はそんなこと言っていない。月を飛び出して、羽衣を纏っている間は何も聞こえていない。何も耳にできない。だから届かない。地上に降りて、森を駆け抜ける間だって、聞こえなかった。
 ――レイセン。何処?
 聞こえなかった。
 ――地上の民が攻めてきたわ。あいつら、おかしな武器を持ってる。少し、まずいんだ。あなたの力が欲しいの。
 妄想だ。妄想だ。
 ――レイセン、何処にいるの……?
 森を抜けた。夜の闇が全てを覆っている。月が狂いだしたように輝いている。月を見てはならない。宵闇など波長を見れば全てが解る。枝葉があって、動物や植物、昆虫の波長が見え隠れする。息が苦しい。決して呼吸ができないわけじゃない。穢れが苦しめるのか、それともミズカの声があふれて苦しいのか。
 ――今後とも、宜しくお願いします……。
 深く頭をさげるミズカが混じった。
 段差を飛び越えた。そうだ、走り続けているのだ。幻想と現実が混濁していた。今は、平野を駆けているのだ。息切れが続いて、すぐに浮き上がって空へ飛び出した。位相を逆にとって姿を消した。川を渡り、小さな丘を越え、山に入り、それでも飛び続けた。次第に大きな丘が見えてきて、むせ返るような花の匂いが漂ってきた。近くに降りて、息を切らせて歩くようになった。その先、鈴蘭のなかの幻想世界で舞う人形は、あの日と変わらずにあった。身体が鈴蘭の毒に犯されていったが、それでも構わなかった。少しずつ位相が戻っていって、世界が現実味を帯びて広がった。
 夕陽が幻想郷を赤く染め上げていた。それがまるで終焉のように見えて、死に近付いているように思えて、ふと寂しくなった。
 息切れが緩やかになって、呼吸が楽になっていった。それとも鈴蘭の毒にやられているのかもしれない。
「コンパロ、コンパロ」
 何かをつぶやいて、メディスンは鈴蘭のなかをくるくると舞った。
 鈴仙は深く呼吸をした。無味な空気が肺に吸い込まれた。
「さあ、あなたの周囲の毒を抑えてあげたわ。もう大丈夫でしょう?」
 無垢な笑みを向けられて、鈴仙はうっすらと微笑した。
「……あなた、成長したのね。あのときはあれだけ毒を撒いてたってのに」
「あはは。私もね、色々と動いたんだよ。学んだんだよ。鈴蘭の丘から出て世のなかを見て回ったんだ。あなたの家だけじゃなくてね、近くの妖怪とも話すようになったんだよ」
 永琳と一緒に鈴蘭の丘に訪れた際、永琳は幾つかの毒のコレクションをメディスンに分けてもらったことがある。それを縁として、ごく稀に鈴蘭の丘に通うことがあった。永琳一人で出かけたこともあったし、連れられて二人で訪れたこともあった。こうして一人で鈴蘭の丘に訪れるのは、最初に花の異変でとびまわっていたときが最初で最後だった。メディスン・メランコリーからは一度だけ永遠亭に招待して連れていったことがあった。そのときは永琳に連れられて鈴蘭の丘を訪れていた。何かのきっかけに、詳しく毒の草を見せるという話になったのだ。長話を続けながら竹林を通り抜け、見つけた広い屋敷に彼女は驚いていたが、永琳の部屋で毒の話をふられると魚のように食いついた。延々と毒と花、それらが関連する薬の話に耳を傾き続けていた。でも、それっきりだ。一晩を永遠亭で過ごし、兎たちと戯れ、見送られて、それっきり。永琳はときおり鈴蘭の丘に通っているようだったが、鈴仙はメディスンに会うことはそれ以来無くなってしまった。だからこうして鈴蘭の丘に来るのは本当に久しぶりのことだった。
 メディスンは言った。
「今日はどうしたの? 毒が欲しいの?」
「何となく。……あなたに会いたくなって」
「なぁに? それ」
 くすくすと笑ったメディスンは、言ってすぐにすんすんと匂いを嗅ぎ、何かに気付いたように言った。
「人間の匂いがする」
 鈴仙は自分の身体の匂いを確かめるように嗅いで言った。
「ん? ああ、そうね、今日は薬売りだったから。里に行ったの。そんときのね」
「人間の里に?」
 急に花開いたようにメディスンは笑った。そして言った。
「ミキはいた?」
「え? ミキ?」
「そう、ミキ」
「ミキって、誰のこと?」
「ミキはおばあさんだよ。里に住んでるの。前にね、この丘まで歩いてきたことがあったの。そのときに話しかけたんだ。それから仲良くなったんだよ」
「おばあさんが、一人でここまで来たの?」
 こくりとメディスンはうなずいた。
「いつごろ?」
「忘れた」
「空は明るかった?」
「いい天気だったよ」
「ふぅん……」
 妖怪のうろつく幻想郷で里を遠く離れるのは珍しいことだと思った。そんなことをするのは物珍しい人間か、訳有りだろうと思えた。鈴蘭の丘はうち捨てられた者たちが命吸い取られる最後の場所だという。そのおばあさんは里では捨てられない何かを捨てに来たのか、それとも自棄になって里を離れたのだろうか。
「そのおばあさん、何しに来たのかな」
「さぁ。探し物って言ってた」
「そっか」
「すごく寂しそうだった。でも話してるうちに元気出てきてね、また来るって言って帰ったの」
「ふぅん」
 メディスンは覆いかぶせるように話を続けた。おばあさんは、ミキはちょくちょく鈴蘭の丘を訪れるようになった。ミキに影響がないように、メディスンは鈴蘭の毒を弱らせてやった。ミキは喜んで、たくさんの話をしてくれた。小さかった頃の話、少し大きくなってからの話、結婚してから、子どもを産んでから、老いてから。日をまたぎ、ときに雨の日も、話を聞かせてくれた。あくる日、ミキは自分の家にメディスンを招待した。人間の里に入るには抵抗があったけど、おそるおそると着いていって、人間の家というものに初めて入ったりした。
「ねえ、そのおばあさん、ミキっていうんだっけ」
「そうだよ」
「鈴蘭……」
「うん。鈴蘭の花をわけてあげた。代わりに私に人形を編んでくれたよ」
「え?」
「人形。ほら」
 メディスンは貴族の少女がやるように、スカートの端を持ち上げてみせた。なかぐらいに小さな仏蘭西人形が結われていた。メディスンの近くを浮かぶ小さな人形に似ていた。
 鈴仙は既視感を覚えた。似たような造りの人形をこの眼で見た。柱に付けられた身長を表わす傷。ミズカと名乗った彼女、マイという娘の名前、あと残されたのは誰になるだろう。
「……ミキ?」
「そうだよ」
「人形を編んでたお婆さん?」
「そうだってば」
「ミズカの……」
「そう!」
 メディスンは両手をあげて、身体全体で喜びを表わした。そのままくるくるとまわってスカートをふわりとはためかせた。
「そうだよ、ミズカのお母さんだよ。それでマイのお婆さん。この人形、ミキに編んでもらったんだぁ」
「そっか……」
 うなだれたような鈴仙の様子に気付いたのか、メディスンが訊いた。
「あれ? どうかした?」
「彼女、もう亡くなったわ」
 硬直したようにメディスンは止まった。
「……いつ?」
「二月ぐらい前だって」
「そっか。そっか……。最近、来ないなぁって、思ってたんだ……」
 急にメディスンは大人しくなった。息を吐いて地を見下ろして、風に吹かれて揺れた。毒を含んだ鈴蘭の、素朴で、爽やかで、悲壮な匂いを連れて風は舞った。
「あなたが分けたって言ってた鈴蘭の花、わたし、見たわ。花瓶で飾られてた……」
「うん。わけてあげたよ。たくさんあげようとしたけど、そんなに持って帰れないっていうから、二房だけ。何回か来てね、話をしたの。ミキは人間の里に住んでるんだって。そこで生まれて、ずっとその里で暮らしてきたんだって」
 ミキは自分が恵まれているとメディスンにこぼしていた。娘のミズカを産み、孫のマイを抱き、夫に逝かれ、これまでたくさんの幸福と不幸を抱えて生きてきた。揺れ幅が深ければ深いほど情緒が築かれるとミキは語った。しかし彼女にとって夫の死は堪えられるものではなかった。それは幸福を打ち崩して呑み込んでしまうほどの濁流だった。死に誘われるようになり、里を抜け出したりした。夫の影を求めてさまよい続けた。まだ何処かに生きているかもしれない。その考えはミキの頭を支配し続けた。心はどうしようもなく揺れていたのだ。消息を絶った森へ何度も出かけ、湖に赴き、妖怪の山へ入り込んでまで夫を探し続けた。竹林では見知らぬ者に生を説かれて追い返されたりもした。それでも、夫が居なくなったことが信じられないのだ。きっと、何処かで生きている。強く頭を打って、記憶喪失にでもなって誰かに拾われているのかもしれない。露ほどの可能性がある限り、見過ごしたくなかった。ひょっこり帰ってくるのではないか、という希望にも縋ったが、現実は常に非情だった。
 ある日、ミキは言った。娘の心からの介護が無ければとうに死んでいた。一番深いところで命を、気力を繋ぎとめているのは我が娘だった。それに気付くのが遅かった。時間を消費しすぎて、娘につらい思いばかりさせてしまったのだ。それに気付くきっかけをくれたのは、あくる日に訪問販売にきた別の妖怪だった。つたなく、噛んだりしながら懸命に売り物の説明をしようとするその姿は、いつかの自分だった。まざまざと過去の記憶がよみがえった。そこで夫に声をかけられ、二人は出会ったのだ。夫に掛けられた言葉を、またその妖怪に掛けたかもしれない。その妖怪は引き金だった。下降する心の向きをふいに変えられたのだ。いったん溶け出した心はみるみるうちに溶けて、熱を持つようになった。そして常に傍に娘がいることに気付いた。今さら気付くなんて馬鹿だ。これまで我が娘を見ることすらしていなかったのか。積み重ねられた娘の献身に気付いたとき、かつてないほどの涙がこぼれた。それから彼女は変わった。夫の死を、少しずつ受け入れるようになった。周囲の人々に気付き、たゆまぬ愛を注ぐようになった。
「私ね、ミキとたくさん話して、マイともたくさん遊んだよ。でもミズカとはほとんど話せなかったんだ。だってミズカはミキのことばっかりだったから」
「そう、みたいね」
「でも……」
「ええ」
 息がつまったようにメディスンは苦しい顔をした。
「ミキは……。もう……」
「……」
 それきり、メディスンは黙り込んでしまった。夕陽を浴びて、ただそれを眺める彼女は何を考えているのだろう。終焉だろうか。一つの終わりを粛々と受け入れているのだろうか。ふと、夕陽がメディスンを連れていってしまうような錯覚を覚えた。あの向こう側へ、旅立ってしまうのではないかと感じた。
 ぼそりとメディスンが言った。
「私の毒がよくなかったのかな」
 鈴仙は黙り、ただ風に吹かれるままだった。
 丘に生え渡る鈴蘭は毒性を含んだ赤い実をならし、力なく揺られていた。この実を食べるものは誰もいない。動物も食べない。毒性が強く、死に誘われることになるからだ。誰の手にも触れず、ただ純潔を守り続けるのだ。
 ふと今日の薬売りを思い出した。よく出ていた薬は何だっただろうか。すぐにそれを思い出して鈴仙は息を飲んだ。
「きっと、寿命だったのよ」
「寿命?」
「そう、寿命。人間の寿命はとても短いの。ミズカが言ってた。ある朝に見たら、冷たくなってたって。きっと眠るように息を引き取ったのよ。きっと幸せに逝ったはずよ。あなたと出会ったことだって、きっと、ミキの幸せの一つだった」
「そうかな」
「少なくとも私はそう思う」
 逃げ出した兎とは違って、少なくとも彼女は幸せだった。ミキは夫の影を忘れられず、現実から眼をそらしてさまよい続けた。でも最後にはそれに気付くことができたのだ。月を逃げ出して、故郷を失った兎とは違う。彼女は最後には持ち直したはずだった。自分なら、と鈴仙は思った。どうすれば良かったのだろう。月を逃げ出さずにいたならば、どうしていただろう。月に残って、仲間とともに、ミズカとともに、月を侵略しようとする地上の民を殺せばよかったのだろうか。仲間と一緒に地上の民に殺されればよかったのだろうか。月の都には圧倒的な技術力があるから、誰一人として傷を負わずに追い返すことだってできるとでも言うのだろうか。
 戦争が間近に迫ったある日、依姫が一人つぶやくのを聞いたことがある。地上の民の技術は宇宙の海を渡って月に昇ってこれるぐらい進歩している。地上の民はミクロの可能性を見出している。それに月読命が驚愕していたというのだ。鈴仙にその用語の意味はよく解らなかった。ただ、月読命が驚愕したという事実と、依姫が迫り来る戦争の準備を着実に整えようとしていることだけは感じ取れた。それは鈴仙にとって、死が間近に迫っていることと同義だった。依姫は戦争を前にして、まだ地上の技術は露ほどにもない原始的なものだと言って兎たちを静めた。でも鈴仙は疑念をもっていた。それは確信に近いものだった。戦争は確実に起こる。使者である兎たちはたくさん死んでいく。穢れを除いた月は、迫る死のすべてを回避したわけじゃない。寿命による死を遠ざけただけなのだ。
「ミキは幸せだったはずよ。自分と向かい合って、故郷を離れてさまよい続けても、結局最後は故郷に戻ってこれた。大事なものに気付くこともできた。私の故郷はもう遠くに行っちゃった。逃げ出したのに、取り残されたのは私だけ。馬鹿みたい。ほんと、馬鹿みたい」
 鈴蘭の丘を見回して、小高い場所まで上がり、鈴仙は沈み行く太陽を眺めた。幻想郷が血のような赤い色に染まっていた。それは黄昏の色だ。終焉の色だ。死を間近に控えた世界の色だ。膝を丸めてしゃがみ込んだ。メディスンが転びそうになりながら着いてきて訊いた。
「……どうかしたの」
「ずっと前の話。私の故郷では戦争が近付いていたわ。都が一気に慌しくなったの。穢れた地上の民が船に乗って攻めてくる。侵略してくる。これまでにない大きな戦いになる。皆がそう噂した。実際にそういう話になった。私は使者として働かなければならなかった。月の都を守るために、何が何でも働かなければならなかった」
「あなたの町は人間に襲われたの?」
「……いえ、最終的には追い返したという話になったわ。それでもたくさんの兎が死んでいった。月に住む者たちは長久の寿命があるの。どれだけ生きても死ぬことはないわ。でも、それは不死じゃない。寿命による死因がほぼ無いというだけ。殺されれば、死ぬわ。ふとした事故でも死ぬ。銃で撃たれても死ぬ。何らかの兵器を使われたら、使者である私たち全員殺されるかもしれなかった」
 メディスンは静けさを宿した顔で言った。
「でもあなたは生きてる。殺されなかった証拠じゃない」
「殺されなくて当然よ。私は逃げたんだから」
「……」
「私は戦争が始まる前に逃げたの。月を逃げたの。地上に逃げたの。だから生きているの」
 急に吐露しだした鈴仙をメディスンはどう思っただろうか。理解できなくてもかまわない。ただ漏らしたかっただけだ。純粋な生を感じたメディスンに、聞いてもらいたかっただけだ。逃げ出した兎をどう思うだろうか。許すだろうか。侮蔑するだろうか。
 メディスンは言った。
「……仕方ないよ。死んだら終わりだよ。それまでじゃない。悪いのは人間よ。そう、人間なの。人間なんて皆そうよ。身勝手で、捨てたまま何処かに行っちゃって、忘れたように暮らしてる」
「あなたにはミキがいたわ」
「ミキは特別」
「ミズカだって」
 いきり立ってメディスンは言った。
「ミズカも特別! マイも特別! 例外なの。違うの。私を捨てた人間とは違うの!」
 ぶわりとむせかえるような鈴蘭の香りが渦を巻いて漂い始めた。毒気が鈴蘭の丘を覆いだした。
「いつだって勝手なんだよ。人間は。ずっと傍にいると思ってたのに、思い出したように捨てるんだ。二度と振り返らないんだ。そんな人間は許せないよ。あなたは町を逃げなくてもよかった。戦っても良かったんだ!」
 殺しても良かったんだ。そう聞こえた。ぎしりと身体がきしみをあげた。ただ震えた。手のひらが夕陽に塗られて赤く染まっていた。兎の血で濡れているような気がした。
 いつかの日がよみがえった。鈴仙が月面に引かれた幻想の境界の近くを歩いていると、偵察なのか、地上の船が浮かんでいた。誰もその存在に気付いていなかった。いきり立って、追い返してやろうと思って船の波長をぐちゃぐちゃに乱した。自分で戻せないぐらいいたずらに弄り回した。きっと計器の類は狂ってしまっただろう。穢れた地上の民に思い知らせてやろうと思った。月に近付いてはならない。そう警告したつもりだった。
 まもなく、船は進路を変えた。月を離れ、地上を離れ、何処へでもない方向に向かって進みだした。手足をもがれた巨大な動物が身動き一つとれずに虚無の海へ沈んでいくように見えた。そのときに恐怖が鈴仙を襲った。牽制は牽制に終わらなかったのかもしれない。月を目指した地上の民は、あの船に乗っていた人間たちは、あれからどうなったのだろう。船内の人間はもう死んでいて、狂った計器を載せた船だけが漂流しているのだろうか。今もなお拡張を続ける宇宙の果てを目指して、死の航海を続けているのだろうか。
 殺したのかもしれない。
 罪の意識に押し潰されそうになった。本当の罪は別にあった。あれは現実だったのだろうか、それとも月を逃げ出した罪の意識が生み出した、また別の罪なのだろうか。記憶はぐちゃぐちゃに織り交ぜられ、もう何が真実なのか導き出すことはできなかった。
「……私ね、いやなの。いやなんだ。死にたくない。戦いたくない。誰も、殺したくない」
 狂いだしそうになって月を逃げ出してから、羽衣に包まれて森へ落ちた。位相を変えて姿を消し、森を駆け抜け、平野を走り、震えて夜を明かした。一人だった。孤独だった。鈴仙は地上にこぼれ落ちた一個の漂流物でしかなかった。むせかえる自然と生命の匂いに翻弄されるままだった。豊穣な地上の大地に流れ着いた漂流物は、何もなすすべがなかった。ただふらついて、疲れきって、逃げ惑い続けたのだ。闇をさまよい続け、力尽きかけた鈴仙に訪れたのは、初めて見る地上の夜明けだった。月の空は常に暗いままだが、地上の空がそうでないことを、そのときは知らなかった。地上の夜明けはある種の浄化を鈴仙にもたらした。それは生まれて初めて見る夜明けの輝きだった。あれが、あれこそが地上に降りた鈴仙の始まりだったのかもしれない。
 だけど今、その陽は沈もうとしている。鈴仙は終わりを意識した。捨ててきた兎たちを思い出した。罪の意識が膨れ上がり、押し潰されそうだった。
 メディスンが小さくなって、鈴仙に寄り添った。大丈夫、とメディスンはつぶやいた。
「大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫だから」
 それから言葉もなく、夕陽が沈むまで、二人でずっとそうして座っていた。鈴蘭の毒はいつしか引いていた。メディスンは何度か大丈夫とつぶやいた。
 話せなかった。誰にも話せなかった。輝夜にも、永琳にも、てゐにも、漏らすことは出来なかった。戦争の最中でなく戦争を前にして月を逃げ出したこと、何人もの仲間の兎と親友を見殺しにしたこと、てゐの嘘に不満を持ちながら、自分も嘘を吐き続けていること。本心は、壊れそうな本当の姿は、もっとも純粋で、罪も業もない彼女にしか漏らすことはできなかった。大丈夫、大丈夫と言い続けるメディスンは、その慈母を何処で手に入れたのだろう。それは純潔のまま生まれてきて、成長とともに穢れを内に抱え、激しい葛藤と戦いを繰り返した果てに、純潔と穢れを陰陽図のように分離させて始めて手に入れられるものだ。本当に綺麗なものと、本当に穢れたものを知って初めて気付くことのできるものだ。それは生まれて間もないメディスンが抱えられるものではない。誰が、と考えた瞬間、ミキだと思った。きっとミキがメディスンに教えたのだ。その振る舞いや言葉を通して、あるいは強く抱いて、メディスンに慈母の種を植え込んだのだ。
 鈴蘭の薄赤い実が、夕陽を浴びて綺麗に輝いた。野草を食べる動物たちは鈴蘭を避けて通る。自然災害や人的災害に依るものでなければ鈴蘭は生き残る。人間や動物と関わりを持たない植物ほど生き残る。鈴蘭の花や実を食べる生き物はいなかった。鈴蘭は生き物とは無縁だ。だからこそ鈴蘭は純潔の花なのだ。他の生き物の生き死にとは無縁な花は穢れがないものだ。生き物である限り、鈴蘭を取り込むことはできない。穢れた生き物は鈴蘭の純潔を受け付けられずに死に至る。鈴蘭の毒で満たされたメディスンはまばゆいばかりの純潔を輝かせ、ミキに慈母すら教えられ、力強い輝きにあふれている。
 鈴仙はメディスンが人形解放として人間たちに立ち向かう気があることを知っている。永遠亭に連れていく道すがら、自分で話したのだ。その頃の彼女は、今と変わらず、自分の内面を何の躊躇も恐れも無く口にしていた。何も隠さないメディスンが眩しかった。
 彼女を止めるつもりはなかった。ただそれによって純潔が損なわれるのではないかという不安に襲われた。鈴仙は横に佇むメディスンを眺めた。このまばゆく輝く生のかたまりが、ミキの死を受け入れてどう変わっていくのか知りたかった。出来れば留まって欲しいと思った。それがうたかたの夢のような、儚い華胥の夢でしかないのだとしても、この輝きだけはずっと残っていて欲しいと思った。




7.

 薄闇のなかの竹林を通り抜け、永遠亭に辿り着くと、極端に兎の数が減っているようだった。倉庫に行って薬の在庫を確認すると、てゐはきちんと薬を戻しているようだった。屋敷の静けさに何処か不審を覚えていると、暗がりの廊下に髪の長い妖怪兎を見つけた。鈴仙はすぐに掴まえて疑問をぶつけた。
 妖怪兎は言った。
「輝夜さまが集められたのです」
「輝夜さまが?」
「はい。輝夜さまは四季の間で遊戯を楽しまれています。たくさんの仲間を集められて、さながら宴会のようです」
 駆け込んだ四季の間では、羽目をはずした兎たちが輝夜公認の大騒ぎをしていた。いつかの例月祭のとき、永遠亭のなかより外のほうが伸び伸びと兎たちが歌っているのを輝夜が見て、ボスが近くにいないほうがいいという話を永琳に聞いたことに端を発したものらしい。もっと楽しく、気兼ねなく、伸び伸びとさせるために輝夜が開いた宴席だという。最初兎たちは輝夜の演説の言葉をおそるおそる聞いているようだったが、てゐが号令を発してから祭りのような宴会がすぐに始められた。たくさんの兎たちが率先して餅を搗いて団子をつくり、土間を占拠しててんやわんやと汁物料理をつくり、蔵に収められた酒虫の樽を引っ張り出して皆に美酒を配った。大盤振る舞いである。
 途中参加の鈴仙を巻き込んだ大盛り上がりの宴会はうねりをあげて続けられた。永琳と輝夜が並んで座っているのを鈴仙は見つけた。永琳は静かに酒を飲んで笑い、輝夜は兎たちに小話を披露していた。輝夜は鈴仙を見つけるとすぐに招いて隣に座らせた。料理や酒が兎たちの手によって次々に並べられた。
「あのぉ、お師匠様、これは……」
 永琳の懐に顔を寄せた鈴仙が落ち着かなく声を掛けると、薄く笑って永琳は言った。
「輝夜の思いつきよ。あなたも楽しんだほうがいいわね、兎らしく」
 兎らしく。そう、地上の兎たちはこれ以上ないほどに楽しんでいた。竹林でてゐが語った話とは、何も関連がない兎たちだと思えるほどに彼らは笑い、騒いでいた。鈴仙は半ば呆然とした様子でそれらを眺め、苦手な酒を口にした。酒虫の芳醇な口当たりが身体中に広がって揺らいだ。
 誰かの一言から出し物が始まった。たくさんの兎の一発芸に始まり、永遠亭で目撃したちょっとした物まねシリーズが始まった。水場で遊んでいるときの「あんたたち、静かにしてよね」とつんつん声で話す鈴仙の物まね、廊下を歩いてるときに永琳の部屋から聞こえた調合失敗の叫びの物まね、縁側でたまゆらのうたた寝に浸る輝夜の物まね、そのまま座布団を少しずつ動かし、ふと目覚めて景色の違いを訝しがる輝夜の物まね、悪戯が見つかって逃げ出すてゐと追う鈴仙の物まね、例月祭を舞台としてたくさんの兎たちが餅を搗くなかで永琳と輝夜の二人だけのそれらしい会話の物まねなどが披露された。そのときの鈴仙役の兎は孤独に杵と臼を片付けるパントマイムを演じた。兎の一匹が目撃すれば全ての兎たちに周知されているこれら事実を目の当たりにして、最初永琳は微笑ましい顔で見ていたが、次第にその笑みが深くなっていった。敏感にそれを察知した智慧ある妖怪兎はすぐに酒虫の美酒を永琳に注ぎ、こんな騒ぎが行えるのはひとえに輝夜さま、永琳さまのおかげですといって機嫌をとっていた。
 繰り広げられるてんやわんやの大騒ぎをじと眼で観覧していた鈴仙は、隣の輝夜がくすくすと、ときにお腹を抱えて笑っているのを見て口をとがらせた。
「輝夜さま、ひどいと思われませんか。わたし、あんなに冷たく言ってないですよ」
「あはは。いいじゃない、いいじゃないの。今日は無礼講、無礼講ってやつよ。あなたも楽しみなさいな。今日は特別なんだから」
 そういって、輝夜はまだ残っている鈴仙の杯に酒虫の酒を注いだ。
「わ、輝夜さま! わたし、自分でやりますから!」
「あら、そう? でももういれちゃったわ。ほら、どうするの? 鈴仙。お酒がたんまり入ったわね」
 くすくすと笑う輝夜を前にして、もはや呑む以外の選択はなかった。しかも自分でやるとまで言ってしまった。追い詰め方がまるで依姫のようだ。鈴仙は舌をつけて、ちびちびと口にした。杯が小さくて助かった。一気に呑まなくても輝夜は文句を言わなかった。
 それからすぐにふらふらになって、溜まりきった鬱憤が静かに爆発した。心配そうに駆け寄ったとある妖怪兎に絡んだのをきっかけにおかしくなった。たくさんの兎にもみくちゃにされて、四季の間を右往左往するほどに転げ、その勢いに乗じて暴れまわった。酒が抜けては飲み干して、意識はぐらぐらと揺らいだ。えもいわれぬ憤りを感じて、そこらの兎をつかまえては身体をもみくちゃにいじりたおした。でもまたすぐに反撃され、逆にもみくちゃにされ、腕をつかまれ、耳をいじられ、足をくすぐられ、げらげらと笑わされ、疲れきるまでじゃれあった。月の兎は鈴仙だけ。対する地上の兎の数は膨大だ。勝ち目はなくぼろぼろにされたのだった。
 ふと気付いたころには台座でてゐの漫談が始まっていた。あの口のうまさは十二分に発揮されていた。竹林の王者である因幡てゐ様は勇猛果敢に立ち向かい……などという口上を耳にして、ふと竹林での会話を思い出した。酔いも何処かに消えて、静かにそれを眺めた。てゐの言葉の隙間隙間に竹林の風景が見えた気がした。そこに一人で佇むてゐの姿もあった。それは今朝と同一の風景だ。降り積もる竹の葉がすべてを覆い隠し、ただ淡々と時が流れ続ける風景だ。それは常に均一を保持し、循環する。どれだけ血が流れた竹林であっても、永遠がすべてを埋め尽くす。変わらぬ景色を造り続ける。
 隣の輝夜は酒虫の美酒を口にしていた。とろりとした眼を輝かせ、薄い笑みを浮かべて兎たちを眺めている。ふと、そんな輝夜が鈴仙の様子に気が付いた。
「どうかしたの?」
「あ、いいえ……。何でもありません」
「何か、しょんぼりしてるように見えたけど」
「いえいえ、輝夜さまにご心配いただくようなことではありませんよ」
「そう? それならいいけど……」
「もったいないお言葉、ありがとうございます。きっと、疲れが溜まっているのだと思います。ぐっすりと眠れば、明日には回復しますよ」
 てゐの漫談は兎たちの猛烈の拍手に迎えられ、アンコールに告ぐアンコールで第二章が始まっていた。それを背景にして酒をちびちびと呑むようになった鈴仙を、輝夜は小さく呼びかけた。
「……今日はイナバたちにも楽しんでもらおうと思って、こうして宴席を設けたわ。こうして見ていても、楽しんでもらってると思う」
「はい。大盛り上がりです。大成功だと思いますよ」
 輝夜は嬉しそうに笑った。
「イナバたちのなかでも、あなたはずいぶんと頑張ってもらってると思うわ。私たちが安心して暮らせるようになったのも、あなたの力は無視できない」
 鈴仙は潤みがきて、涙がこぼれそうになった。
「輝夜さま……。本当に、もったいないお言葉です」
「それで、永琳とも話したんだけど、何か褒美をとらせようと思っているの」
「え?」
 不意の言葉にどきりとした。空気が凝縮されたような気がした。
「輝夜さま、今……」
「こういうのは地上の民っぽいって、永琳に言われたわ。でも私たちはもう地上で暮らすしかない身だし。とにかく、あなたをねぎらおうと思ったのよ。何でも、欲しいのがあったら言ってごらんなさい。ひと月ぐらい暇が欲しいならそれでも良いわよ」
 鈴仙はあたふたと身振り手振りで何かを説明しようとしたが、とっさのことで何も口にするものは浮かんでこなかった。酒虫の美酒を口にする輝夜は、陽気で上機嫌だった。永琳もすでに了承している話なのだろう。だがそれはとても恐れ多いものだ。普段の鈴仙なら遠慮して引いてしまうところだった。だから、いつもと同じような謙遜の言葉を口にしたつもりだった。いえいえ、輝夜さま、そのお言葉だけで充分です。私はそれ以上を求めることはありません。輝夜さまにお仕えするだけで私は充分ですよ。
 しかし鈴仙の口をついて出たのは全く別の言葉だった。
「永遠が欲しいです」
「え?」
「あ、いえ……」
 口を押さえ、鈴仙は迷った末に言った。
「……いいえ、何でもありません。私などにはとても勿体無いお言葉です。そのお言葉だけで充分です。それ以上を求めることはありません。そのお気持ちだけあれば、嬉しく思います。輝夜さまにお仕えするだけで私は充分ですよ」
「あなた今、永遠と言ったわね」
「あ、はい……」
 酒虫に依るものか、瞳を潤ませ、頬を紅潮させた輝夜はくすくすと笑い、面白い、とつぶやいた。まじまじと鈴仙をのぞきこんで、吐息が顔にかかるほど近付いた。
 輝夜はささやいた。
「永遠は形があるものじゃない。あなたは何を望むの?」
「いいえ、輝夜様……」
「答えなさい、鈴仙。あなたに対する私からの難題よ。あなたにとって永遠とは何?」
 しまった、と思った。収縮した空気が弾けるような感覚があった。しかし、何故かしら核心に触れられそうな気がした。心臓は早鐘を打ってやまなかった。
 鈴仙は言った。
「……永遠は、変わらないものです」
「それから?」
「不変なものです」
「同じね。それから?」
「……始まりがなければ、終わりもないものです」
「それから?」
「同じものの繰り返し、です」
「それから?」
「……すみません。ありません」
 しょんぼりする鈴仙を見て輝夜は笑い、息を吐いて座りなおした。
「ふふ。そうね、そうね。概ね、あなたの言うとおり。それがあなたの欲しい永遠なわけね」
「あの、輝夜さま。気を悪くされたなら、申し訳ありません」
「いいえ」
 輝夜は近くの妖怪兎を掴まえて、耳元で何か囁いた。妖怪兎は頷いて、四季の間を出て行った。
「あなたは私の望む答えを返したわけだからね」
「はぁ。ただ私の考えを述べただけです」
「充分よ」
 妖怪兎はすぐに戻ってきた。後ろ手に何かを持っていて、それを輝夜に渡した。それは手鏡だった。同じものが二枚あった。
「輝夜様。それは」
「御覧なさい」
 輝夜は鏡の表の面を重ね合わせ、それを鈴仙に渡した。鈴仙はそれを受け取って、裏面だけの鏡を何度も見返した。
「これは、何でしょう?」
「私からのプレゼント。誰にでも解る簡単な永遠だわ」
「……どういうことでしょう?」
「今、その鏡の面は重なりあってるわね?」
「はい」
「少しだけ距離を空けて」
 二つ重なり合った鏡を垂直に離す。ただの隙間が出来上がった。そこで鈴仙は輝夜の言いたいことを理解した。
「その鏡は今、永遠を映している。そう思わない?」
「……はい。思います」
「あなたが鏡の世界に入ったと考えてごらんなさい。そこは限りなく続く世界だわ。合わせ鏡のなかが果てなく続いているでしょう?」
「はい」
「景色は何処まで続いても変わらない。これは不変でしょう?」
「はい」
「始まりが無ければ終わりもない」
「はい」
「同じものの繰り返し」
「……はい」
「ほら。あなたの望みの品がこれというわけよ」
「鏡の国の住民は、永遠の国の住民。そういうことでしょうか」
 輝夜は肯定するように笑った。鈴仙は、ほっとしたような、残念な気持ちに包まれた。この手鏡二枚で輝夜のねぎらいは露と消えた。褒美は終わってしまったのだ。寂しさを感じたが、よくよく考えればあまり追求しなくて正解だったかもしれない。また屋敷を永遠の魔法で満たして欲しいだなんて言えない。あんまり踏み込みすぎて、輝夜の機嫌を損ねて永遠亭を去るのは嫌だった。
 輝夜はくすくすと笑い続けていた。何がそんなに面白いのだろう。しかし楽しみ続けることは一つの才能だ。それだけを言うなら、輝夜は今を楽しむ才能を持ち合わせていると思えた。もう一人のその才能の保持者であるてゐは、大げさな身振り手振りを交えてクライマックスを迎え、怒涛の第三章の幕を開き始めた。
「でも意外。本当に、意外だわ。あなたが永遠を欲しがるなんて。いったい何故かしら?」
 大騒ぎのなか、上機嫌の輝夜はさらに美酒を口にした。
 鈴仙は杯を置いてかしこまった。
「あ、いえ、特別な理由は、何も……。ただ、そうですね。竹林を歩いているとき、その、永遠を感じたんです。ずっと同じ景色が続いていて、竹の葉が降り積もって、全てを埋め尽くしていくようでした。何があっても景色は変わらない。足跡がついても、すぐに景色が戻っていくんです。変わっても、すぐに戻っていく。それを見ていて、地上の人間たちが来る前の、ずっと永遠亭にいたあの頃を思い出したんです。何も変わらない、硬質的な、完全に不変な永遠じゃなくて、少し緩やかになった永遠があるみたいだなって。この竹林には、まだ輝夜様の永遠の魔法が残っていたのかなって。そしたら懐かしくなって。いや、錯覚なんですけどね。あはは」
 鈴仙は苦笑した。輝夜も同じように笑っているのかと思って見たら、笑っていなかった。その波長に少しだけ歪なものが混じったことに鈴仙は気が付いた。だけど、それは幻だったのかと思うぐらいの一瞬だった。気付けば輝夜は先ほどと同じように笑っていて、美酒を喉に流した。そうしてそっと鈴仙に顔を近づけた。口付けをされるのかと思って固まった。だが輝夜はそっと頬を合わせただけで、すぐに戻った。変わらずの笑みがそこにあった。
 誰かが四季の間の襖を開けた。永琳だった。いつの間にか席をはずしていたのだ。永琳は輝夜を手招きして呼んで、輝夜は襖の向こう側へと姿を消した。四季の間には、地上の兎と月の兎だけが残された。騒がしい地上の兎に比べ、月の兎である鈴仙は呆然としたまま今の言葉を確かめている。
 耳に残された輝夜の甘い声。内緒よ、とその声はささやいていた。




8.

 てゐの漫談は第三章のクライマックスを大団円で終え、輝かしいエンディングの幕が閉じると同時、勢い込んだてゐは鈴仙に飛び掛かって、そのままヘッドロックを掛けて騒ぎながらぐるぐると転げまわった。むせるような酒の匂いがする。てゐは確実に呑みすぎていて、しかも調子に乗っている。怒りが鈴仙を満たした。狂気の月の兎の本領を見せるときは今しかない。
 あらぶる感情の発露と同時、四季の間はどっと湧いた。てゐは文字通り脱兎のごとく逃げたが、こちらも兎だ。捕まえられぬ理由はない。四季の間を飛び出して、永遠亭を駆け抜けて、屋外に飛び出し、夜の竹林をぐるぐると駆け回った。波長を通じて視界を得る鈴仙に比べ、何の能力もないてゐが薄暗い夜の竹林を駆け抜けられるのが不思議だった。それだけ彼女の身に慣れ親しんだ故郷なのだと、怒りのなかで実感させられた。
 てゐはすぐに捕まえられた。酔ってへろへろになって、しかも漫談のパフォーマンスでくたびれた瞬間のてゐなど捕まえるに何の苦労もなかった。息切れしてうなだれるてゐを引き摺って永遠亭に帰ると、さらなる衝撃が鈴仙を襲った。
 そこには依姫と豊姫がいて、永琳と輝夜の二人とお酒を飲み交わしていたのだ。思わず眼が飛び出すかと思った。
 鈴仙に気付いた依姫が言った。
「あら、久しぶり。帰ったのね」
「ええー! よ、依姫さま! 豊姫さま!」
 声のうるささに耳を押さえた豊姫が言った。
「声が大きいわよ、レイセン。おっと鈴仙。あらあら」
 輝夜がつぶやいた。
「オットレイセン?」
「違うわよ、輝夜。今のは名前を言い直したんだけど結局同じだったの」
 さすが師匠、と笑いあう四人を前にして、鈴仙はあたふたとした。一見して小躍りしてるように見えたかもしれない。月を遠くはなれたこの永遠亭にどうして訪れているのか不思議でならなかった。だが、すぐに怖くなってきた。一つのことばかりが脳裏に焼き付いていた。鈴仙は震え、かしこまり、怯えたような声で言った。
「ど、どうして、ここに、来られたのでしょうか。私はこれから、月に連れていかれて罰を受けるのでしょうか……」
 鈴仙、と依姫が言った。
「あなたは戦争を逃げ出した兎です。地上に降りたあと、捕まって鍋にされたのか、野良兎として生きているか、私たちには解りませんでした。ただ穢れにまみれているでしょうから、月に連れ戻すには不適当だと判断しているのです。まさか輝夜様に拾われているとは思いもしませんでしたが……。輝夜様が蓬莱の薬を服用して地上へ降りたことと同じように、あなたもまた地上にいることが罰となっているのです。もちろん、輝夜様とあなたとでは比べようもない違いがありますが。とどのつまり、あなたは今、罰を受け続けていることと同義なのですよ」
 おどおどとして鈴仙は言った。
「で、では、月で裁判を掛けられるとか、そういったことは無いのでしょうか……」
「んー、そうね。掛けてもいいけど」
 絶望的な顔をした鈴仙を永琳がなだめた。
「鈴仙、ほら落ち着きなさい。今日、二人が地上に降りてきたのはあなたに用事があったからではないの。あなたを月に連れ帰ったりしない。そのことはもう話し合いました。あなたの家は今はここです。あなたが永遠亭に居たのはほんの偶然なのです。そして綿月の二人が永遠亭に訪れることは、前々から決まっていた話だったのです」
 吸血鬼たちが月へ乗り込んだ際、永琳は何者かが月を貶めようとして動くと睨んでいた。気を付けるよう、綿月姉妹に月の兎を経由して手紙を送り、見事に連携に成功して、八雲紫を月から追い出したことがあった。その折、永琳は地上の兎を経由して手紙の返信を受け取ったのだった。
 依姫が言った。
「書いてあったかもしれませんが、その手紙はレイセンに書かせたものです。あ、鈴仙とはまた別のレイセンですよ。色々と経緯がありまして、薬搗き担当の冴えない兎にその名を与えたのです。そのときに姉さんが、こっそりと忍ばせていたのですよ。メモを」
「あまりにもそのレイセンが下手なことを書くものだからね。ついつい手紙と一緒に頼んじゃったのよ」
 豊姫の言葉を聞いた依姫が深い息を吐いた。
「お姉様は考えなしに動きすぎです。たまたまお師匠様のところに輝夜様が居たからいいようなものを。もう少し先を見据えて動かないと駄目ですよ。見ているこちらが心配になります」
「あら、別にあなたは来なくても良かったのよ? 行きたかったのは私だけなんだし」
「お姉様を自由に行動させたら何があるか解ったものじゃありませんよ。きっとお師匠様のところに入り浸って帰ってこないんですから」
「素直じゃないわね」
「な、何を仰るんですか!」
 豊姫はくすくすと笑った。
「私はお師匠様に会いたかったらこうして来たっていうのに、あなたは私のお守りを理由にするのね」
 涼しげに言って、豊姫は永琳にちらと眼を向けると、そのまま永琳の胸になだれかかった。
 永琳は少し驚いたようだが、されるままになった。
「あ、ちょっとお姉様、お師匠様に迷惑じゃないですか!」
 ずずいと忍び寄った依姫が永琳にくっついた。永琳は溺れたようになったが、なおもされるがままになった。 
「ふぅん、永琳は人気なのね」
 くすくすと笑う輝夜を見た永琳は、ごほんと咳払いをして二人の姫君を押しやった。
「そういうわけでね、鈴仙。今日二人が来ることは決まっていたの。あなたを連れて帰りに来たわけじゃない」
 唖然としたままの鈴仙は、言葉に気付いたようにはっと顔をあげた。頭は全速で回転していたが、ただ回転しているだけで歯車はほとんど噛み合ってなかった。
「で、でも、だって、どうして地上に……、いえ、地上に降りたら、その」
「輝夜と豊姫です」
「え?」
 先回りして言ったのは永琳だった。
 輝夜は鈴仙に目配せしてくすくす笑い、豊姫は大いに頷いた。
 内緒よ、とささやいた輝夜の言葉がよみがえる。内緒とは、つまり、依姫と豊姫の来訪のことなのだろうか。
「鈴仙、あなたは知らないかもしれませんが、豊姫は海と山を繋げる能力があるのです。豊姫の能力があれば月と地上を容易に繋げることができます。鈴仙、あなたが羽衣で地上で降りる間に、豊姫は何度も往復できたことでしょう。あとは輝夜の力です。気付いていましたか? 輝夜の永遠を操る力が今、永遠亭に掛けられています。一切の歴史を拒み、穢れを除き、かつて私たちが隠れ過ごしていた永遠亭と同じ環境にあるのですよ」
「それは……」
「月と同等の環境、いえ、穢れを除くという点については今の永遠亭は一点の曇りもありません。そこだけは月の都より穢れが無いことでしょう。輝夜の永遠は一切の穢れを除くのですから」
 鈴仙の胸に強く迫るものがあった。輝夜に願った望みは、実は叶えられていたのだ。永遠が欲しいという願いは、本当は輝夜に叶えられていたのだ。永遠亭は今、輝夜の永遠の繭に包まれ、静かに時を刻み続けている。月を飛び出し、地上をさまよい、輝夜に拾われ、置いてもらったあの頃の永遠亭が、今まさに、再現されているのだ。
「……いきなり来ると言い出した豊姫を迎えるには、こうするしかなかったのです。彼女は地上に落ちた私たちと違い、罪はありません。使者として赴く以外に、本来、豊姫は月を離れてはいけないのですから」
 豊姫がにこにこして言った。
「そういうことよ。鈴仙、元気してた?」
「げ、元気です。元気ですよ。地上の兎とはあまり馴染めませんが……。たまに落ち込んだりもしますが、私は元気に暮らしていますよ」
「ふふ。実はね、レイセンが言っていたのよ。鈴仙は八意様に匿われているんじゃないかって。だからひょっとして鈴仙が居るんじゃないかって思ってたのよ。そしたら本当に居たからびっくりしちゃったわ」
 依姫が苦笑して言った。
「レイセンレイセンと言ってると訳が解りませんね。私は解りましたが」
 輝夜と永琳は理解しているようだったが、鈴仙はピンと来ていなかった。
 ああもう、と豊姫が不機嫌に唸って言った。
「あなたのせいよ鈴仙。紛らわしいわね。この際、何か渾名を付けたほうがいいんじゃない? 月下の逃亡兎とか。ムーン・エスケイパーとか」
 いやいや、と困りながら頭を掻いて鈴仙は言った。
「実は名前はそれだけじゃないんですよ」
「他にもあるの?」
「長々と言いますと、今の私の正式な名前は鈴仙・優曇華院・イナバです。これ以上増えたらたまりませんよ」
 鈴仙は中空をなぞって文字を説明した。
 少しぽかんとしていた綿月姉妹だったが、ふと豊姫が指を差して吹き出した。
「あはは! 何それ? そのウドンゲインって何なの? 栄養ドリンクみたい。ウドンゲインD! ねえ聞いてよお師匠様!」
「そのお師匠様にいただいた名前ですが」
「さすがお師匠様。素晴らしい名前ですわ。深遠なる考えがきっとおありなのですね」
「豊姫、あとで二人で話し合いましょう」
 輝夜が自分を指差して言った。
「イナバというのは私が付けたのよ」
「鈴仙、あなた輝夜様にまで名前を頂いているの?」
「いや、その、鈴仙という名前以外は私の本意では……」
「あらムーン・エスケイパー、本意じゃなかったの?」
「師匠ー!」
 どっと笑い声があがるなか、先ほどから顔を赤くしていた依姫が言った。
「もう、お姉様ってば、恥ずかしいですよ」
「あら依姫。何よ、何よ」
「優曇華とは月に咲く花のことですね。穢れを栄養として咲く花です。月には穢れがありませんから、常に枯死しているように見えることでしょう。これは一見して意味が無いように思えますが、それは真実とは異なります。優曇華の花は、地上から忍び込む輩を報せるための警報装置でもあるのです。たとえ姿を隠して近付いたとしても、優曇華の花は誤魔化せません。地上には厄介な妖怪がいますからね」
 鈴仙は唖然として言った。
「そんな花があったのですか? 私の名前にそんな意味が込められていたのでしょうか」
「まぁ、呆れた。知らなかったの? お師匠様はお優しい方です。あなたのような兎のことも考えておられるのですよ。きっと、遠く先のあなたを見越しています。地上の穢れにまみれても、いつか花を咲かせて美しい実を成らせるようにってね。そんなふうにお師匠様はお考えなのでしょう。ですから、決してお姉様の言うような栄養ドリンクではないはずですよ」
 豊姫がむくれて、意地悪、意地悪、とぼやいた。
「そんな、そうだったんですか、お師匠様……」
 いつの間にか真面目に聞いていた永琳が柔らかい笑みを浮かべた。
「まったく、あなたたちは推理上手ね。私からは言うことは何もありませんよ」
「お師匠様!」
 飛び込んだ鈴仙を永琳はさっとかわした。見事に畳に飛び込んでごろごろ転がった。
「ほらムーン・エスケイパー、酒杯が空だわ。お酒が怖いわね」
「そんな、お師匠様ぁ」
 どっと笑い声のあがるなか、輝夜が言った。
「豊姫が月の古酒を持ってきてくれたのよ。蔵で冷やしてあるから、持ってきてくれる?」
 すぐに鈴仙によって持ち寄られた洗練された月の古酒を飲み、輝夜、永琳、豊姫、依姫の四人は今までの時を埋めるような雑談を始めた。
 鈴仙は席を外そうかと思ったが、豊姫に掴まって渋々と同席させられることになった。
 その超古酒は月に安置されたもので、輝夜は吸血鬼の館で八雲紫に招待されたときに同じものを呑んだと漏らした。永琳はそれを認め、先の一件では八雲紫を月から追い出すことには成功したが、その不気味さに呑まれて一杯食わされたことを認めた。
 依姫が言った。
「じゃあ、あのとき無くなっていたお酒は地上にあったのですね? 優曇華の花には一切反応がありませんでした。では一体誰がこんなことをしたのでしょう?」
「穢れを持たぬ地上の住民……。浄土の者であれば、あるいは。既に死した彼らは穢れを持ちませんから」
 少しだけ重たくなった永琳に依姫が憤った。八雲紫、次に来たら叩きのめす。徹底的に叩きのめす。お師匠様を攻撃するものは許しません。そんなことをぼそぼそとつぶやいた。
 隣では輝夜と豊姫が月の話をしていた。輝夜が地上に降りてから、月で起きた些細な事件、幽霊騒ぎ、月に居た頃の鈴仙の私生活の暴露、そんなことを繰り返しては笑いあった。
 落ち着いてきた依姫が眼を細くして言った。
「それにしても鈴仙、あなたがお師匠様のところに居ると知って、驚いたわ。お姉様に話を聞くまでは、てっきり鍋かと思っていましたからね」
「いやあ、何とか地上を走り回りまして、輝夜様に置いて頂けることになりましたよ。途中で妖精たちから幻想郷の噂を聞きださなかったら危ないところでした」
 古酒を飲み、いつの間にか懐から出した桃をかじり、いつのまにかふらふらになった豊姫が言った。
「あなたは稀に見る幸運を手にしたのよ。この地上でここほど月に近い環境はありません。ここは地上でもっともあなたに過ごしやすい場所なのです。月の至宝である輝夜様に仕えるばかりか、私たちの師匠まで独り占め。あなた、私のペットだったわよね。覚えてる? もう嫌になったの? 鞍替えしたかったの? もう私のペットは嫌なの? 輝夜様の膝がいいの?」
 息がかかるほど顔を近づけた豊姫に熱弁されて、隣では輝夜が「輝夜でいいわよ」とくすくす笑うなか、鈴仙は慌てて説明した。
「いやいやいやいや、豊姫様のことは忘れませんから。面白い話も聞かせて頂いてましたし、こっそりと桃も頂きましたし、そうですね、豊姫様は厳しい訓練に舞い降りた、砂漠のオアシスのようなお方でしたから!」
 ほう、と近くの依姫が座った眼で言った。
「砂漠で悪かったわね、鈴仙? そんなに訓練がきついと思っていたのかしら? 私はあなたの資質と能力は買っていたのですよ。あとは自分勝手なところと臆病なところを直そうと思っていたのですが、まさか砂漠と思われていたなんてね。それでは私の教えも苦労も報われないというものですね」
「いえいえそんなことは! 依姫様ほど武術に長けた方はいらっしゃいません。月を降りたとしても依姫様の教えは守り続けているわけで、日々の鍛錬は欠かせませんから!」
「そして日々欠かしているわけだけどね」
 永琳の小さな一押しで鈴仙は陥落した。
「よろしい。久しぶりに稽古をつけてあげましょう」
 寒々しい風が庭に吹いていた。てゐを始めとした地上の兎たちは、不穏を察知したのか姿を消していた。てゐなどは最初に豊姫と依姫に驚いたあたりから居なくなっていた。幼い兎たちも寒い外には出たくないのか、縁側や屋外に面した廊下でごろごろしながら観戦している。
 輝夜、永琳、豊姫の三人は縁側で談笑し、鈴仙と依姫の二人が薄暗がりの庭で向かい合っていた。
 依姫がすらりと伸びた刀を抜いた。
「ここは地上です。八百万の神々をこの身に降ろすことは出来ません。ですから刀一本で錆びにしてあげましょう」
「あ、依姫!」
 抜き身の刀に驚愕し震える鈴仙の傍らで声があがった。そこらの兎を掴まえて腹を撫で回している豊姫だ。
「弾幕ってので相手してみてよ。餅つきレイセンに聞いたのよ。あなた、吸血鬼たちと何か面白そうなことやってたそうじゃないの」
 あれですか? と言って、依姫はしばし考えた。
「そうですね、今は神々は降ろせませんから、シンプルなものになりそうですが。鈴仙は知ってるの? 弾幕」
「あ、存じてます」
 鈴仙が月で稽古を受けていた頃に比べても、依姫の身体技術に何ら衰えはなく、それどころかさらに切れ味の増した斬撃に鈴仙が抗える道理はなかった。射抜く眼光は狂気にぴくりとも揺さぶられず、波長を通じた操作と幻惑には一切惑わされずに最短の動きで見切り、位相の揺れすら一線し、二の太刀、参の太刀で飛沫をあげる弾幕に鈴仙はピチュった。依姫は音を出さず、重さも感じさせず、風に乗った枯葉のように疾走した。一撃は小さな枝を振ったような軽さで空を裂いた。とにかく走り回り、逃げ回り、よじ登り、隙を探してがむしゃらに応戦した鈴仙は、結局ただの一度も依姫に触れることすら敵わずにぼろぼろに負けたのだった。
「ああもう敵いませんよ、参りましたぁ」
 鈴仙はその場にごろんと転がり、依姫は刀を鞘に収めた。
「ふむ、少しは強くなっているようですね。それでもまだまだですが。お師匠様、どうでしたか? 私はたゆまぬ研鑽を続け、お教えいただいたことを片時も忘れずにおります」
 それに答えるように一際大きい拍手が庭に響いた。永琳によるものだった。
「さすがです。依姫、あなたは私の教えを忠実に守り、日々を過ごしているようですね。あなたのような弟子を持てて、私は幸運だと言えることでしょう」
 嬉しかったのか、ぱぁと顔を輝かせた依姫は永琳に近付いて、月の使者のリーダーとしての責務を全うし続けることを誓った。永琳は頷き、優しく依姫を撫でた。
 兎を抱えて遊んでいた豊姫が叫んだ。
「あ、お師匠様! 私も」
「豊姫、あなたも忘れてなどいませんよ」
 走りよった豊姫が永琳と何か会話をしているとき、ふと依姫が鈴仙に近付いて言った。
「今の月の使者の兎たちには、あなたほどの手練は居ません。お師匠様を説得できれば、あなたを月に連れ帰り、罪を償わせ、再び使者として働いてもらうこともあるかと思いましたが……。どうも無駄骨のようでしたね」
「よ、依姫様……」
「あなたが逃げ出した先の戦争は、こちらの大勝でした。ただ、何名かの兎を失っています」
 どきりとして鈴仙は黙った。
「そこにいたわね、あなたの友人が」
「……ミズカが、ですか」
 依姫は鈴仙の眼を見据えた。何かを見定めようとするかのようだった。今、その話を聞かされるとは思わなかった。
「死した兎たちは全て私が弔いました。愛宕様の火を持って浄化し、穢れを祓ったのです。ミズカは死ぬ最後の最後まで、あなたのことを呼んでいました。あなたが地上へ消えたと解っていて、なお無事を祈っていたのです」
 どくんと心臓が鳴った。とても強い衝撃だった。
 依姫は振り返り、縁側へと歩いた。
「……あなたに罪の意識があるならば、それを感じたままでいなさい。それが地上で生きるということです。失われた命は戻ることはありません。それを忘れずにいなさい」
 風が吹きすさんで、依姫の長い髪を揺らせた。鈴仙はそれをじっと見つめていた。
 そのあと、輝夜たちはまだ話すことがあるらしく、鈴仙は席を外すように言われた。少しだけほっとした。これ以上いじられるのはご免だと思ったからだ。
 しばらく、縁側で一人座り続けて考えた。
 今日は色々なことがあった。
 薬売りをし、地上のミズカと会話を重ね、てゐの昔の話を聞き、メディスンの成長と慈母を垣間見て、永遠亭では豊姫と依姫だ。詰め込まれすぎてくたくただ。もう、とにかく、ゆっくりと部屋で休みたかった。泥のように眠ってしまいたかった。
 ゆっくりと廊下を歩いていると枕が飛んできた。顔面でそれを受けて、顔を赤くしてその方向を見た。襖が開けられたその一室では、てゐを含めた地上の兎たちが息を切らせて枕投げをしていた。輝夜の永遠のなかにある今ならば、物は壊れないし襖も破れない。それを逆手にとったやり放題の遊びだった。鈴仙が絡まれている間、地上の兎はずっとこんなことを続けていたのだ。怒る気力も失せた鈴仙は、静かにやってよね、という言葉を残して去った。そのあとにすぐ、襖の破れる音とてゐの叫びが聞こえた。それをして、豊姫と依姫は月に帰り、再び永遠の魔法が解かれたことを知った。兎たちがわらわらと部屋から出てきて、てゐではない妖怪兎に引っ張られて遊びに誘われたが、鈴仙はむげなく断った。永遠は立ち消えてしまったのだ。
 一人で緩慢に廊下を歩いた。灯かりの消えた静かな母屋を通り抜け、薄暗い廊下を渡り、東の対の自分の部屋まで訪れた。月から零れ落ちた漂流物が流れ着いたのはこの一室だった。中に入り、襖をぴしゃりと閉め、暗がりの部屋をのそりと歩くうちに突然鈴仙は落涙した。




9.

 涼やかな虫の音が遠くから聞こえてくる。
 揺らいだ意識のなかで数多くの波長が入り込んできた。たくさんの兎たちの波長が膨れ上がり、鈴仙の耳はただ受信を続けた。
 来た。
 来たよ。ついに来た。あれが地上の船なんだ。
 地上の民よ、ここで追い返してやる!
 沸き起こる強い感情のなかに凛とした声が響いた。
 玉兎たちよ、本当の戦いが始まります。今まで訓練で培ってきた技能、技術、その全ては今、このときのためにあるのです。さぁ、払いましょう。我々は月の民。我々は月を守る月の使者。地上の民に月の幻想を破られてはなりません。何としてもここで食い止めるのです。
 呼応して、勇みと恐れが入り混じった叫びが次々にあがった。勇気、混乱、緊張、重圧、脅威を前にして覚えるあらゆる感情が波長を通して伝わった。今、全ての月の兎はこの波長を受信しているはずだ。餅を搗くだけの兎も、畑を耕すだけの兎も、都を掃除して回る兎たちも、この一戦は注意しているはずだった。地上の民に立ち向かう兎たちは、何一つ隠すことなく己の内を叫んで飛び出した。
 戦いは長期に渡り続いた。一部の兎は震えながら銃剣を撃ち放った。武具を持った兎たちは船に飛び掛っていた。依姫は月の神々を呼び出し、地上の民の砲撃を一身に防いだ。
 速射砲が月面を覆いつくして大地が揺れた。脱兎のごとく逃げる兎、隠れる兎、撃ち抜かれる兎、すぐに波長は拡散した。彼らに余裕はなく、次々と放たれた波長が錯綜して飛び回った。ぐちゃぐちゃに混ぜられた波が一挙に積み重なった。
 駄目だ、やられる、殺される。おい、あいつ動かない。動かないよ! 私も死ぬの? 立ち向かえ! 私たちは月を守らなければならないんだ。人間たちに月の都に入られてたまるか! 何処にいるの? おい、船がこっちに来るぞ! 撃て! 撃て! 逃げろ! また速射だ。これじゃ動けないよ。聞こえてる? 待て、動くな! あああ、やられたぞ! ちくしょう、ちくしょう、いやだ、いやだ、いやだ! おい、何人撃たれた! ちくしょう、負傷者が増えすぎたぞ! 死にたくない、私は死にたくない……。船は何処だ? 私、あなたを責めたりしないから。おい、何でだよ、何で殺した! さぁ、玉兎たちよ! 歯を食いしばりなさい! 勝利は見えています! ここで引いてはなりません! 無駄死にを作ってはなりません! 地上の穢れた民を、ここで追い返すのです! 動け、動け、動け! 足よ動けよ馬鹿野郎! あなたには、生きていて欲しい。爆撃だ! 怪我人は無事か! 腹か、腹をやられたのか。もう、どうにもならないのか……。ねえ、レイセン……。おい、誰か衛生兵はいないのか! また速射砲が……! 依姫様の障壁に隠れろ! 間に合わないのか! 衛生兵だ! くそ、こちらもやられている! みんな、依姫様が! レイセン……。声を、聞かせて。最後に。光が、溢れそう。何も、見えない。何も、聞こえない……。
 波長が錯綜し、交じり合い、ざわざわと揺れて、溶け合った。兎の波長が次々と減ってゆく。消えてゆく。ミズカの波長が小さくなってゆく。もうミズカは同じ場所から動いていなかった。死はミズカに緩慢に覆いかぶさり、あとはその命を静かに咀嚼するだけだった。戦争はまだ続いていた。銃声の音が鳴り止まなかった。細い糸のような波長をミズカは出し続けた。レイセン、レイセン、レイセン。それは遠き距離を飛び越えて、地上へと強く、強く、伝わった。
 ねぇ、レイセン、レイセン。私、死にたくない。生きたい。生きたいよ。どうして争わなければならなかったんだろう。私たちが何をしたんだろう。どうして殺さなければならないんだろう。ねぇ、レイセン。私、思うの。あの瞬間には言えなかったけれど、ずっと思っていたの。月の民が尊い民であり、地上の民が穢れた民であるなら、戦いは避けられない。それはね、共存なんてとてもじゃないけど出来る間柄じゃない。だから、地上の民が月を目指す限り、この戦争は必ず訪れることだったと思うの。たぶん、この戦争は、私たちが勝つと思う。やっぱり依姫様は強い。凄いよ。一人だけで、兎を引っ張って、地上の民を食い止めてるんだから。でもさ、またいつか、地上の民は再来するはずだわ。私たちは同じことを繰り返す。また同じように地上の民が現れて、兎たちは死んでゆく。どちらかが滅びるまで続くの。それが戦争だと私は思う。ねえ、レイセン。だからこそ、私はあなたに期待する。地上に居るんでしょ? 解ってる。解ってるから。本当はね、私が逃げるつもりだったの。あなたを置いて、私が逃げるつもりだったの。寝静まってから、こっそり起きるつもりだった。でも起きたのはあなただった。そのとき思ったんだ。運命は、あなたを選んだんだって。だから、私は何も言わずに寝てたんだ。あなたなら良いか、って、思っちゃったから。だからね、レイセン。あなたにお願いしたい。私は願ってるの。月の民が地上の民と、等しく、仲良く、共存できるんだって。そう、私とあなたのように、親友と呼べるような人が、深い絆をもてる人が、地上にも居るはずだって。それを証明して欲しい。親友。あはは、何で恥ずかしいのかな。私ね、あなたを親友だと思ってる。あなたもそう思ってくれていたら、嬉しいな。あはは。ごめん、もう、近いかもしれない……。ねえ、私、あなたのことが心配。心配だわ。私、知ってるのよ。波長をずらして避けたり、位相を変えて姿を消したりしてさ……。ぴったりだって、言ってあげる。臆病なあなたにぴったり。でもね、もっと、姿をさらけ出して欲しい。私にしてくれたみたいに、もっと、あなたの姿を見せて欲しい。本当の、あなたを。ほら、泣いたって、いいじゃない。涙は穢れがないものだわ。決して恥ずかしいことじゃない……。あなたは怖がりだから、誰かに、傍に居て欲しい。ねえ、レイセン、レイセン……。暗くなった……。寒い……。もう、私、終わりなのかな。ねえ、レイセン……、無事でいて……。きっと、また、何処かで、あなたに……。




10.

 ミズカ。
 ミズカ。
 ねえ、ミズカ。ミズカ。
 何度も呼び続けた。夢のなかで呼んでいるのか、現実のなかで呼んでいるのか、判別はつけられなかった。悲痛な叫びが、波長が、幾度も再現されて、とても正気でいられなかった。去っていった親友の言葉が何度も甦った。彼女に答える言葉は吐けなかったのだろうか。それとも、狂ったように叫んで、呼んで、ミズカに呼びかけていたのだろうか。
 ミズカ。あなたは私を憎んでいないの?
 息苦しい暑さのなかで荒い呼吸をし続けた。涙は湧いたようにあふれ、こぼれ落ちた。鈴仙は声を漏らさず、息を潜め、ただ苦しく喘いでいた。
 それすらも流れ出し、枯れ果てた。虚無の心で眼を開いたまま、網膜に風景を映し続けるだけとなった。時間だけが緩慢に過ぎてゆく。永遠亭には時計の音はなく、ただ風の吹く音と、灯かりの揺れる音と、遠く竹林で竹の葉が擦れあう音と、静かな虫の音が響くだけだった。鈴仙は何もする気にならなかった。ただ沈み、陰鬱な眼で障子を眺めているだけだった。
 時は均一に流れ、次第に外が明るくなってきた。障子の一面に薄明かりを照らされ、暗い白から本来の白が少しずつ浮かび上がってくるようだった。鈴仙は、ただそれらを眺めていた。時は漂い、空気は流動し、障子に眩しいばかりの陽が差し込むようになった。障子は閉めているのに、眼が痛いほどに輝いていた。
 そのとき、鈴仙は不思議な光景を見た。
 障子に影絵が踊っていた。忍び足で一つのシルエットが動いていた。影はふわりとしたスカートを履いていて、頭に垂れた耳があった。何をするのかとじっと見ていると、二つの障子の間に立って、周囲を窺うようなそぶりをしていた。鈴仙はそれをじっと見ていた。じきに障子が静かに開いた。部屋の中に陽光が射し込んだ。光に捉えられた空気のなかに、うっすらと埃が漂っているのが見えた。
 顔を覗きこませた曲者と眼が合った。案の定、てゐだった。
 てゐはぎょっとして、悪戯が見つかったような顔のあと、愛想笑いを浮かべて言った。
「あれれ、起きてたの」
「起きていたわ」
 鈴仙は静かに答えた。
 しばらくの沈黙のあと、誤魔化すようにてゐが言った。
「良い天気だから遊びに誘おうと思ってさ」
「遊び?」
「うん。外は暖かいからきっと楽しいよ。降り積もったばかりの新雪みたいだよ」
 鈴仙はきょとんとした。
 永遠亭で暮らして、遊びに誘われたことは数多くあったが、もうそれは無くなったことだと思っていた。断り続けた果てに失われたはずのものだった。だから、それは苦し紛れの嘘なのだとすぐに解ってしまったのだ。
 鈴仙は微笑して言った。
「あなた、馬鹿ね」
「それは残念残念」
「ちょっと待ってよ」
 そそくさと去ろうとするてゐを呼び止めて、鈴仙は起き上がった。
「何?」
「水場に寄ってから行くから、縁側で待ってて。たまには遊びましょう。いつもやってる追いかけっことかじゃなくて、もっと違う遊び」
「うん?」
「あなたが他の兎とやってるような遊び」
「えー、そう? まぁ、いいけど……」
 何処か調子狂ったような顔をしててゐは去った。
 ごそごそと起き上がって、鈴仙は陽光の差す障子の全てを開いた。
 眩しい輝きがそこにあった。輝ける太陽が世界の全てを照らしていた。月で見ていた暗い空とは違う、赤と青の色を帯びた空のなかに、生まれたての、とけるような太陽がこの世界の果てにあった。それは月を降りて、地上で初めて見た夜明けの太陽とまったく同じものだった。輝夜の永遠に包まれた静謐な永遠亭の外にあった、隠れ暮らしていたあの頃の太陽と比べても何ら変わりがないものだった。春を越えて、夏を越えて、秋を迎え、冬へ望み、そしてまた春を迎える。どれだけ変化が訪れても、それらは、巡りゆく竹林の変化や太陽の在り方は、決まった運命に則ったものだった。その繰り返しは不変のものだった。太陽の輝きに既視感を覚えた瞬間、何か大いなる天啓のようなものが鈴仙のうちに去来した。その太陽の輝きが、一つ区切りを打ったあとの新たなる循環の始まりのように思えたのだ。鏡合わせの世界のように、このまま、無限に、際限なく続いていくものの始まりのように思えたのだ。
 太陽は輝き続ける。地球は太陽を公転し続ける。地上は大気の海の底で眠り続け、雲は魚のように大気を泳ぎ続ける。季節は巡り続ける。太陽は東から昇り、西へと沈んでゆく。大海の水は蒸発して天に昇り、雨となって流れ落ち、山や森を伝い、川や地下を経て、再び海に還る。それは蒸発して天に昇り、また雨となって降り落ちる。循環だ。広大な竹林の変わらない風景と同じように、それは自然の定めた均一化された循環だ。太陽の輝き、地球の自転と公転、雲の流動、星の輝き、月の輝き、それらの循環は幾度と無く繰り返される。その影に、ふと輝夜の姿が浮かび上がった。輝夜の永遠を操る力が、この世界のあらゆる運命に、掟に、理に、手を伸ばしてゆく。輝夜が永遠を操り、手探りで適用範囲を抽出する。一つの屋敷に留まっていた永遠は、この星の全てを覆いつくそうとしているのだ。自然も、人間も、動物も、昆虫も、植物も、あらゆる生命の生き死にも、季節の移り変わりも、文明の発展と衰退も、全ては循環を続けている。生まれ、栄え、繁栄し、盛りを過ぎ、衰退し、滅び、潰え、種子が残され、新たな息吹とともに再び生まれ、芽生え、栄え、繁栄してゆく。繰り返しだ。ひとつの完結した循環だ。輝夜はその広大な可視範囲に対して永遠を施したのだ。輝夜はこの世界の理を解読し、循環を掴み取り、不変を定め、一つの珠を造り上げた。それは永遠だ。どれだけ傷が付いても、削れても、血が流れても、滅びても、また同じ珠へと還りゆく。輝夜の腕のなかで、静かに永遠が眠っている。誰も気付きはしない。誰も気付けやしない。この世の全てが永遠で覆い尽くされたのなら、それを理解するには、それと気付くには、悠久の生を持たなければならない。
 太陽の輝きが新たなる永遠の幕開けのように鈴仙には見えた。昨夜の願いを輝夜は叶えたのではないか。言葉通りに永遠を施したのではないか。鈴仙へのねぎらいとして口にしたあの鏡合わせの永遠が、この世界の全てを覆い尽くしたかのようだった。あの悠久で、湖面に波打たぬ静謐さのあった永遠が、今、再び息を吹き返したかのようだった。
 誰にも気付かれぬところで瑕疵なき珠を創り上げ、輝夜はその永遠を抱いている。ひっそりと、静かに異変を起こしている。きっと。誰にも見つからない。誰にも気付かれない。この永遠は生も死もある。生命は生まれて死んでいく。その地上の定めが、掟が、永遠となったのだ。輝夜の永遠は今、密やかに返り咲いていたのだ。
 水場には誰も居なかった。鈴仙は顔を洗い、縁側へ向かった。
 途中、竹林の奥深くへ消えていこうとする輝夜の姿が見えた。鈴仙は輝夜をずっと眼で追った。輝夜はふと振り返って、鈴仙に気が付いた。そのまま手を振って、竹林の奥へと進みだした。それでもなお見つめている鈴仙を、輝夜はさらに振り返って気が付いた。しばらく眼が合った。見つめ続けた。輝夜は少しだけ首を傾げて、指を口にあてて何かを呟いた。今度は聞き逃さなかった。あの言葉は鈴仙の耳に残り続け、生涯忘れることはないだろう。
 思い切り伸びをして、深く息を吐いた。
 ふと涙があふれた。罪の意識を、たくさんの兎の死を、忘れてはならないのだ。
 鈴仙は今日のことを考えた。里のミズカに会いたいと思った。彼女に、メディスンの言葉を伝えてやりたかった。母を生かしたのはミズカ自身だったのだと伝えてやりたかった。メディスンもそうだ。ミズカのところに連れていって、彼女の人形を渡してやらなければならないと思った。
 鈴仙は力強く決意したあと、縁側で待つてゐのもとに向かって走り出した。




 

ありがとうございました。


2010/12/13(月)追加----------------------------------------

此度は東方こんぺお疲れ様でした。
まずは評価と感想をありがとうございます。
誤字や一部おかしな表現を修正させていただきました。

今回のこんぺは他作品の内容やその感想も含め、非常に学ぶところあり、参考にもなりました。
作品ではもっと書きたいこともあり、修正したいところもあり、
煮詰めたいところもありましたが、もう時間的に抗うのは無理でした。そこだけが少し心残りです。



この作品について書くのは他ではたぶん無いと思うので、
色々と解説しながらレスさせていただきます。


>瓢箪鯰様
ありがとうございました。
後半は本当に時間がなくて、一気に書き上げて読み直しもほとほと出来なかったので
誤字が散乱してしまいました。誠に申し訳ない。
「輝夜」で登録してるのに一発目に「家具や」になることがたびたびあって、
今回も出やがったのかと投稿後は顔面蒼白でした。正直夢にうなされました。

>おあ様
月の姉妹は出すかどうか迷ったのですが、堪能していただけたなら書いた甲斐がありました。
儚月抄の設定は幾つか取り入れましたが、書いてて豊姫がすごい可愛くなってしまいました。

>パレット様
掴みどころがないのは、プロットを立てず明確なイメージをもって書き始めてなかったからかもしれません。
そこは次回の反省点として生かしたい。
改行については複雑なところで、自分は改行も含めての作品だと思ってるので、
語ってる内容の切り替えやシーンの切り替えで改行をさせたつもりです。
ただ読みやすさに配慮して作品に改行を加えるのは本意ではないのです。その辺はCSSで対処させたつもりです。
CSSで幅を広げるべきだったか、ないしは単純に入れるところで入れていなかった、というのであれば、文章が悪かったと解釈します。
今回は小説を意識していたので、それも無意識にうちに働いていたかもしれません。

>T/N様
ありがとうございます。オリキャラもしっかり描くのが重要ですね。。
終盤はかなり頑張りました。

>さく酸様
鈴仙の心の動きはあえて隠蔽しています。読者様には三人称の黒子の視点で常に鈴仙の間近に居てもらって、鈴仙が感じたであろう心情などを感じ取って欲しいなぁと思ってました。ちょっと隠れすぎたきらいがありましたかね。。
最後については、正直なところ輝夜賛歌です。輝夜は東方のなかで一番愛してる。
穢れなき月を離れた鈴仙は野良ですが、永遠亭にかくまわれて永遠を得た。でも永夜抄で永遠は消えてしまった。
鈴仙にとって穢れなき永遠 = homeという考え方です。
その永遠が再び世界を覆い尽くしたときの鈴仙の感動を書きたかった。
永遠に縁のあるキャラに名前だけ友情出演してもらいましたが、それと気付いてもらえた?のはさく酸様ぐらいだったのかも。

>もみあげ様
ありがとうございます。
メディスンは導入の仕方をちょっと修正したかったです。。
いづれ何処かで納得いただけるような作品を書きたい所存です。

>asp様
消化不良すみません。文章的に起伏をいれずに淡々と書きたかったのです。起伏は鈴仙の内部で人知れず起こっていて、それを淡々と眺め続けるといいますか。
主題は罪に意識についてでしょうか。鈴仙の罪の意識は花映塚エンドで少し触れられていました。原作ではそれがまだ残ってる状態だと思うのですが、彼女の罪の意識を少しでも拭ってやりたかった。あえて言えばそれが書いた目的です。
綿月姉妹の登場は、見た目の感じが変わってしまうので、最後まで入れるかどうか迷ったのですが、鈴仙にメッセージを伝える役が欲しかったので登場してもらいました。

>yunta様
ありがとうございました。
穢れた地上ではこういった悲しい出来事も起こりうる。その辺を鈴仙に伝えたかった。
言葉の選びや言い回しについては、こんぺ期間のプライベートを全て潰して試行錯誤させていただきました。

>とんじる様
ありがとうございました。
妖怪と人間の関係についてはシリアスにもってこいだと思います。
各種キャラクタも原作の登場から求聞史紀や射命丸文の撮影にあったりしていろんな変遷を辿ってると思いますが、
どういうふうに変わっていったのかを書いてみたかった。でも言及したのはメディスンぐらいだったかも。。
この話を鈴仙の成長と捉えていただけたのは嬉しかったです。

>ケンロク様
すみません、単発単発のイベントという感じで、各々の関連は仰るように薄かったと思います。ただ鈴仙に見せたかったぐらいです。
逃げ出す描写はイメージはあったのですが時間が無かった。申し訳ない。。

>ざる様
里の人はわりと考えてると思うのですよね。
いくら仲良く好意的であったって、虎やライオンと同じ檻で暮らしたいと思う人がいないように。
RPGに出てくる街の人のような単純な会話にはしたくなかったというのもあります。
モブやサブキャラとして出てくればそうなってしまうでしょうが。。
最後は鈴仙を洗い流したかったので、何か同じように感じてもらって嬉しい限りです。

>ニャーン様
レイアウトは頑張りました。ただ文字を小さくするつもりは無かったのですが、
どうもこんぺではタグを入れると文字が小さくなってしまうようでした。
直すにしてもテキストエリアに110kbぐらいの文字があるからか、
一文字入れるのに数秒待たされる状態だったのでもう無理だと思い投入しました。いや残り十数秒というところでした。
各キャラクタもそれぞれの考えがあり、動いている、というのを書きたかった。
てゐについては兎角同盟があるように、ぽつぽつと何匹かの兎は鍋の具にされてると思うのですよね。
原作や求聞史紀の描写を現実的に捉え、現実的に受け入れさせて、というのも書きたかった。現実主義であり原作至上主義の人間なので。

>八重結界様
機微が伝わって嬉しい限りです。ありがとうございました。

>deso様
感想ありがとうございます。
くどさですか。。覚えておきます。

>兵庫県民様
メディスンは、花映塚エンドを見たときから罪の意識をもった鈴仙と絡ませたいなと思ってました。
今回それに合致した話を書いて個人的には満足してます。
リポDは残念ですが飲んでなかったw
でも状況的には欲しいぐらいでした。


では最後に。
東方を生み出した神主、採点者の方や閲覧者の方々、東方こんぺの管理者様、
そして愛する永遠亭の住人に。
心からの感謝を。ありがとうございました。
gene
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2010/11/06 23:59:55
更新日時:
2010/12/13 02:00:57
評価:
14/14
POINT:
93
1. 8 瓢箪鯰 ■2010/11/11 00:06:50
優曇華の心の葛藤が少しづつ解れていく、最後にそのお裾分けを少しだけ頂きました。心温まる良いお話だったと思います。ただ校正する時間が無かったんだと思いますが変換ミスなのか誤字が少々目立ちました。もったいないですが心を鬼にして−2点です。
2. 10 おあ ■2010/11/14 09:51:52
貴重な儚月抄組の物語、堪能させて頂きました。
3. 4 パレット ■2010/11/20 00:48:27
 鈴仙・優曇華院・イナバというキャラクターについて自分なりの考えを現時点で持っていないこともあるのかもしれませんが、ちょっと掴みどころがないなーと思いました。……このお話に関して言うなら、それが必ずしも悪いことかはわからないのですが。
 そしてもう一つ、これもまた必ずしも悪いことかはわからないのですが……正直、ちょっと読みにくかった。むやみに改行すればいいってものでもないけど、ただ改行しなければいいかというとそうでもない……なんてことを考えてしまうくらいに。そんなこんなで、正直ちょっともやもやしてしまったかも……すごく丁寧に綴られたお話ということは伝わってきたのですが。
4. 7 T/N ■2010/11/25 13:06:20
ミズカ二人の特徴がもう少し濃かったら良かった。
原作キャラの登場人物が想像力で補える分、どことなく掴み所が無いような気がしてしまうのです。
それでも玉兎の戦闘中の混線の中で聞えるミズカの声は感動的でした。
終わり方はかなり好きです。
5. 7 さく酸 ■2010/11/25 21:02:51
鈴仙の過去の話。割と多い題材ですが、きれいにまとまっていてよかったと思います。最後のミズカの独白は涙を誘うものがありました。
ただ、描写が多い分、鈴仙の心の動きが情報の雑多さの中に隠れてしまったような気がします。
あと一番最後、結局なにがどうなったのかもわかりづらいです。姫の能力、マジ曖昧。えいえんはあるよ的な意?
まるで国語の試験問題みたいな難しい作品だと思いました。
6. 4 もみあげ ■2010/11/26 12:17:39
永遠亭で月人二人を交えてのやりとりはよかった。
逆にメディスンはいらないかな、と感じた。
7. 4 asp ■2010/11/29 11:55:17
 ううむ、正直なところ個人的には消化不良です。細かく丁寧に書こうとされたのだと思うのですが、かえって起伏に欠けて主題が見えません。二人のミズカ、メディスン、永遠亭組、綿月姉妹、それぞれ同程度の重みのためにどれもぼやけていて、結局鈴仙の意識がどこへ向かっているのか読み手は判断しにくい。改行が少なく詰めているのに加えて淡々とした似たり寄ったりの文の連続も、全体のメリハリのなさに拍車を欠けていると思います。綿月姉妹と永遠亭組の会話シーンも明るすぎて浮いているかと。もう少し削ったり煮詰めたりすると良作に仕上がったと思います。
8. 8 yunta ■2010/11/30 22:53:57
執筆お疲れ様でした!

心情描写が多くて、それだけに悲しい話ですね。この寂しい感じが鈴仙に合っている気がします。
言葉の選び方もセンスがあるなぁ、と思いました。
9. 8 とんじる ■2010/12/02 15:23:22
 静謐で、淡々としている文章。
 なのに、どこか深く胸につきささるのは何故でしょう。特に9章のミズカの台詞は、印象に残りました。

 鈴仙を始めとして、てゐやメディスンや、里に生きる人間であるミズカなど、キャラクターの物の見方がしっかり描写されていて良かった。
 鈴仙の葛藤、輝夜の優しさ、てゐやメディスンを通した妖怪と人、あるいは月人と地上人の付き合い方……様々な人の見方考え方を通して、鈴仙は成長していく。

 いいお話でした。
10. 5 ケンロク ■2010/12/07 13:09:29
章同士の関連性が薄かったように感じました。意図的に散らしてあるとしても、すんなり入ってこなかったと言いますか……
あと優曇華が逃げ出すに至った描写があんまり無かったのも気になりました。せっかくならそこも補完してもらいたかったかなぁ
11. 9 ニャーン ■2010/12/11 20:37:46
読みやすいレイアウトで助かりました。文章も好み。
キャラクターがそれぞれ悩み、葛藤して、自分なりの答えを見出そうとしているのが良かった。
特にてゐが好き。兔の生存競争の話には圧倒されました。
各々の話の落とし所が、完全ではないけど結局は現状の肯定で、それがかえって現実的で、納得がいきました。
12. 6 八重結界 ■2010/12/11 20:53:46
感情の機微がよく伝わってきました。実にお見事。
13. 6 deso ■2010/12/11 21:21:31
畳みかけるような筆力。
粘っこい文章で凄まじい描写なのですが、途中はややくどすぎて胃にもたれるようにも思ったり。
鈴仙の苦悩を描くためには仕方ないんでしょうけど。
でも、ラストシーンはとても爽やかで綺麗です。
14. 7 兵庫県民 ■2010/12/11 23:39:02
このメディスン天使や…メディスンマジ天使w
あとリポDww これ、リポD飲みながら書いたでしょ(←
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